「――行方不明だった坂崎マユミさんがA区の郊外で発見され、無事保護されました。監禁していた犯人は死亡しており、遺体の損耗が激しいため、警察は身元の特定を急いでいます」
ラジオから流れるニュースに耳を傾けながらトーストを頬張る。社会人たるものご時世には積極的に聞き耳を立てておきたい。何が使える情報になるのか分からないのだから。
「――次にB区で発生したビルの倒壊事故ですが、建築会社は本日午後に緊急会見を開く予定です」
「また建築会社か。流石に次はガス会社とかにでも変わるかな」
本音を言えば、経済のニュースではなくこういう身近なニュースの方が安心したりする。結局のところスポンジのように吸収できるのは、自分に関わりのある範囲の情報だけ。その範囲を広げることこそが知見を広げるということなのだ。
「ご馳走様でした」
それらしい結論で益体のない思考を打ち切っり、朝食をすべて胃の中に取り込んだ。鼻歌交じりに洗い物を終えて、支給されたばかりのジャケットを羽織る。着なれないスーツも時間が経てばいずれ様になるだろう。
「時間には余裕があるか。――行ってくるよ、父さん、母さん」
見慣れた写真に軽く挨拶をしてドアを開ける。外界に出た瞬間に夏の日差しが肌を焼く。空は快晴。雲一つない青空は清々しい気持ちで出勤初日の一歩を踏み出した。
「出勤初日から遅刻とは、随分肝が太い新人だな」
「いやー、そこまで言われるほどじゃないですよ」
「そういうところを言ってんだよ!」
職場で僕を迎えたのは高身長の美人な女先輩の怒声だった。
芸術的なまでに均整の取れたモデル体型は僕よりもスーツ姿がよく似合う。何なら黒縁眼鏡と同様に着用を義務づけられた黒ベルトのチョーカーもトライアングルの金具含めて一切ノイズになっていない。
茶髪を後ろで一つ結びにしているのは視界の邪魔にならないための配慮だろう。そう思えば完成されたスタイルも機能美を求めた結果に思える。口に出した瞬間にそれは自分に牙を剥くのは間違いないので、賞賛は心の内に留めておくが。
「で、遅刻の理由はなんなんだ?」
理由はどうあれ遅刻したのは僕自身の過失だ。先輩が青筋立てて説教するのも理にかなっている。ここは下手な言い訳を考えずに、あくまで事実を粛々と報告するしかない。
「順を追って報告します。自宅を出発後十分頃に大荷物を抱えた七十代の女性を発見したので、彼女の目的地まで同行しました。それから五分後に七歳の迷子の少女と遭遇したので、交番まで案内し母親と合流させました。さらに十分後、徘徊老人と思しき九十代の男性を発見したので、再度交番に戻りました。掛かった時間を合算すると四十分程度のロスですね」
「おい、私らをなめてんのか? 嘘にしてももっとまともなのがあるだろ」
何故かさらに怒りを加速させただけだった。流石にこれは僕も理不尽だと思う。淡々と分かり切っている事実を改めて報告しただけなのに、何の根拠を持って嘘だと宣われているのか。
「いびるのはそこまでにしようか」
「課長にはこのへらへらした態度がいびられている人間のそれに見えるんすか?」
「彼はこんなことで嘘をつけない。それは君自身がよく分かっているだろう」
「そりゃ……そうですけど」
僕の表情に不満が浮かぶ直前に双方の苛立ちを遮断する声が響く。諭すような声音も眼鏡の奥から覗く視線も穏やかだが、これ以上の不用意な発言を許しはしない圧を感じる。流石と言うべきか、それでも先輩は不満を隠さずに噛みついてはみるが、結局は理詰めで諭されてしまった。
「……新人、次からはちゃんとこっちにも連絡を寄越せ」
「以後気を付けます。すみませんでした、課長、推名先輩」
面白いものは見れたが、そもそもの原因は僕の遅刻にある。反省すべき自覚はあるので、最初から先輩の言うことは素直に聴くつもりだった。
「私の名前って言ったか? というか、てめえの名前を聞いてねえな」
そういえば挨拶すらしていなかった。開幕説教されたからとはいえ、出勤初日に何よりもすべきことが疎かになるとは。今朝は晴れやかな気持ちで家を出たはずなのに、結局は当たり前のことすらままならない若輩者だ。
「本日付けで公安電障対策四課に配属された有馬シュウです。基本はステージ4で、鎮圧向きではありますが肉体労働は得意ではありません」
得手不得手は早めに明らかにしておいた方がいいだろう。誰と組むにしても手の内が分かっている方が先輩方もやりやすいはず。役割分担の基本は得意なことを割り振って成果を伸ばすことだ。
「有馬くんはさっきから先輩風吹かせて説教している推名ルミさんとバディとして行動してもらうから、分からないことは彼女にいろいろ聞いてね」
椎名先輩と組めるなら最早立ち回りは決まったも同然。花形の前衛は先輩に任せて、自分はサポートに徹して程よく先輩を立てればいい。
「よろしくお願いしますね、先輩」
「先輩を馬車馬のように使う気だな、てめえ」
能力的な相性は悪くないと思う。ただ、先輩からの好感度があまり芳しくないので、正直先行きは怪しいと思う。主に自分のモチベーションへの影響で。メンタルへのダメージは仕事に影響するどころか最悪の場合、死に直結するので気を強く持たねばならない。そうだ。見直してもらえるように頑張ればいい。
「さて、早速だけど二人に仕事だ」
早速、名誉挽回のチャンスが来た。新人の初日だからって日和見するつもりはない。できる範囲のことを積極的に行動に移して、目に見える成果を残してみせる。
「あと少し遅ければ私一人で行く羽目になった訳だ。過度な期待はしてないが、その方がよかったなんて思わせるなよ」
「もちろん。惚れ直させてみせますよ」
「相変わらず話になんねえな、てめえは」
背中を叩かれたのは悪態ではなく、背中を任せるというエールなのだろう。セーブされたと思えない程に鋭い痛みが背骨まで到達したけれど。そういう性癖はないので、シンプルに泣きそうだ。
「標的はB区の商業ビルの四階テラスに陣取っています。ステージは4。モデルはレオモン系統の亜種のようですが、属性はウィルスでさらに武装強化が施されているようです。特に右手のチェーンソーの破壊力は馬鹿に出来なさそうです」
「分かってる。気を付けて殴ればいいんだろ。新人は避難誘導を優先しろ」
上階から飛来する瓦礫の破片から逃げ惑う市民を誘導しながら、先行しようとする先輩に本部から提供された情報を再度連携する。市民にはまたビルに欠陥があるだの内部で事故があったのだと通達されることだろう。今ここで逃げ惑っている彼らも何が起きているのか、原因が何かを感知することはできないのだから。
支給された眼鏡を外して、意図的に除外していた階層(レイヤー)――「Tレイヤー」の情報を知覚する。各建造物やそれらの段差の輪郭に沿う緑のワイヤーフレーム。その間を埋めるのは明度が一段落ちたテクスチャ。そして、この場にいる人間達に重なるように姿を現す半透明のモンスター。
そいつらの大半はまだ実体という主導権を得てはいない。四階のテラスで暴れている一体を除いて。そして今、「Tレイヤー」に移ろうとする者が一人居る。
「新人、私一人でケリがついても気にするなよ――階層遷移(レイヤーチェンジ)」
先輩がチョーカーについた金具を引っ張ると同時に、彼女の姿が消失する。――いや、彼女に重なっていたモンスターに彼女を彼女たらしめる本質が取り込まれて、実体という主導権が明け渡される。
モデル「ジンバーアンゴラモン」。それを一言で形容するならば兎の獣人だ。小麦色の毛並みの四肢を茶色の手袋と黒いレギンスで覆った軽やかなる武闘家。それが、かつて己の獣性に溺れたクソガキをも打ち倒した先輩の本性だ。
声を掛ける間もなく先輩は標的へと一直線に壁を駆け上がる。重力すら感じさせないような軽々とした、だが人間を遥かに超えた筋力が為せる技。瞬く間に視界の端まで到達した直後、その地点で建物のワイヤーフレームが拉げる程の衝撃が轟き、剥がれたテクスチャが瓦礫という実体となって飛来する。
「うん、様子見している場合じゃないな、これ。――階層遷移(レイヤーチェンジ)」
先輩と同じ所作でチョーカーの金具を引っ張り、許されている範囲での己の獣性を解放する。
「っが……あ……ウグぁあ……」
意識が浮上するような感覚とともに人としての肉体がずぶずぶと崩れていく痛みが理性を襲う。そこで人間である自覚を手放した瞬間に、チョーカーは現れつつある害獣を自爆という手段を持って駆除するだろう。人間であることさえ忘れなければ、僕はまだ生きていられる。
何より、僕はまだ先輩に何一つ認めてもらえていない。
「アアああッ!」
一握りの理性を残して衝動のままに両足で地面を蹴り、勢いのまま振りかぶった上側の両腕を瓦礫に突き出す。瞬間に掌から炸裂する電撃は周囲の瓦礫を巻き込んで小さな砂粒までに分解した。眼下の被害も無いと言っていいだろう。ならば、このままテラスまで上がって先輩の援護へ向かうべきだろう。
問題なのはその手段。今の僕のモデルは「エキサモン」。最も肉体のレイヤー――「Fレイヤー」でイメージが近しいのは蟻だが、恐らく蟻は蟻でも羽のある種類ではない。
使えそうなのは意外と鋭いツメがある四本の腕と二本の脚、そして自重を支える程に丈夫なお尻の針だ。
「登るしかない、か」
人間に得手不得手があるように、その身に重なるモンスターにも得手不得手があるのだ。
テラスまで到達した頃には既に戦況はワンサイドゲームになっていた。
ジャブ。ジャブ。ストレート。怯んだ相手の黒い鬣を左手で掴んで毟り取る勢いでこちらに引き寄せ、無防備な顎にテンポよく三度の膝蹴り。暴走状態にあっても、生物としての機能を欠損する衝撃には動きが鈍る。
「そうなった段階でこの腕は使い物にならなくなってるよな」
上半身がぐらついたところで左手でチェーンソーの付け根を掴んで引き寄せつつ、その勢いを起点に身体全体を竜巻のように回転させる。断続的に振り下ろされる長く鋭い二つの耳はギロチンとするなら、高速で回転するその身体はさながら回転鋸。常に痛みに喘ぐような絶叫は度を越えて、声すら出なくなったところで、チェーンソーはマッドレオモンの腕からちぎれ落ちる。
「ア……ウぐガボッ」
最早うめき声しか上げられないそのどてっぱらに蹴りを連続で叩きこんで壁のワイヤーフレームまで飛ばしてノックアウト。理性のない化け物も意識を奪えばただの塊だ。
「悪いな、新人。多少酷い酔っ払い相手なら十分過ぎる時間だ」
「みたい、ですね」
こちらを振り返る先輩の身体にこびりつく赤は相手の返り血だけ。決着がつくところを目にしていなくとも、今の立ち姿さえ見れば一階に居た頃の物言いを疑う意味はない。
「随分手荒いことしましたね」
「感情暴走じゃなくヤクで飛んだ輩には同情の余地なんてないだろ。事情聴取のためとはいえ、命を残しただけ優しいと思え」
「そうですね。こっちの傷は治りが早いですし、命があれば何とでもなる」
「ほーん。言うじゃねえか」
先輩風を吹かせたいところ悪いが、その辺りの割り切りならとっくに出来ている。命さえ残ったのなら今は同情する必要もない。理由も経緯も償い方も後で考えればいいだけの話だ。
「こいつの後始末は私がしておく。周辺の被害をまとめておけ」
「先輩が壊した分ですね」
「そこまで壊してないだろ」
到着早々瓦礫が飛んできた事実は心のうちに留めて、粛々と先輩の指示に従う。テクスチャごとコンクリートが抉れているのが三か所。ワイヤーフレームごと歪んだ柵が八か所。そして、この場に不釣り合いな親子が一組。
「ん? もしかして……なんで?」
そこに居たのは今朝の遅刻の原因となった迷子の少女とその母親。母親の右手は娘の左手を握り、空いた手には洋菓子店のロゴが入ったビニール袋が握られている。その情報だけとらえればほほえましい光景だ。ただ、今朝会った時とは別のベクトルで様子がおかしかった。
「――何、ここ? 何、あの化け物……私、どうしちゃったの」
問題なのは娘ではなく母親――白井マドカさんの方だ。視線は虚ろだが明らかに僕達を捉えている。
「あれ、イチカちゃんどこ……どこ行ったの! ねえ、何か言って! どこなのぉ!?」
「……おかあさん、なにいってるの。ここだよ、ねえ?」
理由や経緯はどうでもいい。ただ状況だけが非常にまずい。僕らのいる「Tレイヤー」を認識してしまっているということはそれだけ存在の本質が「Fレイヤー」から浮きつつあるということ。感情暴走による無意識の階層遷移。そのスイッチが入った以上、加速的に存在の本質が「Tレイヤー」に流れていく。
「お願いします。落ち着いてください」
「ヒッ、化け物!」
落ち着いていないのは僕自身だ。自分の本質すべてを「Tレイヤー」に移している今は文字通り化け物の姿をしている。慌ててチョーカーの金具を再度軽く引っ張り、本質の半分を「Fレイヤー」に移す。
「僕です。今朝、娘さんを交番に連れて行った者です」
「あなたが化け物? その力でイチカちゃんに何をしたの? あの子を知ってるならあの子を返して!」
見知った姿を晒したところで化け物と結び付けられてしまえば、結局は信頼を得るには足らない。それでも言葉が届くのならまだマドカさんは踏みとどまれる。マドカさん自身はまだ化け物にならずに済む。純粋な人間だけを認識できるレイヤーに留まっていられる。
「イチカさんなら大丈夫です。だから、今はあなた自身のことを大事にしてください」
「やっぱり何かしたのね。私に何をさせたいの?」
「何もしてません! すぐ近くにいますから!」
「嘘言わないで! どこにいるのよ! 私のせいであの子に何か起きてるんでしょ!?」
本音を言えば理性では不可能に近いことは分かっていた。人間のままでは抱えきれない感情を煮えたぎらせたからこそ、むき出しの感情が血肉となる「Tレイヤー」を認識出来るようになってしまう。そうなった段階で「Tレイヤー」に存在する自分自身の獣性に呑まれてしまうのは時間の問題だった。
「私がこんなのだから、あの子の欲しいものをあげられない。普通の家庭ならできることをしてあげられない。私じゃあの子に何もしてあげられない。私じゃなければよかったのに」
マドカさんの装いは既にホールケーキを思わせる白とピンクのドレスに変わっていた。いや、その装いをした獣性に呑まれつつあった。いつの間にか右手には成金趣味のような金色の扇子が収まっており、もう片方の手で押さえる目元にはセレブ気取りの赤いサングラスが貼りついていた。頭頂部ではピンク色のカップケーキが入った金色のカップが存在感を放っている。
高貴なまでに派手な姿だとしても、僕にとっては何よりも醜悪に見えた。
「駄目だ! それ以上は言っちゃいけない!」
「私が居なければよかったのに」
白井マドカという人間の姿が消失する。イチカさんの手を握っていた筈の手も、白井マドカが纏っていた衣服も、彼女を一人の人間として認識するための要素として存在していたものが「Tレイヤー」で実体を得た成金貴婦人の内にすべて取り込まれた。
「――馬鹿野郎!」
後方で先輩の声を聞くと同時に反射的にチョーカーの金具を引っ張る。今は肉体が溶けるような痛みを感じている暇もない。そこに意識を割いている間に二度と痛みを感じない状態に陥りかねない。
意識外の衝撃で真横に弾き飛ばされた。二回転しながらも実体を得た尻の針を床に刺して踏みとどまる。幸い、マドカさんの娘――イチカさんには傷はなく、ただ消えた母親を求めて泣いているだけ。彼女の本質が取り込まれた完全に移した「Tレイヤー」にのみ、事態の終結の鍵を握る存在が集結している。
衝撃に怯みながらも不動のバランスを持ち直した僕自身(エキサモン)。獣性に取り込まれると同時に手刀を獣性に取り込まれると同時に僕に手刀を振るった白井マドカ(ウェディンモン)。――そして、手刀を振るわれる直前に僕を蹴り飛ばした推名先輩(ジンバーアンゴラモン)。
「先輩!」
「掠り傷だ! 一丁前に気にすんじゃねえ」
掠り傷というには肩口から噴き出す血の量が多すぎる。それが明らかでも僕に向けてその言葉を吐いたのが、気遣いでもなければ幼稚な意地でもないことは流石にわかる。多少の傷にいちいちリアクションを取っていられるような相手ではない。
「感情暴走のステージ5。この意味分かるよな」
「猶予はないってことでしょう」
ならば下手な心配は余計なお世話だ。今はただこの状況をどう解決するかという計画立案とその実行にのみ意識を割く。
「力づくで叩き潰すしかないって言ったつもりなんだが、聞き間違えたか?」
「『Fレイヤー』に引きずり戻す気ですけど」
「猶予はないって言ったのはてめえだろうが!」
当然のように提示した目標は当然のように却下される。それでも今回は安易に退く道理はない。普通にやれば困難なことなど百も承知。それでも手がない訳ではない。
別に遍くすべてを助けられるとは思っていない。それでも手が届く範囲なら助けられるように能力を磨いてきたつもりだ。そして、今朝イチカさんに伸ばした手は縁という可能性として、マドカさんを救うために使える筈だ。
「プランも手段もあります。だから、お願いします」
「自分が何を言っているか、分かってるんだよな」
「当然です」
無茶で無謀で馬鹿な新人だという自覚はある。それでも若気の至りと己惚れることもできずに後悔するのだけは嫌だ。
「……分かった。時間稼ぎとケツ持ちくらいはしてやるよ」
「先輩も無茶しないでくださいよ」
「注文の多い新人だな」
首元に指を掛けるようなジェスチャーを尻目に、先輩は僕の意図を汲み取って駆けだす。
「どこ……何……邪魔ァッ!」
接近する先輩を敵と認めたマドカさんは無造作に扇子を振るう。その軌道に沿って放たれる桃色のクリームはそれ自体に殺傷能力はない。ただ床に張り付いたクリームを見れば、その粘度がトラップとして十分だと分かった。先輩からすれば手酷い掠り傷を与えた手刀よりもこちらの方が厄介だろう。
「シィぁッ!」
だからこそ、真っ先にその扇子を右手ごと蹴り飛ばした。反撃に振るわれる左手の手刀は左へのサイドステップでも避けきれない。右肩を深く裂いたとしても、それは必要経費として即座に割り切れる人だ。
「これで片腕は使えねえぞ。私に逃げを優先させるんだから、本当に手はあるんだろうな!」
「安心してください。多少は逃げるのも楽になりますよ」
扇子を奪い去って一度後退した先輩を見てしまえば、こちらも覚悟を決めなければならない。最初に提案したのは僕自身なのだから。
「どうして私から奪うの……なんで? なんで? なんで!?」
マドカさんが幽鬼のような動きでこちらへにじり寄る。標的は先輩で今の彼女には僕のことなど目に映ってはいないだろう。
「何も失ってはいませんよ」
「……ア? 誰?」
だからこそ、今この瞬間だけは先輩の前に出てでも意識に僕の存在を割り込ませる。
「気にしなくても、今思い出させてあげます」
触覚で一瞬炸裂する光。それ自体に意味はないただの余波のようなもの。その本質は僕の意識を拡張して、対象と一方的にコミュニケーションを図るパスを繋ぐもの。言うなれば、テレパシー能力。種として持つ技の名は「インセクマインド」。
『白井マドカさん。聞こえてますか』
「ひッ? 誰、どこから?」
マドカさんが始めて怯んだような声を上げる。テレパシーなんて通常ではあり得ない形で干渉しているのだから、そのリアクションも当然だ。これくらい肝が細くなくては別種の化け物として相対しなければいけなくなる。
『僕です。目の前に居るでっかいアリンコです』
「アリンコって……化け物が何を言って!」
『ここには一人も化け物はいませんよ』
テレパシーという手段であれば否が応でも意識はこちらに向く。音を介する言葉では無視されるような言葉も、思考に直に語りかけられれば無視はできない。対象に混乱を齎す技の本質は術者との対話を強制し、その言葉に説得力を与えることだ。
「そんな訳ないじゃない! 鏡見たらどうなの!」
怒りのままに振るわれる手刀を風に揺られる柳のように躱しながら言葉を紡ぐ。独楽のように回転しながら描く不規則な軌道は獣性の本能に頼っていては捉えられない。
術者が姿を晒したうえでこの技を用いるということは敵意もこちらに向くということ。そんなことは最初から承知の上だ。先輩がいつもよりちょっかいを出せなくなった以上、僕自身の立ち回りで何とかしなくてはいけない。
『あなたこそ、今自分がどうなっているか分かってるんですか!?』
「な、にをきゃッ?」
胸元に潜り込んで、腰に掌底を当てると同時に電気ショック。怯んで腰を区の字に曲げたところで右に回りながら足を払う。
盛大に尻もちをつくマドカさん。足先まで視界に収まれば、今の自分がどんな姿をしているかは嫌でも分かるだろう。
「……え? 私、何これ」
久しぶりに激情に囚われていない声がマドカさんの口から聞けた。ただ、それは冷静であることを意味していない。現状を受け止めてもらう必要があるからこのような手に出たが、本当の勝負はここからだろう。
「これじゃ私も化けも」
『化け物じゃありません! あなたはあなたです。今ならあなたの望む姿に戻れる』
「Tレイヤー」に存在する獣性も「Fレイヤー」に存在する人間性もどちらも白井マドカという存在を構成する一面。どちらに主体を置くかを選ぶかの問題だが、選んだ結果によっては「Fレイヤー」への被害を考慮した対処を行わなければならなくなる。それだけは断じて願い下げだ。そんな余裕も猶予もこちらにはないのだから。
「……無理よ。私の望むものなんて何一つ叶わない」
『なんでそう思うんです?』
ようやく本音を聞けた。まだ話をしてくれるのなら、引き返せる。そう思って安心するには少し早すぎた。
「私の人生ずっとそうだったからよ!」
上の腕が両方、僕の肘の先からちぎれて飛んだ。振り返りざまの手刀を反射的に避けた結果の犠牲がそれで済んだのだから御の字だろう。
「親は優秀な兄にしか興味なかった。その兄にストレスの捌け口にされても、その仲間に使われても誰も助けてくれなかった!」
激情のまま僕に向かって手刀が何度も振るわれる。寸でのところで避けられているのは動きが力任せで単純だから。それでも余波や衝撃で飛ぶテクスチャの破片は身体を切りつける。痛みに意識を持っていかれた瞬間に腕や脚はもう一本飛んでいくだろう。
「何してる、新人! 無理するくらいなら、本気で仕留めるぞ」
「待ってください。大丈夫です、から」
それでもまだ先輩の力を借りる訳にはいかない。少なくとも、あの人にステージ5の力を出させてはいけない。それは僕自身が身を持って理解している。それにマドカさんの痛みは僕がまだ受け止めていたい。
「ちゃんと私を見たのだって、イチカがお腹に宿った時だけ。ああ、外聞の悪い邪魔者としてしか見られてなかったっけ。あの娘の父親だって分からない。今更知りたくもない。……そうよ、あの娘のことだって、本当はどうでもよかったの!」
「っぐ、あ」
右の手刀を避けた直後に左の手刀が刺しに来る。身体を回転させて受け流してみたところで腹から背まで削れられるだけ。痛みに呻きながらも堪えられたのは許容できる範囲を超えそうだから。痛みで冴えたお陰で感覚も鋭敏になっている。幸い両足は健在で腕も一対残っている。独楽のように回ったおかげで距離も取れた。
ブリッジをして残った力を四肢に込める。あまりに無様な見栄えの必殺体勢。それでも、ここで我を通さなければ後悔する。
「私が化け物になってあの娘と離れられるなら、いっそその方がッ!?」
『いい加減、心にもないことを言うのは止めてください!』
感情のままに跳躍し、自分自身を一本の槍として突貫。思い込みのまま飛び出しそうな言葉を腹部に極太の注射針を刺して黙らせる。
「な、に……なんなの」
脚を下ろして馬乗りの体勢になって見下ろしてみれば、サングラスの奥から伝う涙の跡が見えた。その表情には最早怒りも戦意も感じられない。ただ少し疲れただけの、母親としての自分に自信のない女性がそこに居た。
『今朝交番で見たあなたは心の底からイチカさんを心配していた。イチカさんだって、あなたが交番に来るまで泣き止まなかったんですよ』
今朝イチカさんに会った段階では寧ろ心配だったのは彼女の方だった。でも、実際は迷子になった不安から僅かに獣性が強まっただけで、その心配は交番で母親と再会した段階で解消されていた。そこで安心したのが僕の一番のミスだった。
『あなたは腐らずにこれまで白井イチカを育て上げた、ただ一人の母親だ。あなたとイチカさんは縁を切っていいような家族じゃない』
今、この親子が分断されれば元々懸念していた別の獣性が姿を現すことになる。それだけは避けたい。なんて、今更そんな建前も必要ない。ただ、今朝見た幸せそうな家族が壊れるのは見たくなかった。
「私は、あの娘の、親でいいの?」
『僕らも出来る限りサポートします。それを覚悟でこんなことをしているのですから』
我を通そうとして、その許可が出た段階で、問題児の新人と呼ばれるくらいの覚悟は決めていた。そんな僕の目論見を理解してくれたから先輩も手を貸してくれたのだろう。
『それに、今日はイチカさんの誕生日なんでしょう?』
「あぁ、そう……だった、わね」
それでも、せめて今日くらいは平穏な親子の日常に戻してあげたい。彼女自身の意思で人を人として認識できる場所に戻れたのだから。
「後で親子から恨まれても文句言うなよ」
「分かってます」
「Fレイヤー」に戻ったところで、面のいい女に戻った先輩からぶっきらぼうなエールを送られる。
「とりあえず、今日は僕らの監視付きで保護観察ってことに出来ません」
「本当にとんでもない新人だな」
言葉とは裏腹に先輩が僕を見つめる視線は暖かかった。経過や結果はなんにせよ、先輩が気に入ることはできたらしい。それだけでこの結末の報酬としては十分だ。
「これでも恩人の背を追ったつもりなんですけどね」
「だったらその恩人はとんでもない奴だったんだろうな」
ええ、力を持て余して周りにあったものすべてを失ったクソガキを真正面からぶちのめして、その性根を叩き直すくらいにはとんでもない奴でした。
今の職場になって、推名先輩とバディを組んで二年経った。その間にも「Tレイヤー」に本質のすべてを持っていかれた獣と何度も戦った。
大半は感情暴走且つステージ4以下のために記憶処理だけで済んだが、完全に「Tレイヤー」に取り込まれたために処分せざるを得なかったこともあった。そのどちらでもない僕らのようなケースはそれ以上に希少なのだ。
「Fレイヤー」に存在する人間すべてに重なる存在が「Tレイヤー」にあるのだとしても、一度でも深い獣性に堕ちてしまえばもう無知なだけの人間ではいられない。そんな二つのレイヤーの間で彷徨う存在を野放しにするほど、この世界のお偉いさんは呑気ではなかった。
今でも自問自答することはある。記憶処理で元の生活に戻れず、首輪を着けられるくらいなら、人間に戻れないままいっそ終わっていればよかったのかと。
僕らは辛うじて生きる理由があったからそれを否定できている。人間のふりをして過ごすことにしがみつくことができている。
「新人、そろそろ新人が来るぞ」
「いっでえ!?」
先輩に強く背中を叩かれた勢いで携帯端末ごと机に頭をぶつける。幸いどちらにも傷はなく大事なデータも健在だ。そんな振る舞いをしているから二年経っても僕くらいしか浮いた話がないのだと思う。
「推名先輩、わざとでしょ。僕には有馬シュウって名前が」
「分かってるなら噛みつくな。クソガキが」
携帯端末の電源を切って朝礼に備える。今日は入ってくる期待の新人には悪いが活躍の場を与えるつもりはない。
「――本日付けで配属されました、白井マドカです。えっと……ケーキとかお菓子を作るのが得意です」
この人が作るケーキは娘の口にでも運ばれていればいいのだ。そう、例えば出勤初日の夜に撮った二人だけの家族写真のように。
どうも、今回は企画にご参加いただいて本当にありがとうございました。
そして、感想の投稿がここまで遅れてしまって申し訳ありません……。
決してポケモンで、ポケモンでサボっていたわけでは無いのです。単に気付けば惰性で遅れてしまっただけなのです(より悪い)。
と、そんな言い訳はさておいて、本題の感想をば。
これ本当にこんな企画の短編物として終わらせちゃっていいやつなんです!!!???
冒頭から隅々に至るまでパラレルさん味を感じる語りがちりばめられていて、独自設定の『階層《レイヤー》』などもデジモン化の要素としてもうなんというかリスペクトしたいと思えるもので、先輩こと推名さんや主人公の有馬くんがその体をデジモンのそれへと切り替えさせるところとかもうかなり興奮したというか、肉体がデジタルのそれにずぶずぶと崩れていく工程とか、なんというか「痛みを伴う変身」って良いですよね……エキサモンという昆虫型デジモンにデジモン化しているのもあってこれもう実質的にヘルライz
お菓子ノルマをウェディンモンへのデジモン化うんぬんで突破してくるとはこのリハクの眼をもってしても(ry
もう色々と先のことも過去のことも気になりすぎる題材でございました。気になりすぎて木になったわね……(うっどもん)。この世界観で連載作品とか、なされないんですか?(そわそわ)。
完全に一発モノでしかないこんな企画のためにこのような素晴らしいお話を書いていただいて、恐悦至極です。
重ね重ね、今回は主催者でありながら感想を書くのが遅れてしまいすいませんでした。またいつか機会があれば、デジモン創作を通して交流出来ることを願っております。
それでは、今回の感想はここまでに。
本当に、ありがとうございました。
記事冒頭数十文字の時点で凶悪な文字列過ぎて噴いた夏P(ナッピー)です。
めっちゃドンブラしてる。眼鏡をかけろタロウ。電障対策課とか名乗ってましたが実は奴らは電脳人(のーと)とでもいうのか!? そしてツラのいい先輩絶対OPで一番ノリノリで踊ってるわ! というわけで、ツラのいい女来たーと思いましたがベジータ的お助けポジションで恋とか愛とかの色気のある展開には向かなくてしょんぼり……しかしポジション的に遠野志貴にとっての蒼崎青子っぽいぞ!?
てっきり話の主体、コイツとの戦い中に“僕”と“先輩”の過去やこれからを描くもんだと思っていたマッドレオモンがサクッと処理されてダメだった。
デジタルワールドではなく別の要素(レイヤー)で異世界かつ異生物を表現するのが見事でした。しかし後輩もエキサモンとはまた渋い。ヨガを極めて手を伸ばしたり火炎放射したりするのだろうか。
えっ、これつまり娘さんって……エグ……ハロウィン企画かつウエディンモン出てきたのに全然トリックオアトリート言えない空気! 扇子だけじゃなくて手刀も強いなと思ったらウエディンモン必殺技に手刀あったな……ツラのいい先輩、斗貴子サン的被弾ポジションだったか。この流れで70代の女性と90代の徘徊老人も乱入してくるのではないかと警戒していましたが、そんなカオスな展開にはならなかった。
最後に新たに配属され、ケーキ作りが得意と言われて微笑ましさ以上に「そら先輩の片腕潰しかけるぐらいのケーキだったもんなぁ!?」などと思ったのは内緒。
それではこの辺で感想とさせて頂きます。
後書き
延長して頂いた締め切り当日に滑り込みになりますが、投稿させていただきます。デジモン化というには狼男的な変貌ではなく、スーパー〇隊とか仮面〇イダーの変身シークエンスの方が近い感じになったような気がします。まあ、後者は実際肉体が変わっているものもあるから問題ないということにします。
実際のところ、ビジュアル的な世界観のイメージは〇ンブラのあの感じのイメージだったりします。あと、概念的には某鳥デジモンの人の前作も影響受けてたりするかと。他にもベースに思い浮かぶのはありますが、これ以上列挙すると、影響受けたものの闇鍋しかできないオリジナリティの欠如という結論で自爆するしかなくなるのでここまでにしておきます。
それはそれとして、ウェディンモンを出せばお菓子ノルマも余裕かと思ったら、結局あからさまにねじ込んだ感丸出しになった自覚はあります。
以上で後書きとさせていただきます。ユキサーンさん、素敵な企画の立案ありがとうございました。