◇
並んでソファに座っていると、ふと隣の彼女がコトッとこちらの肩に頭を乗せてきた。
「あたしの暗黒<エビル>、どうだった?」
楽しげな笑顔は大学時代に出会った頃と変わらない。
気付けばテレビで流していた映画は終わりを告げ、黒い背景に白地が浮かぶ淡泊なスタッフロールが始まっている。それは在り来たりなラブロマンス、愛し合う男女が様々な苦難を乗り越えて結ばれるまでの王道そのものの物語は、その主役二人にとってはまさしく人生の絶頂といった瞬間で幕を閉じる。
自分達の人生もそうであったらいいのに、そう思う。
「大したものだったよ……驚いた、時雨」
蠱惑的なようでいて、その実キョトンとした顔は童女のよう。大学卒業して以来、銀河が地元の静岡で教鞭を執っている関係上、直接顔を合わせるのは数ヶ月に一度といった頻度でしかないが、それでも彼女を見る度に魅せられる自分がいる。
だから自分が龍崎時雨を愛しているのは確かな事実、なのだが。
「最近、体調はどうかな」
「……別に普通よ?」
何故そんなことを聞かれるのかわからないといった表情。そんな彼女の下顎に軽く手を添えて。
「それならいいんだ。聞いてみただけだよ」
どちらからともなく軽く口付けた。
互いの匂いはもう慣れたもので、そこに何かを感じ入ることはない。
だから。
「時雨」
「なぁに?」
「僕と、結婚してください」
そんな心にもないことを、月影銀河は口にした。
「今頃、アイツらは宜しくやってるんだろなァ」
マンションのベランダでタバコを吹かしながらニシシと笑った。
「下世話な想像しないでよカヲル君……」
「下世話なこたァねェだろ」
部屋の中で洗濯物を畳みながら顔を顰める妻に振り返る。
香の妻である将美は龍崎時雨の高校時代の後輩だから、彼女及びその恋人のことをよく知っている。だからこそ生々しい想像はあまりしたくないらしく、デリカシーのない香の言葉には苦言を呈さざるを得ない。
「でもカヲル君、楽しそうだね」
「そうか?」
「うん、最近ちょっと元気なさそうだなって」
「……そうか?」
自覚はなかった。自分は普通に寝て起きて働いてまた寝ていただけのつもりだったが。
「起きる時間、なんか遅くなってたから疲れてたんじゃない?」
「んー、自分ではわかんねェや」
後頭部をボリボリと掻きつつ、スーツのポケットから加速神器を取り出した。
妻の言う通り、久々の親友との語らいが楽しかったのは事実だ。ただ普通に飲み屋で酒を飲みつつ駄弁るだけではなく、互いの育てた人知を超える怪物同士を戦わせるという新たな娯楽まで得た。ゲーム会社に勤めている香だが、悔しいことに自分が提供してきた如何なるエンターテイメントも及ばない楽しさが、あそこにはあった。
自然<ネイチャー>、またの名をスピノモン。自分の育てたコイツと銀河のサーベルレオモン、時雨のグランドラクモンは殆ど互角だった。
なればこそだ。
「お前ももっと強くなんなきゃなァ……」
そう独りごち、加速神器を掌に押し当てて引き金を引く。
加速神器を媒介として人間のDNAを吸うことでモンスターは育つ。一月前後で究極の姿にまで到達できたのは偏にこの機能のおかげに他ならない。
そういえば、もう一人自分達と同じ加速神器を与えられた奴がいたような。
「うおっと!」
考え事をしながら部屋に戻ろうとすると、ベランダの縁に足を引っかけて転びかけた。
「やっぱり疲れてるんだ。……気を付けてよ?」
「わりィわりィ」
心配そうにこちらを見つめてくる妻に手を上げつつ、ここは素直に従って早めに床に就くべきかなと思う。
ただ、一つだけ聞いておくことにした。
「なあ将美」
「何かな?」
「最近、職場で武藤に会ったか?」
「武藤先輩?」
龍崎時雨と同様、武藤竜馬も将美にとって同郷である故に、妻は彼を武藤先輩と呼ぶ。
「んー、最近は見かけてないかなぁ。……どうして?」
「……いや」
気になっただけだ。
究極<アルティメット>の加速神器を与えられたアイツは、果たして如何なるモンスターを育て上げたのだろうかと。
『本日ハ晴天ナリ。』
―――――FASE.4 「Digimon Rangers」
既に日付が変わるか変わらないかといった頃。
『ハニー』
「ハニー言うな」
耳元の調子付いた声にそう返しつつ、視線を開いたテキストに戻した。
これはヤバいと全身が告げている。九時間後には中間考査だというのに、テキストの内容が全く頭に入ってこない。数学の授業中は窓際の席から空の雲を数えて過ごしていたツケがここで来たわけだが、高校二年生になってからそもそもカリキュラム自体が格段に難しくなったように思う。
骨の髄から自分は文系なのだと思う飛鳥であった。
「そういやアンタ、中間は?」
『もう終わったぞ』
「田舎は早いのかしら……で?」
『で?』
「……で?」
『やはりプププランドはオレ様のもの……』
「うるせぇ!!」
あの静岡遠征から一月、折に触れて前田快斗とは再び電話で連絡を取り合うようになっていた。
コイツと来たら話す内容の八割がくだらないのだが、煌羅の声も時々聞かせてくれるので無碍にできない。また本人には絶対に内緒だが、同性の友人達との間で交わすやり取りとはまた違った彼との軽妙な会話が心地良くないわけでもなかった。
「いや、アンタの方は成績どうなのかなって」
『フッ……』
「何が可笑しい!!」
『だってよ、ハニーが俺の成績を気にしてる事実はなんか可笑しくねーか?』
「ハニー言うな。……言われてみたらそれもそうね……」
取り留めもない話。どちらともなく電話をして数時間駄弁る、そんな関係。
『あのお姉様とはあれ以来会ったか?』
「ううん。仕事には出てるみたいだけど……」
あちらから連絡はない。当然だが飛鳥の方から電話をする義理もない。
一度だけ、ある理由から九条兵衛(ちち)の事務所に電話した際に取り次いでもらった時に出た受付の人間に聞いた限り、別にそれまでと何ら変わりなく職場にはいるようだ。その時はあちらから『代わりましょうか?』と言われたが流石に断った。曲がりなりにも一切の容赦なく∞キャノンで消し飛ばされるところだった身である、どこかで真意を問い質す必要はあるかもしれないが、それには相応の心の準備が要るのだ。
代わりというわけでもないが、最近はまた別の年上の女性と会っているわけだし。
「煌羅は?」
『もう寝た。ポンデ抱いて寝てるぞ』
「……今度写真送ってよ」
『断る』
「何ぃ!?」
『見に来ればいいじゃねーか。飛行機使うわけでもねーんだし』
「それはそうだけど。……それにしても寝るの早いのね、アンタんち」
『田舎の夜は早いからな、八時半にはグースカピーだぜ』
「アンタ相変わらず言葉のセンスが古いわね……だあああああ!」
『ゴリラでも出たのか?』
「誰がメスゴリラやねん。明日数学なのに全然わかんねえのよ」
テキストを額に乗せながら唸る飛鳥。
証明って何? 三角関数って何? まるで理解できない。
『ふーん、都会の高校生ってのも大変なんだな』
「そこは都会も田舎も変わんないでしょ」
『そんなもんか。ンで、ハニーは次いつ来んの?』
「ハニー言うな。中間で赤点全回避できたら行けるかもね」
少なくとも数学は無理なような気がしてならないが。
『なかなか目標が高いな』
「うっさい、アンタには言われたくな……は? 目標が高い? 低いじゃなくて?」
『知ってっか? 赤点が三つ以下ならインターハイには出られるんだぞ赤木よ』
「誰がゴリラよ、そのネタわかる人何人いるのよ青田よ」
『俺一人だ』
「うるせえ!!」
そんな風にして延々と続くくだらない会話の応酬。
そして、よがあけた。
鮎川飛鳥が中間で無事死んだのは、言うまでもない。
当たり前だが、学校というものを高嶺煌羅は知らなかった。
月曜日から金曜日までの日中を快斗は学校で過ごす。12歳である煌羅──6歳にしか見えないと言われるが失礼過ぎる──も本来なら学校に通わなくてはいけない年齢らしい。とはいえ、元よりデジタルワールドから迷い出て、戸籍もなく身寄りもいない身ではそんなことができるわけもなく。
「ポンデ! 来ました!」
今日もお昼前に煌羅は裏山の森までやってきた。
「我の眠りを妨げる者は誰だぁ~」
「私です! 遊びましょう!」
すぐ傍の木がガサガサと揺れ、そこから成長期のポンデが降りてきた。前田家の飼い猫として扱われているポンデだが、快斗のいない日中はやることもなく、かと言って野良猫の集会に混じれるはずもないので裏山でゴロゴロしている。
同じように日中暇を持て余している煌羅もまた、最近はポンデに会いに来るようになっていた。
「煌羅は友達いないんだなぁ」
「喧しいです。私は大人なので、子供の遊びには付き合えないだけです」
何度か快斗に近所の公園へ連れて行ってもらったが、どうにも地元の子供達とは合わなかった煌羅である。
「アイツと遊べばいいじゃないか」
「アイツとは?」
不思議そうに首を傾げた煌羅は、ポンデの探るような視線に気付かない。
「煌羅のパートナーのアイツだよ」
「ジンライですか?」
「そうそう、そいつだそいつ!」
ポンデは騒ぎ立てるものの、煌羅のキョトンとした表情は変わらなかった。
「……別にパートナーなどではありませんが……」
「つまり……どういうことだってばよ?」
「ジンライはパートナーではなく、ただ私の戦う力です」
別にどうでもいいことのように彼女は言う。
「遊ぶなんてできるわけがないでしょう。あれは戦いの時しか出てきません」
淡々と返す彼女の横顔に、一切の気遣いや感傷は見受けられない。高嶺煌羅は事実、自らの使役するコアドラモンのジンライに対して何の感情も抱いていなかった。むしろ彼の竜を生きている物として認識しているのかすら曖昧で、まるで自分が戦いの際に振るう斧と変わらない存在だとでも言いたげである。
決して冷酷なわけではない。ポンデや快斗の知る彼女は感情表現豊かで、実に人間的であると言っていい。
「……そっか、ならいいんだ」
「そうですよ。今日のポンデはおかしなことを聞きますね」
別段おかしなことではない。けれどそれを指摘ことはポンデにはできない。
ジンライは文字通りの意味で彼女の一部なのだ。自分の内蔵や細胞の一つ一つに感傷を向ける者などいない。彼女達の在り方はそうした見方に近い。そしてそれはきっと、生まれた時からそうなのだろうとポンデは思った。
それが正しいのか歪んでいるのか判断する立場にポンデはいない。それは多分、快斗(ちち)や飛鳥(はは)の役目なのだ。
「いやいや、確かに俺らしくないこと聞いたなぁ~! よっしゃ、遊ぼうぜ!」
ただ、ポンデが思い出すのはあのサーベルレオモンやムゲンドラモンの姿だ。
「かくれんぼから始めましょう!」
「煌羅は子供だなぁ~!」
「子供じゃありません~!」
桂木霧江と名乗る女と、未だ姿を見せぬサーベルレオモンの主。
イサハヤと意見を交わした通り、自分達の推測通りなら。
高嶺煌羅の在り方は、一月前に対峙した彼らと瓜二つであるはずだった。
「えっと、飛鳥さんは何を食べられます?」
メニューで口元を隠しながら遠慮がちに聞いてくる女性は、如何にもな可愛らしい女子をそのまま大人にしたといった風貌で、今まで同じ場所で会っていた桂木霧江とは何もかもが正反対と言える雰囲気の人だった。
「こういう時、霧江さんならどうしてました?」
「ど、どうでした……っけ」
なんとなく距離感が掴めず、飛鳥の方も曖昧な口調になる。
例によってサイゼの向かいの席に座る彼女は九条兵衛の第二秘書で、本人曰く「霧江さんがお忙しいので代わりに」とのことで最近何度か顔を合わせている。霧江よりむしろ年齢は近い分、飛鳥と感性や話は合うはずなのだが、彼女の生来持つらしいフワフワした雰囲気に呑まれて未だにどう対応していいかわからずにいる。
捻くれ者の自分はこんな大人にはなれないんだろうなという諦観と、この天然気味な人に政治家の秘書なんて務まるのかという疑問が綯い交ぜになり、飛鳥は自然この小金井将美に対する態度を曖昧なものとしていた。
憧れと親近感に満ちていた桂木霧江に対するものとは、それは真逆の感情と言える。
「霧江さんは最近どんな感じですか?」
「忙しそうですよ。九条先生と一緒にあちこちを飛び回って」
「へえ……どんなことしてるんだろ」
探るような口調になってしまったが、将美は気付かないらしい。
「格好いいですよねぇ霧江さん……私にとっても憧れの人なんですよ?」
その言葉には純粋な尊敬の念があり、そこに裏はない、と思う。
数ヶ月前の飛鳥もまた同じだったはずだ。桂木霧江のことを純粋に尊敬し、母親のように慕っていた。正直に言えば今もその気持ちに嘘はないのだが、それ以上にあのムゲンドラモンと共に煌羅を狙ってきた事実がある。しかもそれは九条兵衛、飛鳥にとって父にあたる男が指示していたという。
自分がイサハヤと出会ったこととも関係はあるのか? そもそも自分やあの馬鹿の前に二度も現れたサーベルレオモンはどういう存在なのか?
それらの疑問の答えはきっと、父が持っているはずだと信じて飛鳥は小金井将美と会っている。こちらから父の真意を探るような手立ては、流石に一介の女子高生が持っているわけもなかったが。
「そういえば将美さん、ご結婚されてるんですね」
「め、目敏いですね……」
左手の薬指を見て指摘すると、将美はほんのりと頬を赤くした。
「旦那様は職場の方なんですか? いえ、差し支えなければでいいんですけど」
「……大学の、先輩です」
消え入りそうな声で返された。その様は恋する少女のようで少し眩しい。
そういうものだよなぁと飛鳥は思う。やっぱり結婚とか夫婦ってそういうものだ。飛鳥はまだよくわからないけれど、思い出すのも気恥ずかしくなるような甘酸っぱい思い出が沢山あって、その中にきっと自分にはこの人なんだって強く思う決定的な出来事があって、その上でそうなるものだ。
間違っても夜の公園で一緒にライオンに追い回されたことは、それに当てはまらない。
「あ、飛鳥さんの方こそどうなんですか?」
「うっ」
思考を読まれたかのようだったが、将美にはそんなつもりはないのだろう。
「わ、私はまあ……ボチボチですかねー」
「そうなんですか? まだまだお若いですもんね、これからですよ!」
ファイトです。そう言いたげにグッと拳を握る将美は、なんだか自分より精神年齢が低いのではと思わされる。そしてこの件に関してそれ以上の追求はない。この人はいい人だってそれだけで思う飛鳥は単純かもしれない。
驚くほど裏表のない女性だ。霧江が母なら将美は姉と呼べるような親しみやすい雰囲気がある。そして多分、自分と霧江との間にあったいざこざを彼女は知らないと見える。必然、父の目的とやらにも彼女は関与していない。まだ僅か一月ばかりの付き合いだが、飛鳥は小金井将美のことをそう判断していた。
そんな女性と今後も付き合っていくことに厭はない。それだけは確かだ。
「あっ」
不意に将美が表情を固くした。スーツに忍ばせた携帯電話が鳴っているらしい。
軽く頭を下げて立ち上がった彼女が、店の外へ歩きつつ電話に応じる。今までのポヤポヤした雰囲気とはまるで違う業務用の声で「はい、今は飛鳥さんと」と言っているのが聞こえたかと思えば、相手の言葉に一瞬だけ戸惑ったような表情を浮かべつつもすぐ「承知致しました」と首肯してこちらへ戻ってくる。
頬杖を付きながらそれを眺めていた飛鳥だったが、将美が差し出した携帯電話に目を丸くした。
「えっ……?」
将美の顔と携帯電話を見比べる。
仕事モードに入った小金井将美の顔は、今までのどんな表情より美しく見えた気がした。
「お父様、九条先生からです」
緊張しているのを悟られぬよう咳払いしつつ、耳に電話をあて直す。
『……はい』
聞こえた娘の声は小さく、身を固くして縮こまっている飛鳥の姿が見えるようだった。
「元気か?」
どう切り出したものかわからず、無機質な言い方になってしまった。自身の緊張にばかり意識を割いており、電話の先の娘の方が緊張しているのだという事実が頭から飛んでいた。即座にもう少し柔らかな言葉があったのではないかと己の言葉の選択を恥じてしまう。家族というものをついぞ持たなかった自分にとって、娘への対応は国会の答弁より難しい。
およそ一年ぶりの九条兵衛の娘との会話は、そんな柄でもない後悔から始まった。
『元気です。お、お父様の方は……』
「ありがとう。私は変わりない」
その言葉は本心である。形式的だろうと娘に体調を問われて嬉しくない父などいない。
「高校ではどうかね?」
『それなりには……』
言いよどむ声。高校では成績こそ芳しくないものの、活発な生徒だと聞いている。
故にそんな明朗快活であるはずの彼女を今この場で必要以上に萎縮させているのは、他でもない父親である自分なのだという事実が少々堪えた。
「息災であるなら何よりだ。母を大事にして精進してくれ」
『は、はい』
正直、娘の声を聞けただけで満足した面はある。立場上、大っぴらに顔を合わせられないことだけが残念だったが、それでも自分の血を分けた存在がこの世界に、また政治家としての自分が築き上げたこの国にいるという事実で九条兵衛には十分なのだ。だから鮎川飛鳥は九条兵衛にとって、目に入れても痛くない愛娘であると言えた。
しかし本題はここから。そんな娘には言いたくないことだが父として、また政治家として言わねばならないことがある。
『………………』
飛鳥の息遣いが聞こえる。彼女の方も言うべきか迷っていることがあるようだ。
大体の予想は付く。何せこちらが言わねばならないこともまさしくそれだからだ。
「すまない飛鳥、ここからが本題だ。……桂木君と一悶着あったそうだな」
『っ……!』
息を呑む音。見透かされたと言いたげなそれは、彼女の母である女にそっくりだった。
「お前が出会ったという緑の竜を連れた娘、あの娘には関わるな」
『……それって、どういう』
「それはお前の知ることではない。桂木君がお前にも手荒な真似をしたのはすまなかった。その件に関しては私の不手際である故に、彼女には厳しく言い含めておく。だが飛鳥、それでもお前は大人しく娘を差し出すべきだったのだ」
それ以上を飛鳥には話せない。未来ある子供に話すことではない。
明らかに返す言葉を失って消沈する娘の呼吸が耳に届く。だが飛鳥が何を言おうと応じることはできない。あの娘は自分達にとって必要な存在、たとえそのことで愛娘から恨まれることになろうとも、あの異世界より現れた少女は九条兵衛にとって悲願の鍵なのだ。
利用することに躊躇はない。あの娘は元より人間ではないのだから。
『お父様はどうして、あの子を』
「いずれあの町には再度桂木君を向かわせることになるだろう。だから飛鳥、お前はもうこの件からは手を引け。わかったな」
『お父様、待っ──』
娘の言葉を遮り、また彼女の答えを待たずして電話を切った。
聞くことはできない。娘に疎まれる以上に自分の良心が耐えられない。
「何故……飛鳥が関わってしまったのだろうな」
暫し瞑目した後、閑静なオフィスに意識を戻す。立ち上がって視界に広がる新宿副都心を見渡した。
異世界より迷い出たあの娘を期日までに確保するだけの容易い仕事のはずだった。その為に秘書であり己の片腕でもある桂木霧江に命じ、最強の機械竜と共に静岡まで出向かせた。だがそこに自らの愛娘が居合わせたことで全てが狂い始めた。
飛鳥ともう一人の男──飛鳥の彼氏ではないかと霧江が言っていたが、そんな馬鹿な話があるはずがなかろう──があの娘を守ろうとした事実は、あの娘を悲願達成の道具としてしか見ていなかった兵衛の心に迷いを生じさせている。あの娘を狙うことは即ち、愛娘の心を踏み躙ることを意味するからだ。
ではどうする? 諦めるのか? 自分が長年に渡り夢見てきた悲願を?
「有り得ない……」
そう呟く。これは飛鳥だけでなく、この国の未来を生きる者達全ての為にやるのだ。今更止められるはずもない。
それでも躊躇いがある。娘が悲しむことはしたくない、それは父として当然の思いだ。
だから。
「武藤君」
電話をもう一人の腹心たる武藤竜馬へ繋ぐ。
兵衛の甥である玉川白夜の教え子の一人にして、桂木霧江と同じように加速神器・究極<アルティメット>と名付けられた今回の計画の要となるべき八つの内の一つを持つ男。
「君に頼みたいことがある」
短く指示を伝える。息子のように信頼しているあの男なら上手くやってくれるだろう。
ふぅと嘆息して再び椅子にその身を落とした。気付けば掌に汗が滲んでおり、柄にもなく10代の娘一人を相手に緊張していたらしい自分に驚かされる。かつて政界を思うがままに動かしてきたとされた自分が随分と小さくなったものだと自嘲しつつ、応接用のソファの隣に立つ影へ目をやった。
「笑うだろう。如何に己を大きく見せたところで、所詮は娘一人に悪戦苦闘だ……」
数分前には誰もいなかった場所。そこに立つ影は兵衛の言葉に肩を竦めたようだった。
「何故このような器の小さい男が今こうしているのだろうな」
影は答えない。元よりそれにそのような機能はない。人の世の常識さえ逸脱した異形たるその影は、兵衛の言葉に反応する以外の行動は持たされていない。
それは言うなれば鏡。
兵衛の言葉を微細に読み取り、その心情すら思い憚って動く人形(マリオネット)。故に九条兵衛の心をあるがまま形にしたのがその影の正体。餓狼の如き牙と竜の如き爪を鈍色に輝かせるその竜人は、細身でありながら屈強な肉体を蒼き鎧で固めており、更に右腕に携えた全てを貫く一本の巨大な槍は九条兵衛自身の信念の象徴であると言えた。
「だがもうすぐだ。最後の一働きはお前にしてもらうぞ……ダークドラモン」
そんな彼のデスクにもまた、暗黒<エビル>の加速神器が存在した。
「え、エンジェモンーっ!」
祖父母の存在もあってか、前田家の夕食はかなり早い。
一方で祖父母も両親もすぐに自室に戻ってしまうため、だだっ広い居間にはすぐに快斗と煌羅の姿しかなくなる。そうするとそれまで大人しい飼い猫のふりをして狸寝入りしていたポンデも、やっと自分の時間が来たとばかりに起き上がって煌羅の膝の上に乗ってくる。
「もう先週のだぞ、それ……」
「いい話は何度見ても飽きないものですよ! ……うう、パタモン……」
録画したアニメをソファで見返しながら煌羅が目尻をティッシュで拭った。
「むしろ快斗さんは何故泣かないんですか」
「俺は散々リアルタイムで泣いた」
食器棚に皿をしまいながら答える。祖父母も両親も一人息子は放任主義だが、その代償に洗濯や皿洗いだけは全てさせるというのが前田家の家訓であった。
「あ、快斗さん電話ですよ! ……げっ、女狐……」
ソファの肘掛けで震えた携帯電話を覗き込んで煌羅が露骨に顔を顰める。
「なに、ハニー!?」
普段なら電話が来るのは煌羅が寝るぐらいの時間なのに、今日は随分と早い。快斗は手をサッと洗ってリビングに戻ってくる。
『ハニー言うな』
「いやまだ言ってねーけどな」
『なんか言われてる気がしたのよ』
開口一番それだったので快斗もフッと笑ってしまう。
ただ、電話の向こうの彼女の声は少し緊張しているように思えた。
「しかしハニー、今日は早いな。まさか俺の声が聞きたくて」
『ハニー言うな。……煌羅は?』
「ポンデと一緒にアニメ見てるな」
『そっか』
飛鳥は安心したようだ。煌羅が小声で「誤解を招くようなこと言わないでくださいっ」と目の前でプリプリしているが、軽く頭を擦ってソファに戻ってろとジェスチャーで示した。
『アンタさ』
「おう」
『来月って暇?』
「ハニーの為ならいつでも空けるぞ」
『ハニー言うな。暇ってことでいいのね』
なんとなく奇妙であった。いつもなら勢い良く捲し立ててくる彼女が、まるで何かを伺うような物言いをしてくる。煌羅に聞かれたくない内容なのは確からしいが、それでもどこか彼女らしくない、そう感じた。
必然、快斗の方のトーンも低くなる。
「……何かあったか?」
『え?』
「なんかハニーらしくねーなって」
『……別に何でもないわよ』
何でもないはずがない声で彼女は言う。
『あとハニー言うな』
慌ててそう付け足す彼女の声に乗っているのは動揺? それとも緊張だろうか?
『………………』
飛鳥の息遣いが耳に届く。
何らかの言葉を躊躇している、そう感じる。だからふざけるタイミングではないことはわかるが、こうした空気が快斗は昔から苦手だった。息が詰まって死にそうになるのだ。故に前田快斗が日頃からあらゆる相手に茶化しから入るのは、シリアスな雰囲気から逃げる為の処世術でしかない。
『わ、私の』
「私の?」
『私の父に会って欲しいの!』
「………………」
大声で叫ばれて耳がキーンとする。はて、自分は今何を言われたのか。
「……もう一度」
『わ、私の父親に会って欲しいのよ』
「ワンモア」
『私のお父様に会って──って、いい加減にしろッ!!』
「悪い、実は一回目で聞こえてた」
『でしょうね。何度も言わせるんじゃないわよ』
一生で一度言われるか否かの台詞だから何度か反芻しておきたかった。そんなことを言ったら多分彼女は怒るだろうなとどこか客観的に思う快斗である。
「でもなハニー、俺は政治屋さんと話せるような立派な人間じゃねーんだけど」
『知ってる。……何だ、アンタやっぱり気付いてたんだ』
「まあな」
『あ、それとハニー言うな』
彼女、鮎川飛鳥の父親は衆議院議員の九条兵衛である。
それは二月ほど前の桂木霧江という女との戦いの際、快斗は彼女達の会話を聞いた時点で気付いていた。むしろそれで気付かれていないと思っていたらしい飛鳥の方が、些か鈍いとさえ思う。別段、彼女自身に告げる必要性も感じなかったので言及しなかったが、いよいよそちらが本格的に絡んできたというわけか。
「了解したハニー。久々に東京でデートと洒落込むか」
『ポンデは必ず連れてきなさい。煌羅は……アンタに任せるわ』
「……わかった」
『来れる日が決まったら教えて。それじゃね』
まるで業務連絡の如き淡泊さで電話が切られる。ところでデートという単語を完全にシカトされたような。
釈然としないものを感じつつ、右耳から離した携帯電話を握って天井を見据えていると、いつの間にか録画のアニメを見終えたらしい煌羅が、ポンデを頭の上に乗せてトテテテと廊下を走ってくるのが見えた。
「女狐、何の用でした?」
興味津々といった風に目を輝かせる少女の姿を見返す。
飛鳥は言っていた。ポンデは連れてこい、だが煌羅は任せると。それは要するにポンデの力が必要となる、つまり戦いになる可能性が大いにある一方で、煌羅はできる限り連れてくるなということだ。実際、煌羅はあの女に狙われていたのだからそれを警戒する彼女の言葉も尤もであるが。
「煌羅がどうしてるか気になったんだってよ」
「ふ、ふんっ! 女狐に心配される謂れはありませんっ!」
頬を膨らませてプイとそっぽを向く煌羅。
自分達には逃げていることが沢山あると快斗は思う。飛鳥の方もきっと、気付いていて見ないふりをしているだけだ。けれどそれでいいという考えもどこかにあった。よく笑いよく怒る煌羅にはいつまでもそんな彼女でいて欲しいと願うのは、決して間違いではないと思うからだ。煌羅が煌羅として在り続けられる為なら、前田快斗は如何なる粉骨砕身も厭わない覚悟がある。
だからこそ、敢えて言うのだ。どこかで向き合わなければならないと知っているから。
「ハニーと今度デートするんだけどな」
「……は?」
ギラリと鋭くなる娘の瞳。その鷹でも射貫きそうな視線を軽く受け流しながら続ける。
「煌羅も来たいか? 東京」
彼女が何と返すかは既にわかっている。何故なら自分は、彼女の父だからだ。
「来れる日が決まったら教えて。それじゃね」
一気に要件だけ伝え、相手の言葉を待たずに飛鳥は電話を切った。
もしやこれは逃げなのではないかと思う。不思議とアイツなら間違いなくこちらの意思を汲んでくれるだろうという確信があると同時に、もしそうでなかったらという恐怖心がどこかにある。それが自然、飛鳥の前田快斗に対する応対を一方的なものとしていた。
そしてこれは奇しくも先日、自分が父にされたのと同じ行為だった。
(お父様が私から逃げ? ……まさかね)
そんなはずがない。父は平凡な女子高生の自分と違い天下の議員様なのだ。
そう自嘲し、飛鳥は携帯電話を懐に戻しつつ視線を正面に戻した。
「……ま、そういうことだから」
冷たく言い放ってやると、向かいの席に座る女はクククと楽しげに笑う。
「了解だよ飛鳥ちゃん。いや面白いものを見せてもらったわ」
「見世物じゃないんだけどね」
「九条先生も娘の懇ろの相手と来たら意地でも時間作ってくださるだろうさ」
いつものファミレスで桂木霧江と向き合うのはいつ以来だろうか。
「懇ろ言うな」
「前は否定してた割には随分とラブラブじゃないのさ。おっと、これは死語か」
「別にいいんじゃない? 断じてラブラブなんてもんじゃないけど」
呼び出したのは飛鳥の方からである。
父が言っていた。いずれ再び霧江をあの町へと送り込み、煌羅を回収する必要があると。二月前に思い知らされた通り、彼女のムゲンドラモンにイサハヤもポンデも敵わない以上、煌羅の生活──そして言いたくないがアイツの生活も──を守る為には、この方法しか飛鳥には思い付かなかった。
名付けて飛んで火に入る夏の虫作戦である。
「お父様とのアポ、宜しく頼むわね」
「任されたよ」
軽い雑談をしつつ、会計を済ませてファミレスを出た。一度互いに殺しかけ殺されかけた関係である以上、そこには以前のような気安さはなく、どこか腹の内を探り合うような余所余所しさがあった。
それが少しだけ飛鳥には心苦しかった。
「あ、そうそう飛鳥ちゃん」
そんな別れ際、さっさと去ろうとする飛鳥の背中に霧江が言うのだ。
「一月でアンタ達のデジモンがムゲンドラモンに勝てるようになるとは思えないけどね」
ハッと振り返った時には、既に霧江はヒラヒラと手を振って去って行くところだった。
その通りだった。流石に母代わりだけあって自分の考えなどお見通しというわけだ。
イサハヤやポンデとムゲンドラモンとの間には二段階もの差がある、霧江はあの時確かにそう言っていた。事実、今のまま如何に奮闘したところでイサハヤがあの機械竜に勝てると思えるほど飛鳥も愚かではない。そもそもイサハヤが成熟期に進化する力を得た契機も知らない飛鳥には、その差を埋める手段が到底思い付かないでいた。
だから実質、これは時間稼ぎでしかない。そんなことは自分も重々承知している。
「あと一月……」
夏が近付き、蒸し暑くなり始めた夜空を見上げ、鮎川飛鳥は呟く。
来月は1999年7月。
恐怖の大王<アンゴル・モア>が降誕し、人類が滅びる月。
・九条 兵衛(くじょう ひょうえ)
70代後半。国会議員にして鮎川飛鳥の父。
20世紀末の日本である目的のため、デジタルモンスターを暗躍させている。かつては次期総理大臣とまで呼ばれた大物で、今でも政界への影響は計り知れないが、名前の通り厳格な性格ながら一人娘(愛人の娘)である飛鳥に対しては甘さがある。
モデルは本作を書き始めた辺りで総理やってたローゼン太郎。
・ダークドラモン
九条兵衛の持つ加速神器・暗黒<エビル>から召喚される竜人。
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【後書き】
デジモンサヴァイブ熱が高まる昨今、皆さまいかがお過ごしでしょうか。ヤタガラモン有能だなチキショー!
そんなわけで夏P(ナッピー)ですが、なんとか現時点では宣言通り五日に一度投稿を守れているので、来月中には完結できそう! 何度か申し上げていますが、本作は書こうと思ったのが2008年前後なので、干支一周以上握った自分への宿題、まずは完結させることが大事!
それではまた五日後にお会いしましょう。
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