#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy
はじめに
本作『ブルー・ジーンズの花嫁』は筆者の前作『木乃伊は甘い珈琲がお好き』の続編となります。春川早苗とマミーモンやその周辺の人々の物語を今後書いていくにあたって、鰆町を物語にした一連の物語を「鰆町奇譚」と名付け、特に春川たちを主人公とする三つの物語を「コーヒー・タウン・トリロジー」として軸に置くことにしました。
「トリロジー」の一作目は『木乃伊は甘い珈琲がお好き』、そして二作目が本作『ブルー・ジーンズの花嫁』です。
そのため本作は前作「木乃伊」を前提とした内容となっております。本作からでも楽しめるようにはなっておりますが、多少不親切な部分が出てくることはご容赦ください。
また今後鰆町や春川たちに関する小説を投稿する際はこれらのシリーズ名をつけさせていただきます。
それでは、どこかが外れた不思議な街と、そこで絡まる幾つもの線を結びなおすために走る少年と木乃伊の物語をお楽しみください。
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プロローグ
三月八日 宇佐美司
筆記用具と便箋を求めたのは、たしか一時間くらい前だったろうか。
セピア色の部屋に取り残され、ぼくの望みを吟味しているかのように無遠慮な沈黙と二人きりで長いこと向き合う。そんな苦痛に満ちた時間の末に、ついに目の前に差し出されたのは、古い紙と羽ペン、そしてインク壺だった。
なんて時代錯誤なことだと思うかもしれないが、事実なのだから仕方がない。それに、今ぼくがいるこの部屋に、それらのオブジェクトは恐ろしいほどよく噛みあった。築何年かは知らないが、古い洋館の一室で、足が埋まるほどにふかふかの深紅の絨毯がひかれている。窓には目張りがされていて、そこに漂っている空気も年代物だ。そんな空気の中で、羽ペンと真夜中のような青のインクは、なによりも最適の筆記具に思えた。そうは言っても最初は面食らったが、何度か使ううちに違和感は消えた。。
「ありがとう、サヌキ」
ぼくはそう言って、銀の皿の上に乗せて差し出された羽ペンとインク壺を取ると、二つの前足で器用にそれを運んできた巨大な蜜蜂に軽く頭をさげた。ぼくは彼女をサヌキと呼んでいる。特に意味はない。“働き蜂”は沢山いるから、その中でぼくにこまごまとした日用品を運んでくれる彼女を区別するための名だ。
「二時間たったら、ミズサワを呼んでくれないか。手紙を運んでほしいんだ」
手紙を書いて、推敲するまでの時間を頭で計算しながらぼくは言う。内容には困らないだろう。朝から晩まで始終手紙に何を描くかだけ考えているのだから。けれど、書いてから初めて粗がいくつも見つかるのが手紙というものだ。どう少なく見積もったって二時間は要るだろう。それから、ミズサワ(ぼくの代わりに外に出る用を足してくれる)に運んでもらえばいい。
が、いつもは無言で頷くだけのサヌキが、今日はその羽を振るわせて首を振った。
「ミズサワは死にました」
「え」
「先日手紙を持って行ったっきり、帰ってきませんでした」
「……そう」
悲しむべきなのだろうか、死んだ理由を気にするべきか分からず、ぼくはただそう漏らす。サヌキには仲間の死に動じる様子はない。働き蜂とはきっとそういうモノなのだろう。それは巣という一つの機構の部品に過ぎない。しかも(多分彼らにとっては幸いなことに)それは生まれつきのことだ。銀河の果てに連れていかれた挙句にネジにされたわけではない。葛藤も悲しみもないのだろう。
彼女らがそうなら、ぼくもそうすべきだ。いまやぼくと彼女らには一つの違いもないのだから。
「それなら、イナニワに頼もう。二時間経ったら来てくれ」
「かしこまりました。……でも」
「でも?」
「手紙は一時間だけ。そう言う決まりだと、前にも申し上げました」
ぼくは曖昧に頷き、羽音だけを響かせて去るサヌキを見送ると、念入りにドアが施錠される音に息を吐いた。ぼくは首を振って、羽ペンをまじまじと眺め、その先をインク壺に突っ込むと、便箋に向かった。
*****
ハロー。
ぼくがここにきてからどれくらいが経つだろう。正直なところ、よくわからない。
外を見ることは一切できないし、ここの空気はヴィクトリア朝時代の骨董品なみだ。一週間しか経っていないと言われればきっとその通りなのだろうし、五年経っていると言われても信じるだろう。
分からないことは他にもある。ここはどこ──彼女たちに言わせれば、高度数千メートルの場所に浮かぶ要塞らしいけれど──なのか、君は元気にしているのか、そもそもこの手紙はちゃんと届いているのか。
でも幸い、自分にとって大事なことは、ぼくはちゃんとわかっている。
ぼくはもう、君のところに戻ることはできない。
このことに君がショックを受けてくれると考えているぼくを、どうか軽蔑しないでほしい。何と言ったってぼくたちは婚約していたんだし、ぼくが君の前からいなくなったのは、結婚式の前日だったわけだから。
戻れないぼくがこんな手紙を出すことは、きっとよくないことなのだと思う。ぼくは今も君を愛しているし、君の元に戻れないことにぼくの感情は一切関係ないけれど、君には僕のことを忘れて幸せになって欲しいから。
それでもぼくがよく手紙を出すのは、未練からじゃない(それも少しはあるのかもしれないけれど)。義務感からだ。ぼくは君に約束をして、それを果たせないままこの場所にとらわれてしまった。けれどあの問題が君の心に引っ掛かり続けていることは誰よりも理解しているつもりだし、この部屋から出られなくなってしまった今も、あの約束を果たすことを諦めてはいない。そう、調査は続けている。ぼくは身動きは取れないけれど、彼女たちはぼくの言うことを聞いてくれる蜜蜂を数匹つけてくれた。彼らはぼくの頼んだとおりに調べ物をしてくれるし、言えばこうやって手紙も運んでくれる。
そんな風に大上段に構えた後で恥ずかしい話なのだけれど、前に手紙を出した時から、まだ新しい事実をつかめてはいない。あの問題と、それに絡む人物について、ぼくはかなりいいところまで近づいていたんだけど、そこでこの場所に連れてこられてしまって、色々なことが始めからになってしまった。こまごまとしたことを伝えて成果を取り繕うことはできるけれど、デリケートなこの問題においてあまり君をぬか喜びはさせたくないという僕の気持ちも理解してほしい。とにかく、今後も報告は続けていく。
最後に、このことは毎回手紙の結びに書いているんだけど、ぼくを探さないでほしい。もし他の人だったらこんなにしつこく念は押さないのだろうけど、なんと言ったって君だ。誰よりも諦めが悪くて、誰よりも行動力がある。そんな君をこの場所にまつわるエトセトラに巻き込んでしまうことが、ぼくはとても怖いんだ。
ああ、だめだ。どうも今日はもう時間切れらしい。
此処は蜂の巣だ。そしてぼくはこの場所で、どうも雄蜂であることを期待されいるらしい。今はそれなりに丁重な扱いを受けているけれど、それはいつまでもは続かないだろう。
ぼくはもう死んで、手紙の中だけにいる亡霊だ。そう思ってあきらめて欲しい。
役目を終えた雄蜂がどうなるか、知っているだろう?
追伸 もし返事を書いたなら、封をして、早朝の時刻に君の家の前に置いておいてくれ。
*****
背後でノックの音ともに、イナニワが静かな羽音を響かせて入ってきた。彼女は比較的気さくな働き蜂で、ぼくは好きだ。ぼくが身の回りの蜂達につけた勝手につけた愛称も気に入って使ってくれていて、会話もしやすい。
「サヌキが呼んでたって言ってたから来たんだけど」
「ああ、手紙を運んでほしくてね」
「……ミズサワが死んだことは?」
「知ってる」
「知ってて私を行かせるんだ。ふうん」
「ぼくにとって大事なことなんだ。どうせ行くんだろ?」
「雄蜂らしくなってきたわね。女王様の見る目は正しかったってことかしら」
「会ったこともない女王の話をされてもね」
「あら、素敵な方よ。いつか会えるわ」
「そうだね、いつか会うんだ」
そうしてそれが、多分ぼくの最期の日だ。
「とにかく、手紙、頼むよ。ぼくは君たちを信じるしかないんだから。それと、あとで例の調査のことでも話がある」
「蜂使いが荒いこと。他に何かあるかしら」
「そうだな……サヌキを──」
「ここにいます」
その言葉と共に、サヌキが音もなくイナニワの隣に現れた。彼女が常に持っている銀の皿の上に、キャプテン・モルガンの瓶とグラスが載っているのをみて、ぼくは顔をほころばせた。
「そうそう、それを頼もうと思っていたんだ」
「何よサヌキ、ツカサのこと案外好きなのね」
「手紙を書いた後には、いつもこれ頼むものですから」
「うん、ありがとう、サヌキ。暖炉に火を入れてくれるかい。ぼくがここに来たのは確か一月だったね。どれくらい経ったか知らないけど、少なくともまだ冷える季節みたいだ」
「……かしこまりました」
慇懃に頭をさげるサヌキを見てくすくすと笑いながら、イナニワはぼくが封をした手紙を受け取って出ていった。あとはイナニワがどうにかして彼女の下に手紙を届けてくれる。彼女はきっとそれを読んで、返事はきっと今回も帰ってこない。
結局のところ、諦めた方がいいのかも入れない。あの場所に置いてきたすべてのものを捨てて、ここで雄蜂として、約束された死までの期間を享楽にふけるべきなのかもしれない。イナニワは良くそう言ってくる。
そんなことは、多分できないと思う。ぼくは突然ここに連れてこられたのだし、結局のところ、ここに閉じ込められているのだ。
けれど、ぼくは机の上の鏡に映った自分の顔を見つめる。ふと気づくと、立派に雄蜂を演じている自分がいる。サヌキやイナニワを躊躇なくこき使い、ここで一人ラム酒を飲み下す自分がいる。そんなことを考えるだけでも嫌になる。
でも、今日は仕方がないか。ぼくはそう呟いて、グラスの中の金色に唇をつけながら、暖炉に火がともる心地の良い音に耳を傾けた。返事を待つ身は辛いものなのだ。
*****
三月九日 春川早苗
僕の通う学校は、四階が他の階に比べて狭い。一階から三階までは各学年の教室が並んでおり、四階には吹奏楽部室、理科室といくつかの部室、そして生徒会室があるのみだ。
その生徒会室の窓からの眺めが、僕は好きだった。自分にしてはロマンチックが過ぎる考えだと思う。けれど、そこから見える校庭や街の景色、遠めに見える県のシンボルである山──日本国における他のあらゆる例に漏れず、この山も富士山にたとえられている。日本各地にあるそういうタイプの山を思い浮かべてもらえれば大丈夫だ──それらの全てが空と同じ色に染まる。そんな瞬間が好きだった。
入学した最初の年、僕──春川早苗が他の部活を尻目に生徒会に入ったのも、その景色の為だったのかもしれない。いや、まあ、それだけじゃないんだけど。入学したての頃は僕にも一応高校デビューというかなんというか、社交的に生きようという気概があったのだ。生徒会に入っていれば否が応でも人前に立たなければいけないし、その人前に立つ数回だけで周囲に「生徒会に青春をかけている奴」という印象を与えることができる。その実仕事のほとんどは地味で人目につかなくて済む裏方仕事というわけだ。吹奏楽部の練習が聞こえる以外は殆ど人気のない四階の生徒会室を自由に利用できるというのも魅力だった。
しかしながら、僕のその世の中をなめ切った目論見は最初の生徒会に入った最初の日に砕け散ることになった。初めて生徒会室を訪れた日、怖気づいてドアを開けられず部屋の前でうろうろとしていた僕に声をかけた人物の手によって──。
「……どうしたんだ? 春川」
「ん? ああ、なんでもないよ」
僕の右手側、部屋の中央に置かれたテーブルの議長席に座る少年──富田昴の問いに、僕は文庫本から顔を上げ、シャット・アウトしていた聴覚を再び動かして応えた。昴が頷いて再び資料に目を落とすのを見届け、僕は生徒会室の外から聞こえるディープ・パープルの趣味の悪い吹奏楽アレンジを頭から締め出しなおす作業に取り掛かる。
その通り。あの日の僕に「君も生徒会入る? 一緒にいこうぜ」と声をかけたのは誰あろう、議員一家の御曹司にして、歩く眉目秀麗、呼吸する才色兼備、富田昴その人だったのだ。彼が生徒会に入って以来、生徒会室は毎日アイドルの握手会のような有様だった。僕の望んだ静かな生活は手に入れられず、そもそも仕事も僕の思っていたよりも大分きつかった。
そんなわけで僕は最初の一年で生徒会を去り、〈ダネイ・アンド・リー〉が放課後を過ごす場所になった。ハードボイルド・ミステリの中にいるような憧れの探偵になるために、依頼を受け始めたのだ。その経緯に関しては既に別の場所で語っているから、僕の活動の異常さを笑いたい人は是非ともそっちを見て、僕の居ないところで声を上げて笑ってほしい。
「ところで、いつもの喫茶店はどうしたんだ?」
「……最近財布が苦しくて」
「なるほどな」
当然の結果というかなんというか、〈ダネイ・アンド・リー〉における新たな課外活動で僕の交友関係が広がることはなかった(悲しくはない。探偵というのは本質的に孤独なものなのだ。だから悲しくはない)。その一方で、昴は生徒会を辞めた僕にもこれまでと変わりなく接してくれ、僕らの友好関係はなんとなく今に至るまで続いてきた。
そして、一年前の秋にとある事件があった。彼の父親がとある罪で逮捕され、その結末には僕も少なからず関わっていた。それ以来、生徒会室に彼を訪れる取り巻きは減り(罪人の子だと彼を見捨てるほど皆が薄情だとは思わない。単純に話しかけにくいのだろう)、相対的に僕らの仲はより親密になった。そんなわけで、卒業式を終えた春休みで生徒会室に人気がないこの時期、僕は喫茶店に払う金がないときは放課後をこの場所で昴と共に過ごしているのだ。取り立てて何をすることもなく、彼は勉強をしたり会長の仕事をし、僕は本を読んでいる。そしてもう一人──。
「よう、片づけてきたぜ」
窓を閉めた部屋の中に一陣の風が吹き、次の瞬間には、トレンチコート姿の大男が僕の向かいの席に足をテーブルの上にはね上げながら座っていた。室内だというのに中折れ帽を深くかぶっていて、顔を隠している。こんな男が学校に入ってきたら、四階の生徒会室に辿り着く前に十回は通報されそうだ。
しかし、ありがたいことにその心配はない。彼はデジタル・モンスター、異世界からやってきたもの言う怪物で、普段は誰かに取り憑いて、幽霊のように人には見えない姿で依り代にぴったりくっついている。この世界には彼以外にも異世界からの不可視の来訪者が山ほどいて、取り憑いた人間と共に生きているのだ。そうして、マミーモンの依り代はほかならぬ僕、春川早苗だというわけ。
マミーモンのことを知るのは僕を含めてほんの数人だ。富田は先述の事件のことで彼の存在を知り──彼もデジタル・モンスターの依り代だったことがあったのだけれど、それはまあ別の話だ──以降は僕と彼に協力してくれている。
そんな昴は、机の上に跳ね上げられたマミーモンの足を見て眉をひそめると、僕の方に疑問符を飛ばした。
「片付けてきたって、また何か事件か?」
「ああ、うん。こないだお前が相談してくれたアレだよ」
彼はさらに顔を険しくした。
「北高校の木村のことか」
「そう、あの暴力教師。お前の教えてくれた、数人の生徒を先導して一部の生徒をいびってるらしいって噂は本当だったよ。いかにも弱々しい学生ばかり狙ってた。僕も北高の学生だったら危なかったろうな。被害者の名前はいえないけど、別にいいだろ?」
「ああ、もちろん、それで?」
「詳しくはいえないけど、今度の朝刊に木村の名前が載る」
「明日って……ああ」
答えに思い当たったのだろう、この季節の恒例行事、離任する教師のリストだ。
「辞めるのか」
「辞めさせるんだ。本人に証拠を色々突きつけて、北高を去らないと全部ぶちまけるって脅したんだよ。……不満そうだね」
僕の言葉に富田は息を吐く。
「まあ、実際不満だな。俺が聞いた話だと、殴られた奴の一人はコンクリートの壁に頭をぶつけて縫う羽目になったのに、事故だって言って泣き寝入りしたそうじゃないか。警察沙汰で当然だろう。それを、本人と取引してだんまりなんて」
「んなこたこっちも分かってたさ。でも……」
同じく不満そうなマミーモンの言葉を僕は引き継ぐ。
「被害者、その頭を縫った本人たっての希望だ。報復が怖いんだろ。実際木村と一緒に彼に暴力を振るってた生徒は数人だけど、黙認してた連中は大勢いる。木村や取り巻きが制裁を受けた時に、周りがどうするかが怖いんだ」
「それはそうだけど……」
なおも釈然としない様子の昴に、僕は唇の端を吊り上げて見せる。
「安心しろよ。これは本当に手詰まりになったときにせめて木村を彼から引き離すための策だ。それで終わらせるつもりはないさ。被害者の彼も言ってた。身の安全が確保されるなら、加害者たちの逮捕がベストだと思うって」
「それで俺たちが、加害者やその取り巻き一人一人に手を打ったってわけだ。一人だけ“狐憑き”がいるにはいたが、それも今片付けてきた。そう言うわけで、早苗」
「ああ」
僕は頷いて、スマートフォンを手に取る。
「何をするんだ?」
「警察に電話。木村や加害者の学生のやったことの証拠を伊藤さんに全部渡すよ。取り巻きも怯えて何もして来やしないだろ。そもそも大体は被害者の杞憂だよ。残った連中で、警察を敵に回してまで報復しようと思う奴はいないさ」
「なるほどな、でも、木村と取引して黙ってると約束したんじゃ……」
「弱い奴を狙ってをボコボコにするような教師を騙すことができて、俺は今いい気分だ。どうだ、早苗?」
「同感だね」
そう言ってスマートフォンを耳に当て、向こうにいる警官の伊藤──彼もマミーモンのことを知っている。僕たちには大切な協力者だ──に簡潔に成り行きを話し、メールで証拠の写真を送る旨を伝えた。
そうして電話を切った直後、手の中で再びスマートフォンが震えた。SNSアプリへのメッセージ。怪訝な顔でそれを開いた僕の目の前で、五つのクエスチョンマークが映し出された。差出人は行きつけの喫茶店〈ダネイ・アンド・リー〉のマスターだ。僕の最大の協力者であるところの彼が送るそのマークの意味は一つ。
「……マミーモン、依頼みたいだ」
「マジかよ。少しは休みたいぜ」
「クエスチョンマークが五つ。僕らの間の暗号については話しただろ? レベルファイブの依頼だ。逃す手はないよ」
「その痛々しい暗号、お前はともかくマスターはいいのかよ。まあこの際、猫探しじゃないなら何でもいいぜ」
「二人とももう行くのか。ワトソン役が必要ならついていくけど?」
昴の軽口に、僕は椅子を立ってコートを羽織りながら肩をすくめる。
「秘密のある依頼人もいる。僕らだけの方がいいよ。それに伝記作家は必要ない。自分でやるからさ」
「ホームズにしてワトソンってことか。敵わないね」
「言ってろ。木村についてはほぼ解決だけど、ことが完全に落ち着くまでは報告を続けるよ」
マミーモンと共に教室を出る間際、僕は昴を振り返った。
「そうだ、昴」
「なんだ?」
「さっき言ってた、木村達に暴力を受けてた学生だけど、木村達が逮捕されても不安だろう。心にも体にも、もう治らない傷を負ってしまってる」
「……俺にできることが?」
「僕が必要だと判断して、さらに彼がオーケーしたら、相談相手として紹介してもいいか?」
「俺からも頼む。早苗と俺じゃ、どうもそういうのは無理そうだ」
「……ああ、もちろん」
昴は少し目を丸くした後、頷いて、それから笑った。
「なんだよ」
「いや、でもお前ら、自分で思ってるよりも、そういう相談事向いてると思うぞ」
その言葉に、僕とマミーモンはしばし顔を見合わせ、それからそろって肩をすくめた。
「だとしても、僕らは探偵だ」
「そうだったな。行ってこい」
「言われなくても」
そう言うと同時にぼくはその場で思い切り地面を蹴り、背の高いマミーモンの被った中折れ帽をかすめ取り、自分の頭に乗せた。マミーモンが何か言う前に、僕はそのまま階下に降りる階段に走り出す。
「あ、おい、返せよ!」
「いいだろ、たまには僕が気分出したって」
「似合ってないぞ」
「うるさい。依頼の前なんだ。これくらいさせろ」
「いや返せって、なあ、マジで」
「ほら、誰か来た。早く隠れて」
──その手には乗らねえぞ。早く返せよ。
「きっちり隠れておいて何言ってるんだよ。久しぶりの〈ダネイ・アンド・リー〉だ。レベルファイブとなればマスターもノリノリでおごってくれる。何頼むか決めとけよ」
──いっても珈琲のサービスくらいだろ。
「たっぷりのミルクに砂糖は五つ。そろそろお前を齧ったらコーヒーシュガーの味がしそうだよな」
──好きにさせろ。俺は甘いのが好きなんだよ。
彼の言葉に笑うと、僕は帽子を被ったまま階段を駆け下り──そして、下の階で、同じく走ってきた背の低い女子生徒とぶつかった。
「あ、す、すいません!」
「ううん、こちらこそ……。って、早苗くん。その帽子どうしたの。お洒落さんじゃん」
「あ……奈由さん」
周りに聞こえないのをいいことに背後で大笑いしている木乃伊に心の中で小さく舌打ちしながら、僕は頬を紅潮させて初瀬奈由から目を逸らし、とりあえず、何はなくとも、とにもかくにも、忌々しい中折れ帽を頭から外した。気になる女子の前では、ハード・ボイルドでいるのは難しいことなのだ。

やっぱりコーヒー・タウン・トリロジーのプロローグには西洋文学の雰囲気が欠かせない(力説)。
という訳で新作公開おめでとうございます!
何故「働き蜂」とその女王が人間の男性(それも結婚前夜の!)を雄蜂として迎え入れたのか、春川くん達がこれから受けるレベルファイブの依頼とどう関わってくるのか、少なくとも前者は全くもって検討がつかないのでこれからの展開が楽しみです。
お馴染みのメンバーも相変わらずで何よりです。富田くんと春川くんが仲良くしているのを見るとほっとします。伊藤さんともすっかり探偵と警察の間柄になってる……。
初瀬奈由(概念なのでフルネーム)が狙ったかのようにナイスなタイミングで現れた時に大爆笑してるマミーモンと、暗号を律儀に使ってくれるマスターが特に今回のお気に入りです。