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快晴
2020年10月17日
  ·  最終更新: 2020年11月25日

『0426』第5話

カテゴリー: デジモン創作サロン

≪≪前の話       次の話≫≫

5話


「そんなにそんなにそんなに手を洗ったらさぁ、がっさがさがさになっちゃうよ、弟くん」

 必要以上の水が蛇口から零れ落ちる音のせいにして、サリエラはシメールの男性とも女性ともつかない軽薄な声に聞こえていないふりを決め込んだ。

 だけどサリエラの手にはもう流れ落ちるような汚れは無い。そもそも『手袋』を付けていた彼の手に、最初から、汚れなど付着していない。

 少年がどれだけ意識しようとも、この世界における死は、その程度の物だった。

*

 襲撃者と乱入者。この2名の登場を以って花畑の『ゾーン』の探索を切り上げた女達は、『宿』へと引き上げた。

「で」

 『宿』の扉を開ける前に――自分を出迎えるであろう愛しの赤ずきんと顔を合わせる前に。

 確実に自分と赤ずきんとの時間の邪魔になるであろう同行者・シメールに、女は苛立ちと諦めの混ざった視線を向ける。

「貴女は何をしに来たのですか、シメール」

「お前には全然全くこれっぽっちも用は無い。用があるのは、我々とあいつ等のお客様だよ」

「……」

 女が視線が自分の方へと動いた事に気が付いて、サリエラは慌てて目を逸らす。

 これまでとは違った理由で、彼は女の顔を、まともには見られないでいた。

「ま、弟くんもこの調子だし? お前もどうせどうせどうせ理解が追い付いていないだろうから? ここは我々、シメールちゃんにお任せなワケ!」

「……用事が済んだら、さっさと帰って下さいよ」

 結局、諦めが苛立ちに勝ったらしい。

 女はドアノブに手をかけた。

「ごはんぐらい食べさせてくれてもいいじゃない、こんなにこんなにこんなに可愛い妹分が」

「兎でも食べてなさい」

 と、次の瞬間には「ただいま戻りました、赤ずきんちゃん」と極限まで下げ切っていた声のトーンを心なしか弾んでいるかのような調子にまで引き上げる女。

 シメールはサリエラの方へと振り返ると、女の方を骨のトカゲのパペットで指し示しながら、にんまりと表情を歪めた。

「まったくまったくまったく。ヒドい奴だよねぇ。弟くんも、そうは思わない?」

「え、あの」

「あははは、悪い悪い悪いね! 本人が居る前で、言い辛いよね」

 けらけら笑うシメールに、サリエラは眉を寄せる。

 平時でも苦手な相手だな、というのが率直な感想だった。

「おかえりなさいませ、猟師様、杭様、サモエド様。……あれ?」

「サモエドだとロシア原産の白い犬になりますね。しかし彼は金髪碧眼のイタリア人、サリエラなのですよ赤ずきんちゃん。それから後ろのヤツは気にしなくていいです」

「やあやあやあ! 『アンドロモン』のお姉ちゃんも久しぶりだね!」

 表情の乏しいアンドロイドの瞳が、それでも困惑したように女とシメールの間を右往左往する。

「あれ~? 赤ずきんとシメールって~、会った事あるの~?」

「むかーし昔々ね! それこそ」

「シメール」

 瞬間、杭の切っ先がシメールの細い首にぴたりと横づけされる。

 最も、肝心の彼女は、やれやれと呆れたように、腰に手を当てて肩をすくめるばかりだったが。

「あー、はいはいはい。なんでもありませんよーだ。流石の我々も真ん中の首は面倒だからね。と、言う訳で自己紹介! 我々は『『カオスデュークモン』の武器屋』の従業員にして『デルタモン』の選ばれし子供、シメールちゃんなのです! 以後、お見知りおきを」

「ええっと、はい。赤ずきんは、『アンドロモン』の赤ずきんです。よろしくお願いします、シメール様」

「よろしくしなくていいです」

 赤ずきんの一人称が「赤ずきん」だと知るなり、「こりゃいいね! 『カオスデュークモン』の奴よりずっとずっとずっといい!」と笑うシメール。「あんなのと一緒にしないでくれませんかね」と、女は赤ずきんの前でさえ感情を抑えられないでいるようで。

 どうにか流れを変えた方が良いと思ったのだろう。杭が間延びした口調で赤ずきんへと声をかける。

「ところで赤ずきん~。今日の狩人さん達の晩御飯は~?」

「あ、はい。本日のご夕飯には、ポークソテーをご用意しています」

「……」

 心なしか、サリエラの表情が曇る。

 未だにどこか酸い臭いの残る口内は、到底肉の類を求める気分にはなってくれそうになかった。下手をすると、想像しただけでも胃液がせり上がりそうな程で。

 シメールを静かに威嚇し続けていた女も、流石にサリエラの沈黙には気が付いたのだろう。「すみません赤ずきんちゃん。サリエラはどうにもお腹の調子が悪いらしいです」と普通に気を遣っているのだか素で見当違いなのか、いまいち判別の付かない助け舟を出す始末だ。

「まあ。それではサンダル様の分は冷蔵庫に仕舞っておきます。どうかお大事になさってください。後程お腹に良さそうなものをお持ちしましょうか?」

「い、いや……いい。今日は、いいよ」

 心の底から心配そうな赤ずきんから視線を逸らしながら首を横に振るしか出来ないサリエラ。

 赤ずきんの方も、それ以上追及はしなかった。少しだけ戸惑うように首を傾けてから、「では、猟師様のお食事をご用意してきます」と台所の方へと戻って行く。

「それでは、赤ずきんちゃんが準備をしてくれている間に、わたくしは手を洗ってきます。サリエラは?」

「それは、俺も行く」

「じゃあじゃあじゃあ、その後だね! 弟くんとのお喋りは!」

 がしり、と遠慮なくパペットの口で肩を掴んできたシメールに、サリエラの身体が跳ねる。

 女は相変わらずの呆れ顔のまま、杭の尖っていない方の先でシメールの身体を押した。

「ちょっかいをかけるだけのつもりなら、程ほどにしてくださいね、シメール」

「やだなぁ」

 と、すぅ、と目を細めたシメールが、サリエラの頬に顔を寄せた。

「真面目な話だよ。我々がするのは、ね」

 こうなるとサリエラはどこにも視線を向けられなくて、辛うじて「がんばってね~、サリエラ~」と自分を鼓舞する杭の声に、耳を傾けるくらいしか出来なかった。

*

「なるほどなるほどなるほど! ここが弟くんのお部屋! 狭いね!!」

 手洗いを仕方なく切り上げ部屋に戻るなり、シメールはサリエラの脇をするりと抜けたかと思うと彼のベッドに飛び込んでトランポリンを始める。

「あ、あの」

「生意気! 部屋は狭いくせに、ベッドは我々よりも大分大分大分いいヤツ使ってるね。だから大目に見てよ。少しくらい遊ばせてちょうだい」

「……姉さんの事を、教えてくれるんだよな?」

 嘘のように、シメールが動きを止めた。

「そうだよ」

 最後の弾みを利用して床に降り立ったシメールが、にやりと口角を上げる。

「聞けばお前の姉……我々その他が言うところの『聖母様』を探すために、弟くんは『この世界』に来たんでしょ? よよよ。愛だね愛だね愛だね。泣かせるね」

「そんなのじゃ」

「「そんなの」でありなよ。その方が、少なくとも我々は気分が良い」

 その時、シメールの笑みに僅かに自嘲が混じるのをサリエラは見た。

 だが、それについて問うよりも前に

「「じゃあ、どうしてあの女はそれを俺に教えてくれなかったの?」ってトコ?」

 シメールの、では無くトカゲのパペットの口が動いて、腹話術のように声を発する。

 実際に、知りたい話ではあった。

 シメールの嘲笑いが、自分から、ここには居ない女の方へと、移行する。

「それをあの女に求めてやるのは酷な話だよ弟くん。あの女は自分の名前を拒絶されているのの他に、聖母様の容姿に関する記憶も剥奪されちゃってるんだよ。まあ、自業自得と言えば自業自得。自業自得なんだけど」

「忘れてるんじゃ無くて?」

「それが出来るなら、話はもっと単純だったんだけどね」

 彼女の口から漏れ出す笑い声はあくまで軽薄だ。軽薄であるが故に、どこか、仄暗い。

「とりあえず、口で説明すると3つあっても足りないくらいだからね。実際に、見てもらおうかな」

 と、シメールがそんな事を口にするなり、途端に彼女の頭身が縮む。

 思わず身を引くサリエラの前で、辛うじて人型は保ったまま、真っ黒な影のようになったシメールはうねうねと形を変え--やがて、黒い忍者服に身を包んだ子供のような体系の、頭がテレビのようになった『怪物』が、姿を現した。

「じゃじゃじゃーん! シメールちゃん、進化! 『ハイビジョンモニタモン』! ……なんちゃって。嘘嘘嘘。嘘だよ弟くん。『選ばれし子供』は、姿形までは『怪物』にはなれないから『選ばれし子供』なんだからね」

 そう言って腰に手を当て、胸を張るシメールだったが、異形の頭では表情すら予測しようもない。

 ただ、視界には困っていないらしい。「じゃあそれは」とでも言いたげなサリエラの先手を打つように、シメールは台詞を連ねる。

「改めて自己紹介。我々はシメール。3つ首の『怪物』・『デルタモン』の『選ばれし子供』。それから今は、究極体の『メタモルモン』というデジモンさ。よろしく、よろしく。よろしくね」

「メタモル……」

「そう、『メタモルモン』。こいつは名前の通り、『変身』の能力を持つ『怪物』でね。もっとももっとももっとも。我々の能力の原理は『変身』というよりも『再現』なのだけれど、この辺は説明がとてもとてもとても面倒臭いから一先ず置いておくね」

 ぶつん、と音がして、モニター装置の頭に映像が映し出される。

 白く、無機質な印象を受ける建造物の様子だ。

「今映しているのは、『この世界』を管理していた研究者連中が使用していたメインの『ゾーン』。……彼らが何をしていたのかについては、流石の流石に流石のあの女も、お話はしてるでしょ?」

 記憶を辿るサリエラ。

 蘇るのは、風呂場で女から受けた説明だ。

「「『怪物』に理性を与える研究」……だっけ?」

「うんうんうん。そうだね。それもある。それもあるし、それもそうなんだけれど――はぁ、あの女。とってもとってもとっても大事な部分が抜けている。いやまあ、間違ってはいないんだけれど……」

「?」

「一口に「『怪物』に理性を与える」とはいっても、アプローチの仕方は色々色々色々あったワケ」

 例えば、壊れた『神』の代替品を創る。だとか。

 シメールが続けた言葉に、首を傾げていたサリエラも思わず息をのむ。

 『この世界』の『神』が、出現した時から壊れていたというのはサリエラも既に女から聞いている。

 言われてみれば、確かに。先に聞いた方法で『理性持ち』を作るよりも、可能であるのなら、新しい管理システムを作ってしまった方が、何かと手っ取り早いに違いなく。

「ま、それも『理性持ち』を作るシステムが上手くいったからこそ。なんだけれどね。だから、まことにまことにまことに不本意ながらあの女をフォローするとしたら、これは『目的』のための『手段』の中でたまたま発生した『奇跡』だから、一応、あの女、嘘は言っていなかったり」

 口調の軽さは変わらないが、シメールの方もどうにも女の事が気に喰わないらしい。彼女がこの場に居ないためか、先程よりも振舞いがずっと顕著だった。

 シメールの頭部に映し出された画像が、動画へと変わる。

 前を行く大人の男性について歩く誰かの目を通した映像が、白い廊下を抜け、同じように大人に連れられた何人かの子供達が集まった、だだっ広い空間へと辿り着いた。

「ここはね、実験の成果をお披露目する会場。……ま、実質闘技場なワケなんだけれど」

 中央には黒い線を引いて作られたコートがあり、そこでは2人の子供が、子供とは思えないような俊敏な動きで取っ組み合いをしている。

 時に殴り、蹴り、爪を立て、歯を剥き出しにして。

 見ている方も見ている方で、床や壁にまで血が飛び散っても、白衣姿の大人たちは何食わぬ顔で視線を手元のパッドと子供達との間を交互に行き来させながら、熱心に記録を続けている。

 しばらくして、決着がついたようだ。

 片方の子供が、荒い呼吸を繰り返しながら地面に突っ伏して、動けなくなる。

 もう片方の子供も立ってはいるものの、全身傷だらけで、上げた雄叫びはどことなくか細い。

 ……両者を見ている研究者らしき大人たちは、どちらも浮かない表情をしていた。

 と、

「お疲れ様」

 コートの方に悠々と、1人の男性が歩いて来る。

 研究者も、子供たちも、彼に向って、頭を下げた。

 男は今戦っていた子供達の回収を促すと、この映像の一人称となっている誰かの方へと、歩みを進めて。

「その子が、第3棟の最高傑作?」

 黒の短髪に黄色い肌。アジア系の男性は、誰かの方を覗き込む。

「はい。例の特異体質の」

「実戦は今日が初めてなんだっけ?」

「ええ。しかし、イチノマエ先生のご期待には沿えるかと」

「それは楽しみだ。では、こちらもあの子を出そうかな」

 おいで、    。

 音声にノイズが走ったと思った瞬間、1人の少女が一瞬で、男の前に姿を現した。

 ごくり、と、誰かの隣から息をのむ音が聞こえた。

 そしてその音は、サリエラ自身の喉からも。

「……光栄です。まさか先生の作品に相手をしてもらえるとは」

「それだけ期待しているんだよ、君達のところのその子には。『怪物』に対処できる『選ばれし子供』はいくら居たって足りないくらいだから」

 黒檀の髪に、赤茶けた瞳。

 イチノマエと呼ばれた男と同じ民族らしい少女は、唇を真一文字に結んで、何の感情も無く動画の主を見下ろしている。

 サリエラと同い年くらいの、女の姿が、そこにあった。

「ちょっとシーン飛ばすね。単純に、弟くん多分きっと恐らく酔っちゃうから。我々だってなにもなにもなにもわざわざ自分達がボコボコにされてる時の映像リピートしたくないからさ」

 シメールが言うなり、画面が切り替わる。

 半分が何か布のような物で覆われているのか不明瞭になった画像。その辛うじて見える部分では、右腕を三角巾で吊るした女が動画の主――当時のシメール――に先行する形で歩いていた。

「腕を折られたのは初めて。驚いた」

「なにもなにもなにも、説得力が無い」

「デジコアの主が左利きじゃなかったら、危なかった」

 無駄話をするな、と、誰かがシメールを小突いたらしい。視界が揺れる。

 不服そうに、小さく呻くシメール。と、その間に、目的地に到着したらしい。彼女達の後ろを歩いていたらしいイチノマエが前に出て、一同が止まった扉の前に、何らかの端末をかざした。

「さあ、ここから先は、私と『選ばれし子供』の2人だけで。君は向こうに戻るといい」

「え? いや、しかし」

「3棟の子供達はこの子だけじゃないだろう? ……今後とも、更なる成果を期待しているよ」

 間を一拍だけ置いて、承知しました、ともう1人居たらしい男が去っていく。

 鼻を鳴らすような音が、幽かに、音声に混じっていた。

 イチノマエに促されるまま2人が扉を抜けた先には、広いが、酷く殺風景な部屋が広がっていた。

 そしてその中央に、部屋に対してあまりにも鮮やかな、赤色が一点。

 サリエラと、映像の中のシメールが息を呑んだのは、全く同時の出来事だった。

「いらっしゃい。初めまして、可愛い子」

 髪の色を除けばサリエラと瓜二つの少女が、あどけない微笑を浮かべていた。

「早速だけれど、貴女の名前を、教えて頂戴」

「これが、お前のお姉様。そして我々とその他たちのとっての、聖母様だ」

 画面の中の景色が全て制止する。

 生まれて初めて向かい合った姉は、液晶画面の隔たりも含めてまるで狂った鏡のような印象を引き起こし、サリエラは思わずめまいを覚える。

 だが同時に、少なからず、けして心地よい感覚では無いものの、納得の感情も彼の中に、芽生えていて。

「そっか。……きっと、それが原因だったんだね」

「うん?」

「『呪われた娘』って。そう書いてあったんだ。……死んだ父さんの日記にさ」

 少年が『この世界』に来る3ヶ月ほど前。彼の両親は、事故でこの世を去った。

 酷い事故だった。漁港に制御不能になった漁船が、猛スピードで突っ込んで来たのだ。座礁した船はバラバラになり、辺り一面が滅茶苦茶になって、しかし少年の両親は、ただ眠っているかのような、ほとんど変わらない姿で家に帰ってきた。

 現実を受け入れられなくても、時間は流れた。目まぐるしく全てが片付いて、あらゆるものに置き去りにされた少年が、やっとの思いで始めた両親の遺品整理の最中に、それは見つかったのだ。

 日記、と言うよりは、書き留められた懺悔だった。

 そこに書かれていたのは、少年がついぞ父から聞く事の無かった、父の『前の妻』と『2人の間に出来た娘』の記録。

 父の前妻は、「生まれてくる筈の無い特徴を持った娘」を産んだ直後に、息を引き取ったのだと。

 そして父はその娘を、一部の知人の協力を得て、周りには死産だったという事にして、施設に預けたのだと。

「ふうん」

 そっけない相槌の割に、シメールの声音は、どこか感慨深げだった。

「その施設っていうのが、イチノマエ先生の息のかかった施設だったか、そうじゃなかったけどイチノマエ先生の取り巻きの誰かがそこから引き取ったか。まあどうにせよどうにせよどうにせよ、聖母様は、捨て子だったんだね」

「……」

「いやまあ、それ自体は我々も知ってたよ当然当然当然ね。なんていったって、我々達は大概がそうだったから。でも、うん。可哀想、聖母様。何か不思議なことがあって、髪の色こそ赤色だったけれど――ちゃんと、お父さん似だったのに、ねぇ?」

 腹違い。

 半分しか血の繋がっていない筈の姉と自分の顔が瓜二つ、という事は、父の前の伴侶はけして不貞を働いただとか、そういう訳では無かったのだろう。

 「お父さん、イケメンだったんでしょ?」と軽薄に笑うシメールとは対照的に、少年は顔をしかめていた。

「だけどだけどだけど、そういう意味では。生まれる筈の無い子が産まれるという意味では。聖母様は確かに『呪われた娘』だっただろうし、だからこそだからこそだからこそ、あのお方は『聖母』になれたんだろうね」

「……その、さっきから言ってる、『聖母様』っていうのは」

「名前の通りさ。聖母様は、お腹に『神』の子を宿していたんだ」

 テレビのスピーカーから吐き出されたその音は、やはり、あくまでからりと、どこまでも軽薄に、乾いていた。

2件のコメント
快晴
2020年10月17日


「だけどね、    。私はその事を誇りに思うの」



 既存の子供達に、あるいは『選ばれし子供達』に、時には『理性持ち』となった『怪物』達に。ほぼほぼ機能しなくなった『神』のデータを移植する作業--『神』を『理性持ち』にする作業は、ことごとく失敗に終わった。


「だったら『一』より前から。『零』から作ってみよう」


 自分の名前をもじって、半ば冗談みたいに本気でそんな事を言い出したのは、やはり『この世界』の発端となったシミュレーションシステムのプロジェクトリーダーである、零 一(イチノマエ ゼロツギ)で。

 全てがデータで構築された『この世界』のために設えたような、嘘みたいな名前の日本人男性は、しかし実際にその頭脳と行動力を以って、『神』の所業に自らの偉業を付け足して回っていた。


 『怪物』に理性を与える試みが概ね上手く行き、次に正常に作動する『神』という名のシステムを求めたイチノマエは、いくつかの失敗を経て、胎児の段階で『神』のデータを結びつける方法を思い付く。


 全てが上手くいったわけではなかった。

 だが、全てが上手くいかなかったわけでもなかった。



 初の成功例となったのは、赤い髪の、美しい少女だった。



「そして安心するの。選ばれたのが、私で良かったって」


 そう言って『聖母様』と周囲に呼称されるようになった赤毛の少女は、大きくなり始めた自らの腹を撫でた。

 傍らに控えた黒髪の少女--『理性持ち』になり損ねた、『選ばれし子供達』側の最高傑作――は、その仕草を柔らかな笑みを浮かべて見つめている。

 普段の彼女を知る者であれば、同一人物である事を疑う程度には、穏やかな表情だった。


「だってこの子は『神』の子である前に、確かに、私の家族なんだもの。おとうさんもおかあさんもいないのに、子供だけができるなんて、変な感じ。でも、かみさまからの賜りものという意味では、きっと、私達はみんな一緒なの。ね? 貴女もそう思うでしょう?     ?」

「『聖母様』に祝福されて産まれてくるその子は、きっと、誰よりも幸せでしょう」


 と、ふっと赤毛の少女は表情を曇らせた。

「? 聖母様?」

「ごめんなさいね、    。私は、けして貴女達を、家族だと思っていないわけではないの。同じ『家』で生きる兄弟姉妹だと、そう思っているの。……思って、いたいのだけれど」

「……」

「ねえ、    。あの子の事、覚えてる? 私の赤毛を真似たくて、白衣の誰かから古びた赤いスカーフをもらっていっつも頭に巻いていたあの子。貴女にも懐いていたでしょう」

「変わり者でしたね。初めての求婚が同性の個体からになるとは思いませんでした」

「その子ね、完全体の『理性持ち』になったらしいわ。それで、他の『ゾーン』の施設に移されたって」


 しばらく、2人の間に沈黙が流れる。


 先に口を開いたのは、黒髪の方だった。

「成功例の方ですね」

「そうね。きっと、もう二度と会わせてもらえない」

「『理性持ち』と言えど『怪物』です。貴女の身に何かあってはいけませんから」

「だから、私。結局みんなとは、家族になれないの」


 再び自分の腹を撫でた赤毛の少女の手は、震えていた。


「私、家族と。なんでもない会話をしてみたいの。食べたものの感想の話や、空の雲や落ちた葉っぱが別の何かに見えた、なんて話を。私は、この子と」

「叶いますよ。きっと」

 女が口を開いたのは、ほどんど、遮るようなタイミングで。


「貴女の願いは」


 黒髪の少女の顔にも、先の穏やかさは、もう微塵にも残ってはいなかった。

 ある種縄張りを守る獣じみた表情で、ひょっとするとそれは、彼女の心臓に取って代わった『怪物』の『デジコア』が、浮かべさせた顔だったのかもしれない。


「……その時は」

 赤毛の少女は、少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。

「この子の事も、守って頂戴ね。    」


*


「だけどだけどだけど。あの女は聖母様の護衛っていう、何よりも名誉ある役割を放棄した。どころか! 全てを台無しにしちゃったんだよね」


 いくつかの映像を再生したシメールが、不意に画面を掻き消した。

 それでも真っ暗闇に反射した自分の顔を一瞬だけ姉と見間違えた少年だったが、彼はすぐにその髪が金色である事に気が付いて、そっと目を伏せた。

 誤魔化すように、「台無しに?」と、シメールの台詞に疑問符を投げかける。


「そ、台無し。台無し、台無し、台無し! お前も察してはいるんでしょう?」

「……」


「あの女は、聖母様をお腹の子ごと殺したのさ」


 言うなり、『ハイビジョンモニタモン』なる『怪物』だったシメールの身体が再び黒い軟体のようになり、やがて、元の薄い青緑色の髪の中性的な容姿の少女の姿を取り戻す。


「映像記録はあるにはあるにはあるけどね。でも、ダメダメダメ。見せてあげない。理由は2つ。『ワニャモン』ごときでゲロゲロゲロしちゃうお前の精神じゃ耐えられ無さそうっていう純然たる善意と、単純に、見ても、判らないだろうから」

「……」

「加虐趣味な猫だって、あそこまでは捉えた獲物をいたぶらないよ。って、感じ」


 人間の顔に戻ったシメールだったが、その瞳はむしろ、無機質だった『ハイビジョンモニタモン』の時以上に何も映してはいなかった。

 だが容姿同様中性的な声には、僅かに。本当にごくごく僅かに、隠しきれていない憎悪の感情が滲み出ていて。

 きっと聖母の死を振り返りたくないのは、その画を知らない少年以上に、彼女だったのだろう。


「聖母様だけじゃない。あの女。施設の人間・『怪物』・『選ばれし子供』。みんなみんなみーんな! 殺しちゃったんだよ。正確には我々ことシメールちゃん以外--ああ忘れる所だった。シメールちゃんと、さっきのお兄ちゃん以外はね。あ、こっちは絵面だけならそこまでだし、見たいって言うなら我々、もう一回『ハイビジョンモニタモン』になってあげるけど」

「え、い、いや……」

「あははは! 嘘嘘嘘、ごめんね、弟くん! こういうお喋りをする機会って滅多にないから、ついついついイジワルしちゃうんだ。あああと、気を遣ってくれてるなら大丈夫。あの女と聖母様以外は、我々にとっても「その他」って感じだったし」

「その他って」

「その他だよ。『わたし』の事なんて」


 不意に、シメールが服の裾をまくり上げる。

 サリエラが目を逸らすよりも先に露わになった脇腹には皮膚の裂けた箇所があって、しかしそこにあるのは生々しい傷口等では無く、電子的な輝きを放つ光球--『デジコア』が、隙間から見える分でさえ数えきれないほど、ぎちぎちに詰まっているのだった。


「!?」

「単なる革袋だとしか思ってないような連中、そんな程度にしか思えないって」


 そのまま何事も無かったかのように服の裾を下ろしたシメールは、「内緒だよ!」と白々しい弧を口元に描いてトカゲのパペットを唇に当てる。

 思いもしなかった光景に呆気にとられるばかりだったサリエラは、わけもわからないまま小さく頷くのみだった。


「……とまあ、我々からお話できるのはこのくらいかな? 弟くん、何か何か何か質問とか、ある?」

「え? えっと。質問、って言ったってそんなの」

「「どうしてあの女は姉を殺したのか」とか。そりゃ、聞きたいでしょうねぇ弟くん」

「……教えてくれないの?」

「そこは流石に、我々が答えるのは野暮って野暮って野暮ってモノでしょ」

「……」

「本人に聞きなよ」


 サリエラが避けようとしていた方法を、当然のように提示するシメール。

 少年の眉が中央に寄った。


「どんな顔して会えば。とでも言いたげだけど、そんな顔のまま会えばいいんじゃない? なんたって弟くんは、聖母様の弟くんなワケだから。あの女も教えてくれるよ。ホントにホントにホントの事をね」

 それに、と、シメールはさらに言葉を紡ぐ。

「お前がそれを望めば、多分。あのさっきのお兄ちゃんも、いい加減真実を知れるだろうから」

「?」

「しょーじき、心底どうでもいいんだけどね? でも、あんな虚しい執念に引っ張られて生きてるの、それはそれでそれなりに可哀想だし、見苦しいから。『ヒト』助けだと思ってさ」


 意味が解らず、問いただそうとするサリエラだったが――その時。


 サリエラの部屋の扉をノックする音が控えめに響いた。

「サンプル様、シメール様。よろしいでしょうか」

「あれ、赤ずきんちゃんじゃん。どうし」

「おうこの『カオスデュークモン』、『手袋』をお買い上げの坊主はそんな店で手に取って見てもらう時用の商品みたな名前じゃなかったよな気がするんだが、まあこの『カオスデュークモン』の記憶違いという可能性もある。いや、まあ、そいつはどうでもいいんだ。おい、居るんだろサボり魔シメール。この『カオスデュークモン』が取引先に迷惑かける前に迎えに来てやったぞ」

「げ、『カオスデュークモン』」


 普通に顔をしかめたシメールは、『カオスデュークモン』が台詞の中にいくつも自分の名前を並べている間にその場から飛び退き、部屋の奥にある窓の縁へと着地してそのまま窓を開く。


「ごめんねごめんねごめんね弟くん! 本格的に、お喋りはここまで! 我々も店以外で『カオスデュークモン』と顔合わせるの面倒だから、帰るわ!」

「え」

「それじゃあ、それじゃあ、それじゃあ。幸運を、聖母様の弟くん。……今後とも、『『カオスデュークモン』の武器屋』をご贔屓に」


 それだけ言い残して。

 窓の縁を蹴ったシメールは最後に一瞬、現れた時同様の道化のシルエットだけをサリエラの瞳に残して、夜闇の中へと消えていく。

 ほとんど同時に、部屋の扉が開いた。


「ったく、逃げる事無いだろうに。坊主もそう思うだろう?」

 金属の擦れ合う音とその声に振り返れば、呆れたように目を細めた暗黒騎士『カオスデュークモン』が肩を竦めていて。


「どうしてここに?」

「なに、シメールが今日に至っては無断欠勤したもんだから、いい加減回収しに来たってだけの話だ。あいつがちょっかいをかけに行きそうなところくらい、この『カオスデュークモン』にはお見通しよ」


 部屋にずかずかと踏み入り、開いた窓の先を覗き込む『カオスデュークモン』。

「全く、神出鬼没の地獄の道化師かっての。……悪かったな、坊主。この『カオスデュークモン』の店の従業員が。詫びにと言っては何だが、『手袋』の無料点検をしてやろう」

「え? いや、でも。……そんなに、使ったわけじゃ無いし」

「まあそう遠慮すんなって」

 サリエラとしては遠慮のつもりは無いのだが、いかんせん究極体はそこに居るだけで圧が強い。

 部屋に戻るなり半ば隠すように近くの引き出しに押し込んでいた『手袋』を取り出し、サリエラはそれをおずおずと『カオスデュークモン』へと差し出した。


「ふむ。どれどれ。……ホントに大して使っちゃいないな。たったの2匹分しか蓄積してない」

「見て、判るものなの?」

「おうよ。この『カオスデュークモン』は『デジコア』まるごと武器屋だからな。なんたってこの『カオスデュークモン』の『デジコア』は元々、武器屋にのめり込んで職務怠慢気味だった『デュークモン』の『デジコア』が追放されたモンが流れ着いたとかなんとかで――ん?」


 なんとなく感慨深げに語っていた『カオスデュークモン』は、ふとした拍子にサリエラへと目をやったらしかった。

 そのまま話を切り上げて、少年の顔を覗き込む。


「どうした、なんだ、その顔は」

「……俺」

「うん?」

「どうしたらいいのか、わからなくて」


 サリエラは視線の先で、手の平に戻された『手袋』を握り締める。


「『カオスデュークモン』の言った通り、俺は、2体……殺した、だけで、精一杯だった。もう、二度とやりたくないと思った」

「……」

「なのに、知りたかった事は、ずっと近くに、俺のやった事とは関係の無いところにあって。しかもそっちだって散々覚悟したつもりでいたのに、聞いたら「知りたくなかった事」になってて」

「……」

「俺は結局、何がしたかったんだろう。どうすればよかったんだろう。……どうしたらいいんだろう、って」

「……んー」


 槍と円盾を所持していない『カオスデュークモン』の指先が、ぽりぽりと兜に覆われた頭を掻いた。

 取り止めのない、震えた言葉に相応しい答えを探してみせようとした彼は、しかしやがて、思い直したように再びサリエラを見下ろした。


「坊主の姉探しにどんな進展があったのか、この『カオスデュークモン』は知らないし、坊主がこの先どうすればいいのかなんてこの『カオスデュークモン』には見当もつかないんだが。……だが、『手袋』に関しちゃひとつだけこの『カオスデュークモン』にも言える事がある」

「?」

「好きにすりゃあいい。この『カオスデュークモン』の『『カオスデュークモン』の武器屋』の武器を使うも使わないも買ったヤツの自由だし、その武器を何に使うか使わないかも、やっぱりお前さんの自由だ」

「……」


「自分で決めろ。この『カオスデュークモン』の元になった『デジコア』の持ち主も『理性』の持ち主も、好きにやった結果この有様だが、少なくともこの『カオスデュークモン』は楽しくやってるし、案外、どうとでもなるもんだ」


 もちろん、使い込んで修理なりで足しげくこの『カオスデュークモン』の店に通ってくれたら、それに越した事は無いんだけどな。

 調子よくそんな台詞を付け足して、『カオスデュークモン』は紫色のマントを翻し、サリエラに背を向ける。


「それじゃあ、よくは知らんが今日はお疲れさん。これ以上長居すると『キュートモン』のやつに「外で油を売ってるのはどっちの方っキュか」なんて言われかねねーしな」

「はぁ」

「ところで今の、似てたか? 『キュートモン』に」

「あんまり」


 全体的になんとなく適当さが滲み出る『カオスデュークモン』に、サリエラもつい正直に返答してしまう。


 そんな事が出来る程度には、少しだけ。

 『カオスデュークモン』の言葉に、思うところがあったのかもしれない。


「……やれやれ」

 一方で『カオスデュークモン』は残念そうに肩を竦めて、そのまましゃがしゃと小うるさい金属音と共に、部屋の外へと歩み出ていく。


「……」

 少年は、息を吸う。


 何も解らないまま、飛び込んだ世界だった。

 手に入れた事実は、どうしようもない現実だった。


 しかしそれは、まだ、真実では無い。


 これ以上何も知りたくは無かった。

 知ったところで、何かが変わる訳でも無い。


「でも、俺は、姉さんに会いに来たから」


 自分を鼓舞するように、口に出す。

 杭にも言った事だった。


「……」

 少年は、手の平を見つめた。


 このまま何もしなければ、自分はこれ以上傷つかなくても良いかもしれない。

 だがそうすれば、未だに残った感触が、何物でも無い何かになってしまう。

 姉の死も、姉を教えなかった父の死も、姉を知らなかったかもしれない母の死も。いつかはきっと、同じように。

 それだけは。


 ひとりぼっちになってしまった少年には、それだけは、どうしても、恐ろしくて。



 「見送りは結構」と『カオスデュークモン』が誰かにかけている声を耳にして、サリエラも自室を出る。

 出入り口に向かう廊下の先に向けて頭を下げる赤ずきんの姿が、そこにあった。


「赤ずきんさん」

「? どうしましたか、サンザシ様」

「師匠って、まだ、食堂に居る?」

「いえ、今はお部屋に戻られているかと」

「案内してもらってもいいかな。聞きたい事があるんだ」


 もしかしたら、既に休息中かもしれない。

 そう思ったのか、少々悩むような仕草を見せた赤ずきんだったが、ある意味で客人でもあるサリエラの頼みを無碍にするわけにもいかないと判断したのだろう。

 「承知しました」とサリエラの前を歩き始める赤ずきんについて、彼は女の部屋へと向かう。


 しばらくして、サリエラの部屋と同じような造りの扉の前で、赤ずきんは立ち止まった。


「猟師様と杭様のお部屋はこちらになります」

 赤ずきんと入れ替わって、扉をノックするサリエラ。

 返事は無かった。が、軽く小突いただけだというのに、きちんと閉まっていなかったのか、扉が幽かにぎぃ、と音を立てて隙間を作る。


「……入っても、師匠、怒らないかな」

「鍵が開いているのであれば、おそらく。赤ずきんもご一緒した方がよろしいでしょうか」

「ううん。俺一人で大丈夫。ありがとう」


 サリエラが礼を言うと、赤ずきんはこくりと軽く頭を下げて後ろに足を引いた。

 意を決して、サリエラは扉を開けて、中に入る。


 灯りは点いていないが、廊下から差し込んだ光で視界には困りそうに無かった。

 中を見渡すと、部屋そのものはサリエラのところより多少広いようだったが、本棚を筆頭に家具が間取りを圧迫していて、妙に狭苦しい印象がある室内だった。

 一番奥にはベッドがあり、見れば掛け布団が軽く盛り上がっていて、流石にあの女が部屋に入っても起きない程熟睡しているのであれば機会を改めるべきかとサリエラが思いかけた、その時


「?」


 ふと、入り口の隣に置かれたスツールの上に、銀色のタグが付いたペンダントが無造作に置かれている事に気が付いて。

 廊下の灯りを反射するタグには何か、文字が刻まれていているらしく、サリエラがそれを読もうとした。の、だが

「ッ」

 刹那、鈍い不快感が、ざらりと視界を揺らす。

 これまでは耳に感じていた物だと気付いて、サリエラはこのタグに書かれているのが、女の本名である事を理解する。


 だが理解する同時に、混乱が胸の内に沸き上がる。


 女の名前を耳で聞く事が出来ないように、やはりサリエラには、このタグに何と記されているのかを視認できない。

 しかし書かれている文字の種類だけは。それだけは、脳が確かに認識したらしい。


 当然イタリア語では無かったが、その文字をサリエラはよく知っていたし、きっとどこの国の人間だろうと大概の人種が、意味を理解できるものだった。



「数字……?」



「わたくしの本名は、427の前、425の次。という事になりますね」

 背後からその声が届く、というのはもはやサリエラにとってもお馴染みにシチュエーションとなっていたが、だからと言って耐性が出来ている訳でも無く。

 今回も文字通り、少年は飛び上がった。


「そんなに驚く事もないでしょう。異性の部屋に許可無く足を踏み入れておいて」

「そっ、それは悪かったかもしれないけど、寝てたんじゃないの!?」

「寝ていましたが、起きました。おはようございます、サリエラ」


 ぱち、と、サリエラの隣にぬっと手を伸ばして、女は部屋の電気を点ける。

「それに、そろそろ来るのではないかと思っていましたしね。どうせシメールがわたくしについて好き放題言っていたのでしょう。念のため聞きますが、彼女、もう帰りましたよね?」

「『カオスデュークモン』が迎えに来たら、すぐに……」

「……あいつも来てたんですか」


 顔を合わせても居ないのに面倒くさそうに白髪交じりの髪を引っ掻いて、部屋の奥に引き返した女はベッドへと腰を下ろす。

 そのままぽんぽんと、彼女は自分の隣を叩いた。


「立ち話も何ですからね。どうぞ」

「……いいよ、俺は、立ったままで」

「そうですか」


 風呂の時のように、女がそれ以上隣にサリエラを誘う事は無かった。


「さて、では。……何から、お話しましょうか」

「姉さんは。なんて名前で呼ばれてたの?」

「聖母様、と。わたくしがあのお方と引き合わされた頃には、もう、誰もあの方を数字では呼ばなくなっていましたよ。一応お答えするのであれば。784番。それが、聖母様のお名前でした」

「784番……」

「聖母様はあまり気に入ってはいなかったようですが。ほら、百の位が奇数でしょう。聖母様は、偶数の方が好きだったんですよ。「割り切れるから」という理由で」

「そもそも、こんなの、名前じゃない」

「かもしれませんね。でも、わたくしは自分の名前、好きですよ。聖母様の好きな、偶数ばかりですから」


 そう言って女は、また、じっとサリエラの顔を見つめた。

 間違い探しでも、しているかのように。

 そんな女の赤茶けた瞳を、姉とほとんど同じ物である紺碧の瞳で、サリエラは見つめ返す。

 観念したように、女は息を吐いた。


「言っておきますが。……言い訳にしか聞こえないでしょうけれど。わたくしも、いじわるで黙っていただとか、そういうわけではないのですよ、サリエラ」

「じゃあ、どういう訳なの?」


「思い出せないんですよ。聖母様の顔が」


 言われても、サリエラはそう大して驚きはしなかった。

 何せ、自分の名前が世界そのものに拒絶されているような女だ。そう、不思議な話でも無い。