◇
覚醒した怠惰の魔王が一歩、また一歩と進んでいく先に一人の小娘と一体の地竜が立つ。
今となっては他の全ては最早些事、恐らく魔王の目には既にその一人と一体の姿しか映っていまい。かつて死闘を繰り広げた仇敵、二度と相見えることはなかったはずの存在を前にして魔王は少なからず興奮しているようだった。
怠惰の魔王、ベルフェモン。異世界に七体存在すると呼ばれた魔王の内の一体。
二年前、どうした理屈か人間界に現れたそれは程無くして休眠状態に入った。だから人の手でそれを捕らえることができあのは偶然と言っていい。しかし数年前から異世界の存在を認知し、水面下で探っていた各国がそれによって一斉に動き出す中、我が国は異世界の高位なる存在を捕獲したことで一躍トップに躍り出た。玉川白夜が九条兵衛からこの光ヶ丘地下にある研究所とそこで眠る魔王を託され、研究を始めたのもそんな頃の話だ。休眠中の魔王の意識に接続し、異世界へ人間界が踏み入る為の手段と方法とを探る、兵衛に指示された白夜の当面の目的はそれである。
世紀末に現れた魔王、即ち恐怖の大王<アンゴル・モア>とコンタクトを取り、異世界への扉を開く。異世界開拓の最先端に日本が立ち、国土の拡大を図る。
そんな子供染みた夢想こそが計画の全てだった。鼻で笑ってしまう。政界のトップが斯様な空想の産物に私財を投げ打ってまで賭けているのだ。それを成したところでその時には老齢の彼はもうこの世にはいないだろうに、自分のいない世界で何が起ころうが彼には何のメリットも無いだろうに。
「むっ……!」
そんな思案に耽っていた自分に躍りかかる影がある。
ダークドラモン。叔父である九条兵衛が育て上げた加速神器・暗黒の究極体が片腕の槍を振りかざして飛び掛かる。
「……無作法な」
それを受け止めたのは自ら育てたタイラントカブテリモン。
叔父と甥、そして出資者と研究者。両者はこの瞬間まで完全に上下の関係にあるはずだった。
「白夜」
燃えるような九条兵衛の憤怒の目で見据えられ、玉川白夜は肩を竦めた。
死を目前にしようと威圧感のある男だ。しかし段差の上に立つ自分とその下で跪く彼の立ち位置こそが、今の状況と互いの立場を如実に物語っている。この偉大な叔父の厳格さと高貴さに、白夜はある程度の好感を持っている。政治家など見せられぬ過去や所業の一つや二つは当然持っているものだが、その中にあって九条兵衛は限りなく高潔な人であった。それこそ妻も持たず子供が隠し子一人という点ぐらいしか、この男に弱点は見えなかった。
「突然殺しにかかってくるとは……叔父上も人が悪い」
「聞かせろ。……あの娘が異世界へ行く為の鍵を握るのではなかったのか」
しかし簡単な話だ。弱点が無ければ作ればいいだけのこと。
異世界への接続と開拓、その分野において我が国をトップに立たせる。そんな高潔さ故の幼子のように真っ直ぐな男の夢を利用することなど白夜には容易かった。予算は好きなだけ引き出せたし、そもそも兵衛は飽く迄も政治家であってその分野における専門家ではない。この国のトップとも呼ばれた男が自分の言葉を全て信じてその通りに行動していく様は、むしろその計画の歪さを知っている──歪にしたのは白夜自身だが──白夜にとって滑稽で仕方がなかった。
少しずつ塗り替えてやった。その清廉な計画を、本当に少しずつ。
「その言葉に嘘はありませんよ」
「……では」
どうせ間もなく死に絶える身だ。冥途の土産に教えてやるのも甥の務めだろう。
「私は叔父上より託された怠惰の魔王……休眠中の魔王の意識にアクセスすることで、その脳波から二つの単語を解読した」
一つはアノニマス。
そしてもう一つはコガネイ・マサミ。
後者を解読できた時、謎の歓喜があった。コガネイ・マサミ、即ち小金井将美、その名前を白夜は知っていた。ちょうど結婚式に招待されていた時期だから間違えるはずがない。自分のゼミの卒業生である車田香の妻となった女だ。彼女の名前が何を意味するのかはわからないし直接の面識も無かったが、何らかの形で手の届く場所に置いておく必要性があると感じた。だから当時専業主婦になっていた彼女に、夫の香を通じて九条兵衛の秘書の職を提案した。不器用ながらも穏やかで純朴な人柄からも兵衛や先輩の桂木霧江に気に入られ、重用されていったのは想定外だったが。
そんな女を魔王の供物として差し出したのは、結果だけなら大正解だったと言えよう。
「研究を重ねる内に私は一つの結論を見出した。……叔父上の手にある加速神器もその過程の産物ですがね」
ベルフェモンは二年前の1997年夏、暴走状態で人間界に現れるも、即座に沈静化して休眠状態に入ったと聞く。それを他の科学者達は力を使い果たしたのだと考えているようだったが、白夜には一つの仮説があった。我々人類が地球以外の空間では生きられぬのと同様、彼ら異世界の生命体はこの世界ではまともな生命活動を行えないのではないかと。休眠状態へ陥った魔王──研究者の一部はスリープモードと呼んでいた──は人間で言うところの宇宙服を着込んだ状態なのではないかと。
では彼らを本来の姿でこの世界に顕現させる為に必要なものは何か。
「魔王を含めた異世界の生命体。彼らを現世に留めるのに必要なのは人間との繋がり……」
簡単な話だった。人間と物理的、もしくは精神的な繋がりを持たせることで彼らは人間界に完全なる形で存在できるようになった。
最初の実験体としたのは車田香の同級生である月影銀河だった。なかなか目敏い男である故に今ではこちらの企みを見抜き、小賢しい妨害をしてくる彼だったが、白夜が最初に作成した加速神器・正義を与えた時点ではなかなか有益なデータを示してくれた。彼の育て上げたサーベルレオモンによって、白夜は自らの仮説が正しかったことを確信した。
加速神器。魔王の意識化から解析、作成した異世界に伝わる神器の模倣品。
異世界には人類が迷い込むことが少なからずあったらしく、彼らと現住生物を結ぶ神器として伝わるそれを白夜は同様の機能を持たせて人の世に生み出した。だが現代科学では解消できない欠点が二つあった。人間のDNAを定期的に吸わせなければ彼らは育たず消滅し、また彼らを現世に留める為にDNAを吸わせ続ければいずれ人間の方が死に至ることである。
だが構わなかった。むしろその欠点は気付いた上で敢えて放置したと言っていい。
皮肉にも自分の教え子達を含む周囲の者達は優秀だった。それに関しては先程限界を迎えて死亡した桂木霧江とムゲンドラモン、そして今目の前にいる九条兵衛とダークドラモンにしても同様だ。ちょうど今頃、次々に死んでいくだろう教え子達など自分の見る目は正しかったと白夜は喜びに打ち震えている。
月影銀河の正義、サーベルレオモン。
車田香の自然、スピノモン。
龍崎時雨の暗黒、グランドラクモン。
そして武藤竜馬の究極、スレイプモン。
スピノモンは死に、グランドラクモンもやがて討たれるだろう。残るはサーベルレオモンとスレイプモン、それらの加速神器も回収しなければなるまいが。
「……アノニマス、それはあの娘自身のことだった」
「何?」
魔王の発したもう一つ、その単語の意味だけはどうしても解読できなかった。
昨年のクリスマス、異世界より現れた娘がいるという報告は聞いていた。異世界から人語を解する人間が現れたというのであれば話は早い。その娘を拉致して魔王と対面させて情報を収集すべしと白夜は考え、その報告を受けた兵衛は霧江を娘の回収に静岡へと派遣した。そこに居合わせたのが兵衛の一人娘であり、件の娘とどうやら親密な関係を築いているらしい鮎川飛鳥であった。
恐るべき僥倖であった。まるで望むもの全てが手の内に飛び込んでくるかのようだ。
『御令嬢にこの場を明かし、ご理解を得るべきでは?』
今日という日、兵衛にそう提案したのも白夜だった。そうなれば兵衛と霧江は必ず好機と見て件の娘を回収せんとするだろう。そうなれば件の娘がこの場を訪れる可能性は高い。
尤も、小金井将美まで現れたのは流石に想定外だったが、そんな彼女をも利用するのは残った加速神器・自然を用いれば容易かった。
「最初からあの娘をこの場に連れてくるのが私の目的……」
場違いな少年と少女を見下ろす。あの娘と低俗な“家族ごっこ”に興じていた二人を。
「そしてこれ以上の研究は不要だ、この研究所ももう必要ない」
そう、あの娘そのものがアノニマス。怠惰の魔王が小金井将美と共に求め続けたもの。
「あの娘は人間ではない。……かつて魔王と戦い果てた、ある聖騎士の残骸だよ」
『本日ハ晴天ナリ。』
―――――FASE.7 「Night Hawk」
高嶺煌羅、かつての名前をアノニマス。その存在が生まれたのは人間界の時間感覚で言えば今から六年前のことだった。
遙か昔より語り継がれる伝説では人間界と繋がっていたとされる異世界も、既にその繋がりを閉じ、ただ荒廃に身を任せるだけになっていた。かつて隆盛を迎えた都市も荒れ果て、科学も文化も一向に発展せずに皆が今この時のみを思考して細々と生きる、そんな滅び行く世界の中で名もなき少女は生を受けた。
少女が人間であるはずはなかったが、その見てくれは確かに人間だった。だがその出生にはある存在が絡んでいる。
ベルフェモン。この世界を荒廃に追い遣ったとされる要因、かつて突如として目覚めると本能のままに暴れ回り、一月と経たず世界の六割強を破壊したと言われる怠惰の魔王。伝承で数多語られる魔王の中でも最強に等しい存在だった。
世界の守護者と謳われる騎士団の生き残りが魔王に立ち向かったが、瞬く間に全員が討ち取られた。ある者は塵一つ残さず消し飛ばされ、またある者は即座に転生を決意するもそれを果たせずに卵ごと食われた。かつて魔王に対抗できる唯一の力と言われた騎士団は、ここに壊滅したのだった。
そんな騎士団の中で唯一転生に成功したのが、彼女だった。騎士団の主たる神が如何なる考えでその手段を講じたのか、少女自身は知らない。聖騎士の生まれ変わりとしてこの世に生を受けたにも関わらず、過去の記憶が曖昧な理由もわからなかった。だから明らかだったのは生まれた時点で少女が一人ではなかったこと、逆に言えば少女だけでは何の力もなかったこと。物心付いた時より常に自分の隣に佇む緑の竜を見て漠然とこれが自分の力なのだとアノニマスは理解した。
そう、ロイヤルナイツ最後の一人たる竜帝エグザモン。
怠惰の魔王に敗れて散った彼の聖騎士は、正しき“心”を持つ少女“アノニマス”と竜族の皇帝としての“力”を宿すコアドラモン“ジンライ”に、その存在を一人と一体に分割したことで転生を果たしたのだ。それはまるで超古代に幾度となく世界を邪悪な者から救ったと言われる英雄、選ばれし子供とそのパートナーのように。
そして人の身になったとて使命は変わらない。アノニマスとジンライは前世と同じように世界の守護のため活動を続けた。最終目標は無論、怠惰の魔王ベルフェモンの討伐であることは言うまでもない。
『アンタが聖騎士団の生き残りかい?』
ある時、一人の女に出会った。外見だけなら妙齢の人間の女だ。
それでもカオスドラモン──間違いなくそうなのだが、どこか違って見える──を伴って現れたその女はどう考えても人間ではなかった。果たしてその女こそ古代に選ばれし子供と戦って敗れ、世界のどこかに隠遁したとされる色欲の魔王リリスモンであり、アノニマスは激戦の末にその女を倒した。
何故七大魔王の一人が人間の形を取っていたのかは知らない。興味はない。
だが色欲の魔王は自分達に敢えて討たれたように思えた。永遠にも近い魔王としての生は拷問でしかなかったと言っているようだった。それでもアノニマスにとって強敵だったことに疑い様はなく、アノニマスもはその戦いで消耗し、ジンライに至っては成熟期の姿まで力を失ってしまった。
それでもアノニマスは怠惰の魔王を追う。
やがて怠惰の魔王が色欲の魔王と同様に人間の女の姿形を取っていること、そして彼女が人間界に姿を消したとの情報を得る。ある伝手で得た怠惰の魔王の人相は、果たしてかつて世界を滅ぼし得る暴虐を働いたとは思えないほど、穏やかで優しそうな顔付きの年若い女性だった。アノニマスはその時まで世界が再び人間界に繋がっていたことも知らなかった。
(怠惰の魔王もまた人間……これは一体……?)
その疑問を捻じ伏せて自らも人間界に行く手段を探る中、あのサーベルレオモンとそれに襲われている二体の成長期を見つけ、助けようと割り込んだ際に突如開いた人間界へ繋がるゲートに巻き込まれ、そして。
『さっき俺とハニーで決めたからな。今からお前の名前は高嶺煌羅だ! どうだ、気に入ったろ!?』
『ハニー言うな』
アノニマスは、高嶺煌羅となったのだ。
「ジンライーーーーッ!」
吼える。魔王を前に人の身である自分の斧など意味を為さない。
今の自分は聖騎士ではなく単なる人間の少女でしかない。だから戦う上での力はどこまで行ってもジンライに頼るしかない。ジンライ自身に意思はなく、ただ煌羅の意思に従い動く人形のようなもの。だから傷付くことに罪の意識などなく、むしろ彼が傷付く度に高嶺煌羅の肉体もまた削れていく。
それがどうしようもなく恐ろしい。自分ではない誰かの戦いで自分の体が傷付くことが。
尤も、そんなことは最初からわかっている。それでも魔王に挑むと決めた以上、高嶺煌羅はジンライと共にぶつかり合わなければならないと決まっている。元々自分とジンライは二体で一つである以上、ジンライが対峙するのであればアノニマスたる自分自身も引くわけにはいかないのだ。
だがグランドラクモンを足止めするので精一杯だった今のジンライに、ベルフェモンを打ち倒す力があるのか。
答えは否だ。言うまでもない。
「煌羅……ッ!」
後ろから“母”と呼ぶべき女の呻きが聞こえた。
迷いが生じる。果たして今の自分に、彼らを守れるだけの強さが出せるのか。自分自身が敗れるのではなくジンライの力不足で彼らを守れないとなれば、煌羅の心が納得できない。如何にジンライが自分の力とはいえ、その不甲斐なさを詰りたくなる。
(私とジンライを、何故分けたんですか……主よ……ッ!)
ずっとその答えを求め続けた。分かたれた心と力が一つになることはなく、自分は聖騎士としての姿を取り戻せないでいる。そして高嶺煌羅とジンライは前田快斗とポンデ、鮎川飛鳥とイサハヤのような関係ではない。ジンライが進化しようがしまいが自分にはこれしかないのだ、彼の力を当てにして戦う以外に道はないのだ。
踏み潰そうと迫る足をグラウンドラモンの副腕で受ける。押し返すほどの力はなく、単純な力も体重もあちらの方が上である以上、ギリギリと押し込まれる。まるで怪獣映画の主役怪獣にやられ役の戦車で立ち向かっているような気分になる。まさに今の自分達は勝てないとわかっていても愚直に戦い続けるやられ役のようだ。
周囲が揺れる。二体の巨獣が激突するには広さはあっても強度の面で持たない。
「もっと……もっと力を出して……ジンライ!」
その叫びにジンライが応えることなど有り得ない。
だって彼は自分の心に従うただの人形。言うなれば物言わぬマリオネットと同じ。それがポンデやイサハヤのような奇跡を生むことなんてない。
欠陥品である。心しか持たない自分も、力しか持たないジンライも。
「……あなたは、どうなんです……ッ!」
自分達を踏み潰そうと足に力を込めるベルフェモンを見上げる。膨れ上がった胸筋で魔王の顔は窺い知れないが、それでも燃えるような真紅の瞳がこちらに向けられているだろうことはわかった。
「グオオオオオオ!!」
彼奴もまた猛っている。その咆哮はかつて滅ぼした騎士団の生き残り、二度と出会うことのない宿敵と巡り会えた歓喜の鬨か。
七大魔王、その正体は一体何なのか。その謎に手が届きかけている気がした。かつて煌羅自身が倒した色欲の魔王は人としての姿を持ち、パートナーとしてカオスドラモンを引き連れていた。そして人間界で同じ顔をした女がムゲンドラモンと共に現れ、更に怠惰の魔王と同じ顔の女が怠惰の魔王自身に食われることで覚醒の引き金となった。
自分と同じ顔の女を食った魔王は、果たして。
「……押される……ッ!」
凄まじい力を前に、こちらが地面に押し込まれていく。
体躯でも純粋なパワーでも劣る以上、当然の帰結だった。ベルフェモンは技の一つも使う様子がない。ただ本能のまま暴れているに過ぎないのに、咆哮一つでジンライの皮が抉れ、それが煌羅自身の肉体も削っていく。この状態があと数分も続けば、ジンライの前に自分が立っているだけの肉塊になる確信がある。
研究所も限界だった。天井から無数の瓦礫が落下し、轟音を立ててこの場が崩れていく。
「快斗さん……ッ!」
ここは光ヶ丘の地下深くだ。ジンライと共に在る自分はともかく、最早立ち上がれないポンデやイサハヤでは生き埋めになろうとしている二人を守れまい。
咄嗟に振り返った煌羅の耳に。
「頑張れ!」
そんな声がした。
「なあ」
崩れ始める研究所の中、魔王に挑む煌羅を呆然と見つめるしかできなかった快斗。
「何よ」
「あれ、俺達の娘なんだぜ」
そんな彼がポツリと呟くから。
「……そうね」
躊躇いなく飛鳥もそう返した。少なからず気恥ずかしさがあったのは確かだ。
互いにそれ以上の言葉はない。斜め後ろから彼の側頭部を眺めていても、前田快斗がこういう時にどんな顔をしているのかはわかってしまう。そう考えると僅か一年弱ながら自分達は意外と濃い付き合いをしてきたのかもしれないと、鮎川飛鳥はそんな風に自嘲した。
だから言うのだ。緊張と恐怖を押し殺すように。
「そんな顔、しないでよ」
「……ん?」
快斗が振り返る。無理に軽薄な表情に戻そうとしても、引き攣った口の端は隠せない。
「きっと私が……ううん、アンタが止めても、煌羅は止まらなかったわ」
「それは……」
つい数分前、離れていく煌羅の体の温もりを覚えている。
魔王を前に震えて動けなかった自分達を守ろうと進み出た小さな背中。何故だか飛鳥にはそれに触れる機会はもう二度と訪れないような予感があった。きっと煌羅は間違いなく死ぬと、戻ってこないとわかっているのに止められなかった理由、それは恐らく。
「だったらせめて……応援、してあげなきゃ」
その言葉を上手く言えたかわからない。上下の歯が無様にカタカタと音を鳴らすのがわかる。
情けないぐらいに未だに自分の全身は恐怖に支配されている。目の前の男にはどこまでも不真面目な顔をしていて欲しいはずなのに、そんな彼がハッとしたような表情を浮かべたことからもそれがわかる。そのことが悔しくて悔しくて、それでも鮎川飛鳥は強がりをやめられない。
「あの子、私達の……娘、なんでしょ。だったら言ってあげなきゃ」
男の前で泣くのなんて最高に格好が悪いとわかってはいるけれど。
「頑張れ……って」
もうその先は、視界が滲んで言葉にならなかった。
頑張れと、そう聞こえた。
崩落する天井の向こう側で顔を押さえて跪く“母”と真っ直ぐこちらを見る“父”の姿が見えた。自分達は大丈夫だとその顔が告げている。大丈夫なはずがないのに、それだけできと彼らは大丈夫だと思ってしまうのは、一年足らずでも家族として共に在ったからか。
(女狐とは……別に一緒に暮らしてませんけど)
でもそんな彼女が今、自分の為に涙してくれているという事実が妙なこそばゆさを煌羅の全身に齎す。
死に体だった肉体に力が戻る。グラウンドラモンの副腕にも力が入り、ベルフェモンの右足を押し返した。魔王の体が僅かによろけ、培養カプセルに向けて後退する。逆転の好機はここしかないと悟る。
「ギガクラック!」
腹部を思い切り叩き付けて起こした地割れが、ベルフェモンの片足を挟み込む。
魔王の動きは封じたがジンライのダメージも大きくすぐには動けない。畳みかけるなら今だというのに。
「グオオオオオオ……!」
だがその時、ベルフェモンの自由な両腕に炎が迸った。
煌羅の全身が総毛立つ。かつて聖騎士だった頃の、自分とジンライが一つだった頃の記憶が脳裏を過る。ギフトオブダークネス、自分が死に同じ騎士団の仲間が転生も許されず存在そのものを消滅させられた怠惰の魔王の必殺技。
(成長……している……!?)
技という技を使用してこなかった魔王が初めて見せる挙動。
受けられるはずがない。あの技には防御という概念が通用しないし、何よりもジンライはまだ完全体なのだ。聖騎士でも幾度か喰らえば容易に消滅するそれを受ければ間違いなく死ぬ、そしてジンライが死ねば力を失った自分自身もきっと──!
「自分の力を信じろ、煌羅ーッ!!」
この一年弱、誰よりも共に在った父のそんな言葉が届いた。
瓦礫に呑まれる父と母の最後の言葉。彼らは自分達が逃げること以上に娘である煌羅にその言葉を遺すことを選んだのだ。
力? 自分の力とは何だ?
何もかもが止まって見える。生まれた時から自分は一人だと思っていた。快斗や飛鳥と出会うまで誰かと共に生きることなど考えたことはなかった。だから孤高の戦士として生きることに躊躇いは無かったし、別段アノニマスは共に生きる誰かなど、家族など欲しいと思ったことはなかった。
それでも快斗や飛鳥と過ごす内、そして彼らと生きるポンデやイサハヤを見る度に、少しずつ心境が変化していた。いつだったか、ポンデに遊び相手が欲しいならジンライと遊べばいいと言われたことがある。煌羅はこう返した。ジンライは戦う為の力だと、パートナーなどではないと。
何故か目が合った気がした。一度も言葉を交わしたことの無いジンライと、常に自分と共に在ったはずの高嶺煌羅の“力”と。
「……私、聖騎士の力(あなた)を信じていませんでしたか……?」
意思のない瞳。いやそう思っていたのは自分だけだ。それが僅かに瞬いた気がした。
「あなたは、聖騎士の心(わたし)のパートナーでいてくれたんですか……?」
答えはない。代わりに咆哮が轟く。
それが歓喜の声だと、世界中の誰でもなく、高嶺煌羅だけが知っている。
人間とデジモンの関わりに触れ、どこかで憧れていたかつてのアノニマスだけが知っている。
崩落する無数の無機物を取り込み、変貌していくジンライの肉体。もっと強く、そしてもっと大きく、ベルフェモンに対抗すべく今の己に足りない体躯と力だけを求め、有機的な自らの肉体に無秩序にそれらを飲み込み、緑の表皮を鈍色に染め上げていく。心をパートナーに預けた彼だからこそ、己の意思と感情が失われることに迷いはない。
故にその名を破壊竜ブレイクドラモン。
「ジンライ……ッ!」
怠惰の魔王を必ず倒すと誓った煌羅の、長らく共に在り続けたパートナーの思いに応えるかの如く。
それは崩落する研究所の中で顕現する。
鳴り続けていた地響きが止まる。
「……終わりだ」
まるで宴の締めを告げるように、獅子の爪が薙ぎ倒された魔獣の喉元に押し当てられている。
光ヶ丘の街中で数十分に渡り繰り広げられた死闘によりサーベルレオモンもグランドラクモンも既に死に体だった。サーベルレオモンの足は既に突き付けられた一本以外はまるで動かず、グランドラクモンも紫紺の体躯の各所より青い血を溢れさせている。互いに互いを食い千切り合う肉弾戦は、周囲を業火に包み込みながらも終局の時を迎えつつあった。
「………………」
少し力を込めれば魔獣の息の根は止まる。それはわかっている。そして今この機を逃すことはできない。
グランドラクモンは究極体でありながら生まれたての赤子だ。自らの力の使い方も世界における立場も理解していない。数ヶ月前に遊びで対峙した際に使っていたクリスタルレボリューションもアイオブザゴーゴンも使わず、ただ下半身にある大口と四本の脚のみで攻めてきた。故に被害は光ヶ丘の中心部のみで済んでいるが、やがて技の使い方を覚えれば、更なる被害を振り撒くことになるだろう。逃げ惑う人々が発していた恐怖の大王という表現は言い得て妙だった。この力が存分に振るわれれば容易に世界を、人類を滅ぼし得る。
だから今すぐにでもトドメを刺すべきなのに躊躇うのは。
「?」
不思議そうに首を傾げる魔獣の仕草が。
「ギン……」
驚くほど自分の知っている女に。
「……ガ?」
瓜二つだったから。
『アタシの暗黒<エビル>、どうだった?』
いつだったか、そう呟いて首を傾げながら微笑む彼女は、美しかった。
愛していたと思う。間違いなく世界中の誰よりも。
けれど救えなかった。自分は救おうともしなかった。
嫌だったからだ。自分だけが死んで彼女が生き残るなんてことが許せなかったからだ。それを傲慢だと諭してくれた友人を持てたことは幸せだったけれど、それでも月影銀河は自分自身で自らの業と向き合わなければならない。あの女をこうしたのはお前だと、突き付けられなければならない。
「しぐ……れ」
女の名前を呼ぶ。
あの美しかった顔も、しなやかな手足も、豊満な肉体も、もう世界のどこにもない。
あるのはアンゴル・モアとまで呼ばれ、恐れられる魔獣の姿だけ。
こうなるだろうとわかっていて放置した。あの加速神器がヤバい代物だと気付きながら彼女にはそれを言わなかった。だから月影銀河には誰を糾弾する資格もない。ただ自分一人で死ぬのが嫌だと駄々を捏ねている疫病神だと評した親友の言葉は寸分の狂いも無いと改めて実感させられる。
ならば迷うな、躊躇うな。愛する女にこれ以上の破壊をさせていいのか。愛する女をこれ以上醜い姿で晒し者にするのか。
「ごめん、ね」
ほんの少しだけ足に力を込めた。それだけでプチンと、魔獣の頸動脈が切れる音がした。
「……ナンデ?」
脱力したグランドラクモンの肉体が地に伏す。それをサーベルレオモンは一際大きな建物に寄り掛からせた。
コポコポと魔獣の首筋と口の端から禍々しい色の血液が滴る。何度かデートと称して一緒に買い物に訪れた思い出のデパートがそれに穢されていく。それでも目を背けることはできなかった。不思議そうに首を傾げたままの彼女はきっと、最後の瞬間まで自分が何故死ぬのか、何故愛した男に殺されるのか、そもそも自分の体に何が起きたのかすら理解できないのだから。
ああ、これが自分の罪か。これが傲慢の結末か。
「ごめん……ね……ッ」
もう一度だけ呟く。噛み締めるように、そしてもう二度と振り返らないように。
サーベルレオモンに、そして月影銀河に感傷に耽る時間すら与えないとばかりに足元が揺れ始めた。どうやら件の地下研究所で何かが起き始めたらしい。サーベルレオモンの勘が告げている。間もなくグランドラクモンの比ではない者が地上に現れると。自分には愛する女を弔う時間すら与えられないようだ。
グランドラクモンの骸がゆっくりと消滅していく。それを振り返らない。
幸いにも魔獣が技も使わず力任せに暴れたことで周辺住民の避難は既に完了しており、人的被害はほぼ出ていないように思う。周囲の燃え盛る業火は問題だったが、肝心のサーベルレオモンにそれらを消火する能力はない。今この場にいたところで徒に住民を恐怖させるだけだろう。
それに。武藤竜馬と同様、龍崎時雨や車田香のように加速神器に呑まれていない以上、自分にもまだやるべきことがあるのだ。
「……ごめんね」
だから謝罪の言葉だけを紡ぐ。女々しく未練がましく、せめて消えていく愛する女に手向けを。
サーベルレオモンは、月影銀河は、愛する女と一緒に死んでやることさえできなかった。
「お二人とも大丈夫ですか?」
久方ぶりの外の空気だが、既に空は漆黒に染まっている。
上から響く煌羅の涼やかな声に現実感がなく、快斗も飛鳥も目を丸くして自分達を崩落する地下から救い出した存在を見上げた。
「これは……」
「ブレイクドラモン。ジンライの究極体です」
ブラキオサウルスとかアパトサウルスとか、そんな雷竜を思わせる巨体だが全身が機械化されており今までのジンライとは全く印象が異なる。その一方で全身の各所に配されたドリルやシャベルは重厚な建機を思わせ、これらを用いて自分達を救った上で地中を掘り進んで地上まで出てきたのだと理解した。
「ば、バケモンだぜコイツは」
「確かに圧倒されるな……」
機竜の体の反対側からそんな聞き覚えのある声がした。快斗と飛鳥がそちらに回り込むと。
「おーっ! ポンデ! お前生きてたのかぁ!」
「……イサハヤも」
「勝手に殺すな! いや死ぬとこだったんだけどさ!」
「ジンライに救われたのだ」
成長期の姿に戻った二体は、ダメージこそ大きいが命に別状はないらしい。
「ここ、どこだ……?」
どうやら光ヶ丘のデパート周辺に出たようだ。だが自分達は今出てきたばかりだというのに周囲は怪獣が暴れたかのように建物は崩れ、道路には無数の陥没が起きている。周りを囲むように燃え盛る業火が一種のバリケードを形作っているのか、この周辺には人っ子一人いないようだった。
まるでゴーストタウン。少なくとも飛鳥はこんな光ヶ丘を見たことがなかった。
「何が起きたのかしら」
「さーな、でも早く逃げた方がいいかもな」
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。恐らく消防車だろう。
「はい。……でも」
地響きが鳴る。よろめいた飛鳥は思わず隣の快斗の腕を握ってしまった。
「……アイツは、逃がしてくれそうにありません」
目の前で西武デパートが派手に倒壊し、その地下から這い出して来る巨体。
一目でブレイクドラモンが掘り進んできた穴を追ってきたのだとわかる。燃えるような深紅の瞳は決してこちらを、仇敵たる煌羅を逃がそうとはしない。緑色に輝く爪を一閃させて周辺の建物の残骸を薙ぎ払うと、死の海と化した光ヶ丘に怠惰の魔王ベルフェモンは二本の足で大地を踏み締めて咆哮する。
「グオオオオオ!!」
「皆さん……下がっていてください」
対峙する煌羅に、不思議と気負いは無かった。
「コイツは私が……私とジンライが倒しますから」
いい顔だ。ブレイクドラモンの頭に乗る“娘”の横顔に快斗もそう思った。
自分は最初から一人ではなかった。そう気付けた時点で高嶺煌羅にはもう躊躇も逡巡も無い。人間としては両親のいない、デジモンとしては何の力もない中途半端な存在だった自分だが、隣にはいつもジンライがいたのだ。それを思えば寂しさなど感じる必要もないし、そのことを気付かせてくれた皆には感謝してもし足りない。きっと多分、この世界に来て良かったとかつてのアノニマスは思っている。この世界に来て快斗と、飛鳥と、皆と出会うことで高嶺煌羅は新しい幸せを貰えて、またとっくに持っていた幸せに気付かせてもらえたのだ。
恐怖などあるはずがない。今の自分達が負けようはずがない。
「ジンライ! 行きましょう!」
パートナーの頭上で吼える。表情は見えずとも自分達の心と力が一つだとわかる。
閃く魔王の爪を左右のショベルアームで弾く。記憶の限りでは聖騎士さえ一撃で仕留め得る攻撃だというのに微塵も恐怖を感じない。まるで手に取るように見える爪の軌跡を淡々と弾き、薙ぎ払いつつ徐々に魔王との距離を詰めていく。
止められない。今の自分達はきっと、誰にも止められない。
「……あれ、俺の娘なんだぜ?」
だから快斗はそう笑い。
「私達の、でしょ?」
飛鳥もそう笑った。きっと二人が顔を見合わせて笑ったのはその時が初めてだ。
無論、実際に向き合っている煌羅の心には余裕も油断もない。この場で押し切らなければ負けるとわかっていた。ベルフェモンは覚醒直後で力が十分に出せていないに過ぎない。故に今ここで仕留めなければ、かつて異世界の六割を消し飛ばした時のように人の世に必ず災禍を齎す。自分にとって大切な人達がいるこの世界でそんなことはさせない、させられない。
一歩、また一歩と接近する。
「グオオオオオ!!」
魔王の咆哮に僅かな迷いが見える。
その姿が煌羅には人相だけは知っている銀髪の女と、先程その魔王に食われた黒髪の女に重なる。
「インフィニティ……」
迷うな。躊躇うな。奴の正体など知る必要はない。魔王は今この場で倒さなければ。
「……ボーリング!!」
全身全霊のドリルの一撃を以って、怠惰の魔王ベルフェモンの胸元を穿つ──!
九条兵衛は自嘲する。政治家であったはずの自分がモグラの気分を味わうとは。
「待て、白夜!」
先のブレイクドラモンが掘り開けた地中のトンネルをタイラントカブテリモンに乗って進む玉川白夜を、兵衛はダークドラモンの背に乗る形で追跡していた。
あの娘が起こした進化を兵衛も見た。飛鳥や若僧が完全体への進化を齎したのと同様、あの娘もまた神器の力を借りることなくデジタルモンスターを究極体に至らしめた。それは彼の世界が未知数だとか研究不足だとかそういったことではなく、ただ若く未来のある者達が成し遂げた奇跡のように兵衛には思えた。
「……ぐっ」
喉が痛む。白夜が言っていた加速神器を使った代償という奴だろうか。
人はいずれ死ぬ。幼い頃より戦時下で命を落とす者達を見続けてきたからこそ、自らが死ぬこと自体は恐ろしくない。だが自分が死んだ後のこの国と一人娘のことを考えればこそ不安になる。自分以外の誰かにそれらを守れるとはとても思えない。九条兵衛は生きねばならない。最後の瞬間までこの国と鮎川飛鳥の為に。
「どうやら叔父上殿も最期の時が近いようだ」
「……白夜」
間もなく地上。トンネルの出口に夜空が見える場所で、タイラントカブテリモンの肩に乗る白夜が待ち受けていた。
「あの娘が異世界の聖騎士とやらだとしよう。だがそれに何の意味がある? 貴様の目的は何だ、白夜!」
「私の目的……確かに叔父上殿には知る権利があるか」
乾いた声で呟き、白夜はトンネルの外を見上げた。
空に火花がパッと散り、轟音が響く。先に地上へ出たベルフェモンとブレイクドラモンの戦闘は既に再開されているらしい。
「ベルフェモンは恐らくあの娘に敗れるでしょう。私の計画通り……ね」
「な……に? 貴様、魔王は異世界への扉を開く為の重要なキーだと……」
「その通り。ですがそれは計画が異世界の扉を開くことだった場合の話」
ニヤリと微笑む白夜。その酷薄な瞳は周り全てを道具としか思っていない男のそれだった。
そして次の瞬間、兵衛はハッとさせられる。白夜がまるでこちらに見せ付けるように手に構えた二つの神器。一つは今まさにタイラントカブテリモンを使役している正義<ジャスティス>だったが、もう一つの赤い神器は今彼が持っているはずのないものだった。そもそも彼が持っていた二つの神器の内の一つ、黄色の神器・自然<ネイチャー>は小金井将美と共にベルフェモンの腹の中のはずだから。
得心が行く。赤の加速神器・究極<アルティメット>を持つのは二人、武藤竜馬ともう一人は。
「貴様、それは霧江の……!?」
「ご明察。そして残る暗黒と自然を手にすれば……」
兵衛の手元の暗黒に白夜の視線が向く。
「全ては私の計画通りというわけですよ叔父上殿。シャインオブビー!」
完全に虚を突かれた兵衛とダークドラモンに、タイラントカブテリモンが全身から放った熱波が飛来する──!
荒れ果てた光ヶ丘に魔王の亡骸だけが横たわる。
インフィニティ―ボーリング。ブレイクドラモンのドリルで寸分の狂いなく急所を穿たれたベルフェモンは、完全に機能を停止していた。ジンライと繋がっている煌羅には確かな手応えがあり、如何に魔王とてもう立ち上がれるとは思えない。しかし駆け寄ってくる快斗や飛鳥の「見事だな、我が娘よ……」「凄いわ、煌羅!」などという賞賛の声を受けながらも煌羅の胸には何か違和感があった。
(呆気無さすぎます……)
これが本当にロイヤルナイツを壊滅させた怠惰の魔王なのか? 確かに自分とジンライは強くなった。かつて人の身を取った色欲の魔王を倒した時以上の力を得たと実感している。それでも如何に覚醒を果たしたばかりとはいえ、異世界に語り継がれるベルフェモンの強さはもっともっととんでもなかったはずなのだ。
煌羅が地下に潜る前にぶつかり合っていたはずのサーベルレオモンとグランドラクモンの姿も既に見えない。互いに相打ちになったのか、それとも。
「……何か、おかしいです……」
そう言いつつ後ろの快斗や飛鳥を振り返る。
仰向けに倒れ伏す魔王の体が消滅していく。音に聞こえた怠惰の魔王、かつて異世界を恐怖のどん底に陥れたベルフェモンは、ロイヤルナイツ最後の一人の生まれ変わりである高嶺煌羅によって討ち取られた。それだけが今この場における真実だ。
だが魔王が消えた廃墟の上、キラリと輝く何かが残されていることに煌羅は気付く。
「あれは……」
「……お前はやはり油断できぬ娘らしい」
それを拾い上げる一人の影。玉川白夜だった。
「あなたですか、全てを仕組んだのは」
駆け寄ってくる快斗と飛鳥を手で制し、煌羅は真っ向からその男と向き合った。
男の手に握られているのは黄色の加速神器だ。小金井将美と共にベルフェモンに食われたはずのそれは、魔王が死した今もどうしたわけか全くの無傷で残されて玉川白夜の手の内にある。更に男が白衣の内側から取り出したのは青と赤の加速神器、男自身のものと桂木霧江の遺品だった。
「しかし本当にあの魔王を倒すとはな。想定内とはいえ驚かされたぞ」
「……あの女性を食わせたのは、最初からそのデジヴァイスにベルフェモンのデータを記録する為ですね。でも記録したところで回収できなければ意味がない、だから敢えて私をこの場に誘い出して魔王を倒させた」
後ろで飛鳥が口に手を添えて目を見開く。
「その通りだ。後ろのご両親より賢いのではないか?」
「……不出来な親かもしれませんが、あなたに馬鹿にされる謂れはありません」
男の隣にタイラントカブテリモンの姿はない。どこからか奇襲を狙っているのか。
「そう警戒せずとも奴ならいずれ現れる。しかしこの際だ、アノニマスとしてのお前の意見を聞きたいものだが」
「アノニマス……?」
快斗が首を傾げる。出会った夜に一度だけ告げた名である。
「元々そのデジヴァイスは休眠中のベルフェモンのデータから作られたものですね。無限に眠り続けるだけの存在を元にしているからこそ、永遠に来ない覚醒の為に人の命を無制限に吸い上げ、逆にデジモンからはまるで睡眠中のように意思そのものを奪う。そしてあなたはその欠陥を恐らくは敢えて残した」
「ほう……何故そう思う?」
「目を見ればわかります。……あなたのそれは、同じ人を見る目ではない」
桂木霧江のムゲンドラモンを見た時点で気付けなかったことは失態だったが無理もない。ムゲンドラモン種は元より意思を持たないデジモンであったからだ。だがあの夜続けて乱入したサーベルレオモン、そして今夜のグランドラクモンを前にして確信した。彼らには己の意思が恐らくない。つい数刻前まで煌羅がジンライをそう思っていたように、ただ人間の力として在るだけの心なき怪物でしかなかった。
それを仕組んだのがこの男だ。恐らくベルフェモンをこうも容易く倒せたのも。
「……言ってくれるな、人間ですらない小娘がこの私に説法とは。ロイヤルナイツの末裔でありながら、私の助力がなければ怠惰の魔王を倒すことすら叶わなかった分際で!」
「やっぱり、あなたが……」
即座に確信できる程度にはあのベルフェモンは弱すぎた。
煌羅の推測でしかないが、小金井将美と共に怠惰の魔王に食われたあの加速神器には何らかのワクチン種のモンスターが仕込まれていたのだ。恐らくは魔王に対抗し得るワクチン種の究極体、それがウイルス種であるベルフェモンの体内で反発を起こし、魔王の力を弱めていたに違いない。
許せない、そう思う。魔王を利用したばかりか潔く全力で戦った上で散ることすらさせなかったことが。
「ねえ煌羅……」
「えっ?」
なのに、そんな正義感は。
「人間じゃないって、どういうこと……?」
後ろから呟いた“母”の表情だけで全て消え失せる。
散々自分に女狐と邪険にされてきたのに、高嶺煌羅にだけは明るく朗らかな色を決して崩さなかった彼女の顔が、どこか怯えたような、拒絶するような色を纏っていたことが、今までの何よりも高嶺煌羅の心を打ちのめす。
「ねえ、煌羅ぁ……っ!」
「……っ! 話は後です、今はこの男を──」
泣きそうな“母”の声を振り払う。隣の“父”の顔を見られなかったのは、きっと自分の弱さだろう。
別に隠しているつもりはなかった。ただ、この一年足らずの生活で快斗も飛鳥も出会った日の夜以外は全く聞いてこなかったから、自然と理解してくれているものだと勝手にそう思っていた。そもそもサーベルレオモンに生身で立ち向かう出会いを果たし、今またベルフェモンに果敢に挑んだ自分を普通の少女だと認識している方がおかしいのだと思う。
それでも言わなかった、言えなかったのは煌羅なのだ。
だから結局は隠していたのと同じだ。きっとあのアニメと同じく異世界で冒険する普通の少女だと思って欲しかったのだ。かつて滅びた騎士団の末裔で、そもそも生まれからして人間とは全く違う生命体だと思われたくなかったのだ。
少女は自分を良くしてくれる父と母に嫌われたくなかった、それだけの話。
「ふむ。確かにまだ不完全とはいえベルフェモンを倒したロイヤルナイツの末裔だ。今この場で戦えば確かに負けるのは私だろうな」
白夜は笑う。老獪といった単語が形を成したかのような余裕ある笑み。
「だが……」
飛来するタイラントカブテリモン。その手から落とされた何かが白夜の手に収まる。
この場にいる白夜以外の誰もが知る由もない。黒光りするそれは、グランドラクモンへと変貌した龍崎時雨が遺した加速神器・暗黒。魔獣が蹂躙する光ヶ丘団地の中に無傷で残されていた最後の一つだった。
「……少し遅かったな」
正義。
自然。
究極。
そして暗黒。
魔王のデータから作り上げられた四属性が揃った時、それらが淡い輝きを放ち始める。
私は何を言った? 何を言ってしまった?
隣の快斗がこちらの肩に手を置いて無言で首を振ったのを見るまでもない。見て見ぬフリをし続けてきたはずなのに、出会った日からそんなことはわかっていたはずなのに、恐怖と当惑でグチャグチャになった鮎川飛鳥の頭は、自分の言葉が彼女をこうまで傷付けるだろうことが予測できなかった。
自分の惨めに震えた言葉を聞いた瞬間の煌羅の顔を見れば一目瞭然だった。
「あ、煌羅……」
目の前に立っている白衣の男は、殆ど話したことはないが確か父の従兄弟だか甥だったかの研究者だ。まるで飛鳥は話についていけないながらも、どうも彼が本当の黒幕だったらしいことだけはわかる。
それでもそんなことはどうでもいい。彼の持つ四つの加速神器が光を放ち始めていることなどどうでもいい。
今すぐにでも自分は、煌羅に謝らなければ。謝って抱き締めてあげなければ。
「……少し遅かったな」
遅かった? 遅くなんてない。これから自分達はずっと一緒に──
無意識に反発した次の瞬間、鮎川飛鳥が見たのは。
「えっ……」
加速神器から放たれた一筋の閃光が、高嶺煌羅の小柄な体を貫く光景だった。
一瞬の出来事過ぎて反応できない。隣の快斗すら目を見張るだけで言葉を発しない。煌羅を貫いた閃光はそのまま自分達の間を通過して、その背後で立ち竦むブレイクドラモンの体をも貫通していて。
吹き飛んだ煌羅の体は、ちょうどブレイクドラモンの胸元へ叩き付けられた。
「あ、が……!」
それはまるで腹部に杭を打ち付けられて磔にされたよう。
少女らしくない嗚咽を漏らす煌羅の口から、コフッと小さな血の塊が地に落ちた。
「きら……ら」
即死でないのが不思議なほど。SFアニメで見るレーザー兵器というのは、きっとこういうものなんだろうとどこか他人事のように考える自分がいた。
恐らく時間にして数秒間、飛鳥も快斗も全く動けなかった。もうどうしようもないことが傍目にもわかる。串刺しにされた娘を救う手立てなど、単なる高校生の自分達にあるはずがない。
だから二人を我に返らせたのは更なる乱入者の声だった。
「飛鳥! その娘を殺せ! 今すぐに!」
「お、お父様……?」
ダークドラモンと共に降り立った父、九条兵衛の言葉だ。
「早く……それしか手は……!」
だが全身を焼かれたように黒く焦げたスーツの父は、それ以上の言葉を紡げない。
「生きていましたか叔父上殿。だが少し遅かったと言ったはず」
「白夜、貴様の思い通りにさせるわけには……!」
「タイラントカブテリモン、邪魔者を消せ」
同じく全身の鎧に亀裂を走らせ、その合間から黒煙を上げるダークドラモンの前にタイラントカブテリモンが立ち塞がる。
「くっ……」
「聞かせろお義父様! どういうことだ!?」
「貴様にお義父様と呼ばれる謂れは──」
「ンなことどうでもいいだろうが! 言え!」
快斗が父の胸倉を掴み上げて怒鳴っている。父にこんな態度を取れる人間は世界のどこにもいなかったのに。
「……白夜の目的はその娘を殺すことではない。恐らく加速神器の力でその娘を……」
「その通り」
四つの加速神器を構えた玉川白夜が一歩ずつ歩いてくる。
「元より私の目的はその娘だと言ったはずだ叔父上殿。ベルフェモンではない、他のあらゆる有象無象の怪物どもでもない。かつて異世界に名を馳せたロイヤルナイツの転生体、私の狙いは初めからその娘だけだった」
動けない。徐々にジンライとそこに磔にされた煌羅に近付いていく壮年の男を、まるで王の闊歩を見守る兵のように快斗も飛鳥も素通りさせるしかない。
「では私を止めてみるかな御令嬢。叔父上の言う通り、今この場で娘を殺せば私の目的は破綻する。既に虫の息である故に成長期程度の攻撃でも十分トドメとなろう。そのパートナーに命じてみるがいい、私の娘を殺せと」
「ふざけんな……!」
できるわけがない。自分達にそれができないことを知っていて煽っている。
「では黙って見ているがいい。君達の今夜の奮闘は見事だった……桂木霧江を退け、そこの九条兵衛ともやり合った。実に有用なデータを提供してくれたよ。だが家族ごっこはそろそろ終わりにしようじゃないか」
家族ごっこ? 自分と快斗と煌羅の過ごした日々が?
無様なぐらい涙で視界が滲む。この場において鮎川飛鳥は何もかもが弱かった。心も体もまるで思い通りにならない。あまりにも無力だった。目の前の男に駆け寄って張り倒すことも、心を鬼にしてイサハヤに介錯を命じることもできない。
ただ一言やめてと叫ぶことすら、自分にはできないのだ。
「その逡巡は正しい。君達も直に大人になるのだ、人でない化け物などと関わっていたことなど平凡に生きていく上での遺恨でしかない。斧やら竜やらを平然と繰り出す娘との生活など人の世にあるべきではない」
まるで先の恐怖心を見透かされるかのようだった。
煌羅を人ではない身だとこの男は言っていた。ムゲンドラモンに力を注いだ果てに死した桂木霧江、母だった人の姿を思い出す。煌羅もまたあのムゲンドラモンと同じ存在だったとしたならば、彼女と関わり続けた自分や快斗は果たしてどうなるのか。
そんなはずないのに。
そんなわけがないのに。
それでも飛鳥は、否定の言葉さえ紡げない。
「俺達の娘を、化け物扱いするんじゃねえー!」
快斗の声が聞こえる。立ち向かおうとしてすぐにタイラントカブテリモンの起こした風圧に吹き飛ばされて隣で引っくり返っている。それでもすぐに立ち上がって走り出し、やがてまた吹き飛ばされて戻ってくる、同じことの繰り返し。
「くっそー! やめろー!」
「煌羅を好きにはさせん!」
気付けばポンデやイサハヤも加わっている。けれど成長期の姿では結果は快斗と同じだ。
ただ愚直に突進して弾き返される彼ら。それを無様だなんて笑えない。だって自分の方が余程無様。鮎川飛鳥は涙で視界を歪めるばかりで立ち向かうことすらできやしない。煌羅を可愛がっていたつもりで全く向き合っていなかった自分に気付いたから。彼女が人間でないと聞かされただけでこんなにも動揺している自分に気付いたから。
それなのに、どうして。
「あ……が……」
腹を貫かれて今にも息絶えそうなのに、どうして。
「逃げ……て」
どうしてあの子は、私のことを思えるんだろう。
「無力な者達が無様に足掻くのも酔狂ではあるが飽きたな。……始めるか」
白夜が磔にされた煌羅に向き直る。四つの加速神器を構えた。
朱に染まった煌羅の口元が動く。両の瞼が微かに開いて虚ろだった瞳が、瑠璃色の瞳が見えた。
それは真っ直ぐに、この場で最も無様な飛鳥(はは)だけを捉えていて。
「お母……さ──」
煌羅とジンライを串刺しにするかの如く叩き込まれる加速神器。
その瞬間。
全てが決壊した。
「煌羅ああああああああああああああああああっ!!」
竜が、いた。
「フハハハ……フハハハハハハ……!」
空を覆い尽くす紅き翼。獣そのものの瞳はそれでも彼女と同じ瑠璃色で。
ブレイクドラモンより遙かに巨大、ベルフェモンより遙かに醜悪。
「やはりそれがお前の本当の姿だ! 素晴らしい、素晴らしいぞアノニマス!」
男が嗤っている。少女だったそれを嘲るように、竜と化したそれを讃えるように。
「愚民達が言っていたな。先のグランドラクモンを恐怖の大王<アンゴル・モア>だと! だが違う、ベルフェモンでもない! 私が求めたのは最初からこの力! この力こそが世界を滅ぼし得る恐怖の力<アンゴル・モア>だ!」
君臨する竜と猛り狂う男、まるでそれ以外の世界の全てが消え失せたよう。
光ヶ丘の空はその存在に支配され、自分達人間はただ滅ぼされるだけの存在だと告げられているような錯覚を抱く。事実、彼の竜の力なら数時間で容易く世界の全てを破壊せしめるだろう。
まさに恐怖の大王<アンゴル・モア>、そう呼ぶに相応しい威容だった。
「感謝するぞ叔父上殿、そして小僧ども! 竜帝エグザモン! 私はこの力で世界の全てを支配する!」
それでも男の言葉など殆ど耳に入らない。
飛鳥の頭にあるのはただ、意思なき瞳で自分達を見下ろしている“娘”だけだった。
見ないで。
そんな目で見ないで。
あなたを傷付けた私を見ないで。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
謝るから。何度でも謝るから。
だから一度だけ、もう一度だけ。
呼んで欲しい。
お母さんって。
煌羅。私も呼ぶから。
煌羅。私が付けた、あなたの名前を。
煌羅。何度も、何度でも。
煌羅。だから、もう一度だけ──────
◇
・ベルフェモン スリープモード/レイジモード
光ヶ丘の地下で研究されていた魔王。1997年に突如として人間界に現れて暴れ回るも、すぐに休眠状態に入ったことで人類の手に落ちた。日本において加速神器をはじめとする異世界の研究が飛躍的に進んだのは、主にこの魔王を手中に収めていたからに他ならない。どういう理屈か、小金井将美という女性を求めており、1999年7月に彼女を捕食したことで突如として覚醒、光ヶ丘でジンライと激闘を繰り広げた。
かつて異世界でロイヤルナイツと呼ばれる騎士団と戦い、その半数を死に至らしめた模様。
デジモン誕生の年である1997年に出現し、デジモンアドベンチャー放送年である1999年に覚醒するというデジモン愛に溢れた魔王。
【後書き】
いよいよ本作も佳境となります。夏P(ナッピー)です。
割と前回と今回の話を書く為にお盆休みを光ヶ丘の散策に費やしましたが、流石に四半世紀前の光ヶ丘を上手く再現するのは難しかったです。ぶっちゃけ無印デジモンアドベンチャーの映画を何度も見返した方が良かったまである。あの映画を見返すと最後にグレイモンとパロットモンが激突した大通りを歩きたくなりますよね。
というわけで、作者の書く話では珍しくロイヤルナイツが最強の存在として出現致しました。
残り3話!(多分) 是非最後までお付き合いください!
◇