Episode1≪≪
店の前を通るたび、祖母は私の手を強く引いて、その場から足早に立ち去ろうとするのだ。
いつもそんな事をするものだから、私は逆に、中に何があるのか随分と気になってしまって。磨り硝子の向こうから覗く、怪しげだが煌びやかな光の元が何であるかを、どうにかして特定しようと亀のように首を伸ばせば、腰の曲がった祖母は、なのに年寄りとは思えないような力で、痛いくらいに私の事を引っ張って大股で歩き始めるのだった。
「あんな店の事を気にしてはいけません。馬鹿になってしまいますよ」
ある時その理由を祖母に尋ねてみれば、彼女はそんな事を言う。
それで私は、この人は店の中に何があるのか、何を売っているのかなんて本当は何も知らなくて、壁に立てかけられた、今も読めない遠い国の言葉で書かれた看板と、時折店を訪れる人間の種類だけを判断材料に、私にそう言っているのだと、この時ようやく、理解して。
それでも、その時の祖母の蔑むような表情が怖くて、これ以上この老婆に馬鹿だと思われたくない私は、以降、店の前をゆっくりとは歩かないように、心掛けていた。
*
祖母が亡くなった。
私は祖父の時と比べて半分もいない参列者達へと泣き女の真似事と愛想笑いを交互に繰り返しながら、仏前で私と同じような事をしていた祖母に励ましの言葉をかけていたその他多数は、祖父の遺された人脈にしか興味の無い薄情者だったのか、単純に歳で全員くたばってしまったのか。はたしてどちらなのだろうかと、浅く首を捻ったりしているのだった。
まあ、嫌われていたのだろうとは思う。
権力か財力でしか、相手を判断できない人だったから。
如何せん、跡継ぎだと猫可愛がりしていた息子の長男にも、彼が大学を出るなりあっさりと愛想を尽かされてしまう程度には、振舞いに内面が滲み出ているような人だった。
かく言う私も最初の内は、比較的近所で暮らしているよしみで、半ば周囲に押し付けられるような形で彼女の面倒を見ていたのだけれど、1年と持たずに心も体もダメになって、それを理由に祖母は施設に預けられた。
近くに頼れる親戚が住んでいると、うまいぐあいに介護の認定が下りないらしくて、だから、私はそのために。親戚ぐるみで潰されたのだろう。
環境が変わって拗らせたアルツハイマーは、祖母の本来の性格を洗い浚い表に引っ張り出した。
どんどん人に迷惑をかけるようになる彼女の振舞いを時折耳にしながら、祖父は祖父で権力を鼻にかけてばかりの人だったけれど、高慢さに見合った遺産だけは残してくれたから、お蔭で、祖母は放っておいてもいいわけだから、やはりお金は大事なのだと。私はそういう事ばかり考えるようにしていた。
なんてくだらない人生なのだろう。
祖母の事ではない。私の人生の事だ。
今はどうにか1人で暮らしているが、虫食いのようになった私の精神と履歴書の経歴は、真っ当な仕事を私に許してはくれない。実家に帰らなくてはいけなくなるのも、時間の問題だろう。
祖父母は両方とも死んだが、両親は健在だ。この「健」康で「在」るという状況も、どうせ長続きはしない。
私は年老いた父と母が骨になるまで世話をしながら、仕事も結婚もせず、いい年して親元で暮らしている娘だと、周囲から後ろ指を指されて残りの人生のほとんどを生きるのだ。
そうして全てが終わったころには、年寄りは私で、きっと誰にも看取られずに死んでしまう。
近所にもそういう人が居た。田舎の温もりとかいうやつは、地元の権力者にこびへつらって初めて成立する。私はどちらかと言えば権力者の側で、住民たちは、跡継ぎの候補にすらなれない子供の事など、最初から好いても嫌ってもいないのだ。
そうして私も腐乱死体になれば。ようやく面と向かって人に嫌がらせを出来るのだと思うと、それだけは、胸のすくような気持だった。
気持ちだけは、そうやって、楽になり始めていたのに。
「■×#△○※&!!」
聞き取れない、しかしこちらをなじっている事だけは確かな大声を上げながら、きつい顔つきの中年女性が飛ばした自転車で歩道を駆け、私を追い抜いていく。自転車道は隣だが、彼女の道は目の前にしかないのだろう。
この辺りでの、悪い意味での名物おばさんだ。ちょうどすれ違った女子高生たちが、私と同じこと言われたのだろう。2人で肩を寄せ合って、指を指しながら女を笑っていた。
だけど私はと言えば、なんだか、とても疲れてしまった。
ああいう頭のおかしい連中は、エンカウントを重ねれば重ねる程、こちらの心を摩耗させていく。箸が転がるように可笑しいのは、せいぜい最初の内だけなのだ。
歩く気すら失せた。
この際後ろから轢いてでもくれれば、ちょうど目撃者もいる事だし、多分、もう少しだけ独り暮らしを続けられる程度の金が手に入ったと思うのだが。
とはいえこのまま立ち止まってしまえば、次に女子高生たちの笑い者にされるのは自分になってしまう。
神経に障ると面倒だった。向かう先を改めて明確にしようと、私は顔を上げて。
ふと、ひとつ向こうの路地に、青い屋根を見止めた。
「……」
見止めたも何も、昔から場所だけはよく知っている。
あの店だ。
祖母の嫌いな、あの店の屋根だ。
そう思うと、ほとんど無意識に足がそちらへと向いていた。
すれ違った女子高生はもう自転車の女の事など忘れているようで、部活動か何かの話をしているようだった。
あっという間に、店の前に着いた。
最近も近くを通らなかった訳では無いのだけれど、こうして真正面に立つのは随分と久しぶりか、ひょっとすると、初めてかもしれない。
まじまじと見つめた所で、遠い国の言語で書かれた読めない看板も、白く濁った磨りガラスも、その向こうにある怪しい色の光も何もかもが変わらないままだ。
扉のノブには「OPEN」と。流石に読める言葉で書かれた、味気ないプラスチックのプレートがぶら下がっている。
ああ、そうだ。
祖母は死んだ。もういうない。
私がこの中をちょっとひやかしたところで、誰も私を、咎める者はいないのだ。
ひとつでも。
たったひとつだとしても、私を苦しめるモノがこの世から減った事を、実感したい。
この扉を潜る事は、その何よりもの証拠に、なるような気がして。
唐突に湧き出た欲求に突き動かされるようにして、私はドアノブを回す。
扉を引くと、死角になる位置につられていた鈴がからんからんと小気味良く揺れた。
照明と呼べる灯りはほとんど無かったが、暗いとは思わなかった。
中には黒い金属製の棚が店の端から端まで何列も並べられていて、その全てにほとんど隙間無く、光の灯った、水の入った容器が置かれている。
水槽、と言えば良いのかもしれないが、容器はそれ以外にも本当に様々で、円柱や三角形といった、単純に形が変わっているものから、瓶やグラス、果てはピッチャー、ペットボトルにポリ袋まで、透明で水を留めて置けるなら何でも構わないと言わんばかりの品々が、所狭しと、並んでいた。
そして、どの容器にも色とりどりの砂利が敷き詰められ、水草や石、珊瑚や流木、ミニチュアの水車小屋といった、それぞれの雰囲気に合わせた装飾が施されている。
アクアリウム。
そんな単語が、頭に浮かんだ。
実際に、そういうものなのだろう。
ということは、と、私はさらに店内に踏み込み、光る水の中へと視線を走らせる。
ここに住まう生き物がいる筈だと、一番手前にあった水槽の中身をきょろきょろと見渡して――それらしい赤色を見つけた瞬間、私は肩を落とした。
小さな恐竜が、目を閉じて、水の中に佇んでいる。
赤い身体に、緑のトサカ。形は肉食恐竜を彷彿とさせるが、この派手な色と余計な装飾品のせいで、ひどく造詣にリアリティを欠いている。
ようは、水の中におもちゃが沈めてあるだけらしい。
子供だましだと、そう思った。
結局のところ、祖母の言う事はいつもただしくて、産まれた時から彼女の意図を汲めないでいた私は、どこまでも愚か者だったのだろう。
アクアリウムに魚を入れずにおもちゃを入れて売り物に、だなんて、それは確かに、馬鹿みたいな――
――馬鹿みたいな店だと、そう結論付けようとした私の目の前で。
おもちゃだと思っていた恐竜の目が、ぱちりと開いて。
とても作り物だとは思えない、綺麗な、それこそ海のように美しい青い瞳がこちらを見つめ返したものだから、私は柄にも無い小さな悲鳴を上げて、その場から軽く後退ってしまった。
そんな私を見て首を傾げる恐竜に、心臓が早鐘を打ったけれど。
しかし混乱よりも先に後ろにもある水の容器の存在が頭にやってきて、私は危うく大惨事を引き起こすところだった自分の軽率さと、それから、それ以前に脳内を占めていた「子供だまし」という感想を恥じた。
と、
「お客さん、このお店は初めてだね」
奥から、柔らかな印象の男性の声がして。
びくり、と肩は跳ねてしまったけれど、私はどうにか、今度はその場から動かずに済んだ。
「ごめんね、驚かせてしまって」
現れたのは、声の印象通りの見た目をした、初老の男性だった。
喪服のような真っ黒な装束に、青白い頬と灰の髪。両脇が鮮やかなアクアリウムに彩られているせいもあってか、まるで男だけが、白黒写真からそのまま歩み出てきたかのような印象だ。
正確には、ただ一点。左胸のポケットの上に描かれた、三日月にも似た刺繍だけは、小さいながらも黄金のような輝きを放っているのだが。
「ああ、いえ。はい」
どうにか私が絞り出せたのは、何に対してかもわからない、要領を得ない返答だった。
一拍間を置いてどんどん恥ずかしくなって、かあ、と頬が熱を持つ。
しかし男性はそんな私にいちいち追及したりはせず、カツカツと小気味良い革靴の音と共にこちらにやって来たかと思うと、例の恐竜が入った水槽を指さした。
男の指に反応したのか、赤い恐竜は器用に尻尾をくねらせながら、ガラスの前へと泳いできた。少し目を離してみてみれば、それはまるで、金魚のようでもあった。
「これはね、ティラノモン。見た目は怪獣みたいだけれど、大人しくて頭が良くて、飼いやすいデジモンだよ」
「デジ……モン?」
「この店のアクアリウムの中にいる生き物たちの事さ。色んな子が居るから、他の水槽も見てごらん」
言われるがまま目を動かすと、確かに、男性の言う通り、水槽の内装にも負けないくらい鮮やかな、恐竜ーーティラノモン同様、一見おもちゃのようにも見える小さな生き物たちが、思い思いに、水の中を動き回っていた。
恐竜、鳥獣、天使と悪魔。ロボットやぬいぐるみ、果てはなんだかよく解らない、単純な図形が組み合わさっただけのように見える何かまで。魚の類も居るには居るが、数はそう多くは無くて、それらにしたって見た事の無い種類ばかりだった。
そんな、嘘みたいな見た目のものばかりなのに――皆あたりまえのように、水の中で、息づいている。
「あっ、あの、これって」
「やっぱり、君、デジモンの事を知らないんだね」
「すみません……」
「いやいや、責めている訳じゃ無い。むしろそういうお客さんは久しぶりなものだから、私達としては嬉しいくらいだよ」
「そう、ですか……すみません」
詰まって出てこない声が代理として用意するのはいつも謝罪の言葉だった。
むしろそれが人の気を害すると、頭では解っているのに、だ。
だがやはり、男性はそこに関しては何も触れず、「好きなだけ見てくれていいからね」と優しく声をかけてくれた。
……客商売なのだから、当たり前かもしれないけれど。
でも、少しは、気持ちが楽だった。
同時にもう一度、当初の「子供だまし」という印象が、ぶりかえすように、申し訳なかったが。
別の棚を見るべく足を進める。
一度だけふと振り返ると、私の移動を察したのか、ティラノモンがばいばいと手を振っていたので、私も胸元で小さく振り返した。
色んなデジモンが入った水槽を見て回る。
ガラス面には、年甲斐も無くはしゃいでいる自分が映っていた。
ひとかけらだとしても、これは祖母に奪われた時間だと気付いて、少しだけ自棄になっていたのかもしれない。
そうして順繰りに、ひとつひとつの棚を見て回って。
「……?」
これだけ色々な種類を見てきたというのに、それでもひと際艶やかな色合いのデジモンが入ったアクアリウムに、思わず私の目が留まった。
それは、ガラスの瓶だった。
香水瓶かと思ったのだけれど、それにしては大きい。となると洋酒の瓶……とかだろうか。
側面には波のような紋様が施されていて、栓の部分まで凝った装飾のガラス細工で出来た、それはそれは美しいガラス瓶。
底には星の混じった真っ白な砂と、同じくらい白い珊瑚に囲まれて、小さいが細部まで凝った形をしているボロボロの帆船が沈めてある。
そして、その中央。
ピエロのようなデジモンが、ただ1体、砂の上に横たわっていた。
深海のように静止した世界では、色合いこそ場違いなくらい派手で華やかな装束を身にまとっているけれど。衣服は上下とも酷く汚れてぼろぼろで、所によっては穴まで空いている。金属の装飾品にはひとつ残らず錆が浮かんでいて、おまけに顔の上半分を隠す白黒の仮面の端にはフジツボまで生えているような有様だ。
何よりも、その道化の肌は死人のように真っ白で。それで私は、白い珊瑚は死んだ珊瑚である事を思い出した。
彼の唇には、海と同じ青い色が塗られていて。その隙間から時折、こぽり、こぽりと白い泡が昇って行くので、それだけが、このデジモンがどうやら生きているらしいと思える証拠なのだった。
自分で思っている以上に、私はその、死に体としか思えないピエロのデジモンを見つめていたのだろう。
革靴の底が鳴る音にハッと顔を上げると、この店の店員らしい男性が、どこか複雑そうな表情で私達を見下ろしていた。
「あっ、あ……すみません。長居してしまって……」
「いやいや、構わないよ。それよりも」
その子、気になるのかい。と、男性はそう訊ねてきて。
答えには、いつものように迷う筈だったのに。
何故かその時は、私はほとんど反射的に、男性の言葉に頷いてしまった。
「そうかい」
僅かな間を置いてから、男性は軽く背を曲げて、私と同じ視線でピエロのデジモンを見た。
「この子はピエモン。見ての通り、ピエロのデジモンさ。神出鬼没の地獄の道化、と元いたところでは恐れられている種族なのだけれど、この子はそれにしたって珍しい、海を住処にしていたピエモンなのさ」
「していた、っていうのは」
「偶然だったのか。わざとだったのか。それはわからないけれど、この子は「海賊」と恐れられているデジモンの縄張りに入り込んだのさ。そうしてそのデジモンに襲われて、戦って、負けてしまった」
あっちに同種の別個体がいるけれど、見るかい? と男性は言ったけれど、私は首を横に振った。
まだ、この場所を離れたくなかったのだ。
「這う這うの体で彷徨っていたところを、たまたま見つけてね。保護したんだ」
とはいえ、と、男は瓶の側面を撫でる。
ティラノモンの時とは違って、ピエモンが動き出し、寄って来る事は無かった。
「この子はもうじき、死ぬだろう。私達の力をもってしても、この子の傷は、癒せなかった」
「……死んじゃうんですか」
「ああ」
男は頷いた。
「死んでしまうとも」
こんなやりとりをする物語を、昔、国語の教科書で見たような気がする。
こんな事を考えてしまうのは不謹慎極まりないかもしれないけれど、だけどこのデジモンの死は、それすらもどこか鮮やかであるような気がして、私はもう一度、じっとガラス瓶の中を見つめた。
見つめて――抑えきれなくなった気持ちが、雫のように、口から零れた。
「あの」
「うん?」
「この、えっと、アクアリウム……? は、その……おいくらですか?」
男は一瞬だけ目を見開いて、しかしすぐに、私が今までに見たどんな人間よりも温かくやわらかな印象を感じる笑みを浮かべて、口を開いた。
「いいや。お代は結構」
今度は、私が目を丸くする番だった。
「ここに居る子達は、確かに皆、うちの商品ではある。でもその子は……乱暴な言い方になってしまうけれど、それでも率直に言ってしまえば、不良品だ。それを承知で求めてくれる人から、お金なんて、取れないよ」
「いや、でも」
聞いた事がある。
美しい瓶というのは、それだけで相応の値段になる事もある、と。
生憎美術品の価値はほとんど全く分からないのだけれど、素人目にもこれだけ綺麗な細工を施された瓶だ。中の生き物が死にかけているからと言って、瓶の値段まで左右されるとは思えない。
なのに男性は首を横に振って
「いいんだよ。……君は、ピエモンだけじゃなくて、このアクアリウムそのものを「欲しい」と言ってくれた。この子の終の棲家を、穢さないでいようとしてくれたんだろう?」
慈しむような視線で、私と、そして、ピエモンを見るのだった。
それは、そうかもしれないけれど。
でも、それにしたって、と。こんな時、どんな言葉を返していいのかわからず口の中でもごもごと台詞を転がす私を後押しするように、男性は、さらに続ける。
「ならこれは、きっと、そういう運命だったんだ。デジモンを知らない君がここにやって来て、ピエモンを見つけてくれたのは」
「運命……」
「それに、何より。……ちゃんと自分を見てくれる人に看取ってもらえた方が、この子も幸せだろう」
運命だとか。幸せだとか。
曖昧で、客観的な概念を、口もきかない生き物に押し付けてよいのだろうか、と、そう思うのに。
何故だかこの男性が言うと、実際にそうであるような気もして。
結局、私は何の対価も払わずに、死にかけたピエモン入りのアクアリウムを引き取る事になった。
店の入り口付近にあった簡素なカウンターの上で、男性はてきぱきと瓶の梱包を始める。
慎重に巻きつけられた緩衝材は、瓶の装飾もその中身も、すっぽりと覆い隠してしまった。
「食事や清掃についてはもう気にするような段階では無いからね。出来る限り静かなところに置いて……ああ、そうそう。あまり強い光には当てないであげてほしい。お世話の部分に関しては、これで十分だから」
「はぁ」
「ただ」
既に瀕死とは言え、それだけでいいのだろうかと気の抜けた相槌しか出て来ない私に、ふっと真剣みを帯びた光を瞳に宿して、男性がぴん、と人差し指を立てる。
「ひとつだけ、必ず守ってほしい事がある」
「なん、でしょう」
「中のデジモンが完全に息絶えるまで。けして瓶を割ってはいけないよ。繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝が溢れてしまうからね」
「……?」
私は思わず首をひねった。
中に生き物がいるのに瓶を割ってはいけないだなんて、そんなの、当然じゃないか、と。
それに、彼が最後に付け加えた言葉もひどく不明瞭で、しかし水以外の何が溢れ出すのかについて、私の頭では単語を補完する事すら出来なくて。
だけど同時に、男性があまりにも真摯な眼差しを向けるものだから、結局、私は聞き返す事すらしないまま、こくり、と小さく頷いただけだった。
金の縁どりが入ったお洒落な箱に収まった酒瓶のアクアリウムを両手で抱えて、店を出る。
帰り道は、少しでも揺れないように、と、ゆっくり、ゆっくり歩いた。
こんなに大事に物を運んだのは初めてだ。
祖父母の遺骨だって、こんなには気を遣わなかったのに。
*
慎重に鍵を開け、狭いマンションの一室の、さらに狭く短い廊下で今日に限って躓いたりしないよう、おっかなびっくり歩みを進めて寝室兼リビング兼私室に辿り着いた私は、丸い机の上にそっと箱を置いて、細心の注意を払いながら、中から瓶を、取り出した。
瓶の底が机に乗っかって、ことりと幽かな音を立てた時でさえ、その何倍もの大きさで心の臓が跳ねたように思う。
もちろん緩衝材を外すのにだって、玉葱の薄皮でも剥くみたいに、爪の先を使って徐々に引っ張りながらという有様で。
そうこうして、ようやく、あの美しいガラス瓶の全てが安っぽい電灯の下にさらけ出されて
「え?」
私は思わず、目を疑った。
珊瑚の遺骸や船の残骸、どころか星の砂まで、いくら私が神経を張り詰めながら持って帰ったとはいえ、瓶の中の全ては店に在った時と寸分狂わない位置に、佇んでいた。
でも、私がうっかり呼吸さえ止めてしまう程目を引かれたのは、そういった違和感に対してではなくて。
むしろあからさまなくらいに、酷いくらいに。この死んだような世界において、それは明確な変貌だった。
白い砂地の中央。そこがまるでサーカスの丸い舞台であるかのように、あの時一度だってその目を開かなかったピエモンが、ピンと背筋を伸ばして、立っていた。
そして次の瞬間、ピエモンはその場で、くるくると踊り始めた。
古いオルゴールに備え付けられたバレリーナの絡繰りみたいに、器用に、片足だけで、ピエモンは何度も回り続ける。
足だけじゃない。ターンに添えられた腕の動きは指先ひとつに至るまで神経が張り巡らされており、千切れて、錆て、汚れて、穴だらけの身体なのに、花が咲いたみたいに、優雅だった。
陸地だろうと私じゃ到底できっこない回転。しかしその後にゆったりとついて回る肩から伸びた青いリボンや燕尾状の裾は、彼が確かに水の中に居る事を、何よりも雄弁に、物語っていて。
私は店に居た時の非では無いくらい、片時もピエモンから目を離せなくなる。
ああ、こうやって開いた彼の瞳は、赤い。何よりも血の通った色だ。
これから死んでしまうだなんて、とても信じられないくらい、痛々しい程に鮮烈で、燃え盛るように暖かな赤色だ。
白黒の仮面を被った彼の顔がこちらに向く度に、私の何の変哲も無い土塊色の瞳は彼の両眼に引きつけられて、そうすると、ピエモンは私の視線に何度も何度も、安心したようにはにかむのだった。
自分に観客が居る事を、まるで噛み締めているかのように。
……だけど、そんな時間はそう長続きはしなかった。
ふと、ピエモンの装飾以上にゆっくりと、彼の指先が描く円を追ってたゆたう煙が、目についてしまったからだ。
瞳とは違って、赤茶けた煙だったけれど。
それが本物の、彼の血の色だった。
「だめっ!!」
気付いた私の行動はほとんど反射的だった。
あれほど揺らさないように気を付けていたアクアリウムの両端をがっと鷲掴みにして、大声を、張り上げてしまう。
私の豹変に当然のように驚いたピエモンは目を丸くしながら足を止めて、引き伸ばされる要素を失った血煙が、僅かに立ち昇りつつも、彼の胸の付近で停滞を始める。
彼のダンスは、止まってしまった。
ああ。どうして。
どうして、こんな事を。
「だめ、だめだよ。そんなことしたら、死んじゃう」
最初から知っていた事じゃないか。このピエモンという生き物は、もうすぐにでも、死んでしまうのだ。
で、あれば。最期くらい、自分の好きなようにさせてあげるべきなのに。
頭では、解っているのに。……なのに、縋りつくように、引き留める言葉が零れていて。
対するピエモンは、最初こそ不思議そうに首を傾げていたものの、すぐに気を取り直したようににこりと微笑むと、懐から真っ白なハンカチを取り出した。
彼はそのハンカチを、ハンカチと同じくらい白い手を握り締めた中にぎゅうぎゅうと押し込んで――次の瞬間には、彼の指の隙間からは小さな花畑と言って何ら差し支えない程の、百花繚乱、豪華絢爛なブーケが、飛び出す絵本の1ページみたいに出現する。
「!」
呆気にとられる私の方に、ぐい、と。
ガラスに隔たれてけして受け取る事など出来ないそれを、ピエモンは何のためらいも無くこちらに差し出してきたのだ。
その時。青く塗った唇が、僅かに、動いた。
「笑って」と。
少なくとも、私の目には。
そんな言葉を、描いていたように見えた。
なのに。
なのに。
ピエモンの望みとは裏腹に、私の目尻からは涙が伝い始めた。
目の前のデジモンに対して溢れた感情では無い。
私自身の「これまで」が、頭の中で洪水を起こしたのだ。
私は道化だった。
ずうっと、ずうっと。道化だった。
生まれた時から誰にも必要とされていなかったのに、誰かに愛されようと無駄な足掻きを続けて狭い舞台の上を無様に転がりまわる孤独な道化。
笑い者にすら、なれなかった。滑稽な醜態も無様な失敗も、誰一人として、気にも留めてくれなかったから。
「私」
片方の手をブーケから放したピエモンが、流石に困惑したような表情で私の顔を覗き込む。
向こうからは、歪んで見えているのだろうか。
「せめて、あなたみたいな。綺麗な道化に、なりたかった」
歪んでいるのだろう。
最期の舞台に立ったピエロに、汚い嗚咽交じりの言葉しかかけられないような人間が、真っ当である筈が無いのだから。
私は両手で顔を覆い隠す。
自分で作った暗闇の中で、そのまま泣き続けた。
ずるずると鼻をすすって、しゃくり声を上げて。
……その隙間に、こんこん、と。連続した鈍い音が響き始めたのは、いつからだっただろうか。
「……?」
ようやく気付いて。
再び、視界に光を取り込んで。
見れば、変わらずに卓上に置かれたガラス瓶。その内側を、ピエモンはノックでもするように、拳で叩いていた。
また、私が自分を見ていると気付いたピエモンが唇に弧を描く。
持ち上がった端からこぽりと漏れた泡の塊には、やはり緋色が混じっていた。
「どう……したの?」
しかしピエモンはノックを止めない。
この仕草自体が、私への要望だと言わんばかりに。
彼は、扉を叩いているのだ。
「出して、って、こと?」
ピエモンは大袈裟なくらい首を縦に振った。
「でも、どうやって?」
私が尋ねると、ピエモンはブーケを放り投げた。
花束は茎の部分を下にして、ゆらゆらと揺れながら白砂の上に落ちていく。
水の中だから、ゆっくりだ。
でも、もし。
軽いブーケでは無く、重たい水の入った瓶を。
水の中では無く、今、ここで。私の胸の高さくらいから、落としたら。
--中のデジモンが完全に息絶えるまで。けして瓶を割ってはいけないよ。
あの店の店員の声が、耳の奥でこだまする。
――--が溢れてしまうからね。
「ねえ」
私は置いた時と同じくらい慎重に、ガラスの酒瓶を持ち上げる。
「あなたの舞台は、そこにあるの?」
今からしようとしている事からは、考えられないくらいには。
ピエモンは、ただ、静かに頷いた。
「連れて行って」
私はアクアリウムを手放した。
ガラス細工の砕ける音。
水飛沫の飛び散る音。
砂は舞い上がり、珊瑚は踊り、沈没船が出航する。
「……!」
一瞬にして、私を取り巻く世界の全ては塗り替わった。
部屋の景色を呑み込むようして組み上がった静寂の海の舞台。
その上には、私と、ピエモンだけが、立っている。
大きな身体だ。酒瓶に収まるくらい小さかったピエモンは、筒状に整えた特徴的な髪の分を除いても、ゆうに2mはある大男だった。
でも、不思議と恐ろしくは感じない。
ほつれて、血まみれで、錆び付いていて、死にかけていても。ひどく、残酷なくらい、彼は美しい道化だった。
私は、彼と同じ舞台に立っていた。
生まれて初めて、立ちたい所に、立っていた。
「連れて行って」
同じ台詞を繰り返す。
自分がどんな顔をしているのか。もう、解らなかったけれど。
だけどピエモンは、微笑んでいた。
微笑んで、膝を付き、体躯にしては細い腕で、彼は私を抱き寄せる。
ピエモンの穴の空いた胸に耳をぴったりと寄せて、そうしてから、私も彼を、抱き返した。
どれだけ耳を澄ませても、彼の中心から心臓が動く音は聞こえなくて。
だから私は、そっと目を閉じた。
喜劇の舞台に幕を、下ろすように。
*
事件性は無いらしい。とは言っても、独り暮らしの女性の変死だ。
少なくとも地元の新聞は、フローリングの上での溺死について、それなりに記事のスペースを大きめに割いていた。
しかしたった1枚紙をめくってしまえば特産品やら工芸品にまつわる明るいコラムへと文章は早変わりし、その下半分は健康食品の宣伝が枠を占めている、といった様相である。
それ以上興味を惹かれる部分も見つけられず、男は新聞を畳んで机の端に置き、パイプ椅子から立ち上がる。
どうやらアクアリウムを求めて、新たに客が、来たようだった。
舞いのように美しく、直剣のように刺さる話でした。連載されているのと毛色が違うのを書ける幅の広さに感服します。
リアリティと無常観が同居する女性の経歴と心情描写のおかげで、彼女が実体のない檻に捕らわれているように思えて、後に彼女自身が表現する道化という単語が憎たらしい程にぴったりだと思えてしまいました。
だからこそ、水槽の中の道化という自分と重なりながらも自分を見て微笑んでくれる相手の元にいったのも仕方ないのかもしれません。
今度この店に訪れる客はどんな思いを抱えて、また水槽の中のデジモンとどう関わるのか。楽しみにしております。
感想です!
いつもお世話になっております(?)!
快晴さんのご趣味溢れる設定と描写、大変楽しませていただきました!!!
まず冒頭から引き込まれ、スクロールをする指が止まらないこと止まらないこと……! もう純粋に文章が面白い!!
主人公の人生、その人間関係のリアルさに胸が痛みますね。
日常の中に溶け込む非日常が、実は意外と近くにあるのかもしれない。そう思うと街中の路地裏などに足を踏み入れたくなってしまいます。個人的にはそういう場所は大好きです。
怪しいけれど興味をひかれるお店と店主。アクアリウムの鮮やかさは、まるで映画のワンシーンを見ているかのような感覚になりました。
そしてめちゃくちゃ可愛いティラノモン。何このアクアリウム欲しい。そんな癒しパートも束の間、水底に沈むピエモンの儚さと美しさ……!!
なんて大好物、いえ素晴らしいのでしょう。店主の忠告が文字化けしてるの最高に痺れました。
アクアリウムの舞台で美しく躍りながら最期を迎えようとする道化と、そこに夢と羨望を重ねて禁を犯した主人公。その結末さえも美しい。現実では瞬く間に風化していく事件となるであろう、呆気なさとの対比がまた素晴らしいですね。
読んでいて切なさが込み上げてくる作品でした。とても美味しかったです。
次はどんな出会いと物語が描かれるのか、楽しみにしています!
組実(くみ)
前々から思ってたんですけど、瓶の中の推しって多分健康にも良いと思うんですよ。
という訳で本作をお読みいただきありがとうございます&新年あけましておめでとうございます。皆さまいかがお過ごしでしょうか。私はこのクソ寒波で右の親指が5か所程あかぎれで裂けまして、キーボードをタップするのも辛いです。快晴です。
このお話は去年の11月下旬。ペンデュラムZシリーズ第一段に、我が最推しデジモン・ピエモンが強襲デジモン枠として収録されていると知った興奮を抑えられず、「ディープセイバーズにピエモンが出るって事はピエモン水辺にも居るって事でしょおおおおおおっ!?」みたいなノリに試行錯誤を繰り返して出来た作品であります。ボロボロだったのは私の趣味です。いいだろう。
こうして出来上がったものを読んでみると、話の持ってき方が他の自作短編と似通っているような気もしますが、まあ快晴さん不幸な女が人外に救われる話が大好物なのでそれも致し方なしですね。……毎回趣味にしか走ってないって事だよな……(若干の反省)。
さて、この『デジモンアクアリウム』ですが、ネタが思い付き次第書く一話完結モノのシリーズ、みたいな感じで今後も気分と筆が乗ったら書いて行こうかな、と思っています。
その上で、もし「こいつを水に沈めて下さい」といった要望等ございましたら、リクエストも受け付けていますので、本作に返信していただくか、Twitter(@CO8N8xkwcgZz0DM)等で、お気軽にお声がけ下さい。
もちろん『Everyone wept for Mary』の3話は(できれば2月くらいに)投稿しようと考えていますし、これとはまた別にいくつか短編小説も考え中だったりします。2021年も体力と気力の続く限り、首の回る範囲でどんどん趣味に走って行きたいですね。
それでは、最後まで『デジモンアクアリウム』ご覧いただき、本当にありがとうございました!
また次の作品でお会い出来れば、幸いです。