Episode4≪≪
田舎ではとても手に入らないような限定グッズ。
学生ではとても手が届かない値段の環境カード。
当たり前のように差し出され、施されるそれらを見て。私はようやく、この世界に自分の居場所が無い事を知った。
……いいや、本当は。始める前から判っていた。
判っていたから、解って欲しくて、始めた事だった。
もはや恋と言っても過言では無い程惚れ込んだ、1枚のカードをみんなに愛して欲しかっただけなのに。
なのにふと気が付けば、私がみんなの『お姫様』で。
ああ、一体。いつ、私が。
そんなモノになりたいと願ったよ?
*
「デジモン、アクアリウム共に異常なし。……はい。返却を受け付けたよ」
「いつもありがとう、店長さん」
じゃあ。と今しがた返したアクアリウムへと手の平を向けるが、中のデジモン――ゴリモンというらしい――は、もはや私に微塵も興味が無いようだ。穴の空いた樽を模したオブジェを寝床に、銃になった右手を枕にして、鼻提灯代わりの泡を水面に向けて幾つもぷかぷかと浮かべている。
水と硝子に隔たれてさえいなければ、ぐーぐーいびきも聞こえている事だろう。
「もしかして、ずっとこんな感じだったのかい?」
「まあ、はい。餌の時くらいだったかな、反応してくれるの。……でも、ゴリラは基本的には温和な性格らしいですしね。デジモンだとしてもそういう面をじっくり観察できたのは良かったです」
「それなら良かった。君が不快な思いをしなかったのなら、短い間だったとしても、君と暮らした経験はこの子にとって有意義な時間となった筈だから」
正直眉唾ではあるが、まあ、ただでさえ不思議な生き物を取り扱っている、年季の入った店長さんがそう言う以上、実際に、そうなのだろう。
それに、何事もマイナスよりはプラスに働く方が良いに決まっている。少なくとも、私がここ数日ゴリモンと暮らしていて嫌な思いをしなかったのは本当だ。ゴリモンにとっても良い時間であったのなら、それに越した事は無い。
返してもらった手数料とレンタル料を引いたアクアリウムの代金を財布に仕舞いながら、私はもう一度だけゴリモンの方を見た。
成熟した雄ゴリラは背中に銀色の毛が生え、シルバーバックと呼ばれるらしいが、ゴリモンは全ての毛が真っ白だ。
腕が銃器になっているという異様さを除いても、現実ではまずおお目にかかれない純白の猿人。
彼がその毛並みをゆらゆらと揺らしながら水の中でくつろいでいる光景の美しさは、きっと私がいくら手持ちの言葉を並べ立てたとしても、表現し切ることは出来ないだろう。
「我々としては」
と、私の視線に気付いたのか。店長さんは小型の水槽の側面に軽く指を添える。
「今から買い取りに変更してくれても、一向に構わないのだけれど」
だが、私は首を横に振った。
このやり取りも、もはや恒例行事のようなもので。
「そうしたいのは山々なんですけれど、1匹飼いだしたら我慢できなくなりそうですし。多頭飼育崩壊? とか。そういうの、シャレになりませんしね」
アクアリウムとデジモンをレンタルした回数も、もはや両の手では足りない回数になってしまった。
それだけ、デジモンという生き物には。そしてこの店には、言い表せない程の魅力があって。
1匹選べ、だなんて。とても出来ない相談だ。
それに、これらのアクアリウムは私の生活への潤いであるのと同時に、唯一無二の『資料』でもある。
私の描く物語に『次』がある限り、その舞台には、相応しい役者を引っ張って来なければならない。
「じゃあいつか」
添えていた指をいつの間にか水槽の底に滑り込ませ、店長さんはアクアリウムを持ち上げる。
小型とはいえ水を張った水槽は重いだろうが(実際重かった)、彼はその動作に年齢からくる無理を感じさせたりはしなかった。
「もしも君が運命の子に巡り合えた、その暁には。どうか、遠慮なく言って欲しい」
店長さんの声色に、私がアクアリウムを購入しない客である事への非難は微塵も混じっていない。嫌味を言うような人では無いし、レンタルという方式は最初から合意の上だ。
だから、単純に。
運命、という言葉に。そしてただの1つだけを選ぶというの行為に。引っかかりを覚えているのは私の事情で、勝手でしか無い。
何かに一途な思いを寄せ続けるのには、いくらか前に、もう、疲れてしまったから。
「……まあ、その時は」
だというのに、きっかけとなった行為自体は形を変えて続けているのだから。本当に、どこまでも浅はかで、滑稽な話だ。
「その時で」
生返事をしながら、次の『資料』を求めて透明なアクアリウムの表面に自分の顔以外の影を探す。
モンスターの名を冠する通り、怪物然としたデジモンがいい。
人でなしの恋の相手には、やはり、人外こそが相応しい。
私は、いわゆる文字書きという人種だ。
誰に見せるという訳でもないのだけれど。昔取った杵柄と言う名のペンだけを、未だに、捨てられないでいる人間だった。
*
趣味への情熱は掻き消え、新しいモノに手を出す余裕や気力は芽生えず。高まるのはエンゲル係数ばかり、とほぼほぼ人の形をした虚無になりかけていた私は、しかしそれでも--そんなものになりかけていたからこそ、自分の空白を埋めてくれる存在を探していたのだと思う。
青い屋根が綺麗だと思ったのが、きっかけだった。
特別浮いているという訳ではないけれど、こんな町にしては鮮やかな屋根瓦は家と職場を行き来する度になんだか目について。
とはいえ普段のルートがたまたま舗装工事で通行禁止になっていなければ、私はその屋根の下にアクアリウムの店がある事を、今になってもきっと知る事は無かっただろう。
田舎町特有の閉塞感がそのまま迷路の壁になったような路地伝いに、その店は、ぽつんと佇んでいた。
見た事すら無い異国の文字を使っているせいかエキゾチックな印象のある看板や、色とりどりの光をぼんやりと透かす磨りガラスとは対照的に、ドアノブにぶら下がった『OPEN』の札はひどく簡素で、業務的で。
それらのちぐはぐ具合に、その時の私は妙に惹かれたのだった。
得体の知れない店だからと気後れして引き返さなかった自分の選択は、私の人生の中では珍しく正解であったのだろう。
モノクロ写真から歩み出てきたような老紳士の店主。幻想的なアクアリウムと、その中に住まう幻想そのものの生き物達。
夢にも描けないような世界が、こんな片田舎の一角に在っただなんて。とても信じられないのに光景は目の前にあって――私はすっかり、この店に魅せられてしまったのである。
最初に借りたのは、タンクモンというデジモンのアクアリウムだった。
とてもひとつのアクアリウムを選ぶなんてできないと思わず零してしまった私にレンタルという方式を提案してくれたのは、店長さんの方だった。
なんでもパピーウォーカー的な形で、デジモンを人に慣らすための一時預かりというのは、一応、需要があるのだそうで。
戦車を無理くり生き物に変貌させたような、デジモン自身のインパクトのある風貌にはもちろんの事、弓なりに曲がった流木をいくつか重ねて組まれた塹壕の滑らかな表面や、灰の砂利を掻き分けて水槽のあちこちに絡みつく青々とした水草の対比は見るも鮮やかで、最初のアクアリウムとして選ぶには申し分ないと、まあ、散々悩んだ末ではあるが、私はそのアクアリウムを家に持ち帰ったのだった。
机上に積んでいた本やゲームのパッケージを久方ぶりに有るべき棚へと戻して飾ったタンクモンのアクアリウムは、期待以上に私の家での時間を色鮮やかな物にしてくれた。
何せ、ありふれた日常の中に戦場の一幕のような光景が飾られていているのだ。
専用のアプリで食事を差し出せば、塹壕の中で身を屈めて鋭い牙を剥き出しにし、がつがつと頬張るタンクモンの横顔は、実際に見た事など当然無いけれど、私が想像出来得る限りの兵士の顔をしていて。
食事を見守る私にさえ向けられる鋭い眼光には、硝子越しとはいえすくみ上るような迫力があった。
しかし、さて。レンタルという形を取っている以上、この新たな同居人との生活の『区切り』を決めなければならないと。そう思った時にほぼほぼ無意識に選んでいた手段が、『筆を執る』という行為だった。
まあ、比喩ではある。筆とは言っても、実際はキーボードを延々叩き続ける作業なのだ。昔から、私の書く文字は酷く汚い。
だがそれはそれとして。長らく忌むべきモノと遠ざけるようにしていた執筆であったのに。……結局、私には文章しか無かったのだ。心の動く体験を、何らかの形で留めておくための技能は。
だから、嫌になって。投げ出した筈だったのに。
明日の自分を顧みず、夜通しパソコンと向き合った末に出来上がったのは、歯の浮くような恋の話だった。
戦車の怪物が、少女を救う話だ。銃の腕でも構わずに、1人の女の子を怪物が抱きしめる話だ。
私は話が書き上がった日の次の休みにタンクモンのアクアリウムをお店に返却して、それからは、同じ事の繰り返しである。
その時目についたアクアリウムを借りて、中のデジモンをモチーフにした恋物語を書く。出来上がったら時間のある日にアクアリウムを返して、また次のデジモンを借りる。
誰に見せるという訳でも無い。称賛も、感想も、もはや望みはしない。
誰も知らない秘密のルーチンワークは、私が自分を虚無では無いと信じ込むための縁でしかないのだから。
だから、今日も。
読みたい物では無く書いた物を積むために、私は次のアクアリウムを探していたに過ぎないのだけれど。
最近はマスターデュエルやれていませんが、ウィッチクラフトと召喚獣を組み合わせたデッキを組んだものの気づけばアナコンダからデスフェニ出してたのを憶えています。それはそれとしてシュミッタちゃんはいいぞ。
遅くなったうえで関係ない話から入りましたが、感想をば。
クソったれ冷蔵庫神に仕え続けて壊れた聖騎士と意図せずオタサーの姫扱いされて封印した女性。規模は違えど、最初は大事なものを愛でて幸せだったはずなのに、後のことからその頃の気持ちすら否定しようとしてしまう。……なんというか身につまされるものがあるというか。オタクたるもの好きなものに投じた過去は苦いものがあっても甘かったものは確かに残っているんだなと。……好きだった作品見返すかぁ。
それにしても店主に親し気な関西弁の「おっちゃん」はなんとも底知れない感じというか、その「おっちゃん」の存在のせいで店主の方の存在感もより上位存在的な方向で強くなるというか。……改めて、彼らはいったい何者なのか。エグザモンの夢の話にも絡んでいるとするなら……?
インターネットに放流された無名の個人の小説だとしても、確かにエグザモンの記憶はそこに刻まれる。「おっちゃん」がそれにブックマークするという締め方もきれいでした。
これにて感想とさせていただきます。次の話もチェックせねば
感想書こうと思っていた内容の7割ぐらいが既に後書きで言われている夏P(ナッピー)です。
奇数階と偶数回でそもそも方向性変わってたのかー、というか遂に店自体の正体というか中身にも触れてきたんですな。あと今までのお客さんが絡んだ内容がチラっとでも言及されたのが良い。
というわけでオタサーの姫回でしたが、これは色々な意味で痛い。心が痛いという意味でもあるが……そしてついでに言うと、DW側の描写も込みで作者は飽きたらまた新しい作品を始めればいいけど、物書きが描かなければその世界はそこで止まってしまうんだぜと突き付けられてるようだぜイグドラシル様。
主体としてエグザモンを選ばれたのは、ロイヤルナイツの聖騎士型ではあるけれどドラゴンで人と通じ合えるか否かってところがあったのだろうか。いや案外開いた瞳が緑で綺麗だからって可能性もありそう。
おじい様って何!? どう考えても猫口・狐目の胡散臭そうな着流しの兄ちゃん想像してたのにおじい様!? 家族沢山いるっぽいしこれもしかしてエグザモンの回想にあった柱って……デジモンアニメ何から見た方がいいかって言っただけなのに!?(炭治郎)
それでは早めの5話をお待ちしております(フラグ)。
あとがき
みんな! 暗黒方界邪神クリムゾン・ノヴァ・トリニティはいいぞ!
なんてったって名前が良い。暗黒方界邪神クリムゾン・ノヴァ・トリニティ。名前だけで21文字もある。かっこいい!
まあまず出せないんですけどね。暗黒方界邪神クリムゾン・ノヴァ・トリニティ。
と、いう訳で皆さんこんにちは。デジモンアクアリウムだけで言うとお久しぶり、になりますでしょうか。
とりあえず挨拶がてら、遊戯王の最新の推しカードを語る所から始めて見ました。マスターデュエルでは花札衛も使っています。雨四光はいいぞ! 快晴です。
さて、デジモンアクアリウムの投稿は1年3か月ぶりとなるそうです。ひいん……。
遅ればせながら、デジモンアクアリウムEpisode4をご覧いただき、誠にありがとうございます。
元オタサ―の姫と落ちぶれた聖騎士の物語でした。
今回は身内に「ヒラメっぽいからエグザモンで」とアクアリウムのデジモンをリクエストされたので、無理やりヒラメっぽいエグザモン描写をぶっこんだりしていましたが、いかがでしたでしょうか。
こういう、種族では無く個体として認識されているデジモンは少々使い辛いので苦労したのですが、「ダメならファイターモードの方のインペリアルドラモンでもいいよ」と言われたので、素直にエグザモンで書きました。
まあ裏話はさておき、新キャラの登場もあって、そろそろ店長さんの正体も明らかになってきた感じでしょうか。
ロイヤルナイツのデジモンを使う、という点には頭を悩まされましたが、この世界の成り立ちを明かす話自体はいつかするものと予定していたので、丁度良い機会だったかなとも思ったりします。
そう、この世界もまた、「大体イグドラシルのせい」案件の元に成り立っているのでした。
ではこのお店のアクアリウムは一体何なのか? につきましては、どうか続報をお待ちください。
さて、次回予告です。
4話まで来て察してくださった方もいらっしゃるかもしれませんが、このデジモンアクアリウムシリーズ、奇数回が「そこで終わる話」、偶数回が「前に進む話」になっています。現在のところ。
次回は奇数回なので、つまりそういう事です。
構想も決まっているので、サロン内企画用の短編がまとまり次第、また手を付けていこうと思います。年内には出せるといいですね(願望)。
それでは、今回もデジモンアクアリウムをお読みいただき、本当にありがとうございました!
次回も目を通していただけたら、作者としても、幸いです。
以下、感想返信
パラレル様
感想をありがとうございます!
この小説は、基本的に寒と暖が交互に来るようになっているのでした……。なので、無い事もあるのです。
そうですね。主人公がアイスちゃんに求める好意と、アイスちゃんが主人公に求める好意は食い違っていて、だからこそどこかで破綻するしか無かったのでしょう。お互いがお互いを好きなのは、本当だったんですけどね。
スプラッシュモン自体が「相手を信用できない」デジモンだと図鑑に書かれていたので、進化してしまった時点で、アイスちゃんは本当は、心のどこかで自分の存在価値を分かっていたのかもしれません。それでも進化まで導いてくれた彼女という存在は本物で、だからこその賭けでした。結果は、御覧の通りでしたけれどね……。
名状し難い何かの正体は、ひょっとすると次回くらいに、明かされるかもしれません。
それまで楽しんでもらえたら、作者としても嬉しいです。
では、改めて。感想ありがとうございました!
夏P(ナッピー)様
感想をありがとうございます! ダーク快晴です。
氷は噛み砕くもの。……やり過ぎると頭にキーンと来ちゃいますけどね。
インセキモンに……インセキモンにしたかったんですけれど……どうしてこうなっちゃったんでしょうね……真面目にやってきた筈なのに……。
それはそれとしてフロンティアのインセキモンは何かがおかしい。(NGワード:あのへんが全体的におかしい)
そうなんです、アイスちゃんは、ただ主人公の女性を信じたかっただけなんです。でも「信じたい」という感情を抱くという事は、もう信じていないのと同義なので。それゆえのスプラッシュモンなのでした。
種族としては嫌っている筈の虎形態になったのは、自分の行為を美しいとは思えなかったからこそなのかもしれませんね。
店員さんの正体については……いずれ、詳細は、そのうち。
改めまして、感想をありがとうございました!
また次回も読んでいただければ、幸いです。
*
「と! こんな風に。なかなかええ話やったで。これにて一件落着やな!」
がはは、と着物の男性が豪快に笑うのとは対照的に、黒装束の初老の男性――アクアリウムの店の店長は、ふう、と息を吐いていた。
ただし、その息には微量ではあるが、安堵の感情も混じっている。
己の役目を。そも、世界を。全てを失い自暴自棄になっていたエグザモンの事は、彼にしても、ずっと気がかりだったのだ。
「常連さんの彼女も、もうしばらく、エグザモンを預かりたいとの事でしたからね。……いえ、きっとエグザモンは、彼女の元に居続ける事になるでしょう。きっと、そういう運命だったんですよ」
「もう律儀にあのあほんだら冷蔵庫に押し付けられた仕事しやんなん事も無いんやし、それでええんとちゃう? ふふ、うちらってばええことしたな。アレやな。アレ。キューピーちゃんや。運命のキューピットちゃん」
「……時に」
自慢げにうんうんと頷く着物の男性に、今一度溜め息を吐いて、黒装束の男性は続ける。
口に出すのは気が重かったのだが、だからといってそれは、忠言を胸に留めておく理由にはならない。
「おじい様」
彼は、常連客にはどうにか誤魔化していた、着物の男性の肩書を口にした。
「ん? 何や」
見てくれだけで言えば、その呼称はむしろ、アクアリウムの店の店長に使われた方が違和感は少ないだろう。それでも、見た目の歳の開きに、ある程度無理を感じられるくらいなのだが。
しかし着物の男性に、その呼称を気に留める様子は無い。ごく自然に、疑問符を返す。
店長は、言葉を続けた。
「少々、人間への干渉が過ぎるのでは? 個人への権能の行使は、おばあ様があまり良い顔をなさらないかと」
「……そない言われてしもたら敵わんわぁ。でも、まあ、その辺ははっくんもどっこいどっこいちゃうの。うちらの中で一番リアルワールドに干渉してるの、はっくんやろ?」
「我々は、弟たちと取り決めてこの店をやっていますので。個人的な理由で権能を行使している訳では無いのですよ」
「ほんまかいな」
「……」
その沈黙が、飽きれから来るものなのか、思うところがある故かは、傍から窺い知る事は出来ない。
だが、どうにせよこの話題をこのままずるずると続ける必要も無いと判断したのだろう。「まあいいです」と、アクアリウムの店の店長は一度話を切り上げた。
「エグザモンの件が丸く収まったのは事実ですからね。ご協力、感謝しますよ、おじい様」
「はぁー、はっくんはまじめすぎるんやから。カタい事言わんでええねん。それこそ、うちらがやりたいからやっただけや」
ひらひらとおどけるように手を振って、着物の男性は『孫』に背を向けた。
「ほな、そろそろお暇しよかいな。あんまり長居すると、さくちゃんがやかましいさかい」
「弟にもよろしくお伝えください」
「ん。仕事が落ち着いたらあの子もこっち遊びに来ぃたい言うとったさかい、いつ来てもええようにお菓子とか買うといたりや」
「……連絡は入れるよう、伝えてもらえると助かります。出来れば、次回からは、おじい様も」
はいはいと、返事はひどく適当だった。
着物の男性は、ほなな、とオーバーに手を振りながら、店を後にする。
からんからん、と、名残惜しむように吊るされた鐘が揺れる中、ようやく1人になった店長は一息ついた後、ズボンのポケットからスマートフォン――に、似た端末を取り出した。
機能自体は、人間の世界に居る限りは、見た目通りにしか働かないものだ。
彼はスリープモードを解除して、そのままにしていたブラウザを開く。
それは、とある小説が載ったサイトだった。
無名の個人のオリジナル小説。特に目を引くタイトルでも、概要に突飛なあらすじが書いてある訳でも無い。故に閲覧数は、大して伸びていないようであった。
しかし、彼がこうやって目を通したように、同じようにこの小説を読んで、そこに描かれた情景に思いを馳せる人間は、確実に存在する。
そうやって。広い広いネットの海の中であっても。
誰かの、心の片隅に、その世界は小さな箱庭となってでも、生き続けていく事だろう。
彼は高評価を示す、画面最下部にあるハートのマークを親指で押した。
ピンクに色付いた『心』のマークに、優しい笑みを浮かべてから。彼は今日も、己の仕事へと戻って行くのだった。
*
帰宅後、いつものように、私は運んで来たエグザモンのアクアリウムを机の片隅に置いた。
装飾どころか砂利すら入っていない殺風景な水槽をアクアリウムと呼んでいいのかは甚だ疑問ではあるが、硝子に囲まれた水底で眠る、聖騎士と呼ばれた竜の幻想的な姿は、これまでのアクアリウム同様、それだけで場違いなくらいに、空間に華やかな彩りを添えていた。
ただ――やはりというか、エグザモンがここに着くまでに、目を覚ます事は無かった。
寝返りを打ったりだとか、そういう動きすら見せようとしない。呼吸に合わせてぽこぽこと湧いてくる泡だけが、この水槽の中にもたらされる変化だった。
「……」
いつもとは異なる形になってしまったが、借りた以上は、また、私は物語を書くつもりでいる。
「眠る竜、か」
竜が起きない事を知りつつ、傍に寄り添う少女の話?
あるいは目覚めないのは少女の方--永遠の眠りについた彼女のために、墓標となって少女と共に在り続ける竜の話?
アイデア自体は、そんな風に。
ありきたりな物ばかりではあるが、浮かんでは来る。が――なんというか、パズルのピースがまだ、嵌まらないと言うか。物語の核心、決定打となるような部分は、今のところ浮かんでは来ていない。
「まあ、気長に観察しながら考えようか」
ひとりごちって、一先ず目を覚まさないエグザモンの事は置いておいて、自分の身の回りの用を済ませる事にした。
家事やら明日の準備やらを片付けて、そして今日のところは、私も早めに寝るとしよう。
物語を思い付いたら、夜が更けようが気が済むまで書いてしまう。
それまでは、少しでも体を休めておくべきだと、流石にこれまでの経験で学んでいたので。
……最も。結局は自己満足なのだから、そもそも書く必要すらないのだけれど。
でも、それを言い始めたら――なので、余計な考えを振り払うようにして、まずは洗濯を取り込むために、ベランダへと向かうのだった。
竜が、私を見送るような事は無かった。
*
眼下に広がるのは、小さな島。
真っ青な海の上にぽつんと浮かんだ、中央に高い高い山がそびえ立つ、私の体躯より多少大きい程度の島。
こんなに小さいのに、鮮やかな緑に覆われたその島は、命の気配で溢れかえっていて、思わずこの腕を、翼をいっぱいに広げて、抱きしめたくなる程、愛おしかった。
私は仲間達と共に、この島を、そして同じようにこの海のどこかに浮かんでいる他の島も、島よりはいくらか大きな大陸も。ずっとずっと、命ある限り守り続けるのだと、そう心に誓いながら、島の上空を飛び去った。
私の身体は、大き過ぎる。
あまり長い間滞在したり、近づき過ぎたりして、島の住民たちを怯えさせるのは、不本意だった。
そうしかねない自分の存在に、一抹の寂しさを覚えない訳では無い。
けれど、それ以上に。
この身体なら、きっといかなる脅威からさえも、この世界を護る事が出来ると。
そんな、胸の内から沸き上がるような誇りが、己の翼を、支えていた。
私は、聖騎士だ。
『我が君』によって生み出された、最強と言っても過言では無い13の騎士の内の1体。
『我が君』に任じられた使命の元、この世界を護る、騎士なのだ。
*
「……変な夢見たな」
自分しかいないと解っているのに、思わず呟かずにはいられなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めながら、ううんと伸びをする。
目覚め自体は、悪くは無かった。むしろ良い。寝起きであるにもかかわらず、くっきりと頭に残っている壮大な物語は、私の気分を高揚させていた。
小説のネタをベッドの中で温めていたあまり、突拍子も無い夢を見たらしい。
何と言っても、夢の中の『私』は――
「……」
机の上を見やる。
エグザモンは、昨日から微動だにしていない。彼の飛ぶ姿は大層美しいだろうが、その翼がどんな風に動くのかについても、未だ想像力に任せる他無かった。
任せ過ぎて――エグザモンになった夢を、見たのだろう。
「おはよう」
声をかけてみる。が、当然反応は無い。
彼が最後に「おやすみ」を聞いてから、いったいどれだけの時間、眠っているのだろう?
「君は、世界を護る聖騎士だったの?」
問いかけた所で、やはり答えなど返る筈も無く。
ただ、こぽこぽと水面に上っていく空気の泡の数をしばしの間数えるだけ数えて――キリの良い数字を迎えたあたりで、私は水槽の傍から離れた。
名残惜しい気は無いでも無かったが、エグザモンだけに構っている訳にもいかない。仕事に行く支度をしなければならなかった。
さっきの夢のお蔭で、少しは小説の輪郭が見えてきたような気がする。というか、いっそ冒頭にそのままあの夢を使ってしまうのも手かもしれない。
書き始めさえすれば、自ずと筆が乗ってくる筈だ。
エグザモンが、あの緑鮮やかな島を、世界を愛したように、心を傾けた少女は、一体どんな人物にするべきか――今日のお題は、そんなところだろうか。
目標が定まると、なんだか活力も湧いて来た。
きっかけ自体は突拍子も無かったけれど、エグザモンのアクアリウムを借りてきたのは、正解だったのかもしれない。
良い小説が、書けるような気がした。
「……」
書いたところで、誰に見せる訳でも無いのに。
過った現実と昔の思い出を振り払うように頭を振って、洗面所へと足を向ける。
毎朝のルーティーンではあるのだけれど、今は兎に角、余計なモノは水で流してしまいたかった。
言い聞かせる。小説を書くのは、自分を納得させるためだから、と。
それはいつまでもしつこく追いかけてくる嫌な思い出から、逃げ道を作る作業にも似ていた。
*
「……え?」
次の日の朝、思わず頬に触れると、夢の中と同じように、何本もの涙の筋が、走っていた。
いくらか時間が経ったのか、乾いて、少しひりひりする。
しかしそんな不快感など非にもならないくらいに、夢の内容は衝撃的で――思い出しただけで、背筋が凍り付くような、嫌な震えが全身を駆けて行く。
また、夢を見た。
昨日とは打って変わって、それは悪夢だった。
『我が君』が突如、夢の中の私--エグザモンと、彼の同僚達に、告げたのだ。
この世界は、失敗した、と。
エグザモンを通して見た景色は、あんなに美しかったというのに、『我が君』にとって満足できるような内容では無かったらしい。
『我が君』は、エグザモンのようなデジモン達にとって、神様と言っても過言では無い存在だった。
神様らしく、理不尽だった。
『我が君』はこれ以上の発展が望めない、不完全な世界だと現在の世界をそう断じて、「やり直す」と言い始めたのだ。
世界を、創り直すと。そう、言い始めたのだ。
もちろん、エグザモンを始めとした13体の聖騎士達の半分近くが、『我が君』の意見に反対したのだけれど。
だけど、彼らは『我が君』から生み出された存在でもあるが故に、それが完全に「間違い」だと断じる事も、出来なかったのだ。
結局、聖騎士達は『我が君』の意思に全てを委ねる事に決め--
――エグザモンの愛した世界は、「無かった事」になった。
「……エグザモン?」
竜は今日も、目を覚ましそうにない。
それに、所詮これは、私の見ている夢だ。エグザモンを迎えたからこそ見始めた夢だとはいえ、彼と直接関係のある光景だとは、断言はできないのだ。
いや、断言も何も、着物の男性は「エグザモンの元居た場所を管理している」と言っていた。彼の帰る事が出来る場所が実際に存在する以上、そこが神様によって無かった事にされただのなんだの、そんな馬鹿げた話がある筈も無い。
……でも、もし。
そうやって、自分の愛していた世界が、自分の意図しない形で取り上げられたとしたら。
きっと、眠り続けたくもなるだろう。
夢の世界に、閉じこもっていたくなるだろう。
私が、小説を書くように。
「……」
いや、まあ、だから。
比べるような話じゃないし、全部私の妄想に過ぎないのだけれど。
でも、あんな光景を目にしてしまった以上、自分の中に浮かぶ文章が恋物語どころでは無くなってしまっているのは事実だった。
愛する世界を亡くした聖騎士に、いくら寄り添おうとする架空のヒロインをあてがったところで、その光景はチープで、虚しいだけだ。
読者に気を配る必要も無いのに。いや、必要が無いからこそ――読み手も自分しかいないからこそ。納得のいかない展開を用いるような真似はしたくないと、そんなプライドだけはあって。
そしてこの日からというもの、毎日のように、眠りにつくなりエグザモンの夢は私の枕元に訪れ
日が経つにつれ、どんどんと。恋の物語からは、気持ちも、話の筋道も、遠ざからざるを得ない程に、転落していくのだった。
『我が君』によるやり直しは、1度や2度では、終わらなかったのだ。
*
やり直した。
また失敗したので、やり直した。
満足がいかない。やり直し。
納得がいかない。やり直し。
ついに身内である聖騎士まで、心から『我が君』を糾弾し始めた。反抗者を含めてやり直し。
聖騎士同士で争いまで始めた。単純に世界に甚大な被害が出たので、やり直し。
やり直し。
やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。
やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。
その、繰り返し。
ある日、また私は――エグザモンは、空を飛んでいた。
見下ろした視界には、最初に眺めていた島。
でも、何の感慨も湧いては来なかった。
抱きしめたい程愛おしかった筈の島は。……それ以外の島も。大陸も。
もう、エグザモンに、何も感じさせない。
彼は大きなデジモンだった。
だからだろうか。『やり直し』に、必要以上に労力がかかるのかもしれない。
反抗をしなかったから、というのが一番の理由ではあるだろうが、何にせよ、エグザモンという存在が、やり直される事は無かった。
それ以外の聖騎士達は、回数の差はあれ、もう、厳密な意味で最初の顔ぶれでは無くなっている。
『我が君』に最も忠実であるよう造られていた黒鉄の騎士も、数回前に、ついに己の職務に耐え切れなくなり、両側に刃の付いた巨大な槍で、自らの胸を貫いて、今では騎士たちの中で最も新参といった有様だ。
……大きい身体は、便利だった。
『我が君』は時に、やり直し以外の方法で島1つ、大陸1つを住民ごと消し飛ばすよう、聖騎士達に命じた。
そんな時は、エグザモンがその全身で大地に突撃すれば、全てを壊す事が出来るのだ。
そして、次のやり直しが来れば、元通り。
彼は、もう、どうでも良くなっていたのだ。
だって、愛したところで、世界は消えて無くなってしまうのだから。
海も大地も、住民も仲間も。
確かなものは――『我が君』。この、恐ろしい創造主だけ。
だから、もう、それだけしかなかったから。
エグザモンは、神に縋りつくようにして、『我が君』に忠実であったのに。
その日は。
その夢は、やはり、唐突に訪れた。
『我が君』が、無かった事になってしまったのだ。
突如として現れた、新たなる神によって。
……いいや。突如と言ったが、その神はずっとエグザモン達の世界に居て、ずっと『我が君』と共に在った。
世界各地の神話においてそうであるように、神様から神様が生まれる事なんて、そう珍しい話では無い。
--私は、繝ェ繝悶?繝モン
正式な名前は、私の耳にはノイズが走ったようにしか聞こえなくて、解らなかったけれど。
ひとつだけ、確かな事があった。
その神様の名前は、『我が君』が使っていた『やり直し』の機能の名前と、同じだったのだ。
使い過ぎた権能が、神格を得てしまったのである。
新しい神様は、しかし、消去した『我が君』と同じことを繰り返した。
だが、『やり直し』以外の部分が抜けている以上、同じようには、いかなかった。
世界は、壊れて、
壊れて、
壊れて。
……その、取り返しがつかなくなる、寸前に。
『変化』が起きたのだ。
削除された『我が君』の破片達。
本体は消え失せても、繝ェ繝悶?繝モンという前例がある以上、細々と存在し続けていた権能の残りカス。
本来であれば取るに足らないような、小さな彼らが何体も何体も集まって――それは、再び神と同じ位に、至ったのだ。
こうして最後に生まれた5柱の神は、暴走した権能の化身である繝ェ繝悶?繝モンを打ち滅ぼした。
彼らは、世界を救ったのだ。
エグザモン達、13の聖騎士では無く。彼らが、世界を。
*
「……おえっ」
眩い光を纏いながら上空に顕現した5柱の神を見上げながら――目が覚めて。
思わず、吐き気がした。ここ数日、ずっと酷過ぎる脚本に頭を痛めていたのだけれど、今日の結末は別格だったと言っても良いだろう。
今日が休みで良かった。
また夢を見るかもしれないと思うと二度寝する気にはなれなかったけれど、気力が再び、身体をベッドに横たわらせる。
盛り上がった枕の端越しに机の角を、水槽を見上げて、考える。
エグザモンの眠りは、きっとこういう気分の表れなのだろう、と。
偶然。と、私の考え過ぎだと片付けるには、夢の内容が連続し過ぎている。
続き物の夢を見る事自体は以前もあったけれど、1週間以上そんな日が続いた事なんて無かったし、周りからも聞いたためしが無い。
目を閉じる。
あの、どう発音して良いのかわからない「やり直し」の神様が、5柱の神の前に崩れ落ちていく姿が、くっきりと瞼の裏に張り付いていた。
エグザモンは、やり直しの神様を『我が君』だという事にして。最後まで5柱の神に立ち向かう事を選んでいた。
そうしない事も出来た筈なのに。
そうしなくて良かった筈なのに。
……そんな事、したくはなかったのに。
でも、どちらにせよ、エグザモンは神様には敵わなかった。
大きな身体も、彼らの前には、無力だった。
「……」
観念して、体を起こす。
洗面所には行かずに、机の前、パソコンの前に腰を下ろした。
起動して、保存していた文章ファイルを開く。
……これまでの夢は、一応、私の言葉で、書き留めてある。
この続きを見た以上、自分の頭を整理するためにも、書き足すべきなのだろうと、そう思って。
だったら、早いところ吐き出しておきたかった。
フィクションの小説という形を与えて、「無かった事」に--
「……」
――私の『恋』と、同じように?
「……」
この期に及んで、また想起していたらしい。
スケールも何もかも違う、半ば若気の至りのような失敗談と、世界が何度も死ぬ話を。
馬鹿馬鹿しい。
……馬鹿馬鹿しい、話だけれど。
私は、本当に。
好きだったものまで、捨てて、忘れてしまいたかったんだっけ?
無かった事に、したかったんだっけ?
パソコンを閉じる。
エグザモンのアクアリウムが、よりよく見えるようになった。
小さな小さな、水で満たされた箱の中。
そこには彼の愛した美しい景色も、命の気配も、何も無い。
きっと、夢の中さえ--からっぽなのだろう。
「むかし、むかし」
私は
「あるところに」
それこそ、水を零すようにして、気付けば自分の口で、言葉を紡ぎ始めていた。
「どこにでもいるような、少しばかり空想が好きなだけの女の子がいました」
その登場人物を「女の子」と形容する点には少しだけ違和感があったのだけれど、他に描写のしようも無い。
私にだって、今より若い頃くらいある。
「ある時女の子は、友人の付き添いで訪れたリサイクルショップで、1枚のカードを見つけました」
本当に偶然だった。いわゆる「ノーマル」のレア度の安物を詰めたストレージの、一番手前にそのカードがあっただけなのだ。
「そのカードに描かれたイラストが、あまりにもきれいで。普通の女の子は、普通じゃないと知りながら、そのカードに……。……恋、を。してしまいました」
当時でさえ、結局直接は使わなかったその単語を、口に出す。
それだけが、私に表せる誠実さであるような気がして。
「女の子は、そのカードを購入して、そのカードゲームの事を勉強しました。幸い人気のあるゲームだったので、遊び方はすぐに知る事が出来ました。同時に、女の子が好きになったカードが「弱い」カードである事も」
弱すぎる事をネタにされてネットの玩具にされる程では無いけれど、デッキの構築に必要かと言えば、少し調べるだけで上位互換が見つかる、そんなカード。
10円出せば買えるノーマルカードであるという点も含めて、何もかもが中途半端。誰にも見向きもされないような、多分出した会社の側にだって忘れられていそうなカードだったのだ。『彼』は。
「それでも女の子は、そのカードの魅力を誰かと共有したかったのです。なので、女の子は、そのカードのイラストのキャラクターを主人公にして、物語を書き始めました」
お話を考えるのは、昔から好きだった。それを言葉にして書き残すのも。
昔、作文で褒められただとか、きっかけは些細な事だったように思う。なんだかんだ言って、そういったポジティブな原体験が自分の礎になっている事自体には、感謝している。
「そういう形でそのゲームを楽しむユーザーが、比較的物珍しかったからでしょうか。たまたま界隈で有名な人の目に留まり、その人が宣伝してくれたお蔭で、私の物語を、色んな人が見てくれるようになりました」
感想が、届くようになった。
顔も知らないのに、同じカードゲームの事で話せる人達が増えた。
ちょっとしたファンサークルみたいなものも出来ていて--気分が良かったのは、嘘じゃない。
「そんなカードいたね」とか、「言われてみれば確かに綺麗だわ」とか。
そんな風に言ってもらえるのが、すごく嬉しかった。
いつしか物語だけじゃ無くて、自分で組んだデッキの話や、最新弾の収録カードに一喜一憂したりだとか、『彼』程じゃないけれど、この世界に入って好きになったカードの話だとか。……『彼』を好きになってくれたと思った人達と、たくさん、お喋りするようになった。
「でも、段々と。時が経つにつれて、女の子は気付いてしまいました。女の子が好きなカードの事なんて、本当は、誰も見ては、いなかったんだって」
目の錯覚か、泡のせいで歪んで見えたのか。
ぴくりと、エグザモンが動いたような気がした。
「デッキに、過度なアドバイスが届くようになりました。好きなカードを使うのは良いけれど、もっと強いカードがあるよ、と」
それくらいなら、言いたい人も居るだろうと思った。若かったとはいえ、その程度の分別はある。
参考にしますとだけ述べて、聞き流すようにしていた。
「思い切って参加した大会で、女の子は自分の事を知っている人に会いました。その人は当たり前のように、女の子の歳では手が出ないような、強くて高額なカードを買って、渡してきました」
でも今思えば、相当危ない話だなと苦笑する。
あくまで彼らがそのゲームが好きな、ある程度マナーを弁えた一ユーザーで良かったと思う。振り返って見れば、犯罪行為に巻き込まれても、文句は言えないような環境だった。
しつこく連絡先を聞かれた事くらいはあったけれど、せいぜいがその程度だ。
「その人だけではありません。レアカードや、アニメの限定グッズを何人もの人が、女の子に差し入れるようになってきました。女の子が最初の時点で断るべきだったと気付いた時には、遅過ぎました」
受け取った人と受け取らなかった人が出来てしまうのはマズいと、私の方も断れなくなってしまったのだ。
それまでに学校等で、自分に敵意や嫌悪を向けられた時の対処法は習って来たけれど--必要以上の好意を向けられた時にどうすればいいのか。それが、わからなくって。
常識的に考えれば判る事かもしれないけれど。
それを常識だと呑み込むには、私は幼く、あまりに無知だった。
だけど、そうやって、身をもって学べば理解出来る事もあった。
私のファンを名乗る人達は、私の好きなカードの事を、一緒に好いてくれている訳じゃ無い。
私が若くて、女の子だから、面白がって、私を持ち上げてくれているのだと。
俗に言うところの、『オタサーの姫』だったのだ。私は。
「……女の子は、気付けばカードゲームの事が好きでは無くなっていました。……それから、一目惚れしてしまう程大好きだった、最初の1枚の事も、見ただけで辛くなるように、なってしまいました」
そんな読者ばっかりじゃないとは信じたかったけれど、私にわざわざ会いに来るような人が大体そんな人ばかりだったから、あんなに貢がれて、持ち上げてもらったのに、ファンを名乗る人達の事は真っ先にどうでも良くなってしまった。
読み手が大概なら、作者は更に最悪だったという訳だ。
集めたカードは段ボール箱に纏めて、欲しがる親戚の子に全てあげた。
お店に持って行けばちょっとしたお小遣いにはなったかもしれないけれど、またカードショップに足を運ぶ気にはなれなかった。
「そういう訳で、女の子は書いていた小説も削除して、そのカードゲームの界隈からすっぱりと姿を消してしまいました」
……『彼』の事だけは結局、手放せなくて。鍵付きの箱にしまってあるけれど――それっきり。
押入れの奥で、ホコリを被っていると思う。
「こうして、女の子の『恋』も、『描いた世界』も、無かった事に、なりましたとさ」
おしまい、と。
吐き捨てるようにそう言ってから、顔を上げると。
「……」
エグザモンと、目が合った。
なんとなく、そんな気がしていたから。そんなに驚きはしなかった。
でも、夢の中。彼の視点を借りているんじゃ、こればっかりは確認のしようも無かったから。
なんて、綺麗な瞳だろう。
夢で見下ろしていた島々の深緑と同じぐらい、鮮やかなグリーンの瞳だ。
「……やっぱり、夢で見た景色は、キミの見ていた世界なんだね、エグザモン」
竜の聖騎士は答えない。
その緑柱石の瞳で、こちらをじっと見据えるだけだ。
「私の話なんて、ホントに俗っぽくて、比べ物にもならないだろうけれど……でも、私だけが、君の見てきた世界を知ってるのは、フェアじゃないような気がしたから」
だからこちらも、構わず続ける。
私が、言葉に変えたい話を。
「君の目を通してみたあの世界は、すごく綺麗だったよ、エグザモン。……忘れたくなるのも、解るくらい」
抱きしめたくなる程愛おしい、と。
夢の中でそう、表現したのは、私だったのか。エグザモンだったのか。
小さく、脆く、しかし何よりも眩しく輝く、どんな金銀財宝にも代えがたい、愛すべき世界。
その価値は――『私』だけにしか、解らない。
解っては、もらえなかった。
「でも」
そして、これから私が言おうとしている事は、最低な事かもしれない。
再三言うように、そもそも比べられる筈は無いのに。
私がされてきたような、独りよがりで、いらぬお節介で、勘違いも甚だしい提案かもしれないのに。
「でもさ」
仮にそうでなかったとしても、同じ失敗をわざと繰り返すような、滑稽で、惨めで--もっと、傷つく羽目になる可能性だってあるのに。
「エグザモン」
それでも、言わずにはいられなかった。
「私達が忘れたら、本当に無くなっちゃうんだよ。あの世界は」
竜が、首を持ち上げた。
「だからもし。君が望んでくれるなら。君の愛した世界をこの世界に残す、手助けをしたいんだ」
語りかける私をじっと見据える緑の瞳は爬虫類じみていて、だから、真の意味で表情を窺い知る事は出来なかったけれど。
だけど、その目が逸らされる事は無かった。
その口が、不快そうな唸り声を上げる事も。
「私は……景色や、住人たちを、文字にして書き残す事が出来る。……と、思う。君が、許してくれるなら。……私は夢で見た君の世界を、物語にして、書き記したい。そしてそれを、他の人達に見せたい」
もう、きっぱり諦めようと
もう、きっぱり捨ててしまおうと
そう誓った技能を使って、もう一度。
純粋な気持ちで書き始めた、拙い恋の物語も
未練がましく書き続けた、自分に言って聞かせるような恋の話も
全て全て、今度こそ無駄には、しないように。
……無駄になったとしても、後悔しないで、済むように。
「どう……かな」
自分でも無茶苦茶な事を言っている自覚はあったけれど。
それでも、無理くりに笑いかけて。
その時だった。
「!」
アクアリウムの底に、エグザモンの瞳と同じ色をした草木が芽吹き始めたのは。
土どころか砂利も敷いていなかった筈なのに、鮮やかな葉はぐんぐんと背を伸ばし、水槽の隅を伝うようにして育った木は瞬く間に枝を広げる。
あっという間に、竜の寝床でしかなかったアクアリウムは、1本の木が聳える、のどかな原っぱへと変貌した。
まるで、エグザモンがかつて、見下ろしていた景色の1つのような。
「……」
そっと。
エグザモンは半身を起こして、逞しい3本指の手で、何かをすくい上げる。
その手の平にあったのは、花だった。
青々とした葉の隙間にひっそりと生えた、可憐な、薄いピンク色の花。
きっと本来であれば不可能だったであろう、そして今もなお自らよりもずっと小さな「美しい世界」に、竜の聖騎士はこの上ないくらい優しげな視線を、落としていた。
……それはそれは、素晴らしい光景だった。
消えて無くなってしまうには、余りにも惜しく、感じてしまう程には。
外側から眺める私でさえ、思わず、恋い焦がれて、しまう程には。
*
その夜、私はまた夢を見た。
ただ、いつもと--と、言うよりここ最近見てきたものと違って、今回、私は私自身の視点で、その景色を見下ろしていたのである。
赤い鱗の竜の、その角の隙間に腰を下ろして。青い空を、白い雲を掻き分ける竜の眼前に広がる世界を、私は。
「……」
始まりの、『彼』の物語は
冒険譚だった。恋物語では無くて。
単純に、恥じらっていたのだ。何せやはり、人は1枚の絵になど、恋はしない。
少しでも、茶化されないようにと腐心して。……だけど私の思い描く『彼』が、仲間と共に未知の世界を旅する物語は、自分で言うのも何だけれど、『彼』の背景をより鮮やかに魅せられていたような気がする。
だから、今度は。そういう話に、しようと思う。
竜の聖騎士と、かつて空想を愛した偽物のお姫様が、美しい世界を旅しながら、振り返るだけの、思い出話を。
風化した景色を美化しながら、不格好でも、馬鹿馬鹿しくても。前に進んでいくような、物語に。
「!」
からんからん、と小気味良く鳴った鈴の音に、思わず私は顔を上げた。
いや、知ってはいる。あれは店の扉に吊るされた、来客を告げる鈴の音だ。
とはいえ私が居る時に私以外の客がやって来たのは初めてで、顔こそ上げはしたものの、なんとなしに、身を屈めてしまう。
知り合いだったら嫌だなと思ったのもある。
そうしてコンマ数秒後、その心配は杞憂であったと知る事は出来たのだが――
「いやっほー、はっくん! おるかー? 遊びに来たったでー!」
--底抜けに明るい男性の声が薄暗い店内に響き渡ったものだから、今度は度肝を抜かれたのだけれど。
目の前のデジモンも同じ気持ちなのだろう。ガブモンとかいう爬虫類型デジモンは、被っている青い獣の皮を殊更深く被り込んで、黄色い尾をくねらせながら岩の隙間へと泳ぎ去ってしまった。
「……居ます。居ますから。そう大声を出さないで下さい、デジモン達も驚いてしまいます」
カウンターの方からやや潜めた店長さんの声。
普段から柔らかな物腰の人物ではあるが、口調までいつにも増して丁寧だ。
流石に何事かと思って水槽と棚の隙間から入り口の方を見やると、店長さんの黒い装束とは対照的な、眩い山吹色が目に飛び込んで来た。
そこに居たのは、着物姿の人影だった。
朝日が昇る空のような、鮮烈なグラデーションの訪問着に、同系統ではあるがけして色がぼけたりはしていない、濃いオレンジ色の帯。
これまた明るいブラウンに根元まで染まった髪はふわっとしたボブカットになっていて、着物特有の身体のラインのせいもあり、声さえ発していなければ、私はきっと、この人物を女性だと勘違いしていた事だろう。
というか、今しがたちらりと横顔が見えて、むしろ男性だと確信できなくなってしまった。
それこそ絵に描いたような、麗人の顔をしているものだから。
「あっはっはっは、そらすまなんだの! せやかてはっくん、どうせ暇やろ思てな? かわいい孫に寂しい思いさせてへんやろかと思うたら居ても立っても--」
「あ、ちょ」
初めて見た。店長さんの焦った顔。
……なんて、ぼんやりとそんな感想しか抱けない程度には、その人の台詞はすぐに頭の中にまで入ってこなかったのだと思う。
一拍、遅れて。ようやく気付く。
一体この人、今なんて?
「ん?」
頭を抱える店長さんを見て、調子よく舌を回していた着物の男性も違和感を覚えたのだろう。
きょろきょろと辺りを見渡して、そうしてぽかんと口を開いたまま彼を凝視していたらしい私と、ばっちり、目が合うに至って。
「あー!? お客さん居ったんかいな!?」
「え、あ、はい、どうも……」
口元に手を当て、オーバーに驚いて見せる着物の男性。
傍らの店長さんは、気の毒なくらい肩を落としてうなだれている。
「嫌やわはっくんも! 先に言うてくれへんから、うちら、とんでもない事口走ってしもたんちゃう?」
「……貴方が喋らせてくれなかったんじゃないですか」
「まあ言うてしもたもんは仕方ないわな。いらっしゃいお嬢ちゃん! この店は初めて? それともよう来てくれはる人? どっちにしても、うちらとは初めましてやな! 名前は……うん、面倒やさかい堪忍な? てきとーに「おっちゃん」とか、そんな感じで呼んでくれはったらええさかい、よろしゅうな!」
「え、あ、はい、どうも……」
関西弁の勢いに圧倒されるあまり口から出てくるのは間抜けなコピー&ペーストばかりで、しかし身内らしい店長さんでさえ口を挟めない以上、私に紡げる文章など限られており。
「その方は」
見かねたか、あるいは単純に、私の方に着物の男性の意識が逸れた今が好機だと思ったのか。今にも次の句を放ちそうな彼を制するように、店長さんが口を開く。
「うちの店の常連さんです。どうか失礼の無いようにお願いします」
「常連さん? そないにここのアクアリウム買うてもうてんか? はぁー! アレか、アレ! あんた「ええし」の子やな! 家に水族館でも作っとるんかいな!? 朝は優雅にアクアリウムに囲まれてアフタヌーンティーってか! 映えやわ~」
「あ、いや、私はレンタルで……」
「そこは「朝やのにアフタヌーンティーってなんでやねん!」ってツッコんでもらわんともう! お嬢ちゃん芸人泣かせやなぁ。知らんけど」
「あ、朝やのにアフタヌーンティーって、なんでやねん……?」
「遅いわ! もうええわ! ありがとうございました!!」
がははと豪快に笑う着物の男性につられて、私も思わず(ひきつり)笑い。
どうしていいか解らず泳いだ視線の先には、まだ元の棚に戻されてはいないゴリモンのアクアリウムがあって、私は目を覚ましたらしいゴリモンから、彼が出来る表情を新たに1つ、知る事が出来た。
恐らく私とほど近い感情を今彼は抱えていて、きっとこれは、最初で最後の彼とのシンクロニシティだろう。
喜ぶべきなのだろうか。……うーん。
「もう一度言いますが、あまりお客さんを困らせないでください。用があるなら、後で聞きますから」
「なんやー!? 用無いと来たらあかんのかいな!?」
「そういうわけではないですが……」
本当に着物の男性には強く出れないらしい。店長さんの語尾は消え入りがちで、少しだけ、気の毒になってくる。
だからと言って私にも、それからこの店にいるデジモン達にも何ができるでもなく。ゴリモンの青い目に憐憫だか同情だかが浮かび始めたあたり、やはり私達の考えている事は一緒なのだろう。
「まあええわ」
流石に空気を読んだのか、単純に気が済んだのか。ふと着物の男性は軽く肩を竦めて、ようやく一度、言葉を区切る。
「用言うたら、うちらは「あの子」の様子を見に来ただけやさかい、別に長居する気は無いねん」
ふぅ、と、店長さんが息を吐いたのが解った。ようやく一息吐けたのか、その、男性の言う「あの子」の事を慮っての事か。それは、私には判断がつかないのだけれど。
ただ、着物の男性--というより、私以外の誰かが特別気に掛ける個体、というのは少し気になって、自称「おっちゃん」の丸く愛らしい眼が向けられた方をそれとなく追ってみると、彼の視線は店の奥--店長さんが時々出入りしている部屋の扉に向けられていた。
いわゆるバックヤードだと思う。何らかの事情で店に出せないデジモンが、あっちに置いてあるのかもしれない。
「鍵はかけていないので、ご自由にどうぞ。……とは言っても、いつもと変わりはありませんよ」
「まあせやろな」
心なしか店長さんの声は暗く、着物の男性のトーンも僅かに落ち着いている。
相当具合を悪くしているデジモンなのだろうか? ……でも以前、このお店。かなり弱ったデジモンも店頭に置いていたような。
ピエロのようなデジモンだった。あのデジモンは、やっぱりすぐに死んでしまったのだろうか?
「ん?」
と、疑問符付きの声を着物の男性が発した辺りで意識が引き戻される。
慌てて視線を取り繕おうとしたけれど、もはや手遅れだった。
「なんやなんや、お嬢ちゃん。もしかして「あの子」に興味あるんか!?」
男性の興味が再びこちらに向けられたのを見て、店長さんがまた少しだけ遠いところを見た。
申し訳ないような、どうしようもないような。
とはいえ私は「あの子」とやらに皆目見当もつかないので、「えっと」と曖昧な音を口から漏らす事しか出来ないのだが。
「その方は「あのデジモン」については御存知無いかと。表に出した事は、ありませんし」
「ほな今見せたったらええやん! この店通てくれるくらいやったら好きやと思うで? 「あの子」、大きくて派手やし」
大きくて、派手。
こんな、派手の化身のような人が言うからには、相当なのだろう。そんな情報を得てしまった以上、気にならないと言えば嘘になる。
……ばっちり、顔にも出たのだろう。
「見てみたいかい?」
半ば観念したように、店長さんが私に問いかけてきた。
「え? ええっと……気には、なります。でも、お店の都合的にダメなら」
「ほな決まりやな! お嬢ちゃんおいでおいで! おっちゃんら先行ってるから!」
私の遠慮を他所に、着物姿ですすすと床を滑りながら、彼は店の奥、扉の向こうへと消えていく。
残された店長さんが、軽く肩を竦めていた。
「構わないよ。君はうちに足繁く通ってくれている常連さんだ。デジモンに理解と興味を示してくれているし――それに、何より。ひょっとしたら、あの子にも、いい刺激になるかもしれない」
刺激、なんて言葉を使う以上、弱ったデジモンでは無いのだろうか?
重なりゆく疑問の中、しかし、他ならぬ店長さん自身が(まあ半ば仕方なく、かもしれないけれど)許可してくれたのだ。
レンタルという形ではあるけれど、今となってはそれなりにこの店にお給料をつぎ込んでいるのだ。ここはお言葉に甘えても、バチは当たらないだろう。
「じゃあ、すみません。せっかくなので、遠慮なく」
にこり、と微笑みながら頷いた店長さんが、歩き始めた後について行く。
彼が扉を開けるなり、「遅いでー!」と着物の男性が唇を尖らせた。
「首長ぉして待っとったんやで。待ち過ぎてブラキモンになってまうかと思たわ。はっくんは元から長めやからええかもしれんけどやなぁ」
「ブラキモン?」
「ありゃ? 店にはおらんかったっけか」
「今はいないです」
何かを言いたそうなオーラの出ている店長さんを横目で見やる。
……首の長さは、いたって平均的だと思うのだが。2人の間では通じるジョークの類なのだろうか。
「それよりも、お見せするんでしょう? あの子の事」
「おおっとせやったせやった。ほら、お嬢ちゃん。こっちおいで」
言われて、私も当初の目的を思い出す。
店長さんに促され、着物の男性に誘われるまま、私はバックヤードのさらに奥へと足を進めた。
事務用の机と椅子、店頭でアクアリウムを置いているのと同じ棚に空の容器が並べられているのを除けば、部屋の中は至ってシンプル。一面灰色の壁と床の雰囲気も相まって、殺風景なくらいだった。
もっとアクアリウム内の飾りとか、というか、水道とかがありそうなものなのだが--と思ったら、奥にもう一つ扉がある。向こうが、作業スペースなのだろうか。外観よりも、広く感じられる造りらしい。
そして、私達の目的のものは、机があるのとは反対側の壁際。棚の向こう。部屋の入り口からは、死角になる位置に置かれていた。
「……!」
大きい、と聞いていたくらいだから、お金持ちがアロワナを買っているような巨大水槽でも置いてあるのかと思ったら、別段そういう訳では無かった。
そこに置かれていたのは、このお店では比較的大きい程度の、しかしペットショップ等を思い浮かべるといたって普通、何の変哲も無い、中サイズで正方形の水槽だった。
中のデジモンにしたって、思い描いていたほどのサイズがあった訳ではないけれど――見た目以上の、圧迫感がある。
それは、その姿形故だろうか。
赤い、竜だった。
体躯のほとんどを占める翼は、これまで見てきた他のデジモンと比べれば、確かに巨大なものであった。
赤い竜、と言ったが、皮膜を覆う鱗は白銀で、所々に金の装飾じみた模様があるところも含めて、西洋騎士の甲冑のような荘厳さが感じられる。
立派な角に、水槽の壁面を半周しても余りそうなほど長い尾。
伝説のドラゴン、そのものだった。
……そんな、数々のデジモンを目にしてなお、思わず圧倒される様な迫力がある竜のデジモンは――水槽の底に、静かに眠りについていた。
砂すら如かれていない、硝子の底。反射する己の上でただ横たわるそのデジモンは、大きな翼のせいで遠目に見ると海底に潜む平たい魚--ヒラメとか、エイとか、そう言う類--に一瞬。本当に一瞬だけ、見えなくも無い。
「変わらへんな。やっぱり、この調子か」
着物の男性は、彼にしては酷く静かに、そう呟いた。
最初に言ったでしょうと返す店長さんの声のトーンも、心なしか沈んでいる。
2人の会話から推察するに、やはり、体調のすぐれないデジモンなのだろうか。
そう思って、改めて竜を観察する。
裏面に関しては見えないのでわからないが、少なくとも目に見える範囲で傷らしきものは見当たらない。鱗の並びにも健康的なツヤがあり、病気のようにも思えなかった。
今回レンタルしていたゴリモンのように、あまりこちらに関心を寄せないデジモンなのだろうか?
「この子は、エグザモン」
私が小首を傾げているのに気づいたのだろう。
普段アクアリウムを眺めている時と同じように、彼はデジモンについての解説を始める。……始めようと、思ったのだろう。
だがどうにも、言葉に詰まっているようだった。ほんの僅かな間だけ、思案するような間を置いて――やがて再び、口を開く。
「見た目は竜のデジモンだけれど、分類としては、聖騎士型さ」
「聖騎士?」
初めて聞くタイプだ。『騎士型』と呼ばれるデジモンは見せてもらった事があるけれど、その上に『聖』がついているデジモンが居るだなんて、想像すらしていなかった。
しかも、この。確かに翼を覆う鱗に想起自体はしたけれど、やっぱりドラゴンにしか見えない、このデジモンが――聖騎士。
「この子は……本来であれば、ここにいるべきデジモンでは、無いのだけれど。事情があってね。元居た所に戻れるようになるまでは、ここに居てもらってるんだ」
どこか慎重に言葉を選びながら、そう、店長さん。
「えっと……」
もしかして、貴重なデジモンなのだろうか?
「天然記念物の保護、的な?」
「せやせや、似たようなモンやで」
店長さんが返答を見つけるよりも早く、そう言って着物の男性は私の隣へと並んで来た。
「うちらはこの子の元居たところを今管理しとるから、こまめに様子見に来とるんや。ああ、カンキョーオセンやらかしたとか、そないなわけや無いから、帰そう思たらいつでも帰らせたれんねんけど……肝心のこの子自身が、なぁ」
その弁だと、帰りたがってはいない、という事なのだろうか。
……デジモンは、とても賢い生き物だ。それは、私が彼らを借りてきた中で、よく解っているつもりだ。
彼らには、自由意志がある。
帰る場所が。
住んでいた場所があるけれど。
そこに、帰りたくはない。
もちろん、このエグザモンの事情を私は知らないし、どうにしたって比べられるような話では無いのだろうけれど。
……気持ち自体は、解らなくは無かった。
その場所がどれだけ、他人の目から見て心地よい空間だとしても――私は――
「お嬢ちゃん?」
呼びかけられて、はっと我に返る。
水槽の壁面に、エグザモンと重なるようにして、自分の顔が、映っていた。
「ああ、すみません」
私は慌てて振り返った。
「なんか、色々考えちゃって。その……デジモンも、大変なんだなーって」
今度は私が、言葉を繕う番だった。
本当に、重ねるような話では無いのだ。住んでいる世界も何も、私とエグザモンのそれでは文字通り「次元が違う」。
だというのに、着物の男性は私をじーっと見つめて――妙に、思案顔で。
「……?」
「お嬢ちゃんさ、はっくんの店、贔屓にしてくれてるんやろ?」
「え? ええ、まあ」
「デジモンには慣れてるんやな」
「へ? ええ、はい」
「なあ、この子、飼ってみいひん?」
「はい?」
「ちょ、おじ……。……待ってください」
一番最後に特大の疑問符を持ってきた私と、ふと微笑んだ着物の男性との間に、店長さんが割って入る。
途中に何か言葉が挟まった気がするけれど、よくは聞こえなかった。この人の名前とかだろうか?
「この子は、一般の方に預けて良いデジモンでは」
「せやかて常連さんやろ? 問題無いて、飼い方は一緒やねんから」
「それは、そうですけど」
「えっ? 天然記念物なんですよね?」
「ちゃうちゃう! 似たようなモンやけどちゃうちゃう、ちゃうちゃうやで!」
「ちゃ……ちゃうちゃうちゃうんちゃう……?」
「おっ! お嬢ちゃんもノリが解ってきやはったな」
そんな事をしている場合では無いだろうと言わんばかりに、やや強引に店長さんは着物の男性を引き寄せる。
神妙な顔つきで何やら耳元で囁いていたのだが――着物の男性は、どこ吹く風、といった調子だ。
「そない言うたかて、はっくんかてお嬢ちゃんここに入れたったの、エグザモンが反応してくれたらええなと思っての事やろ? あんたらが期待できるくらいの子やねんやったら、いっそ1回預けてみたらええやんか」
「……!」
「難しぃ考え過ぎやねん昔から、はっくんは。うちらもサポートするさかい。……どや?」
しばらく、部屋の隅で問答を続けて(とはいっても着物の男性は声が大きいので、半分、こちらに筒抜けなのだけれど)。
やがて、またしても折れたのは店長さんの方だったのだろう。
心なしか目元の皺が少しだけ深くなったような気がする店長さんは、小さく息を吐いてから、しかし表情だけは整えて、私の方へと戻って来た。
「……どうだろう。君には何体ものデジモンの面倒を看てもらったわけなのだけれど……このエグザモンには、興味はあるかい?」
私の意思を蔑ろには出来ないと、確認しに来てくれたらしい。
私はもう一度、エグザモンの方を見やった。
それなりに騒がしかったと思うのだが、エグザモンが目を覚ます様子はない。水槽の外に世界に、まるで興味が、無いかのように。
だが、その無関心を含めて、なお--とても、目を引く、デジモンではあって。
「無い……とは、とても、言えないですね」
「……そうかい」
決まりやな! と、着物の男性がぱん! と手を叩いた。私と店長さんの肩が同時に跳ねる。
「持って帰れるか? なんならおっちゃんが運んだるけど」
「あ、いや、それは大丈夫です。このサイズなら、自転車の後ろかごに乗せられると思うので……」
「そうか! ほな普段通りの梱包だけでええな。はっくん、よろしく頼んだで」
「はいはい……ああ、そうだ」
と、肩を落としながら着物の男性に生返事をしていた店長さんが振り返り、じっと、真剣な眼差しを私の方へと向ける。
「もちろん、今更デジモンとアクアリウムの扱いについて、君を心配したりはしていないのだけれど……それでも、念のため」
彼はぴん、と人差し指を立てた。
「けして、水槽を割ったりしてはいけないよ。……絶対。絶対に壊してはいけないからね。繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝どころじゃ済まないから」
いつもの注意喚起と同じようで、違う台詞。
いつもと違って半ば凄むような、額に汗まで浮かんでいるような店長さんの調子に、私もただ、こくこくと頷く他無かった。
「あかんでー」と念を押す着物の男性だけは、にこにこと気楽に、笑っているだけだったけれども。
……一体、何が溢れ出すんだろう。
まあ、気にするべきでは無いのだろう。確かめるべきでも、無いのだから。