
この時、私は何も知らなかった。
優しい両親に可愛い妹。
大好きな家族とこれからもずっと幸せに暮らしていけるとただただ漠然と信じていた。
この幸せは決して壊れることは無いのだとずっと思っていた。
でも───。
この世界は何処までも理不尽で残酷だった。
デジモンクレイドル 第一話
四人の子供達とパートナーデジモンがデジタルワールドを救って早2000年。
人間界では10年と言う月日が流れた。
あの時、完全な消滅を免れた"あの存在"は今──。
二つの世界に再び牙を剥こうとしている。
"クスクスクス"
"クスクス、クスクスクス"
人間界の裏側でナニカが嗤う声がする。
"ソレ"は魚のように群れを成して人間界へ侵入(はい)り込めるゲートを探す。
"サガソウ、サガソウ"
"ゲート!ゲート!"
"ミツケテススモウ、ニンゲンカイヘ"
不気味な緑に輝く目が人間界を見据えている。
それはかつて四人の子供達とパートナーによって倒されたあの存在によく似ていた──。
"アソボウ、アソボウ。ニンゲンデ!"
"ニンゲンッテサユウニオモイッキリヒッパッタラドウナルカナァー?"
"ニンゲンハアナヲアケテモイキテラレル??"
"ワカラナイカラジッケンシヨウ!ホンモノノニンゲンガイッパイイルセカイニイクンダカラ!"
次元の壁の向こう側。
その間にある狭間と呼ばれる何もない空間。
広大である筈のその場所を埋め尽くさんばかりに増えるモノ。
増えて、増えて、増えて、増えて、増えて。
狂気が世界を覗いている。
世界の影で蠢きながら狂気が此方を見つめている。
世界すら覆い尽くさんばかりに増え続ける数多の狂気から逃れる術など──最早、存在しなかった。
新緑の深まる季節。
春が過ぎ去り、初夏の訪れが迫る頃。
「ふぅ、暑くなってきたわねぇ。そろそろ今年も夏かぁ…」
長い蒼髪に映える赤いリボンが風に揺れている。
何処にでも居る普通の女子高生、音無愛(おとなし めご)は小学校の昇降口の近くでスマホの時計を見ながら待ち人が来るのを待っている。
この小学校に通っている五歳下の妹を彼女は迎えに来ていたのだ。
『──あ~っ!姉さんっ!迎えに来てくれたの?』
彼女と同じ蒼髪を揺らして駆け寄る少女、愛の妹・涙(るい)だ。
待ち人の姿を捉えると愛はニッコリと微笑みかける。
「おかえり、ルイ。部活が無い日だから迎えに来たのよ」
「やったぁ!姉さんと一緒に帰れるの嬉しい!」
その場でぴょんぴょんと嬉しそうにはしゃぐ涙。
その隣をクラスメートの一人が通り過ぎる。
「ルイちゃーん!また明日ねー!」
「あっ、ゆこちゃん!うんっ、まったねー!」
手を振るクラスメートに涙もブンブンと音が聞こえるくらいに元気良く手を振った。
その様子を愛は微笑ましそうに見守ると涙に向かって右手を差し出す。
「さぁ、家に帰りましょ?母さん、今日はハンバーグ作ってくれるんだって」
「ホント!?あたし、ママのハンバーグ大好き~!」
夕食にハンバーグが出ると知ると途端に表情を輝かせる涙。
差し出された愛の手をギュッと握り返し、鼻歌を歌いながら帰路につく。
ありふれた当たり前の日常。
普段過ごしている時は何も感じないくらいに当たり前になったもの。
しかし、そのありふれた日常が壊された時──人は当たり前など存在しないことを知るのだ。
「たっだいま~!ママー!ハンバーグは~!?」
「あらあら、お帰りなさいルイ。
ふふ、ルイはハンバーグ大好きだもんねぇ?もうちょっと待ってね、あとはソースを作って盛り付けるだけだから…。
あ、帰って来たんだからご飯の前にうがい手洗いするのよ?」
「はぁーい…」
玄関で靴を脱いでから一目散に涙が駆け込んだのはキッチンだ、其処では母が夕飯の準備中でハンバーグにかける手作りソースの材料を並べている。
涙は躊躇いなく母へ抱き付いて満面の笑顔で言うとやんわりと手洗いうがいをして来るようにと促される。
「ハンバーグぅ…しょぼーん…」
「もう、ルイってば…。母さん、ただいま」
「メゴもお帰り、部活がお休みとは言え悪いわねぇ」
「いいわ、ちょっとした寄り道みたいで楽しいもの」
しょんぼりしながら洗面所へ向かう涙を見送りながら愛も母に声をかける。
愛と涙は目の色以外は母似で三人だけならば姉妹に見えるほどだ。
此処までなら普通の家族に見える。
しかし、彼女達は一家一同に"普通"の家族とは少しだけ違っていた。
『めえちゃん、おっかえり~!』
『う~っ♪』
『きゅ~っ♪』
『ぽよぉ~っ!』
リビングの方から勢い良く愛と涙に飛び付く小さな四つの影。
愛と涙は慣れたように飛び付く影を抱き留める。
「ただいま、ルウ。みんな、お利口さんにしてた?」
「シャオメイー!えへへ、ピーチもポポも!ただいま~!」
愛にルウと呼ばれていたのはルナモンだ。
涙が生まれる前にムンモン姿の彼女に出逢い、以来パートナーとして10年近く一緒に暮らしている。
そして、涙が抱き締めているのはギギモンとピチモンとポヨモンの幼年期達である。
シャオメイと呼ばれたギギモンが涙のパートナーで他の二体は両親のパートナー。
そう彼女達の家族は姉妹達本人も含めて家族全員がテイマーと言う珍しい一家なのだ。
二人が帰ってから程なくしてから父も帰宅する。
「パパ~!お帰りなさい!今日はハンバーグだよ!早く早く~!」
「おー、ただいまルイ。はは、そうだなぁルイはハンバーグ大好きだったもんなぁ…。
よーし、パパも手洗いうがいしたらすぐ行くから」
「うんっ!早くね~!!」
仕事から帰った父を出迎えると涙はパタパタとリビングへと戻って行く。
そして、家族四人とパートナー四体が揃って音無家では夕食の時間になった。
母の手作りハンバーグに舌鼓を打ちながら無邪気に笑う涙とシャオメイ。
父はビールを飲みながら少しずつ箸を進めていて母はピチモン達のソースだらけの口を拭いてあげている。
普段と変わらない日常に愛は胸がいっぱいだ。
(幸せだなぁ…、こう言うの。本当に幸せ…)
美味しい夕食を食べながら愛は幸せそうに微笑んだ。
❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ✿ ❀
「──あら、封筒切らしてたわ…。困ったわねぇ…」
「母さん、どうしたの…?」
夕食を食べ終えた後、妹達をお風呂に入れ終えた愛。
リビングで困った顔をしている母を見かけて声をかける。
「ああ、メゴ…。この間ね、東北のお祖父ちゃん達から野菜を沢山貰ったでしょう?
それでお礼を書いてたんだけど、丁度封筒切らしてたみたいなのよ」
「えぇ、それは大変じゃない!コンビニに封筒売ってるだろうから私買ってくるわ」
困った様子の母に愛はそう告げる。
しかし、20時を過ぎた夜に買いに行かせることに不安を感じる母は首を縦に降ろうとしない。
「いや、悪いわよ…。母さん、明日買ってくるから…」
「いいのいいの!母さん、毎日家事で忙しいんだから。これくらいさせてよ」
「──ありがと。それじゃあ、お願いしようかな」
愛の言葉に少し驚いたような表情を見せた後、母はニコリと笑う。
財布から封筒の分のお金を出すと愛に手渡した。
「ごめんねぇ?助かるわぁ…」
「いいの!じゃあ、行ってくるね母さん!」
愛がスニーカーを履いて外へ出ようとすれば髪を乾かし終えた涙が出て来る。
すると、
「あれぇ?姉さん、何処行くの??」
「コンビニよ、今から封筒を買いに行くの」
「えぇ~!ルイも!あたしも行く~!」
「ダメよ、もう夜遅いのよ?ルイ、もう寝る時間じゃない…」
「やーだー!いーくーのー!!」
「あらまあ…困ったわねぇ…」
ダンダンと地団駄を踏みながら涙は言う。
こうなると涙はなかなか止まらない、自分の要求が通るまでは。
散々ごねられ折れた母は21時前までには必ず家に戻ることを条件に涙もついて行くことを許した。
「やった~!シャオメイも連れてこっと!」
「はぁ…、しょうがない子ね…」
「大丈夫だよ!わたしもついて行くから」
「ありがと、ルウ」
「二人とも、幾ら近所だからって不審者には気をつけるのよ?」
「「はーい」」
自宅から歩いて10分ほどの所にあるコンビニ。
愛は母から頼まれた封筒を文具コーナーで見つけると二つ手に取った。
次に切らした時に慌てて買いに行かなくてもいいようにと考えた上でである。
レジへ行こうとすれば洋服の裾を控えめに引っ張られた。
「姉さん、姉さん。ポッキンアイス~!アイスも買って~!」
「ちょっと…!もう、ダメじゃない…!貴女もう歯を磨いたのよ?」
「明日!明日シャオメイと分けっこするの!だから買って~!!」
「ダメよ、今は封筒の分しかお金預かってないんだから…」
「えぇ~っ!そんなぁ」
「アイスは明日買いましょう?今日はお終いよ」
「ぶぅ~~っ!」
愛の言葉に涙は不貞腐れたように頬を膨らませる。
困ったなぁと言う表情を浮かべながら愛は会計を済ませてコンビニを後にした。
涙は膨れっ面のまま愛の後をついてきている。
これは明日のご機嫌取りが大変だなぁなんて愛は考えながら家路につく。
いつも通りに玄関のドアノブに手をかけ、扉を開いた。
「母さん、ごめんね。ちょっと遅くな───え、?」
ガサリと手にしていたコンビニ袋が滑り落ちる。
扉の向こうにはあまりにも変わり果てた光景が広がっていた。
壁には巨大なナニカに引き裂かれたような跡があり、物が至る所に散乱している。
ツンと鼻を突く鉄の臭いに愛は吐き気が込み上げてきた。
「───うっ、!?」
「姉さん…?どうしたの…?」
玄関先から家の中へ入ろうとしない愛に涙は声をかける。
まだ妹は気付いていない。
この異常事態に彼女はまだ気付いていない。
今すぐこの場から逃がさなければ、せめて妹だけは──。
「ルイ!今すぐ調布のおじい──『アレェ~?マダ、イター!』
「ひっ!!」
愛の背後から地を這うような不気味で粘着質な声がする。
血の気が引いた青い顔で愛が振り返れば其処には見たこともない生物が居た。
爛々と怪しく光る緑の双眸が嫌でも目に付く謎の生物。
ふと目を凝らすと謎の生物の体の至る所に赤い点々がついている。
怪物の持つ大きな禍々しい爪からはポタポタと赤いナニカが滴っているのが愛の視界に入った。
冷たい汗が愛の頬を伝う。
まさか、まさか、まさか──。
「父さん…母さん…?ま、さか──」
愛の目尻にジワリと涙が滲む。
ゾワゾワと感じる悪寒に泣きそうになる。
『め、ご…。る…いも…にげ──』
その時、家の中から血塗れの父が這うように出て来ようとする姿が見えた。
傷だらけの姿を目の当たりにして涙は短い悲鳴をあげる。
「──っ!パパ?パパぁ…っ!!」
「!? ルイ!ダメ、そっちに行っちゃ!!」
『ウルサイナァー、チョットシズカニシテテ』
父に駆け寄る涙よりも先に生物の巨大な爪が父を襲った。
グチャッと言う生々しい音と共に壁に叩き付けられた父。
生暖かく赤いナニカが涙の頬や服にベッタリと張り付く。
恐る恐る涙は頬についたソレに触れる。
涙の小さな手のひらには真っ赤なソレがベッタリとついている。
ソレが父の鮮血であることを涙が理解するのに時間はかからなかった。
「──ひっ、イヤァァァァァァッ!!」
「ルイっ!!」
壁に容赦なく叩き付けられた父は即死だった。
腕や脚はあり得ない方向へねじ曲がっている状態だ。
無残な父の姿を見て泣き叫ぶ涙を愛は懸命に抱き締める。
何故こんなにも残酷な光景をまだ幼い妹が見なければならないのだろう?
そう思いながら何とかあの生物から逃げなければ次は自分達がやられてしまうと愛は必死に考え続ける。
『アーア、ニンゲンッテモロイナァ。チョットアナヲアケタラスグシンジャッタ。
カベニブツケタダケデモシンジャッタ、ツマンナーイ!』
「どうして…どうして…?パパ達が何をしたの…?」
ボロボロと泣きながら涙は言う。
自分達は普通に暮らしていた、ただそれだけだった筈なのに──。
頭の中はもうグチャグチャで何の考えも纏まらないし、浮かばない。
此処から逃げたいのに足が竦んで動けない。
恐怖でギュッと目を閉じそうになる。
『アハハハハッ!アノネ、アノネー?
"テイマー"ガネ、ジャマナノ!ダカラキミタチモイマシンデネ??』
謎の生物はケラケラと嗤いながらしれっとそう答えた。
不気味な表情を浮かべながら生物はゆっくりとした足取りで愛と涙に近付いてくる。
殺された父の姿に釘付けになっている涙は固まったように動かない。
そんな涙に大きく鋭い凶爪が襲いかかった──。
「─────あ、れ…?」
ハッと気がついた時に涙の視界いっぱいに広がっていたのは鮮やかな蒼。
安心感のある温もりが涙を包み込み、甘くて優しい匂いがする。
そして、ジワジワと蒼を浸食するように後から広がってきたのは緋色である。
蒼いモノはバラバラと夜風に舞って散らばっていく。
目に映ったものが髪の毛だったことを理解するまで時間がかかってしまった。
「──はっ、はぁ…はぁ…っ!ねえ、さん──?」
震える声で途切れ途切れになりながら涙は言葉を紡ぐ。
目の前の生物の凶爪から身を挺して涙を守ったのは愛だった──。
真っ赤な血が愛の服をあっという間に真紅に染めていく。
背中や首の近くを鋭いあの爪で切り裂かれたらしく愛の出血は止まらない。
涙は恐怖や絶望でごちゃ混ぜな表情(かお)になりながら愛の出血を止めようと必死だ。
それでも彼女の小さな両手の隙間から血は流れ続ける。
どんどん愛の体から熱が失われていく。
「ねえ、さん…!ねえさん…!やだよぅ…!いやだぁ…!」
「る、い…にげ、なさ…い…。は、やく──」
「やだ!やだよぉ!起きてぇええ!!」
「だ、いすきよ…かわ、いい…わたしの──」
二人の足下に愛の真っ赤な血溜まりが広がる。
愛は残る力を振り絞って涙に逃げるように促すとそのまま血溜まりの中へ倒れた。
涙は泣きながら倒れた愛に縋りついて座り込む。
「あっ、ああああ…ああああああっ!!」
『ニンゲンッテオモシローイ!カバッタ、カバッタ!アハハハハッ!』
絶望する涙の耳元に届く不快な声。
妹を守ろうとした姉を嘲笑(わら)うあの生物の姿が目に入る。
ユ ル サ ナ イ ─ 。
その瞬間、涙の視界が真っ黒に染まった。
「──────、」
『ンンー?ナンカイッター?』
微かな音に反応し、謎の生物が首を傾げながら涙を見た。
涙はブツブツと何かを呟きながらゆらりと立ち上がる。
『マッ、イッカァ!ジャア、オマエモ────ア?』
ズバッと何かが引き裂かれゴトリと重い物が落ちる音がする。
謎の生物は涙の方に伸ばしていた自分の右腕が肩の付け根から無くなっていることに気付いた。
『アレ?アレェ?ボクノテガナイー??』
辺りを見渡せば目の前に見慣れたモノが落ちている。
それは無くなった自分の右腕だった。
拾って繋げようとすればそれよりも早くも赤いナニカが落ちている右腕を粉々に砕く。
謎の生物がハッとして前を向くと其処に居るのは涙だ。
しかし、先ほどまでと違うのは彼女の背後に別の何かが見えること。
土煙の向こうにぼんやりと浮かぶ赤い光がジッと見つめて来ているのが分かる。
「ゆる、さ…ない…」
前髪の合間から不気味な色とどす黒い憎しみを覗かせる幼い少女の目がはっきりと見えた。
唖然とする謎の生物に涙は憎悪を隠さない声色で言う。
その手には赤と黒のデジヴァイスがしっかりと握られている。
出かける前にポケットに入れていたのを涙が無意識に取り出していたようだった。