第一話『道を示すは十六夜(いざよい)の月光』
――――青い空、浮かぶ雲、広がる草原、連なる山。
――――歩く花、赤い恐竜、巨大なてんとう虫……
【『デジタルワールド』と呼ばれる地球によく似たこの電脳空間には、デジタルモンスター、通称デジモンという生命体が多数生息している。
その外見は現実の生物を模したものから人型のものまで多岐に渡るが、核(デジコア)・骨格(ワイヤーフレーム)・皮膚(テクスチャ)といった生物としての構造は概ね共通している。一部例外こそあれど、基本的に強い闘争本能を持つことが彼らデジモンに共通する生態だ。彼らは生き残るため、そして進化するために他のデジモンと戦闘し、最終的に勝者が敗者のデータを吸収する。ここでいう進化とはより強い姿へ自らの体構造を変化させることだが、詳細な説明はここでは省くとする。
進化して知と力を得たデジモンの中には、世界を支配せんとする飛躍した考えを持つ者や、自らが持つ強大な力を扱いきれず暴走する者も出てくる。そういった存在の出現は時として世界のバランスを歪め、さらに世界そのものを未曾有の危機に陥れることすらあった。そしてこれまでそういった危機から世界を救ってきたのは、現実世界からこちらに送り込まれてきた人間、もとい少年少女であった。それが何者の意思によるものなのか、あるいはただの偶然なのか、真相を知る者はいない。
デジモンとパートナーになり共に戦う人間のことを「テイマー」と呼ぶ。テイマーはデジモンを育成し、戦闘においては道具や作戦を用いてサポートする役目を担う、いわば監督だ。
テイマーの育成もデジモンの進化には影響を与えるため、野生のデジモンとは全く異なる進化を遂げた例も少なくない。特にテイマーの感情はパートナーを大きく左右する。例として、怒りや妬み、憎しみといった感情が強まった際にはパートナーも攻撃的な姿へ進化する傾向が確認されている。
しかし、そういったテイマーとデジモンの関係性を示すデータは貴重かつ不確定要素が多く、後学のために蓄積することが求められている。現在デジタルワールドには、シティと呼ばれる空中都市が二つ存在し、それらの役割を引き受けると共にテイマー達の活動拠点となっている。それぞれのシティには異なる思想を持つユニオンという組織が存在するが、各シティにおけるユニオンの違いについては別の資料を参照してほしい。】
そこまで読むと、眼鏡を掛けた少年はパタンと本を閉じ、傍らに佇む橙色の小さな恐竜のようなデジモンと共にその場を後にした。
――――――――
この世界にしては珍しく、人間の少女が一人で彷徨っていた。袖の長い紫の服に身を包み、茶髪を束ねたポニーテールが活動的な印象を与える。
彼女の名は『春日 竹花(かすが ちか)』。本来なら彼女はこの時間、シティの一つ、『ダークマター』が管理するシティにいるはずだった。
「なんなのここは! 一体何がどうなってんの!?」
竹花は誰に向けた訳でもない文句を発した。あまりの声の大きさに、周囲のデジモン達が驚いて彼女に視線を向ける。見たこともない生物達からの注目を意図せず浴びてしまい、竹花は若干紅潮しながら咳払いした。
竹花が愚痴るのも無理はない。彼女は今日、突然現実世界からこの世界へと連れてこられたのだ。だが困惑することはあれど、シティを脱走する行動力を見せた人間は彼女が初めてだった。
「なんでこんな訳わからない目に遭って平然としていられるの? あの人達おかしいよ!」
今度は周りの生物に聞こえないようボリュームを落として、何度も同じような内容の愚痴を繰り返しながら、彼女は今日起きた出来事を頭の中で整理し始める。
――――――――
目が覚めると彼女はある部屋の中にいた。部屋といっても壁や天井はなく、床は人工のものと思しき白いタイルにクリアブルーのパイプのようなものがいくつも走っている。空は紫色を基調とした不気味な雰囲気に染まっていた。
服装は先ほどまで着ていた中学の制服ではなく、空と同じ紫や紺が中心の活動的な格好をしていた。右腕にはゲームのボタンが付いたようなスマートフォンらしき装置が革製のリストバンドで巻き付けられている。
起き上がって少し首を上げると、前方には何も映っていないモニターが見えた。突然そのモニターに人影が映る。シルエットでしか判断できないが、髪の長さから恐らく女性だと竹花は判断した。
――――お目覚めかしら? 春日竹花さん
この空間のおどろおどろしい雰囲気にはとても似合わない、静かで透き通った女性の声だった。
――――私はブレインJ(ジェイ)。ようやくこちらに来てくれたみたいね。随分と待たせてくれちゃって……
ブレインJと名乗る女性が呆れたようにそう言うと、竹花の後方から新たに二人の人間が近づいてきた。一方は竹花と同じ中学生ぐらいの少年、もう一方はまだ幼い小学生らしき少女だった。二人の服装は竹花と同じような色合いで、二人とも左腕には竹花が着けているものと同様の装置を身に着けている。
――――今日からあなたは彼らと同じ、この『ダークマター』のテイマーとして活動してもらうわ。二人とも、自己紹介して
「俺は青田 紺平(あおた こんぺい)。つーか初っ端から遅刻とは舐めてんな。遅れた分はきっちり働いてもらうからな」
短髪の少年が見下すような視線で言った。
「……星嵐(せいらん)」
星嵐と名乗る少女はそれだけ言うと、竹花には目も合わせずモニターの方に目を向けた。
「何……言ってるの? 一体何の話?」
――――現実世界で伝えた通りよ。困惑するのもわからなくはないけど、早いうちに慣れることを推奨するわ
自身の質問にまともな答えが返ってこなかったため、竹花はさらに困惑した。少し考えて右腕の装置を地面に置くと、何も言わずにその場を去ろうとした。だが出口がわからずその場で立ち往生する。
「おい待てよ、どこ行くんだ?」
「多分……人違いよ、きっと。私には何が何だかさっぱり。それよりどうやってここから出るのか教えてくれない?」
引き留めようとした紺平にそれだけ言うと、竹花は今度こそまともな返答が返ってくると期待しその場で待った。だが紺平は『何言ってるんだコイツ』といった表情のまま口を開こうとしない。
「……足元の四角いポータルに乗ってください」
意外にも、答えたのは先ほどまで目も合わせなかった星嵐だった。竹花が足元を確認すると、確かに水色に光る座布団ほどの大きさの正方形のパネルがあった。
「あ、おい星嵐! 教える必要ねーだろ!」
紺平がそう言って竹花の方を振り返るころには、すでに彼女の姿はなかった。その後も竹花は何度かポータルに乗り、ようやくあの陰気な空間から脱出した。
彼女が次にたどり着いた場所は見渡す限り草原が広がり、はるか遠くには空中に浮かぶ島のようなものが二つほど見えた。開けた景色を前に心も開放的になったのか、独り言で愚痴を発しながら彼女は歩き出した。
――――――――
こうして歩き続けた竹花は再びワープポータルを発見した。今度は黄緑色で、円の周りに正方形の縁取りがなされたポータルだ。
彼女が今いる草原地帯と同様に、この世界では森林・海洋・火山・雪原・工場といった地帯ごとに区分けがなされており、それぞれで生息するデジモンの種類や生息数が異なる。一般的に野生のデジモンは自身が生息する地帯でシティによって管理され、環境が大きく異なる地帯やシティへの出入りは禁じられている。区分けされた地帯は『ダンジョン』と呼称され、テイマーとそのパートナーデジモンは上空に浮かぶ『シティ』との往来や各ダンジョン間の移動にポータルを用いる。
彼女が先ほどまでいた、『ダークマター』というテイマーユニオンを有するシティは、今まさに彼女が見上げていた二つの浮かぶ人工島のうちの一つである。このデジタルワールドでは二つのシティが存在し、それぞれをテイマーの集まりである『ユニオン』が管理している。一つはダークマター。そしてもう一つは彼女の目の前にあるポータルから行くことができる『ライトマインド』なのだ。
「げっ、また出た」
竹花はポータルを見つけ次第、距離を離そうと後ずさりを始めた。またさっきのような勘違いをされてはたまらない、そう思っていた矢先だった。
竹花の背中が何かにぶつかった。切り株だと思い振り向いた彼女の目の前にいたのは緑色の子ども、というよりは小鬼のデジモンだった。下顎から大きく伸びる牙と、まさにファンタジー作品に出てくる『ゴブリン』を想像させるような恰好をしたその小鬼の背丈は、竹花の胸元にも満たないほどしかなかった。
「あ、ごめんね。怪我はない?」
竹花がしゃがんで尋ねると、小鬼は顔をしかめ、威圧的な声を上げながら手に持った棍棒を振り回した。
いきなり攻撃を仕掛けてきたこと以上に、小柄な体躯からは想像できない酔っ払いの中年親父のような野太い声に驚き、竹花は反射的に後ろに飛びのいた。
「ちょ、ちょっと! 暴力反対!」
瞬間、竹花の足元が光る。竹花が気づいた頃には遅く、一瞬にしてその場から姿が消えた。攻撃が空振りに終わった小鬼は不思議そうに周辺を見渡したが、そのうち捜索を諦めその場を去っていった。
「わぁ……」
竹花は既視感を覚える光景を前に呆然と立ち尽くした。街の構造自体はダークマターのシティと変わらないが、白を基調とした明るい雰囲気は竹花に正反対の印象をもたらした。空には雲一つない晴天が広がり、ダークマターのシティではよく見えなかった行き交う人々の表情もここでは鮮明に見て取れる。
もう一つのテイマーユニオンであるライトマインドが管理するこのシティは、デジタルワールドの南部に位置し一日中太陽の光に照らされる空間であった。
「あの人……」
竹花は歩いている人の中の一人、眼鏡を掛けた中性的な容姿の少年に注目した。年齢が自分と近そうだったこともあるが、それよりも彼女はその少年の姿になんとなく見覚えがあった。少年の服と同じオレンジ色をした二足歩行の爬虫類デジモンがその少年と並んで歩いている。
竹花が少年に話しかけようとシティ内に足を踏み入れたその時、けたたましい警報音が耳を貫いた。その刹那、驚いた彼女の前に二本の剣が振り下ろされ交差した。
――――――――
ダークマターが管理するこのシティは、デジタルワールドの北部に位置し一日中満月の光に照らされる空間であった。シティ内で失踪者が出たことで、紫の制服を着たテイマー達はいずれも騒然となっていた。
「おい、どういう事だ!」
青田紺平がシティ出入口のポータル付近で、西洋の僧侶の恰好をした白いデジモンと、人を象った城壁のような黒いデジモンの二体に詰め寄っている。テイマー達の中でもとりわけ喧しい紺平の先を阻むように、白と黒のデジモンは立ちふさがっている。
「おいビショップチェスモン、ルークチェスモン! 竹花の捜索を許さないっていうならなんでお前らが引き止めなかったんだよ! あいつ、デジヴァイスを置いて行ったせいで連絡が取れないんだぞ!」
紺平が左手首に身に付けている装置を見せながら二体に怒鳴り散らした。ビショップチェスモンと呼ばれた白い方のデジモンは、手にした杖で紺平の体を押しとどめた。
「ブレインJの命だ、我々にはその真意はわからん」
ルークチェスモンと呼ばれた黒い方のデジモンがさらに続ける。
「デジヴァイスを持たないのなら彼女はダークマターのテイマーではない。部外者の侵入は許さんが、出ていく分には構わん。それが我ら門番の役目だ」
紺平は杖を掴んで振り払うと、デジヴァイスと呼んだ左腕の装置を操作し始めた。
「お前らじゃ話にならねえ。おいザコイモン、こいつらほっといて行くぞ」
紺平が操作を終えて左腕ごと前にかざすと、彼の目の前に魚の姿をしたデジモン『ザコイモン』が姿を現した。藍色の全身にグレーで骨のような模様が描かれ、卑屈な目をしたそのデジモンは紺平の頭の高さで宙に浮きながらゆっくり尾びれを動かしている。
「まさかお前さん、あの子を探すつもりか? ブレインJからお叱り受けても知らないぞ」
「いいんだよそんなの。あいつを連れて帰ればチャラどころかお釣りも返ってくるさ」
ポータルへ向かう紺平の前に、再び二体のチェスモンが立ちはだかる。
「捜索は許さないと言ったはずだ」
「外は危険だって言いたいんだろ? ちゃんと生き延びるから安心しろって。お前らは俺が帰ってきた時のお迎えの準備でもしといてくれや」
チェスモン達はザコイモンと顔を見合わせた。ザコイモンは呆れながら首を横に振った。それを見たチェスモン達は、紺平をそれ以上止めようとはしなかった。
彼らがシティを出るのを見送った後、ビショップチェスモンが思い出したように『あっ』と零した。
「どうした?」
「アイテム持ってるか確認し忘れた……」
「あっ」
「あいつら、ゲートディスク持ってるのかな」
「分かんない……」
「ブレインJへの報告、どうする?」
「……正直に言おう。あの人には嘘は通じないし」
二体は溜息をついた。
――――――――
一方その頃、ライトマインドでは侵入者騒ぎでシティ内が騒然となっていた。眼鏡の少年と二足歩行の爬虫類は集まってきたオレンジ色の服を着た群衆に押され、野次馬の中に巻き込まれた。
「私は怪しい者じゃありません! ここを通してよ!」
「口を慎め! ダークマターの斥候め、貴様らに渡す情報など無い!」
ポータルの入口に立っていた、重厚な鎧を纏った二体のデジモンに取り押さえられた竹花は、必死に自分の無実を訴えた。だが鎧のデジモンは耳を傾けようともしない。
「我らライトマインドの誇り高き門番、ナイトモン! 怪しい者はネズミ一匹たりとも通さん!」
「ちょっと待って~!」
群衆の中から太い尻尾が伸び、ナイトモンの腕に巻き付いた。ナイトモンが驚き群衆に目をやると、爬虫類デジモンが眼鏡の少年の手を引き、人混みをかき分けながら現れた。
「女の子はもっと丁寧に扱わなきゃダメなんだよ! タントが前そう言ってたもん!」
「ゲッコーモン、声が大きい……」
タントと呼ばれたその少年はそう呟きながら騒動の原因に歩み寄った。
「ナイトモン。その子悪い人じゃなさそうだし、こっちで面倒見るよ」
「し、しかし……」
「ここは通り道だし、それにこれだけ人がいると落ち着いて話もできない」
ナイトモンは不安げな様子だったが、やがて竹花を解放すると何事も無かったかのように元の位置についた。それを見て群衆も散り散りになっていった。
「ハァ、やっと助かった」
疲れからか、体の力が抜けたように竹花はその場にしゃがみこんだ。さらに流れるようにその場で横になり、スヤスヤと寝息を立て始めた。
「呑気なもんだな。これからみっちり取り調べが待ってるっていうのに」
少年はそう言って、ゲッコーモンと呼んだ爬虫類デジモンに竹花を担ぎ上げるよう指示した。
竹花はベッドの上で目を覚ました。大きく伸びをすると、ハンガーに掛けられた紫の上着を着て辺りを見回した。木でできた小屋のような場所だ。ベッドの上に取り付けられたシェード以外に天井は無く、空には雲一つない晴天が広がる。さらにはるか彼方には水平線が見え、この場所が海の上にあることに気づいた。
パソコンと向き合っていた真っ白なネコのような生き物が竹花の気配を読み取ったのか、振り返り近づいてきた。
「おはよう! 気分はどう?」
竹花は若干戸惑いながらも自身の体調に問題は無いことを伝えた。
「良かった! ボクはテイルモンっていうの。シティの入口で気を失ったキミはここに運び込まれて来たんだよ」
「そっか、私あそこで寝ちゃったんだ。あ、私は春日竹花って言います」
テイルモンが目を輝かせた。
「チカっていうんだ、よろしくね! ここはタントとゲッコーモンのテイマーホームなんだ! チカはタントの彼女なの?」
「……はい?」
突拍子もない質問に竹花が固まった。ちょうどその時、少年とゲッコーモンが少し離れた場所にあるポータルから現れ、話しながら近づいてきた。
「タントお帰り! 彼女さん、目を覚ましたよ!」
「……は?」
テイルモンにタントと呼ばれた少年も同様に固まったが、何かを察したようにゲッコーモンに冷たい目を向けた。
「……ゲッコーモン?」
「うん! 前にテイルモンから聞いたんだけど、彼氏と彼女はお家で仲良くするんだって!」
「ホントに余計なことばっかり覚えるよな……」
少年は頭を抱えたが、しばらく考えると左腕のデジヴァイスを操作し始めた。ゲッコーモンの体が光り、粒子となってデジヴァイスに吸い込まれていった。その光景に竹花は目を丸くした。
「テイルモン、大事な話をしたいから二人きりにしてくれる?」
テイルモンはそれを聞いて微笑みながら二人の方を交互に見ると、そのまま何も言わずにパソコンがあった方へ戻っていった。少年は改めて竹花に向き直ると、突然彼女の両腕を掴んで持ち上げた。上着の袖がはだけ、細く白い腕が露わになる。
「え? え? やっぱりそういう感じなの!? あの、まずはお互いのことよく知ってから……」
「なんだ、本当にただの民間人だったか……紛らわしい恰好だな全く」
どちらの腕にもデジヴァイスが無いことを確認すると、少年は吐き捨てるようにそう言った。
「そ、そうなの! 訳も分からないままここに連れてこられちゃったの! それで元の世界に帰りたいんだけど、方法とか知らない?」
己の勘違いをごまかすように袖を戻して赤面しながら竹花が言ったが、少年はもう彼女に興味を持っていないように見えた。いかにもすぐこのホームから帰ってほしいといった具合に無言の圧力を放っている。彼の眼鏡が太陽光を反射し、鈍い光を放った。
「何よ! そのリストバンド着けてるのがよっぽど大事なの? もういいわ、そんなに迷惑ならさっさと出て行きますから!」
しばらく少年の返答を待っていた竹花も、さすがに堪忍袋の緒が切れたようだ。少年に怒声を浴びせ、ポータルの方へ歩いて行った。
やがて彼女の姿が完全に見えなくなると、少年のデジヴァイスからゲッコーモンが話しかけてきた。
「タント、良かったの? オイラ、タントがホントは優しいこと知ってるよ。デジモンだけじゃなくて、他の人にも優しくしてあげたら?」
ゲッコーモンに促され、少年は難しい顔をしながら額に手を当てた。
ホームを追い出された竹花は、行く当てもなくその場で愚痴を始めた。
「何アイツ! 二人になった途端怖い顔しちゃってさ。そんなにあのデジモンとかいうへんてこりんな生き物と一緒がいいわけ? こんなところにいたら絶対人間不信になるんですけど!」
「そこどいて」
「ぎゃあ!」
不意に後ろから声がかかり、竹花は飛び上がりながら振り向いた。目の前の少年は先ほどに比べていくらか穏やかな表情をしていた。
「元の世界に帰る当てがあるかもしれないからついて来て」
少年は竹花にそれだけ告げると、ゲッコーモンを連れ歩きだした。だが竹花は頑なについて行こうとしない。
竹花がいないことに少年が気付いたのは、ダンジョンとは別の場所に向かうポータルが目の前まで来たタイミングであった。ゲッコーモンの呼びかけに応じて振り返った丹人路が、小さく溜息を吐いた。
――――――――
うっそうと木々が生い茂る森林地帯。陽は傾き、空は鮮やかなオレンジに染まる。しかしそんな夕暮れの穏やかなひと時にも関わらず、少女の足取りは明らかに森林散歩のそれではなかった。
少年の言葉を疑い無視してシティを出た後、竹花はかれこれ一時間近くこの木々の中を彷徨っていたのだった。
「ねえねえ、元の世界への帰り道ってどこにあるか知ってる? ……わけないか」
竹花の周りには、丸っこい頭部にちょこんと手足や胴体がくっついたようなデジモンが三体ほど飛び跳ねながらついて回っている。大きさはみな膝丈にも満たないが、頭に植物の芽が生えているもの、淡いグリーンの体に垂れ耳と小さな角が生えたもの、ブラウンの体に垂れ耳と三本の角が生えたものと、それぞれが異なった姿をしている。竹花は三体のデジモンに尋ねたが、言葉が通じそうにないことは直感で理解していた。
肩を落として十分ほど歩くと、足元のデジモン達がピーピーと喧しく鳴き声を上げ始めた。気にする余裕もなかった竹花が無視して歩き続けると、三体のデジモンはピタリと足(?)を止め、それ以上ついて来ようとしなかった。心なしか、それまでに比べて木の密度が増えたように感じる。太陽の光は届かず、肌寒さを覚えるほどに空気が冷え切っていた。
「どうしよう……。これ以上歩きまわるのは危ないよね、どう考えても」
不安が募った結果、竹花は無意識のうちに独り言を発していた。ふと、前方から草をかき分け先ほどポータルの前で遭遇した小鬼デジモンがこちらに向かって歩いてきた。それも一体ではなく二体、さらにその奥には手前の小鬼の二倍以上はある体躯の緑色の鬼が構えていた。奥に佇む鬼は頭部から生える二本の角を持ち、まさに東洋で語り継がれる『鬼』そのものであった。
三体とも目くじらを立てた険しい顔をしているのを見て、竹花はようやく自分が彼らの縄張りに入ってしまったことを認識した。
一般的に、野生動物は自分たちの縄張りに入った者を徹底的に排除しようと試みる。当然それは竹花も分かっていた。だからこそ焦った。テレビの特集で山でクマと出会った時の対処法を観たことを思い出した竹花は、目を逸らさないよう細心の注意を払い、心の中で祈りながら半歩ずつ後ずさりを始めた。
ウガアアァァァ!
竹花の祈りも空しく、奥に構える鬼の指示で二体の小鬼が突進してきた。竹花の脳裏に走馬燈が流れる。足に力が入らなくなり、尻餅をついた。息が荒くなる。鼓動が早まる。身体が震える。不規則な足音が近づいてくる。いよいよ景色が真っ白になり、目を瞑った瞬間だった。
「そこどいて」
同時に聞こえた空を裂くような音にかき消されそうなほど小さい、しかしはっきりとした少年の声が竹花の耳に届いた。恐る恐る目を開くと、オレンジ色の背中が二つが見えた。それはこの暗く陰気臭い森林において、まるで太陽のような力強い輝きを放っているように見えた。その奥で、空を裂く音と共に吹き飛ばされたであろう二体の小鬼が見える。
「ゴブリモン二体、オーガモン、スキャン開始。ゲッコーモン、左から回り込むんだ!」
「任せて、タント!」
少年とゲッコーモンによるわずかな掛け合い。手下を倒された怒りからか、少年がオーガモンと呼んだデジモンがいきり立ち襲いかかってくる。
右手に持った骨でゲッコーモンを殴りつけようとするが、ゲッコーモンは素早くオーガモンの左側に回り込むことで殴打を回避した。その後もオーガモンは何度も打撃を試みるが、その度にゲッコーモンは身体を屈めて左へ回り込む。元々の体格差が大きい上、至近距離で屈むことによってオーガモンは狙いを絞り込めなかった。
しかし回避に集中しすぎたことで周りが見えなかったのか、ゲッコーモンの背後には太い木の幹が迫っていた。逃げ場を失ったゲッコーモンに、オーガモンは今までより大振りで骨を振り下ろした。
「危ない!」
戦闘を見ていた竹花が思わず叫ぶ。しかしその横で腕を組んで立つ少年の口元は依然として吊り上がっていた。
骨が大地を叩く音が響いた。ヒットを確信していたオーガモンは呆気にとられ、慌てて辺りを見渡す。
「ここだよ」
声が聞こえた方向にオーガモン、それと同じく困惑していた竹花が目を向けた。比較的太い枝に尻尾が巻き付き、逆さの状態でゲッコーモンがぶら下がっている。反動をつけて木の幹に手を当て、枝から尻尾を離しながら足も同様に幹へ付けた。ヤモリが壁に張り付くように、手足をつけた状態で木の幹にピッタリと張り付いている。
散々翻弄されたことでオーガモンの怒りがピークに達したのか、雄叫びを上げながら骨を振り回した。ゲッコーモンは今度は地に降りることなく、尻尾を伸ばして遠くの木の枝に巻き付け、一瞬で収縮させることで一気に飛び移った。
「一体どうなってるの?」
「ゲッコーモンの尻尾は伸縮自在、手足は吸盤になっているんだ。君が迷い込んだのが森林地帯で良かったよ」
夢でも見ているかのような光景を傍観する竹花の質問に対し、少年が若干の皮肉を交えて説明した。
――――フェアリーテール!
追いまわして体力を消耗したオーガモンの右腕に、ゲッコーモンの尻尾が巻き付いた。そのまま枝を支点にしてまたぎ、井戸で水を汲み上げるようにオーガモンの右腕を引っ張り上げた。成人男性ほどもあるオーガモンの体は、クレーン車が鉄骨を持ち上げるようにゆっくりと宙に浮いた。
「オーライ。ゲッコーモン、そろそろ黙らせよう」
少年の指示を聴き取り、ゲッコーモンが右手から炎、左手から光を発生させた。一方、オーガモンも宙に浮いたまま左の拳に紫の波動を宿した。少年はそれを見た瞬間笑みが消え、急いでデジヴァイスを操作、前方に向けて腕を突き出した。
「デジコンバート!」
少年が叫ぶ。
――――覇王拳!
オーガモンが左腕の波動をゲッコーモンに向けて放った。だが拳を突き出す直前、オーガモンの顔のすぐ近くで無数の泡が音を上げて弾けた。音に驚いたオーガモンは照準がずれ、紫の波動はゲッコーモンの真横をかすめていった。
オーガモンが泡の発生源を確かめようと一瞬目を離した隙に、ゲッコーモンが両掌から炎と光を発生させたまま接近した。
――――オータムリーブス!
オーガモンの左胸に炎、右わき腹に光を纏った掌が打ち込まれ、赤熱化した部位から煙が立ち上った。オーガモンは自由な左手で体を抑え、しばらくの間苦悶の表情を浮かべていたが、次第に焦げた体を中心に光の粒子となり、遂には跡形も残さず消滅していった。
いつの間に目を覚ましていたのか、気絶していたゴブリモン達が起き上がった。が、自分たちの首領が倒された光景を目の当たりにし、縄張りを捨てて逃げるようにその場を後にした。
「タント! やったね!」
ゲッコーモンが少年に寄り添った。少年も優しくゲッコーモンの頭を撫でる。ホッと胸を撫で下ろし立ち上がった竹花の周りには、先ほどついて来た三体の小さなデジモンがいつの間にか再集合していた。相変わらずぴょんぴょんと跳ね回っている。
「この子達、さっきの……。ずっとついて来たの?」
「いや、別個体だ。森で出会ったときにデータを回収しておいて良かったよ。オーガモンは腐っても成熟期、必殺技をかすりでもしたら形勢逆転される可能性があったからね」
少年はゲッコーモンを労いながら得意げに説明した。
「ゴブリモンは成長期の中では知性のあるデジモンだからね。ボスが倒されたことで勝てないと悟ったんだろう。連戦ともなるとさすがにゲッコーモンがもたないから助かったよ。……それはそうと、君は大丈夫だった?」
いつまで経ってもピッタリくっついてくるゲッコーモンを若干鬱陶しそうに引き離し、竹花の方を向いた。竹花は産まれたての小鹿のように脚を震わせ、目には涙を浮かべていた。
「……ごわがっだ」
初対面の強気な姿勢からは想像できないリアクションに驚いた少年が何か励ましの言葉を掛けるより早く、竹花が少年に抱き着いた。少年の顔が一瞬にして火照り、ゲッコーモンが嬉しそうに微笑みながら手を頭の後ろで組んだ。
「タント~。さっきは否定してたけどまんざらでもなさそうじゃない?」
「ち、違う! いきなり抱き着かれてびっくりしただけだ!」
少年は小さく咳払いし、眼鏡を指で押し上げた。自分より背の高い人間に抱き着かれたことで、少年は足に力を込めなければ倒れてしまいそうだった。
――――――――
デジタルワールド雪原地帯。久しく雪の降る音しかしなかったこの場所に、複数の足音が鳴り響く。
一人のテイマーと一匹のデジモン。テイマーの方は背が小さいが、マフラーや海賊風のコート、帽子を着込んでいる影響で大きく見える。デジモンの方はロップイヤーのウサギのような風貌に加え、瑠璃色の瞳、四肢に大型の爪、首元に鬣のような毛を蓄え、額には瞳と同じ色を持つ手のひら大の宝石が埋め込まれている。獣というよりは王族のような高貴なる装飾品を身に付けながらも、全身はかわいらしいパステルピンクの体毛に包まれている。
テイマーが左腕に装着されたデジヴァイスを操作し、画面に向かって話しかけた。
「こちら『スターストーム』、定期報告です。雪原地帯を捜索しましたが、彼女の姿は見当たりませんでした。どうぞ」
口元のマフラーを外したテイマーの顔は、まだ幼い少女のそれだった。口調こそ丁寧だが、声質にはあどけなさしか見られない。特にサ行に至っては、寒さの影響もあるだろうが『しゃ、しぃ、しゅ、しぇ、しょ』と舌足らずになってしまっている。
――――そうでしょうね。来ていたら今頃氷像になっているはずよ。あの子の運はそんなに悪くない
画面に映った人影も、そこから発せられる透き通った声も、竹花がこの世界で最初に出会った人物のものと同一であった。少女は白い息を吐きながら通話を続ける。
「次はどこを捜索しますか? どうぞ」
――――もう十分よ。あなたはそこで本来のクエストに励みなさい。捜索の方は彼に任せてあるわ
「『コンフィート』に……ですか。どうぞ」
少女が顔をしかめる。
――――あなたはまだ経験が少ないの。今のうちに実力をつけておきなさい。それと……
画面の人影が肩を震わせているように見える。
――――これは無線じゃないんだから、最後にどうぞと付け足す必要は無いのよ?
傍らを歩くウサギデジモンはやれやれといった表情を見せたが、テイマーの方は相変わらず顔を引き締めていた。
「了解。オーバー」
通話を切る直前、画面の向こうで堪えきれない笑いがこみ上げていたのを、少女の隣を歩くデジモンの大きな耳は聞き逃さなかった。
――――――――――to be continued……
【告知】
2022年9月18日(日)に東京ビッグサイトにて開催されるデジモン同人イベント【DIGIコレ13】にて、『デジモンカルティメット』の第2巻を頒布いたします!!
1巻に引き続き、イラストはれとさんが担当! 前巻よりさらに美麗に仕上がったイラストもお楽しみに!
サークル名はいつもの『ごじゃっぺ直売所』(東4ス29b)。ザッソーモンとガムドラモンのぬいぐるみが目印です!
オリデジの進化系も登場し、物語はさらに加速する……! 1巻と合わせてぜひお楽しみください!!