◇
「ハアッ……ハアッ……ハアッ……」
光ヶ丘の団地の中、龍崎時雨は息を荒げながら道を急いでいた。
動悸が収まらない。まるで心臓からマグマの奔流が溢れ出したかのように体の中から熱が発しているように感じる。全身から噴き出る汗を拭ったところで、お気に入りのタイトなスカートのポケットに入っているそれに気付いた。
「なんでアタシ、こんなの……持って……」
加速神器・暗黒<エビル>。携帯電話すら持ち出すのを忘れたというのに、何故これだけ持って出ようと思ったのか。
体の調子がおかしいと気付いたのは今朝だった。単なる寝不足かと日曜日の特権で二度寝を決め込んだのだが、どうにも寝付けなかった。気付いた時には熱病に冒されたかのように全身が熱くなっていた。季節外れのインフルエンザかとも思ったが、27年の人生の中で一度たりとも風邪すら引いたことのない時雨である。寝ていれば治ると軽く考えて、寝付くまでの話し相手として知人達に電話をかけたのだが誰にも繋がらない。
恋人にして今冬に結婚を控えている銀河も。
同じ団地で新婚生活を営んでいる香と将美も。
最近仕事で忙しいらしく顔を合わせていない竜馬も。
「どうしちゃったのよ、アタシ……!」
へたり込みたい気分でマンションの壁に背を預けた。
救急車を呼ぶべきかと思ったが、気の所為だった時の気恥ずかしさが勝り、無理を推して歩いて行ける距離の香と将美の部屋まで来たが、どうも二人して外出中らしく何度チャイムを押しても反応はなかった。相変わらずラブラブらしいが、自分も冬には恋人とそうなるのだと思うと別段文句を言う気にもなれない。
歩くことすら辛くなってきた。自分の部屋まで戻れるだろうか。
「あれ……?」
おかしい。帰らなければならない。そう思っているはずなのに、時雨の足はどんどん自宅から遠ざかっている。
ふらつく足取りと上気した肌で街を歩く薄着の女はどうしたって目立つもので、奇異の視線を向けられることに気付いた時雨は、隠れるようにその足を路地裏へと向けた。息苦しさと熱さとで胸が張り裂けそうな感覚に襲われ、薄暗い路地裏で雑居ビルの壁に両手を付けて胃の中のものを吐き出した。
「ハア……ハア……えっ……!?」
吐瀉物の中に真っ赤なものが混じっている。平時であれば目を逸らしたくなるそれをマジマジと見つめ、やがて自分の血だと気付いた途端に全身を怖気が走った。
自分は死ぬのか? こんな突然、何が起きたのかもわからずに?
「もしもーし? おねーさん?」
「……?」
不意に猫撫で声が響いた。大方ナンパだろう、混乱しつつも冷えた頭でそう判断しつつ顔をそちらへ向けた。
実際その通りで、金髪や茶髪の如何にもな四人の男がニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながら時雨のことを見ていた。20歳前後といった彼らの視線が、自分の全身を舐めるように這い回っていることが否応にも理解できる。体調不良でさえなければ、この手の輩をあしらうのは赤子の手を捻るより楽な作業なのだが。
「悪いけど……今日は、そういう気分じゃないの。他を当たってくれる……?」
「ちょっと自意識過剰だなぁ、おねーさんは」
「えっ……?」
首を傾げる時雨に男達は続ける。
「俺達が欲しいのは、そーれ」
男の一人に指で示されたのは、気付かない内に握っていた加速神器・暗黒だった。
「……これ?」
「そうそう、ちょっと訳ありでねー」
何故だろうか。これを渡すことでナンパがあしらえるなら安いものだが、不思議と彼らに渡してしまうのはまずい気がした。銀河や香とこれを使って互いのモンスターを戦わせた夜のことが思い出され、自然と時雨は神器を持った腕を引っ込めてしまう。あの時の充足感は何にも代え難いものがあったはずなのに、今どうしてこうなっているのか。
それを男達はどう取ったのか。
「まあタダでとは言わないよ」
「自意識過剰なおねーさんとは少し遊んであげてもいいんだよ」
勝手なことを言いながら空いている方の手を引かれる。
手首を軽く掴まれただけで全身がビリッと来て倒れそうになるのを辛うじて堪えた。
「触ん……ないでよ」
「おー、すっげー熱いじゃん……なんだ、やっぱりおねーさんも期待して──」
にやつきながら男の一人が時雨のチューブトップから露出した肩に手を伸ばした瞬間。
「えっ?」
バサリと響く乾いた音。その場にいる時雨以外の誰もが目を丸くする。
棒状の物体がコンクリートを転がる。その先には半端に開かれた五本の指が付いており、それはつまり。
「あっ……ああっ……!」
肘から先を失った男の狂乱の声。他の三人も言葉を失っている。
「お、俺の、俺の腕……っ!」
「アタシに……触んないで……よ」
熱に浮かされたように呟く時雨の腕が、血に塗れた獣のそれへと変わっていた。
「ば、化け物……!」
我先に逃げようとする男達。だがそれは敵わない。
女の両の脇腹を同時に突き破って現れた第二、第三の口が次々と男達に食らい付き、その肉体を余さず咀嚼する。聞くに堪えない嗚咽の後にそれらを完全に消化し切った脇腹の二つの口は、そこから流し込んだエネルギーで女の下半身を魔獣へと変異させる。
男をからかうことを何よりの楽しみとしてきた妖艶な美女、龍崎時雨の面影は最早そこにない。徐々に肉体を膨れ上がらせ、四本の足で大地を踏み締めたそれは、黒き双翼を携えた鮮血の魔獣。
壊れたテープレコーダーのように言葉を紡ぐそれは、もう若い女の声ではなかった。
「……触ンナイデ……触ンナイデ触ンナイデ触ンナイデ……ッ!」
究極体グランドラクモン。
覚醒した吸血鬼の王の足下で、画面の消灯した加速神器・暗黒が人知れず残されていた。
「へぇー、じゃあ煌羅ちゃんはカイちゃんのことも飛鳥のことも大好きなんだねー」
「な、何を聞いてたんですか!? 女狐のことなんて好きじゃありません!」
大泉の駅前のカフェでお茶しながら仁子は煌羅の鼻頭をうりうりと指でつつく。
「カイちゃんのことは?」
「……好きですよ」
「まあ年頃の娘はお母さんよりお父さんの方が好きって言うしなー」
「は、母親だなんて認めてませんからっ」
「まあまあ、とりあえずアイスコーヒーでも飲んでみ」
「ありがとうございます! うわ苦いっ!」
ケホケホ咽せる彼女の姿が面白く、一日中この少女のことをからかって過ごしている。
快斗が娘を預かってくれないかと連絡してきた時は驚いたものだが、実際に会ってみれば高嶺煌羅はなかなかよくできた子であると一ノ瀬仁子は思った。12歳だと言い張る割にその半分程度にしか見えないのはともかく、しっかり分別も弁えているし何よりも礼儀正しい。お調子者な快斗や落ち着きのない飛鳥と比べれてもむしろ大人なのではと思わされる。
「もう少しでパパとママ帰ってきまちゅからねー、大人しく待ってましょうねー」
「……ジンコさんって変な人ですね」
「うおう大分下の子に馬鹿呼ばわりされたっ!」
「いえ、なんか快斗さんに似てるなって」
「もっと失礼じゃねーかっ! ……うん?」
夕闇の中、サイレンの音が幾つも聞こえてきた。何か街が騒がしいような気もする。
ノストラダムスの大予言だなんて信じていないが、それを面白おかしく語り散らす人間はいるもので、今日も駅前ではそれ関係の演説をしている輩を何人か見た。それらは漏れなく警察に解散させられていたので今回もその手合いだろう。そう考えた仁子だったが、何やら周囲から「光ヶ丘に化け物」「公園から火が出て」「怪獣映画みたい」だの意味不明な声が聞こえてくるので眉を潜めた。
「……なんか物騒だね。早いけど家で待とうか煌羅ちゃ……」
そして視線を正面に戻して、仁子は目を疑った。
「えぇー!?」
向かいの席に座っていた高嶺煌羅の姿が、消え失せていた。
光ヶ丘の街中から突如現れた巨大な魔獣。
黒き双翼を備えた紫紺の体躯と醜悪な第二、第三の口を有する四本足の下半身。その上に立つ上半身は胸を抱くように両腕を交差させており、不可思議な気高さすら感じさせる容貌も相俟って神話の中でのみ謳われる冥府の住人であるかのようだった。それがつい数刻前までは美しい女であったことなど知る由も無く、まるで空を覆わんばかりのその異形を前に、やがて逃げ惑う誰しもが呟くのだ。
恐怖の大王<アンゴル・モア>が現れた──と。
『本日ハ晴天ナリ。』
―――――FASE.6 「Imaginary Brigade」
グランドラクモンが暴れ始めるのを、近くのビルから玉川白夜は時代遅れの双眼鏡で眺めていた。
「龍崎よ、お前も失敗だったか……」
だが何ら成果を残せず加速神器に命を吸われた車田香よりはマシなデータが取れそうだ。そうした意味であの美しい女が醜い魔獣と化したことにも些かの価値は見出せる。
しかしスピノモンとグランドラクモン、どちらも失うには些か惜しい究極体である。目下暴走中のグランドラクモンはこちらで片付けるとして、問題はスピノモンの方だ。香が所持していた加速神器・自然は彼の妻に持ち去られてしまった。そしてその女は今、九条兵衛と桂木霧江が並ぶ戦いの渦中にいるという。
白夜は60歳を超えた老体、元より戦いは本職ではないので神器回収の為とはいえ、その場に乱入するには些かの危険が伴う。
まずは残る二人の教え子、月影銀河の正義と武藤竜馬の究極の回収を優先すべきか。
「あの二人とてそう長くはないはずだがな……」
笑うでも嘆くでもない。ただ淡々と、玉川白夜は死に行く教え子を思う。
正義、暗黒、自然、そして究極。四つの属性をそれぞれ宿す加速神器を、玉川白夜は二つずつの計八個作成した。それらが欠陥として使用者の生命力を削り取り、何らかの致命的な不具合を起こすことは想定の範囲内だ。むしろ意図的にその欠陥を残したと言ってもいい。異世界に伝わる神器を完全に再現するのは現代の科学では不可能であり、将来も見据えれば欠陥すら含めたデータ取りは必須だった。
故に白夜はまず四属性をそれぞれ、優秀だった教え子四人に託した。人体実験である。
スピノモンを育てた車田香は生命力を吸われて衰弱死した。
グランドラクモンを育てた龍崎時雨は肉体を内から食われて魔獣化した。
では残る二人、サーベルレオモンを育てた月影銀河とスレイプモンを育てた武藤竜馬、彼らは果たして如何なる死を迎えることになるのか。
「そして九条先生……恐らくあなた方も長くない」
九条兵衛の暗黒と桂木霧江の究極、あれらもいずれは回収しなければなるまい。
彼らの尊い犠牲により科学は進展する。近い将来、あの異世界に自由に人間が行き来できる日も来るかもしれない。それを思えば安い犠牲である。犠牲を恐れて発展しない科学など何の価値もないのだから。
そして残り二つ。白夜の手元に残る正義と自然は、果たして如何に活用すべきだろうか。
「……む?」
双眼鏡の先、何を考えているのかグランドラクモンに向かっていく人影を見た。
その影の主は、6歳ぐらいの少女のように見えた。
山間部の木々を薙ぎ倒し、サーベルレオモンとスレイプモンの死闘は続く。
ネイルクラッシャーが聖騎士の前足の鎧を砕き、同時にオーディンズブレスが獅子の後ろ足を凍り付かせる。ほぼ同時に相手の機動力を奪った二体は、互いの得物が届く距離で再び対峙してジリジリと必殺の機会を伺う。飛び道具が意味を成さない状況、ここからは血湧き肉躍る殺し合いだ。
「竜馬。……君は、間違っている」
同時に遠く離れた森で向き合う二人の男が、互いの足に反動(フィードバック)を受けて跪く。
「……聞こう」
「恩義に報いると君は言った。だが君の恩人とやらは本当にその価値がある男か?」
片足を千切られるような痛みに、その顔を苦渋に歪めながら月影銀河は友に問う。
「九条先生の……悪口は……」
「違うんだ、竜馬」
睨み返す武藤竜馬を手で制して続ける。
「僕が言っているのは、玉川白夜のことだ」
「教授……だと?」
サーベルレオモンが前足を叩き付け、スレイプモンの、竜馬の上半身が仰け反る。
「ぐっ……!」
「九条兵衛の計画のことは僕も調べた。なるほど確かに高潔だ、世間では真っ黒だの裏との繋がりだの言われているが、あの政治家先生の本質は少年のように真っ直ぐらしい。確かに竜馬、君が恩義を感じるに値する男だとは思う」
続け様に弓を番えようとする右腕に牙を突き立てる。足を止めての肉弾戦であるならば、聖騎士スレイプモンより古代獣であるサーベルレオモンに分があるのか。
「だが一方で玉川白夜、僕らの教授はどうかな」
「どういう……意味だ」
「如何に清涼なる水流も、一滴の淀みで容易に汚れるということさ」
学生の時分より、銀河は玉川白夜という男を信用していなかった。
厳格な男であるし、生真面目な男であった。教えを請うにこれ以上優秀な男もそういないだろう、それは事実だ。だがそれ以上に自分以外の人間を自分と同格の価値があると捉えていないような、そんな雰囲気が彼にはあった。常に誰かを見下しているかのような玉川白夜の冷たい瞳が、月影銀河は当時から苦手だった。
「黙れ!」
スレイプモンが聖盾ニフルヘイムを叩き付ける。その一撃でサーベルレオモンの脇腹が抉られ、獅子と同期する銀河もまたガハッと血を吐いた。
「淀みと言うならそれはお前だ月影! お前だけではない! 龍崎も! 車田も!」
誰よりも冷静だったはずの同級生が叫ぶ。
「お前達はいつもそうだ……! 未熟で浅はかで愚かで、その癖あろうことか偉大な先人のことを侮辱する! 彼らの為すことを、為したことを感情論で否定する! この国の平和が今在るのは誰のおかげだ! その恩恵に預かって生きてきたのは誰だというのだ! 批判をするだけなら容易い、邪魔をするだけなら誰にでもできる! 何も為せないお前が、正義ですらない八つ当たりしかできない若僧(おまえ)が、九条先生と玉川教授を語るな……!」
盲従である。恩義と尊敬はその実、武藤竜馬の視界を確かに狭めていた。
叫びと共に放たれる聖騎士の打撃が、確実に獅子の肉体を抉っていく。身体能力と攻撃力そのものはサーベルレオモンに分があったとしても、生身の体を晒す古代獅子と頑強な鎧で身を固めた聖騎士とでは耐久力が違いすぎる。接近戦で殴り合えば先に力尽きるのがどちらであるかは明白だった。
「……君は、純粋だね」
理解して欲しいとは思わない。それでもきっと届くと信じている。
「君がそんな男だとは、知らなかったな……!」
だって自分達は友人だ。同じゼミで四年間の苦楽を共にした学友なのだから。
「表面的な友情など……俺には興味がない」
「……それには同意だよ」
既に両者とも満身創痍だ。数メートルの距離を保って立つ二人の男は、互いに千切れそうな肩を押さえながら荒れた呼吸を必死に整えようとする。
「それでも僕は、あの教授の邪魔をし続けるよ……」
「……何故、そこまで」
「僕だけじゃない。時雨も、香も……そして君の命も、懸かっているからね」
「な……に」
目を見開く竜馬。きっとそれが彼の見せた今日初めての隙だった。
故にそのタイミングしかない。サーベルレオモンが凍り付いた足に構わず飛ぶ。凍結から無理矢理引き剥がした足の裏が抉れ、後ろ足が奇妙な方向に捻じ曲がる。その蛮行に刹那の反応が遅れたスレイプモンが弓を番えた時には、獅子は機能を失った一本を除いた三本の足で走り去るところだった。
「月影、貴様……!」
咄嗟に振り返った竜馬が唇を噛みつつ視線を戻した時、月影銀河は既に仰向けに倒れ伏していた。
サーベルレオモンが犠牲にしたのと同様、銀河の片足も捻れている。恐らくは再起不能、まともに歩くことは二度とできないだろう。何よりもあの獅子を使役し続けた男の肉体は、そもそもそう長く持つまい。
「逃げるが……勝ちってね……」
「……俺が今この場でお前の息を止めれば、サーベルレオモンも消えるはずだがな」
「それは、考えてなかったな」
嘘だ。竜馬はそう思う。息も絶え絶えの癖に真っ直ぐな月影銀河の目が告げている。
この男は竜馬が今ここで自分にトドメを刺すなど微塵も考えていない。そして最初からスレイプモンを倒す気もなかったらしい。考えていたのは如何にしてこちらを出し抜くか、ただそれだけのことだった。
呆れた男だ。そして食えない男だ。思えば学生の頃からそうだった。
「教授は誰よりもお前を買っていたな」
「光栄だね。……おかげで今、酷い目に遭っているんだけどね」
「違いない」
何故か竜馬は笑った。場違いに笑い合った。
だからだろう。空を見上げて、くだらないことを言いたくなった。
「九条先生の目的は、奴らの生きる異世界をこちらの世界と繋ぐことだ」
「……いいのかい」
「ここにいる生きた人間は俺だけだ、くさったしたいが一体いるがな」
雑魚モンスター扱いは辛いな。銀河はカサカサの喉で再び笑った。
「先生の理念は崇高だ。我が国の国土は狭い。山間部を除けば居住可能面積は更に狭まる。これ以上の発展には、国土の拡充が必要だと考えたのだ。だが先の大戦以降、国際社会では他国の侵略と植民地支配は事実上不可能となっている。そこで目を付けたのが、玉川教授の提案した異世界との接続だった。人の絡まない領域への進出、それこそが九条先生の理念の根幹となっていった」
「ファンタジーだね、なかなかに」
「俺も初めて聞いた時はそう思った。だが教授の作った加速神器、これは部分的にあちらの世界をこちらに繋ぐことで怪物を召喚させている……そしてスレイプモンを育て上げた時、俺もまた得心した」
彼らの住む異世界は必ず存在するのだと。
「それからは知っての通りだ。俺は九条先生の為に行動してきた、そしてこれからもだ」
「………………」
「だが月影、お前は教授には別の目的があると言ったな」
ゆっくりと頷いた。全身が痛む今、それが竜馬に認識できたか銀河には不安だった。
「記憶しておいてやる。だがお前がまだ妨害を続けるというのなら、俺は容赦をしない」
それだけだ。そう言い置いて武藤竜馬は踵を返す。
「トドメは刺さないのかい……?」
「言っただろう。ここにはリビングデッドが一体いるだけだと」
「ちょっとだけランクアップしたね……」
よろよろと体を起こす。片足はもう死んだようだが、それ以外はなんとか動かせた。
「……ありがとう、竜馬」
そう告げる。それ以上の言葉はない。
だから竜馬の方にも余計な言葉は要らない。彼は数秒だけ立ち止まり、東京へと続く空を見上げて何を思ったのか、僅かに顔をこちらへ向けて。
「また会おうな……親友。龍崎と車田と……玉川ゼミの皆で」
学友への最後の離別の言葉を口にするのだ。
少女は群衆の波に逆らって走る。
空が朱に輝いているのは夕闇の所為だけではないと理解した。
「大変です……!」
幾度となく噴き上がる火の手はまるで火山のようだ。ここに来るまでに消防車と救急車を何台も見かけた。元より両親──母の方は母と認めていないが──と出会って以降、殆どの時間を静岡で過ごした身の彼女は東京の地理という奴に明るくはなかったが、この先にあるのが光ヶ丘と呼ばれる場所だということだけは理解できた。
光ヶ丘。今日、彼と彼女が向かった場所のはずだ。
「快斗さん……!」
駆ける。6歳児とは思えない速度でただ駆ける。
警察の封鎖もまだ完璧ではないらしく近付くのは容易だった。何せ逃げ惑う人々とは逆に走ればいいのだ。今日一日面倒を見てくれた一ノ瀬仁子には悪いことをしたが、巨大な怪物が現れたと聞いてただ待っていることはとてもできなかった。
この世界を訪れてから一年弱。対峙したのはサーベルレオモンとムゲンドラモンの二体。どちらも全力を出せない今の自分とジンライでは倒せぬ難敵であった。だが何か違うという直感があった。聡い彼女には、いずれ彼ら以上のとてつもない敵が現れるだろうという確信があったのだ。
果たしてその確信は的中する。高層マンション以外には大したビルもないので次第に見えてくる件の場所に君臨するそれの姿を、高嶺煌羅はその目でしかと見た。
知っている。その禍々しい魔獣の名を、煌羅は知っている。
「グラン……ドラクモン……!?」
しかし煌羅でも名前以上の情報を殆ど持っていないダークエリアの管理者。音に聞こえた七大魔王以上とも謳われる闇の魔獣の姿がそこに在る。
有り得ない、そう思う。彼の魔獣はその化け物染みた容貌に反して策謀を己が本分とする知性体であるはずだ。その在り方は力こそ是とされる世界において異質であり、数多の天使型を甘言で堕落せしめて世界を裏から引っ繰り返すとされた存在なのだ。それ故に奴が何ら益のない人間界に現れることなど考えられなかった。
違和感はもう一つ。サーベルレオモンとムゲンドラモン、どちらも究極体クラスの存在がこの世界に現れた時、存在の隠蔽の為に必ず発生していたデジタルフィールドが今はない。地響きと共に光ヶ丘を火の海へと変える怪物の姿を、誰もが目にしてしまっている。
しかし止めざるを得ない。自分はその為にこの世界に在るのだから。
「ジンラ──」
だが公園の入口まで辿り着いたところで煌羅は手を止める。
避難する人々が奇異の目でこちらを見ていた。年端も行かぬ少女が両親も伴わないまま、逃げる素振りも見せずむしろ怪物の方へと向かおうとしているのだ。奇異の目、また心配の目で見てくるのも当然の話だった。親と逸れた可哀想な迷子とすら思って声をかけようとする大人達の姿も見えた。
ここでジンライは出せない。彼らを巻き込むことはできない。
「快斗さん、どこですか……!?」
咄嗟に彼らの視線から逃げるように再び走り出す。
携帯電話というものを煌羅は持たされていなかった。だから快斗や飛鳥を探すには、ただ足で走り回ることしかできない。光ヶ丘団地からデパート地帯へと進んできた魔獣を視界に捉えながら近隣で彼らの痕跡を探す煌羅。しかし慣れない土地、見知らぬ場所、更には逃げ惑う人々でごった返す現状でそう簡単に見つかるものではない。
気付いた時にはグランドラクモンは公園エリアまで侵攻してきていた。
「……私、どうしたら……!」
避難はまるで完了していない。一切の技を使用せず、ただ全てを薙ぎ倒して闊歩してくるだけの魔獣を前に、人間はあまりにも無力だった。
数多の人々が踏み潰されようとしている。つい先程まで平和だったはずの彼らの生活圏が為す術無く蹂躙されようとしている。デジモンの存在は隠匿しなければならない、何よりも人々に先程のような奇異の目で見ることは耐えられない。ここでジンライを出せば、怪物を使役する女だと知られれば、二度と快斗と過ごしてきた面白おかしくも平和な日々に自分は戻れなくなるかもしれない。
だから迷いがある。躊躇いがある。後ろ髪を引かれる思いがある。
誰の所為だ、誰の所為だ、誰の所為だ──!
『子供が遠慮するもんじゃありません-!』
いつか聞いた、そんな声が頭に響いた。
「……誰が! ……遠慮なんて……っ!」
反発心が噴き上がる。頭の中で撃鉄を引き起こす。
気に入らない女の気に入らない声が、気に入らないことに何より高嶺煌羅を奮起させた。
魔獣の足が迫る。その足に今にも踏み潰されようとしている幼子の姿が見えた。恐らく煌羅より年少の童女だろう、母と逸れたらしく大声で泣き喚いている。その姿がかつて今この場所で倒れ、二人の男女に拾われた時の自分と重なって見えた。それだけで何かに救われたような気分になった、名も無き少女(アノニマス)の姿とダブって見えた。
今度は自分の番だと、そう思えた。そうできるだけの力が、自分にはあるはずだから。
「ジンライーーーーッ!!」
咆哮する。迷いも躊躇も打ち捨てて、ただ正面に迫る魔獣に立ち向かわんと吼える。
形成される電脳骨格(ワイヤーフレーム)は以前より遙かな巨大。張り替えられる深緑の翼は大型の副腕へと変貌し、振り下ろされるグランドラクモンの前足を受け止める。かつてのジンライより地上戦へ特化した竜が、逃げ遅れた少女を守るべくそこに立つ。
完全体グラウンドラモン。ジンライの進化した姿、元に戻りつつある姿。
「……気に入りませんけど」
曲がりなりにも自分を奮い立ててくれた彼女のことを思い浮かべる。
「あなたの街は、私が守ってみせますから……!」
高嶺煌羅の刃は、新たな力を得てグランドラクモンと対峙する。
桂木霧江が玉川白夜という男に加速神器を与えられたのは、ちょうど昨年のクリスマスだったと記憶している。
兵衛の甥で大学教授だと聞いたものの、あまりに胡散臭そうな男に嫌悪感を隠さなかった霧江だったが、人間のDNAを吸って育つ生命体を育成してみないかと言われた時、何年か前に大流行したたまごっちみたいなものだと思えば、それはそれで何か面白そうだと思ったのも否定はできない。
自分自身のDNAを与えてモンスターを育てるのは、どこか子育てにも近くて楽しかった。
『教授サン、この子ら、普通にご飯食べさせたり戦わせたりでは強くなんないわけ?』
ある日、完全体まで到達した辺りで玉川白夜にそう聞いてみたことがある。
『ポケモンのようにか?』
『……えー、教授もポケモンとかやるんだ。いやそうなんだけどさ』
白夜は少しだけ考え込んで答える。
『考えられんな。この世界で生きる以上、彼奴らは人のDNAを吸わねば育たんはずだ』
そんなもんかとその時はそれで納得した。
(どういうこと……だい……?)
だが今、霧江の胸に去来するのは疑問だった。
「イサハヤ、進化した-!? なんか飛んでる-!?」
「フフフ、格好良いだろう?」
「カッコいいけど足が三本あるわー!?」
「サッカー日本代表のマスコットだぞ」
「うるせえ! ドーハの悲劇思い出させんな!」
場違いに騒ぎ立てる一人と一羽の声がどこか遠かった。
目の前の鮎川飛鳥のパートナーが成熟期から完全体への進化を果たした。だが彼女は自分と違ってパートナーにDNAを与えた様子はない。そもそも彼女は加速神器を持っていない。実は九条兵衛が愛娘に気を回して霧江の知り得ないルートで託していたのかと疑ったこともあった。だが三ヶ月前の戦いの時、敢えて見せびらかした加速神器・究極を飛鳥は知らない様子だったのだ。
自分と彼女達は違う? それともあの教授サンが嘘を吐いていた?
「だ、だけどまだ完全体じゃないか! ムゲンドラモンの敵じゃな──」
言葉が続かなかった。
カハッと乾いた音は自分の喉元から。
「……は?」
思わず口に添えた手が朱に染まっている。
意味がわからない。攻撃されたわけではない。そもそも最早あの飛鳥が生身のこちらを狙ってくることなど有り得ないとわかっていた。それなのに迫り上がってくる吐き気と全身に走る鈍痛の原因は一体どこから──。
「……なんだい、こりゃ……」
「えっ……霧江……さん?」
一瞬にして立っていることすらできなくなり、弛緩する桂木霧江の体が倒れ伏す。
目を丸くする飛鳥の姿が見える。彼女の後ろで立っている小金井将美が、口元を両手で押さえながら「カヲル君と同じ……?」だの言っているようだったが、そのカヲルというのが誰なのか霧江にはわからなかった。
急速に力を失っていく体。不思議なぐらいあっさりと、自分は死ぬのだと理解した。
「霧江さん!? ちょ、どうしたの霧江さん!?」
「飛鳥、待て!」
パートナーであるヤタガラモンの制止も聞かずに飛鳥が走ってくる。全く以ってその鳥の言う通りだと霧江は思う。戦いの最中なのだ、敵の策や罠だと思って然るべきである。もし自分がこの場でムゲンドラモンに攻撃を指示したらどうするというのだ。相変わらずあまりの甘さに反吐が出そうになる。
それでも、そうだとしてもだ。
「霧江さん! どうしたの!? しっかりして、霧江さん!?」
今まで殺し合っていたはずの自分を本気で案じ、抱き上げて呼びかける鮎川飛鳥の甘さと優しさが、桂木霧江にはこの世の何よりも好ましく、また愛おしく思えるのも確かだった。その真っ直ぐさだけはきっと、否定されてはいけないものだと思った。
この子に何を教えてあげられただろう。
この子に何を遺してあげられただろう。
戦いの中で何度も彼女の命を奪いかねない指示をしてきた自分は、多分そんなことを考える資格すらない。それでも同時にどこかで楽観的に思うのだ。きっと彼女は許してくれるだろうと。きっと彼女は、こんな身勝手な自分のことさえ変わらずに“母”と慕ってくれるだろうと。
「飛鳥……ちゃ……」
歪んでいく視界の中、霧江は血塗れの手を“娘”の頬に伸ばす。
だがそれは届かない。
ごふっと。
今一度、その口から朱の色を吐き出して。
「霧江……さん……?」
その手に携えた加速神器・究極が地に落ちる。
力を失った女の手が血の海に沈む。
桂木霧江は。
鮎川飛鳥の“母”は、死んだ。
ローダーレオモン。それがポンデの進化した姿だった。
「ポンデが、完全体に……!」
「……貴様、神器も無しにどうやって……!?」
九条兵衛の戸惑いの声が響くがどうでも良かった。
ポンデが今ここで進化したのには何か理由があり、同時にそうなるだけの必然があったというだけのこと。理屈など後から付ければいい、そこに意味があったのかなど偉い人が偉い頭で考えればいいことだ。
「ここからが本番だぜぇオトウサマ!」
「デジモンまでもがその名で呼ぶな!」
ポンデの言葉に激昂した兵衛の怒りを受け、ダークドラモンが突撃してくる。
なるほど、先程までの生身のライアモンにとって彼奴の全身は凶器のようだった。携えた大槍に留まらず彼奴の蹴りも拳も全てが致命傷となる。しかし今は違う、全身機械の完全体ローダーレオモンにとってはパンチもキックも大した脅威とはならない。故に意識するのは突き出される右腕のギガスティックランスただ一点。
ダークドラモンは思考が指示者と一体化しているが故に、その行動が予測しやすい。
「ボーリンストーム!」
高速回転させた鬣で正面からポンデはダークドラモンの槍を受け止める。
ギャリギャリと耳を劈く音と共に交錯した箇所から火花が散る。
あちらは究極体でこちらは完全体。
言うまでも無くパワーの差は明白だったが、だからこそ付け入る隙がある。それは決して理屈ではないのだ。自分達なら勝てる、自分達ならやれるという確信こそが満身創痍の彼らの肉体を突き動かす、常識的には勝てるはずのない相手をも打倒し得る──!
そして九条兵衛もまた、そこで初めて対峙する相手を小僧一人ではなく。
「貴様ら……!」
そう呼んだ。相対する敵を小僧一人とデジモン一匹だと見定めたのだ。
ギガスティックランスが弾け、ダークドラモンの体勢が僅かに崩れる。ダメージはない、ただよろめいただけに過ぎない一瞬。対してローダーレオモンの方は既に限界だった。回転の止まった鬣は各所に亀裂が走り、再度の防御体勢は最早不可能と見える。究極体の一撃を完全体の身で受けるにはそれだけの代償が要る。
そして、それだけの価値がある。
「ポンデ! 決めろーっ!」
全てはこの一瞬の為だ。正面から立ち向かったところで防がれるだけだと知っていた。
そして何より快斗とポンデのプライドが許さない。自分達を散々甚振ってくれた相手には全身全霊の攻撃を打ち破った上でそれ以上を返さなければ自分達の方が納得できない。故にダークドラモンの突撃を敢えて誘ったし、それを逃げずに正面から受けることを選んだ。
意地だ。誰に理解できなくてもいい、これは自分達の意地だった。
「ローダーモーニングスター!」
必殺技の直後で硬直したダークドラモンの脇腹に、ポンデのハンマーが炸裂する──!
ジンライが激しく尻尾のハンマーを打ち付けた。
だが状況はまるで好転しない。グラウンドラモンのメガトンハマークラッシュは、僅かに魔獣の上体を揺らした以上の意味を成さない。
「ジンライ……!」
確かに地竜のパワーは、グランドラクモンの闊歩を押し留めることを可能とした。
だがそれも一瞬だけだ。奇しくも煌羅の父が同時刻にそう直感していたように、完全体と究極体との間には覆せない壁がある。そして今、煌羅が必要としているのはその差を覆せるだけの純粋な力であった。
ジリジリと追い込まれるジンライの巨体。前足を副腕で受け止めたとて、彼の魔獣は残る後ろ足でコンクリートを踏み締めて邪魔者を撥ね除けようとする。段階(レベル)どころか体躯の差すら歴然、あらゆる意味で向こうが上回っている以上、このまま力比べをしたところで押し切られるだけ。
もう光ヶ丘公園内に人気は無い。先の少女も大人が駆け付けて回収していった。
「どうしたら、どうしたら奴を倒せるんですか……!」
だから残るは奴を倒すだけなのに、その手立てがまるで見つからない。
薙ぎ倒された木々が轟々と燃え上がり、立ち竦む煌羅の頬をチリチリと照らす。この世界を訪れて以降、次々と現れる究極体を相手に高嶺煌羅は一度として勝機を見出すことができていない。ずっと得物として用いてきた斧は、もう何の役に立つのかもわからない。
全ては自分が力不足だからに他ならない。本当は自分こそがポンデもイサハヤも、そして前田快斗も鮎川飛鳥も守らなければならないのに。
「もっと……もっと私に力を! ジンライーーーーッ!!」
叫ぶ。喉が枯れんばかりに叫ぶ。
「……それはもう少し先まで取っておくんだ」
そんな穏やかな声が聞こえた。聞こえたような気がした。
「えっ……?」
煌羅の視界に影が差す。顔を上げると、そこには。
「サーベル……レオモン……!?」
かつて襲われ、また救われた宿敵の姿がある。
だが違う。目の前のグランドラクモンから煌羅を、ジンライを守るかのように現れたその獅子の体躯は以前より遙かに大きく、グランドラクモンと伍するように見える。それでいて如何なる戦いを経てきたのか、脇腹は醜く抉れており、後ろ足の片方は千切れかけて殆ど機能しているようには見えなかった。
「何故……?」
獅子は一瞬だけ煌羅の方を振り返ったが、それ以上の言葉は無い。
それでも煌羅には、今のは確かにサーベルレオモンの言葉だったように思えた。穏やかで優しい声、そこには明確に煌羅を守るという意思があった。
「グオオオオオオ!!」
獅子が吼える。この世界に来て初めて、煌羅はデジモンの咆哮を聞く。
ポンデやイサハヤが行うような人間に近い鬨ではなく、それは純粋な獣としての唸り声。野生のライオンそのものと言わんばかりのそれが周囲の大気をビリビリと震わせて、煌羅は思わず右手で顔を覆った。グランドラクモンはこの場で必ず仕留める、そうした意思の表れに感じられた。
逆にグランドラクモンはその上半身の首を傾げさせた。乱入者が何故この場に現れたのかわからない、そんな反応。
「ネイル……クラッシャー!」
獅子が前足を魔獣に叩き付ける。その叫びもまた、煌羅が初めて聞くものだった。
(違う……あの時のサーベルレオモンとは、何かが違う……!)
グランドラクモンに反撃の意思はない。自分の脇腹を打った獅子の前足を第二の口で咥え込むが、咀嚼しようとする気はないように見えた。二体の巨大な獣が絡み合うようにして、至近距離で沈黙する。そういえばあの魔獣は今まで歩き回るだけで、ただの一度として技という技を使う様子がない。
そこで煌羅は一つの仮説を立てる。使わないのではなく、使えないのではないか?
「サーベルレオモン! 多分そいつは必殺技を使えな──」
「……行くんだ」
遮るようにその言葉が脳裏に届いた。
またも響く穏やかな声。こちらに向けられている獅子の瞳に気付く。だから煌羅が聞いたそれはサーベルレオモンの声であるはずだったが、何かが違う気がした。それでも不思議と逆らえない強制力のようなものが存在する声だったように思う。
うつ伏せで呻いているジンライの体が消滅する。煌羅の心は決まったから。
「ここは、任せました」
そう呟く。彼に助けられるのは何せ二度目なのだ。
「……ご武運を!」
駆け出す。グランドラクモンだけに構っている場合ではない。
煌羅の直感が告げている。早く快斗と飛鳥を探してこの場を離れなければ。
きっとこれから、もっと大変なことが起こる。
大した一撃だった。ダークドラモンの脇腹の装甲が砕けている。
だがそれだけである。一撃に全てを懸けたローダーレオモンは最早動けない。それに対してこちらはそれ以上の損傷はなく戦闘行動に何ら支障はない。究極体と完全体が真っ向から打ち合えばそうなるのも必然だった。
勝敗は決した。それでも兵衛は、ダークドラモンにトドメの指示は出せなかった。
「……小僧、名は」
そう問うた。賞賛などできない。何せ愛娘を奪おうという男だ。
「前田、快斗」
「娘はやらん。……が、覚えておいてやる」
それがギリギリの譲歩だ。本来なら顔を見ることすら許せない相手だというのに。
「お父……様」
そんな兵衛の背中に響く愛娘の声。
数年ぶりに直に顔を合わせるというのに、随分と格好の悪いところを見せてしまったな。そんなバツの悪さで振り返った兵衛の視界に映る娘は。
どういうわけか鮮血で頬を濡らし。
最早動かなくなった桂木霧江の骸を抱き。
ただ血の海の中で、跪いていた。
「あ、飛鳥……!?」
「私じゃない……わ、私、知らない……いきなり……霧江さんが……し、死んで……」
カタカタと震える娘の顔。まるで自分が殺してしまったとでも言いたげに痙攣する彼女の頬は青白く、まるで生気を感じられなかった。
見れば桂木霧江が使役していたはずのムゲンドラモンも消え失せている。自分と相対していた小僧と同様、飛鳥の連れていたデジモンもまた完全体に進化したらしく、彼女の後ろで佇んでいる黒い烏がそれだろう。しかし恐らくは完全体、霧江の使役するムゲンドラモンを倒せるとは思えない。何しろ完全体では究極体を打倒し得ないことは、ちょうど今ローダーレオモンとダークドラモンが証明している。
それなのに何故? 何が起きた? 数多浮かぶ疑問符が兵衛の肉体を硬直させる。
「オイ! 気をしっかり持て!」
その声でハッとする。いつの間にか動いていた小僧とローダーレオモンが、呆然とする飛鳥に駆け寄ると共に霧江の骸から引き剥がした。自分達が血塗れになるのも厭わず、迷わず動いたその様に兵衛は今この場で最も冷静だったのはこの若僧達だったのかもしれんと他人事のように思った。
瘧のように震える飛鳥の体を若僧が抱き竦めていることに、何の怒りも感じなかった。
「私は……知らない……」
己の口から出たのは奇しくも飛鳥と同じで、また大人として最も無責任な言葉だった。
有り得ない。霧江の骸を挟むように若僧(こども)達と向き合いながらも、兵衛の視界に彼らの姿はまるで映っていなかった。つい数刻前まで生きていた桂木霧江との数多くの記憶が思い起こされ、それが次々とシャボン玉のように消えていく。こんなはずではない、こんなことは有り得ない。
「アンタ、最初からこのお姉様を利用して……」
「違う! 私は元より人間の命を無碍に扱うことなど──」
「いやっ!」
全ては言い訳だ。若僧の胸元に縋り付く娘を見ればそれは明白だった。
「違う、飛鳥……違うのだ、私は……こんなはずでは……!」
九条兵衛には一つの夢があった。この国の子供達へ、未来ある若者へ託したい夢が。
先の大戦が終わった後、復興を始めた日本は気付けば世界有数の経済大国となっていた。だが高度成長の時代は終わり、やがて途上国と呼ばれた周辺各国も我が国に追い付いてくることだろう。そして仕事柄、海外へ赴くことの多い兵衛は、今もまだ欧米で我が国が極東のちっぽけな島国と蔑まれている現実を身に染みて実感している。悔しいが全て事実だった。維新から一世紀半、ここまで成長できたこと自体が奇跡と言っていい。やがて世界の中でも我が国は突出した存在でなくなるのは明白だった。
そこに甥の玉川白夜が行っていた研究が繋がる。かつて米ソが競り合っていた宇宙開発のように、21世紀を目の前に我が国は新たなステージへ進むのだ。我が国の国土は決して広くなく、山間部の広さを思えば居住可能面積など僅かなものだ。その解決策として挙げられたのが、まだ人類の一切の手が入っていない異世界の開拓だった。
夢見がちな老人の馬鹿げた施策だった。だが兵衛は甥の研究に可能な限りの出資を行い、その甲斐あって白夜は異世界の知的生命体をこちらの世界へ顕現させる技術を完成させた。それらを試験的に我が国で育成し、行く行くは異世界とのコンタクトを取る。彼らの絶対的な力があれば防衛費の削減にも繋がる。そうした計画だった。
その為の恐怖の大王<アンゴル・モア>。今この場で眠る魔王もまたその一環なのだ。
全ては幼き頃よりの願いの為だ。我が国に生まれたことを若者達が誇れるよう、我が国は世界のトップを常に走り続ける国でありたいと。
「……ああ。そういえば斯様な計画でしたな、叔父上殿」
小馬鹿にしたような声が響き、その場の全員がバッと振り向く。
部屋の最奥、先程まで桂木霧江が立っていた巨大カプセルの前に一人の男が立っている。年齢は60歳前後、すっかり白髪の増えた頭と白縁の眼鏡は身に纏う白衣も相俟って、人々の想像する研究者そのものといった姿。
「白夜……!」
玉川白夜である。本来であれば大学の研究室から出てこない男が、この場にいた。
「どうやら桂木君も失敗らしい。……いや私も見る目がない。既に八分の三が大した成果を残せず終いとは」
「失敗だと……?」
「その通りですよ叔父上殿。元より加速神器は人間の命を吸うことで彼らをこの世界に留める欠陥装置。使用した者は多少の前後差さえあれ、等しくある時期を限度として死に絶えるようになっている」
笑う。兵衛の知る甥は本来こんな顔で笑うような男ではない。
「1999年7月に……ね」
「な……に?」
邪悪そのものの微笑を以って、玉川白夜は死刑宣告を行う。
「今は失敗作の一人がこの上で暴れている。そして九条先生、あなたもそう長くないはずですよ。今にもその身は死せるやも……」
「貴様……がっ!」
突如迫り上がってきた嘔吐感に跪き激しく咽せる兵衛。
「お義父様!?」
「き、貴様にそう呼ばれる謂れは……ない……」
だが吐血は無い。単なるプラシーボ効果、不可思議な魔力のある甥の言葉を前に肉体に違和感を覚えてしまっただけのことだった。それを前にして、白夜は残念といった風に空を仰いだ。
「そうタイミング良くはいかないか。さて、残るはこの二つをどうするか……だが」
「あっ……そ、それは……っ!?」
嘲笑うように掲げられた白夜の右の手に握られていたものを前に息を呑んだのは、今までただ呆然と成り行きを見守るしかなかった小金井将美だった。
黄色の加速神器。それはつまり。
「車田将美さん……だったかな? 旦那さんのことはすまなかったね。彼はこれに命を吸われてしまった……いや、正確に言えば香君はこの中で生きているんだ。研究が進めばいずれ彼を甦らせることが可能やもしれんぞ……?」
「ほ、本当ですか……!?」
「本当だとも。それまでこれは君に預けておこう……君もそれがいいだろう?」
挑発するように加速神器を手元でゆらゆら揺らす白夜。
まるで夢遊病の如き虚ろな目で将美が白夜の方へ歩き始める。元より夫が死んだばかりで不安定だった彼女の精神は、白夜の誘いを前に完全に決壊していた。ただ夫が吸い込まれたという加速神器へとふらふら歩いて行く彼女の姿は、どう見ても異常な光景であろう。
そして違和感に気付いたのは、快斗の腕の中で放心していた飛鳥だった。
「黄色の……加速神器……?」
その目に輝きが戻る。即座にあらん限りに叫ぶ。
「ダメだよ将美さん! それ、私が持ってるもの!」
飛鳥の言葉を理解したのは快斗、そしてポンデとイサハヤだけだった。
彼らの判断は早く、ローダーレオモンとヤタガラモンがふらふら歩いて行く小金井将美を止めようと飛びかかる。
「ぐっ!」
「がっ!」
二体が白夜の目の前、何もない空間に突然吹き飛ばされた。
「……黙っていてもらえるかな御令嬢。この娘にはこれが必要なのだよ」
「何だ……!?」
快斗が目を凝らすとその空間が歪む。
何か巨大な存在がいる、それは快斗にも理解できるのだが、その正体が掴めない。そしてそんな空間の歪みの向こうで、将美が白夜から黄色い加速神器を受け取っていた。
「カヲル君……カヲル君、えへへ……良かった、良かったよぉ……!」
愛する夫が生きている、死んだはずの夫がこの中にいる。そう信じた女が加速神器を胸元に握り締めて童女のようにはにかんで笑う。二度と離さないと言いたげにギュッと握られたそれから、ぼんやりと紫紺の光が漏れ始めていることにすら小金井将美は気付かない。その女の視界には、妄想の夫の姿以外もう何も映っていなかった。
「将美……さん」
飛鳥が絶句する。何にも縋れるものがなく、ただ快斗の服の裾を握る手に力を込めた。
どうしようもなかった。きっと先刻出会った時点で既に彼女は壊れていた。小金井将美を救うことは、もうこの世に存在しない彼女の夫以外には最初から誰にもできなかったのだ。
そして白夜以外、その場の誰も気付かない。
「……始まりだ」
白夜の背後に聳える巨大な培養カプセルで眠り続ける存在が、ゆっくりと目を開きつつあった。
エレベーターで地下に辿り着く。もう役に立つとは思えないが、念の為に斧を手に持って暗闇を進む。
「怪しさ満点過ぎますね……」
周囲を油断なく確認して進んだ通路の先は一枚の扉だった。
怪しい人影は今のところない。むしろ何もなさ過ぎて逆に不安になる。大分地下に潜ったからか、地上の戦いの震動はすっかり収まっている。それとも既に戦いは終わったのか。
どちらにせよ煌羅は進むしかない。6歳児には少し高いドアノブをジャンプして引く。
(ここに……快斗さん達がいる)
何故だかそんな確信がある。
扉を開くと、そこは巨大な研究室のようだった。幾多の培養カプセルが並べられ、その中には煌羅には見知ったデジモン達が入れられている。いつの時代も人間達はデジモンを利用して悪巧みを働くと聞くが、どうやらこの時代でも同じらしい。特に憤りも無く淡々と思考して先を急ぐ。
声が聞こえる。誰かが声高々に演説でもしているようだ。培養カプセルに阻まれて歩みが遅くなるが、こうした時に子供の体はやはり不便だ。
声の主はまだ遠いが、物陰から顔を半分だけ出して様子を伺う。
開けた広場の中、血の海に沈んだ死体が見えた。それが快斗や飛鳥だったらと思うと一瞬だけ顔から血の気が引いたが違うらしく安心した。しかし目を凝らしてよく見ると、それはそれで煌羅には見知った顔だった。
(色欲の魔王? し、死んでるんですか……!?)
あちらの世界でリリスモンと呼ばれた女だ。三ヶ月ほど前に静岡で対峙した顔でもある。
見間違えるはずのない顔だが、煌羅のことを彼女は覚えていないようだった。それが釈然としなかったのだが、もしかしたら人違いだったのだろうか。世界に三人はそっくりさんがいると快斗から教わったし、そもそも煌羅の知る色欲の魔王は今転がっている死体の彼女と違って銀髪だった。
身を乗り出す。聞こえてくる声も何か記憶にあるようだった。
「この声……」
部屋の最奥、まるで玉座のように段差が築かれた高台で男が語っている。
そこによろよろと力無く近付いていく細身の女性の姿が見える。後ろ姿だけでは判別が付かないが、恐らく飛鳥ではないと思う。その飛鳥はといえば、快斗と隣り合って何かを叫んでいるようだった。
どちらも無事だったらしい、それに安心したと同時に。
(……なんか距離、近くありません?)
そんな考えが脳裏を過った。焼き餅じゃありません、断じて。
やがて飛鳥の叫びを受けて、体を機械化したライオンと三本足の烏が飛び出した。きっと完全体に進化したポンデとイサハヤなんだろうと思うが、その二体が男に飛びかかろうとした寸前、いきなり弾き返された。
状況が読めない。もう少し近付いてみるしかない。
「……黙っていてもらえるかな御令嬢。この娘にはこれが必要なのだよ」
「何だ……!?」
快斗の声だ。一瞬だけ空間が歪んだ理由を、きっと彼は理解できていない。
(……あの男の、デジヴァイスだ……!)
だが煌羅にはわかる。あの白髪の男性が左手で握った青いデジヴァイス──以前、色欲の魔王にそっくりなあの女は加速神器とか言っていた──から召喚された何者かが、無造作にポンデとイサハヤを薙ぎ払ったのだ。正体は判然としないが究極体クラスの存在であることは間違いない。
更に近付く。後ろ姿だった女が黄色いデジヴァイスを受け取り、こちらを向いて満足げにへたり込んでいる。
「……えっ!?」
その女の顔を見て煌羅は目を見張る。既に後方に位置する、色欲の魔王と瓜二つの女の死体を振り返る。
何故ならデジヴァイスを胸に抱き、恍惚とした表情で微笑む女もまた、煌羅の見知った顔だったからだ。むしろ人間界に逃げ込んだ彼女を追って自分はこの世界を訪れたと言っても過言ではない。大切な同胞を数多殺戮し、姿を消したとされるあの魔王を倒す為に自分という存在は在ったのだ。
だが違和感がある。あの女もまた黒髪だ。色欲の魔王モドキと同じく銀色の髪ではない。
(有り得るのでしょうか……? 魔王に瓜二つの女性が二人も同時にいるなんて……)
考えつつ、もう少し注視すべく目を凝らして。
「──────ッ!」
今度こそ煌羅の全身が総毛立つ。
煌羅の視線の先にあるのはただ一つ。どこか狂ったように微笑み続ける黒髪の女の後ろに聳えるあまりにも巨大な培養カプセルだった。そこで培養液に満たされて眠り続ける存在を煌羅が忘れるはずがない。忘れられるはずがない。それはかつて異世界を、煌羅の世界を滅亡寸前まで追い込んだ魔王。一度目覚めれば全てを消し飛ばすと言われた終焉の使者。覚醒前に煌羅が倒さなければならない自分にとって最大の仇敵。
怠惰の魔王。
それが、それ自身に瓜二つの黒髪の女を眼前に、その瞼を開き始めていた。
「快斗さん! 今すぐそこから離れてッ!!」
聞き慣れた声の聞き慣れない必死さに、小金井将美の壊れた様を見つめることしかできなかった快斗と飛鳥は我に返される。
振り返った先、汗だくで走ってくる“娘”の姿。
「き、煌羅!?」
「あなた、なんで──」
そんな自分達の反応すら苛立つと言いたげに快斗と飛鳥の手を引き煌羅が叫ぶ。
「あの女の人をベルフェモンの傍にいさせてはダメです!」
「ベルフェ……何だって?」
「早く! そうしないと大変なことに……!」
「……聡いな。それが件の娘か」
玉川白夜が動く。先程と同じように空間が歪み、ポンデ達を弾いたそれが正体を現した。
それを快斗は一見して、如何なる生物であるか認識できなかった。アンバランスなまでに巨大な両腕と醜悪な牙を覗かせる顎は竜そのものだったが、一方で上半身と下半身に備わるそれぞれ三対の羽根は昆虫のそれを思わせる。それでいて紫紺の体躯と撓る尾は蛇のようでもある。
ダークドラモン以上に無機質な生命体が、自分達の前に立ち塞がっていた。
「だが黙って見ておれ。……面白いことになるぞ?」
「……タイラントカブテリモン」
動けない。まるで蛇に睨まれた蛙の気分だ。
快斗も飛鳥も煌羅が乱入する前と同じように成り行きを見守るしかない。唯一、煌羅だけが構うものかと動こうとしたが、飛鳥が咄嗟に後ろから彼女の両腕を羽交い締めにして止める。
「は、離してください……!」
「ダメ……! 大人しくしてて……!」
ジタバタ暴れる煌羅の前で、カプセルの中の魔王の目が、口が開いていく。
「ふふ、カヲル君ったらぁ……」
カプセルに背を向けている将美は気付かない。彼女はもう幻想の中にしか生きていない。
「将美さん……!」
救えない。そうわかっているのに飛鳥は言ってしまう。手を伸ばそうとしてしまう。
瞬間。
パリンと強化ガラスが飴玉のように割れる音が響き、カプセルの中から伸びた魔王の舌が小金井将美の体をその手の加速神器ごと絡め取る。
「えっ」
不思議そうな将美の声。
やがて洪水のように溢れ出す培養液。そこへ川を逆流するかの如く巻き取られた舌が戻っていく。魔王の口へと、どこか愛玩動物のようにすら思える外観とは裏腹に無数の鋭利な牙が生え揃う口内へと。
無論、絡め取られた小金井将美の体ごと。
「もうやだカヲル君皆さんの前でいきなりこんなちょっいや嘘やめてダメ壊れちゃ千切れ潰れ砕けあっなんだ私もうとっくに壊れてアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
快斗と飛鳥が咄嗟に二人同時に煌羅の目と耳を塞げたのは、きっと奇跡だったのだと思う。
「……すまん」
「な、何がよぉ……!」
全く意味がわからない。謝りたいのはこっちだし、謝るならちゃんと私の目と耳も塞いで欲しかった。思考が纏まらないだけではない、涙で視界もグチャグチャだ。今聞いた咀嚼音を鮎川飛鳥はきっと永遠に忘れられない。もう既に恐怖で歯をカタカタ鳴らしながら、全部夢だったらいいなと思ってしまっている。
「喜ぶがいい、お前達がいるのは破滅のショーの特等席だ」
玉川白夜の歌い上げるような声と共に、姿を変えたそれが屈強な二本の足で這い出てくる。
そこにはもう先程までの愛らしさなど微塵もない。鋭い牙が並ぶ口元を女の血で濡らしたそれは、どういう理屈か知らないが小金井将美を食したことで覚醒したその魔王は、ムゲンドラモンを超す体躯と禍々しさを以って、最初の獲物として自分達を選んだようだ。
ただ燦々と輝く深紅の瞳は、まさしく悪魔の王であった。
「ゴアアアアアアアアアアアア!!」
魔王が吼える。その衝撃波は快斗と飛鳥に煌羅の目と耳を塞ぎ続けることさえ許さない。
その咆哮だけで体が消し飛んでしまいそうな錯覚。実際、それで吹き飛ばされたポンデとイサハヤは成長期に戻ってしまっている。勝ち目など有り得ないし、そもそも立ち向かうという意思さえ起こさせない。それだけの存在が今目の前に立つ魔王だった。
「や、やだぁ……っ!」
立っていられない。衝撃波とか関係なく、ただ恐怖だけで快斗も飛鳥も膝が竦んでいる。
情けないぐらいの涙声が口から漏れる。ああそうか、自分達もここで小金井将美と同じようにアレに食われて死ぬんだと、漠然と理解できてしまった。
なのに。
「えっ……?」
「煌羅……?」
「……ふぅ」
その隣で表情を変えぬ少女がいる。
高嶺煌羅は、自分達の“娘”はその小さい体で高校生の自分達が立っていられない風圧の中を悠然と歩いて行く。気負いは無い、恐怖も無い。ただそうすることが当たり前であるかのように魔王と対峙するかのような姿勢を取る。
「快斗さん、色々とお世話になりました」
振り向いて笑う。普段通りの礼儀正しさで。
「……何だよ、それ」
「この半年、色々なことがありましたけど」
「煌羅、あなた何を……」
「女狐のことも、まあ……嫌いじゃなかったです」
頬を人差し指で掻いた。ほんのり紅いそこを隠そうとせずに。
「女狐はやめてよぉ……じゃなくて、そうじゃなくて……そうじゃなくてぇ!」
「最初からこれが私の役目だったんです」
煌羅の横、空間が歪んでジンライが現れる。
コアドラモンではない。背中に副腕を備え、四本の足で大地を踏み締めるその姿は、快斗にも飛鳥にも見たことの無い姿だった。
「これ以上二人を巻き込むわけにはいきません。……でもベルフェモンは、怠惰の魔王だけは私がここで絶対倒しますから」
声が出ない。快斗も飛鳥も水面で息継ぎをするように口をパクパクさせている。
歩いていく煌羅を止めることができない。それでも絶対に勝てないとわかる。ジンライが進化したとはいえ完全体、先程九条兵衛がローダーレオモンを前にそう判断した通り、究極体と完全体には絶対的な差があるのだ。況してや、目の前に立っているのは究極体の中でも頂点に立つと言われた魔王だというのに。
なのに、それなのに。
「……だから」
どうして彼女は。
「もし私が無事に戻ってきたら」
絶対死ぬとわかっていて。
「よくやったって、褒めてくれますか?」
自分が勝てないとわかっていて。
「お父さんとお母さんって、呼んでもいいですか──?」
役立たずの両親(おれたち/わたしたち)の為に戦えるんだろう。
フゥともう一度嘆息した。
心残りはない。元よりこれが自分の役目だった。生まれた時から怠惰の魔王を仕留める為に生きてきたのが名も無き者(アノニマス)としての自分だった。それ以外のあらゆることは目的の前の寄り道に過ぎない。だからそれらはアノニマスにとって感傷である。記憶も思い出も全て余計な荷物だった。
それを今、魔王との対峙で捨て去ろう。
『お前は俺の娘だ。……ずっと、娘だ』
それでも。
『この子は、私が守るんだから!』
捨てたくないものが、捨てられないものが。
『さっき俺とハニーで決めたからな。今からお前の名前は高嶺煌羅だ! どうだ、気に入ったろ!?』
『ハニー言うな』
この胸には、確かにある。
顔を上げると魔王と目が合った。唸り声を止めて少しだけ首を傾げたように見える魔王は果たしてこちらのことを覚えているのだろうか。覚えていようがいまいが、こちらに魔王に関する記憶はない。アノニマスとジンライとで6年ずつ、合わせて12年の人生しか生きていない自分だ、全ては知識として知り得ているというだけで前世から引き継いだ記憶など何一つない。
恐怖心が無いなんて嘘だ。この身はどこまでも人間であり、精神構造も人のそれと変わらない。
「久し振りですね……ベルフェモン」
それでも己を奮い立たせる為に言う。
「私のこと、覚えてますか?」
叶わぬ願望だとしても、自分の命を燃やし尽くして少しでも近付けるならいいと。
「私はかつてあなたに倒されたロイヤルナイツ最後の一人! 倒された数多の同胞達の、故郷を滅ぼされたデジモン達の、そして今ここであなたの悪行の巻き添えになろうとしている人達の為に!」
自分を娘だと言ってくれた彼を守る為に。
自分を守ると言ってくれた彼女を救う為に。
「高嶺煌羅は、あなたを倒すんです!!」
たとえ勝ち目がないとわかっていても、高嶺煌羅は魔王に挑むのだ──!
◇
・ヤタガラモン“イサハヤ”&ローダーレオモン“ポンデ”
敵が究極体ばかりの作品で今まで成熟期で頑張ってきた二人がやっと到達した完全体。だが1999年時点ではデジヴァイス(加速神器)の助け無しで人間界においてデジモンが完全体以上に進化することは有り得ないとされているが……?
インフレが速すぎて、作中時間5分で通用しなくなる悲劇の主役達。サヴァイブにローダーレオモンも出たら完璧でしたねえ!!
【後書き】
そんなわけで第6話となります。大分終盤が見えて参りました。デジモンといえば光ヶ丘だろおおおおおということで、本作の決戦の舞台は光ヶ丘となります。サイバースルゥースで新宿やお台場は舞台になったのに光ヶ丘が絡まなかったのに少々悔しい思いを致しました。団地以外に高いビルがそんな多くない街なので怪獣映画風の絵面にはし辛いですが、だからこそ子供達の間近で怪獣バトルができたのかなーと最近デジモンアドベンチャーの映画(最初の)を参考に見返して思ったりしました。
残り4話! なんとか5日に1話ペースで終わらせたいですね!
◇