大人は青春を隅々まで色鮮やかなものかの様に言うけれど、きっとそう言う人はさぞ楽しい青春をすごしたのだろう。
一方の私は図書室で、なんの本を借りるでもなく読むでもなくかれこれ二時間は持ち込みの参考書とノートに向き合って受験勉強に励む灰色の青春を送っている。
最早私自身、これが何の為の勉強なのかはもうよくわからない。
父は大学に絶対に行くべきと言う。きっとそれはそうなのだろう、でも、行きたいかといえば私にはよくわからない。
行った方がいいらしいから行きたいのかもしれない。父の気持ちを裏切りたくもない。そんな程度で私は受験勉強をしている。
そういうことを漏らすと、大学にも行けない人がいると言ってくるお優しい人もいるが、では大学っていうのは同情なんかで行くべきなのだろうかと思ってしまう。
そんなだから入りたい大学ややりたいことも特に思い当たらない。物心ついた頃には景気は沈んでいて、さらに沈んでいくばかりだから、あんまり大きなやりたいことは実現するイメージもできない。
イメージする成功例は、動画とかで見る、好きでもないけど安定した職を持ちながら趣味も楽しんでいる様な人達で、好きなことを職にとかして生きていけるイメージも湧かない。
とはいえ、私自身で考えると大した趣味もない。無料のネットテレビを惰性で見るのがせいぜいで、それも大して好きでもないからやりたくない受験勉強なんて惰性でする暇がある。
未来に希望もなくモノトーンの青春を送っていく。大人達の言うように学生時代が一番楽しいと言うならば、これからの未来は無限の苦痛だろう。
恵まれてないと嘆ける程馬鹿じゃないけど、恵まれてると思える程阿呆でもない。
何もできない危機感を抱きながら、膨大な選択肢から絞り込む方法もわからなくてなにもせずに燻って、今は受験勉強を言い訳にしている。
私には、私のやりたいことも私のこれからも何もわからない。
何をやってもうまくいくイメージがない。間違えたらもうやり直せない気がする。そんなことを思っていて受験勉強だってまともに進む訳もない。ついでに言うと最近は細かい物も何かとなくしがちだ。
私は何をどうすればいいのだろう。夢を語ったり先を見据えるクラスメイトが
二時間睨めっこしたノートに書かれた文字は片手ですっぽり覆い隠せる程度しかない。
「そろそろ図書室閉めるから、出てもらっていいですかー」
カウンターに座った図書委員の男子がそう声をかけてくる。その隣に座った女子とふと目が合うと、その子は何故か微笑んだ。
私は、なんだかその瞬間、さらに空虚な気持ちになって、はぁと一つため息を吐いて荷物を片付け始めた。
その直後、何か目眩に襲われた様な感覚に陥った。
ふと、足元を見ると窓から差し込む夕陽に照らし出される位置に影ができていた。
一瞬よくわからなかったものの、反対方向にも自分の影があることに気づいて、影だと思っていたものが影でないのに気がついた。
その黒いものは、赤い目をぱちぱちぱちぱちと何個も何個も瞬きさせると、ぐにゃりと歪んで嗤った。
「「あ、はは、は、ははは、はは、は」」
奇妙に途切れた、私の声と重なった悍ましい声でそれは笑う。いや、私の口も影が動くと一緒に動いているのだ。
私の様子に気づいてか、女子の図書委員が寄ってくる。
助けても、近寄っちゃいけないも、私の口からは出てこない。黙って筆箱の中に手を入れると、カッターナイフを掴んだ。
「「これでいいか」」
「え?」
思わず私は目をつむった。自分の手が振り上げられ、彼女の顔の高さに振り下ろされたのも、なにかに突き刺さった様な何かに受け止められた様な、しっかりと加えた力に反発する力を感じた。
静寂の中、そーっと目を開ける。
すると、彼女は耳の辺りまで裂けた口に並べた肉食獣の様な歯でカッターナイフを受け止めていた。
がり、ばりっ、ぼりがぎっ、とすごい音を立てながらカッターナイフを噛み砕き、彼女は取り出したティッシュの上に吐き出した。
「ごめんね、小城くん。カッターは買って返すから」
ふと、足元を見ると影じゃない影がすっぽりと入るように赤黒い魔法陣の様なものが描かれ、中心からドロドロと床が溶けて何か黒い沼の様なものに変わっていく。
何が起きているのかもわからず、なにか自分の口から罵詈雑言も飛び出ていた気がするが、影ごと足から沼に沈んでいく。
「一緒に地獄に落ちてね」
足先が沼を突き抜けた感覚があった。そして、そのまま身体も沈んでいき、私は、ついにその沼の下に広がったどこかへと身体を投げ出された。
落下している、と認識すると私はあまりの恐怖に気絶した。
目が覚めると、そこは明るい暗闇だった。
空は闇、ただどこまでも抜ける様な感じではなく、低く重い黒雲に満たされた様な圧迫感があり、時折、稲妻が走るかの様に光の線が幾何学模様を描いたり、謎のキューブ状の物体が浮いていたりする。
地面はアスファルトの様な黒っぽい灰色をした土の地面。見る限り植物の様なものはなく、なだらかな丘なんかは見えるが起伏はあまり大きくない。
寂しくて息苦しくて、その丘の先を想像するだけでも足元が崩れそうな心地になった。
「気がついた?」
その声に立ち上がって振り返ると、図書委員の女子がそこに立っていて、そばには赤い光で縁取られた透明なピラミッドの中にさっきの影じゃない影が閉じ込められていた。
「君は、図書委員の……」
「黒木バニラ、二年生。小城くんとクラス一緒になったことはないから知らないよね」
彼女は長い茶髪を少し揺らしながら、茶色よりも赤に近い目で私を見つめた。
「私の名前はなんで……」
私の質問に彼女は少し面食らっている風だった。私もまずはこの光景なんかについてやさっきの裂けた口について聞くべきとは思わないでもないのだが、現実離れしすぎていてなんと中触れたくなかった。
「それは僕が図書委員だからだよ。それなりに利用してる人の顔と名前は大体覚えるよ」
なるほどと頷いて、私はどうすればいいのかわからなくなった。じゃあこれでと帰れそうな場所ではない。
「巻き込んでごめんね、小城くん。アイズモンは陰に潜むデジモンだから……宿主が死ぬって状況に追い込まないと離れないんだよね……」
ピラミッドの中では目玉や鋭い歯列を浮かばせた影じゃない影が、液体の様な身体で拘束から逃れようと暴れていた。
「黒木さんはそういうのをいつも退治してこんなところに……地獄だっけ? に運んでいるの?」
「まぁ、そうといえばそうかな。いつもは捕まえて、このピラミッドに入れて、あの魔法陣にポイってする形。基本的には私も生まれてからこっちに来たことないよ」
「あ、そうなんだ……」
「でも、小城くん巻き込んじゃったからね。帰れるとこまで送らなきゃ」
「あ、帰る方法はわかってるんだ」
「生まれてからは来てないけど、生まれる前には来てるからね」
彼女の言葉に首を傾げていると、黒木さんはパッと私の手を取って、ピラミッドを持ってさくさくと歩き始めた。
私にはどっちを向いても同じに見えるけれど、彼女にとっては違うらしい。
「そういえばね、さっきは地獄って言ったけど、多分小城くんの思う地獄とは結構違うよ」
なだらかな丘を歩いていくと、突然、百メートル程行ったところに突然建物が現れる。遠くから見ていた時には建物どころか何もなかったはずなのに。
「じゃあここはどういうとこなの?」
その建物の前まで辿り着くと、私の鼻は知っている臭いをキャッチしたし、出ている看板にもひどく見覚えがあった。
「ダークエリアって私達は呼んでいる。罪人が輪廻転生する異世界。そして、この建物はエビカツが美味しいハンバーガーチェーン店」
鮮やかな赤いエル字と黄色い円の看板が、彩度の低い景色の中だと一際輝いて見える。
「ロッテリアだ……」
私は思わず呟いた。
「ダークエリアではロッテリアが主流なの」
そう言って、黒木さんは当たり前の様にロッテリアの中に入っていった。確かに、異世界なのかもしれない。
「いらっしゃいませー」
そこにいた店員は、人もいたが、明らかに人でない存在も働いていた。
私達は、エビバーガーとシェーキを買って自然に席についた。
窓の外は闇のまま、教科書が入ったエナメルバッグの様に影じゃない影が入った三角錐を脇に置いて、彼女はいちごミルク風のシェーキをずずっとすすった。
私はバニラシェーキを一口吸い、それが知ってる味なことに安堵しつつ、この光景の異様さとそれになんだか既に慣れつつあることを考えていた。
「人の姿で徒歩だと、元の世界に帰してくれる人……人? のとこまで何日か必要なので、ここからはちょっと私が犬みたいになって乗せてくんだけど、気にしないでね」
「……ごめん、気になるとこが多くてよくわからないよ。まず、なんで人かどうかで一回詰まったの……?」
「その相手が、アヌビモンっていうデジモンだから。アヌビスってわかる? ジャッカルの頭のエジプトの冥府の神。そんな感じの」
「そもそもデジモンもよくわからないし……」
「あぁ、それはね。まぁ化け物のジャンルだと思っとけばいいと思う」
妖怪とかUMAみたいなもの? と私がいうと、彼女はそうそうと笑った。
「あと、犬みたいになるってのは……」
「それはもう実際見た方が早いから、とりあえず冷めないうちにバーガー食べよ」
彼女は口を大きく開けてエビバーガーにかぶりつく。なんとなくそれがなんとも美味しそうで、私もエビバーガーに思いっきりかぶりついた。
口元についた衣を彼女はぺろりと舌で拭う。
そんな光景を見ていると、なんだかいろいろなことがよくわからなくなってくる。
当たり前の放課後の様な距離感だが、店の窓の外は異様な闇、目の前の同級生も普通に見えて普通でない。
「小城くんは付き合ってる人とかいるの?」
「いないよ」
質問の意味もよく理解しないまま、私はそう答えた。
まぁおそらく、話の種がなさすぎて大概の人に通じる話題である恋愛の話をしたいのか。
「ふーん、じゃあ、人前で話しかけても嫉妬する彼女はいないってことだ」
「友達いないの?」
言ってから、この返し方は最低だなと思った。
「友達は……まぁ多くはないかな。僕は、デジモン出たらそっち行かなきゃだからドタキャンしちゃうし、かといってそもそも誘いにも乗らないのもね」
家庭環境に問題があるだとか、パパ活してるだとか噂が立ったり立たなかったり、嫌だねと黒木さんは笑った。
「事情を知る人もそんなにいないんですか?」
「基本言っちゃダメだし、知られても知らぬ存ぜぬしなきゃだからね。小城くんは特別。寄生するデジモンの被害者ってことで経過観察必要だし」
デジモンってみんな寄生するわけではないんだと思った。
「でも、知らないふりで誤魔化し切れるの?」
「今は素人もCG作れるし作れる人達に依頼するのも楽だからね。動画とかあってもフェイクとしか見られないからね」
「確かにそんなものかも」
私は食べ終えたエビバーガーの包みを折りたたみながらそう言った。
「……ところで、ヨモツヘグイって知ってる?」
「知らないけど」
「黄泉の食べ物を食べると黄泉の住人になって黄泉に囚われるやつ」
「え」
手元のシェーキはもう八割ないし、エビバーガーに至っては影も形もない。
そして、彼女は私のシェーキに手を伸ばすと、自分のシェーキと入れ替えた。
「同じようにさ、僕のものを食べたら心が僕に囚われたりしないかなって思うんだよね」
そう言って、私のことをじっと見つめる。距離の詰め方がえぐくないだろうか。
本当にこれを飲めと言う意味なのか、それとも飲んだらキモいとか言われるトラップの類なのか。
私が悩んでいると、彼女は冗談だよぉと言いながらまた私のシェーキと彼女のシェーキを戻した。
なんと返せばいいのかわからなくて、戻ってきたシェーキを取って、一口吸った。ストローから手を離すと、からんとストローは右側に倒れた。
「……ちょっと、トイレ行ってくるね」
シェーキを一口吸ったら余計に対応がわからなくなった。思いつくまま別にトイレに行きたいわけでもないのにトイレに立つ。
そうして少し手を洗って気分を落ち着かせて戻る。遠くから見るとつまらなそうだった彼女は、私が戻ってきたのに気づくとへにゃと顔を緩めた。
わからない、友達とかもあまりいたことないから、距離感が本当に全くさっぱりわからない。
私は先に着くと、左側に倒れていたストローをつまんで一口シェーキをすすった。
「じゃあ、飲み終わったらそろそろ行こ」
彼女はそう言うと、シェーキを一気にすすった。私もそれに習ってシェーキを一息に飲み干した。
表に出ると、黒木さんはあんまり見ないだなと少し恥ずかしそうに言って、私に影じゃない影の入った四角錐を渡した。
みしみしみしと音を立てながら、黒木さんの姿が変わっていく。
口は裂ける様に横に広がり、腰が曲がっていく、すらっと細かった指も太く変わって爪と共に肥大化していき、さらには第二関節の辺りから裂けてさらに爪が現れて鎌のような形状になっていく。
私は、みないでと言われたけど目が離せなかった。
皮膚の色も黒く変わって、何か硬質なプラスチックの様な質感になっていく。両手も地面についてとうとう四足になる頃には、黒木さんの面影はほとんどなく、両肩に一つずつ顔をつけて、全身をアーマーの様なものに覆われた熊より大きな黒い犬がいた。
「ケルベロスっぽい……」
「当たり。この姿の僕はケルベロモンって名前なんだ」
聞こえてくる声は、身体が大きくなった分響く様な雰囲気と低さこそあるものの、黒木さんの面影が見えて少し安心した。
「可愛くないのが嫌なところだけど」
「……尻尾とか可愛いよ。トカゲみたいで」
フォローのつもりで言ったけれど、言ってからトカゲって女子的にはどうなんだろうと思った。
すると、尻尾がぶんぶんと振られた。
「そんな可愛くないと思うけど、ありがとう」
表情はよくわからないけど、尻尾の揺れ方は犬が興奮している時のそれにしか見えない。
ならいいのかなと思っていると、彼女は私の前でぐっと体勢を低くした。
「乗れる?」
そう言われて、私はその背中を触ってみる。アーマーの様なものは結構硬くて滑りやすそうだが、若干ザラつきもあってこれなら一度乗ってしまえば大丈夫そうな気もする。
とりあえずと図書室から履きっぱなしだった上履きを脱いで、四角錐と一緒に抱えて背中に乗る。これも結構な背徳感というかこれでいいのかなという感じ。
「しっかり掴まっててね」
そう言われて、私はとりあえずと彼女の背中に手をついて掴めそうなところを探す。
しかし、掴めそうなところはなく、結局少しでも体勢を低くして荷物をお腹と背中の間に入れながら、少しでもしがみつく様にするしかなかった。
歩いていた時とは比べ物にならない、それこそ落ちたら命に関わるのではと思うような速度で彼女は走る。
落ちないようにとしがみついていると、ふと、自分の手に伝わってくる熱に気づいた。
硬質な何かで覆われているようだから強く意識しなかったけれど、今私がしがみついているのは黒木さんなのだ。同学年の図書委員の女の子。一度意識すると途端に気になってくる。今、自分は女子の背中にしがみついているのだ。
気恥ずかしくて、むず痒くて、でもそれを悟られたくもなくて、さっきまでの黒木さんとの色々が頭の中をぐるぐる回る。
やたら近い距離とか、意識してるのではと思わせる言動とか、図書室を利用している人なんて他にもいるだろうに名前まで覚えていたりとか。
あれと疑問が頭に浮かんできた。私は、図書室で勉強はしても本を借りたことがあっただろうか。
本を借りない生徒の名前を図書委員が知るタイミングとは一体いつあるのか。ふと気になった。
少し視線を落とすと、四角錐の表面に、影が自分の身体で文字を書いていた。
『お前は騙されている』
私が目を見開くと、文字が変わる。
『このままだとお前は人間界には帰れない』
どういう意味だろうと見ていると、また文字は変わっていく。
『ここにお前がいるのは』
『お前を寄生先に選ばされたからだ』
「それは……どういう……」
私は思わずそう呟いた。
『声を出すな』
一瞬、黒木さんの耳がこっちを向いた気がした。
『しかも、俺も罪人だが』
『こいつも罪人だ』
私はもう文字から目を離せなくなっていた。
『罪人は輪廻を経てダークエリアに転生する』
『ダークエリアでの一生でも罪を償いきれなかった罪人は』
『その次の人生でも罪を償うことを強要される』
『前世の能力を持たされて猟犬となる』
影じゃない影の言葉を聞いて、私はそれでも信じきれなくてなんとか口パクで意思を伝えようとする。
でもそうだとして、君に寄生させたこととの関係は?
『この猟犬は鼻が利くから、ただ寄生しても追ってくる』
『色々な人間の影を渡って移動してもすぐやってくる』
『仕事の内容的に一人二人の犠牲は許される筈だから』
『この女が、絶対殺せない人間に寄生する必要があった』
それがなぜ私ということになるのか。
『最近物がなくなったりしただろ』
『誰かに尾けられてると感じなかったか』
『俺は見た』
『俺が気づいたのは一月前、確信するまでもう一月使った』
いや、まさかそれはないだろうと思いつつ、さっきまでの黒木さんの距離の近さや、ヨモツヘグイの話を思い出した。
『こんな世界で、ただの人間は一人で生きていけるのか?』
私は今まで見てきた、突然現れたロッテリアの他にはただ暗黒が広がり草一本見かけなかった光景を思うと、それに頷くことはできなかった。
疑似的な監禁なんじゃないか、なんて考えが頭に浮かぶ。でもわからない。
『俺はお前の味方じゃねぇ』
『でも、人間界に行きたいって点は同じだ』
『俺の入ってるこれを開いてくれ』
私は、思わずそれに手をかけようとしたが、落ちそうになって自分がいかに不安定な状況にいるか思い出した。未来を思ういつもの暗い気持ちがより一層の強さを持って心の中を牛耳り出す。
頭は正直追いつかない。
影じゃない影に寄生されて、ダークエリアに送られた。黒木さんは距離が近くて動揺させられた。その黒木さんは一生かけても償えなかった程の罪を背負っている罪人かもしれなくて、今の状況は全部彼女の手のひらの上かもしれない。
「黒木さん! 休憩しよう!」
私がそう言うと、黒木さんはゆっくり減速して止まった。
『よし、今の内に蓋開けろ』
影じゃない影はそう言ったけれど、私は開けなかった。
今わかっているのは、どちらも信用しきれないということだけ。
「黒木さんは……私のことが好きなの?」
質問の内容はこれでよかっただろうかと思いながらも、私はそう尋ねた。
『お前、何聞いてんだよ、それでどうするんだよ』
影じゃない影がびちゃびちゃと文字を作ってそう主張するが、私は見なかったことにした。
すると、みしみしメキメキと音を立てて彼女はまた人の姿に戻った。
「そうだよ。僕は小城民人くん、君が好き」
「名前も……調べたの?」
「うん、でも自分から近づく気はなかったよ。危害を加えるとか、そういうのもする気はなかったし」
そいつがいなければと言わんばかりに黒木さんは影じゃない影を睨みつけた。
「私と、どこに接点があったのか、わからないんだけど……」
「図書委員なのも本当だからだよ。民人くんが図書室に来て、僕の鼻には十分匂いが届いてくる。それで……好きになった」
それは思ってもいない経緯だった。一目惚れならぬ一嗅ぎ惚れとでも言うべきだろうか、聞いたことがないきっかけだった。
「……気持ち悪いって思うでしょ。僕もそう思うもの。気持ち悪いし、意味不明だし、その上にストーカー。嫌いになられて当然だと思う」
でも、と黒木さんは口に出すと手を前に出した。
「そいつを信じたらダメ……私のことどこまで聞かされたか知らないけど、逃げる為に私を逆に監視する為に、常に誰かを人質にしてたやつだよ」
「そうだね」
私は黒木さんの言葉に頷いた。
「だから、黒木さんの口から黒木さんのことを聞きたい。なんでもっと普通にどうにかできなかったのかとか、私以外の人に寄生してた時は手が出せなくて私に寄生した途端手を出した理由とか」
影じゃない影が信じたんじゃなかったのかよと抗議してるようなのが視界の端に映ったけれど、私は無視した。
「私はまだ黒木さんのこと何もわからない。わからないのは怖いよ」
私の言葉に、黒木さんはかたんと首を横に倒した。それがどういう感情の発露なのかわからなくて、彼女自身よくわかってなさそうに見えた。
「……わからないのって怖いよね。僕もそう、僕も僕の気持ちがわからなくて怖いの」
彼女はそう言いながら、ずんずん近寄って私の両腕をグッと掴んだ。
私が思わず影じゃない影の入った四角錐を落とすと、黒木さんはそのまま顔を私の胸元に押し付けた。
「好きな匂いがするの。すごく好きな匂い。穏やかな気持ちになれて、落ち着いて、嫌なこととか頭の中に浮かんでこなくなる」
ずーずーと激しく音を立てて黒木さんは私の匂いを嗅ぐ、そして、ふと、顔を上げた。据わったような目がこちらを真っ直ぐに見ている。
「で、それは本当に僕の気持ちなのかな? 僕の人生は前世に、前世の前世に振り回され続けてる。デジモン関係で呼び出されるし、人なら気にしない程度の匂いを勝手にキャッチする鼻だってそう」
そう言って、またずーずーと私の匂いを嗅ぐ。
「前世の感覚ありきの気持ちは、本当に僕の気持ちなの?」
匂いを嗅ぎながら黒木さんは喉を絞められたような声で言う。
「僕は誰? 普通の女子高生? 地獄の番犬? それとも前前世の強姦殺人犯? 前世の記憶だって断片しか覚えてないのに、君を思うと自制できない僕がいる。ストーキングするし、今だってそう、アイズモンが寄生した時も、狙ってないのは本当だけどこれで僕も君にとって特別になれるかもと思わなかったわけじゃない」
そこまで言うと、黒木さんは私の腕から手を離して一歩退がった。
「怖いの、でも好き。近づいちゃいけないってわかってる、だけど近づいちゃった。アイズモンが口実作ったからって我慢できなくなって、前前世みたいにはなりたくないのに、僕は僕がわからない」
私は、彼女の言葉を聞いて彼女の悩みは私の悩みと根本は大して変わらないんだと気づいた。
私が進路や自分らしさに悩むのと同じように彼女は悩んでいる。
もちろん、それで悩みが解決するわけじゃないし、彼女と私の前提も大きく違う。でも少し、安心した。
私は、彼女の手を取って、自分の手を重ねた。
言葉は出てこない。一緒に頑張ろうもなにか違うし、悩んでるのに大丈夫とも無責任に言えない。それも含めて君なんだなんてわかったようなことを言えるほど私はものを知らない。
「……私は、黒木さんのこと嫌いじゃないよ」
これでいいのだろうか。答えになってるだろうか。
わからない、何もわからないけれど、彼女の表情は少し和らいで、私に向けて彼女は一歩前に出た。
そして、ぐあっと口を開けると首筋に甘噛みしてきた。
私はそれがどういう意味かわからなくて固まり、彼女は噛みついたまま鼻息を荒くした。ちらりと彼女の目を見ると、彼女は私の目を熱っぽく見たあと、少し目を細めて笑った。
「嫌いじゃないってことは、そういうこと、だよね?」
そういうことじゃないとは思ったけど、ストーキングまでされて嫌いじゃないって言ったらそういうことになるのかもしれない。
『よくわかんないけどいい感じになったの俺のおかげなら俺のこと解放してくれ』
影じゃない影がそう文字を見せてくる。私はそれに気づいてない黒木さんにその文字を見せた。
「……いや、あんた逃したら僕がただ民人くん連れてきただけになっちゃうし。まぁ、人殺しとかしてなければ殺されたりはしないから」
早く二人きりになる為にもさっさと行こうと、黒木さんはまたケルベロモンに姿を変えた。
二度目ともなるとすんなり背中には乗れた。
どうしてもさっきの甘噛みも脳裏によぎってどこかドキドキする私を乗せて、黒木さんは走っていく。
前を見てもやはり先は見えない。少しでも立ち上がれば転げ落ちそうな不安定さも変わらない。
だけど、なんだか今はそれが少し楽しいとも思えた。
うーん、実家のような安心感(ヤンデレ)。鬱屈とした青春を過ごす青年の影に潜む危険な存在。そこから救ってくれたヒロインという王道なボーイミーツガールだと思いきや、肝心のヒロインが作者の癖の王道を突っ切ってました。
匂いというのは記憶に一番結びつきやすく、その記憶というのに所縁のある前世がまた世界観の根幹にある。舞台だけでなく輪廻転生という概念も含めて主催として文句なしのお彼岸らしい作品でした。
危険な匂いしかしない二人(+1)。さて、彼らの行く末はどうなることやら。
短いですが、これにて感想とさせていただきます。
過ぎ去った青春を思い出させてくれるような、ちょっと不気味ながらも非常に爽やかなお話だと感じました。
夢も希望もなく現実を生きる民人君と、現実離れした姿を今日まで隠して生きてきたバニラちゃん。
端から見ればなんでそんな民人君にバニラちゃんが惚れたのかとなるところですが、なるほど匂いならば仕方がない。声とか匂いとかで好きになるのって、遺伝子レベルで相性が良いと聴いたことがあるので、きっとお似合いの二人なのでしょう。
男の子の一人称が『私』で女の子の一人称が『僕』なのも、始めは少し困惑こそすれど読み進めていくうちにすんなりと受け入れることができて。
アイズモンの出現やダークエリアへの訪問などと同様に、当たり前のことのように自然に描写されるからこそ違和感を抱かず読めたのかなと思いました。
ロッテリアでご飯食べて、スキンシップしながら風を感じて、最後には告白……と。こうして見るとやってることはすごく高校生らしい普通のデートなんですよね。途中アイズモンが介入してきて三角関係っぽくなりましたが、民人君がきっちり振り切ってバニラちゃんと一緒にいることを選んだことに安堵しました。
男の子がブレない恋愛もの大好きなんです、ガンダムXとか。
こんにちは、『彼岸花の蕾が開き』、引き続き滅茶苦茶楽しんでおります、快晴です。
『華は彼岸に』も大変楽しく読ませていただきまして、おそれながら、感想を投げさせてもらいに伺いました。
短く区切られた文章の構成がとても素敵で、小説というよりも美しい一篇の詩を読んでいるかのような気分でした。
気だるげな日常から、転落するように非日常へ。アイズモンに乗っ取られた小城さんのカッターナイフを噛み砕くバニラさんの「ごめんね、小城くん。カッターは買って返すから」という台詞自体は日常の域を出ないのに非日常そのものの光景が良い塩梅に『境目』になっているような気がして、とても惹きつけられました。
バニラさんのいうところの「地獄」に落ちてからも、2人の道中は学校の帰り道のようで。ロッテリアという、私達もよく知る存在がその印象に一役買ってくれているのでしょうね。バニラさんの距離の詰め方は地の文通りエグいのですが。へりこにあん様産のヤバい女性には実家のような安心感があるのでたすかります。ヨモツヘグイを自分に当てはめる下りや、尻尾とか可愛いと言われた時の反応等、描写がいちいち可愛いですね。というか、まずイラストからしてバニラさんはかわいい。
ここでアイズモンの囁きが入って、2人の間に会話が生まれて。わからないから怖い、という感情に、バニラさんもまた似たような感情を抱いており……と、息を吐く間も無い、というか、バニラさんの振舞いも含めて息が止まるような緊張感のある流れに、思わず見入るばかりでした。その、においを嗅ぐ時の効果音が「ずーずー」なの、バニラさんがケルベロモンという犬系デジモンである事を踏まえるとなんだかより生々しくて、素敵ですね。
小城さんの答えは、はたして正解だったのか、不正解だったのか。でも幸せならOKです! 少なくとも終わり方からは青春の匂いがしたので、これからも小城さんにはつよく生きてほしいし、バニラさんもずっと幸せであってほしいですね。
と、今回もとっちらかった感想になってしまいましたが、本当に読み進めるごとにドキドキさせられる、とても素敵なお話でした。
楽しい時間を、ありがとうございました!
突然のRADWIMPSもとい前前前世っていうか怖いな! 夏P(ナッピー)です。
如何にもへりこにあんさんっぽい幕開けかと思ったら速攻でえらいことに。シレッと怖い情報を明かされて戦慄している……間もなく、次々と矢継ぎ早に新情報が飛び込んできて脳内がパンクしそうだぜ! というか、実は最後までアイスもといバニラさん信じられなくて、最後に首筋にカプチューされたのアカン死んだぁ! 殺されたぁ! お前はやっぱり騙されてたんだ!! と絶叫したのは内緒。自分で書いてて思いましたが、アイズモン≒アイスだからケルベロモンはバニラなのかな……民人くんもつまり民人(ミント)だしな……あと例のあの店でエビバーガモンは討ち取られて調理されてんのかな……。
影じゃない影扱いでちょっと笑っていたら『俺も罪人だが』『こいつも罪人だ』でダメだった。自分も罪人だってのに信じられるか! 俺は部屋に戻るぞ!
それではまた他の投稿されたものも感想書かせて頂きます。
あとがき
お彼岸とはあの世とこの世を川の両岸として例えるという考えが先にあり、その二つが最も近くなる時期を指します。となれば、冥府の入り口という最もこの世に近いあの世、を守ると言われるケルベロス、それをモチーフとするケルベロモンは極めてお彼岸らしいデジモンです。
今回のお話では、一応企画主催でもあるので、お彼岸らしくダークエリアや前世という仏教概念を取り入れた部分に、彼岸という言葉そのものの分たれた河岸という意味合いをある程度意識し、対になる楊にと書いたとこがあります。
民人くん目線で見ると、自分に優しく人→デジモンとなるバニラさんと、自分を襲い人を乗っ取ることでデジモン→人となるアイズモンが。
バニラさん目線だと、バニラさんにとって、民人君は恋愛的な面や学校生活という人としての部分、アイズモンはデジモンとして関わらなければいけない部分。
アイズモン目線だと、自分を追ってきて襲ってくる立場のバニラさんに、自分に襲われる側の民人くんというアレですね。
では、よければぜひ他の参加者の方々の作品もどうぞよろしくお願いします。読んでくださりありがとうございました。