タイトルのイメージ

←前の話
次の話→
ほかほかとした温かな肌に肌着を着け、ともすればゆったりとしたワンピースのようにしか見えない寝間着(ネグリジェ)を着たこゆきは、ブランと一緒にレナータの部屋へとやってきた。昼間よりも明るく温かな灯りが点いているその部屋は、変わったぬいぐるみが部屋中に散らばっている。壁際には三つの本棚があり、真ん中の本棚には蝶番が取り付けられていた。動かしてみようとすると、本が沢山入っているからか、それとも木で出来ているからなのか、思いの外重たく感じられる。その中には、アルファベットだらけで何が書いてあるのか分からない難しい本ばかり並んでいた。ブランは適当な本を一冊取り出すと、クロやぬいぐるみ達と一緒に本を読んでいるレナータのところへ見せにいった。カラフルで柔らかな色合いの、可愛らしいぬいぐるみ達が相変わらずベッドの上に転がっている。少女が頭の上に兎を乗せているのはいつものことだが、彼女はモササウルスのぬいぐるみに寄りかかりながら、座って本を読んでいた。枕の隣には企鵝と鯨、フタバスズキリュウのぬいぐるみがあり、マンボウやメンダコ、海月、甚兵衛鮫、河豚といった魚のぬいぐるみはベッドに散らばっていた。中にはタオルケットがかかったままになっている亀のぬいぐるみや、クリオネ、ダイオウグソクムシ、更にはリュウグウノツカイといった変わり種もいた。一人の小さな少女が眠るにはとても大きなそのベッドの造りや素材は豪華な一方で、天井から下がっている天蓋らしきカーテンは透き通っていて涼しげに感じられる。余計な飾りが一切ないからか、彼女はこの天蓋に文句一つ言わなかった。レナータ自身は水色のナイトキャップを被り、丈の短いオフショルダーの寝間着を着ていて、その上に薄手のマリンブルーのガウンを羽織っている。ひょっとしたら膝の辺りまである長い髪は下ろしていて、シーツの上に垂れ下がっていた。彼女はどう見ても女の子なのに、男の子のように喋る。寝間着を全て水色で揃えているのもソレが理由なのだろう。尤も、寝間着そのものはリボンやフリルで彩られ、リボンの先には小さな黄色いお星さまの飾りが付いている辺り、男の子という感じは全くしないのだが。彼女が読んでいる本を覗き込んでみると、中身は文字ばかりで挿絵が何処のページにもない。
「レナータ、何を読んでるでーすか?」
「……緋文字、だよ。まだ読み始めたばっかり」
聞いたことのないタイトルの本だ。難しい本なのだろうか。
「この『A』がどんな意味か、ブランには分かる……?」
「ブラン、難しいことわかんないクル」
「分からないなら、別にいい……」
そう言うと、レナータはまた読書に戻っていってしまった。声色からは少し悲しそうな、呆れのような気持ちを感じる。ほんの僅かだが、眠気まで感じ取れてしまった。
こゆきは時計の針が進むのを見つめているようだった。ベッドの上に座って、薄青の河豚のぬいぐるみを撫でながら。ソレを撫でているうちに、二つの針は一番上まで来ようとしている。そして、円の真上まで針が来た時、部屋の入り口にほど近い壁にある大きな時計の鐘が鳴った。丑三つ時という訳ではないが、こゆきはとても眠そうにしている。ブランも眠い。このままでは飛んだまま眠ってしまいそうだ。彼女は急いでブランを抱え、
「おやすみ、レナータ」
と言うと、水色の少女の部屋を後にした。
ドアを開けた後、ブランとこゆきは冷たい廊下に出た。一部屋分歩いた先の白いドアの向こうがこゆきの部屋だ。彼女と一緒に、こざっぱりした部屋に戻った時、部屋の殆どが暗く、サイドテーブルにある小さなランプだけが点いていた。変わらず、ひつじのぬいぐるみは白く、飾り気のない枕の隣にある。そんな枕元を、外の世界ではもう見かけなくなった黄昏色の光が優しく照らしている。
「おやすみ、ブラン」
「こゆき、おやすみでクル」
こちらに優しい笑みを向けると、彼女はランプのスイッチを切り、分厚い布団の中に入って身体を横たえた。
眩しくはない。只、痛いだけだ。それも声に出さずに堪えられる痛みが続いているときた。手足を柔らかいもので縛られている割に、引き千切ることさえ叶わない。藍色の眼はいつもの調子で怒りを見せる前に、再び閉じようとしていた。何故私はここにいる。何故こんな風に縛られている。まるで人形ではないか。誰がこんなことをするのか。そもそも私を生かしておいて意味などあるのか。数多のことを問いたい。私の四肢を壁に縛り付け、安らかな眠りさえ赦そうとしない者に。
漸く意識がはっきりしてきたのか、首を捻って辺りを見回すことが少しだけ出来るようになった。どうも周りは包帯のようなもので包まれているらしい。床を見ると薄汚れた布がカーボンのような黒い床の上に敷き詰められているのを見た。その下には床の隙間が僅かに見えるが、そこには升目のような線が見える。御影石のタイルだろうか。照明らしきものは、天井らしき場所を見上げても見つからない。ここまで広範囲に照らせる辺り、余程大きな光源なのだろう。にも拘らず、紅の光が辺りを満たしている。血を思わせるようで、とても好きな色だというのに、この生温かく脈打つ腑のような不気味さは、思わず目を逸らしたくなる程だった。少しして、小さな足音に相応しい、可愛らしくも落ち着き払った音が聞こえてきた。最初のうちは小さく、こちらに近づくにつれてどんどん大きくなっていく。そうして、紅い闇の中から出てきたのは、見覚えのある少女の姿。薄灰色の髪はそのまま、いや、後ろ髪が少し伸びており、跳ねた毛にあたる部分が藤色のリボンで小さく結ばれている。着ている暗紫色のワンピースは、フリルと腰の黒い革のベルトで飾られ、足にはベルトと同じような素材と色合いのブーツを履いていた。一見すると、都内を普通に歩いていそうな容姿だが、左目を始めとして身体中を覆っている包帯が示すかの如く、『ありきたり』という言葉が似合わない。私とはまた違う、藍色の眼の中には深淵と呼べる程の闇が広がっていた。まるでかつての私のようではないか。いや、私以上だろうか。目の前の少女が纏う狂気が、彼女以上に大きなこの身を呑み込んでいく。
「お目覚めかい?おはよう、兄さん」
性差を感じられない程理性的な声で、彼女はにこやかに口を開いた。少女でありながら、少年のようでもある可愛らしい声がこちらに近づいてくる。口は明らかに笑っているが、ソレは悦んでいるのでも愉しんでいるのでもない。吐き気を催す程気持ちが悪く、牙がないことを除けばかつての私によく似たその笑顔。幼くしてここまで狂える人間もそうはいない。私はこんな奴に呑まれるというのか。
「お前は誰だ‼︎誰なんだ‼︎」
「お前に名乗る名前なんてないから、好きに呼んでいいよ」
まるで私を嘲るかのような声色で、彼女はそう返した。耳を塞ぎたくなるくらいに、見下したようなその声。私はお前に隷属した覚えなどない。
「さて、兄さん。お前は何故ここにいるのか解るかい?」
「………ぐっ、理解出来るかそんなもの‼︎私を自ずから取り込む人間など聞いたことがないぞ‼︎それより、早くコイツを解け‼︎」
「口の利き方に気をつけた方がいいよ、兄さん。まあ、お前には解らないだろうから私が答えてあげるよ。お前がここにいるのは、私が必要としたから、だよ。正確には『表向きの私』が、だね」
「こゆきが⁈」
そう言って少女は私を縛っていた包帯を外し、か弱い少女とは思えない力ですぐそばにあったベッドへと投げ飛ばした。枕には当たらなかったものの、側にあったおばけのぬいぐるみに、無様にも鼻をぶつけてしまい、私は情けない呻き声をあげる。そのままベッドにやってきた彼女は、私を押し倒すような姿勢になり、私の首筋をなぞった。白くか細い女の子の手だが、私と同じ色の眼をこちらに向けているからか、恐ろしくて仕方ない。瞳の中に刻まれた逆十字は、天の光に目を背けた証であり、冥界の住人として迎えられた印でもある。それ程までに私と添い遂げたいとでもいうのか、酔狂な奴め。人間の女から見た愛という感情が、こうまでして壊れたものだとは思いもしなかった。
「お前、何を考えている……?」
「そうだね、その前にお前には言っておかねばならないことがある」
「………何だ」
「『こゆき』というのは、私にとって幾らでも替えの利く代物なんだよ。人間の世界で、女として生まれた以上そうせざるを得なかったという側面も無いわけではないが、私自身は性差というものが分からなくてね。お前と同じ性だったことさえある。長い間、魂だけが残って躯が転生を繰り返しているとね、私が誰だか分からなくなっていくんだ。今の躰はどれくらい保つのか分からないが、今暫くは『こゆき』の中に囚われていようかな。その方が何かと都合がいいからね」
「意味が、分からない……。妄想を語るな……‼︎」
「まだ分からないのか、兄さん。お前がこの目で見ているものだけが全てではないということだよ。お前がかつて私に見せたように、偽物など幾らでも作り出せるということさ。無論、手段は一つじゃない」
冷たい口調で彼女は嘯いた。それでいて、冷ややかな、呆れたような目でこちらを見ている。
「……覚えているというのか」
「そうだよ、『こゆき』が私と全ての感覚を共有しているからね。それに、ほんの上澄み程度とはいえ、彼女がいなければ、私という存在は成り立たない。お前を縛り付けて利用するには、ね。弱い部分が無ければ、お前は応じてはくれないだろう?聞き入れてはくれないだろう?私の力だけでは限界が来るだろうからね、いずれ」
「嘘を言うな‼︎現にこうして私を……」
「単純な力だけなら、それは真といえる。けどね、『こゆき』の愛が無ければ、お前はいずれ消えていただろう。ここに留まることも出来ずに、無念のうちに死を迎えていたかもしれない。彼女は、お前の血肉となることを望んでいるようだけど、私はそんなこと許さない。恐らく、彼女はお前にどんな形であれ生き延びて欲しかったんだろうね。結果として、『こゆき』も私もお前の力をいつでも、幾らでも借りられるようになった」
「……まさか‼︎」
ここへ来てほんの少しだけ思い出した。彼女が生きているという事実。それも、幾度も敵から逃げおおせたという、余りにやるせない事実。私は知らず知らずのうちに、彼女の身を生かしてしまったことを悔いる。認めたくないものだった。
「ありがとう、兄さん。『こゆき』を生かしてくれて。その力で救ってくれて」
「そんなことをした覚えはない‼︎今すぐ離せ‼︎その手をどけろ‼︎」
「嫌だね。まだしていないことがあるから。生きていた時、一度もしていなかったからね。ほら、あーんして?」
「なっ⁈」
そう言って、彼女は私の口の中に無理矢理小さな舌を捻じ込んできた。細い腕は私を慈しむかのように髪を撫で、濡れた舌を絡めていく。私が吐く息はどこか苦しめられている女が、痛みに耐えつつ快楽を覚えている時の喘ぎにも聞こえるが、逆に彼女の喘ぎは男が女を『可愛がって』いる時のように感じられた。それ程までに私を欲しているのか。この過ぎたる愛に、私はずっと縛られ続けることになるのか。
ほんの少しだが、大きく開いた襟の隙間から小さな胸が見える。年相応の、僅かに不揃いなそれの上には、白く薄い布が全く見えない。首には黒いリボンチョーカーを巻いているようだが、飾りとして錠前を付けている。それだけなら『そういう趣味』として片付けられよう。私が一瞬震えたのは、この錠前に彫られた意匠に見覚えがあったからだ。昔、こゆきを迎え入れた時に贈ったものと同じ、蝙蝠のレリーフ。眼前で私を愛でている少女は、本当にあの時のこゆきと同じなのだろうか。
「まだ受け容れられないんだね、可哀想に。お前が上澄みしか見ていないことが、これで証明されてしまったよ。悲しいなあ。その目は何の為に付いているんだい?兄さん」
舌を絡め終えた彼女はにんまりとしてそう言った。口からは透明な唾が糸を引いている。漸く終わったという安心感と共に、拘束を解かれた私はゆっくり躰を起こすと、お世辞にも豪華とはいえないベッドの上に腰を降ろした。
シンプルといえば聞こえはいいが、実のところは簡素をかっこよく言い換えただけだ。少なくとも、私とこゆきがいるベッドは家具屋にあるようなものにも、外の世界の病院にあるようなものにも見える。一人用にしては少々大き過ぎるだけはあり、もしかしたら私とこゆきが二人で寝られるかもしれない。マットレスはふかふか、というよりも敷布団をそのまま転用して白いシーツを被せただけのもので、その上には一人分の白い枕とこれまた白い薄手のタオルケットがある。この上に掛け布団や毛布があれば完璧なのだろう。だが、彼女はこれで充分なようだった。彼女はころりとベッドの上に寝転がっている。ブーツを脱ぎ、おばけのぬいぐるみを抱きしめながら。子供らしい表情でこちらを見ている。
「兄さんは信じないのかい?」
「何をだ?」
「私が只のヒトではないこと、だよ。少なくとも今の私はお前を飼い慣らしているからね」
「信じるも何も、信じざるを得ないだろう」
「お前が気づいたところでもう遅いよ。お前はこの繭の中に於いては籠の鳥なんだから」
抱いているぬいぐるみを時折もちもちと弄りながら、彼女は私の耳元で囁いた。つまり、今のこゆきは人間(ヒト)でありながら幽鬼(おに)モドキの躰を持っているということ。
「人間の分際で……。お前は私のキメラだとでも言いたいのか⁈」
「ある意味ではそうだね。これからはいつでもお前と意識を繋げられる。お前と一つになる日も遠くはないかもね。おやすみなさい、兄さん……」
私は心の底から彼女が憎いと感じた。だが、コイツの許にいる限り、逆らうことなど到底出来ないのだ。私を縛っている枷を噛み千切ることも、少女の躰を喰い破ることも。それどころか、現の世界で自由になるのは彼女が一度潰し、私が再生させた右目だけ。力も衰えた今、深い絶望へと叩き落とされたのだ。もうこれは嗤うしかなかろう。紲が持つ力というのはこうも恐ろしいものなのか。あれ程嫌っていたモノに、今度は自分が囚われてしまうとは。狂笑とともに涙が溢れ出てくる。これからは目の前の少女に盲従するしか生きる道はないのだ。そんな私の躰を、彼女は抱いていたぬいぐるみを放り投げ、優しく抱きしめた。発狂しているというのに優しく私の身をあやし、頬にキスまで贈る。彼女のことだ、私が物言わぬ躯になろうと愛し続けるのだろう。私はそのまま目を閉じた。
カーテンの隙間から優しい蜜柑色の光が溢れ出し、ブラン達を照らす。こゆきはまだ眠っているが、布団の中で羊のぬいぐるみを抱っこしながらにこにこと笑っていた。そんな時、ブランはこう叫ぶのだ。
「こゆきー、朝でクルー!」
どもッス!
こゆきちゃんのヤンデレっぷりがわかる回ッス
どんなに非道な奴でもガチの狂人には敵わないとオイラは思ってるッス
ちなみに今のこゆきちゃんは、兄さまをかなり弱体化させたような力の持ち主ッス
デジモン操るのだって時間制限あるし、直接の攻撃はナイフがメインだし
ブランのことは可愛がってるけど、兄さまはたまに鬱陶しいと思ってるッス
次回はプロローグ以来のバアルモン回ッス!
よろしくッス