声だけが聞こえていた。
聞き覚えなんて無いはずなのに、それは何処か身近にさえ感じられる声だった。
それが幻聴に過ぎない『夢』なのか、過去に体験したかもしれない『現実』なのかさえ判断出来ないまま、ただそれは響いていく。
それは、息も絶え絶えしい唸り声と、溜め息混じりな呆れた声の、言い争い。
――はぁ……ぜぇ…………っ!!
――……ったく、だから言っただろうが。いくら俺達みたいなのが嫌いだからって、相対する相手との『差』ぐらいは認識しとけ。そんな風に振る舞い続けるんなら命がいくらあっても足りねぇぞ。
――……うる、せぇ……っ!! 正義だの悪だの、そんな大義名分を掲げた奴の手で死んだ奴を、俺は何匹も見てきた……『アイツ』だって、本当だったら幸せに生きる権利ぐらいあったはずなんだ!! なのに……ッ!!
――お前の言う『アイツ』が誰の事を指してるのかは知らんが……お前、天使とかに忌み嫌われる奴を同じように嫌ってる『種族』なんじゃないのか? そいつがどうなろうと、知った事じゃないってのが本音じゃねぇのか。
――……ハッ、そんなモンは先に生まれた連中が勝手に付け加えたレッテルに過ぎねぇだろう。そんなモンに合わせる義理も理由もねぇ……。
――が、お前は現に『後悔』してんだろ。お前が本当に憎んでるのは『加害者』の方じゃねぇ。他でもない自分自身だろうに……。
――……お前に何が分かるってんだ。こんな世界で生きていく以上、どんな手段を用いてでも生き残ろうとするのはおかしいのか? 騙されるぐらいなら騙して、何でも利用出来るものなら利用して……そうでもしないと生き残れない弱者にどうしろと?
――出たよ、負け犬特有の言い訳。自分の境遇に悲観して行いを正当化すんなよ。そもそも世の中における『弱者』ってのは、本当に能力だけで判定出来るモンだと思ってんのか? 言うとアレだが、今のお前より『強い』奴なら結構居ると思うぞ。
――……っ……赤の他人の分際で知った風な口を利きやがって。ああ解ってるよ。自分の弱さぐらい自覚してる!! いくら進化しても、根っこの部分で俺は何も変われてない……だから失ったって事も、何もかも!! だが、だったらお前には解るってのか。こんな俺に、この負け犬に、必要な物が何なのか!! それを理解した上で偉そうに語ってんのか!?
――知るかよ、俺はお前じゃねぇんだ。自分の答えぐらい自分で見つけてみろ。他者の力を借りるのも勝手だが、何も信じられないのなら自分自身で探すしかねぇのが必然だろうに。いくら永く生きてるっつっても、そこまで俺は万能じゃない。
その言葉に込められた意図も、その声を発している者が何者なのかも解らないまま。
音だけが全てを表した夢は、呆気なく崩れ落ちる。
◆ ◆ ◆ ◆
視界が明滅していた。
意識が朦朧とし、前後の記憶が把握出来なくなっていた。
「……ぅ……」
目を開けても視界の明度が不安定で、牙絡雑賀は呻き声を上げる事しか出来なくなっていた。
最初、彼に理解が出来たのは、自分が何か薄い布のような物に被せられた状態で横になっている事と、何より自分自身の体が鉛のように動かない――と言うより、金縛りにでも遭ったかのようにピクリとも動かす事が出来ない、そんなどうしようも無い事実。
そもそも自分は何処に居て、何が原因でこうなったのか。
そこまで雑賀は考えた時、あまり心地良さは感じられない清掃感を醸し出す消毒用のアルコールの匂いが鼻についた。
いつの間にか纏っている衣服に関しても普段着ている寝間着とも違う感触で、強い違和感を感じられた。
背中を預けている物からも少し硬い感触があり、それが自宅にあるベッドではなく、学校の保健室に置かれている物とほぼ同じパイプ構造のベッドである事を推測する事は鼻につく匂いからも推測する事は出来た。
何より決定な物として、自分の口元には酸素供給用の機材が。
……どうやら、病院に搬送されたらしい。
現在時刻は分からないが、日の光が差し込んでいない所を見るに夜中なようだ。
病院に勤めているはずの医者や看護婦の姿は首を頑張って動かしても見当たらず、室内には牙絡雑賀が独りだけ。
「…………」
冷静に記憶のレールを辿ってみるも、現在の状況に至るまでの経緯が思い浮かばない。
都内のウォーターパークにて『シードラモン』の力を行使していた司弩蒼矢との戦闘した後、フレースヴェルグと名乗る男と遭遇した後からの記憶を思い返そうとすると、何故かノイズ染みた物が頭の中を通り過ぎる。
半ば強引にでも記憶を掘り起こそうと思考を練ってみた。
確か、何か凄まじい風に吹き飛ばされたような――
「…………ッ!!?」
そこまで考えた所で、脳裏に過ぎる激痛の記憶と共に先の出来事が鮮明になっていく。
そうだ、自分は確かフレースヴェルグという紅炎勇輝を連れ去りデジタルワールドに送ったらしい『組織』のメンバーらしく男と相対し、会話の中で思わず怒り、その感情のままに首を取ろうとして逆に返り撃ちに遭ったんだ……と、自分がやった事も自分の身に起こったことも勝手にフラッシュバックされ、事実を受け入れざるも得なくなる。
その中でも一番驚いたのは、フレースヴェルグが行使した圧倒的な力、ではなく。
相手が誰にしろ、『ただの』とは付かない相手だったのしろ、同じ『人間』を自分の手で殺めようとしていたという言い訳のしようも無い事実だった。
(……な、ん……)
理解が出来なかった。
自分が何をしようとしていたのかは理解出来ても、どうして『そこまで』やろうとしたのかが解らなかった。
確かに、フレースヴェルグは悪党で、打倒するべき相手であるのは明白だった。
だが、何も殺害しようとまでは思わなかった。
そもそもフレースヴェルグは本当に退こうとしていたし、自分から攻撃する必要性など無かったはずだった。
まるで、自分の意識が『別の何か』に切り替わったような……あるいは混ざり合ったかのような、これまで感じた事も無い異質な感覚だった。
(……司弩蒼矢が理性抜きで動いていたのと、同じ……なのか?)
冷静になって異常さに気付けたものだが、実際のところ雑賀の意志はあの場面で殺害の方針へと向かっていた。
それに違和感も覚えなかったし、実際にそれを実行しようともした。
もしもあの時、本当にフレースヴェルグを殺せていたら……自分は、どうなっていたのだろう。
考えたくは無いが、フレースヴェルグの言った通り、雑賀は二度と『元の居場所』に戻れなくなっていたのかもしれない。
姿だけならまだしも、心の方まで怪物に成り果ててしまったら――もう、普通の人間と一緒には生きられない。
(……勇輝、お前は大丈夫なのか……)
ふと思い返されるのは、自身がこうして事件に立ち向かう動機となってしまった友人の姿。
先の『タウン・オブ・ドリーム』で対話した女の言葉が本当ならば、紅炎勇輝はデジタルワールドで『ギルモン』と呼ばれる種族のデジモンに成っている事になる。
その種族の『設定』は、ホビーミックスされた物でなら雑賀も知っている。
だからでこそ、不安になった。
司弩蒼矢のように理性を保てず怪物と成り果ててしまう可能性もあれば、自分のようにいつか誰かを殺してしまう可能性すらも否定が出来ない。
比較しても、凶暴性の面では紅炎勇輝の成っているデジモンの方が圧倒的に上なのだ。
もしも司弩蒼矢のようにデジモンの『特徴』を色濃く引き出してしまえば、どうなるか。
何より、もしも紅炎勇輝が『こちら側』の世界に戻って来れたとしても、その心の方が既に人間のそれと異なる物になっていたら。
彼は、本当に『元の居場所』に戻る事は出来るのか?
(……ちくしょう。踏んだり蹴ったりだ)
手にした力の危険性を認識して、雑賀は思わず毒づいた。
(……だが、使いこなせないといけねえ。フレースヴェルグとかいう奴の言う通り、勇輝を助けるにしても事件を解決するにしてもこの『力』は必要なんだ。どんなに危険だろうと、戦いに赴くと決めた時点で覚悟なら決まってる……決めてねえといけないんだ)
雑賀は自分の右手を動かそうとしてみたが、やはり金縛りに遭ったかのようにピクリとも動けない。
そもそも、どうしてこうも体が動かせないのだろうか? という当たり前の疑問を今更ながら思い出すが、当然ながらその答えは推測の域を出ない。
ここが病院であるのは間違いないのだが、だとすれば全身麻酔でも投与されているのだろか。
全身大出血レベルの大怪我を負っていたのであれば、安易に麻酔を使うと危険性も増すのだが……そもそも感覚が無いのでどの部分が怪我をしているのか、それさえも解らない。
「……ったく、何なんだ本当に……」
幸いにも首周りは動かせるので声も出せたのだが、話相手になれるような者はいない――はずだった。
「まぁ、下手にあの鳥野郎に突っかかったお前も悪くはあるんだがな」
声がした。
夢の中の声ではなく、明らかに現実の、空気の振動から来る声が。
より正確に言えば、雑賀が横になっているベッドの、すぐ傍から。
「…………!?」
それがただの声なら、病院に勤めている医者が雑賀の視界の外に居たと考える事は出来たかもしれない。
驚く必要など無く、ただ平常通りの反応をすればいいだけのはずだった。
それでも、雑賀が驚かざるも得なかった理由は。
それが、ここ最近聞き覚えのある人物の声とそっくりであったからだった。
(……んな、馬鹿な事が……)
信じられないように思いながらも、顔だけを声のした方へと向けると。
そこに居たのは、
「……苦郎……!?」
「……まぁ、初対面じゃねぇし解っちまうか」
縁芽苦郎。
まだ蒼矢と相対さえしていなかった時に自宅へとやってきた女の子――縁芽好夢の義理の兄であり、牙絡雑賀と同じ学校に通っていて、恐らく誰よりも事件という『面倒事』に首を突っ込もうとはしないと、雑賀自身考えていた青年の名だった。
その容姿は白のカッターシャツに黒のズボン――ただ、それだけのシンプルな物。
だが、その容姿から来る印象は、以前見た怠け癖の激しいものとは明らかに違う、全く『別人』にさえ見える物。
その変化の大きさに戸惑いながらも、率直に雑賀は疑問を口にする。
「何でお前が此処に……? っていうか、こんな夜更けに何してんだ!?」
「おいおい。フレースヴェルグの野郎に吹き飛ばされて気絶し、更には大怪我まで負ったお前に救急車を呼んだのは俺だぞ……あと、俺が夜型な生活を営んでる事を知らなかったのか?」
当然のように返された言葉にも疑問しか浮かばなかった。
何故、縁芽苦郎は『組織』の一員らしいフレースヴェルグの名も、それと相対した雑賀が大怪我を負った事も、全て『知っている』のだ?
夜型の生活を営んでいるなど、そのような発言以上の異常性が含まれているのは明らかだった。
だから、様々な疑問を問う前に雑賀はこう切り出した。
「……お前はどこまで『知っている』んだ?」
「多分、お前よりはずっとな。だから、お前の疑問にはある程度答えを出せる」
恐らくは、お見舞いに来た人物のために置かれているのであろう小さなパイプ椅子に、苦郎は腰掛けて。
「……それじゃ、大体お前の疑問は予測が付くから話すとするか。お前やフレースヴェルグ、そして俺も含めた異能の持ち主……『電脳力者《デューマン》』について」
◆ ◆ ◆ ◆
現在時刻、午前二時四十三分。
もうとっくに『深夜』と呼べる時間へ突入した夜の街は静まり返り、人の気配も殆どしなくなっている。
そんな夜の中、半裸にカットジーンズで黄色い瞳の男――フレースヴェルグは、とあるマンションの一室にて文字通り羽を休めていた。
数時間――最低でも五時間近く前に『ガルルモン』の力を宿した牙絡雑賀を吹き飛ばしたその男は、何故か気だるい感じの声で言う。
「……あ~、キツかった。流石に夜勤も込みだと、このフレースヴェルグさんでも普通に疲れるんだっての……」
彼の視線は、同じ一室に居る別の人物へと向けられている。
上半身から下半身までを覆い隠せるほどの大きな青色のコートを着た、彼にとっては馴染みが薄くも無い人物。
フレースヴェルグと同じく『組織』に属する一人であり、彼とはまた別のデジモンの力を宿している者。
「……まったく、何故勝手に牙絡雑賀と接触した? またいつもの衝動か?」
「いいじゃんかよ。俺が接触した所で何か問題起こるわけでもなし、それ以前に俺よりも先に『あの女』が接触して情報提供してる。今更俺の姿を見られたにしても問題はねぇだろ」
「……見られただけならまだいい。が、下手踏んで牙絡雑賀や司弩蒼矢を殺してしまったらどうするつもりだった? まさか『この程度で死ぬんならどの道必要無い』なんて言うつもりでは無いだろうな」
「まぁそういう本音もあるんだが、どっち道死なないようにはしたぞ。風力も手加減出来てたし、飛ばした方向には転落防止用のフェンスが取り付けられたビルだってあった。まぁ、見事にそれには引っ掛からなかったわけだが」
「『ただの人間』なら死んでもおかしくない高度と言っていいと思うがな。人間の頭蓋骨は数メートル程度の高度から落下しても砕けてしまう。いくらデジモンの力を宿していようが、脳をやられてしまえばどうしようも無いぞ」
「だからそこも考慮してたって。それに、アンタの言っている危険性は『頭から地面に落ちた場合』の話だ。腹か背中の方から落ちた場合は入らない」
「どっちにしても致命傷の可能性はあっただろうが。胸か背中の骨でも折れれば大惨事だぞ」
溜め息混じりな声で話す青コートの男は、台所のガスコンロに火を付けて何らかの料理を作っていた。
時刻から考えると何とも生活のリズムが噛み合っていないようにしか思えないが、わざわざ青コートの男がこのような時間に料理を作っているのには理由がある。
フレースヴェルグが「腹減ったからメシを食わせろ~!!」と煩いのだ。
そんなわけで、台所からは食欲を増し増しにさせる匂いが湧き出ている。
「まぁ、どっちにしろ大丈夫だって。救急車が二人のガキを搬送した所を確認してる。だから過ぎた事をいちいち愚痴みたいに言ってくんなよ~」
「………………」
「……あり? どしたんだアンタ。おい、ちょっと……ッ!?」
結果論を語るフレースヴェルグに向けて、青コートの男は片手――正確にはコートの袖口を向けた。
フレースヴェルグが言い訳を述べる前に、物理法則を無視してコートの袖口から蛇のように包帯が巻き付いて行く。
数秒ほどで、室内には怪我をしているわけでも無いのに、全身包帯巻きでミイラみたいな姿になった元半裸の男が完成する。
巻き付けた包帯に力を込め、フレースヴェルグの首を締め付けながら青コートの男が低い声を出す。
「……お前が楽しむのは勝手だが、その一方で俺の苦労を水増しさせるな。何度お前の所為で予定が狂いそうになったと思ってる? 『組織』の計画が頓挫したらどうしてくれるんだ」
「ぐ、ぐぇ……っ、首絞まる、首絞まるって……!!」
「締まっても構わん。というかお前は『組織』の方針から見ても、明らかに目立ち過ぎるし被害を与えすぎる。そもそも喧騒と争いを起こすのはお前ではなく『ラタトスク』の役割だろうが。本当に、どうして『組織』でお前のようなお調子者が監視役を担っている……?」
「ぐ、ぬぐぐっ……そ、それは俺が獲物を死角から見据える事が出来て、あまり目立たない動きも出来るから……だったような……」
「お前の元ネタは目立たない以前に『巨人』だろうが。そして『オニスモン』の体格も本来はかなりの物だ」
そんなこんなでちょっと頭痛がした風に頭を押さえる青コートの男だったが、どうやら料理が完成したらしい。
湯気が立ち上る鍋から食材と出汁を器に注いでいくと、リビングに設置されている木製のテーブルの上に置き、フレースヴェルグの拘束も解除した。
くんくん、と反射的に匂いを嗅ぐフレースヴェルグは、率直に疑問を発した。
「……何作ったんだ?」
「鍋物」
「何でこのクソ熱い夏場に鍋物!? 氷でも入れて冷鍋にでもした方が絶対いいだろ!!」
「……逆に聞くが、どうして俺がお前のためにそんな気遣いをしなければならない? こんな時間に作ってやっただけでもありがたく思え」
「はぁ……まぁ熱い物を食うと逆に涼しさを強く感じられる、とか聞くしいいけどよ……ん? ちょっと待てこれってダシに使ってるのもしかしなくともトリ肉じゃ」
「安くて量も確保出来るからな」
「もしかして俺のことそういう風に見てた? 串で刺す予定なの???」
「釜茹でも悪くない」
◆ ◆ ◆ ◆
「……デューマン?」
告げられたキーワードに怪訝そうな声を漏らす雑賀に対し、縁芽苦郎は言葉を紡いでいく。
「お前を含めた『異能の持ち主』の呼び方は色々ある。超能力者とか魔法使いとか、この辺りは一般的な例だな。お前やフレースヴェルグとかの場合、電脳世界……もしくは電子世界とでも言うべきか? そこに存在する生命体であるデジモンの力を行使するだろ? 一番使われている名前は、そこから文字った物だな」
「……それは?」
「候補としては色々あったらしいが、最終的には電脳の力を宿す者と書いて電脳力者と呼ばれるようになった。語呂の良さもそうだが、一番単純で理解しやすかったんだろうな。デジモンの『デ』と人間の英語読みである『ヒューマン』を混ぜ込んだ、本当に単純なネーミングだ」
電脳力者《デューマン》。
それが牙絡雑賀や司弩蒼矢、そしてフレースヴェルグ等の『異能を宿した人間』の通称らしい。
「……それで、俺や蒼矢が使っていた『あの能力』は何なんだ? 俺は直球で『情報変換《データシフト》』って呼んでたけど……実際のところ、本当に司弩蒼矢が言っていた通り『自分自身を含めた身の回りの物質の情報を書き換える』能力なのか?」
「実際にはそこまで万能じゃないけどな。宿してるデジモンの属性や個性とか、そもそも『変換した後』の物質の情報を取り込んでいないと上手く作動はしない。俺は戦闘を見ていたわけじゃないから詳しく知らんが、司弩蒼矢って奴が宿してたデジモンの種族は知ってるか?」
「シードラモン」
「それなら多分、少なからず海……という『環境』の『原型情報《マターデータ》』が内包されたんだろうさ。アニメでも描写されてただろ? デジタルワールドの陸上生物は『水の中では呼吸が出来ない』と認識しちまってるから濡れるし溺れちまう。だが、一方で『水の中では呼吸が出来ない』と知性や本当で認識することが出来ない機械とかは濡れも壊れもしなかっただろ」
「……一定の『環境』に順応出来るように、エラ呼吸の器官とかとは別に『水』のデータが組み込まれているから? だから、構造上『同じもの』であるシードラモンとかは水で『溺れる』事が無いし、水を使った攻撃を使う事が出来たって事か」
「他のデジモンにも同じ事は言えるな。十闘士がそれぞれ宿す属性……『炎』『光』『風』『氷』『雷』『水』『土』『鋼』『水』『木』……そして『闇』。口から炎を出すとか、掌に光を纏わせるだとか、そういう事が出来る理由もそこにあるんだろうさ。そしてその過程には、多分デジモンが生息している『環境』の『原型情報《マターデータ》』が関わってる」
「シードラモンは基本『海』に生息するデジモン。だから『海水』のデータをある程度宿していて、それを介する事で『別の水』を『海水』に変換する能力を司弩蒼矢は使えたのか」
「まぁ、シードラモンって種族の特徴から考えても、本能の部分で『そうする事が出来る』って理解してたんだろうさ。電脳力者が何を何に変換出来るかなんて、結局は発想と確信による物が大きいし」
まるで、というか確実に既に知っている情報として言葉を述べる苦郎の姿は、雑賀にとって何処か遠いようにも見えた。
デジモンに関する知識も、多分に持っているようだ。
「……にしても、大丈夫なのか? こんなに普通に話してたら、誰かに聞こえちまうんじゃ……というか明らかにお前不法侵入じゃねぇか。何処から入って来た?」
「同じ理屈が数時間前のお前にも当てはまりそうなモンなんだが。まぁ、そこは大丈夫だ。『ただの人間』には覚醒した『電脳力者《デューマン》』の姿を捉える事は出来ないし」
「……どういう事だ?」
思えば、前々から勃発している事件の実行者は一度たりとも姿を目撃されたことが無かったらしい。
だが、現に牙絡雑賀はウォーターパークでの戦闘の後、フレースヴェルグと名乗る『組織』の一員を目撃している。
同じ『電脳力者《デューマン》』に覚醒したから目撃出来たのかと雑賀は思ったが、そもそも縁芽苦郎は毎日家族に姿を見られているはずなのだ。
そこには、間違い無く『別の理由』が存在する。
そして、縁芽苦郎はその予想を一切裏切らなかった。
暗い室内の中、雑賀どころか殆どの人間が知らないと思われる真実が更に告げられる。
「じゃ、お前の言う『|情報変換《データシフト》』の疑問は後回しにして、次の話題に転換すっか……『デジタルフィールド』についてだ」
デジタルフィールド。
その単語についてもまた、雑賀も『アニメ』で登場した設定としての理解があった。
「……確か、それアレだろ。現実世界にデジモンが実体化する際に生じる、個体によっては小規模な、濃霧の形をして生じる力場の事だろ? 外部からは内部の状況を観測する事は殆ど出来なくて、その位置はデジモンだけが感知出来るっていう……一方で、人間は『デジヴァイス』を介さないと肉眼でしか捉える事が出来ないんだっけか? 全く視えないってわけじゃなかったよな」
「ああ。俗な方向ではそうなってるな」
苦郎は当然のようにそう返してから、
「それと似ているようで、ちょいと違うモンだ。連中が使っている名称だと『ARDS拡散能力場』。それがある限り『ただの人間』には電脳力者たちの活動を感知出来ず、視界内に『本当は』存在していたとしても頭の方が情報として処理、認識出来ない。仮に監視カメラを使ったとしても、そこに残っている映像に『怪しい人物』の姿は観測出来ない。別に古いテレビがザーザー鳴っているわけでもないのに、な」
「……それが、例の『消失』事件で明確な『犯人』の姿が観測されなかった理由……? そんな、犯罪者にとっては都合の良過ぎる情報隠蔽が可能なフィールドなんて……」
「おかしな話だろ? その中じゃ、仮に警察官が大勢でバリケードを張っていたとしても、そいつ等が『ただの人間』なら『犯人』は顔パスも何も無しに素通り出来るって寸法だ。ハッキリ言って、電脳力者絡みの事件じゃ警察なんてアテには出来んよ」
「………………マジかよ」
言わんとしている事が、何となく理解出来た。
死者の魂が向かう場所とされる天国に地獄や、似たように天使や神様が住まうとされている天界と、悪魔や魔王が住まうとされている『魔界』や『冥界』……そういった、名前だけは一般に浸透しているほどに知られていても『実在している光景』を見た事がある人間――正確に言えば、生きている人間はいない。
そして、それと同じように。
人間の目は赤外線や紫外線を見る事が出来ないし、耳で高周波や低周波を聞き取る事も出来ない。
現実ではその強弱を専用の機械で測定し、天気予報という形で情報が世に広まってこそいるが、実際にそれを感知しているのは鉄と電子器具の詰め込まれた機械。
宇宙へ飛び立つロケットで雲をブチ抜いても、天空に国が見えるわけでは無いように、仮に『異世界はある』と過程してみれば、人類がそれを見た事が無い理由が『高度』には無いことが解るのだ。
つまり。
「……人間が、五感を介して感じ取ることが出来ない領域。科学的に言えば赤外線を浴びた物質は熱を持つし、重力下のあらゆる物体は浮き上がるための力も足場も無ければ何処までも落ちる。それと同じで、人間の目や耳では感じ取れない『力』が何らかの膜を張った事で形成される特異なフィールドって事か……」
「ああ」
あの時、雑賀は足しいかに何らかの『違和感』を感じ取っていた。
どうして自分が気付けたのかという疑問に対しては、先のタウン・オブ・ドリームで遭遇した『組織』の女から聞いた『特別性』とやらが絡んでいると思って処理していたが、どうやら実際に『そういう』時条があったようだ。
そして、そこまで考えれば、雑賀が感じ取った『違和感』の正体も明白になる。
そう。
「……あの時感じた違和感そのものが、あのウォーターパークに発生していたデジタルフィールドだったわけか。だから、目や耳を使ったわけでも無いのに頭の方で感じ取れて、正確な位置さえも察知出来たんだな……」
「電能力者が『力』を行使した歳、本人の意志に関係無く発生されるわけだからな。俺は感知出来なかったが、お前には感知出来た。多分この辺りは宿ってるデジモンの能力が関係してるんだろうが、俺が感知出来たのはフレースヴェルグの野郎がお前をブッ飛ばした辺りだったな。要するに、奴が『オニスモン』の力を使った時。当然だがあそこでの出来事は『ただの人間』には誰にも知られなかったから、戦闘で発生した破壊痕の原因も突き止められないだろうな」
「……そうか……」
ふざけた話だ、と雑賀は頭を押さえ付けたくなったが、金縛りの掛かった体は動く事もままならなかった。
今でこそ誘拐事件で収まってこそ居るが、電脳力者は、法の番人たる警察の目の前ですら『何でも』出来るという事だ。
人格によっては実行するであろう盗みも、冤罪の人為発生も、殺人さえも、笑顔のままに横行される。
……そんな事が毎日起きるような世界になってしまえば、もうおしまいだと言っていい。
突然起きた出来事に混乱し、誰も彼も信用出来なくなる絵図が容易に想像出来てしまう。
その不安を予想しきった上で、苦郎は言葉を紡いだ。
「まぁ、お前が危惧してる事は想像付くから先に言っておくが……『そうなる』事を望まない電脳力者だって居るのも事実だ。具体的に言えば、連中――あのフレースヴェルグって奴も入ってる組織に対抗するための枠組みって所か」
「……? アイツ等に対抗してる、別の電能力者がそんなにいるってのか?」
「中学二年生っぽく言わせてもらうなら、光あらば闇あり、闇あらば光ありって所かね。あるいは、犯罪者に対する警備員か。ともかく、あの鳥野郎が属している組織に比べれば小規模だが、何も対抗してる勢力がいないわけじゃねぇって事だ」
それを聞いた雑賀は、ほんの少しだけ安堵出来た。
少なくとも、これから先たった一人で立ち向かわなければならないわけでは無いことが解ったからだ。
「……ちなみに、俺も俺なりの理由でその枠組みに入ってる。わざわざこんな時間に顔出しした理由の一つには、お前にもそれを伝えた上で選択してもらおうと思った事もあるのさ」
雑賀自身、縁芽苦郎の人格を詳しく理解しているわけでは無いが、少なくとも悪人で無い事だけは信じている。
「……言いたい事は理解出来た」
だが、抱く疑問はまだ残されている。
それを払拭しない限り、安易に信じることは出来ない。
「だけど、お前が俺の事情を知っている一方で、俺はお前の事を知らない。知り合いレベルの付き合いがあるとしても、お前の言葉が本当だったとしても、簡単に首を縦に振る事は出来ない」
「……そうか」
「お前はさっき、俺やフレースヴェルグ……そしてお前自身の事を電能力者だと言った。俺が『ガルルモン』を宿しているように、フレースヴェルグが『オニスモン』を宿しているように、お前も脳に何かデジモンを宿してるんだろ」
「ああ」
「お前の目的はあえて聞かない。少なくとも、奴等と敵対関係にあるって事だけは信じられるしな。だから、お前が俺の事を知っているように、俺にもお前に関する事を教えてくれ……同じ枠組みに入るんなら、お互いの情報を認知し合っていても問題は無いはずだろ?」
「……そうだな」
恐らく、その問いに関しても苦郎は予想出来ていたのだろう。
自分だけが相手の事を知っていて、その相手は自分の事を何も知らず。
そのような関係では、協力者としての信頼など得られるわけが無いからだ。
溜め息を吐くような調子で肯定すると、やがて面倒くさそうに、本当に溜め息を吐いた。
「……先に『警告』しておくが、俺の事は間違っても好夢には言うなよ。それさえ守ってくれれば、他はどうでもいい。俺に関する情報なんて、どうせ奴等の一部には既に知られている事だしな」
その言葉だけで、縁芽苦郎の『理由』は語らずとも理解するには十分だった。
故に、雑賀もその『警告』には異論も疑問も無かった。
「解った」
その返事を、確かに聞くと同時に。
苦郎は雑賀の前の前で、その姿を当たり前な調子で変質させていく。
何の予備動作も無く、何の無駄も無いその変容っぷりは、雑賀がこれまで想っていた苦郎のイメージを覆すほどで、まるで――いや確実に自分や縁芽好夢が『知らない場所』で戦い続けてきた証拠のようにも見えた。
まず、制服の端から見える皮膚は全身にかけて濃い目の茶色を帯びていき、その体表の変化を基軸に頭部からは山羊のように歪曲した二本の角が。
続けて、鋭い爪を生やした両腕の筋肉が発達するのに合わせて白い制服が粒子に分解され、両脚もまた間接が増えて獣のような形に変わると、履いていた黒いズボンや靴もまた必要だと判断された部分だけを残し腰巻きのような残骸へと成り果てる。
その瞳に赤色を宿し、二の腕や腰元には黒色の鎖が巻き付き、終いには背から紫色の膜を張らせた六枚の翼が生えて、彼の変貌は終了した。
「……おいおい……」
その外見は悪魔と呼ぶに相応しい、欲望を醸し出す罪の象徴とさえ言えるもの。
その種が司る力は凄まじく、時としては圧倒的な暴力へと変換されるもの。
それを見た雑賀は思わずといった調子で、こう言った。
「……そりゃあ、ある意味においてはお前にピッタリと言えなくも無いかもだが……いくら何でも、そんな大物を抱えてやがるとか予想外だぞ」
「望んで宿したわけでも無いし、盛大な椅子取りゲームの結果としか言えんのだがな」
その口調もまた、その種に相応しい物へと変質しているように思えた。
雰囲気も口調も何もかもが異なる彼に向けて、雑賀はその種の名を紡いだ。
「七大魔王、怠惰の『ベルフェモン』……。こういう場合は頼もしいと言うべきか、それとも恐ろしいと言うべきなのか分からないな……」
「恐れられる覚えこそあれど、頼もしく思われる覚えは無い。……ひとまず、これで確認は済んだな?」
そう言った苦朗の体から再び粒子が生じると、その体は『ベルフェモン』と呼ばれるデジモンに類似したそれから元の姿――制服を纏った青年の姿へとあっさり戻していた。
どうやら言うところの『情報変換』を解除したらしい。
「え、制服とかズボンとか、そういうのも戻るのか? 司弩蒼矢の時もそうだったが」
「身に纏っている衣類とかは、肉体を変化させる過程で邪魔だと判断された場合、あんな感じでデータの粒子に変換して『肉体の一部』として吸収されるのさ。よく、女の変身ヒーロー物とかでも衣類が丸ごと変わった後、変身を解除した時にはあっさり『元の形』に戻ってただろ? それと似た理屈だ」
「……ちょっと待て。『肉体の一部』として吸収されるって事は、つまるところ変身の後の姿で外傷とか受けた場合……」
「まぁ、確実に欠損するわな。お前みたいに『獣型』のデジモンの力を行使する場合、骨や肉とか皮膚の次に『身に纏っている物』が変換の対象になる。俺みたいな悪魔……いや『魔王型』に関しては、種によって変わるんだが……三体ぐらいは衣類とかを一部『巻き込んで』変換する事になるだろうな。現に、俺は腕とか脚とかの部分的な変化が大きいから、あんな感じで制服もズボンも粒子変換されてただろ」
「うわ、マジでか!? あの時の戦いの最後の辺りで、俺思いっきり氷の矢とか食らってたわけなんだけど!!」
どうやら、原型となるデジモンの種族――そしてその骨格によって、身に纏う衣類にも影響は出るらしい。
変身ヒーローの定番――と言えば簡単に思えるが、実際に『それ』が起きる事はまずありえないと言っていい。
粒子だろうが量子だろうが、物体を粒状に変換して、また必要な時に『元の形』に修繕されることなど、実際はSFよりもファンタジー色の方が濃いぐらいだ。
それならまだ、衣類の上からアーマーやら何やらを新たに纏っている方が、現実味があるレベルだろう。
「……つくづく不思議なもんだ。物理法則って何なの? アテに出来ないのは警察だけじゃないって事かよ」
「まずは『何が起きてもおかしくない』って前提を受け入れてもらわないとな。現実世界だからイレギュラーっぷりが引き立ってるってだけで、デジタルワールドではそんなにおかしい事でも無いかもしれねぇし」
雑賀には当然知る由も無い事だが、実際に彼の友である紅炎勇輝は『感情』を力に変換する事で危機を脱している。
その仲間となったデジモンも、同じく。
物理法則を越えた力を敵味方の両方が行使出来るという事は、これまでの常識をある程度捨て去る必要があるのだろう。
既に体験しているからか、雑賀は『それ』に対して拒絶する事も無かったが。
「……ところで、結局あのフレースヴェルグ……あと、勇輝を『ギルモン』としてデジタルワールド送りにした奴の属する『組織』ってのは何なんだ? 『タウン・オブ・ドリーム』で俺に情報提供したあの女曰く、勇輝の存在が重要になってるらしいが……」
根本的に、敵となる『組織』の思惑は不透明だ。
自分よりもこの手の問題に対面してきたであろう苦郎なら、何かを知っているかもと雑賀は期待したが、
「それについては俺も解らん。成った種族が『ギルモン』である事を考えると『デジタルハザード』の刻印が何か絡んでるのは確実だろうが、それで具体的に何をしようとしているのかまでは解らない。単純に世界崩壊とかを考えてるわけじゃないっぽいしな……」
どうやら、その『組織』の目的は苦郎も把握してはいないらしい。
だが、返事を返した直後に彼は言葉を紡いだ。
「ただ、その組織の名前はハッキリしてる。以前相対した時、割りとあっさり口を開いたからな」
「……俺と会話した時には『組織』としか言ってこなかったんだが」
「知らん。犯行前に予告状を送る怪盗でもあるまいし、その時には必要性を感じなかったからじゃないか?」
そう言われると、どうにも反論出来そうにも無かったので黙り込む雑賀。
それに構う事も無く、苦郎は既に知っていた情報として告げる。
「奴等の属する『組織』の名前はな――――」
決定的な、それでいて不透明なその名を。
「――――『シナリオライター』。そう言うそうだ」
◆ ◆ ◆ ◆
同じ頃、同じような状況と同じような部屋の中にて。
とある青年の、深層にまで沈み込んでいた意識が回復し、その瞳が暗闇に開いていた。
司弩蒼矢。
つい数刻前までバケモノと化し、とある狼男と死闘を繰り広げていた隻腕隻脚の青年だった。
「……ぅ……」
その意識は朦朧としていて、実を言えばその原因たる人物も同じような状況だった事を彼は知らない。
状況を確認する前に消毒用のアルコールの匂いが鼻に付いたので、彼は自らが置かれた状況を瞬時に理解出来た。
そして、自身が未だに隻腕と隻脚であるままこの場に居るという事が、どういう事を意味しているのかも。
(……僕は負けた、のか……)
単なる競技でのそれとは、全く違う意味合いを持った二文字の言葉。
それが、彼の頭に深く深く突き刺さっていた。
「………………」
あれだけの有利条件が重なった場で、敗北に繋がる要素など考えられなかったのに。
他でもない、自分自身の『これから』が掛かっていたのに、負けた。
顔も見た事さえ無いであろう相手に、掲げていた理由も、闘う意思さえも否定された。
何より、こうして生かされたまま病院に送られた。
「……くそっ……」
悔しい、という感情が沸き立つ前に、根本的な部分で彼は苦悩していた。
あの行動が『正しい』行いでは無い事ぐらいは明らかだった……が、それなら自分にどういう手段が残されていたのか?
何事を行うのにも必要な腕も、地を蹴り歩を進めるための二本の脚も、それぞれ一つ失って。
自分の個性を引き立たせる事で、その存在を認めさせるのも出来なくなって。
病院で療養生活を送り続けていても、心中に不満は募り続けて。
心の何処かでは、家族と会うことさえ恐れてしまっていたというのに。
自分に、何が出来た?
分からない。
「……牙絡、雑賀……」
自身を打ち負かした相手の名を呟くが、そこにはもう敵意も殺意も無かった。
まるで、意思も何もかもが霧散してしまったかのような声だった。
そんな状態だったからなのか、あるいは行動の起点となっていた理由さえも解らなくなっていたからなのか、今の彼には『力』を行使する事は出来もしなかった。
そして、行使しようとも思えなかった。
彼の意識は、再び深海のように深き無想へと沈んでいく。
◆ ◆ ◆ ◆
対話が終わり、病室から出て行った縁芽苦郎は自宅に戻っていた。
彼は半ば無断で病室に入っていた立場のだが、彼が居た痕跡は現実に残されてはいないだろう。
牙絡雑賀との会話を開始する以前に、既に彼は電脳力者としての『力』を行使して情報を遮断していたのだから。
尤も、閉じている扉や窓を開けたままにしたり、電気を付けたりすると『記録に残る物』はあるので、彼が侵入……そして脱出に使ったルートは自動ドアが存在するロビーでは無く、洗濯物を干したりドクターヘリを利用するのに使われているのであろう屋上だった。
落下防止用に人の背丈と同程度の柵が設置されていたが、彼はそれをよじ登る事も無く、その体を雑賀の目の前で見せた『ベルフェモン』を原型とした物へと変異させると、六枚の翼を羽ばたかせて病院の敷地内から飛び立ったのだ。
そうして、肉体を変異させたままマンションにある自宅の玄関前へと着地し、閉じられている扉に鍵をピッキングでもするかのように慎重に差し込み、彼自身が小規模に展開している力場の効力によって音も無く室内に入っていく。
あくまでも『ただの人間』の範疇に入る親は目撃する以前に眠っており、当然この時間帯になると縁芽好夢も同じく寝床に着いていた。
自室に戻った彼は、状況を確認し終えると肉体を変異させている『力』を解除する。
「――がふっ……」
途端に、彼は自身の左胸の部分を左手で押さえ付け、口から出さざるも得なかった物を右手の中に吐き出した。
その色は、紅かった。
だが、それを見ても彼は何の動揺も見せず、その吐き出した物をティッシュで即座に拭き取ると、何ら変わらない調子で寝床の上に横になった。
つまる所、そんな生活を彼はずっと前から続けていた。
それが、彼にとっては『当たり前』の日常となっていただけだった。
◆ ◆ ◆ ◆
表向きには防犯オリエンテーションが『無事』に終了したとされ、それぞれの学校に通う生徒達が各々自由に活動する中、縁芽好夢は家にも帰らず制服姿のまま街の中を徘徊していた。
その表情からは喜びの感情が薄く浮き出ていて、第三者が顔を覗き見たら『イケメンのお金持ちからお茶会のお誘いでも受けたの?』だとか質問されてしまいそうである。
つい数時間前、彼女は行事の関係で街の中を歩いている最中に遭遇したイカと人間を掛け合わせたかのような姿をしていた怪人と、人間の体に鳥類の要素を組み込んだ上で江戸時代の侍を想わせる衣装を着せたような姿をした怪人――それ等の非現実的な体を有した存在を目の当たりにしていた。
街中を徘徊していれば何処かで話題に上がっていてもおかしく無いにも関わらず、実際には殆どの人物がその存在さえ認識していない存在。
兄である縁芽苦郎が人知れず直面しているのかもしれない、そんな非現実との対面。
正直に言って、縁芽好夢は刺激を求めていた。
常識に縛られ、進んでいる道が正解か失敗かも判断出来ず、行き止まりに直面してしまっていた自分に新たな道を示してくれる、一種の光明とさえ言える刺激を。
そういった意味では、例えあの場で鳥人の侍が文字通りの助太刀に来てくれなかったとしても、もしかしたらその後には喜びを感じてしまっていたかもしれない。
そんな事を考えている自分自身が嫌になるが、もしもこのまま『進む』事も出来ないまま立ち往生し、何も出来ないまま安全圏でのびのびとしていたら。
手を伸ばしても届かない場所に、数学的な距離など関係の無い『遠い』場所へと進んでしまう。
その隣に立って、力になってあげたい――そんな願望を抱いているが故に、自らの現在の立ち位置に納得が出来ず、どうしても諦めきれなかった。
(……背中を追い駆けるための道順はわかった。後は、あたし自身が何かの切っ掛けで『覚醒』出来るように頑張ればいいだけ……)
姿自体異質なものだったが、あの怪人達は人間の言葉で話す事ができ、実際に会話も出来ていた。
自分を助けてくれたと思われる鳥人の侍の持ち物には、刀の他に市販の物と思われるカバンもあった。
であれば、あのカバンも含めて非現実の産物で無い限り、あの怪人達は元々『普通の人間』だったと考えてもおかしくは無い。
そして、件のイカ人間の言う事から推理しても、自分には『非現実の力』を得る資格がある。
後は、それに『覚醒』するため何をするべきか。
(……あの変体イカ人間みたいな悪者もいれば、一方で鳥人間侍みたいに影ながら頑張るヒーローみたいな怪人だっている。もし苦郎にぃや雑賀も『力』を持っているのなら、間違い無く後者だとは思うんだけど……出会ったとしても誤魔化されるだろうし、やっぱりここは手当たり次第に『当たって』みるのが一番かな。悪い奴と対峙出来れば一発で『変身』出来るようになると思う。というか、思いたいんだけど……)
つまるところ、危険を自ら冒しに向かう自傷行為。
普段ならばまず通らないであろう道を選んでいるのも、その一環に過ぎない。
故に、善人だろうが悪人だろうが、最低限『力』を行使出来るような人物と鉢合わせに出来れば良いと、縁芽好夢は不謹慎だと思いながらも考えていた。
耳の中に、雑音混じりの絶叫のようなものが入り込んでくるまでは。
思わず身をすくめると、頭の中が急速に冷静になっていく。
自分がどれだけ都合の良い光明に頭を沸騰させていたのかを自覚する。
「……今のは、何……」
音が何処から聞こえたものなのか、方向はすぐにわかった。
音の発生源へ向かえば彼女の求める『何か』がある。そんな予感がする。行けば解る。行くための道がある。
そんな、求めている要素を感じられる切っ掛けを認識出来たにも関わらず、好夢の心には少し前までの高揚感などは一切無く。
心臓の鼓動が高鳴る一方で、得体の知れない緊張感と恐怖心が感情の大半を占めていた。
「…………」
恐怖に従い、音のした方から離れる事こそが理性的な行動である事はわかっていた。
だが、一方で。
ここで逃げてしまうようならば、これから先このような機会に出くわす――いや、恵まれたとしても何の進展も有りはしないだろう。
好夢からすれば、その結果に対する恐怖は未知の物と比べても強い。
少なくとも、今は。
故に、彼女は恐怖を押し殺して未知へと足を踏み入れる。
感覚を頼りに人通りの少ない路地を進み、抜けた先で彼女が見たのは――
◆ ◆ ◆ ◆
「……ぅ……」
司弩蒼矢は口の中で小さく呻き声を発した。
自分が何か硬く冷たいものの上でうつ伏せになって倒れている状態なのは理解出来たのだが、一方で前後の記憶が曖昧で、何故自分が倒れているのか、気絶してしまっているのか、そもそもここは何処なのか――そういった当然の疑問に対しての答えを得る事は出来ていない。
朦朧とした意識の中、何処かから誰かの声が聞こえてきた。
「――終わってみればあっさりしてんなぁ。こんなクソ真面目そうなヤツが役に立つもんかねぇ?」
「――知らねぇよ。命令なんだから仕方無いだろ? 安易に断っても損するだけだぞ……っと」
顔を見たわけでは無いが、声だけでも伝わる粗暴な印象には危険性を感じずにはいられない。
何より、自分をこの状況に陥らせたのが声の張本人であるならば、まず間違い無く善人であるはずが無い。
不幸中の幸いとでも言うべきか、危機感から思考能力が徐々に戻ってくる。
(……意識が、無い内に殺そうとしなかった、という事は……狙いは、僕自身……?)
真っ先にそんな疑問を浮かべられたのは、気を失う直前に彼自身が自らに宿る怪物の事を考えていたからだろう。
だが、その疑問から派生する形でもう一つ、忘れてはならない優先すべき疑問が浮上する。
そう、
(……待て。それなら、あの子は……磯月波音さんは……!?)
疑問から焦りが生まれ、薄かった呼吸が荒くなる。
冷静に物事を見渡そうとする余裕など、一瞬で失われる。
思わず腕に力を加えて起き上がろうとしたが、
「おっと」
「ぐっ!!」
直後、背中に靴底を押し付けられ、地べたに縫い付けられてしまう。
迂闊な行動だったと、後になって思い知らされた。
呻き声を発する間も無いまま顔を上げさせられ、視界は地から正面の方へと向かされる。
恐らくは声を出し、尚且つ蒼矢をこの場に引き摺り込んだ張本人であろう人物の姿が、瞳に映し出される。
服装こそ黒と白の縞模様なポロシャツと灰色のズボン――と、一見すると普通な容姿をしているが、剥き出しの気配は対照的に異質なものとして認識された。
つまり、
(……この男も、僕と同じような『力』を持っているのか……?)
「ようやくのお目覚めか。はじめまして……と言った方が良いんかね」
「……何者なんだ、お前達は……」
簡単には答えてもらえないだろうと思いながら、それでも問いは出してみた。
すると、意外な事に軽い調子で回答があった。
「ん……まぁ、アレだ。大体想像は出来てるんじゃないか? とある組織の構成員。んで、何か凄い力を持ってるらしいお前の事をボスが欲しがってて、まぁ仕事の流れでちょっと拉致らせてもらったってわけ。状況を少し理解したか?」
「……随分あっさり語るんだな」
「時間はあんまり取りたくないんでね。別の『組織』に先手を打たれる前にって話もあったし」
組織という言葉に、蒼矢は警戒心を強めていた。
背中に押し付けられる靴底の重さが、増した気がした。
フレースヴェルグと名乗っていた男との会話を、ふと思い返す。
『……家族は、母さんや父さん、弟はどうなるんだ』
『それについては何とも言えんな。俺やお前と『同じ力』を持った奴等が何かをしでかして、ぽっくり死んじまう可能性もあれば、何事も無い状態に出来る可能性もある』
家族の死。
その言葉をなぞっただけでも、背筋に冷たい物が奔った。
そんな蒼矢の心境などいざ知らずか、あるいは知った上でなのか、男はいきなり本題を切り出してくる。
「で、とりあえずだが……お前さんは『組織』に入るつもり、あるか?」
「…………」
意思を汲み取らず強制するようなものではなく、意思を確かめる質問の形の言葉ではあったが、感じられる物は悪意以外に無かった。
まず、間違い無く目前の男の背後にある『組織』は白では無いだろう。
仮に『誰かの安全を守る』事を前提に据えた活動をするホワイトな枠組みであれば、まずこのような方法で目的の人物と接触を図ろうとはしないだろう、と蒼矢は思う。
つまるところ、目的のために手段を選ばない類。
返答次第では蒼矢と関係のある人物を人質に取る事も辞さないであろう事は、容易に想像出来る。
質問にした理由も単純だろう。
目の前の男、あるいはその背後にある『組織』は、蒼矢に自らの意思で『組織』に従う事を選ばせようとしているのだ。
「悩むのは事由だが、あんまり時間は掛けるなよ。仕事が滞るのは勘弁願いたいんだ」
「……答える前に、こちらからも質問をしていいかな……」
「?」
恐らく、この状況で問う事が出来るのは一つだけだと思いながら、蒼矢は問いを出した。
「僕と一緒に居た、あの女の子はどうしたんだ……?」
「あぁ、その事か」
さして気にしていなかったかのような、本当に適当な調子で相槌が打たれる。
恐らく、無事に済ませてもらってはいないだろうと蒼矢は予想していた。
「おい、こっちに」
男は視界の外に居るのであろう別の人物に対して声を掛けていた。
やはり、事態に巻き込む形でこの場に磯月波音も連れ去って来たのだろう。
場合によっては、家族以外の人質要員として利用される可能性も十分に考えられる。
強引な伏せの状態に辛さを感じながらも、何とか首を動かし、男が声を掛けた人物の方へと振り向く。
そこには、磯月波音がいた。
目立った外傷などは見当たらず、まだ幸いにも乱暴な行為はされていないであろう事を理解した蒼矢は少しだけ安堵したが、
「…………」
何か、猛烈な違和感があった。
明るさというものを感じない表情に関してもそうだが、全体的な雰囲気が病院で会った優しい少女とは掛け離れているような気がする。
姿勢を低くして蒼矢に要件を投げ掛けていた男は、ゆっくりと立ち位置を波音と入れ替える。
会話の猶予を与えてくれた――そう認識した蒼矢は、疑念を浮かべながらも顔を上げて波音に声を掛ける。
「大丈夫? 乱暴な目に遭ったりしてない?」
「……この状況で、こちらの心配をしてくれてるんですね……」
「心配ぐらい……するに決まってるじゃないか。ほんの少しだろうと関わりがあるんだから」
「……そうですか」
「……ごめん。こんな事に巻き込んでしまって……」
ただ、聞きたい事を聞いて、言いたい事だけを言う。
ひょっとしなくとも、もっと掛けてあげるべき言葉はあったのではないかと思ったが、状況から考えてもこれが今の蒼矢にとっては限界だった。
「……蒼矢さんが謝るようなことじゃないですよ……」
波音は、首を横に振りながら平坦な声で返していた。
気遣うようなその言葉を、蒼矢は否定しようとした。
だが、その前にこんな言葉があった。
「……だって、今の状況になるように蒼矢さんを誘い込むのがわたしの役割でしたから……」
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
本当に、一瞬。
自分が何を言われたのか、蒼矢は理解出来なかった。
いいや、正確には信じられなかった――信じる事を拒んでしまっていた。
視界がぐらつき、胸の中央に風穴でも空けられたような錯覚に陥る。
そんな蒼矢の様子を気に留めてすらいないのか、少女は坦々と言葉を紡ぐ。
「ここまで簡単に誘導されてくれるとは思ってませんでしたよ。正直、最初に病院で会った時点で疑いを持たれて、そこで寸止めになるとも思ってたんですが……」
「…………」
「何と言っても病院ですからね。無許可で突然いなくなったりなんてしたら、間違い無く騒ぎになります。騒ぎになったら、別の『組織』……そうでなくとも物好きな人が出て来て邪魔してくる可能性も考えなければなりません。だから」
「……やめ、ろ……」
「何とかお医者さんの許可を得て、病院側にも『認知された上で』外出させる必要があったんです。後は、道案内をする流れの中で色々遣り繰りして、この通り。流れは飲み込めましたか?」
「もうやめろ!!」
これ以上は聞きたくない。
それ以上の言葉を紡いでほしくない。
答えはもう解ってしまった。自分で考える間も無く。
それでも、蒼矢は張り上げた声で反論する。
「君は……こんな事に加担するような人だったのか? いいや、そんなはずは無い。そんな事をする人間だとは思えない!! だって、だって……っ!!」
「そんなはずが無い、ですか……大して覚えてもいない相手なのに、不思議な事を言うんですね。わたしが、どういう人なのかも知らないはずなのに」
「それは……」
言われて、蒼矢自身も今になって気付かされた。
自分自身、この磯月波音という人物の事を何も知らないという事を。
最初に自分の事を覚えているかどうかを問われた事も、自身の視点から語った思い出も。
全ては偽り。ほんの僅かでも親しみを得て、この状況に誘導するための疑似餌に過ぎなかった……っ!?
そして、決定的な情報が蒼矢の視界に飛び込んで来る。
裏切り者の少女は、懐から何か黒くて硬そうな物を取り出したのだ。
テレビのリモコンのように平たく長い四角の先端に、数ミリ程度の短い電極がはみ出している『それ』の事を、世間では何と呼ばれていたか。
「これ、何なのか解りますよね?」
「……スタン、ガン……」
様々な形で設計され、電極部を対象に押し当て電流を流す護身用の武器。
少なくとも日常的に見られるような物ではなく、青少年による購入自体が基本的には制限されている代物なはずだが、やはり少し前まで蒼矢に声を掛けていた男の属する組織は法律も道徳もお構い無しなのだろう。
もう、嫌でも事の成り行きに気付く事が気付く他になかった。
気絶する前、蒼矢の意識を狩り取ったのは波音が持っているスタンガンで。
そして、背後から突如として感じられた気配の発生源であり、振り向く暇さえ与えずに蒼矢の首筋を狙う事が出来た人物として挙げられるのは……
「……本当に、君なのか……」
「だから、言ったじゃないですか」
そして、少女は笑顔を浮かべ、会話の最後をこう締めくくった。
「これがわたしの役目でしたから、と。信じていてくれて、本当にありがとうございました」
善意を向けられる資格自体、とっくに失われていると思っていた。
だから、例え自分が死ぬような事になったとしても、それ以上に酷い目に遭う事になったとしても、は当然の結末なのだろうと受け入れて納得する事が出来ると思えているつもりだった。
向けられている善意が偽りのものであったとしても、平気でいられるのだとも。
そんなわけがなかった。
心に救いを与えていたはずの物が、失われるどころか鋭い痛みを与えるためのナニカへと変じ、それを頭で理解した瞬間に悲しみが心の中を埋め尽くす。
そして、司弩蒼矢は絶叫した。
嘆くようなその声を聞いても、少女は何の言葉も返さなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
狼の獣人のような姿の牙絡雑賀は、現在進行形で焦っていた。
率直に言って、嗅覚を頼りに探すのにも限界があったのだ。
司弩蒼矢が拉致された現場と思われる場所から、明らかに人間のそれとは異なる臭いが『足跡』という形で察知出来はしたのだが、肝心の『足跡』が途中で途絶えてしまっていて、追跡に必要な情報が寸断されてしまっていた所為で。
(……くそっ……こうしている間にも、何か取り返すのつかない事になってるかもしれないってのに……!!)
幸いにも、司弩蒼矢かその友達の携行品と思わしきミネラルウォーターのペットボトル(飲み残し)の表面に確かな臭いが残っていたため、足跡とは異なる捜索に必要な情報を一つは確保出来ている。
だが、足りない。
確かに同じ臭いを感知する事が出来れば確実に移動先を割り出す事が出来るだろうが、そもそも同じ臭いを殆ど感じ取る事が出来ていないのだから、どちらにせよ拉致した側との距離を道標も無しに詰められなければ意味が無い。
(……鼻は今のところ頼りに出来ない。だがそれ以外に関する情報が無い)
こうなると、一度嗅覚に関する情報は頭の中から取り除いて考えてみる必要があるのかもしれない。
運任せに都会を奔走してもどうにもならない事ぐらいは、流石に理解出来ていた。
(……拉致する側からすれば、司弩蒼矢が連れ去られたり危害を加えられたりする場面を、一般の人間に見られなければいいんだ。デジモンの力を使って、力場を発生させるだけで一般の人間から目撃される事はなくなる。だけど、これだけじゃ足りない。何かをして司弩蒼矢の身動きを封じられたとしても、徒歩での移動にするとどうやっても移動中を感知される。力場の存在は、同じ電脳力者に感知される可能性を増させるわけだからな)
実際、牙絡雑賀は一度、裏路地から発生した力場を感知し、不良染みた風貌の電脳力者三人と対面している。
無論、同じ電脳力者が現場に立ち会っていたとして、見ず知らずの司弩蒼矢を助けるため動き出すのかという疑問もあるのだが、デジモンの力を使った痕跡というものは臭いという形で残されていた。
それが寸断されていたという事は、拉致を実行した電脳力者は途中からデジモンの力を使わずに司弩蒼矢を連れ去ったという事になる。
デジモンの力を使っていない時には力場が発生しないため、一般人の目にも入る。
状況を一目見て通報をする人間が居てもおかしくは無いが、事実として誰かが通報をしているようには見えない。
普通の人間からも発見される状態の上で、自分達や司弩蒼矢の姿を都合良く隠し、短時間の間に大きな距離を離す事が出来る手段。
シンプルに考えてみると、答えはとても単純な物でしかなかった。
(……車。単純だが、中の様子を外部から探られず、多人数で移動するのならこれしかない)
――次に、どのような車ならば目立たずに移動出来るかを考えてみた。
(……今は『消失』事件の対策で東京都の各地域で警戒態勢が敷かれていたはずだし、別の地域にまで移動している可能性は低いはず。スモークフィルムが張り付いた車なんて、規制が入った今の世の中じゃ逆に目立つ。運転席にでも貼り付けてたら、未成年の無免許運転を怪しんで警官が確認に乗り出す可能性だってある。フルスモークだったら尚更だ。拉致する側からしても運転者の視界は確保したいだろうし、スモークフィルムを使わずに車内を隠すとして、仮に逃走中に車そのものを力場で認識出来ないようにしたら間違い無く事故が起きるから論外。だとすれば、荷物という括りで『中身』を誤魔化せる大型のトラックか?)
――そして、移動出来たとしてそれがどのようなルートを辿るのかを考えてみた。
(大型のトラックなら人間を荷物扱いで乗せれば外部から視認される事も無くなるが、仕事に関係無いイレギュラーな道を進んでいたらやっぱり目立つ。だったら、移動区域はやっぱり街の中に絞られる。時間も関係無く、ルートが不規則でも目立たない、あるいは怪しく思われないもの。ネット通販なんて便利な物はあるが、運送業は無いな。決まった場所に決まった時間で向かう以上、ルートは絞られるから。だとすれば、エアコン絡みの専門業者か光ファイバーや高速無線回線を保守点検する電装業者業者。どちらも決まったルート自体が存在しないし、しっかりとした面目があるわけだから怪しまれない)
後は、探すだけだった。
広大な街の中で一つの車を探し当てる事自体が中々に難度の高いものだとは思うが、少なくとも探すべき目印を決められた事は捜索の進展の繋がるだろうと、思う。
実際には、こうして深く考えてみれば自分は前に進めているのだと錯覚でき、不安を多少は打ち消せると思っての事に過ぎないのかもしれないが。
と、当ての薄い捜索活動に再び走り出そうとした時だった。
「あ、いたいたー。ちょっとそこの人待ってくださーい」
思いっきり棒読み染みた声が、雑賀の耳に入って来た。
疑問を覚えながらも一応声のした方へ振り向いてみると、侍の容姿に似せた鳥人がいた。
誰がどう見ても人外の類で、何らかのデジモンの力を行使している電脳力者なのだとすぐに理解した。
「……誰だ? その姿を見るに電脳力者みたいだが」
「あぁ、こちらからすると初対面ですよねー。僕、鳴風羽鷺って言います。縁芽苦郎さんのパシりって言えば、大体の立ち位置はわかると思うんですけどー」
縁芽苦郎のパシり。
言い方に疑問こそ浮かぶが、少なくとも敵同士の繋がりではない事は理解出来た。
そして、この局面で接触を図ってきた以上、ただ挨拶に来たわけではないであろう事も。
「その苦郎のパシり君が何の用だ? 今かなり忙しいから要件は手短に済ませてほしいんだけど」
「その要件というのは、苦郎さんの言っていた司弩蒼矢という人物の事ですか?」
コピー用紙を吐き出すような緊張感の無い口調だったが、発言自体は重要な意味を持つものだった。
縁芽苦郎――ベルフェモンと呼ばれる『七大魔王』を宿す電脳力者が、司弩蒼矢について何か発言をしていた。
彼が関心を持っているという事は、今回の事件には『シナリオライター』と呼ばれる組織が関わっている可能性が浮上する。
「……やっぱり、今回の件についてあいつも何か知っているのか?」
「その口ぶりからすると、既に状況が動いてしまってるみたいですねー」
「教えてくれ。何であいつが狙われたのか、あいつは何処へ連れて行かれたのか、知っている事を全体的に!!」
「うーん、まずは落ち着いてほしいんですけ……その顔で迫られると普通に怖いですってばぁ!?」
よほど恐ろしい表情になっているのか、鳴風羽鷺と名乗る鳥人は一歩後ろに下がっていた。
両手の掌を前に突き出し、落ち着くようジェスチャーで示しているようだ。
それを理解した雑賀が何とか意識して表情を和らげなものにしてみると、多少はマシになったのか鳴風羽鷺は案件を喋りだした。
「まぁ、僕の方も苦郎さんからついさっき聞いたばかりなんですけど……まず、その司弩蒼矢って人を真っ先に狙うであろう組織の事です」
「……『シナリオライター』の事なら既に聞いてるんだが。まさか、ここに来て別の『組織』だなんて話じゃないだろうな」
「そのまさかなわけですけど。確か、苦郎さんは『グリード』って名称で呼んでましたよ。正直名称なんてどうでもいいですが、実際その組織は『シナリオライター』とは別の組織として扱うべきだって話らしいです」
「…………」
正直なところ、疑問はいくつか浮かんでいた。
確か、縁芽苦郎の話では『シナリオライター』という組織自体、どのような思惑でもって活動しているのか詳しく解っていないとの事だった。
その言葉自体が嘘で本当は核心に迫っているという可能性も決して無いというわけでは無いが、それはそれで話さない理由があるのかという疑問が生じてしまうので、本当に知らないのだと雑賀は思う。
一方で、鳴風羽鷺の口ぶりからすると、司弩蒼矢を狙っているのが『グリード』という組織であるという事に関しては、確信をもって言っているような気がする。
更に言えば、わざわざ別の枠組みとして強調している辺り、むしろ『シナリオライター』以上に危険視さえしているような……?
「で、その『組織』の目的なんですけど、どうやら司弩蒼矢に宿っているデジモンの力を欲しているらしいです。苦郎さん曰く、何がなんでも『グリード』の手中に収められるのを避けたいんだとか」
「……それで、俺にあいつを助けに行けってか? それなら元からそのつもりだし、何というか取り越し苦労だな」
「あぁ、そういうわけじゃなくてですねー」
率直に浮かんだ予想を否定され、思わず疑問符を浮かべる雑賀。
そして、鳴風羽鷺は間延びした口調のままこう言った。
「どうせ『グリード』の手に渡るぐらいなら、殺して完全に無害化した方が確実。だから、今回の事件にあなたは首を突っ込まないでくれ、との事です」
呼吸が、一瞬だが確実に止まった。
言われた言葉の意味を、すぐには理解出来なかった。
そして、理解が追い着いた途端に、急速に頭の中が沸騰し始めた。
「……おい、待ってくれ……」
「はい?」
「殺して、無害化……? それはつまり、そういう事なのか? 司弩蒼矢を、殺すって。あいつがそう言ったのか!?」
「確かに言ってましたよ。そうじゃなければ、別の案件だって抱えてるのにこうして伝言を伝えさせる理由が無いですし。多分、戦闘に巻き込みたくないとかじゃないですか?」
「そんな気遣いなんてどうでもいい!!」
確かに、恐ろしくないと言えば嘘になるほどの力ではあったかもしれない。
出会った当初は理性を失って本能に身を任せていたようだったし、視界に入った途端に攻撃を開始していた事を考えても危険性は否定出来ない。
理性を取り戻した後も『失った四肢を取り戻す』という動機で戦闘を継続し、実際のところ死ぬか死なないかの寸前にまで追い詰められてはいた。
だが、それにしたって。
「……何でだよ。その『グリード』って組織がどういう物で、どういう奴が仕切っているのかは知らないけど……何でその組織の利益になる力があるって『だけ』でアイツが殺されないといけない!? アイツには、殺されてもいい理由なんて……!! 何を考えてやがるんだあの野郎は!?」
理由の納得など、出来るわけが無かった。
人の命を奪うという事がそもそも容易に受け入れられるものでは無いのに、ましてや利益の阻止などという理由などで認める事など出来るわけが無い。
狼狽する牙絡雑賀に鳴風羽鷺は困ったような表情こそ浮かべているが、そこから感情を読み取る事が出来ない。
対岸の火事でも眺めているような、他人事の反応だった。
だから、何の動揺も無く言葉を紡いでいた。
「うーん、何で殺されないといけないかって聞かれても、理由なら既に言ってますよ。宿っているデジモンの力を、『グリード』って組織の利益に繋がらせないため。要するに、司弩蒼矢という人自体が重要なんじゃなくて、宿っているデジモンの事が一番重要みたいですねー」
宿っているデジモンの力が、敵である組織の利益に繋がるから。
偶然宿ってしまったのであろう人間が誰かなど関係無く、ただ成り行きでそうなったから。
思えば、病院で自身に宿るデジモンの事を雑賀に対して伝える際に、縁芽苦郎自身も言っていたではないか。
これは、椅子取りゲームの結果だと。
その言葉の意味が、ここに来て解ったような気がした。
だが、そもそも。
「……それほどまでに、殺さないといけないような『力』じゃなかったはずだぞ。司弩蒼矢に宿っているのは、成熟期デジモンの『シードラモン』だったはずだ!! 確かに危険な力を持っているかもしれないが、苦郎の奴に宿っている『ベルフェモン』に比べればずっとマシなはずだろ……!!」
「それなんですけど、正確には現時点で『グリード』の利益になるデジモンの力を振るう事が出来るってわけじゃないみたいですね。いずれ成長した結果、危険視するようなデジモンの力を得る、あるいは力そのものが変質する可能性が高いから、未然に阻止する必要があるんだとか」
確かに、本来デジモンとは『進化』というプロセスを経て、段階を繰り上げる形で個の更新を続ける存在だ。
今でこそ宿している力は成熟期がベースの物だが、縁芽苦郎やフレースヴェルグのように究極体のデジモンの力を行使出来る電脳力者が実在する以上、雑賀自身も含めたあらゆる電脳力者の力には『進化』の可能性が存在するのは間違いない。
そして、もし仮に宿しているデジモンの力が、ホビーミックスされ誇張表現すらされている『設定』とそう大差の無い物であれば、その脅威の度合いは確実に増す。
つまりは、こういうことなのだろう。
敵対する組織の益となり、脅威と考えるには十分な力をいずれ得る可能性があるから、その前に芽を摘んでしまおう、と。
「……ふざけんなよ。いったい何なんだ、その……危険視してるデジモンってのは」
自分で問いを出しておきながら、話を聞いただけである程度の予測は出来てしまっていた。
七大魔王という、悪性を担うデジモン達のトップランカーとさえ呼べるデジモンの力を持つ者からして、それでも脅威と呼べるようなデジモンなど、数が限られすぎたから。
鳴風羽鷺は、あくまでも調子を崩さぬまま嘴を開いた。
そして、最悪の答え合わせがやってきた。
「えっと、確か『リヴァイアモン』って苦郎さんは呼んでましたね。僕はそんなに詳しく知ってるわけじゃないんですけど、苦郎さんに宿っているのと同じ『七大魔王』って枠組みにあたるデジモンみたいです」
次の話へ
時は流れて時刻十三時半頃。
疲労から少々仮眠を取っていた牙絡雑賀も、また動き出そうとしていた。
彼の衣装は病院から出た時の白と黒の学生服姿ではなく、赤色のTシャツと生地が薄めで黒色のズボンという組み合わせに変わっていた。
ただでさえ帰宅する前に面倒なチンピラ三人組とエンカウントし、思いっきり汗水を垂らした服をいつまでも来ていたいとは思えなかったし、何よりこれからの事を考えるとある程度軽めの衣装で身を包んだ方が良いと感じたからである。
母親との会話は済ませた。
多くを語られたわけでもなく、交わした言葉も少なかったが、気持ちは多少理解出来た気がした。
もしかしたら単に諦められているのかもしれないが、雑賀としてはあまり時間を掛けずに済んて良かった、と思えた。
あまり多く会話をすると、決断を鈍らせる気がしたから。
外出するにあたり、彼が荷物として用意した物は一つだけだった。
現実においてはただの玩具でしかない青色の機械――デジヴァイス。
携帯電話や財布など、明らかに必要だと思える物を部屋に置き放しにしておきながら、何故かそれだけは持って行った方が良いと判断していた。
何も起きない可能性の方が圧倒的に高いが、縁芽苦郎の言葉が妙に頭に残っていた。
「何が起きてもおかしくない、か」
その言葉に込められた意味は今でも解らない。
だが、解らずとも意味が存在しないわけでは無い。
「それなら、どんな奇跡が起きたってご都合主義なんて思わなくても良いよな」
どの道、時間をかけ続けている事は出来ない。
このまま平穏の中で安らぎに浸るという道もあったが、それも長くは続かないだろう。
覚悟を決めて、事態と向き合うべきだ。
自分の部屋を出て、母親の居る部屋まで向かい、一言。
「ちょっと外出してくる」
「アンタ、また危険な事に首突っ込むつもりじゃないでしょうね?」
「流石にこんな時間だし、不良に首根っこ掴まれるみたいな事は無いと思うけど」
「というか気になってたんだけど、自転車はどうしたの? アンタが見つかった場所の付近には無かったって話だけど」
「……うげ、もしかしたら俺を殴った奴等が回収したのかも。カギ付けたままだったし」
「ヘマをやらかしたねぇ」
母こと栄華の言葉にぐぅの音も出ない雑賀。
……実際の話をすると、回収されたかどうかの確認はしておらず、そもそも先日の司弩蒼矢戦から今にかけて自転車の事をすっかり忘れていたのだが、詳しい情報まで口にすると雑賀が先日やった事まで感付かれる恐れがあったため、とてもではないが喋る事は出来なかった。
ともあれ、
「それの確認も含めて用事があるから……」
「そんな調子で『少しだけ』外出するとか行った矢先に大怪我したのは誰だっけ?」
「流石にこんな短期間で二度もこんな事にはならないよ!! こんな昼間だし、不意を突かれる心配も無いし!! ちゃんと帰ってくるし!!」
「……そう。そう言うならいいけど」
渋々ながら納得してくれたらしい。
そう判断し、踵を返して靴を履き、家を出ようとした時。
その時になって、牙絡栄華はこんな言葉を放って来た。
「ちゃんと、帰って来なさいよ」
「…………」
込められた意味は単純な物だっただろう。
常日頃から聞き慣れた声の、珍しくもないただの言葉。
それに対し、牙絡雑賀もまた珍しくない普通の言葉で返す。
「解ってるよ」
それだけだった。
玄関のドアを閉め、彼は自分の居場所から出て行く。
外の空気を吸う。
(……水ノ龍高校で起きた事件の被害者。怪我の内容は切り傷と肋骨の骨折などの重軽傷)
こんな事は、ただの偽善かお節介なのは解っているつもりだった。
(情報源が正しければ、司弩蒼矢は事件当日あの学校に行っていた。アイツの宿しているデジモンは『シードラモン』で間違いない。だけど、あの体で出来る攻撃手段で……あの怪我の内容を再現出来るのか? アイスアローなんて撃ったら切り傷以上に凍傷が生じているはずだし、未遂だったにしろあの時点でのあいつの目的は四肢の強奪だった)
自分が何かをやって、どうにかなるような問題だとも思えなかった。
(もしあいつが本当に学生を襲っていたとしたら、それで被害者を生んでいたら……怪我の内容はもっと別の物になるんじゃないのか? 技を行使していなかったのなら、それはそれで攻撃の手段が限定される。なら……)
だけど、この一点だけは。
一度戦った事のある自分だけにしか、伝えられないかもしれなかった。
(……昨日の事件。現場にはもう一人……別の電脳力者がいた? だとしたら……まさか!!)
だから。
(あいつは高校に来た時、学生を襲ったんじゃない。もう一人の電脳力者から学生を守るため、覚えも無い内に戦っていたんじゃないのか? 被害者の怪我の原因は、その『もう一人』の方じゃないのか!?)
牙絡雑賀は走る。
あの哀れな怪物が優しい人間である事を知っているからでこそ、罪悪感に駆られて日常へ回帰出来なくなる前に真実を伝えなければならない。
そして、もう一つ。
もしも仮説が正しくて、司弩蒼矢と戦った『もう一人』が存在するのならば。
その『もう一人』の人格次第では、彼を逆恨みで襲いに来る可能性がある。
その時、もし彼が罪悪感に駆られてマトモに戦えない状態だったとしたら?
(……くそったれが。病院に居るって事を知られてなければいいが……!!)
急がなければならない。
場合によっては、取り返しのつかない事態に陥る可能性すらあるのだから。
彼は肉体の情報を書き換え、狼男のような姿へ転じると、近辺に建てられている階層の少ないビルを足場に連続して跳ぶ。
ビルからビルへ次々と飛び移り、つい数時間前には自分が運び込まれていた病院の前まで到達する。
周りに人の視線が存在しない事を確認してから、彼は肉体の情報を元の状態へと戻す。
急ぎ受付係のお姉さんへ、司弩蒼矢の部屋の番号を確認しようとしたが、
「司弩蒼矢さまなら、少し前に友達のお方と一緒に電動車椅子で外出しましたよ」
「えっ……何処に行ったのかは解りませんか?」
「念のため友達のお方に専用のGPS機能有りの携帯電話を持たせていますので、すぐに解ります。少々お待ちいただけますか?」
「出来る限り、早めにお願いします!!」
焦り方か言動に圧が加わっている気がしたが、受付のお姉さんは意外とクールビューティーなタイプだったのか、雑賀とは対照的に冷静な態度で仕事をしてくれた。
そして、情報は表示された。
受付のお姉さんへお礼を言い、病院を出て視線の有無を確認した後再び肉体の情報を変換させる。
「……何事も無いでくれよ……!!」
居場所は解った。
だが、心の中の不安感が治まる事は無かった。
何が起きてもおかしくない――その言葉に、妙な信憑性が宿っていた。
◆ ◆ ◆ ◆
防犯オリエンテーションが終了し、一汗を掻いて昼飯を食する時間になった頃。
全体の比率から見て弁当持参の生徒が少ない方なのか、あるいは単に行事で使われたスタンプカードにスタンプが溜まった事からか、食堂には数多くの生徒が集まっていた。
辺りでは(一部は限定モノらしい)学食やらを食べながら雑談をする声が群がっており、無関係な人間が特に意識する必要は無いにしろ、少なくとも(『怠惰』を司る魔王デジモンを脳に宿している)縁芽苦郎にとっては居心地の悪い空間と化していた。
(……いつも思うが、あんな茶番劇を真面目にやつ奴もいるんだねぇ……)
隠そうともせずに溜め息を漏らすが、当然それを気にかける者はいない。
ちなみに縁芽苦郎の本日の昼食は購買で手に入れた『導火線握り』と言う名のギャンブル食で、安価な代わりに中身が何なのかを全く明かされていない(高確率で残り物の寄せ集めが入っている)大きめのおにぎりである。
夜中になって半額のシールが貼られた惣菜に近い扱いな故に、コストを気にする一部の学生からは賛否両論な人気を得ているらしい。
一口ずつじっくり食べていると、相対する席に座る者が居た。
紫と黄色の縞模様な長袖上着と深緑色のズボンを履いた、何とも個性的な服装の女。
そいつは、無遠慮に苦郎へ声を掛け始める。
「やぁ、縁芽苦郎くん。体の調子はいかがかな?」
「……自称中立女」
「いくらなんでもその呼び方は無いんじゃないか? もっと捻ってくれないと困る」
「サツマイモ女。年齢詐称女。一番簡素なものだと腐れ女もあるが」
「……随分と嫌われてるようで残念だよ。いやはや……というか誰が年齢詐称だ」
視線の先に見える女は、一日前に牙絡雑賀へ電脳力者の情報を囁いた人物だった。
苦郎は特に表情を変えず、握り飯を貪りながら言葉を紡ぐ。
「何の用だ。『シナリオライター』への勧誘だったらお引取り願うが」
「いやいや、そんな事は鳥野郎や『ラタトスク』の役割だからやらないさ。私は単に雑談をしに来ただけだよ」
「……雑談、ねぇ……雑賀の奴もそんな風に唆したのか?」
「失礼な。至極普通に語ってあげただけだよ」
「あいつは普通の人間として過ごしていた。電脳力者としての情報なんて、マトモな認識を持った奴からすれば狂言と変わらない。……何でわざわざ促した。アイツは、紅炎勇輝と違って『シナリオライター』の目的に関連性は無いんじゃないのか」
会話自体に嫌気が差しているのか、苦郎は苛立った口調で問いだした。
日常の彼を知る者なら、あるいはその口調から伝わる響きに身をすくめていたかもしれない。
紫と黄のサツマイモのような色合いの上着を来たその女は薄く笑ってから、
「関連性が無い……だからでこそ、とは考えないのかな? 計画の重要なピースと友人関係を持った人物。胸に抱く感情が何か大きなイレギュラーを生み出すかもしれない。私はそれが愉しみなんだよ」
「……確かに、アイツに電脳力者としての素養がある事はこちらも理解していた。だが、不可解な事がある」
「何がかな?」
「わざわざ特定した人物を最初に闘う相手として設定した事だ。アイツをただ覚醒させるってだけなら、あんな回りくどい方法を取らなくてもよかった。それこそ下らない事に力を使うチンピラ共に相手をさせるとかな」
「いきなり多人数と闘わる方が死ぬ可能性だって高いだろう? まぁ、それはそれで違う展開を見られたかもしれないし、私としても構わなかったのだが――」
「死ぬ可能性なんて最初から考えてなかったんだろう。少なくとも、優先順位が高い方は」
苦郎は遮るように言葉を切り出して、断言する。
「雑賀の奴が闘う事になった司弩蒼矢って男。率直に言うが『シナリオライター』の計画に使えるピースの一つなんだろ。それも、何らかの『重大な要素』って奴を含んだ、な」
「否定も肯定もするつもりは無いが、それならキミはどう考えているのかな?」
「雑賀の奴はともかく、司弩蒼矢が宿しているデジモンはシードラモンなんて成熟期程度のデジモンじゃない。そういう事だろ」
明確な情報は、無かった。
あくまでも、直感を口にしているだけ。
「つーか、わざわざ組織の構成員が自身じゃなく他人の意志に従う形で、そいつ自身からすれば縁の無かった人物と接触したって時点で気付くに決まってる。接触を図った理由は? 四肢の半数を失った事も含めた事情で、感情がマイナスの領域に移行していたであろうこのタイミングを選んだ理由は? 何より、ただ電脳力者としての戦力が欲しいだけだったのなら、何故最初からもっと簡単な手段を取らなかったのは? 家族やら友達やら、解り易い『盾』を用意でもすれば汚れ仕事を押し付ける事が出来たはずなのに、こんな手間の掛かる流れを選んだ理由は?」
「…………」
しかし、それでも苦郎は一つの推論に到達する。
どのような『理由』があれば、行動は実行に移されるか――それを推理する形で。
「答えは簡単だ。『それ』を指示したヤツが想定しているデジモンを、厳密には宿している電脳力者を覚醒させ、あわ良くばその力を組織に取り込むため。……余程その司弩蒼矢ってヤツが宿しているデジモンは強い力を持ってるらしいな? そして、その力を自らは手を下す事も無いまま覚醒させ、手中に収めようと考えているって辺り、バックには相当臆病なクズ野郎が潜んでいるのがよく解る」
「……ふむ」
女は感心でもしたかのように声を漏らすと、いつの間にか自動販売機から購入していたらしい缶ジュース(ラベルには『煎り胡麻サイダー』とある)を一度口に含んでから、今度は自ら問いを出してきた。
「そこまで言うのなら、もうキミにも『正体』は掴めているのではないかな?」
「デジモンの事を知っていながら、この時点で気付かないのは馬鹿しかいないさ」
「それなら、何故キミは関わろうとしなかったのかな? キミほどの力を持つ者なら、今回の一件をより簡単に終わらせる事が出来ると思うのだが」
「ハッピーエンドかバッドエンドかは別としてな」
苦郎は吐き捨てるような調子でそう言った。
自身の『力』を理解している者の、忌々しげな言葉だった。
「そう言って『誘導』でもするために来たのか?」
「毎度毎度人聞きの悪い事だよ。君に恨まれるような事をした覚えは無いんだが」
「好きになる理由にも覚えが無い」
あくまでも素っ気無い調子で言葉を口にする苦郎に対して、女はあくまでも薄く笑みを浮かべていた。
この会話も、彼女にとっては娯楽の一種に過ぎないのだろう。
それを理解しているからでこそ、付き合わされている苦郎からすれば不快感を感じずにはいられない。
さっさと飯食って帰るか、と考えるぐらいにはイラついて来た頃、
「まぁ、残念な事にキミの推理には一つだけ間違いがあるわけだが」
「……へぇ」
その指摘には何らかの興味を抱いたのか、苦郎はその言葉の先を促した。
女はスラスラと原稿でも読むような調子で述べる。
「今回の一件は確かに『シナリオライター』の計画の平行線上に存在こそするし、司弩蒼矢くん自身が望むのなら加入させても構わなかったらしいけど、今回の一件を仕組んだのは別の組織だよ。まぁ、目的の規模から考えるとファーストフード並みに安っぽい組織なんだが」
「……その安っぽい組織が、わざわざ『アレ』を狙うのか? 制御出来なければ滅びるのは自分達だってのに」
「デメリットを考慮した上での行為なのか、あるいは欲望が先走りしてしまったのか、どちらなのかは知らないがね。まぁ、所詮は格下の組織だよ。『シナリオライター』からすれば、好きにしろって感じなんだろうね。結果的にその動きが計画の進行を早めているだけだし」
「誰かが事を起こせば、それに応じる形で電脳力者に覚醒する人間が増える。そうして力を得た人間が新たな事を起こし、また増える…………まぁ、お前等からすれば好都合だろうな。そんな風に火種を増やす連中の存在は」
「いやはや、近頃のチンピラグループといい、こうも簡単に組織化した枠組みが増えてくると勢力図がステンドグラスのように色分かれしそうだよね。面白い事になりそうだし、望むところではあるんだけど」
実際のところ『シナリオライター』以外の組織も司弩蒼矢に宿るデジモンの力を狙っている、という情報は苦郎からしても初耳であったため、得にならない情報では無かった。
尤も、肝心の『狙っている組織』の潜伏場所が解らない以上、潰すにしてもどうするにしても苦労しそうな話だが。
これはどちらにせよ後で羽鷺の奴と情報の交換が必要だな、と内心で方針を決める苦郎だったが、
「あのね。他人事のように言っているが、その組織の中にはキミのお知り合いが居るんだよ?」
「………………」
その言葉が、どのような意味を指していたのかは当人以外知る由も無い。
少なくとも、苦郎の目は訝しげに細まっていた。
まるで、悪夢か何かでも思い出すかのように。
「ついでに言えば、そのお知り合いの狙いは司弩蒼矢だけではない。そろそろ、休憩も終わりにした方がいいんじゃないかな? 『怠惰』のお兄さん?」
「……それが言いたくて痺れを切らせたわけか。下らねぇ」
殆ど嚙む事もせず握り飯を頬張ると、苦郎は席を立ち食堂の出口に向かって歩き出す。
紫と黄色の服を着た女もまた言いたい事を言い終えたためか、これ以上の言葉は必要無いと判断したためか、言葉でその足を止めようとはしなかった。
雑踏も雑音も無視し、誰も彼も楽しげな日常を謳歌している中で。
縁芽苦郎は、脳裏に非日常の現実を浮かべながら、呟いた。
「休暇は終了だ」
◆ ◆ ◆ ◆
病院を出て約一時間ほど経過し、現在時刻は一時半過ぎ。
磯月波音と共に、周囲にアスファルトやコンクリート製の建物が建ち並ぶ東京の街道を電動車椅子で進んでいた司弩蒼矢は、激しい運動をしていたわけでも無いにも関わらず絶大な疲労感を感じていた。
その原因が何かと問われれば、人によっては好ましかったり好ましくなかったりする、雲が殆ど見えない青天の空と言う以外に無い。
「……暑い……」
彼は、現在進行形で日光に焼かれていた。
夏という季節の中では中旬に該当される七月の気温も、本番とも言える八月に比べれば幾分マシだと言われているらしいが、直射日光と言う名の凶器の前ではそんな言葉は何の気休めにもならない。
所属している水泳部の部活動を行っている時を除くとインドアな生活スタイルの蒼矢は、本音を言えば夏の気温が苦手で、目的が無ければこんなクソ暑い日に外出などしたくは無かった。
失踪事件の関係で下校時刻が調整されているため、街道には寄り道をしている制服姿の生徒が多く見られると思われたが、やはりこの季節――涼しい場所の方が好ましいためか、何らかの建物の中で暇を潰したり娯楽を営んだりする者の方が多いらしい。
街道を歩いているのは単に何処かへ移動中の人間らしく、思ったほど人込みが形成されてはいなかった。
街道を歩く人間が少ない事自体は蒼矢からしても好都合だったのだが、その一方で夏の気温は無言で彼の体力を削る。
「地球温暖化ってホントに対策とか実行されてるの……? 去年よりも暑い気がするんだけど……」
「うーん、田舎とかだと解らないですけど……扇風機よりはエアコンの方がよく使われていると思いますし、あんまりされてないと思いますよ……。まぁ、気温って一度上がるだけでも相当変わりますし、蒼矢さんはしばらく病院に居たわけですし……慣れてないだけかも、です」
「……根性論なんて当てにならないけどさ。慣れでどうにかなるものなの? これ」
実際のところ、教科書を見ても解る通り生物は長い時間の中で環境に適応するため進化を果たしているらしいが、文明や科学が発展しなかったら人間は肉体的に進化出来たのか? と問われると怪しい所である。
猿やらゴリラやらチンパンジーやら、人間と同じ霊長類に該当される生物は確かに存在するが、あれ等が寒冷地や砂漠に放り込まれて生き続けられるのかと聞かれれば首を横に振るしか無いのだから。
現実の環境は、根性論でどうにか出来るほど都合良くは無い。
(……まぁ、僕や牙絡雑賀って人みたいに、実際どうにか出来てしまったパターンも有りはするんだけどね……暑さには全然対応出来てないと思うけど)
尤も、ファンタジーの世界観でも極端な暑さと寒さの両方に適応出来る生物などそう居ないわけだが。
喉が渇いたので事前に補充していたミネラルウォーターを口に含むと、大袈裟だが生き返ったかのような感覚があった。
しかし、思ったよりも飲み過ぎてしまったのか、もう一本目のペットボトルの中身は底を尽き掛けていた。
残る一本は残量に気を付けないとな、と内心で呟くと、何を考えていたのか波音が話しかけて来る。
「……ところで蒼矢さん。やっぱり、本当に、わたしの事は覚えてないんですよね……」
「さっきもそんな事を聞いたけど、覚えて無いよ。水泳部で練習してる時って、あんまり他人の事を意識してない事が多いし」
「……それは確かに残念なんですけど……うーん……ボソボソ……」
何かを言いたげにしながらも、実際には何か躊躇う理由でもあるのか口を噤んでしまう波音。
頭上に疑問符を浮かべる蒼矢は、何とか自分の記憶と少女が一致する場面を想起しようとするが、やはり何も思い浮かばなかった。
深く意識するような事でも無いとは思うのだが、有り得る可能性を蒼矢は口にしてみる事にした。
「……もしかしてだけど、君と僕ってずっと前に出会ってたりするの?」
「!! は、はい。そうなんですよ!!」
とても解りやすく期待に満ちた声を上げる波音。
あ、これは正解みたいだ、と確信した蒼矢は続けてこう言った。
「じゃあ、どんな事があったのかを教えてもらえないかな? どうしても思い出せないみたいだから」
「……えーっと……あ、ぅ……」
すると、強く反応を示していた数秒前から一転、またも波音は口を噤んでしまい、更には顔を赤くしてしまう。
どうにも少女が過去の出来事を口に出来ない事情が解らない蒼矢は、首を傾げるしか無い。
ともあれ、特に何事も無いまま彼等は道を進めていた。
会話の数こそ決して多くは無いが、不思議と不快感が拭われているような感覚を蒼矢は感じていた。
明確な記憶こそ無いが、言われてみればこの少女と自分は何処かで会っていたのかもしれない――そんな考えすら浮かんでくる。
と、何やら回答に困っているらしい少女は、何やら強引に話題を変えようとしているのか、こんな事を聞いて来た。
「……そ、そういえば、蒼矢さん。もう一つ聞いてもいいですか?」
「何だい?」
「蒼矢さんが何処に行こうとしているのか、聞かないままここまで付いて来ましたけど……何処に行くつもりなんですか?」
「……ああ、その事か」
蒼矢自身、今になって気付いたようだった。
思えば、ただ目的が気分転換というだけで、そのための目的地に関しては特に決めては無かった。
元々娯楽施設に関心が乏しかった事もあり、その手の知識が殆ど無いという事情もあるのだが、言われてみれば目的地が設定されていない以上、このままではクソ暑い炎天下の中を電動車椅子まで使ってウロウロしているだけという始末になってしまう。
ただでさえ広い東京の街で、自分が気分転換のために行きたい場所――それを少しだけ考えて、蒼矢は口にした。
「……水の見える場所、かな。自分でもよく解らないんだけど、水のある場所の近くに居ると何となく安心するんだよ」
「あ、それ解ります。わたしもプールに行くのが楽しみだったりするので……」
「ふーん……奇遇な事もあるものだね」
蒼矢自身、水のある場所に近くに居ると安心出来る理由はもう解っている。
水の中で主に生息しているのであろう怪物を、宿しているから。
その環境が自分に最も好ましいものなのだと、宿る怪物と同じように認識してしまっているからだろう。
だが、それを磯月波音に打ち明ける事は出来ない。
そんな事を言ってしまえば、自分が化け物であるという事実を晒してしまうも当然なのだから。
(……まぁ、何となく安心するってだけで納得してくれたのが救いなのかな……)
「うーん……海も湖も流石にここからだと遠いですし、水面の見える場所となると……うーん、プールは今行っても仕方ですし……水族館にでもします?」
「何処でも良いよ。無駄に時間を使うより、面倒でも有意義に時間を使った方が良いと思うし」
何にせよ、目的地は設定出来た。
蒼矢からすると、水族館が今の自分にとって気分転換を出来る場所かと問われると確信出来ない一面もあったのだが、少なくとも炎天下の街よりはずっとマシだと思っての判断だった。
波音は早速携帯電話のGPS機能を起動して目当ての水族館までの道順を調べ始め、蒼矢は回答が出るのを待つ間、無駄とは思いながらも自らに宿る力の事について考えた。
(……結局、僕に宿っている力……というか、怪物の『正体』は何なんだろう)
ごく自然な疑問だった。
実際のところ、司弩蒼矢は自らに宿る怪物の事を何も知らない。
現時点で理解出来ているのは、淡水か海水かはさて置いて水の中を生息地としているという事と、体内に取り込んだ水分を氷結化させ無数の矢として放つ事が出来る能力に、自身に宿る怪物は『デジモン』と呼ばれる存在であるという事だけ。
肉体を変化させている時でこそ自然に闘う事を出来てはいたが、そもそも『それ』自体がおかしい事だった。
(……取り込んだ水分を氷の矢に変換する。体の構造上でそれが出来るのだとしても、僕はそもそもその『やり方』を知らないはずなんだ。しかも、それを放ったのは失っていた腕を補う『蛇口』……当然そんな部位は人間に無いし、同じ理屈で僕は『やり方』を知らなかったはず)
実際、司弩蒼矢はフレースヴェルグと名乗る男から、自分自身を含めた身の回りに存在する物質の情報を『書き変える』能力について聞かされた覚えはある。
だが、そもそもその『やり方』を教えてもらってはいないし、そもそもあの男自身が蒼矢の目の前で『情報の変換』を実践していたわけでもない。
資材が有っても設計図が無ければ立派な家を作る事が出来ないのと同じで、蒼矢が『情報の変換』を実際に行うには、そのための『やり方』を知っているという前提が必要になるはずなのだ。
蒼矢に宿る力が現実に現れ、彼自身認識する事になったのはつい最近の事。
そして何より、その『力』を初めて使った際の記憶は不明確。
解っているのは、知らぬ間に自分が誰かを傷付けてしまったという事実のみ。
(牙絡雑賀って人は解らないけど、僕が生まれた時から人間とは違う存在だったなんて事は考えられない。少なくとも、『これ』はいつかの過去に後付けされた力だ。そうじゃなかったら、この年になるまで怪物――デジモンの力に覚醒する事が無かった理由が解らない。ただでさえ制御出来ていないんだから、何かの拍子に『暴発』してしまう可能性だって考えられるはずだ……)
何らかの出来事があって、それが切っ掛けでデジモンを宿すようになった。
宿ったデジモンの力は何らかの条件で覚醒し、人間を人外の存在へ変える。
予想を立てる事は簡単だが、その原因は想像も出来ない。
情報が、あまりにも足りていない。
(……一番最初に体を変える前……確かに頭の中で自然と『水の中を泳ぐ龍』のイメージが浮かんでいて、それを軸にして体が変わったけど、アレが怪物の正体なのか……? デジモンっていうのは、多分名前の事を指しているのでは無いと思うし……あれっ?)
必死に頭の中から情報を引き出そうとしていると、また異なる疑問が過ぎった。
牙絡雑賀と闘った時、よくよく考えてみれば『あの時』の自分には自我が確かに有った。
肉体こそ人外と化していたが、頭では人間らしく思考を練りながら行動していたはずなのだ。
にも、関わらず。
(……何であの時、僕は『アイスアロー』なんて言っていたんだ? まるで、ヒーローが必殺技の名前を言うみたいに。確かあの時は何気無く言っていた感じがするけど、これじゃあまるで……僕があの姿の元となったデジモンの『技』を知っていたようじゃないか……!?)
その場の思い付きだったという可能性は、確かにある。
だが、そもそも『蛇口』から放たれる飛び道具の名前が氷の吹き矢である事を、何故あの時理性を取り戻した後の自分は攻撃を放つ前から知っていたのか。
知っていなかったのなら、何故『アイスアロー』という技の名を口走ったのか。
知らないはずなのに知っていた事があるというその事実に、本能という言葉が脳裏を掠めた。
だが、行動はともかく本能というものは知識にまで作用されるものなのか……?
(……デジモンの力、だけじゃなくて……記憶や知識まで……宿っているのか……?)
仮にそうだとしても、蒼矢の方から宿っているデジモンの記憶を閲覧する事が出来ない。
そもそも、本当に自分の中に一体の怪物が宿っているのだとして。
その、当の怪物自体はどのような形で『宿って』いるのか。
寄生虫のように宿主と共生関係にあるのか、それとも言い方を小奇麗にしただけで実際は違うのか。
どれもこれも、解らない事が多すぎる。
(……ダメだ。やっぱり答えを出す事が出来ない……知るためには、本当の事を知っている誰かに問い質すしか無いのか……)
どう考えても答えは出ず、蒼矢は一旦考える事を止める事にした。
そもそも、こんな事を考えても、過去に自身が惨劇を起こしたという事実は何も変わらない。
ただ引っ掛かりを感じたというだけで、所詮は自己満足でしか無いのだから。
「蒼矢さん。蒼矢さん!! 大丈夫ですか?」
「……ん。いや、ちょっと考え事をしてただけで特に問題は無いけど……?」
「いや、近場の水族館までの道順がわかったので、声を掛けていたんですが……」
(……言葉に反応しなかったってわけか。解らない事なのに、余計な事を考え過ぎたかな……)
どうやら自分で思った以上に熟考してしまっていたらしい。
ふと波音の顔を視界に入れると、その表情がこちらを心配するような不安感を伴った物になっているのが見えた。
その表情に、不思議と見えない傷を癒されているような錯覚を感じたが、それと同時にこのような表情を向けてもらう資格が無いという事実がその癒しを心から受け入れられない。
もしかしたら、これを最後にこの少女とは出会わなくなるかもしれない――そんな予感さえする。
その上で、蒼矢は思った。
(……それでも、それでもせめてこれは良い思い出として記憶に残したい。どうしようもない我が侭だけど、ほんの少しでも救われる気がするから。それさえ叶うのなら、もう僕の事はどうなったって構わないから……)
何処まで突き詰めても我が侭な、糾弾されでも仕方の無い願い。
無責任だというのは解っているが、今回の一件はきっと法で裁く事が出来ない。
裁く事が出来ないという事は、法に守ってもらう事が出来ないという意味でもあるのだから。
罰を受ければきっとロクな目に遭う事は無いだろうと思うが、罪を償う機会すら無いまま生きたまま腐り落ちるよりはマシだと思えた。
だから、せめてこの時だけは。
そう願い、目的地に向かうため電動車椅子を操作しようとした、その時だった。
考え事をしていた所為か、背後から迫る異質な気配に気付くのが遅れ。
首だけでも振り向こうとしてみたが、間に合わず。
相手の顔を見る間も無いまま後頭部を鷲掴みにされ、そのまま前倒しに地面に叩き付けられる。
鈍い痛みが炸裂し、視界がアスファルトの色に染まる。
(っ……なに、が……!?)
抵抗しようと試みたが、押さえ付けてくるその手の力は、とても人間が抵抗出来るような物では無く。
全ての判断が、対応が、遅すぎた。
バチィッ!! と電流が迸る音を認識する間も無く、司弩蒼矢の意識は寸断される。
数分もしない内に牙絡雑賀がこの場に到着したが、その場には司弩蒼矢の姿も彼の『友達』の姿も無かった。
残されていたのは受付員が言っていた電動車椅子と、同時に携帯されていたのであろうミネラルウォーターのペットボトルと、居場所を示すはずだったGPS機能搭載の携帯電話――――そして、僅かながら足跡という形でこびり付いていたニオイ。
その場で何があったのか、目撃する事を出来ていない牙絡雑賀は知らない。
少なくとも、嫌な予感を感じずにはいられなかった。
「……くそっ。いったい何処に……!?」
確かなのは、本来居るべき地点から司弩蒼矢がいなくなっているということ。
本人の意志による事なのか、あるいは第三者の悪意によるものなのか、定かでは無いが。
どちらにせよ、最悪の展開になってしまった事は確かだった。
時刻は午前十一時頃。
学生であれば午前中最後の授業が始まっていて、自前の筆記用具を手にガリガリとしているべき時間だが、縁芽好夢は学校の敷地外――つまるところ自動車や宣伝広告で風景が構築される街の中を歩いていた。
平日、それも午前中に割りと名門らしい野弧霧中学校の生徒が街の中をぶらぶらしていると知られればアメリカン系のイケメン外語教師は崩れた日本語を乱発し、見た感じではお上品でも実際はスパルタ系な女性の体育教師は毛の色を金色に逆立てて少年バトル漫画ばりの瞬間移動でもして来そうな所業だったが、今回に関しては正当な理由が存在する。
彼女がスカートの下に履いている(思春期な野獣どもからすると忌わしい)短パンのポケットから取り出したプリントには、こう書かれていた。
『地震!! 雷!! 火事!! 親父!! 防犯オリエンテーションのお知らせ。頻繁に発生している生徒の行方不明事件に対抗するため、此度の東京都の各小学校や中学校、及び高校では学校の垣根を取り払い、防犯に対する意識と能力を高める目的で野外でのロールプレイを実施しております。各自くじ引き等で決められた役割を演じる事でスタンプを与えられます。目指せスタンプカード制覇!! 制限時間の間に集めたスタンプの数に比例した内容の、イベント限定の学食メニューが貴方を待っています!!』
(……根本的に地震も雷も火事も親父も関係無さそうなんだけどなぁ……)
ひょっとしたら、最初は放火犯対策で行われていた避難訓練が犯罪の増加に伴って肥大化し、結果として包括的に犯罪全般に対処するこの行事へ形を変えていったのかもしれない。
プリントに表記されているキャッチコピーも、あるいは天災や人災を表現する言葉として使いやすかったのかもしれないし、単に過去にも使用した題材を使いまわしにしているだけかもしれないが。
現在進行形で実施されているロールプレイの『役割』は、そんな文章の下に記載されていて、
『生徒の皆さんが演じることとなる役割は以下の三種類です。
人質役、とにかく犯人役の生徒から逃げてください。二分間経過するごとにスタンプが一個貰えます。犯人役の生徒に捕まってしまった場合、そこまでの時点で集めていたスタンプは全て取り消しとなります。尚、治安役の生徒にタッチする事で任意の間だけ犯人役から身を守ってもらう事が出来ますが、その間はスタンプを1分間ごとに1個取り消しとなります。白色のタスキが目印です。
犯人役、とにかく追い回してください。人質役の生徒にタッチする事で、人質役のスタンプを全て奪う事が出来ます。ただし、治安役の生徒にタッチされた場合はそこまでの時点で集めていたスタンプは全て取り消しとなります。赤色のタスキが目印です。
治安役、犯人役の生徒を捕まえてください。犯人役の生徒にタッチする事で、犯人役の生徒からスタンプを全て奪う事が出来ます。また、人質役の生徒から保護の要請されている間は、1分間ごとにスタンプを一個押す事が出来ます。上記の人質役や犯人役と違い|襷《たすき》は付けません。
尚、学校の位が下の人質役を犯人役がタッチしても、犯人役と治安役がタッチしても、スタンプは奪う事が出来ないのであしからず。
また、今回のイベントを利用して痴漢や暴行に走る生徒が居た場合は厳正に対処するのであしからず。ルールを守りながら犯罪に対する免疫力を高めましょう!!』
(……全体的に、これって要するに鬼ごっこよね)
まぁ、実際問題何者かに『追い回される』状況をわかり易く作れる遊びの一つではあるのだが、学校の敷地だけではなく街の中まで含め、更には他の学校の生徒と合同で行うという発想の時点でスケールがぶっ飛んでいる気がする。住民に迷惑は掛からないのだろうか? という疑念を覚えなくも無い。
ちなみに、くじ引きによって決められた好夢の役割は人質役。
言ってしまうと、彼女は今回のイベントを楽しめてはいなかった。
そもそも行事の方向性から考えても楽しむ楽しまないの問題では無いのだが、さしてロマンチックな話があるわけでも無く人死にやらえげつない法律やらがピックアップされる歴史の授業と同じで、善悪よりも好悪の方が優先されるのかもしれない。
いかに欲しくなかった商品でも、期間だとか季節だとかに因んだ限定物というステータスを含んでいれば、それだけで大抵の人間は『欲する』ように思考を誘導されるものだが、彼女には全く別の方向に優先すべき事柄があったのだ。
つまるところ、
(……結局、苦郎にぃや雑賀にぃが『隠していること』って何なのよ……?)
そう。
先日から今日にかけて、脳裏から離れることを知らない総合的な疑問。
知ろうとすれば『らしい』言葉で受け流され、いかにも彼女を『何か』から遠ざけようとしている、そもそもの理由。
それが、知ってしまえば何か取り返しのつかない出来事に発展してしまうかもしれないなんて事は、何となく勘付いていた。
だけど、
(……それでも、知らないといけない……いや、知りたい。こんな願いは偽善でしかないのかもしれないのは解ってる。だけど、知ってる人がいなくなったんだ。あたしの学校の、同じクラスの子だって。もう、その時点であの『事件』は対岸の火事じゃない。雑賀にぃだって、そう考えたからもう動き出しているはずなんだから)
自分に対して向けられている言葉が嘘である事は容易に想像が出来た。
きっと、自分が同じ立場に立ったら、身近な人を巻き込まないように心掛けるだろうから。
だから、知るためには自分から核心へ迫る必要がある。
そういう意味では、この防犯オリエンテーションにおいて『追われる』事の無い治安役を望んでいたのだが、現に彼女は人質役として防犯オリエンテーションに参加している。
役割を見分けることが出来るよう右腕に巻きつけられた白色の襷がその実情を表していた。
……見分ける材料として使われている襷の色が白と赤『だけ』な辺り、明らかに運動会で使う物を使い回ししている事が窺える。
「……うーん……」
いっその事、スタンプの事など考えずに探りを入れるべきだろうか――と思わなくも無いが、それで犯人役に見つかってスタンプを全没収される事を考えると、何処か負けた気持ちになって癪なのだ。
人間とは、期間限定の事象に弱い生き物である。
街の中を擬似的な鬼ごっこの舞台として設定しているのは、恐らく突然の出来事に対する逃走ルートや道順を暗器しておく意味合いも含んでいる――そう考えると、裏路地は人が多くなっている可能性が高い。
逆に、そう考えて別の道を逃げ道に設定している生徒も多いかもしれないが、単純に一本道を走って逃げ切る事には相応の持久力を要する事となるため、どちらかと言えば逃げ道よりも隠れ場所を探す犯人役だって多いだろう。
設定されたルールの上では、犯人役は人質役よりも遅れて行動を開始するようになっており、治安役もまた犯人役よりも後に行動を開始するようになっているからだ。
追い回す事よりも先に、探す事。
尤も、防犯オリエンテーション中に学校を除いた公共の建物内に入る事は禁じられており、そもそも隠れ場所があるかどうかも怪しくはあるのだが。
スポーツ関連ならまだしも、かくれんぼや鬼ごっこといった幼子の道楽の経験に乏しい好夢には、そもそも隠れ場所なんて見当も付かないわけで、
(……げっ!!)
街道の曲がり角の辺りにて、RPGゲームのランダムエンカウントよろしく赤い襷を腕に巻いた何処かの生徒――つまる所犯人役の男子生徒とバッタリ出くわしてしまう。
何処かの、と曖昧な単語が付くのは、制服の柄からして野弧霧中学校の生徒ではないからだ。
それも、何の因果か中学生。
高校生であればルールにもあるハンデのような設定が適用され、被害を受ける事も無いのだが、中学生の生徒となると学年も含めて関係が無くなる。
距離にして、十メートルあるか無いか程度。
触れられれば終わる――スタンプが全部取り消され奪われるだけなのだが、それはそれで嫌だ。
何だかんだ言って、彼女も期間限定という言葉には弱いらしい。
でもって、逃走には裏路地を通る事も無く無事成功。
突然の遭遇ではあったので驚きこそしたが、最初の時点で距離は離れていたからだ。
運動系の部活に所属している事もあってか、数分しない内に彼女は追跡を振り切っていた。
単に走る速さの差から諦めたという可能性も考えられるが、このような行事で相手の事情を考える必要は無い。
(……ったく……帰宅部なのかしら? 張り合いが無い。これならガチの変質者の方がスリルがあるわね)
これが死角からの奇襲だったりしたならば話も変わったかもしれないが、追われる前から姿を確認出来た時点で何の問題も生じない。
後は鬼ごっこと同じで、やる気と根気と走る速さの問題なのだから。
さーてとりあえず逃げる事には成功したしスタンプでも押すか、と気を楽にする縁芽好夢だったが、
「……あれ?」
思わず、怪訝そうな声が出た。
ルールとしてプリントにも表記されている通り、人質役は二分間逃げ切るごとにスタンプを一つ習得出来る。
言い直せば犯人役に捕まらない限り、防犯オリエンテーション開始から経過した時間を半分にした分だけ押す事が出来るわけで、時刻を確認するために彼女は白い襷とは別に腕に付けていたデジタルな腕時計に目をやったのだが、
(……何? 電波の状況でも悪いの?)
時刻を表示するための電子文字が、何やらおかしなことになっていた。
通常、デジタル時計は携帯電話と同じで電波の通じない場所では時刻を表示できないが、彼女の腕に巻かれた時計は一応の時刻が表示されている。
ただしそれは、数秒ごとに数字の零と一をランダムに刻んでいる――そんな、下手しなくとも故障したとしか思えない異常な物だったのだが。
「…………」
一種の妨害電波でもバラ撒いている奴でもいるのだろうか? と考えようとしたが、そこで好夢の脳裏に言葉が奔った。
――事件とは無関係かもしれないが、少しだけ『怪異現象』ならば見つけたかもしれないという自負はある。
先日前。
――簡潔に言えば、たまにこの街の空気は一部『違う』ような感じがするって感じだ。風景には何ら変化が無い『はず』なのに、どうにも『違和感』というか何と言うか。大人達には感じられないようだがな。
確か、捏蔵叉美が言ってなかっただろうか。
――本当に些細なものだから私も大して感じた事は無いのだがな。強いて言えば、その『違和感』を感じる場所でスマホを弄ってみたら、何故か電波環境が少し悪くなっていたぐらいの変化しか見られなかった。
怪異現象。
電波環境の悪化。
そして、それ等とは無関係と言い難い違和感の存在。
「……まさか」
好夢自身、半信半疑な情報ではあった。
気に入らない相手の情報だからというわけでは決して無く、単に『そんなこと』が現実に起きるものなのかと疑心を抱いていたからだ。
だが、現に怪異現象と例えてもおかしくない出来事は起きている。
仮に妨害電波によるイタズラだとすれば、そもそも時刻は表示すらされず、画面には横線が並んでいるだけなはずなのだから。
だとすれば、
(……『何か』が近くで起きているっていうの……?)
犯人役の生徒から逃げて、好夢は現在ビルが立ち並ぶ街道から少しだけ離れた場所に居る。
距離としては然程遠いというわけでも無く、歩きでも五分ほどで元の場所には戻れる程度だ。
周囲を見渡す限りでは大きな建造物が見えるわけでも無く、強いて言えば橋の下に恐らくは下水道に直結しているのであろう川が見えているぐらい。
街道から少し離れているからなのか、あるいは社会人は勤務中な頃だからなのか、辺りに人の数は少ない。
視界に映っている限りでも犯人役である赤い襷を巻いた生徒の姿は見当たらず、周辺に見えるのは散歩に出ている老人や飼い犬、あるいは自分と同じ白い襷を巻いた人質役の生徒が何人か見えているだけ。
にも、関わらず。
「……何? この、感じ……」
何か、感じるものがあった。
例えようの無い、あるいは人の気配とは何かが違う粘着質な視線のようなモノを。
思わず鳥肌が立ち、場違いにも警戒でもするように周囲を見回してみると、
すぐそこに、いた。
「……な……」
信じられないモノでも見るような声が、少女の口より自然と漏れ出ていた。
形相の時点で明らかに現実より乖離した『そいつ』は、縁芽好夢が立つ位置からほんの五メートル程度――本当に、目視など容易いはずの距離に居た。
全身の体色は外国人だとか日焼けの経験が無いだとか、その程度の言い分では納得出来ないほどに白く。
下半身からは六本ほどの脚――いや、用途から考えるとそれは腕と言うべきだろうか――が生えており、更に上半身からは体重を支えている六本の足とは異なる太く長い触手が四本生えている。
顔は目付きの時点で凶悪そうな笑みを浮かべており、外回りの印象が明らかに人外な一方で、全体の中心とでも言うべき胸部から顔にかけてはやけに人間的な印象を残す外見だった。
総じて言えば、イカ人間。
体躯の時点で大人のそれを越している『そいつ』は、
「あん? 何だ、俺の事が見えるってことは『同類』だってのか?」
まるで、自分の予想を裏切られたかのような、それでいて期待半分とでも言うような声調で人間の言葉を発していた。
重要そうな言葉を発していたが、目の前に迫る脅威に好夢の頭の中は警報を発するのみだった。
逃げろ。
立ち向かうな。
捕まれば無事ではすまない。
「……ッ!!」
咄嗟に踵を返して逃げようとしたが、イカ人間の方がずっと早かった。
走ろうとした好夢の左足に向かって一本の触手を伸ばし、絡め取る事で転倒させてきたのだ。
前方に倒れ込み、体に鈍痛が奔る。
触手から伝わる感覚に、鳥肌が立つ。
「おいおい、ただの人間の足で逃げれると思ってんのか……?」
イカ人間の方は、むしろ呆れたような声でそう言っていた。
まるで、それが当然とでも言うように、常識でも語るような調子で。
言葉に対する疑問を発するほどの余裕も無いのか、好夢には荒い息を吐く事しか出来ない。
どうすればいいのか。
ここからどう動けばいいのか。
答えは出せる。実際には出来ない。現実。
「……ま、構わねぇか。やる事は変わらねぇしよ」
そんな様子を見て何を思ったのか、その声には嗜虐心が宿る。
何処へ連れて行くつもりなのか、イカ人間が無遠慮に好夢の足を触手で引き摺ろうとした、
その直後の出来事だった。
正しく、ズバッと。
斜め上の方向より現れた背中に黄色と茶色の混じった翼を生やした鳥人が、一本の日本刀で好夢を拘束していた触手を切断した。
◆ ◆ ◆ ◆
数分ほど前の事である。
鳴風羽鷺は、防犯オリエンテーションを割りと楽しんでいるらしい生徒達の事を無視して、高層ビルの屋上で何の比喩表現でも無く羽を休めていた。
「……あー、やっぱり徹夜なんてするもんじゃなかったです……」
朝食を米にするかパンにするかを迷ってでもいるような調子で呟く彼の姿は、縁芽苦郎とすれ違った時とは違い、人間の体のそれから電脳力者特有と言える人外の体へと変貌している。
身長にして一七〇程はあるだろうか――服装として羽織に袴、そして頭には大きな笠を被っており、江戸時代に存在していたらしい侍を想起させるような風貌だが、その体表には両腕を除き肌色が存在せず、代わりに黄色い羽毛がほぼ全身を埋め尽くしていて、顔立ちや両脚は鷹のそれと大差が無い。
極め付けに背中からは黄色だけで無く茶の色も宿した大きな翼が生えており、それは鳥という生物にとっての両腕に該当される部位であったが、彼には人間と同じ五指が揃った両手がある。
鷹を模した侍――そう形容すべき姿だった。
(件の『殺人鬼』は、現状路上で姿を曝け出す事をしていない。それ以外なら色々見えるんですけどー)
電脳力者が電脳力者の存在を察知する能力には、基本的に生物が持つ五感が関係しており、何に秀でているかどうかは脳に宿すデジモンの性質と種族によって差異がある。
例えば、イヌ科の動物が原型となるデジモンの場合は嗅覚。
本人が自覚しているかしていないかは別として、それは『ニオイ』と言う名の大気中を漂っている情報を取り込む事で、電脳力者の位置やそれが宿すデジモンの性質を直感的に認識するというもの。
その一方で、鳴風羽鷺のように鳥類を原型としているデジモンを宿している場合に秀でているのは、視覚。
電脳力者が放つ力場や携帯電話の電波など、普通の人間の目では認識さえ出来ない情報を視認する事が出来て、種族によってはそれ以外にも身近に存在する何らかの情報を『視る』ことが出来るというものである(尤も、実際に『視る』事が出来ているものが何なのか、という点にまで自覚出来ているかどうかは、また別の問題になるのだが)。
彼はその秀でた個性を活かし、目的の情報を獲得するため高い位置から探りを入れていたのだが、
「……闘ったりするのって好きじゃないんですけどねー……」
休み明けの期末テストにうんざりするような調子で、羽鷺は独り事を口にする。
広く視界を取れる高層ビルの屋上からは、距離に制限こそあれど色々なものがよく視える。
視たいものも、視たくないものも。
事実から言えば、彼には電脳力者が放つ力場が見えていた。
彼は別に正義の味方というわけでも無ければ、赤の他人のために体を張らなければならない責任を背負っているわけでも無いので、視界に映る状況がそれだけであれば無視するだけで済ませ、作業とも言える索敵を続けるつもりだった。
だが、
(……アレって確か、苦郎さんの義妹さんだったような……?)
視界に入った情報は、人外の力を行使している電脳力者の存在だけでは無かった。
彼としても浅からぬ縁がある縁芽苦郎の義妹が当の電脳力者の近くに居たのだ。
まずい、と彼は率直に思った。
状況の判断から行動へ移るのに、三秒も掛からなかった。
彼は自前の鞄から、収まりきらずはみ出ている黒色の袋を手に取る。
棒状の何かを収納しておくために存在するその黒色の布の正体は、剣道などで使われる竹刀を収納するための袋だ。
彼は鞄を左手に、そして竹刀袋を右手に持ったままビルを飛び降りる。
落下の勢いによって生じる風を翼が受け止め、速度をほぼ殺さずに標的の元へ向かう中。
彼の右手に掴まれた竹刀袋はその中身に存在する竹刀ごと『変換』され、瞬く間に日本刀とそれを覆う鞘へと本質の全てが変わる。
その流れの中に、マジックショーのようなタネや仕掛けの痕跡など存在しない。
そして、そんな事は『力』を望んで使う者にとってはどうでもいい。
彼は軟体生物のような複数の手足を生やした電脳力者の方へと高速で上方より迫り――そして、現在に至る。
彼は一度鞄から手を放し、空いた左手で日本刀を鞘から引き抜くと、縁芽好夢の脚に絡みついていた触手を中間の部分から切断し、放置していれば何らかの惨劇が起きたであろう現場へと躍り出た。
痛みを感じているのか、あるいは単に邪魔をされたと認識してか、イカと人間を掛け合わせたような姿の電脳力者が舌打ちし、解り易い敵意を向けて来る。
助けられた側である縁芽苦労の義妹は、状況に理解が追い着いていないのか、言葉さえ発していない。
当の介入者こと鳴風羽鷺はと言うと、
(……これ、どういう状況なんでしょう……)
危機感から状況に介入したものの、彼はどのような経緯で縁芽好夢が襲われるハメになったのか、詳しい事情を知らない。
仮に理由を知っていたとしても、この少女が襲われているという状況そのものがマズイと感じられるため、どちらにせよ介入したのだが、一応事情を聞いておく必要はある。
そう考え、彼は口――が変化した嘴を開く。
「……こんな所で何をしてい
「何モンだテメェ!! 突然現れたと思えば人の腕切り落としやがって!!」
最後まで言い切る事すらさせてもらえなかった。
怒声と共に敵意全開の視線を向けられ、思わず溜め息を吐く羽鷺。
こんな面倒事に発展するぐらいなら冷静に近付いて話し合いでもするべきだったか? と考えられなくも無かったが、彼は構わず刀の刃先を標的へと向け、改めて言葉を紡ぐ。
「何モンだろーがどーでもいいので、さっさと手を引いてくださいませんか? 触手を切った事は謝りますので。ほら、どうせ生え変わるんでしょう?」
「……そういう問題じゃねぇんだよクソが!! どんな育ち方すりゃあ出会い頭に腕切るなんて発想になりやがるんだ!?」
「さぁ。少なくともマトモな育ち方はしてねーと思いますがね」
じりじりと、刃先を向けながら近付き始める羽鷺。
刃物という武器自体が触手を取り扱う電脳力者にとって相性が悪いのか、ただ刃物を視界に入れて近付くだけでも威嚇の行動にはなっているらしい。
ただでさえ、触手の一本を切断された直後なのだ。
無意識的だろうが何だろうが、植え付けられた恐怖心は後退という行動へ体を誘導させる。
イカ――ゲソモンと呼ばれるデジモンの電脳力者は、苛立ちと共に言葉を漏らす。
「……畜生が。昨日といい今日といい……どうしてテメェみてぇなのが現れやがる……!!」
「退くならさっさと退いた方がいいですよー。僕なんかよりずっと危険な、同じ『力』を持った人にバレた日には何が起こるか解らんもんですからー」
出来の悪い生徒に教え込むような調子の台詞に、ゲソモンの電脳力者は舌打ちしてから、
「……チッ、覚えてやがれよ。お前もいずれ手篭めにしてやるからな……!!」
言うだけ言うと、落下の防止として人間の胴部の高さに合わせて張られた鉄柵に触手を絡ませ、そのまま躊躇無く川へ身を投げ込んだ。
小石を落としたと言うより、プールの飛び込み台から思いっきり飛び込んだ時に似た水の弾ける音が響き、念のため羽鷺は川の中へ撤退したゲソモンの電脳力者の姿を追うため鉄柵に身を乗り出してみたが、既に標的は羽鷺の視界から姿を晦ませていた。
追跡を免れる意図を含んだ行動であれば、恐らくは下水道――より厳密に言えば洪水防止用に設けられた都市下水路の方へと向かったのであろう。
ただでさえ、状況次第では『水』と言う名のフィルターが標的との間に存在し、更には日の光が届かない地下の空間。
視覚を介して取り入れる情報を阻害される事を鑑みても、羽鷺はここでわざわざ標的の土俵へ踏み込もうとは思えなかった。
が、逃がしたという事実を頭で理解した後になってから、彼の脳裏に一つの思考が過ぎる。
(……どうせなら、闘う力も根こそぎ奪うべきでしたかねー)
羽鷺がこの場を去った後、再び戻って来たゲソモンの電脳力者が縁芽苦郎の義妹を襲いに来る可能性を考えてみると、標的が川の方へ逃げる前に触手を更に切断しておくべきだったか――と思わなくも無かった。
尤も、初撃の後に状況分析のために思考した時点で追撃の機会を棒に振っており、その時点で追撃する場合には初撃の時と違い真正面から縁芽苦郎の義妹を守りつつ七本の触手に対応しなくてはいけなくなるわけで、
(……『二本目』まで使って汗水垂らすってのも面倒というか疲れますしー。戦わずに済むんならそれでいいでしょうなぁ)
とりあえず、縁芽苦郎の義妹を危機から脱させる事は出来たと判断するべきだろう。
これ以上この場に留まり続けていても何のメリットも無いため、羽鷺は自然落下の慣性から鉄柵付近に落としていた鞄を回収した後、背にある翼を広げて飛び去った――はずだったのだが。
「ねぇ」
背後から聞こえた声だけなら、無視するだけで済ませられたかもしれない。
だが、直後に直接的な変化があった。
ガシィッ!! という擬音が聞こえてきそうな程の握力で、背後から尾羽を掴まれたのだ。
「ひゅわああああああっ!?」
思わずといった調子で素っ頓狂な声を上げる羽鷺。
背後から尾羽を掴んできた張本人こと縁芽好夢は、そんなサムライ系鳥人の様子など気にも留めぬまま言葉を紡ぐ。
あるいは、度胸でもって踏み出すように。
「やっぱり、仮装とかじゃないんだ。助けてくれて、ありがとうね」
「……え、えっとー……どういたしまして。とりあえず放してもらえますか?」
「それなら、こっちの質問にも答えてくれない? 助けてくれたって点に関してはあえて聞かないんだけど、こればっかりは絶対に聞いておきたいから」
疑問に対する回答は無かった。
ただ、一つの問いがあった。
「ねぇ。この街には、あなたみたいなのが他にもいっぱい居るの? さっきのイカ人間みたいに」
「……居るとは思います。ただ、あんまり関わらない方が身のためだと思いますけどねー」
「そう。いきなり掴んで悪かったわね。もういいわよ」
言葉の通り本当に手を尾羽から放してもらえたので、羽鷺は直ぐにその場から飛び去るため翼を羽ばたかせる。
羽鷺の体は宙に浮き、数秒もしない内に彼は荷物と刀を手に人気の無い場所を探し飛翔する。
視線を左右に泳がせ、人気の薄く見渡しの良い場所を探しながらも、彼の脳裏には一つの疑問が浮かんでいた。
それは、
(……あの子、どうして笑みを浮かべてたんでしょう……)
答えは出ず、他に重要な事項が残っている事もあってか、興味もやがて薄れてきた。
兄妹の問題であれば兄が解決するのが一番だと思う――そう結論付け、鳴風羽鷺は元の役割に戻る。
そうして、サムライ系の鳥人間の姿が建物の影に隠れて見えなくなった頃。
縁芽好夢は、自分が今どんな表情をしているのか解らなくなっていた。
イカ人間に襲われた時には生理的嫌悪感と恐怖を真っ先に感じていたはずなのに、絶望と困惑が入り混じった顔はしていないという事を確信出来ていた。
「……ふ」
笑みがこぼれる。
心が自然と沸騰を始める。
(……あれが、苦郎にぃや雑賀にぃが見ていた景色なんだ。あたしに隠そうとしていた『何か』の実態)
多分、この情報を知る事を彼等は望んでいなかっただろう。
望んでいたのなら、もっと早々な時期から実際に証明して見せたはずだから。
これが偶然にしろ必然にしろ、彼女は『秘密』を知る事が出来た。
だから、
「別に、待ってなくてもいいよ」
彼女は、自然とそう漏らしていた。
心の中で留めておくのでもなく、口に出して。
たった一人で、宣言でもするように。
「必ず『そこ』に追い着く。追い着いてみせる。望まれていなくてもいい。あたしはあたしがそうしたいからこうするだけ」
あのイカ人間は、自分の事を『同類』だと言っていた。
言葉の内容から推理してみるに、姿が見えているという時点で好夢にも『資格』はあるらしい。
そして恐らく、自ら『事件』の全容を知ろうと動くだけで、自分は兄と同じ場所に立ち会える可能性が高くなる。
(……多分これで進路は間違いない。例えこの道を突き進んだ結果としてあたしも人間以外の何かになってしまうとしても、構わない。今の、人間の常識では理解の出来ないあいつ等みたいな連中を越えた先に、あたしの求める次のステージが待っている)
危険に立ち向かうだけの理由は十分に揃っていた。
以前から隠し事をしている身内の秘密と、現在進行形で起こっているらしい人間の消失事件。
それを解決するための手助けがしたいという思いと、もう一つ。
「……お母さんの仇だって、きっと……」
瞳に湛えているのは、何処か濁った光と暗い闇。
きっと、この道を進む事を望んでいない者が居るとは理解していても。
このまま、現実と言う名の行き止まりに留まろうとは思わなかった。
輝かしい光を放つ太陽を薄い雲が隠し始める中、獰猛な笑みを浮かべる少女が一人。
彼女は、自分の意志で、一歩踏み出す。
一歩、一歩、一歩――踏み出す。