四角の箱の中、光の三原色によって様々な物が形を成す。赤い恐竜、臀部に現代兵器を携えた昆虫、人が乗れるような大きさの花が舞い、その片腕に剣を宿した白銀の騎士が名乗りをあげる。ブラウン管テレビに釘付けの幼児の瞳は、反射光以外のもので輝いている。好意を、興趣を、渇仰を、憧憬を。彼女は抱いていた。
『デジタルモンスター』。もとい、『デジモン』。小さな手のひらサイズの育成玩具から始まった空想は、アニメーションに始まり、漫画、小説、テレビゲームなど、様々な媒体へ広がっていく。物心付いた頃から共にあったそれは、幼児の半身と言っても過言ではない。登場した道具の玩具を星のように見つめ、両親に縋って手に納めることを望む。
なんてことはない、よく見る光景だ。どんな人間の中にもあるような、届く筈のない憧れを『憧れ』のままに求めた光景である。
しかし、人とは変わりゆくものだ。川を流れる水のように、もしくは水に流される石のように。寸分狂わず同じままではいられない。周囲の大人たちに否定されるまでもなく、友人同士の些細な会話で笑われてしまうような小さなことで、きっかけは十分。
そうしていつしか憧れは夢に変わり、夢は夢物語とされてしまう。たとえどれだけ純真で透き通った原石でも、持っていることすら忘れてしまうほどに仕舞い込まれては意味がない。
幼児は、デジタルモンスターが好きだった。
少女は、デジモンが大好きだった。
女は、デジモンが──。
ざり、ざり。乾いた何かを擦りつける音が、空間に響いている。
石目の見えるタイルに覆われた床、それに敷かれる黄ばんだ新聞紙。日光を反射する白い壁には人ひとり覆い隠せるような大きなキャンバスが立て掛けられていた。そこには踊るような筆跡と色彩がある。写実的と言うよりは抽象的というべきか、アナログな手法で描かれているのはデジタルをイメージさせる多角形のパターンたち。
それにペインティングナイフを走らせる、座り込んだ女が一人。頭にはヘアバンドのように紅の手拭いが巻かれ、色素の抜かれた練色の髪がしっとりと汗ばんでいる。身に纏った黒のツナギはシワだらけで、あちこちが絵の具にまみれていた。
「……」
言葉はない。視線は揺るぐことなくキャンバスに注がれている。油絵の具にはメディウム──絵の具の質感を調整するための混ぜ物──が混合されているようで、一般的な滑らかなバターのような質感ではなく、砂絵を思い起こす凹凸が影を作っていた。女は手にしていたものをカラフルなパレットの上に置き、腰をあげる。キャンバスに背を向けて数メートル離れ、全体像を俯瞰する。
ピントを合わせるべく細められた瞳は鮮やかなターコイズグリーン。人工的な色味のそれは、生まれ持ったものではないことが伺えた。
「ふぅー……」
深く、ため息をひとつ。
再びキャンバスに近寄り、先ほどまで握っていたものよりも大きなペインティングナイフを手に取った。
そして。
ギャリギャリギャリ!
工事現場で聞くような、大きな摩擦音が響く。キャンバスに乗っていた絵の具たちが削り取られていく。先程乗せたばかりのものだけではなく、乾き切って絵の一部と化していた物も、女の力によって剥がされた。ただのカスと絵の具が混ざり合った物体が新聞紙の上に散らばる。カラフルな色合いも相まって紙吹雪のようにも見えるが、その実態は顔料と油の混合物である。
「もったいないねぇ」
いつの間にか、初老の男性が部屋に入ってきていた。白髪混じりの黒い短髪に、穏やかな褐色の瞳。オリーブ色の作業向けエプロンに隠れてよく見えないが、下にはノリの効いた白いワイシャツを着ているようだった。
彼は扉付近から女の背を暖かな目で見つめ、言葉と共に歩み寄ってくる。
「教授ですか」
「うん。佐々木さん、一度家に帰りなさいな」
「いやです、まだ納得ができません」
名を呼ばれた女──佐々木朱子(ササキアキコ)は男性の方へ振り向くことなく、その右手を動かし続ける。男性がわざとらしく肩をすくめたが、彼女の視界に映っていない動作に触れられることはない。
「もう一週間は篭りきりでしょ。寝泊まりするなとは言わないけど、君ってば休みなく睨めっこしてるじゃない。大切なんだよ、息抜きって」
「……C1室を借りる許可はおりています。自主制作なので締め切りはありませんが、区切りのいいところまでは進めたいです。夏季休暇は始まったばかりですので」
「君ねぇ……」
大きく隆起する場所も削り落とせば、キャンバスに塗られた下地材が露出する。佐々木朱子は絵の具ごと下地材が取れた箇所に目敏く気づいたが、眉を顰めるのみで終わらせた。
クレーターとなったそこは、離れて見てもわかってしまうだろう。全てを剥がしてやり直すのか、はたまた無くなってしまった分も上に画材を盛るなりするのか。そうして作業を止める素振りはなく、キャンバスに向かい続けている。
「気持ちはわかるよ、僕にもそういう時期はあったからね。」
肯定の意を返す男性の胸元で、首からぶら下げられた名札が揺れる。大学名、所属名。自分が何者かを示す情報たち。
一段と目立つ男性の顔写真の隣には『鳴上正光(ナルカミタダミツ)』と書かれていた。
「でもね、それで体を壊したら元も子もないんだよ。隙あらばエナジードリンク飲んでるのに気づいてないとでも思った? 研究棟のゴミ箱に入れなくてもね、缶を潰してる音でわかるから」
視界にこそ入らないが、画材や私物の影に隠れて、確かにエナジードリンクの空き缶で出来た山が形成されていた。一つ一つが潰されているため嵩は少なく見えるが、数そのものは小さいと言えないだろう。ご寧に市が指定するゴミ袋に入っている。
自身の顎を撫でながら「君ってば生真面目だものねぇ」と言う鳴上正光は、彼女を責めはしない。あくまで心配しているのだと訴えて、その心を動かそうとしている。
「……別に、大丈夫です」
「エナジードリンクってね、要はカフェインで無理やり脳と体を動かして『元気になります!』ってうたってるんだよ。寿命の前借り、なんて言う人もいるよね。離脱症状も辛いし、常用するような物じゃないんだ。今のうち頼るのをやめなさい」
「ですから、大丈夫ですって」
佐々木朱子は言葉を受け取らない。若さゆえにできる無茶とは違う、若さ故の捨て身。
エナジードリンク……正確には、それに含まれる『カフェイン』。同じく、エナジードリンク含まれる『糖質』も脳の栄養源としては正しい。最適な摂取量を守った上で、一時的なブースト剤とするのならば問題はない。
しかし、彼女はそれを摂取し続けている。度が過ぎれば薬も毒になるように、数百円で購入できる清涼飲料水とて毒になる。事実、エナジードリンクを長期摂取、もしくは多量摂取した若者の健康被害は少なからず事例がある。
「何年か前に一年間飲み続けた子はね、手足の震えが酷くて筆が持てなくなったよ」
「やめます」
即座に返された言葉に、鳴上正光は瞳を細めて柔和に笑った。
佐々木朱子の帰宅準備が済んだのは、太陽がとっぷりと地平線に沈む寸前だった。
夏休み中、延々と作業し続けるつもりだった彼女の荷物は多い。着替えや洗顔用品などの生活用品は程々に、様々な画材に資料を持ち込んでいた。それらを一度に持ち帰れ……などとは言われていない。むしろ「『制作』に関わるものは全部置いて行って、頭を空っぽにして休みなさい」とすら言われていた。
しかし、佐々木朱子の思考は『空想』に支配されている。実在しないものを他人に見えるようにするには、まず自分が形にしなければならない。だからこそ、彼女は筆を離そうとしない。
大学近くのアパートに一人暮らしという環境は、彼女の制作意欲を刺激するものでしかなかった。
故に、友人のアウトドアワゴンを借りてまで荷物を運び入れたのだ。荷運びの苦労が泡に消えるのは悲しいが、何も出来ない状態こそ耐えられるものではない。
カァカァと鳴くカラスの声と、ゴロゴロと回るワゴンの車輪がリズムを刻む。夏特有の日の長さは、肌に光を染み込ませてやまない。心做しか服がじっとりと張り付いて、不快感が押し寄せてきた。
「……まずは風呂、かねぇ」
欠伸を一つこぼし、帰宅後の算段を立て始める。鳴上正光の言葉をうけ、さすがの彼女も残りのエナジードリンクは冷蔵庫の奥に眠らせるつもりだ。
しかし制作を止めるとは言っていない。大学に置いたキャンバスは持ち帰れなかったが、自宅は自宅で作りたいものに手をつけることは出来る。 休めと散々言われたにも関わらず、この考え。図太いのではなく我が強い。頑固が過ぎる。よく言えばアーティスト気質、悪く言えばきかん坊。このままでは生きていくのも大変だろう人柄なのが、この佐々木朱子である。
そして、彼女は特に意識することもなく、毎日通る通学路を見渡しながら進んでいた。すると。
ごそり、と。
視界の隅で何かが動いたような気がした。
佐々木朱子は視力の良い人間ではない。メガネなどを用いて視力を矯正する必要はないが、近眼ゆえ遠くのものはボヤけて見える。それでも、大まかな輪郭を把握するくらいはできた。
大きさは成猫ほどだろうか。三角形の耳らしきものが二つに、白っぽい尻尾のようなもの。それらから、野良猫かもしれないと彼女は考える。
野良の生き物に触れるのはあまり好ましくない。
後先考えずに助けることができる人間を否定しているわけではない。ただ、『間違いではない』ことと『正しい』ことは矛盾しない、と言うことだ。
故に、彼女はソレから目を背けようとした。
「う、うぅ……」
そう。背けようとした、のだ。
鼓膜に響く呻き声に導かれるように、より『それ』を凝視してしまう。
太陽光が届かない街路地を、街灯が照らし始める。チカチカとした点滅の後、蛍光灯の白い灯りがソレのシルエットに色をつけた。大きさと色合い程度しかわからなかったソレが浮かび上がる。
耳のように見えたソレは、銀色の棘らしき出っ張り。光沢を放つヘルメットから飛び出していた。しかし、それだけ。それだけなのだ。いや、尻尾はある。白に藤色のボーダーが入った、狐のような形の尻尾。
だが、『胴体がない』。生物としてはあまりに不可解で、ぬいぐるみのようなフォルムをしている。生きているはずのないもの。
佐々木朱子は目を反らせなかった。佐々木朱子は釘付けになった。
──それを、彼女はよく知っている。
「どういうことだ……?」
デジタルモンスター。『空想』に登場する存在。
『カプリモン』が、そこにはいた。
「……やってしまった」
自宅にて、佐々木朱子は頭を抱えている。
眼前には薄汚れたカプリモン……らしきモノ。道端で見つけたそれを、佐々木朱子は衝動的に抱き上げて、持ち帰ってしまっていた。まるで雨の日に捨て犬を見つけた不良のごとき、迷い無き一連の流れであった。
呻き声のようなものは聞いた。呼吸はしている、ぬくもりもある。目蓋らしきものは閉じている。まるで眠っているだけのようだ。
しかし、それだけで『生命体』と認められるのだろうか? 現代には、音を出す玩具であるとか、呼吸のような動作をする玩具であるとか、体温ほどに発熱する機能を持つ何某であるとか、所詮は探せばいくらでも出てくる程度の代物だ。技術の進歩というやつである。
仮にこれが目を開けて動き出したとしても、ペットロボットなぞ実在するわけで……。
「まぁ、仕方ないか」
『本物』にしろ『模造品』にしろ、持って帰ってきてしまった事実に変わりはない。ほぼ確実に模造品だろうソレは、清潔にして部屋に飾るくらいにしか『使い道』はない。
改めて、問題のブツを見る。汚泥以外にも、枯れ葉だの毛玉だのありとあらゆるゴミを引っ付けていた。最初に目にした際に、白を認識できたのが奇跡のような汚れっぷりである。
中に入っているであろう機械を入れたまま洗うわけにもいかない。中身を取り出しガワを押し洗いするべく、佐々木朱子は『チャック』を探すことにした。
汚れ放題のものに触れるのは気が引けるが、素手の方が触覚は鋭い。ガラス片が刺さっていないことを祈りながら、改めて抱き上げる。
薄汚れた犬猫を撫でているような感覚。毛流れらしきものはあるのか、一定方向の逆に手を動かせば、少し突っかかるように毛が当たる。ぬいぐるみだのを購入した記憶が遠い彼女は、のんびりと「細かい作りなんだな」と感嘆が漏れた。
足を風呂場に向け、桶にぬるま湯を溜める。中々見つからない『チャック』のことを考えながら、ヘルメットの装飾も外さねばなるまいと手をかけた時だった。
「くぁ……」
大きく開いた口と、瞬く瞳。パチリと交わった視線。
「な、な……⁉︎」
「んぇ? ……だれぇ⁉︎」
大声を上げる『無機物であるはずのもの』。
たかだか玩具サイズの大きさには仕込めそうにない、流暢な動きと飛んできた唾液。ぶわりと逆立った毛が手にへばりついた。
幼い日に隣人の犬に舐め回された記憶が蘇る。あの時のヨダレはこんな感じで生暖かかったとか、もふもふの毛が肌に触れて心地よかったとか。そんな些細な思い出だ。
さりとて、手の内にいる『それ』を『生命体』であると断ずるには十分な記憶でもあった。
「助けてくれてありがとな! しかもメシまでご馳走になるなんて!」
「あぁ……うん。別にいいよ、カップ麺だし」
ポップな字体で『大盛り』と書かれた器から麺が啜られていく。よくあるトッピングの施された味噌ラーメン。メンマ、コーン、ナルト、ワカメ。お湯で戻された『かやく』が生き物の口内に消えていった。
帰宅してすぐ夜食用に作っていたため、わざわざ用意した訳ではない。ただ、みるみるうちに消えていく食品たちがなんとなく幸せそうに見えた。
「おれ、カプリモン! おまえは?」
『カプリモン』、幼年期II。レッサー型。視力が弱く、超音波で対象を認識するデジモン。 佐々木朱子の脳内を『デジモン』の知識が通り過ぎていく。眼前の個体は超音波なんて使わずに、尻尾で器用にフォークを掴んでもしゃもしゃとラーメンを食べているが、何故なのだろうか。個体差というやつだろうか。
「……佐々木朱子」
「ササキ? アキコ? どっちが名前なんだ?」
首を……否、首にあたる箇所がない故に、身体ごと傾げるカプリモン。デジタルモンスターには苗字などない筈だが、その制度は知っている様だ。
「朱子だよ」
「じゃあアキコ! よろしく!」
花の咲くような笑顔というよりは、太陽のような笑顔というべきか。湿気を吹き飛ばすようなカラリとした笑みは、制作し続けた上に大量の荷物を運んで疲れた彼女には毒である。
しかして、不思議とその健全な心は染みていった。
目が合った時、互いに混乱しながらも佐々木朱子がギリギリ絞り出せた「身体洗っていいか?」の一言。カプリモンはキョトンとした後に、にこやかに是と答えた。
お陰様で今の彼──デジモンに性別はないとは言うが、仮にそう呼称する──はフワフワになっている。汚れが落ちて本来の色味である白と水色を取り戻した体毛は、佐々木朱子と同じシャンプーの香りを漂わせていた。
「カプリモンは……『デジモン』だよな?」
「そうだよ。アキコはニンゲン?」
「まぁ、生物的にはそうなる」
「へぇー、ナマで見たのは初めてだ!」
「デジタルワールドには、居ないのか」
「おれは見たことないなー」
頬に付いたワカメを気にする素振りもなく、カプリモンは質問に答える。彼からすれば、なんて事ない日常会話のようなものなのかもしれない。
しかし、佐々木朱子からすれば大学入試の時ほどに心臓がうるさいものだった。
佐々木朱子は『デジタルモンスター』という作品のファンである。アニメ作品であるとかゲームであるとか、所謂『新作』に触れることこそ無くなっていたが、幼少期にはテレビに齧り付いてアニメーションを視聴していたような人間である。
幼い頃に見た作品というものは、良くも悪くも心に根深く住まうものだ。絵本を読んだ幼児が勇者やお姫様に憧れるような、そんなありふれた話。
「でも、人間の存在は知ってるんだな」
そんな彼女ゆえに、些細なことが知りたくて仕方がない。
普段ならば聞き流してしまうような、引っかかってもそのままにしてしまうような。そんなことの『その先』が知りたくなってしまう。
「こっちが見える場所とか、いろんなこと知ってるヤツとかいるんだ! お前らのことはそういうので知ったぜ」
「ふぅん……」
確かに、デジモンの『設定』からして多くの知識を蓄えているような文章が記載されている。
こちらが一方に知っているだけではなく、あちらからも知られているのは有り得ることだろう。
「でもさー、お前らって結構その……ヤバン? なんだな」
「いきなりなんだよ」
「だってよ、せっかくこっちに来れて嬉しくて歩いてたら、いきなり追いかけられたんだぜ。『ゆーま』? とかなんとか言われてさー」
「あー……」
おそらく、『UMA』。未確認生物だと思われたのだろう。遠目から見ればギリギリ犬猫で通せるかもしれないが、近場で見たら誤魔化しは効かない。
ぬいぐるみなどであれば一頭身でも問題ないが、この様子から察するに『ぬいぐるみのフリ』なぞ考えもせず動いていたに違いない。
何も知らぬ人間が見れば、中玉スイカほどの動物の生首が動いているようなものだ。しかも人語を介している。佐々木朱子のようにハイテクな玩具だと考えるにしろ、未知の生物だと考えるにしろ、間違いなく人目をひく。
面白がって捕まえようとする人間がいない、などとは言えない光景だ。
「まぁ……うん。一人だと目立つんだよ、カプリモンは」
「そうか? 幼年期ぐらいその辺にいるだろ?」
「居ないよ」
「あ、そっかぁ! こっちには居ないんだっけ」
こちらのことをぼんやりとは知っていても、常識外の世界であるということを忘れていたらしい。自国を出たことのない人間が、初めて旅行した時のようなものだろうか。
「ごちそうさまでした!」
器の中身はすっかりカラになっていた。そこまで長い間、言葉を交わしていた訳ではない。カプリモンに早食いの気があるのだろう。いつの間にか、頬に付いているのがワカメだけではなくなっている。細かな食べかすだらけだ。佐々木朱子は彼の幼児のような有様を見ていられず、ウェットティッシュを取り出して口元を拭ってやった。
実際、幼年期のデジモンではあるので幼児に違いはないのだが、受け答えは相応に可能だ。進化状況よりも精神が熟しているが、子供っぽさが抜けないといったところだろう。
スープなどの汚れと共に具材を取れば、カプリモンの口元は少し湿っているだけとなった。佐々木朱子が勝手にした行為にも関わらず、にこやかな顔で彼はお礼を口にする。
「ありがとう、アキコ!」
「いや、こっちこそいきなりごめん」
「ううん、おれこそ食べ散らかしてごめん。よく『食い方が汚い』って言われるんだけどさ、中々なおせないんだよな〜」
流石に、今まで一人で生きてきた訳ではないようだ。それでも『こちら』に来た。
「いいよ。ただ……まだ、知りたいことがある」
一体、なんのために?
「カプリモンは、どうしてリアルワールドに行きたいと思ったんだ?」
別世界に住まう生き物。デジタルモンスター。
一枚の紙の裏と表であるように、その距離はとても近くてとても遠い。デジタルワールドからリアルワールドに来たことを『嬉しい』などと言う存在、その思考が気になってしまう。
会いたい相手がいた、とか。行きたい場所がある、とか。そんな、形のある何かを知りたい。もしも迷い込んでしまっただけなら、それはそれで良い。
けれど何か具体的な『目的』があるなら、一体ソレはなんなのだろうか。
「ん、えっと……」
その言葉の先が、きっと、実りある物のような気がして──。
「……なんとなくだな!」
──所詮は、予感でしかなかったことに崩れ落ちた。
その後、カプリモンは佐々木朱子の家に住まわせてくれないかと頼み出た。本人曰く、しっかりと『リアルワールド』を見て回りたいらしい。彼女に断る理由はなく、明日は在学中の大学周辺を案内することになった。
すやすやと寝息を立てて、深い眠りに落ちるカプリモン。パイプ式の組み立てベッドの上に転がる彼を横目に、佐々木朱子はボンヤリと月を見上げている。風呂も着替えも明日にして、汗が染み込んだツナギのまま。チリンチリンと涼やかな音色を落とす風鈴と、ささやかな風を送る扇風機のモーター音が彼女の鼓膜を揺らす。
佐々木朱子は、なぜ自分がカプリモンの回答に期待したのかがわからなかった。
例えば世界を救うためであるとか、例えば強くなるためであるとか、例えば誰かに再会するためであるとか。柄にもなく、そんなロマンのある回答を期待していた心に気づいてしまった。幼い頃の小さな憧れ、それが目の前にあるからと舞い上がっていたのだろうか。アニメーションやコミックの中のように、壮大で確固たる『何か』があることを期待していたのだろうか。
「……はっ」
漏れたのは嘲笑。カプリモンへではなく、自分自身へのもの。
己を一番知っているのは、己だ。こんな場所でこんなことをしている自分に、ロマンを求める資格はない。
誰に伝えるでもなく何かを諦めて、彼女はそのまま床に寝そべる。カーペットの敷かれていないフローリングはほのかに冷たくて、常温の体から熱を奪う。そうして幾許かした後に、まどろんで落ちていった。
「復唱、ぬいぐるみのフリをする」
「ふくしょー! ぬいぐるみのフリをする」
翌日、シャワーを浴びて着替えた佐々木朱子はカプリモンと『約束』をしていた。
デジモンは空想の存在だ。仮に正体がバレることがあればただでは済まないだろう。新種の生物として捕まるだけならまだ良い方で、『架空の生き物が実在した』なんて珍事であることが発覚すれば何が起こるかわからない。
「カプリモンはリュックの中な」
「えー」
「このサイズのぬいぐるみ持ち歩くのは恥ずかしいんだよ……」
結果、基本的に『ぬいぐるみのフリをした上でリュックサックに入れる』という案が出されたわけだ。
佐々木朱子の所属している大学は、俗にいう美大である。良く言えば個性的、悪く言えば奇人変人の集合地帯。たかがぬいぐるみごときで一目を引くことなどない。その辺にぬいぐるみ型のリュックサックやらバックを持ち歩く人間はいるし、意味もなくガスマスクをつける人間もいるし、ゲームやら漫画やらのコスプレをしている人間なんて四六時中いる。もちろん、先日の彼女のような作業着姿の人間も。
しかし、それはそれ。これはこれ。佐々木朱子という個人がそれを許容するかは別問題だ。
「ペット用のカバンとかあれば覗き窓とかあるんだろうが、私はこれしかなくてな」
「そんなぁ……」
カプリモンが入ることになったのは、なんてことない黒無地のリュックサック。普段は講義用にパソコンやノートなどを収納している物である。
大きさは十分。されど、彼が中から外を見ることはできないだろう。
「今回はこれで許してくれ」
「んー……ゆるす!」
「ありがとな」
ギリギリまで渋っていたものの、仕方がないと納得したらしい。念のためにと敷かれたタオルの上に着地して、モゾモゾと座り心地を確かめている。
「うん、大丈夫だ。いけるぜ!」
「よかった」
水分補給用にとペットボトルにスポーツドリンクを入れ、さらに保冷剤も追加する。天気予報では三十度を超えると言われているし、隠れているのは熱を吸収しやすい『黒』の入れ物。デジモンとて生き物だ、熱中症になる可能性はある。気をつけて損はない。
昨日は使えなかった自転車を漕ぎ出して、二人は大学へと向かった。
ちなみに佐々木朱子は着替えこそしたものの同じデザインの同じ色の服を着ているので間違い探し状態である。絵の具のついている位置が違うとかそんなレベル。閑話休題。
「おはようございます」
「おはよう、今日も制作かい? 無茶はしないようにね」
「ありがとうございます」
入学して二年も経てば、大学周辺の見回りをしている警備員ともすっかり顔見知りになっている。定型文の挨拶を交わして、彼女はいつも通り敷地内に足を踏み入れた。
この大学は山の中腹にある。山といっても大きさはなく、実に緩やかで丘程度の斜面だ。道中も坂が多く、向かうには上り坂だらけとなってしまう。
立地に問題があるようにも見えるが、自然の中にあるということのメリットは大きい。たまに猪だの雉だのが現れることもあるが、ここは美大。作品のネタが周辺に溢れているようなもの。制作のための道具であるとか機材であるとか、そういったものの貸し出しも行っている。『美大生』からすればむしろ好ましいぐらいだ。
デメリットが目立つわけでもないこの場所は、多くの学生に気に入られている。
……そう、気に入られているのだ。佐々木朱子のように休み中も訪れる者がいる程度に。
「デザイン? デザインってなんだ? アートではなくデザイン、必要な人のための設計図。顧客の求める物の創造……建築はアートではなくデザインだった……? それをどう長所として書くのか……」
学生用の休憩室には己が学んだ事に対して自問自答を繰り返すスーツ姿の者がいて。
「もうマジ無理……締切間に合わん……。なんであんな単元取ろうとしちゃったんだろあの教授が堅物だってのは有名な話じゃん私のバカァ!」
食堂に行けば半狂乱で夏季講義のレポートを仕上げる者がいて。
「すみません! 今から撮影するので移動願います‼︎ あっエキストラ参加オッケーでしたらどうぞ!」
図書館に行けばドラマ撮影をするグループがいて。
「あっきぃ! いま原画終わって着色中なんだけど手伝える⁉︎」
「ごめん今は無理」
「こっちこそ急にごめんね! 頑張るわ‼︎」
佐々木朱子が所属する科の空き教室では、彼女の友人が鬼気迫る表情でアニメを制作していた。気軽にあだ名で呼んでくる友人に対し、彼女は無情にも拒絶した。いつもの光景である。
どの場所にも、人間がいる。さすがにいつもは講義で使われている教室などは開放されておらず誰もいないが、開いていないから入ることなどできるはずもない。すぐ移動するわけでもなく三十分以上粘ったが、人の気配が消えることなどあるはずもない。
唯一誰もいなかったのは、佐々木朱子が先日まで引き篭もっていた制作用の空き教室。借りている鍵を使って入ったそこで、ようやくカプリモンは外の空気を吸うことができた。
「悪かった。こんな場所でしか出せなくて」
「だいじょーぶ! ありがとうな!」
ぽよぽよと床を弾み、出されたそこをくるりと見渡す。
佐々木朱子の描いているもの以外にもいくつかキャンバスが並んでいるが、運良く他生徒はいないらしい。絵そのものを見たことはあっても『油彩』は見慣れていないのか、周辺に漂う香りとこびり付いた絵の具に目を丸くしている。
「でっけー絵。これ、何なんだ?」
偶然にも、カプリモンが目を留めたのは彼女のキャンバスだった。抽象的なデジタルパターンはイメージでしかない。本人以外が首を傾げてしまうのも、仕方のないことだった。
「なんなんだろうな。描いてる私にも、はっきり言って分からない」
「アキコの絵だったの⁉︎ すごい!」
「……何かを描きたいのに、描きたい『何か』が分からない絵だぞ?」
「でも、こんなでっかい絵じゃん!」
「キャンバスに絵の具をつけるだけなら幼稚園児にもできる。この場所にあるからそれらしく見えるだけだよ。美術館でメガネ落とせばアートみたいなモンだ」
「ん〜……? 絵って、難しいんだな」
佐々木朱子の言葉に不思議そうにするカプリモンは、納得がいかないらしい。作者が分からないのなら、『それ』がなんなのかを知るものがいるはずもない。昨日まで筆を持って向き合っていたにも関わらず、今日の彼女は絵を直視できなかった。
「そんなことより……どうだった、大学は」
これ以上『絵』について話したくないという態度をちらつかせつつ、別の話題を彼女はふる。
「隙間からチラッと見えた程度だけど、楽しかったぜ! いろんなヤツがいるんだな!」
「あぁ、あんなに居ると……抱きかかえるのは、やっぱりハードルが高い。すまなかった」
「まぁ、確かに。もっと色々見たかったけどさ」
あからさまに落ち込むカプリモン。耳はヘルメットの下に隠れて見えないが、尻尾が項垂れているのがよく見える。
「あー……じゃあ、他に行きたいところあるか?」
時計を見れば、まだ正午を過ぎた頃。よほど遠くて人が多い場所でなければ問題はないだろう。さすがに大学は浅慮が過ぎた。
佐々木朱子自身、あまりリュックサックから出してやれず申し訳なさを感じている。愛くるしい見た目も相まって、なんとも罪悪感が湧き上がってくる。出来ることなら叶えてやりたいと、絞り出すように望みを問うた。
そして、悩んだ素振りを見せることなく、待ってましたと言わんばかりの勢いでカプリモンは言う。
「──上から街を見たい!」
登りきった坂の上。芝生と桜が植えられただけで遊具が一つも無いように、実に簡素な公園がある。緩やかな山の斜面そのままに作られたそこは、緑に染まる山の中で一段と明るい日差しを浴びていた。
世間でも夏休みを迎えているが、遊ぶ子供の姿は見えない。まばらに設置されたベンチに座る人影も見受けられない。強い日差しの下で運動するリスクを知っている世代だからか、それとも室内を好む世代なのか。この暑さ故に、ペットの散歩も気が進まないのだろうか。
ともあれ、今の二人にとっては都合が良い。
リュックサックの隙間から世界を覗こうとするカプリモンを止め、そのジッパーを大きく開く。芝生の上に下ろしてやれば、キョロキョロと周囲を見渡している。
そして、これまで通ってきた道の方……すなわち、視界が大きく開き、見渡す限り街と空が広がる景色を見下ろして、彼は感嘆の声を漏らした。
「スッゲー……」
陽の光を反射して輝く琥珀の瞳。青空と入道雲も映り込んだそれは、混ざり合うことなくお互いを引き立てている。
「……なんてことない、ただの街と空だぞ」
「アキコはいつも見てるんだろーけど、おれは見たことないから新鮮なんだよ!」
「新鮮、ねぇ」
囁く木々が聞こえる。番を探す蝉が鳴く。夏になれば感じる、いつもの自然。その中に混じったデジタル生命体は、やけに色付いて見えた。
佐々木朱子は、わざわざ景色を見に来ることなどない。自然の中にいるのが、どうにも居心地が悪くて仕方がないからだ。この場所を知っているのも偶然でしかない。大学に入学したばかりの頃の実習で写生したから、『見晴らしのいい場所』で真っ先に浮かんだに過ぎなかった。
「……」
『空想』を形にするには知識があった方がいい。
例えば人体の構造であるとか、例えば静物の質感であるとか。知らないよりは知っていた方がずっとタメになる。『あったほうが良い知識』をかき集めてはいたが、『知りたい』と思ったことは久しく『なかった』。否、本来の意味で知ることをしていなかったのか。
自身の内側に深く潜りかけた思考を止めて、隣にいるカプリモンに目をやった。
「めっちゃワクワクする!」
博物館に初めて訪れた子供ならば、このような反応を見せるのだろうか。
佐々木朱子とて、まだ社会から見れば子供のうちである。されど子供ではいられない。年甲斐もなくはしゃぐことは出来ず、年甲斐もなく今いる場所から逃げ出したいなどとは言えない。
大学生というものは、良くも悪くも『大人』と『子供』の中間だ。何をしたいのか、何をやりたいのか。自分というものをはっきり持っているからこそ、『大学』という場所で自己実現の力を溜める。
しかして、全員がそうではない。『自分』が何なのかすら分からずに、ただ惰性で行政と家族に甘え、学ぶ道に逃げる者もいる。彼女は、自分が『それ』だと考えていた。自身と彼を比べて、どうにも自分が哀れに思えてくる。
カプリモンが見た『絵』が、それをよく表している。何かを描きたいとは思っている。自分の中にある『空想』を形にしたいと思っている。けれど、その正体を問われても答えられない。大事な何かを思い出せないままでいる。
でも、それでも。
「アキコ! 鬼ごっこしようぜ‼︎」
今だけは、この胸にある炎をこのままにしておこうと、そう思えた。
「こんばんわ」
声が、背後から届いた。
持参していた昼食を二人で分けて、その身一つで出来る遊戯をする。そうしてカプリモンに求められるまま答えていれば、あっという間に時は過ぎる。充電を忘れていたスマートフォンの電気残量はほとんどなくなっており、胸ポケットで置物と化している。
すでに日は沈み、街灯に光が点る時間帯となっていた。 リュックを背にカプリモンを抱きかかえ、いざ帰ろうとする中かけられた見知らぬ異性の声は、佐々木朱子を警戒させるのに十分だった。
カプリモンを抱える腕に力を込める。容易に放り出すことなど出来ないように、けれど痛みを感じないように。
「……誰ですか?」
「私は『ソレ』の飼い主です。保護してくださりありがとうございます、引き取りに来ました」
ニコリとした笑みが美しい。肩口で切り揃えられサラサラ揺れる金髪も相まって、まさに絵になるような人に見える。珍しい白のスーツに赤のワイシャツ、山吹色に緑が撒枯れたようなデザインのネクタイ。そして竜胆のように鮮やかな紫のジャケットを羽織っている、その人。
「まさかこんな場所にいるとは……えぇ、えぇ。見つかってよかった」
その言葉が嘘であることを、佐々木朱子は知っている。
カプリモンはペットではない。彼の人生について詳しい訳ではないが、この一日で大まかな人柄を知ることができた。少なくとも『ペット』などになるような性格ではないし、人間と会話したのは初めてなどと言っていた記憶は新しい。
では、そのような『嘘』をつくこの男の目的とは何であろうか?
「今日の気温、知っていますか?」
「? いえ、天気予報は見逃していまして……」
「そうですか」
佐々木朱子には、疑問を疑問のままで済ませることができない。ただしくは、相手の正体を知らぬままにはできない。逃げ出せば良いものを、小さな好奇心が邪魔をする。暴こうとしてしまう。
されど、逃げ出したところで逃げ切ることができるわけでもない。
「三十二度、熱中症を注意するには十分な温度です。ところで……」
本来いるはずのない生命体を欲する存在というものは、往々にして──。
「あなた、ずいぶん涼しそうですね」
──ひとでなし、である故に。
「……」
男は、汗をかいていない。
襟元まできっちりとボタンをかけ、ネクタイには緩みなどない。腕に掛けるのが面倒だとしても、羽織ったジャケットを脱ごうとする気配もない。いかに日が沈んだ後とはいえ、湿気のある日本の夏は汗ばみやすいものだ。冬であれば気にすることもなかっただろうが、夏真っ盛りの七月下旬。
違和感を覚えるには十分だった。
「いいから、渡せ。それに用がある」
佐々木朱子は男から目を離さぬように気を付けつつ、少しずつ少しずつ後ずさる。舗装された道に靴底が擦り合わさり、微かに音を立てた。
「あからさまな不審者に渡すとでも?」
「不審者? 不審者だと?」
男の眉が吊り上がり、怒りの感情を露わにする。
男の身体を0と1が覆う。二進数にて隠された男が狼狽えることはなかった。それを突き破るようにして、腕が、足が、頭が顔を出す。
現れたのは、騎士。
藤色のマントを身に纏い、黄金で彩られた銀の鎧をつけた騎士だ。マントと同色の三角帽らしきもので瞳は見えないが、穏やかなものではないのは確かだろう。
佐々木朱子は、それに見覚えがあった。
「ミスティモン!」
高級プログラミング言語を使いこなす、いわば魔法戦士である。ウィッチェルニーと言う別次元のデジタルワールド、『魔術』が発展しているそこからやってきたと言われる完全体のデジモンだ。
ウィッチェルニーという世界に関して明かされていることは多くない。デジタルワールドに存在する様々な『レイヤー(別次元)』の一つであるとか、魔術を学ぶための学校があるだとか、その程度。
しかし、問題はそこではない。
「なんで、ミスティモンがコイツを狙うんだよ」
「理由など、教える必要はない! 許す気なぞないからな!」
そう叫ぶと同時に、彼の口が謎の言葉を紡ぐ。彼女に聞き取れなかったそれこそが、高級プログラミング言語である。
「走れ! アキコ!」
カプリモンが言うよりも早く、佐々木朱子は駆け出していた。背を向けたくないなど言っていられない。全力で逃げなければならないと、生物的直感が騒いでいた。
自転車に乗る暇などない。何が出るかは分からないが、とにかく直撃は避けなければならない。公園のすぐそばにある林、そこに身体を滑り込ませる。木々に遮られれば狙いも定まらないはずだ。
直後、背後から轟音が轟く。
「がっ……!」
耐え難い熱が右足に走った。いや、それは熱ではない。痛みだ。思考が真っ白になるような感覚の後に、赤く染まるような痛みが駆け上がってくる。その場に倒れ込んで右足を押さえる事しかできない。それでもカプリモンを離すことはなかったのは、ただの意地だった。
飛んできたのは、かまいたち。木々の隙間を縫うようにして、鋭い風の刃が佐々木朱子を襲ったのだ。
「アキコ! アキコ!」
「次は、峰打ちでは済まさんぞ」
彼からすればあくまで牽制、威嚇発砲のようなものなのだろう。
しかし、相手は生身の人間。それもただの大学生だ。牽制だからと言って、負傷しない訳ではない。動かずとも伝わってくるソレは、痛覚を通して脳髄に語りかけてくる。
足が、折れたぞ。と。
不幸中の幸いか、骨が皮膚を突き破ることはなかったらしい。『峰打ち』ゆえだろうか。出血らしい出血もしておらず、医療機関を頼れば治すことは可能だろう。
「っ……‼︎」
最も、頼ることができれば、の話であるが。
「大人しくそいつを渡せ、人間」
一歩ずつ、確実に。ミスティモンは近づいてくる。再び眼前と言えるまでに近づいてきた。
「嫌だって……言ってるだろ!」
佐々木朱子は土を握りしめ、ミスティモンの顔面目がけて投げつける。実に古典的な目潰しであったが、成功はした。元より瞳が隠れているが、目が見えないわけではないらしい。
眼球に入った異物を取り除こうとしている相手に背を向けて、彼女は走り出す。片足が使い物にならないため、走るというよりは引きずって無理やり移動しているというべきだったが、ミスティモンの視界から隠れることはできた。
不法投棄された粗大ゴミの山。人なぞ簡単に隠れることができそうなほどに積まれている。ごちゃごちゃとした正体不明のものもあるが、それがなんなのかなど考える暇はない。
土汚れだらけの冷蔵庫を背にして、腰を下ろす。そうしてからカプリモンも地面に置き、深く深呼吸をした。運よく転がっていた、ほぼ直線の木の枝を二本引き寄せる。医術に精通しているわけではない。見様見真似ではあるが、応急処置をするつもりのようだ。
「大学の場所、覚えてるか」
「覚えてる!」
リュックサックの中から取り出されたのは、手のひらに収まる大きさの小さな紙切れと、なんてことない黒インクのボールペン。大学の名前と共に『鳴上正光』と書かれたそれは、彼女が最も信頼できる人の名刺だ。
その裏に何かを書き殴ると、彼女はそれをカプリモンに押し付けた。
「な、なにこれ」
「カプリモン、それを持って私の絵があった部屋に行け」
「あのおっきな絵?」
「そうだ、そこだ。今の時間なら『鳴上正光』って人がいるはずだ。ごま塩頭でエプロンをかけた、優しそうなおじさんだ」
まさかこんな使い方をするとは思わなかった、などと声にすることなく独りごちる。貰うだけ貰っただけの名刺といい、ちょうど良い長さのタオル類といい、自分は悪運こそあるらしい。
「それで、どうするの」
「お前のことを匿ってもらうよう、書いておいた。鳴上教授はいい人だ、きっと助けてくれる」
添木をタオルで押さえつければ、ビリビリとした痛みが暴れまくる。漏れ出しそうな悲鳴を飲み込んで、ずれないように数箇所を結び止めた。
カプリモンは、渡された名刺と呻き声をあげる佐々木朱子を交互に見、自身の追いつかない思考が出せない答えを彼女に求める。
「どういうこと?」
「逃げろ」
ヒュ、と。喉のなる音がした。音もなく「どうして」と問う口が震えている。
「生憎、私は強くない。片足が折れた状態で走るとか、もう無理だ。だから、お前だけ逃げろ」
「できるわけないだろ⁉︎ アキコを置いて逃げるなんて……!」
「……言い方が悪かったな、助けを呼んで欲しいんだ。スマホの充電は切れてて、通報とかできないから」
嘘だ。助かるとは到底考えていない。助けを呼ぶことも考えていない。
相手は、デジモンだ。これが成熟期以下であれば人間でも対抗できたかもしれないが、完全体。究極体ではない故に、警察だけでなく自衛隊も出動すれば敵うかもしれないが、いくら身長が三メートル近い未確認生命体でも、相手は人型。日本という平和な国で育った人々が、即戦闘に入れるのか自信がなかった。
佐々木朱子は特段に賢いわけではない。大学にこそ合格したが、憲法や法律といったことを専攻しているわけでもなく、雑学を好んで調べることもない。
そんな彼女がどうにか捻り出せたのは『カプリモンをこの場から離す方法』のみ。
「大丈夫だ、あっちの言い分じゃ殺すつもりはないらしい」
「でも、足がそんなじゃ」
「人間はデジモンより脆いけど、怪我が治らないわけじゃない。死ぬつもりなんて毛頭ないしな」
嘘ではなかった。まだ、死ぬことはできない。死にたくはない。
「でも、でも」
「今のうちに行け、早くしないと気付かれ……」
「遅い」
一瞬の出来事だった。
いつの間にか、ミスティモンは二人を見下ろしていた。人間では反応できないような素早さで、彼はカプリモンを蹴り飛ばす。所詮は人間の悪あがき、多くの時間を稼ぐことなど出来なかったのだ。
「カプリモンッ!」
佐々木朱子はすぐさま駆け寄ろうとするが、右足の痛みが邪魔をして立ち上がることもできない。崩れ落ちるように力を失って、正面から倒れ込むだけだった。
「あんな小細工で、私から逃げられるとでも思ったのか?」
見えるはずのない眼光が、佐々木朱子を貫いて離さない。すくみあがるような彼の怒りが体を縫い止めるようだった。
「……まさか、あの程度で脚を負傷したのか。脆い、脆いな人間。そんな有様であの小僧を庇うのか?」
「カルシウム足りてないアンタの脳みそよりは、頑丈だよ」
「貴様っ!」
吐き出された煽り言葉に、ミスティモンは燃え上がる。高級プログラミング言語を使うまでもないと判断したのか、それともただ反射的に動いたのか。地面に伏す佐々木朱子の腹部に、その足を食い込ませた。
「いいか! あいつはな、決して許されないことをした痴れ者だ‼︎ この怒りは決して止まらぬ!」
佐々木朱子は喉から迫り上がってくるものを抑えることができず、そのまま吐き出す。びちゃびちゃと気味の悪い音と立てて、胃の内容物と血が地面に染み込んだ。消化途中のそれは独特の匂いを発している。
そして再び食い込もうとしたつま先に、カプリモンは噛みついた。
「やめろ! お前の目的はおれなんだろ!」
幼年期と完全体。考えるまでもない圧倒的な力の差。歯向かえばどうなるかなど、火を見るより明らか。であるにもかかわらず、カプリモンは佐々木朱子のために立ち向かう。
「アキコはリアルワールドを案内してくれただけだ。やるならおれにしろ」
「そうか」
間髪入れず、カプリモンが蹴り上げられた。もしくは、噛みついていた足を振り上げられたと言うべきか。あまりの勢いに口が開き、カプリモンはくるくると宙を舞う。
「『ブラストファイア』!」
ミスティモンが放った一撃が、空中で逃げることのできないカプリモンを切り刻む。炎を纏う斬撃は火傷と共に多くの切創を作り出した。
「一撃では終わらせない、覚悟しろ」
「お前こそ、先にバテるなよ……」
先ほどの佐々木朱子のように、今度はカプリモンがミスティモンを煽る。不快感を隠しもしない彼は、カプリモンの顔面を鷲掴みにした。
「やめろ……」
彼女の声は届かない。
「やめてくれ……」
カプリモンを救う義理など、佐々木朱子にはない。楽しかったとか嬉しかったとか、そんなのは所詮いっときの感情だ。何を感じたのだとしても、まだ出会って一日過ぎるか否かの付き合いでしかない。
結局のところ二人の間に何があったのかを佐々木朱子は知りもしないし、知ったところで止められるわけでもない。
でも、それでも。
「カプリモンを、傷つけないでくれ……!」
そんな願いがこぼれ落ちてしまうほどに、大切になっていた。
──ゴトリ、と。
視界の隅に、何かが落ちた。積み上げられた粗大ゴミから転げ落ちたそれに、何か惹かれるように目線をやる。
それは、異様な形の拳銃だった。
そもそも拳銃と言っていいのかもわからない。拳銃というには大きく、サブマシンガンやライフルというには小さい。グリップも引き金もあるが、撃鉄が見当たらない。何より、銃身が異形である。
長方形なのだ。
弾丸を通す筒状のそれではない。もちろん、スライドで覆われているわけでもない。スマホケースほどの長方形が、本来であれば銃身がある場所にある。そして、ナンバリングなのかそれともデザインなのか、赤のネオンカラーで『D-G-0』と書かれていた。ツナギのポケットからスマートフォンが転げ落ち、定位置に戻ったかのように『それ』に嵌まる。
同時に、佐々木朱子にも『何か』が嵌まったような感覚がした。
「ははは……。何がなんだってんだ……突然デジモンが現れるわ、そいつは世界が見たい外に連れていけだの抜かすわ……」
汚れとすり傷だらけの腕が、『それ』に伸びる。グリップを握り込めば、想像と同じように硬質で重厚感があった。
されど、持ち上げられない程ではない。
「しかも、指定暴力団みたいな追っ手と鬼ごっこしているし、ラノベが現実になったのかっての、えぇ?」
ぐらつく視界、ぐらつく腕。さほど遠くはないが、近くもない中距離。折れた片足に重心をかけることは出来ず、狙いが定まらない、銃口がブレる。
持ち上げることは出来るが、それを扱える自信はない。興味本位で簡素な模造品を購入したことはあったが、所詮は模造品。ガスガンですらならなかったそれは、反動らしき反動も無いに等しいものだった。
手にしたそれは、果たしてどちらだろうか。
「ほんと、いい迷惑だよ」
息が詰まる。
比喩として扱うそれではない。今、佐々木朱子の身に起きている現象、事実として『息が詰まっている』。意識して酸素を取り込もうとする身体は、過呼吸になる一歩手前に来ている。
そんな身体を無理やり押さえ込んで、ゆっくりと空気を吸い込み、吐き出した。
「でもな」
災害や事故などと言った偶然からの生命の危機ではない。他者から与えられる、加害の意思を持った攻撃。小さな好奇心や敵対心などから始まる『いじめ』を超えた、生存を前提としない殺意。
カプリモンに向けられた『それ』の一部を、佐々木朱子も浴びていた。負傷した脚や腹部だけのことではない。心臓が止まると誤認するほどの、肉体への衝撃。呼吸を忘れてしまいそうになるほどの、精神的な恐怖。
「私だって……」
佐々木朱子は、ただの人間だ。
将来のビジョンが曖昧で、半ば惰性で美術系の大学に進学。そしてそれを許してくれる程度には恵まれた家庭で生まれ育った。
事あるごとに母親に言われた言葉が、心に染み付いて離れない。
『朱子は幸せよね』
酷い病に侵されたことはなく、飢餓に苦しんだことはなく、戦争に巻き込まれたことはなく、心身を圧迫されるような支配を受けたこともない。母の言葉は、間違っていない。
きっと自分は幸せで、『満たされている』はずの人間だった。
何かが足りないと思い込んでいる、ただの人間。
「動くな、人間」
そんなただの人間が、デジモンの一撃を受けてなお立ち上がる。恐れも、痛みも、肉体の出す危険信号を理解した上で。ミスティモンが放つ牽制の声に応じることもなく、自身を止めようとする全てを越えて、たった一つの思いを糧に彼女は立つ。
「私だって──」
佐々木朱子の脳裏をよぎるのは、カプリモンの言葉。キラキラと輝く琥珀色の瞳に空の青さを映しながら、まるで極上の甘露を食したかのように歓喜して言った言葉。
そう、あれはカプリモンだけの言葉ではない。
佐々木朱子は、特別な人間ではない。
小さい頃の些細な出来事で、己の幼児性をひた隠しにしただけの、どこにでもよくいるような人間だ。『どうせ出来ない、出来やしない。叶うことなどない』と全てを諦めて、自分の可能性から目を逸らしていた。『なってはいけない大人』になろうとしていた。
目の前にあるはずの、無限大の可能性を『空想』と片付けた。
「────私だって、久しぶりにワクワクしたんだよ!」
『夢』に手を伸ばしたかったのは、他でもない自分自身。
無邪気に喜んで、一緒に冒険に出たいと言いたかった。見たことのない景色を目に焼き付けたいと言いたかった。
今いる場所から逃げ出したいわけではない。学生が辛いだとか、就活のことを考えたくないとか、奨学金やら税金やらを払いたくないとか、そんなことは関係ない。現実がどうであれ、『それ』を望む心は常にあった。ただ、未知を知ることに胸を高鳴らせたかった。
それを自覚するのが怖くて、描きたいものが分からなかった。
「カプリモン、『デジインストール』!」
銃口から放たれるのは、弾丸の形をした膨大なデータ。カプリモンに吸い込まれるように命中したそれは、水面が波打つように彼に溶けていく。
──光の柱が、立ち昇る。
カプリモンを掴んでいたミスティモンは、至近距離で浴びるにはあまりに強い眩しさにその手を離してしまう。
月すらない、夜のとばり。その垂れ布を飛ばして、ささやかな星の瞬きをかき消す。力強くもあたたかくて、壮大な光だ。
「カプリモン、ワープ進化──マグナキッドモン!」
現れたのは、紅を纏ったガンマン。テンガロンハットをはじめ、その尾も四肢も同色の紅色。膝から下は銀の銃身で、首元から伸びる二対の翼は漆黒。銃身と同じ銀の短髪からエメラルドの瞳が煌めいた。
「進化だと⁉︎ この短期間で元の姿に戻るなど……!」
隠れている目が見開かれているだろうと分かるほどの、驚愕の声。
デジモンという生き物の『進化』とは、一朝一夕で出来るものではない。その生まれである『育成ゲーム』の中では条件を満たせば可能だが、実際の彼らとゲームは異なる物だ。
海で生きる魚が世代を重ね長い時の中で陸に上がったように、デジモンでも進化するのは時間がかかる。瞬きの間に子供が大人になることがあり得ないのと同じだ。
しかし、カプリモン──否、マグナキッドモンはそれをやってのけた。
元より一度は究極体になった身などと侮ること勿れ。確かに一部のデジモンは、エネルギーを節約するためや正体を偽る為に退化することがある。彼らは進化も退化も自在にこなし、中にはミスティモンのように人間に化けることができる個体もいる。
だが、彼は『そうではない』。言うなれば一般人。究極体というだけで、そのような特殊技能を持ち合わせてはいないのだ。
しかし、進化した。してみせた。『人間の手を借りて進化した』。知らぬ機械を用いて、眼前のデジモンは究極体に返り咲いたのだ。
それはミスティモンの持つ常識の範疇外の出来事である。
「よくも好き勝手やってくれたなァ! 今からはおれの番だぜ、ミスティモン‼︎」
「たかが一個体、どこにも属さぬウイルス種ごときが……!」
ギリギリと歯を食いしばり、腹立たしさを露わにするミスティモン。ミスティモン自身もウイルス種であるはずだが、マグナキッドモンへのそれは対抗意識によるものなのだろうか。
究極体と完全体。人間で言えば立派な大人と新社会人とでもいうべきか。よほどの熟練度がない限り、進化レベルによる実力差をひっくり返すことはできない。
「『ブラスト』……!」
「させるか!」
相手の体勢が整う前。すなわち先手必勝と言わんばかりに、ミスティモンはその剣を振り上げる。だが、剣が振り下ろされることはなかった。マグナキッドモンの両腕が、ミスティモンの腕を掴んで離さないからだ。互いに腕が使えなくなるということは、膠着状態に入るということである。互いに腕は二本しかなく、人間と同じように四肢以上は持っていない。
しかし、それはマグナキッドモンには通じない。いわば彼は全身銃器。その腕にも、脚にも、『腰』にも銃が存在する。マグナキッドモンの腰部から伸びる弾倉。その先にあるのは小型のマシンガン。
それを、ミスティモンの身体にズクリと深く突き刺した。そこから直接放たれる銃弾を、彼はどうすれば避けられるのか。
そう……逃れられない、のが答えである。
「『バインドレッドトリッガー』‼︎」
「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇ‼︎」
唱えられた技名と共に、佐々木朱子の声援が飛ぶ。その声がマグナキッドモンの耳に届いたかは定かではないが、心なしか技の威力は上昇したように思えた。
体内に放たれた弾丸が、ミスティモンの中身を蹂躙する。反射的に吐き出された血は赤黒く、決して軽傷では済まないことを物語っていた。
圧倒的な実力差。形勢逆転とはまさにこのこと。このままでは命が危ういことなど、素人眼に見ても明らかだった。ミスティモンは第二撃が撃ち込まれる前に距離を取ったが、銃口が引き抜かれた箇所から血が滴り落ちている。地面に血痕の花が咲いた。
文字通りの血反吐を吐きながら、ミスティモンは戦意を失わぬままに地を這うような声で怒りを口にする。
「覚えていろ! マグナキッドモンとその『パートナー』‼︎」
突如として、地面に異界への門が開く。星雲のような煌めきを放つそれは、デジタルゲートの一種だ。
「次こそ、借りを返してやるからな……‼︎」
ミスティモンはそのままデジタルゲートの中に消えていき、場には静寂が残される。マグナキッドモンは少しだけ上がった息を整えると、大きな声で「できるモンならやってみろバーカ!」などと虚空に煽り散らかした。
そして散々煽るような言葉を吐いた後、くるりと体の向きを変る。久方ぶりの再会とでも言わんばかりに腕を振りながら、マグナキッドモンは軽い足取りで佐々木朱子に近寄る。対する佐々木朱子は性根尽きて立ち上がれず、座り込むことしかできない。されど、その顔は晴れやかだった。
「ん⁉︎ アキコなんかちっちゃくなったか? 退化した?」
「お前がでっかくなったんだよ」
「あナルホド、おれって元はお前よりデカかったのか! こっち来てすぐ退化しちまったから知らなかったわ」
ミスティモンの言葉やマグナキッドモンの言葉により、佐々木朱子は初めて眼前のデジモンが『退化』していたことを知った。さらには進化先に驚く素振りも見えないことから、今の状態こそが彼からすれば『本来の姿』なのだろう。
進化を目撃した感動もそこそこに、戦いの最中で詳しく聞く暇も与えられなかったソレを何気なしに彼女は問うた。
「そもそも、何をしたらあんなにしつこく追っかけられるんだ? 本人は許せないだの認めないだのしか言ってなかったけど」
「こっちに来る前にアイツんとこに遊びに行ったんだよ。なんだっけ、ウィッチェルニーのブロッケン山だっけ? そん時に怒らせたみたいだ。しつこいぜ、まったくよー」
「……カチコミかけたの?」
「カチコミじゃねーよ、敵じゃねーもん。ただ強いやつが居るって聞いたから会ってみたいなーってお邪魔したんだ。そんでドンパチした。楽しかったなー!」
「……許可、もらったか?」
「許可? 誰に? 何の?」
マグナキッドモンの頭にクエスチョンマークが浮かぶ幻覚が見える。
佐々木朱子はそっと夜空を仰ぐ。再びその瞬きを見せ始めた星々が、自分たちを見下ろしているのがよくわかった。いつだったか、プラネタリウムで見た星空よりもずっと澄んでいて美しい。しかし、夜空には相応しくない色が浮かんでいるようにも見える。具体的に言えば、自身の怒りの色が。
佐々木朱子がマグナキッドモンにハンドサインを送る。『近くに来い』という意味のそれに呼ばれるがまま、不思議そうに彼はしゃがみ込んだ。
優しく、優しくマグナキッドモンの頬を両手で覆う。ほかほかとした熱はきっと、戦闘によって上がったものだろう。その熱に思いをはせ、彼女は──。
「ヒトはそれを不法侵入と呼ぶんだボォケ‼︎」
「ひゃんでぇ⁉︎」
──頬を、ムニムニとこねくりまわした。
マグナキッドモンのキリリと整った顔が大福のように形を変える。肉食動物を思わせる鋭い歯が見え隠れするが、佐々木朱子はそんなものに怖気付くことはない。
「自業自得で追われてんじゃん! 返せ! 私の憐れみと同情を返せ‼︎」
「おふぇふぁるくひゃいほにぃ!」
「悪いわ! 好き勝手やったのはお前の方だってんだよォ‼︎」
マグナキッドモンに反省の色はない。いや、そもそも本気で『何が悪いのかわからない』らしい。
デジタルモンスターという生命体は、社会や文化をわざわざ共有しない。人間が生まれ育った場所によって身につける言葉が異なるように、彼らは『独自の価値観』のまま生きている。
ミスティモンからすれば、マグナキッドモンの行動は痴れ者と呼ぶに値するものだった。それを彼女は実感する。別次元のデジタルワールドにいきなり突撃した上、そこで暴れ回ったとか危険人物にも程がある。しかも文字通りの総本山。魔法学園がある場所でコトが起こったとなれば、彼らからすればテロリストのようなもの。そりゃあ殺意を漲らせても仕方がない。
しかし、本人からすればいつものこと。根無草として自由気ままに歩き回り、勝負を仕掛けに突撃したのだろう。
「あー……」
深いため息。
しかし、そこには不快感も呆れもない。何と言えば良いものか、という躊躇いがあった。悩み、迷い。そして結局、一番言いたかったことを言うことにした。
「ありがとう、カプリモン」
こつり、と。やわらかで硬質な音。佐々木朱子が、マグナキッドモンの胸元に頭を預けた音。
肌や布というよりは、鎧のような無機質な物に覆われているソコ。本来であれば心地よさなど感じるような物ではないが、今は額から伝わる冷たさが心地良い。アドレナリンによって上がっていた体温がわずかに下がる。脈打つ自身の心臓の鼓動を感じた。
「マグナキッドモンだぜ、今は」
「進化しても『お前』だろ? 私は『お前』に礼を言いたいんだよ」
「ん〜? よくわかんねぇけど……ま、いっか!」
幼年期の状態でも完全体に立ち向かったことであるとか、ミスティモンを追い返した自身の腕っぷしの強さであるとか。そういったものへの感謝だとマグナキッドモンは考えたらしい。ケラケラと笑いながら自慢げになる彼だが、佐々木朱子の感謝は『そうではない』。
──夢。
きっかけは他人でも、押し込めたのは自分だった。
それを思い出せたのは、身のうちに隠していたそれをひっぱり出せたのは、『彼』あってのもの。『デジモン』だったから、ということは否定できない。できないが、どんなデジモンであっても同じ道になったのかは疑わしい。
だからきっと……今ここで豪快に笑っていて、たかが街の風景ひとつに目を輝かせて、ただのカップラーメンを嬉しそうに食べる、そんな『彼』だから自身は立ち上がれた。
そんな確信が、佐々木朱子の中にあった。
「これからも、よろしく」
「おう、よろしく!」
────これは、夏の出会いから始まった物語。
忘れていたモノを取り戻した夢追い人と、夢の為に世界を越えたデジモンの話。
夢見る彼らの人生は、再び始まったばかりだ。
ノベコンお疲れさまでした!
感想を配信で喋らせていただきましたので、リンクを下に貼っておきます!
https://youtube.com/live/bA-nVFgxuo8
(45:57~感想になります)
ノベコンお疲れ様でした。そして初めまして、夏P(ナッピー)と申します。
元より『デジタルモンスター』が存在し、その種類や種族を人間の側が知っている世界。冒頭の『空想』を愛する姿から徐々に『空想』=中身の伴わないものというような認識に変わってしまう過程はどこか物寂しさがありましたが、最終的には恥ずかしさ100%の台詞ながら子供の頃よりのそれを肯定できたことによる清々しい結末でした。
主人公のアキコ(一箇所“アキサメ”になっていたような……?)が美大在学中の女子大生というのはまたレアな。地の文からして二回生なので年齢と法律的にはとっくに大人になっているけれど、それでもどこかで『諦め』た大人にはなりたくないと足掻きながら、夢見た子供のままじゃいられないという『諦め』も捨てられない実感、こうした閉塞感を打ち破るのがデジモン(カプリモン)との出会いというのは、主人公としての立ち位置が新鮮であるのとは対照的にデジモン作品ならではの王道なのだなと感じた次第。
でも母親の言葉を反芻して『自分はまーそれなりには恵まれていたのだ』と自省自戒自認できるのであれば、その性根はとっくに大人ですよね……それはそうと割とアキコが男言葉気味なのは子供の頃なのか、突っ張っているが故にそうなってしまっているのかは気になるところ。
カプリモンだけにカップ麺を喰うたぁ……はともかく、デジモン小説だと中高生が主人公になりがちな中、女子大生でしかも美大生なので大学を見て回るシーンは他ではなかなか見られない描写で新鮮。
というか、アキコはストイックなあまり友人もいないぼっちちゃんなのかと思いきや、しっかり普通に友人いるじゃないですかー!
そこに現れたロケット団もとい謎の男、正体はミスティモン。むしろ片足千切れ飛ばなかった辺りアキコ固い。そしてこの辺りで
あー教授がミスティモンの操り手なのかー
などと思っていました。いやエナドリについてやたら詳しく、地の文でカフェインの詳細な解説が入ってきたりした辺りが、テイマーズでジュリ(デ・リーパー)が弁当の成分淡々と読み上げるシーン思い出したもので、間違いないぜ此奴は敵となる男だと思っていたのですが、全くの濡れ衣でした。正直スマンかった教授。
アキコの射撃&啖呵のシーン超カッコいい! というかミスティモンがむしろ人間の女性に対して容赦なさ過ぎますが、そこからのマグナキッドモン反撃開始で超・燃ゑると思ったらミスティモンが襲ってきた理由があまりにもそらそうよ過ぎてダメだった。むしろ正当防衛じゃないか!!
確かにあそこばかりはアキコと共に「感動を返せ!」となったような気がします(笑)。
作中時間ほぼ一日ながら、デジモンとの出会いと覚醒、そして最後のズッコケまでビシッと纏まっておりましたが、これはむしろ続きが欲しいな……?
それでは改めましてノベコンお疲れ様でした。
この辺りで感想とさせて頂きます。