キャラクター紹介その1
キャラクター紹介その2
イメージした曲
前の話
僕は恋をしているのだろうか。胸の内が焦がれるように、じわじわと熱が僕の心を蝕んでいく。きっとあの紅い眼の小さな女の子に惚れてしまったのだろうことは嫌でも分かる。何故だろう、と自分の心に問いかけずとも答えは分かりきっている。『求めていたから』それだけで充分だ。あの姫君は、ヒトとは思えぬ、妖精や聖女を思わせる容姿に加え、妖しく煌めくピジョンルビーのような紅い眼は強大な闇の力を秘めている。それこそ幽世の王達を、条件付きとはいえ統べることさえ出来てしまうのだから。彼女の紅い眼の魔力には僕でさえ敵わない。彼女が望めば、この世界さえ滅ぼせる。
地下墓所(カタコンベ)の深部にある、真新しいベッドの上には少女に贈る為の服が二着ある。二つとも僕が想っている小さな女の子に贈る為のモノだ。暗い空色の方は、彼女の幼い頃の記憶を頼りに。黒いドレスは僕が想像しうる理想の彼女のイメージを貪欲に詰め込んだものだ。ただ、今の僕が彼女に贈るのは、暗い空色の方。別に黒い方を着せたくない、という訳ではない。これは一種の儀式なのだ。彼女を僕の許へ迎え入れる為の。本来なら指輪も花束も要るだろう。こんな薄暗い、亡者が眠るところではなくてステンドグラスが煌めく教会で、神父の目の前で愛を誓うのだろう。けれど、僕にはそんなモノ要らない。
「これをあの子の許へ送ってねぇ?」
僕は暗い空色のワンピースと焦茶色の靴を使いの者達に渡し、美しく包むよう命じた。よく磨かれた箱の中には招待状も入っている。あの子達が無事にこの城まで辿り着けることを、僕は願ってやまない。始まらないだろうから。主たる僕と姫君、それと客人達がいなければ。饗宴が。
あの小包を使いの者に渡した後のこと。僕の胸は高鳴るばかりで、最早抑えが効かなくなりつつあった。知らない間ににやけてしまい腰の獣に噛みつかれ、僕は一瞬だけ目を醒ます。だが、それさえも長くは保たない。つまりはそれだけあの紅い眼の少女のことを想い続けているのだ。彼女の艶姿を一刻も早く堪能したい。彼女の髪に触れたい、声を聞きたい。何も単に利用するという訳ではない。傍に置いてありったけの幸せを与えてやりたいだけだ。それに、僕という強力な後ろ盾を得られるのだ、彼女にとっても悪い話ではないだろう。
小包の中には彼女に相応しい服と靴、それと招待状以外は何も入っていない。招待状の文面は当たり障りのないもので、カードのデザインも蒲公英の絵が描かれた柔らかで奥ゆかしいものだった。だが、そんなことはどうでもいい。彼女に相応しいもの、それは質素だが可愛らしい服と靴だった。彼女のような者が着るのは勿体無いような気もするが、それでも似合ってしまうのだ。その事実がただ恐ろしい。襟は白いフリルで縁取られているが、そこからはワンピースの裾を除いて、一切のフリルやリボンなどの飾りが見えない。丈は割と長いが、足首を超えることはない。スカートの丈は別に短くてもいいのだが、僕は膝丈までの長さが至高だと考えている。少女という生き物にはいつだって清楚であって欲しいから。靴はチョコレート色の、所謂『ペタンコ靴』と呼ばれるような、踵の低い靴だった。白や銀のパンプスでも別に良かったが、それだとあの暗い空色のワンピースが目立たなくなってしまう。靴は今回殆ど添え物のような扱いになっていて、一つの飾りも付いていないシンプルなものだ。女の子らしい格好ではあるが、質素で憐れみさえ感じさせるような服と靴は、彼女の為だけの一点モノだ。一流の針子が丹念に縫い上げているし、素材にだってこだわっている。だから袖を通した瞬間に、その着心地の良さをきっと彼女にも感じ取って貰えるだろう。素肌を優しく包み込むから部屋着としても着られる筈だ。
実は僕の手元にはもう一つ、ドレスと靴のセット一式がある。こちらはモノトーンの、ホルターネックのドレスだが、胴にはコルセットが付き、ところどころ黒いフリルで縁取られているので、襟と裾の部分にしかフリルが付いていないあのドレスよりも豪華に見える。ふんわりとしていて、腰には大きな藍色のリボンが付いている。まるで宵闇を舞う蒼い蝶のようで、妖しい魅力を放っている。袖は付いていないものの、透き通ったレースの袖を腕に嵌めることで腕を少しだけ温められるし、更にふんわりとした雰囲気を醸し出せるだろう。何も、パフスリーブ付きのそれはぴっちりとしたモノではない。腕を締め付けようとは思わない。小さな彼女のことを一等考えたこのパフスリーブの先は振袖のようにゆったりとしている。靴は銀とも真珠の白ともつかぬ色のパンプスだが、やはり飾りは付いていない。踵は然程高くないが、小さな彼女が履いても大人顔負けの気品を漂わせ、まるでそこに小さな貴婦人がいるかのようにさえ見せられる。これで黒いヴェールと合わせてしまえば、彼女を蝶の姫君と呼んでしまえるのだ。あの子が、レナータがこの城に来るのを僕は待ち続けている。橙色の光が満ちた玉座の間で、幾日も。
何をするでもなく、僕は彼女のことを想い続けながら座っていた。眠っている時でさえも、少女の柔らかな眼差しを。微笑みを。そよ風でふわりと靡く髪や、その小さな掌。傍らにはいつも、小さな茶色い兎と、少女と同じようで違う紅い眼をした黒い蜥蜴のような魔王がいる。この時のレナータは、深海のような紺色のドレスを着ていて、下には白いフリルの透けたペチコートを穿き、薄手の黒いストッキングと革のベルトが交差した黒い靴を履いていた。髪は高い位置で二つに結え、薄い紺色のリボンで飾られた黒いベレー帽を被っている。ここまでなら然程おかしな光景、という訳でもない。問題はこの小さな少女が屈強な大男の腕に抱えられているということ。その足元に小さな兎がいるという、ある意味で恐ろしい光景だった。芝生が広がり、白詰草や蒲公英が咲くのどかな丘の上、少女は地面に下ろされ、垂れ耳兎を抱えて何処かへ去っていってしまった。悲しいことに、そこで目が覚めてしまったが、それだけではなかった。
大きな扉が開く音を耳にし、僕は驚きのあまり跳ね起きた。客観的にはむくりと起き上がった、の方が正しいだろう。赤く、長い絨毯が敷かれた低い階段付きの台から少し離れたところには、恋焦がれてやまない少女と魔王、その二人以外には、銀色の少し短めの髪にオリーブ色の眼の小さな少女がいる。暗い空色の袖から覗く白く小さな掌にはいつも通り、三本角の兎がまるで大事なぬいぐるみのように抱かれていた。今まで見たこともない白い妖精は少女の頭の上に乗り、時折一本だけ跳ねているアホ毛を弄って遊んでいる。柔らかな赤い絨毯の上に乾いた足音が響き、次いで小さな足音が僕の耳に入る。
「……おい」
「……王様、こんばんは」
「こ、こんばんは!」
三者三様、それぞれが挨拶の言葉を口にした。スピネルのように真っ赤な眼がこちらを睨みつけているが、他の子(チビ)達は怯えているし、澄んだ紅い眼はまたしても泣きそうになっている。
「どういうことだ!何の用があって俺達をここへ呼び出した!答えろ!ノエル」
「ふっ……、ふふふっ……!あーっはははははは‼︎」
「何がおかしい⁈」
「だぁーってぇ!そんなの分かり切ってるでしょう?いいこと教えてあげるって!それに、君達も知りたいことがあるんじゃないのぉ?ねぇ」
「……ルナさん、そうまでして知りたいことがあるんですか?」
「……まあ、な」
口ごもりながらも、魔王は仔猫のような少女にそう返した。
まるで硝子のように生気を感じられない眼の、人形がそのまま動いているかのように見える少女メイド達の案内で、俺達はあの時と同じ食堂へやってきた。やはり、前に来た時と同じように、革張りのソファーのような座り心地の高級な肘掛け椅子が並べられ、その間に長い食卓があった。ざっと三十から四十脚はあるだろうか。右に十五脚。左にも同じくらいの数がある。城の中にはそんなにいないだろうに。頭上で妖しく揺らめく、透明な宝石が散りばめられたシャンデリアの光が、暗い部屋の中を弱々しく照らしている。俺達五人は並んで椅子に座り、王ノエルが来るのを待った。そもそもの話、コイツが宴を開くと碌なことがない。にも拘わらず何故こんなことをするのか。彼が考えていることは分からない。
こゆきは膝丈の、菫色のワンピースを着ていて黒いサテンのリボンでもみあげと後ろ髪を纏めていた。腰の薄い墨色のリボンを真ん中でベルトのように締め、ちょっとしたお出かけスタイルを演出している。こういう場には本来なら相応しくないのだろうが、街にある少しお高めのレストランで食事をしに行く時なんかにはいいかもしれない。彼女のオリーブ色の眼は怯えつつも、前髪から覗く藍色の眼は不気味な程冷静だった。その一方で、俺の左隣に座っている薄水色の髪の少女レナータは変わらず怯えている。あの招待状に書かれた通りに、記憶の中の質素な服を着ているが、彼女はそうとは知らず気に入っているようだ。今日はあの時と同じく、いつものスリップではなく、細かなレースやフリルがあしらわれた白いシュミーズに、裾の方に細かなフリルがついた白いペチコートだ。コルセットの類は着けていない。動くのに邪魔だろうし、そもそもあんなにゆったりした服はキツく締め上げるべきではない。足首に届く程長く、絹のように輝かんばかりの髪は高い位置で二つに結えられている。髪留めにしているリボンは艶やかな白。チョコレート色の、飾り気のない靴を履き、黒く薄いストッキングを飾り気のないガーターベルトで吊っていた。これで短いスカートでも穿いていれば、恐らくは色気が滲み出たことだろう。だが、彼女はそうしなかった。
レナータの服は全て俺が買い与えたモノで、その選択には多かれ少なかれ彼女の意志が関わっている。クローゼットの中を一度でも覗くか、買い物に付き合ってみれば分かるが、短くても外出用の服はみな膝丈までで、ズボンもミニスカートもTシャツもパーカーもハンガーに掛かっていない。彼女自身のこだわり故なのだろうか。それとも何か別の理由があるのだろうか。脚を見せることを嫌がるのと同じように。
暫くすると、少女メイド達が五人分の水を、円い焦茶色の盆に載せて運んできた。手の中に納まる程の、円柱にも見えるグラスの中には氷ブロックが四つ入っていて、グラスの表面には既に水滴がびっしり付いている。口に含んでみると冷たくて美味しい。機械のような金属の味もしない。天然の水か、それとも井戸の水か。俺が冷たい水の味を堪能していると、正面から、
「さて、始めようか」
「……何をだ?」
「知りたいでしょう?レナータちゃんのことを。僕はねぇ、ほんのちょっとだけ知ってるんだよぉ?夢の中で『中の子』と話したからねぇ」
「なっ⁈てめっ、アマリリスに何しやがった⁈」
「心の中を覗いただけだよぉ?夢の中であっても分かっちゃうんだぁ。泣いてるその子とお話するのは三十分が限界だったけどねぇ。今のレナータちゃんには過去の記憶なんて邪魔なモノないからねぇ。君がその子をお人形さんにしようと思えば幾らだって出来るんだよぉ」
「何が言いてえんだ、このクソ王!」
俺は思わず叫んだ。隣に座っている少女達が肩をすくめ、目を瞑る。ただでさえレナータはもう限界の筈だろうに、涙を堪え、クロの長い耳で肩を摩られながら王の方を見ている。少し経ってから一口グラスに口を付け、
「王様、全部、話して……?ルナに」
漸く口を開いた。堪え切れなかった涙は食卓の上に流れて落ち、子兎でさえ困った顔で心配そうに見つめるばかり。
「良いのか?レナータ」
「もう、いいの……」
「そうかぁ、じゃあ教えてあげようか。レナータちゃんの過去を、ねぇ」
王は牙が生えた口を開き、甘ったるい声で語り始めた。
一八六九年、プロイセンの山奥。昼でも陽の光が届きにくい樅の森の向こうにあるその城で、双子の赤ん坊が産声を上げた。まだ陽が昇り切る前の寒い朝のこと。窓硝子の向こうでは粉雪が降りつつあった。中年の、恰幅のいい侍医が、天鵞絨のカーテンがかかる天蓋付きの豪華な寝台の上に横たわる若い女から、二人の赤ん坊を取り上げる。一人は亜麻色にも小麦の穂の金にも見える色の髪を持ち、青灰色の眼で母親を見つめている。こちらは男の子で、この城に住まう一族ひいては大公とその妻までもが待ち望んだ後継ぎだった。しかし、そのすぐ後に若い母親の胎から産み落とされた赤ん坊を見るなり、侍医は恐怖のあまり叫び声を上げた。その子は女の子だが、ヒトとは思えぬ容姿をしていたのだ。この世のものとは違う、白銀にさえ見える薄水色の髪。高貴な、或いは鮮血を思わせる紅玉(ルビー)色の眼。陶磁器を思わせる白い肌。淡い珊瑚色の唇。ソレを見た若い母親も、次いで金切り声を上げた。その声は廊下にまで響き渡り、声を聞きつけた二、三人の若い女中が彼女の寝室に入ってくるという珍事も起こっている。二人の赤ん坊は程なくして引き裂かれ、男の子は広々とした城の中で、女の子はこの一族に古くから伝わる習わしのもと、庭園の奥にある塔の中で育てられることとなった。
女の子はアマリリス、男の子はコンラートと名付けられた。洗礼を受けたのは男の子だけ。妹にあたるアマリリスは生まれて直ぐに、塔の中で初老の乳母が子守をすることになったからだ。一族の習わしは残酷なもので、教会の洗礼を受けさせずに、毒の花の名前だけを与えて塔の中に閉じ込める。家人との接触は絶たれ、外の世界に行く自由もない。この家の者達は数百年の間そうしてきたようで、紅い眼の子供が産まれてくる度に同じことを繰り返してきた。禍いを閉じ込める、ただそれだけの為に。彼らは恐れていたのだろう、数百年前の災厄が再び起こることを。
五百年以上前のこと。ある秋の日にこの城に紅い眼をした男の子が産まれ、それと同時に当時の領主が治めていたある村を、黒死病(ペスト)が襲った。実ったばかりの穀物を齧った溝鼠からヒトへ。粗末な家が多く、村人達の身なりも綺麗とはいえないこの村で、何も知らない農民達は、教会で神に祈るしかなかったのだ。同じ頃、城でも騒動が起こっていた。領主は生まれたばかりの息子達を見るなり、
「この者達は悪魔の使いだ!この双子が民を苦しめているのだ!我が妻は斬首刑に、この双子は縊り殺せ!」
と叫んだ。しかし、召使い達がそうすることはなく、表向きは死んだと思わせておき、二人はせめてもの慈悲として、人知れず冷たい石造りの塔に閉じ込められた。別々の部屋で、一日二食の食事と僅かなおもちゃだけが与えられる、それだけだったが、彼らは何も分からなかった。その間にも、双子を産んだ母親は薄暗い地下牢へ閉じ込められ、処刑を待つばかりだった。白く、薄いサテンのドレスを着せられ、石造りの台にシーツが敷かれただけの、硬いベッドの上に座る十六歳の彼女が何を想っていたのかは分からない。だが、見張りの兵士が、
「最後に何か言いたいことはありますか?」と問うた後、
「あの子達に会わせてください……」
と彼女は涙声で呟いた。
真夜中、彼女は兵士に連れられ、庭園の奥にある小さな塔へと案内された。手には弱々しい光を出すカンテラを携えて。彼女の左手の薬指には、混じり気のない銀で出来た結婚指輪がはまっていて、暗闇の中で鈍く光っていた。毒の花の名をつけられた、幼い双子の兄は痩せた躰を母親に見せながら布団も掛けずに眠っていた。弟の方は兵士が最後に目撃した時、既に事切れていて、それを彼から聞かされるや否や、彼女は泣き崩れた。空に三日月が昇り、雲の切れ間から星々が見える、そんな夜だった。元々、この双子は目が見えず明日をも知れぬ命だったのだ。一歳と十ヶ月の命を、弟は冷たい塔の床の上で、誰にも看取られることなく終えた。
二ヶ月後、双子の兄は一つ歳を取り、二歳になった。塔の外には細い葉を持つ大きな六花弁の白い花が沢山植わっていたが、彼がソレを目にすることは決してない。侍女はいつも通りにミルクとパン、ソレと濁った野菜スープだけを持ってきて、スプーンでひと匙だけ掬うと、幼い少年の口に優しく含ませてやった。何も知らない彼は、小鳥の囀りだけを聞き、無心に与えられた食事を口にする。
その裏では今まさに若い母親の処刑が行われようとしていた。中年の、猫背で顔には髭が生えている処刑執行人が、彼女の手を麻縄できつく縛り、白い包帯のような布で目隠しをした。領主は彼に命じて、大きな斧で元妻の首を刎ねさせるが、中々上手くいかない。床には黒い布が敷かれ、その上には藁が撒いてあるものの、彼女の首から滴り落ちる血のせいで、それだけでは間に合わなかったのだ。躊躇いが執行人の中にあったのか、それとも単に腕が未熟なだけだったのか。知るものはない。処刑は夕刻になるまで行われ、漸く首を刎ね終えた時、若き母親が着ていた服に飛び散った紅は銅色に乾いていた。二人の侍女のうち一人は泣き崩れ、一人は失神さえしていた。その数日後、双子の兄は母親の後を追うようにして亡くなったという。冷たい床の上で。眠るようにして。
話は一八七〇年代に戻る。アマリリスと名付けられた彼女は、左眼は完全に失明し、僅かに見える右眼でさえも視界がぼやけ、完全にモノを見ることは難しかった。髪は内巻きだが、男の子のように短く切り揃えられ、曲がりなりにも貴族の娘であるにも拘らず、まるで修道女のように質素な、藍色の服を着せられていた。靴下の類は履いておらず、焦茶色の、飾りひとつない踵の低い革の靴を履いているのみだった。やはり、彼女もまたミルクと白パン、そして濁った野菜スープを一日に二食与えられるだけで、床には僅かなおもちゃが散乱していた。金髪と茶髪の、それぞれ青灰色の眼をした人形が二つだけ。埃を被った棚の中には二、三体の磁器人形(ビスクドール)があり、こちらで遊ぼうとはしない。まだ背が低過ぎるので、窓から身を乗り出すことは出来なかった。この時、彼女は六歳になっていた。六歳といえど、彼女は誰からも言葉を教わったことがない。名前を呼ばれたら反応はするものの、それだけ。意思を伝える手段を一つとして持っていないのだ。彼女には何も求められていなかったし、彼女が求めることもなかった。
変わり映えも何もなく、これから先も、それこそ死ぬまでこの塔で過ごすのだろう、と思われた矢先のこと。一人の若い旅人が、一晩だけ泊めて欲しい、と城を訪れたのだ。それだけならば大した問題にはならなかったが、彼は庭園の奥にひっそりと建っている塔の存在が気になったのだ。あの塔の真実を知る城の者達は、使用人でさえも必死に止めたが、彼は興味の方が勝ったのか、夜中にこっそり行くことにした。枯れた草を掻き分けて辿り着いたその小さな古い塔は三階建てで、アマリリスは二階で眠っていた。旅人は彼女の小さな頭を撫でてやり、その日はお世辞にも寝心地がいいとは言えない簡素なベッドの上で眠ってしまった。
朝になり、硝子が一片たりともはまっていない塔の窓にも陽の光が差し込んできた。黒く塗られた格子がはまっている窓際には雀が二、三話やってきては時を告げている。部屋の中は静寂に包まれていて、時計一つない。だが、清潔ではあったのか溝鼠や害虫の類は一匹もいなかった。普段から世話をしている乳母が食事と着替えを持ってきた時、彼女は驚き、
「旅の方、ですよね……?何故ここにいらっしゃるのですか?」
「この塔が気になってしまいまして」
「……そう、だったんですね。今すぐこの子の側から離れられた方がいいですよ。その子は、アマリリス様は、この地に厄災を齎すのです。目は見えず、口は利けずとも確かに。だから我々が死ぬまでここに閉じ込めるしかないのです」
「そんな話、信じられる筈がないでしょう。確かに、薄水色の髪に真紅の眼をしていて、この世のものとは思えない程白いですが。ただの子供じゃないですか」
旅人は笑い飛ばし、彼女を抱き寄せ、頬にキスを贈った。そこには憐れみでもあったのか、彼の眼からは涙が一筋頬を伝って冷たい床に落ちていった。何も知らず、自我さえ持たない彼女は、虚な眼でその様子をじっと見ているだけだった。
事件はその日の夜に起きた。旅人が外に出られないアマリリスを憐れむあまり、禁忌を犯したのだ。夜中に城の図書室から古びた魔術の本を持ち出し、幼い少女の世話係を務めていた乳母を生贄に捧げ、僕の隣人でもある悪魔を喚び出した。異形の彼は、旅人の願いを聞き入れこそしたが、その代償はあまりにも大きいものだった。使用人諸共一族の人間を喰らったのだ。城は騒然となり、叫び声や喚き声が城を埋め尽くした。塔の中にいた少女には聞こえなかったようだが。数時間経ってからそれらは消え、物言わぬ汚らしい骸ばかりの城には旅人とアマリリスの二人だけが残された。明け方、外に出た二人が最初に見たのは、未だ微睡んだままの世界に降り積もる雪。森の中に、包み込むようにして降る粉雪にはしゃぐことも、初めて見る雪景色に心を動かすことも、この小さな少女にはなかった。澄んだ紅玉の瞳で、ただじっと目の前を見つめる。それだけだ。
大きな街のすぐ近くまで、旅人は己の足を引きずりながらやってきた。小さな彼女は、悴む腕に抱えられているが、旅人の青年は限界を迎え、倒れてしまった。無理もない、二人とも寝間着のまま逃げてきたのだから。残された少女も力尽きたのか、冷たい石畳の上に倒れてしまった。
「ここまでが、六歳の時までのお話だよぉ」
王は話を一旦区切り、気色悪い声でそう告げた。あれほど他人の死に心を動かすことのなかった俺でさえ、聞いているだけで涙が自然と溢れ落ち、頬を濡らすとともに胸の中からは怒りが込み上げてくる。たった六歳の、何も分からぬ少女にここまで出来てしまう、自分以上に歪んだ一族に。もうこの世から不本意な形で去ったとはいえ、煮えたぎる程の怒りが、悲しみが、次から次へと湧いてくるのだ。
「何でそんなっ……、レナータがクソくだらねえことに巻き込まれなきゃなんねぇんだよ‼︎コイツはクロや俺がいなきゃ何も出来ねえのに!俺と同じ紅い眼のガキが産まれてくる度にそうしてきただあ⁈ソイツら頭湧いてんのか‼︎生まれてきただけで罪だって誰が決めたんだよォ‼︎」
いつの間にか俺は叫んでいた。隣で啜り泣き、仔兎に慰められている彼女の為だけに。本当なら今すぐにでもキツく抱きしめてやりたい。どれだけ拒絶されたって構わない。ほんの一欠片でもこの想いが届くなら。
「仕方なかったんだよぉ。皆が皆くだらない宗教を盲信してたから無知でもねぇ。医学も科学も何もかも、全てが止まっていたんだよぉ。漸く歯車が回り出したばっかりだったんだぁ。百年の時を経た暁には月に到達していたり、僕らのいる量子の世界に干渉できるようになる、なぁんて。きっと、考えられなかっただろうし。そのお陰で世界から悦びという概念が消えつつあることも、境界が無くなりつつあることで、自分達が如何なる存在か理解出来なくなることも。智を持つ者は総じて愚かしいのさぁ。上から抑えつけることしか出来ない奴らから文明や文化は生まれない。停滞から脱する為に戦争という営みを始めたのだとして、そこから生み出されるモノが有益とは限らない。生み出した風習が、犠牲を生まないともね。それでも、弱者であるレナータちゃんが生まれてきたことに、意味がないとは言い切れないんだぁ」
「てめぇ、レナータの前でよくそんなこと言えたな‼︎このクソ王‼︎」
「僕をゴミクズ呼ばわりするのはいいけど、コレは本当のことだよぉ?僕は真実を述べているだけだからねぇ」
嫌な空気が流れていき、小さな少女の啜り泣く声が聞こえてくるからか、俺達は目の前に何が置かれたのか気づかなかった。目の前の皿には焼きたての丸くて小さなフランスパンが一つ、銀紙に包まれたバターと一緒に置かれ、隣のワイングラスには白ワインが注がれている。菫色の少女がブランにパンを千切って与えているが、クロはそのままいつものように齧りついていた。触れてみると普通のロールパンより少し硬い。薄水色の少女も、気が進まないという顔をしつつ、小さな手でパンを少しずつ千切って口にし始めた。
「ここからだよぉ?この子の闇はまだまだ、十五歳の今まで続くからねぇ。君に光が当たることなんて、決してないのさぁ」
会食の最中だというのに、不気味な橙色の光に包まれた豪華な食堂は、王の嫌らしい声と小さな少女が啜り泣く声だけで満たされていく。長方形の食卓の上には、ほんの数分のうちに沢山の料理が並べられていくが、そのうち一つが見たこともない、手の込んだ料理だった。フランス料理ともイタリア料理とも違う。サラダやパンは見覚えのあるものだが、唯一メインディッシュと思しき肉料理だけは我でさえ目にしたことのないモノだった。隣にいるレナータは銀のナイフを手に取り、僅かな音さえ立てずに、肉にナイフを入れていく。形からして辛うじて鳥の類であることだけは理解できる。が、それが何なのかまでは分からなかった。黒胡椒をはじめとした様々なスパイスがかかり、赤茶色のソースの海に横たわっているそれを、彼女はフォークで勢いよく刺し、躊躇いなく口にした。何も言わないが、表情が少しだけ和らいでいる。濃い赤身の肉は何となく牛肉を連想させるが、
「……懐かしい」
「どうした?レナータ」
「これ、鳩の……」
どうも違うようだった。その消え入りそうな声は王の耳にも入ったらしく、
「そうだよぉ。それは君が一度だけ口にした鳩のお肉さあ。どうかなぁ?君なら喜ぶと思ったんだけどぉ」
「……おいしい、ね」
そう口にしながら、彼女はちびちびと一口大に切った肉を黙々と食べ続けていた。傍にあるシーザーサラダは半分程減っているし、水が入っていたグラスは脂がうっすら浮いているとはいえ、もう二回程注ぎ足されている。水滴はグラスにびっしりと付いている訳ではなく、零れ落ち、食卓の上に小さな水たまりを作っていた。
王の趣味は全般的に悪いとはいえ、カトラリーをはじめとした食器だけは違うらしい。明らかに他所とは違う、煌びやかだが趣のあるものばかりなのだ。ただのシーザーサラダでさえ、持ち上げたら即座に割れてしまいそうな薄さの器に入っているし、パン皿一つとっても正円形である以上に、上から見ると溝が三つか四つ、刻まれるようにして皿の中心を縁取っているのだ。真っ白なそれには絵の一つでも描かれていそうなものだが、何も描かれてはいない。鳩の肉が入った皿は白く、上から覗いて見ると花のようにも見える。沢山の花弁から成る名も知れぬ花だ。我がフォークで試しにソースを退かしてみても、絵や模様は見当たらない。本当にただの『食器としての価値しかない』皿だ。我は自分の分の水が入ったグラスに少しだけ口をつけた。氷の所為だろうか、冷たくて美味しいということしか分からない。舌が氷の所為である程度麻痺しているとも云えるだろう。少なくとも薬品の臭いがしないことからして、水道水ではないことだけは確かだった。
各々が鳩の肉を食べ終えた頃、デザートだろうか。エメラルドグリーンの四角いシャーベットが運ばれてきた。シンプルな切子細工を思わせる硝子の器に入り、そのうちの二、三個には天辺の方にピックが刺さっている。安っぽいプラスチック製の、子供の弁当箱にでも使われていそうなそれは、先端に星やハートといったマーク以外にもまち針のように球があしらわれている。ピック自体は透明で、ピンクや緑、檸檬色といった鮮やかさを感じる色ばかりで、青や紫、赤といった色は見当たらない。我は自分の器から一つのシャーベットを取り、口に入れた。噛み砕いてみると、本物には遠く及ばずとも、舌先では甘いと確かに感じている。例えこれが砂糖と別の何かだけで占められていたとしても、食べる価値はあるのだ。隣に座っている少女も口元を緩めながら食べている。口にせずとも分かるが、我は敢えて
「美味いか?」
と問うた。レナータは頷くのみだった。
皆が丁度食事を終えた頃、僕は開けたばかりの赤ワインを口にしつつ、
「始めようかぁ。レナータちゃんの、人生で一番幸せだった時の話をねぇ」
目の前で泣いている少女の過去話の再開を宣言した。
倒れたアマリリスは、偶然にも通りがかった男の手によって救われた。気づいた時には大きな街屋敷の、豪華な造りの寝台の上に横たわっていたからだ。そのまま目を覚ますことはないだろうと思われた彼女は、拾われてから五日目の朝に漸く起きた。ふかふかの布団から出た時に初めて見た光景は、見知らぬ人々が彼女のことを覗き込むというものだった。そんな異様な光景にも拘らず、彼女は虚ろな目で辺りを見回すばかり。怯えさえも見せないアマリリスを見て、屋敷の主である男が口元を僅かに歪めたのを彼女は気づいていない。当然ながら、彼が新進気鋭の銃器メーカーの社長であることにも気づいてはいなかった。
その日から再びアマリリスと呼ばれるようになった少女は彼の屋敷で暮らすことになった。目が見えていないことを程なくして知った義父が手配した専属のメイドに身の回りの世話をして貰い、金持ちの世界では安物とはいえ、綺麗な服も沢山買ってもらった。小さな胃は当初、柔らかい白パンと野菜スープ、そしてミルク以外は受け付けず、それ以外のモノを口しても吐いてしまった。満足に動き回ることも出来ず、次の誕生日まではベッドの上にいることが多かった彼女にも、義父は家庭教師を付けた。元々、他人の目を介してモノを見ることが出来るこの少女が、アルファベットの読み書きを、少なくとも母国語だけでも修めるには数ヶ月を要した。それ以外にも、ピアノやヴァイオリン、絵画や古今東西の詩といった教養を、アマリリス自身は常人を上回る速度で覚えていった。特にピアノは、多忙で滅多に屋敷には戻らない父親でさえ彼女の小さな指先が奏でる旋律には必ずと言っていい程聴き入ったという。
アマリリスが七歳の誕生日を迎えたその日、義父が熊のぬいぐるみを彼女に手渡した。耳にはタグが、首元には藍色のリボンが付いているそれを、彼女はぎゅっと抱きしめた。亜麻色の、優しい眼差しで見つめるぬいぐるみを、彼女はどんなご馳走よりも喜んだ。口数が普段から少なく、表情にも殆ど変化が見られない彼女が、この時初めてはっきり笑顔を見せたのだ。それを見た義父も微笑み、彼女の頭を撫でた。食卓の上には普段口に出来ないような鳩の肉や、デザートには見たこともないような南国の果物、そうでなくてもバターをたっぷり使い、色とりどりのベリーやオレンジが乗った華やかなケーキは小さな少女の胸をときめかせたことだろう。まだ無理は出来ない彼女であっても、この日ばかりは切り分けられたケーキをゆっくりと口へ運んでいく。グラスに注がれたジュースを除けば殆どそれ以外に手をつけてはいないのだとしても、この日だけは大人達も大目に見てくれた。
その年のクリスマスプレゼントは高価な万年筆。軸の色は紺色、クリップやペン先はメッキでもしてあるのか本物さながらの金だった。幼子には似つかわしくないモノだが、それでもアマリリスは大事そうに抱え、義父に感謝を述べ、次の授業から使い始めた。遊ぶ時、眠る時は熊のぬいぐるみといつも一緒。変わらず身体が弱いので外にはあまり出なかったが。一つ一つの言葉の意味を理解出来るようになったこともあり、お付きのメイドが語って聞かせる話でさえも、彼女は理解し、噛み締められるようになった。音楽以外には数学に興味を持ち、高度な数式を一晩で理解した時には家庭教師に驚かれたこともある。反面、絵画はあまり得意ではない。というよりも他人の目を介してモノを見ているのと、元から盲目ということもあり、形を捉えての表現が苦手というのが正しい。が、その教養の高さは、裏世界に身を置いている義父のみならず、彼を通じて裏の有力者達でさえ一目置く程だったと言われている。彼女と会ったある者は、数日前の新聞記事の話や文学の話をし、またある者は七歳にして難しい諺を交えての会話が出来ることに舌を巻いた。義父自身も、アマリリスのことは誇りに思っていた。
人と接する機会があまりにも限られている彼女は、友達一人おらず孤独だった。体調がいい時には庭で遊ぶこともあったが、そんな日は年に十日あればいい方だ。色とりどりの花達で彩られた庭にある、丸太のベンチブランコが彼女のお気に入りだった。二人座れるその遊具には、いつもメイドと彼女が座っていて、メイドの目を通して季節の花を見るのが楽しみの一つだった。その中でも好きだったのは白い薔薇と、鮮やかな桃色をしたガーベラの花だった。
秋も深まった頃のこと。その日は休日でたまたま義父が屋敷へ帰ってきているようだった。アマリリスの小さな、
「友達が欲しい」という呟きを彼は聞き逃すことはなく、その証拠に後日仔犬を部下から貰って来た。十二月十日、つまりは彼女の誕生日の夜、屋敷にやってきた雌の仔犬は、アマリリスの手で覚えたばかりのフランス語から取って『シエル』と名付けられ、遊び相手がいなかった彼女の良き友人となった。小さな少女は人生で初めて友達が出来たことを心から喜び、床の上を転げ回った。何度も義父にとびっきりの笑顔で感謝を述べ、翌日からお気に入りだった筈のぬいぐるみそっちのけで、仔犬にピアノを聴かせてやったり、一緒に昼寝をするようになった。年に十日あればいい筈の、体調のいい日も、咳が止まらない夜も、ベッドから動けない雨の日も。シエルは片時も離れることなく、小さな少女の傍にいた。
そんな日が七年近く続き、シエルは犬というよりは狼にさえ見えるような精悍な体つきに成長していた。目つきはまるで、獲物を狩ろうとする獅子のようにさえ見えるが、アマリリスは変わらず可愛がり続けていた。義父が帰って来た時には写真屋を呼び、三人揃って写真を撮って貰ったこともある。春の穏やかな日差しの中、蒲公英の綿毛が空に舞い、小鳥の囀りが聞こえてくるような日々だった。しかし、そんな穏やかな日々は何者かの手によって突如壊されることになる。
一八八四年十二月二十五日の深夜。外では粉雪が降り積もる中、屋敷の窓硝子が割れたのだ。絨毯の上に散らばった硝子の破片と銃声は、招かれざる客が銃の使い手であることを
示唆していた。この音は余りにも大きかったのか、当然アマリリスの耳にも入り、先程まで眠っていた寝台から立ち上がると、恐る恐る扉を開けて冷たい廊下に出た。父親と愛犬を探す為に。この日は彼女にしか懐いていない筈のシエルが父親の傍から離れなかった、珍しい日だった。何故アマリリスの傍にいないのか、彼女はこの時まだ理解出来ていなかったのだ。部屋に向かう途中、銃声と、父親の悲鳴と愛犬の悲しい断末魔が聞こえてくる。彼女が扉の目の前に着く頃には、二人とも最期の言葉さえ言うことなくこと切れていた。部屋の中に入った時、二人は冷たくなり、義父は瞳孔を見開きながら、額や口を紅く染めていた。下ろした長い黒髪は紅く濡れ、シーツの上には紅い水溜りが出来ている。地面に横たわる犬は苦しそうな表情を浮かべながら口を紅く染めている。彼女は気づいていなかったが、義父の額と愛犬の腹の辺りには弾痕があった。部屋の中には屈強な体格をした、アマリリスより一、二歳年上と見受けられる、ガスマスク姿にボロボロの黒いコートを纏った少年の姿が見える。彼は黒光りしている狙撃銃を抱え、怯える少女の方を一瞥すると、
「……お前は、殺さない。生きるか死ぬかはお前次第だ」とだけ告げた。彼女はぶつけられた言葉に応えることはなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。
少年の姿はいつの間にかなく、後には少女の姿だけが残された。まるで呪いにも似た彼の言葉を噛み砕き、飲み込むには数分かかった。意味を知った時には時既に遅く、彼女は叫び、号泣し、暫くしてから部屋の壁に掛けられている楕円形の鏡の側に歩み寄る。そこからは白く強い光が放たれ、次の瞬間、彼女は吸い込まれるようにして消えてしまった。少女が来たのは沢山の鏡が浮かぶ摩訶不思議な空間。床を歩くとペタペタ音がするものの、床そのものは大理石で出来ているという訳ではない。ぼんやりとしたまま銀色の、飾り一つない長方形の大きな鏡に触れると、そのまま意識を失ってしまった。小さな胸の中に、愛されなかった記憶と愛した者達を奪ったあの銃声を刻みながら。
「で、気づいたら君は本来の名前も記憶も失っていたんでしょう?ねぇ、レナータちゃん」
語り終えた王は、やはりねっとりとした若い男の声で少女に問いかける。彼の席の丁度対岸にいて、兎に慰められ続ける小さな少女は声をあげて泣き出してしまった。クロをぎゅっと抱きしめ、さっきよりも大きな声で。同時に、俺の胸が張り裂けそうなくらいに皮肉めいた真実が頭の中を駆け巡る。俺は知らぬ間にレナータのトラウマを抉っていたのだろうか。だとすれば彼女があの夜に、ああ言ったことにも少しだけ合点がいく。只、身体が大きいだけではなく、こんな銃(モノ)の所為で俺は怖がられていたのだと。受け入れ始めた矢先に目頭が熱くなり、俺はいつの間にか叫んでいた。空になり、底に僅かな量の赤ワインが残ったグラスが震え、水色髪の少女を除いたチビ達は耳を塞いでいる。いつだって悪いのは俺の方なのだろう。それでも、どれだけ拒まれようと、俺はレナータもアマリリスも同じくらい想い続けているのに。今だってその気持ちは少しも変わらない。あの小さな少女には俺がこれからも必要だろうし、何より半ば仕組まれたものだろうと、彼女との紲はそう簡単に断てるものか。発狂しつつある俺に、
「レナータちゃんはもう僕のお姫様になっても可笑しくないんだよぉ。大丈夫、悪いようにはしないからさぁ」
心底愉しそうに囁き、彼は呆然としている少女を魔法か何かで浮かせてから抱えて出て行った。すぐ後にクロも耳で飛びながら追いつこうとする。その場に残った俺達はただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
ども、ハナっス!
多分レナータちゃんの素性は気になる人もいると思いまして、「鴉」を3話分ひとまとめにしましたっス!
かなり難しいこともあってウケてはいないみたいっスから、ひとまずここでの更新は終わりっス
これにてサロンでの投稿は終わりっス!
ご愛読ありがとうございました!