Episode カガ ソーヤ ‐ 6
バレエ曲『ボレロ』
酒場で1人舞う踊り子に、最初は何の興味も持たなかった客達が、次第に踊り子の動きに心奪われて行き、最後には一緒に踊り出す、というストーリーの曲だ。
『霧の結界』のトリガーにこの曲を選んだのは、歌を一種の呪文として機能させる以上、単調な繰り返しがある曲の方が都合が良かったってのもあるけど――バレエの物語をなぞらえるように、同じメロディーを繰り返す内に様々な楽器の旋律が混じっていくあの曲のように、沢山の『音』に重なって欲しいと願ったから、っていうのが、一番大きい。
気が付けば、俺とラーナモンの当初の思惑通り――いや、それ以上に、俺達の『ボレロ』は、多くの人のデジヴァイスから飛び出していて。
俺達は、ようやく、少しだけ、リューカちゃんとヴァンデモンを……助けられたみたいで。
それで終わりなら、どれだけ良かっただろうかと思う。
「リューカ、ちゃん……?」
エンシェントワイズモンの疑問の声。
リューカちゃん自身の困惑の声。
ヴァンデモンの、金切り声。
その全てを置き去りにするようにリューカちゃんをさらった『深淵』は、何の音も、残さなかった。
静かに、静かに。何も無かったかのように、1人の女の子を、消してしまった。
そしてその事に、この場で一番驚いているのは
【え? なんで?】
『深淵』を呼び出したエンシェントワイズモン自身らしくて。
【何故、 が……自発的に?】
ざらり、と、例えようも無く不愉快な何かが、聞こえた気がした。
言葉とは、認識できなかった。
それだけに、今のがあの『深淵』を指し示す単語だという事実を脳が理解を拒否したような気さえして――全身の皮膚が、一気に粟立った。
聞いちゃいけない、言葉だった気がして。
……だから、一瞬、気付くのが、遅れた。
「お前……」
ふらふらと、ヴァンデモンが揺れるようにして、前方に――エンシェントワイズモンの巨大映像の方に、足を踏み出した。
輪郭が、ぼやけて見える。
いや、ぼやけてるんじゃない。
「お前……っ!」
波打っている。
全身のデータが今まさに変貌しようとしているかのように、ヴァンデモンの中身を、突き破ろうと暴れまわっているのだ。
アンデットの王の、底の底に眠る、ヴァンデモンというデジモンが本来見せたがらない、力と巨大さばかりに突出した、魔獣型の究極体デジモン。それが、目覚めようと――
「ヴァンデモン……?」
呼びかける。
どんなつもりで声をかけたのか。自分自身ですら、解らない。
それこそ、本能的なものだったのかもしれない。
『深淵』が怖いのと同じように
今、ヴァンデモンが『それ』になっちゃいけないと、そんな風に、思ったのかもしれない。
解らない。
だけど、俺が呼んだ途端。『深淵』が伸びた事によって既に掻き分けられた後になっている警官隊達の間にある道を進んでいたヴァンデモンは、突然、ぴたりと動きを止めて。
そして次の瞬間、安定を失って歪んで見えていた構成データが、内側から喰われたかのように一気に収縮して――ヴァンデモンが、その場に崩れ落ちた。
「!?」
「リューカ、リューカ……っ」
リューカちゃんの名前を呼びながら、ヴァンデモンが、顔を上げる。
そうやって大きく天を仰いだかと思うと――突如噴き出すように涙を溢れさせて、大声で泣き始めたのだ。
「う、うう、わあああああああん! リューカ! リューカ! どこいっちゃったの!? かえして! リューカをかえしてよおっ! わああああああああああん!!」
壊れたように。
子供のように。
退化こそしていないけれど、さっきまで雷の闘士を圧倒するように振る舞っていたアンデッドの王は、どこにもいない。
ピコデビモン――ですらない。
これじゃあまるで、幼年期のデジモンだ。
俺と俺のミューズも、警官隊も、そのパートナー達も、マカドですらも、呆気に取られている。
エンシェントワイズモンまでもが、ヴァンデモンが彼の元へ向かいかけていた時にはつまらなさそうに見下ろしていたにも関わらず、大きく、目を見開いていて。
だけど、誰よりも先に動き出したのも、エンシェントワイズモンだった。
【ほう】
一転して、感心したような、声だった。
【ほう、ほう! 何と面妖な!】
映像であるにも関わらず、身を乗り出すようにしてヴァンデモンに迫るエンシェントワイズモン。
対するヴァンデモンは、わあわあと泣きじゃくるばかりで。
【ふむ、なるほど。納得がいった。……ホメオスタシスめ。中々えげつない事をしおるわ】
ホメオスタシス――デジタルワールドの神(管理システム)の名前が出た瞬間、びりり、と妙な違和感が辺り一帯に走ったような気がした。
エンシェントワイズモンの口調が、あまりに軽々しかったせいなのかもしれない。デジモン達の反応が、特に顕著だった。
まるでそれは、一種の軽蔑を含んでいるかのようで。
「リューカ、リューカ……」
だが一方で、ヴァンデモンだけはこれっぽっちも変わらずに、リューカちゃんの名前を呼び続けている。
ヴァンデモンの見ている世界には、最初から、神様も何も――リューカちゃんしか、いないのだ。
【おお、可愛そうに! まあそう泣くでない】
そんなヴァンデモンに、どこか本気で慰めるように、しかしどの口が言うかと言いたくなるような言葉をエンシェントワイズモンは投げかける。
【思うに はあの娘が気になったのであろうな。お前さんのような『闇の子』を看られる人間など、そうそうはおるまいし】
「リューカ……」
【ああ、だからそう泣くでない。 にとってもあの手の人間は貴重じゃ。あの娘が望むなら、遅くとも1、2時間以内にはデジタルワールドのどこかに戻されるじゃろうて】
「!」
ヴァンデモンが顔を上げる。俺も、思わず耳を疑った。
とても信じられない程度には、『深淵』は暗くて、底が見えなくて――
……また、恐怖でしわくちゃに歪んだハタシマという男の顔が浮かんで、吐き気が、込み上げた。
「ほんと?」
【本当だとも! ワシってば嘘は吐かないんだぜ? っていうか、いや、マジで。びっくりしてんのはワシも一緒じゃしぃ? ワシとしても、久々に興味深いものを見たわ。雷のスピリットを預けた……えっと……まあええわい。あやつには不愉快な思いをさせられたが、なかなかどうして、面白い事もあるもんじゃ】
「ほんとの? ほんとに? リューカ、かえってくる?」
【ほーんとじゃって! ……っと、こんな事しとる場合じゃ無かった。そろそろ次に行かねば】
「……僕は、消さなくていいんですか? キョウヤマ先生」
不意に、マカドが前に出た。
【おお! カドマ君! いや、居たのは知っとったんじゃよ? 別に触れる程でも無いと思っただけで】
「それ一番ひっどくないですか?」
【まあワシにとってお前らってそういうもんじゃし? ……じゃが、その「気になったから」という理由だけでそんな事わざわざ聞いてくるお前の飽くなき好奇心とブレない姿勢だけは評価の対象じゃ。その結果がワシを困らせたとしても、それは汚点では無い。……精々、好きにするがいい】
「いっひっひ……そりゃ良かった」
【そういう意味では……】
その時
本当に一瞬の出来事だったけれど、エンシェントワイズモンの視線は確かに、俺とオタマモンへと向けられて――だけどすぐに、逸らされた。
【まあええ。ここには『穿った』故な。もう用は無い】
それ以上は、誰かが、何かを言おうと口を開くよりも先に。
エンシェントワイズモンの立体映像にノイズが走って、掻き消える。
【続報を、震えて待てよ、人の子ら】
……そんな不穏な言葉と、校庭の『深淵』だけは、しっかりと残して。
*
それから後は、エンシェントワイズモンの言う通りだった。
小学校への不法侵入は『デジモン関連の事件』における特例と、校内で俺のやった事自体は特にこれと言って損害を発生させていないという事実が合わさって厳重注意だけに留まり、取り調べにしても想像していたよりずっと――俺のミューズがさらわれかけたあの事件の時よりもずっと簡易的に済まされ、その最中、俺は途中で入ってきた刑事さんからリューカちゃんの無事を伝え聞いた。
リューカちゃんは、フォルダ大陸のとある海岸に流れ着いていたところを、その辺りに生息するデジモンに発見されたそうだ。
発見時には身体が冷え切っていて、病院に運ばれた今でも意識は無いとの事だったが――それでも、脳にも身体には何も、異常は見当たらないらしい。
しばらくすれば、自然に目を覚ますだろう、と。
……だけど、それを聞いても、これっぽっちも安心はできなくて。
だって、あんな――どうしようもないくらい人間の理解から離れているものに連れていかれて。本当に、無事だなんて、そんな事があるのだろうか?
そんな考えが、どうしても、脳裏を掠めて。
取り調べが終わって、その間押収されていたスマホを返却してもらった俺は、居ても立ってもいられなくて、タクシーでリューカちゃんが運ばれたという病院に向かった。
警察署を出る前に、未だに退化の様子すら無いらしいヴァンデモンが、一足先にパートナーの元に送られた事。俺と一緒に連行されたマカドが取り調べ中に血を吐いて同じ病院に連れていかれたらしい事を聞かされて。
……なんというか、俺が一番、出遅れたというか。
っていうか、気付けよ、マカドは。
気付かないくらい、ヴァンデモンの戦う様に興奮してたっていうなら――それは、それで、少しだけ……羨ましい気が、しないでもないのだけれど。
「……なあ、オタマモン」
「何ゲコか」
タクシーの中。運転手さんが喋らないタイプなのを良い事に、俺はスマホの中のパートナーを見下ろす。
いつもの、オタマジャクシのドット絵だ。
「強かったよな、ヴァンデモン」
「強かったゲコね」
「強過ぎだよな」
「……そうゲコね」
元々強いのは知ってた。
『霧の結界』や女性の血が、ヴァンデモンをさらに強化するっていうのも、『デジモンアドベンチャー』の読者なら当然のように知っている展開だ。
でも、それにしたって、強過ぎる。
……怖くは、無かったけれど――その感想だけは、確かに浮かんでいて。
しかもさっきの様子を見るに、ヴァンデモンはもう、多分、究極体にだって進化が出来るのだ。
それが可能な環境でなんて、とても、育ってきた筈が無いのに――だ。
「なんか、さ」
「闇の子」と、エンシェントワイズモンは言っていた。
「闇の子を看られる人間なんてそういない」……そんな事も。
「こんな時に何だけど……俺、すっげー不安になった」
「何がゲコか?」
「本当に、リューカちゃんとピコデビモンのための曲――書けるのか」
世界というか、ここまで来ると、次元が違うんじゃないかと、そんな風に。
あんな事があって。
この先が、どうなるか解らなくて。
そういう時なのに――一周回って、変に冷静な頭が、そんな事ばかり、考える。
くすり、とオタマモンが笑った気がした。
「オタマモン?」
「本当に「こんな時に」ゲコね」
「ん……」
「でも、あんな怖い目に遭っても大変な目に遭っても、結局はそこに行きつくから――ソーヤは、『カジカ』なのゲコよね」
「……」
俺の世界に、アイドルは居なかった。
正確には、歌声に関しては完璧な俺のミューズが居て――だけど、どうしても見た目はカエルのデジモンで、偶像(アイドル)的とは、言えなくて。
始まりは、水のヒューマンスピリットだった。
俺のミューズは歌声に見合う容姿を手に入れて、でもそのせいで今回の事件に巻き込まれて。
巻き込まれて――
「音楽だけじゃなくて、何かを『作る』のに、無駄な事なんて何一つ無いゲコ」
「うん」
「だから、ソーヤは帰ったらパソコン開いて、ソフトを起動するゲコ。悩むのは、それからゲコよ」
「……うん」
オタマモンが、必要な歌を届けてくれる。
オタマモンが、必要な詩を教えてくれる。
この先、何が、あったとしても。
「オタマモン」
「何ゲコか」
「ありがとな」
「どーいたしましてゲコ。……あ、ただソーヤ。ひと段落したら家に連絡入れるゲコよ。あっちにいる時にゲコが対応したゲコけど、お姉さん心配してたゲコ」
「姉貴が?」
「ゲコ」
「……そりゃ」
窓の外を見上げる。
相変わらず、梅雨明け宣言が出てないのが不思議なくらい雲ひとつ無くて――明日も、同じ天気だとかで。
「明日は雨かもな」
なんだか、傍若無人なあの人から俺を心配する単語が出てきたって想像するだけで背筋がこそばゆくなって――いまいち意外性に欠けるような天気予報の外れしか、例えに挙げる事が出来なかった。
*
タクシーには病院の入り口よりも少し離れたところに止まってもらった。
別にメーター変わりそうだったからそれをケチっただとか、そういうのじゃなくて……入り口付近に、マスコミっぽい姿が見えたのだ。
多分今更俺の顔とかバレバレなので、気付かれたら面倒この上ないので少し遠回りして、受付からは遠い入り口へと回る。
と、
「ようやく来ましたね、カガ ソーヤ」
「!」
入った瞬間ここ最近聞きなれた声に呼び止められてそちらを見やると、所々に包帯を巻いたメルキューレモンが、近くにある内科の待合の椅子に腰かけていた。
隣には、ハリちゃんがいつも以上にぴったりとくっついている。
「包帯まで盛るのか」
「何の話ですか。……こちらに座って下さい。伝えておきたい事がいくつかあるので」
「後じゃだめなのか? 俺、リューカちゃんの……」
「どうしてもと言うのならば止めませんが……今は、ヴァンデモンと2人にしておいた方が良いと思いますがね。彼女の置かれた状況を鑑みるに、目覚めの時にあまり人数が居ては、不安を煽るばかりでしょう」
「……」
リューカちゃんが一緒に居て、一番安心できるのは彼女のパートナー。
それは、間違いなくて。
はやる気持ちはもちろんあるんだが、メルキューレモンの言う事も最もだった。それに、お兄さんがそういう風に言うっていう事は、本当に、少なくとも身体に関しては問題無いって事なんだろうし……。
「何だよ、話って」
隣の席に、腰かける。
この時間になると診察もおおよそ終了しているのか人はほとんどいなくて、「どっちかって言うと外科に行った方が良いのでは?」とお兄さんに視線でツッコんできそうな人影も、現れそうには無かった。
「まあまずは……結局、救援に駆けつけられなかった事への、謝罪ですね」
「あ、そうだ。そっちは」
どうだった、と、聞く前に。
メルキューレモンは、右腕の包帯を軽くずらして、中を見せてきた。
……剥き出しのワイヤーフレームが、弱々しい光を放っていて。
「っ」
「形を留めておくのに布きれの力を借りなければいけない程度には、弱っています。ここに来る前に少し『足した』ので、どうにか明日の朝くらいまでは持ちそうですが……」
逆に言えば、もう、それだけしか持たないって事だ。
当初の予定なら、そうなるのは、エンシェントワイズモンを倒してからの筈だったのに。
「ま、ワタクシの見立てが甘かったとしか言いようがありませんね。……むしろ、不本意ながら、ワタクシ、貴方に感謝しなくてはいけないのでしょう。貴方が、ハリにワタクシの下に向かうよう指示しなければ……こうやって再会する事すら、叶わなかったでしょうからね」
そう言うなり、メルキューレモンは自分に寄りかかる様にしてくっついているハリちゃんの肩をさらに寄せるようにして、ぽんぽんと軽く叩いた。
……どう見ても、もう余裕なんか、これっぽっちも無い筈なのに――精神的には以前より遥かに穏やかな感じがするというか、何というか。
俺からの視線に気づいたのか、メルキューレモンはハリちゃんを放そうとすらしないまま、軽く唇を吊り上げる。
「どうです? ちゃんと兄妹みたいですか?」
「……」
「十闘士として、デジタルワールドの守護者として。……何一つとして、役目を果たせそうにありませんが……ワタクシ個人には、得るものがありました」
メルキューレモンはそう言って俺から視線をそらすと、じっとハリちゃんを見下ろして、彼女の頭を撫でた。
ハリちゃんの方もハリちゃんの方で、相変わらずほとんど瞬きせずに、子犬みたいにお兄さんを見つめている。
「カガ ソーヤ。貴方は人間として、失敗したワタクシに怒っていい。罵っていい。そうされても仕方が無い程度には――ワタクシ、今、とても気分が良いのですよ」
「じゃ、とりあえず俺の感想言ってもいい?」
「どうぞ」
「俺の知ってる兄妹、そこまでイチャイチャしない」
「……」
「……」
うん、その「うん?」とでも言いたげに首を傾げる仕草、雲野デジモン研究所で会ったばっかりの頃のハリちゃんを彷彿とさせるけど、何度も言うように男のそれは求めちゃいないワケで。
っていうか、何がどうしてそうなった。
色々と段階すっ飛ばし過ぎだろ。
「相変わらず、理解し難い事ばかり言いますね、貴方は」
「うん、俺も理解追いついて……あ、いや。そうか」
段階すっ飛ばしたんじゃなくて、ようやく、追いついたのか。メルキューレモンの内なるシスコン具合に、行動と、言動が。
……って事は、今の状態がメルキューレモンの、素……?
「そうかぁ……」
「何を納得しているのですか」
「別にぃ? ……でも、良かったよ。良かった」
色々言いたい事は無いでもないけれど、メルキューレモンの隣にいるハリちゃんが、いつも通り無表情なのに、何故かすっげー嬉しそうに見えて。
別れた後、どんな戦いがあったのか想像も出来ないけれど――でも、
「もう1回、聞いてもいいか?」
「何をですか」
「お兄さんは――ハリちゃんの事、どう思ってんの?」
俺の質問が1ヶ月前と同じものだと気付いて、メルキューレモンはほんの少しだけバツが悪そうに微笑んでから
「どうやら、第一に考えてしまっているようですね」
1ヶ月前の俺の言葉を、肯定した。
「……そっか」
「あの時の借りは、返せそうですか?」
「お釣いるんじゃねーかって心配になるくらいにはな」
「では、今回のワタクシの不手際という負債に対する返済に充てて下さい、それは」
まあ、どうせ足りないでしょうけれど。と自虐的に唇を歪めるメルキューレモン。そんな中、俺達が何の話をしているのかいまいち解らずにきょとん、とした表情を浮かべたハリちゃんを見て、俺とメルキューレモンは、どちらからともなく、吹き出した。
……きっと、こんな事をしてる場合じゃない。
でも、むしろ。2人にとっては、今この時間こそが、何よりも必要なものだったに違いなくて。
ただでさえ、タイムリミットは、刻一刻と迫っているのだから。
「……と、そうでしたカガ ソーヤ」
だけどメルキューレモンの本質がそうし続ける事を許さないのか、ただ単純に慣れていないのか、でも妹から寸分たりとも離れないままに表情だけは、引き締められた。
「バカンナの事も、伝えておかなければなりませんね」
「……」
うん。
何て。
「バカンナ」
「そうです。バカンナです。本日中はそう呼ぶ事に決めました。貴方もそうしなさい」
「ええええ……」
「むしろ、なんだか軽くないゲコか、それ」
静かに成り行きを見守っていた俺のミューズが、若干呆れたようにスマホの中で呟いた。
しかしお兄さんの方は至って真面目な様子で。
「軽いものですか。名前を改変した上での不名誉な呼称ですよ? あの女には今日一日カンナではなくバカンナでいてもらう事によって自分のやった事の愚かしさを念入りに理解していただく所存です。オタマモン、アナタも例外ではありません。バカンナです。彼女の事はバカンナとお呼びなさい」
「コウキさん大丈夫ゲコか? 何か大事なパーツとかデータとか、落としたりしてないゲコか?」
「内部構成データが3%を切っているのでアナタのその質問は肯定せざるを得ませんね。この際、許可を頂けるのなら本気でアナタを非常食扱いしたいくらいですよ」
「不許可だからね!?」
言ってたけど。それも1ヶ月前に言ってたけど。
……っていうか、割と真面目に思考回路にまで栄養(?)が回っていない可能性はあるな、これ。
元々瞳の奥に関しては若干人間性が足りていない印象があったけれど、よく見ると、今はそれを通り越して虚ろな目をしている。
体力的に厳しいのを口数で誤魔化しているのかもしれない。
……それにしたってな気もするけれども。
バカンナて。小学生か。
「……話を戻しましょうか」
とはいえ本人にも、多少なり自覚はあるのかもしれない。
少しだけ寄った眉間に手を当てながら、溜め息のように、メルキューレモンは続ける。
「実を言うと、バカンナもこの病院で傷の手当てを受けています」
「カンナさんも」
「……」
「……バカンナさんも、怪我してるゲコか?」
何か面倒なオーラを察したのか言い直した俺のミューズに、メルキューレモンは軽く頷いた。
「右手の半分が消し飛んだ他、右耳もその時焼かれたようです。それから軽度ではありますが、熱で気管を少しやられたようですね。……本人は、落ち着くまで右手以外は気付かなかったみたいですが」
結構な、怪我じゃないか。
「スカモンは?」
「戦闘の際進化コードを利用して――その反動か、あるいは蓄積ダメージの影響か……コロモンにまで、退化しています」
……でも、退化してるけど、一応、無事って事は――
「スカモンは、ホヅミに勝ちましたよ」
カンナ先生の事をバカンナ呼ばわりしていた時とは一転、本当に穏やかに、どこか安心したようにメルキューレモンは続ける。
「本当に……大した執念と、忠義心です。尊敬に値しますよ、あのデジモンは」
俺は直接見た訳じゃないから、ホヅミ――炎の闘士が、どれくらい強かったのかなんて、解らない。
確かなのは、カンナ先生がこうやって暴走しなきゃいけないくらい、あの人にとって許せない存在だったらしいって事くらいで。
クリバラ センキチは好く燃えたぞ。……だっけか。
……ああ、だったら――カンナ先生の戦いは、終わったって事で、良いのだろうか。
「ま、良かったゲコ。無事とは言えないかもゲコけど……帰って来てくれなきゃ、文句の1つも、言えないゲコから」
少しだけ言葉に棘を含んだまま、呆れたように、俺のミューズ。
リューカちゃんやお兄さんの現状も、カンナ先生が1人で勝手な事をしなければ、もしかしたら、もう少しマシだったかもしれない。
それに関しては、俺も、俺のミューズも、普通に怒っている。
……言いたい事、というか、言うべき事が、沢山ある。
「1つでも、2つでも――百でも二百でも、言ってやって下さい」
俺のスマホを見下ろしながら、メルキューレモンが肩を竦めた。
「泣かすくらいの勢いで叱っておくべきです。ワタクシとて時間があるならそれこそ3日ほどかけて今回の事を咎めたいくらいですよ」
「そこまではちょっと」
流石に3日は長いかと。
だけどお兄さんは、俺のツッコミはいつもの様に何事も無かったかのように流して
「ただ、あの女は叱られるべきだとは思いますが……どうか、責めないであげて下さい」
そんな事を、消え入る様に呟いた。
「……難しい事ばっかり言うのはどっちだよ」
「自分でも解っていますよ、酷く矛盾した事を言っているのは。……ですがカガ ソーヤ。貴方はこの手の言葉の真意を読み取れる人間だと、ワタクシ、それなりに評価しているつもりではいるのですが」
「……」
メルキューレモンに自覚があるのかいまいち解らないんだが、すっごい軟化したなぁ、態度……。
それが余裕の無さから来るものなのか、逆に今回得た余裕から来るものなのかはハッキリとしないのだけれど――ま、逆にそれが、このデジモンっぽいというか、何というか。
「解ったよ」
だから今度は、俺が肩を竦める番だった。
「色々とガツンと言わせてもらうつもりだけど、否定は、しない。カンナせんせ――バカンナ先生の……上手くは言えないけど、その、やって来た事自体は、さ」
「ゲコ!」
「そうして下さい」
軽く目を伏せてふっと微笑んだかと思うと、不意にメルキューレモンはその場から立ち上がった。
すかさずハリちゃんも付き添うように、支えるように、席を立つ。
「? どっか行くのか?」
「ええ。ワタクシ達も貴方方に同行したいのは山々なのですが……まだ、やるべき事が、残っているので」
「大変だな」
「ええ。……ああ、そうだ。時にカガ ソーヤ」
最後にお兄さんが付け加えたのは、エンシェントワイズモンの事だった。
俺達と、リューカちゃん達があのデジモンに邂逅した時の事を聞かれて。
それから、これから何が起こるのかを聞かされて。
……正直、スケールがデカすぎて全然ピンと来ない上、むしろ、世界の危機って言う割には、「え? そんな感じなの?」っていう印象の方が強くて。
そりゃ、一大事なんだろうけどさ。
でも――
「なんか……後からでも、意外とどうにか、なりそうだな」
「おや、思いの外楽観的ですね」
「いや、だって俺、『アレ』直接見た後だから。もっと……もっと、酷い事になるのかと、思って」
雷の闘士の人を文字通り引き摺り込み、一時的とはいえリューカちゃんを呑んだ、『深淵』。
あれが、何を、してくるのかと。エンシェントワイズモンの言った通り、震えて待たなければならないのかと、思っていた。
だけど実態を聞いてみれば、一瞬で世界が終わるとか、そういう類じゃ無いんだと言う。
逆に、混乱してるからかもしれない。
緩やかで、悠長な話だと思った。
1999年。そして、2002年の選ばれし子供達が置かれた状況よりも、ずっと。
「……愉快ですね」
「?」
困惑の色を包み隠さず、メルキューレモンは、微笑んだ。
「この『計画』は、きっと、あの男の全てです。それをそうも簡単に……貴方は、小馬鹿にしてしまった」
「いや、馬鹿にしてるわけじゃ」
「同じ事ですよ」
首を、横に振って。
どことなく満足げな表情を浮かべると、これ以上伝える事は無いと判断したのだろう。自分を支えるハリちゃんの肩を軽く指先で叩いて、病院を後にしようと促した。
だけど、その前に。
一心にお兄さんに向けられていた彼女の視線が、こっちへと、動いた。
「カジカP」
「ん?」
「申し訳ありません。私はこの後もマスターに同行します。リューカにも、よろしくお伝え下さい。……それから本日のレッスンは、お休みという事でお願いします」
いやまあ知ってた。
……そもそも出来るなんて思ってなかったけど――気にしてくれていたのか、この子。
「ハリさんは真面目ゲコね」
「そう、なのでしょうか。私は伝えるべき事を伝えておくべきだと判断したまでなのですが」
「カガ ソーヤ」
と、お兄さんの目がすっと、なんとなーく攻撃性っぽいものを帯びて細められた。
「ワタクシ今回の事で嫌々ながら貴方を称賛し、一種信頼する念も生まれはしましたが……ハリへの手出しに関しては、音楽に関する教育以上の事は今後も許可する予定はありませんからね?」
「何と言おうが、ハリちゃんは順調にこの世界のアイドルへの階段を駆け上がってるぜお兄さん。天才音楽クリエイターの俺が言うんだから、間違い無いって」
「……誰がお兄さんだ」
そう言うと、メルキューレモンは包帯で覆った右手を震わせながら伸ばして、俺の頭部に、5本の指を添えた。
……添えられただけだった。
「ダメですね。やはり。力が入らない」
「……」
「なので、今度こそ震えて待ちなさいカガ ソーヤ。今後の展開によっては、貴方は『世界の終わり』よりも酷い目に遭うのですから」
「え、何それ怖い。ちょっとは神妙な気分になった俺が馬鹿だったよ!?」
「ええ、存じています。貴方、馬鹿ですから。……一応は言っておきますけどね? それまでに、懲りておきなさい、と」
俺は諦めねえ。と、発言が最初の最初――本当の、振出しに戻る。
だけどそれに対してアイアンクローすら出来なくなったお兄さんは、それでも一種猟奇的なまでにサディスティックな眼差しと共にニヤリと口角を歪めた後、ハリちゃんと揃って、俺達に背を向けた。
「……だから」
それは、何もおかしい所が無いくらい――でも、正直俺の知ってる世界からは信じられないくらい、完璧に仲の良い、兄妹の背中だった。
「男のそれは、ノーマジェスティックだってば」
「ゲコ」
今日のオタマモンは、「自重するゲコ」とは言わなかった。
*
それから俺達はいい加減にリューカちゃんの元に向かい――だけど病室を見つけるや否や、病院の白い壁には浮き過ぎたピンク色が、視界に飛び込んできて。
「……」
ただそれは、随分と短くなっていた。
右耳がある位置に大きなガーゼが当てられていて、その付近に合わせるようにして、腰元まで届いていた筈の長い髪が、ばっさりと切り落とされていて。
処置の時邪魔だったってのもあると思うけれど――きっと、耳と一緒に焼けた個所から、切り揃えたのだろう。
「あっ」
俺達の視線に気づいて振り返ったカンナ先生は、悪い事をしているのが見つかった子供みたいな表情も相まって、いつもよりもどことなく幼い印象が纏わりついていた。
「……カ――バカンナ先生」
眉をひそめてから、メルキューレモンに指示された通りの呼び名で声をかける。
正直無いなとは思うけれど、そのくらいの意思は汲んでも良いかなとは、思ったので。
「……メルキューレモンも来てるのかい?」
応えるカンナ先生の声は、少しばかり、しわがれている。
「来てたけど、どこかに行っちゃったゲコ。まだやるべき事が残ってる、とか言ってたゲコね」
「……そっか」
それこそ、合わせる顔など無いのだろう。
ほっとしたような、だけど同時に少しだけ寂しそうな、なんとも言えない表情を浮かべるカンナ先生の眼は、疲れで虚ろだったメルキューレモン以上に空っぽに見えた。
落とされた視線の先は、腕の中で。
カンナ先生の髪よりも落ち着いたピンク色の塊――コロモンが、時々鼻提灯を出しながらすやすやと眠っていた。
見た目はともかくいつもテンション高めで、でもどんな時でもしっかりしていたスカモンと同じ個体だとは思えないほど、無防備な寝顔だった。
ようやく、ゆっくり休めるといったような。
「ごめんね、カジカP。タマちゃん」
対してカンナ先生は、ある意味で自分にも突然やって来た『休み』に戸惑うように、泣いているのかと思う程ささやかな声でぽつりと呟く。
「……ごめんで済んだら、警察はいらないのゲコよ」
ただそれ以上カンナ先生が何も言わないのを見て、やっぱり溜め息のように、俺のミューズ。
こんな時に何だけど、そういうしっとりした声音もマジェスティックよな。
「そう、だね」
「はっきり言って、軽蔑するゲコ。リューカさんやコウキさんが、バカンナさんの事どれだけ信頼してたか解ってるゲコか?」
「……」
「みんなが……どれだけ心配したと思ってるゲコか」
「……アタシは……」
「信頼される人間じゃ無い、心配される様な人間じゃ無い、とか言いたそうゲコけど、それはバカンナさんが勝手に思ってるだけで、みんなみんな、バカンナさんの事大好きなのゲコよ?」
「そんな事、言わないで」
大好き、という、単語が出て。
その瞬間――水滴が、カンナ先生の眼尻から、走った。
オタマモンは、尚も続ける。
「リューカさんとピコデビモンがバカンナ先生の事大好きなのは知ってるゲコよね? あの2人、雷の闘士と戦いに行く直前だって、ゲコ達に自分達じゃなくてバカンナさんの応援を頼んでたゲコよ?」
「……」
「コウキさんだってバカンナさんの事大好きゲコ。こんな「バカンナ」なんてそれこそバカみたいな呼び方提案してくる時点でお察しゲコ。ハリさんが、コウキさんと一緒にいるバカンナさんに嫉妬してたのは知ってるゲコが? あのハリさんがそんな風に思う事自体が良い証拠ゲコよ」
「……」
「……」
この場にメルキューレモンが居なくて本当に良かったと思う。
「それから……どうしてゲコがこうやって怒ってるか、解るゲコか?」
声も無く、空っぽの瞳から涙を流し続けるカンナ先生に――オタマモンは静かに、叱る、というよりは諭すような調子で
「どうして最後まで、みんなを利用しなかったゲコか」
だけどやっぱり、呆れたように、俺のよく知る我がミューズそのままの調子で、カンナ先生に語り掛けた。
「……タマちゃん……」
「相談しなかったゲコか、とは言わないゲコ。その辺がデリケートな問題なのはゲコだけじゃなくてみんな察してたゲコ。みんなバカンナさんが心の底から心配だったから、触れないようにしてたゲコ。……その上で、どんな形だろうと、みんな、バカンナさんの力になろうとしてたのゲコよ?」
「……」
「なのに最後の最後で1人で突っ走って、かっこ悪過ぎるゲコ。ソーヤとはまた別次元的にかっこ悪いゲコ」
「うん、どうしてそこで俺の事引き合いに出すの?」
「ちょっと黙るゲコ」
「アッハイ」
……俺の言う箇所、どんどん無くなってきてる気がするけど、まあ俺の思考=俺のミューズの言葉なので別に、まあ、問題自体は、無いのだけれど。
無いというか――きっと、男の俺より性格上は同性っぽいオタマモンが言う方が、良いんだろうけど。
「バカンナさんのやった事は……そうゲコね。正直言って守られてばっかりだったゲコが言うべきじゃ無いゲコけど、リューカさんとピコデビモンは元より、3日かけて叱りたいって言ってたコウキさんだって本当の意味でそこまで出来るとは思えないゲコから、やっぱり、雲野デジモン研究所で一番バカンナさんから『遠かった』ゲコが適任ゲコね」
バカンナさんの、やった事は。
もう一度、言い聞かせるようにして、オタマモンは続けた。
「みんなに自分の荷物を持ってもらうようにしておいて、土壇場でそれを全部回収して抱え込んじゃったようなものゲコ。これだけ言うと、むしろ良い事したみたいに聞こえるかもゲコけど違うゲコからね? ……みんな、重過ぎる自分の荷物を、バカンナさんの手伝いをしている間だけ、隣に置いておけたのゲコよ? ほとんど前触れも無しにバカンナさんがそうしちゃったゲコから、みんな、最悪のタイミングでそれと向き合わなきゃいけなくなっちゃったのゲコ。対するバカンナさんに至っては回収した自分の荷物の重みで動けなくなっちゃって――はっきり言わせてもらうゲコ」
バッカみたいゲコ。
……吐き捨てるように。同時に、優しく、歌うように――至高のアイドルは、1人の女性を、怒鳴りつけた。
いつもと同じで、よく、響く。
「ごめん、なさい」
カンナ先生は、相変わらず泣き続けている。
「ごめんなさい……」
だけど――もう、眼の奥は、空虚じゃ無い。
もう何もかも無くしたって瞳じゃ、無い。
顔はくしゃくしゃに歪んで、いつものカンナ先生とは程遠いけれど――
「まあでも、それでもスカモンがコロモンになっちゃうぐらい頑張って、バカンナさんの荷物を持ち続けてたから……こうやって、帰ってこられたのゲコよね。それは、精々小包くらいの悩みしか抱えてないソーヤのパートナーのゲコなんかじゃ想像もできない程の頑張りゲコ」
「息を吸うようにディスられるっ!」
「五月蝿いゲコ」
「スミマセン」
「……おかえりなさいゲコ。バカンナさん。せっかく帰ってきたのゲコ。この調子でゲコ以外からも怒られて――その分、パートナーの事、褒めてあげるのゲコよ?」
オタマモンは、最後に笑って
カンナ先生は、しばらくずっと、むせび泣いていた。
うん。いつものカンナ先生とは程遠いけれど――いつものカンナ先生に戻るのも、きっと、そう遠くは無い。
正直年上の女性がむっちゃ泣いてる画っていうのはなんというか、どうすればいいんだろうって胸がざわついてしまうので実の所そろそろ泣き止んでほしい感はあるのだけど、それは絶対今俺が言うべき事じゃないし、涙って一種のストレス発散だから泣けるだけ泣いた方が良いってのも知ってるし……
っていうか、俺の台詞になりそうなとこも全部俺のミューズが言っちゃったので手持無沙汰ならぬ口持ち無沙汰状態でホントに俺これ、ここで、一体、どうすれば――
――その時だった。
ふと逸らした視線の先に、金色の瞳を、見つけたのは。
「まあ、いい加減来る頃だとは思っていましたよ」
ノックをしたアタシをそれなりにたっぷりと待たせてから部屋の扉を開いたメルキューレモンは、相変わらずコロモンを抱えたままのアタシを見るなり溜め息交じりに呟いた。
「メルキューレモン……」
何から切り出せば良いのか悩むアタシへと、ふいにメルキューレモンはすっと手を伸ばす。
……包帯で覆い隠した指が軽く摘まんだのは、アタシの短くなった髪だった。
「似合いませんね。ショートヘア」
「好きでなったんじゃないよ」
「自業自得という意味では、お似合いでしょうが」
「……そうかもね」
ああ、ただ。と、アタシの髪を弄りながら、メルキューレモンは続ける。
「前の髪形も正直似合ってはいませんでしたよ。手入れが行き届いていない上に常々長すぎると思っていました。それから、その歳でピンク色の髪というのも、ね」
「……アタシの半生、否定する気かい?」
「しますよ。……1つずつでも否定していかないと、ここから前に進まないでしょう、貴女は。……もう、チューモンである必要も無いのでしょう? これを機に黒色に戻すか、せめてもう少し落ち着いた色合いに――」
「アンタに、言ったっけ。髪染めてる理由」
「そのくらいは、解りますよ。……貴女の単独行動を見抜けなかったワタクシですが、そのくらいは」
そう言うと、メルキューレモンはどことなく名残惜しそうにアタシの髪から、手を放した。
……ああ――本当に。もう。
「ありがとね。メルキューレモン」
コロちゃんを持ち直しながら、左手の位置を変える。
お礼の内容については口にはしなかったが――代わりに、左手の薬指は、よく見えるように。
ふん、と、メルキューレモンは軽く鼻を鳴らした。
「焼けて溶けた指輪よりは、いくらかマシでしょうか」
「そうかい? なかなか、センス良いと思うんだけど」
「そうですか」
顔が、背けられる。
「貴女が良いと思うなら、それで良いんじゃないですか?」
やけに、小さな声だった。
……これ、まさか、照れてるのか?
「……」
「何ですかその顔は。……いえ、やはりいいです。それよりも、ご用件は?」
「少し、長くなると思うから……研究室に来てもらっても良いかい?」
「拒否します。ワタクシ、残りの時間はハリの寝顔を見て過ごすと心に決めたので」
「……」
拒否されてしまった。
いや、まあ、それはいいとして――何だって?
多分、顔に出たのだろう。メルキューレモンはわざとらしく嘆息すると
「貴女のせいで、こちらも色々あったのですよ」
いつも以上に嫌味っぽく、そう続けた。
「……ごめん」
「まあ、お蔭で満身創痍ではありますが――嫌な事だけでは、ありませんでしたよ」
急に語調を弱めたかと思うと、メルキューレモンはゆっくりと振り返った。
つられて身体を傾け、中を覗くと――ハリちゃんは既にベッドの上で横たわっていて、小さな肩が、静かに上下を繰り返している。
……無防備な、子供の寝姿だ。
「……気が変わりました」
と、いつの間にかメルキューレモンがこちらに向き直っていたらしい。
少しだけ困ったように眉間に皺を寄せながら、どこかなげやりに口を開いた。
「行きますよ。研究室。別に、貴女と話をしたくない訳では無いので。……それに、ハリが眠るのを、邪魔したい訳でも無い」
「……そっか」
「ただ、手短にお願いします」
わかった。とだけ言って、アタシはこの兄妹の部屋に背を向ける。歩き始めると控えめに扉の閉まる音がして、すぐにメルキューレモンがアタシの隣に並んだ。
「歩きながら、先に聞いとくけど」
「何ですか?」
ほとんど小脇に抱えるような形にコロちゃんを持ち直してから、アタシは白衣のポケットから自分のスマホを取り出した。
「盗っただろう。データ。……クロンデジゾイドの針」
返事の代わりに、左の袖口から件の針を取り出すメルキューレモン。
「『足し』にさせてもらいました」
そう言うなり、メルキューレモンはそれを口に放り込んで――まるで飲み込んだかのような仕草を、して見せた。
「しかし盗ったとは人聞きの悪い。せっかく証拠隠滅をして差し上げたのに」
一端警察に押収されたスマホが何事も無く返却された時は首を傾げたが――まあ、つまりはそういう事だった。
……あの時は、逮捕されようがどうなろうが、別に、どうでも良かったのだ。
「貴女の考えなど知りませんが、1つ言えるのは貴女の社会的地位が犯罪行為で揺らぐような事があれば――最も辛い思いを強いられるのはタジマ リューカでしょう」
「……うん」
「最後の最後で巻き添えにする決心を持てない程度の復讐心であったのならば、せめてそのくらいの思慮は持つべきでしたね」
「アンタの、言う通りだ」
「とはいえワタクシも、いわば文字通り「腹が減って死にそう」な状態でしたからね。この件に関してはお互いにウィンウィンと言う事で、不問としておきましょう」
「……そうかい」
「張り合いが無い」
「……は?」
突如差し込まれた突拍子も無い言葉に、思わず足が止まる。
メルキューレモンはアタシよりも1歩前に出てから振り返り、壁にもたれかかりながら呆れたような、加えて不満げな視線をこちらに向けた。
「ハッキリ言いましょう。気持ち悪いです。貴女がそのように大人しい受け答えをしていると、こう――背中のあたりが、ぞわぞわします。いつもの様に理不尽な振舞いをしていただけないと、こちらとしても叱り甲斐というものがですね」
「し――知らないよ!」
声を荒げてしまった事に気付いて慌ててコロちゃんを見下ろすが、この子は相も変わらず、健やかな寝息を立てるばかりだ。
気を取り直して、しかし声量は少し押さえて、アタシはメルキューレモンをねめつける。
「っていうか、アンタ……アタシの事そういう風に見てたのかい?」
「ええ。何か不満でも? それとも自覚がありませんでしたか? 自分が理不尽でずぼらで大人げなく考え無しな女性であるという、自覚が」
「……」
思わず、素早くスマホを仕舞って空けた左手をメルキューレモンの頬に伸ばす。
「この、減らず口は」
そのまま、摘まんで、捻ろうとして――後悔する羽目になった。
摘まんだ瞬間、メルキューレモンの皮膚――人間の頬を模した『テクスチャ』にヒビが走り、古い壁の塗装か何かのように、指の触れた部分がぼろぼろと崩れ落ちたのだ。
「っ」
「ああ……」
苦笑いを浮かべてから、拭うようにしてテクスチャの剥がれた後を抑えるメルキューレモン。
手を下ろした後には、その光景が嘘だったとでも言いたげに、肌は元通りになっていた。
なっては、いるが……。
「そんな顔をしないで下さい、カンナ」
「……バカンナじゃないのかい、アタシの事は」
「出来れば直接、そうお呼びしたかったのですが……日付が、変わってしまいましたから」
昨日1日は、と決めていましたから。……そんな風に言って竦める肩すら、どこか弱々しい。
なのに、不思議なくらい、表情は、穏やかだった。
「だったら、せめて……アンタの方こそ、もっと文句なり何なり、言いなよ」
「そのつもりでいたのですがね。……貴女より一足先に、ワタクシ、叱られているのですよ。クリバラ センキチの妹に。……流石に、堪えました。貴女も同じ人物に叱られた以上、ワタクシが後から何か言ったところで別段意味をなさないのでは、と。そう思わされた程度には――ね」
「……モモちゃん、怒ると周りが見えなくなるから」
何せ、兄がアレだったのだ。
アタシ含め、ああいう手合いの叱り方というものを、あの子は、よく知っている。
「そもそもカンナ。ワタクシ個人としては、別に、貴女に怒っている訳では無いのですよ。……ハリを危険な目に遭わせる羽目になったという点と、キョウヤマの目論見を阻止出来なくなった点。貴女に追及したいのはその2点のみで……それにしたって、ワタクシの不甲斐なさが招いた結果と言ってしまえば、それまでです」
「そんな事」
「第一、ワタクシに貴女を責める権利など――やはり、最初から無いのですよ」
メルキューレモンは、じっとアタシを見下ろした。
ゼペットに――キョウヤマに似た、その顔で。
「……」
アタシは再び、歩き始める。
「来て。早く」
メルキューレモンを追い抜いて、歩調を早めた。
ついて来ている事は、足音が教えてくれている。
だから、そこからは無言で研究室まで進んで――入るなり、部屋の灯りを点けるよりも先に、リューカちゃんやメルキューレモンに研究以外の事務書類の処理を頼むために使わせていた方のパソコンを起動させる。
「こっちに」
少し遅れて研究室に入って来たメルキューレモンに手招きして、パソコンの前へと呼び出した。
「何ですか? この期に及んで公共料金関係の手続きをさせるつもりなのであれば、帰りますよ、ワタクシ」
「んなわけ無いだろう」
アタシはパソコンの隅をコンコンと指先で叩いた。
「あげるよ。この中に入ってるデータ、全部」
「?」
そのまま持ち上げた手を、メルキューレモンの顔の前でひらひらと振った。
「クリバラが、アンタに借りを作ったみたいだけど……アイツは、アタシのヒモだから。アイツの出費は、アタシの出費。……全然足りないだろうけど――返すよ。おおよそ、アタシの給料の3ヶ月分が入ってる」
ファイルを開く。
……大学等から預かっている進化コードが、列をなして表示された。
「……紛失しては困るのでは?」
「どうせコロちゃんが1つ勝手に使っちゃったからね。失くすなら1つも十数個も変わらないさ」
「変わるでしょう」
「蓄えならあるからね。ちゃんと弁償するから心配無いよ。……いや、まあ、うん」
生活に困らない程度の資金源にはなってくれる分――もちろん、それなりの値段にはなるだろう。正直進化コードの弁償なんてしたことが無いので、いくらになるのかなんてほとんど想像できない。
……うん。
「大丈夫。……大丈夫。最悪……パパに借りるから……」
「……パパ?」
「うん……」
ここで、メルキューレモンは思い切り吹き出した。
「な、なんだい急に!?」
「ふ、ふふ……いや、まさか貴女の口からそんな単語が――ふっ。そうか、そうですね。……貴女だって人の子なのですから、いますか、父親くらい」
「アンタ……本当にアタシの事なんだと思ってるんだい?」
だけど、思わず顔をしかめるアタシの質問には答えずに
「カンナ。本当に、良いんですね?」
逆に、そう、尋ねてきた。
その顔つきが打って変わってあまりにも神妙で、一瞬、答えに詰まってしまったけれど
「遠慮は要らないよ」
と、すぐにそう、口にする事が出来た。
……メルキューレモンは、それ以上、アタシの方を見なかった。
代わりに右手の包帯を外すと、もはやテクスチャーすらも破棄したワイヤーフレームの腕をそっと伸ばし、パソコンの画面を触れる。
そこからは一瞬だった。
次の瞬間には、画面全体にノイズが走り――電源が、落ちた。
……他の重要書類の類は先に移動させておいて正解だったなと、軽く息を吐く。
でも、その些細な安堵も、先の見えない出費への不安も――
「ふ、ふふ……ふはははははは!」
――突然の笑い声によって、掻き消されてしまった。
「な――なんだ、どうしたんだい!?」
出所はもちろん、メルキューレモンからだ。
あまりに唐突な事に慌てるアタシに改めて向き直りながら――メルキューレモンは、笑っているにしてはひどく空虚な瞳でアタシを見下ろして
「良かったですね、カンナ。……今度こそ、貴女の復讐はこれで終わりです」
そう言って
これから、自分が進化コードを食い潰して得たデータを使って何をするのかを教えてくれた。
「そんな」
それは、あんまりにも――
「そんな事をしようと思って、アタシは! アタシはアンタに、『コレ』をやったんじゃないっ!!」
――あんまりにも、あんまりな、選択だった。
「存じていますよ。……存じていますとも」
なのにあくまでメルキューレモンは落ち着いていて。だというのに、自分がこれからする事に――しなきゃいけない事への複雑そうな表情も、しっかりと浮かべてはいて。
「だったら」
「カンナ。ワタクシの本来の目的は、エンシェントワイズモンの討伐です。貴女から頂いたこれら進化コードという『食事』は、そのために必要なデータをワタクシに与えてくれました」
「だからって、他に方法は」
「ありますよ。……というか、ただ単に今回分の企みを阻止するだけなら、あの男の必殺技を潰すだけで事足ります。その後エンシェントワイズモンを殺害できれば、当分は、こちら側もデジタルワールドも、奴の脅威に曝される事は無いでしょう」
だったら、それでいいじゃないか。
アタシが、そう言い出す前に
「ですが、それはあくまで、問題の先延ばしに過ぎません。ワタクシは、ハリを……あの男の悪意ある『前例』にしたくはないのですよ」
メルキューレモンは、そう言って、微笑んだ。
困惑と恐怖と絶望が入り混じりつつも――見てるこっちが悲しくなるくらい、優しさで出来た笑みだった。
「正直に言いますよ、カンナ。本来であれば、ワタクシが選択していたのは『先延ばし』の方だったに違いありません。ワタクシは――十闘士は、世界を救うための『システム』です。問題を排除した上で、次の課題に備えなければならない。……ですが」
彼の顔を見て、何も言えなくなってしまったアタシに畳みかけるように、メルキューレモンは続ける。
「ワタクシには、妹がいるんです。この世界と天秤にかけた上で、それでもなおワタクシの『心』を傾ける、最愛の妹が。ああ……これは、素晴らしい事ですよカンナ。少し認識を変えただけなのに、ハリがこの世界に居るというだけで、『守るだけ』だったこの世界がこんなにも、美しい」
いつの間にか元通りになった両手を広げて、メルキューレモンは鬱陶しいくらいオーバーに、尚且つ早口で、どこか、叫ぶように――
「だから、欲しくなってしまったのですよ。ハリがこの先も生きていける、世界の、未来が」
――初めて、欲しい物を手に入れた子供のように、メルキューレモンは――京山幸樹は、無邪気に笑っていた。
……。
「……アンタ、さ」
「何ですか?」
「そんな事したら、肝心のハリちゃんはどうなるかって。……考えた上で、言ってるのかい?」
「……」
メルキューレモンが今度は黙る方に回ったのを確認してから、アタシは、言葉を選んでいく。
「キョウヤマが何をするのかは、解った。そりゃ、確かに、世界の危機さ。その事に関して、ハリちゃんはなんにも悪く無いけど――それでも、自分の存在を責めなきゃいけなくなるかもしれないっていうのも、理解できる」
だけど、あの子にとっての『世界』っていうのは、つまりは、『兄』の隣なのであって。
「それ以上に、そのせいでアンタが居なくなったら――あの子、本当に、どうなると思う?」
「……」
「この1ヶ月間アタシを見ておいて……判らないとは、言わせないよ?」
「……ハリが、貴女のようになるというのは――そうですね。嫌、ですね」
「だろう?」
「ですがカンナ、何か勘違いしていませんか?」
「?」
「ワタクシ、この件で死ぬつもりもありませんし、消滅する気もありませんよ?」
それは――確かに、そうだろう。
でも、それは
「「明日目が覚めたら、キョウヤマ コウキとしてのワタクシはもう居ませんし、しばらくは会えません」……ハリには、既にそう言ってあります。嘘でも、何でもありあません」
「アタシはそんな屁理屈が聞きたいんじゃ」
「こんな屁理屈を捏ねてまで『そう』したいワタクシの事を、貴女なら理解せざるを得ないでしょう?」
「っ、このバカ……!」
怒っていない、と言ったくせに。きっちりと、嫌がらせは仕掛けてくる。
カジカPの言う通り、こいつは根っからのドSなのだろう。今日――いや、昨日の。そしてこの1ヶ月間こいつに好き放題言ってきた事への意趣返しだと言わんばかりに、さっきから、アタシにずぶずぶと突き刺さるような言葉ばかり、選んでいる気がしてならない。
大好きだったセンキっちゃんを奪った者達への復讐しか頭に無かったアタシを鏡に映すようにして、メルキューレモンは、愛する妹の歩む『これから』しか考えていないのだ。
ああ、なんて雲泥の差でありながら、大差無い感情なのだろう。
こいつに『心』が無いなんて言った阿呆は、一体、どこのどいつなんだ。
「カンナ」
結局、「バカ」しか言葉を用意出来なくなったアタシの反応を一通り楽しんだのだろう。やがてメルキューレモンは、先ほどよりもずっと声のトーンを抑えて、アタシの名前を呼んだ。
「……何」
「そうは言っても、やはりワタクシが怖い思いをしていると言ったら。……貴女はまた、ワタクシを抱きしめてくれますか?」
未だに笑っているくせに、父親相手に打ちのめされた時よりもずっと、泣き出しそうな顔をしていた。
「……やっぱり、怖いんだね。メルキューレモン」
「怖いですよ」
あの時と同じように、声が、震えている。
……なのでアタシがした事も、催促されたからとはいえ、あの時の繰り返しだった。
「ちょっとだけ、待っててね、コロちゃん」
ソファにコロちゃんを置く。流石に「片手間」という訳にもいかないと思った。
床に腰を下ろして、手招きする。
右手の指は無くなってしまったけれど、それでも両手で、こちらにやって来たメルキューレモンを包み込んで、抱き寄せる。
流石にアタシに肉付きをどうのこうの言うだけあって、形を人に似せているだけとはいえ無駄の無い身体つきをしている。
……お互いに、顔が見えなくなった。
「どうして、ワタクシなのですか」
だからこそ。それは、鋼の闘士がようやく吐き出す事が出来た、本当の意味での弱音だったのだろう。
それ以上は何も言わなかったけれど、苦しそうに、嗚咽のように、消え入る様に口にした言葉は、正しく本音に違いなくて。
それ以上、何も言わなかったのは、うっかり『妹』と出会えた事まで否定してしまいそうで……その事が、何よりも怖かったのかもしれない。
ああ、全く、もう……本当に、このデジモンは――この男は。
「メルキューレモン」
「……はい」
「せっかくだから、チューもしてやろう」
「はい?」
さっきのセンキっちゃんみたいにデジモンでは無いのでこいつの腕力に敵う筈などないのだが、この抱擁の主体はあくまでアタシなのだ。
こいつが何か動きを見せる前に、素早く、少しだけ、身体を放して。
軽く腰を浮かして、メルキューレモンの額に、唇を当てた。
「よく頑張ってる子には、こうしてやるもんなのさ」
そう言ってすぐに離れて再び腰を落とすと、メルキューレモンは何が起きたか理解し切っていないのがまる分かりの間抜け面で、目を見開いていて。
思わず、吹き出してしまう。
「バカだねえ。唇にしてもらえるとでも思ったのかい?」
もちろんそんなつもりは無かっただろうが、それでもこっちもさっきの仕返しを兼ねて、からかうように、笑ってやる。
「こればっかりは、センキっちゃんの」
……笑ってやった、はずなのに。
「センキっちゃん、の……」
ぼろぼろと、目元から零れ落ちるものがあるのが、今回は、流石に、伝わって来て。
……目の前にした本人と、彼の居ない――もう、居ない場所で口にするのとは……全然、違っていて。
もう本当に、お別れしたのだと、今になってようやく、本物の実感が湧いて来て――
「……貴女が」
今度はメルキューレモンがアタシを抱き寄せて、アタシの顔を、見ないようにした。
「もしも貴女が、本気でそんな事を軽々しくするような女性なら、きっとこんなには好きにはなりませんでしたよ」
いや、むしろ。自分の顔を、見せたくなかったのかもしれない。
「カンナ。ワタクシ貴女の事が、ハリの次くらいに、大好きです」
何せそんな事を、のたまったのだから。
……のたまい、やがったのだから。
「……ねえ、メルキューレモン」
「何ですか」
「こっちに帰ってきたらさ……やりたい事とか、あるかい?」
「つまり『先』の話ですか? ふっ、ワタクシの真似事ですね。まあいいでしょう。……そうですね。ハリと」
「あ、ハリちゃん関連以外で。今のアンタからそれ聞いてたら、多分夜が明ける」
「……………………」
「さっさと言いな」
「待ってください。今考えているんです。……そう、ですね……。ああ、そうだ。今度は、ロードしたデジモンのような依代ではなく、もっとしっかりしたベースが欲しいですね。他のデジモンや、あるいは人間のように振る舞えるような」
「それで?」
「食事が可能になったとしたら、甘い物が食べてみたいです。あのハリが食べた際に表情を変える程のモノです。純粋に、どのような感覚を得られるのか、興味があります」
「ふうん。いいじゃないか」
「それから、研究者としての貴女をもっとちゃんと見てみたいですね」
「アタシの?」
「ええ。思えばこの1ヶ月間の貴女は、やはり、研究者として以上に復讐者としての要素が強かったですから」
「……そうだね」
「そうだ。タジマ リューカとピコデビモン――ヴァンデモンについて、ワタクシが戻るまでに調べておいて下さいよ。『奴』の呼び出した の興味を引くくらいです。貴女としても、気になる所が」
「待って、今なんつったの?」
「ん? ……ああ。 だと通常は聞き取れないのですか。すみませんね。あの『深淵』を指す言葉ですよ。あまり、深くは考えない方が良いかと」
「そっか。気になるけど、大人しくそうしとく。……っていうか、リューカちゃんから聞いたんだけど――」
それからアタシ達は、色んな事を、語り合った。
夜が更けるまで、とはいかなったけれど。「手短に」なんてコイツが言ってた事自体が嘘みたいに色々な事を、鋼の闘士の冷たい指に、ほんのりと、アタシの熱が移ってしまう程度には、長い間。
デジモンの事と、それに関係する事と、しょうもないくらい取り留めのない話を、お互いがお互いの顔を見ないままに順繰りに。
お互いに、強がりの様に繰り返して、繰り返して――でも、あっという間に、時間が、やってきて。
……話が途切れたタイミングを見計らって、メルキューレモンが、立ち上がった。
「……行くのかい」
「ええ。もう随分と、マシになりましたから。……ですがこれ以上は、名残惜しくなるだけです」
「そっか。……じゃあ、ちょっとだけ、待ってて」
アタシも立ち上がろうとはしたものの、それなりの間同じ体勢で居たせいか、足が痺れたらしい。
若干不格好に、身体を引きずるような形になりながら自分のデスクに向かって、引き出しから1枚のカードと、首からかけられる空のパスケースを取り出した。
アタシはそのまま、カード――職員証の土台となる、何も書かれていない青いカードをパスケースに仕舞って、メルキューレモンへと差し出した。
「これ、持って行きな」
「何も書かれていませんが」
「帰ってきたら入力してやるよ」
本当は、リューカちゃんが紛失した時の予備だったのだが、まあ、それは、いいだろう。
あの子は多分、失くさないし。
「……ありがとうございます」
そう言って、メルキューレモンはパスケースを首からかけたりはしなかった。
代わりに、そっとスーツのポケットへと仕舞うと、未だに開け放たれた窓の方へと、歩み寄る。
「いいのかい? 妹の寝顔、見て行かなくて」
「見てしまったら、二度と離れられる気がしませんから。貴女の顔で妥協しておきます」
「……」
「かなりの妥協です」
「一々言うんじゃない」
「カンナ」
仮初の人の姿から、鋼の闘士へ。
またあの時と同じように、不意打ちの様に姿を変えて、アタシの顔が、鏡に映る。
……妥協扱いされても仕方ないくらい、酷い顔だ。
「この1ヶ月と少し。……信じられないくらい、幸せでした!」
でもこいつだって、人の事は言えない。
鏡に唇のマークがついてるだけの顔のくせに、その唇だけで色んな事を表したいあまり、本当に、変な顔だ。
「だから。ねえ、カンナ。ハリの事を、お願いします」
「……うん」
「ワタクシという穴を――まあ、完全に塞がれてもそれはそれで悲しいですが。ハリが辛い思いや怖い思いをしている時は、どうかワタクシにしたように、抱きしめてあげて下さい」
「うん」
「ワタクシが貴女を好きになれたように、きっとハリも、貴女を好きになれる筈ですから」
「それは……どうだろう」
自信が無い。なんたって、こっちはあの子にメルキューレモンの事で嫉妬されているような身なのだ。
だがメルキューレモンは、それならそれで、と言わんばかりに、そこに関しては笑うだけで。
「彼女に、色々な事を教えてあげて下さい」
「ん」
「お洒落をしたり、美味しい物を食べたり。……そんな体験を、させてあげて下さい」
「努力はするけど、それはリューカちゃん頼みになるかな」
「でもその努力は本当に、してくださいね? スカモン……いえ、コロモンもそれを、望んでいるでしょう?」
「……うん」
「それから、ワタクシは必ず戻ると、伝えて下さい」
「解った」
「あと戻るまでカガ ソーヤの悪しき企みからハリを守って下さい」
「それは無理」
「無理ですか」
「無理」
アタシやコイツとは別の意味で、カジカPは他人が止められる人間では無くて。
何と言っても、パートナーでさえ止められないような人種なのだから。
コイツも理解はしているのだろうが、それでもメルキューレモンは、思い切り唇をひん曲げている。
……やっぱりコイツは、こういう顔の方が、らしいというか、何というか。
「……不安なので、なるべく早く、帰ります」
「そうしな」
「そうします」
窓枠に、先の尖った靴のような形をした、メルキューレモンの足が掛けられる。
アタシは改めて、自分のパートナーを――コロちゃんを、抱きかかえた。
やっぱり、まだ起きてはくれないけれど、それでも一緒に、見送れるように。
「さようなら、カンナ。……我が主」
「いってらっしゃい、メルキューレモン。アタシの所有物。……ちゃんとアタシの手元に帰って来なよ?」
「……」
「いってきます」と。
「さようなら」を訂正して。
メルキューレモンは、背中から身を投げ出すようにして、研究所の窓から、落ちて行った。
「……」
近寄って、窓の外を見下ろす。
その姿はもう、どこにも無かった。
*
「ん……」
結局、その後何と無しに腰を下ろしたソファの上で、また眠ってしまっていたらしい。
朝日の眩しさが目に飛び込んできて、アタシは寝起きの頭でぼんやりと、昨日リューカちゃんが病院で口にしたこの世界の眩しさについて、考えたりもした。
復讐が終わって。
センキっちゃんと、結婚して、別れて。
……それから、鋼の闘士はアタシの元を去って。
もしかしたら、今日が世界の最後の日なのかもしれないにもかかわらず――1日は、普通に、始まろうとしていた。
エンドマークの、向こう側……か。
「おはよう、コロちゃん」
アタシの方からこの子に朝の挨拶をするのは、一体何年ぶりだろうか。
この子はいつもアタシよりも早く起きて、アタシよりも、後に寝ていた。
……だから、まだ、返事が返ってこなくても――たまにはいいかと、そう、思わざるを得なくて。
「……」
アタシは自分の机の前に移動して、パソコンを起動する。右側面のボタンを押して、1枚のディスクを取り出した。
……メルキューレモンの、イロニーの盾だ。
返すと、言ったのだけれど――まだ、手元に在る。
ハリちゃんに渡せと言われたのだ。
「無理だからね、アンタの代わりは」
これに話しかけても仕方が無いのは解っているが、それでも一応、言っておく。
最も、メルキューレモンは最初から、自分の代替品の役割なんてアタシにこれっぽっちも期待なんかしちゃいないだろうが。
自分の替えじゃなくて――だけど別の、同じくらい、大切なものを――望んでいるのだろう。
無茶言いやがって。
時間を置いて、冷静になったからだろうか。今更のような怒りの感情も少なからず湧いて来ている。……そういうところを、アイツは理不尽だと思っていたのかもしれないが。
と――
「カンナさん」
研究室の扉が、開いていた。
「……」
時間だと思って、観念するしかないだろう。
「マスターを……マスターのスピリットを、知りませんか?」
「……」
さて、どう、説明すればいいのだろう。
感情の乏しい筈の瞳を不安の色一色に染め上げた、この子に――
【ハロウ、人の子ら】
「!」
その瞬間、アタシも、ハリちゃんも、思考という思考が完全に吹っ飛んで、頭が真っ白になった。
だけどそれは、きっと、アタシ達だけが味わったものでは無かったに違いない。
窓という窓。
ガラスというガラス、その全てに――
――エンシェントワイズモンの顔が、浮かび上がっていたのだ。
「っ」
この研究所だけじゃない。
きっと、鏡として扱える物ほとんど全てが、今、その性質を帯びているのだろう。
【昨晩はよく眠れたかな?】
開いた窓の外にも、この古代の究極体の影があちこちに確認できる上――同じ『声』の筈なのに、まるで不協和音のように、耳障りにしわがれた老人の声にも似た機械の合成音が街全体を――ひょっとしたら、この世界全体を、包み込んでいて。
【眠れた者も、そうでない者も――今より等しく、嘆くが良い】
エンシェントワイズモンの眼が、歪んだ。
突然の事に戸惑うおおよそ全ての人々の事を嗤って――ではない。
【世界の終わりを、始めてやろう】
業火の向こうの蜃気楼のように、激情によって、歪んだのだ。
Episode ウンノ カンナ ‐ 7
雲野デジモン研究所に帰るなり、待ち構えていたモモちゃんに引っ叩かれた。
「お義姉さんの馬鹿ッ!」
今日だけでそろそろ一生分に達しそうな程重ねられた「馬鹿」以上に状況が呑み込めなくて、アタシはうっかり、もう少しでコロちゃんを落としそうになってしまったのだけれど――それだけは、どうにか、しないで済んだ。
一応ガーゼの張られたアタシの顔の右半分を見て気を使ったのか、ただ単に右利きだからそっちの方が殴り易かったのかは解らないけれど、モモちゃんの平手打ちの結果、失くした右耳以上にヒリヒリと痛む左の頬から意識をどうにか引き剥がして
「どうして、ここに?」
今聞く事でも無かったのかもしれないけれど……アタシはようやく、モモちゃんがアタシの研究所の玄関でアタシを待っていた理由について、尋ねる事ができた。
だけど案の定、モモちゃんはその質問に答える前に、今度は飛びつくようにしてコロちゃんを抱えるアタシに抱きついて――わんわんと、声を上げて、泣き始めた。
「モモちゃん……?」
「お義姉さんまで! 私を置いていくつもりだったんですか!?」
「……」
行方をくらましていた放火魔が今になって逮捕された。
……そんなニュースが、既に病院内でも認知できる程報道されていて。
その放火魔が逮捕された時に病院に運ばれた30代の女性に関してもしっかり実名で伝えられていて。
それで察せない程、モモちゃんだって、鈍い子じゃない。
察せない程鈍い子じゃ無い上に、こうやってアタシの研究所に上がって待ってたって事は――アタシの状態の詳細やら何やらを、この子に、教えた奴がいるに違いなくて。
「仇討ちなんて! そんな真似して! 兄が喜ぶとでも思ったんですか!?」
「……」
「喜ばないって、解ってて――兄が本当に喜ぶのはお義姉さんの幸せだって、解ってて! その上でこんな事して、そんな怪我したならっ! ……そんなのって、最低ですよ」
しゃくり声を上げながら、痛いくらいに、モモちゃんはアタシにしがみついている。
……クリバラは、高校生の時に両親を亡くしたと言っていた。
キョウダイ同然に育ったに違いないクリバラのパートナーは、暴走した究極体からクリバラを庇って死んでしまった。
そしてクリバラ自身も――
……それから、モモちゃんはやめろと言っても聞かずに、ずっと、アタシをお義姉さんと呼んでいて――家族みたいに、扱って。
アタシは、そんなのじゃ、無かったのに。
無かった、のに――
――それはバカンナさんが勝手に思ってるだけで、みんなみんな、バカンナさんの事大好きなのゲコよ?
タマちゃんの台詞が、かさぶたを剥がして失敗した痕のようにじくじくと心の中で傷み始める。
やっぱりあのカジカPのパートナーなだけあって――本当に、アタシに対して何を言えば一番『効き目』があるかを、瞬時に判断していたというか。
「……ごめんね、モモちゃん」
アタシはあの時と同じように、ただ、謝る事しか出来ない。
何に対しての「ごめん」なのかすら、候補が多すぎて、心に決める事すら出来ていないのに、だ。
「お義姉さんが悪い訳じゃ無いんだから謝らないでください!」
「……ごめん」
オタマモンより怒ってるのに――リューカちゃんみたいな、事を言う。
どちらにせよ、それは優しさから来る反応で――アタシはきっと、本当に、馬鹿みたいに幸せ者だったのに。
「……」
それから、しばらくお互いそのまんまの姿勢でその場に立ち尽くしていて――やがて、我に返ったかのように、目元をごしごしと擦りながら、モモちゃんがアタシから離れていった。
「……すみません、お義姉さん。怪我もしていて、お疲れなのに……」
「大した事無いよ。見てくれは派手だけど、命にかかわるのは1つも無いから。……この子が、守ってくれたから」
ぐい、と抱えたままコロちゃんを指し示す。
あれだけモモちゃんが泣きわめいていたにも関わらず、コロちゃんは、眠ったままだ。
「スカモン……いえ、今はコロモンですね。コロモンは、大丈夫なんですか?」
「一応はね。……ただ、メタルエテモンの時に受けたダメージに、進化コードを使った疲労が上乗せされてて――本当なら、デジタマになっても何も不思議じゃ無かったんだ」
それでもそうならなかったのは、ひとえにこの子の――言ってしまえば、気合だろう。
もしも自分がデジタマに戻れば――アタシが、今度こそ、どうなるか解ったもんじゃなかったから。
たった、それだけの理由に、違いなくて。
「軽いんだね、幼年期デジモンって」
思えば、こんなに長時間幼年期デジモンに触れている事なんて、今まで無かった。
アタシのパートナーは最初から成熟期のスカモンで
いくらそう強くは無い種族だとは言っても、それなりに大きくて、抱えれば、それなりに重たくて。
そんな事さえ、理解しないまま――アタシはアタシよりもずっと大人だったスカちゃんに、こんな歳になってまで、甘えていたのだ。
そんなのがデジモン研究者だなんて。なんて、馬鹿みたいな、話なのだろう。
「軽くなんか、無いですよ」
「……そうだね」
モモちゃんの、言う通りだ。
深く、息を吸う。
喉が、肺が、痛い。
熱気を吸い込みすぎたのだと、そう聞いた。
「モモちゃん」
「はい」
「コウキに――いや」
「メルキューレモンに、会いました」
……やっぱりなぁ。
アイツが自分の素性誤魔化したまま、アタシの事話せるワケ無いもんな。
「どこまで、聞いた?」
「全部、教えてもらいました」
「……」
「あのデジモンが、兄を殺して、今回カズサを危険な目に遭わせた人とデジモンの関係者な事も、お義姉さんの復讐の片棒担いでたって事も。土下座しながら、教えてくれました」
「アイツがねえ」
我ながらアホみたいに呑気な声が出た。
全然、そんなの、想像できなくて。
「私、今更そんな事知りたくなかったって――そう、言いました」
「そうかい」
「私ね? お義姉さん。兄さんが死んだって実感、未だに、無いんです。だってお義姉さん、見せてくれなかったでしょう? 兄さんの――」
よく、覚えていない。
「「アンタはこんなの、見ちゃダメだ」って。「アンタは」って。私、妹なのに。「こんなの」って。私の、兄なのに」
「そんな事、言ったんだね。アタシ」
まあ、だとしたら。その時の判断くらいは、アタシは、アタシを褒めてやってもいいのだろう。
結婚もして、子供もいて、人生の何もかもが輝いていたモモちゃんに――「あんなもの」、見せちゃダメに、決まってる。
「カズサやお義姉さんにもしもの事があったら、私、「そんなもの」を今度こそ見なきゃいけなかったんですよ?」
「……」
「だから――そこに関しては、あのデジモンに、それなりに酷い事を言ったと思います。……物事をしっかり見ている割に視野が狭くて後先をそんなに考えてない所、兄さんに似ていて、腹が立ちます」
「……」
「そのくせに……デジモンのくせに、お兄さんで……そんなの、怨めないじゃないですか……!」
唇を噛み締めながら言うモモちゃんに、アタシの方からも、何もかけられる言葉が見当たらなかった。
きっと、この子はこの子で、アタシと同じくらい。いや、それ以上に、色んな人に、クリバラの影を重ねていたのだろう。
それを、アタシとアイツが、爆発させてしまった。
……ああ、もう。
「モモちゃん」
「今日は、もう、帰ります。まだまだ言い足りないくらいですけど……これ以上、何を話したらいいか、私にも解らないんです」
「……そっか」
「だから、近いうちに――本当に悪いと思っているなら、今度はお義姉さんの方から、家に来て下さい」
「……」
「カズサの勉強を見てあげて下さい。お菓子も用意しておきます。それから、それから……」
「……外に、遊びに行こうか。お金はアタシが、出すからさ」
不意にモモちゃんは俯いて、もう一度、目元を拭って。
その後何も言わずにアタシの脇を通り過ぎて2階に上がって。「カズサ、帰るよ」と、声が聞こえて。
……しばらくすると、モモちゃんに先立ってカズサちゃんが、下りてきた。
「カンナおばちゃん!」
そしてアタシを視界に入れるなり、心配と笑顔が入り混じった表情を浮かべて、駆け寄って来て。
「……階段、走らない」
「ふーん! 今日はカンナおばちゃんの……じゃなかった、バカンナおばちゃんの言うコトなんか、きかないもん、だ!」
ぷい、と、全然怒ってない――というか、状況自体多分何も解って無いらしい事がまる解りな顔のまま、しかし顔は背けてくるカズサちゃん。
「……コウキおじちゃんに何か言われた?」
「ヒミツ!」
言いつつ、カズサちゃんは、興奮した様子ですぐにこちらを向いた。
「それよりもバカンナおばちゃん、きいてきいて! カズサね、大ぼうけんしたの!」
「……大冒険?」
「学校にワルいヤツがきてね? でも、そのあときょーしつのパッドが光ってね?? カズサたち、デジタルワールドに行ったの!」
「ああ……」
そういえば、ピノッキモンがゼペットと一緒に、手配したんだっけか。
お礼、言わなきゃな……。
「カズサね、ほんもののピノッキモン見たんだよ? 『デジモンアドベンチャー』のとちがってやさしいおじいちゃんだったよ」
「……そのピノッキモンおじいちゃん、『デジモンアドベンチャー』のピノッキモンの弟なんだよ」
「バカンナおばちゃん、つかれてるからって、テキトーなコト言っちゃダメだよ? そんなことばっかりしたから、コウキおじちゃんにおこられてるんでしょ?」
「……」
これは、本当なんだけどなぁ……。
「ほら、カズサ。……今日はもう帰りましょう。パパも心配してるから」
「えー。カズサ、まだバカンナおばちゃんにおはなししたいことたーっくさんあるのに」
「お義姉さん、近いうちに遊びに来てくれるって」
「え? ホント!?」
「……うん」
アタシは、頷いた。
「怪我がもうちょっと良くなって、コロちゃんも元気になったら……遊びに行く」
今度こそ、嘘じゃないように。
ぱあ、と、カズサちゃんの顔が輝いた。
「ホントにホント!? やくそく、してくれる?」
「うん」
「じゃあ、ゆびきり!」
そう言って、右手を出しかけて――でも、包帯を巻かれたアタシの右手と、腕の中にいるコロモンを見て
「……は、今日はしないでも、ゆるしてあげる!」
気を、使ってくれた。
こんな、子供でも……使えるのになぁ……。
「じゃあね、バカンナおばちゃん! ハリちゃんとコウキおじちゃんにも、またねって言っといてね」
「ハリちゃん……」
モモちゃんがここに居る間、ハリちゃんと、一緒に遊んでいたのだろうか。
2人は――友達に、なったのだろうか。
「じゃあ、さようなら。お義姉さん。……また、今度」
「うん。2人とも気を付けて。……また、ね」
「またね!」
カズサちゃんがモモちゃんに手を引かれて行って、バタン、と玄関が閉じるのを見守ってから――アタシも、自室じゃなくて、研究室に足を運んだ。
……窓が、開きっぱなしだ。
既に日が暮れているので研究室も暗くなっていて。アタシと、腕の中のコロちゃんしかいないこの場所は、いつも以上に、広かった。
「……」
電気を点けずに、ソファに腰かける。
ここは、どっちかって言うとデジモン達の席だ。
「よくここから、アタシの事、見てたよね」
返事は無い。コロちゃんは、しばらくは起きないだろうと、病院の先生にも言われた。
エテちゃんの時の喧騒が――今となっては、懐かしい。
この子からは、どんな風に、アタシが見えていたのだろう。
「……」
しなくちゃいけない事が、沢山ある。
リューカちゃんに聞いた事を、纏めておきたい。
進化コードの紛失に関する届け出を書かなきゃいけない。
ピノッキモンに、事の顛末とリューカちゃん達への協力の感謝を伝えなければいけない。
……っていうか、帰ってきた以上、メルキューレモンの所に顔、出さなきゃ、いけないような……。
でも――全部が全部、それをしてどうなるんだという思いも、少なからず、浮かんでいて。
「……疲れたよ、コロちゃん」
きしむ身体を、ソファに深く、深く預けていく。
この期に及んで。アタシはまだ、コロちゃんに――パートナーに、甘えていた。
「疲れた」
ホヅミへの復讐が終わって。
でもキョウヤマの事が、全然終わって無くて。
だけどこれ以上、出来ることも無くて、しようとすら、思えなくて。
周りの人とデジモンを散々に振り回して――その上で、アタシは
「もう……疲れた」
駄々を、こねて
瞼を、下ろした。
*
それから、どれくらい時間が経ったのかは解らないけれど
ふと、瞼越しに光が当たった気がして――目を、開いた。
「……?」
見れば、研究室の扉が開いていて。
……そしてその手前に、寝起きの視界にぼうっと光る、影があって。
「誰……?」
人の形をしている。
背丈は、ハリちゃんくらいだ。
ただ、ハリちゃんよりも、なんというか――『赤い』。
それこそ、まるで、炎のような――
「……」
目を凝らす。
……それは、デジモンだった。
燃え盛る炎をそのまま移したようなツンツンの髪。姿自体は半裸の少年のようだが、浅黒い肌に走った模様や先の平たい短い角、髪と同じ色合いの尻尾、尖った耳や歯、足の爪が、少なくとも人間で無い事を教えてくれている。
だが、それ以上に目を引いたのは、そのデジモンの衣装――ズボンの、ベルトの部分で。
火と、書かれている。
それは――つまり――
「炎の、闘士……?」
アグニモンじゃ無い。
ヴリトラモンでも無い。
アルダモンでも、もちろん、無い。
だけど、その意匠は、そういうものだ。
だとすれば、考えられる可能性は1つ。
これは、ハリちゃんが光のスピリットで現状進化できるデジモン――ストラビモンのような、スピリットが、力を失った時の姿だ。
「……」
身構える気力も出なかった。
アタシは、ホヅミの倒れた後を、ちゃんと見ていない。
少なくとも、アタシ自身は、炎のスピリットを回収していない。
だから、これがアタシを再度燃やしに来たホヅミという可能性もあったけれど――それでも、もう、胸の内に、何も湧いてこなかった。
燃やしに来たのだとしても、アタシの『中身』は、もう――
「カンナ」
――空っぽになったと思った矢先の『心』が、大きく揺さぶられたのが解った。
「え?」
もう一度、件のデジモンの方を見やる。
……小さな炎の闘士は、にっと口元を吊り上げていた。
人懐っこく、悪戯っぽく。だけどふにゃりとした印象をこちらに与える、頼りがいの無い、肩の力の抜ける、腹立つくらい――大好きだった、笑顔。
クリバラの、笑顔だった。
「久しぶり」
そしてアタシは、3年ぶりにクリバラの声を聞いた。
「――」
言葉が出なかった。
夢だと思った。
だけど、夢に出てくるクリバラなんて、それこそ『あの日』の――
「時間があんまり無いから先にカンナの疑問を解消しておこうか。今の僕は炎の闘士・フレイモン。原理はあれだね。コウキ君……いや、メルキューレモンって言うべきか。っていうか、彼デジモンだったんだね。まあそれは置いといて。……メルキューレモンと、一緒だよ。僕は炎の闘士がロードしていたデータを依代にして、スピリットエヴォリューションしてる。アグニモンじゃないのは、微妙に属性が噛み合ってないからだってさ」
「でも、アンタは――」
「そして変に希望を持たせないためにこれも言っておくけど……うん。僕は、死んでる。3年前に。だけどさ、カンナ。デジモンは、感情すらもデータだっていうのは知ってるよね? その原理で人間の感情を、というか『心』を、ある種ロードと同じ行為でデジモンの中に保存しておく事が出来るとは思わない? いや、出来たんだよ。それがスピリットの特異性によるものなのか、やろうと思えばどのデジモンでもできるのか、その辺はまあ、後でカンナが調べておいてよ。とりあえず炎の闘士は出来た。してたんだ。炎の闘士は――僕を、『記録』してた」
言葉が、出てこない。
理解が追い付かないとは、この事を言うんだろう。
ただ、こうやって淡々と結果だけを述べるやり方は――ああ、やっぱり、クリバラそのもので。
「きっと、『鎧』でしか無くても……罪悪感が、あったんだと思う。炎の闘士は本来、武人的で、恐怖や怒りをも正義を貫く原動力に変える善良なデジモンだ。せめて罪として残しておこうと、していたんだろうね。その中で僕だけがこうやって彼の罪滅ぼしに付き合えるっていうのは――本当に、幸運なんだろうけど、さ」
「でも、一体どうやって……」
「炎のスピリットを回収したメルキューレモンがやり方を僕に……炎の闘士に? どっちにだろう。まあいいや。とにかく、教えてくれたんだ。それから、君のしてきた事と、現状も。……今朝の戦いについては、この中に、残ってる」
「……」
「僕はねえ、カンナ。僕の仇討ちをしてもらうためにあの手紙を残したんじゃ、無いんだよ? 万が一にもキョウヤマ博士のやろうとしてる事に君を加担させないように、それから、危険に巻き込まれないように……あと、デジタルワールドにはまだあんな、『スピリット』なんていう不思議なアイテムがあるって事を教えてあげたいと思って――そう思って、書いておいたのに。なんで自分から危険に飛び込んで行っちゃったのさ」
言いつつ――クリバラの顔は、これっぽっちも怒ってなんかいない。
「そもそも――アンタが、あんな死に方するからだろう!?」
「それに関してはホントごめん」
「そんな軽々しい謝り方しないでよ! こっちは」
「でも、僕――少しだけ、嬉しかった」
そしてアタシは、クリバラの笑顔に何も言えなくなる。
「君が、そんな風に。そんなになるまで、僕を想ってくれて――カンナの心を独り占めに出来た事を、男として、誇らしく思ってしまったんだ」
「バカ!」
気が付けば、アタシはコロちゃんを抱えたまま、指の無い右腕でクリバラに――
「センキっちゃんの、バカッ!」
――……センキっっちゃんに、抱き着いていて。
ああ、
ああ……言っちゃった。
言って、しまった。
「センキっちゃん、センキっちゃん……!」
「……」
「会いたかったよぉ、センキっちゃん……っ!!」
「うん。僕も。……会いたかった、カンナ」
「結婚するって、言ったじゃないか! アタシのヒモになるって言ってたじゃないか! 家事も全部してくれるって言ってたじゃないかっ!! バカバカバカ! センキっちゃんのバカッ! 嘘吐き! アタシ、アタシ……」
「ああ……カンナだ。本物のカンナだ。よく、頑張ったね。寂しい思い、させちゃったね。だけど僕だって楽しみにしてたんだよ? 君のウェディングドレス姿。きっとすごく綺麗に違いなかったのに」
「バカ! 結婚式だってアタシの金でするつもりだったくせに!」
「まあ、君のヒモだからね。……カンナ。痩せたね。すごく痩せた」
「誰のせいだと思ってるんだバカ!」
もう、前が見えない。
きっと酷い顔になっている。
目から噴き出す水はフレイモンという火を消してしまうんじゃないかと怖くなるくらい、止まらなくて――そうでなくても、今この瞬間のセンキっちゃんは、蝋燭の火よりも簡単に掻き消えてしまいそうなのに。
時間が、無いと。最初に、言っていたのだから。
「カンナ」
アタシは今の顔なんて見せたくなかったのに、背丈が子供であるにもかかわらずデジモンらしくそれなりにあるらしい腕力で、センキっちゃんはやや強引に、アタシの身体を、自分から離した。
「……?」
「ウェディングドレスは、ダメだけどさ。……これ」
そう言ってセンキっちゃんが不意に取り出したのは――指輪だった。
鈍い緑色に輝く、中央に当たる部分に小さな透明の石が嵌め込まれた、シンプルだけど、綺麗な指輪だった。
多分、作ったに違いない奴のセンスからすれば――信じられないくらいに良く出来た、指輪だった。
「書類も何も無いし、そもそも僕は死んでて急遽用意できた姿もデジモンだから、本当に、口約束でしか出来ないんだけどさ」
センキっちゃんはアタシからコロちゃんを優しく取り上げて、空になった左手を指輪を摘まんだ右手ですっと引き寄せて――片手で器用に、素早く、薬指に例の指輪を嵌めた。
「結婚しよう、カンナ」
そして、そう、のたまった。
のたまいやがった。
「……また、人のデジモンから、盗ったね」
「借りたって言ってよ。少しでも結婚式っぽくしたかったんだ。『サムシングフォー』は知ってる? 花嫁は、古い物と新しい物と借りた物と青い物を身に付けとくと幸せになれるっていうアレ」
「知ってる。……じゃあ、他は?」
「古いものはとりあえず僕――フレイモン、いや、炎のスピリットで我慢してよ。古さだけなら結構なものだし。新しい物は……そうだな……。うん。じゃあさっき教えた僕の今の状態に関する知識って事で。青は、ほら、今カンナ顔青いから、それで」
「そんな最低の『サムシングブルー』あってたまるか!」
アタシは
もう、そんなアホみたいな『サムシングフォー』なんてどうでも良かったアタシは
本当なら、婚約から1年後に重ねる筈だった唇を――
――誓いのキスを、センキっちゃんの唇に、押し付けた。
「……」
「……」
一瞬の出来事で。
それは結局、永遠なんかじゃなくて。
……アタシ達は、それから、どちらとも無く、お互いから離れた。
「……じゃあね、カンナ。僕はもう、行かなくちゃ」
センキっちゃんは、静かにコロちゃんをアタシへと返して、こちらに背を向けようとした。
「どこに行く気だい?」
「カンナの目の前で消えたくないんだ」
「ううん。ここに居てよ。……今度は――今度こそ、ちゃんと、見送りたい」
「そうか。……それもそうだ」
そっと微笑みながら、センキっちゃんが目を閉じる。
身体が、透け始めた。
「最期に、一瞬とはいえ君の伴侶になった身として。……お願いだ」
「何だい」
「どんな形でもいいから、幸せになってくれよ。カンナ」
「……」
「僕は君に出会えて、幸せだった」
素直に、わかったと言うべきか。
どの口で言うかと、怒るべきか。
迷っている間にフレイモンの身体は霧散して、でもほんの一瞬だけ、花弁のように、辺り一面に舞い散った。
「……」
遅れて、こつ、と、地面に落ちた炎のヒューマンスピリットがそんな音を響かせる。
「バカだねえ」
左手で、それを拾い上げる。
窓の外の仄かな月明りに触れて、左手の薬指にあるものがきらりと光ったように見えた。
そこから目を動かして、炎のヒューマンスピリットを見つめる。
憎しみの対象だった筈のそれは――他のスピリット同様の研究対象に、いつの間にかすり替わっていて。
センキっちゃんの残したもの。
センキっちゃんの遺したもの。
私はようやく、思い出した。
私はようやく、思い知った。
センキっちゃんと出会う前も、そうだった。
センキっちゃんを失った後も、そうだった。
でも――センキっちゃんと一緒に過ごした、あの頃だって、本当に
「私も、幸せだったんだよ?」
「……」
「……」
少しだけ開いていた病室の扉が、ゆっくりと、音も無く、気まずそうに閉まった。
そう、ここは病院で
リューカちゃんの、病室の前で。
「……」
スマホだけは一応カンナ先生側に向けたまま、俺は病室の扉に手をかけて、開く。
案の定その先にいたヴァンデモンの肩が、ピクリと跳ねた。
「あ」
オタマモンも、色々と我に返ったらしい。短い声にスマホを俺の方に向き直らせてみると、オタマジャクシのドット絵がなんとなく申し訳なさそうに見えた。
そしてカンナ先生に至ってはそもそもの罪悪感と激しい泣き顔の事が頭を過ったのか、包帯でぐるぐる巻き状態の右手で覆いながら、ヴァンデモンから顔を逸らしていて。
「ソーヤさん」
そんな中、俺の服の袖を、ヴァンデモンは軽く引っ張った。
「入っていいよ? お見舞い、嬉しい」
にこりと微笑みながらの台詞に、泣きわめいていた時のようなたどたどしさは見られない。
……いや、それにしたって雷の闘士と戦ってた時みたいな饒舌さは感じられないんだけれども。ピコデビモンの時くらいの感じ――だろうか。
時間帯から来る眠気のせいか、若干声が小さいが、まあその程度だ。
「ごめん、騒いじゃって」
「ううん。大丈夫。……オタマモンは、怒っても優しいね」
「ゲコ……」
普段余計に喋る方じゃないので、ちょっと恥ずかしくなってきたのかもしれない。
ドット絵でも十分にマジェスティックな照れ顔が、スマホの中に浮かんでいた。
と、ヴァンデモンは病室の外に顔を出し、廊下に俺達以外の影が無い事を確認してから――すっと部屋の外に歩み出て、カンナ先生の前に立った。
「カンナ博士」
そしてそのまま、ヴァンデモンの顔をまともに見られずにいるカンナ先生を、ぎゅっと抱きしめた。
「!」
「カンナ博士、泣いてるから。いつも、リューカが怖い時こうしてくれるでしょ? そのお返し」
オタマモンにああ言ったって事は、部屋の中で、カンナ先生を叱る台詞は一言一句漏らさずに聞いていたに違いない。
でも、やっぱり、無理だったのだろう。
「ごめんね、オタマモン。僕、カンナ博士に怒ったり……できないや」
困ったようにはにかむヴァンデモンの向こうで、カンナ先生の肩が震えている。
「ヴァンちゃんが一番怒るべきでしょ……?」
「そう言われても……だってリューカも、全然怒ってないんだもん。それに博士、たくさん怪我してる。……そっちの方が、悲しいよ」
その台詞に何ら嘘が無い事の証拠のように、微笑んでいた筈のヴァンデモンの表情が悲しげなものに変わる。
きっと、リューカちゃんも本当に、全く同じ風に考えているんだろう。
前々からヴァンデモン――ピコデビモンは、パートナーの意思を完璧なまでに汲みすぎている気はしていたけれど、今回の事で、ハッキリした。
ヴァンデモンはきっと、自分の構成データに『リューカちゃん』そのものを含んでいるのだ。
どんな経緯でそうなのかまでは判らないけれど――あの時リューカちゃんの見せた躊躇の無さからして、なんとなく、察せないでもない。
……勝手に想像すら、するべきじゃあ無いんだろうけどさ。
「ごめん、ごめんね、ヴァンちゃん……!」
一方で、カンナ先生。
ここに来て優しくされるのは、正直下手に怒りを剥き出しにされるよりも堪えたのだろう。先ほど以上に子供返りしたかのように、いよいよ表情がぐちゃぐちゃになってきた。
涙だけじゃなくて鼻水まで溢れていて、思いっきりヴァンデモンのマントに付いていそうなものだけれど――ヴァンデモン自身は、全く気にするそぶりを見せない。
こうやって見ていると、さっきのエンシェントワイズモンの「闇の子」発言もよくわかんなくなってくるような。
いや、そもそもいつもこんなんだった気もするけれども。リューカちゃんの、ヴァンデモン。
「泣かないで、博士。それよりも、早くリューカに会ってあげてよ!」
「リューカちゃんは――」
「今はまた寝ちゃったけど、さっきまで起きてたんだよ。入って。すぐに起こすから」
「寝てなくていいのゲコか?」
「うん。リューカもみんなに会えた方が嬉しいよ?」
一転、成長期の時と同様ニッと人懐っこく笑ったかと思うと、カンナ先生から離れて俺達を病室に招き入れつつ、リューカちゃんの横たわるベッドへと駆け寄るヴァンデモン。
「リューカ、リューカ。起きて起きて」
そして彼女に近寄るなり、その肩を軽く揺すった。
やがて、ううん、と声がして――
「ヴァンデモン……どうしたの……?」
リューカちゃんが、目を覚ました。
「リューカちゃん!」
思わず、俺まで速足で駆け寄ってしまう。
眠たそうなことを除けば声もはっきりとしていて――だからこそ、自分の眼で確認せずにはいられなかった。
リューカちゃんは、予期していなかったのか、俺の存在に驚きの表情を浮かべているけれど――警察署で聞いた通り、確かに、どこにも問題は無さそうに見えて。
「よ、良かった……無事で、良かった……!」
流石に、へたり込みはしなかったけれど――それでも一気に、全身の力が抜けた。
ベッドの柵に寄り掛かった自分の体重が、酷く重たい。
「カガ、さん……!」
「もう、どうしてそう、ソーヤはリューカさんの前だとふにゃふにゃになっちゃうゲコか。もっとシャキッとするゲコ!」
「い、いや、だって……と、ともかく無事でよかった。あれ? こういう時ってもしかして看護師さん呼ぶべき?」
「え、えっと……」
「もう少し、後でもいいかな? ……リューカ、先にソーヤさん達とお話したがってる」
返答に困っているリューカちゃんに代わって答えるヴァンデモン。
ってか、よく考えたら寝起きなのに色々話しかけて申し訳ない。
じゃあ逆にこういう時って、どういう風に対応するのが正解なんだと考え始めると、今度は何も言葉が出てこなくなって――ただ、ひとつ、妙な点に、気が付いた。
リューカちゃんは、なんとなく目を閉じがちにしている。
「えっと……リューカちゃん?」
「?」
「目……どうかした?」
ああ、と、右手で軽く両目を覆うリューカちゃん。その手にしたって、メルキューレモンやカンナ先生のように包帯ぐるぐるって訳では無いが、火傷の治療のためか、ガーゼが貼ってある。
「少し……眩しいんです。ずっと、暗い所にいたので……」
暗い、所。
あの『深淵』が再び脳裏に浮かんで、俺と俺のミューズは顔を見合わせる。
と、そんな俺達を気遣ってか、慌てたように瞼から離した手をリューカちゃんは軽く振ってみせた。
「あの、それ以外は何ともないんです。この『眩しさ』にしたって、もうしばらくすれば――治ると、思うんですけど」
明るいんですね、世界って。
そう付け加えるリューカちゃんの横顔は、なんだか油絵のようにどこか輪郭のぼやけた印象があって――うっかり、マジェスティックとはまた違った言葉が喉から飛び出そうになって。
それこそ、そんな場合じゃないって言うのに。
「ああ、でも……カンナ博士の髪。眩しいけど、すごく嬉しいです」
「……」
「博士。もしご迷惑でなければ、こっちに来てください。お話したい事が――たくさん、あるんです」
「アタシは……」
……ふむ。
こういう時、逆に便利かもしれない。
「バカンナだってさ」
組んだ両手を頭の後ろに回して、なるべく軽い口調でリューカちゃんに話しかける。
案の定、リューカちゃんは首を傾げた。
「え?」
「お兄さんがさ、「1人で突っ走った罰として、今日1日カンナの事をバカンナと呼ぶように」って」
「言う事聞かないと何されちゃうか解んないゲコ。ヴァンデモンもリューカさんも、大人しく従った方が身のためゲコよ?」
「え? え?」
リューカちゃんとヴァンデモンが、顔を見合わせる。
仮にもカンナ先生をそんな風に呼べないという良識と、でもあのメルキューレモンがこんな提案してくるって事は何か考えがあっての事なんじゃという困惑で板挟みになっている様子のリューカちゃんと、彼女の判断を見守るヴァンデモン。
リューカちゃんはしばらく、ヴァンデモンを見つつも目を回していたけれど――やがて、決心したかのように小さく頷いて
「バ――」
言いかけて、顔が、真っ赤になって
「――は、博士……」
声量が、一気に、しぼんだ。
「……リューカちゃん。遠慮しなくて、いいんだよ?」
その様子が、あんまりにも微笑ましかったからだろうか。
泣いては黙るか謝るかばかりだったカンナ先生が、ようやく、普段に近い形で、ひっそりとではあるけれどリューカちゃんへと自分から声をかけた。
だけどリューカちゃんは、ふるふると首を横に振って。
「む、無理です私、やっぱり……博士の事、そんな……」
「アタシは、そんな風に言われても――もっと酷い事言われても、逆にもう二度と口聞いてもらえなくても仕方ないような判断をしたんだよ?」
「そんな事、無いです。だって博士……悪くなんか、無いじゃないですか。本当に悪いのは、博士に酷い事をしてきた人達でしょう?」
「それと、これとは……」
しかし続きを言い出せないカンナ先生に、リューカちゃんは眉をハの字に傾けて微笑みながら
「じゃあ、単純に。博士は私の憧れの人なので、その……バ……カ、なんて……うう、やっぱり、言えません」
そう言って、はにかんだ。
……それでも、いつも通りの「カンナ博士」ではなく「博士」だけで呼んでいるあたり、メルキューレモンにも一応気を使っているのだろう。
しかし、憧れの人、か。
ん? っていうか、そういえば俺、リューカちゃんがヴァンデモンと雲野デジモン研究所を出る前に、なんか、とんでもない事、言われたような――
「博士」
と、今度はヴァンデモンがカンナ先生に声をかけた。
「なんだい」
「それでも、博士がリューカに怒って欲しいって言うなら……ちょっと、待って」
「?」
首を傾げるカンナ先生の傍ら、ヴァンデモンが、リューカちゃんに耳打ちする。
その内容――恐らく、ヴァンデモンからの提案にも、リューカちゃんは困ったような顔をしたのだけれど、ちょっとの間悩んだ後、パートナーに向かって、小さく了承の頷きを見せた。
「えっと、博士」
「?」
「私、今から……雷の闘士との戦いの後、何があったのかを話そうと思います」
「!」
「でも……博士には、その話を、カガさんより後に聞いてもらいます」
「え?」
「……?」
「えっと、その、今回の事は、博士からしても、多分、すごく興味深い話だと思うんですけれど……でも、博士は、それを1番最初には、聞けません。……これが、私に出来る、精一杯の、その……博士の単独行動に対するい、いわゆる嫌がらせ、という事になるんでしょうか……?」
またしても、リューカちゃんの頬がほんのりと色づいてきた。
いやしかし、それ、いいのか。
あの後リューカちゃんの身に何があったかなんて、そんな事、普通に心配の意味で知りたいは知りたいけれど――嫌がらせとかに使っちゃって、いいのだろうか?
「……正直――」
ただ、カンナ先生はその、リューカちゃんの「精一杯」を汲んだのだろう。
「――バカンナよりもキツいね、それは」
ようやく、ほんの少しではあるものの口角を上げて、カンナ先生はそう呟いた。
「ご、ごめんんさい……」
「あ、いや。謝らないで。……じゃあ、アタシは待ち合い室の方にいるよ。話しても良くなったら――また、声かけてくれると、嬉しいな」
「嫌がらせ」とか言いつつ、こくこくと何度も頷くリューカちゃん。
そんな彼女に温かい視線を送った後、カンナ先生はくるりとこちらに背を向けて、病室を後にする。
……残されて、リューカちゃんの話を真っ先に聞く事になった俺は、備え付けの丸椅子を出して腰かけ、膝の上にオタマモンをリアライズさせた。
「すみません、カガさん。私の勝手に巻き込んでしまって……」
「リューカさんが気にする事じゃ無いゲコ。っていうか、あの後何があったのかはゲコもソーヤもずっと気になってたゲコ。……話してもらえるゲコか?」
リューカちゃんは、頷いた。
「あの後――私が、『深淵』に引き込まれた、後ですよね」
『深淵』。
エンシェントワイズモンの『穿った』、あの空間の裂け目。
「気が付いたら――そうですね。アレがきっと、『暗黒の海』だったのだと思います」
リューカちゃんの見たという『その先』を示す単語は、俺にも、聞き覚えがあるもので。
「『暗黒の海』」
高石先生の、2002年の冒険を描いた方の『デジモンアドベンチャー』に載っていた――
「私、そこでデーモンさんに会いました」
――幾度となく『光』を呑み込もうとして、『魔王』すら閉じ込めた異界の名だ。
「デーモンさん……」
デジモンとしての名前以上に、それだけで『悪魔』の意味があるその単語に、一瞬、何もかもが遠くなって。
でも、次の瞬間には、遠ざかった筈の全てが、戻って来て。
「デーモンさん!?」
目ん玉飛び出るかと思った。
「デーモンさんって……『あの』デーモンか!?」
『リアルワールドに侵攻したデジモン』として人々の口に上る存在は3体。
1体は、もはや言うまでも無く、1999年に『お台場霧事件』を引き起こし、2002年の大晦日に世界を闇で覆ったあのヴァンデモン。
2体目は、2000年と2003年にインターネット回線を通じて世界を混乱の渦に叩き込んだ悪魔のようなデジモン――ディアボロモン及びその近縁種。
そしてもう1体も、東京。
闇のデジモンを強化する『暗黒の種』なる物質を求めてこちらにやって来た『魔王』――デーモンだ。
当時の選ばれし子供達でも件の『暗黒の海』に封印するのがやっとだったと描写されており、ヴァンデモンが知性を持って進化した姿であるベリアルヴァンデモンよりも強力なデジモンだったんじゃないかと言う人達もけして少なくない。
ただし、その時の個体以外のデーモンが確認されていない以上、研究のしようも無く全てが謎に包まれているデジモン――というのが、一般的な認識だ。
それと、会ったって?
リューカちゃんが?
……いや、ホントに『暗黒の海』行ったんならそりゃ会ってもおかしくはないだろうけど。
っていうか、『暗黒の海』行ったからデーモンが居たのか?
「きっと、カガさんが今想像してる個体そのものだと思います」
「えっと、えっと……あの、もちろん、疑うつもりは無いんだけど――」
「ふふ。突拍子も無いのは、私自身、解っていますよ」
そう、何故か微笑みながらリューカちゃんは続けた。
「私だって、最初は、何が何だか解らなくて。……デーモンさんに助けられたって言ったら、それでもカガさん、信じてくれますか?」
「……」
デーモンと、助ける。
2つの言葉は一向に噛み合わなくて、俺とリューカちゃんと、お互いのパートナーデジモン以外はほとんど白一色のこの空間さえも色とりどりに明滅し始めた錯覚を覚える程度には、頭がこんがらがっていて
「……とりあえず、全体的に先に聞いちゃってもいい?」
俺は、考える事を先延ばしにする事にした。
そんな俺に気を悪くした風も無く、しかし困惑自体は彼女もずっと抱えているのが明らかな困り顔を見せながら、改めて、リューカちゃんは口を開く。
「解りました。じゃあ、順を追って。……私が目を覚ました時、『暗黒の海』の住人が――えっと、小説にも載ってたんでしたっけ?」
あー。高石先生のも、あの『海』に触れたところに関しては他と毛色が違うくて微妙にマイナーなんだよなぁ……。
えっと……
「最初はハンギョモンの姿で……でも、実態は――小説内だと、確かアメリカの作家が創ったっていう神話になぞらえて、『深き者ども』っつってたと思う」
黒くて人型で、でも人と一瞬でも重ねる事があまりにも悍ましく感じる『何か』。冒涜的、とその一言を語るためにあの章の描写は高石先生にしては酷く言葉が重ねられ過ぎていて――かく言う俺も、目を通しているだけで背筋が寒くなるあの数ページに関しては、軽く流すか時には飛ばす事も少なくは無い。
この口ぶりだと、リューカちゃんは――
「その、『深き者ども』だったんだと思います。……彼らは」
――その実物にも、会ったのか。
「……大丈夫だった?」
『デジモンアドベンチャー』に書かれていた事を思い出すに、そう聞く事すら憚られるのだけれど――聞かないのは聞かないので、それもなんだかな気がして。
やはりそこに関してはリューカちゃんにとってもあまり気分のいい光景では無かったのだろう。眉をひそめ、しばらく答えに悩むように押し黙ってから
「危害を、加えるつもりは……彼らからしてみれば、無かったんだと、思います」
と、少しだけたどたどしく、そう言った。
「……」
「ああ、でも、少し触られた程度で……それ以上は、何も。……まあ、正確には、される前に――『彼ら』と私を隔てるみたいに、炎が噴き出て……」
「デーモン?」
確か、必殺技がそんなだったような。
案の定、リューカちゃんは頷いた。
「デーモンさんが、『深き者ども』を追い払って……私が『暗黒の海』に連れてこられた理由と、そこからの帰り方を、教えてくれたんです」
「デーモンが?」
「「貴様は呼び水となる事が出来る」と。……そう、私に言っていました」
「……」
最近図書館で読み漁っているウイルス種に関する本の1つで見たような気がする。
闇の属性を持つデジモン――その中でも特に強力な個体は、その大抵が攻撃的な性格であるにもかかわらず、同種・同族に対しては寛容な態度を見せる傾向にあると。
『魔王』として。『王』として振る舞おうとするが故に、と。
……『デジモンアドベンチャー』を見る限り、例のヴァンデモンに関してはそれ当て嵌まら無さそうだなとか思ったけど、それは置いといて。
でも、そんな事を言いだしたら――
「ゲコ。ソーヤ。デーモンばっかり気にしてるけど、もっと気になるところあるゲコよ。リューカさん。その……『暗黒の海』に連れていかれた理由って言うのは、何ゲコか?」
「『暗黒の海』――この場合は、『深淵』って呼ぶべきでしょうか。……『深淵』は、私を自分の一部だと、勘違いしたみたいなんです」
「ゲコ……? リューカさんが、『深淵』の、一部……?」
――リューカちゃんが、闇の軍勢の眷属って事になっちゃうじゃないか。
「正確には、デジタルワールドの『光』になれる人間がいるように、『闇』の役割を担う事が出来る人間もいて――私は、そういうもの、らしいです」
闇の子を、看られる、人間。
……『光』の紋章を持った選ばれし子供のパートナーは、聖属性である天使型デジモンに進化している。
じゃあ、もしも仮に『闇』の紋章なんてものがあったとしたら、そのパートナーが闇属性のデジモンに進化したって、何もおかしくは無い訳で。
「私のヴァンデモンは、もし本当にそれを望むのであれば、『失われた魔王の座』を埋める事が出来る存在だと。……そう、言われました」
俺とオタマモンは思わず同時に顔を上げて、ベッド脇に立つリューカちゃんのパートナー――ヴァンデモンの方を見やる。
ヴァンデモンは
「zz……」
立ったまま、寝ていた。
「……」
「……」
うん。まあ、今日1日かなり無理したし、そもそも起きてる時間帯じゃないもんね。
「……『失われた魔王の座』って?」
気を取り直して、リューカちゃんの方へと向き直る。
彼女は小さく首を横に振った。
「そこまでは。ただ……」
「ただ?」
「デジタルワールドにおける『光』と『闇』のバランスは、古代十闘士の世代の時点で大きく狂ってしまったと。……私のヴァンデモンは、あくまでデジタルワールドの安定を望むホメオスタシスが、そのバランスを元に戻すために、この世界に、送り出した個体なのだと。……それだけに、もう一度そのバランスを崩して――『闇』に傾ける『鍵』にもなれるのだと……そんな風に、教えてもらいました」
改めて、俺は眠っているヴァンデモンの方を見やった。
リューカちゃんが戻って来て安心したからか、カンナ先生のコロモン同様、人型の完全体にもかかわらず健やかそのものの寝顔を見せているヴァンデモン。
うーん。
「そんな風には見えない、って言ったら、怒る? リューカちゃん」
リューカちゃんは、むしろ嬉しそうに微笑んだ。
あるいは、少しだけ、ほっとしたようにというか。
それだけで――そんな話なんて聞きたくなかったって思いが伝わってくる。
「この辺に関しては、きっと、博士やコウキさんの領分だと思います。私自身、理解が追い付かなくて……」
「大丈夫ゲコ。ゲコもソーヤも、多分、リューカさん以上に解って無いゲコ」
「うん」
「時間が時間なら、ヴァンデモンに聞くのもありかもゲコけど……この寝顔は、闇の子云々を抜きにしても邪魔できないゲコ。起こすのが憚られるゲコ」
「……ありがとうございます、オタマモンさん」
「ゲコ。……で、その……『暗黒の海』から帰ってくる方法っていうのは、何だったのゲコか?」
オタマモンが訪ねるなり、リューカちゃんは身体を捻って俺達に背を向けると、ごそごそと枕の下に手をつっこんで……そこから、スマホを取り出した。
「あれ? 警察に回収されたんじゃなかったの?」
あの時はそれどころじゃなかったし、俺に伝えられる事でも無いので正直気にも留めていなかったけれど、雷の闘士に潰されたらしいリューカちゃんのスマホ型デジヴァイスは、確かに今この瞬間、彼女の手元に在って。
「よく、見てもらっても良いですか?」
「? ……!?」
差し出されたそれを見て――心臓が、ドクリと跳ねた。
踏み潰された衝撃で全体に走ったヒビを縫うようにして走る黒く透明な液状の何か――否、『深淵』そのものが、波打つように、静かに脈を打っていた。
「これ……」
「ちょっと、見せてもらうゲコ」
言うなり、俺のミューズが突如としてラーナモンに進化する。
驚く俺の傍ら、ラーナモンはリューカちゃんのスマホを真剣な眼差しでじっと見下ろして
「解ってたゲコけど……やっぱり、ただの水じゃないのゲコね」
若干声を震わせながらそう言って、すぐに、オタマモンへと退化した。
俺のミューズというよりこの一瞬確かに『水の闘士』だった彼女がそう言ったという事は、よっぽどヤバいものに違いなくて。
「私を連れて行った時に、一緒に引き込んだみたいです。……スマホとしては、全然動いてくれないんですけど、デジヴァイスとしては機能してるみたいで……。デジヴァイスの持つデジタルゲートに干渉する力に脱出を願って、まあ、どうにか」
そこからしばらく間をおいて、その沈黙を挟んだ後に「だけど」とリューカちゃんは続ける。
「出る事が出来た以上――『暗黒の海』を『開く』力も、備わってしまったんだと思います。付け加えられたというか……」
だからこその『呼び水』
エンシェントワイズモン曰く、貴重な存在。
『深淵』にも『闇』にも、通じる――人間。
「……カガさん」
ふと、俺の名前が呼ばれた。
「何?」
「わがままを……言っても、いいですか?」
「わがまま?」
こくり、とリューカちゃんが頷く。
なんとなく見覚えのある怯えが彼女のうっすらと開いた瞳に映ったような気がして、俺は慌てて「いいよ」とリューカちゃんにその『わがまま』とやらを促した。
「私……もし、自分がそういうものなら――帰らない方が、良いと、思ったんです」
「!」
「でも……私、この子の……あんなに泣きそうな顔をしていたヴァンデモンの傍に、戻りたくて――それから」
瞼が、完全に開かれる。
もう次の瞬間には、眩しさに耐えきらなかったかのように閉じられてしまったけれど、だけど、その一瞬。
その一瞬、確かに――リューカちゃんは、しっかりと、俺の眼を見た。
思えば彼女からそうされたのは、初めてだったんじゃないかと思うくらい突然の出来事で――同時に綺麗な瞳だと、思い知らされて。
「カガさんとオタマモンさんに、もう一度、お礼が言いたかったんです」
ありがとうございました、と。
呆気に取られる俺が見守る中、リューカちゃんは、それこそ泣きそうな程に、顔を歪めた。
「こんな私を助けてくれたカガさんとオタマモンさんに、せめてもう一度だけでもお礼を言いたくて、言いたくて――私……迷惑なのに。ごめんなさい。ごめんなさい、カガさん。オタマモンさん。でも、本当に、あの時、嬉しくて――私――」
「そんなのっ、わがままなんかじゃないっ!!」
気が付けば俺は、ここが病院なのもまた忘れて、自分の声を張り上げていた。
リューカちゃんの肩はびくりと跳ねたし、隣から「ふあっ!?」って睡眠を中断されたみたいな声聞こえた気がしたけど――こらえきれなくて、続けるしか無くて
「わがままっていうのは……ああっ、もう! 思いつかねえ! こんな時に! っていうか今この状況でリューカちゃんが何言ったってわがままなもんか! お腹が空いてるならご飯でもおやつでも今すぐ何でも買ってくるし! 食べ物じゃなくても欲しいものがあるなら何でも買ってあげるし! 物要らなくても気分変えたいならどんな歌でも歌うし作るし! リューカちゃんは――そう! もっと、もっともっと! 好き放題言って良いんだよ!!」
続けて、
まくし立てて、
今朝の事を――ようやく、思い出して
「俺も! リューカちゃんの事大好きだから!」
勢いに任せて、言い切って。
……ふと気が付けば、今度は俺と入れ替わるように、リューカちゃんが呆気に取られた表情を浮かべていて――俺の方も俺の方で、彼女が苦手に違いない大声を使ってしまった事に、今更ながら、意識が行って。
「ご――ごめん、リューカちゃ」
火が、出たのだと思った。
そのくらいものすごい勢いで、リューカちゃんの顔が、真っ赤に染まったのだ。
泣き顔とか、そういうのじゃなくて――頬を中心に、燃え盛るような赤色が、広がって。
……うん。今更ながら、さ。
確かにリューカちゃんは今朝、出ていく直前に「カガさんの事も大好き」って言ってくれたんだけど、俺ってば天才音楽クリエイターだから、その「大好き」が「love」じゃなくて「like」な事察せない程浮かれた人間じゃ無い訳ね。
だからと言ってこっちも「大好き」なんて返したら――そんなの――
「は、博士を!」
ガバ、と、突然勢いよく、リューカちゃんが掛け布団を頭から被った。
「博士を――そろそろ、博士を呼んでもらっても……いいですか?」
何この反応。
むっちゃ可愛い。
……じゃなくて!
「お、おう」
とはいえ俺自身今更この発言を否定する訳にもいかず――っていうか、少なくとも日本語で「大好き」って言う分には何にも間違いは無くて――いや、というか、俺は――
「……あ、あのさ。リューカちゃん。先生呼ぶ前に……1つだけ」
「……」
「おかえり。リューカちゃん。……リューカちゃんが帰ってきてくれて、俺、本当に――嬉しいよ」
「ゲコ!」
もぞ、と、布団越しにリューカちゃんが動いた。
頷いたのかもしれない。
顔は見えないし、声も確認のしようが無いけれど――それでも、これだけは絶対に、間違いなく俺の本心なのだ。
だって俺、まだ彼女に『歌』を、贈っていない。
だから今は、俺の言葉が伝わったと、そう、信じるしかない。
……できれば「大好き」云々のくだりはとりあえず脇に置いといてもらえると嬉しいんだけど……うう、俺自身今その言葉に向き合おうとすると顔がカッカしてきてものすんごいのぼせるというか、なんというか。
そもそも混乱してる頭にかける単語じゃ無かったなこれ。と、かろうじて戻ってきた冷静さがそんな風な事を自分自身に語り掛けてくるのだけれど……
「ソーヤさん」
それと向き合う前に、ヴァンデモンから、声がかかった。
「?」
「……ううん。やっぱりやめとく。リューカが言わないで欲しいって思ってるから」
「……」
一体――何を、言おうとしてたんですかね?
「っていうかヴァンデモンは平気なのゲコか? 怪我とか、力の使い過ぎとか……ヴァンデモンのままゲコし……」
「僕は大丈夫! 東京から来た偉いお医者さんにも診てもらったんだよ」
「偉いお医者さん?」
「うん! ゴマモンと一緒だったよ。僕を見てびっくりしてたけど……でも、ちゃんと診てくれたし、泣いてた僕の事慰めてくれたんだよ」
器具に引っかかったりして大変そうだったけど。と付け加えるヴァンデモン。
そのお医者さん……デジモン医って、まさか――な。