こちらのお話は、超DIGIコレ2023にて販売した『デジモンアクアリウム Episode1:笑い者』の外伝作品です。デジモンアクアリウム3周年という事で公開します。
本編のネタバレを含みますので、ご注意ください。
以下、本編です。
*
「『ミズ』に触れてはいけない」
育った里が、海に近かったのが一番の理由だと思う。里長は事あるごとに、私にそう言い聞かせた。
他の同世代のデジモン達が浜辺に駆けて行く姿を何度も見送りながら、その度に私は、同じ答えが返って来ると知りながら、恨み言のように里長に訊ね返したのを覚えている。
どうして私は、『ミズ』に触れてはいけないの?
どうして私は、『ウミ』に入ってはいけないの?
「君は、きっと死んでしまうから」
死。
そも、私には死というものがわからなかった。
里長は、それがさも恐ろしい事であるように言う。
今ある世界から、自分が消えて無くなる。誰も私に会えなくなるし、私も誰とも会えなくなる。
そんな風な事だと、里長は言うのだ。
でも、無事に育った成熟期のデジモン達は、みな里を出て、生きるために他のデジモン達に死を与えるようになる真似をし、時には自身が狩られて果てる事を、幼い私でさえ、知っている。
で、あれば。
死は、そんなにも身近にあるのだから。
小さな私が『ミズ』に触れて消える程度、何てことは無いのではないかと、そう、常日頃から、考えてはいて。
だが――そこまでを、里長の前で、ついぞ口に出す事は出来なかった。
だって、そんな事を言えば、私は里長を困らせてしまう。
ただでさえ触れるだけで相手に痛みを傷を与える身体を持つ私は、里の鼻摘み者だった。
私が『ミズ』に触れる事が出来ないように、里の者はみな、そのほとんどが私に触れる事を許されておらず――ただ1体私を目にかけてくれる里長から見放されるのは、死などよりも余程、恐ろしい事のように思えて。
今思えば、私は寂しかったのだろう。
ただ、あたりまえのようにみなと触れ合って、みなと同じように、『ミズ』と戯れてみたかったのだ。
思いの形を正しく把握できぬまま、己が感情を『ウミ』への憧憬と履き違えてしまう程度には。
私は、きっと孤独だったのだ。
*
激痛と、それから不快な泡立ちの音と共に、濛々と白い湯気が立ち上る。
5秒と耐えられずに波間から腕を引き抜くと、剥き出しのワイヤーフレームが青天の下露わになり、だがすぐに、肘より上で燃え盛る炎に、いつものように覆われてしまった。
後を引くのはじくじくと蝕むような痛みばかりで、他種族に言わせれば、火傷の痛みとは、そういった感覚に近いのだという。
またやっている、と、遠巻きにけらけらと笑う幼い声が聞こえた。
振り返れば、水棲型の成長期デジモンが数体、こちらを指差していて。しかし私の視線に気付くなり、慌てて海の方へと逃げ去って行った。
睨んだつもりは無いのだが。しかし私――メラモンの、炎の中に浮かぶガラス玉のような眼が、正確に表情を伝えられるような代物で無いとは、いい加減に、理解していた。
まあ、順当な進化ではあったと思う。
モクモンからプチメラモン。それからキャンドモンを経て、メラモンへ。俗に火炎型と分類されるデジモンの系譜としては、この上なく一般的なルートである。
だが、私の落胆は激しかった。
キャンドモンに進化した際、初めて許された里の者との交流は、しかし誰かと触れ合う喜びを私に教えてはくれなかった。
蝋の肉体はあくまで本体を守るためのダミー。プチメラモンの時と同様、炎が纏わりつくばかりの本体に、感覚を伝えられるような代物では無かったのだ。
それでも、触れたものを傷付けない肉体を手にした私は、成熟期の姿に望みを賭けていたというのに。
私の意に反して、進化と共に燃え広がった炎は、里の端に用意されていた私の住処を這い、焦がし、壊し尽した。
そうなれば私には、里を去る他に道は無かった。
他の者のように成長を寿がれた上で送り出されるのではなく、これ以上その火を近付けるなと、みなに追い立てられながら。
里を離れ。
何日もの間、荒野を駆けて。
島の反対側に出たらしい。
私を迎え入れる事の無い海の景色が、私を出迎えたのである。
歓迎こそされなかったが、海辺の住民たちは私を拒まなかった。
いざとなれば、相性故にすぐに始末できると、そう考えたのだろう。
炎は光を放つ。
夜の海を往く者の目印として、海辺の住民達は時折火を焚いているのだそうだ。
私はその代わりになるから、居住区に近寄らないと約束するのならば、砂浜を拠点にしても構わない。と。警戒を色濃く眼差しに宿しながら、ではあるものの、海辺の村の代表者は、そう、私に言い渡したのだった。
私は潮が満ちても波の手が伸びない、乾いた砂地に腰を下ろし、ぼう、と青い空と青い海の、真っ直ぐな境を眺め続けた。
腕はまだ痛んだ。
ひょっとすると。
万が一にも、奇跡が起きれば、と。私は毎日のように海に手を浸ける行為を繰り返しているのだが、海は常に私を拒み、多少炎を食んだところで、形を変える事も無い。
もしも私がこれ以上深い所に手を伸ばせる日が訪れるとすれば、それは再び進化を迎えた時か、腕の神経が完全に馬鹿になってしまった時くらいのものだろう。
と、
「へんなメラモン。今日も海に触れてきたのでしょう」
どことなくたどたどしい、幼い印象のある声音。
顔を上げると、鮮やかな桃色の枝が何本も生えた岩を被った、水色の軟体デジモンが、私の熱に炙られない距離を保ちながら、金の瞳でじぃ、と私を見上げていた。
枝の上には、串を打った魚が2尾、乗せられている。
「君は」
「あたしは、サンゴモン。あなた、からだが燃えているのでしょう? おさかなは、焼くとたいへんにおいしいと聞いたので。あなたで試してみようと思ったのです」
まるで詩の一節でも読み上げているかのような、わざとらしい口調で言葉を紡ぎながら、サンゴモンはずい、と串の端を以って魚を私の方へと翳す。
ぱちぱちと、途端に皮面の弾ける音が鳴り始めた。
「綺麗な枝付き岩だな。海の中でも、よく映えるだろう」
サンゴモンとやらはしばらくその場を動きそうに無く、また、私にもこの幼いデジモンを追い払う理由は無い。
とはいえ無言で佇まれるのも少しばかり居心地が悪いので、一先ず、私はサンゴモンのメットを指して、口を開いた。
はて、と。サンゴモンは身体を傾ける。
「枝付き岩? ああ、あたしのメットのことでしょうか。岩とは失礼な。これは珊瑚といって、れっきとしたいきものなのですよ」
「生き物?」
「はい。死んだ珊瑚は、白くなるものです。あなたの言う通り、これはまだきれいなピンク色。あたしと同じで、いきているのです」
「……」
失礼な、と言った割に、サンゴモンが怒っている様子は無い。彼は説明が終わると、魚を回転させて私の炎があたる面を変えた。
「それは、不躾な事を言ったね」
「まあ知らなかったのならしかたがありません。つぎからは気をつけてもらえれば」
「うん、そうしよう」
ところで、と。私は今一度、サンゴモンの珊瑚へと視線を移す。
「その珊瑚というのは。君達の種族だけが連れている生き物なのか」
「いいえ? 珊瑚はサンゴモンの頭のだけではなく、そのほとんどが海の中で暮らしています」
「では海の中には、その桃色の枝がいっぱいに広がっているのだろうか」
「ピンク色だけではありません。黄色や緑、他にも色々。そして同じように色鮮やかな貝や魚もたくさんいます」
サンゴモンの言うような景色を、私は微塵も頭の中に思い描けないでいた。
何せ海はどこまでも青く、色を変えるのは、空に付き従う時ばかりなのだから。
緑の野原の底に、さかしまに咲いた花畑があると言われても誰が信じられようか。
サンゴモンの言う事は、私にとってはその類で――しかし、実際に。サンゴモンの頭の珊瑚とやらは、実に美しい桃色であって。
「ただし、おいしいおさかなは大抵じみな色をしていると、そう決まっているものなのですけれどね。……はい、焼きあがりました」
サンゴモンはそう言うと、すっかり表面の色が変わった魚を、更にこちらへと差し出してきた。
私は反射的に身を引いてしまう。
「どうしたのですか?」
「もう焼けたのだろう? そんな事をすれば、焦げてしまう」
「そのとおりです。ですので、早くうけとって下さい。こちらはあなたにさしあげます」
「?」
「あなたの炎でおさかなを焼かせてもらうのだから、お礼のひとつも必要でしょう。さあ、どうぞ。焦げない内に」
「……」
困惑は無いでも無かったが、もたもたしていれば魚が炭に変わって、本当に無駄になってしまうのも想像に難くは無かった。
私はサンゴモンを焼かないように、素早く魚の端を掴んで口元へと持って行く。
炎が燃え広がらない内に、口を縫う糸の隙間から串ごとに放り込むと、溶け出た脂が喉の奥で弾け、香ばしい匂いと苦み、そして塩辛さが口の中いっぱいに広がった。
思えば、まともな食事というのは久方ぶりだ。
燃やしてデータ屑に変えれば元が何であろうと大差は無いので、腹が空けば燃やせる物を適当に焼いて食べていたのである。
「塩の味がした」
「それは、海のものですから。海は、塩辛いのですよ」
「そう、なのか」
「ええ。あなたは海について、なにも知らないのですね。あんなに海に触れたがっているのに」
サンゴモンは、今度は自分の物らしい魚を焼きながら、心底不思議そうに頭を傾けている。
私は彼から目を逸らして、再び、海の遠いところを眺めた。
「触れられないから、知る事も出来なかった」
「あなたは海を知りたいから、海に触れたいのでしょうか」
「……」
答えは、口をついてはくれなかった。
へんなメラモン、と、サンゴモンは同じ言葉を繰り返す。
「ですが、あたしもあなたのことは言っていられません。村のものに言わせれば、あたしもたいがいな変わりものだそうで」
「…………」
私は何も言えなかった。
今度は答えが肯定しか思いつかなくて、それは失礼であるような気がしたからだ。
でも、私なんぞにわざわざ構いに行くあたり、それは、否定のしようも無い事だろう。
などと考えている間に、どうやらサンゴモンの思う具合に魚が焼けたらしい。
彼は私から魚を離すと、そのままぱくり、と口に運んだ。
「あちち」
慌てて口を離して、息を吹きかけて魚の表面を冷ます。
しばらくそうしてから、彼は今度は恐る恐る、口の端で魚の身をつまむようにして齧り取るのだった。
「……」
もう、必要以上の熱を感じるほどでは無かったらしい。
サンゴモンは、また一口。魚の側面に歯形を付ける。
「変わりもの同士、なかよくしましょう。焼いたおさかなは、とてもおいしい」
彼の吹き飛ばした熱が、こちらに飛んで来たのかもしれない。
胸の内が、この身の炎とは違った温かさを帯びるのを確かに感じた。
「それはよかった」
ひょっとするとそれは、私が生まれて初めて他者から向けられた好意的な感情で。
それ以来、サンゴモンは魚を焼くために、よく私の下を訪れるようになり、
私はその度に、彼から海の中の情景を訊ねるのだった。
私は、とても満たされていたように思う。気が付けば、無理に海へと手を浸ける行為も、控えるようになっていたくらいなのだから。
……そう、長続きは、しなかったのだけれど。
幸せな日々であったと、記憶している。
*
「そういう訳だ」
軽く炙られたらしいサンゴモンの珊瑚の枝先から、ちりちりと嫌な音が耳に届く。
彼は、普段にも増して私と距離を取っているというのに。
「私は、この島を発つ」
「メラモン」
「私は、もう、メラモンでは無いのだ、サンゴモン」
私は、完全体への進化を果たした。
ブルーメラモン。
姿そのものは、メラモンの時と変わらない。
違うのは、炎の色と温度。
その名の通り暗く、深い青の炎は、メラモンの時とは比べ物にならない程の高温であった。
例えば、多少波を被った程度であれば、水の方が触れた途端に蒸発してしまう程に。
海が、私を拒絶するように。
私自身もまた、海を拒絶し始めたらしかった。
メラモンであれば水の必殺技でいつでも殺せると踏んでいた村の者達も、これでは気の落ちつけようが無いだろう。
幸い陽も落ち、海辺の村の住民たちは、皆自らの縄張りへと帰っている。
で、あれば。
恐ろしい進化を経た事を知られぬまま、姿を消してしまいたかったのだ。
追われる前に。
……昼間語らったサンゴモンが、夕食用の魚を持ってきた事は、想定外であったのだけれど。
「あなたはまた、ほのおのデジモンなのでしょう? どうやって海をわたるというのです?」
訊ねる、というよりは、まるで引き留めているかのような声遣いに、胸の奥がぐらりと揺れた錯覚を覚える。
だが同時に、やはり留まる訳にはいくまいと固く思った。本体は軟体であるサンゴモンの身に、熱が引き起こす渇きは傍目にも辛そうで。
私はそっと、波打ち際へと手を翳す。
「『アイスファントム』」
必殺技を宣言するのと同時に、波は砂地を目前にして凍てつき、次に押し寄せた波によって砕けた。
この燃え盛る身体は、しかし己の熱を強めるために、周囲の熱を喰らう事もできるらしく。
「波を凍らせて行こうと思う。炎の身体だ。好き好んで私を喰おうとするデジモンも、そうはいないだろう」
「ですが、危険です。あなたは他の島がこの先のどこにあるか、ごぞんじなのですか?」
私は首を横に振った。
しかし、それでも行かねばならないと。
「君や、君以外を傷付ける前に。行かせてほしい」
「……」
サンゴモンは、暫くの間俯いていた。
彼は怒るかもしれないが、別れを名残惜しんでくれる彼の存在は、私にとって一種救いであり、また残酷な刑罰のようでもあった。
嗚呼、私は何度、己の進化を呪えばよいのだろう。
デジモンとは、進化によって、己の強く望む姿に変わり得る種族の筈では無いのか。
せめて。せめて当たり前のように、他者に触れる事が出来るデジモンでさえあれば、私は、それ以上の事など――
「ブルーメラモン」
ふいに、長らく黙っていたサンゴモンが口を開く。
「もうしばらくの間だけ、出発を待ってはもらえませんか。せめて、せめてあたしの友に、おくりものをしたいのです」
そう言って、呆気にとられる私の返事も聞かずに海へと潜ったサンゴモンが、再び姿を現したのは、数十分ほど後の事だった。
「これを」
本能的に、あるいは私の態度や、景色を歪める熱気そのものから。私に触れてはならないと、そう、判断したのだろう。
サンゴモンは、贈り物とやらを砂の上に置いて、私から再び距離を取った。
「……」
近寄って見下ろせば、それは珊瑚の枝で、しかし白い色をしていた。
白い珊瑚は、死んだ珊瑚だと。
サンゴモンは、かつてそう言っていただろうか。
「燃えないおまじないをかけてあります。……自分に使えれば、もっと、よかったのですが」
サンゴモンの言う通り、白い珊瑚は、私が触れてもその色を変える事は無かった。
炎の身体に温度を感じる機能も無かろうに、死を迎えたその枝は、湿って、ひんやりとしているようにも思えた。
「あたしのことを、わすれないでください」
「……」
「きっといつか、また会う日まで」
その日が来たら、またおいしいおさかなを食べましょう、と。
私を見上げるサンゴモンの瞳は、波間のように、揺れていた。
「忘れないさ。ありがとう」
私は白い珊瑚をしかと握り締めて、海に向かって足を踏み出した。
予想通り、波の表面は凍り付き、私は海の上に立っていた。
「さようなら、サンゴモン」
「さようなら、ブルーメラモン」
別れの言葉を、交わして後。
ざぶざぶと、波を掻き分けて。しばしの間サンゴモンが私を追ってくれたのが解ってはいたが、私は振り返らずに、走り続けた。
いつの間にか細波の音と、足元が凍り付く音の他には何も聞こえなくなり、そうしてようやく振り返れば、私の生まれ育った島は、もう随分と遠くにぽつんと佇んでいるだけだった。
私はその場に蹲って、大声を張り上げる。
嘘のように凪いだ海で、しかし私の吠える声は海鳴りとでも思われたのか。夜行性の水棲型デジモンが姿を現す事さえ無く。
ただ、月明りだけは炎の標を必要としない程に明るく、私の燃え盛る影ただひとつだけを、克明に浮かび上がらせているのだった。
*
それからの事は、あまりよく覚えていない。
気が付けば私は陸地に辿り着いたらしく、海で過ごした時間以上に彷徨い歩いて回った末に、闇のデジモン達が住まう区域へと流れ着いたらしかった。
闇の者達は、聖属性を持たない光には至って無関心であった。
炎である私もまた例外では無く、時折喰うものすら選ばない凶暴なデジモンや、ウィルス種と見ればただそれだけで悪と断ずる天使の類に襲われる事はあったが、むしろそれらを殺して、日々の糧としていたのだとうっすらと記憶している。
ウィルス種。
データを守護する炎の壁のプログラムがメラモンの祖だと聞いた事があるのだが、私はその道からは外れてしまったらしい。
外道の炎は、襲い来るものがなんであれ、よく焼いた。
私は、それなりに戦闘に優れたデジモンであるらしかった。
そんな私が、海には、水には触れられぬのだと。そう思うとただでさえ高温のはらわたが煮えくり返る思いで、そんな時は、私の方から堕天使共を襲う事もあった。
殺して、喰って。
喰って、殺して。
味のしない食事ばかりだった。
味、というのがどういうものだったか。時折ふと、あの塩辛い魚の事を思い出しはしたものの、その詳細まで記憶の内に思い描けたのは、最初の頃だけであったように思う。
それでも、辛うじて。
私は、サンゴモンからの贈り物を、失くさずにはいられていて。
それだけが、私が生命を維持し続けるための、縁であった。
……どれだけの月日が流れただろう。
ある日私は、空が割れるのを見た。
とうとう頭がおかしくなったのか、と、闇の領域特有の赤黒い雲間から覗くそれ以上の深淵を凝視していると、すぐに慌てふためいたこの区域の若いデジモン達の悲鳴が耳に届いて、それで、私はこの光景が、私だけに訪れた夢幻では無いと知るのだった。
世界の滅びまで噂され、他の区域のデジモン達に、邪悪な者達の根城とまで揶揄される闇の領域でさえ相当な混乱に陥ったが――住民たちの混乱に反して、空の裂け目は数日後には、塞がった。
だが、何かしらの事態が起きたのは間違いないのだろう。
裂け目が閉じる寸前。
不可視の稲妻がこの区域に落ち――それは、私の胸を、貫いた。
貫いた、とは言っても、痛みを感じた訳では無い。
どう例えて良いかも、解らない。
それでも、強いて言うのであれば。あれは、サンゴモンのメットの枝から滴り落ちた海水が、砂浜に吸われていく様に似ていたように思う。
私のデジコアにまで、空から零れた「何か」は余すことなく染み渡って行き、気が付けば、私は自らの腕に、炎を纏ってなどいなかった。
「……!」
腕だけでは無い。
脚も、胴も、そして顔も。
筒状に整った髪だけは、まるで燃え立つ炎を表現しているかのようであったが、そこに熱は感じられなくて。
あの、揺らめく青一色だった身体には極彩色の装束が纏わりつき、しかし見下ろした手の平は、死んだ珊瑚のように白い色をしていた。
進化を、したらしかった。
「これは、また。面妖な」
自身の変化に呆気に取られていた私の背後から、老成したしわがれ声。
振り向けば、私よりも余程奇妙な、獣の面を付けた人型のデジモンが、岩場の上から私を見下ろしていた。
「君は?」
「わしは、バロモン」
聞けばバロモンは、此度の異変について尋ねるために、このエリアの貴族に招かれた魔人型デジモンであるという。
魔人型とは、通常のデジモンとはやや理のズレた種族。
天の裂け目は、このデジタルワールドの『外』と繋がっており、そこから零れた別世界の理によって私は進化したのだろうと、訊ねもしていないのに、バロモンは私に対する憶測を述べるのだった。
「そなたの今の名は、ピエモン。魔人型デジモンの中でも、飛びぬけて異質とされる、地獄の道化とまで呼ばれる者よ」
「地獄の……」
それは、つまるところ。
私は相も変わらず、他のデジモンに恐れられ、疎まれる存在であるという事か。
「そう気を落とすな。そなたが望むのであれば、そのデジモンの力は、この辺一帯を手中に収める事さえ可能と――待て、どこへ行くつもりだ」
落胆はあったが、成熟期や、完全体の時程では無かった。
なにせ、何にせよ。
この身体は、もう、触れただけでは、相手を焼く事もないのだから。
この先如何なるデジモンに嫌われ、怖がられようとも――私には、いつか、また、と。再会を約束した友がいる。
「待たないか」
「いいや。私は行く。この区域の王になど、興味は無い」
「悪い事は言わぬ。やめておけ。わしには解るぞ。そなたの行く先が」
「ならば、なおの事。何故止める。王、などと言うからには、君は、この領域に秩序でも求めているのか? で、あれば、他を当たる事だ。私には、関係の無い話だ」
「海に行けば、おぬしは、塩の水に触れて死ぬ」
「……」
この場を、いや、この領域を立ち去ろうと歩き始めた私は、バロモンの言葉に、流石に足を止めずにはいられなかった。
「……それは」
「予言だ。わしには、未来が見える」
「……」
「悪い事は言わぬ。デジモンとは、己の生きるべき領域で生きる存在だ」
私は、
再び、前に向かって、足を進め始めた。
「忠告はしたぞ」
「感謝はする」
私は剥き出しの岩肌を蹴った。
ブルーメラモンの時の比ではない。
道化の身体は羽根のように軽く、私はどこまでもどこまでも、走って行く事が出来た。
あれだけ迷いに迷って辿り着いた闇の領域であった筈なのに、私は、その日の夕刻には、かつて辿り着いた海岸線へと辿り着いて。
「……」
潮の香りは、当時よりもずっと鮮明に感じられて、空気はひんやりと冷たい。
なのに、空も、海も。
沈みゆく太陽に照らされて、炎の色に、染まっていた。
砂浜へと、足を踏み出す。
ざっ、ざっ、と。先の巻いた靴が湿った砂を踏み固める音を阻む、あのぱちぱちと常に小うるさかった炎の音色は、もう聞こえない。
代わりに繰り返す、寄せては返す波の音は、争いの時を除いてひどく静寂だった闇の領域に慣れていた私の耳には痛いくらいで。
私は、白波の傍にまで迫った。
「……」
もう、「死」を知らなかった火種ではない。
たくさん殺したし、何度も殺されかけた。
――『ミズ』に触れてはいけない
里長の言葉。
――おぬしは、塩の水に触れて死ぬ。
バロモンの予言。
そして何より――海に拒絶され続けた日々の記憶。
ここに来て、遠い遠い水平の果ては、闇の暗がりよりも、よほど恐ろしいもののように思えた。
……だが、同時に
「死ぬならば、ここがいい」
わざわざ口に出してから。
私は思い切って、砂地を蹴った。
魔人型の持つ魔力とは相当なもので、そう望んだだけで、靴底は海面に沈み込む事無く、波の上を跳ねていく。
そうして、十分に沖合にまで進んでから、私はくるりと身を捻って、背中から海へと身を投げた。
どぼん! と大きな水柱が立ち上がり、究極体にしては小柄な私の身体は瞬く間に波に呑み込まれた。
ごぼりごぼり、ごぼごぼと、口元から白い泡が昇る。
舌先に触れた水はひどく塩辛くて、見下ろしている時はそう激しいとは思わなかった潮のうねりは、私を繰り返しもみくちゃに揺らした。
たまらず足をばたつかせて、どうにか海面へと浮上する。
「ぷはぁ!?」
口の中がひりひりと痛んだ。一杯に吸い込んだ空気が、どこか甘くさえ感じる。
とはいえ息を吸った事で、多少冷静にもなったのだろう。私は全身の力を抜いて首から下をも浮かび上がらせて、海面に仰向けに寝そべるような格好になった。
背負った十字型の鞘と剣の重みのせいで、最初は気を抜くとそのまま海底へ引っ張られて行きそうになったものの、慣れてしまえば、どうという事も無くて。
「……」
宵闇と夕闇の境。
空には帳が降り始め、しかし雲は太陽を名残惜しむかのように、まだ微かに赤い。
そんな中で、いくつかの星が、ちらちらと瞬き始めているのが見えた。
一度沈むとわけがわからないような有様だった筈の海は、今はただ、私を乗せて不規則に揺れているだけであり、ちゃぷちゃぷと、私の仮面に当たっては小さく弾ける波の音はどこか小気味良く、思わず微睡んでしまいそうな程で。
「は――はは」
私は笑った。
「はは、はははははは!」
生まれて初めて、腹の底から。
おかしくておかしくて、自分の気が済むまで、いつまでもいつまでも、笑い続けた。
それ見た事か!
私は死になどしなかった。
水に、海に、触れるどころか、身体を投げ入れたというのに。
「ははははははははは!」
ようやく私を受け止めた海は、昼の日差しを残しているのか、まだ僅かに、暖かかった。
*
初めて海に飛び込んだあの日から、一体どれだけの月日が流れただろう。
私はブルーメラモンとして過ごした島を離れ、生まれ故郷を目指したが、目印の一つも無い水平線故に向かうべき方向も解らずに、結局、たまたま辿り着いた小島を拠点として暮らし始めた。
嵐が来れば簡単に呑み込まれてしまいそうな程心許ない小島は、しかしその小ささ故に、船乗りの目を欺いたのかもしれない。狭い浜には大きな帆船が座礁しており、乗り手は皆死んだか、逃げ去ったか。無人のまま静かに朽ち果てるを待っているようだったが、まあ雨風をしのぐには充分だろうと、私はその船を住まいと定めていた。
傾いた船首の上から海を眺め、気が向いた時には折れたマストを舞台に見立てて踊った。そんな真似をする程度には、私はこの難破船をいたく気に入っていたのである。
きっと、船を構成する木の質感というやつが、とても物珍しかったからだろう。
植物型のデジモンには、他の種にも増して嫌われていたのだ。彼らと似た表面を持つのに、ただ沈黙を保つこの骸に、きっと、勝手な愛着を覚えていたのだ。
周辺の海域に関しても、そも、魔人の魔力は海面を足場に変える事が出来たが、直に海中を泳ぐ術にも慣れた。
背中の剣は目標さえ定めれば、抜いて振るわずともひとりでに対象を刺し貫いてくれるため、腹が減れば海に潜って、なるべく地味な色の魚を仕留めて喰らった。
剣も鞘も、服の装飾も、潮に中てられてあっという間に錆びたが、まあ、さほど困る事も無かったので、そのままにしている。……仮面にフジツモンとやらが生え始めた時には、あまりの見栄えの悪さに、流石に頭を抱えたが。
そんな風に暮らしている内に、いつの間にやら、私は「海の道化」と呼ばれるようになっていたらしい。
バロモンの言った通り、ピエモンという種は、そこに在るだけでいたく他種族を震え上がらせた。たまたま通りがかった水棲デジモンや鳥系のデジモンの怯えようといったら、とても、ブルーメラモンの時の比では無い。
噂話としてか、注意喚起としてか。知らぬ間に広まった私を指す語は、私と出くわしたデジモンが悲鳴の代わりに残すばかりで、面と向かって私の名を呼ぶ者など、敵対者でさえ現れなかった。
それでも、今は。
海は、私を拒絶しないでいてくれる。
故に、私の孤独は、自らの炎に炙られて渇き切っていた頃の事を思えば、幾分かはマシになっていたように思う。
私は時折、捕った魚を焼く為だの、濡れた服を乾かすためだの。何かと理由を付けて、忌み嫌っていた筈の火を焚くようにしていた。
火を起こす能力だけは(当然の話であるが)進化前の方が秀でており、私は昼の内に集めて乾かしておいた流木に投げ入れても中々育たない種火をもどかしく思いながら、あの忌々しいだけだと思っていた肉体にも、良いところが無かった訳ではなかったのだ、と。いつの間にか、懐かしむ事も出来るようになっていて。
そうして、炎を眺めていると。
私はやはり、サンゴモンと語らった日々を思い出すのだった。
海の底の景色は、彼の口から語り聞かされたほど賑やかなものではなく、しかし、想像以上に幻想的で、美しかった。
もしも、彼と再び巡り合う事が出来れば。私達は、きっと同じ景色を違う言葉で語らう事が出来るだろうと。私は、そんな夢を見ていたのだ。
否。私は思い出すためではなく、彼に会いたいと願って、炎を求めたのだろう。
この火を目印に、彼が私を見つけてくれるかもしれないと、一縷の希望を、抱いていたのだ。
燃える光は、夜の海原を往く者にとって、標である筈なのだから。
私はもちろんの事、サンゴモンだって、既に大きく姿を変えている事だろう。
だが、私の手元には、彼から贈られたこの白い珊瑚がある。
私は私の手と同じ色をした珊瑚を炎に翳して、その明々とした影にサンゴモンの横顔を重ねては、長い間、それを眺めるようにしていた。
……そうまでしていながら、私が自発的に、本気で元々生まれた島を探そうとしなかったのは。同時にその金の影に、私を恐れ拒絶する彼の瞳を、見出していたからに他ならないのだが。
*
しかしそんな日々も、私がピエモンに進化した時同様。思いの外、呆気なく終わりを告げる。
「ほう、貴様が海の道化とやらか」
早朝。
穴の空いた船体に入り込み、壁にもたれながら心地よい細波に微睡んでいた私は、突然聞こえたその声にゆっくりと瞼を開いた。
暗がりの中。目の前に佇むその影はぼうっと淡い光を放っていて、私は、まだ夢を見ているのかもしれないと目を瞬く。
「やれやれ。俺様達の領域でのうのうと暮らす闇の者が居ると、兄貴にせっつかれて様子を見に来てみれば。闘争心の欠片も感じぬとんだ腑抜けではないか。究極体との戦を期待した俺様達が愚かであったよ」
舌打ちするその影は、美しい装飾の施された銀の甲冑を身に纏った、長い髪の女性の姿をした天使型のデジモンであった。
ただしその口調や立ち振る舞いにはこのデジモンの粗暴さが滲み出ており、加えて彼女の理不尽にも等しい苛立ちが、未だ立ち上がりすらしない私に向けられている事だけは確かなようで。
まあ、闇に属する種と見れば問答無用で襲い掛かって来た連中の事を思えば、まだ話の通じる部類かもしれない。
「君は?」
身を起こしながら訪ねると、天使はきゅっと唇を真一文字に結んでから、不機嫌そうに言葉を紡ぐ。
「無礼者。俺様達に名を尋ねたいのであれば、貴様が先に名乗らぬか」
「人の住処に断りも無く入って来るデジモンが、それを言うのか?」
「言うてくれる。先に俺様達の縄張りに入り込んだのは貴様の方だろうに」
「この島は、君の住まいだったのか?」
「この島だけでは無い。この海全域が、俺様達の領域だ」
一瞬、このデジモンは何を言っているのだろうと思ったが――俺様「達」。
複数形の一人称である事は、流石の私にも解る。
天使型と言えば、この世界の神たる管理プログラムの御使いだと聞く。
この天使は、海域の監視を担当している天使の一派なのかもしれない。
噂に聞いただけではあるが、海にもエンジェモンと付くデジモンは存在しているという。
確か、名前は――
「となると……君は、いわゆるマリンエンジェモンとかいうやつなのか」
「は?」
天使は呆けたように口を開き――やがて、たっぷり数秒の間、ぷるぷると小刻みに肩を震わせて
「ぷっ」
ふいに、堪えきれず、と言った調子で噴き出したかと思うと
「わははははははははははははははははははははは!!」
荒波を想起させるような豪快な笑い声を、小島いっぱいに響き渡らせた。
笑い声に混じって、難破船のただでさえ傷んだ船底が、軋むような音を聞いた気がする。
「マリンエンジェモン! 俺様達がマリンエンジェモンときたか!! 成程。流石に道化の名を冠するだけはある。貴様は面白い奴だ。良い。先の無礼を許そう、海の道化。そうとも、俺様達がマリンエンジェモンだ」
以降、そのように呼ぶがいい、と、天使のデジモンは言ったものの、彼女がマリンエンジェモンという種でない事だけは、どうやら確かなようだった。
だが彼女は私に再び問いかける暇を許さず、高いヒールでつかつかと音を立てながらこちらと距離を詰め、銀の手甲に覆われた右手、その人差し指をスッと私の口元に差し出した。
「気に入った」
刹那、ぴり、と海水の塩辛さに触れた時のような僅かな刺激が唇に走る。
思わず、そして今更のように身を引いた私に天使はからからと笑いながら、続いて彼女は左腕を此方へと向けた。
いつの間にか、その手には円盾が装着されており、嵌め込まれた4つの薄紅色の宝玉は呆けた私の像をそれぞれに曲線で映し出していて、それはそれは、ひどく間の抜けた、悪意ある鏡のようであった。
にもかかわらず、私の目を引いたのは、その歪んだ反射の内で、ただ1点。
先に妙な刺激を感じた唇は、進化した時より引かれていたあの紅の色を、昼間の海と同じ、深い青色に変えていたのだ。
「それは、俺様達の加護を受けている『あかし』だ」
天使は相変わらず笑っていたが、その笑みは、先程よりも幾分か厳かなものであるように私の瞳には映った。
「これより貴様は我らの同胞。名実ともに『海の道化』よ」
加護。
同胞。
……これまでまるきり縁の無かった言葉に目を瞬く事しか出来ずにいた私は、しかしそも、天使に属するデジモンがどういう者達であるかを、あの青い火であった日々から振り返る。
彼らは厳正な存在で、闇のデジモンをひどく憎んでいる筈だ。
「いいのか」
たまらず、問いかける。
「そんな勝手な事をして」
「勝手? ……ああ、そうか。俺様達はマリンエンジェモンなのであったな。何、構わん。海の天使は空の天使よりいくらか融通が利くのだ。そも、それは闇の者でありながら、俺様達の海でのうのうと暮らしていた貴様が憂慮するには、今更が過ぎる」
だから、せいぜい面白おかしく愉快に暮らせよ、海の道化。と。
それで、満足したように、マリンエンジェモンではない天使はばさりと白い翼を広げる。
「待ってくれ」
飛び立つのだと。そう悟った瞬間、ふいにそんな言葉が自分の青く染まった唇から洩れた。
「うん?」
「君が、この海を護る天使だというのであれば、当然、海辺に暮らす者達にも詳しいのだろう」
求めながら、遠ざけ続けていた私の願いが、その御使いの白い翼を前にふつふつと胸の内から湧き出した。
それこそ、天の導きだとでも、柄にも無く考えてしまったのかもしれない。天使など、これまで良い思い出も無かった筈なのに。
「当然だ。この海の全てが俺様達の領域だと、その言葉に嘘は無い」
「であれば。場所を知りたい海辺の集落がある。教えてはもらえないだろうか」
「そこに行って、何を成すつもりだ」
天使特有の目元を隠す兜から、隠しきれない程鋭い眼差しを感じる。
それこそ、守護者の瞳。自らの護るものに害をなすものを、けして赦さぬ裁定者の瞳に違いない。
だが、誓って。
誓って、私にそんなつもりは無いのだと。堂々と、正面から、私は天使に向けて続けた。
「会いたい者がいるんだ。再会を誓った、大切な友だ」
天使はしばしの間思案するように指を顎に添えて視線を上向きにしていたが、やがて唇に、また緩やかな弧を描く。
「いいだろう。同胞と認めた以上、そのくらいはしてやらねばな」
私は胸を撫で下ろし、催促されるまま、覚えている限りの情報を天使へと語り聞かせた。
それでも随分とおぼろげで、拙い説明に違いなかっただろうが、流石にこの海全てを自分達の領域と豪語するだけはあり、天使は瞬く間に私の言った集落を頭の中から探し当てたようだった。
だが、彼女は「見つけたぞ」と口にするや否や、ふっと表情を険しくする。
「? どうした」
しばしの沈黙の後、天使はその顔つきを保ったまま、じっと、真っ直ぐに私の方を見据えた。
「俺様達は、誰かを慮るような質でもないからな」
なので、単刀直入に事実だけを言う。と。
いよいよ胸騒ぎを覚え始めた私に、天使は宣言通り、酷く簡潔に、集落について、教えてくれた。
「その集落は、もう何年か前に『海賊』と呼ばれるデジモンによって滅ぼされている」
と。
*
昼夜を問わず、無我夢中で海面を駆け、辿り着き、久方ぶりに眼前に臨んだその地には、嵐の後の静けさのように、潮風ですっかり傷んだ瓦礫が、完全に朽ち果てる日を待ちながらあたりに散乱しているのみだった。
『海賊』なるデジモンを見つけ出すのは容易かった。
海賊と呼ばれるデジモンは他にもいくらでも存在したが、ただの1体でありとあらゆる海を荒らして回る天災など、彼の他には、そう居なかったから。
加えて彼は、悪評に事欠かないデジモンであった故に。
……ひょっとすると。物怖じする事無くもっと真面目にあの集落を探し回ってさえいれば、と。考えずにはいられなかったけれど。考えた所で時間が巻き戻る訳でも無い。
で、あれば。『海賊』の腹を裂いて、きっと喰われた「彼」のデータを僅かにでも海に返すのがせめてもの手向けだと。私は自分の中にある悔恨の念を蹴りつけるようにして、突き止めた『海賊』の縄張りへと足を踏み入れたのである。
『海賊』は、レガレクスモンというデジモンだった。
私とレガレクスモンは、お互いを視認するなり言葉も無く殺し合った。
どちらから仕掛けたのかすら判らない。私が錆び付いた4本の剣を先にレガレクスモンへと差し向けたのかもしれないし、無断で縄張りに足を踏み入れた私に気付いたレガレクスモンが、怒りのままに左腕の大鋏を振り被りながら迫ってきたのかもしれない。
どうでもよかった。
ただ――やはり。いくら『海の道化』と。海の天使の加護を受け、同胞と認められたとはいえ、本物の海の怪物を相手取るには、いささか分が悪すぎたらしい。
元はズドモンの角だというギザ刃の剣が私の胸を穿ち、引き裂いた刹那。私は世界が、酷くゆっくりと回るのを見た。
と同時に、破れたジャケットの胸元から、砕けた骨のように白い珊瑚が飛び出して、私は慌てて同じ色の指でそれを追いかけたが、終ぞ手が私に最後に残された宝物にまで届く事は無かった。
「メラモン?」
ざばん、と。波間に落ちる水しぶきの合間に懐かしい声を聞いた気がしたが、きっとそれは、走馬灯の始まりであったのだと思う。
海面を弾いていた布の靴は瞬く間に水を蹴る力を失い、私は呼吸の出来る世界から突き放され、波に呑まれた。喉の奥からもごぼりごぼりと白い泡となった空気がせり上がり、私を見限って空の光を目指し、昇っていく。十字の鞘の重みに抗えるだけの力は、もはや残されてはいなかった。
いたい。
さむい。
しおからい。
つめたい。
……くらい。
単純化された感覚が羅列され、渦を巻く。
天使が私の唇を一瞬で青く塗ったのとはさかしまに、青い海は、どれだけ私が傷口から赤い色を零しても、波の一つが過ぎ去ればその青さを取り戻した。
海に焦がれ続けた私の心など、最初から気にも留めていないのだと。今になって改めて、突き付けているかのように。
誰も。私の事など、覚えていては、くれないのだろう。
ああ、そうか。と。私の中で、すとんと腑に落ちるものを見出した。
ブルーメラモンからの、この最後の進化。
ピエモン。道化師。
私は、道化になりたかったのだ。
笑いでも、いっそ嗤いでも構わない。構わないから――誰かに私を、見て、見つけてほしかった。
火が、暗い海の標になると言うのなら。そういうもので、有りたかったのだと。私はこの時、ようやく悟ったのだ。
「サンゴモン」
そして、そうしてくれたかもしれないデジモンは、もういない。
レガレクスモンが頼りなくたゆたう私の血を標に、こちらに潜って来るのがぼんやりと見えた。
逆光でシルエットになってなお、レガレクスモンの、金の兜を被った青い縞と赤い鬣のある尾の長い銀の魚の頭部は大層派手で、きっとこの魚は不味いのだろうな、と。私が振り返った思い出は、そんな些細な話で締めくくられた。
*
だが驚くべき事に、私は死ななかったらしかった。
何かにもたれかかるような姿勢で最初に視界に入ったのは、果てしのない白色だった。
私の肌よりも、仮面の左半分よりも、なお白い。骨を砕いて散りばめたかのような白い砂が、あたり一面に広がっていたのだ。
周囲には光が差し、砂の一粒一粒がきらきらと輝いてはいるが、明るいという印象とは無縁であった。むしろその白はどこまでも冷ややかで、冥府というのは暗黒の領域に似た世界だとばかり思っていた私も、ひょっとするとこのような静寂の園こそその名を冠するに相応しいのではないかと、考えを改めざるを得なくて。
身体は、動かない。
これまでの全てが夢であったとか。あるいは、これが夢であるだとか。そういう事では、無いらしい。
身体のあちこちが綻び、胸には変わらず穴が空いている。口元からこぽり、こぽりと立ち上る泡には、やはり緋の色が混じっていて、しかし痛みを感じる段階はとっくに過ぎてしまったのか、今はただただ、身体が重たいばかりだった。
海の底に、沈んでしまったのだろうか。
きっと、そうなのだろう。水圧に潰される事無く、そして今は息の出来ない苦しみから解放されているところを見るに、今になって、あの天使の加護とやらが私を助けてくれているのかもしれない。
レガレクスモンが私に止めを刺していない点はいささか不可解だったが、まあ、さしずめ闇の領域の者など喰らえば腹を壊すとでも判断されたのだろう。自分は食い物としてすら見向きもされないのだと思うと、やはり多少は、惨めではあったが。
そうしてふう、と息を吐き、半ばずり落ちるように砂地に横たえる形に姿勢を変えた私は、それによって切り替わった視点に大いに困惑する羽目になった。
私の斜め後ろに、私が雨風をしのぐための住まいとしていたあの難破船が、静かに佇んでいたのだ。
とはいえ同じ形の違う船という可能性は捨てきれなかった。あの真っ二つに折れた帆船と同じ壊れ方をしているのも、コピー&ペーストで増やした船は同じ破損の仕方をすると言われればまあ、納得できない話でも無い。
それ以上に私を混乱させたのは、私が目覚めるまで、この身体を支えてくれていた背後の物体の方だった。
それは、白い珊瑚だった。
私を支えられる程大きくなろうとも、どうして見間違えられようか。それは、サンゴモンからもらった、私の宝物であった。
ただ、大きさが変われば見えてくるものもある。その枝ぶりは森の木々にも劣らず、表面の凹凸は、まるで大輪の花がいくつも咲き乱れているかのような模様を描いていて。
嗚呼、私の欲した海は、ずっと手元にあったのだと。あったのに、と。突きつけられた異質な現実を前に、思わず零れた私の笑みだけが、枯れて、痩せ細ってる有様であった。
よくよく見れば。
珊瑚の白は、この静寂の死の海の砂よりも、幾分か温かみのある色をしているなと。そんな事を考えている内に、また瞼が落ちた。
白砂の海おいて異物でしか無い私は、異物らしく。身体の重さに引き摺られるまま、泥のように眠った。
*
誰かが、私を見ていた。
悲しそうな顔を、しているように思った。
*
「……」
夢だったのかもしれない。現に今、私はその視線を感じてはいない。
深海にそんなものがあるかは判らないが、夜の帳が降りたのか、周囲は先程よりも暗かった。
だというのに、私はよろよろと、ひどく時間をかけて、その場から立ち上がる。
「げほっ、げほっ」
動くと千切れたワイヤーフレームの端がどこかに引っかかるのか、鮮烈な痛みと共に胸の奥がぶるりと震えて、私はまた、血を吐いた。
拭うまでも無く血液データは泡に混じって海面へと登っていったが、傷から染みだす分はそうはならないらしい。水に引き伸ばされた血糊はずっと私に纏わりついていて、しかしこの道化の赤い服であれば、傍から見る分にはいくらか誤魔化しが効くだろうと、ぼんやり、そんな事を考える。
そうしている内に、ふいに。
ぱっと、世界に光が飛び込んできた。
スポットライト、と、見た事も無い照明の名が頭に浮かんだのは、ピエモンという種に刻み込まれた性質故なのかもしれない。
そして、先程感じた『目』が再び私を見つめるという勘――否、希望的観測も、どうやら見当違いでは無かったらしく。
白砂の向こう。
巨大な人型の影が、揺らいでいるのが見えた。
先に目覚めた際に視認し損ねた岩礁の影ではないと断言は出来なかったが、いっそ、それでも良かった。何だって良かったのだ。
私はその場で踊った。
愉快な道化らしく踊った。くるくると滑稽に、だが指先まで神経を張り巡らせて、出来得る限り優美に踊った。
最後の、いや、最期のチャンスだと思ったのだ。
これまで何度も願いの形を間違えてきた私に、もう一度だけ降って湧いた機会だと。
誰かが、私を見ている。私を見つけている。私を見続けているのだ。
誰なのかはわからない。誰かですら無くても良い。私が、そこに誰かが居ると思えさえすればいい。私が瞳だと思って見つめ返しているものが、幻だとしても構わない。
ひとりにしないでくれ。
私を、目に焼き付けてくれ。忘れないでくれ。
舞台の一幕を垣間見た観客として、そこに道化が居ると、手を叩いて喝采して――
「だめっ!!」
世界がかたりと揺れた気がした。砂の1粒も舞い上がらなかったので、きっと私の思い違いだろうが、天から稲妻のように降ってきたその声は、弱り切った私が耳にする幻聴にしては大き過ぎる。
本当に、誰かがそこに居て、私を見ているのだ。
「だめ、だめだよ。そんなことしたら、死んじゃう」
そして声は、私を慮っているというのか。
「そんなこと」をせずとも、きっとすぐにでも命尽きてしまうに違いない、この私を。
私は魔術で懐から1枚の布を取り出して、丸めた手の中にぎゅうぎゅうと押し込んで見せる。
声音から感じたような思いを抱かせるのは、私としては本意では無い。
趣向を変えて、奇術を披露する。次の瞬間には、白布は豪奢な花のブーケに代わって、私の指の隙間から飛び出した。
いつか、サンゴモンを驚かせられたらと思って覚えておいた、究極体がやるにしては幼稚な手品だ。
「笑って」
懇願する。
……だが、その望みとは裏腹に、影は僅かに身を屈めた。
さめざめと、嗚咽が聞こえてくる。
泣いているのだと、私にも判った。
「……どうして」
私は力を振り絞って、声のする方向へと水を掻き分けて寄って行く。
なかなか前に進んでくれない足が、もどかしい。
「私」
影が、応えた。いや、本当に応えるつもりで応じたのかは判らない。わからないが、その言葉が私に向けて発されているのだけは、確かなようだった。
「せめて、あなたみたいな。綺麗な道化に、なりたかった」
それは、私を道化だと言った。
綺麗な、道化だと。
「……」
彼女――そう。彼女、で良いのだろう。影の声質は、あの天使のものに近いのだから。
彼女は、道化なのだろうか。せめて、と言うならば、彼女は醜い道化であるのだろうか。
……私が欲してやまなかった周囲からの笑顔を、嘲りとして、投げかけられてきたのだろうか。
だとすれば、私は彼女に悪い事をした。
私は、また間違えてしまったのか。
そう思い悩んでいる内に、ふと、私の手が見えない壁に触れた。
そんなものがあるだなんて思ってもみなかったが、ここがどうやら、海の果てであるらしい。そして彼女は、最果てのさらに向こう側に居るようだった。
それでも随分と距離は近付いて、見上げる程に大きな彼女の輪郭も、ここまで来ればくっきりと視線でなぞる事ができるようになっていた。
目を覆って、泣いていると。そう理解できる程度には。
「……」
私は恐る恐る、今一度壁に手を伸ばす。
そうして拳の方を向け、透明な壁を、少しだけ力を込めて叩いた。
こんこんこん、こんこんこん、と。存外に、音はよく響いた。
向こうの声と同じように、こちらの音も、彼女に届いていればいいのだが。
やがて、今度こそ私の思惑は通じたらしい。彼女がゆっくりと、顔を上げたようだった。
まだしゃくり声を上げているのが聞こえるが、また、私の方を見てくれている。
「どう……したの?」
私は、自分の姿をもっと間近で彼女に感じさせたかった。
この影が、道化で在る事に心を蝕まれていたというのなら、そうではないと伝えてやりたかったのだ。
こんなにも悲しそうに泣いている君は道化では無いと、彼女の傍で。その代わりに私を見て、笑って、私を道化にしてほしい、と。……それは、私にしては、少しは冴えた提案であるように思えた。
「出して、って、こと?」
私は大きな彼女に良く見えるよう、なるべく大袈裟に頷いた。
「でも、どうやって?」
反対の手で握り続けていたブーケを手放す。
花束は、ゆっくりと水に揺られながら、茎を下にして落ちていった。
影は、あまりにも巨大だ。
故に、多くのデジモンがそうであるように、力も強いと考えられる。手を叩きつければ、私達を隔てるこの透明な壁をも砕く事が出来るかもしれないと、そう思ったのだ。
「ねえ」
だが、彼女はそうはしなかった。
そうはしなかったが、私の考えを了承したらしい。
次の瞬間には、新たな黒い巨大な影が、視界の両端からすぅっと伸びてきた。
「あなたの舞台は、そこにあるの?」
必殺技の類だろうか? ……いや、今更、気にする事でも無いだろう。
私のやるべきは、この場においてただ1つだ。
「ああ」
私は再び、頷いた。
「連れて行って」
刹那。瞬く間に影が遥か上空にまで伸びていき、もう一度目を瞬くその合間に、硝子の砕けるような音が海中いっぱいに響き渡った。
沈没船が久方ぶりに漕ぎ出して、歓声を上げるように珊瑚も枝を振る。
舞い上がった白砂が紙吹雪のように降り注ぎ――その中央には、すっかり小さくなった影の姿が在った。
多少色彩を得たものの、黒い髪に上下とも地味な色の衣服は、とても道化の装束には見えない。背丈もデジモンの中ではそう大きく無い私の胸元にさえ届かない、小さな小さな、人型の存在。
だけどけっして、きっと彼女が自身を卑下している程の、醜い姿だとは思わなかった。
「連れて行って」
彼女は同じ台詞を繰り返した。
どうぞこちらへ、お客様。と、そう呼びかけたかったのに、声が出ない。
代わりにやっとの思いで手を差し出すと、ようやく、彼女は表情をほころばせた。
思わず、膝を付いて、寄ってきた彼女を抱きしめる。
折角の初舞台だというのに、もはや私に出来る演目はそれだけで、しかし彼女は私の穴の空いた胸に頬を寄せて、強く、強く、私を抱き返してくれた。
やっと、私に触れてくれた。
あたたかい。どんな炎よりも、強い熱を感じる。
その熱をもっと確かめたくて、私は彼女の、泣きはらしてすっかり赤くなった目元に青い唇を寄せた。
幾筋もの涙が這って行った彼女の頬は海よりも塩辛く、それで私は、私を踊らせ続けた悲劇の舞台にようやく幕が下りるのだと悟って、自分と彼女が波に呑まれていく音を聞きながら静かに目を閉じた。
「よう、兄貴」
兄弟達、そして祖父母を含めてもその中で最も粗暴者である彼は、しかしいつもより控えめにバックヤードの扉を開けて(それでも十分乱雑ではあったが)、兄の経営する店へと足を踏み入れた。
「あやつ、死んだのだろ。加護を施してやっていたからな。解るんだ」
挨拶もそこそこに、そして連絡も無くやって来た、この見るからに屈強な海の男といった風貌の彼に用意しようとした小言の類は、彼の兄――こちらは白黒写真から歩み出てきたような老人だ――の口の中で霧散してしまう。
「……ああ」
「そうか」
男の返答は、重々しい兄の肯定とは対照的にそっけなかった。兄から確認が取れれば、それで十分だとでもいうように。
彼は、海に住まう者達の守護者だ。海の全てが彼の縄張りであり、故にこそ、そこに住まうデジモン1体1体にまで気をかけてやるような手合いでも無い。そういう意味では、彼は『彼ら』の中で、最も強く『親』の性質を継いでいると言っても過言では無かった。
「何か、思うところでもあったのかい」
そんな彼が、最初から解り切っていたとあるデジモンの末路を兄に尋ねに来たというのは、実に驚くべき事態であって。
「別に。まあ珍しかったのでな、『海の道化』などと。それに『海賊』の事もある。俺様達は兄貴と違って薄情だが、別に海が好きな奴らの事が、嫌いな訳では無いのだ」
「マリンエンジェモンだなんて、思いもよらぬ種族名で呼ばれたのが、そんなに新鮮だったのかい?」
「……」
男は何かを言おうとして、しかし頭を横に振ると、それ以上は何も言わずに兄の店を後にした。用自体が本当にそれだけだったというのもある。
ばたんと音を立てて店の扉を閉め、振り返ればそこに彼が通ってきた扉は無く、ただ、どこまでも真っ青な海が広がっている。
男は姿を元に戻し、唯一変わらない青い瞳で自分の領域を見渡した。
海は変わらず残酷で、軽薄で、無慈悲で、そして美しい。
しかしその景色からほんのひとかけら。浜の砂1粒よりも小さな極彩色を欠いた事実が、砕けた波飛沫のひとかたまり程に口惜しくて。彼はほんの一時、この海の全てを見渡せる目を閉じて、道化の戯言を振り返るのだった。
外伝 海の道化
了