◇
訪れるのはクリスマス以来だろうか。
相変わらずのボロ屋だが妙な安心感がある。練馬区と保谷市のちょうど境界線にあるそこは前田快斗にとって母方の実家であり、東京を訪れた時の拠点でもあった。
「ようジンコ、久し振りだな~」
「来たね……カイちゃん」
ニヤリと笑って同い年の従姉妹、一ノ瀬仁子が姿を見せる。
祖父母や両親と共にこの家で暮らす彼女とは、子供の頃から互いに悪友と呼んで差し支えない関係を築いている。明るくノリ良く馴れ馴れしい者同士、男女の分け隔てなく妙に気が合ったということも大きかったように思う。
仁子に促されて居間へと向かうと、季節外れの掘り炬燵が目に留まる。ここでポンデ達と初めて話したわけだが、それがもう半年以上前だと思うと懐かしさを覚える。こうやって人は大人になるのだなと自分らしくない感慨に耽る快斗であった。
「バアさん達は?」
「新宿に買い物だってさ」
相変わらず活動的な親族だと笑いながら、仁子の持ってきた麦茶をグイッと飲み干した。
7月なので木造建築を吹き抜ける風は、心地良さより蒸し暑さの方を運んでくる。
「……で、そちらが件の娘っち?」
「たまごっちみたいな言い方すんな。……ほら煌羅」
そこで初めて、初めて会う仁子を警戒して「ううっ」と唸りながら、自分の背中にくっついていた煌羅を引き剥がす。出会った時からやたら人見知りする子である。
それにしては快斗や飛鳥に対してはそんな素振りを見せなかったのは何故だろうか。
「俺の従姉妹のジンコな。男を取っ替え引っ替え弄ぶ悪魔だ」
「は、初めまして。……悪魔……?」
「ちょっとカイちゃん! 失礼な紹介やめてくれるー!? 別に弄んでるわけじゃなくて、私は単純に若い内は存分に色々な経験をしたいなってだけでねー!」
中学生の頃から会う度に彼氏が変わっていた女がよく言う。最近は流石に大人しくなったのか、今の彼氏とは長く続いているようだが。
「俺の従姉妹だから煌羅にとっては……おばさんか?」
「ぬおおおおお私10代の内におばさんかああああああああああ」
その場に跪いて頭を抱えつつ体を反らして絶叫する仁子。
正直、それにドン引きしている煌羅だったが、同時にこうも思うのだ。
(この人、快斗さんに似てる……)
同じ祖父母を持つ従兄弟同士なので然もありなんである。
そうでなくても親族の中で前田快斗と一ノ瀬仁子は似た者同士で通っていた。何年も前に彼らの曾祖父が亡くなった際、葬式の翌日に二人して大騒ぎを起こして大層叱られたような愚か者達だった。
「でも流石の私も驚いたよね-! 去年のクリスマス、カイちゃんがナンパしたのが飛鳥だったなんてさー!」
「……え? 女狐ともお知り合いなんですか?」
「いや女狐って……あの子、狐って言うより虎じゃない?」
本人がいない場所でいけしゃあしゃあと言う仁子である。
「女虎じゃ語呂が悪いじゃないですか……」
「いやそこ拘るの? 煌羅ちゃんは真面目だなぁ」
「ま、真面目なのはいいことですよ!?」
そんな煌羅の頭をガシガシ撫でながら、仁子は快斗の方に向き直る。
「ま、その飛鳥はまだ私とカイちゃんが従姉妹だって気付いてないみたいだけどねー」
「そのハニーのことなんだが」
「……うっわ、マジでハニー呼びしてんの? それ流石に引くんだけど」
「ジンコはハニーの親御さんのこと知ってっか?」
「そこスルーすんのかよ。えっとね、お母さんとは一度だけ会ったことあるけど、やたら若そうで派手な感じの人だったかなー。それとお父さんはいないって聞いた記憶がある」
「なるほど」
父親のことは誰にも話していないようだ。それも当然か、もし快斗が彼女の立場だったとしても、自分から話したくなる内容だとは思えない。そして同時に友人にも愚痴らず、ただ自分で抱え込んでいた鮎川飛鳥の義理堅さに快斗は少なからず好感と憧憬を抱く。仁子の方からちょくちょく敢えてヒントを振っていたにも関わらず、それでも仁子と快斗との関係に気付かなかったのは単に鈍いと言えるかもしれないが。
(流石は……俺のハニーだけある)
そう思うと自然、怒り顔で「ハニー言うな」と返してくる飛鳥が浮かぶようだった。
「じゃ、俺は出かけるから煌羅はジンコといい子にしてるんだぞー!」
「ええっ! 本当に置いてくんですか!?」
「いいじゃん煌羅ちゃん、今日はおばちゃんとおままごとして遊びましょ-!」
「離してください-! あと子供扱いしないでくださいー!!」
しかし今日、これから会う彼女のことを考えるとどこか息が詰まりそうになる。
それは多分、父親のことを語る時だけ苦しそうになる鮎川飛鳥の声を知っているからだ。
『本日ハ晴天ナリ。』
―――――FASE.5 「Deep Forest」
「ちょ、待てよ!」
「キムタクみたいなこと言わないでよ」
八ヶ月前に初めて出会った場所を二人で歩く。
鮎川飛鳥と前田快斗の姿は、イサハヤとポンデを伴って光ヶ丘の公園に在った。約束の七時まではまだ数刻ある。それまでデートと洒落込もうと提案した快斗の言葉を無視しつつ、結局二人でファミレスで駄弁っていたら夕方になっていた。
先を行く飛鳥から少しだけ速度を落としたイサハヤが快斗に並ぶ。
「許して欲しい。飛鳥も緊張しているのだ」
「……みたいだな」
「実を言うと快斗も緊張してるぞ! オトウサマに会うんだからな!」
「コラそこぉ! 誤解されるような言い方するんじゃねえわよ!」
振り向いてビシッと指を突き付ける飛鳥だが、対する快斗の表情は固い。
決してイサハヤやポンデの言うような方向性の緊張ではない。そしてそれは快斗の方とて同じだった。ファミレスで数時間雑談に花を咲かせた飛鳥と快斗だったが、それはどこか現実からの逃避のようだった。
そして実際のところそれは正しいのだろう。絶望的なぐらい現状の打開策は見つからなかったし、その事実に彼ら自身気付いていながらも、残り二時間で自ら敵の懐に飛び込んでいかなければならない。引くこともできた事態に自らで関わることを決めた以上、困難から逃げ続け、先延ばしにしてきたツケは、自分達で支払わなければならない。
それが如何に重大かを認識しているのは、飛鳥よりむしろ快斗の方だった。
「……せめてお前らが完全体になれればな」
「完全体? 何よそれ」
「私達には段階(レベル)があってな。あのムゲンドラモンは我々の頂点たる究極体であるのに対して、私とポンデはまだ成熟期までしかなれないのだ。究極体までにはまだ完全体という段階を挟む必要がある」
快斗の言葉にイサハヤが補足する。そういえば霧江さんがそんなこと言ってたなーと呟く飛鳥である。
「何とかなるって! 究極体だって無敵じゃないからな!」
普段なら無条件で同意するポンデの言葉に今日は頷けない。
煌羅を渡さない為に刻限を設けた。飛鳥も快斗もそれぞれイサハヤとポンデの協力込みでどうにかしてムゲンドラモンに対抗する術を今日まで磨いてきたつもりだ。だがその結果がこの様である。自分達が殺されることはないにしても、心境としては勝機が見えぬまま死地に赴くに等しい。
「敵があのムゲンドラモンだけとは限らないのだからな……」
イサハヤが嫌なことを言う。ムゲンドラモン単体にも勝てなかった自分達だ。しかもあのサーベルレオモンの乱入がなければ死んでいた、それだけの相手に成熟期二体の戦力しかないこちらでどうやって挑むべきか。
イサハヤと同じように速度を落とし、飛鳥が快斗と並んだ。
「アンタ、なんか今日暗いわね」
隣の男の顔を覗き込んでそう言う。
「……そうか?」
不思議そうに言う快斗。飛鳥はその胸倉を掴んで怒鳴りたい衝動を辛うじて堪えた。
アンタがそんな調子でどうするのよと言ってやりたい。ここで失敗すれば煌羅は父に連れて行かれるのを止める術はなくなるのに、今日のこの男はどうも心ここにあらずといった調子で先のファミレスから調子が狂う。
もっと馬鹿なこと言って私を怒らせてよ。
いつもみたくハニーって言って私に「ハニー言うな」って言わせてよ。
「いい。……今日のアンタ、元気無いんだ」
だから快斗の返事を待たず、飛鳥は視線を正面へと戻した。
それらは多分、全て鮎川飛鳥の身勝手な言い分だ。刻限を設けたのも今日この場で逆転の手札を用意できなかったのも自分なのに、気付かない内に煌羅のことに関しては、情けないぐらい自分は前田快斗に依存していたらしかった。笑えるぐらい自分は、脳天気にしか見えない彼の言葉に救われていたらしかった。
「二人とも感じ悪いぞー」
「言うなポンデ。この状況下なら誰でも……む?」
「お?」
イサハヤとポンデが何かに気付く。
それは公園の外れのベンチに力なく腰掛けている女性の姿だった。
「あっ……」
一瞬イサハヤ達を隠すべきか逡巡した飛鳥だったが、すぐに言葉を失った。
「将美さん……!?」
父の秘書の一人、小金井将美だった。
「あ、飛鳥さん……!」
「ど、どうしたんですか!? こんなところで……!」
父の計画に彼女は関わっていないはずだった。少なくとも飛鳥はそう見ていた。
それでも一瞬だけ、霧江と同じような刺客として彼女が現れたのかという考えが脳裏を過ったが、それも即座に消え失せた。
将美の姿があまりに普段と違っていたからだ。年下の飛鳥から見ても可愛らしかった表情から生気は消え失せ、皺だらけになったスーツで手足を投げ出すようにベンチに身を預けている。まるで眠れていないのかのように目の下には隈ができ、半開きになった口はカタカタと震えている。
「……知り合いか?」
快斗が不安そうに言う。
ハニーとも言ってこないし、可愛らしい女性を見ても騒がない、まるで彼らしくない姿がこれまた飛鳥を苛立たせた。
「ええ。父の秘書をやってる人……でも、どうして」
虚ろな目をした将美は、二人の隣に立つポンデとイサハヤにも気付かない。
「カヲル君が……」
「え?」
「夫が、死にました……」
そしてイサハヤが逆に気付いた。
女が投げ出した右手に、かつて桂木霧江が持っていたものと同じ、黄色の加速神器が握られていることに。
数年ぶりに顔を合わせた端正な顔立ちの男を前に、月影銀河は少なからず顔を綻ばせた。
「やあ竜馬。……久し振りじゃないか」
親友の香や恋人の時雨とはまた違ったスタンスながら、その男もまた自分にとって大切な友人と言っていい。武藤竜馬、同じ玉川ゼミの仲間にして時雨と故郷を同じくする、学生の頃から冷徹とさえ取れるほど落ち着いた性格の男。
しかし彼は青葉町、それも銀河の隠れ家でもある裏山に現れるはずのない男だった。
「……用件はわかっているのだろう?」
にべもない。どういう用だい、そう聞く前からこれである。
「久々の再会だ。積もる話も……ないみたいだね」
「悪いが男同士で昔話に花を咲かせる趣味は俺には無いのでな」
「君も変わらないな……」
学生時代からそうだった。何事にも情動と感情任せな車田香とは対照的に、まるで相手が次に取る一挙一動を予測した上で会話を組み立てるような男が彼である。香はそんな竜馬のことが嫌いだったようだが、銀河としてはこの上なく好ましく思えたものだ。何せその在り方は自分もまた目指すものだったから。
そして今、その友人にして憧れでもある彼が明確に敵として立ち塞がっている。
「でも聞かせて欲しいな。君が何故あの政治家先生に尽くすのか」
「……恩義に報いる以外の理由が必要か」
感情の乗らない声。竜馬の構える加速神器・究極が淡い輝きを放っている。
「月影。お前こそ玉川先生の邪魔をするのは何故だ?」
自分達は大学時代の恩師から四種類の加速神器を与えられた同志。
それは全て九条兵衛の、また玉川白夜の目的を達成せんが為。彼らの見据える先に見えるものが何であろうと恩人である兵衛、恩師である白夜それぞれに報いるのは、竜馬にとって当然のことだった。なればこそ、武藤竜馬からすれば力を与えられながら事態を引っ掻き回そうとする月影銀河の方が理解できない。
「気に入らないからだよ」
故に銀河も本音で相対せざるを得ない。
親友にも恋人にもひた隠しにしてきた月影銀河の本心で。
「政治家先生にしても玉川の教授にしても、尊敬と感謝の念こそあれ、彼らに文字通り命を預ける理由は僕にはない。……死にたくないんだよ、僕は」
「………………」
竜馬の眉が初めてピクリと歪んだ。痛いところを突かれた、そう捉えていいのだろうか。
「死にたくなかった、そう言い換えた方が正しいのかな。何せ間もなく死ぬ身だ……僕も、そして君も……ね」
「……気付いていたのか」
「最初からね」
正確にはサーベルレオモンへの進化を果たした時からだ。
切っ掛けは些細なことだ。仕事中に突然眠っていたり、数秒間の記憶が飛んでいたりと、そんな誰にでも有り得そうな出来事。けれどそれらが続けば決して気の所為ではなくなってくる。健康診断には現れない領域だが、確実に自身の生命力──些かこの表現はファンタジーが過ぎるが──が弱まっていくことは実感できた。
そしてそれが起きるのは決まって、加速神器に己のDNAを充填させた後だった。
「なるほど、単なる好奇心から教授の実験に付き合った僕が悪いと言うならそれは真実だ。自らが人体実験のサンプルに使われたと気付かなかった僕が愚かだった。だが君が言うように恩義に報いるのが正しいと言うのなら、むしろ僕らの命を糧に果たされる教授の目的とは何なのだろうか。それを知らずして死ぬことはできない。……僕はただ、自分が惨めな実験体として死ぬことを許せないだけさ」
「……フ」
誰にも語ったことのない月影銀河の本心。
一人の男としても、一介の中学教師としても隠してきた男の言葉を受け、武藤竜馬は。
「フハハハハハハハハハ……!!」
嗤う。ただ嗤う。
大学の同期にして親友と呼んでもいい間柄。そんな男の死を目前にした心よりの叫びを、同じように死に瀕しているはずの男はただ一笑に伏すのだ。
「月影、お前も焼きが回ったな……龍崎や小金井よりマシな男だと思っていたのだがな!」
「……君が時雨や香を語らないでくれるかな」
許さない理由など無数にある。所詮、先に語った理由はその一つでしかない。
だから付け加えるなら、彼らが自分だけでなく自分の恋人や親友を巻き込んだことも決して許すことはできない。犠牲が自分一人だけならばまだ許すこともできよう、しかし自分が誰よりも愛している女と、まだ結婚したばかりの妻を遺し悲しませることになる親友を巻き込んだことは、絶対に──
「ならば何故言わなかった?」
「……!」
「言えなかったのではない。言わなかったのだろう、お前は」
それでも、ただ一言で武藤竜馬は月影銀河の矛盾を暴く。
「どういう……意味かな」
「綺麗事を言うな月影。確かに利用されたと憤るお前の怒りは正当な理由になる。その憤怒を理由に真っ向から九条先生と相対していたなら俺もお前への見方を改めたろう。だがお前の行為は正義ではなく妨害でしかない。言うなれば電灯に群がる羽虫にも等しい」
今度は銀河の眉が揺れる番だった。握る加速神器・正義が鈍色の輝きを放ち始める。
「そうだな、気付かぬフリをしているだけのようだから言ってやろう。それがお前達と学友であった俺の務めだ」
同様に掲げられる竜馬の加速神器・究極。
銀河の正義と竜馬の究極、相対する加速神器の輝きはまさに正反対であった。
「お前は死にたくなかったのではない。一人で死にたくなかっただけだ」
呼吸が止まる。全身がその言葉を聞いてはいけないと告げている。
「ただ一人で惨めに死ぬのが嫌で己の恋人、己の親友が同様の実験に巻き込まれると知りながら止めることもしなかったのだろう? お前の行いが真に正義であるのなら、玉川教授を殺してでも止めたはずだ。それをしなかった時点でお前の行為は正義などではない……ただ惨めに一人で死にたくないという自らの欲望の為に、周囲の人間を巻き込んだ疫病神ということだ」
真実である。お前が正義と信じる怒りはただの八つ当たりだと竜馬は言う。
正面に掲げたはずの加速神器がカタカタと震え出したのが何よりの証左だった。
「言って……くれるね」
結局のところ、月影銀河は孤独で死にたくなかっただけなのだ。
表面上は平静を取り繕っていた。だがその実、自分が死に行く身だと気付いた時点で男の心は怒りに満ちていた。故に自分達が結ばれる日は永遠に来ないと知りながらプロポーズした愛する女も、自分と互角に戦うのが何よりも楽しいと言っていた親友たる男も、月影銀河にとっては黄泉への道連れに過ぎない。何故自分だけが死ななければならないのだ、何故自分が死んだ後も世界は続いていくのかという怒りは、やがて大切に思っている者達へと向けられた、それだけの話。
そんな一人の男の罪と思い上がりは、一人の同級生によって暴かれる。
「死ぬなら一人で死ぬがいい。己の我が儘に周りを巻き込んだ時点で、お前は一人で全てを背負い込む覚悟も、己を犠牲として誰かを救う信念も持たぬ下劣な男でしかない……そんな男に、九条先生の邪魔をさせるわけにはいかない」
「君も長くないはずだ。……君は、死ぬのが怖くないのか?」
そう問うた。彼にも愛する女がいたはずだ。そうでありながら、何故こうまで一人の男に尽くせるのか。
「俺は……生きてみせる」
竜馬の加速神器・究極が真紅の光を放つ。
「起動<アクセル>!!」
放たれる輝きが向かうのは目の前の月影銀河ではなく。
「お前に……九条先生の邪魔はさせない、月影銀河……!」
空へ。
ただ空へ。
獅子は疾走していた。
何を目的としているのかは知らない。それを考える機能すら彼にはない。
「………………」
元より彼、サーベルレオモンはそういった生命体であった。
月影銀河のDNAを与えられて究極体まで進化を果たした育った彼にとって、銀河の意思こそが絶対であり全てだった。銀河の思考そのものが原動力であり、それ以外に彼には一切の行動指針がない。それが加速神器によって召喚されたモンスターにとって絶対の理。
故に彼は今、自分達を召喚せしめた者達を妨害せよという銀河の意思にのみ従い、ただひたすらに駆けている。
山間部を駆ける獅子の肉体は、夕焼けに照り映える黄金。静岡より一時間弱、僅かな乱れも見せない健脚は弾丸の如し。山道を物ともせずに疾走する獅子は、労せずして目的の地、東京へ到着するはずだった。
「……!」
だが気付く。自分と並走する何者かがいることに。
時速100キロを優に超える自分に伍する速度。紅き閃光のはずだったそれが、徐々に巨大な獣へと姿を変えていく。雲の間から射す日光を反射して淡く琥珀色に輝くそれは、全身に纏われたレッドデジゾイドの鎧。風を切るように大地を疾走する六本の足と番えた閃光の聖弩(ムスペルヘイム)は、サーベルレオモン自身の記憶に確かに存在する聖騎士のもの。
ビリビリと悪寒が走る。そんな機能など無いはずなのに、己が目的以上に彼奴と対峙せよと全身が告げている。
「………………!!」
その迷いを読んだかのように聖騎士が弓を番える。
ビフロスト。万物を消滅させると言われた灼熱の弓矢が山肌へと薙ぎ払うように放たれ、サーベルレオモンの進行方向に炎の壁を築く。
奴も逃がす気はない。そう見て取れた。
同時に得心する。月影銀河のDNAを受けた自身と同様、奴もまた人間のDNAによって顕現した存在であると。
「……!」
銀河の下より走り出して一時間、サーベルレオモンは初めてその足を止めた。
「………………」
振り返った先、六本の足で立ちはだかる究極の聖騎士と対峙する。
互いに言葉は無いが望むところだった。あのスピノモンやグランドラクモンと対峙した時以上の歓喜が肉体の内から上がる。彼奴となら存分に空虚なこの身を焦がす戦いができると感じる。彼奴がこちらの行く手を阻むというのならば遠慮は必要無い、その喉元を食い千切ってでも自分は先に進んでみせよう。
目的地は飽く迄も光ヶ丘。
こちらを阻むのならば、たとえ相手がロイヤルナイツだろうと引く気はないのだから。
将美の夫であり、ゲーム会社で働いている車田香は今朝までは普段と変わらず元気だったらしい。しかし昼過ぎに突然意識を失って倒れた時には既に呼吸をしていなかったという。すぐに救急車で運ばれたが助からなかった。持病もなく突然死の要因も不明、そんな彼の手に握られていたのが、この黄色いデバイスだったとのことだ。
喋ることすら覚束無い将美──飛鳥はここで初めて彼女の本名が車田正美だと知った──から時間をかけてなんとか聞き出せたのはそれだけだった。
「カヲル君、最近ずっとこれで何かしてたんです。だからきっとこれに関係が……!」
縋るように言う将美に顔を見合わせる快斗と飛鳥。桂木霧江が持っていた加速神器と同型だが色が異なり、彼女のものは真紅だったがこちらは黄色だ。それに加えて、そもそも二人はこれがどんな機能を持つデバイスなのかも知らないので回答に窮する。
ひとまず将美から受け取ったそれを確認する。上部にある画面は消えており、幾つかあるボタンを押しても反応は無い。
「か、怪物……!?」
「あ」
全て吐き出して落ち着いたことで視界が明瞭になったのか、イサハヤとポンデに将美が気付いて顔を青ざめさせる。
「俺らが怪物!? 失礼だな-!」
「将美さん……あの、驚かせてごめんなさいですけど、この子達は」
「カヲル君も、持ってました」
「え?」
「似たような感じの子を……飼ってたんです」
飛鳥と快斗はもう一度顔を見合わせる。
突然死したという小金井将美の夫。彼は桂木霧江と同じ加速神器を所持しており、将美の言い分からして成長期程度のモンスターを飼育していたという。そしてその車田香という男の妻は、九条兵衛の目的の為に暗躍している桂木霧江と同じ兵衛の秘書である小金井将美。果たしてこれは偶然なのか、それとも彼らとの間には何らかの繋がりがあるのか。
「……どうする?」
「放ってはおけねーよな……」
快斗の言葉に頷く。飛鳥もこんな状態の将美を放置することはできない。
「将美さん。……私、これから父に会うんです」
「えっ……?」
「この子達のことも含めて、父は……何か知っていると思うんです」
だから。
一緒に行って確認しませんか。
そう聞くと、将美は痙攣する顎を僅かに上下へ動かした。
九条兵衛は柄にもなく緊張していた。
「……何故だ……何故……」
約束の時間まで一時間を切っている。
一月ほど前に秘書の霧江から話を聞いた時は耳を疑った。飛鳥が自分から兵衛に会いたいと言ってきていると、それも同い年の男を連れてくるつもりだと。そこで殆ど冷静さを失って霧江に相手の男のことを調べさせてしまった時点で、九条兵衛は相当に頭に来ていたと言っていい。
相手の男は平凡な少年だった。静岡の名士の一人息子というだけで、家柄も成績も飛鳥にまるで釣り合わない粗野な庶民に過ぎない。
「認めん……断じて認めん……!」
ブツブツと呟く様は政治家のそれではなく、一人の父親のものでしかない。
そして霧江の報告によれば愚かにもその男は飛鳥と同じくデジモンと出会い、更には許し難いことに飛鳥との家族ごっこに興じて件の娘を守ろうとしているらしい。
それならば話が早かった。徹底的に叩き潰して件の娘を回収した後、その男には死より恐ろしい恐怖を味わわせて二度と娘に近付かせなくする。仮にも未成年を相手に政治家として後ろめたい手を使うほど兵衛は愚かではなかったが、同時に別の手段ならそれに近いことを厭わない程度には愚か者だった。
「ダークドラモン」
傍らに控える竜人を振り返る。
計画以上の目的ができた。まず彼らが連れているという二体のデジモンを始末して件の娘を奪う。そして残った愚かな庶民の小僧には、我が娘に手を出したことを死ぬまで後悔させてやる。既に武藤竜馬に命じて余計な邪魔は入らないよう手配済みの以上、彼らに勝ち目など万に一つも有り得ない。
結局のところ、単なる親馬鹿である。
霧江から指示された待ち合わせの場所は、公園の木々を抜けた先にある。
「エレベーター?」
そこだけ場違いに舗装され、中心にガラス張りのエレベーターが存在した。
悪の秘密基地に潜入するかのようだ。実際、飛鳥と快斗の感覚としてはそれに近い。
「こんな場所……私、知らない……」
よろよろと付いてくる将美の声。周囲を警戒しつつボタンを押してドアを開いた。
「快斗よ」
「うん?」
ふとイサハヤにズボンの裾を引っ張られた。そもそもイサハヤが快斗に話しかけることは珍しいのだが、今日はやたら多い気がする。
「気を付けろ」
「……何がだ?」
「何かにだ」
釈然としない物言いだ。快斗が聞き直そうとすると、ポンデもまた一言。
「ビンビン来るぞ快斗。……ここ、なんかヤバいぜ」
「だけど、ここまで来て進まないわけにはいかねーだろ」
「……そうだな」
何にしても今は進むしかない。ふらつく将美の手を引いて飛鳥がエレベーターに乗り込んだのを確認し、快斗とポンデとイサハヤは誰にも見られていないか見回しつつ続いた。
行き先のボタンは地上と地下の二つだけだった。わかりやすくて助かるが、如何にもなエレベーターも含め、何らかの悪事が行われている場所にしてはどうにも不用心で、公園の利用客が知らず知らずの内に迷い込みそうにも思うが、何らかの手段で人払いを行っているのだろうか。
「将美さん、大丈夫ですか?」
「……はい」
強い人だ。降下していくエレベーターの中で飛鳥はそう思う。
自分が今の彼女の立場だったらどうだろうか。愛する人が理由もわからず突然死んだ時、平静でいられるだろうか。きっと答えは否で全てを呪い、叫び散らしたくなるはずだ。
仁子や美々、成美達が死んだらどうだろう。当然、私は悲しむだろう。
では煌羅が死んだらどうだろう。やっぱり私は悲しむし、守れなかった自分を許せない。
ならイサハヤが死んだらどうだろう。私にもっとできることがあったと悔やむはずだ。
滅多に顔を合わせない母にしてもそうだ。有り得ないだろうが父だって多分同じだ。
そして──
「何だ?」
彼と目が合う。そこはおどけて欲しかったのに、ハニーって言って欲しかったのに。
「……何でもない」
歯車が食い違ったまま来ている。煌羅がいないとこうも噛み合わない。
だから言ってしまう。自分達の関係を思えば、その言葉はきっと彼の方から言ってもらって然るべきなのに。
「あの……さ。もし今回無事に帰れたら」
「ああ」
「煌羅とポンデとイサハヤと……」
アンタと私で。そこまで言っておきながら、その言葉がどうしても言えなかった。冷静になれば、夫を失ったばかりの女性が傍にいる状態で言えるはずがない。
快斗も聞き返してこない。神妙な顔でエレベーターが止まるのを待っている。元々そんなつもりで父との約束を設定したわけではなかったのに、小金井将美の夫の死という情報が絡んだ時点で、生死に関わる戦いに挑む気分になっている。これ以上先に進めば自分達は二度と元の生活に戻れないという直感がある。
ガタンと大きな揺れ。後ろの将美がビクッとするが、どうやら地下に到着したらしい。
「行こうぜ」
その言葉は快斗が言ったのか、それともポンデの声だったか。
いつの間にか喉がカラカラに渇いている。鮎川飛鳥は本来、父に会うだけでも心臓が破裂しそうに緊張するのだ。そこにムゲンドラモンといった自分達では敵わない怪物が存在し、更には身近な人間の死すら関わってきている。
今や煌羅を守る為とした一月前の決意すら曖昧だ。
偉大な父、ムゲンドラモン、誰かの死。それら全てから今すぐ逃げ出したくなる。
「飛鳥」
それでも、それでもだ。
「安心しろ。私が付いてる」
背中を押される。かつて自分をパートナーと言ってくれたイサハヤに。
「……ありがと」
だから踏み出した。後ろから将美がついてくるのを確認しつつ薄暗い地下の通路を進む。イサハヤとて恐怖がないわけではないはずだが、それでも傍にいてくれるだけで何と心強いことか。
先を行く快斗とポンデの背中を見つめる。
(コイツ達二人も……もしかして一緒なのかな?)
勝てない相手が待ち受ける場所へ行くのだ。彼らだって同じように恐怖しているはずだ。
その感覚が不思議と安心を生む。快斗との間に言い表せない食い違いがあったとしても、自分にはイサハヤがいて、快斗にはポンデがいる。互いに励まし合える存在がいるだけで、力及ばずとも如何なる困難にも立ち向かっていける気がした。
程なくして扉に突き当たる。凝った装飾を施されたそれは厳かさすら感じさせた。
「扉だ……いよいよって感じだな」
「ああ、魔王の玉座って雰囲気だぜ……」
言いつつ快斗とポンデがゆっくりと扉を開く。
「うおっ!」
扉が開くと共に視界が一気に広がった。先程の通路とは打って変わり、その部屋は高校の体育館より遙かに広いと思えた。それでいて赤黒いライトに数多照らされる開けた空間はどこか幻想的で、物々しい柱が立ち並ぶ様と合わせて神殿のようでもあった。
将美ですらその異様な光景に目を見張っている。
「光ヶ丘の地下に、こんな場所が……?」
「スクープだぜ、カメラ持ってくれば良かったな」
「ホントね……」
イサハヤとポンデに周囲を警戒させつつ部屋の奥へと進む。
よく見れば飛鳥が柱だと思っていたそれらは、何らかの培養液に満たされた巨大なカプセルだったらしい。その中ではそれぞれ形態の異なる見たことのない生き物が浮かんでおり、そこでようやくこの場所は何らかの研究室だったのだと得心が行く。
「デジタル、モンスター」
「……何それ?」
快斗の呟きに思わず聞き返してしまう。どこかで聞いたような単語だった。
「前にも言った通り、我々のことだ。デジモンと略してもいい」
イサハヤが後を引き継いだ。前にも言った通りと付け足されたのでちょっと反省した。
「そういえばアンタ、最初のサーベルなんたらの時も知ってる風だったけど……」
「ああ。サーベルレオモンもムゲンドラモンも俺の知ってる奴だった。だからまさかなとは思ってたんだが、これは……やっぱり」
唇を噛み締めてカプセルを見上げる快斗。
そんな苦しそうな彼の横顔を、飛鳥はなんとなく見たくないなと思った。
「ヘラクルカブテリモン、メタルエテモン……」
「マリンエンジェモン、メタルシードラモン、プクモン……」
イサハヤとポンデが淡々と呟く。飛鳥にはそれがカプセルの中で眠る生物の名前だということしか理解できない。
「ここは……デジモンの、生産工場だ」
「ご名答だよ、坊や達」
涼やかな声にハッとした。
部屋の一番奥、他のものより一際巨大な十数メートルはあろうカプセル。その中で瞑目し眠り続ける生物は、快斗もポンデもイサハヤも見たことのないモンスターだった。まるでぬいぐるみのような愛らしい寝姿ながら、漆黒の体色と鋭い角と牙は決して愛玩動物のそれとは思えない。
そしてその前に立つ、機械竜を傍らに控えさせた女は、言うまでもなく。
「霧江……さん」
「よくぞここまで辿り着いたね。だけどこれを見られたからには生かして返せない……あ、これアタシが言いたかっただけね」
歌い上げるように言う。ムゲンドラモンを伴った桂木霧江は、今この場所において絶対の強者である。
「ところで将美ちゃん」
「か、桂木先輩……!?」
「なんで将美ちゃんがいるのさ。アンタは今この場に無関係なはずだけど」
ジロリと睨む。将美は尊敬する先輩の本性を前に蛇に睨まれた蛙のように動けない。
「悪い子だね飛鳥ちゃん。あの子ではなく将美ちゃんを身代わりってわけかい?」
「……ンなわけないでしょ」
飛鳥がそんなことをしないと知っていて言うのだ、この母代わりだったはずの女は。
「飛鳥」
「ええ、任せた」
言葉は不要。そう言わんばかりに前に出たイサハヤが成熟期の姿に変わる。
「俺も行くぜ!」
「……頼むぜ、ポンデ」
同時にポンデもまた成熟期に進化を果たす。
ディアトリモンが羽ばたき、ライアモンが吼える。二体の成熟期の闘志は裂帛の如し。
「それで全力かい?」
それでも霧江が嗤う。折角一月待ってやったのに拍子抜けだとその顔が告げている。
「知ってる? 霧江さん」
だから飛鳥も嗤った。痩せ我慢で強がりだとしても嗤わなければならなかった。
「勝負ってのはね、下駄を履くまでわからないのよ」
「……言うね、小娘が」
幽鬼の如く微笑んだ霧江が加速神器を構える。後ろの将美がハッとするのがわかった。
「手加減はしようじゃないのさ。この場所を壊したら九条先生に叱られるからねえ」
「……いい歳した大人が怒られるのが怖いの?」
「ハッ……それでもアンタ達をブチ殺すには十分だよ!」
落胆と苛立ちが同時に込められた声と共に、ムゲンドラモンの砲塔が輝く。
「∞キャノン!!」
「散れ!」
快斗が叫ぶ。ライアモンが瞬時に横に飛び、壁を蹴って前方へ跳躍する。
元より成熟期の身でムゲンドラモン相手に勝ち目などあるはずがない。なればこそ、最初から狙うべきは指示者(コマンダー)である桂木霧江のみだった。究極体に敵わずとも成熟期の力は人間相手には命を奪って余りある。指示者を人質に取れば、少なくともムゲンドラモンの動きを封じることができるはずだった。
だがそんな一手を力業で破れるからこそ、究極体は究極体なのである。
「フッ……」
伸張したメガハンドが一瞬速く、ポンデの突進から霧江を守り、その身を弾き返す。
読んでいたわけではない。事実、霧江も獅子が自らの喉元へ飛びかからんと躊躇わず突撃してきたのには少々面食らった。少なくとも高校生のガキが迷わず人間を襲わせる指示を出すとは思わなかったからだ。それでも成熟期程度の策なら気付いた後で反応し、打ち破れるだけの強さと速さが究極体にはある。
「……ちっ」
舌打ちする。奇しくも飛鳥の方も快斗と同じ手段を取るつもりだったからだ。
「いい手だったよ、ちょっとアタシも肝が冷えたわ」
本心からの言葉だ。そして同時にこれで次の手はないだろうと嘲る言葉でもある。
「でも二度は通じない。どうする飛鳥ちゃん? 彼氏を見捨てて自分だけ逃げるかい?」
「ンなわけないでしょ……!」
どちらも違う。彼氏でもないし、逃げるわけもない。イサハヤはまだノーダメージだ。
「よしポンデ、一旦こっちに戻って……うわっ!?」
その時、横倒しになったポンデに駆け寄ろうとした快斗のすぐ傍の地面が爆発した。
「な、何?」
爆発で吹っ飛ばされた快斗がポンデと一緒に逆側の壁へと転がっていく。
そして爆発の煙が晴れた時、そこに立っていたのは一体の青い竜人だった。飛鳥の位置からは背中しか確認できないが、ムゲンドラモンより遙かに小柄ながら今し方地面に叩き付けたのだろう巨大な槍を携えた姿はイサハヤや快斗が言うところの進化の到達点、究極体であることは間違いないと思える。
「ダークドラモン……!?」
イサハヤの呻き声でその竜人の名を理解する。
「おっと、九条先生は逃がしてくれる気はないみたいだね……」
「お父様……?」
目を凝らして見る。そのダークドラモンとやらの隣に一人の男が立っていた。カッチリとした背広で固めた、とても70代には見えない若々しい姿はテレビでも飽きるほど目にした、そして飛鳥が実子として忘れるはずもない父の背中だった。一度も構ってくれなかった父、一度も一緒に暮らしてくれなかった父、そんなかつて追い続けたはずの男の背中が、そこにある。
その父の背中が告げている。この男は自分が今ここで仕留めると。
「ダメ……!」
「そうだね、飛鳥ちゃんがそう言えば先生は止まってくれるかもしれないねえ……」
振り返る。ムゲンドラモンを従えた霧江が、顎に手を添えながら笑っている。
「でもできるかい? そうしてる間にその小鳥ちゃんは死ぬ。そうなればアンタの彼氏は先生とアタシに嬲り殺しだ。そもそも飛鳥ちゃん、アンタ面と向かってお父様と碌に口も利けないんじゃなかった?」
「それ……は」
状況全てを人質に取られたかのよう。
事実、一対一で向き合えばイサハヤは数分と持たず殺されるだろう。そうなれば飛鳥だけでなく後ろで事態を飲み込めず硬直している将美もどうなるかわからない。そもそも自分達は何故ここに来たのだったか。言うまでもない、どういう理由か父やその周囲に狙われているらしいあの子を、高嶺煌羅を守る為ではなかったか。
自問する。では何故、鮎川飛鳥は高嶺煌羅を守りたいのか。
何故か母さんと呼ばれたからか? 否。
彼女の戦いが美しかったからか? 否。
彼女を戦わせたくはないからか? 否。
煌羅という名前を与えたからか? 否。
彼女の笑顔が可愛かったからか? 否。
否、否、否、否、否。全て否だ。
『子供扱いしないでくださいー!』
脳裏に響く彼女の声。でも全部だ。思い付く限り全部が理由なんだ。
出会ってから今日まで、顔を合わせたのは数回だけれど、それら全てが鮎川飛鳥の彼女を守りたいという理由になる。だから反対に理由なんて要らないとすら言えるかもしれない。異世界から迷い出た少女と、高嶺煌羅と出会ってしまった以上、鮎川飛鳥は彼女と関わる道以外、選ぶことができなかった。
そこまで考えた途端、急に頭が冷えてきた。両の手で思い切り両頬を叩く。
「っ……!」
視界がクリアになり、どこか楽しさすら覚えてくる。先程までの息苦しさが嘘のようだ。
「おや、怖くて狂ったのかい?」
「まさか」
イサハヤを見る。彼もこちらを見返して頷いた。
なるほど、こと戦いの場において最初から意識すべきは彼だけだった。快斗との言い表せないモヤモヤな感情に惑わされるのも、父に対する緊張で言葉が出なくなるのももう沢山。奇しくも父の乱入で快斗と分断されたことでそのことに気付いてしまった。どうにもこうにも、先程まで今日の鮎川飛鳥は鮎川飛鳥に成り切れていなかったらしい。
「ああ。……そもそも私は、難しいことを考えるのは性に合わないんだった」
数学も派手に赤点だったし。
「どういうことだい?」
「考えてみれば簡単な話だってこと」
息を吐く。霧江が目を丸くしてこちらの次の言葉を待っているのが妙におかしかった。
「霧江さんを速攻でブッ倒して、その後あの馬鹿と一緒にお父様を説得して、煌羅のことも含めて認めてもらう、それだけの話だってことよ」
「飛鳥。私は人間の機微には疎いが、今の君は物凄く恥ずかしいことを言ったように思う」
「……あっ、ちょっ……今の無しね」
呆れたようなイサハヤの言葉に我に返る。
そして同時に気負っていた先程までの自分のことが阿呆らしく思えてきた。
「できると思うのかい?」
「できるわよ」
そう笑顔で返した。絶対的な壁に見えていたムゲンドラモンが、今では薄っぺらい障子にしか思えない。
だって彼らの間には言葉がないのだ。自分をパートナーと呼んでくれた時の妙なこそばゆさとか、気負っていた時に軽く背中を押してもらった時の頼もしさとか、そういった感覚は飛鳥にあって霧江には決してない。これは自分達と彼らとの間に存在する絶対の差であり、飛鳥とイサハヤの持つ確かな強みだった。
成熟期が究極体に敵わないとか関係ない。そもそも自分はそんな常識(セオリー)は知らないから。
「霧江さんは知らないと思うけど」
「え?」
「女の子ってね、母親が見てないところで強くなるものなのよ?」
だから負けない。自分達が負ける未来なんて微塵も見えない。
「……アンタの、そういうとこ」
心地良い。自分の一挙手一投足が彼女を、母のように慕った人を苛立たせることが。
「アタシは昔から、大ッ嫌いだったよ!!」
それでも。
身勝手な考えだけど、それでも。
彼女の“娘”だった者として。
その言葉は聞きたくなかったなぁと思うのだ。
嬲られている。その気になれば一刺しで命を奪えるだろうに、ただ嬲られている。
「貴様は何だ」
鼓膜を突く声を前に、ただ萎縮するしかない。
九条兵衛、かつて次期総理大臣とも呼ばれた男。ブラウン管の上でしか見たことのない、この国の頂点に位置する男が明確な敵意を持ってこちらを睨み付けている。一介の高校生でしかない前田快斗には返せる言葉などあるはずがない。そもそも政治に興味など微塵も無いので顔しか知らないということも内緒だった。
「貴様は何だと聞いている」
最早動けなくなったポンデの体を、ダークドラモンが執拗に蹴り付けている。
快斗の方も動けない。敵意がこちらに向いた途端、竜人の槍もまたこちらに煌めくと理解しているから。
ダークドラモン。兵衛の向こう側でイサハヤがそう呼ぶのが聞こえた。それ以上あちらを気にする余裕などないが、それもまた快斗の知らないデジモンだった。サーベルレオモンとムゲンドラモン以外、そもそもポンデとイサハヤも含めて実際に出会うのは知らないデジモンばかりだったから当たり前とも言える。
だが今この場で培養されているデジモンは、快斗もよく知るデジモン達だった。
なればここは何なのだろう。ゲームやアニメの中の存在でしかないデジモンが現実に存在したとして、それを培養しているこの場所は如何なる目的の下に作られたのか。そして目の前に立つ政治屋はこの場所において何なのか。
「飛鳥とはどこで出会った」
「……は?」
「飛鳥とはどこで出会ったかと聞いている」
指を上に向けた。自然、兵衛の視線も頭上へ行く。そこには轟々と鳴るパイプの走る天井があるだけで。
「ふざけているのか……!」
「こ、公園! 公園でナンパしました!」
「……貴様」
バッドコミュニケーション。何故かそんな単語が浮かんだ。
「デートは今までに何回だ」
「二回……い、いや三回かな?」
「初めてのお泊まりは」
いや待て、何か流れがおかしい。
「ちょっとタンマですお義父様、一体何を」
「貴様にお義父様と呼ばれる筋合いはない!」
一喝された。野党も黙る怒声である。
ヒイッと最高に三下染みた声が自分の口から出て快斗は驚かされる。虎を前にした獲物のように縮こまるしかない。九条兵衛とダークドラモン、あらゆる意味で自分達では敵わない相手だと理解した。隙を見て出し抜こうにも、ポンデがダークドラモンに足蹴にされている以上、それを見捨てて飛鳥の援護に回ることなどできるわけがない。
どうする。どこかに活路はないのか。
「えー、九条……先生? 一つだけお聞きしたいことが」
「何だ」
「あの子、いや高嶺煌羅ってんですけど、あの子をどうなさるおつもりで?」
「貴様には関係ない話だ」
「ですよねー」
文字通り胡麻を擂るポーズで聞いてみたがとりつく島もない。
「貴様こそ飛鳥をどうするつもりだ」
「そ、そりゃ将来的には」
「黙れ」
「申し訳ございませんでした!」
素直にその場に跪く。人間ってこうも簡単に這い蹲れるのだと身を以って知った。
自分達の認識が如何に甘かったかを理解する。実の娘である飛鳥と一緒なら如何に偉大な父親だろうと説得できる、もしくは戦えると思っていたが、しかしこれでは戦うどころではない。人間としてもパートナーのデジモンとしても、全てにおいて下に見られている。いや下なのは実際のところ事実なのだが、最早その辺をプーンと飛ぶ虫けら程度にしか思われていない節がある。
単なる親馬鹿と言ったら殺される気がするので言えないが、やはり単なる親馬鹿である。
「貴様などに娘はやらん。同じ空気を吸うのも汚らわしい……」
「そ、そこまでっすか……?」
「無能はそこで見ていろ。まず貴様と飛鳥のデジモンを始末し、その後でゆっくり折檻してくれる」
ダークドラモンの槍が最早動けないポンデに向く。どう足掻いても助けられない。生身の人間ではどうすることもできない。
それを前にして、快斗は。
「………………」
プチン、と。
「……は?」
自分の中で、何かが切れる音がした。
「む?」
兵衛も感じ取る。目の前の低俗な男の空気が変化したことを。
「なぁおっさん。……アンタよぉ」
視界が狭まる。快斗の目には最早、九条兵衛の姿しか見えていない。
そういえば、許せないことが一つあった。
故郷でムゲンドラモンを暴れさせたこと。
自分の前で煌羅を奪い去ろうとしたこと。
自分を守ろうとした煌羅を傷付けたこと。
飛鳥にあんな苦しそうな顔をさせたこと。
そして今。
まるで何でもないことのように、ポンデの命を奪うと語ったこと。
デジモンの命を奪うことは、人間への説教より軽いと言ったこと。
「アンタ、コイツらの命を何だと思ってやがる……!」
ああ、一つじゃない。
全部だ。前田快斗はきっと、この男の全てが許せない。
「貴様……」
「アンタには一生わからねーだろうが」
歩く。ただ静かに歩を進める。
「ポンデも、イサハヤも」
一歩。
「笑うし、怒るし」
また一歩。
「悲しいことがあれば泣くんだよ」
仁王立ちを崩さない兵衛にゆっくりと近付き。
「それがわからねーアンタに」
「ぬっ」
「デジモンの命をどうこうする資格はねーんだ!!」
殴り飛ばせれば良かったのだが。
「がっ……!」
果たして殴り飛ばされたのは快斗の方だった。
「テメエ……世界に遺すべき至宝たる俺の……か、顔を……!」
「わ、若僧が……ほざくな……!」
だがカウンターを一度返しただけの兵衛が肩で息をしている。
鼻の中が派手に出血している気がするが、畳みかけるなら今しかないと悟った。前田快斗は元より学業の成績も運動神経も人並み以下である。殴り合いで勝ったことなど一度たりとも無いし、当然武術など嗜んだこともなければそもそも興味もない。
だから自分が勝てるとしたら、それは口八丁以外に有り得ない。
「ならアンタは見たことあんのかよ……そいつが笑った顔をよ」
「だ、ダークドラモンは単なる召喚物だ……生物ですらない」
押されている。政治家が17歳の小僧を前に動揺している。
「それが下に見てるってんだ。俺のことを気に入らないなら好きにしろ。だが俺はポンデの、デジモンのことを軽く見てるアンタは許せねーし認めねーんだ!!」
「貴様に何がわかる!」
九条兵衛の頭にこの時あったのは、ダークドラモンではなく実の娘のことだった。
今になって思えば、自分は父であるにも関わらず血を分けた娘である飛鳥の笑った顔を見たことがなかったのだ。良かれと思ってしてきたことは、全て飛鳥を傷付け、苦しめ、ただ萎縮させてきた。果たして父としての自分の行為が、彼女を喜ばせたことなど一度としてなかったのではないか──?
否、断じて否。飛鳥だけではない、全ての未来ある若者達の為に、自分は。
「わからねーよ。そもそもわかりたくもねー」
若者達? 若者達とは誰だ? 今ここで反抗してくる生意気な小僧も含まれるのか?
「だけど一つ、いや二つだけ確かなことがあんだよな」
「な……に?」
気付けば倒したはずのライアモンが立ち上がり、小僧の隣に立っている。
幾度となくダークドラモンによって蹴り付けられ、殴り付けられ、既に満身創痍だったはずなのに、小僧と同じ生意気な光を宿したその瞳は、一切の淀み無くこちらへと向けられている。彼らは年端も行かぬ成熟期(こぞう)の分際で、酸いも甘いも噛み分けた究極体(おとな)に相対しているというのに。
理解不能。全く以って、理解不能。
「「俺達は、アンタをブチのめす」」
高らかなる宣言に気負いは無い。迷いも無い。
「そして」
若僧の指が兵衛へ突き付けられる。
「アンタじゃ役不足だ」
それは誤用だ。そう言い返すより速く。
「鮎川飛鳥(アイツ)は、俺がずっと笑わせてやんよ──!」
若僧が吠えた。
獅子が輝いた。
その眩しさを前にして、兵衛はどうして。
この生意気な若僧がその青臭い意思で何を為すのか、見届けたいと思ったのか。
歯痒い。
ずっと眩しかった。ずっと羨ましかった。
「なんで……アンタは、いつもこう……!」
妹のように思っていた。いや、娘とすら思っていたかもしれない。
初めて出会った時、彼女は幼稚園児だったと思う。滅多に泣かない子だと聞いていたが、実際には泣き方を知らないだけで鮎川飛鳥はいつも寂しそうに空を眺めていた。父と会えず母親も殆ど帰らない家庭で孤独だった彼女の面倒を、いつしか桂木霧江が見るようになったのは自然なことだったのかもしれない。
色々なことを教えた。逆に色々なことを教わった。
くるくる変わる彼女の表情は可愛らしく、ずっとこんな風に付き合って行けたらいいなと思ったのも嘘ではない。鮎川飛鳥が霧江との関わりで大人になったように、気付けば結婚もせず仕事漬けで40歳を間近に控えた桂木霧江にとっても、飛鳥との触れ合いが仄かな安らぎになっていたことは事実なのだ。
『女はね、年齢を聞かれない限り永遠に17歳なのさ』
遠い昔、そう教えたことがあった。
『……えー? そしたら私、むしろ年上になっちゃうよ?』
彼女はそんな風に答えたはずだ。その時の飛鳥の困ったような顔を、今でも覚えている。
そんな彼女が、気付けば17歳になった鮎川飛鳥が自分の前に立ち塞がる。まだまだ未熟な利かん坊だと思っていた小娘は、いつしか自分に煮え湯を飲ませる程度には厄介な存在となっていた。
「どうしてだい、飛鳥ちゃん……!」
間断なく放たれる∞キャノンが地面を抉る。
だが当たらない。如何に周囲の培養カプセルを巻き込まぬよう力を抑えているとはいえ、究極体の攻撃がこうまで成熟期に回避されることなど有り得ない。ディアトリモンは寸分の狂い無く華麗なステップを踏み、その後ろに立つ飛鳥もパートナーが全て回避し切ることを疑わずその顔から笑みを消すことはない。
嫌いな顔だった。小馬鹿にされているようで見たくない顔だった。
「どこまでもどこまでも、どうしてアンタはアタシをコケにする──!」
「……コケになんてしてないよ」
笑う。本当に楽しそうに、鮎川飛鳥はただ笑う。
「だったら、そのにやついた顔をやめろってんのさ……!」
「だって楽しいし」
「……は?」
思わぬ返しに呼吸が止まる。楽しい? この状況をわかっているのか目の前の小娘は?
ディアトリモンが足を止めて後方の飛鳥に目配せする。全く仕方ないな君は、そう言っているように見えた。そんなアイコンタクトは自分とムゲンドラモンには決してできないことだった。
「本気の霧江さんと戦って。……そして勝つんだ、私は……私達は」
「フフッ、まあ苦労を背負い込むのは私なのだがな」
「感謝してるのよイサハヤ。あなたがいなければ、霧江さんには勝てないんだから」
そうして微笑み合う一人と一羽。
小娘が勝った気でいる。霧江にはそれが何よりも許せなくて。
「アンタはァーッ!!」
その怒りに従ってムゲンドラモンが砲塔を跳ね上げる。
小細工は要らない。狙いはディアトリモンではなく、後方に立つ鮎川飛鳥と小金井将美、その二人。全身全霊の∞キャノンでその薄ら笑いを消し飛ばす。将美、今この場には無関係のはずの女がヒッとその身を強張らせたが知ったことか。
エネルギーの奔流が二人の女を襲う。
その瞬間。
「……あー」
霧江は薄く笑う声を聞いた。嘲りではない、どこか悲しげな色を纏った声。
刹那の後には消し飛ぶだろう∞キャノンの奔流が行き着く先で鮎川飛鳥が、霧江の“娘”である彼女が笑っていた。どこか切なげに瞳を曇らせて、ただ霧江がその手段を取ることはわかっていた、けれど自分はその手段を取って欲しくなかった、そう言いたげな寂しそうな笑顔で。
それは多分、霧江が初めて出会った時の彼女と同じ顔だったから。
「待っ──」
叫んでいた。桂木霧江の持つ最後の良心がそう叫ばせていた。
しかしもう遅い。∞キャノンは女二人ごと後方を破壊し尽くす、そのはずだった。
「光の……翼……!?」
大きく広げられた翼が飛鳥達の寸前で、その奔流を受け止めていた。
そんなはずはない。成熟期のディアトリモンにそんな力はない。事実、かつて対峙した際に彼は∞キャノンの一発で為す術なく戦闘不能になったではないか。そもそも陸生に特化したディアトリモンの羽は退化して広げることすらできないはずなのだ。
だが目の前で起きたことこそが真実。巨大な羽は、間違いなく鮎川飛鳥のパートナーのものだった。
「イサハヤ……ナイス」
「いや大分痛いぞ私。……さあ行こう飛鳥、反撃開始だ!」
力強く叫ぶ巨鳥の姿が黄金に輝く。
飛鳥は自分の最後の策まで読み切り、苦し紛れの攻撃すら防ぎ切った。成熟期でしかないパートナーがそれを受け止めてくれると信じて疑わなかった。完全なる敗北感と不可思議な充足感が同時に去来する。それでも桂木霧江は、迷わずに悔しさや苛立ちより感嘆と賞賛を選んだ。
だって彼女は、私の“娘”だから。
だって子は、親を超えていくものだから。
「ライアモン──」
獅子と巨鳥の輝きが交錯する。
「ディアトリモン──」
場を覆い尽くす光は、まるで色褪せた世界そのものを照らすように。
「「超進化!!」」
ただ輝く。
◇
・車田 香(くるまだ かおる)
享年27歳。大学教授・玉川白夜のゼミの卒業生。妻は車田(旧姓・小金井)将美で新婚。
明るく直情径行な熱血漢で月影銀河・龍崎時雨とは特に仲が良かった。。現在はゲームクリエイターをやっていたが、1999年7月に謎の突然死を遂げる。可愛い嫁さん持ちながら突然死んだ馬鹿野郎。彼の突然死から全てが動き始める。
玉川教授から授けられた加速神器・自然<ネイチャー>でスピノモンを育て上げていたが、そのことを知っているのは銀河と時雨のみである。
彼の遺した加速神器は将美を通じて5話現在、飛鳥の手元に渡っている。
【後書き】
実は僕、人が理不尽に死んでいくことに憤る展開大好きでした。どうも、夏P(ナッピー)です。
今回で本編はピッタリ折り返し地点を迎えました。元々1クールアニメ意識して12話~15話程度で構成しておりましたが、富野の御大の如き風呂敷広げの悪癖で各人の印象が薄くなるかなと思ったので敢えてコンパクトに纏めております。おかげでスピノモンはまともな戦闘シーン無いまま退場という理不尽な事態になりましたが然もありなん。
それではまた、5日後にお会いしましょう……。
◇