タイトルのイメージ
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その箱の中には沢山の蛆が入っていた。目的は一つ、彼女の治療に用いる為だ。取手のついた箱と点滴パック、小脇にアザラシのぬいぐるみを抱えながら俺は溜息をついた。
錆びついたエレベーターを降りると、その向こうに彼女の部屋があった。暗く、灯り一つない部屋の中に彼女は確かにいるのだ。ドアを開けると、
「痛い‼︎痛い‼︎」
喚きながら少女はうずくまっている。裸の上に包帯を巻いているだけで、服は着ていない。彼女の隣には、大きなティラノサウルスのぬいぐるみがある。痛みのあまり起き上がれず、遊べないだろうに、持ってきたのには訳があった。遊べずとも寂しくないように。そう考えて彼女が普段から過ごす、暗いベッドの上にいる。
「邪魔するぞ……。治療の時間だ」
俺自身、身長が三メートルはあるから、爪先立ちでもしたら天井につっかえてしまいそうだ。少女は相変わらず怯えた目で俺を見ている。左目は包帯が巻かれていて、せっかく綺麗な赤目なのにも拘らず勿体ない。
「嫌……。来ないで……」
少女の言葉を無視して、俺は左目以外の包帯を全て剥ぎ取った。包帯は血で赤く染まり、乾いて銅色になっている。暗くてよく見えないものの、傷口が開き過ぎている。それも一つだけではない。四肢、胴といった顔以外の複数箇所はマゴットセラピーの対象になりうるようだった。一つ一つの傷は、そこまで大きくはない。
「酷いな……、こりゃ」
泣き叫ぶ少女をよそに、持ってきた蛆を傷口に這わせ、空になりそうな点滴を取り替える。本来なら彼女が眠っている間に全て完了したかったが、鎮痛剤が切れたのか、それは叶わなかった。不幸中の幸いは、彼女の右目が殆ど機能していないこと。暗闇の中で全く目が見えていないことだった。寒いだろうと薄い毛布を掛け、枕元にアザラシのぬいぐるみを置いてやる。淡い水色の髪を撫で、頬にキスを送ると、少女は力なく笑顔を浮かべた。
「寒い……」
今の彼女は、寝返りを打ってはいけない。包帯で包まれているとはいえ、せっかくの蛆が振り落とされたり、潰れる可能性があるからだ。足の裏にまで傷が及んでいることもあり、今の彼女は容易には動けない。
だからこうして治療を施す必要がある。
まだ、少女が傷口に包帯さえしていなかった頃。つまりはこの燈台に運び込まれてきてから数日も経っていなかった頃。彼女は血塗れになりながら倒れていた。靴は履いておらず、黒く質素なワンピースだけを着ている。意識はないのか、ベッドに運び込み、傷の消毒と簡単な処置だけをして様子を見ていたが、彼女が目を覚ますことはなかった。稀にビクッと震えるくらいはあったが、それすら無い日も少なくない。全身を包帯で包まれ、胎児のように眠り続けているだけで、何も受け付けようとはしなかったのだ。困り果てた俺は、せめて彼女が水分と栄養だけは摂れるようにと、点滴を腕に刺すことで対応した。
生きる意志がない、と言えばそうなるだろうか。左手でいくら触れようが、揺さぶろうが、撫でようが、彼女は起きあがろうとさえしなかった。眠っているのをいいことに、まるで人形のように抱きしめたことさえあった。柔らかく、白く、ほんのりと桜色がかった肌に触れ、漸く暖かさを感じられた。
ティラノサウルスのぬいぐるみを持って行ったのは、二週間くらい前だっただろうか。それとも数ヶ月前だったか。きっと寂しいだろうと思って、枕元に置いておいた。ほんの十日前まで、彼女は眠ったままだったのだ。まだ名前も聞いていないし、話したいことが沢山ある。にも拘らず、名も知れぬ少女は「痛い、痛い」と喚くだけだった。
銃口を向けると途端に黙った。安堵したのも束の間、今度は「殺して」とか細い声で呟くのみ。それだけしか言わないし、それしかしない。生きる意志が欠けている。その後に抱きしめても、抱き返そうとはしないのだ。少女はされるがままに、俺の治療と世話を受けていた。
包帯を取り替える時間になると、彼女はぬいぐるみを抱きしめながら薄い毛布に包まって怯えるようになった。目が見えていないことなど、この時は分かってさえいなかったが。それでも、包帯を取り替えた後はどこか嬉しそうな顔を見せるようになった。
一度だけ、彼女に刃物を渡したらどうなるだろうか、と考えたことがある。まだ夜明け前のことだった。燈台の一階に、聖堂のような広間(ホール)があり、そこには古びた鋏があった。祭壇のようなところの上に、一つだけ。暗闇の中、キラリと光っていたそれを、少女に渡そうと思っていた。目的は一つ、彼女を自害させる為。生きる意志がないならば、彼女は喜んで死のうとするだろう。何処を刺しても、遅かれ早かれ血を流して死ぬのだ。狂ったような笑いが止まらない。漸くこの悪夢が終わりを迎える、その事実だけが俺を支えていた。
朝になって、やっと彼女に鋏を渡すことができた。困惑した様子を暫く見せた後、少女は左目に鋏を刺し、叫んだ。弱々しい灯りに照らされた白の中には紅い水たまりが出来ていた。
「やめろ、やめるんだ‼︎」
鋏を取り上げようとすれば、彼女は酷く暴れた。何を掻き出しているのかは想像がつく。左目だ。シーツを血で汚し、泣き叫ぶ少女の姿が嫌でも見えてしまう。鎮痛剤と睡眠薬を打ち、漸く大人しくなった時、まるで人形のように彼女は動かなくなった。汚く掻き出されようとしていた左目は無理矢理摘出し、もう二度と開けないように縫い閉じておいた。見る、という行為をこの上なく否定して、冒涜するかのように。彼女にはこの時から包帯が増えてしまったのだ。
綺麗なまま死ねれば良かったのに。そうしたら、人形のように愛でて、飾ってやれたのに。自分で殺せるだけの勇気さえあれば。そう思いながら、俺は血のついた鋏を一階の床に投げ捨てた。
両目は濃い血を固めたような紅。そんな言葉が当て嵌まる彼女は、前にもまして怯えるようになってしまった。口数も少なくなり、まるで俺のことを拒んでいるようだった。何度抱きしめようと反応は変わらないし、『また』前のように優しく接しても、小さな声で辿々しく「ありがとう」と返ってくるだけ。それでも彼女がいつか心を開いてくれると、俺は信じていた。
生きる意志が存在しない彼女を生かしておく意味はあるのだろうか。彼女が喜びそうな服や靴も用意しているのに。そう思いながら俺は、少女の為に食事を用意しに行った。
相変わらず彼女は呆としている。口を開けさせ、匙の中の味気ない粥を食べさせると、少しだけ咀嚼し始めた。
「もっと、要るか?」
と聞くと、少し頷いている。約一時間かけて、少女は漸く久方ぶりの食事を終えた。
食事を終えた彼女はすぐさまベッドに横たわり、眠ってしまった。ティラノサウルスのぬいぐるみを抱きしめたまま、全身に包帯を纏っただけの姿で。薄い毛布をかけても、震えが止まることはない。寒いのかと思いきや、何か別の理由があるようだが、うめき声を時々出すくらいで、ついぞ聞くことはかなわなかった。少なくとも苦しんでいることは分かるのだが。
起きた時、やっと彼女が口を開いた。
「怖い……」
「お前は何が怖いんだ。何に怯えているんだ。言ってご覧?」
「………」
最早会話にさえならなかった。数分の間、二人の間には沈黙が流れていた。少女の目からは涙が一筋流れている。よく見ると、縫い閉じた筈の左目からも。包帯は少しだが、乾いた血が付いている。これが彼女の苦しみだというのだろうか。
まるで熱病のようなそれを掬い上げることが、今の自分には難しいと感じている。壊れてしまいそうな彼女を抱きしめることは出来ても、だ。熱病は身体を蝕む割に、その熱で己を護る役割もある。だからだろうか、彼女は熱を心地良いものにする包帯を好いている。そして、飽和した熱は他者の温もりを消し去ってしまう。病人を護る為だけに、他者との紲を否定するのだ。
彼女の怪我は深い。縫い閉じたとしても完全には治ることはなく、完治には長い時間が必要となるだろう。彼女にとっては冷たい暗闇や孤独さえ、居心地よく感じられるのだろうか。目が見えないからこそ孤独を避けた方がいいのだが。
一階に降りると、そこには天国と言って差し支えない光景が広がっていた。沢山の色ガラスが、陽光とともに美しい光景を生み出している。これを、この夢のように朧な彼女に見せられたなら。
「そう、これは夢なんだ……」
改訂版プロローグいきます
その少女は、か弱い自分の胎から何かを産み落としたのだ、と途切れ途切れの言葉でそう言った。全身を包帯で巻かれ、歩くことさえままならない彼女は確かにそう語ったのだ。一つのモノが二つになるように。けれどもソイツに祝福を送ることはしなかった。べしゃり、そんな風に生まれたと、彼女は言った。産み落としたのは、自分の出来損ないだった。幼い頃の自分とよく似ているのだという。何一つとして映さない瞳、薄水色の短い髪。痩せ気味のもちもちとした白い肌。自分と同じようにドレスを着せられるのだろう、あの子も女の子だからきっと喜ぶよね、と彼女は無邪気にはしゃいでいたのを俺はよく覚えている。少ない言葉で無理をしながらも、彼女は確かに喜んでいた。
残念だが、外のソイツはお前の思い通りにはならない。そもそも、元はお前だったのだとしても性格や嗜好まで同じとは限らない。微妙に似通っている点はあるが、ところどころズレているからだ。そもそも、目の前の彼女がソイツを産み落としたのは、お前という役割を外の、何も知らない方に押し付ける為だろう。お前が引っ込んだのも、種々の柵から傷ついた自分が逃げる為ではなかったのか。我が身可愛さから産まれたソイツの名前は外の俺が既に付けていて、ソイツには昔の記憶がない。ソレを伝えると、彼女はにんまり笑って、たった一言、
「よかった……」とだけ呟いた。
彼女が数日前に血塗れで倒れていた理由の一端は僅かに掴みとれた。ボロボロの服を着て、特に下腹の辺りが一番酷かったのをよく覚えている。服は黒いワンピースだろうか、白いフリルで縁取られていたが、紅く染まりつつある。靴は何の飾りもなければ踵も低い茶色い革靴で、靴下の一つも履いていない。目は閉じているが、下腹や尻の辺りまで届くであろう薄水色の長い髪は、血溜まりの中で紅く沈み込もうとしていた。触れると、ピクッと痙攣にも似たような動きをする。つまり、彼女は辛うじて生きてはいるのだ。俺は目の前の燈台の医務室に彼女を運び込み、出来うる限りの治療を施した。医務室の中は使われた形跡が一切なく、薬棚や抽斗の中のものも全て新品だった。パーティションの先にある、少し古いデザインのベッドも使われた形跡はない。冷蔵庫にたった一つだけある輸血パックも、点滴の予備も、全て触れられた形跡すらない。
手術台に乗せられた少女は、目を覚ますことはない。俺は万一のことを考え、彼女を裸に剥き、手足をベルトで拘束した。傷そのものは膿みかけているものもあり、壊死しようとしているものさえある。ソレらが大半だが、俺は下腹の方に目がいっていた。出血が止まっていないのだ。このまま彼女が死に絶えるのも時間の問題だろう。躰が温かい内に、早く手術を済ませる必要があった。
怖いぐらい静かに裂け目を縫い閉じてしまえた。紅い水溜りは流れが止まったのか、銅色に乾くのも時間の問題だろう。輸血を済ませ、彼女の呼吸は僅かに安定したが、まだ予断を許さない状況だった。タオルで血を拭き取るが、出血の量が多すぎるのかすぐ真っ白なソレが紅く染まってしまう。数枚使い、漸く血が止まったところで傷口に蛆を這わせてやる。ソレらを保護する為に、或いは彼女を包んでやる為に包帯を巻いてやった。そうして今のミイラのような彼女が出来上がった。薄水色の長い髪が見えるので、完全なミイラとは言い難いが。手術の際もそうだったが、彼女は決して目覚めようとはしない。無理矢理起こそうとしてもソレは同じ。
三階にある病室に彼女の躰を運び込み、点滴を腕に刺すことで様子を見ることにした。ソレが二、三日だけであればまだ良かった。狭い、殺風景という言葉が似合う病室に赴く度、彼女が起きている可能性を信じてしまったのだ。点滴を取り換えに来た時も、躰を拭きに来た時も。何日も意識が戻らないのだ。荒唐無稽な妄想をするならば、彼女は目覚めようという意思がないというよりも、意識の更に内側にある暗闇の中に逃げ込んで、誰も彼もを拒んでいるのだろうか。起きるのが怖いから起きられない。殻の中が安全だから、出ようとはしないのだ。元より躰が小さく痩せ気味な彼女のことだ、あの量の出血でこうして生きていられること自体が奇跡だろう。結局その日は、彼女が寂しくないようにとティラノサウルスのぬいぐるみをベッドの上に置き、俺は殺風景な部屋に戻ることにした。
錆びついた昇降機(エレベーター)で一階に降りた時、開きっぱなしの扉を見つけてしまった。その中には黒い塗装がされた鉄の、シンプルなベッドと一つの木の椅子、それと円いテーブルがある。俺はベッドの中を見るなり、すぐに悲鳴をあげた。確かに在ったのだ、まだ温もりが。あの幼い少女が、もう一人の自分を産み落とした形跡が。茶色く乾いた大きな血溜まりがシーツを汚している。今から思い返せば、彼女が言ったことは全て真実だったのだ。部屋の広さは明らかに異次元空間そのもので、鏡のように磨かれた大理石の床にも赤黒い血溜まりが出来ていて、紅く濡れた細い臍の緒が地面に落ちていた。
壁の方に目を向けると、沢山の人形が椅子に座っているのが目に入る。数十、数百もの彼女達は、裸という訳ではなく、皆が皆煌びやかなドレスを着ている。だが、体型そのものは皆外の世界にいるような子どもばかりであり、大きさもそっくりそのまま本物の子どもだった。硝子の目玉が一斉にこちらを向いているが、敵意はないように感じられる。後にコイツらを利用する俺にとって、今の彼女達は不気味な奴らだと思えたが、動かないし喋らないのならその身を好きにしていいのだろう。文字通りの意味で。寧ろこの燈台の主が傷つき、眠っている今、ドス黒い何かをぶつけるにはもってこいだった。もし、彼女達に意思があるのなら俺を怖がるのは明白だろう。ベッドに押し倒し、紅い目で彼女達の白い肌を見つめ、本物の人間ではないにしろ小さな躰を弄ぶ俺は、獲物を喰らう狼のように見えるのかもしれない。少なくとも、ある意味ではそうだろう。ああ、そうだ。やろうと思えばアイツもこうすることが出来る。だが、折角這わせた蛆を潰したくないのと、死なせる訳にはいかないということもあり、この部屋にいる人形達に代わりを務めて貰うしかなかったのだ。少なくとも、暫くの間はソレでいい。
生きる意思が丸ごと欠けているあの少女が目を覚ましたのは、燈台に運び込んで一週間経った頃だった。彼女の眼の色を初めて見たが、自分よりも美しい紅。だが、その紅は血のような生々しいものではなく、寧ろルビーのように妖しく煌めく類のものだった。
「痛い、痛いよ……」
ベッドの上に横たわる彼女は沈みそうな声でそう言った。暗闇の中で時折もぞもぞと動きながら、静かに泣いている。ビクビクと何かに怯え、大きなぬいぐるみに助けを求めるかのように手を伸ばし、息を荒くしていた。眼前にいる俺を見るなり小さな悲鳴をあげるが、躰の痛みなどが絡んでいるからか、逃げようとはしない。そもそも今の彼女は抵抗さえ出来ない。
「おはよう……。いい子にしてたか……?治療の時間だ……、入るぞ」
泣いている彼女の包帯を剥ぎ取り、新しく真っ白な方に取り替えてやる。序でに空になりかけた点滴も取り換えたし、新しい蛆を躰中に這わせた。彼女は暗闇の中でも分かるくらい幼い体つきをしている一方で、その様は艶かしく感じられてしまう。見たところ背は低いながらも、小さな胸に、痩せ気味ではあるが人形のような細い手足。泣き顔さえ可愛らしく感じられてしまう。話しかけても泣いてばかりで返事をしてはくれないが、今はソレで良かった。彼女が仮に死にたいと思っていたのだとしても、俺はお前に生きて欲しいと思っている。お前の話を沢山聞かせて欲しい。それ以外にも理由は沢山あるが、大半が悍ましい欲望でもあるからか、今はこれくらいに留めておく。去り際に白いアザラシのぬいぐるみを枕元に置いてやると、彼女は漸く泣き止み、ソイツに顔を埋めるようになった。
まだ行っていない地下へ降りていくと、俺の目の前に一枚の扉が現れた。古びた、鉄格子が小さく開けられた小窓の中に嵌められたソレを開けると、殺風景な古い部屋に出た。鍵が掛かっていないこと、少し前までは使われた形跡があることから、本来この部屋は名も知れぬあの少女の部屋ではないだろうか。試しに衣装箪笥を開けてみると、ハンガーにはよそ行きと思われる、淡い水色のフリルのワンピースに紺色のケープ、シースルーの白いブラウス、黒いリボンつきのワンピース、クリップには藍色の吊りスカートが留められ、抽斗の方にはフリルがたっぷりついた下着や靴下、ストッキングやシンプルなガーターベルトらしきものが入っていた。カラーボックス大の簡素な書棚には、二、三冊の埃を被った本と、空っぽの小さなビンがある。ラベルは貼られていない。ということはインテリアの一種だろう。と、この時の俺は早合点していた。
昼も夜もないこの世界の燈台で何日も彼女の介護を続けるうちに、俺はある部屋を見つけてしまった。燈台の入り口を入ってすぐのところに、教会や礼拝堂を思わせる部屋があるのだ。聖画ではなく、無造作に図形を組み合わせただけの大きなステンドグラスが部屋全体を照らすそこに、長椅子は何故か存在しない。祭壇は存在するが十字架はない。パイプオルガンがないのはまだマシだろう。そのうちくすんだ石の床を歩いていくと、祭壇の上にキラリと光るモノを見つけた。古びた銀色の鋏だ。刃が錆びついていて、無駄な装飾は一切ない。床屋などで使われるような鋏だった。何故ここにあるのかは分からない。少なくとも切れ味は悪そうだが、何かに使うことは出来るだろう。俺はあの部屋に鋏を持ち帰り、空っぽの書棚にことり、と置いた。
世話をして気づいたことだが、彼女は生きる意思が希薄だった。その上、痛みに耐えているからか、俺以上に口数が少ない。人形のような見た目も相まってか、暗闇の中で光る紅い眼は却って不気味だった。その上いつも泣いているか眠っているかで、笑っているところなど見たことがない。俺に怯えているというのもあるのだろうか。何も言わない時さえあるからか、彼女については分からないことが多過ぎる。缶詰の粥を食べさせようと持ってきた時でさえ、最初は食べることを拒んでいた。ひと匙ずつ木のスプーンで掬ってやっても、粥が冷めかけようとも首を横に振るばかりだったのだ。
「食わないとお前が死ぬんだぞ⁈」
強い調子で言ったからか、それとも怯えているが故か、彼女は漸く口を開けて粥を少しずつ食べるようになった。そのあとペットボトルの水を差し出し、少しだけ口を付けると、彼女はまたアザラシのぬいぐるみに顔を埋めながら眠ってしまった。水色の前髪をかきあげて垣間見たその寝顔は、ほんの少しだけ嬉しそうな顔を浮かべている。変わらず涙を流してはいたが。
部屋に戻った俺はベッドに寝転がり、まるで胎児のようにしてシーツに大きな躰を埋めた。そんな時、さりげなく紅い眼が棚の上にある鋏を捉える。ああ、そうか。コレはお前の為のモノだったのか。お前、死にたいのか。彼女が死にたがっているのなら、望みを叶えてやらなければならない。本来なら死なせてはいけない筈だが、彼女は死を望んでいる。震える手で俺は鋏を掴み取り、そのまま病室へと向かった。マントの中には万が一の時のために鎮痛剤と睡眠薬を隠してある。彼女が自害に失敗した時、打ち込むのだ。その場合、殺しはしない。寧ろ、俺の為だけに生きて貰うから、無理にでも生かしてやるつもりだ。そう思うと、涙と同時に狂った笑いが止まらなくなる。嫌だ、嫌だ。あの子が死ぬのは嫌だ。あの子が死ぬのを見るのはもっと嫌だ。そんな感情を掻き消そうとするかのように、或いは彼女を死なせるという事実から逃げるかのように、俺は部屋を出るまで笑い続けていた。
「邪魔、するぞ……?」
扉を開けると、いつものように布団に包まりながらアザラシのぬいぐるみに顔を埋めている少女がこちらを見る。変わらず点滴はついたまま、だが、珍しく泣いてはいない。無表情のまま、呆っとこちらを見つめている。包帯を持っていないことには気づいているのだろうか。だが、気の所為かほんの僅かに目が輝きを帯びている。まさか、俺のしていることは正しいことだとでもいうのか。
「……ソレ、何?」
「コレは……、お前のモノだ。お前が死にたいなら、俺は、止めない……」
「殺しては、くれないの……?」
「殺せない……。だから……、コイツで……」
鋏を渡すと、彼女は静かに受け取った。その顔は少しだけ嬉しそうで、見ているこちらは思わず泣きそうになってしまう。本来なら殴ってでも止める必要があるのだろう。去り際、俺は、
「死ぬ前に一つ聞かせて欲しい……。何故、そうまでして死のうと思うんだ……?」
と、問うた。
「…………」
少女は何も答えようとはしない。答えることさえ億劫なのか、それとも答えられない程深い理由があるのか。
「もういい、好きにしろ……」
部屋を出てから二、三分は経っただろうか、耳を劈くような悲鳴と泣き声が聞こえた。急いで病室のドアを開けると、シーツの上には血溜まりが出来ていた。包帯は紅く染まっている。俺は急いで小さな手から鋏を取り上げ、隠していた鎮痛剤を打ち込んだ。か細い腕に。そのまま彼女は動かなくなり、ぐったりとベッドの上に倒れてしまった。この時、俺の中ではある意味で安心感が芽生えていた。血を流しつつも、生きてはいるからだ。彼女はそのまま目を閉じ、俺にその身を委ねた。
医務室で少女の潰れた目を摘出し、瞼を縫い閉じてやる。そこにはふわふわとした真っ白な包帯を巻いてやり、俺の目の前に座らせる。診察用の椅子だが、普通の椅子よりかはマシだろう。序でに汚れた包帯も全て取り換えておいた。眩しさ故か、彼女は椅子に座ったまま目を覚ました。俺と向かい合った彼女は、震えることもなく、ただ肘掛けに肘を乗せたまま片方の眼でこちらを見ていた。
「気分はどうだ……?」
「………ふわふわしてる」
「?」
「……あったかいの」
「お前、何を……」
「怪我、してるから……。あったかいまま……」
気づいてしまった。彼女の怪我は、自身の状態を更に悪化させている。心地良さの奴隷になっていると言っていい。やめてくれ、そんな言葉聞きたくない。今すぐにでも耳を塞ぎたかった。だが、そうすることが出来ない。相反する感情が余りにも邪魔だというのに、ソレを押し退けることが出来なかった。いつの間にか俺は泣いていた。眼を手で押さえながら。本当なら今すぐ彼女を簡素な診察台でいいから寝かせてやるべきなのだろう。あの寝台の上には膝掛け用の毛布がある。今までの彼女ならば痛みに泣き叫んでいた筈だ。だが、今は違う。ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
俺は少女を抱きかかえ、病室に戻してやった。歩くことはまだ出来ない。起き上がることさえやっとの怪我人だから。シーツを取り換え、またいつものように腕には点滴を刺してやる。白い布団をかければ、また寝息を立てる筈だが、今回は少し勝手が違うようだ。
「また、来るからな……」
俺の言葉に応えるように、口元だけは僅かに緩んでいた。嬉しいのだろうか。
一階の聖堂に赴くと、何故か祭壇は無くなり、代わりに椅子が三脚用意されていた。木製の、お世辞にも豪華とはいえないソレは、全て俺の方を向いている。つまり、コレは……。
「夢だというなら、幸せになれるだろうか」