Episode タジマ リューカ ‐ 8
コラプサモン。
それは、ラテン語でブラックホールを指し示す単語から付けられた名前で――本来、コラプサというのは「崩壊した星」という意味があるのだそうだ。
崩壊した星。
世界の、終わり。
私達が向き合っているのは、まさしくそういうものなのだろう。
「泉先生を通じて全世界のデジモン研究者に通知が来たんだけど」
集合した私達を前に、カンナ博士は器用に左手だけでパソコンを操作して次々とコラプサモンに関して現状用意できる情報を提示し始めた。
「宇宙にいる石田さんから送られてきた画像だ」
「これって……」
『そちら側』からだとそう見えるのかと、私は思わず息を飲んだ。
青い空に、ではなく、青い海の上。
五芒星と玉虫色の泡の眼玉は、視点を変えた故に異なる背景の上で、変わらずに無機質な暗がりとして浮かび上がっていて。
「先程カンナさんは、コラプサモンは厳密には異なるものの、西に移動していると言いましたね。……つまり、その「厳密に言うと」の部分とは――」
ハリに対して、カンナ博士が頷く。
「そう。コラプサモンが動いてるんじゃない。……地球が、回ってるのさ」
太陽や月――それから、星と同じ。
あまりに異なるスケールに、画像を提示している博士自身ピンと来ていないのかもしれない。肩を竦めつつ浮かべた表情には、戸惑いを通り越して呆れに近いものが浮かんでいるように見える。
カガさんにしたって、似たり寄ったりだ。頭を抱えて、唸っている。
「いや、聞いてたけど。聞いてはいたけど……」
世界の、終わり方について。
コウキさんからこの世界の誰よりも一足先にその内容について知る事になったカガさんから、既に話は聞いている。
あの、空の五芒星は、世界の位相を狂わせる『暗黒の海』と直結した存在――『暗黒の海』と別の世界を繋げる、水門のようなものなのだと。
便宜上コラプサモンと名付けられたそれがこの世界に『暗黒の海』を流し込み、ハリを始めとした『器』と呼ばれた人々がスピリットを、そして風の闘士だった人がエンシェントワイズモンによる改造を必要としながら得た『デジモンへの進化』を、人間が他に何の手も借りずに出来る『当たり前』のものへまで落とし込んで、『ユミル進化』を人間に、それからデジモンに伝播させる――というのが、エンシェントワイズモンの目的なのだと。
カガさんはそれを、回りくどくて時間がかかるから、きっと対処の方法もその内に見つかるだろうとそんな風に、なるべく明るい調子を保ちながら話してくれたのだけれど――何故だか、私にはエンシェントワイズモンがこの方法を選んだ理由も解るような気がして、とてもカガさんみたいには思えなかった。
きっとエンシェントワイズモンは、少しでも長く、『ユミル計画』に蝕まれる全ての存在を苦しめたかったのだと思う。
子孫を残せなくなる人間。
転生ができなくなるデジモン。
形は違うけれど、両者とも『未来』を失うには違いないその恐怖を、ずるずると、引き摺るように。
……それはなんだか、一瞬で訪れる世界の終わりよりも、ずっと終末に相応しいような気もして。
「それでも便宜上コイツがデジモンにカテゴライズされたのは、データによる解析が可能だったからさ。……最も、0と1の配列自体は読み取れたけど、これまで発見されたどのデジモンのデータと照らし合わせてもほとんどかすりもしない程特殊な構成をしててね。……強いて言うならダゴモンと一致する部分があったらしいんだけど……あれを一致と言っていいのかどうか……」
「確かダゴモンも、『暗黒の海』と関係あるデジモンっすよね? それでですか?」
「近いと言えば近いんだけど……むしろ、『暗黒の海』が自分自身? を、表現? ……って言っていいのかはこの際置いといて、表現するのに使ってる大元が、コラプサモンとダゴモンは共通してる訳」
大元――アメリカの作家が考案した一種の神話体系の事だ。
「『暗黒の海』に関係あるから共通してるんじゃなくて、大元が共通してるから『暗黒の海』は彼らを使役できる、って言えばいいのかね? 例えば一般テイマーがオクタモンあたりから進化させたダゴモンは水棲獣人型なんだけど、過去に『暗黒の海』で確認されたっていう個体は、特例として邪神型って扱いになってるのさ」
「邪神……」
あまりにも禍々しく、しかし突拍子も無い響きに、ハリまでもごくりと息を飲んでいる。
「では、コラプサモンも」
「邪神型、海洋型、惑星型……分類はまだちょっともめてるよ。こんな時に何だけど。……とりあえず現状把握できているデータは、超究極体相当、邪神型、あるいは海洋型、もしくは惑星型。それから――強いて言うなら、データ種って事くらいかね」
データ種、という響きに、少なからずカガさんもハリも驚いているのが伝わって来る。
私だって、実際に『暗黒の海』に連れて行かれなければ、同じような反応をしていたかもしれない。
ウイルス種のデジモンは、本来「自分の周りの環境を変える」種族であり、その特性上、周囲を攻撃するのだと――それが、世間一般の常識だ。
私のヴァンデモンは優しい子だけれど
1999年のヴァンデモンは、デジタルワールドからリアルワールドに侵攻してまで自身の領土を広げようとしていたように。
「コラプサモンは、あくまで水門。『暗黒の海』と直結した存在ではあるけれど、基本的には『ただそこにいるだけ』だからね」
逆にデータ種のデジモンが基本的に大人しいとされているのは、彼らが「周囲に適応する」デジモンであるからに他ならない。
今現在でも、自発的な攻撃はオニスモンへの『反撃』以外行っていないのを見る辺り、コラプサモンも一応はその、「大人しいデータ種」らしいと言えば、らしいのかもしれない。
「加えて、「位相を歪めて周囲を変容させる」っていう『暗黒の海』由来の性質さえ、コラプサモンにとっては正常な状態なんだ。ウイルス種が時折周囲に発生させているノイズの類を、こいつは持っていないんだよ」
ここで。博士はふう、と、溜め息を吐く。
自嘲も含めた嘲笑と呆れ、それから憤りの混ざったような、そんな溜め息だった。
「ワクチン種やデータ種の強力な個体っていうのは、そこそこ数、いるんだよ。なのに――今、コラプサモンと対峙する上で有効打たりえるかもしれないウイルス種の強力な個体っていうのは……ね」
デジモンの属性3すくみ。
ワクチン種はウイルスを駆逐する存在なので、ウイルス種に強く
データ種は正常なデータ故にワクチンを必要としないため、ワクチン種に強く
ウイルス種は、データを破壊する存在なので、データ種に強い。
デジモンを知る上での、基本中の基本だ。
「コロちゃん、エテちゃんの時なら、そこそこ強い自信、あったんだけど」
「解ってるよ。解ってるし、知ってるし……反省してる。でも、どっちにしてもメタルエテモンだけでどうこう出来る相手じゃないよ。……これが、世間がウイルス種を『悪』と断じて淘汰してきた、その報いなのかもね」
あるいは、それもまた『ファイヤーウォールの向こう側』から来た『呪い』の計画の内だったのか。
今朝がたエンシェントワイズモンによって明かされたばかりの新たな情報を引き合いに出してから、先ほど以上に重たい溜め息がカンナ博士の口から零れ落ちた。
でも、博士はすぐに顔を上げて――今度こそ、しっかりと、私とヴァンデモンの方を見てくれて。
「そんな奴相手に――本当に、立ち向かうんだね? リューカちゃん、ヴァンちゃん」
だから私達もそれに応えるように
「はい」
「うん」
出来る限り、力強く頷いた。
……私達は、数少ない強力なウイルス種個体と、そのパートナーなのだから。
「……解った」
そんな私達を見て、カンナ博士は、少しだけ微笑んでいる。
「じゃあ、まずはその作戦を、聞かせておくれ。……無茶だって判断したら、いくら世界の危機だからって、止めるからね?」
昨日の壊れたような調子が嘘みたいな、いつものカンナ博士だった。
……左手の薬指にコウキさん――メルキューレモンさんの装甲と全く同じ色の指輪が嵌まっているのは、多分、無関係では無いとは思うのだけれど……詳しい話を聞くのは、今じゃない。
それでも1つ確かなのは、鋼の闘士は世界を救いに行く前に、カンナ博士の事も、助けてくれたのだ。
私も、いつかちゃんと、お礼を言いたい。
だから――
「現状、考えてある作戦は3つです。……とは言っても、前の2つは多分、博士はダメって言うと思いますけど……」
「ん。とりあえず聞く」
頷いてから、私は続けた。
「1つ目は、ヴァンデモンに究極体に――ヴェノムヴァンデモンに、進化してもらう作戦です」
「脚下。確かにヴェノムヴァンデモンの必殺技『ヴァノムインフューズ』はウイルスによる内部破壊だ。相手がコラプサモンだろうと、有効だろう。……でも、ヴェノムヴァンデモンは理性の無い獣だ。いくらリューカちゃんのヴァンデモンだろうと、コラプサモン以外を破壊しないっていう保証は出来ないし――獣の本能が最悪の形で働いたら、下手するとコラプサモンと対峙すらしないままに破壊だけを行使する可能性もある」
博士の言う通りだ。
「理性を持たない」とされているけれど、人間のパートナーになった場合その限りでは無いデジモン、というのは案外多い。代表的な例だと、デジモン研究の第一人者にして『知識』の紋章を持つ選ばれし子供だったイズミ博士のパートナー、テントモンの成熟期の姿・カブテリモンなんかが有名だ。
でも、ヴェノムヴァンデモンに関しては、進化した『先』の顛末は、この子自身がカンナ博士の言った通りの事を既に予測している。
……だから、提案の時だって心底申し訳なさそうに、「最悪の場合」として――それだって、本当は嫌に違いなかったのに、それでも一応ひとつの作戦として、ヴァンデモンが教えてくれたのだ。
カンナ博士が即決で否定してくれたから、逆に安心したのだろう。赤い仮面の下に、ヴァンデモンはほっとした表情を浮かべている。
「次は……もっと、ダメかもしれませんね……」
「『暗黒の海』からデーモンを呼ぶ案らしいゲコ」
「……」
少し言いにくそうにした私の言葉を継ぐようにオタマモンさんが続けてくれて、しかしその案に関しては、博士は複雑そうに押し黙った。
デーモンさんの目的は、『闇』のデジモンを強化する『暗黒の種』の回収と――それによって得た力を行使しての、デジタルワールドの支配だ。
支配欲がある以上、デジタルワールドが滅ぶのは、多分、困るだろう。
そして、その強さは折り紙付きで――
「それで行こう、とは、気軽には言えないねえ……」
――眉間に指を当てながらのカンナ博士の言は、最も過ぎて。
「コロちゃんは全力で反対ヨ。そんな、きョーいにきョーいをぶつけるやり方、怪獣映画じゃないんだから」
「さっきも言ったけど、改めて。……俺も反対。コラプサモンを倒してくれたとしても、デーモンは2002年の選ばれし子供たちでも封印しかできなかったデジモンだぜ?」
「せやせや、止めとき! ウチかてそらアカンと思うわ」
オタマモンさんの声だけど、絶対にオタマモンさんでは無いその声に――カンナ博士とハリの視線が、一気に『それ』が聞こえた方へと向けられた。
カガさんの、スマホ。
『水』の1文字が、浮かび上がっている。
「ゲコ……まだ説明してないのゲコよ?」
「ええやんけ、光の闘士と闇の闘士がもうしよったんやから、もうそない驚く事でもないやろ?」
「ラーナモンの場合、出てくることそのものよりキャラの問題ゲコ。身体は貸すゲコから、今からでも挨拶するゲコ」
「なんや面倒やの。まあええわ。ほな、借りるで」
次の瞬間、『水』の文字が光になって飛び出して来て、オタマモンさんを包み込んで――微妙に目を細めているカガさんの傍らに、水のヒューマンスピリットの闘士であるラーナモンさんが姿を現した。
「どーも! ウチは水の闘士、ラーナモン! こうやって挨拶させてもらうんは初めてやけど、まあよろしゅうたのんますわ!」
可憐な、水の妖精を思わせる少女のようなデジモン。
ただし関西弁。
……さっきも挙げたイズミ博士のテントモンや、2002年の選ばれし子供で、現在弁護士をしている火野さんのパートナーのアルマジモンのように、何故か方言を使うデジモンが一定数いる事は世間でもそれなりに認知されてはいるのだけれど……
「なんで、関西弁」
「なんでってそんなん、かわええからに決まってるやろ? 方言女子や!」
ドヤ顔、というのは、まさしく今現在のラーナモンさんの顔を指す表現に違い無い。
つい1時間ほど前に、全く同じことを質問したカガさんに、全く同じ答えを返していた気がする。
方言女子、というよりは、そのあまりにも凄まじいエネルギッシュさは時々テレビで特集されている『大阪のおばちゃん』を思わせる勢いなのだが――私も、カガさんも、とても、言い出せずにいる。
……事情聴取を終え、退院の手続きを進めている最中に半透明の状態で姿を現したラーナモンさんは、今朝のエンシェントワイズモンの起こした騒動、その顛末を、私達に教えてくれた。
もちろん、コウキさんの事も。
それが原因で、十闘士は「ただのデジモン」になって――だからこその、先程の、ハリと光と闇の闘士のやり取りだったのだろう。
「まあ、ウチの事はこれくらいでええやろ。問題なんは、コラプサモンの事や。……オタマモン、戻らしてもらうで」
再びラーナモンさんが光に包まれ、オタマモンさんに退化する。
どことなくいつもより疲れたような調子で、「ゲコ」と短く、オタマモンさんは鳴いた。
「ほら、リューカ。あんたも回りくどい事してやんとはよ言い!」
まあ、ほんまはそっちかて反対やねんけどな、ウチ。
そう、スマホの中からしっかりと付け加えつつ、ラーナモンさんは促して来た。
……。
「……私とヴァンデモンで、もう一度、『暗黒の海』に行こうと思います」
「理由は?」
「こんな事にならなければ、ずっと黙っているつもりだったんですが……」
デーモンさんは、私が『深淵』に引きずり込まれた理由と帰り方、その2つ以外に――もう1つだけ、ある事を教えてくれた。
『暗黒の海』は、人の昏い想いの受け皿。
……かつて『暗黒の海』を訪れた事がある選ばれし子供の1人――そして元・デジモンカイザーとしてデジタルワールドの危機の一角を担った事もある一乗寺さんは、そんな風に、あの『海』を表現したそうだ。
『ファイヤーウォールの向こう側』が、進化出来ずに滅んで行ったデジモン達の怨念を基盤として『宇宙』となったように
インターネットの匿名性を通じて陰ながらに吐き出された嘆きや憎しみが蓄積されて暗い『海』となったところで、おかしな話では無い。
そして、その奥に――かつて人の血を飲み、人の中に巣食い、人の『闇』を喰らう事によって生き永らえたどころか、死ぬ前以上の力を手に入れた存在が流れ着いていても――何も。
「『暗黒の海』に、私のヴァンデモンを強化する方法が……存在している、らしいんです」
ヴァンデモンの進化した姿は本来、理性の無い獣の悪魔だ。
でも、2002年の大晦日に確認されたその個体は、理性を維持した状態で魔王にまで昇華されていた。
魔王。
『ファイヤーウォールの向こう側』の干渉――『呪い』によって力を得、
人の血によって人のデータを内包し、
人の『闇』を取り込んだ事により、デーモンさんの言う『魔王』の空席に最も近づいたとされるデジモン――闇の王。
「『あの』ヴァンデモンの残滓が、『暗黒の海』に存在していて――デーモンさんは、その場所を知っているとの事でした」
沈黙が、研究室の中を包んで。
……それを掻き消すように、そして、自分自身を落ち着かせようとするように、カンナ博士は深い、それこそ海の様に深い溜め息を挟んでから
「1999年、鳥取」
ヴァンデモンによるリアルワールドへの侵攻があった年と、しかし事件とは直接関係の無い県の名を、口にした。
「デジモン関係の騒動が収束した直後くらいかな。1度だけ、こっちの世界に究極体デジモン――それも聖騎士型の、『管理システム』の使いを名乗るデジモンが出現した事があったらしい」
望月っていう、現地の初期のデジモン研究者の報告が残ってるんだけど。そう前置きして、博士は静かに、世間には伝わる事すら無くひっそりと起きていたその『事件』について、説明してくれた。
その聖騎士型デジモンは、1体のデジモン――それも、自分よりもずっと格下に違いない成熟期のデジモンを追ってリアルワールドに出現し、件のデジモンを、消去したと。
そしてその場に居合わせてしまった少女――モチヅキ教授の娘に、その成熟期デジモンは『ファイヤーウォールの向こう側』の『呪い』に汚染されており、殺害する他無かったと。そう、述べたらしい。
「その成熟期デジモンは『呪い』の感染がまだデータ内に広がり切っていなかったらしくて、件の聖騎士型デジモンによる消去だけでどうにかなったらしい。その後、望月教授の娘さんの元に届いたデジタマから孵ったデジモンが、その時の成熟期デジモンと同じデジモンに進化して……経過の監視も兼ねての記録は残ってるけど――今言いたいのはその成熟期デジモンの顛末についてじゃないっていうのは、解るね? リューカちゃん」
「……」
「『ファイヤーウォールの向こう側』の干渉を受けたデジモンは、『管理システム』に殺される。……それが、選ばれし子供達によるものか、究極体の聖騎士型っつー先兵か、それだけの違いさ」
「……」
「アンタがそれをするって言うなら、アタシはさっきの発言の方を撤回する。『ヴェノムヴァンデモン案』か『デーモン案』の方が、まだマシさ」
「私も……反対です」
振り絞るようなハリの声に、思わず顔を上げる。
ハリは、その先の言葉を用意できないまま、それでも十分に戸惑いの伝わってくる瞳を真っ直ぐにこちらへと向けていて。
「さっきも言うたけど、ウチかてほんまは反対なんや」
だから、ハリの言葉を引き継ぐようにして、カガさんのスマホの中のラーナモンさん……というより、水の闘士が、言葉を紡いだ。
「鋼のヤツ今居らんからウチらこうなっとるけど、それでもウチらは、その聖騎士型と一緒。管理システムの端末や。……アンタが、ヴァンデモンがそうなったら、やることやらなアカン。……それは、闇の器になった鋼の闘士の妹チャンもおんなじや」
「……」
「ヴァンデモン。ウチ、アンタの事好きなんや。アンタの男前っぷりはオタマモン通じてずっと見とったさかいな。……そんなアンタの事、殺しとお無い」
「……ありがとう、ラーナモン」
「ほらもお、そないな顔するやろ! ほんまに……」
呆れて、一瞬、沈黙して――
――その後に続いたのは、「せやけどな」という、関西弁の否定の接続詞で。
「ウチが現状、最後に従うんはパートナーの決定や。……カジカ」
「……「好き放題言っていい」って言っちゃったの、俺だからな」
カガさんはそう、私に病院で言った言葉を繰り返して、こっちを見た。
少しだけ、あの時の事を思い出すと、頬が熱くなる。
でも今はそんな事考えてる場合じゃないって――振り払うようにして、私はヴァンデモンを見た。
私のパートナーを、見た。
1999年のあのデジモンと同じ――だけどあのデジモンとはまるきり違う、蜂蜜色の瞳をしている、私のパートナーを。
「これは、僕のわがままだ」
その金に輝く瞳に強い意志を、覚悟を宿しながら、ヴァンデモンは、微笑んでいる。
最後の案を提示したのも――この子だった。
「リューカと僕はずっと、『奴』の影に振り回されて、生きてきたから」
微笑んでいるけど、怒ってもいる。
憎しみと、言ってもいいのかもしれない。
そのくらい――この子は、悲しい思いをさせられてきた。
同じヴァンデモンだというだけで。
「どんな形だろうと、『奴』と決着をつけられるなら――僕は、行きたい」
最初はカンナ博士やハリと同じように止めようとした私とカガさんにも、この子は同じ事を言った。
生まれて初めての――本当の意味での、この子自身の『わがまま』だった。
だったら私は、カガさんが許してくれた、自分自身の『わがまま』を――この子のために使いたいと、そう、思った。
思って、しまった。
……それに――
「本当に、それで良いのですね?」
――ハリの問いかけに、私の中の『考え』が一時的に霧散した。
ハリの眼は、真っ直ぐに私を捉えている。
ただこちらを視界に入れるために目を向けていた、1ヶ月前とはまるで別人のように。
「どう、表現するべきなのでしょうね。今のこの感情は。……マスターのやった事を無駄にしたくないという思いと――しかしそれによってリューカやヴァンデモンが犠牲を強いられるなら、そうあって欲しくは無いという思い。そして、それでも貴女方がそれを望むなら――背中を押したい、そんな、気持ちを」
「ハリ……」
「きっと私は、マスターに直接出来なかった選択を、貴女方でやり直そうとしているのだと思います」
「ダメって言われるのも、背中を押してくれるのも。……同じくらい嬉しいよ、ハリ」
「そして貴女方は、私がどちらを選ぶにせよ、行ってしまうのですね」
少しだけ拗ねるように言うハリ。
私とヴァンデモンは、思わず顔を見合わせて微笑んだ。
「で、あれば。せめてこちらとしても心理的負担が少なくなるよう、送り出すべきなのでしょう」
「……ありがとう、ハリ」
「ちょ、ハリちゃん!」
カンナ博士が、声を荒げた。
でも、それを
「……行かせてやんなさいな」
今度はコロモンさんが、引き留めて。
「コロちゃん?」
「昨日の今日ヨ? 忘れたとは言わせないんだから。……カンナも、十分勝手したでしョ?」
「う……で、でも」
「コロちゃんも反対。反対ヨ? ……でも、誰よりも勝手したカンナとコロちゃんに、それをする権利は無いの」
「……」
しばらく、黙って。
それから――突然、がりがりとすっかり短くなったピンク色の髪を、引っ掻いて
「コーヒー!」
カンナ博士は、叫んだ。
「……コーヒー。淹れて」
「……」
「今日は寝ないで、待ってるから」
「寝て下さい」
「う……」
ついぴしゃりと言ってしまった私に、たじたじになるカンナ博士。
気持ちは、すごく嬉しいけれど――カンナ博士には、もう少し休んで欲しい気持ちの方が、勝ってしまって。
ふふ、と、それを見ながら、コロモンさんがにいっと大きな口で、笑っている。
「……コロモンさん」
「なあに?」
「コロモンさんは、アイスコーヒー、要りますか?」
「ミルクとシロップ、たっぷり入れてチョーダイな」
「はい」
カガさん達とハリを見ると、自分達はいいと手で返してくれた。
だから私は、いつも通り、博士達の分を。
目覚めでは無いけれど、カンナ博士には熱いコーヒー。
やっぱり啜れないコロモンさんには、冷たいコーヒー。
お湯を沸かして、沸騰する前に火を止めて。
蒸らしたフィルターに挽いた豆をセットして、「の」の字を書きながらお湯を注いで。
その間に、アイスコーヒーとミルク、それからシロップはヴァンデモンがコップに注いでくれた。
「お待たせしました」
私は用意の出来たそれらを、カンナ博士とコロモンさんの前に置いた。
博士はそれを無言で取り、ずず、と1口啜って
「……やっぱり、おいしいんだよね」
諦めたように、そう呟いた。
呟いて――カンナ博士はマグカップを置いて、小指を立てた左手を差し出した。
「?」
「指切り。……どんな結果になるとしても、『暗黒の海』からは、絶対に、ちゃんと無事にうちまで帰ってくる事」
約束できる? と、カンナ博士。
返事の代わりに、私は自分の左手の小指を、博士の細い指に絡めた。
「指切りげんまん、嘘吐いたら――」
「――プクモンの『ニードルスコール』」
「……指切った」
お互いに、指を放す。
お互いに、少しだけ、笑い合いながら。
「さ、ヴァンちゃんはコロちゃんとするのヨ」
「耳だよ? コロモンの」
「細かい事はいいのヨ!」
コロモンさんがヴァンデモンに同じようにしている間に、私はカガさんとオタマモンさん。そしてハリへと、向き直った。
「……リューカちゃん」
「はい」
「いってらっしゃい」
「お気をつけて」
「ゲコ!」
「はよ帰りや!」
「はい!」
出来るだけ、大きく返事して。
そうしてから――私は、自分のデジヴァイスを取り出した。
相変わらず『暗黒の海』の水が脈打つ、ひび割れたスマートフォン。
みんなが見守ってくれる中で――コロモンさんとの『指切り』を終えたヴァンデモンが、私と並ぶのを待ってから、私はコラプサモンの情報が未だに表示されている研究室のパソコンへとそれを向けた。
「カンナ博士。パソコン、使いますね」
「いいよ」
2度目のコール。
今度は、自分の意思で。
「ヴァンデモン」
「うん」
私達は、しっかりとお互いの手を握り締めた。
「デジタルゲート、オープン! 『暗黒の海』へ!」
『闇』ですらない暗がりが、画面の向こうに、広がった。
「ここが……」
辿り着くなり、ヴァンデモンがあたりを見まわした。
太陽を一切感じず、しかし夜の闇とも違う曇り空による暗さ。
そして闇夜と同じくらい深く、底の見えない黒色の海が、灰の砂浜に静かに押し寄せる光景。
私よりもずっと暗い景色をよく見渡せるヴァンデモンには、ここがどんな風に見えているのだろう?
と
「久しいな、闇を看る娘」
低い、老成した男性の声。
種類は同じ筈なのに――ピノッキモンさんみたいな温かみは、これっぽっちも感じ無い。
「デーモンさん……」
真紅の衣に身を包んだ、一応は人型をしている――しかし角と翼が、その正体を何よりも雄弁に語っている――『魔王』と呼ばれる、デジモン。
「久しぶり……?」
警戒を隠さず、私を背に回しながら、デーモンさんの前に立つヴァンデモン。
デーモンさんは、さも愉快そうに目を細めた。
「『暗黒の海』での時の流れは、資格ある者とそうでない者では完全に異なるのだよ、闇の子。……だからこそホメオスタシスの端末は、暴走したイグドラシルの端末をこの海に封じたのだろう? ……選ばれし子供達が、我をここに閉じ込めたように」
「……」
「どうやって知った? とでも言いたげな顔をしているな。もう随分と前に、『深き者ども』が騒いでいたぞ」
「!」
私達にとって昨日だった出来事は――こちら側からは、一体いつの出来事なのだろう?
ぞくり、と悪寒が走るのと同時に、コウキさんの覚悟が、改めて伝わって来て……胸の奥が、ちくりと痛んだ気がした。
最もデーモンさんにとってはそんな事、どうでもいいのだろうが。
「今『そちら』には が喚ばれているのだろう? 久しくはあるが――来るとは、思っていたぞ」
「デーモンさん。……まだ私は、貴方の呼び水にはなりません」
「で、あろうな」
デーモンさんの視線は、私にではなく、ヴァンデモンに向いている。
この子を見れば、私は今やろうとしている事などお見通しだとでも言うように。
……すっ、と、長い袖に隠れがちな、鋭い爪の付いた指が、海の方を指示した。
「このまま真っ直ぐに、落ちるがいい。……貴様は『アレ』と同じ種族。余計な事をせずとも、辿り着くだろう」
「……ありがとう」
「ふっ、随分と礼節を弁えているな。天秤を釣り合わせるためにホメオスタシスがそういった要素を貴様に加えたか、はたまた――」
続きは口にせず、ただ、視線を一度だけちらりと私に寄越して、デーモンさんは、私達に背を向ける。
デーモンさんが完全に暗がりへと消えた瞬間、体中から、一気に力が抜け落ちた。
知ってはいたけれど、改めて。……居なくなって、ようやく理解が出来る。
凄まじい――プレッシャーだ。
「リューカ……」
「大丈夫だよ。……大丈夫」
当然この子も――いや、なまじ近い分、私よりも余計にそれを感じたに違い無い。声が、震えている。
あのデジモンは私のヴァンデモンを「『魔王』になれる」と言ったけれど――本物は、別格だ。
……でも、そのデーモンさんの言葉を信じるなら、かのデジモンに並び立てるだけの力に出来る物が――この、底に。
「……」
足元に打ち寄せる『暗黒の海』を見下ろす。
靴と靴下を脱いで、そっと、足を浸した。
確かに濡れている筈なのに、その感覚が、一切無い。
データだからとか、そんなのじゃ、無い。
これが、『深淵』の感覚。
「……行こう、ヴァンデモン」
「……うん」
頷いて、ヴァンデモンはまた昨日の様に、私をお姫様抱っこのような形で抱きかかえた。
そのままざぶざぶと、黒い水を掻き分けるようにして、前へ、前へと進んでいく。
音がして、なんとなく、そういう風に見えてはいるけれど、やはり水の感覚は無いのだろう。仮面越しに私に向けられた眼差しは、不安一色に染め上げられている。
そっと、ヴァンデモンの頬に触れた。
昨日とは違う。
この子を焦がす太陽の光は、ここには無い。
だけどその痛みの方がまだマシなんじゃないかと錯覚してしまうのは、私達が、海の底を知らないからなのだろう。
歩いて、
歩いて。
私を抱えるヴァンデモンの胸元までを、潮の香など一つもしない暗い水が呑んでいるところまでやって来て。
どちらとも無く頷いてから、ヴァンデモンは、意を決して『暗黒の海』の中へと潜り込んだ。
「……!」
海の中には、暗闇が広がって――いなかった。
「これは……」
一面の、花畑。
ただ、咲いているのは愛らしい印象を受けるような類の花々では無く、一種のみ。
彼岸花。
今現在私達が過ごしている季節からはあまりにも外れた、秋の墓所を彩るようなそれらが、風も無いのに、真っ赤な花を海のように波打たせている。
顔を上げる。
そこに、海面と呼べる空間は、無かった。
星の無い夜空のような暗闇だけが、天井も無しに無限に広がっている。
……思わず、目を逸らした。
まるで距離感が掴めないので気付かなかったけれど、その間にヴァンデモンが花畑の方まで近づいていたらしい。
地面、と言って良いのかは解らないけれど、とにかく『底』に降り立って、私の事も、下ろしてくれた。
……それで、ここにある彼岸花が、幻である事に気が付いた。
「……」
私の足も、ヴァンデモンのブーツも、彼岸花の形をした『それ』をすり抜けていて。
「『暗黒の花』……かな」
デーモンさんが、かつてリアルワールドに侵攻してまで求めた、『闇』のデジモンを強化する事が出来るアイテム、『暗黒の種』。
『暗黒の種』は宿主にありとあらゆる才能を約束する代わりに心を蝕み、人の『闇』を吸って鮮やかな赤色の彼岸花に似た花を咲かせると――病院でカガさんが、『デジモンアドベンチャー』に描かれていたデーモンさんの事を説明するがてら、教えてくれた。
きっとこの花は、それを模して造られている。
「『マインドイリュージョン』……」
ぼそり、とヴァンデモンから無機質に吐き出されたその必殺技の名前は、私も知っているもので――同じ、答えだった。
『マインドイリュージョン』。ベリアルヴァンデモンの、必殺技。
受けた相手に、「対象が望む幻を見せる」効果があった筈だ。
つまり、これは、ベリアルヴァンデモンが
2002年の大晦日に、世界中の選ばれし子供が放った『光』とそれを受けたインペリアルドラモン:ファイターモードの必殺技『ギガデス』によって消滅させられた『あの』ヴァンデモン自身が、望んだ世界だ。
自らを強化する『暗黒の種』が人々の『闇』を吸い上げ、延々と咲き誇るその光景は、デジタルワールドとリアルワールド、2つの世界を『闇』に染め上げ、統合し、その玉座から見渡す光景としては、あまりにも相応しいに、違い無い。
この期に、及んで。
『あの』ヴァンデモンの願いは、これだけなのか。
「リューカ」
と、ヴァンデモンが私の肩に触れた。
反対側の手は、遠くを指さしていて。
……この子が見せたいものは、この赤い花畑の向こうで、異様な程にくっきりと、しかしぼやけて、見えていた。
並んで、無言で、歩いていく。
『霧』が、居た。
……昔、調べた事がある。
ヴェノムヴァンデモンの下半身に潜む、本体。それは、『霧』で出来た化け物なのだと。
だったら、今、私達の目の前にいるのが――
「『お台場の霧』」
――1999年の、ヴァンデモン。……その残滓。
振り返る、と、その動作を形容していいのかは、判らない。
だけどずるりと、確かに『霧』は向きを変えて――『暗黒の花』の幻影の上に這いつくばるような格好になった。
今にも飛び掛かろうとする、獣のような。
「『ナイトレイド』!」
そうなるよりも早く、ヴァンデモンが両腕を前に出して、必殺技の名前を叫ぶ。
相変わらずボロボロのままだけど、広がったマントからはコウモリの形をしたウイルスの群れが放たれ――
――なかった。
「!?」
金色の瞳を見開くヴァンデモンに、『霧』が飛び掛かる。
「っ!」
花畑の上を滑るようにしてヴァンデモンに迫った『霧』はがしりとその肩を掴み、引き摺り倒すようにして、突き飛ばす。
「ヴァンデモン!」
堪らず叫んでしまった私を、『霧』が、見た。
「あ」
眼が、合った。
その瞬間、『霧』が形を成す。
貴族の服と軍服を足して2で割ったような衣装。
裏地の赤い、真っ黒なマント。
青いアンデットの肌。撫でつけた金髪。コウモリを模した、血の色の仮面。
大っ嫌いな晴れた日の空のように、真っ青な瞳。
……手が、伸びてきた。
口が、開かれている。
鋭い牙が、こんな暗い中なのに、ぎらりと獲物を求めて光っていて――
「リューカに触るな!!」
絶叫が響き渡って、形を成した『霧』は、そのまま起き上がったヴァンデモンに殴り飛ばされた。
『霧』は、また、霧へと戻る。
靄のような暗い灰色を構成する一つ一つが虫のように蠢きながら、じっとりとねめつけて、狂ったように、睨み付けて――だけどただただぼんやりとしかこちらを見ないまま、彼岸花に似た『暗黒の花』の幻の園に半身を埋めている。
「ク」
ずる、と、実体のない身体を引きずって
「ワセ」
『霧』が、ゆっくりとこちらに
「ロ」
迫ってくる。
獣の、唸り声だと思った。
発せられただけで皮膚がびりびりと痺れるような、低い男性の声。
だけどそこには、威厳も、理性も、感じられない。
ただの、餓えた獣。
「『ブラッディストリーム』!」
もちろん、ヴァンデモンがそんなものが私に接近する事を許す筈が無い。
赤い鞭で振り払おうと、手を振るけれど――結果は、『ナイトレイド』の時と一緒だった。
「くっ……この!」
代わりだと言わんばかりに踏み込んで、ヴァンデモンは『霧』の塊を蹴り上げる。
でも、今度は、さっきと違って霧に過ぎないのだ。
『霧』は文字通り霧散して、少しだけ離れた所で、また塊となって、現れただけだった。
ぎり、と、ヴァンデモンが歯ぎしりする音が聞こえてくる。
「お前が……!」
普段からは、想像も出来ないような声音だった。雷の闘士と対峙した時の比では無い。
提案の時点では辛うじて隠していたつもりの感情が、本物を目の前に爆発してしまっているのだろう。
どんな時でも我慢してきたこの子の、限界。
「お前が! 悪い事をして! たくさんの人やデジモンに酷い事したせいで!!」
でも、やっぱり、この子の感情は――
「リューカがどれだけ辛い思いをしたと思うんだっ!!」
――激情すらも、私を中心にしか、動いていなくて。
「ヴァンデモン……」
喉が千切れるんじゃないかってくらいの大声で叫んで、ヴァンデモンは『霧』へと掴みかかっていく。
ぐらりと、『霧』の輪郭がさらにぼやける。
「コノ世界ヲ、闇デ……」
「お前なんか」
「全テヲ統ベル、王、ニ……」
「お前なんか……!」
「私、ハ……私ノ、ナスベキ事ヲ……」
「お前なんか、生まれてこなきゃ良かったんだ!!」
何度も、何度も、殴りかかる。
霧の集合体にそんな事をしても無意味なのは、この子だって、十分に理解しているだろう。
でも、それも踏まえてなお、我慢の、限界。
ずっと、言わないようにしてきたのだろう。考えないように、してきたのだろう。
だって、そんな事を、言ってしまったら――私の『これまで』に、影を落として来たのは――
「ヴァンデモン」
駆け寄って。
私は、ヴァンデモンに背中から抱き着いた。
『霧』に向かって拳を振り上げていたヴァンデモンが、動きを止める。
「リュー、カ……」
「そんな事、言わなくて良いんだよ」
「リューカ……」
「私は、あなたが生まれてきてくれて、嬉しかった」
この子が『霧』に吐いたのは、『呪い』の言葉だ。
自分に跳ね返ってくる言葉だ。
そんな事を言ってしまったら。
そんな言葉を、許してしまったら。
私に影を落としたのが、『ヴァンデモン』というこの子そのものだと、そんな風に、なってしまう。
この子は何も、悪く無い。
この子は何も悪く無いのに、世界が、それを認めてくれない。
滅んでしまえと、私達に言うのだ。
お前達なんかいらないと、私達に。
それを、この子自身まで許容してしまったら――そんなものは、『ファイヤーウォールの向こう側』からやって来た『呪い』が振り撒いた物と、何も変わらなくなってしまう。
それだけは、絶対に嫌だった。
カガさんが手を引いて連れ出してくれるよりも前に
カンナ博士が教えてくれるよりも前に
ずっと、ずっと前に。
この子だけは――いつも、私の傍に居てくれたのだから。
「リューカ」
「……」
「ごめんなさい」
「……いいんだよ、ヴァンデモン」
「僕、僕。本当は――」
「――世界なんて、救いたくないんでしょう?」
ヴァンデモンの身体が、崩れ落ちる。
私もそれに合わせてしゃがみ込んで、先ほど以上にぴったりと、身体をこの子の背中に寄せた。
……泣いている。
この子はいつも、私の、代わりに。
この子が泣かなきゃいけない世界なんて、大嫌いだ。
私が大好きなのは、雲野デジモン研究所のみんなであって。
もしもその『みんな』だけを救えるのなら、世界なんて、どうでも良い。
滅んでしまって、構わない。
なのにこの子が戦おうと立ち上がったのは、そんな方法なんてどこにも無いからで
あったとしても、それをカンナ博士達が望まないと知っているからで
カガさん達に、そんな風に思ってるんだって軽蔑されたく無いからで
それから。……それでも、そんな大嫌いな世界に自分達の居場所を作るために
『前例』に、なりたかったからだ。
世界に仇なすヴァンデモンじゃない。
世界を救うヴァンデモンという、『前例』に。
「こっちこそ、ごめんね」
「リューカ?」
そっと、腕を放した。
立ち上がる。
「私……ヴァンデモンに、押し付け過ぎてたんだよね」
私の代わりにこの子が泣いて
私の代わりにこの子が戦って
私の代わりに――この子が、私を愛してくれて。
「私の『闇』を」
この子が、いつも。
……ヴァンデモンの隣を通り過ぎて、『霧』の目の前に立つ。
「ヨロシイ、カナ? 皆サン。……コレデ、オ仕舞イカナ?」
ケタ、ケタ、と。
『霧』が、せせら笑う。
……ただ、この『霧』が見ているのは、私達じゃない。
私はじっと、顔があると思われる位置へと視線を持ち上げた。
途端、ぶるりと『霧』の全体が震えて――もう一度、あの時の姿を作り直す。
青い瞳の――1999年の、ヴァンデモン。
「その目……やはり、その目、なのだな……」
「あなたはずっと、夢を見ているんですね」
「夢など……この世にあるものか……!」
「そうですね。……そうかも、しれません。ゴミみたいな、世界ですよ」
「粗大ゴミを……処分……」
「あなたが……あなた『達』が欲しがったのは、その程度の世界です」
「この世界を闇で、塗り替え……デジタルワールド、と融合、し……」
「だからこそ――思い通りには、ならないんです」
「全てを統べる、王と……」
「私『達』の思い通りになんか、ならないんです!!」
胸元に帯びた熱を吐き出すようにして、『霧』を、否定して、拒絶する。
刹那、『霧』の姿が――溶けた。
溶けて、今度は、霧にすらなれなかった。
『暗黒の花』の影にすら隠れるような、どす黒い、タールのような染み。
……そんなものになってなお、うぞうぞと蠢きながら――
「ナ、ゼ。選バレシ子供達ト……あいすく、りーむ、ナド……食ベテ……」
――1999年を、繰り返している。
「……」
有名な、台詞だ。
その『話』は、『この』ヴァンデモンの非道さを物語る回として、よく引き合いに出される章だからだ。私でも、知っている。
命令に逆らった2体の部下を、見せしめのために。……惨殺したお話だ。
だけど『この』ヴァンデモンは、本当に、理解出来なかったのだろう。
どうしてその2体のデジモンが、自分という絶対的な恐怖の存在に逆らってまで、無邪気に『選ばれし子供たちと遊ぶ』なんて真似を、してみせたのか。
しゃがみ込む。
屈んだところでもはや視線など合わせる事すら出来ないのだけれど、それでも、少しでも近寄って、手を、伸ばす。
「一緒に、来ませんか?」
優しく、優しく。声をかけた。
「そしたら、教えてあげますよ。……アイスクリーム。どのくらい、美味しいのか」
「……」
差し出したように、見えているのだろう。
戸惑ったように、液化した身体を震わせて。それから、しばらくの間、微動だにしなかったけれど
ゆっくりと、ためらうように。黒い水の底から、一筋の腕とも呼べるべき何かが伸びて来て――
――私の指に触れるよりも前に、砕け散った。
ガラスの割れるような音。
辺り一面に飛び散る、真っ黒な粒子。
……デジモンが、死んだ時の現象だ。
「……」
最初から、手を取るつもりなんか、無かった。
『闇』の属性を、持つ人間。
『深淵』に引き込まれてしまう程なのだ。……1999年と自分の理想の中でしか存在出来なくなった『あの』ヴァンデモンにも、私は、そういったものに見えていたのだろう。
だからこそ私と対峙する時は元に近い姿を構築して、尚且つ、血を吸いたいと願ったのだろう。
そんな、本来近しい存在の『闇』である私にまで拒絶されれば、当時ならともかく今の状態では、己を保ちきれなくなっても仕方が無い。
所詮、残滓でしかないのだから。
だけど、それだけじゃ足りない。
ここは、『暗黒の海』。
昏い感情が流れ着く場所。
3度も選ばれし子供達に殺された憎しみと恐怖。
2つの世界が欲しいという妄執。
全てが思い通りにならない、憤り。
それだけを縁に残りカスの状態でここにしがみついていた『あの』ヴァンデモンが、もしも、そこに幽かにであっても――希望を、見出してしまったら?
決まっている。
もう、維持など出来なくなる。
そして――そうなった。
だから、つまり――私が。
私が、『あの』ヴァンデモンを、殺したのだ。
「……」
決着をつけたいだなんて、そんな綺麗なものじゃ無い。
生まれてこなければ良かったんだと、醜い呪いを吐きたいんじゃない。
ただただ、単純な話。
ここで殺してこの『力』を奪わなければ、コラプサモンに対抗する手段なんて、この先手に入らないから。
そうなればもう二度と、私達が『前例』になるチャンスなど、やって来ないから。
憎しみですら無い。
この上なく利己的な感情で、弱った相手から全てを奪う。その程度の衝動。
その程度の、私。
世界から完全には弾き出されないように、せめて人の好いフリをしてきた自分の、本当の姿。
私自身の、『闇』。
自分のためなら、好きだって言ってるデジモンだろうが殺してしまう――人としての、『底』。
「リューカ」
ヴァンデモンの、声がする。
私は、本当に――本当は、この子に誇れる部分なんて、何も無い。
「リューカ」
この子だけじゃない。
カンナ博士にも、ハリにも。私達の歌を作ってくれるなんて言ってくれた、カガさんにも――胸を張って顔を合わせられるような、存在じゃ無い。
「どうして」
私、は――
「どうしてリューカが、泣くんだよぉ!」
「……っ」
――そんな、出来た人間じゃ、無いのに。
砕け散った筈の昏い感情のデータが、なおも私に縋りつくようにして纏わりついてくる。
声が、聞こえる。
デジタルワールドが欲しい。と。
リアルワールドが欲しい。と。
立ちはだかる者達を全て始末して、従う者も使い潰して切り捨てて、それ以外の者も喰らい尽くして、たった1人、孤独の王にならなければ、帰る場所さえ見つからない。見つけられない。
それは、そんなのは。愚かしくて、傲慢で――悲しくて、苦しい。
「どうして『そんな奴』のために、リューカが……」
「このデジモン『達』の、ためじゃないよ」
ここは檻の中だと言い張って。
世界は、私とこの子、たった2人だけのものだと思い込んで。
私とこのデジモン『達』は、結局のところ、同じだった。
そこに、違いがあるとすれば――
「アンタとヴァンデモン、かっこよかったよ、ありがとう!」
……気が付けば、『暗黒の花』の赤い園は消えていて。
私の目の前には、カンナ博士とメタルエテモンさんがにっこりと微笑みながら、立っていた。
「ただ、私は貴女の事を、マスターを理解する上で重要なサンプルとなると判断しました。可能であれば、引き続き貴女にお話を伺いたい」
次は、ハリだ。
つい先ほど見た時よりもずっと表情が乏しいけれど、今なら、理解できる。
私なんかと重ねてまで、コウキさんを理解しようとしたその訳を。……彼女がどれだけ、お兄さんを愛していたのかを。
そして
「こんなところにいたぁ――――っ!!」
「……カガさん」
その声と、ふと耳に届いたオタマモンさんによる『ボレロ』に振り返った先に、窓があって。
カガさんが、精一杯の笑顔で身を乗り出していて、こちらに、手を伸ばしている。
「世界は広いんだよ、リューカちゃん!!」
「だから、思い通りになんか、ならない」
私には、『みんな』が居て。
このデジモン『達』には、誰も、何も、居なかった。
世界は、あまりにも広くて大きいから、ゲームの駒みたいに、手の平の上で弄ぶ事なんて、出来ないのだ。
そんな簡単な事も解らないまま『闇』が足掻き続けるのは、目に見える物全てが真っ暗闇だから、世界の広さなんて、これっぽっちも、解らないからだ。
『闇』の中で壁に手が触れて、ここが世界の果てなんだと、勘違いするような。
「君達に出会って、俺は俺自身が井の中のカジカだと知ったのさ」
「教えてもらったのは、私の方ですよ」
カガさんに――カガさんの幻に、背を向ける。
背を向けて、歩み寄る。
大切な人達に出会うまで、私が本物の『呪い』にならないように、私の『闇』を背負い続けてくれた……私の、パートナーの所に。
「違うよ、リューカ」
泣きはらした眼を、それでも逸らす事無くヴァンデモンは、私に向ける。
「僕が、そうしたかったから」
座り込む。
今度は、ほとんど同じところに、視線がある。
「僕は僕に生きて欲しいと願ってくれたリューカを、リューカの周りごと、独り占めしたかったんだ」
だけど、困っちゃうよね。……そう、ヴァンデモンは続ける。
「リューカの中に沢山の大好きが出来たせいで、世界が、どんどん広くなっちゃうんだもん」
笑っているのに、どこか駄々をこねる子供のようだ。
「確かに……ちょっと、広くなり過ぎちゃった。僕だけじゃ、護り切れないや」
「じゃあ……返して、もらおうかな」
手を、高く掲げる。
途端、螺旋を描くようにして、砕け散った『闇』が、手の平の上に落ちてくる。
――我々が冷たく悲しく、闇から闇に葬られていく時……その片方で、光の中で楽しく笑いながら時を過ごしていくお前達が居る。
これは、世界を蝕む『呪い』であると同時に、私の『闇』。
――何故だ。我々が何をしたと言うのだ。何故お前達が笑い、我々が泣かなければならないのだ。
世界を嫌って、憎んで、背を向けて――扉に鍵をかけていた、私の錠前。
――我々にだって涙もあれば、感情もあるのに……何の権利があって、我々の命はこの世界から葬り去られて行かなければならない。
そして私に、足りなかった――いや、ピコデビモンに、ヴァンデモンに、押し付け続けていたモノ。
――生きたかった。生き残って友情を、正義を、愛を語り……この身体を世界のために役立てたかったのだ。
「まだ、遅くないかな?」
……ヴァンデモンは、いつものように、笑ってくれた。
「まだ、始まってもないよ」
――我々は、この世界にとって必要が無いというのか? 無意味だというのか?
選択肢を、カガさんとオタマモンさんが教えてくれた。
そして私のヴァンデモンが、私の背中を押してくれる。
私は、この場にいる『みんな』を見た。
――……この世界は我々が支配する。我々の場所を確立するのだ。
「そうじゃないよ。 さん」
一本ずつ、落ちた『闇』を包み込むようにして、指を折る。
『世界』を闇で、覆うように。
――邪魔する者には全て消えてもらう。
「倒して、今度こそ、『前例』になるんです」
――『光』ある所に――
「『呪い』じゃない――『闇』として、胸を張って! 私達は『世界』に帰るんです!!」
私の手の平の中という『闇』を広げるようにして――この暗い『海』の中を尚も切り裂くように深い暗黒が指の隙間から伸びていく。
どんなに暗くて怖くても、確かに『悲しみ』を受け入れてくれるこの『海』から、それでも這い上がるようにして。
「……本当に、それで良いのですね。タジマ リューカ。ヴァンデモン」
……その『闇』の合間に、皮肉げに片側だけを吊り上げる唇が見えた。
「はい!」
「うん!」
声を重ねるようにして、返事をする。
これも、きっと幻なのだろう。
だけど、例え幻であったとしても――『幻という必殺技(マインドイリュージョン)』を破る役目は、私の大好きな人とデジモン達の中でも、この人が一番、適任に違い無い。
「一足先に帰って、私も、ヴァンデモンも、待っています」
「迎えに来て下さっても構いませんよ。何せ貴女達には、その資格がありますから。……ワタクシが自力で帰るより、その方が早いかもしれませんし」
「えへへ。じゃあ、待ってて! 探しに来るから!」
「まあ、こっちも出来る限りの事はしますがね。……ヴァンデモン。これを」
と、スーツの袖が見えたと思った瞬間、何かが投げて寄こされて。
手を掲げている私に代わって、ヴァンデモンがそれを受け取った。
「『中身』があれば、それにそこまで用はありませんからね。標にするので、貴女達が使って下さい」
「ハリに、何か伝える事はありますか?」
お礼の代わりにそう言うと、一瞬だけ、唇で悩むように平行線を描いた後
「貴女が伝えたい事を、ハリに伝えて下さい」
真っ直ぐな線を穏やかな弧に変えて。そんな言葉が、返ってきた。
……ちょっとだけ、また、顔が熱くなるのを感じてから。私達は、大きく、大きく頷いた。
次の瞬間、またスーツを纏った腕が動いて。
指先の鋭い、鈍い緑色に輝く手甲のような鋼の手が現れて。
パチン、と、指の鳴る音がして――
*
「……」
「……」
気が付くと、私とヴァンデモンは海辺――元来た砂浜に、座り込んでいた。
すぐ隣に、脱いでいった靴と靴下がそのままになっている。
「戻ったか」
そして、去って行った筈のデーモンさんも、そこに居た。
「……戻りました」
「『呪い』は――フッ、そうか、そうか」
満足そうに細めた眼を、デーモンさんが私の掲げたままの手に向けている。
胸元にそれを下ろして、指を解く。
紋章が、そこにはあった。
「セフィロトモンと一緒だ……」
進化と美を示す『光』の紋章によく似た、愛と美を表す、ティファレトのマーク。
そして、その属性は――
「『闇』の紋章……」
真っ黒な薄い台形の中に、レリーフとしてそのマークが浮かび上がっている。
「闇を看る娘。貴様、闇の子だけでなく『闇』の『呪い』そのものまで受け入れたか。……傲慢よのお」
「リューカ」
笑いを噛み殺すデーモンさんの前で、ヴァンデモンがこちらに、手を差し出した。
あの時、投げ渡されたものだ。
……それは、私が持っている物と同じ、雲野デジモン研究所の職員証を入れるためのパスケースで――
――しかし私が目にした瞬間、それは瞬く間に形を変えて、雫型に近い六角形の、金色のタグになった。
ちょうど、紋章の入れられる――1999年の選ばれし子供達が持っていたというのと、全く、同じものに。
「さあ、どうする闇を看る娘」
かちりと紋章をタグにはめた私の耳に、魔王の囁きがこだまする。
「その紋章が手元に在る以上、貴様は『闇』の支配者として真なる資格を得たと言える。デジモンか、人かなど、些細な事だ。……どうする? 闇の子と共に、『空席』に手を伸ばすか?」
「それは『前例』になってから、ゆっくりと考えさせてもらいます」
布のせいで口元など見えない筈なのに、デーモンさんがにいいと笑ったのが解った。
逆に、問いかけてみようと、立ち上がる。
「その上で、私達がそれを拒否したら――デーモンさんは、どうしますか?」
「何もせぬよ。何もせずとも――貴様らがそうせずとも、いつか世界はワシを、『闇』を呼ぶぞ」
「……」
それは確かに、恐怖の象徴なのだろうけれど
それでもやっぱり、このデジモンは、ただ『闇』の因子を持っているだけのデジモンとは、そして私とは、それこそ器が違うのだろう。
「じゃあ」
私と同じように立ち上がったヴァンデモンの手を、来た時と同じように、握り締める。
「そうなった時は――よろしくお願いしますね?」
笑う魔王に見送られながら、私達は、お互いの手をしっかりと握り合う。
空いてる方の手で、仕舞っていたデジヴァイスを取り出し、掲げた。
あの時みたいに、悩んだりしない。迷ったりしない。
真っ直ぐに。
「帰ろう。リューカ」
「……帰ろっか」
雲野デジモン研究所へ。
幻じゃない、愛するみんなの居る場所へ。
「デジタルゲート、オープン!!」
私『達』の、帰る場所へ。
*
「リューカちゃん……!?」
予想通り、あの時みたいにまた、デジタルワールドの海に投げ出されたりはしなかった。
あれからどれだけの時間が経ったのかは解らないけれど、カンナ博士は最初に言った通り、起きて、待っていてくれたらしくて――
――ヴァンデモンが軽く背中を押してくれた直後、昨日と同じように世界が明滅する中でも、はっきりと解るピンク色の髪がある所に向かって、私は、飛びつくように、抱き着いた。
「!」
「ただいま……戻りました、カンナ博士」
私らしくない行動だったに違いない。
でも、最初は驚いたカンナ博士だったけれど――すぐに私を、抱き返してくれた。
ああ、温かい。
「おかえり」
カンナ博士の肩越しに、吐き気がする程明るくてカラフルな世界を見渡す。
知っている景色の筈なのに、いつもの世界じゃ、無い。
紋章になったこの『闇』が、教えてくれているのだろう。
「世界って、こんなに綺麗なんですね」
『暗黒の海』とは違う。
ただの『水』が、頬を伝う。
「そんなの……欲しく、なっちゃいますよね」
『彼ら』の見ていた世界を、私はようやく、理解した。