Episode4≪≪
田舎ではとても手に入らないような限定グッズ。
学生ではとても手が届かない値段の環境カード。
当たり前のように差し出され、施されるそれらを見て。私はようやく、この世界に自分の居場所が無い事を知った。
……いいや、本当は。始める前から判っていた。
判っていたから、解って欲しくて、始めた事だった。
もはや恋と言っても過言では無い程惚れ込んだ、1枚のカードをみんなに愛して欲しかっただけなのに。
なのにふと気が付けば、私がみんなの『お姫様』で。
ああ、一体。いつ、私が。
そんなモノになりたいと願ったよ?
*
「デジモン、アクアリウム共に異常なし。……はい。返却を受け付けたよ」
「いつもありがとう、店長さん」
じゃあ。と今しがた返したアクアリウムへと手の平を向けるが、中のデジモン――ゴリモンというらしい――は、もはや私に微塵も興味が無いようだ。穴の空いた樽を模したオブジェを寝床に、銃になった右手を枕にして、鼻提灯代わりの泡を水面に向けて幾つもぷかぷかと浮かべている。
水と硝子に隔たれてさえいなければ、ぐーぐーいびきも聞こえている事だろう。
「もしかして、ずっとこんな感じだったのかい?」
「まあ、はい。餌の時くらいだったかな、反応してくれるの。……でも、ゴリラは基本的には温和な性格らしいですしね。デジモンだとしてもそういう面をじっくり観察できたのは良かったです」
「それなら良かった。君が不快な思いをしなかったのなら、短い間だったとしても、君と暮らした経験はこの子にとって有意義な時間となった筈だから」
正直眉唾ではあるが、まあ、ただでさえ不思議な生き物を取り扱っている、年季の入った店長さんがそう言う以上、実際に、そうなのだろう。
それに、何事もマイナスよりはプラスに働く方が良いに決まっている。少なくとも、私がここ数日ゴリモンと暮らしていて嫌な思いをしなかったのは本当だ。ゴリモンにとっても良い時間であったのなら、それに越した事は無い。
返してもらった手数料とレンタル料を引いたアクアリウムの代金を財布に仕舞いながら、私はもう一度だけゴリモンの方を見た。
成熟した雄ゴリラは背中に銀色の毛が生え、シルバーバックと呼ばれるらしいが、ゴリモンは全ての毛が真っ白だ。
腕が銃器になっているという異様さを除いても、現実ではまずおお目にかかれない純白の猿人。
彼がその毛並みをゆらゆらと揺らしながら水の中でくつろいでいる光景の美しさは、きっと私がいくら手持ちの言葉を並べ立てたとしても、表現し切ることは出来ないだろう。
「我々としては」
と、私の視線に気付いたのか。店長さんは小型の水槽の側面に軽く指を添える。
「今から買い取りに変更してくれても、一向に構わないのだけれど」
だが、私は首を横に振った。
このやり取りも、もはや恒例行事のようなもので。
「そうしたいのは山々なんですけれど、1匹飼いだしたら我慢できなくなりそうですし。多頭飼育崩壊? とか。そういうの、シャレになりませんしね」
アクアリウムとデジモンをレンタルした回数も、もはや両の手では足りない回数になってしまった。
それだけ、デジモンという生き物には。そしてこの店には、言い表せない程の魅力があって。
1匹選べ、だなんて。とても出来ない相談だ。
それに、これらのアクアリウムは私の生活への潤いであるのと同時に、唯一無二の『資料』でもある。
私の描く物語に『次』がある限り、その舞台には、相応しい役者を引っ張って来なければならない。
「じゃあいつか」
添えていた指をいつの間にか水槽の底に滑り込ませ、店長さんはアクアリウムを持ち上げる。
小型とはいえ水を張った水槽は重いだろうが(実際重かった)、彼はその動作に年齢からくる無理を感じさせたりはしなかった。
「もしも君が運命の子に巡り合えた、その暁には。どうか、遠慮なく言って欲しい」
店長さんの声色に、私がアクアリウムを購入しない客である事への非難は微塵も混じっていない。嫌味を言うような人では無いし、レンタルという方式は最初から合意の上だ。
だから、単純に。
運命、という言葉に。そしてただの1つだけを選ぶというの行為に。引っかかりを覚えているのは私の事情で、勝手でしか無い。
何かに一途な思いを寄せ続けるのには、いくらか前に、もう、疲れてしまったから。
「……まあ、その時は」
だというのに、きっかけとなった行為自体は形を変えて続けているのだから。本当に、どこまでも浅はかで、滑稽な話だ。
「その時で」
生返事をしながら、次の『資料』を求めて透明なアクアリウムの表面に自分の顔以外の影を探す。
モンスターの名を冠する通り、怪物然としたデジモンがいい。
人でなしの恋の相手には、やはり、人外こそが相応しい。
私は、いわゆる文字書きという人種だ。
誰に見せるという訳でもないのだけれど。昔取った杵柄と言う名のペンだけを、未だに、捨てられないでいる人間だった。
*
趣味への情熱は掻き消え、新しいモノに手を出す余裕や気力は芽生えず。高まるのはエンゲル係数ばかり、とほぼほぼ人の形をした虚無になりかけていた私は、しかしそれでも--そんなものになりかけていたからこそ、自分の空白を埋めてくれる存在を探していたのだと思う。
青い屋根が綺麗だと思ったのが、きっかけだった。
特別浮いているという訳ではないけれど、こんな町にしては鮮やかな屋根瓦は家と職場を行き来する度になんだか目について。
とはいえ普段のルートがたまたま舗装工事で通行禁止になっていなければ、私はその屋根の下にアクアリウムの店がある事を、今になってもきっと知る事は無かっただろう。
田舎町特有の閉塞感がそのまま迷路の壁になったような路地伝いに、その店は、ぽつんと佇んでいた。
見た事すら無い異国の文字を使っているせいかエキゾチックな印象のある看板や、色とりどりの光をぼんやりと透かす磨りガラスとは対照的に、ドアノブにぶら下がった『OPEN』の札はひどく簡素で、業務的で。
それらのちぐはぐ具合に、その時の私は妙に惹かれたのだった。
得体の知れない店だからと気後れして引き返さなかった自分の選択は、私の人生の中では珍しく正解であったのだろう。
モノクロ写真から歩み出てきたような老紳士の店主。幻想的なアクアリウムと、その中に住まう幻想そのものの生き物達。
夢にも描けないような世界が、こんな片田舎の一角に在っただなんて。とても信じられないのに光景は目の前にあって――私はすっかり、この店に魅せられてしまったのである。
最初に借りたのは、タンクモンというデジモンのアクアリウムだった。
とてもひとつのアクアリウムを選ぶなんてできないと思わず零してしまった私にレンタルという方式を提案してくれたのは、店長さんの方だった。
なんでもパピーウォーカー的な形で、デジモンを人に慣らすための一時預かりというのは、一応、需要があるのだそうで。
戦車を無理くり生き物に変貌させたような、デジモン自身のインパクトのある風貌にはもちろんの事、弓なりに曲がった流木をいくつか重ねて組まれた塹壕の滑らかな表面や、灰の砂利を掻き分けて水槽のあちこちに絡みつく青々とした水草の対比は見るも鮮やかで、最初のアクアリウムとして選ぶには申し分ないと、まあ、散々悩んだ末ではあるが、私はそのアクアリウムを家に持ち帰ったのだった。
机上に積んでいた本やゲームのパッケージを久方ぶりに有るべき棚へと戻して飾ったタンクモンのアクアリウムは、期待以上に私の家での時間を色鮮やかな物にしてくれた。
何せ、ありふれた日常の中に戦場の一幕のような光景が飾られていているのだ。
専用のアプリで食事を差し出せば、塹壕の中で身を屈めて鋭い牙を剥き出しにし、がつがつと頬張るタンクモンの横顔は、実際に見た事など当然無いけれど、私が想像出来得る限りの兵士の顔をしていて。
食事を見守る私にさえ向けられる鋭い眼光には、硝子越しとはいえすくみ上るような迫力があった。
しかし、さて。レンタルという形を取っている以上、この新たな同居人との生活の『区切り』を決めなければならないと。そう思った時にほぼほぼ無意識に選んでいた手段が、『筆を執る』という行為だった。
まあ、比喩ではある。筆とは言っても、実際はキーボードを延々叩き続ける作業なのだ。昔から、私の書く文字は酷く汚い。
だがそれはそれとして。長らく忌むべきモノと遠ざけるようにしていた執筆であったのに。……結局、私には文章しか無かったのだ。心の動く体験を、何らかの形で留めておくための技能は。
だから、嫌になって。投げ出した筈だったのに。
明日の自分を顧みず、夜通しパソコンと向き合った末に出来上がったのは、歯の浮くような恋の話だった。
戦車の怪物が、少女を救う話だ。銃の腕でも構わずに、1人の女の子を怪物が抱きしめる話だ。
私は話が書き上がった日の次の休みにタンクモンのアクアリウムをお店に返却して、それからは、同じ事の繰り返しである。
その時目についたアクアリウムを借りて、中のデジモンをモチーフにした恋物語を書く。出来上がったら時間のある日にアクアリウムを返して、また次のデジモンを借りる。
誰に見せるという訳でも無い。称賛も、感想も、もはや望みはしない。
誰も知らない秘密のルーチンワークは、私が自分を虚無では無いと信じ込むための縁でしかないのだから。
だから、今日も。
読みたい物では無く書いた物を積むために、私は次のアクアリウムを探していたに過ぎないのだけれど。
最近はマスターデュエルやれていませんが、ウィッチクラフトと召喚獣を組み合わせたデッキを組んだものの気づけばアナコンダからデスフェニ出してたのを憶えています。それはそれとしてシュミッタちゃんはいいぞ。
遅くなったうえで関係ない話から入りましたが、感想をば。
クソったれ冷蔵庫神に仕え続けて壊れた聖騎士と意図せずオタサーの姫扱いされて封印した女性。規模は違えど、最初は大事なものを愛でて幸せだったはずなのに、後のことからその頃の気持ちすら否定しようとしてしまう。……なんというか身につまされるものがあるというか。オタクたるもの好きなものに投じた過去は苦いものがあっても甘かったものは確かに残っているんだなと。……好きだった作品見返すかぁ。
それにしても店主に親し気な関西弁の「おっちゃん」はなんとも底知れない感じというか、その「おっちゃん」の存在のせいで店主の方の存在感もより上位存在的な方向で強くなるというか。……改めて、彼らはいったい何者なのか。エグザモンの夢の話にも絡んでいるとするなら……?
インターネットに放流された無名の個人の小説だとしても、確かにエグザモンの記憶はそこに刻まれる。「おっちゃん」がそれにブックマークするという締め方もきれいでした。
これにて感想とさせていただきます。次の話もチェックせねば
感想書こうと思っていた内容の7割ぐらいが既に後書きで言われている夏P(ナッピー)です。
奇数階と偶数回でそもそも方向性変わってたのかー、というか遂に店自体の正体というか中身にも触れてきたんですな。あと今までのお客さんが絡んだ内容がチラっとでも言及されたのが良い。
というわけでオタサーの姫回でしたが、これは色々な意味で痛い。心が痛いという意味でもあるが……そしてついでに言うと、DW側の描写も込みで作者は飽きたらまた新しい作品を始めればいいけど、物書きが描かなければその世界はそこで止まってしまうんだぜと突き付けられてるようだぜイグドラシル様。
主体としてエグザモンを選ばれたのは、ロイヤルナイツの聖騎士型ではあるけれどドラゴンで人と通じ合えるか否かってところがあったのだろうか。いや案外開いた瞳が緑で綺麗だからって可能性もありそう。
おじい様って何!? どう考えても猫口・狐目の胡散臭そうな着流しの兄ちゃん想像してたのにおじい様!? 家族沢山いるっぽいしこれもしかしてエグザモンの回想にあった柱って……デジモンアニメ何から見た方がいいかって言っただけなのに!?(炭治郎)
それでは早めの5話をお待ちしております(フラグ)。
あとがき
みんな! 暗黒方界邪神クリムゾン・ノヴァ・トリニティはいいぞ!
なんてったって名前が良い。暗黒方界邪神クリムゾン・ノヴァ・トリニティ。名前だけで21文字もある。かっこいい!
まあまず出せないんですけどね。暗黒方界邪神クリムゾン・ノヴァ・トリニティ。
と、いう訳で皆さんこんにちは。デジモンアクアリウムだけで言うとお久しぶり、になりますでしょうか。
とりあえず挨拶がてら、遊戯王の最新の推しカードを語る所から始めて見ました。マスターデュエルでは花札衛も使っています。雨四光はいいぞ! 快晴です。
さて、デジモンアクアリウムの投稿は1年3か月ぶりとなるそうです。ひいん……。
遅ればせながら、デジモンアクアリウムEpisode4をご覧いただき、誠にありがとうございます。
元オタサ―の姫と落ちぶれた聖騎士の物語でした。
今回は身内に「ヒラメっぽいからエグザモンで」とアクアリウムのデジモンをリクエストされたので、無理やりヒラメっぽいエグザモン描写をぶっこんだりしていましたが、いかがでしたでしょうか。
こういう、種族では無く個体として認識されているデジモンは少々使い辛いので苦労したのですが、「ダメならファイターモードの方のインペリアルドラモンでもいいよ」と言われたので、素直にエグザモンで書きました。
まあ裏話はさておき、新キャラの登場もあって、そろそろ店長さんの正体も明らかになってきた感じでしょうか。
ロイヤルナイツのデジモンを使う、という点には頭を悩まされましたが、この世界の成り立ちを明かす話自体はいつかするものと予定していたので、丁度良い機会だったかなとも思ったりします。
そう、この世界もまた、「大体イグドラシルのせい」案件の元に成り立っているのでした。
ではこのお店のアクアリウムは一体何なのか? につきましては、どうか続報をお待ちください。
さて、次回予告です。
4話まで来て察してくださった方もいらっしゃるかもしれませんが、このデジモンアクアリウムシリーズ、奇数回が「そこで終わる話」、偶数回が「前に進む話」になっています。現在のところ。
次回は奇数回なので、つまりそういう事です。
構想も決まっているので、サロン内企画用の短編がまとまり次第、また手を付けていこうと思います。年内には出せるといいですね(願望)。
それでは、今回もデジモンアクアリウムをお読みいただき、本当にありがとうございました!
次回も目を通していただけたら、作者としても、幸いです。
以下、感想返信
パラレル様
感想をありがとうございます!
この小説は、基本的に寒と暖が交互に来るようになっているのでした……。なので、無い事もあるのです。
そうですね。主人公がアイスちゃんに求める好意と、アイスちゃんが主人公に求める好意は食い違っていて、だからこそどこかで破綻するしか無かったのでしょう。お互いがお互いを好きなのは、本当だったんですけどね。
スプラッシュモン自体が「相手を信用できない」デジモンだと図鑑に書かれていたので、進化してしまった時点で、アイスちゃんは本当は、心のどこかで自分の存在価値を分かっていたのかもしれません。それでも進化まで導いてくれた彼女という存在は本物で、だからこその賭けでした。結果は、御覧の通りでしたけれどね……。
名状し難い何かの正体は、ひょっとすると次回くらいに、明かされるかもしれません。
それまで楽しんでもらえたら、作者としても嬉しいです。
では、改めて。感想ありがとうございました!
夏P(ナッピー)様
感想をありがとうございます! ダーク快晴です。
氷は噛み砕くもの。……やり過ぎると頭にキーンと来ちゃいますけどね。
インセキモンに……インセキモンにしたかったんですけれど……どうしてこうなっちゃったんでしょうね……真面目にやってきた筈なのに……。
それはそれとしてフロンティアのインセキモンは何かがおかしい。(NGワード:あのへんが全体的におかしい)
そうなんです、アイスちゃんは、ただ主人公の女性を信じたかっただけなんです。でも「信じたい」という感情を抱くという事は、もう信じていないのと同義なので。それゆえのスプラッシュモンなのでした。
種族としては嫌っている筈の虎形態になったのは、自分の行為を美しいとは思えなかったからこそなのかもしれませんね。
店員さんの正体については……いずれ、詳細は、そのうち。
改めまして、感想をありがとうございました!
また次回も読んでいただければ、幸いです。
*
「と! こんな風に。なかなかええ話やったで。これにて一件落着やな!」
がはは、と着物の男性が豪快に笑うのとは対照的に、黒装束の初老の男性――アクアリウムの店の店長は、ふう、と息を吐いていた。
ただし、その息には微量ではあるが、安堵の感情も混じっている。
己の役目を。そも、世界を。全てを失い自暴自棄になっていたエグザモンの事は、彼にしても、ずっと気がかりだったのだ。
「常連さんの彼女も、もうしばらく、エグザモンを預かりたいとの事でしたからね。……いえ、きっとエグザモンは、彼女の元に居続ける事になるでしょう。きっと、そういう運命だったんですよ」
「もう律儀にあのあほんだら冷蔵庫に押し付けられた仕事しやんなん事も無いんやし、それでええんとちゃう? ふふ、うちらってばええことしたな。アレやな。アレ。キューピーちゃんや。運命のキューピットちゃん」
「……時に」
自慢げにうんうんと頷く着物の男性に、今一度溜め息を吐いて、黒装束の男性は続ける。
口に出すのは気が重かったのだが、だからといってそれは、忠言を胸に留めておく理由にはならない。
「おじい様」
彼は、常連客にはどうにか誤魔化していた、着物の男性の肩書を口にした。
「ん? 何や」
見てくれだけで言えば、その呼称はむしろ、アクアリウムの店の店長に使われた方が違和感は少ないだろう。それでも、見た目の歳の開きに、ある程度無理を感じられるくらいなのだが。
しかし着物の男性に、その呼称を気に留める様子は無い。ごく自然に、疑問符を返す。
店長は、言葉を続けた。
「少々、人間への干渉が過ぎるのでは? 個人への権能の行使は、おばあ様があまり良い顔をなさらないかと」
「……そない言われてしもたら敵わんわぁ。でも、まあ、その辺ははっくんもどっこいどっこいちゃうの。うちらの中で一番リアルワールドに干渉してるの、はっくんやろ?」
「我々は、弟たちと取り決めてこの店をやっていますので。個人的な理由で権能を行使している訳では無いのですよ」
「ほんまかいな」
「……」
その沈黙が、飽きれから来るものなのか、思うところがある故かは、傍から窺い知る事は出来ない。
だが、どうにせよこの話題をこのままずるずると続ける必要も無いと判断したのだろう。「まあいいです」と、アクアリウムの店の店長は一度話を切り上げた。
「エグザモンの件が丸く収まったのは事実ですからね。ご協力、感謝しますよ、おじい様」
「はぁー、はっくんはまじめすぎるんやから。カタい事言わんでええねん。それこそ、うちらがやりたいからやっただけや」
ひらひらとおどけるように手を振って、着物の男性は『孫』に背を向けた。
「ほな、そろそろお暇しよかいな。あんまり長居すると、さくちゃんがやかましいさかい」
「弟にもよろしくお伝えください」
「ん。仕事が落ち着いたらあの子もこっち遊びに来ぃたい言うとったさかい、いつ来てもええようにお菓子とか買うといたりや」
「……連絡は入れるよう、伝えてもらえると助かります。出来れば、次回からは、おじい様も」
はいはいと、返事はひどく適当だった。
着物の男性は、ほなな、とオーバーに手を振りながら、店を後にする。
からんからん、と、名残惜しむように吊るされた鐘が揺れる中、ようやく1人になった店長は一息ついた後、ズボンのポケットからスマートフォン――に、似た端末を取り出した。
機能自体は、人間の世界に居る限りは、見た目通りにしか働かないものだ。
彼はスリープモードを解除して、そのままにしていたブラウザを開く。
それは、とある小説が載ったサイトだった。
無名の個人のオリジナル小説。特に目を引くタイトルでも、概要に突飛なあらすじが書いてある訳でも無い。故に閲覧数は、大して伸びていないようであった。
しかし、彼がこうやって目を通したように、同じようにこの小説を読んで、そこに描かれた情景に思いを馳せる人間は、確実に存在する。
そうやって。広い広いネットの海の中であっても。
誰かの、心の片隅に、その世界は小さな箱庭となってでも、生き続けていく事だろう。
彼は高評価を示す、画面最下部にあるハートのマークを親指で押した。
ピンクに色付いた『心』のマークに、優しい笑みを浮かべてから。彼は今日も、己の仕事へと戻って行くのだった。
*
帰宅後、いつものように、私は運んで来たエグザモンのアクアリウムを机の片隅に置いた。
装飾どころか砂利すら入っていない殺風景な水槽をアクアリウムと呼んでいいのかは甚だ疑問ではあるが、硝子に囲まれた水底で眠る、聖騎士と呼ばれた竜の幻想的な姿は、これまでのアクアリウム同様、それだけで場違いなくらいに、空間に華やかな彩りを添えていた。
ただ――やはりというか、エグザモンがここに着くまでに、目を覚ます事は無かった。
寝返りを打ったりだとか、そういう動きすら見せようとしない。呼吸に合わせてぽこぽこと湧いてくる泡だけが、この水槽の中にもたらされる変化だった。
「……」
いつもとは異なる形になってしまったが、借りた以上は、また、私は物語を書くつもりでいる。
「眠る竜、か」
竜が起きない事を知りつつ、傍に寄り添う少女の話?
あるいは目覚めないのは少女の方--永遠の眠りについた彼女のために、墓標となって少女と共に在り続ける竜の話?
アイデア自体は、そんな風に。
ありきたりな物ばかりではあるが、浮かんでは来る。が――なんというか、パズルのピースがまだ、嵌まらないと言うか。物語の核心、決定打となるような部分は、今のところ浮かんでは来ていない。
「まあ、気長に観察しながら考えようか」
ひとりごちって、一先ず目を覚まさないエグザモンの事は置いておいて、自分の身の回りの用を済ませる事にした。
家事やら明日の準備やらを片付けて、そして今日のところは、私も早めに寝るとしよう。
物語を思い付いたら、夜が更けようが気が済むまで書いてしまう。
それまでは、少しでも体を休めておくべきだと、流石にこれまでの経験で学んでいたので。
……最も。結局は自己満足なのだから、そもそも書く必要すらないのだけれど。
でも、それを言い始めたら――なので、余計な考えを振り払うようにして、まずは洗濯を取り込むために、ベランダへと向かうのだった。
竜が、私を見送るような事は無かった。
*
眼下に広がるのは、小さな島。
真っ青な海の上にぽつんと浮かんだ、中央に高い高い山がそびえ立つ、私の体躯より多少大きい程度の島。
こんなに小さいのに、鮮やかな緑に覆われたその島は、命の気配で溢れかえっていて、思わずこの腕を、翼をいっぱいに広げて、抱きしめたくなる程、愛おしかった。
私は仲間達と共に、この島を、そして同じようにこの海のどこかに浮かんでいる他の島も、島よりはいくらか大きな大陸も。ずっとずっと、命ある限り守り続けるのだと、そう心に誓いながら、島の上空を飛び去った。
私の身体は、大き過ぎる。
あまり長い間滞在したり、近づき過ぎたりして、島の住民たちを怯えさせるのは、不本意だった。
そうしかねない自分の存在に、一抹の寂しさを覚えない訳では無い。
けれど、それ以上に。
この身体なら、きっといかなる脅威からさえも、この世界を護る事が出来ると。
そんな、胸の内から沸き上がるような誇りが、己の翼を、支えていた。
私は、聖騎士だ。
『我が君』によって生み出された、最強と言っても過言では無い13の騎士の内の1体。
『我が君』に任じられた使命の元、この世界を護る、騎士なのだ。
*
「……変な夢見たな」
自分しかいないと解っているのに、思わず呟かずにはいられなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めながら、ううんと伸びをする。
目覚め自体は、悪くは無かった。むしろ良い。寝起きであるにもかかわらず、くっきりと頭に残っている壮大な物語は、私の気分を高揚させていた。
小説のネタをベッドの中で温めていたあまり、突拍子も無い夢を見たらしい。
何と言っても、夢の中の『私』は――
「……」
机の上を見やる。
エグザモンは、昨日から微動だにしていない。彼の飛ぶ姿は大層美しいだろうが、その翼がどんな風に動くのかについても、未だ想像力に任せる他無かった。
任せ過ぎて――エグザモンになった夢を、見たのだろう。
「おはよう」
声をかけてみる。が、当然反応は無い。
彼が最後に「おやすみ」を聞いてから、いったいどれだけの時間、眠っているのだろう?
「君は、世界を護る聖騎士だったの?」
問いかけた所で、やはり答えなど返る筈も無く。
ただ、こぽこぽと水面に上っていく空気の泡の数をしばしの間数えるだけ数えて――キリの良い数字を迎えたあたりで、私は水槽の傍から離れた。
名残惜しい気は無いでも無かったが、エグザモンだけに構っている訳にもいかない。仕事に行く支度をしなければならなかった。
さっきの夢のお蔭で、少しは小説の輪郭が見えてきたような気がする。というか、いっそ冒頭にそのままあの夢を使ってしまうのも手かもしれない。
書き始めさえすれば、自ずと筆が乗ってくる筈だ。
エグザモンが、あの緑鮮やかな島を、世界を愛したように、心を傾けた少女は、一体どんな人物にするべきか――今日のお題は、そんなところだろうか。
目標が定まると、なんだか活力も湧いて来た。
きっかけ自体は突拍子も無かったけれど、エグザモンのアクアリウムを借りてきたのは、正解だったのかもしれない。
良い小説が、書けるような気がした。
「……」
書いたところで、誰に見せる訳でも無いのに。
過った現実と昔の思い出を振り払うように頭を振って、洗面所へと足を向ける。
毎朝のルーティーンではあるのだけれど、今は兎に角、余計なモノは水で流してしまいたかった。
言い聞かせる。小説を書くのは、自分を納得させるためだから、と。
それはいつまでもしつこく追いかけてくる嫌な思い出から、逃げ道を作る作業にも似ていた。
*
「……え?」
次の日の朝、思わず頬に触れると、夢の中と同じように、何本もの涙の筋が、走っていた。
いくらか時間が経ったのか、乾いて、少しひりひりする。
しかしそんな不快感など非にもならないくらいに、夢の内容は衝撃的で――思い出しただけで、背筋が凍り付くような、嫌な震えが全身を駆けて行く。
また、夢を見た。
昨日とは打って変わって、それは悪夢だった。
『我が君』が突如、夢の中の私--エグザモンと、彼の同僚達に、告げたのだ。
この世界は、失敗した、と。
エグザモンを通して見た景色は、あんなに美しかったというのに、『我が君』にとって満足できるような内容では無かったらしい。
『我が君』は、エグザモンのようなデジモン達にとって、神様と言っても過言では無い存在だった。
神様らしく、理不尽だった。
『我が君』はこれ以上の発展が望めない、不完全な世界だと現在の世界をそう断じて、「やり直す」と言い始めたのだ。
世界を、創り直すと。そう、言い始めたのだ。
もちろん、エグザモンを始めとした13体の聖騎士達の半分近くが、『我が君』の意見に反対したのだけれど。
だけど、彼らは『我が君』から生み出された存在でもあるが故に、それが完全に「間違い」だと断じる事も、出来なかったのだ。
結局、聖騎士達は『我が君』の意思に全てを委ねる事に決め--
――エグザモンの愛した世界は、「無かった事」になった。
「……エグザモン?」
竜は今日も、目を覚ましそうにない。
それに、所詮これは、私の見ている夢だ。エグザモンを迎えたからこそ見始めた夢だとはいえ、彼と直接関係のある光景だとは、断言はできないのだ。
いや、断言も何も、着物の男性は「エグザモンの元居た場所を管理している」と言っていた。彼の帰る事が出来る場所が実際に存在する以上、そこが神様によって無かった事にされただのなんだの、そんな馬鹿げた話がある筈も無い。
……でも、もし。
そうやって、自分の愛していた世界が、自分の意図しない形で取り上げられたとしたら。
きっと、眠り続けたくもなるだろう。
夢の世界に、閉じこもっていたくなるだろう。
私が、小説を書くように。
「……」
いや、まあ、だから。
比べるような話じゃないし、全部私の妄想に過ぎないのだけれど。
でも、あんな光景を目にしてしまった以上、自分の中に浮かぶ文章が恋物語どころでは無くなってしまっているのは事実だった。
愛する世界を亡くした聖騎士に、いくら寄り添おうとする架空のヒロインをあてがったところで、その光景はチープで、虚しいだけだ。
読者に気を配る必要も無いのに。いや、必要が無いからこそ――読み手も自分しかいないからこそ。納得のいかない展開を用いるような真似はしたくないと、そんなプライドだけはあって。
そしてこの日からというもの、毎日のように、眠りにつくなりエグザモンの夢は私の枕元に訪れ
日が経つにつれ、どんどんと。恋の物語からは、気持ちも、話の筋道も、遠ざからざるを得ない程に、転落していくのだった。
『我が君』によるやり直しは、1度や2度では、終わらなかったのだ。
*
やり直した。
また失敗したので、やり直した。
満足がいかない。やり直し。
納得がいかない。やり直し。
ついに身内である聖騎士まで、心から『我が君』を糾弾し始めた。反抗者を含めてやり直し。
聖騎士同士で争いまで始めた。単純に世界に甚大な被害が出たので、やり直し。
やり直し。
やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。
やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。やり直し。
その、繰り返し。
ある日、また私は――エグザモンは、空を飛んでいた。
見下ろした視界には、最初に眺めていた島。
でも、何の感慨も湧いては来なかった。
抱きしめたい程愛おしかった筈の島は。……それ以外の島も。大陸も。
もう、エグザモンに、何も感じさせない。
彼は大きなデジモンだった。
だからだろうか。『やり直し』に、必要以上に労力がかかるのかもしれない。
反抗をしなかったから、というのが一番の理由ではあるだろうが、何にせよ、エグザモンという存在が、やり直される事は無かった。
それ以外の聖騎士達は、回数の差はあれ、もう、厳密な意味で最初の顔ぶれでは無くなっている。
『我が君』に最も忠実であるよう造られていた黒鉄の騎士も、数回前に、ついに己の職務に耐え切れなくなり、両側に刃の付いた巨大な槍で、自らの胸を貫いて、今では騎士たちの中で最も新参といった有様だ。
……大きい身体は、便利だった。