タイトルのイメージ

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穏やかだが、どこか心の奥底に訴えかけてくるようなピアノの音が聴こえてくる。ブラン達が少し前に聴いた曲とはまた違うそれは、何かの祈りにもよく似ている。そのメロディの名前を、ブランは未だ知らない。外の世界にいた時は殆ど聴くことのなかったその音は、奏者である少女の小さな指先も相まって優しく感じられた。
血のように紅い目をした少女の傍らには、ピアノを弾く時でさえクロがいる。目が殆ど見えておらず、その上左目は幻視を使えるからとのことだが、そうとは思えない見事な演奏に、館の住人や使用人は勿論のこと、怪我人で居候のバージルでさえ聴き惚れていた。本人曰く、
「嫌でも聴こえてくるからな」とのことだが。レナータとこゆきが話す言葉はそれぞれ違う。だから言葉は通じない筈なのに、ピアノの音はどんな人の耳にも入ってくる。彼女のピアノを聴いたデジモンや人は涙を流し、拍手を送る。少女はただ当たり前のように、もっと言えば楽しいから弾いているだけなのに。何故だか悪いデジモンまでもが聴いている。言葉という複雑なものはその中にはない。滑らかに鍵盤を叩く小さな指を見ることは、今のブラン達には出来ない。古ぼけてこそいるが、まるで漆器のように黒く磨き上げられた、アップライトピアノの譜面台には楽譜の冊子が立てかけられており、彼女はそれのページを時折めくりながら一つの音を繋ぎ合わせていった。室内だというのに黒い革靴を履いた小さな足は、三つあるペダルを稀に踏みつつ動かないことの方が多かった。茶色の垂れ耳ウサギはレナータの頭の上にいて、彼女の目となっていた。
演奏を終えて数秒後に、その男はノックもせずに突然女の子の部屋に入ってきた。お友達のぬいぐるみやクッションがベッドやソファの上に沢山あり、難しい本が本棚の中にはぎっしり詰まっている。部屋の隅の、窓に近い場所にはピアノがある、そんな部屋に。
「素晴らしい演奏だった」
そう言って拍手を送る、懐かしくも冷たい声の男の顔は、ほんの少しだけ弛んでいる。
「あり、がと……。でも、ボクにはこれしか出来ない……。だから……」
目の前の少女は少し困ったような笑顔を見せている。頬はうっすらと赤みを帯びていた。口元は弛み、紅い目が優しく見える。発表会でも何でもないのに、彼女が着ている藍色のワンピースが妙にフォーマルな雰囲気を醸し出しているせいか、レナータの部屋はちょっとしたコンサートのようになっていた。彼女はピアノの椅子から降りると、ベッドにある海亀のぬいぐるみを抱えてソファーへと向かっていった。二人がけのそれには、ベッドと同じく天蓋が付いていて可愛らしく感じる一方で、ベッド以上に造りが豪華だと感じられる。というのも、ベッドの天蓋は元を正せばただの蚊帳だから。レナータはそのままちょこんと座ると、持っているぬいぐるみを撫で始めた。邪魔なぬいぐるみ達を床へ乱暴に投げ、隣に座る冷たい瞳の男。少女は怖がっているのか、目を合わせようとはしない。亀のぬいぐるみを抱っこしながら怯えた表情を見せている。
「おにい、ちゃん……?」
「レナータをそんな目で見ないでやってくれぬか?彼女は戦う力がない故、怒った顔が苦手なり」
「……そうか、済まない」
バージルは苦笑いしている。確かに少し怖い顔をしてはいたが、笑顔はルナやレナータ、こゆきとはまた違った穏やかさがあった。団子やエビフライのぬいぐるみと一緒に座っている怪我人の男が、幼い少女の隣にいるというシュールな光景に、こゆきもブランも思わず吹き出して笑ってしまった。
「な、何がおかしい⁈」
「だ、だって……」
「似合わないクル」
彼は顔を真っ赤にしながら部屋を後にした。乱暴に扉を閉めて。白い少女が驚き、
「大きい音、ボク、苦手……」
泣きそうな顔をした。
こゆきが二階のテラスから階段を下り、ブランもそれに続く。黒く細いリボンで小さく結ばれた髪が風で揺れ、辺りには落ち葉が舞う。赤や橙、黄色のそれらを見たブランは、
「秋でクル」
「そうだねー。こうして、落ち葉みたいに積もっていくんだね。私の思い出も、兄さまの言葉も全部、全部……」
こゆきはどことなく悲しそうな顔をしている。青く、どこまでも広がっている空を見つめ、丘に向かって歩き始めた。空はもう少しで夕方になりそうだ。その証拠に、ほんの少しだけ空に橙色が顔を出している。
こゆきは丘の上に座り、ブランを膝に乗せた。グレーのタイツに澄んだ水のように輝く黒い靴。それは後ろに小さなリボンの飾りが付いていて、可愛く見える。タイツは膝上までが精々で、太腿まで包み込むものではなかった。ガーターベルトで吊った方がずり落ちないのだが、当の本人はそれをしようとはしなかった。
「こゆき、寒くないでーすか?」
「……少し肌寒いな。コートを羽織ってくるべきだったか?」
レナータの部屋で無邪気にはしゃいでいた時とは違う、低く落ち着き払った声。男の子のようにも聞こえる声だ。わざと変えているようには聞こえない。ただ、切り替わりが不自然なだけなのだ。少し経つと、こゆきは歌い始めた。遠い遠い異国の、外の世界に昔から伝わる唄。澄んだ少女の声は丘を越えて、森の入り口まで響き渡っていった。数ヶ月前に兄さまから教えて貰ったというその唄は、妖精の唄なのだという。恋人との別れを告げている哀しい唄を、隣にいる少女はまるで思い出したかのように歌いあげているのだ。誰に聴かせる訳でもなく、自分自身に彼の存在を刻みつけるように。まるで呪いのように。この世にいない彼の魂を、鎖で縛り付けるかのように。憶えている歌詞を、こゆきに合わせて歌う。意味は分からないけど、合いの手を入れるように輪唱する。この丘には歌を盛り上げる為の楽器はない。二人の歌声だけが丘を支配しているのだ。観客は一人もいない。巣作りをせっせと進めている小鳥の囀りと、木々を揺らす風の音。それが、この丘にある全てだった。
「何故だろうな、たまにこうして歌いたくなるんだ」
歌い終わった彼女は微笑みながらそう言った。まるで兄さまの言葉を全て写したかのような口調。あの時から彼女はたまに、兄さまの真似をするようになった。大好きな兄さまを手放したくないのだ。例えこの世からいなくなったとしても。
夕陽が差し込む丘に、小さな少女の澄んだ歌声が響き渡る。かつて妖精が住まう地を捨てた先達の子孫である、俺の耳に入ったそれは、平和を願う唄でもあった。レコードラックの片隅に、埃を被りながら追いやられていたその唄の意味を、少女は知っているだろうか。
「忘れ去られた大義の為に、か……。下らん」
ピアノの上に飾られている、三つ編みで素朴な水色のドレスを着た青い眼の人形を横目で見遣り、俺はレナータの部屋を後にした。痛む足を引き摺りながら歩き、玄関の扉を開けると、そこには絵に描いたような長閑な秋の風景が広がっていた。
微風が俺の髪を優しく撫でていく。コートを着ずに出てきたから肌寒く感じられるが、目の前にある枯れかけの丘と見事な朱色の空を見た瞬間、それは少しだけ消えた。温かな色の空が俺の中にある何かに優しく触れたから。丘の上に寛ぐかのような姿勢で腰を下ろしている一人の少女と、小さなぬいぐるみのような生き物。彼女はどうやら必要に応じて耳を伸縮出来るようだった。その可愛らしい見た目に違わず戦いは苦手なようで、こゆきが専ら敵と戦う役目を担っている。それでも彼女は弱く、枝払いが精一杯のようだった。しかし、彼女には強力な、呪いのようにも見える武器があるのだという。ぱっと見そうは見えないが、彼女が死なずに済んだのもそのお陰なのだろう。
薄灰色の髪をした少女に近づくと、彼女はこちらに笑顔を向けた。年相応の無邪気な笑顔。俺達のようなつくりでありながら、それでいて日本人特有の幼さが抜けきらないような顔。ピアノの上にあった人形のように整ってはいるが、その顔はうっすらと影を帯びていた。ほんの僅かな隙間からちらりと覗く藍色の瞳からは、世の澱みや歪みを全て見てきたかのような諦念の情が感じられる。その奥底には、暗渠の中で蠢く黒いモノが見える。悪魔か何かだろうか。蜘蛛程の妖しさはなく、蝙蝠程の可愛らしさもない。鼠に喩えるには悍ましいとさえ感じられる何かが、憂いを帯びた右目の中で飢えた目をしながらこちらを見つめていた。
「少しよろしいかな?」
少女の声は先程とは違う、性差を感じることができない声になっている。彼女は懐から短刀を取り出した。白銀に光るそれは、刃が折り畳まれていて、彼女は慣れた手付きで俺の首筋をそれで撫でた。丁度一文字に描かれた紅い筋からは、少しずつ血が滴り落ち、彼女は幼い舌でそれを舐めとる。こちらから見たら正面だからだろうか、嫌でも顔がよく見える。まるで悪魔そのもののような、幼気ながらも妖しい目つき。何かに操られているかのようなぎこちなさ。舌先は紅く染まり、藍色の目は美しくも官能的な笑みを浮かべながらこちらを見ている。口のまわりについた血を全て舐め終えると、彼女は、
「生憎、今は牙が無いものでね。これで失礼するよ。……御馳走様でした、と」
目を瞑って手を合わせた。
こゆきと一緒に部屋へ戻ると、そこには少し豪華な備え付けの家具と、目を瞑った羊のぬいぐるみがあった。おしゃれな装飾がついたふかふかのベッドも、上等な木で出来た机と椅子も、四角い飾り気のない鏡も、のっぽのランプスタンドも、全てこの館のモノだ。使う人がいないから、少女が借りているだけのこと。彼女はベッドに座り、ぬいぐるみを抱きながら陽が落ちていく空を眺めている。
「もうじき、夜が始まる。兄さまが大好きだったあの時間が」
彼女はどこか楽しそうに呟いた。
陽が沈み切ろうとしていた時、階段を上ってくる足音がこちらに近づいてきた。昼間の人だ。ノックもせずに扉を開けて入ってきた彼は、
「どういうことだ……」
と、苦虫を噛み潰したような顔で一言だけ口にした。
「どうって、兄さまが喜ぶんですよ。兄さまは人間の血が大好きでしたから」
少女は迷うことなく答えた。にこにこと屈託のない笑顔で。
「何故、そうまでして言い切れる……?お前の妄信かもしれないというのに」
「大好きな兄さまが、私の中にいるからです」
彼女が言い終えると、男はハッとした表情を見せた。彼女の身に何が起きているのか、ある程度理解出来てしまったのだろうか。少しだけ腑に落ちた、という顔をしている。彼は、少し考え込んだ後、
「お前はいずれソイツに呑まれるかもしれんぞ。それでもいいのか?」
「いいんですよ、兄さまの血肉になれるなら……」
彼は一瞬驚いた表情を見せた後、
「……今からでも遅くはない。考え直せ」
元の冷たい顔に戻り、出て行った。
時計の鐘が六回鳴り、辺りはすっかり暗くなっていた。ベッドの上で変わらず寛ぐこゆきは、リュックサックの中から一冊の本を取り出すと、ページをパラパラとめくり、栞を抜き取った。ブックカバーは黄緑色のキルトで出来ていて、触ると中に綿が入っているからか、柔らかい。栞には鈴蘭の押し花がある。ブランは字を読むことが出来ないけれど、少女が楽しそうな顔をしていることは理解できた。
「もう少し、私が生き永らえたらな……」
柔らかな山吹色の灯りの中で、少女は一人呟いた。
どもッス
デジモンサヴァイブの曲と似たような曲をイメージしたオイラッス!
兄さまがこゆきちゃんに教えた曲は、スカボローフェアッス(本文中にヒントが一つだけある)
兄さまは無駄に美声ッスから、こゆきちゃん達も聞き惚れてたのかもしれないッスね
それではまた!