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#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy
三月九日 春川早苗
五か月前の事件を終えて、僕とマミーモンは本格的に探偵として出発した。しかしながら、人知れず解決した事件によって急に依頼が舞い込んでくるわけもない。フィリップ・マーロウやリュウ・アーチャーはみんな元警察官で、元上司のつてや知り合いの弁護士の紹介で上等の依頼を受けていた。彼らは依頼を選り好みできるし、どんな高名の依頼人が相手でも気に入らないときは突っ張る。
けれど、まったくの無名から旗揚げしようという時には、どうしたってプロモーションが必要だ。「高い窓」に出てくる二流探偵のように、下手な文句のプロモーションを地方新聞の広告欄に載せなければいけない。そしてマーロウ相手にヘタクソな尾行を仕掛け、ヤバい事件に首を突っ込んで、最後には事態の全容もつかめないうちに安アパートの浴室で立派な死体になるのだ。僕としてはそのどれもごめんこうむりたいところだった。マーロウに死体を見つけてもらうのはまあそんなに悪い気分はしないだろうけれど。
僕の場合は、まったく屈辱的なことに、素人探偵として死体置き場の殿堂に加わることさえも困難を極めそうだった。警察には伊藤という友人がいて、時には僕の手掛けた事件の後始末をしてくれるが、残念なことに彼も警察の事件のことを僕に漏らさないだけの常識はあるらしい。世の人々は仮に警察を頼れないような問題を抱えていたとしても、くたびれた学ランを着た高校生を頼りはしないだろう。それに、大人に頼れないような問題を抱えた(そう、それはもう誰もが抱えている)学生たちにとって、僕は決して悩みを相談したくなるような相手ではない。まったく、探偵業を生涯の使命と決めてから、これまでの世捨て人じみた学校生活を後悔しない日はない。
そんな状況でもっとスマートなやり方を模索する中で、僕は二人の人物の協力を仰いだ。一人目は昴だ。彼は優等生であると同時に人当たりのいい社交家だ。その上件の事件からは日陰の方面からのうわさも集まるようになったらしい(彼は当然それを喜んではいないけれど)。彼を通じて紹介してもらうことで、僕は若き青春の空に狂った多くの少年少女の悲劇をこの何か月かで目にすることができた。
そしてもう一人は我らがミセス・ハドスン(彼はこう呼ばれるのを嫌がる。まあ、当然か)。〈ダネイ・アンド・リー〉のマスターだ。鰆町商店街には様々な奇妙な悩みを抱えた人々がいる。鰆町商店街なんかに通っていると大体そんな風になってしまうのだ。彼らは行き場を失くして商店街を彷徨し、閉店した遠野古書店の店先でぼおっとたたずみ、美人の女店主目当てに古道具屋の〈アエロジーヌ〉を冷かして若店主に叩き出され、最終的に〈ダネイ・アンド・リー〉にやってくることになる。
マスターはそんな連中を見分けることに長けていて、コーヒーのサービスを注ぎながら話を聞き、彼らの抱える問題の解決に協力できるかもしれないと申し出る。そこで初めて僕の登場だ。マスターから事件の重大さ、面白さを5段階のレベルで示したメールが届き、僕は依頼人に会うことになる。依頼人の選定や最初の値踏みを人任せにするのは僕の美学には反するが、まあ仕方のないことだ。
そんなふうにして七十過ぎの夫婦の離婚相談や、路線バスの運転手の怠慢を調査しているうちに、僕の名前──というより相談所としての〈ダネイ・アンド・リー〉の名前は広まっていった。そのうちに、先述の〈アエロジーヌ〉の若店主の一風変わった頼みを聞く機会があり(それも語ろうとしたら時間がいくらあっても足りない)、それを機に珍妙な依頼──つまりはデジタル・モンスターにまつわる依頼が少しづつ舞い込むようになった。
けれど、僕がこの五か月間で受けた大小さまざまな依頼の中で、マスターがレベルファイブだと判断した依頼はこれが初めてだ。楽しみなのと同時に、少し背筋が伸びる気分で、僕はまだきりりと冷えた冬と春の境目の空気を吸い込んで、喫茶店の扉を開いた。
からりとベルの音がして、カーディガンズの軽快なメロディがが耳に流れ込む。カウンターに立つマスターが僕に髭面を向け、笑顔を浮かべた。
「やあ、早いね。学校は?」
「春休みですよ。そちらが依頼人?」
僕の言葉に、マスターの向かいに座った女性が僕に目を向けた。すらりとした背の高い、鼻筋の通った女性で、ブルー・ジーンズと、それによく似合う深いグリーンのタートルネックを着ている。彼女を見て、僕はV.I.ウォーショースキーを真っ先に思い出した。細身で男勝りでハード・ボイルドで、同時にお洒落とオペラが好きな女性。いつも一人で大企業を取り巻く陰謀に挑み、家を待ち伏せられて殺されかけた次の朝でも日課のジョギングは欠かさないような、そんなシカゴの私立探偵だ。
こちらのそんな思考をよそに、彼女は僕をじろじろと見て、眉をひそめると、マスターに非難がましい目を向けた。
「えっと、彼が“探偵”? あなたが紹介してくれるっていう」
「そうですよ」
「でも、まだほんのこどもじゃないの」
まあ常識的な反応だ。自分の問題解決を担うのがこんな冴えない高校生だと知って不安や疑問を抱かない方がおかしい。それでも一応の礼儀として、僕はむっとしたように唇を曲げて見せた。
「その辺は心配しなくてもいいですよ。大体、そちらも普通じゃない事情があるからここに相談に来てる、そうでしょう?」
「……まあ、そうね。ごめんなさい。自己紹介もまだのうちから失礼なことを言ったわね」
そう言って彼女は息を吐き、改めて僕に向かい合うと、立派な加工のされた白い名刺を差し出してきた。それを見つめ、僕は目を丸くする。
「時浦彩芽(トキウラ アヤメ)さん。……地方芸能事務所のマネージャー?」
「そう、テレビは見る? 平日の夕方五時や、休日の朝十時からやってるようなローカル番組、そこに出るような人たちは、うちの事務所のタレントなわけ」
「あなたがタレントになるべきだって賛辞なら、もう私が先にしておいたよ」
口を挟むマスターににこりと笑みを向け、彩芽はカフェオレのカップに口をつけた。
──早苗、お前が無駄に美人に弱いのは知ってるけど、しっかりしろ。
マミーモンの声で僕ははっと我に返る。完全に相手の雰囲気にのまれぼおっとしてしまっていたらしい。それを慌てて取り繕うように、僕は口を開いた。
「えっと、それで、この喫茶店に僕が来るのは、依頼を受けるためです」
「暇なときも入り浸ってるけどね」
「マスターは黙っててくださいよ。とにかく、相談があるから僕が呼び出される。なんなんです?」
僕の言葉に、彩芽は一つ息を吐いて、口を開いた。
「人を探してほしいの。その、つまり、私の恋人を」
*****
「宇佐美司(ウサミ ツカサ)、私とは二年前から付き合ってる。一ヵ月前に突然連絡がつかなくなって、家にもどこにもいない。そしてその後は、誰も彼を見てない」
そう言って彩芽はスマートフォンの画面を僕にしめす。そこに映っていたのは、色白でやせ型の、整った顔立ちをした青年だった。カメラに笑顔を向けてはいるが、その顔はどこか緊張しているようだ。それに、背景となっている妙に白い、調度品の少ない部屋も僕の気をひいた。壁には横長に鏡が取り付けられ、それに寄り添うように長机が置かれ、丸椅子が並んでいる。
「何かの楽屋ですか」
「あら、探偵っていうだけはあるわね。そう、市民ホールの楽屋、彼、鰆町の劇団に入ってる俳優なの」
オーケー、それですべて理解した。地元劇団所属の売れない俳優の失踪。この世界では実にありふれた話だ。どのくらいありふれてるって、売れない画家の失踪くらいありふれている。 まあでも、そのどちらにしても小説の中以外で直面する機会はこれまでの僕にはなかったわけで──。
「失踪に至るまでの事情を教えてもらえますか?」
詳しく話を聞こうとした僕の視線に、彩芽はしかめっ面で応えた。
「事情なんてないわ。彼、本当に突然消えちゃったの」
「彼にとって特別な出来事とかはなかった?」
「それはあったわ」
そう言って、彼女は先ほどよりも一回り大きいため息をついた。
「私達、結婚するはずだったの。彼が消えた日は、結婚式の前日だった」
僕がちらりとマスターに目を向けると、彼も彩芽に見えないように小さく首を振った。僕らにはそれは立派な“事情”に思える。クッキーの上の砂糖粒のようにちっぽけな人類史において、幾度となく繰り返されてきた営み。要するに、彼女は捨てられたのだ。
そんな僕の考えに気づいたのか、彩芽は眼を鋭くした。
「司が私から逃げたと思ってるんでしょう?」
「分かりませんよ。僕は、あなたがここに来るまでの一ヵ月、いったいどんなところに同じ問題を持ち込んだんだろうかと思っているんです」
「警察に相談したかって意味なら、した。司は俳優を目指すために、田舎の実家からほとんど勘当されるみたいにしてこっちに出てきてる。だからこの街では、私が一番家族に近かった。もちろん相談したわ。でも……」
彼女の自信なさげな様子で僕もぴんときた。
「彼が音信不通になるのは、これが初めてじゃない?」
「ええ、まあ、そういうことね」
諦めたように彼女は息を吐いた。
「昔から司には放浪癖があったみたい。実家を出て、それがさらに酷くなったのね、何も言わずに家を出て、電話にも出ず一週間たってひょっこり帰ってくるみたいなことも何度もある。主演をもらった芝居をすっぽかすこともしょっちゅうよ。折角俳優としての才能はあるのに、そのせいで全然伸びないの。劇団長の桐野さんはそれでも目をかけてくれてるけど……」
「話がそれていますよ。まあでも残りは僕が言いましょう。何度も警察に相談して、今じゃ相手にしてくれないと、そういうわけなんですね」
「付き合い始めのころの何度かで、私が大騒ぎしすぎたのもある。とにかく、警察は頼れないし、友達とか興信所とかにも相談してみたんだけど、みんな例の放浪癖が出ただけだって、形ばかりの捜索しかしてくれなかった」
──おいおい、なんか話が違うじゃねえか。これ、探偵と言うよりもカウンセラーの出番なんじゃないのか?
わかるよマミーモン、僕もそう思い始めてたところだ。呆れかえった僕の視界の隅で、マスターは申し訳なさそうに縮こまっている。“レベルファイブ”は、どうやら彼女の切れ長の眼と悩まし気な長い睫毛への評価だったらしい。
しかし実際、恋に盲目的になっているきらいがあるにしても、彩芽は周囲のこの出来事と自分に対する評価を理解していているように見えるし、気まぐれにヒステリーを起こす女性とは思えない。まあ、マスターに免じて一応話は聞こうか。
「正直なところ、話を聞く限りでは僕も警察と同意見です。でも、あなたがどうして今回の失踪はこれまでと違うと思うのか、興味はあります」
その言葉に、ここからが本当に重要な箇所だとでも言いたげに彩芽も頷く。
「彼は、あることを調べてたの……その、つまり、何かを調べてた。何かを探してた、って言った方がいいかもね」
歯切れの悪い彼女の口調に、僕は思わず眉を上げる。
「当然その問題も教えていただけると思っていいんですよね?」
「知ってたら教える。でも、知らなかった。彼は私にも教えてくれなかったけど、その問題に首ったけだったわ。しょっちゅう誰かからの連絡を待って、話し込んでた。仕事の話かもしれないし、私も深くは聞かなかったわ」
──嘘だな。この女、事情に心当たりがあるって顔だ。
マミーモンの洞察を信じるにしても信じないにしても、彼女の言葉が露骨に怪しいのは確かだ。その脚本がどこまで通用するか、見てやろうじゃないか。
「それで?」
「失踪する前日、私達は結婚式の準備で忙しくしてたわ。そんなときに彼に電話がかかってきた。彼は真剣な顔で二言三言話して、それから少し空けるって言って、出ていった」
そしてどうだろう、青年宇佐美司はそのまま帰ってこなかったのである。本朝はじまって以来の大事件、太平洋は大騒ぎだ。僕は心で勝手に彼女の言葉を締めくくる。なんにせよ、確かに謎の多い消え方だ。
「あなたの話について、こちらでも裏を取っていいですか? それから、依頼を受けるかどうか決めます」
「ええ、分かった。聞きたいことがあったら名刺のアドレスに連絡して。コーヒー、美味しかったわ。ここのお会計は私が……」
財布を出した彩芽の言葉を僕は遮った。
「正式に依頼を受けるまではお金は受け取りません。それに……マスターがあなたにサービスしたくて仕方ないみたいだ」
彼女のコートを持って、緊張した面持ちで頷くマスターに目を向けて、彩芽はにこりと微笑んだ。
「そう、それならありがとう。依頼を受けてくれる気になったら、連絡してね」
そう言ってコートを羽織り、出ていった彩芽を見送り、僕と、その横で実体化したマミーモンはマスターに冷ややかな視線を送った。
「な、なんだい。美人にサービスしていけないことはないだろう。それに、依頼もなかなか興味深いものだったろう?」
「調べてみないとわかりませんよ。それに……」
「この依頼には何か裏がある。か? 言いたいだけだろ」
僕の科白に口を挟み、肩をすくめるマミーモンに、僕は唇を尖らせる。
「そんなこと言わない」
「嘘つけ」
「言わないったら」
僕は乱暴に椅子に座り直し、すっかり冷めた珈琲を勢いよく喉に流し込んだ。やさしい苦み、耳に流れ込むカーディガンズ、マイ・フェイバリット・ゲーム。とにもかくにも、この世界のどこかに、消えた花婿がいるわけだ。
*****
三月の始め、この国のどこかにはもうすっかり春めいている場所もあるらしいが、ここは北東北だ。商店街の近くにある公園の木陰には溶け残った雪がかなりの量あって、僕は雪のないベンチを選ばなければいけなかった。毎年この時期からも一度か二度ひどい雪の日があって、それを乗り越えて、ようやく鰆町に春がやってくる。もうしばらく誰もがコートの襟を立てないといけないだろうし、街をいく人々の顔からもあおぐろい影が消えることはないのだろう。
そうは言っても、公園に集まる少年少女たちはそんなことはお構いなしだ。小学校は春休みで、雪解けでぐちゃぐちゃになった地面を駆け回ってオーバーを汚している。そんな彼らを眺めながら、僕はスマートフォンを耳に当て、向こう側にいる男に声をかけた。
「ねえ、お願いしますよ、伊藤さん」
「あのね、君は僕の情報屋じゃないんだ。警察官なんだよ」
彼は伊藤刑事、僕とマミーモンの最初の事件を担当していた警察官の一人で、僕たちとは信じあったり、そして多くの場合疑いあったりした。とはいえ、事件自体が彼の過去と関係していたことや、彼自身の奔放な性格もあって、結局彼とはデジタル・モンスターの存在に関する知識の共有を含めた友好的な関係を築き、今でも僕自身の手で解決できない事象が起こったときなどは相談に乗ってくれている。
まあ、そうはいっても、国家権力を便利に使えるというわけでもないんだけれど。
「貸しがあるでしょう。僕がいなかったら、鰆町のクソガキどもはこの半年で三回はウエスト・サイド・ストーリーを実演してたんですよ」
「大げさな物言いはやめなって。君のいち早い通報が役立ったことは認めるけど、君がいなくたって最悪の悲劇は回避してたよ。なんてったって俺たちは……」
「“俺たちは警察だ”。まあそれでいいでしょう。警察に関する警句を一そろい持ち出してもいいですけど、今は宇佐美の話がしたい。別に個人情報を教えろって言ってるんじゃないんです。時浦彩芽は、本当に彼女が言っていた通り警察に相談していたのか」
その言葉に、受話器の向こうで伊藤のやれやれといったため息と紙をめくる音が聞こえた。
「時浦彩芽……ああ、そうだよ。何度も恋人の失踪のことで警察に訴え出てる。それで、どの場合も勝手に恋人が戻ってきて解決してるね。これが何度も続いたら、俺だって相手にしない」
その言葉に僕は息を吐く。とにかくこれで、彼女の話の一部は真実だと分かったわけだ。まだ信用しきることはできないとはいえ、ひとまず安心といったところだろう。
「もし機会があったら、担当の警官に話を聞いとくよ。っと、そろそろ戻らないと、金沢さんにどやされる」
「ありがとうございます。弥生さんは元気にしてますか?」
「ああ、元気だよ。定期的なカウンセリングも続けてる。仕事探しなんかで苦労してはいるけど、確実に回復してるみたいだ」
少し明るい声でそう告げる伊藤に僕も微笑む。彼は頑なに言おうとしないが、五か月前の事件の最大の被害者の一人ともいえる坂本弥生が、今は伊藤と共に暮らしているのを僕は知っているのだ。
電話を切った僕に、マミーモンが話しかけてくる。
──どうだった?
「ああ、彼女の話は本当だったよ。宇佐美司は何度も失踪してた」
──ああ、だが、あの女が何か隠してるのは確かだ。
「その通り、だからこれから、二人が式を挙げるはずだったブライダル・ホールに話を聞きに行くのさ」
──こういう聞き込みにもいい加減慣れてきたな。でも、結婚式場の職員が、突然来たガキに客のことをしゃべるかね。
「ま、うまくいかないことも多いけど、それでもやらないよりはましだ。それに、結婚式場に行ったって、後をつけられたり、後ろから殴られることはないだろ」
──お前にとっちゃ残念なことにな。
その見通しは甘かったことを、僕らはすぐに知ることになる。
*****
三月九日 宇佐美司
ぼくが閉じ込められているこの部屋にも、本棚はある。これまで碌に文学には親しまずに生きてきたけれど、昼間は本を読んで過ごすことが多い。パラフィン紙につつまれた本の多くは詩集だ。壁全体を覆う本棚に置かれた詩の数々はキーツやワーズワースといった古い英国の堅苦しいもので、いくつか好きなものもあったが、僕にはいまいち合わない。
それよりもぼくは、テーブルの上にこじんまりと置かれているいくつかのアメリカ詩人の詩集の方が好きだった。この部屋の以前の持ち主──いるはずだろう? 誰の手も入らずにこんな部屋はできない──にとってもそうだったらしい。それらの本は本棚の者に比べてはるかに愛読されたらしい形跡があった。
ぼくはそんな詩集の中の一つを開き、サヌキの作ってくれたハニーミルクを飲みながら、ディキンスンの詩を謡うように読み上げた。
「名声は蜂である
歌がある
針がある
あぁ、それに羽もある
──いい詩だね」
ぼくの引用に、サヌキの纏う慇懃な雰囲気が僅かながら明るくなるのが感じられた。
「エミリーは蜂についての詩を多く書いています。陛下も、“働き蜂に求められる最低限で唯一の文化的素養”とおっしゃっておりました。わたしも気に入っております」
「へえ、それじゃあこれは?“蜂から盗ったの──」
「だめ!」
急に強い口調で言葉を遮ってくる彼女に、ぼくは目を丸くする。
「その詩はだめです。だめ」
「そ、そう……」
苦笑しながらぼくは話を元に戻す。
「女王はディキンスンが唯一だって言うのかい? ほかの詩は読んじゃダメ?」
「働き蜂には必要のないことですわ。仕事は沢山ありますので」
「ふうん、君たちの女王様は、随分つまらないことを言うね」
「……わたしはこれで」
部屋を出ていこうとするサヌキをぼくは呼び止めた。
「待てよ。君の仕事はぼくの世話だろう? それ以外にはないはずだ」
「まだ、なにかあるのですか?」
「おいでよ」
そう言って、机の空いたスペースを叩いたぼくに、サヌキは不思議そうに首をかしげながら、羽を細かく羽ばたかせてくる。
「君の女王様は働き蜂が詩なんて読む必要ないっていうけれど、ぼくの世話係は別だ。折角ここには沢山詩集があるんだ。一緒に読んでくれよ」
「……」
「とりあえず、ディキンスンから始めよう。君の好きな詩を教えてくれよ」
無言で踵を返し──いや、彼女には地についた足はないから、これはもちろん単なる比喩表現なんだけど──出ていこうとするサヌキに、ぼくはがっかりしたように声をかける。
「おい、ダメなのかい?」
「……いいえ」
「それじゃあ──」
「ウィスキーを持ってきます。レモンに蜂蜜に、それからいっぱいのお湯の入ったポットも。なぜかは分かりませんが、ゆっくりと詩の話をするのには、ホットウィスキーが一番いいと思うのです」
唖然とするぼくを、彼女は少し振り返った。その顔がどこか微笑んでいるような気がしたのは、ぼくの気のせいかもしれない。
「草原をつくるには
クローバーと蜜蜂がいる
クローバーが一つ 蜜蜂が一匹
それに想像力
想像力だけでもいい
蜜蜂がいなければ」
「……」
「わたしの好きな一遍です。あなたにも夢があれば、わたしたちは必要ないのでしょうか? ──だとしたら、それはさみしいことですね。あなたが今も夢見ている人を、妬ましく思うくらいには」
そう言って彼女は部屋を出ていく。取り残され、ぼくはぼおっとして再び詩集を開いた。
*****
「ちょっと、大変よ! ……って、何してるのあなた達、仲良さそうね」
「そう?」
「気のせいですよ。イナニワ。何かあったんですか?」
部屋に飛び込んできたイナニワに、ぼくとサヌキは驚きを浮かべて詩集から顔を上げる。ぼく達を交互に見比べた後、彼女は空咳をして話を続けた。
「ゴトウに見張らせてた式場に、雄の人間が来た。男女のつがいじゃないし、妙に若いから怪しいと思って聞き耳を立てたのね。そしたら……」
「そしたら?」
「あんたと例の雌についていろいろと聞いていったそうよ」
背筋が粟立つのを感じて、ぼくは思わず声を上げる。
「何を」
「あなた達が計画していたセレモニーについて、式場の人間に色々聞いていった……式場の人間が答えられることだけ」
その意味はぼくにもわかる。式場を訪れたミスターXは、何を訊くべきかを知っていた。ぼくと彼女のことに、かなり深くまで食い込んでいるということだ。もしかしたら彼女の頼みに応えて色々調べているのかもしれない。でも、もしそうでなかったら──?
「そいつに尾行をつけてくれ」
「もうゴトウが尾けてるわ」
「よし、気を付けてくれ。逐一報告してくれ」
ぼくは深く息を吐く。こんな状況になっても、ぼくにできることは何もない。酒を飲むのは気が咎めるが、それしかなさそうだ。
「サヌキ──」
「キャプテン・モルガンですね。かしこまりました」
「ねえ、あんた達やっぱり……」
「仲良くなってはおりませんよ、イナニワ」
「イナニワ、君も一緒に休んでくれ。一緒に詩でも読もう」
「女王様が良く言うエミリー? あの方は大好きだけど、わたしはお断り。退屈でしょうがないわ。それよりゴトウの様子を見に行く」
「……そうかい」
部屋を出ていくイナニワを見送った後、ぼくはぼおっと詩集の古びた紙を眺め、目を伏せた。
*****
三月九日 春川早苗
──おい、早苗、尾けられてるぞ。
「うええっ!? い、いや、もちろん気がついてるさ」
──強がるなよ。
そう言われても、隣を歩く奴が「尾けられてるぞ」と言ってきたときの語彙を、僕はそれ以外に知らない。
「で? どんな奴だ」
──最初から素直にそう聞けよ。一人の男と、一体のデジタル・モンスターだ。
その言葉に、僕は思わず眉を上げる。
「デジタル・モンスター? 尾けてる奴も“狐憑き”ってこと?」
──いや、どうかな……。
「どうした?」
──モンスターの方の気配はずいぶん弱い。単独でこっちの世界にやってきて人間に憑けるほどの力があるとは思えねえんだ。
デジタル・モンスターがこちらの世界に来るにはある程度の力がいる。モンスターたちの成長段階のことはよく覚えていないが、マミーモンと同じ“完全体”程度の力が必要なはずだ。
──で、どうする?
「少し待ってろ」
僕はそう言ってポケットからスマートフォンを取り出し、何度かそれをいじるそぶりを見せてから、それを持った手をだらりと下げた。指の間から、レンズをのぞかせ、背後の写真を何枚か撮る。
──うまいもんだな。よし、見せてみろ……よし、その黒いジャンパーで、パーマのかかった髪の奴だ。
「よし」
多少ぶれてはいたが、マミーモンのおかげで服装の区別はつきそうだ。
「次の曲がり角で奴らを撒いて、尾行し返す。僕が男で、お前がモンスターだ」
──オーライ。撒けるか?
「何とかやるさ。探偵始めてから、少しは鍛えた」
──期待してるぜ。そら、そこの角でどうだ。
「いいね」
──それじゃ。
「行こうか、相棒」
曲がり角をまがった瞬間、隣で風が吹き、トレンチを着た木乃伊男が現れる。その心地よい風を感じながら、僕は地面を蹴った。
*****
三月八日 佐谷雪子
街はずれにある洋館には、小さな庭がある。冬の終わらないこの季節に庭で過ごすのはどうかしていると言われそうだけど、とにかく私は車いすを転がして、その庭でのんびりと昼下がりの時間を過ごしていた。
「あまり外にいると、お体に障りますよ」
「……涼香(スズカ)」
足音と共に、初老の女性が私に声をかけてくる。もちろん彼女の言うことは分かっている。でも、私の身体はもう十分治っているのだ。まだ車いすから立つことはできないけれど、それでもすっかり良くなっている。
「大丈夫なのよ。それに、すぐに部屋に戻るつもり。それで、何か用かしら?」
「手紙が届いていますよ」
その言葉に、自分の頬が勝手に緩むのに気づく。自分でもびっくりするほど早く彼女に手を伸ばす。そう、今のところ、どこからか定期的に届くこの消印の無い手紙だけが、私の唯一の楽しみだった。
「すぐに読むわ。その間は……」
「ええ、紅茶を淹れて待っていますわ」
「ありがとう、涼香」
私は微笑んで彼女を見送り、それから手紙の封を切った。
その内容はいつも同じ、愛の言葉と大きな謎……他の誰かに向けた。
誰なのだろう。なんで私のところに来るのだろう。いつもそんな風に思う。でも、それを知ることはできない。一度涼香に郵便受けを見てもらったこともあるが、彼女が目を離したすきに置かれていたらしい。
この手紙を真に受け取るべきひとのことを思うと、私の胸はいつも痛む。
それでも、彼の言葉は、今の私にとって、救いだ。たとえそれが過ちだとしても。
私は冬のどこまでも済んだ青空を見上げる。どこからか、季節外れの虫の羽音が聞こえた気がした。
初っぱなから探偵志望少年っぷりがフルスロットルで大満足の第1話でした!
春川くんの言い回しが最高。
警察に相手にされなくなった美女が依頼人、めちゃめちゃ探偵っぽいですね……!
自分は物語の探偵みたいに聞き込み中に襲われたりしないよフラグを散々立てまくってから尾行されてる春川くん、やっぱり何か「持って」ますね。いざ尾けられたら慌てるところが相変わらず春川くんっぽさあるなあと思いました。
一方で落ち着き払ってるどころか完全に順応してる宇佐美さんが気になりますね……。彩芽さんに何度も僕を探さないでと手紙を送ったり春川くんを尾行させたりと、徹底的に他人を関わらせたくないという意思を感じました。
それほど「女王」が恐ろしい存在なのか、或いは宇佐美さんが何か調べ物をしていたのと関係があるのか、気になるところです。
とか思っていたら手紙は実は更なるヒロインの下に届いていたと判明してびっくり仰天です。一体何がどうなっているのかさっぱりです!教えて春川くん!!
春川くんが事件を解決する以前に、どうやって証拠を集めていくのか想像もつかないので(佐谷雪子嬢とかどうやってこの件に関わってるって春川くんが分かるの?)、この先読み進めるのが楽しみです!
p.s.働き蜂さんたちがますます感情豊かに動いていて可愛いです。正ヒロインかな?
後、春川くんの地の文に加えてマミーモンの容赦ないツッコミを見てると「ああ、俺、このシリーズ読んでるなぁ!」と実感できます。