丑の刻参りをする人のお話です
(原典:「平家物語・剣巻」、「鉄輪」)
◇
月のない夜である。
ざわめく木々の声や、穏やかな川の音、虫のさざめき。
夜道を行く女の耳に届くのは、早鐘を打つ心の臓の脈と、固く食いしばる歯の軋む音だけだ。
単衣が汚れるのも関わらず、美しい顔立ちの女はひたすらに歩みを進めている。
道をゆけば、大きな神社が先にある。
そこに用があるからだ。
石段を登る度、耳元で心臓が脈打ち、脚が軋むように痛むが、それすら気にならない。
女の血走った目が、ゆらりと松明の火を映す。
参道を抜け、清廉な、しかし夜の冷ややかな不穏さを漂わせる境内に、女はいた。
「妬まし、妬ましい……おおう、おおう……」
長い黒髪を掻き乱し、女は慟哭をあげて本殿を前に跪く。
おおう、おおう、妬まし、妬ましや
身を焦がす感情を抑えきれぬ慟哭が闇い境内に響き渡っている。
いつの間にか、風のざわめきも、虫の音も止んでいた。
「神よ、おお、貴船大明神よ、どうか、どうかどうにかしてたも、おおお、妬ましい、憎らし、我が妹背を奪いよったあの女が、心変わりした我が妹背が、おおおう……」
髪が口に入るのも構わずに声を上げ続け、蹲っていた女だったが。
周りに、何かの気配がある。
泣く声をじわりと抑え、女は気配を探る。
腥い、生あたたかい風が耳を撫でた。
『妬ましいなあ、妬ましなあ、かわいそうに、かわいそうに……』
しとり、と憐れむような声音。
黒髪を腥い風が揺らし、ぐるる、と喉を鳴らすような音が鼓膜を揺らす。
ずり、と石畳に硬いものが擦れる。
顔は上げられないが、巨大な何かが周りを囲っているのはわかった。
女は、笑った。
美しい顔を、くしゃり、と歪める。
「うれしや、うれしやぁ……闇龗神様、ああ、うれしや、我が祈願を、聞いてたもれ……」
血走る目が赤い鱗を映す。
「我が妹背がぁ、若い女にうつつを抜かした挙句、後妻として迎えると、そう申して、めっきりこちらへ参らぬのです、ああ、妬ましい、妬ましい、我が妹背、我が妹背を奪った女が妬ましい……わたくしを捨てた妹背が憎い……戻ってこない夜が虚しい……」
『そうか、そうか。憐れなのお。そなたがこんなに愛しておると言うのにのお』
口から吐き出されたどす黒い感情。
それは柔らかく甘く、女を包み込むように語りかける。
「闇龗神様ぁ、わたくしはぁ、わたくしはあの女を殺して、妹背を取り戻しとうございまするぅ……!どうかあの女をむごく、むごくむごくむごくむごく殺してくださいませえ……!」
乱れた黒髪の奥で、女が口角を更に吊り上げる。
泡立った口の端に、見開いた瞳。
もはや恍惚の類に近い。
引き笑いを漏らす女の様子に、それは、嬉しそうに笑い声を零した。
『二十二日、夜の宇治川に身を浸すとよい。毎夜、欠かさず。さすれば、そなたの願いはかなうであろう』
ふうー、と目の端に虹色の煙が舞う。
祝福を、加護を、与えるように。
生あたたかい風が女を包み込んだ。
「おおう、おおう、おお!ありがたや、ありがたや、ありがたやァ……!闇龗神様、あは、あはは、は、あははは……!」
肩を震わせ、女は狂喜に笑いながら噎び泣く。
目から鼻から垂れる血を、拭おうともせずに。
女は、笑った。
気配が去った後も、女は笑い続け、背中をのけぞらせて恍惚の笑みを浮かべて空を仰ぐ。
「かならずや、成し遂げてみせまするゥ!かならずや、かならずやァ、あの女をぉ!アハハハハハハ!!!!!」
女の祈願を祝福するかのように、カァーン、と釘を打ちつけたような音が響いた。
◇
「そろそろ丑の刻だな」
「彼奴は今宵、こちらへ来ると言うていたな」
寝殿造の屋根の上で、子と卯が宇治川の方角を見張っている。
卯は長い耳をピンと立たせて怪異の気配に警戒を配り、子は額に貼られた札をつうじて主との連絡役を果たしていた。
残りの十神将は主に付き従い、とある男の形代を作った一室で待機している。
今宵、屋敷に鬼が来る。
「既に人間を10人以上、依頼主の後妻の血縁を皆食い殺していると聞いた」
「ああ。……だが、まさかそんなやつをあの四天王の1人が片方だけとはいえ、腕を持っていくとはな」
「人間にしてはやるやつよ。……む」
「来た」
腥い風が吹いた。
屋根から屋根を、人影がつたっていく。
「主、来ました。彼奴です」
「耳ですか。耳はもうありません。殺すしかありますまい」
「彼奴め、切り落とされた片腕代わりに蛇を生やしよる」
「……はい、はい。直ぐにそちらに参りまする。往くぞ」
「応」
子と卯は屋根から飛び降り、すぐさま屋敷の中へと飛び込んだ。
それからすぐ。
玉砂利を敷きつめた庭がじゃり、と音を鳴らす。
じゃり、じゃり、じゃり。
左腕の白蛇がちろちろと舌を出し、気配を探る。
「あは、あははあ、我が妹背、我が妹背ぇ、あは、はああ、どこにおられるか、小賢しい術士を頼っても、わたくしには分かりますよォ。あの女はもうおりませぬからぁ。あは、あは、だから、どうかわたくしを迎えに来てたもォ……」
恍惚の笑みの中、蛇のような目を血走らせ、ぎょろぎょろと周りを見渡す。
角を持つ大蛇の骨を目深に被ったせいで、より血眼が爛々と輝く。
川草のように緑に染まった髪を振り乱し、口から生えた鋭い牙を隠しもせずに笑う。
とすん、とすん、と静かな足音に続いて、ざり、ざり、と出刃包丁の如き巨大な両刃剣を引きずり、鬼は屋敷を徘徊する。
ふらふらと歩き続けて、とある扉の前で、鬼はすっかり裂けきった口角を三日月のように吊りあげた。
「みい、つ、けたァ……♡」
扉をこじ開けた鬼は、部屋に横たわる巨大な藁人形に両刃剣に突き立て串刺し、首に食らいつく。
「あああ、ああ、我が妹背、我が妹背ェ、愛しや愛しや、愛しやァ。わたくしの口を吸うて、目を見て、わたくしが一番だと囁いて、美しいとほめて、一生添い遂げると申してくださいませェ……」
縋るように体を寄せ。
藁人形の体を優しく撫で。
陶酔した甘い声音を零し。
藁人形に口吸いをし。
藁人形の顔を咬み毟り。
蛇が藁に食らいつき。
涙を流し。
依頼主の男はあまりの恐怖で息絶えてしまったが、十二神将とその主にはそんなこともうどうでも良い事だった。
「急急如律令」
部屋に隠れていた十二神将が号令に合わせ、一斉に物陰から飛び出そうが、鬼は藁人形を食い破るのをやめない。
「あいしておりまする、あなたさまぁ」
ただ、憐れな女が、そこにいた。
◇
『やれやれ、あの憐れな女は狐にやられたかえ』
鼻穴から吹き出した虹色の煙が、空気に解けて消える。
『愛情が深ければ深いほど、裏切られた怨みや妬みは味わい深くなるからねえ』
『憐れな女。真蛇に堕ちるくらいなら、怒りで訳が分からないくらいに狂ってしまえば楽だったのにねえ』
闇い境内の中、巨体をもぞりと動かし、
鰐はくつくつ、と嗤った。
◇
「……ってことを昔やったのさ。あの時は若かったからねえ。あとは姫を1人ほどメギドラモンもどきにしてやったよ。あの姫も面白かったねえ。鐘ごと坊主を燃やして自分も焼け死んで……その話も聞くかえ?それも能楽になっててねえ」
「いやいいわ。リヴァイアモンちゃん、結構えげつな。ウケる」
てっきりリリスモンかと思ったらリヴァイアモンだった。そういえば嫉妬か……夏P(ナッピー)です。
鉄輪(かなわ)を被った丑の刻参り。ちゃんと頼光四天王(渡辺綱)にも言及されているのでニヤリ。これ能の演目としては室町時代には成立していたんでしたっけ……? 斬られた腕はしっかり彼の陰陽師に封じられたのでしょうか。おのれ晴明エエエエエ。女の情念と恨みつらみ憎しみ、そして何より片腕が蛇という表現からリリスモンにされちゃった奴か~と色欲絡みの話かと思いきや、最後の鰐の文字に「そういや嫉妬!」となったのでした。
十二神将の皆さんは千年以上前からお疲れ様です。髭切の太刀はデジモンもびっくりの切れ味を誇るというか……。
最後の最後に清姫伝説にまでサラッと触れとるうううううう! アレも嫉妬の仕業か!
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。