はじめに
こちらの小説は、『デジモンサヴァイブ』発売前に「ぼくの考えたデジモンサヴァイブ」をテーマに制作したお話です。
もちろん流れは全く違いますし、PVからイメージを膨らませた部分が多いので全く見当違いな部分も多々あるのですが、微妙に当たっていたところ等が無いでも無いようなので、『デジモンサヴァイブ』未クリアの方は一応ご注意下さい(※意図的にネタバレを書いたりはしていません)
また、この小説に登場する静岡県は架空の静岡県です。実際の静岡とは一切関係ありませんので、どうかご留意ください。
それでは、以下、本編です。
*
「ねえ、ラセン様って知ってる?」
首を横に振ると、幼馴染は「知らないよね」と力なく微笑んだ。
「おばあちゃんに教えてもらったの。カハビラコ? の神様なんだって」
そう言われても、そもそも、カハビラコが何なのかが判らない。……いや、その点に関しては、幼馴染も同じようではあったが。
「それでね、ラセン様は、「失くした物を見つけてくれる」神様なんだって」
そこまで言って、幼馴染は「あーあ」となげやりに宙を仰ぐと、行き場の無い思いを託すようにして、手首から下げた、葉っぱの形をしたお守りを握り締めた。
空を見上げて、その向こうに。なくしたものを、探すかのように。
「ちゃんとお願いしたら、■■■ちゃんの事も、見つけてくれるのかな?」
そうして、その数日後。幼馴染はこの町から居なくなった。
幼いながらに、わかっていた。それは、あの子が他所の町に引っ越したからなのだけれど。
でも、元々内向的で、友達の少なかった彼女の事など、学校の他の子も、町の人達も、すぐに話題にしなくなって。
まるで、あの子の存在が世界から完全に消えてしまったかのような錯覚を覚えて。
神隠しのようだと。そう、思ってしまったのだ。
『螺旋の蝶』
「ラセン様?」
私の質問に大きく目を見開いて、しばらく思案した後
「……あー、はいはい、静岡のね」
すぐに、該当する心当たりを思い出したのだろう。うんうんと何度か頷いてから、不意に教授はチョコ要る? と、紙皿に盛ったチョコレートの山を私へと差し出した。
種類はスーパーでもよく見かけるものから、多分恐ろしく甘い海外産のものまで、幅広く。
「ああ、どうも。いただきます」
卯田将勝(ウダ マサカツ)教授。通称、仏の卯田教授。「授業にさえ出れば単位をくれる」「この人が卒論の担当になったらまず落ちない」と学生達には元から有り難がられている先生ではあるが、こういう素朴で優しい人柄がにじみ出ている所にも、彼の人気の理由はあるのだろう。
私は比較的馴染みのある、安価なアソートチョコレートを口に運んだ。
「どうぞどうぞ。遠慮しないで、好きなだけお食べ。……しかしラセン様とはまたマイナーな。君、出身はその辺なワケ? だったら僕の方が話を聞きたいくらいなのだけれど」
「ああ、いえ。私も幼馴染からちらっと聞いただけで。先生の授業を聞いていたら、思い出したんです」
一度思い出したら、気になってしまって。そう言いながら卯田教授の表情を伺うと、彼は解る解ると気さくな相槌を繰り返していた。
「ちなみに、その幼馴染クンからはどれくらい話を聞いているのかな?」
「ええっと、静岡の、カハビラコの神様で、「失くした物を見つけてくれる」と……こんな感じでしたかね」
「ああ、この前の講義は『常世神』騒動に触れていたからね、はあ、それで。なるほど」
講義の内容は覚えてる? と、教授。
別段、私を試そうとしている風では無い。むしろ、忘れている箇所や間違いがあるなら補足しようという善意からの問いかけに思えた。
なのでこちらも気兼ねせず、記憶の中の授業を辿る。
「『日本書紀』に紹介されている新興宗教とそれに関連する騒動、ですよね。富士山麓から都にかけて流行した、虫……一説によればアゲハチョウの幼虫を『常世神』と呼んで祀り、財産を捨てさせる事で逆に財を得る事が出来る……とかいう宗旨でしたっけ」
「そうそう。ちゃんと聞いてくれてたんだねぇ。ほら、良かったらチョコもう1つお食べ」
「あ、どうも」
今度は派手な包装紙に包まれていたチョコを口に運ぶ。マカダミアナッツ入りの、甘ったるいチョコレート。ハワイ土産だろうか、その類の味がする。
「ラセン様は、発生地である富士の麓で辛うじて生き残った『常世神』信仰が、仏教以前の死後世界に関する思想や地元に伝わる異類婚姻譚と合流するような形で誕生した、比較的新しい神格だと言われている。あまり知られたカミではないけれど、他県に伝わるケモノガミ伝説とも多く類似点が見られる等、一部の研究者の中では割合興味深い題材だと――おっと、脱線するところだった。……兎も角、ラセン様は、『常世神』の派生だとされている、と覚えてもらえば、解釈しやすいかもしれない」
そう言って、卯田教授は引き出しからメモ用紙を取り出すと、さらさらと何かを書き記す。
差し出されたそれに視線を落とすと、そこにはいくつかの本のタイトルと、作者の名前が書かれていた。
「確か大学の図書館にも置いてあった筈だ。その資料を参考にするといい。それを読んで、その上でまだ興味があるなら、また訪ねておいで」
「ありがとうございます、助かります」
頭を下げる私に、いいよいいよと笑う卯田教授。
少し話を聞ければ御の字程度に思っていたが、やはり頼るときは思い切って専門家を頼ってみるものだ。
教授が推薦するくらいだから、信用できる資料になるだろう。
ついでに余りのチョコもいくらか握らされて、私は卯田教授の研究室を後にする。
ひとつだけ手元に残してそのまま口に運んだのは、個包装の変わりだねチョコ。
舌で溶かすと、酷く懐かしい味がした。昔、よく食べていた気がする。
……幼馴染とも、食べたのだろうか。
あの子は、甘いものが好きだった。……気がする。
*
あの子の訃報を知らせたのは、あの子の親族や友人では無く、テレビ局からの取材だった。
連日ニュースを賑わせた、放火事件。画面の向こうの他人事は、その瞬間、一気に身近な存在となってしまった。
「亡くなった彼ら彼女らの生きた証を残したい」と、それが、テレビ局側の弁で、電話口の男が言うには、私とその子は、幼い頃、とても親しかったらしい。
どうして、そんな話を知っているのだろう。
私は、幼馴染の名前も思い出せないというのに。
いや、何もかもを忘れていた訳ではない。小学校に上がるよりも前の話。幼い頃に引っ越して行った、仲の良い友人。一緒に踊ったお遊戯会。近所の公園の遊具ではしゃぎまわった日々。覚えている。私には確かに、そんな幼馴染が居た。ピンぼけした写真のようではあるけれど、顔だって一応、覚えてはいる。
だが、その名前だけが。
どうしても、思い出せないのだ。
テレビ局の男の口にした人名に、「知っている人物だ」という確信自体はあるのだけれど――それが幼馴染の名前だと、断言する事は、出来なくって。
でも、彼が掻き集めたという故人の思い出話は、私の記憶とも重なっていて――やはり、私の幼馴染は、亡くなっているらしかった。
昔の事過ぎて、確信が持てないから、と。詳細を述べるのを渋った私に、電話口の男性は「思い出したら教えてほしい」と、自分の名前と電話番号を述べた。
気が動転していた私は、「お仕事頑張ってください」と、多分的外れなねぎらいの言葉をかけて、電話を切った。
……頑張ってくださいも、何も。
彼らが取材しなければ、生きた証が無いなんてことは、絶対にありえないだろうに。
だけど――少なくとも。
私の中の、幼馴染が生きていた証は。私自身が一つ、消してしまっているようなもので。
だから、ずっとその事が、小さな棘のように胸を刺していて。
その棘の先でなぞるようにして、あの子の事を振り返っていた時に、卯田先生の授業が切っ掛けとなって思い出したのが『ラセン様』の伝承だった。
失くした物を、見つけてくれる神様。
失せ物探し、という訳ではないらしい。
そういう側面も無いでは無いが、例えば、失った財産を再びもたらすだとか、農作物の不作があった次の年に豊穣をもたらすだとか――忘れてしまった事を、思い出させるだとか。
ある程度こじつけられるなら、大概の望みをかなえてくれる、まあ、土着の信仰にはよくある、何でも屋のようなカミが、ラセン様だと言う。
だけど、その時。
私は確かに、そのカミの名に、惹かれたのだ。
仲の良かった友の名前さえ忘れてしまったのに、あの子の教えてくれたカミの事を思い出して、縋りついたのだ。
そうすれば、「あの子」の事も、思い出せる気がして。
……何を言われた訳でも無いのに。もう、何年も会っていないのに。
逆にあの子が、私を覚えていた保証だって無いのに。
思い出せれば、忘れていた事を、許してもらえるような気がして。
*
「せっかくだから、ラセン様についておさらいしておこうか」
高速道路に入って、多少余裕が出来たのか、卯田教授がそう、口を開いた。
車内には海外の女性歌手が母国語でカバーした日本のポップミュージックが流れていて、ほぼほぼ世代に関係なく歌詞は解らないが歌詞の意味とメロディーは解る曲のチョイスは、恐らく同行者である私を気遣っての事だろう。
「はじまりは、そのまんま、鶴女房に代表される異類婚姻譚の流れでしたね」
翅のねじれた、カハビラコ--現代語で言うところの、蝶。
羽化に失敗して翅が伸びず、地面に落ちていた蝶を、通りかかった青年が哀れに思い、花の傍へと連れて行ってやる。
するとその晩、艶やかな着物を見に纏った身分の高そうな女性が青年の元を訪ねて来て、一夜の宿を求めた。
幼い頃親にせがんだむかしむかしのお伽噺はもちろんの事、民俗学の授業を取るようになってからというもの、耳にたこが出来そうな程聞かされてきた、物語。
「とはいえ蝶との婚姻譚は、そのラセン様の元になった話の他に、例が無いんだよ」
「そうなんですか?」
話の流れを確認した時、「よくあるタイプ」だとばかり思っていたのだが、話はそうでも、登場する生き物の種類をピックアップしてみるとそうではなかったらしい。
鳥や哺乳類だけでなく、蛇や蛙、魚や貝、果ては蜘蛛。昔話の善良な男の元に現れる異類女房は、こんなにもラインナップに富んでいるというのに。……意外だ。
「そも、君は知っているかな? 例えば万葉集には、蝶の事を詠んだ和歌はひとつも載っていないんだよ」
そうなんですか? と思わず問い返す私をバックミラーで確認する教授は、少しだけ悪戯っぽい笑みを湛えていた。
「蝶--いや、この場合はカハビラコと言った方がわかりやすいかな。カハビラコを詠んだ和歌自体は、数多く残されているのだけれど。でもカハビラコについて詠んだ詩は、和歌集で取り上げるには相応しくは無かったんだ。……何故だと思う?」
「え? えっと……」
記憶を辿って、たっぷり数秒。
生態では無く象徴としての蝶に関する知識を掘り当てて、ようやくピンとくるものがあった。
カハビラコ。
河の上をひらひらと飛ぶもの。
河を挟んだ、此岸と、彼岸。
「蝶が、死んだ人を司る存在だったから、ですか」
その通り、と、卯田教授は口元の笑じわを深くした。
車での移動と相性が悪いとされているからか、いつものように、チョコを勧めてきたりはしなかったけれども。
「司るどころか「死者がこの世に蘇った姿が蝶」とまで言われていた、という資料まである程なんだよ。だから、蝶が出てくる詠は、ほぼほぼ弔いのためのものばかりだ。死はいわゆる「ケガレ」と直結する概念だから、カハビラコは「名前を言うのも憚られるほど気持ち悪い」生き物扱いだったみたいでね」
「だから、『ケモノガミ』と、類似の神」
「そう」
君は優秀だね、と教授は称賛してくれるが、どちらかと言えば、私としては今ようやくこんがらがっていた紐が解けたような感覚だ。
ケモノガミ。
教授から教えてもらった資料には、獣の神に豊穣や厄災避けを祈願するために子供を生贄に捧げていた風習から、時代を経る内に神隠しを引き起こす祟り神へと転じてしまった土着のカミだと書かれていた。
……異類婚姻譚の冒頭を持つラセン様の伝承は、しかし蝶を助けた青年に既に妻子が居た事でいっきにこじれてしまう。
訪ねてきた女を前に、夫の不義を疑った妻は、皆が寝静まった頃、穀物を突く杵で訪問者を布団の上から滅多打ちにする。
しかし我々からすればお察しの通り、女は青年に助けられた蝶が化けた存在。
男の妻の行動に憤った蝶は、2人の子供を連れ去ってしまう。
そして自らの過ちと子を失った悲しみに、妻は富士川へと身を投げた。
これは、暗に生贄を意味していたのか。
「それで、常世神の話は覚えているよね。「財産を捨てれば、財産が舞い込んでくる」。それが常世神信仰の教義な訳なのだけれど。……これを物以外にも当てはめたのが、ラセン様信仰、という事になるのかな」
1人残され悲しみに暮れる男の下に、再び蝶が姿を現した。
蝶が説いたのは、まるきり常世神信仰の教義。
財を捨て、戸口に食べ物や酒を並べ、橘につく虫を祀る。
そうすればやがて、常世の国に招かれて、妻子との再会が叶う、と。
言われた通りの事を実践した男は、蝶の言う通り、やがて常世の国に招かれ、妻と子供と再会し、幸せに暮らした。
めでたし、めでたしで、物語は、お終い。
……ひとつ、追記と言うか、常世神の教えと相違点を挙げるとすれば、後に祀られていた「橘につく虫」--恐らく、アゲハチョウの幼虫だとされている--は羽化を経て、最初に男が助けたのと同じ、翅がねじれた蝶になった。という点だろうか。
男に倣った者達によって、常世の国に招かれるために祀られた「橘につく虫」も、全て羽化に失敗して翅がねじれた。故に、このカミはラセン様と呼ばれるようになった。……という文章で、目を通した資料は締めくくられていた。
「つまるところ、ラセン様って失せ物探しの神様じゃなくて、物を捨てたらその対価をくれるカミ、ですよね?」
幼馴染から聞いていた話とかなり食い違っていて、教授との「おさらい」を経て深まった理解のせいで、逆に認識が揺らいでしまった。
教授の方はというと、私の困惑を知ってか知らずか、ハの字に眉尻を下げて笑っているけれども。
「そうは言っても、ケモノガミが豊穣神から祟り神に転じたように、ラセン様の在り方も時代と共に変化していったのかもしれない。そも、ラセン様伝承自体が、研究者視点で言わせてもらうならば大層な「混ざりもの」だ」
「物を捨てればそれ以上の財が手に入る」と謳った常世神信仰は、都の風紀を大いに乱し、教主である大生部 多(オオウベノ オオ)は最後には討伐されてしまったのだそうだ。
教授曰く、男の助けた「蝶」とは、都から逃げ帰った常世神信仰の巫(かんなぎ)とするのが現代の見解であり、ひょっとすると元の伝承は、蝶以外の生き物との異類婚だった可能性すらある。との事で。
カミほど移ろいやすいものは無いよ、と。
そう言って、教授はどことなく、力無く、微笑んだ。
「もしかすると、嫌になってしまったかな? フィールドワークに若い感性が付き合ってくれるのはとても嬉しいけれど、君にとって億劫になるようだったら、今からでも送って帰るけれど」
「いえ、それは無いです」
即答すると、教授は目を見開いて驚いているようだった。
でも、ラセン様の正体が何であれ、このカミが幼馴染と私の切れてしまった縁の糸を繋げる可能性がある、唯一の手掛かりなのだ。
ラセン様についてさらに知りたいと願う私に、教授はフィールドワークの手伝いを提案してくれた。
少なくとも、幼馴染の親の実家は、この高速道路のずっと先に、存在している訳であって。
私達を乗せた車は、静岡県の某村、富士山の麓へと向かっている。
常世神信仰発祥の地であり、ラセン様の伝承が今なお残る地域。
「知りたい事が、あるんです。……欲しい答えじゃ、なかったとしても」
私は左の手首に装着した、葉っぱの飾りがあるブレスレットに、そっと右手を添えた。
曰く、これはお守りなのだそうだ。
目的地の村における、町おこしの一環だと聞いている。ラセン様伝承にあやかって橘の葉を象った飾りはひどく安っぽくて、とても御利益があるようには思えないのだけれど。
でも、これは、この先にカミがいる、ひとつの証拠。
昨晩の事もあって、ラセン様を介して幼馴染の足跡を辿りたいと願う気持ちは、強くなる一方だったのだ。
「そうかい」
卯田教授は、静かに相槌を打って。
車内に流れる音楽だけが、引き続き、場違いなくらいに明るく楽しげなままだった。
*
フィールドワークの前日。その夜の事だった。
がたん、と郵便受けに何かが投げ込まれる音を聞いたのは。
時間からして、郵便の類では無いし、荷物を頼んだ覚えも無い。
明日に備えて様々な準備をしている中で、億劫ではあったものの、そのまま忘れて数日間放置――というのも避けたかったので確認しに行くと、中には宛名も何も書かれていない、小さな木箱が納められていた。
先程とは打って変わって、急いで室内に戻ってから中身を確認すると--見覚えのある、葉っぱの形を模した飾りが付いたお守りが、蛍光灯の光の下、鈍い光を、放っていた。
それで何かが判るというわけでもないのだが、思わず周囲を見渡した。
フィールドワークに向かう話自体は、同行者は当然の事、大学にも届を出してある。知ろうと思えば、知る事が出来ないわけではない。
だが、送り主には確信めいたものがあって、どうやって知ったのか、あるいは見ていたのかと、気味が悪いと言うよりは、不思議な気分に、なるばかりで。
これは、幼馴染から贈られてきたものだ。
火事で死んだ筈の、幼馴染から。
*
高速を降りて暫く市街地を走っていた車は、気が付けば山道の方へと入って行き、道が整備されていないのか、時折ガタガタと揺れるようになってきていた。
「車酔いは大丈夫?」
「はい、今のところは」
「あと30分もしない内に着くと思うから」
高速道路と、高速道路を降りてしばらくの間は見えていた雄大な富士の山も、今ではすっかり背の高い木々の景色に阻まれて、望む事は出来ない。
開けた場所に出ればその限りでは無いのだが、生憎と地理には疎くて、今自分がどちらの方角を向いて走っているのかも、いまいちピンとは来ないのが現状だった。
静岡の形を金魚に例えた時、尾びれの付け根あたり。というのが、辛うじて私にもわかる、おおまかな位置情報である。
とはいえ、当然ではあるが教授の方はきっちり道中が頭に入っているらしく、カーナビも無いのにハンドルさばきに迷いは無い。
こと現代においても不注意が重なれば取り返しのつかないところにまで迷い込んでしまいそうな山の道を、しかし先に宣言した通り、教授は30分もしない内に、車を目的地へと辿り着かせた。
「はい、お疲れ様。到着したよ」
田舎暮らしを賛美する類の番組でも、よほどのことが無い限り取り上げなさそうな、閑散とした山間の集落。
早朝に出発して、もう昼も過ぎだというのに、周辺にはうっすらと霧が立ち込め、そんな季節でも無い筈な上、車内だと言うのに、どこか肌寒い。
街では聞かない鳥の鳴き声が、辺りから時折、響き渡っていた。
まばらに建っている古い様式の家々には、塀越しに同じ木の葉が覗いている。
おそらく、橘の木だろう。
そう思うと、にわかにここがラセン様の伝承が今なお伝わる地域だという実感が湧いて来た。
卯田教授は村の中をもうしばらくだけ進んで、他の家と比べれば幾分か新しい印象のある建物の横、駐車場と呼ぶにはあまりにも心許ない、土肌が剥き出しの空き地に車を停めた。
荷物を持って、車を降りる。
山の空気は濡れた土のにおいとほんのりとした青臭さが入り混じっていて、少しだけ、重たい印象があった。
「ここは、村の公民館。今は廃校になってしまったらしいけれど、この近くにまだ小学校があったころは、ここでサマーキャンプも行っていたらしくて、今でも外部から客が来た時は、臨時の宿泊施設として使っているのだそうだよ」
田舎の宿というと民宿的なのを想像していたのだが、なるほど、公民館。
食事は麓で購入してある。あくまでも、寝泊まりのためだけに村の厚意で開放されているのだろう。
施設内に入って、受付で挨拶を済ませる。
年配の女性職員は余所者にもひたすら興味が無いようで、見るからにけだるそうな調子で事務書類を卯田教授に渡し、手続きが終わってからは、それきり、こちらに一瞥をくれようともしなかった。
A4用紙に掠れた線で印刷された館内案内に従って2階に上がる。
和室と会議室。それぞれ教授と私は別々の部屋だが、自由時間に入る前に明日の予定を確認しておこうという事になり、荷物だけは置いてから、私は一度、教授に割り当てられた部屋である和室の方へと向かった。
花の模様が書かれた座布団を拝借して、教授と向き合って腰を下ろす。
脇の壁にはこの村の、おそらく老人会の写真が年度別に飾ってあって、その数は年々、減り続けており、最後の写真の下に書かれた年は、年号が変わる前のものだった。……寝る時にこういうモノがあるとあまりいい気分じゃないし、私の部屋が会議室で、良かったと思う。
「さて、今日は後はゆっくり過ごさせてもらうとして。本番は明日。村の祭りの時だね」
ただ資料を集めるだけなら、これまでのデータを閲覧して、卯田教授や、卯田教授以外の民俗学の先生に話を聞くだけでも十分だ。
にも関わらず、この村にわざわざ足を運んだのは、ラセン様を祀る村の祭りが、ちょうど明日、行われるからである。
出来過ぎた偶然のようにも思えるが、芋虫が育ち、蝶と成る季節の事を思えば、そう不自然な時期では無い。
来客をもてなすための突発の行事、というワケでは無いのだろう。……そんな事をする村には、とても見えないし。
「祭は夕方から。明日の日中は設営等の準備があるらしいから、できれば下手に出歩かないで欲しいというのが、先方からの要望だよ。散策したいなら、今日中に見て回っておいた方がいいかもね」
教授の言葉に、返事の代わりに漏れたのは愛想笑い。
……散策、と言っても見て回れる要素があるようには思えなかったのと、単純に、景色が絵に描いたような田舎過ぎて、1人では迷子になってしまいそうで、不安だったのだ。
ラセン様を祀った社も、祭りの時以外は閉じられているという話だし、正直、大人しくここで時間を潰した方が賢明なのではないか、というのが、現時点での私の認識だ。
知らない山奥で迷子だなんて、シャレにならない。
教授も私の心情を察しているのか、つられるように微笑んでから
「ああ、一応。公民館の裏手にも小さい祠があるそうだよ。そのくらいなら、見に行っても問題は無いんじゃないかな」
と付け加える。
……やはりその道のプロと言うか、情報を持っている人物がいるのは、助かる。
「わかりました。見ておきます。……ひょっとして、明日のお供えは、私達の場合そこにするんですか?」
「そうだね。流石に公共の施設の前に並べておくわけにはいかないだろうから」
お供え--常世神信仰でいうところの、「戸口に食べ物や酒を並べる」の部分だ。明日の祭りの時に、必要らしい。
自分達の食事とは別に、こちらも麓で購入済みだ。日持ちするものばかりだから、持って帰れと言われても困らないし、逆に村の方で回収されるにしても、後で食べられるだろう。
と、まあ。そんな感じで明日の予定等を確認した後、村の長老に挨拶しに向かった卯田教授と別れ、私は教授に教えられた、公民館の裏手にある祠へと向かっていた。
本当は私もご挨拶に伺うのが筋なのだろうが、「若い子が居ると必要以上に引き留められるから」と、待機を命じられた形だ。
良かったのだろうか、と思う反面、祭が終わればすぐに帰る以上、不愛想な余所者くらいの距離感でいた方が、お互いのためにもいいのかもしれないと思わないでも無く。
「っと、これ……だよね」
錆びたフェンスを背景に、私の背丈ほどもない小さな祠が、ぽつん、と立っていた。
こういう祠と言えば、小さいなりにきっちりと切妻屋根がついているイメージなのだが、苔むした石の台座に乗せられたそれは四角形で、格子状の細工が施された扉が閉じられている事もあって、どこか檻と言うか、虫かごにも似た印象を覚えてしまう。
磨りガラスからうっすらとのぞく小堂の中は主に深い緑色で満たされていて、恐らく、橘の葉か、手首のお守りに付いているような、橘の葉を模した飾りが敷き詰められているのだろう。
とりあえず、手を合わせておく。
これが正しい所作なのかはわからないけれど、他に様式を、知らないので。
と、
「ん? ひょっとしておみゃあ、例のお客さんさ?」
不意に背後から声が聞こえて、思わず振り返る。少し肩が跳ねてしまったかもしれないが、視線の先に居た老人がそれを気にした様子は無かった。
「あ、ええっと、こんにちは」
「こんにちはー。えーらいけっこい子が居たでラセン様の化身かて思ったわ」
「けっこい……?」
方言だろうか。方言だと思う。
しかしラセン様の化身と言うと
「ラセン様の化身、というと。……もしかして、蝶を助けた青年のところに現れたとかいう?」
「そうだに。ちょうど明日は常世祭りだもんで、ラセン様もいらっしゃるだら、はよ着き過ぎた思うたっけ」
そう言って、老人は笑いながら私の腕にあるお守りに視線を落とした。よくわからない言葉はそこそこあるが、イントネーションが標準語に近いので、なんとなくは聞きとる事が出来る。……あくまでなんとなく、だから、半分くらいしか頭に入って来ないのだけれど。
ただ、雰囲気が柔らかいというか、余所者を拒むような空気では無いのは幸いだった。……暗い雰囲気の田舎だと、さっきまでそう思っていたのが、少しだけ申し訳なくなってくるのだが。
「私ともう1人の方は、明日のお祭りを見学するために来たんです。短い間ではありますが、どうかよろしくお願いします」
「まあわけぇのにまめったい。折角だもんで、ゆるせいしてけ。なんならうちっち寄って行くさ? 口に合うかわからんが、橘の砂糖漬けで作った菓子もあるだに」
「え、うちっち……もしかしてお家ですか? ええっと……」
流石に見ず知らずの人の家に上がり込むのは躊躇してしまう。あくまで大学の教授でしかない卯田先生に、ここまで車で連れてきてもらった私が言うのも、何だけれど。
ああ、でも。
ラセン様の話も、そうだけれど。
私の記憶が正しければ、ここは、幼馴染の親のどちらかの実家もある筈だから――ひょっとしたら、彼に関するお話も聞けるかもしれない。
「その……お言葉に甘えても、いいですか?」
老人がにか、と歯を見せて笑う。
是非寄って行くと良い、という感じの事を言って、彼は私に、後について来るように、と手招きすると、近くの家の方へと向かって歩いていく。
ふと、塀の向こうで、風も無いのに橘の木が揺れたような気がした。
鳥か何かが留まっていたのかもしれない。虫がついているとすれば、啄みにくらい、来るだろう。
相変わらず、景色は霧のせいで少しぼやけている。
幼馴染がここへ来ていたのだとしたら、あの子もこんな景色を、見ていたのだろうか。
*
「人が来るのも久しぶりだに」
お茶菓子と紅茶と、それから砂糖代わりのマーマレードが机に置かれた。
橘の実は酸味が強く生食には向かないが、その分、何かと加工には向いているらしい。この村の数少ない特産品だった。
「今のラセン様も50年以上だもんで、みがましーはしてきたけども、そろそろにーしーもんかたさないかんだら」
同じようにマーマレードをとかした紅茶を、来客用では無い湯呑で啜りながら、彼はそんな事を言う。
間に合って良かったな、という感想が、なんとなしに、脳裏を掠めた。
「おみゃあらが来てくれて良かっただに。ラセン様も喜んどるら」
「……そうですか」
相変わらずの笑みを浮かべる彼に、こちらも笑って返す。
自分で言うのも何だが、人の良さげな笑みは、すっかり板についてしまった気がする。
しばらくラセン様以外の話も交えて談笑した後、キリの良さそうなタイミングで紅茶を飲み終えて、立ち上がる。
それとなく振り返り、斜め後ろにある空間を確認した。
一般的な家庭であれば仏間がありそうな場所に、この集落のそこかしこにある祠とほぼほぼ同じデザインの祭壇が設置されている。
閉じた虫かご。敷き詰められた緑。何もかもが、変わらない。
そして庭の方に視線を向ければ、やはり橘の木が堂々とそびえ立っていて。
外から見るとあまり目立たなかったのだが、木々の合間には、白く、可憐な星形の花が咲いていて、時折濡れたような匂いに混じって、柑橘の香りが漂っていた。
「それでは、明日の夕方。同行者と一緒に社の方に行けば良いんですね」
頷く彼に、より一層、笑みを深くして見せる。
「心待ちにしていますよ。ラセン様に、お会いできるのを」
「村のもんも楽しみにしてるだもんで、明日はえらいにぎやかになるだらな」
会釈をしつつ、向こうからは見えないように、そっとお守りに指を伸ばす。
祭りの開始が徐々に迫ってきている実感が湧いてきて、心なしか、胸の奥から鼓動が大きく響いているような気がしてしまうのだった。
*
「あ、教授。戻ってたんですね」
私が施設に戻って来たのとほぼ同時に、給湯室からマグカップ--香りからして、ココアが入っている――を持った卯田教授が出てきた。
長居してしまったなとは思ったけれど、教授よりも帰りが遅くなってしまうとは。……「若い子が居ると必要以上に引き留められる」とは聞いていたけれど、村長さんに限った話では無かったらしい。
「やあ。その様子だと、ここいらの人のお家で御呼ばれしていたのかな?」
「あ、はい。橘のバターケーキ、いただいちゃいました」
「祭の前日だから、あちこちで橘を使ったお菓子を用意しているんだよ。生食には向かないけれど、砂糖漬けやジャムすると日持ちするからね。……それから」
どう? 他にも収穫があったんじゃない? そう続ける卯田教授を前に、私は思わず自分の頬に触れる。
顔に出ていたのかもしれないと、そんな気がしたのだ。
「はい。ええっと……」
「はは、そうだね。立ち話も何だから、君さえ良ければ、また和室の方においで。昼食を取りながら話をしよう。……っと、君、お弁当はお腹に入りそう?」
「じゃあ、お邪魔させてもらいますね。お腹は大丈夫ですよ。まだ入ります」
「若いねぇ」
その後自分のお弁当を回収した私は、またしても和室の方にお邪魔する。
というか、会議室で食事をするのは、許可をもらっているとはいえ若干気が引けたので、教授の申し出は単純に助かった。
私は老人の家で聞いた話を、箸休めの代わりに卯田教授へと公開する。
教授からすれば知っているような話ばかりだろうし、私自身、方言交じりの話を正しく読み取れているかは微妙だったのだが、卯田教授はいつも通り、適度に相槌を挟みながら、笑顔で聞いてくれていた。
「祭の時のラセン様は、村の方が演じられるんですね」
そのようだね、と、教授は頷いた。
教授も、村長さんから話を聞いて来たのだろうか。
「今のラセン様は、もう50年以上同じ方だそうだよ」
「大ベテランですね。……でも、つまりそれって、他に成り手が居ないって事ですよね。……ちょっと寂しい感じ、しちゃうというか」
「民俗学をやっていると、よく目にする耳にするような話だよ」
ココアを啜って、はぁと小さく息を吐いてから、教授はわずかに視線を上げる。
「でも、それはカミの側にとっては、そう悪い話では無いのかもしれない」
「? と言うと?」
「カミほど移ろいやすい存在は無い、という話はしただろう。……正しく祀られなくなった時点で、そのカミは、本当に元々崇められていたカミと同じ存在だと、言えるのだろうかと僕は考える。偽の風習と共に在るくらいなら、いっそ消え去ってしまった方が、カミにとっても幸せなのかもしれない、と。……時折、考えてしまうんだよ」
こんな仕事をしているとね。と付け足す教授は、どこか上の空にも見えて、しかし同時に、いつに無い程の真剣みを帯びていた。
……が、どう返答したものかと悩んでいる私の視線に気付いたのか、はっと目を見開いて、いつも通り、教授は目尻に穏やかな皺を拵えた。
「っと、すまない。また脱線させてしまったね。他にはどんな話を?」
「あ、ラセン様と常世祭りに関するお話はこのくらいです。……後は、なんていうか、至極個人的な話だというか……」
「?」
個人的な話、の部分で、思わず頬が緩んでいたのかもしれない。
これに関しては、嬉しい誤算だったからだ。……ある意味で、増えてしまった悩みもあるのだけれど、一旦は、さて置いて。
「明日のお祭りの時、私の幼馴染が、村に遊びに来るらしいんです」
そうなのだ。
先ほど家に上げてもらった老人は、私の幼馴染の事を知っていた。
親類では無かったけれど、幼馴染は彼と親しい方のお孫さんで、幼馴染は毎年祭の日にこちらに遊びに来ているという事、今年も来るというのを、幼馴染の祖父母から既に聞いているというのを、話てくれたのである。
つまり、生きていたのだ。
私の幼馴染――南雲 明は。
実際に目にするまでは、確かな事は言えないと思う自分もいるけれど。
でも、来て、良かったと。改めてそう思う。
……しかしそうなると。名前自体は合っていた以上、火事で亡くなった南雲 明さんは誰だったのか、という話になってしまうが――もしかしたら、同姓同名の別人だったのかもしれない。
友人や親類なら兎も角、テレビ局の人は、所詮は赤の他人だ。歳が近ければ、なおの事。勘違いしても、そこまでおかしな話では無い。
それはそれで、例え知らない人だとしても、偲ぶべきなのだろうけれど。
でも、自分の知っている人がどうやら生きているらしいと言う安堵感の方が、今は強くて。……不謹慎でも、やはり、どうしても。テレビの向こう側は、他人事だった。
「そうなのか」
ラセン様と全く関係の無い話であるにもかかわらず、教授の表情は、変わらず、穏やかだった。
「それは、良かったね」
「はい。……本当に」
「折角の再会なのだから、明日はゆっくり楽しむと良いよ。……何なら、ラセン様に関する取材も、僕の方で済ませておくけれど」
「いや、それは流石に。実際興味はありますし、あと実を言うと卒論のテーマにも困っていたので……。お祭りっていうのも久しぶりですし、村の方が扮するラセン様を見るのも、楽しみにしているんですよ」
そうかい、と教授。私は再び、頷いた。
と、
「お守り、失くさないようにね」
不意に、教授はそんな事を、口にする。
「?」
「一種、ラセン様に会うためのパスのようなものだから。常世祭りに参加するなら、一応、言っておかなければと思ってね」
言いながら、教授もズボンのポケットから私と同じお守りを取り出す。
そういう役目もあるのかと、私も改めて手首から下がった橘の葉のお守りを見下ろした。
「わかりました。今日明日はずっと付けておきます」
「それが良いんじゃないかな」
安っぽい造りの、葉っぱのお守り。
だが逆に、そんなありきたりな感じが、今ではこの集落にとってラセン様が身近な存在である証拠のようにも見えて、私はなんだか、微笑ましく思ったりもするのだった。
*
翌日。村の方の準備も着々と進み、日が暮れる頃。
「どうですかね、卯田教授」
地元の婦人会の方のご厚意で浴衣を貸してもらった私は、とりあえず同行者である卯田教授にその姿をお披露目する事にした。
「おお、いいね。似合ってるよ」
お世辞だとしても、卯田教授の物言いは品があるからか、それを感じさせない。単純に、気分が良かった。
「会議室に居ないからどうしたのかと思ったけれど、下で着付けてもらっていたんだね」
「はい、セパレートタイプ……いわゆる上下別の簡易版なんですけれど、帯とかはとても1人ではできなくって」
気分だけでも、よかったら。と渡されたそれは、本格的な浴衣では無いものの、帯をきっちり仕上げてもらっているお蔭か、Tシャツとズボンの上からでもそれなりに様になっている。
何より、柄がとても可愛らしいのだ。
アゲハチョウをモチーフにしているらしいデザインは、しかし黄色と黒の代わりに紫がかった青と紺を使う事で色調を抑えてあり、悪い意味での派手さは無く、袖を通すのにも抵抗感は無かった。
……ひとつだけ、残念と言ってしまうと申し訳ないのだけれど、そういう点を挙げるとすれば――
「ただ、袖、巻くと言うか、絞ると言うか。風習とはいえちょっともったいない気がします。返す時皺になりそうなのもちょっと……」
それこそ蝶の翅のように優美な袖を、ラセン様のねじれた翅を模して、ねじって、紐で縛る。
着物で参加する人は、みんなそうするのが常世祭りでのルールらしい。私が動くたびに、浴衣の袖は、形を固めてあるせいでひらひらとではなくぶらぶらと揺れた。
「まあそれは仕方が無いよ。そのための簡易浴衣、という部分もあるのだろうし」
「それもそうですね。……あと、草履も貸して下さったんですけれど、運動靴でもいいですかね? やっぱり、慣れない所で不慣れな履物は、ちょっと不安で……」
「それは、その方がいいよ。舗装されていない道も多いからね。村の方には僕の方からそう言って返しておくから」
「ありがとうございます」
とりあえず、これでこちらの準備は完了といったところだろうか。
草履を卯田教授に預けて、貴重品を簡易浴衣に付いていた隠しポケットに仕舞い、お供え物を持って外に出る。
相変わらず、山間の村にはうっすらと靄がかかっていたが、夕陽を吸って世界を橙の色に染まった景色はどこか神秘的で、自分達が普段暮らしているのとは、違う世界に居るかのようで。……昔の人がこの時刻を逢魔が時と呼んで恐れたのも、何だかわかるような気がした。
そも、虫を祀るのに夜のお祭り、というのも、少し変だなと思っていたのだけれど。
教授曰く、蝶の蛹は日の出の時刻に羽化するそうなのだが、日没後も光を浴びせ続けると、体内時計が混乱して、夜の内に羽化してしまうそうで。
そうなると蝶は灯りの下以外は暗がりを行き来せねばならず、目の見えない空間で翅を傷付けてしまう可能性が高い――ようするに、人為的に「翅がねじれる」とまでは行かずとも、ラセン様同様の飛べない蝶を作り出すことができるのだ。
常世祭りは、夜通し蛹に光を与え続ける事で、ご神体となるラセン様に近い特徴の蝶を羽化させる目的があったのではないか、と。そんな推測を、話してくれた。
……蝶を助けた物語から始まった信仰で、蝶をわざと傷つけるのはどうかと思うけれども。
だけどその性質を知らない人々からすれば、祭の夜に羽化し、ラセン様と同じ常世神となる蝶は、ひどく神秘的に見えた事だろう。それだけは、私にも解らなくは無かった。
教授と共に、昨日の昼間に手を合わせた祠の方へと、お供えを持って行く。
案の定、祠の戸は、開いていた。
……いや、開いていたというか、通常の観音開きでは無く、祠の扉そのものが取り外されている。
あけっぴろげになった内部には、昨日考えた通り、床面に青々とした橘の葉が敷き詰められていた。
の、だが。
「……御神体的なのは、無いんですね?」
てっきり、干からびた「翅のねじれた蝶」の死骸やら、あるいは羽化前の蛹やら、ひょっとすると芋虫が鎮座しているものと身構えていたのだけれど。
祠の中には、葉っぱ以外には、何も置かれていない。上記の物を模した、像や絵の類すらも。
「……」
教授も流石に不思議に思ったのか、返事は無かった。彼は葉っぱ以外は何も無い祠の中を、じいっと凝視している。
……いや、単純に聞こえていなかったのかもしれない。その可能性も考慮して、もう一度呼びかけると、教授ははっと、我に返る。
「ああ、すまない。……今日はあくまで、村の奥にある社のラセン様が主体だから、もしかしたら祠のご神体も、そちらに持って行ってあるのかも」
確かに、そう考えると他所から来た人間に準備を見せたがらないのも解る気がした。
神仏の移動というのは、どこの地域でも大概気を遣って行われるものだし。
「……カミ様が居ないなら、祠、写真とか撮っちゃ駄目ですかね?」
「やめておいた方がいいと思うよ」
村の方に聞くべきなのだろうが、こういうデリケートな話題はそもそも言い出しにくい。
なら、普段調査で場数を踏んでいる教授に尋ねて、こういう答えが返ってきた以上、自重するに越した事は無い。私はスマホを取り出したりはしなかった。
と、
「おーい、昨日の!」
聞き覚えのある声に振り返ると、昨日の老人が、私を見ながら手招きしていた。
彼の背後には、彼と同じくらいの歳の老婆と、その横に、老人たちと比べると背が高く、身体つきもしっかりとした影が1つ、佇んでいて。
「南雲さんところの、帰って来たもんで、声かけといたよ」
「へっ、あ、ありがとうございます」
教授の方に視線をやると、彼は行っておいでと皺を深くして微笑んだ。
「すみません、じゃあまた後で、お社の方で」
小さく手を振る教授に見送られて、小走りでその影の方へと寄って行く。
「へへっ、久しぶり」
名前も、忘れていたというのに。
都合のいい話で――「変わらないな」と思ってしまった。
そこだけ時が巻き戻ったかのように、つられて、私は恐らく、目の前の存在と同じ表情を浮かべている。
「久しぶり。あーちゃん」
嘘みたいに、昔の呼び名が口を突いて。
元気そうで、良かった。と。
零れるように、本音が漏れた。
*
「馬子にも衣裳ってカンジ? 浴衣、めっちゃ似合ってんじゃん」
「はぁ? 十数年ぶりに会って、いきなりそれ? ひどく無い?」
社までの道を並んで歩き始めるなり、明の第一声。
唇こそ尖らせてはみたものの、憎まれ口交じりの幼馴染の言い回しは、その声が変わっていたとしても、やはり懐かしかった。
同い年の筈だが、顔立ちに僅かにあどけなさが残っているのもその印象に一役買っているのかもしれない。
明も同じように思ったのか、噴き出すようにして、「変わらないなぁ」と視線を上げていた。
「そっか。もう十年以上か。どう? そっち、変わってない?」
「変わってないよ。良くも悪くも中途半端に田舎って感じ。……ショッピングモールできたんだけど、それってあーちゃんが引っ越す前だっけ? 後だっけ?」
「え、何それ知らん。後、後。へぇ、いいなー。引っ越す前にあったら、何かと遊びに行けたのに」
「言うて遊べるところ全然無いよ。あ、でも映画館入ってるんだ。いっつもガラガラだけど」
「いや十分じゃん。てか混んでるより良くない?」
「まあ快適は快適だけど、いつ潰れるかと思うとさ。市内の映画館も結局全部潰れちゃったし」
「そうなの? やっぱり結構変わってるじゃん」
何気ない会話は、しかし年月を経たからこその内容で、ただそれだけに、ますます「久しぶりに会った」という実感が湧いてくる。
ああ、本物のあーちゃんだ。
ずっと、元気にしてたんだ。
「……本当に、良かったよ。元気そうで」
「大袈裟だなぁ。お互い若いのに、十年そこいらで病気したりしないって」
「いや、そう言う訳じゃ無くて」
明が首を傾げる。
失言だったかな、と思いはしたけれど、それでもやっぱり、黙っているのも心苦しくて、私は数秒の沈黙を挟んでから、口を開いた。
「ニュース、知らない? この間、大きな火事があったでしょ」
ピンときていない顔の明は、しかし私が場所を名指すと、ああ、と得心したように頷いた。
「あったあった」
「それで、テレビ局の人から電話があってね。……あーちゃんが、死んじゃったって言うから」
「マジで?」
「マジで」
死んだのかー。と、明は自分の両の手の平を見下ろして肩を落とす。
生きてるでしょ、と、私はその様子を見て、苦笑した。
「それで、たまたまラセン様の話を思い出す事があって。一緒に来てたおじさん、大学の教授なんだけど、ちょうどお祭りもあるし、フィールドワークに連れて行っても良いって言ってくれたから。……ここに来たら、あーちゃんの事も、わかるかなって」
「え、そんな理由でこんなド田舎まで来たの? フットワーク軽すぎでしょ」
「悪かったねそんな理由で。……っていうか、それ以上に単位と卒論のテーマ目的だから。勘違いしないでよね」
「はっはっは、今時流行らないぞそのキャラは」
茶化さないでよ、と、軽く明の背中を叩く。縛った浴衣の袖が、付き添うようにして、一緒にぶつかった。
悪い悪い、怒るなよと明が笑う。……だけどふと、真顔になったかと思うと、明は少しだけ、遠いところを見た。
「でも、卒論。もうそんな時期か。……十年って、案外あっという間だった気がするな」
その目が見ているのは、私の知らない、明の歩んできた景色。
視線を追っても、見えるものでは無い。
「……あーちゃんの方は、ここ最近、どうしてたの?」
それでも、言葉にしたものを聞く事は出来る。
やはり気になって尋ねてみると、「そんな大した事はしてないよ」と、明は肩を竦めて苦笑いしていた。
「大学は行ってるけど、1、2回生で取れるヤツは取ったから、どっちかっていうとバイト漬けの日々かな」
「へえ、いいじゃん。どんなバイトしてるの?」
「介護施設のヘルパー」
「え?」
「まあ、かーなーりしんどいけど、いうて資格無い人間がやれる範囲だから、正規の職員に比べたらそんな大した事はしてないんだけどさ。理不尽で嫌になる事の方が多いけど、やっぱり、感謝された時は気分、悪くないっていうか」
「……」
「……あれ? どうかした?」
言葉を失う私に、明が首を傾げる。
私が
私が、幼馴染が死んだと思った事件は
この上なく身勝手な動機で、社会的弱者を狙った凶行だった。
介護施設が、標的になった犯行だった。
――亡くなられた南雲 明さんは、誰に対しても親切で、思いやりのある人でした。高校時代には水泳部で背泳ぎの選手として活躍し――
――どうして、あんな若い子が。いっつも優しくてねぇ。変わってやれるなら変わってあげたい。申し訳なくて――
この村に訪れる、つい前日。
結局私が情報を提供する事の無かったニュースで見た、私の知らない『南雲 明』が、頭の中で、螺旋のように渦を巻く。
知らない人だ。知らない人だった筈だ。
友人たちと肩を組んで笑う青年の写真に、面影なんて、覚えなかった筈だ。
目の前の、『南雲 明』を見た時と違って。
「ねえ、あーちゃん」
「ん?」
でも
「あーちゃんがさ、バイトしてるっていう介護施設」
同姓同名同年代で、同じ職種の、別人。
「一体、なんて」
……そんな偶然が、本当にあり得るのだろうか。
「……」
「ん? 何?」
「……ううん、何でも無い」
あり得るのだ。
我ながら、馬鹿げた事を考えたものだ。なんて言ったって、幼馴染は、目の前にいる。触る事だってできた。
それに、火事の有った施設名は、さっき挙げている。おかしな反応をするなら、その時にしているに違いない。
あの日、火事で亡くなったのは、画面の向こうの、知らない人。
その、筈なのだ。
と、
「ねえ」
不意に口を開いたのは、今度は明の方だった。
どうしたの? と、私は取り繕うように顔を上げる。
「写真、撮っとこうよ」
「え? 今?」
突然の申し出に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまうが、明は気にする素振りを見せない。
彼の視線は、隠しポケットの中にある私のスマホの方にある。
「次、いつ撮れるかわからないし。社の方は、撮影禁止だったと思うから」
「そうなの?」
まあ、再会を祝して、と言うのなら、急な話ではあるが、私の方にも、異論は無い。
カメラを取り出す。
日は沈み、山のラインに沿ってうっすらと赤色が残るのみで、暗がりの迫り始めた世界に合わせて、カメラを夜景モードに設定する。
「じゃ、こっち寄って」
「うん」
インカメラに切り替えて、腕を伸ばす。
明が、ゆっくりと私の真横に並んだ。
「はい、チー……」
ズ。
たった一文字を。私は口に出来ないまま、固まってしまう。
スマホの画面に映るのは、凍り付いた表情の私と――ノイズ。
幼馴染が立っているべき場所に、同じ形、同じ大きさの砂嵐が、吹き荒れるようにして夜の景色を、乱していた。
「……え?」
その光景に、理解が追い付かなくて。
そうしている内に、明が、私から離れた。
視界の端へとフェードアウトしていく明の腕は、いたって普通の肌の色をしていたけれど。
スマホの画面端には、狂った残滓が残っていて。
「ごめん」
そんな、理由も解らない謝罪の言葉を耳にした瞬間、霧がスチームでも噴き出したのかのように、一瞬にして濃くなって。
幼馴染の姿を、飲み込んでしまう。
「え、ちょ、待って」
制止が聞き入れられる事は無い。身体も思考も、現実に追いつかなかった。
辛うじて伸ばした手に触れるのは、うっすらと濡れたような気配ばかり。
半ばパニックになりながら、辺りを見渡す。
方角が、わからない。
私、さっき、どっちを向いていたっけ。
それに、明は。幼馴染は。
一体どこに。
一体どうして。
なにもかも、訳が分からなくて、もう一度、カメラを開いたままのスマホを覗き込む。
すると、肉眼に比べて気持ちカメラは霧から、あるいは夜闇から受ける影響が少ないのか、ぼんやりと、持ち上げた方角に、灯りを映し出していた。
丸くてささやかな灯りがぽつぽつと並んでいる様は、祭りの提灯を連想させる。
明との会話に夢中になっていたけれど、私の記憶が正しければ、行く手の先に、そんなものが、見えていたような。
「おーい!」
声を、張り上げる。
見えているなら、届く筈だ。ただでさえ、田舎の夜は祭りの最中でもひどく静かで。
「誰かいませんかー!」
「大丈夫かー?」
すると、想定通り、返事が聞こえてきた。
「おみゃ、昨日来たわけーしっけ。霧濃いなったもんで、驚いたら? こっち、こっちにおいでー」
「転ぶといかんだもんで、とばないで来い」
やはり、向こうに人がいるらしい。
……明の事は気がかりだが、ここで私が迷子になってしまってはその方がどうしようもない。
村の人に聞けば、何か解る事もあるかもしれない。
運動靴のままで良かった。私は急いで、灯りと声の方へと足を進める。歩きスマホは褒められた事ではないが、私の目よりは頼りになりそうで、そのまま、向かった。
そうしない方が良かったのではないかと気づいた時には、もう遅くって。
肉眼で確認した村人達と、スマホが映す世界との乖離に、私は、またその場で立ち尽くす。
視界には、確かに。
あの、見るからに人の良さそうな、素朴な田舎の人々が、余所者である私にも、無事にこの場に辿り着いた事を喜ぶような、温かな眼差しを向けているのが見える。
でもスマホの中に居る彼らは、そも、人の姿をしてはいなくて。
芋虫。
緑色の身体。模様……には見えない、大きな青い瞳。腕の先と尻の側に、マゼンタカラーの鋭い突起のついている芋虫が、一斉に私へと、視線を向けていたのだ。
「ああ」
村人の1人が、困ったように眉をハの字にして笑う。
芋虫の紫色をした口が、縦に割れた。
「それ使うと見えるじゃんか。南雲の孫は、何してるだら」
「しょんない、わけーしは皆アレ使いおる。ここまで来たら、同じだに」
合唱するように、周囲の村人--否、虫たちからも、同意の声が上がる。
その中で、一番社に近い所にいる芋虫が、にいっと目を細めた。
「新しい、ラセン様だに」
私の中の何かが自分を弾くようにして、踵を返す。
先の見えないでこぼこ道を、半狂乱になりながら引き返していく。
逃げなければ、と。それだけが頭の中を駆け巡る。
背後から聞こえてくる音が、余計に私の感情を煽っていた。
かちかち、かちかちと、地面を尖った爪の先で突くような音が、幾重にも幾重にも、私の方を向いて迫って来るのが判った。
あの、芋虫たちの、足音だ。
ぞわり、と胸を中心に吐き気に近い気持ちの悪さが身体いっぱいに広がっていく。
ただでさえ霧に覆われた視界がぼやける。頭が痛い。
逃げなければ。
逃げなければ。
どこに行けば良いのかはわからない。
でも、走り続ければ、芋虫たちからは距離を置ける筈だ。幸い、足が速いようには思えない。
捕まったら、何をされるか解ったものでは無い。
だって彼ら、さっき、なんて言った?
新しい、ラセン様?
「あっ」
その時だった。
ぐん、と、何かが強く、私の背中を引いた。
まるで、浴衣の背を強く掴まれたかのように。
「っ!?」
続けざまに、片や腕、袖にも何かがひっついて、思い切り引っ張られて。
私は仰向けに、倒れてしまう。
……霧の向こうに、しかしはっきりと見えていた。
どうして、覆い隠してくれなかったのだろう。
「ひいっ」
息を呑む。
カメラを介さない、姿形だけはいたって普通である筈の老人たちの口から、何本もの白い糸が垂れ下がって、私の方へと伸びていたのだ。
糸は浴衣に纏わりつき、私を絡め取って、逃げてきたばかりのあぜ道を引き摺って行く。
「いっ、いやっ、離して。やめてっ!」
金切り声を上げながら身をよじれば、蜘蛛の巣に囚われた羽虫のように、余計に絡まって行くばかり。
どんなに懇願しても、村人たちの口元の皺は、上向きにつり上がるばかりだった。
「ラセン様」
ざりざりと音を立てて、道に埋まった小石の先が、なんども背中を引っ掻いていく。
左右を見渡たせば、道の脇にはびっしりと、食べ物と酒。それから貴金属類や宝石といった『財』が並べられていて、その全てから、柑橘の--橘の香りが、漂っていて。
「嫌……」
「ラセン様」
絞り出した悲鳴さえも、村人たちが『ラセン様』を呼ぶ声に掻き消される。
名を呼んでいない者達も、うわ言のように、何かを呟いているようだった。
「新しい富が入って来たぞ」
「新しい富が入って来たぞ」
「新しい富が入って来たぞ」
それは、常世神信仰の決まり文句。
財を捨て、財を得る。
「ラセン様」
何かを捨てれば、対価を得る。
余所者を捧げれば--彼らは一体、何を得る?
「どうか我々を、常世の国にお招きください」
もう、どうしようもないと。頭の中で、諦めかけているというのに。
辛うじて持ち上げられるだけ、手を、もがく様に、上に伸ばす。
涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっているのに、拭う事すら、叶わない。
ねじれた浴衣の袖は、人為的に作られた羽化の失敗した蝶そのもののようで、破れて、泥にまみれ、紐をほどいたところで、もう元通りにはならないだろう。
手首に巻いていたあのお守りも、擦り切れて、土に汚れきっている。
安っぽい緑色の塗装はとうの昔に剥がれて、枯れたような色が覗いていた。
「助けて」
惨めに口にしたその祈りだけが、私に出来た唯一の悪あがきで。
その時、ふと。塗装を失ったお守りの表面に、何か、文字が書かれているのが見えた。
*
刻まれた文字は、疫・呪・凶。
いやに物騒な文字ばかりだ。
だが、これは「身を守るための呪文」なのだという。
*
「えっ」
唐突に、視界が高くなる。
ぶちぶちと糸を引き千切る音がして、何かが、私を持ち上げていた。
「な、なに」
まだ肩や腕に糸が絡まっているせいでうまくは動かせなかったけれど、どうにか身を起こす事は出来た。
見れば、私は大きな手の平の上に居た。
土の手。土の腕。土の胴。土の脚。
周囲の地面からごっそりとえぐり出して造られたらしいパーツを、私を引きずっていた糸を自分の身体に巻く事で繋ぎ止めた土の巨人が、私を抱え上げている。
頭を覆うメットだけが、妙に身体から浮いた色。……あのお守りと同じ、安っぽい緑色だった。
土の巨人は、私を一瞥して。
次の瞬間、霧よりもなお濃い、瞳と同じ色をした真紅のガスを、背中から噴き出した。
「!?」
ガスを吸い込んだらしい村人が、1人、また1人、仰向けに倒れていく。
私も反射的に、どうにか自由になった手で口元を覆う――が、確実に少しは吸い込んだ筈なのに、身体に影響が現れる事は無かった。
「これ、は」
手を離しても、結果は同じだった。私には影響が、無いらしい。
対して、村人たちは倒れた順から、ぱあん、ぱあんと硝子の砕けるような音と共に、光の粒になって、消えていく。
悍ましい光景の筈なのに、それ以上に頭が混乱しているのか、今は恐怖よりも、何故か安堵の方が強かった。
土の巨人から、私に危害を加えるような意思を感じなかったからかもしれない。……もっとも、彼(?)の目からは、何の感情も読み取る事など、出来ないのだが。
だが――
「ギ、ギイ……!」
紅いガスに目を剥きながら、覚束ない足元で--しかし数人、否、数体の「村人」が、倒れる事無く、こちらへと歩み寄って来る。
「ラセンサマ」
「アタラシイ、トミ」
「エイエンノ、イノチ」
「トコヨノクニ」
「ワレラ、ツレテ」
彼らの皮が、剥がれ落ちた。
虫が蛹を、脱ぐように。
「ひっ」
現れたのは、明らかに彼らの元の体躯には収まらないと思われる、土の巨人と並ぶ程の大きな昆虫たちだった。
トンボやアリ、ハチにカマキリの姿をした怪物たちが、ガスに苦しみ、口元から涎を零しながら、だが一歩ずつ着実に、迫って来る。
そんな中、土の巨人は、私を手の平から地面に下ろした。
「えっ」
逃がしてはくれないのか、と戸惑いと共に巨人を見上げると、彼はくい、と社の方を顎で指す。
行けと、言っているのだろうか。
でも、そここそ『ラセン様』が居る場所なのでは?
だが、問いかける事も出来ないまま、土の巨人は自分を生み出した地面を蹴る。
拳を構え、虫たちの方へ。
振り下ろした一撃が、トンボの胴を捉え、叩き落とした。
と、
「こっち、こっちだ」
聞き覚えのある声に、振り返る。
社を囲う、木々の隙間、茂みの中。
卯田教授が、潜めた声で私に呼びかけつつ、手招きをしていた。
「教授!?」
強張った身体に鞭を打って足を進めた。
這う這うの体で茂みに飛び込むと、苦い表情の教授が私の背中をさすってくれた。
「すまない。怖い思いをさせてしまったね」
「あの、これは。というか、教授はどこに……でも、無事で……」
「悪いが、話は後だ。……こっちに来てほしい」
終わらせるんだ。ラセン様伝承を。
そう言って、教授は立ち上がり、私の手を引いた。
「ちょ、教授」
わけのわからないまま、彼の後について行く。というより、教授の力に引っぱられている形だ。
村人たちの出した糸と違って振りほどく事自体は難しそうでは無かったが、有無を言わせぬ気迫があって、とてもそうしようとは思えなかったのだ。
思った以上に、歩いただろうか。
社は思ったよりも奥まった場所にあって、鳥居のような、神社を想起させる類のものは何も無かったけれど、代わりにぐるりと周囲を橘の木に覆われていた。
白い星型の花は、夜闇の中でも幽かな光を浴びて輝いて見えている。まるで、ここだけ、夜空をひとつ、切り取ったかのようだった。
その、中央。
公民館の裏で見たものと形やデザインは同じだが、ひと際大きな、四角形の社。
祠の中とは比べ物にならない程橘の葉が敷き詰められた祭壇に、1人の女性が、鎮座していた。
ヒーローものの登場人物が着ているライダースーツのような、身体のラインを際立たせる装束に、昆虫の頭を模したメット。
線は細く、髪は青い。
……ただ、後ろ髪があるべき場所には、前髪と、そして私の着せられている浴衣と同じ色の蝶の翅が生えていて――やはりそれは、ねじれて、螺旋を描いていた。
全てが、作り物のようなのに。
その佇まいは、むしろ神秘的なくらいで。
「あの」
少なくとも、話に聞いていた60歳前後の女性のようには見えない。
女性は私達の方には目もくれず、ただ、じっと前を、見据えている。
「この方って、まさか」
教授は何も答えずに、ただ、ズボンのポケットから何かを取り出し、私に差し出した。
「え?」
それは、出発前に教授自身から渡されたものと、全く同じデザインのお守り。
ただしこちらは無理に作った郷土土産感溢れる、安っぽい質感のモノではなく、本物の橘の葉のように、艶やかで、瑞々しく、とても鮮やかな緑色をしている。
「これが本物の、常世祭りで使うお守りだ」
「へ?」
意味が解らず、呆然とする私の手を取って、教授はその「本物のお守り」とやらを握らせる。
「蒐集したデータをラセン様の元に渡すためのUSBメモリーのようなもので……いいや、説明している時間は無い」
そう言いつつ、「無理な話かもしれないけれど」と前を気をして、卯田教授は真剣な眼差しを私へと向けた。
「信じてほしい。君の事は、必ず無事に帰すから。……そのお守りを、そこにいる彼女に――ラセン様に、渡してほしい」
「……」
やはり――これが、ラセン様なのか。
「お願いだ」
教授が、膝をついて頭を下げる。
躊躇が、無かった訳じゃ無い。教授にどんな思惑があったのかは、私にはわからない。
だけれども、彼の態度はいたって真摯で、真剣で。そして何より、悲痛だった。
それに、教授が私を帰してくれるというのなら、私自身、他に縋る術も無い。あんな虫の化け物たちから逃れる方法など、私には思い付かないのだ。
「わかり、ました」
教授の顔を伺う事はせず、ラセン様の方へと、向き直る。
彼女は相も変わらず、こちらを見てはいない。先程私を助けてくれた土の巨人のように、ただ、前を向いているから、前を見ている。それだけの存在だった。
そんな彼女の視界を塞ぐように、私はラセン様の前に立ちはだかる。
そうして、しゃがんで、彼女と目を合わせて。
膝の上に乗せていた、彼女の細い指を持ち上げて、その手の平に、しっかりとお守りを、握らせた。
「……」
それまでは何の反応もしていなかったのに。
お守りを置いた瞬間、私の手の動きに従うばかりだったラセン様が、自主的に自分の指を折り曲げ始める。
お守りを中心に、ノイズが、走った。
ノイズは波打つようにして、繰り返し、繰り返し、ラセン様の身体を伝って、その全身へと広がっていく。
巻いた翅の向こうで、教授の表情が僅かに安堵に緩むのが見えた。
よく解らないけれど、何かが成功した、という事で、いいのだろうか。
そう思って、私もまた、軽く息を吐こうとして。
私の吐息を塗り潰すみたいに、がしゃあん、と、何かが、砕ける音が、背後で鳴り響く。
咄嗟に振り返ると、私の丁度真後ろに、見覚えのある紅い瞳が覗く土塊が転がっていて。
「ひっ」
「ラ、センサ、マ」
鼓膜を引っ掻くような、不愉快に掠れた声。
さらに後方へと視線をやると、周辺の木々を押し倒しながら、土の巨人や虫たちよりもさらに巨大な影が、社の方へと踏み入って来るのが見えて。
「ワレラ、ノム、ラ。トコシエ、ニ。トコ、ヨ、トコヨノ、クニ、ワレ、ラノ、コキョウ……!」
それは、虫の王者と呼んでも差し支えの無い程、猛々しい姿をした甲虫。
巨大な角に、艶のある翅は、いかにも人の目を引くものだ。
だがその色は夜の帳にも似た藍色で、関節を繋ぐ部分には赤い筋繊維が剥き出しになっている。人の理とは違う世界の化け物だと、一目見て理解せざるを得なかった。
カブトムシの怪物が、引き裂いた土の巨人のパーツをあちこちに投げ捨てながら、縦に裂け、鋭い牙の覗く口から、しゅーしゅーと掠れた鳴き声を漏らしていたのだ。
「村長」
私と、ラセン様を背に回すように、卯田教授がカブトムシの怪物の前に、立ちはだかる。
彼を、村の長と呼びながら。
「もう、やめましょう。この村はとうの昔に無くなってしまったんです。もう……僕達を、開放して下さい」
「ムラハ! ムラハア、ル! ココニ、ワレラノ、コキョウハトコシエニトコヨノクニトコヨニトコシエトコココニワレラノザイハエイエンノクニコキョウトコシエニカエッテキタ!! ラセンサマ、ガ、オワスカギリ」
鋭いかぎ爪の付いた四つ指が、私とラセン様に向かって伸びる。
その直線状には卯田教授が居て、彼は、彼を無視して私達を捕らえようとするカブトムシの腕に、そっと手を添えた。
「『シザーアームズ』」
私には、教授の呟いた言葉の意味は、解らなかったけれど。
その理由は、次の刹那には明確になった。
「グウッ!?」
落ちた時の音は、見た目に反して呆気無いものだった。
カブトムシの怪物の指は、私達に触れることなく、地面に触れていた。
今私に見えるのは、その切断面ばかりで。
「教……授?」
「動かないでいてくれ。きっと、すぐに終わらせるから」
あくまで、いつも通りの、優しい声色だった。
教授の殻を脱いだその怪物が、あまりにも恐ろしい風貌をしていたにも関わらず、だ。
青いカブトムシの怪物に対して、赤いクワガタムシの化け物。
身体はカブトムシの怪物よりも一回り程小さかったが、身の丈ほどの大顎には、とてつもない威圧感があって。
がちん、がちん。と。
教授だった怪物は、金属を打ち合わせるような音を立てて大顎を鳴らす。
「オマ、エ、ハ?」
「なんだ。本当はとっくの昔に、忘れていたんですね」
一瞬、カブトムシの怪物が気圧された隙に、クワガタムシの化け物は、カブトムシの腕を切り落としたその手で、土の巨人の頭を拾い上げる。
「ゴーレモン。……もう少しだけ、手伝っておくれ」
クワガタムシの化け物がそう囁くなり、あちこちに散らばった土の巨人の粒子一粒一粒が、眩い光を放つ。
思わず目を閉じる私の頬を、温かな風が撫でる。
はっとして瞼を開くと、クワガタムシの化け物は、もうそこには居なかった。
代わりに立っていたのは、クワガタの大顎を模した頭部を持つものの、形自体は、人の姿をした金色の影。
土塊を甲殻に変えて纏い、螺旋の腕と、筒状の五指を持つ、怪人だった。
怪人はその指を、カブトムシの怪物へと真っ直ぐに揃えて向ける。
「『ホーミングレーザー』!」
その掛け声と共に、指の先から発射されるのは、星のように青白い光。
十の光線はひとつの流れ星となって、カブトムシの怪物へと降り注いだ。
「『ホーンバスター』!!」
だが、対するカブトムシの怪物の大きな角も、白熱するような光を帯び、流星を叩き割るかのように正面に捕らえての突進を始める。
一歩ごとに地面が抉れ、揺れる。
私は縋りつくように、ラセン様の手に自分の手を重ねていた。
カブトムシの怪物が、教授だった怪人の寸前にまで迫る。
刹那、怪人の指先から、光が途絶えた。
「!」
否、途絶えたのではない。途中で止めたのだ。
右手の指を覆うように光を残し、怪人は身を屈める。
彼は、カブトムシの怪物の懐へと、潜り込んだ。
甲虫であっても、比較的柔らかい腹の、その中央へと。
「『エミット――」
改めて、怪人は指を揃える。
だん、と、叩きつけた足をアンカーのようにして身体を地面に固定し、目にも留まらぬ速度で貫手を繰り出す。
「--ブレイド』!!」
穂先となった指先が、カブトムシの怪物の胴を貫いた。
胸を貫通し、体内に入った光は再び星となって――一気に、怪物の背中をも、駆け抜けていった。
「イ、ギィ……!?」
「村長」
怪人は腕をそのまま抜くのではなく、振るった。
カブトムシの胴は横半分が裂け、黄緑がかった体液が噴き出す。
「これで、終わりです」
「マダ……コキョウ、ココハ、トコヨ、ノ」
「本当の常世の国に、行ってください。……皆が、先に待っていますから」
「……ミナ、ガ………」
ゴーレモンと呼ばれた土の巨人から噴き出たガスを吸った芋虫たちがそうだったように。
先に飛び散った体液も含めて、カブトムシの怪物が、霧散する。
と同時に、怪人を覆う外殻からも、砂が零れ始めた。
彼の身体はみるみる内に膨らみ、また、赤いクワガタムシの化け物へと戻る。
「……さて」
改めて、クワガタムシの化け物は振り返った。
「どう、説明するべきか」
「……」
そのクワガタムシに、瞳は無い。
だが彼の視線が、私へと注がれているのは解った。
今になってもなお、どこか、教授の眼差しを、そこに覚えていた。
と、
「いっつもさ。遅いんだよ、まさかっちゃんは」
耳元に、澄んだ少女の声が響いて、私は振り返る。
ラセン様が、顔を上げていた。
私の視線に気付くなり、ラセン様は少しだけ悪戯っぽく、唇で弧を描く。
カミ、と称される割に、声と同様、その仕草は年頃の少女のようにも見えた。
「でも、ありがとう。■■■ちゃんの事を見つけてくれて」
クワガタムシの化け物に向き直りながら、そう、ラセン様。
言葉の合間に、一度ノイズが走って、聞き取れなかった。……クワガタムシの化け物にしても同様なのか、彼はふう、と、溜め息を吐く。
「全てが上手く、とはいかなかったみたいだね。ごめん」
「いいよ、■■■ちゃんは許してあげます。最後はまさかっちゃんに、呼んでほしかったから」
「……」
「ああ、その前に。まさかっちゃんの事、戻しておかないとだ」
ラセン様は立ち上がり、クワガタムシの化け物へと手をかざす。
次の瞬間、またしてもクワガタの巨体は萎み――今度は、見慣れた初老の男性のものへと。
「……まさかっちゃんって、こんなんだっけ?」
「こうだったよ。……僕は、歳を取ってしまったから」
「そっか。……そうだよね」
ここで、ラセン様がまた、私の方へと振り返る。
口元にはやはり、先程同様の悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「あなたも、ごめんなさい。巻き込んでしまって」
だがその笑みでは誤魔化せない程、彼女の口調は罪悪感に満ちていた。
彼女が動き出す前の教授と、同じように。
「村の虫達に社を開いてもらうのと、記憶データに接続するのに、どうしても若い女性が必要だったから。……詳しくは後でまさかっちゃんに聞いておいて」
「え、あ、はい」
「これでやっと--ラセン様伝承を、終わらせる事が出来るの」
ありがとう。と。
今度は寂しげに微笑んだ彼女に、背後の教授が、螺旋の翼の合間から、節くれだった両の手を添える。
そして
「つばさちゃん、みーつけた」
教授はかくれんぼで友達を見つけた鬼役がするように、そう言って。
途端、ラセン様は、何かが抜け落ちたかのようにその場に崩れ落ちかける。
だが彼女が倒れるよりも前に、しゃん、と、金属の擦れるような音が響いて。
一瞬、ラセン様の首筋に一閃の光が走ったような気がした瞬間――そこから広がった、全てを溶かす様な光が、瞬く間に辺りを呑み込んだ。
*
「……え? あれ?」
目を開くなり飛び込んで来た光景は、ぼろぼろの社だった。
人の手など、長く入っていないだろう。確かに床には橘の葉が敷き詰められてはいるが、その全てが薄汚い茶色に変色していて、社を取り囲む橘自体は青々としているものの、手入れなどまるでされておらず、ぼさぼさに枝は伸び放題。花もぽつぽつと、まばらにしか咲いてはいなかった。
数秒前までの記憶と一致するのは、穴だらけになった地面ばかりで。
だが、むしろそれらこそが、ここであの怪物同士の戦いが繰り広げられていたという、何よりも雄弁な証人だった。
と、
「本当に、すまなかった」
いつの間にか私の隣に歩み寄っていた教授が、膝を付き、手の平を、頭を、地面にくっつけた。
俗に言う、土下座というやつだ。
……なんて、呑気に数秒。混乱の末一周回って凪いでいた頭がたっぷりの時間を使ってその光景を眺め--現実を直視した瞬間、私は跳ねるようにして立ち上がった。
「やっ、やめてください教授! というか、えっと、その……そうだ、まず、まず謝罪よりも、説明を! 何が何だか、わからないままなんです。怒るにしても、このままじゃ何に怒ればいいのかすらわかりません」
「ああ……」
それもそうかもしれない。
そう言って、それでもしばらくの間教授は頭を下げ続け--やがて観念したかのように、顔を挙げた。
そして
「野崎 優華(ノザキ ユウカ)さん」
彼は、私の名前を呼んだ。
何故だか、すぐには反応できなかった。……途方もなく久しぶりに、名前を呼ばれた気がして。
「……カハビラコは、本来名前を呼ぶのも悍ましい存在とされてきた」
教授が続けるのは、古代日本における、カハビラコ――蝶の特性。
「だから、次のラセン様として見染められていた君は、誰にも名前を呼ばれないようになっていたんだよ」
「次の……」
何度か聞いた言葉だ。
村人たち--あの巨大昆虫たちは、私の事を、新しいラセン様だと。
「ラセン様にする事が出来る人間の条件は、若い女性。それだけだ。橘の葉を模した特別なお守りを鍵に、前任のラセン様が保存している記録を引き継がる。それを起点に村のバックアップをあの芋虫たちを介して復元し続けるのが、いわばラセン様の役割なんだ」
「お、お守りって……」
「そう、他ならぬ僕が君に渡した物だ」
地元の土産物だと。
折角だから、記念にと。
教授に出発前に渡されたのが、あの安っぽい方の橘の葉のお守りだった。
「万が一にも君がラセン様にされないよう、最初に渡した方は君を護る手段付きの偽物だった……と言っても、言い訳にしかならないだろう。君は怪我をしているし、身体以上に、心を傷付けてしまっただろうから」
すまない、と。教授は心底申し訳なさそうに、またしても頭を下げた。膝を付かれるのは、やんわりと阻止はしたのだが。
「もう少し、説明を続けて下さい。その……結局、ラセン様って、何だったんですか」
「……すまない。……そうだね。移動しながら話そう。多分、実際に見てもらった方が、早い部分もあるから」
教授に促され、社を覆う橘の林を抜ける。
霧は、すっかり晴れていて。目も、暗闇にはある程度慣れていて。何より田舎の澄んだ空気は、星空の光をよく落としていた。
なので、割合。視界の確保には困らなくて。
……なのに、建物の類は、外に出てからというもの、ひとつも見つける事が、出来なかった。
いくら限界集落で、まばらにしか家が建っていなかったとはいえ、それでも確かに建物はあった筈だ。何度もすれ違ったし、公民館のすぐ近くの家には実際上がらせてもらったワケで。
だというのに、何も無い。
……建物があったと思わしき場所に、ぽつん、ぽつんと。小さな祠が、置かれている以外には。
私は祠の内の1つへと駆け寄った。
開けっ放しになった扉の向こうは、敷き詰められた葉が枯れている以外は、公民館の裏手の祠とまるで同じ。
ご神体等は、何も置かれてなどいない。
何かが、抜け出したかのように。
「まさか」
「こここそが、あの芋虫たちの家だよ。……室内では、祭壇という形を取っている事が多かったみたいだけれど」
あの時も、いたんだよ。
教授の言葉に数十分前を振り返った結果、頭に思い浮かぶのは公民館の裏手の祠。
「教授が、写真は撮らない方がいいって言ったのは」
「写ってしまうから、だね」
「……教授には、見えてたんですか」
「うん」
教授はあっさりと肯定する。
……その表情は、やはり普段からは想像もできない程、苦々しいものだったけれど。
「教授は」
「僕は、この村の出身者だ。……最も、本物の卯田将勝は、数年前に病気で亡くなっているのだけれど」
「……え?」
「「財を捨てると、財を得る」。ようするに何かを捨てると、それ以上の何かを得る。……この村の村長は、村を捨てる代わりに、村を。……自分の思い出の中にあった村を、ラセン様に、望んだのさ」
この村は10年ほど前に、既に廃村になっていたのだと教授は言う。
それ以前から住民の高齢化と過疎化が著しく進んでいた限界集落を、それでもどうにか存続させようと、当時の村長が手を出したのが村に代々祀られているラセン様の力だったのだと。
「君がさっき会ったラセン様の本当の名前は、比良手 つばさ。公的には、50年前に火事で両親共々亡くなったことになっている、僕の幼馴染だ」
「!」
「本当は、彼女だけは祖父母の家に居て、難を逃れたのだけれど。……でも、当時村は新しいラセン様を必要としていて、同時に身寄りの無い子供の面倒を看る余裕がある家庭なんて、どこにも無かった。……体の良い厄介払い。都合の良い人柱、だよ」
火事で死んでなんていない。僕はあの後彼女に会った。そんな主張に、誰も耳を貸さなかったなと、卯田教授は自嘲気味に微笑んで――歯噛みする。
「本物の卯田将勝は、幼馴染の生死を周囲に問いただした一件以来村と軋轢が生じ、県外の高校への入学を機に集落を離れたんだ。……でも、つばさちゃんの記憶の中には、彼が存在していたからね。村を再現する時に、卯田将勝もまた、この村の住人として復元された」
「復元、と、いうのは」
「先にも言った通り、ラセン様の能力はあくまで情報のバックアップ。「捨てたものを再び得る」というのは、ラセン様がものを捨てる前の情報を保存しているから、その情報を引っ張り出してきて、ものが無くなった部分に対象のデータを上書きすれば、実質元通り--というのが、まあ、ラセン様伝承のカラクリだ」
ラセン様伝承の元となった、常世神信仰。
その信仰も、富士山麓では本当に「財を得る」だけの力を持っていたのだろうと、教授は推測を口にする。
では、何故そんな奇跡にも等しい業が可能だったのかといえば、その理由は霧にある、と、彼は続けた。
「さっきまで村のそこかしこに漂っていた霧と、その中に住まう住人達は、ラセン様と、そしてラセン様が保存した情報と、理を同じくする者達でね。記録と、テクスチャ。その両方を張り付けるのに、都合が良かったんだ。……病気や年齢で。若くても、この村を出て行って。様々な理由で減って行った住民たちを、そして自分自身をも。村長はラセン様の力を使って、あたかもずっと皆が生き続けるかのように――常世の国を、創り出していた。というワケさ」
「その、霧の中の住人達、っていうのが」
「この地では、常世神。ある地域では、ケモノガミ。あるいは単純に妖怪や、付喪神とも。……でも、今は少し違うかな。文明の進歩によって、人間は我々を正しく観測する手段を手に入れた。インターネット上の、0と1の数列からなる電子の列と我々は、非常に波長が近かったんだろうね。……だから、我々の存在を知る一部の人間達は、我々をこう名付けたんだ」
電子生命体・デジタルモンスター。
略して、『デジモン』と。
「デジ、モン……ちょっと、アレみたいですね。ポケ」
「ああ野上さん。それはよしてくれ。我々も気にしているんだ」
「えっ、あっ。すみません」
「……とはいっても、こと現代においても文明と切り離された山奥にまで観測の手は回ってはいないから、この区画の住民たちにはあまり馴染みが無かったのだけれど。僕自身、山を下りるまでは、その名称は知らなかったし」
なんだか、変な気分になって来る。
ラセン様。常世神。旧い神話を語るその人は、私もよく知る教授の姿をしているのに。
その口から紡がれる台詞を聞けば聞くほど、彼が人間では無いという事実が湧いてくるばかりで。
クワガタムシの、化け物。
「……教授は、どうしてこの村を出たんですか?」
「僕に張り付けられた記録とテクスチャが、『卯田将勝』だったから、と、言う他無いかな」
曰く、ラセン様のバックアップを元に、あの芋虫(ワームモン、というのが、現代になって付けられた種族名らしい)を使って復元された卯田将勝もまた、「幼馴染の死に疑念を抱いた青年」のままだったのだと、教授は言う。
「ラセン様がこの集落全てに関する情報を保存しているとはいえ、自分の基盤になっている者だけは、再現のしようが無かったんだ。比良手つばさが名前を失ってラセン様になっているのに、比良手つばさが村に存在すると、矛盾が生じてしまう。……だから、つばさちゃんは引き続き、火事で死んだ記録以外は何も残っていない謎の少女、という扱いだったのさ」
気にする者も、いなかったのだという。
村の年寄り達は彼女がラセン様になった事を知っていたし、ただ1人の友人への振舞いを除いては、内向的でおとなしい彼女は、同世代にとってはつまらない存在だったのだと。
だけど、比良手つばさの存在を。
名前は思い出せずとも、卯田将勝だけは、覚えていた。
「つばさちゃん自身の、なけなしの抵抗だったんだと思う。助けを、求めていたんだと思う。ラセン様としての自分を終わらせて、開放して欲しがっていると。……少なくとも、僕はそう解釈した」
「……」
比良手つばさの時とは、厳密には状況が違っているだろう。
少なくとも、住民たちはまだ、全員が人間だった筈だ。
でも私の脳裏には、ワームモン達の糸で引き摺られて社に連れて行かれた時の光景が、べったりとこびりついていて。
思い返せば吐き気がして。身体が震えて。怖気が走る。
糸が人の手に変わったところで、その悍ましさは、変わるだろうか?
「つばさちゃんをラセン様から解放するには、ラセン様に外部からもう一度比良手つばさの情報を入力して彼女の自我を表層化させて。その上で、ラセン様そのものを……壊す、必要があった」
再び、教授の表情が歪む。
「ラセン様のまま壊すと、バックアップデータが暴走を起こして思わぬ事態を引き起こす可能性があったから」と、教授はそんな説明を付け加えたが、彼を苦しめた事実はラセン様の破壊その物では無いのだろう。
『開放』の意味が、2人の関係自体には無関係な筈の私にも、重くのしかかっていた。
「あまり時間は無かったんだ。コンピューターだって、年月と共に機能が劣化していくだろう。ラセン様もまた、徐々に権能に陰りが見え始めていた」
言われてみれば、村長にはその兆候がよく表れていたのかもしれない。
片言で、うわ言のように同じ言葉を繰り返していたカブトムシの怪物は、もう、当の昔に正気では無かったのだろう。
「だから僕はそれを逆手に取って、次のラセン様を探すという口実で山を下りたんだ。あの時はまだ若い姿だったから、つがいを連れてくる風を装って戻って来るのを期待されていたんだろうね。案外、すんなり外に出してもらえたよ」
山を下りた彼は、生贄となる女性を探すのでは無く、本物の卯田将勝の元に向かったのだそうだ。
「ラセン様に入力する情報には、彼女が再現した僕の中にあるデータじゃ無くて、本物の卯田将勝の中にある、文字通り血肉の通ったつばさちゃんの記憶データが必要だった。拒否するなら、脅してでも。最悪殺して脳だけにしてでも、記憶データを回収するつもりだった。なのに」
ここで、卯田教授は
卯田教授というよりも、彼の皮を被ったクワガタムシの化け物として、とでも言いたくなる表情で、深々と、溜め息を吐くのだった。
「あいつ、親戚を装って病室に乗り込んだ僕に対して、何て言ったと思う?」
そう、振られて。
私は慌てて今日の出来事の向こう側。
大学での、卯田教授の記憶を掘り返して
「まさか」
真っ先に浮かんで来たのが、研究室で柔和に微笑む卯田教授の、その行動だった。
「「チョコ要る?」じゃ、無いですよね?」
クワガタムシの化け物は、返事の代わりに、もう一度大きく、息を吐いた。
「民俗学というアプローチを通じて、卯田将勝は既に答えに辿り着いていたんだ。幼馴染の末路。村の行く末。つばさちゃんを開放するための手段。……それを実行できない自分の代わりが、いずれ自分の下に、やって来ることも」
それを菓子を食べながら談笑する形で聞かされるとは思わなかったからひどく面食らったと、若干不服そうに、彼は言う。
なんというか、反発から村を出たというエピソードも含めて、卯田教授はどうやら、若い頃は結構反骨精神に溢れていたっぽい……感じがする。
「カルテの改竄。テクスチャの変更と強化。村を出た後の卯田将勝の記憶データのインストール。……卯田将勝の友人の手なんかも借りたけど、専門じゃ無いのに我ながらよくやったよ。……ま、そうやって心身ともに卯田将勝という人間のデータを取得していなければ、僕はきっと、村の他の連中よりもよほどひどい、自我の無い怪物になっていただろうけど」
「そう、なんですか?」
「ワームモンから進化したあのクワガタ……クワガーモンというデジモンは、本来とても凶暴なデジモンでね」
進化、というのはよくわからないが、思えば社に居た村人--ワームモン達も、土の巨人ゴーレモンと対峙した時に、生き残った者は姿を変えていた。
そして彼らの、姿以上に、行動に。人間性を感じられなかったことは、よく覚えている。
教授がその、クワガーモンとやらにならなかったとしても、卯田将勝にならなければ、結果は同じだったんじゃないだろうか。
「……僕は、この世に橘の実や葉、樹液より甘くて美味しいものがあるなんて、別に知りたくなかったんだけどな」
でも、本物の人間性を得た事が、教授--クワガーモンにとって幸せだったのかは、私にはわからない。
……正しく祀られる事の無くなったカミの行く末、か。
と、私の視線に気付いたらしい教授が、力無く首を横に振る。
「君は、僕に同情するべきではないよ。僕は君を利用し、危険に巻き込んだ。ここに連れてくるために何度も嘘を吐いたし……記憶データの接続にしたってそうだ。前日につばさちゃんから送られてきたお守りには、先に述べた卯田将勝の持つ比良手つばさの記録データを事前に登録していたけれど、何か一つ手違いがあれば、あのお守りを介して、君はラセン様にされかねなかった」
「……」
「本当に、すまなかった。……もちろん、謝って、許される事では無いだろう。出来得る限りの、責任は取ろう」
「責任?」
卯田教授はとんとん、と、指先で自分の胸の中心を叩いた。
怪物であっても、そこを貫かれればただでは済まない、弱点があると思われる位置だ。
「僕は、僕自身を消滅させるべきだろう。もちろん、君を無事に家に送り届けてから、今回のフィールドワークを共にしたから、という理由で君に疑惑の目が向かないようなタイミングまでは、待ってもらう事になると思うけれど」
「……」
「必要であれば、賠償金? と、いうのかな。兎に角、金銭も出来る限りは、用意しよう。幸い卯田将勝は、仕事だけじゃ無く貯金も遺してくれていたから。多少の融通は、利くと思う」
「……」
「だから」
教授の提案を、一先ず黙って聞いていた、その時だった。
突然教授が言葉を区切ったかと思うと、彼はばっと、勢いよく振り返る。
何事かと思ったが、それから一拍程遅れて、夜に慣れた目に、ようやく教授が反応したと思わしき影が映り込んだ。
その影は、人に近い形をしていたけれど、
身体のパーツは、虫のもので構成されていた。
「ま、待ってください」
構えた腕に、一瞬朱色の光沢を帯びた卯田教授を、慌てて制止する。
あんな事があった後だ。警戒するべきに違いないのだが。
だが――敵意を、感じられなかったのだ。目の前の、人型の昆虫とでも呼ぶべきデジモンから。
そのデジモンは、私の制止を受け入れた教授に礼儀正しく一礼したかと思うと、数歩、こちらに歩み寄って、すっと右の手を差し出した。
その黒い甲殻の手の平には、見慣れた、小さな電子機器が乗っていて。
思わず隠しポケットを始めとした全身を確認したが、やはり、該当する機器は、所持していないらしくて。
「落とし物」
聞き覚えのある、若い男性の声で。
そのデジモンは、私のスマートフォンを指して、そう告げた。
私は前に出て、ワームモン達に捕まった時に落としたらしいスマホを受け取る。
指代わりに5本伸びた鋭い爪で、私を傷付ける可能性を慮ったのか。人型の昆虫デジモンは、私がスマホを回収するなり、さっと腕を引っ込めた。
彼はそのまま、くるりとこちらに、背中を向ける。
「! 待って、あーちゃ」
「俺は、スティングモン。だから、ごめん。人違いだよ」
透明な4枚の羽が、ピンと伸びる。
「でも、最初で最後に、ゆかちゃんに会えて、良かった」
元気でね。
初めて会った、そのデジモンは。
久々に出会った友人に、最後の別れを告げるようにして。
そう言い残して、飛び立った。
……向こうの山肌に、うっすらと、靄がかかっているのが見える。
ラセン様が消えたとしても、霧はこの地域に残る怪異のひとつだと教授は言っていた。
彼の帰る場所は、そこにこそ、あるのだろう。
「……教授。私の、幼馴染は」
スマホを胸元で、ぎゅっと握り締める。
濡らしてしまいそうだったからだ。頬から、零れてきた水で。
「火事で、死んじゃったんです。本当に。死んじゃったんですね」
「……今の、スティングモンは」
「もう何年も会ってないし、連絡も取って無かったのに。名前も――忘れて、いたのに。都合のいい話ですよね。……会えて、嬉しかったんです」
今度は、教授が口を噤む番だった。
私は目元を拭う。
新しい涙は恐怖で流した時のものの上を軽く引っ掻いているかのようで、ほんの少しだけ、ひりひりと、痛かった。
「その「嬉しかった」っていう気持ちは、今も、変わりません。だって、今日ここで会えなかったら、私、もう二度と、幼馴染――南雲 明(ミナグモ アキラ)が。……あーちゃんが、「生きていた」って事実さえ、思い出せなかったでしょうから」
都合の良いIFでしかないのは、自分が一番、よく解っている。
彼が復元されたのは、私をスムーズにラセン様の元に誘導するための手段でしか無かった事も。
でも、ラセン様の能力はあくまで「バックアップ」だと言うのならば、並んで歩いて笑って喋った南雲 明は、目的のために歪められた偽物では無く、限りなく本物に近い再現だった筈だ。
もしも、私達が
どこかで、再び出会っていたら。
お互いに懐かしい名前で呼び合って、お互いの知らないお互いの話で笑い合う。そんな未来も、あったのだ。
私は、今日。
失われた未来と、出会えたのだ。
「そういう意味では、連れてきてくださった事、感謝しているんです。……本当に恐ろしい体験でしたし、教授の印象に「嘘吐き」が追加された、っていうのは否めないんですけれども。……でも、教授。遠回しにでしたけど、私の事帰らせようとしたり、一応、最悪の事態にはならないように、手回しはしてくれてたでしょう? ……幼馴染さんの事、優先してもよかった筈なのに」
それは、と言いつつ、教授が口ごもる。
というか、そもそも。ラセン様が定期的に交代しなければ持たない存在だと言うのなら、いっそ私を生贄にしてしまっても、比良手つばさの開放は成立したのではないかと思わなくはない。
……「同じ苦しみを味合わせたくなかった」と、誰かが考えたのだとしたら。それは比良手つばさ自身だったのか、本物の卯田将勝教授だったのか。……あるいは。
「だから、教授に責任を取って欲しいだとか、そんな事は、言わない事にします。……というか、卯田教授が居なくなったら、困るんですよ。単位、欲しいんです、私。……私だけじゃなくて、教授の教え子、全員。私の一任で、皆から留年回避のチャンスを奪ったりとか、出来ないんで」
責任、と言うのなら。
生きて、退職するまで、ゆるい基準で単位と卒論の合格判定を学生に配って下さい。
そう、ぎこちないなりに笑顔を浮かべて、締めくくる事にした。
本音の全てでは無いけれど――紛う事無き本心なのも、事実ではあったから。
教授は、それでもしばらく、黙りこくって。
しかし視線を逸らさない私に、本気だと悟って、ようやく観念したのだろう。
「困った事だ。卯田将勝は、難儀な性質をしている」
こんな奴に、成るんじゃ無かった。
クワガーモンは、改めてそう言って肩を落として――次に顔を上げた時には、彼は卯田教授の顔をしていた。
「怪我の治療費と衣服の弁償費用は、払わせてくれ。それと麓に降りたら、夕食を奢るよ。……そのくらいは、せめて口止め料としてでも、受け取っておくれ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。……回らないお寿司の気分ですかね、私」
「……所持金を確認させてほしい。流石に無い袖は触れないから」
「冗談ですよ、ファミレスがいいです。その方が気楽ですし。……っと」
袖、という単語で、思い出す。
村の景色が失われても、ラセン様の翅を模した浴衣はそのままだった。
あちこち擦り切れて、穴も開いて、みすぼらしくなってしまっているけれど。
ただ、何かの拍子で、袖を縛っていた紐が両方とも、千切れてしまったようだ。
私は帯を外して、簡易浴衣の上下を脱いだ。
どうせ、返すところも無い。
なんとなしに、私はそのまま、夜空へと浴衣を、投げ捨てる。
すると突然、びゅう、と一陣。強い風が吹いて。
浴衣をさらって、舞い上げた。
月明りの下で、着物の袖が、ふんわりと広がる。
蛹を脱いだ蝶が、巻いて畳んだ翅を伸ばすように。
螺旋の蝶は、飛び立った。
*
こうして、ラセン様を巡る奇妙な物語は幕を下ろした。
……かのカミに関して、私はもし余裕があれば、民俗学のレポートの題材にしたいと、そういう思惑も抱えてはいたのだが。
だが当然、ありのままの事実を書くわけにはいかない訳で。
事実は小説より奇なりとは言うけれど、レポートは事実でも奇をてらうと怒られる。
何より教授には口止め料として食後のパフェまで付けてもらったので、公言はしないという契約は既に成立済み。……故に、ラセン様の真実は、私の胸の内だけに留めておくと、心に決めている。
だから、今書いているメールは、ラセン様について卯田教授に尋ねるためのものではない。
だが全く無関係とも言いきれない。この困惑を解消してくれる人間--いや、人間じゃないのだけれど――人物は、卯田教授以外に、いないのだから。
帰宅して。
一夜明けて。
公民館から回収した荷物(公民館だけは、比較的造られたのが新しいからとか何とかで、まともに形が残っていた。もちろん、廃墟は廃墟だったのだけれど……)を整理しなければ、と、鞄を開くなり、零れ落ちてきたのだ。砂が。
砂。
砂である。
それだけなら、まだ、廃墟に1日置いておいたことを理由に、片付けられた可能性はあるのだが。
……その砂の奥から黄色い目玉と緑のおしゃぶりが生えてきた上に動き出したら、驚くなと言う方が無理な話だろう。
その後も我が物顔で部屋の中を這いまわる、この生き物(?)の正体が何なのか。教授に問いただす必要があったのだ。
「……」
とはいえ、見当がついていないわけじゃない。
随分とさらさらになってしまったが、砂の黄土色にも、おしゃぶりのやすっぽい緑色の光沢にも、見覚えがあったから。
帰りの車の中で、教授が教えてくれた。
私の護衛として、偽のお守りを起点に周囲の地面を吸収して生み出せるようにしていた、とあるデジモンの話を。
それは本来、本物の卯田将勝が、自分が村民に戦いを挑む事になった際に備えて用意していた、人工デジモンであったという話を。
クワガーモンはそのデジモンの力を借りる(教授は『ジョグレス』と言っていた)事によって、格上だった村長に並ぶ能力を持つデジモンに進化していたのだ、という話を。
本物の卯田将勝が蒐集したとある地域の伝承を再現する形で生み出されたデジモンは、一時的に構成されたものであるから、村の土へと還ったのだと、卯田教授は言っていた。
出来れば、直接助けてくれたあのデジモンには、お礼を言いたかったのだけれど、と。ちょっとした心残りになってしまっていたのだが。
「……あの時は、ありがとうね」
私の予感が正しければ、一応、その悩みは、解消されたと言ってもいいのだろう。
最も、砂の塊の生命体は、まるで首を傾げるみたいに、砂山をやや斜めに崩す様な形になりつつ、おしゃぶりを上下に動かしていたのだが。
*
結論から言えば、ラセン様の伝承に関する騒動は、私がデジモンと関わる『最初の事件』でしか無かった。
ただ、どれもこれも、愉快な事ばかりとはいかないけれど、けして不快な思い出では無い。
続きとなる物語については――機会があれば、また、いずれ。
『螺旋の蝶』 Fin
集大成だな、って思いました。
デジモンサヴァイブのPV、たくさん調べたであろう民俗学や方言の情報、そしてご自身の体験も含めて、その全てが遺憾なく発揮されたこの作品には素直に感服です。
ここがボディビル会場だったら「ここまで書くには眠れない夜もあっただろう!」とか「文章濃過ぎて固定資産税かかりそうだな!」とか「肩にフランツ・カフカ乗せてんのかい!」みたいな掛け声が飛び交っていることでしょう。というか言いたい
本作、考えてみれば主人公の優華さん以外の登場人物は全員デジモンだったってことですよね……それを認識する度にゾッとします。
教授と共に村を訪れて、村の人と談笑し、かわいい浴衣をお借りして、幼なじみに会えて……って感じで徐々に優華さんのテンションが高まってきたところでの急転直下……。
ホラーものとしてこれ以上ないくらいの高度感を味わいました。
っていうか芋虫と化した村人が追いかけてくるシーンマジでめちゃめちゃ怖くないですか……?
描写的にワームモンだとは推測してましたが、あまりの恐ろしさに「ワームモン!? ねぇ、あれワームモンだよね!?」って心の中の快晴さんに必死に確認とってました(快晴さんはいつもみんなの心の中に)
でもちゃんと教授という名のクワガーモンが助けに来て、村人もといデジモンを倒して、つばさちゃんも役目を終えて……と。
後半の説明部分は、それまでの恐怖が嘘のように吹っ飛んで穏やかな心持ちで読ませていただきました。
それぞれの幼なじみと会えて、そして別れ、優華さんの恐怖の涙は嬉しさの涙で上書きされ、ちょっとした冗談なんかも言えるようになって……。
彼女が『来て良かった』と思えたことで、恐怖に支配されていた僕の心もスーッと軽くなったような気がしました。
『短編』という括り一口ではあまりにも足りない素敵な冒険譚をありがとうございました。
そして、本企画で計三作もの投稿、改めてお疲れさまでした。
『螺旋の蝶』大変興味深く読ませていただきました。拙いながら感想をば。
迷信とデジモンをカスタイマイズして、キミだけデジモンサヴァイブでバトルしよう!
……絶対負けますやんこんなん。勝てませんやん。って感じでした。死んだはずの幼馴染、ラセン様の信仰、村の秘密、そして成り立ち――と、美しいと言わざるを得ない物語の運びと世界観に舌をぐるぐるに巻かされました。
特にスマホを通して村人の正体が明るみに出るシーンは中々にホラーで、サヴァイブ要素を活かしつつ読者もドキリとしてしまうような仕掛けだったと思います。教授がそれとなくカメラを使わないようリードしている描写とかもGOODでした。
最後の幕の引き方も爽やかで、こういう読者で次の話を自然と想像してしまうような終わり方ができるのは羨ましい限りです。
しっかし架空の静岡の爺さんの台詞を標準語に直してみると、「今のラセン様も50年以上になるから、しっかりとやってはきていたけれど、そろそろ新しいものを交えないといけないから」「君たちが来てくれてよかった」(多分)
いや方言のヴェールに守られてただけで普通に怖いわ!!!
しかし他2作品を投稿しながらこれだけの大作を投稿できてしまう筆力が一番ホラーなのかもしれないと震えながら、簡単ですが感想とさせていただきます。
素晴らしい作品をありがとうございました!
因習残る田舎の村。女子大生と大学教授の二人だけのフィールドワーク。何も起きないはずがなく……ええ、ジャンルは虫が出てくるパニックじみた演出のあるホラーです。
ラセン様と聞いて安直にラセンモンが脳内にちらついていましたが、そんな安易なことはなく民間伝承らしい少しグロテスクながらも親和性のある蝶に因んだものだったとは。まあ、蝶が霊的なあれと親和性があることはBLEAC○Hを履修していれば納得するわけで、ジャンルも相まってお彼岸のお話として完璧でした。そしてこんな言葉を言うのは相応しくないかもしれませんが、自分の経験を昇華するというのも創作者として尊敬できるものだと思います。
幼馴染を失うというのが二人に掛かっているという仕組みに意表を突かれ、そのどちらもでまた切ない見せ場を持ってくるとは……こんなん感情ぐちゃぐちゃになりまっせ。
勢いのまま書いてしまいましたが、これにて感想とさせていただきます。三作品もの投稿、お疲れ様でした。
来たぜ都市伝説! いや、というか彼岸ってホラーか? 夏P(ナッピー)です。
これは実に良いデジモンサヴァイブ異伝。
教授が(連れてきた身の上で)いつ「あそこへ行ったんか!?」とか言い出すかワクワクしてましたがそんなことは無かった。途中からむしろそれこそサヴァイブのアルケニモンみたく教授側が怪物化して襲い掛かってくるのかとも警戒していましたが、そんなことも無かった……いやあったか?
俺が地味に静岡生まれなのでうっひょおウチのバアさんみてえな喋り方してんなこの村の人達イイイイイと思ってたらまさかの展開。というか、初見の時点で割と普通に「新しいラセン様」とかぶっちゃけてしまっていたな……エクスクロスや! 魔境伝説やこれは! どう考えてもゆかちゃんは(10年ちょい前の)松下奈緒や!
教授もといクワガーモンは“そう作られたもの”で本物の方と繋がった上でとはいえ、民俗学について普通に精通しているの凄いのでは。よく考えたら序盤はクワガーモンが万葉集のこと語ってたのか。我ながらよくやったよと自分で言ってましたが頑張り過ぎだぜ。
ラセン様=フーディエモンと気付くまで、モブ村人がワームモンと気付かず「今度こそ眷属や! 眷属に違いないで!」と思ってましたが違って無念。え、エリカァ……はともかくワームモンだらけで最後の最後に登場するスティングモンはズルい。これぞ幼馴染、なんかすべてが繋がるタイミングでゾクッとさせられましたがあーちゃん最後まで立派だったんやな……。
デジタルモンスターの名付け方が実にサヴァイブでした。ケモノガミという単語出てくるとサヴァイブみが増す!
それではこの辺で感想とさせて頂きます。
彼岸花の蕾が開きに参加して頂きありがとうございます。
このお話、今までで一番説得力のある説明を見たかもしれません。物語上の説得力やフーディエモンの記録を司る能力もありきかもしれませんが……主催として今回のお彼岸らしさMVPをフーディエモンに。特に意味や報酬はありません。
さて、感想ですが……発売前時点での快晴さんの思うデジモンサヴァイヴということで、ケモノガミのポジとして作られたらしいラセンサマ信仰。素晴らしい説得力を持って物語に引き摺り込まれました。
50年変わらないラセン様の辺りから、祭りで生贄にされそうだなぁとは薄々思いながら読んでいたのですが、村人が幼虫と描写された辺りやスマホに本当の姿が映し出されたりした辺りは思わず声が出そうになる程怖かったです。幼虫=ワームモンとわかっていればまだあれだったのでしょうが、分からずに読んでいるともうおぞましくておぞましくて……
教授の頼もしさや会えた幼馴染は所詮写身である悲しさ、教授自身も最早本人ではなく色々と切なく心動かされるところもあり、ホラーでありながらちゃんといい話でとても素敵な物語でした。
最後にあらためて、彼岸花の蕾は開きに参加して頂き本当にありがとうございました。三作品目は今回最多ですね!主催として負けられないので三作出すと聞いた時焦ってネタ探し始めたのは内緒です!!