彼は走っていた。
暗闇の中を。
ただひたすらに。
走って、走って、永遠に続くかと思われた暗闇に、一筋の光を見つけて。
光に向かって走ろうと思った途端に地面が崩れて、彼はそのまま落ちていった。
「っ‼︎」
飛び起きた彼、デスメラモンの目に入ったのは暗い灰色の壁だった。
一瞬何処か分からず辺りを見回すと、そこはハッピーワークのデジモン専用寮だった。
隣のベッドでは同室のデジモンが気持ち良さそうに寝ている。
そうか、さっきのは夢…。
少し安心した彼は時計を見た。
時間は朝の五時。丁度いい。
デスメラモンは同室のデジモン達を起こさないよう気を付けて部屋を出た。
人通りの無い街を、デスメラモンは走っていた。
リアルワールドに来てデジモンの人材派遣会社ハッピーワークで生活を始めてから、早朝ジョギングをするのが彼の日課になっていた。
と言っても、筋骨隆々の彼にはトレーニングとしては物足りない。体を鍛える為ではなく気分転換の方法として彼は走っていた。
ゆっくりとしたーーと言っても人間と比べるとはるかに速いーーペースで街を走っていると、前方に犬を連れた老婆が歩いていた。
デスメラモンは走るのをやめて歩いて近付く。
「おはよう」
「あら、おはよう。デジモンさん」
老婆はにこにこと笑っている。
老婆の名は海道信子。会社の近所に住んでいて、飼い犬のさぶちゃんと早朝散歩をするのが日課である。
デスメラモンがジョギングを始めてからよくすれ違うようになり、最近では挨拶や世間話をするような仲になっていた。
「お仕事はどう?確か家政夫をしているんだったわね。もう慣れた?」
「ああ。掃除も洗濯も問題無くやっている。あんたはどうだ?」
「私はいつも通りよ。さぶちゃんもほら、元気でしょう?」
デスメラモンはさぶちゃんを撫でる。ふわふわとした毛が気持ち良く彼の手を包んだ。
「今日もお仕事頑張ってね」
「…ありがとう」
デスメラモンは少し照れながら返事をすると、さっきより少し速めに走り出した。
授業の終わりのチャイムが鳴ると、本庄香奈は急いで荷物をランドセルに入れて教室を飛び出した。
後ろから先生の声がしたが構わずに走った。
学校を出ていつもの帰り道を走り抜ける。
途中の公園で立ち止まり、息を整えると、今度は早足で家に向かった。
家に着くと、心臓のどきどきとした動きがおさまるのを待ってからドアを開けた。
「ただいま!」
いつもは返事をしてくれる人などいない。
でも。
「ああ、おかえり」
リビングで洗濯物を畳む、おじさんことデスメラモンがいた。
香奈は自分の部屋に入るとランドセルを降ろした。
そして物陰からリビングの様子を見る。
デスメラモンは正座をして洗濯物を丁寧に畳んでいた。
大きな体のおじさんがちまちまと洗濯物を畳んでいるのが妙に面白くて、香奈はにへへと笑った。
香奈はランドセルから教科書とノート、筆箱を取り出すと、深呼吸してから部屋を出た。
リビングへ行くと、デスメラモンが香奈を見て言った。
「どうした?何か用か?」
「今日は、えっと、リビングで宿題をしようと思って…」
「そうか」
それ以上は何も聞かないデスメラモンにほっとしつつテーブルに教科書とノートを広げると、デスメラモンは興味深げに覗き込んだ。
「ほう、日本語か。字が大きくて読みやすいな」
「おじさんもお勉強してるの?」
「ああ。日本語と英語を少しな」
「英語も?」
「覚えておくといざという時に役立つらしい」
「そうなんだ…」
おじさんが英語で話す姿を想像し、何だか不思議と面白そうで香奈は少し笑った。
そんな彼女に首を傾げたデスメラモンは、時計を見て思い出したように言った。
「そういえば今日の晩飯の用意を頼まれてたな。おまえは何が食べたいんだ?」
香奈は少し考えて、
「カレーがいいな」
と言った。
「カレー…」
頭にはてなマークを浮かべているデスメラモンを見て、香奈はキッチンからカレールウの箱を取ってきた。
「これ、ここに作り方が書いてあるの」
「成る程…野菜と肉を鍋で煮込む…こいつを入れればカレーになるんだな…」
彼は冷蔵庫の中を確認し、足りない材料をメモに書いた。
「じゃあ買い物に行くか」
「うん!」
「ここがスーパーか」
香奈の住むマンションから徒歩15分程の距離に、スーパーオヤシロは建っていた。
店内に入り、カゴを持って先ずは野菜コーナーに向かった。
「じゃがいも、じゃがいも…これか」
陳列棚に並ぶじゃがいもを適当に見繕ってカゴへ入れる。
「それからにんじんか…」
買い物メモを見ながら野菜を物色していく。
他の客はちらりとデスメラモンを見ながらも特に気にすることもなく通り過ぎていく。
「あの、お客様?」
呼ばれた彼が振り向くと、そこには小柄な女性が立っていた。
「む、何か用か?」
「いえ、あの…お客様が迷っていらっしゃるようでしたので…何をお探しでしょうか?」
店内をうろうろしている姿が迷子のように見えたらしい。
「大丈夫だ。買うものは分かっている」
「そ、そうですよね…大変失礼致しました!」
そう言うと、女性は顔を赤くして去っていった。
「あの店員さんどうしたのかな?」
「さあな」
香奈とデスメラモンは二人で首を傾げた。
「まあいい。次は…肉だな」
二人はお肉コーナーへ行った。
其処には牛肉、豚肉、鶏肉が、調理法に合わせた形に処理されていた。
パックされた肉を見渡して、デスメラモンは迷っていた。
「肉にもこんなに種類があるのか…どれを買えばいいんだ…」
彼は困って香奈を見た。
しかし香奈もどの肉がいいのか分からず、二人は再び首を傾げた。
すると、先程の店員が
「あの…大丈夫ですか?」
と声をかけてきた。
「あんたはさっきの…肉を買いたいんだが種類が多くてな…」
「そうでしたか!…はっ!失礼しました…」
大声を出した店員はまた顔を赤くした。
「カレーを作るんだが、どの肉がいいんだ?」
「カレーでしたら…」
店員は陳列されている中から何種類かを取り出した。
「こちらのバラ肉はどうでしょうか?お値段お安くなっております。こちらはカレー用にカットされていますので、パックから出してそのまま鍋に入れられて時短になります。チキンカレーにするのでしたらもも肉が合いますね…」
店員の説明をうんうんと聞いて、デスメラモンは肉を見比べた。
「そうだな…このサイコロのようなやつが便利そうだ。これにしよう」
そう言って、サイコロカットされた商品をカゴに入れた。
店員はそれを見て笑顔になった。
「その…色々教えてくれて感謝する」
少し恥ずかしそうに顔を背けながら、デスメラモンは店員に礼を言った。
「いえいえ!お客様のお役に立つのが店員の仕事ですから!」
店員は顔を真っ赤にして照れ笑いを浮かべた。
その後も店員に色々と聞きながら必要な品物をカゴに入れていった。
香奈はデスメラモンに訊ねた。
「おじさん、お菓子買ってもいい?」
「お菓子か。いいぞ、持ってこい」
香奈は嬉しそうにお菓子コーナーへ向かった。
他に買う物がないかメモを確認していると、陽気な声が聞こえた。
声の方を見ると、ザッソーモンがソーセージを焼いていた。
「いらっしゃいませ!美味しいソーセージ、いかがですか!」
どうぞ、と焼けたソーセージに爪楊枝を刺してデスメラモンに渡す。
折角だからと食べてみると、なかなかに美味しい。
「これは美味いな」
「でしょう?今なら三割引ですよ!」
「お買い得ですよ!」
「そ、そうか…」
ザッソーモンと店員の勢いに押され、デスメラモンはソーセージを一袋カゴに入れた。
香奈はどうしたかとお菓子コーナーに行くと、彼女はお菓子を二つもって困った顔をしていた。
「どうした?」
「あのね、このチョコとクッキー、どっちにしようかなって」
香奈がそう言うと、デスメラモンは不思議そうに言った。
「両方買えばいいじゃないか」
その言葉に、香奈は驚いて目を見開いた。
いつもなら母にどちらか一個にしなさいと言われるのだ。
だがおじさんは両方買えばいいと言った。
お菓子を二つも買える…それは香奈にとって夢のような話だった。
「両方とも買っていいの?」
「ああ。ほら、この中に入れろ」
香奈はいそいそとカゴにお菓子を入れた。
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買い物メモの品が集まり、二人はレジに向かった。
レジで精算して、持ってきたエコバッグに買った品物を入れていく。
「今日は随分と世話になったな。感謝する」
「こちらこそお買い上げありがとうございます!」
店員は大きな声で返した後に今日何度目かの赤面になった。
「すみません…私ってば声が大きくて…」
それを聞いたデスメラモンと香奈はきょとんとした。
「声が大きいことが悪いことなのか?」
「えっ?」
「俺からすればあんたの声は聞きやすいんだが」
「そ、そそそ!そうですか!ありがとうございます!」
店員は声を張り上げて言うと頭を下げた。
「それじゃあ帰るか」
「うん」
「またのご来店を心よりお待ちしております!」
店員に見送られ、二人は家に向かって歩き出した。
「おじさん」
「なんだ?」
「あのね、えっとね…」
香奈は少し迷ってから思い切って言った。
「手をつないでもいい?」
「手を?」
デスメラモンが聞くと、香奈はこくりと頷いた。
彼は手を繋いだ経験がなかったので、彼女がどうしてそんなことを言ったのか分からなかった。
「俺の手でいいなら、ほら」
デスメラモンは手を差し出した。
香奈は笑顔になると手を握った。
そうして二人は手を繋いで家に帰った。
家に帰ると、香奈はリビングで宿題の続きを始めた。
デスメラモンはキッチンに行くと、早速カレー作りに取り掛かった。
まず鍋に水を入れると、デスメラモンは先程買った野菜を取り出してそのまま鍋に放り込んだ。
次に肉を取り出すと、それもそのまま鍋に入れた。
それからカレールウを入れて強火でぐつぐつと煮立たせる。
ルウが溶けてカレーの匂いがキッチンからリビングへ届いた。
その匂いに釣られてキッチンに来た香奈は、鍋の中を覗いて驚いてしまった。
「おじさん…お料理苦手?」
「何故だ?」
「それは…えっと…」
ストレートに言うとおじさんが悲しむかもしれない。
そう思った香奈は一生懸命に言葉を探した。
だが、まだ小学生の彼女には難しいことだった。
香奈が悩んでいる間に、デスメラモンは皿にごはんを盛り、カレーをかけた。
そして彼女の悩みも知らずに椅子に座らせて、机に皿を置いた。
「ほら、出来たぞ」
香奈はカレーを目の前にしてスプーンを握りしめた。
自分がカレーがいいと言った手前、食べたくないとは言えずにスプーンを動かしてカレーを掬う。
緊張しながら一口食べると、意外にも普通のカレーだった。
皮もそのままなじゃがいもに齧りついてみると、中はホクホクとしていい具合である。
人参は少し硬かったが、中まで火が通っていた。
香奈はもぐもぐと食べ進め、気付けば完食していた。
「美味かったか?」
「うん!」
彼女の返事にデスメラモンは嬉しそうにした。
食事が終わり片付けをしていると、
「ただいまー」
と玄関で声がした。
二人が見にいくと、香奈の母が立っていた。
「お母さんおかえりなさい」
「おかえり」
「ただいま!デジモンさん、お疲れ様です」
「そちらこそお疲れ様」
挨拶をすると、香奈の母はカレーの匂いに顔を綻ばせた。
「今日はカレーなのね…良い匂い」
彼女はそのまま匂いを辿ってキッチンに行くと、鍋の中身を見て驚いた。
「こ、これは…?」
「カレーだが?」
香奈の母はカレーとデスメラモンを交互に見てからうーんと唸った。
「お母さん、おじさんのカレーおいしかったよ」
香奈がそう言うと、香奈の母は困惑したまま笑顔を作った。
「じゃあ後で私も頂こうかしら」
「ああ。まだ沢山あるから腹一杯食べてくれ」
デスメラモンは少し自慢げに言った。
それから少し経ってデスメラモンが帰る時間になった。
「今日はこれで」
「ありがとうございました」
デスメラモンと母が挨拶を交わすと、香奈は彼に尋ねた。
「おじさん明日もくる?」
「ああ。明日も仕事だからな」
そう聞くと、香奈は嬉しそうに笑った。
これまでは家に帰っても誰も居なかった。
でも今は違う。
おじさんが家にいる。
ただいまを言うとおかえりを返してくれる存在がいる。
明日もまたおかえりがもらえる。
香奈はそれが本当に嬉しかった。