ある山道を一体のディアトリモンがディアトリモンという種族にしてはかなりのんびりとした速度で走っていた。その背中には茶色く色白な少女が鞍に必死に掴まっていた。
「クレラ、そろそろ休憩にした方がいいよ」
ディアトリモンはそう茶髪の少女に声をかけた。
「アオ。私は、休まないです。私が、休むすると、越えられません、山を、今日の内に」
クレラは小さな手に力を無理やり込めて、拙いデジタルワールド共通語でそう言った。
アオと呼ばれたディアトリモンは困り果てた。
確かにこの辺りは野営にも向かない。だが、思ったよりも標高が高くて速度を上げ過ぎれば、クレラは必ず体調を崩す。山を越えても越えなくても駄目、かと言って止まるわけにもいかないのだ。
登った時はそう大きな山に見えなかったこともあって二進も三進も行かなくなっていた。
そうしていると、ふと、山の中に構造物らしい形を見つけた。
「クレラ、どうやらこんなところにも誰か住んでいるらしい。今日はあそこで泊めてもらおう」
「私、わかりました」
そんなやりとりをして、近づく内にそれが建物であって建物でないことに気がついた。それどころか、山肌に隠れていたせいで全容がわからなかっただけで異様な大きさだった。
山の中腹にできた巨大なカルデラ湖、その周りはそれまで登ってくる過程ではちらほらとしか見られなかった木々が湖に沿ってわらわらと生え、水海に綺麗に収まる様に都市を背負った亀の様なデジモンがいた。
「遠くに見た時にはそもそもこんな大きな山に見えなかったのに……」
アオの言葉に、クレラは首を傾げた。そもそも山に登ったことがあまりないので、よくわかっていなかった。
「デジタルワールドには時々あるんだ。そういう地域としか言えない変な特徴を持った場所が」
それはそれとしてとアオは続ける。
「……泊めて、もらえるかな?」
「私は、わかりません。でも、聞きましょう」
アオはいつでも逃げ出せる様にクレラに手綱をしっかり握る様に言った後、少しずつ近づいていった。
そして、カルデラ湖の岸辺に辿り着くと、その亀の様なデジモンの頭の方へと回り込んだ。
「すみませーん! 一晩泊めて頂けませんかー!」
アオがそう声をかけると、その亀のデジモンは視線だけをアオとクレラに向けた。
そして、長大な尻尾の先をゆっくりゆっくり動かして、目の前の湖岸に静かに浮かべた。
「……私は、乗りたいです」
「まぁ、僕もそういうことだと思うよ、流石に」
アオは恐る恐る尻尾の上に乗ると、このまま根元まで走るべきかなと少し歩きながら周囲を見渡した。幸い尻尾の太さは走るには十分で、根本に近づけば近づくほど太くなる。
「あの、あまり動かないでください」
不意にそう声をかけられてアオが振り向くと、墨を流したような黒い髪の女性が背後に立っていた。
「君は?」
「この、エルドラディモンの住民です。止まってどこかに掴まれば、尻尾の先端を街の入り口まで持っていってくれますから、あまり根本の方に行かないでください……ね?」
そう微笑みかける女性に従い、アオは少し尻尾の先に移動すると、敷かれたレンガの隙間に鋭い爪を引っ掛けた。
すると、尻尾が持ち上げられ、エルドラディモンと呼ばれたその巨大なデジモンの背の建物の入り口まで先端が運ばれた。
「どうぞ」
黒髪の女性に促されてアオは少し警戒しながらその建物の中に入ろうとする。
「待って。アオ」
ふとクレラはそう言って、アオの背中から降りる。
「どうしたの?」
「失礼、よくないです」
確かに入り口に入るのに何かに乗ったままというのは失礼と言えば失礼かもしれない。
「幼いのに礼儀をわきまえている。良いことだ」
エルドラディモンの中からそんな子供のような声がしたが、姿が見えなかったので、クレラはひとまずぺこりと通路の先に向かって頭を下げた。
「今のはトラロックモン様、この都市の守り神様です」
黒髪の女性はそう言って、こちらにどうぞと一人と一体を案内する。
エルドラディモンの中に入ると、ぽぽぽと廊下に設置されたランプに灯りが点っていく。
「ところで、お二人はなんのために旅を?」
「クレラは移住先を探していて、僕は人探し」
なるほどと黒髪の女はうなずいた。
「エルドラディモンはいつでも移住者を歓迎しています。よければ数日見学されては?」
彼女の申し出に、アオはクレラを見た。
「よろしくお願いします」
「喜んで紹介します……ね」
笑顔で答える黒髪の女の、クレラに向けた視線に何か裏があるように思えて、アオは少しクレラに委ねたのを後悔した。
エルドラディモンの中は石造りで、外の光が入る部屋は限られており、灯りはあったがほんのり薄暗い。
「でも先に、お二人のお話を聞かせて欲しいです。外の人が来るのは、久しぶりなので」
アオは簡単に話した。アオの探しているのはミドリという人間で、家族同然に育ったこと、クレラには家族も帰れる場所ももうなくて、行く先を探している事。
「ミドリさんを探す途中で、アオさんはクレラさんに出会ったのです、ね」
「そうだね。いい街や国があったらと思ったんだけど、なかなかうまくいかない」
アオの言葉に、確かにと彼女はうなずいた。
「都市は生き物ですし、合う合わないもありますからね。この都市はクレラさんを歓迎します、ね。今日は休んで、ゆっくり明日から見て回り決めてくださるといい、ですね」
そう言って、彼女が何もないような壁に手をつくと、壁の煉瓦が生きているように動いて段差の急な階段が現れた。
「一段目に乗って、そのまま立ち止まってください」
一人と一体がその女性に続いて段に乗ると、エスカレーターのように階段が動いて運んでいく。
「これはどこに向かっているの?」
「守り神様のところです。数日滞在して見学されることの報告と挨拶……礼儀は大事ですから、ね」
「大事、です」
アオの質問に彼女は答え、クレラも同意した。
「よく来た。神の名はトラロックモン、クレラにアオ、お前達を歓迎する」
「ありがとうございます」
クレラが無邪気に頭を下げる横で、アオは冷や汗をかいていた。
「……ありがとう、ございます」
穏やかで敵意も感じない、背に緑を背負い、派手な装飾を身につけているが見た目は小さな青い肌の子供でしかない。
しかし、その存在の大きさにアオは気圧されていた。エルドラディモンを見た時の様に頭で判断したものではなく、初めて体験する得体の知れない圧力。
「アオさんは家族のミドリさんという人を探しに、クレラさんは移住先を探しているそうです」
「……あぁ、聞こえてた。好きに楽しんでくれ」
トラロックモンはそう笑うと、もういいぞと手を振った。
言われる通りトラロックモンの部屋から出て、アオはほっと安堵のため息を吐いた。
「お疲れのよう、ですね。夕食をご馳走させてください」
「一応言っとくけど、僕達あんまり手持ちないよ?」
アオの言葉にその女はくすりと笑った。
「要らない心配、ですね。エルドラディモンの背には菜園もあります。トラロックモン様のおかげでこの辺りは常に豊作。食材は余っていても足りないことはありません」
「つまり、無料?」
「アオ、いやしい、よくないです」
アオとクレラのやり取りにまたその女は笑う。
「もちろん無料、です。どうぞ楽しんでください、ね」
一時間後、テーブルの上には食べきれないほどの料理が並んでいた。
「流石にこんなに作ってもらっても、残しちゃうと思うんだけど……」
「その時は地面にこぼしてください、ね」
そう言われて、クレラはぎゅむっと眉根を寄せて珍しく抵抗を露わにした。
「それも粗末にするつもりじゃない。ここの恵みへの感謝の仕方なんだ」
不意に声がして、上座にあたる席にふと目を向けると元から座っていたかの様にトラロックモンがそこにいた。
「トラロックモン様の言う通り、です。自然の恵みを自然に返す方法として、この都市ではご馳走の一部を地面に、落とします」
とはいえここはエルドラディモンの上なので、後で集めて改めて湖のほとりの決められた場所に持っていきます、現代向けにアップデートは欠かせませんと彼女は言った。
「神はここにわざわざ姿を見せてる。そんな回りくどいことはせず勝手に食う。が、雨と雷ではあるが大地や太陽じゃない、この国の民は神が目の前にいるからと他の神を崇めることを忘れなかった」
そう言って、トラロックモンは茹で上がりソースのかけられたザリガニにからごと噛みついた。
「……トラロックモン様が今食べられたのは、脱皮したてのザリガニです、ね。脱皮したてなので人間でも殻ごと食べられます」
「ありがとう、そういえば名前を聞いてなかったね」
アオはなるべくトラロックモンの方を意識しない様に黒髪の女に話しかけた。
「……そういえば、そうでした、ね」
「それの名前はシパクトリだ」
トラロックモンはザリガニのハサミで黒髪の女を指してそう答えた。
「シパクトリ。ありがとうございます」
クレラがそう改めて言うと、シパクトリは感慨深げに一瞬目を瞑りその後微笑んだ。
「この都市では、主食としてトウモロコシを食べます。粉にして生地にしたり団子や粥にしたり、味付けは塩と唐辛子が基本、です。でも、今日はもてなしなので唐辛子は控えめです、ね」
おかずを生地で包んでソースにつけて食べてください、ねとシパクトリはクレラ用におかずを生地で包み、ソースと一緒に差し出した。
アオは汗をかき顔を赤くしながら食べるクレラの顔を見て、とはいえ結構辛そうだなと思いながら、自分の前に並べられた明らかに自分用サイズすでにソースをかけられた団子を食べる。甘酸っぱい果実の様なものをベースに塩やはちみつ、あまりアオにはわからないが多数の香辛料を加えた様な感じ。ソース一つ取っても本当に作物が豊かなのがわかる。
鳥の中には辛さを感じないものが多く、鳥のデジモンにもそれは珍しくない。アオは感じ方が鈍い方の部類だった。
「あとはこのマメや種も私達がよく食べるもの、です。以前いた地域では川エビや家畜の七面鳥なども使えたのですが、今は畑の肉とザリガニ、虫しか出せないのです、ね」
残念そうにシパクトリは呟いた。
「虫かぁ……」
「……安心してください。旅人は虫を嫌がることが多いのは知ってます。ですから、形が見える使い方はしてません。ちゃんと対策してますから、ね」
バッチリでしょうと得意げにするシパクトリに、アオはむしろその方が嫌なこともあるんじゃないかなとアオはクレラを見るが、特になんとも思ってなさそうだった。思えば、蜂とか調理してた食べてた時もあった。
ならいいかとアオは食事に集中することにした。
食事を終えると、一人と一体は居室らしい部屋に通された。
「……アオさんには少し狭い、ですね」
シパクトリがそう呟いて部屋の壁をこんこんとノックすると、人間用らしかった部屋が上にも横にもがこがことレンガを移動させて広がった。
「では、また朝になったら迎えにきます、ね」
シパクトリが去って、アオは改めて部屋を見回した後、窓からひょっこり首を出して外を見た。
部屋の中は暖かいため、静寂の中高山の冷たい風が心地いい。
もう陽は落ちているが、月明かりだけでもなんとなく外の様子がわかるって、揺れる湖面のきらめきがアオにはひどく遠く見えた。
「多分エルドラディモンの中でもかなり高い位置にあるよ、この部屋」
アオに言われてクレラも窓から外を覗く。一面の闇を見て、クレラは少し下唇を噛んだ。
「……怖かった?」
夜の海や湖の暗さは陸地の夜とは別種の怖さがある。しかし、クレラはアオの言葉に首を横に振って、共通語ではない言葉で一言つぶやいた。
『寂しさですね』
その背中に、アオはもう寝ようかとクレラに声をかけた。
そうして眠りにつき、夜が明けた。
「人間界からデジタルワールドにこの都市の前身となる都市の住人がやってきたのは、およそ700年前、神の啓示に従って遷都する場所を探していた彼等の内ある一団がデジタルワールドへのゲートを見つけてその先に遷都すべき場所があると考えデジタルワールドに。そして、699年前にエルドラディモンに出会いその上に住むことになったのです」
シパクトリはそう、歴史を話しながら朝の日差しが窓から差し込む日の当たる廊下を先導する。
「この都市、長い歴史、あるんですね」
「えぇ、今日に至るまで歴史は続いてます。ところで朝食の前に菜園を見学しませんか? 朝食に使う野菜を自分で収穫するのもなかなか乙なもの、です」
動く廊下を進んだ先、バルコニーに辿り着くと、レンガが波打ち、建物の側面を生き物の様に動いてバルコニーは森まで降りていく。
森の中へ続いていく石の小道を歩いて進むと、森の中が開けて様々な作物がある畑が現れた。
決してその畑は狭くはなかったが、エルドラディモンの背の建造物に人がいっぱいになるとしたら明らかに足りなかった。
「ここは本来は種を残すための畑です、ね。外敵から襲われ、この地を離れる時に作物の種や苗をそのまま持っていけるようにまとめて多くの種を育ててます。住民用の畑は湖のほとりです」
唐辛子が見るだけでも数種類、他にとうもろこし、芋、トマト、デジタルワールドではポピュラーな肉もあるし、近くには果物の木も生えていた。
「こんなに密集させて作れるんだ」
「トラロックモン様は雨と雷の神、おかげで作物がよく育つのです」
シパクトリがあちらをと手で指すと、大柄で気の良さそうな男性が収穫かごとハサミを持ってきた。
「やぁクレラさん。アオさん。種を残す為の畑ではあるが、本当は毎年種を作らなくても保存用には全然足りている。好きなだけ採っていってください!」
その男性の浅黒い顔をクレラはちらと見て、そのあとシパクトリを見てもう一度その男性を見た。
「……この都市も歴史が長いので、さまざまな旅人が住み着いたりして、色々な目肌の色の人がいるのです、ね」
アオは少し首を傾げた。
野菜を収穫させてもらうと、また別の人がやってきて美味しく調理させてもらうからと持っていった。
朝食を終えると、シパクトリは工房らしい場所へクレラを連れて行った。
「私達の都市は黄金郷と呼ばれています。その理由の一つがこの金細工、ですね。この辺りでは採れませんが、かつていた土地には多くの金があり、多様で精密な金細工が作れたのです。今も大量の金がこの都市には溜め込まれていて、さまざまな形で使われています」
「あぁ、旅の人達はみんなこれに目を輝かせる。別の意味で輝かせていたミドリとかいう人間もいたが……」
お嬢ちゃんにはウケが悪そうだと工房にいた腰の曲がった老人は口にしながら、緻密に細工が彫られた金のペンダントを見せた。
「ねぇ、ミドリがここに来たの?」
「……あぁ、知り合いかい? 自分は彫金師だと言ってた。俺も色々知らない技術を見せてもらったよ」
「どっち行ったかはわかる?」
「それは俺にはわからん。数ヶ月前だ、轍の跡も残っちゃないだろうしな」
アオはそっかと残念そうに呟いた。
「アオさん、ミドリさんのことについては私も調べてます。明日には情報をまとめられると思うので、楽しみにしてください、ね」
シパクトリはそう微笑んだ。
それから朝食を食べ、その日は一日中案内されて黄金郷内の色々なところを見て回った。
「服屋、ですね。衣料品は質の良い糸を作っているので、肌触りや乾きがよく丈夫なものが作れています、ね。確かミドリさんもここに来た時には下着と肌着を十セットずつ持ちかえりました。素材はどうとでもなるのですが、デザインだけは旅人が来る度に勉強になります、ね。クレラさんにも用意しましょうか?」
「ここは、食糧庫、ですね。部屋単位で温度調節、物品単位でいつ運び込まれたものかまで管理しています。鮮度が悪くなる前に使う事ができます」
「ここは空いている居室……今はお二人には客室にいてもらっているのでキッチンなんかはついてませんが、住民の場合はエルドラディモンに希望を伝えれば、大抵の間取りやキッチントイレ風呂の配置はなんとかできます、ね。コンロも火でも電気でも、あまり他の街で使ってるとは聞きませんが◼︎◼︎◼︎や〇〇〇〇も用意してます」
「ここは××××室です。トウモロコシから作ったエタノールを原料として⭐︎⭐︎⭐︎機を稼働させ、この瓶一本分のエタノールで半年分の♫♫♫♫の♦︎♦︎を……」
途中からアオとクレラには理解が及ばない施設も多かったが、とにかく高度な技術力を誇っている事がわかった。
そして、シパクトリと各施設の担当者は皆親切で気がよかったがそれ以外の人間の姿は一人も見えなかった。
「……おや、お疲れ、ですね。なかなかの住環境だと思っているのですが、どうでしたか、ね?」
シパクトリはそうクレラに問いかけた。
「素晴らしかった、です。着る物も食べ物も住むとこも、よかったです」
「そうだね。実際すごい技術力で他では見たことも聞いたこともないようなものもたくさんあったし、でもその割には住民が少ないよね」
アオの言葉に、シパクトリは寂しそうに微笑んだ。
「かつて、命を狩ることしか考えていないようなおぞましい蛮族に襲われ、この都市の人口の半分以上が亡くなったのです、ね。それから人口は回復していません」
「……それは、ひどいね」
「えぇ、ですがお二人にいい都市と言われたことが今は嬉しい、ですね。人口もいつかまたその頃より増えると信じています。では、また明日、ですね」
シパクトリは、そうはにかみながら微笑んだ。
部屋に戻り、空がもう暗いのを確認すると、クレラは窓から下を覗き込んだ。すると、あちこちに明かりが漏れているのが見え、談笑する様な声がちらほらと聞こえてきた。
クレラが黙ってアオを見ると、アオは小さく首を傾げた。
「アオ。私達、発つべきです、すぐに」
そう言われて、アオはクレラから目を逸らした。
「……まだ、ミドリの情報があるから」
クレラは何か言おうとしたが、少し待ってぽつりぽつりと言葉を選んで口にした。
「……アオは、傷つく、かも」
「大丈夫、多少傷つくぐらいはなんてことないから」
クレラはそれ以上何も言わずに口をつぐんだ。
翌朝、クレラが目を覚ますとシパクトリはすでに部屋の中にいた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「……うん」
そして、アオの方をちらりと見てシパクトリの方を見た。
『英語はわかる?』
「リスニングだけなら、問題ありません、ね」
人間界の言葉でも大体はとシパクトリは口にした。
『私は、あなたが準備したものがアオの心を傷つけることになると思っています。今からでも、見せるのをやめて欲しいです』
クレラの言葉に、シパクトリは困惑したような顔をした。
「傷つけるようなものを用意してない、ですね。ですが気になるなら、朝食前に案内しましょう」
「ミドリに関係するもののことなら、僕も行くよ」
アオのことを止められず、クレラは下唇を軽く噛んだ。
シパクトリが昨日説明していた区画とはまた違う、エルドラディモンの中でもより深い場所へと自動で動く足場が二人を連れていく。
太陽の日は遠く、灯りはあれどねじ曲がった通路を通ってきたせいで今どこを向いているかもわからない。
「……私がアオさんにお見せしたかったのはこれです」
シパクトリに連れられて行った部屋の中に、一つの人影があった。それは直立して黒いコートを着て髪をひとつ結びにした女性だった。
そして、アオにはそれが瞬きしているのも見えたし呼吸音も聞こえた。
「……ミドリ?」
アオが思わず駆け寄ると、少し近づいただけでそれはべしゃりと地面に倒れた。
「ミ、ドリ?」
生気のない目で何処かを見て倒れたまま起きあがろうともしないそれを見て、さらに受け身も取らなかったからか、頭からつーと赤い液体が流れ出すと、アオはその流れから目が離せず、動くことさえできなかった。
電脳核が早鐘を打ち、視界は明滅する。ただ駆け寄っただけなのに、またミドリを傷つけた。ミドリを今度は死なせてしまったかもしれない。呼吸が不規則に激しくなり、足の爪が床と擦れてかちゃかちゃと音を立て始める。
「ち、がう! アオ、それは本物じゃない!」
クレラがそう叫んで、アオはやっと冷静になった。
「……すみませんでした。本当に傷つけるつもりはなく、ただ私達が確認したミドリさんの外見を正確に再現したものをお見せしたかっただけなのです、が」
このコートも、靴も、ズボンも髪留めも髪の色も目の色も肌の色も髪型も顔の形も身長も肌のくすみの場所さえもそれはあまりにもミドリだったしぐったりとしている様はあまりにもむごかった。
「これは、なに?」
アオは目の端に少し涙を蓄えながら、怒りと困惑と安堵とでぐちゃぐちゃになりながらやっとそう口に出した。
「……失敗したホムンクルス、ですね」
シパクトリはそう答えながら、ミドリの格好のそれの方をちらりと見ると、それはすくっと立ち上がり、壁にもたれかかるように床に座った。
「ホムンクルスって……?」
「人造人間ですが、少し歴史の話が必要、ですね」
シパクトリはその部屋に置かれた機械に手をついて、話を始めた。
「エルドラディモンの身体には鉱脈はありません。この都市は、錬金術で黄金郷となったのです、ね」
アオはまたちらりとミドリの格好のそれを見た。さっき動いたのが信じられないほどそれはただ息をしているだけのまともに生きていると言えないものに見えた。
「505年前、ある神が来るだろうとされていた年にこの都市に錬金術が持ち込まれました。民は神の化身が持ち込んだ技術と、その研鑽に励み100年もすると卑金属を金にするぐらいのことは当たり前とする程になりました。そして、錬金術はこの都市の民のある悩みを解決できる可能性を持っていたのです、ね」
そう言って、シパクトリは胸に手を当てた。
「人間の生贄です」
アオの顔は嫌悪に歪み、クレラはただ悲しそうにしていた。
「都市の民は、神に生贄として人間の命を捧げたがりました。それは大変な名誉でもあったのですが、トラロックモン様は生贄を受け取りたがらない神でした。民は人間の命より捧げる価値のあるものを知らない為、悩み続けていました」
そこで、とアオはそれを見た。
「価値ある人そのものと言える程似せたホムンクルスを生贄に捧げるならば、トラロックモン様が嫌がるようなことはない。そう考えたのです、ね」
だから変なものではないんですとシパクトリは口にした。
「人間の代替品、マネキンのようなものと思っていただければ」
アオはそう言われても素直に受け止めることはできなかった。そして、ふとさっき動かされたのを思い出してそれに思い当たった。
「まさか、ここで会った人全員……」
シパクトリはその言葉を受け、ゆっくり瞬きをした。そして、ミドリの姿のそれも立ち上がると、二人は同時に全く同じ様に微笑んだ。
「「はい、そうです。全てホムンクルス、ですね」」
二つの口から全く同時に声がする。全く同じタイミングで瞬きをし、呼吸のタイミングまで重なる。それが全てアオには見てわかった。
「……クレラの言う通りだったかも」
「……遅い、です」
クレラは驚いていなかった。わかっていたという雰囲気で、その顔は憂いを帯びていた。
「気を悪くしないでください、ね。私の本体ではサイズの差が大き過ぎて円滑に案内できないので、仕方なかったんです」
シパクトリは本体と言いながら、床を指差した。それと共に、またミドリの姿をしたホムンクルスは力を失いくにゃりとその場でへたり込んだ。
「シパクトリは、エルドラディモン、ですね」
クレラの言葉にシパクトリは微笑みうなずく。
「そうです、ね。他に人間はいません。皆いなくなってしまいました」
アオは昨日の会話を思い出した。賊が来て、人口が減ったと。
「224年前、殺戮のことしか頭にない三首の蛮族が攻撃してきました。トラロックモン様によって追い返されましたが、卑怯にも無関係の旅人を使い毒を撒いたのです旅人も死に、都市の住民の四割がその毒で死にました。私の背の木々も枯れ移動もできず、さらに五割が死にました。残った一割は弱った身体でこの都市を離れましたが、何十年か経ち身体が癒えた私がその方向に向かっても生きた人間にも街にも出会わず、私はここにいます、ね」
そう言って、シパクトリはクレラをじっと見た。
「クレラは、賢しい、ですね。慈悲深さもあり、若さもある、人間です、ね」
そう狙って作ったのだろう、白く細い指がクレラに向けて伸ばされる。
「私は、なりません」
クレラはその手から後ろに下がって逃れる。
「住民になれなんて言いません。王になりませんか、この都市の、王に」
「なりません」
「いい都市だと、素晴らしかったと言ってくれました、よね? 食べ物も着るものも住むところも、労働力だってホムンクルスを代わりにできます、よ?』
シパクトリはなおも食い下がったが、クレラは眉ひとつ動かさなかった。
「一人が寂しいなら、私が何人でも代わりをできます。両親でも友達でも恋人でも、ホムンクルス同士では子供も作れませんでしたが、魂の宿った人間とならきっと……」
『この街が襲われた原因は、ホムンクルスにあるのではないですか? だから、ホムンクルスで案内していることも隠し、案内も最後になった。私がもう帰ろうと言ったから、そうする前にと早朝から連れてきた』
クレラは、そう英語で話した。共通語適切な言葉が見つからなかった。シパクトリの弱いところを暴こうとする言葉をアオにも聞かせるのは酷だと思った。
『あなたは、失った住民を諦めきれず、生贄の代替ではなく住民そのものの代替品としてホムンクルスの研究をし続けてきたのではないですか。でま失われた住民の代わりになれなかった。だから、妥協して私を住民の代わりにしようとしている』
クレラはシパクトリの伸ばしていた手を掴んで、そっと下ろさせる。
『でも、あなた自身それが無理なのはわかっているはずです。住民一人一人の振る舞いを、複数人同時に再現できるほど、あなたは失った人達が好きなんです。あなた自身が思うほどあなたは誰でもいいと思えていない』
アオはクレラを見てるしかなかった。
『私はあなたの王にはなれない。そして、あなたは、私の失った家族の代わりにもなれない』
クレラの言葉に、シパクトリは数秒沈黙した後、また微笑んだ。
「クレラ、あなたは本当に賢しいです、ね。私が間違っていました、本当に言う通り、ですね。でも新しい都市を共に作ることや新しく家族の様になることはできると思います。ね? クレラ」
クレラは首を横に振り、シパクトリが持ち上げようとした手を下げさせた。
それでも、もうシパクトリは笑みを崩さなかった。
「……ですが、ここは私の身体の中ですよ?」
その言葉と共に部屋の入り口の煉瓦が動き始める。
アオは一瞬クレラをなんとか連れて逃れられないかと考えたが、金属質の羽毛も翼についた刃のついた鉤爪も強靭な嘴も、どれもクレラを連れ出そうとしても傷つけることしかできない。
何もできないまま入り口が消えていく。シパクトリはその状態で優しくクレラの頬を撫でた。
「クレラ、私の新しい王。私は批判を受け入れます。都市は成長するものです、変わるものです、あの日から私は毒に負けない都市を作ってきました。飢えない渇かない都市を。あなたが望む様に私は変わります、ね」
クレラはなおもシパクトリを憐れむ様な目で見た。恐れもなく怯えもなく、驚きさえしない。
「私は、あなたの王にはなれません。でも、あなたの為に祈ります」
両の手を握り目をつむるクレラに、シパクトリは何を言えばいいかわからなかった。
「無駄だ」
小さなつぶやき声と共に室内に雷鳴が轟いた。隙間もない部屋の中にトラロックモンが現れていた。
「クレラは説得できない」
トラロックモンはクレラの服をつまんでアオの背に乗せると、出口があった方へと歩いていく。
また雷鳴がなって出口のあったあたりに大穴が空くと、トラロックモンはアオとクレラに手招きをした。
シパクトリは去っていくアオとクレラに手を伸ばして何か言おうとしたが、何も口から出ず、その場でただ膝を折った。
「……なんで助けてくれるの」
「神はデジモンの身体を今は使っているが、雨と雷。恵と試練、誰にでも降り注ぎ誰にでも降りかかるもの、平等であらねばならない」
アオの言葉にトラロックモンはそう答えながら、通路を先導する。
「エルドラディモンの言っていたことって……」
「ほとんどは事実だ。『無から生命を産み出す冒涜的な錬金術師達の黄金郷』としてロイヤルナイツは問答無用で襲った。神は哀れに思って両腕の頭と足だけを潰し、戦士としてのそれを殺して逃してやったが、人工的に作ったウィルスを潜伏させられた旅人を送り込まれ、デジモンも人も草も木も病にかかって都市は崩壊した」
「その時の住民は本当に生命を?」
「生命は神の領分だ。それを民は知っていた。もっと粗雑な肉の塊に服を着せて当時は満足していた。デジモンと人間はもっと距離がある時代だった、『生殖で増える知的生命体』というだけで人間を気味悪がるデジモンもいた。それが、デジモンと同じ『生殖によらない増え方』に手を出してきた、デジモンの生き物としての領分を侵略された様に考えたのだろう」
「……そうなんだ」
お前を育てたグリフォモンならその時のことにも詳しいだろうとトラロックモンはアオに言った。
「都市が滅んでエルドラディモンがここに移動してから、旅人は何度か訪れたが、人間が訪れたのはロイヤルナイツがミドリを送り込んでくるまでなかった」
「ミドリがロイヤルナイツに……?」
「頼まれただけだ。手頃な旅人であったに過ぎない。神はあのやり方では生命が生まれることは永劫ないと伝えた」
「そうなの?」
「生命は肉と魂だけで生まれるものではないが、人間もデジモンも、魂さえ観測できるものとできないものに分かれる。何が欠けているのかすら知ることはできない」
クレラは、トラロックモンを軽く睨みつけていた。
「……神が自分の信徒可愛さにあの三首を追い払わなければ、この都市は病で滅びなかった。何百人かが死んで、エルドラディモンが大きな怪我をして、しかし、下手な肉人形を見て呆れて帰っていたことだろう。神は平等でなければならない。エルドラディモンを気遣って、真実に答えぬこともしてはならない」
トラロックモンはそう言うと、それ以上喋らなかった。
それからさらに何十分か歩いて、エルドラディモンの尻尾の先から、もう岸へ飛び移れるというところで、シパクトリが待っていた。
「待って、くれませんか。ね?」
クレラはアオの背中から降りて、もう一度だけシパクトリの前に立った。
「都市(わたし)を、置いていかないで」
目に涙を浮かべながらクレラに向かって手を伸ばすシパクトリをクレラは受け止めてハグをする。
『また歩き出すのは辛いかもしれないけれど、また受け入れてくれる人達に会えるとも限らないけれど、あなたが探しに行って素敵な人達に会える事を祈ります』
そう言って、シパクトリの手をクレラはほどいた。
「さようなら」
シパクトリは追って手を伸ばしたが、アオの背に乗ったクレラには届かず、アオは振り向きもせずに岸へと跳んだ。
本体のその巨大な瞳でシパクトリは離れていくアオとクレラをずっとずっと山の向こうに消えるまで追い続けた。
山を降りたアオとクレラは、麓にあったある町に一度滞在する事にした。
少数の人間と多数のデジモンで構成された町で、宿を探しながら歩いていると、ふと一人の青年に声をかけられた。
「見ない顔だね、旅をしているのかい? 本は、童話とか読む方?」
「僕は読まないけど」
「私、好きです。本」
それはよかったと、青年は一冊の亀の上に建物が立っている様な表紙の本を取り出した。
「この本を買わないかい? この町では有名な、でっかい亀のデジモンの背中にある架空の国を舞台にした、教訓話の短編集みたいな本なんだよ。人に優しくとか、食べ物を粗末にしてはいけませんとか、そういう教育にいい話がぎゅっと詰まってる」
一人と一体は思わず顔を見合わせた。
「……えと、その亀の名前は?」
「シパクトリ。文字が多いのが苦手なら、絵本バージョンもある! なんならセットで買ってくれたらちょっとお安くするよ!」
青年はそう健康的な白い葉を見せて笑った。
「ください、小説だけ。二冊は重いから」
「ありがとう! ちなみに宿屋はこっちの方にあるよ!」
宿で一息つくと、クレラは表紙の笑顔の亀を少し見て、それから一分ほど祈りを捧げた。
おまけ