※注意
今回のお話のテーマはペットロスです。
きつい展開や、ひょっとするとフラッシュバック等あるかもしれませんので、お読みになられる方は、どうかご注意ください。
それでは、以下本編です。
可愛い子犬を見ただけで、背筋が冷たくなるのはどうしてなのだろう。
こんなにあたたかくて、ふわふわで、人懐っこくて、元気なのに。いつかはそうじゃなくなると、僕はもう、知ってしまっているからだ。
冷たくて、固くて、何の反応も示さない。
ずっとずっと苦しそうで、僕の事なんて覚えている風じゃ無くて、なのに僕はずっと覚えていなくちゃいけなくて、可哀想で、あんなに大好きだったのに、ずっとずっと辛くて。
こんなに寂しくなるくらいなら、僕達は、出会わなければよかったのに。
そうすれば、あの子はもっと、僕のうちより裕福だったり、お世話してくれる人が優しかったり。そういう場所で、幸せに暮らせていたんじゃないかって。そんな事ばかりを考えてしまう。
こんなにも、会いたくて会いたくて仕方が無いのに
僕はあの子に、僕を恨んでいてほしかった。
せめて、別れの時くらい。
あの子が辛く、無かったように。
*
「どうして勝手にそんな事したんだよ! 僕は嫌だって言ってたじゃないか!!」
学校から帰って「ソレ」を見つけるなり、いけないことだとは解っていたけれど、僕は父さんと母さんをキツい口調で問い詰めた。
2人とも、まるで僕が喜んでくれると信じて疑っていなかったかのように、揃いも揃って目を丸く見開いている。
どうしてそんな顔が出来るんだろう。ラテが可哀想だと、そう思わなかったのだろうか?
「でも、言ってたじゃない。そろそろ新しい子を飼おうって。前にも話したでしょう? お父さんもお母さんも、ずっとペットの居る生活をしてきたから、なんだかずっと寂しくて、我慢できなかったのよ」
「「寂しい」から? ふざけんなよ! 軽い気持ちでペットを飼うなって、CMとかでも言ってるだろ!? それに、僕は嫌だって、もうペットは飼いたくないって、何回も言った! ラテのことも碌に幸せにしてやれなかったのに、うちに新しいペットを飼う権利なんてあると思ってるのかよ!」
まだそんなことを言うのか! と父さんが僕を怒鳴りつける。
正直、身がすくんだ。父さんは身体が大きくて、怒ると声もよく響いた。暴力を振るったりするような人では無かったけれど、不機嫌な時の態度には威圧感があって、だから怒鳴られると、声が、出なくなってしまう。
……だけど、ラテもこの人の大声に怯えて尻尾を丸めていた時の事を思い出して、僕は自分を奮い立たせながら声を上げる。
「だってそうじゃんか! ラテはあんなに苦しそうだった! 辛そうだった! もっとちゃんと気を付けてたら、大事にしてたら、そうじゃなかったかもしれないのに」
「どうしてそんなにラテを不幸にしたがるの!? お医者さんにも大往生だって言ってもらったじゃない! 焼いた後のお骨だって、こんなきれいに残るのは珍しいって葬儀屋さんも」
「リップサービスに決まってるだろそんなの! 生きてる時の事知らなきゃ何とでも言えるんだ!!」
「いい加減にしないか!!」
父さんは、さっきよりも大声で僕をしかりつけて。
今度こそ、声を出せなくなった。
なんでだよ、
なんでだよ。
僕は、間違った事なんて1つも言ってないのに。
僕はせめてもの抵抗みたいに2人を睨みつけて、リビングを飛び出した。
母さんが僕の名前を呼んだけれど、構うもんか。
ラテのことも忘れちゃうくらい寂しいなら、2人が勝手に面倒を看れば良い。僕は、ラテの事をちゃんと覚えている僕は、またあんな思いをするなんて、2度とごめんだった。
2階の自室に上がる前に、振り返る。
玄関。靴箱の上。
円筒状の水槽の中にいるその生き物は、水の中であってもなお潤んだ瞳で、怯えたように僕の方を見上げていた。
「……」
丸い瞳。
コーヒー色の毛並み。
2足歩行だし、角が生えているし、長い耳の先や手足、模様の部分にはピンク色の毛が生えている、見た事も無い、変な生き物のくせに。
その子はなんだか、ラテに似ていた。
「お前に、怒ってたんじゃないから」
そんな考えを振り払いながら、僕は落とした声をその子にかける。硝子と水を隔てた先にまで、聞こえていたかは分からない。
聞こえなくても、良いとは思った。
どうにせよ、不幸にも、うちに飼われて来てしまったのだ。
だから、ちゃんと、優しくしてあげなきゃいけないのに。
結局僕も、両親と同じで、最低だった。
それ以上その子を見ないようにして、自室に帰る。
ベッドに飛び込んで、身体を丸めた。
目を固く閉じても嫌な考えが浮かんでくるばかりだった。
その中でも特に最悪だったのは、ペットロスに関する話。
新しいペットを飼うのが良いと。そんな事が堂々と、対処法として書かれていた事を思い出す。
「ラテ……」
1人きりになると、いよいよ涙が滲み始めた。
僕の味方も、そしてラテの味方も。この世のどこにも、居なかった。
*
ラテは僕が小さい頃にもらわれてきた雑種犬だった。
本当に可愛くて、人懐っこい子だった。僕達はすぐに仲良くなって、構い過ぎるとよくないと母さんに叱られるくらいに、毎日、一緒に遊んでいた。
父さんも母さんも、前の子を病気で亡くしてしまったそうで、ラテの健康にはとても気を付けていたのをよく覚えている。
ドッグフードも評判のいいメーカーのものを選んでいたし、おやつなんて、僕が食べているものよりも高かったくらいだ。
ただ、ラテは外で飼われていた。
テレビで聞きかじった知識から、家の中の方がいいんじゃないかと問う僕に、両親は「田舎はこれでいい」と言うばかりで。
まあ、実際、ラテが若い頃は良かったのだと思う。犬小屋の立地自体は悪く無くて、夏場は木陰がラテを日差しから守ってくれたし、必要なら冷凍庫でペットボトルに水を入れたものを凍らせて、ラテ用のタオルにくるんで小屋に入れてやったりした。
冬場は、そもそもラテは、あまり寒いのを気にしている風では無くて。
だけど年を取ると外の気温にラテがへばっている事も増えて行って。
それだけじゃない。小学生がラテにちょっかいをかけたり、いじわるなおばさんが、ちょっと吠えただけのラテをすごい剣幕で怒鳴りつけたり。
そういう人達が近所にいるせいで、ラテはだんだん人見知りが激しくなって、懐いている人には変わらずに人懐っこかったけれど、一度敵と認識した相手には、尋常じゃないくらいに、なんなら相手が帰った後でさえ、吠え続けるようになってしまって。
そして――最終的にあの子を不幸にしてしまったのは、他ならぬ僕だった。
ラテが、人間でいえばもうお年寄りといってもいい年齢に達してほとんどすぐの頃。
ある日、ひっくり返って仰向けになったラテのおなかを撫でていた時、僕はラテのおなかに、ちょっとしたしこりがあるのに気付いてしまった。
僕は、そのくらいならきっと大した事は無いと楽観視する両親にしつこく言って、ラテが病院嫌いなのはわかっていたけれど、あの子を動物病院に連れて行ってもらったのだ。
検査の結果、おそらく悪性の腫瘍等ではないけれど、いつそういうものに転じるかはわからないし、良性の腫瘍でもしこり自体が大きく成り続けると、破裂して化膿するかもしれないと、お医者さんは手術を勧めた。
手術のリスクなんかも聞いて。僕達は色々悩んだのだけれど、結局、僕が強く言って、ラテのお腹の腫瘍を切り取ってもらったのだ。
それからしばらくして、ラテに認知症の傾向が見え始めた。
目も段々と白く濁り始めて、柵にぶつかりながら同じところをぐるぐる回ったり、ごはんを食べたり水を飲んだりするのが下手になって、入れ物をひっくり返す事が増えた。
だんだんと表情がなくなっていって、尻尾はずっと下がっているようになって。
終いには、ラテは僕の事さえ本気で噛むようになった。
痛い痛いと言っても離してくれなくて、指に小さな穴が空いて、そこから血が零れ続けた時の事をよく覚えている。外犬だからか、少し菌が入ったらしい。傷が塞がった後も、暫くの間腫れ続けた。
ラテが全く知らない犬になってしまったみたいで、僕は怖かった。
そう感じるのと比例して、僕がスマホでラテの写真を撮る頻度は減って行った。
後で見返した時、このころのラテの写真は穏やかに眠っている時のものばかりで、それが余計に辛かった。
そんな、ゆるやかに悪化する日々が1年以上続いて
自分で立てなくなってから1ヶ月。
自力で食事を取れなくなってから1週間。
完全に寝たきりになってから、たった1日。
1時間前には息をしているのを確認したのに。
見つけたのは、僕だった。
夜、お風呂から出て、ラテの事を確認しに行くと、あの子は息を引き取っていたのだ。
固く、冷たくなって、くたびれたクッションに沿ってどこか平べったい印象になってしまったラテのやせぎすの身体に、僕は長い事、泣きついていた。
16歳。
年齢を聞くと、誰もがダイオウジョーだ、大事にしてもらったんだと、そう言ってくれた。
だけど、僕の記憶に最後に残ったラテはうつろな目でぜいぜいと苦しそうにあえいでいる姿ばかりで、とても安らかな最期だとは言ってあげられなくて。
もし
もしも、あの時、僕がラテの腫瘍に気付かなければ。
手術をするべきだと推さなければ。
認知症にはならずに済んだかもしれない。あれは、環境が変わると悪化するものだそうだから。
目だって、その時のストレスのせいで悪くなったのかもしれない。
何も見えなくなって、
何も解らなくなって、
周りに居るのは、本気で噛み付いてしまうほど嫌っている人達で――最期の一瞬を、看取ってあげることすらできなかった。
それが幸せだなんて、どう、言い切れるというのだろう。
それから1ヶ月もしない内に、両親は『新しい犬』の話を僕に振り始めた。
僕は信じられなかった。当然、何度も嫌だと言った。
だけど両親と僕の価値観は違っていて、あの人達は、犬は、そこに居るだけで家族を幸せにしてくれる存在だと言うのだった。
もし、仮にそうだとしても。その犬をラテみたいに不幸にしたくないと言うと――母さんはさめざめと泣き始めて、父さんは烈火のごとく怒り狂った。
そうして、結局。
『新しい犬』は、本日、うちへと迎え入れられた。
ただし、水槽の中に入った状態で。
*
「……」
朝、起きて(最も、あんまり眠れなかったのだけれど)。1階に降りるなり目に飛び込んで来たのは、水槽の中で泣き喚く『新しい犬』の姿だった。
泣き喚く、といっても、声は聞こえない。硝子と水は、やはり音を遮っているらしい。
鳴き癖のあったラテの事を鑑みてこういう飼い方の出来る生き物を選んだのだとしたら、本当に最低だなと僕は思った。
……水の中の生き物が涙を零したところで、そんなもの、きっとわからないのだろうけれど。
目を固く閉じて、大口を開けて。何かを叫んでいる様子には、なんとなしに、覚えがあるような気がしたから。
「ああ、おはよう」
「……泣いてるけど、あいつ」
声をかけてきた母さんに、おはようとは返さずに、僕は『新しい犬』の水槽を指さした。
ごはんはあげたんだけれど、と、母さんは困ったように息を吐いた。
「まあ、きっとまだ慣れてないのよ。あんまり構うと、余計癖になっちゃうかもしれないから。今は見守っておくくらいでちょうどいいのよ」
「あっそ」
本当に? と出かかった言葉を呑み込んで、僕は『新しい犬』からも母さんからも顔を背けた。
今日は休日。朝食さえとってしまえば、もうしばらく。親ともあの生き物とも顔を合わせなくてもいいはずだと自分に言い聞かせる。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、母さんがまた息を吐いているのが耳に届いた。
「いい加減機嫌直してよ。悲しくなっちゃうじゃない」
機嫌? 悲しい? 了承を得られない僕に黙って勝手な事をしておいて、何を言っているのだろう。
僕は唇を噛み締めながら、朝から昨日のように怒鳴り散らす羽目になるのをぐっとこらえた。何より、ここだと『新しい犬』にも聞こえてしまいそうな気がして。
「モカは、もう新しい家族なんだから」
「家族だって言うなら安易に増やすなよ」
「またそんな屁理屈ばっかり……!」
どっちがだよ、口の中で呟やきながら、朝の身支度を整える。
途中、起きてきた父さんが母さんに「まだふて腐れてるのか」と呆れたように口走っているのが耳に入って、ひたすらに不愉快だった。
シリアルと牛乳をいっしょくたにして流し込んで、すぐに自室に戻る。
もはや、家の中に居るだけで気分が悪かった。財布とスマホだけ持って、僕は家を出た。
……途中、ふと流し見した『新しい犬』はまだ泣いていたけれど、母さんたちは、引き続きあの子を放っておくつもりらしい。
魚の扱いがそうであるように、実際に鳴き声を聞いて、触れる事が出来たラテと違って、対応も淡泊になるのだろう。食事さえ与えていれば、とりあえず大丈夫だと。
慌てて目を逸らした。
もしも構ってやって、僕があれを飼う事を許したものだと思われたら、たまらなかったからだ。
……ああいう、水の中で飼える不思議な生き物について。僕には覚えがあった。
なけなしの抵抗のつもりもあったのかもしれない。
家を出て向かう先は、とある青い屋根の建物へと定めていた。
*
「いらっしゃい」
しばらくの間自転車をこいで、辿り着いた隣町の路地の一角。
海のような青色で塗られた屋根のあるお店--昔、お父さんとお母さんと一緒に来た事がある--に、僕は1人でやってきた。
扉を開けると鈴の音が鳴って、奥から出てきたおじいさんは、昔見た時と同じ、怖い話の挿絵に出て来そうな、白い肌に全身黒ずくめの姿をしていた。
胸元の金色の刺繍だけがきらきらと輝いていて、それがいっそう、ちょっとブキミだ。
「えっと、あの」
おじいさんの表情はとても優しげだったけれど、来る前はあんなに意気込んでいたのに、実際にお店の人に会うとしどろもどろになってしまって。
……それでも、それは自転車で走って来て、少し疲れてしまったからだという風に取り繕ってから、僕は思い切って顔を上げた。
「あの。……昨日、男の人と、女の人が、ここに、ペットを飼いに来たと思うんですけど」
ここは、ペット屋さんである。
ただのペットじゃない。水の中にいる、魚でも貝でも無い、不思議な生き物--確か、デジモン、という名前だったと思う--を取り扱っているペット屋さんだ。
ちょうど僕からも見える棚に、鳥のデジモンが入った水槽が置かれている。
斜めに置けるようになった、フラスコにも似た丸みのある瓶に入っているその鳥は、絶対に水鳥とかじゃなくて、僕にはカラスのように見えていた。それも、3本もの足を持つ、金の仮面を付けたカラスだ。
砂を敷き詰める代わりに小枝で作った鳥の巣を底に敷いて、カラスは堂々とした姿勢で、やって来た僕を棚の高い位置から見下ろしている。
こういうカラスみたいなのや、もっとおかしな姿の、本当に生き物なのかわからない、ゲームに出てくるモンスターみたいなやつらが入った水槽を、このお店では、売っているのだ。
「すまないね」
お店のおじいさんは、困ったように眉尻を下げた。
「そういうのは、個人情報だから。ちょっと、人には教えられないんだよ」
「だいじょうぶです。あの、僕のお父さんと、お母さんなんです。このお店で、犬……犬? の、デジモンを飼った筈なんですけど」
お父さんとお母さん、と、おじいさんは繰り返して、彼は僕をもう一度じっと観察した後、にこり、と、今度は普通に微笑んだ。
「そういう事なら。確かに、昨日このお店には、男女のお客さんが来て下さったよ。2人以上でここに来る方々は珍しいし、実際、昨日のそういうお客さんはその1組だけだったから、きっとあのお2人が君のご両親だと思う」
「じゃあ、あの子はこのお店で買ったんですよね?」
「ああ。あの子--ロップモンの事だね。ロップモンは、このお店で取り扱っていたデジモンだよ」
やっぱりそうだったのかと、僕は大きく深呼吸する。
……いけないことかもしれないと、思わなかった訳ではないけれど。
お互いのためにも、お願いするなら、早い方がいいと。僕は意を決して、吸い込んだ息を吐き出すように、口を開いた。
「今から、その、ロップモンを引き取り直してもらう事って……できませんか?」
おじいさんは、僕の言葉に驚いたように目を見開いて。
少しだけ思案するように目を伏せた後、改めて。引き続き優しそうではあるけれど、真剣な表情で僕の顔を見つめ直した。
「詳しい話を聞かせてもらえるかな。どうして、あの子をこの店に返そうと思ったのか。その理由を、教えてほしい」
少しだけ、ほっとした。
見た目は怖いけれど、お父さん達と違って、このおじいさんは、僕の話を聞いてくれそうだったからだ。
声も穏やかで、なんだか安心できる。
そう思うと、自分で思っていた以上に沢山の事を、おじいさんに次々と話してしまった。
お父さんとお母さんが、僕に黙って『新しい犬』を買って来た事。
死んでしまったラテの事。
僕自身の考え。
うんうんと、何度も頷きながら、おじいさんはぼくの話を止めずに聞いてくれて。
「だから……今からでも、何か、理由をつけて。あのロップモンって子を、引き取り直してほしいんです」
僕がそう言い終わって。
それ以上は、何も言わない事を確認してから。おじいさんはもう一度大きく頷いて、僕の方へとまた微笑みかけた。
「なるほど。確かに君が反対しているのに、新しい生き物を飼うというのは良くない事だ。……知らなかったとはいえ、私達もあの子を2人に勧めてしまったからね。まずは謝らせてほしい。……すまなかったね」
「えっ、あ……その、おじいさんが悪い訳じゃ……」
「だけど、私達も私達なりに、あの子を君のご両親に託したのには理由があるんだ。聞いてもらえるかな?」
僕は少しだけ迷って、でもすぐに頷いた。
自分だけ話しておいてこの人の話を聞かないのは、それは、とても良くない事のように思えたから。
おじいさんは、僕の話を聞いてくれたのだから。
「あの子、ロップモンはね。……少し前に、双子のお兄さんを亡くしているんだ」
「えっ」
思わぬ情報に、思わず声が出る。
同時に、頭の中に、家を出る直前に見たロップモンの姿が、過って行って。
「あの子達は、怪我をしているところを保護したのだけれど、助かったのは、ロップモンだけだったんだ。……私にも弟が2人いるからね。解るんだ。彼らはちょっと問題児なところがあるけれど――それでも、居なくなってしまったら、きっと寂しい。……ロップモンは兄が亡くなって以来、事あるごとに、泣いてばかりなんだ」
僕には、兄弟は居ない。
でも--僕にはラテがいて。
いなくなってしまった。
「私達では、どうしてあげる事もできなくて。……そんな時、君のご両親がこのお店にやって来た。デジモンは、人間から強く影響を受ける種族でね。だから私は、今のあの子には、デジモンでは無く、人間の新しい家族が必要だと――そう、判断したんだ」
「新しい、家族」
「先程の君の話を聞くに、あまり心地のいい言葉ではないかもしれないが、どうか許してほしい。……それに、君くらいの子がいる、という情報を、あの子を勧める決め手としたのも。だけどあの子は寂しがっていたから、なるべく複数の人間が暮らす空間に置いてあげるべきだと、私は、そう思ったんだよ」
「……」
僕は、それでもやっぱり、ラテの事を思い出すと悲しくて仕方が無かったのだけれど―――お母さんと喧嘩していた時と違って、おじいさんの話は、なんだかわかるような気もした。
少なくとも、ロップモンの気持ちを考えないでいた--考えないようにしていたのは、本当だ。
あんなに、寂しそうにしていたのに。
「所詮部外者でしか無い私がこんな事を言うのは酷いとは思うのだけれど。君、少しだけ、考えてみてはくれないかな。新しい家族としてあの子を扱うのが辛いのだとしたら、あの子の友達に。……そういうものには、なってもらえないだろうか」
「とも、だち……」
ラテは家族だったけれど、同時に、友達でもあった。……友達だと、思っていた。
だから、どっちにしたって。この先あのロップモンという子と仲良くなって--ラテと同じように、お別れの時が来てしまったら。
考えただけで、胸の奥が痛くなるのだけれど。
でも、ロップモンは
今、心が痛くて痛くて、たまらないのだろう。
ラテの事は、僕の中でぽっかりと空いた穴のようになってしまっているけれど
それでも、僕には学校の友達や好きなゲームがあって、今は喧嘩しているけれど、お父さんとお母さんだって、本当に仲が悪い訳じゃ無い。
だけどロップモンには、他には誰も居ないのだ。
悩んで。
悩んで、悩んで、悩んで、悩んで。
ここまで来ても戸惑って、躊躇して、俯いて、泣きそうになって――絞り出すような、声になってしまったけれど。
うん、と。
僕は、小さな返事をおじいさんへとしてみせた。
「ロップモンと接してみた上で、どうしてもその事が君を傷付けるというのならば。その時は、きっと私達がなんとかしてあげよう」
おじいさんは腰をかがめて、僕と目を合わせた。
「君は、こんなにも勇気ある決断をしてくれたんだ。必ず、約束は守るとも」
「……うん」
おじいさんは、また優しく微笑んで。
だから僕も、これ以上は泣かない事にした。
それから、僕はおじいさんに、スマホにロップモンを世話するためのアプリをインストールしてもらった。
スマホで全てお世話ができる、というのはよく解らなかったけれど、お父さんとお母さんのスマホにも同じものが入れてあるらしくて、少なくともロップモンは朝ごはんをもらっていた筈だから――実際に、そういう事が出来るのだろう。
それから、僕は家に帰った。
ガレージには車が、勝手口の靴箱には靴が無くて、多分、2人は買い物にでも出かけたのだと思う。
「……」
僕はラテの骨を埋めた、ラテの犬小屋の隣に手を合わせて、心の中でごめんなさいを言ってから家の中に入った。
真っ先に向かったのは、玄関。
目を向けたのは、靴箱の上。
ロップモンは流石に泣き止んでいたけれど、リビング側に背を向けるようにして、水槽の端でうずくまっていた。
こうやって、ようやくじっと眺めた水槽は、小さな公園を水の中に再現したかのようだった。
ブランコの置物。ビニールボールみたいなビー玉。巣箱は色とりどりの布で作ったテントに似せられていて、敷かれている砂も、これだと公園の砂みたいに見えてくる。
ロップモン1匹だけが暮らすものにしては、水槽も中の飾りも少しだけ大きくて。
……きっと、本当なら。ここは、ロップモンともう1匹のおうちだったのだろう。
「……ただいま」
ブランコの向こうで身体を丸めていたロップモンが、僕が声をかけるなりびくりと肩を震わせ、おそるおそる、振り返った。
丸い瞳は、相変わらず。水の揺れで歪む以上に、潤んでいる。
「えっと……。……昨日から、ごめん。ずっと、ちゃんと、看てあげなくて」
それがロップモンに伝わるかはわからなかったけれど、僕はそう言って頭を下げた。
「お前だって、寂しかったのに」
なんとなく、ロップモンが僕を見つめているのがわかった。
顔を上げると、その子の瞳は不安に揺れていたけれど、やっぱり、しっかりと僕に向けられていて。
言いたい事が。
言うべき事が、たくさんあるような気がしたけれど。
濡れた黒い瞳を見ていると、何故だか、何も言えばくなってしまって。
僕はポケットからスマホを取り出して、早速お店のおじいさんに入れてもらったアプリを開いた。
選ぶのは、おやつの項目。
タッチすると、途端、水槽の中にぽん、と黒くて少しだけ光沢のある、小さな長方形の物体が飛び出した。
店長さんによれば、これはようかんで、ロップモンの好物らしい。
ようかんが好きだなんて、へんなの、と思ったけれど、ラテもぜんざいを作っている最中の味付けしていない小豆のおこぼれを貰うと喜んでいたし、案外そういうものなのかもしれない。
ロップモンは小さな手でちょこんとようかんを挟んで、それと僕を交互に眺めている。
好物だ、とは言っても、いきなり、昨日から構いもしなかった僕にそんなものを渡されて、困惑するなという方が無理な話だろう。
「……隠して食べろよ? おやつをあげただなんて、母さんたちには、内緒だからな」
外で車の音が聞こえた。2人が買い物から帰って来たのかもしれない。
僕は、深く、深く息を吸い込んだ。
言葉は、やっぱり浮かんでこないのだけれど。
だけどこれだけは、店長さんと約束したのだから、言わなければいけない事だった。
頭の中で、ラテの顔がちらついて、泣きそうになってしまったのだけれど――吸った息を全部吐き出すようにして、早口で。
「僕、お前と友達になるから!」
それだけを、伝えて。
僕は半ば逃げるようにして、ロップモンに背を向けて、そのまま自室に続く階段を駆け上がった。
やっぱり、まだ父さんと母さんに、ロップモンと一緒にいる姿は見られたくなくて。
どうしても、ラテを裏切ってしまったような気持ちになって。
部屋に入ると、もう堪えられなくなって、僕はベッドに飛び込むと、また枕に顔を押し付けて泣いた。胸が、潰れてしまいそうだ。
帰ってるの? と、家に入って来た母さんが僕を呼んだけれど、とても返事なんてできなかった。
だけど、不思議と。ふと心の中が、少しだけ楽になっている部分もあって。
だって、最初から。あのロップモンというデジモンが、嫌いだったわけじゃない。
あの子にまでつらく当たって、このままずうっとやっていくのは、それは、やっぱり、嫌だったから。
明日から、ちょっとずつでも。
きっと「ようやく機嫌が直った」と、母さんたちにはからかわれるだろうけれど。それは、すごく嫌なのだけれど。
でも――がんばって、僕は、あの子と友達になるのだ。
友達に、成りたくないわけじゃ、ないんだから。
「……う、うううう……っ」
だから、今日だけは、まだ、許してほしくて。
僕はそのまま、お昼ごはんも晩ごはんも食べないで、部屋の中で泣き続けた。
まるで、ラテにまた、さよならとごめんなさいを言うみたいに。
*
だけど、流石に泣き疲れたのか。
夜の早い内に、僕は眠ってしまったらしい。
ふと気が付いた時には、時計は夜中の2時を指していて。
外は真っ暗。
多分、父さんも母さんも、泣いてたロップモンを放っておくことにしたみたいに、僕のことも、そうしたのだろう。
流石にトイレに行きたくなったのと、喉が渇いていて、僕は物音を立てないように気を付けながら、1階へと降りた。
リビングにはラップをかけたごはんが置いてあったけれど、それに手をつける気にはなれなくって、トイレを済ませた後は水だけ飲んで--それから、部屋に帰る前に、僕はロップモンの水槽を確認した。
「……?」
ロップモンの姿は見当たらなかった。
まあ、それもそうだろう。あの子はきっと、テント風の小屋の中だ。こうも暗いと、見えないのも仕方ない。
そもそも真夜中なのだ。気になったからって、起こしてしまうのはよくないと、慌てて、だけどやっぱりなるべく静かに、僕は階段を上って自室へと戻る。
部屋の扉は、開いていた。
「?」
閉めたような気がしたのだけれど。
でも、そういう事もあるか、と。扉の向こうへと、足を踏み入れようとして。
「ヒッ」
思わず、鋭く息を呑んだ。
だって、仕方がないじゃないか。
ベッドの傍。
頭が天井に着きそうな程、大きくて、形だけは人に近い、毛むくじゃらの化け物が、佇んでいたのだから。
口を塞いでも、もう遅かった。
背中を向けていた化け物は、僕の声に反応してゆっくりと振り返る。
僕の頭くらいなら丸呑みにしてしまえそうな、大きな口。
僕の身体なんて簡単に引き裂いてしまえそうな黒くて鋭い爪。
父さんよりもずっと力の強そうな大きな身体。
「あっ、あ……」
何もかもが、恐ろしくて。
助けを、呼びたかったのに。声すら出なくって。
その場にへたり込んでしまって、動けなくなって。
一歩、また一歩。
歩み寄るその化け物に、何もできないでいる僕に、そいつは、大きな手を伸ばして――
「……え?」
その手が不自然に、何かをつまむような格好になっていると気付いた僕の、夜の暗さに慣れた目は、唐突にはっきりと、化け物の指先に挟まれた『それ』に気が付いた。
途端、金縛りが解けるみたいに、身体が自由に動くようになって。
差し出されたのだと。そう感じた『それ』を、僕は化け物――いや、『その子』から、両手を出して、受け取った。
『それ』は、ようかんだった。
片側だけ、断面がちょっと歪になっていて、きっと2つに割ったのだろう。
半分こに、したのだろう。
実際、その子の反対側の手には、僕に渡した物の片割れがちょこんと乗せられていて。
その子は、自分のようかんを口に運びかけて
しかし僕がその片割れを口にしないのを見ると、小さく首を傾げた。
まるで、僕にも同じように、一緒に、それを食べる事を望んでいるかのように。
「……」
おそるおそる、ようかんをかじる。
当たり前のように、甘かった。
ぼくがようかんを食べ始めたのを確認するなり、きゃっきゃと声を上げて笑うと、その子は自分の分を、ぱくりと一口。
口に放り込んで、にんまりと口角を上げた。
好物、というのは、本当だったのだろう。
「……なあ、お前」
僕の呼びかけに、その子は再び、僕を見た。
「ロップモン……なのか?」
その子は、また声を上げて笑った。
見た目にそぐわない、小さな子供のような声。
一種、子犬の鳴き声のようにも聞こえて。
「ト、モダ、チ」
しばらくするとその中に、意味の分かる言葉が混じり始めた。
「トモ、ダチ。トモダ、チ!」
僕が、きっとこの子に、かけた言葉。
そんな言葉と共に、その子はぼくにずい、と頭を寄せてくる。
まるで促すように首を振るので、僕はその子の首に手を伸ばした。
犬は、額を撫でられるより、首筋をさすってやるほうが喜ぶんだそうで、少なくとも、ラテはそうだったから――その子にも、そういう風に、してあげた。
こんなに怖い外見をしているのに、この子の身体を覆う茶色い毛は、ふわふわと柔らかくて、あたたかくて。
ラテと、同じ、生き物の感触。
「……ラテ……」
あんなに泣き続けた筈なのに、また、僕の目尻から涙がこぼれ始めた。
今度は、この子が瞳に困惑を浮かべる番だった。
僕は、この子に何か、声をかけてあげなくちゃって、そう思っていたのだけれど
だけどやっぱり、言葉は、出て来なくって
「ラテ、ラテ……! 会いたいよう……!!」
出てくるのは、あの子の名前ばっかりになって。
もしも会えたって、どうなる訳でも無いのに。
でも、謝りたかった。
本当は、嫌わないで、許してほしかった。
嫌いになんかなってないって、僕の事が大好きだって、幸せだったって。また僕の前で嬉しそうに尻尾を振って、撫でてほしいと催促してほしかった。
「トモ、ダ、チ?」
その子が、膝を付いて、もっと姿勢を低くする。
「オニイチャン……?」
そうしてロップモンは、自分が無くしたものを、口にする。
はっとして、顔を上げた。
ロップモンの瞳もまた、大きく揺らいで、潤んでいた。
「……」
たまらなくなって、僕はぎゅっと、ロップモンの首になかば飛びつくような格好で、この子を抱きしめた。
「寂しいよな」
「サ、ビシ」
「わかる。寂しいよ。寂しいよな」
「サビ、シイ。サビシイ……」
「寂しかったよ……!」
僕の吐き出した言葉と
ロップモンの感情が、重なったらしい。
今度は、僕達は一緒になって、わんわんと声を上げて泣いた。
同じように泣き続けた。
……なんだか不思議だった。
1人で泣いていた時と違って、涙が少しだけ、あたたかい。
それはロップモンも同じだったのかもしれない。ロップモンは僕を抱き返していて、ちょっと痛いくらいだったけれど、その痛さと同じくらい、この子の痛みも伝わってきていたから。
ああ――きっと、お店のおじいさんが望んでいたのは、こういうことだったのだろう。
「寂しい」は、誰かと一緒に共有して、そしたらようやく、薄れていくものなのだ。
父さんと母さんが「新しいペット」を欲しがった気持ちも、今なら少しだけわかる。
あの2人が「寂しい」を分け合う方法は、そういう形だったのだと。
そして、今は僕とロップモンが、こうやって2つの「寂しい」を、半分こにしているところだった。
僕にとって、ラテの代わりじゃなくて
この子にとっての、お兄さんの代わりじゃなくて
僕達は、そうやって、友達になるのだ。
「……それじゃ、僕はお前の事、「あんこ」って呼ぶ事にするよ」
どれくらい泣き続けたかはわからないけれど、外が、うっすらと明るくなり始めている事は確かだった。
ようやく涙も尽きたのだろう。気が付けば、僕は微笑みながら、ロップモンを見上げていた。
「アンコ?」
「うん。お前の名前。ようかんが好きだし、毛の色もそれっぽいから、あんこ」
「アンコ、アンコ!」
ロップモン――あんこがころころと笑う。僕はまた、この子の首筋を撫でた。
「明日……いや、もう今日かな。ううん、どっちでもいいや。また朝になったら、一緒に……今度は、遊ぼう。楽しい事を、一緒にしよう」
「アソボ、アソボ!」
「うん、遊ぼう」
だから、一旦はおやすみ、と。
僕はあんこにわかれを告げて、あんこもそれに頷くと、大きな手を振って、器用に扉を潜り抜けて、下へと降りて行った。
ベッドに戻って、瞼を閉じる。
目の周りはひりひりと痛かったけれど、なんだかひさしぶりに、ぐっすりと気持ちよく眠れそうだった。
目が覚めたら、あんこと一緒に何をしよう
あんこは、自由に水槽の外に出たり入ったりできるのだろうか?
外に出ているなら庭で遊ぼう。
中に入ったままなら、きっとアプリで何かできる筈だ。
そして――できることなら。僕の大切な家族だったあの子の話をして、あんこの大切な家族の話を聞いてあげよう。
次に、目が覚めたら
きっと、僕にも。『明日』が来ると
そう、信じていたのに。
*
僕を起こしたのは、甲高い母さんの悲鳴だった。
飛び起きて、そのまま1階まで駆け下りる。
昨日まで喧嘩してたからって、母さんに何かあったりしたらと思うと、居ても立っても居られなかったのだ。
それは父さんも同じで、僕達はほとんど同時に母さんのもとに駆け付けて
母さんは、あんこの水槽の前で硬直していた。
「どうしたの!?」
「モ、モカが……!」
声を震わせながら、母さんが水槽を指さした。
モカ? と僕は首を傾げたけれど、そういえば母さんは、ロップモンの事をそう呼んでいたような気がする。
だから、当然。母さんが指さした先似たのは、僕があんこと呼ぶことにしたロップモンだった。
今日の夜見た時と、同じ姿をしたあんこが、悲鳴を上げた母さんを心配そうに見つめていた。
「……いや、ロップモンだよ。昨日と姿は変わっちゃってるけど、この子は――」
「こんなの聞いてない!!」
母さんは、金切り声を上げた。
困惑する僕の傍らで、父さんまでうんうんと頷いて見せて。
「成長すると姿が変わるとは聞いてたけど、こんな気色悪いヤツになるなんてあんまりだ、ひど過ぎる」
「……は?」
「あんな同情を引くような文句で、よくも、こんな……!」
僕は
2人が何を言っているのかわからなかった
かろうじて聞き取れたのは、「返品しよう」という言葉くらいで
「ごめんね、あなたの言う通り、もっとちゃんと考えて飼うべきだったね」
だけど、そうやって、僕を「言い訳」にされたところで、また僕の中で何かがぶちんと音を立てて切れた気がした。
「いい加減にしろよ! 姿が変わったって、この子はロップモンだろ!?」
大声を張り上げる。
2人がぎょっと目を剥いた。
「飼うなら責任持てよ! なんでそんなひどい事平気で言えるんだよ!? 僕は嫌だ! もうこいつとは友達になったんだ、これから、一緒に――」
「なんなんだお前は!!」
父さんが僕以上の大声を被せて、僕の声を掻き消してしまう。
「飼いたくないって散々ごねてたくせに、今度はなんなんだ! ええっ!? いい加減にしろ、そんなに父さん達を困らせたいのか!?」
「違う! 父さん達が間違ってるから、僕は本当の事言ってるだけだ!!」
なけなしの声を振り絞ると、父さんが手を振り上げる。
肩がびくりとはねた。
でもわかってる、これはフリだ。僕がどうしても言う事を聞かない時の、最後の手段。
本当に殴られる事なんてない。こわがらせるだけだ。
でも、怖くても、あんこは、僕が守らなくちゃ
「返すのなんか、絶対に、反対――」
鈍い音がして、視界が揺れて
鐘の音がなるみたいに、ごおん、と。頭の中で、痛いのが広がっていって
「あなた!」と、今度は母さんが声を上げていたけれど。
僕の口は、塞がってしまった。
滲んだ景色の中で、父さんは流石にばつが悪そうな顔を一瞬、僕に向けたけれど
すぐにその目を水槽の方に向けて、あんこをキッと睨み付けた。
「あんなヤツ、飼うんじゃ無かった」
*
返品するにしても、取りに来させようと。
その場で呆然と尻もちをついた僕から、父さんも母さんも、そそくさと逃げるようにして、外へ出て行ってしまった。
車の音がした。
きっと、2人してあのペット屋さんに向かったのだろう。
自転車よりも、ずっと早くに着く筈だ。
そうしたら--おじいさんが水槽を受け取りにこっちに来るまで、どのくらい、時間がかかるのだろう?
きっと、あの優しいおじいさんのことだ。
生き物を平気で気持ち悪いと言うような人や、カッとなって手を挙げるような人のいるところに、この子を置いておいたりなんかしないだろう。
だから、おじいさんが来るまでが、ぼくとあんこの一緒にいられる時間。
僕は、声を上げて泣いた。
頭はまだずきずきと痛んだけれど、こんなの、どうだっていい。
もっともっと、痛いところがあった。
胸に近いけれど、胸じゃ無い。
「ト、モ、ダ、チ」
歯を食いしばりながら、その隙間から発したような声で僕を呼びながら、あんこがまた、水槽を出て、僕の前に現れた。
「ゴ、メン」
怖かったのだろう。
あの揺れた視界の端に、今にも飛び掛かりそうな程すごみのあるあんこが見えたのだけれど、同時にこの子は、震えていた。
怪我をしていたところを保護したと、おじいさんは、言っていたっけか。
きっと、自分達よりずっと大きな生き物に襲われたのだ。
こんなに大きな生き物になったのに、それがずっと、忘れられなくて。父さんを見て、思い出してしまったのだろう。
「いいよ、いいよ。お前のせいじゃないよ……」
泣きながら、またあんこを抱きしめた。
あたたかくて、ふわふわの毛。
また、僕の前から、いなくなってしまう。
「ごめん、ごめんな。僕が、僕がもっと、強かったら」
「イ、イヨ。イイ、ヨ。セイ、ジャナ、イ」
僕の言葉を真似るあんこが、より一層愛おしくて、僕は腕にぎゅっと力をこめる。
こんなことしたって、きっとあんこは、僕から取り上げられてしまうのに。
「嫌だ」
僕の、友達なのに。
「嫌だ、嫌だ」
せっかく、友達になったのに。
「あんこまで、僕の前からいなくならないで……!」
応えるように、あんこも僕を抱き返してきた。
鼻を啜る音が聞こえた気がする。それが僕のものだったのか、あんこが発したものだったのかは、わからないのだけれど。
……と、その時だった。
僕の足が、床から離れたのは。
「え?」
見ればあんこは僕を抱きかかえて、持ち上げていて。
あんこの瞳を、見つめて返す。
潤んだ眼差しは、やはり僕へと、注がれていた。
「トモダチ」
縋りつく様な、子供の声だった。
「イッショ。イッショ?」
僕は、あんこのふわふわの毛を、ぎゅっと掴み直した。
「一緒に、いたいな」
ふわふわの毛は、だけど濡れて、湿っていた。
あんこは爪が当たらないように気を付けながら、僕の顔を胸に押し当てるようにして抱え直す。
僕の頬を、あんこのあたたかい毛が撫でた。
それから、僕は。
ぽちゃん、と。水面で何かが跳ねるような音を聞いた。
*
「……え?」
あんこが手を離したのに気付いて顔を上げると、僕は、家の中にはいなかった。
大きなぶらんこに、人が座れるくらい大きなビー玉。
ひろーい砂場に、真ん中には色とりどりの布で作ったりっぱなテント!
「すごい! 見て見てあんこ、ぼく、こんなひみつきちがほしかったんだ!」
あれ?
ぼくって「こんなの」だったかな。
それに、さっきまですっごくかなしかった気がするのに。
それから--あんこって、ここまで大きかったっけ?
うーん、と首をひねっていると、その時、わんわん!
良くひびく犬のほえる声。
ふりかえると、茶色くてふわふわの毛をした、ぼくのだいすきなトモダチが、こっちに駆けてくるのが見えた。
「ラテ!」
ぼくも急いで、ラテの方へと走っていった。
「ラテ! どうしたの? 勝手に出て来ちゃ、ダメじゃないの?」
いやな人にほえる時と違って、きゃんきゃんと甲高い声で。ぴょんぴょん跳ねたあと、ラテは僕にぐいぐいとはなを押し付けてきた。
ぼくはラテの首筋から肩にかけてをなでてあげた。
犬って、こうしてあげると、頭をなでるよりもよろこぶんだって。
「あはは、ラテ! もう、勝手にどこかに行っちゃダメだよ?」
わん! と、ラテがまるでへんじするみたいにひときわ大きくほえてみせた。
そうさ。ラテはホントはおりこうさんなんだ。
……だからラテは、そんな、勝手にどこかに行ったりなんか、しないのに。
どうしてぼくは、こんな事を言ったんだろう。
それに――ぼくは、もっと他に、ラテに言わなきゃって思ってた事が――
「……まあいっか」
大事なコトなら、きっとそのうち思い出すはずだ。
今はそれより、ラテがこんなに幸せそうなんだもの。ラテとぼくは、これからもずっといっしょ。それより大事なコトなんて、そうそうあるワケもないのだから。
……あ、ちがった。
もういっこ、おなじくらい大事な子がいるんだ。
「おーい、あんこ!」
ぼくはぼくとラテがいっしょにいるのを、じっと見守っていたあんこに向けて、大きく手を振った。
「そんなところにいないで、いっしょにあそぼうよ!」
あんこは、ちょっとだけおどろいたみたいな顔をして、すぐににんまりと大きな口を半月みたいな形にして笑った。
きっと、大きいからだでラテをこわがらせちゃわないか、不安だったんだね。
だって、あんこはやさしい子だから。
でもラテも、はじめて会ったのに、あんこがこわくないみたいだ。
かしこいラテは、あんこがやさしいのもお見通しにちがいない。
「かけっこ? かくれんぼ? ぶらんこがいいかな? ……あっ、そうだ! 砂場でお城をつくろうよ! あんこは大きいから、きっとすごいのがつくれるよ!!」
あんこが、こっちに駆けてくる。
まだ何も始まっていないのに、ぼくの胸の中はあたたかいものでいっぱいで、これからもずーっと、こんな日がつづくのだと、ぼく達はわくわく、にこにこ。
みんなでいっしょに、砂場の方に、歩いていった。
*
「……はい。申し訳ありません。お手数をおかけします、おばあ様」
もう何度目かもわからない謝罪の言葉と共に、男はスマートフォン型の端末の通話を切った。
気にするな、と、彼の言うところの「おばあ様」は言っていたが、今回の件に関しては完全に自分の不手際だと、考えれば考える程、男の気は重くなるばかりで。
だがどうしても、こと『情報』の操作に関しては、祖母と、そして弟の手を借りねばならず、男は2人に事態を伝えない訳にはいかなかったのだ。
「あれー、おきゃくさんだ!」
男とは対照的に、底抜けに明るい子供の声がひとつ。
……つい昨日、男が出会った少年を、更に幼くしたような子供が、丸い瞳で男の事を見上げていた。
少年の隣にいる犬が、男を見るなり唸り声を織り交ぜて大きく吠えたてる。
「あっ、ラテ! めっだよ! おきゃくさんに、ほえたらめっ!」
「構わないよ。……私達は、君の友達に会いに来たんだ。少しだけ、いいかな?」
「おじいさん、あんこのおともだち?」
「ふふっ、それがあの子の名前なんだね」
彼が名前を得た、という事実に。
その事については、ふっと優しい笑みを浮かべて。
しかしすぐに表情を引き締めると、少年に会釈をしてから、男は砂場で城を作っていた、茶色い獣人のデジモンの方へと、歩み寄った。
「ウェンディモン」
男の姿を見止めて、ウェンディモンは彼へと向き直る。
その丸い瞳には、幽かに怯えが入り混じっていた。
だが、男は獣人のデジモン――ウェンディモンを咎める気は無いのだと、小さく首を横に振る。
「……すまなかったね。私達は、君の苦しみを完全には理解してあげられなかった」
ウェンディモンというデジモンは、ロップモンの心の負の部分が限界を迎えた際に、暗黒進化と呼ばれる形で至る姿だ。
男が、ロップモンの孤独を慮って、彼をある家族に売り渡した時には――もう。ほとんど手遅れだったのである。
兄を目の前で亡くした彼の孤独は、既にロップモンを蝕み切っていたのだ。
ただ、暗黒進化を迎える寸前に、彼は『トモダチ』を得て。
その結果が、これだった。
本来破壊の限りを尽くす筈のウェンディモンが、こうやって理性的な振舞いを保てているのは、その『トモダチ』の存在が大きいのだが、この現状を「間に合った」と口にする事は、男には、とても出来なくて。
「成熟期でありながら、私達にも匹敵する能力を行使できるデジモン。と、話には聞いていけれど。……見事なものだよ。まさか、私達の空間さえ、利用してしまうだなんて」
少年と、ラテと呼ばれた犬が追いかけっこをしている。
片や若返り、片や蘇った存在は、おそらく男とウェンディモンの話が終わるまで、ああやって楽しそうに走り回っている事だろう。
「今回の事は、私達の落ち度だ。だから、君から。君の幸せを奪うような真似は、しないとも」
「……」
「もちろん、君がルールを守る限りは、と、そう条件付けは、しなければならないのだけれどね」
静かに男を見下ろすウェンディモンに向けて、彼はぴん、と人差し指を立てた。
「けして、アクアリウムを割ってはいけないよ」
自分の店で、アクアリウムを求める客に、いつも言い聞かせているように。
「デジタルワールドが溢れてしまうからね」
次の瞬間、ウェンディモンの身体が光に包まれた。
ずんぐりとしていたフォルムは、一気にスマートになり、頭からは長い耳がぴょこんと生える。
アンティラモン。
それは、ウェンディモンの進化した姿であり――故に、進化前の力は、失われる。
進化前の力。
即ち、時間と空間を、自由に行き来する力が。
「……そうかい」
自力ではこの空間から出られなくなったアンティラモンに、餞別のように微笑みかけて、男は兎の聖獣に背を向けた。
「おかえりー、あんこ! ……わあ、どうしたの? あんこ、うさぎさんになっちゃった」
嫌だった? と問うアンティラモンに、そんなことないよ、かっこいいよ、と。きゃっきゃと鈴を転がしたように笑う子供の声を後に、男は『外』へと浮上する。
見慣れたアクアリウムの店のバックヤード。
振り返れば、公園に似た内装の、円筒状のアクアリウムの中では、子供が1人、犬が1匹、それから兎が1羽。実に楽しそうに、駆け回っていて。
「……」
男は部屋を後にする。
見続けては、居られなかったのだ。
アンティラモンの幸せは寿ぐべき事ではあった。
だが、少年の笑顔を本来知る家族から、少年の記憶さえもが永遠に失われたという事実は--自分達が干渉して少年の存在を奪い去ったという真実は、男の胸に重くのしかかっていて。
それでも、男は今日も、店に出る。
そう望むデジモンのアクアリウムを人間の元に届ける事は、男が自分自身に課した、使命なのだから。
あとがきを見た上で読み直すとこれまた身を削るというか、己の内から出たものはまた凄まじいものを感じますね。
ラテに対しては両親も虐待することなく最後まで育ててはいた辺り、ペットに対して異常な扱いはしない「普通」の範疇の人間ではあったんでしょう。ただ子供含めて育てている相手をちゃんと見ていたかと言われればそれは否と言わざるを得ない訳で。兄が縁日の金魚を一時期飼っていただけの身としてはペットロス含めてペット絡みのことは理解できるとは言えませんが、認知症を含むラテの顛末を思うと人間も例外ではなく、自分らしく人間らしくなくなってまで生きたいか生きさせたいかと考えるとなかなか難しいものがあります。
結局モカと向き合っていたのは一番反対していた筈の少年で、両親は結果的に身勝手な行動に出た形になり、文字通り在り方は別たれることに。これが幸せかどうかを安易に判断することはできません。
まとまりのない形になりましたが、これにて感想とさせていただきます。
あとがき
もう少しで、一年になるでしょうか。
どうするのが正しかったのかも、言葉を話さない生き物の幸せも、結局は人間側の妄想、都合の押し付けに過ぎないのですけれど。
じゃあ、自分はどうなって欲しかったのかを考えたら、今回のお話になりました。
はい、というわけで皆さまこんにちは。ワクワクしながら見ている作品に犬猫が酷い目に遭うシーンが出てくると、途端にもにょってしまうタイプの快晴です。ひどい目に遭うのは人間とデジモンだけで良くないッスか。
さて、今回で『デジモンアクアリウム』も5話となりました。終わらせるなら8~10話くらいがいいんじゃないかな~とぼんやりと思っているので、一応この辺が折り返し地点(仮)となるでしょうか。
前回に引き続き、また世界観がちょこっとだけ明かされる展開になったように思います。水槽の中では、文字化けはしないんですよ。あれはあくまで、人間の世界には存在しない単語というだけなので。
店長さんの正体や目的については、この後の展開をお待ちください。……そろそろ察せちゃう方は察せちゃう材料が出そろってきたかもですが。
しかしそれにしても、この『デジモンアクアリウム』の5話は公式との被りに悩まされたといいますか。
いうてギスギスした空気感の中ウェンディモンが出るぜ! と、まあ言ってしまえばそれだけなのですが、一応こうやって某ゲームのネタバレ解禁まで、投稿を見送った次第です。
まあ、そのお蔭でデジモン創作サロンのお彼岸企画に思いっきり打ち込めたため、そこは結果オーライなんですけどね。
ですけど直前でゴスゲにアンティラモンが出るとは思わないじゃん! どぼちて。
と、まあ、しんみりしたり愚痴ったりと、あとがきの情緒までおかしくなってしまった気がしますが、多分『デジモンアクアリウム』内でもこの話が一番鬱展開だと思うので、次回はその、大丈夫だと思います。
多分。
こちらも構想は決まっているので、もう片方の連載作品の2部投稿後にはなると思いますが、できれば年内の投稿を目指して頑張ろうと思います。
改めまして、この度も『デジモンアクアリウム』を読んでいただき、本当にありがとうございました。
次回もお会い出来れば、作者としては、幸いです。
以下、感想返信
夏P(ナッピー)様
この度も感想をありがとうございます!
そうなのです。奇数回と偶数回で微妙に変わっていたのでした。
自分も書いていてこころが痛かったですね(真顔)。
今でこそ作品を書ききるだけの気合いも多少は身についてはいますが、エタらせたお話は数知れず……神の視点を持つものは、勝手気ままなものです。せめて本作含め今連載している分はがんばらねばと思うばかりですね……。
エグザモン、メタ的な事を言うと友人にリクエストされたからなのですが、性能的にも進化ルート的にもロイヤルナイツでは上位の存在なイメージがあるので、今回こういう形に持って来られて良かったかなという気もします。
おめめに関する感想は、エグザモンの画像を色々確認して「あっ、緑色なんだ。綺麗だなぁ」と自分自身で抱いたものそのままだったりします。大きいデジモンは細かい部分の資料が潰れがちでちょっぴり大変。
おじい様というのは、おじい様ですね。おじい様がいるのでおばあ様もいます。
ちなみにデジモンアニメは「とりあえず現行を追ったら?」派です。過去作から勧めるなら、相手の好みにもよりますが、やはり無印と言いたくなっちゃいますけれどね。
早めにお届けできたかは微妙なところですが、そんなこんなでアクアリウム5話まで来ました。
改めて、感想をありがとうございました! 次回もガンバリマス。