泳ぐのが好き、というよりは、水の中が好きなのだ。
タイルの上で揺らめく波の影。全身を覆うひんやりとした感覚。気を抜くと浮き上がっていく身体。ふわりと広がる髪に、徐々に苦しくなる呼吸。
何もかもが陸上とは異なる25メートルの世界は、自転車で15分、水着と帽子、ゴーグルとタオル、それからいくらかの小銭を用意すればいつだって行ける非日常だった。
だから、泳ぐ事自体は目的というより手段に過ぎず、だけど一丁前に、憧れてはいたのだと思う。
ある夏の日に、『怪物』を見て。
ひょっとしたら、自分にも同じ事が出来るんじゃないかと。そんな、身の程知らずな夢を見てしまう程度には。
*
部活辞めます。
……そう言い出せないまま、代わりに部活を休んだのは、これでもう何度目になるだろうか。
自分が男子じゃなくて良かったと思う。女の子の身体は水泳部を休むには何かと都合がいいように出来ていて、男の方の顧問に「今日はちょっと」と言うだけで、彼はいつも気まずそうな表情を浮かべて詳細を聞かず、私のズル休みを許可してくれるのだ。
まあ、別に女の方の顧問に言っても休ませてはくれると思うのだけれど。でも「やる気が無いなら来なくていい」と言われるのは、やっぱり気分が良く無くて。
なんて言ったって、やる気自体が無い訳じゃないのだ。
彼女が求めているやる気とは違うだけで。
1、2年の頃は良かった。
うちの水泳部は県内の公立中学の中では最強と名高いのだけれど、そのカラクリはと言えば近隣に強豪スイミングスクールが存在しているからで、県外の大会にまで進出するような子はみんなそこに通っている。
残りは大体小学校の頃プール遊びが好きだった子達の延長線で、だから、部活動の時間は申し訳程度に先輩たちが書いた「今日のメニュー」さえこなしておけば、あとは文字通りの『水遊び』をしていても誰も何も文句は言わなかったのだ。
スイミングスクールの子達もそれに憤るかと思えばそんな事は無くて、むしろ彼ら彼女らが欲していたのは、水の中でも息を抜ける時間だったのだろう。
大会が近くなるとその子達の『自主練』の邪魔にならないよう、流石に他の部員もいつもよりかは練習に励む形で気を使っていたけれど、それくらい。
あとは、大体一緒になってバカやっていた。学年も男女も関係無く、ある時なんかバレー部のお古の半分くらい空気が抜けたボールで水球を始める程度にはやりたい放題だった。
秋が来てプールを使えなくなるともっと滅茶苦茶で、男子はどこからともなくカマキリを捕まえてきてプールサイドでハリガネムシが寄生していないか片っ端から調べ始めたし、女子は更衣室の端の「水泳部備品、触るな」とカーテンと張り紙が張られたロッカーから漫画を取り出して読みふけっている始末だった。
冬場の筋トレなんて、した事が無い。でも掃除用具で野球はした。そんな部活が、私達の水泳部「だった」。
そうじゃ無くなったのは、今年の4月から。
新任の女教師が、水泳部の新しい顧問に就いてから。
新任、と言っても新人ではなくて、以前別の中学でも水泳部を看ていたらしい。それならば、と、男性顧問しかいなかったうちの部活に仕事を割り当てられたのだそうだ。
だけどなまじ知識がある分、私達のだらけきったやり方が許せなかったのだろう。
プールサイドの階段に上って「今日から一緒に頑張りましょう!」と声を張り上げた新顧問が掲げるホワイトボードには、みっちりとほとんど隙間なく練習メニューが書かれていて、目にしただけで眩暈がした事をよく覚えている。
でも、どれだけ嫌でも、大人がキツイ語調で言う事には逆らえなかった。
心情が顔には出ている私達に、「この水泳部の伝統に傷を~」とスイミングスクール通いの先輩たちが持ち帰ったトロフィーを指して講釈を垂れる新任教師が許せなかったけれど、だからと言って、何かを言い出せる訳でも無くて。
腹筋、背筋、腕立て伏せに、スクワット。走り込みと、名前は解らないけれど、ゴムチューブを用いた先生曰く「最新鋭」の筋力トレーニング。
水に入らなくても出来る事はたくさんあるよと唐突に増えたシーズン外での練習に、私達の身体は悲鳴を上げた。
そして、それ以上に良く無かったのが、新入生たちの態度だった。
新入生達は、当然のように私達のこれまでを知らない。
私達はこんなだったけれど、他の運動部では普通にやっているようなメニューだっていうのも事実ではあって、その程度で簡単にへばる私達を新入生が軽んじ始めた空気はすぐに伝わってきた。
3年生。助けてくれる、慰めてくれる先輩たちは、もういない。
小学校からの友達同士で入った2人は揃って部活を辞めてしまった。
スイミングスクール通いの子は、辞めてこそいないけれどスクールを理由に部活に来ない事が増えた。練習がしたければ、向こうに行けば良いのだから。
そうして、私もご覧の有様。
早朝からの朝練も、キツい筋トレも、すっかりギスギスしてしまった部室の空気も何もかもが、うんざりだった。
うんざりだった、けれど。
退部は内申点に関わるだとか、県大会でしか会えない友達だとか、生意気な1年生は兎も角、私達3年生以上に感情をどこに持って行けば良いか解らずにいる2年の子を見捨てる事になる罪悪感だとか。
そういうものに引き摺られて、すっかりサボり魔になったしまった分際で、結局「部活を辞める」とだけは言い出せずにいる自分にも、心底がっかりするばかりで。
「憂鬱だな」
顔を上げて、吐き出した心情を空模様のせいにした。
6月。梅雨の真っただ中。
雨が降り始めても「どうせ濡れる水泳部には関係無い」と肌寒さに震えながら水の中に飛び込んでいた去年が、もはや懐かしい。
この先訪れる夏休みも、そのほとんどが部活動で潰れるのだと思うと、輪をかけて気分が沈むのだった。
と、
「おっ、文学じゃん」
知らない、意味のよく解らない言葉がどうにも私に向けられている事に気付いて振り返ると、そこには通学用のものとは別に習字道具の入った鞄を下げた茶髪の女の子が、にやにやしながらこちらを見つめていて。
……どう見ても染めている。校則上は、染髪は禁止の筈なのだけれど。
だけどまあ、うちの中学はそんなに治安の良い方じゃ無くて、先生たちもよっぽど重要な行事の前とか以外は大目に見ているから、金とかじゃ無い分、その子はまだ、「そういう子」達の中では大人しそうな部類に見えた。
「えっと」
クラスメイト、あるいはクラスメイトになった事がある子、じゃ、ないよね? と。
口ごもる私に、「ああ、ごめんごめん」と、彼女は習字鞄をぶら下げた手で頭を掻いた。
そうやって笑うと、さっきよりもどこか人懐っこそうな印象だった。
「曇り空に独り言って、なんか小説のワンシーンみたいでかっこよかったから」
「は、はあ。どうも……」
思わず頬が熱を帯びる。別に、誰かに見せたくてやった事じゃない。
「水泳部の人だよね?」
「え?」
「ほら、4月の終わりの。あのまだクソ寒い日に。めっちゃ色々泳いでたあの」
「ああ、ええっと……個人メドレーかな」
他の生徒達よりも2ヶ月は早い、プール開きの日。
規定ギリギリの水温しか無いプールで私は、水泳競技4種目、バタフライ・背泳ぎ・平泳ぎ・クロールを順番に1人で泳ぎ切る、個人メドレーを泳いだのだ。
「年度最初のプールでは、4種競技全て泳げる奴は、個人メドレー泳ぐべし」……それは、女顧問がきっと気にした事すら無い、うちの水泳部の本当の伝統行事である。
今年、女子でそれをやったのは、私だけだった。
距離にして200メートル。泳ぐ毎に指先足先が何をどこを掻き分けているのかわからなくなって、肺が凍るような思いをしたけれど、クロールの最後のひと掻きがプールの壁に触れて顔を上げると、フェンスの向こうにも思いの外ギャラリーが集まっていて、ちょっと気分が良かったのを覚えている。
なんだか久々に、自分が『水泳部』にいるような気がして。
……最も、徐々に水温が上がると女顧問が水中用のメニューを組んでくるようになったから、結局今、こんな感じなのだけれど。
「実は自分、ちょっと水泳部の人にお願いしたい事があって」
思い出から現実に戻ってくると、茶髪の子の顔は、さっきよりも随分と近いところにあって、思わず半歩足を引いてしまう。
彼女は迷わず、その半歩を詰めてきた。
近くで見たその顔は、確かに、覚えがあると言えば、あるような……いや、やっぱり無いような?
「お、お願いしたい事?」
彼女はこく、と頷いた。
「立ち話も何なので」
しかしその「お願いしたい事」とやらを続けるでもなく、彼女が指したのは、先程私が見上げていた、小説の一文みたいらしい空模様。
ぽつ、ぽつ、と。
落ちてきた雫が、まばらに斑点を描き始めていた。
「うちの部室来ません?」
1時間で、止むらしいんで。と。
天気と校則を破るような生徒を前に、私はどうしても、彼女の誘いを断る事が、できなかった。
*
「ほんっっっっっっっとにサーセン!! 失礼シャーシタ先輩!!」
「あ……いいよ、そんな気ぃ使ってくれなくて。うちの部活、後輩たちもほぼタメだったし」
「そんな畏まらなくてもいいよ、タメっしょ? 自分、何組?」「え、2組」「え? 2組??」「う、うん」「いや、うちも2組なんだけど」「え?」「えっ。……あの、間違ってたらごめんなんだけど、一緒のクラス、じゃ……ない、よね?」「えっと……何年、の、2組?」「1年……」「……」「……」「……3年」
連れて来られた和室(曰く、文芸部の部室らしい。それでようやく、最初の「文学」発言に合点がいった)にて、茶髪の子とそんなやり取りを経て。
後輩だったその子は、もはや土下座せんばかりの勢いだ。畳の部屋でその行為は一種映えるかもしれないけれど、そんな事をされたら、その、むしろ困る。
「ホントにすみませんでした……新入りだからあんな寒そーな中滅茶苦茶泳がされてたのかと思って……」
「あはは……」
どうにか顔を上げた後輩は、しかしまだ顔を赤らめていて、私もこんな時にどう声をかけるのが正解か判断できずにただ、力無く笑ってお茶を濁す。
他の部活の人からすると、そいういう風に見えるものなのか。他の女子部員が見守る中1人で泳いでいたから、なおのこと、だったのかもしれない。
それにしても、つい数か月前までランドセルを背負っていたとは到底思えない程あか抜けた子だ。塩素や紫外線で傷む髪を大して気にした事が無い我が身が、ほんの僅かに恥ずかしくなる。
ただ、年齢が上というだけで敬われるのもなんだか久しぶりだったせいか、ぐいぐいと来られてとっつきにくいなと感じた当初の印象は、今や大分薄れていた。
「さっきも言ったけど、気にしないで。先輩って言ったって、1、2歳違うだけなんだから」
それよりも、と、未だ顔の赤い彼女を微笑ましく思いながら、私は話題を切り替える。
「水泳部の私に、頼みたい事って?」
「ええっと……」
しかし私とは逆に、彼女は年長の私に頼み事を言い出しづらくなってしまったらしい。
それでもしばらく待っていると、やはり言い出した手前思うところがあるのか、彼女は意を決したように、再びぐい、と、私と目を合わせる。
その、距離感が色々と極端だ。
「あのっ、その、うち! 夜のプールに入ってみたいんです!」
そして、彼女が思い切って続けた言葉を、私はすぐには、呑み込めなかった。
……それで、この子。なんて?
「夜のプール?」
寒いよ? と。多分見当違いの事をとりあえず口にしてみると、案の定彼女はふるふると首を横に振った。
「うちはカナヅチなんで、自分が泳ぐつもりは無くて……それに、その。夜じゃ無きゃいけない、って事は無いんです。夜の方が多分確実って言うか……。誰も居ないプール。表現としては、そっちの方が正しいかも」
夜のプール。
誰も居ないプール。
部員も、顧問も――誰も。
「不法侵入?」
ようやく弾き出した言葉を包めるオブラートを、私は結局、見つけられはしなかった。
彼女はあからさまにばつが悪そうだ。なんて言ったって、いけない事をしようと思っていたところを、先輩にバレてしまったワケなのだから。
「っす」
だが、彼女は今更取り繕ったりはしなかった。
申し訳なさそうな顔はそのままだったけれど、続けたい話ががあるのはなんとなく伝わってきて、だから、私もひとまずは、最後まで耳を傾ける事に決める。
「どうしても、あのプールで泳がせてみたい生き物がいるんです」
「生き物?」
「サメ、だと思います」
「……サメ?」
「サメ」
サメ、と聞くと、脳裏を過るのは所謂B級映画の類だ。
前に一度、見た事がある。頭がいくつもあるサメが、高所に逃げた相手に向かって千切った自分の頭を投げ付けていた。
あんまり過ぎる程に荒唐無稽で、私は笑っていたけれど。
それにしたって、サメが出てくるまでの導入は、もうちょっとその、多少は、丁寧だった……ような、気がする。
「サメ」
私はもう一度繰り返した。
「……うちのプール、淡水だよ?」
その間に必死に言葉を選んで、これしか出て来なかった。
先輩返しのセンス有りまくりですねと彼女はちょっとズレた褒め言葉をかけてくれて、そこは、一応大丈夫だと思うんですけど、と。しばらく悩んだ素振りを見せてから、後輩は和室の奥にしては風情の無いロッカー、その隅にあるカーテンのかかった一区切りへと足を運ぶ。
ああいう秘密のスペースって、他の部活にもあるんだな、と。色んなものから目を逸らしながら感心している私の方に、彼女はそのロッカーから取り出した何かを手に乗せて、戻ってきた。
彼女が持っていたのは、タッパーだった。
底は浅めで、やや大きめの長方形。うちの作り過ぎたカレーを入れる用のものが、これとほぼほぼ同じサイズだったような気がする。
そんな中に、ちゃぽん、ちゃぽん、と。張られた水が、揺れているのが見えて。
「実際に見てもらえれば……」
ナイショでオナシャスと付け足しながら畳の上にタッパーを置いた彼女は、その半透明の青い蓋を取り上げる。
「……!」
明瞭になったタッパーの中に居たのは、確かに、サメと言われてみれば、サメだった。
いや、本当にサメと断言して良いのかはわからない。
それこそタッパーをプールに見立てれば5レーン分くらいは浮きを並べられるくらい、小さな、水色の皮膚に、細かい刺青のような模様が広がったサメを、少なくとも私は、さっき挙げたようなB級映画の中でだって見た事は無い。
左右に大きく突き出した目はシュモクザメを連想させたけれど、それだけだ。シュモクザメは目は飛び出していても、ヒレが腕の形をしていたりはしないのだから。
サメというか。
サメの半魚人。
それも、小さな小さなサメの半魚人だ。
四捨五入して、ギリギリサメになるかならないか。そんな印象の、とりあえず、魚。
そんなものが、悠々と、タッパーのプールを、泳ぎ回っていて。
「この子はダイブモンっていうらしいっす。デジモン? なんかそういう生き物らしくて」
「デジ、モン」
聞いた事の無い名前だ。
「うちの通学路に、青い屋根が綺麗なアクアリウムのお店があって、そこで売ってたんすよ」
アクアリウム、と呼ぶにはあまりにも……なんだろう、質素? というか。
ただ、タッパーの中のサメ――ダイブモンにとっては、それなりに悠々と泳げる環境ではあるらしい。
彼はタッパーの端を何度だって折り返しながら、ゆったりとクロールで泳ぎ続けている。魚が何を考えているのかなんて解らないけれど、不自由を、している風では無かった。
ただ、
「うち」
私の隣で、同じように。茶髪の後輩も、ダイブモンを覗き込んでいる。
「この子がでっかいプールで、ホンキで泳いでるところを、見てみたいんすよ」
確かにダイブモンの泳ぎは、私達で言うところの「流し」に見えた。
力をセーブして泳いでいるのだ。
こんなに小さいとはいえ、プールの中を、複雑な模様の入った背びれを立てて全速力で泳ぎ回るサメの姿を思い描いてみれば、それを実際に見て見たいという気持ちそのものは、解らないでは無く。
そしてそんな行為を先生たちが許してくれる筈も無いだろう。プールは魚じゃ無くて、人間が泳ぐところなのだから。
だからこそ、体育教師以外でプールの更衣室の鍵を扱う事が出来る水泳部の力を借りて、『誰も居ないプール』に入ってみたかったのだろう。彼女は。
だけど
「やっぱり……難しい、かな」
不法侵入。
最初の感想が、そのまま答えになる。
例えば、鍵の閉め忘れを装って更衣室を開けておくだとか、そういう形で彼女に協力する事自体は出来ないわけじゃない。
でもやってはいけない事は、やってはいけないから禁止されているのだ。
万が一バレたらいくら緩い校風だとは言っても内申点どころの話じゃないだろうし、仮に鍵の事が故意だと判断されなかったとしても、「気が緩んでいるからこういうことになる」と私を叱責する女顧問の想像に難くない姿は、あまり頭に思い描きたい光景では無くて。
「ですよね」と、またばつの悪そうな表情に逆戻りした後輩がうなだれる。
彼女だって、私が同学年だと思ったから悪い誘いに声をかけたのだ。上級生に窘められてしまっては、諦める他無いだろう。
……目上の人に、言われれば、か。
「でも」
何故そう続けられたのか、自分でも信じられなかった。
いくら鬱憤が溜まっているとは、言ったって。
「ちょっと、私も見て見たい……かな」
だけど、それが校内で吐き出す久しぶりの本音である事だけは、隠しきれない事実だった。
*
「……なんであんなこと言っちゃったんだろう」
夜。
忘れ物をした。どうしても取りに行かなきゃいけない。と。無理くりに理由を作って無理矢理に家を飛び出した私は、学校の裏手で後輩のあの子を待っていた。
全く、あんな事を言って、こんな事が出来るくらいなら、退部届ぐらいすぐに出せそうなものなのだけれど。
……でも、きっと。明日もそうは、言えないんだろうな。
「すみません先輩! お待たせシャーシタ!」
「しーっ、声、大きいよ」
「あっ、サーセン……」
ぼう、とプールの有る方角を眺めている間に、自転車に乗った後輩がやって来た。ライトが光って、少し目立つ。道路交通法は守っている姿が、なんだか可笑しかった。
改めて、2人で見上げた夜の校舎はとても迫力があった。ちょくちょく怪談の舞台になっているのも、何だか頷ける。
「えっと」
道の脇に自転車を停め、恐らくあのサメの入ったタッパーを入れたエナメルバッグを肩にかけながら、やや上目遣いで後輩がこちらに視線を向ける。
「本当に、いいのっすか先輩。いや、誘ったのはうちなんですけど」
「乗りかかった船だよ。……あるいは、雨宿りのお礼って事で」
放課後のどんよりとした空気が嘘のように、今では空に星が瞬いている。あのままこの子に出会わずに帰っていたら、きっとびしょ濡れになっていたし、今夜は晴れる事さえ、知らなかっただろう。
でも、と。今度は少々心配そうに、後輩は続ける。
「先輩、プールには寄って無いですよね? それなのに、どうやって入るんですか?」
「それは、まあ。ついてきて」
グラウンドの方に回った私達は、いよいよフェンスを乗り越えて、校内へと侵入する。
網目に足をかけて登り切ると、ひいひい言いながら後輩も後に続いていた。
「せ、先輩、身軽っすね」
「鍛えてるからね、最近は」
ちょっとだけ恨みがましく付け加えて、それから、2人してフェンスの上から飛び降りる。
地面に付いた衝撃で足がちょっとだけじん、と痺れたけれど、それだけだった。
悪い事、しちゃったなぁという自覚の方が、胸の中では、大きくて。
「こっち」
先生が巡回していたりするのか。
監視カメラとか、あったりするのか。
わからないけれど、それらを避けているつもりになりながらフェンス越しに進んで、やってきたのはプールの裏手。更衣室があるのとは、反対側だ。
「えっ、これ」
困惑する後輩を他所に、私は見学の生徒や顧問の先生が座るベンチの丁度裏、フェンスに覆い被さっている木の板をずらした。
ここだけ、這うようにすればどうにか通れそうな、穴が空いているのだ。
「プールって結構維持費がかかるらしくてさ」
私は穴から身を乗り出してベンチを少しずつずらしながら、穴の謂れを語り聞かせる。
「誰か先輩がベンチでふざけて、倒れたベンチで開いた穴なんだって。でも、本格的に直そうと思うと一面張り替えになっちゃうから、そこまで回せる予算がなぁ、って」
私が入部した時には、もう空いていた穴だ。
女子でもギリギリ、男子だと本当に小柄な子しか通れない穴だし、とりあえず板を被せておけばいいかと、もう何年も放置されているらしい。……実際は、その小柄な子とかが、掃除用具での野球で場外ホームランが出た際に、ボールを取るために利用したりしていたのだけれども。
でも、ベンチがあるとほとんど気にならなくて。
これは、水泳部だけの秘密の抜け穴だった。
腕の力だけでベンチをどけるのは少し重労働だったけれど、どうにか無事に、私達は作った隙間からプールに侵入する事が出来た。
ここに来るまでに目が慣れたお蔭で、辛うじてプールサイドと波間の境目は見えたけれど、それだけ。
誰も居ないプールがひたひたと揺れる音ばかりが暗がりに広がっていて、だからなんだか、陸に居るのに、水の中に居るような気も、少しだけ、覚えたりするのだった。
そんな中に、ごくり、と息を呑む音が混ざって、それから、後輩が穴から押し込んだエナメルバッグを開く。
中からタッパーを取り出し蓋を開けると、ここに来るまでに大概揺れていたに違いないのに、蓋の裏には水滴1つ付いていなくて、ダイブモンも、相変わらず。のんびりと水の中を真っ直ぐに泳いでいた。
私達は、顔を見合わせて、頷き合う。
「それじゃあ、失礼して」
意を決した後輩が、1と書かれた飛び込み台の隣でタッパーを傾けた。
「!?」
後輩と私は同時に息を呑んだ。
水が、全く零れなかったのだ。
代わりに、と言っていいのかわからないけれど、タッパーからぬるりとダイブモンだけが滑り落ちて、ぼちゃん! と水しぶきが上がる頃には、あの小さかった魚は私達の身の丈を遥かに超える大きさへと変貌していたのだ。
大きな、大きなサメだった。
2mは、あるだろうか。
そして腰を抜かした私達の事なんて気にも留めずに、プールに降り立った空色のシュモクザメは、ぐん、と身体を水中に沈める。
その時には人間のように確実に2つに分かれていた尾ヒレは瞬く間に1つになり、だけど魚じゃ無くて、イルカみたいに上下にうねって、波を打つ。
文字通りの、ドルフィンキックだ。
そう思った瞬間には、ダイブモンの身体はその場から飛び出していて、水かきの有る手がいっぱいいっぱいに水を押して。
あっという間に、25m先へと、泳ぎ去って行った。
遅れて立ち上った波がざばん、と勢い良く私達に被さる。
「わっ」
驚く後輩の声を聴いた時には、もうびしょ濡れだった。
私は呆気に取られたままふらふらと立ち上がって、ダイブモンの過ぎ去った方角へと歩み寄ると、彼はプールの端で立ち上がり、追いかけてきた私や腰を抜かしたままの後輩に向けて、笑顔で手を振っていて。
ああ――なんて、楽しそうな。
「す、すご……」
ぽつりと後輩が呟いたのが聞こえた。ダイブモンの耳……耳? にも届いたのか、彼はより一層笑みを深くする。
「見てても良いなら」
私はプールサイドに膝を付いて、ダイブモンに顔を近づける。
「好きなだけ、泳いでいいよ」
こんな速度を出せるのだ。25mプールではまだまだ狭い――ひょっとすると、尺度的にはタッパーの中の方が広いくらいかもしれないのに、私の言葉を聞くと殊更嬉しそうに、ダイブモンは潜水する。
水面から突き出した背びれの影はB級パニック映画じみているのに、そこで魚が泳いでいる光景は、どうしようもなく、美しくて。
「……あの」
と、ようやく立ち上がれたらしい後輩が、足元がちゃんと地続きになっているか、おっかなびっくり確かめながら、こちらへと歩み寄って来る。
「本当に、ありがとうございます、先輩。……うち、やっぱり、これが見たかったんだと思います」
「私も、見れて良かった」
私は靴と靴下を脱ぎ捨てて、飛び込み台の上に腰かけた。
ダイブモンが水を蹴ったり掻いたりするたびに起きる波は相変わらず高いけれど、ここにいれば、足先が水を被る程度で済む。
しばらくの間、私達は来た時よりもずっと大きくなった水の音に耳を傾けていた。
その音には一定のリズムが合って、それはダイブモンがどこまでも綺麗なフォームで泳いでいる何よりもの証拠だった。
「私ね。泳ぐのはそこまで好きじゃないんだ」
後輩が「え?」と声を上げる。
自分語りだなんて、かっこ悪さの極みだけれど。
こんな夜くらいしか、誰かに話を聞いてもらうことすら出来ないような気がして。
「でも、水の中は好き。冷たくて、暖かくて、気持ち良くて、苦しくて。ゆらゆら揺れる非日常の世界が、本当に好きなの」
飛び込み台に当たって弾けるプールの水は、とても冷たい。
多分、泳げなくは無いと思うのだけれど。
「たださあ。小学生の時、テレビで見た水泳の世界大会に、すごい選手が出ててね? 『モンスター』って呼ばれてたくらいだから、君も知ってるかな。あんな風に泳げたら、もっともっと楽しいんじゃないかって。それが知りたくて、水泳部に入ったの」
水泳の4種競技の中では、両腕で水を押し出すようにして泳ぐバタフライが一番難しいのだが、私がそれを泳げるのも、その選手がバタフライの選手だったのがきっかけだった。
どう考えても高み過ぎるのに、小さい子供は、雲にだって手が届くと、無邪気にそんな想像をしてしまうもので。
「実際、泳げるのって、楽しかった。水の中で動き回れるのが、嬉しかった。……それだけで、よかったのになぁ」
顔を上げると、シャワーや目洗い場がある方のフェンスには、黒いゴムチューブが結び付けられ、ぶら下がっている。
女顧問が用意したものだ。
「速くならなきゃダメなのかな? やってる意味、無いのかな? 楽しいだけじゃ……」
もちろん、水泳という競技で勝つためにやっている子がいるのもわかってる。そういう子達にスイミングスクールに行けと言うなら、私みたいなヤツの方こそ市営のプールにでもお金を払って遊びに行けばいいっていうのも。
本当なら、今までのうちの部活の方が特殊で、「ちゃんと」するのが本当だっていうのも、頭では、解ってる。
だけど
「「一度きりの青春」って言うならさ。……好きな事くらい、させてほしいよね」
望まない形で水泳を続けて
それすらも、秋が来れば引退になって
あとはちょっとでも良い高校に行くためにひたすら勉強して、受験して
そしたら次は高校生になって
次に何を始めるにしたって――きっと、同じような、事をする
「長い人生」とやらの始めの方に居る私には、遠い未来がどんよりと暗がりに埋もれているように見えて、ちっとも愉快な気持ちには、なれなくて。
「……そうっすよね」
しばらくの間、また沈黙を挟んでから。
私の話を最後まで聞いてくれた後輩が、私の隣の台へと腰かけた。
「うちは、先輩とは全然逆で、特にやりたい事とか、思いつかなくて。中学生になったら何か始まるんじゃないか。髪を染めたら何か変わるんじゃないか。……冒険してみたつもりでも、なーんにも変わんないんですよね」
むしろ友達付き合いは前よりメンドーになっちゃいました、と。後輩はやるせなく笑う。
「文芸部は3年が抜けると部員数0になるとか聞いて、なら入っちゃおうかなーって。でもその先輩達も今じゃ全然部室に来ないですし、ひょっとしたら部員のほとんどいない文芸部を潰そうとする意地悪先生との攻防が始まるカモ……! なんて考えたんですけど、うちのおばあちゃん先生めっちゃいい人で! トーゼンですけど、ドラマみたいな展開にはならないんですよね~、これが」
先輩を見た時、ちょっと文芸部っぽい事言えるなって、テンション上がっちゃったんです。と。後輩はそう言って、またサーセンと、ぺこりと頭を下げる。
別にいいよと、私はまた、笑った。
「そんな時、たまたま入ったお店で見つけたのが、あの子でした」
彼女が指さす先で、ダイブモンはまだまだ泳ぎ続けている。
相変わらずフォームに乱れは無い。疲れ知らずだ。
「本当に、楽しそうに泳いでて。店長のおじさんも、「この子は泳ぐのが好きなデジモンでね」って。……何かが本当に好きなヤツが、その好きな事を本気でやってるトコロを見れたら、私も何か、変われるかなって。……そう思ったら、タッパーじゃなくて、ホンモノのプールでこの子を泳がせてみたいって。そう思い始めたら、止まらなくなっちゃって」
「変われそう?」
私の問いに、後輩は首を横に振る。
「わかんないです」
だけどその口元には、どこか前向きな笑みを湛えていた。
「だけど今日、ダイブモンが泳ぐのを見れてよかった。デッカくなったのはびっくりしましたけど、でも、こんなのフツー、見れないですもん」
「そうだよね」
「だから、その。うまく言えないんすけど」
ふと、後輩は私の方に、身を乗り出す。
やっぱり、遠慮なく距離を詰めてくる子だなぁ、この子。
「こんなに悪いコトができたんだから、先輩だって、これからもっと好きな事できますよ。そりゃ、やっちゃダメな事は、しない方がいいんでしょうけど、でも」
「……うん」
頷く私に、後輩は「でも」に続く答えではなく、「ナマイキですかね?」と問いを投げかけてくる。
「そうかもね」と、私はたった1、2歳しか変わらないその子に、いじわるを言うのだった。
こちら側の壁でターンしたダイブモンが、また暗い水の中を掻き分けていく。
そのまま、どこまでだって、行けそうに見えた。
*
「そういえば先輩、聞きました? プールに幽霊が出るってウワサ」
「私の事かな?」
でしょうね、と、後輩は自分の事は棚に上げて、悪戯っぽく笑った。
あれから、次の日も、その次の日も。それから何か月か経ったって、私達が職員室に呼び出されたりする事は無かった。
代わりみたいに、その時々で増えたり減ったりする我が校『伝統』の七不思議には、「プールの幽霊」が増えたらしい。
それから、フェンスの穴は
冬季に周辺の改修工事があるだとかで、塞がれてしまうのだそうだ。
「幽霊部員先輩、だってさ」
夏休みも明け、最後の大会も終り、水泳部の引退式も数日後に迫って。
更衣室で後輩たちが、私の事をそんな風に揶揄していたのを聞いた。
結局、私は最後まで、退部届を提出する事は無かった。
気が向いた時に泳いで、気が向かなければ、部活には出なかった。
女顧問はそんな私を白眼視したし、後輩達にはヒンシュクを買い、同級生にはきっと、迷惑をかけただろうけれど。割り切ってしまうと思いの外気が楽で。
「文学っすね」
「適当言ってるでしょ」
茶目っ気たっぷりにぺろりと舌を出す後輩に肩を竦めながら、私は机に置かれた季語辞典とかいうやつをぺらぺらとめくって流し見する。
水泳部の夏は終わったけれど、文芸部は秋に本番がやって来る。
俳句を作って墨で半紙に書くのが、この部活の決まりらしい。
後輩はうんうん唸りながら、ノートに提出物の案を書き綴っていた。
水泳部に足を向けることがめっきり減った代わりに、文芸部の部室に遊びに行く事が増えた。それこそ入部届なんて出していないから、幽霊部員ですらない。部員じゃないなら、こっちの方こそ本物の幽霊扱いかもしれない。
「サメ映画 美人は大体 酷い目に」
「……季語は?」
「そりゃサメ映画ですよ。夏! 夏の思い出っす」
「ええっと……あった。……サメって冬の季語らしいよ?」
「えっ!? ウソ、マジで言ってます? うわ、ホントだ」
同時に季語辞典から顔を上げた私達は、お互いの顔を見て笑い合う。
私達の『思い出』――ダイブモンはあの後、ふと泳ぐ音が聞こえなくなったと思うと姿を消していて、だけど慌てる私達を尻目に、何事も無かったかのようにタッパーの中へ、あのちんまりとした姿で戻っていたのだ。
ひょっとしたら、幽霊は本当に、居たのかもしれない。
少なくとも、ダイブモンは今は、相変わらず後輩の家に居ると言う話だし、水泳部にも、文芸部にも、今は、幽霊が居るのだから。
*
デジモンの入ったアクアリウムの店。その奥の部屋にて。
「その……おばあさま。何度も申し訳ありません、お手を煩わせてしまって……」
「何、孫は手伝いが要る方が、可愛らしいものだ」
少し遊ばせてはもらったがな、と。ウインクを飛ばしているのは、長く白い髪を頭頂で結い、白一色のパンツスーツに身を包んだ、この店――アクアリウムの店の店主とは対照的な、しかし彼と同じように白黒写真から抜け出してきたかのような印象の老婆である。
この地域の中学でここ最近急に逸り始めた「プールの幽霊」の怪談話。
その裏にある2人の女子生徒の不法侵入の後始末を行ったのは、何を隠そう、この2人だ。
おばあさま、と呼ばれた老婆は、彼女達の若気の至りを幽霊の仕業だった事にしたのである。
すみません、と、アクアリウムの店の店主は、それでも申し訳なさそうに再び頭を下げる。
「こちらで暮らすことを望んだデジモン達と、人間とを結び合わせる。……概ねはうまくいっていますが、やはり私達では理解の及ばない事も多い。私達のやり方は、正しいのか。いっそデジモンの存在をもっと公にした方が良いのか。悩むばかりで」
「そうやって悩んでいる分まだ良いわ。我らの父は、悩みも迷いもしなかったからのう」
「……」
「それに、まあ褒められた手段では無いのは確かだが」
白い老婆は立ち上がり、黒い老人に背を向ける。
彼女には、他にも「向こう」でやるべき事が、たくさんあるのだ。
「ダイブモンは、己の好きな「泳ぎ」で人の子らに良い影響を与えた。それは、喜ばしい事では無いのか?」
最後にふっと微笑みながら、老婆はさらに奥へ続く扉へと手をかけて、振り返る。
「この我らでさえ学ぶ事はまだまだあるのだ。だから、可愛い孫や。お前達もより一層、励むと良い」
そう言い残し扉を開けた老婆を見送って、店主は作業机の前に腰を下ろす。
そうして、机上の空のガラス瓶を取り上げ、そっと手を翳した。
途端、瓶の底には白い砂が敷き詰められ、内部を水が満たし、芽吹いた水草が背丈を伸ばす。
「……」
それは店主たちの先代の負の遺産。
繰り返し繰り返し、壊し尽された世界の破片。
せめて、完全には消えて無くならないように。必死で掻き集めた記録の欠片である。
「けして、もう壊してはいけないよ。繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝が……」
いつも客に言い聞かせているのと似たような台詞を呟いて、しかし終いまでは言い切らずに、男は立ち上がる。
もう二度と世界が壊れないように
そして今の世界では生きられないデジモン達が、新しい未来を見つけられるように
そのために、彼はこの世界で生きている。
これはスラムダンク赤木と湘北メンバーとの対立。夏P(ナッピー)です。
アクアリウムを得た人間じゃなくて貰った人間に関わる人間がメインなのは初でしたか。後輩ちゃんがダイブモンをタッパーに入れて持ってきたと聞いて、オイ待てもうアクアリウム壊してタッパーに移し替えとるんかい死んだわコイツらと戦慄しましたが普通にいい話だった。てっきりプールで泳がせてたら突然ダイブモンが凶暴な本能に覚醒してカニバリズムされると思ってたんだけどなー。
というわけで、今回の主人公の彼女は終わってみれば泳ぐことが好きな普通のいい子でしたか。後輩ちゃんの言う通り、沢山のギャラリーの前でメドレー泳ぎ切った時点で水泳自体が好きなことは描写されていましたが、まさにその通りのEDを迎えて心地良い。サメ映画の如く食い殺されるかダイブモンに乗っ取られて強制的に泳ぐこと好きにさせられるんだと警戒していた自分を殴りたい。新顧問も決して間違ったことをしているわけではないのがポイントか。これが高校だったら乱れた風紀でえらいことになってたでしょうが、中学なので男子は昆虫でキャイキャイ騒いで女子は漫画読んでるぐらいの可愛いものなのでした。出来の良かったり真面目だったりする一年生が入ってきて平凡orだらけた三年生が気まずくなるのはあるある、気持ちはわかる。
最後に文字化け店長がまた会話してましたが、ちゃんとデジモンが人間にいい影響を齎してくれるなら部活やってる中学生全員にパルスモン系譜配るべきですな。うぉあナマケモン貰っちまったどうすりゃいいんだ!
こんなこと言ってますが、実は最後のシーンで「……うん?」となるまで、ダイブモンとして脳裏に思い浮かべていたのがサーフィモンだったのは内緒。サメっぽいからよォーッ!
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。