『アトリエ舟カエル号』
「それじゃあ何? スピノサウルスってヤツも、口から1万5千度のプラズマ波を吐き出していたっていうの? そうじゃないんでしょう」
同じように、スピノモンが水を泳ぐ筈が無いわ。そう言って彼女は、フンと鼻を鳴らした。
「わからないだろう」
僕も僕で、半ばムキになって食い下がる。
「羽毛を持つ獣脚類の化石が発見され、ティラノサウルス羽毛恐竜説がまことしやかに囁かれるようになって以来、ティラノモン種が羽を持つデジモンに進化したという報告は増加したそうじゃないか。リアルワールドで一般にまで広まった新説は、デジタルワールドにも影響を及ぼす。それなら、スピノモンが泳がないと思い込む方が、ナンセンスだ」
「それ、むしろ羽毛恐竜研究ってヤツの影響で、ティラノモンへの注目度が上がったからなんじゃないの? 観測数が増えれば当然報告も増えるわよ。大事なのは、割合でしょう? それに、「羽を持つデジモン」って言い方がそもそも卑怯だわ。鳥系のデジモン、とかならまだしもね。竜に天使、妖精や虫、機械のデジモンにだって珍しく無い。デジタルワールドでなら、植物にだって必要があれば羽が生えるわ。で? ご自慢の報告例に、羽毛恐竜と結びつくような進化先は、どのくらい残っているのかしら」
川のせせらぎを擬人化したような見た目をしておいて、彼女のセリフというか、言葉選びは、まるで濁流のようだった。気を抜くと、僕の意見なんて、あっという間に流されてしまいそうになる。
「少なくとも、ティラノモンが天使型、妖精型、昆虫型および植物型に進化した報告例よりは多い。サイボーグ型への進化なんて、改造が加わった結果な事も多いから、それこそ特例扱いだろう。割合を重視すべきだ、っていう点には同意するけれど、ティラノモンに新規の進化先が見つかったのなら、それだって十分立派な研究資料だ。だから、話を戻すけれど。究極体という頂に至ったスピノモンの場合、この手の影響は“進化”では無く“変化”として発現する可能性がある。君達がリアルワールドと呼ぶ世界の研究者は、それが遊泳能力という形で、なのではないかと考えているんだ」
激流の中、芦の葉にでも縋り付くみたいに持てる知識を並び立てた反論が、どうにか彼女の唇をへの字に曲げて言葉を堰き止めたところで、息継ぎをして。
「僕はその様子を観測して、それを絵にしなくちゃいけないんだ」
もう何度目になるだろう。きっと彼女を――ラーナモンを納得させられない結論を紡いで、船室の方へと振り返った。
開け放たれた扉の向こうには、未だ真っ白なカンバスが、イーゼルに支えられている癖に、妙に偉そうにふんぞり返っている。
「アンタってホント」
ラーナモンは、呆れ顔で華奢な肩を竦めているに違いない。
「理屈っぽくて、つまんないヒト」
「君はつまらなくはないけれど、理屈っぽいのはお互い様だ」
「言ってもわからないヤツには、言わなきゃもっとわからないから、たくさん言葉を使ってあげてるだけ。……このわからず屋」
「だったら僕の方は、今度は何も言う必要は無いね。その言葉、そっくりそのままお返しすればいいだけだから」
フン! とラーナモンがいっそう大袈裟に鼻を鳴らした音から察するに、彼女もまた、僕から顔を背けたのだろう。“この舟”の縁に腰掛けて、行儀悪く足だって組んでいるかも知れない。
僕はその様子を確認しないまま、天を仰ぐ。
天気は晴れ。空は高く青く、だけど僕らの居るこの場所は、梅雨、と言ったか。リアルワールドの雨の季節を凝縮したかのように空気そのものが湿気ていて、熱気立っている。
左右を見渡せば、鬱蒼と深い緑と毒々しい程に艶やかな花々が交互に景色を彩っていて、故に水面に映る景色も、水色とは程遠い鮮やかさだ。
パステルカラーの“この舟”と彼女の肌は、風景からは浮いていて。
僕だけが、この世界にとっての異物だった。
「わからず屋」
ラーナモンが同じ単語を繰り返すなり、とぽん、と何かが水に投げ込まれた音が続く。
ようやっと振り返れば、案の定。既に彼女の姿は無い。
「だから、どっちが」
溜め息のように零して、ラーナモンがつい先程まで座っていた位置の、ちょうど隣に腰を下ろす。
甲板にはうっすらと、水滴で描かれた小さな足跡が残っていて、きっと明日の同じ頃か、早ければ今日の夕方にでも、同じ所が同じ形に濡れている事だろう。
昨日も、一昨日も、そうだったから。
ああは言ったけれど、ラーナモンはわからず屋というよりは諦めが悪くて、それが良い方向に働いている時は「努力家」という扱いになって、そうでない時は「わがまま」という事になるのだ。
つまらない僕とそうじゃない彼女の違いは、きっと、そういうところなのだと思う。
「僕だって、描けるものなら、君の事を描いてみたいよ」
進む“舟”の立てる僅かな波音でさえ掻き消せるような、ほとんど空気みたいな本音を漏らす。
間違っても、川のどこかにいる彼女の耳には、届かないように。
結局のところ、スピノモンが泳ぐか泳がないかなんて、そう大して重要な話では無くて。ただ、僕が泳ぐスピノモンしか描いてはいけなくて、ラーナモンが一枚の絵のように美しい事だけが、僕にとっての問題の全部だった。
*
なまじ知識だけは持たされていたものだから。初めて彼女を、ラーナモンを見た時、デジタルワールドにも水の精は居るのだな、と。呆気にとられていた事をよく覚えている。
ライムグリーンで塗られた船室の外壁にもたれ掛かり、ぼうっと“舟”の前方、ようするに、ゆっくりと迫ってはすぐに遠退くを繰り返す景色を眺めていた僕の視界に、比喩でもなんでもなく音も無しに、ラーナモンは割り込んできたのだ。
「無用心」
驚いて声も出ない僕の前で、可笑しそうに首を傾けた彼女の頬から雫が滴る。
彼女はヒトの女性に近い姿をしていたが、同時に、ヒトのそれとは明確に異なる、青い肌を有していた。
水に濡れてかつての輝きを思い出したシーグラスに似た、透き通るような、光を宿しているような、神秘に満ちた肌であった。
「静かでしょう? この辺り。スピノモンの縄張りが近いからよ。彼、それなりに頭は良いから、ニンゲンのアンタなら見逃してもらえるかもしれないけれど、舟の無事までは保証できないわ。そんでもって、舟に興味は無いでしょうけれど、川で暮らしているピラニモン達は、アンタになら興味津々でしょうね」
投げかけられた値踏みするような眼差しは赤く、熟れたホオズキを思わせる。膨らみのある奇妙な形状の帽子と指ぬきグローブには赤い宝玉が嵌め込まれているが、彼女の瞳は、そのどれよりも赤く、深く、鮮やかで。
思わず見入っていたものだから、彼女の言葉が忠告であると気付いた頃には、彼女はすっかり呆れた調子で、眉があるべき箇所をひそめていた。
「遠回しに言ってちゃわからなかった? ごめんなさいね、おバカさん。この先はスピノモンの縄張り。ピラニモンの生息地。こんなしょっぼい舟じゃ、命の保証は出来ないって言ったのよ」
「この舟は「しょぼい」ものじゃない。立派な“アトリエ舟”だ」
とうとうと語る割にいくつものひっかかりを覚える刺々しい言葉選びに、はっとなって反論してしまうのは、舟の事。
愛着があった。そんなものが僕に必要かはさておき、この舟だけは、僕が選んで、仕入れたものだから。
「アトリエ舟?」
「そもそも見ず知らずの、無断乗船中の君に、僕は兎も角、舟の事まで悪し様に言われる筋合いは無い」
「普通逆じゃない? それよりも、アトリエ舟って?」
「そもそも僕は――」
「後にしてったら! ねえ、アトリエ舟って? 私、そんな舟、初めて聞いたのだけれど」
反論に転じて勢いづいていた僕は、しかしきらきら光る赤カガチの目に、再び言葉を失ってしまう。蛇に睨まれた蛙とやらは、案外、こんな気分なのかもしれない。あの生き物も、目が綺麗だから。
「アトリエ舟、っていうのは」
閉口して、一瞬悩んで。
「絵を描くための舟だ」
結局僕は、彼女の疑問に答える事を選んだ。
「絵を」
「水面をつぶさに観察するんだ、舟に乗って。水面の揺らぎだとか、差し込む光だとか、落ちた木々の影だとか、そういうものを。間近で観察して、それから、屋根の着いた船室で、その絵を描くための舟なのさ。印象派というジャンルの巨匠が、そうやって舟を使っていたんだよ」
「絵を描くヒトは、みんなそうするものなの?」
「普通のニンゲンはやらないよ。舟の上は、ひどく揺れるから」
「じゃ、普通じゃないつもりなんだアンタは」
ふーん、と小馬鹿にするように口ずさんで、その口調よりも軽い足取りで。彼女は僕の隣をすり抜けて、船室とは名ばかりの、粗末な小屋のドアノブに手をかける。
「でも、そう。絵を。……絵を描くための舟、ねえ」
そのままドアを開け放ち、思い切った行動の割にそーっと中を覗き込んで。しかしすぐに、ああ、と声と両足を軽く弾ませた。
「知ってる、聞いた事があるわ! でも見たのは初めて。これがカンバスってヤツなのね」
彼女がいよいよ船室にまで入り込んだのを見て、慌てて立ち上がった僕もその後を追う。
「おい、道具を濡らさないでくれよ」
「アタシは水の闘士よ? そんなヘマしないわ」
「トウシ?」
僕が疑問符を口にする番になっても、この時の彼女はそれに応じたりはしてくれなかった。
何せ彼女は、積み上げた画材の端々に飛び散り茶色っぽく塗り重なってしまった絵の具や、ツンと鼻を刺す油のにおい、そして染みの一つも無いクセに早くも名画ぶって、堂々と鎮座している白いカンバスに、どうやら夢中であるようだったから。
「本当に、絵を描くニンゲンなのね」
感嘆を漏らして、そうしてからくるりと振り返った彼女は大きく腕を広げ、そのまま背中をカンバスに投げ出して一枚の絵になってしまえそうな程、笑って見せた。花みたいに。
「ねえねえ、何も描いてないってコトは、決まってないんでしょう? 題材、ってヤツ。描きなさいよ、アタシのコト! 良い絵になるわ、約束してあげる」
彼女自身、自分がひどく美しい存在だと、何なら誰よりも理解しているのだろう。
間違いは無かった。僕もそう思う。本物の水の精をモデルに絵を描けるなんて、絵描きにとってそれ以上の名誉など、そうは存在しないだろう。
「無理だ」
だから僕はきっぱりと、絞り出すようでいて、食いかかるように、彼女の提案を断った。
彼女の全身がぴたりと動きを止める。幼く見えて、それでいて成熟した、いやらしい意図は一切無しに、ヒト型として美しい線の集合体として彼女はそこに在った。
「僕の描かなきゃいけないモノは決められている。この先に縄張りを持つ、スピノモン。スピノモンが泳ぐ姿を、僕は描かなきゃいけないんだ」
こうして、僕とラーナモンは出会い、
僕はその場から現在に至るまで、ラーナモンを諦めさせられないでいる訳だ。
*
スピノサウルスはもはや、陸を走る恐竜ではない。
研究者の間で未だ意見は分かれているというが、少なくとも、最新の恐竜図鑑を広げて育った現代の子供達は、スピノサウルスを水辺の恐竜だと認識したまま大人になる事だろう。
四足歩行に近い姿勢で水中に滑り込み、帆のような背鰭を水面から覗かせて、長く太い尾をオールの代わりにして悠々と川の流れに逆らい、鋭く滑らかな牙を突き立てて魚を喰らう。
他の大型肉食恐竜に比べて密度の高い骨は身体を水に沈めて生きるのに好都合だったと言う人もいるし、つい最近発掘された手指の骨の構造から、水かきが生えていたのではないかと考える人もいる。
何にせよ、現代人の心の中では。スピノサウルスは今や、水を泳ぐ恐竜として、生きていた。
「だったら、スピノモンも泳ぐんじゃないだろうか」
誰が言い出したのだろう。わからない。
誰が言い出すにせよ、きっと、時間の問題だったのだ。
「泳ぐスピノモンプロジェクト」
僕は吠え立てるように自分を描けない理由を問いただしてくるラーナモン(おおよそその端正な顔立ちでしない方が良い表情を浮かべていた)をどうにか制して、ここに訪れた経緯を語り聞かせた。
「泳ぐスピノモンを見つけて絵に描く事。そんな指示を受けて、スピノモンの生息地に、僕みたいなのが何名か派遣されているんだ」
「何のために」
「だから、泳ぐスピノモンを絵に描くためにだよ」
「そうじゃなくて」
苛立たしげな様子は変わらずに、しかし僕が道楽の類でこの密林を訪れている訳では無いと知ってか、僅かに語調を弱めたラーナモンが小首を傾ける。
「泳ぐスピノモンを描いて、それが何の利益に繋がるの、ってハナシ」
そんな事、僕が知りたいと思った。
「ニンゲンは、そうだったらいいな、と思った事が、実際にそうだったら、嬉しいんだよ」
思ったが、僕はしたり顔で適当な事を呟いた。
いくつか前の世代から続く、“僕ら”の悪い癖だった。
案の定、僕の答えをラーナモンは良しとせず、ジト目の彼女は尖らせた唇から、フゥ、と呆れを隠さずに息を吐く。
「なあに、それ。ありもしないコトを勝手に期待するだなんて、ワケがからないわ」
全く以てその通りだと思う。
「「ありもしないか」を確認するために、僕はここに派遣されたんだ」
「まあ、来る来ないは勝手にすれば良いんだけどさ」
ラーナモンはそう言って僕の方へと歩み寄り、ゆっくりとその場で一回転して均衡の取れた肢体を見せ付けた。
ニンゲンの耳に当たる部分と腰の両側から生えた、エメラルドグリーンのグラデーションがかかった魚のヒレに似た器官が、うっすらと向こう側の景色を透かしている。
「折角来たなら、ここにあるモノを描いたっていい筈だわ。ラーナモン。アタシの種族名よ。聞いたコトある? スピノモンより、よっぽど珍しいデジモンなんだから」
僕が彼女の名というか、種族を知ったのは、この時が初めてだった。
持たされていたアーカイブにも“ラーナモン”なるデジモンの名は見当たらない。強いて言うならラーナとはイタリア語でカエルを意味する単語であるとの記述が見つかったが、ゲコモンやフロッグモンといった、いかにもなカエルの姿をしたデジモンと共通する部分があるかと問われれば、僕は首を捻らずにはいられなくて。
「確かに、知らないデジモンだ。それに君は綺麗だから、君の事を報告すれば、喜ぶニンゲンはたくさんいると思う」
ラーナモンが大きな眼をぱちりと瞬かせた。そういう仕草も、いまいちカエルらしくはない。
続けざまに浮かべた、はにかむような笑みも。
「何よ、案外わかってるじゃない」
唐突に彼女の印象派あどけないものになって、なんだかドキリとさせられてしまう。
ああ、彼女はやはり、水の精なのだ。アトリエ舟を利用した画家達が、水面の揺らぎに見出したいくつもの顔を、彼女は全てその身に湛えているらしいのだから。
「そうよ、ラーナモンって、珍しいだけじゃ無くて、すごく綺麗なデジモンなの」
いいでしょう。と、彼女はいっそうに微笑んだ。
「そんなデジモンの姿を描き残しておけるだなんて、とっても素敵なコトだとは思わない?」
「それは」
そうだろう。
「そうかもしれない」
「だったら」
「でも、僕が描かなきゃいけないのは、泳ぐスピノモンだ。君がどれだけ魅力的でも、それは変えられない」
「なんでよっ!?」
ラーナモンが声を荒げ、抗議のつもりでか、ずい、と僕に顔を寄せる。
瞳が憤りに潤んでいる。この深い赤は、絵の具を何層重ねれば表現出来るのだろう?
きっといにしえの芸術家達も、こうやってニンフに迫られていたに違いない。「美しい自分を描いて見せろ」と。
描かずにはいられなかったのだろう。僕は彼らが羨ましい。
「だから」
とはいえそうは出来ない僕は、「泳ぐスピノモンを描かなければいけない」の一点張りでは彼女を追い返す事も出来ないと、いい加減に理解し始めていて。
「カンバス。あれは、ひとつしか無い。アレに、言われたものを描かなきゃいけないから」
閃いたでまかせは、しかし事実ではあって、だから、多少は冴えた言い訳かなと僕は思った。
「複製すればいいじゃない。ここはデジタルワールドなんだから、その手のアイテムなら簡単にコピー&ペーストで増やせるでしょう」
そうでもなかった。
「出来なくは無いかもしれない。でも、僕がコレに描いたものは、数分おきに本部に送信されてしまうから。だから、違うものを、描いたら」
描いたら、どうなるのか。
「あまり考えたくない」と考える自分自身の頭の中が、答えなのだろうと思った。
「何よ、ホンットに融通が利かないんだから!」
もう知らない、と、知らないも何も、彼女の方から言い寄ってきたというのに、ラーナモンは頬を膨らませて踵を返し、舟の縁に足をかける。
カエルと呼ぶには、やはり膨らみの足りない頬であった。
「そんなにスピノモンがお好きなら、口の中までよく見せてもらうといいわ。機嫌が良ければ、ブレードを発射したばかりの背中だって見せてくれるかもね!」
そう吐き捨てて、ラーナモンが川の中へと飛び込んだ。小さな嵐のような来訪者だったのに、水飛沫の跳ね返りすら残していかなかった。ラーナモン風に言うと「しょぼい」舟は、華奢な彼女な身体でさえ十分には支えられなかったのか、僅かに揺れていたけれど。
「……知らないも何も、じゃ、なかったな」
捨てセリフを反芻して、思い返す。
言葉遣いには棘があったけれど、彼女はそもそも、僕に忠告するために舟に上がってきたのだっけ。
この先は凶暴なスピノモンの縄張りだと。川中には危険なピラニモンが潜んでいる、と。
言い訳ばかりで、僕は、お礼の一つも彼女に言っていなかったな、と。
「悪い事をしたな」
二度と会えないだろうなと思った。その時は。
当然だ。彼女を怒らせてしまったのだから。
二度と無い機会をふいにして、一度だって起こるかもわからない空想を探しに行く僕は、彼女の消えた舟の縁にもたれ掛かって、指先を川のせせらぎに浸した。
「コバルトブルー、ターコイズブルー、……ウォーターブルー」
未練がましく羅列するのは、僕の見立てた、彼女を構築していた色の種類。
「マラカイトグリーン、ベールコンポーゼ。プライムレッドに、スカーレットレーキ、パーマネントイエローのディープ。それから影には、少しだけモーブを重ねて――……」
言ったところで虚しいだけなのに。どうせなら、彼女の目の前で並べ立てれば良かったのに。描けないなりに、こんなにも君の色について考えたのだのなんだの、結局言い訳でしかないものを。
指で撫でた水面は、たったそれだけで幾重にも形を変え続ける。まるでダンスホールでの一幕のようだ。もっとも、現物を見た事は無いのだけれど。
時々水底がちらちらと光る。熱帯魚に似た、鳥の翼じみた広く鮮やかなヒレを持つ成長期のデジモン・スイムモンの鱗だ。
耳をすませば、せせらぎに混じって、歌詞もわからないなりに心地よい、オタマモンの歌声も聞こえてくる。
川は、そこに住まう生物の営みも含めて、一時とて同じ顔を見せはしない。印象派の巨匠達は、そんな川の気まぐれを愛してこそ、後世にも傑作と讃えられる作品を描き続けたのだろう。
「描きたかったなぁ」
結局のところ、それが僕の本音の全てで。
それはやはり、ラーナモンが居るところで言うべきだったのだ。
*
等、憂鬱に気分を浸していた割に、僕とラーナモンとの再会は早かった。
次の日の朝だった。
「話をつけてきたわ」
また音も無しに舟に上がり込んできた彼女に、昨日にも増して呆気にとられて、おそらくあんぐりと口まで開けていた僕に向けて、ラーナモンは簡潔に呟いた。
「話?」
「そう、話をつけてきたの」
「何の」
「アンタのコトよ。平たく言えば、通行と滞在の許可ね。襲っちゃダメよ、って。そういうハナシ」
「誰に」
「スピノモンによ、決まってるじゃない」
質問用に3文字絞り出すのがやっとの僕にフンと鼻を鳴らすラーナモンは、僕を小馬鹿にしているように見えたし、得意げにも見えた。
「少し頭を冷やしたの。ヒトにモノを頼むにしては、多少は不躾だったかしら、ってね」
ただ、反省しているようには見えなかった。
「泳ぐスピノモンを描くのがアンタの“使命”なら、まあ、十闘士として気持ちはわかるもの。多少はね」
「ジュットウシ?」
僅かに弾みのついた聞き慣れない単語に対する疑問符は、「質問は後にして」と彼女に遮られて霧散させられる。
「だから、まずは。アンタのシゴトが早く終わるように、協力してあげるコトにしたの」
優しいでしょう、とラーナモンが笑う。ちらりと覗いた鋭利な犬歯は、カエルらしくはないが、人外らしくはある。
「恩を着せようって事か?」
「アンタね、もうちょっと他に言い方無いの?」
途端、彼女の口が「い」の字を形作る。殊更に、尖った牙がよく見えた。
その割に、「まあ、そうなんだけれど」と、あっけらかんと彼女は続ける。
「それと、アタシの担当地域でニンゲンに消滅されるのも寝覚めが悪いもの。だからアタシも、シゴトと言えば、シゴトでもあるわ」
「だけど、スピノモンは凶暴なデジモンなんだろう? どうやって」
「言ったでしょう。話をつけてきたの」
ラーナモンが爪の無い指を、握ったり、開いたりする仕草を、僕に見せびらかす。その様子は、これ以上は聞くなと釘を刺しているようにも見えて。
……名前以外の、彼女の事。当然、世代なんかも知らなかったな、と、僕は不憫なスピノモンが居るかもしれない、遠い遠い方角を眺めた。
「ありがとう」
とはいえその話が本当なら、僕は彼女に助けられた事になる訳で。
昨日の反省を踏まえて、忘れない内に礼を言っておく。
なんだか、釈然としなかったけれど。
「イマイチ感謝の念が感じられないわね」
ラーナモンは感情をころころと変えるデジモンらしく、相手の機微にも敏感なのだろう。澄んだ水底のようにお見通しだと言わんばかりの視線が、少し痛い。
「感謝はしてる。でも、頼んだわけじゃないから。約束はできないよ、君の望む通りのお礼ができるかなんて」
「上手い下手はこの際気にしないわ。そこまで期待してるワケでも無い」
「そういう問題でも無くて」
それに、と、僕は今日こそ彼女に口を挟ませないよう、矢継ぎ早に続ける。
「君、“話”のついでに、スピノモンに泳ぐ事を強制したりだとか、そういう真似は、していないだろうね?」
「はぁ? そんなコトするワケないじゃない!」
声を荒げ、目くじらを立て、噛み付かんばかり身を乗り出す彼女に、しまった、また怒らせてしまったと僕はたじろぐ。
だが、一拍置いて大きく息を吐いたかと思うと、ふくれ面のままではあるものの、ラーナモンは腕を組みながら姿勢を戻した。
「不本意だけど、疑うのも無理は無い、か。やろうと思えばできなくもないし。でも、勘違いしないで、アンタのシゴトそのものを邪魔したり、そのために誰かに何かを強制するつもりなんて、全然無いの。そんなコトしたら、ゴセンゾサマに顔向け出来ないもの」
「ゴセンゾサマ?」
僕は思わず首を捻る。
「デジモンに、先祖や子孫という概念は無い筈だろう」
「ああ、そっか。後回しにしたんだったわね、十闘士のハナシ」
ハイブリッド体。「スピリット」と呼ばれるアイテムを用いて進化したデジモン。
そしてスピリットとは、デジタルワールドにおける太古の時代に誕生した「デジタルワールドで初めての究極体」のデータから生まれた遺物であるらしい。
なるほど、ニンゲンのそれとはまた勝手が違うが、アイテムを介してデータを受け継いでいるのであれば、先祖と呼称するのにも無理は無いだろう。
「ジュットウシ。十の、闘士」
「そう、スピリットには十の属性があるの。そして多分流石にお察しの通り、アタシは水の属性のスピリットを受け継いだ闘士よ」
そして、合点もいった。スピリットに関連する話をする際に、彼女がどこか誇らしげにしていた理由に。
「スピリットは、スピリットの側が認めた者にしか使用するコトはできないわ」
事実、ただただ誇らしいのだ。
スピノモンは戦闘特化の究極体だと聞く。そんな相手に「話をつけられる」デジモンが弱いわけが無い。
途方もない研鑽を積んだ末に水属性のスピリットに選ばれたのだとは、想像に難くない。
「どう? アタシってば、アンタが思っているよりも、もっとずっと、すごいデジモンでしょう?」
「うん、想像以上だ」
「でしょう!」
素直に肯定すると、目に見えて機嫌が良くなった。
本当に、喜怒哀楽の切り替わりと振れ幅が激しい。少し前に僕は彼女を「嵐のよう」だと例えたが、ラーナモンのこういった気性は、移り変わりの激しい海洋の気象を観測するためのシステムに由来するのだと。それを知るのは、もう少し後の話になる。
「昨日君が言った通り、ラーナモン、どころか十闘士に関する報告は、僕の所持しているアーカイブには記載が無い。それが不手際で無いのなら、君は――いいや、君達は、と言うべきか。君達の存在は、文句なしにとびきりの新発見だ」
「でしょう、でしょう!」
ラーナモンは、はしゃぐあまりその場で何度か跳ねた。
これはカエルらしい仕草だと思ったが、華奢な彼女の些細な跳躍でさえ揺らせるような舟だ。僕の意識はそちらに持って行かれて、正直、気が気では無かった。
「だったら、ほら、やっぱりアタシのコト、描けばいいじゃない。新しい発見があると喜ぶんでしょう? ニンゲンは。じゃあ、アンタももっと喜ぶべきだわ」
「君みたいに飛んだり跳ねたりで喜色を表現すると、舟が傾いて怖いんだ」
「つまり喜んではいるのね。そう。口の利き方は気に食わないけれど、大目に見てあげるわ」
「だけどその喜びも、結局はぬか喜びにしかならない。僕は、泳ぐスピノモンしか描いちゃいけないから」
ラーナモンがピタリと動きを止めても、彼女の御機嫌の余韻に、舟はしばらく左右に振れ続けた。
それが、収まる頃に。
「アンタって、こう……流石に融通が利かな過ぎるでしょう」
すっかり赤い眼差しから熱を失ったラーナモンが、じと、と僕を睨めつけた。
「アンタは喜んでないワケじゃない。アンタを此処に寄越した――きっとアンタに輪をかけて堅物でしょうね――そういう連中も、喜ぶんでしょう? アタシの存在を知ったら」
「間違いないよ。嬉しがるさ。新発見なんだから」
「なのに、アタシの存在を、美しさを伝えるための絵は、描けないって?」
「描けないよ」
僕は首を横に振った。やるせなく。
「そういう決まりなんだ。そう、決められている」
溜め息が、耳の中いっぱいに響き渡る。
それからラーナモンは、また僕に何か噛み付こうとして、でも、結局そうはしないまま
「まあいいわ」
と、何一つ良い事なんてなさそうに肩を落とし、踊り子みたいに片足でくるりとターンを決めて、僕に背を向ける。
「呆れてモノが言えなくなってきたから、今日はこのぐらいにしておいてあげる」
「今日は」
「今日はね。今日のところは。明日までに、意固地なアンタを説得する方法を、考えておいてあげる」
アタシだって、諦められないわ。と。
落ちた雫が作った王冠のように、繊細で、それでいて印象を刻む一言を零して、また。現実にはラーナモンは水飛沫の一つも立てずに、舟の上から去って行った。
「明日も、来てくれるのか」
次の瞬間には、もうどこに居るのかわからなくなってしまった彼女の影を、それでも探しながら、僕もまた、ぽつりと呟く。
安堵から、だったのだろうか。そうだった気がする。
二度と無い機会に二度目があり、三度目もあるという。
奇跡と呼ぶのでは無いのか、それは。それだって、ニンゲンの好きな概念だろうに。
なのに、思い切って船室に足を踏み入れ、壁際から椅子を引き出し、絵の具を並べて、パレットと筆を手に取り、いよいよカンバスと向き合って――
「……」
――そうまでしても、他ならぬ僕自身が。奇跡を起こす事は、できなかった。
カンバスの前で大手を広げて微笑んでいたラーナモンの姿は、この目に鮮明に焼き付いているというのに。
真っ白なカンバスは、引き続き。瞳の紅ではなく鱗の朱しか、許してはくれないようだった。
*
「インターネットの中」としか形容しようのない空間で発見された、全てが電子情報で構築された世界“デジタルワールド”にて、互いを捕食し合って成長を続ける、様々な姿を持つ生命体プログラム群――デジタルモンスター。略して、デジモン。
スピノモンは、その名の通り、スピノサウルスの姿をしたデジモンだ。……スピノサウルス水棲恐竜説が、一般的になる前の。
強大な棘(スピノというのは、ラテン語で“棘”を意味する単語だ。もっとも、スピノモンのそれは、棘と言うより長大な金属のブレードなのだけれど)を背負い、尻尾でバランスを取りながら、二足歩行でのしのしと歩く、怪獣然とした恐竜。
たったの10年程前までは、スピノモンの持つカタチこそがスピノサウルスのスタンダードで、スピノモンもまた、スピノサウルスとして「正しい」デジモンだったのである。
それがたったの10年そこらで、「時代遅れ」になってしまった。
「「時代遅れ」って。……ちょっとは勉強してきたのよ、その、スピノサウルスについて。スピノサウルスって、アンタたちニンゲンが、まだ存在すらしていなかった大昔に暮らしていた生き物なんでしょう? 百年? 千年? 1万年前?」
「約1億年前に生息していた、と考えられている」
「バッカみたい、「時代遅れ」も何も無いじゃない。昔過ぎ、わけわかんない。ひょっとして、古代十闘士サマ達の時代より古いんじゃない?」
デジタルワールドの時間の流れは、人々が「現実」と呼ぶ世界でのそれとは異なる。
デジモン達にはデジモン達の歴史があり、1億年もの昔は、彼らにとっても「歴史」とは呼べない程、途方もないものであるらしい。
「そんな、ホントのコトなんてなんにもわからない大昔の話でやいのやいのと揉められるなんて、本当にニンゲンって愚かで退屈だわ。勝手に変なレッテルを貼り付けられたスピノモンもご愁傷様ね」
舟から身を乗り出したラーナモンの視線の先では、数分前まで、朱い鱗の恐竜が此方を伺っていた。
スピノモンだ。
恐らく、いよいよ縄張りに侵入してきた僕のアトリエ舟を偵察しに来ていたのだろう。
ラーナモンが「話をつけた」というのは本当らしい。便宜上、彼、と呼ぶ事にしたスピノモンは、こちらを確認して幽かに唸りこそすれ、僕に、舟に、危害を加えてくる事は無かった。
当然、と言って良いのか。水の中に入って泳いだりも、しなかったけれど。
「もちろん、アンタもね」
振り返ったラーナモンが、目で下向きの半円を描いている。
「ご愁傷様って事?」
「そうよ」
「それは、どうも」
「褒めてないし、労っても無い。むしろバカにしてる」
「正直者だね。そうだと思った」
何せ、僕も自分に対して、そう思う。
「正直ついでに言わせてもらうけれど、やっぱりスピノモンは、水を泳いだりなんてしないわよ」
彼女の意見は、今回は事実に基づいていた。
いや、最初からそうだったのかもしれないけれど。彼女はこの世界の、この地の住民だという話だし。
彼女は。水を司るという特別なデジモンは。一度だって泳ぐスピノモンなんて見た事が無いから、意地悪でもなんでもなく、正直に僕へとそれを伝えてくれているだけなのだ。
「いつまでも泳ぐワケの無いヤツが泳ぐところなんて、待っていても仕方が無いわ。いえ、待つのは勝手だけれど、この際それまでの暇つぶしでもいいの。アタシのコト、描いてくれたって、いいじゃない」
「君を警戒して入ってこなかったのかもしれない。スピノモンが泳がないって言うなら、“話”は陸上でしたんだろう。水の中となったら、まさしく君の独壇場じゃないか。泳げるにしても、いいや、泳げるなら尚の事、泳ぐ場所は選ぶよ。頭が良いんだろう、スピノモンっていうデジモンは」
だというのに、僕は意地の悪い言葉選びしかできなくて。
「それじゃあ何? スピノサウルスってヤツも、口から1万5千度のプラズマ波を吐き出していたっていうの? そうじゃないんでしょう」
同じように、スピノモンが水を泳ぐ筈が無いわ。そう言って彼女は、フンと鼻を鳴らした。
僕はきっと彼女の言う通りだと思ったのに、結局、その日も喧嘩別れになって、彼女だけじゃ無くスピノモンも、終日、再び姿を現したりはしなかった。
*
そんな調子で、結局僕とラーナモンは毎日顔を合わせて、堂々巡りの口喧嘩の末に別れるを繰り返した。
同じ結論で締めくくられる割に、話題は毎日少しずつ異なっていた。変わらずスピノモンの泳がない日々の中で、僕達はいつも違う話をしていたのだ。
ある時ラーナモンは、より戦闘に特化しているという、“水のもう一つのスピリット”の姿を見せてくれた。
「どう?」
彼女はにやりと得意げに笑って、アトリエ舟の全長よりも長い触腕を船首に絡めた。
「なかなかのモノでしょう? こっちの姿も!」
上半身、と、呼べば良いのだろうか。
ラーナモンだったデジモンは、それまでの少女性をあえて削ぎ落とし、妖艶さを前面に押し出した、より成熟した印象の女性の肉体を僕へと見せ付けた。
貝紫。
僕が彼女の影を塗るために重ねようと思い浮かべた“モーブ”という染料が発明されるまで、ヨーロッパで紫と言えば、巻き貝の分泌液を利用したものが主流であったらしい。
1つの貝から僅かしか採取できないその色は、当然貴重かつ高貴なものとして尊ばれていたそうで、何が言いたいのかというと、“もう一つのスピリット”による進化と同時にふわりと広がった彼女の髪は、まさしくそういう色をしていたのだ。
黄金の首飾りや腕輪、スピネルの耳飾りに、ターコイズブルーの宝玉が嵌め込まれた、鈍い銀色をした三角形の頭冠。装飾品を際立たせる滑らかな皮膚は、およそ血色という概念とは無縁な程に青白い。
そしてそれ以上に目を引くのが下半身だ。
彼女の身体の下半分は、巨大なイカの姿をしていた。
逆しまになったイカの、蠢く触手の付け根では、装飾品にも負けず劣らずの輝きを宿した、生きた宝石じみた金の瞳が、ぎょろぎょろと周囲を睨めつけている。
妖しく、艶やか。妖艶の2文字を体現した怪物が、真紅に塗った唇をニンゲンのように歪めて、笑っている。
「カルマーラモン。水のビーストスピリットで進化したデジモンよ」
「ビースト」
「スピリットは、各属性ごとに“ヒト”と“獣”の2種類に分かれているの」
なるほど、ではラーナモンがヒトの性質を持つ姿で、こちらのカルマーラモンは獣という訳だ。
彼女が先祖と呼んだデジモンは、エンシェントマーメイモンという名であったらしい。
マーメイモンといえば、現代のデジタルワールドにも、人魚の姿をした完全体デジモンとして存在している。だからきっと、エンシェントマーメイモンも人魚の姿をしていたのだろう。
人魚の「ニンゲンらしさ」を受け継いだのが、ラーナモン。「魚の半身を持つ怪物らしさ」を引き継いだのが、カルマーラモン、といったところだろうか。
「つくづく不思議なデジモンだ、その、ハイブリッド体というのは」
「その上、水の闘士は美しいデジモンなの。ヒューマンでも、ビーストでもね」
だから、と、イカの下半身を更に浮かせ、カルマーラモンはラーナモンの時と同じように、ずい、と顔を僕に寄せる。
瞳へと凝縮された赤は、以前よりも、さらに深い。
「アンタがこっちの方が好み、って言うなら、それはそれで構わないわ。どう? カルマーラモンのアタシを見て、ラーナモンのアタシよりも描きたくなってきた?」
「確かに、美人画というのだろうか。女性的な美しさを描くという意味では、より成熟した肉体を持つ今の君はラーナモン以上のモチーフになり得ると思う。それに、イカの下半身という怪物性には、一目見たら忘れられない強烈かつ鮮烈なインパクトがある」
「そうよそうよ、そういうところはちゃんとわかってるのよね、アンタって」
「でも、それはそれとして。舟に巨大なイカ、という組み合わせは、帆船を沈没させるクラーケンを彷彿とさせて、正直僕は今、気が気じゃ無い。さっきから背筋がぞわぞわしているんだ。ちょっとアトリエ舟から離れて欲しい」
僕の望みとは裏腹に、カルマーラモンはその場から動かなかった。ピクリとも。
体躯がある分、そして何度も指摘している怪物性の分、ラーナモンの時よりも圧があるのだけれど、どうしても胸の内に留めておけそうになく、僕はそのまま言葉を紡ぐ。
「そもそもジャングル――淡水にイカが居るのは、はっきり言って、変だ」
刹那、彼女の時が動き出し、赤い瞳が潤いを湛える。
「アンタって、アンタって……デリカシーも無いのね、バカ、バカッ!!」
バカ! と更にもう一度僕を罵って、普段と違ってざばん! と音と波を起こしながら、巨大イカの身体が淡水へと沈んでいく。
いつもとは質感の違う怒り方だった。水をよく知る者として、彼女自身、気にしていたのかもしれない。
悪い事をした。と、飛沫を被った頭を抱えてももう遅い。
今度こそ、もう会えないかもしれないなと嘆息して。次の日には何事も無かったかのように、彼女はラーナモンの姿でやって来て、昨日の事も謝れもしない内に、僕達は、新しい喧嘩の種を芽吹かせた。
何日もそんな、水と戯れるような日々が続いた。スピノモンが、一向に泳いでくれないものだから。
*
「画材よ、画材ね! アタシとしたコトが、全く思い至らなかったわ。最初に思い付くべきだったのに」
その日、いつになく興奮気味に舟へと上がり込んできたラーナモンは、それまでぼうっと川岸に朱い鱗と黒鉄のきらめきを探すばかりだった僕へと、大股で歩み寄ってきた。
「何だい、藪から棒に」
「複製じゃダメって言ってたのは覚えてる」
ちらりと船内の、未だ白一色のカンバスへと目配せしてから、でも、とラーナモンは改めて僕へと向き直る。
「新品のカンバスなら、その限りじゃないでしょう? それなら、アンタの上にいるヤツらだって咎めたりしないわ」
プライムレッド、スカーレットレーキ、バーミリオン、ローズマダー、パーマネントイエローのディープ。何層にも重ねた赤の虹彩。
黒真珠の瞳孔。
「あてがあるかもしれないの。ねえ、もしもアタシが真新しいカンバスを手に入れたら。アンタ、今度こそ。綺麗なアタシを、描いてくれる?」
「……」
それは良い考えだ。
そうしたい。是非そうしよう。
君を描きたい。
僕の技術の粋を以て、可能な限り君の美しさを1枚の絵に収めよう。
始めの日に見せてくれたように、その細い腕を大きく広げて笑う君を、この舟の甲板を背景に、ウォーターブルーよりもスカイブルーよりも蒼く碧く青い色で、君を――
「絵の具、は?」
「え?」
掠れた1文字と疑問符を前に噛み締めた歯の隙間から、言葉を絞り出す。
「絵の具のあては、あるのかい」
「絵の具」
「カンバスだけじゃなくて、絵の具も、僕の自由にはできない備品だ。消費すれば、その情報もプロジェクトチームに伝わる。……代わりを用意できるのか、君は」
初めて会った時に言っていた。カンバスを指して、「見たのは初めて」と。
この辺りのデジモンに「絵を描く」という概念は根付いておらず、となれば当然、そのための道具を入手する手段も基本的に有りはしないのだ。そうでなければ、彼女がこうもつまらない僕に、執着を見せる筈が無い。
木枠に布を張って作るカンバスはまだしも、何種類もの絵の具となれば――
「ねえ」
ラーナモンが、静かに口を開いた。
「描きたくないなら、正直にそう言ってよ」
涙みたいな声だと思った。
「ちが……っ」
違う。違う。僕は君を描きたい。描けないだけで、君を描きたいんだ。
そんなたったの1言を、言い切る事すらできなかった。言ったところで残酷なだけだ。どんなに言い訳を並べたところで、僕はここにあるモノでは彼女を描く事ができないのだから。
涙を連想させたのは声だけだった。涙なんて流してはいなかった。むしろラーナモンは微笑んでいて、だけど彼女は水の精だから、言葉や仕草だけでも、いろんな水を表現出来るのだ。塗り重ねた絵の具のように。
何も言わずに引き返して、ラーナモンが舟から身を投げ出す。
とぽん、と川に沈んだ彼女は、1度だけ仰向けに浮上して水面を漂った後、またすぐに穏やかな波間に自分の身体を呑ませた。
ヴィクトリア朝の画家が描いた、有名な戯曲のワンシーンが、現実として僕の目に切り抜かれ、焼き付いたかのようだった。
僕は長い間、彼女の消えた、歌の途絶えたような水面を呆然と眺めていた。
彼女は今度こそ、ここには帰ってこないような気がしたから。
そうしている内に、ふつふつと、水のイメージとはかけ離れた感情が胸の内に湧き上がってきて、ついに我慢の利かなくなった僕はその場から立ち上がって、舟をぐらぐらと揺らしながら、船室へと。僕のモノではあっても、僕のためのモノではないアトリエへと、大股で足を踏み入れた。
真っ白なカンバスのための小部屋。僕を閉じ込める檻。僕の自由の詰まった棺桶。
その角にある棚に立てた筒から、僕は乱雑にパレットナイフを引き抜く。
倒れた筒から、ペインティングナイフや筆が散らばる。どうでも良かった。
僕はパレットの上で乾いた絵の具を削ぐためのナイフを、本物の小刀のように握り締めてカンバスへと向き直り、振りかぶる。
先端の丸いこのナイフでも、力を込めて斬り付ければ、カンバスの布地ぐらい簡単に裂いてしまえる筈だ。スピノモンの背中に生えているような、巨大なブレードじゃなくったって。
「……っ」
だけど、どれだけ拳に力を込めても、肝心の腕を振り下ろす動作だけは、いつまで経っても行えなかった。
小刻みに震えるばかりで、その場からちっとも動き出そうとしない。僕の頭の中は僕を止める言葉のアラートでいっぱいになって、僕のやりたい事をひとつだってやらせてはくれないのだ。
「っ、うぅ」
呻きながら白む拳を降ろして、何の代わり映えも無いカンバスを睨み付けても、それはただの負け惜しみ。
惨めで、それ以上は見ていられなくなって、顔を逸らして、部屋を出る。
叩き付けるように扉を閉めて、抗議するようにぐらぐら揺れる舟の甲板で、僕は何も出てきやしないのに、何かを閉じ込めるみたいに扉の前に腰を落として、うずくまった。
それから、また、どれぐらいの時間が流れたのだろう。
わからなかったけれど、幽かに痺れる手の平にふと顔を上げると、僕はずっと、パレットナイフを握り締めたままでいたようだった。
「こんなものばかり後生大事に握り締めて、つまらない奴だ」
呆れたように独りごちっても、自分で言うのは虚しいだけだ。
どうしようもない。だからと言って、投げ捨てる程の度胸もやはり無い。
反対の手で船室の外壁に寄りかかりながら、よろよろとその場から立ち上がって――
「……」
指先に広がる、ライムグリーンの壁を、僕は見た。
間近で眺めると色ムラが酷く、水垢や黴、屋根や扉の留め具から滴った錆でうっすらと汚れていて、ところどころに傷があり、元の木肌が僅かに覗く、僕の背丈程はある長方形の壁。
恐る恐る、僕はパレットナイフの先端で、壁を軽く引っ掻いた。
案の定、塗装はひっかき傷に近い形で簡単に剥がれた。単純に、粗末なつくりなのだ。
それはそうだろう。いつか彼女が指摘した通り、ぼろ舟なのだ、この舟は。恐らく現地のガイドや護衛を雇う用として持たされたデジタルワールド内通貨をはたいても、これを買うのがやっとだった。
そうまでして、そうしようと思ったのは。アトリエ舟を用いるのが、水辺における絵画制作における最適解だと。僕の思考が、そう判断したからに他ならない。
そして、僕の思いつきで買ったこの舟だけは――僕が、勝手をしても良い筈なのだ。
「どうして気付かなかったんだろう」
だけどようやく今になって、気付いたのだ。気付いた以上、今までのままではいられない。
僕は無我夢中で、壁にパレットナイフを突き立てた。
時に大胆に、時に繊細に。
本来の用途とは異なる刃は、しかし乾いて張り付いた絵の具を剥がすだけの力を許容する柔らかな鋼でできていて、塗りの甘い塗料ぐらいなら簡単にこそぎ落としてくれた。
そうだ、塗り重ねるばかりが絵を描く手段じゃない。スクラッチアートなんて技法もあるじゃないか。
ライムグリーンにナチュラルウッドの木目は今ひとつ映えなかったけれど、この際だ、我慢しよう。
代わりにと言うのも何だが、削る範囲やパレットナイフの角度を変えて、少しでも。単調な中にも、“色”を表現しようと、僕は腐心した。
複雑で鮮やかな、“彼女”の色を。
雫を連想させる、特徴的な形の帽子を被った、耳の代わりにヒレを生やした女性の横顔。
そういうものがようやく形になった頃には、空が世界を彼女の瞳や宝石飾りの色に染めていた。
夕日を浴びて黄色がかったアトリエの壁は、木肌でできた彼女の輪郭をぼかしてしまっている。水に溶かすみたいに。
青も赤も無く、カメオのような立体感や濃淡も無い。
「彼女はもっと綺麗だ」
それでも、紛う事無き、僕の手で描いた彼女が――ラーナモンの横顔が、そこにはあった。
「そうよ。アタシはもっと綺麗よ」
そして、凜と響く彼女の声も、また、そこに。
思わず振り返れば、ラーナモンは今一度、舟の縁に身を乗り出して、じっと僕を見つめていた。
逆光で顔がよく見えないのだけれど。僅かに頬が膨らんでいる。
「でも、そうね。……よく描けているわ、ありがとう」
それがふくれ面ではなく、どこかむずかゆそうな、はにかんだ表情だと気付くのに、自分でも意外な程、そう時間はかからなかった。
「ラーナモン、僕は」
「あーあ、何よ。それなら、コレは要らなかったかもしれないわね」
僕の言葉を遮って上がってきた彼女の手をよく見ると、いくつかの石や、束ねられた植物が握り締められていて。
どれもこれも、彼女を構成するものに近い色を宿している。
「あのね。アタシの仲間に鉱石や、草花の扱いに明るいヤツがいる筈なの。昔って、絵の具はそういうモノで作っていたのでしょう? このジャングルに向かっているのが、ソイツらかはわからないけれど……でも、土や木の闘士本人じゃなくたって、ソイツらの居場所を知っているヤツが来ているかもしれないわ。だから、その時は、と、思って」
「君の仲間?」
「アタシ以外の、9体の誰か」
彼女以外の、十闘士。
「あのね」
彼女はもう一度、呼びかけの言葉を繰り返す。
真っ直ぐに僕を、見据えながら。
「この森に、周囲の生態系を脅かすようなデジモンが潜んでいるらしいの」
「え?」
「時々、スピリットが教えてくれるの。いや、教えるっていうよりは、命令かしら。デジタルワールドの脅威になりかねないデジモンを排除するコト。それが、十闘士の“シゴト”だから」
淡々と、しかし僕というより、自分自身に言い聞かせるように。ラーナモンは、ゆっくりとひとつずつ、丁寧に言葉を紡ぐ。
「今回のヤツは手強いみたいだから、増援も来てくれるみたい」
「君よりも強いのか」
「わかんない。わかんないわよ。でも、弱くは無いでしょうね。それなら、そもそもアタシ達が駆り出される必要も無いもの」
それからしばらく、互いに沈黙が続いた。
その間に、ラーナモンは僕の隣に移動して、自分の拙い肖像画の前で姿勢を正した。
「死んでしまうかもしれないのか?」
僕に言葉を選べる器用さは無かった。
「勘違いしないで。水の闘士になったコト、後悔はしていないわ。だって、こんなに綺麗なデジモンなんですもの。アタシ、“こう”なりたくて、一生懸命頑張ったんだもの」
ラーナモンが自分を模した輪郭をなぞる。爪の無い指は、無理矢理削られてさらに脆くなっているであろう塗装を、それ以上傷つけたりはしなかった。
「でも。……だからこそ。アタシ、ずっと思っていたの。残しておきたいって。アタシこそが、強く、美しい、水の闘士だったんだって」
だから、ありがとう。と、彼女は改めて、僕の方を見やる。
「嬉しい。ありがとう。アタシの絵、アンタの舟に、描いてくれて」
眩しかった。彼女の心からの笑みは。
誤魔化すみたいに付け加えられた「まあ、別に負ける気なんて無いケドね」という強がりの、どこかもの悲しい頼もしさも含めて。
「きっと描こう、君の絵を。今度は絵の具を使って、カンバスいっぱいに」
僕はようやっと、彼女に向けて断言した。
「描き足りないよ。だって君は、もっと綺麗だ」
「あっそ」
逸らした横顔に、バーミリオンが射す。
西日のせいにするには、少々赤みが強かった。
と。そんな風に、舟の外側に顔をやっていたから、彼女が真っ先に気付いたのだろう。
不意に彼女は素早く膝を折って、舟の縁と壁の影の間に身を潜めた。
「? ラーナモン?」
「シッ」
草の束を握ったまま、ラーナモンが唇に人差し指を当てる。
「アンタも同じようにして、あっち見て。いや、舟がここにある以上、アンタには意味無いかもしれないけどさ」
「?」
「いいから、早く」
彼女に促され、同じように身を屈めて赤い目の視線を追う。
「……!」
息を呑んだ。
縄張りに侵入した日以来初めて、スピノモンが、僕達の前に姿を現したのだ。
ここから少し距離のある陸地。シダに似た葉の茂みを掻き分けて顔を覗かせたスピノモンが、キョロキョロと辺りを見渡している。
一瞬、彼はこのアトリエ舟を目に留めたようだったが、いい加減、放っておいてもなんとも無いと判断したのか。それ以降は一瞥もくれず、長い首を高く持ち上げて、念入りに他に脅威が無いかを探っていた。
その時気が付いたが、スピノモンは、ラーナモンとは逆しまに、朱い身体をしているのに、青い眼を持っているらしかった。
水色の瞳だった。
そして、その目がとぷんと水中に消えたのは、あまりにもあっけなく、脈絡の無い、唐突な出来事だった。
スピノモンは、伏せるような姿勢を取ったかと思うと、僕とラーナモンが見守るその前で、川辺から川中へと身を滑り込ませたのだ。
ほとんど反射的にだったと思う。不躾だったなと省みるには時間がかかった。
驚くあまり何も言えなかったけれど、僕は「まさか話をつけたのか?」とラーナモンに視線で問いかけて、僕の意図を読み取ったラーナモンは、何度も手持ちの草と石に目配せして「これを探していたんだからそんな暇なんて無かった」と、寄せた眉間で反論した。
その間にも、あの金属の塊を背負った身体でどうやってか。スピノモンは浮上して、開いた鼻の穴からぷすうと空気を吐き出し、また吸い込んでいた。
帆と呼ぶにはあまりにも物騒な“棘”を立て。
スピノサウルスの、今ある化石標本から推測したものより短く細い尾をくねらせて。
黄昏の色を一身に浴びながら、緋色の恐竜は、夕焼け色の河川を――
「なに、何ぼさっとしてんのよ!」
と、声をひそめつつ、はっきりと語尾にエクスクラメーションマークを取り付けたラーナモンが、おまけとばかりに僕の背を叩く。
「いっ」
「呆けてる場合じゃないでしょう!?」
流石に手加減はされていると思うが、それでも十分強烈だった衝撃に呻く僕に、ラーナモンは畳みかける。
「スピノモンが、泳いでるのよ!?」
ハッ、と我に返って。
僕は船室へと駆け込んだ。
スピノモンが見える方角の小窓を開き、椅子を引っ張り出し、パレットナイフを抜いた時に散らばった道具の中から棒状の木炭を拾い上げて、僕はカンバスと向かい合った。
黒炭の線を走らせ、全体を軽くスケッチする。幸い、泳ぐ、とは言っても、スピノモンはあまりその場から動いてはいない。今の内に彼の輪郭を捉え、構図を決めておく必要があった。
座標はカンバスに手をつけた時点で登録されている筈だ。背景を書き込むのは後で良い。今はとにかく、スピノモンを。
「何か手伝えるコトある?」
「そこの箱に絵の具が入ってる。一緒に溶き油も。こっちの棚に出して並べておいて」
「絵の具は全部? 一部の色だけ?」
「全部」
「全部使うの?」
「わからない、とりあえず出しておいて。必要無さそうな色でも、重ねる時に要るかもしれないから」
ラーナモンの手助けが有り難かった。作業を中断する時間が惜しかったから。
ああ、正直に言おう。僕は侮っていた。多分、ラーナモンも。
「悔しいけれど、アイツも、なかなかやるじゃない」
比べるものではない。比べるべきでもない。美の種類が、違うのだ。
泳ぐスピノモン。なんと雄大なものか。
背中にそびえ立つ無数の刃の煌めき。
水底に灯る炎とでも例えるべき、朱い鱗の神秘性。
水の流れに逆らう巨体と、巨体を支える水。双方のたくましさと、力強さ。
1億年もの昔にリアルワールドに存在したかもしれない光景の、悠久の時を超えた再演。
こんなもの、目の当たりにできたならば、嬉しいに決まっているだろう。実際僕の胸の内は、暖かな感情で埋まっているのだから。
だから、少しだけ哀れに思う。
僕の絵、という形でしか、これを見る事ができないニンゲンが――
「待って」
ラーナモンが再び声をひそめる。
至極冷静に。だけど、身に纏う空気を尖らせて。
「ラーナモン?」
「何か変だわ」
「変って。……うん?」
言われて初めて違和感に気付く。スピノモンの周囲が、少々霞がかっているのだ。
姿を覆い隠す程では無い。陽の光がある内は、輪郭をなぞる分には困らないだろう。
だが、その点を抜きにしても、様子がおかしい。
スピノモンは、水に入ってからも、ずっと周囲を警戒しているのだ。
何故? スピノモンはこのジャングルにおいて、生態系の頂点に君臨するデジモンの筈だ。警戒を必要とする相手なんて、そもそも――
「高熱?」
ぽつり、と自分で呟いた言葉に、ラーナモンの表情が引きつる。
「必殺技を使ったの? 川に浸かったのは、身体を冷ますため?」
『ブループロミネンス』
恐らく背中のブレードの元である金属データを体内で1万5千度にまで熱し、プラズマ化させて打ち出す、スピノモンの必殺技だ。
「必殺技を使った上で――仕留められなかったデジモンがいた?」
彼女の戸惑いに応じるようにして、不意に、水面の一部がモーブに染まった。
「下がって!!」
彼女の鋭い一声が、僕とスピノモン、どちらに向けられたものだったのかはわからない。
どうにせよ、僕自身がその場で後退したところでどうにもならないし、スピノモンは、間に合わなかった。
「!」
川のほとりを打ち砕き、水柱を何本も巻き上げて。
次の瞬間には、ジャングルのどの植物よりも濃く鮮やかで毒々しい深緑で染め上げられた、棘付きの太い蔓が、スピノモンを取り囲んだのだ。
蔓はその何本かをスピノモンの背に刻まれながらも、あっという間に彼の手足や尻尾、果てには首に纏わり付き、そのまま全身を締め上げ、哀れな森の王者を水底へと引き摺り込んだ。
思わず耳を覆いたくなるような、固いモノを何度も何度も砕く音に舟が揺れて、それから数秒の後、どぷ、と、大きな大きな紫色の泡が立ち上って、水面で粘ついた広がりを見せたかと思うと、途端にぱん、と弾けて、きらきら光るデータのカスだけが、風と波に呑み込まれて消えていった。
肌が粟立つ。次にこうなるのは僕達だと、むざむざ見せ付けられた気がして。
事実、既に蔓のように絡みつく悪意がこちらを捉えているのが伝わってきて、ラーナモンは僕よりもずっと早く、それに気付いていたのだろう。舟を飛び出した彼女は水上を地上でそうするよりも軽やかに駆けて、両腕を前方に掲げていた。
「『レインストリーム』!」
途端、黒雲がスピノモンだった泡の真上に広がり、残っていた蔓に向かって、雨が降り注ぐ。比喩でもなんでも無く、弾丸であり、刃の雨が。
ラーナモンの必殺技『レインストリーム』は、瞬く間に蔓を切り刻んだ。
が。
「――っ!」
代わりに蔓の裂け目から勢い良く噴き出した禍々しい紫の煙が傘のように広がり、『レインストリーム』の威力を弱め始めたのだ。
一目見て判る、毒の色。
際限無く広がる悪意ある霧に、ラーナモンもその場から後退を余儀なくされる。
その隙を突いて。蔓の本体が――この森に潜んでいた脅威が、水の底から鎌首を持ち上げた。
竜の貌、毒の棘、明々とした蛍の群れじみた瞳。
ギリシャ神話の怪物の似姿を、植物で表現した悍ましい造形物。
ヒュドラモン。猛毒で大地を融解し、生態系を狂わせながら住処を拡大する、恐るべき究極体の植物型デジモンだ。
そんなものが水源を汚染してしまったら。このジャングルは、どうなってしまうのだろう。
「アンタは下がってったら!」
強く訴えるように叫んで、ラーナモンは再びヒュドラモンの方へと躍り出る。
「早く、逃げてッ!!」
警告に、むしろ僕の身体はすくんでしまう。
舟を操作しなければ。だが、動かしたところで周囲をゆっくり散策するのが目的のこの舟では、大した速度は出せやしない。
いや、それよりも。
「無茶だ、ラーナモン!」
単騎でヒュドラモンに向かっていく彼女に、僕もまた声を張り上げる。
確かに、彼女は強いのだろう。でも、体格差に加えて、汚染され、紫色に染まり、異臭を漂わせ始めた川の水。
もはやここは、水を司る彼女が存分に力を発揮できる場ではない。ヒュドラモンの、毒の沼地なのだ。
「逃げよう、一緒に!」
必死で訴える。彼女と出会ってから一番すんなりと喉を飛び出した、素直な言葉だった。
その念が通じたのか。彼女は一瞬だけこちらへと振り返って、
「バカね。アンタならわかるでしょ。それが出来れば、苦労はしないのよ」
そう言って、苦々しげに微笑むのだった。
「~~っ!」
十闘士の使命。
与えられた役割。
彼女の、仕事。
そうだ。今がその時なら、僕に止める術は無い。右手を伸ばしたところで、どうあっても届かない。
僕がスピノモンを描かねばならないように。この森に現れた脅威を除さなければ、彼女は彼女では在り続けられないのだ。
刃の雨は毒霧に阻まれ、酸に変質させた雨の必殺技『ジェラシーレイン』も効き目が薄いと早々に悟って、ラーナモンが姿をカルマーラモンへと切り替える。
触腕でヒュドラモンの3つある頭部や太い腕の形を取った棘付きの蔓をいなし、まだ無事な川の上澄みを巻き上げ纏いながら、イカの先端にあたる部分を軸の代わりにして、その場で高速回転を始める。
「『タイタニックチャージ』!」
全身をヒュドラモンに叩き付け、触手の裏側に生えた無数の棘がおろし金の要領でヒュドラモンを構成する蔓を引き千切り、抉り取っていく。
だが今や、ヒュドラモンがその身を浸した水こそが、水の闘士であるカルマーラモンに牙を剥いているらしい。
回る彼女の全身が、徐々に違う色に蝕まれていくのが遠目にもわかった。
白く滑らかなイカの表皮がただれていくごとに、『タイタニックチャージ』の威力が弱まっていくのも。
ついに、カルマーラモンの回転は、ヒュドラモンが見切れる程に落ち込んだのだろう。
中央の、いっとう竜に似た顎が、イカ部分の胴に牙を立てた。
「いッ」
「カルマーラモン!」
ただでさえ毒液の染みた牙が沈み込んだ、その刹那――彼女の胴が、大きく爆ぜた。
光線、であったように思う。ヒュドラモンの必殺技のひとつ、『インテンスランテール』だったのかもしれない。
判断できるような状況じゃ無かった。2人して金切り声を上げていたから。痛みにカルマーラモンが上げた悲鳴と、怪我一つない筈の僕の絶叫。
それを聞いたヒュドラモンが、二叉に別れた下顎を更に広げる。まるで、嗤っているかのようだった。
「クソ、クソ……っ!」
内部データの流出を抑えるために、近くの触手でイカの胴を押さえつけるカルマーラモンだったが、処置とすら呼べないその行為も虚しく、爆ぜた箇所からは、スピノモンが死んだ時と同じきらきらと輝く粉が零れ続けている。
「あんまり調子に乗らないでよね」
それでもカルマーラモンは歯を食い縛り、啖呵を切る。
髪の貝紫色から連想するような、気高い後ろ姿だった。
「派手にやり過ぎ。この騒ぎを聞きつけて、もうすぐ、アタシの仲間が来てくれるわ」
ふと、ヒュドラモンの左側の首が、ゆっくりと頭を水の中に突っ込んだ。
「そうしたら、アンタぐらい」
カルマーラモンが言い終わらない内に、ヒュドラモンの左の頭部が、再び持ち上がる。
「ひと捻り、なん、だから……」
彼女の語尾から音が抜け落ちる。
僕には最初、何故彼女が言葉を失ったのかが判らなかった。
でも、彼女が何を見ているのかは僕にも見えた。
それは、何かの破片のようだった。
濡れている事に由来する以上の光沢があるから、金属だと思う。
破片は緑色をしていた。ヒュドラモンの表皮とは比べ物にならない程、優しい色合いだと思った。
「アンタ」
カルマーラモンの声が、身体が、怒りのような、憎しみのような、恐れのような……悲しみのような。あらゆる負の感情を抱えてぶるぶると震え始めて、僕もようやく悟る。
「アンタぁ……ッ!」
ヒュドラモンは、彼女の“仲間”の破片を、彼女に見せ付けるようにばりぃ、と噛み砕いた。
「よくも――よくもッ!!」
「っ、カルマーラモン!!」
マズい。
彼女の激昂はもっともだが、それではヒュドラモンの思うつぼだ。水の闘士である彼女の感情は激流を引き起こせるかもしれないが、奴は力押しで勝てる相手ではないと、痛感したばかりの筈なのに。
「カルマーラモン、カルマーラモン! 落ち着くんだ、このままじゃそいつには」
うるさいな、と思ったのかもしれない。
どうにせよ、奴からしてみれば、事のついででしか無かったのだと思う。
「あっ」
舟が大きく揺れる。いや、揺れたんじゃ無い。ひっくり返っているのだ、今この瞬間。
僕は無機質な銀の容器に入ったままの絵の具達が、自分の色も伝えられないまま、あちこちに跳ね上がって散らばるのを見たし、同じように、たくさんの木片がばらばらになって宙を舞うのも見た。
「ああっ」
その中には、ラーナモンの絵もあった。
本来の用途外の使い方をしたパレットナイフで、ライムグリーンの壁に刻みつけたラーナモンの絵が。
粉々になって、その欠片すらも焼け焦げて。僕の描いたものが何も無かった事になって。
その向こうに、反転する世界に、僕は、今はカルマーラモンの彼女を見た。
彼女は大きく口を開けて、多分、僕の名前を呼ぼうとしていたのだろう。
だけど、流石の僕も本当に無いものをいちいち話したりはしなかったから、何も言えなかったんだと思う。
結局何一つ聞けないまま、空気の世界から突き放されて、どぼん、と僕は水に落ちる。
ぼこぼこと立ち上る泡の音に包まれながら顔を上げると、吹き飛ばされてなお、偉そうに。真っ白なカンバスだけが、案外無事な姿で、水面から僕を見下ろしていた。
多分、視界から外れていたヒュドラモンの右の首から。『インテンスランテール』を喰らったんだろうなと、その時になって、僕はようやく気が付いた。
浮上しようと必死で手足を振り回す。泳ぐ、という行為に関する知識は有していたから。
なのに身体はちっとも上に向かってはくれなくて、むしろどんどん沈んでいく。
そもそも水が、水を吸った衣服が重過ぎて、腕も脚も思う通りに動かせない。全く情報通りじゃない。おかしいな。
なるほど、泳げる奴は、スピノモンじゃなくたってみんなすごいんだ。と。僕は変に冷静になった頭で、感心してしまった。
もっとおかしな事に、沈むごとに川の流れは速くなって、僕とアトリエ舟の残骸は、前へ、前へと吸い寄せられているらしかった。
どうにかして身体を捻ると、眼前に広がっていたのは、組み合わさった植物の蔓でできた壁と、紫色のもやを垂れ流す、壁の中央にぽっかりと空いた、棘に囲まれたマゼンタの洞。
ヒュドラモンの腹だ。
マゼンタ、と例えたが、そう見える箇所より奥は真っ黒で、何の色も見出せない。
僕は、あそこに呑み込まれて消滅するのだなと思った。
自分が消えて無くなる事に対しては、驚く程特に思うところが無かった。いつニンゲンの都合で破棄しても良いように、そういう感傷は機能として持たされなかったのかもしれない。
ただ、悔いはある。
結局、美しい彼女の絵を、この世界に残せなかった――それ以上に。
彼女に、あんなに悲しそうな顔をさせてしまった。僕の事で。
そんな表情もひび割れた水晶のように儚げで綺麗だったけれど、やっぱり、彼女はどっちの姿でも、笑っている時の方が素敵だったから。
「それなら、少し頼まれてくれないか」
ふと、声が聞こえたような気がした。
いや、気がしたというには、そして水の中に居る割に、いやに鮮明に響いたような。
「僕を使って、彼女を助けて欲しい」
それにその声は僕の声に似ていた。語り口まで、僕のものだ。
音声、なのだけれど。なんだか、鏡映しみたいだと、そう思った。
「大事な仲間なんだ。結局、顔も合わせられなかったし、もはや合わせる顔も、無いのだけれど」
僕の指が届くところで、六角形の台座が棘に引っかかっていた。
*
カルマーラモンの赤い目が丸く、大きく見開かれる。
色だけで言えば今の僕の目は彼女とお揃いなのだけれど、やっぱり、彼女の赤色の方が、数段深くて、鮮やかで、綺麗だ。
特に今は、潤んで、遠くに沈んだ夕日が残した色までが混じっていて、きらきらきらきら、輝いているものだから。
傷や火傷だらけでも、テクスチャが毒で溶けてフレームが剥き出しになっているところがあっても。やっぱり、彼女の色は、特別だ。
「ねえ、“アンタ”なの?」
それが僕を指したものなのか、僕の纏ったスピリットの闘士を指したものなのかはわからなかった。
どっちだって良かった。彼女の無事と比べれば、そんなものは、どうだって。
何にせよ、“僕ら”は川底から浮上した。手足も無いのに、この身体には浮く機能が備わっているらしく、水面を飛び出てからも、僕は宙を泳ぎ続けた。
蛇とか、芋虫だとか。そういう、あまり歓迎されない生き物の形と動きを彷彿とさせたけれど、まあいいだろう。これでも、体色は割合気に入っているのだ。アトリエ舟と同じ、ライムグリーンをしているから。
最前列、即ち実質の頭部に付いた巨大な口で、ヒュドラモンの中央の喉笛に食らい付く。
その間に順番を入れ替えた、数珠つなぎの球の胴、その内の1つの目玉をヒュドラモンへと突きつけた。
「『ランブルブレンドナンバー』!」
途端、目玉から火が噴き出す。
こんな水辺だ、鎮火は容易だろうが、それでも予期せぬ炎にヒュドラモンはたじろいだ。
『ランブルブレンドナンバー』はこの身体――それぞれ1つずつ、合計10の属性を持つ球を高速で入れ替えて、ランダムな属性の一撃を放つ必殺技、らしい。
の、割に。狙った通りに、炎が出た。自分でやった事だが、いかさまじみている。……多分だけれど、この闘士、それなりに性格が悪かったのではないだろうか。
鋼の、獣のスピリットの闘士・セフィロトモン。
それが、デジモンでもなんでも無い筈の僕が、与えられた“進化”だった。
残りの首が光線や毒を浴びせかけてきたのを、対応する属性に吸収する事でどうにか対処する。
便利な能力だ。だけど相手もまた、強力な究極体。すぐに容量が限界を迎えるだろうし、『ランブルブレンドナンバー』も、相手の弱点は突けても決定打となる程の威力は無い。
だから、単独では、ヒュドラモンに敵わなかったのだ。
「『タイタニックチャージ』!」
でも今回は、水の闘士がいる。
僕が盾となっている間に潜水したカルマーラモンが、残った力を振り絞って。今度は水を纏うでは無く、毒を撥ね除けるための速度で回転し、高速で進む巨大なドリルとなって、ヒュドラモンへと猛進する。
ついに、カルマーラモンの一撃が、ヒュドラモンの中央――デジモンの心臓にあたる核・デジコアを穿ったようだった。
刹那、ぐったりとヒュドラモンの全身から力が抜け、しおれ、枯れ落ち。身から染み出た出た毒も含めてあの輝く塵になって、あっさりと天に昇って消えていった。
なのに
「カルマーラモン、カルマーラモン!」
いつまで経っても、彼女が浮かんでこない。
焦って目玉の一つを水に浸けても、彼女の影も形も見つけられなかった。
まさか、直前に流出していた分の毒に、全身を呑まれてしまったのだろうか?
「……!」
だがその時、ヒュドラモンが消滅した場所よりも少し下流で、何か小さな塊がぷかぷかと漂っているのが目に入った。
明らかにカルマーラモンよりも、何ならラーナモンよりもずっと小さかったが、それでも、藁にもすがる思いで、僕は宙を漂い、塊の側に寄る。
そこには、棘と毛の生えたカエル、としか形容のしようがない、奇妙な姿のデジモンが力無く伸びていた。
体躯からして、成長期だろうか?
「ホントに、もう」
僕の無数の視線が一身に向けられているのに気付いて開かれた口からは、聞き馴染んだ声が零れた。
「サイアク。二度と戻るもんかと思ってたのに」
「カルマーラモン?」
「そうよ。……そうだったんだけどなあ」
やるせなく、苦しげな溜め息を零して。しかしすぐに、カルマーラモンだったデジモンは、小さいながらに立派な牙の覗く口の端を、にっと持ち上げる。
「でも、今のアンタも大概な見た目よね」
「失礼な奴だな、君は」
僕も頭部の立派な唇を、にいっと吊り上げて、笑って見せた。
*
デジタルワールドおよびデジモンの発見以来、人工知能研究は飛躍的な進歩を遂げた。
デジモンの思考アルゴリズムを解析した末に、ニンゲンのように――もちろん、ニンゲンが許容できる範囲内で、だ――考え、感じ、行動する人工知能を、生み出す事ができた程度には。
サイエンス・フィクションから「フィクション」の部分を引くのに躍起になニンゲン達は、生み出された人工知能達に、これまたデジモンのテクスチャを参考にして制作された電子の肉体を与え、デジタルワールドへと解き放ったのだ。
そんな“現実になった夢”のひとつが、“泳ぐスピノモンプロジェクト”
僕の、生まれた理由。
「ニンゲンは、「自分で考えて、一から十まで自分の手で絵を描くクリーンなAI」が欲しかったらしい。よく言うよ、題材は向こうが勝手に決めて、自由になんて描かせてくれないクセにさ」
筆とパレットを降ろして、出来上がったばかりの絵を眺める。
もうあのカンバスに、元の白色なんて残っていない。特別製なのか、水の侵食どころか溶解毒まで耐え切って、他の道具と一緒に流れ着いた川のほとりでもいっとう偉そうにしていたのに。今ではすっかりしおらしくなって、どこか安堵しているようにさえ見えるのは、僕の心情が反映されての事だろうか。
うん、きっとそうだろう。我ながら、よく描けているのだから。
スカイブルーとウォーターブルーに挟まれた、深い森の緑と、剥き出しの赤土。
その中央を悠々と征く、黒い棘の背鰭、青い瞳、そして炎のように朱い――体毛。
僕は、泳ぐスピノモンの下絵をなぞって、泳ぐギザモンの絵を描いた。
スピノモンと同じ記号自体はいくつも有しているけれど。泳ぐギザモンだなんて、デジタルワールドの水辺では、ひどくありふれた光景だった。
「アンタ、良かったの? その絵で」
この絵のギザモンのモデルが、水の闘士であった彼女である点を除いては。
「良かったよ」
僕は椅子代わりにしていた岩から立ち上がって、カンバスの向こうで水に浸かっていた彼女の方へと歩み寄り、文字通り紅を挿したような唇で弧を描いた。
「ニンゲン達にしたってそうだ。きっと今頃、皆して安心しているさ。「ああ、やっぱりAIは。AIの描いた絵はダメだな」って」
「正直アタシは、ちょっと不満」
ギザモンが目で下向きの半円を形作る。ラーナモンの時もよく見せていた呆れの表情だ。
「スピノモンを描かなかったのはわかるわよ、もう、この森にはいないんだから。でも、どうせ描くなら。鋼のスピリットを使った副作用で、もう題材に縛られていないって言うのなら。ラーナモンやカルマーラモンの姿でも良かったじゃない」
「それは」
「確かに今はギザモンだけれど、忘れたとは言わせないわよ? あんなに綺麗だったんだもの。アンタの目にだって、焼き付いているでしょう?」
「……」
「同じこのジャングルに生息する成長期でも、スイムモンみたいな華やかさはない、オタマモンみたいな美しい歌声だって持ってない。……残しておいても、嬉しくないわよ、こんな姿」
ギザモンは、背中の棘と同じ色をした爪と、その間に生えた水かきを物憂げに眺めて嘆息する。
かなり肉体のデータを削られて、体内のエネルギーも大量に消費したとあって、彼女はしばらくの間、水の闘士には戻れないらしい。
「まだ、本調子じゃないんだ」
僕は岸で膝を付いて、水の青を湛えた彼女の瞳を覗き込んだ。
「先に適合したのがセフィロトモンのスピリットだったからか。それとも、ヒュドラモンに一度、この闘士がばらばらに砕かれたからか。時々、末端の勝手が効かなくなる事がある。……水の闘士としての君を描く時は、万全な状態で取りかかりたいんだ」
「それ、ホントなの」
「本当だよ」
嘘じゃない。問題を感じる程でも無いというだけで。
「それに、今の君だって十分に綺麗だ。黄色い肌は月明かりに似ているし、なのに赤みがかった体毛は太陽を思わせる。爪や背鰭には黒曜石みたいな艶があって、それに、瞳はちゃんと、水の色だ」
「お世辞じゃないなら、シュミ悪いのね、アンタって。やめてくれる? 水の闘士のアタシを褒めてくれた時のセリフまで、なんだか薄っぺらくなっちゃうわ」
「仕方ないだろう、本当の事だ。僕は、ギザモンとしての君を描くのも、楽しかったよ」
やれやれと大袈裟なくらい首を横に振って、ギザモンが川から上がってくる。
「まあいいわ」
そのままぶるぶると身体まで振るって体毛に残った水を落とし、ギザモンは、僕の腕に装着された円盾――に嵌め込まれた、鏡を見上げた。
「水の闘士にさえ戻れば、いつでも自分の姿をアンタで確認出来る。っていうのは悪くないもの」
ちょいちょい、と爪で促されるまま盾の裏側をギザモンの側に寄せて、陸を歩くのに向かない彼女がそこに乗ったのを確認してから、僕はその場から立ち上がった。
「スピリットの順応訓練に付き合ってあげるから、アンタも、アタシがまた水の闘士に進化できるように手伝いなさい。頑張って、早めに戻る予定だから」
「なら、まずは陸地を歩くトレーニングでもしたらどうなんだ?」
「昨日の今日よ、疲れてるの。少しは労りなさい。無理が一番良く無いわ」
「この調子なら、君がまた水の闘士になるまでに、カンバスその他道具のあても見つけられそうだ」
「その時は、また、描いてよね。世界一綺麗に、アタシのコト」
ちょうどその時。役目を果たせないと見限られたのか、僕の中に僅かに残されていた、リアルワールドとの繋がりがぷつんと切れて無くなるのが感じられた。
同時に、僕を置き去りにして、向こうから持たされた道具一式が消える。完全に破棄されたのだ。僕というお絵かきAIは。
だから、これからは。僕は新しい鋼の闘士。盾だけじゃなく顔にも胴にも鏡を嵌めたこの奇妙な姿は、メルキューレモンといって、旅人の守護や、創意工夫を司るリアルワールドのカミサマと、近い名前をしたデジモンらしい。
そういう訳で、さあ、ここからは。何処に向かうのも、何を描くのかも、僕の自由という訳だ。
「絶対に描くさ。約束する」
ギザモンを連れて、僕は歩き出す。
ライムよりも濃いグリーンになってしまったが、今となっては僕自身が、彼女を運ぶ舟の代わりだ。
今頃僕の描いたギザモンの絵の現物を確認したニンゲン達が、あれこれ勝手な言葉を並べ立てて、僕をバカにしている頃合いだろう。
別に、僕は気にしないけれど。
「約束だからね」
「うん、約束だ」
そんな奴らに、君みたいに綺麗なデジモンがいる事を教えたくなかったのだ、と。
僕が自分のエゴの末に、君を描かない事を選んだのだと知ったら。君はやっぱり、怒るのだろうか。
ラーナモンの時よりも、カエルに似た頬を膨らませて。
『アトリエ舟カエル号』 おわり
ノベコンお疲れさまでした!
感想を配信で喋らせていただきましたので、リンクを下に貼っておきます!
https://youtube.com/live/6Z-0_qmTn6M
(4:25~感想になります)
いや……いい話だな……(自画自賛)
審査期間中は誤字脱字を見つけるのが怖くて読み直さないようにしてたんだけど、久々に読み返したらだいぶいい話だな……。
めっちゃ弱音吐こうと思ってたんだけど、ひょっとして面白いんじゃないかコレ……?
という訳で(?)こんにちは、『アトリエ舟カエル号』をお読みいただきありがとうございました、お前も水の闘士最高と言いなさい。快晴です。
本作は『スピノサウルス水棲恐竜説』と、印象派の巨匠クロード・モネの『モネのアトリエ舟』という絵画とその絵画にまつわるエピソードから着想を得て執筆しました。ノベコンに提出した中ではこの話が最高傑作だったと自負しています。まあそれでダメだったんでまるきり力及ばなかったという事なのですが。
~以下、ハイパー大反省会という名の自分への言い訳タイム~
まあ技術力云々は一旦置いておくとして(そういう事をするから芽が出ないんだぞ)、受賞作品を見るに、この手の話はそもそも求められてなかったんじゃないかな……という印象も無くは無く。
それから鋼水の組み合わせも思いっきりアニメを想起させるから組み合わせそのものには新鮮味が無いし、非常にセンシティブな問題として取り扱われているイラストAI関連の話を物語に組み込んだのも、正直執筆中からあんまり良くは無いんじゃねーかとは思っていました。
つまるところ、本作の敗因は……作者の描写力のNASAですね……。(自明の理)
~反省会、一旦終了~
でもまあいいんじゃないですか。ラーナモンはかわいいし、カルマーラモンは美しいし。そういう部分は、自分の中ではきちんと書けたと思っています。
拙者、フロンティア当時からカルマーラモンは美人じゃ無いみたいな風潮に納得いかない侍でござる。カルマーラモンは美しいと言いなさい。言わないヤツは斬って捨てる(過激派)
それに、組み合わせに新鮮味は無いと言いましたが、この話は水の闘士と鋼の闘士という組み合わせでしか書けなかったと、それだけは確信しています。メルキューレモンの、芸術に拘るけれど根は機械な部分は、快晴の他のメルキューレモンが出てくる作品では描写できていないポイントだったので……お前も鋼水最高と言いなさい。言わないヤツは以下略。
まあ何はともあれ、ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
ノベコン参加した中で最高傑作は本作とは言いましたが、投稿済みの2作も、これから投稿する2作も、それぞれ毛色が異なるので、好きな人はそっちの方が好きだったりするかもしれません。小説って、そういうモン。
なので、もしよろしければ。この後もお付き合いいただけると、作者としては、幸いです。