4話
女は時折、赤色の夢を見る。
暗がりの中に、ぽつんと佇む赤色の――大きさや形まで、瞬きの合間に変わってしまうような――人影が、ノイズのかかった笑い声を上げながら、自分に囁きかけてくる夢を。
「素敵な名前ね」
聞こえるのは何時も、同じ台詞だった。
如何せん、後にも先にも、女の名前を「素敵」だと言ったのは、赤色の彼女くらいのものだったのだから。
彼女の事を思い出せなくなっても、その鮮烈な、生きた炎のような赤色だけは、女の記憶をいつまでも焦げつかせているように。
そして女が「素敵」の理由を尋ねると、赤色は決まって自分の名前を指して、「割り切れないわ」とやるせなく微笑むのだ。
忘れようが無かった。
「……」
女は赤色の元につかつかと歩み寄り、間近で、彼女の姿をじっと眺める。
頭のてっぺんから、つま先まで。
間違い探しをするように眺めて。
結局、そこに間違いすら無い事を悟ったあたりでふと、女は赤色と、目が合ったような気がした。
目が合ったような気がして、
それが、どこかで見たような、紺碧と重なったような気がしたのだ。
*
「……」
もぞ、と身体を動かして目覚まし時計を見やると、起床の設定をした時刻の5分前だった。
「損した気分」
ほとんど口の中で呟いて、女は再び目を閉じる。
二度寝をする気は無かったが、素直に身を起こすのも癪だった。
そんな風に目を閉じると、再び、夢の景色が蘇る。
文字通り、瞼の裏に張り付いているような夢だ。見た回数をカウントするのは、両手の指で足りなくなった辺りで既に止めている。
ただ、見る事自体は比較的久しぶりだったような気がするなと思いかけて。ふと、最後に見た碧色が、脳裏を過った。
「……」
碧。暖かな海の色。
今さら思い返すまでも無い。
あれは、サリエラ少年の瞳だ。
「ないわー」
杭には気を遣いつつも、今度ははっきりと声に出して独りごちる。
いくら人間とのコミュニケーションが件の夢よりも遥かに久しぶりであるとはいえ、他人のパーツを懐古に用いるのは、女としても本位では無かった。(なお、当然気を遣っているのはサリエラの方では無く夢に出てきた赤色の方だ)
ただ、と。
顔の良いサリエラの、特に美しいあの紺碧の瞳であればまあ、赤色の彼女もそこまで気を悪くはしないだろう。と。
少なからずそんな風に思ってしまったのも、事実ではあった。
どうせ、思い出せはしないのだ。
「やっぱりもう起きよう」
伸びをした後、いつものように洗面所に向かい、いつもの身支度を済ませて作業着姿の女はいつも通り食堂へと足を踏み入れる。
ただいつもと違うのは、左手に杭は無く、台所に赤ずきんの姿さえ無い事で。
午前6時。いつもより早い起床だった。
「さて」
台所へと向かい、冷蔵庫から取り出した缶のアイスココアを飲み干した後、女は改めて冷蔵庫を開けて一昨日の夜買い出した食材を調理台の上に積み上げていく。
2人分の、弁当の準備だ。
赤ずきんに頼んで作ってもらう事も考えたが、わざわざ彼女をいつもより早い時間に起こしたいとは微塵も思えず、であれば自分が起きて作ればいいかと判断して今に至ったらしい。
最も、今日の『観光』の出発時刻が特に決まっていない以上、別段早起きして作る必要は無いのだが、「以前見た本では大抵お弁当は朝早い時間に作られていた」という理由だけで、女は躊躇なく睡眠時間を削る事にしたのだった。
女は料理を手際よく進めていく。
鍋にお湯を沸かしながら、キッチンの蛍光灯だけが照らす薄暗い食堂に、トントンと包丁がまな板を叩く等間隔の音だけが響き渡る。
それからしばらくして、ふつふつと鍋の中を気泡がせり上がるようになり始めたころ、不意に食堂の扉が開いた。
「?」
「あ……」
入ってきたサリエラが、台所の女に気付いて少しだけ身を引いた。
「おはようございます、サリエラ」
「おはよう、師匠。……早いね」
「ええ、まあ。そう言う貴方も随分と早いお目覚めで」
「なんか、目が覚めちゃって」
コンロの火を弱めると、女は一度手を止めて冷蔵庫から先ほど自分が飲んだのと同じ缶のアイスココアを取り出し、サリエラに食堂の椅子に座るよう促してからそちらへと向かった。
「どうぞ」
「どうも」
「朝食ももう食べますか? ひと段落したらトーストにめんたいマヨでも塗って食べようと思っていたのですが」
「メンタイマヨ?」
「あー……。明太子という日本の……なんて言えばいいんでしょうかね。スケトウダラの卵巣を唐辛子等々で漬けたものを、ほぐしてマヨネーズとあえた……ソース、と言って良いのかは微妙なところですが、まあ、そんなものです」
「……おいしいの? それ」
「わたくしは好きですが。気になるならボウルのまま出しますから、少量つけて食べてみればいいかと」
「じゃあ、そうする」
わかりました、と女は台所手前の棚に置いてある食パンの袋から2枚取り出し、トースターにセットした。そのまま調理場へと戻り、2本入りの辛子明太子のパックから片方だけをボウルに開け、マヨネーズを混ぜ始める。
「師匠はなんでこんな時間に?」
「お弁当を作っています。今日の観光用の」
赤ずきんと違って手は止めずに言う女。サリエラの睡眠時間を削ったのも実のところ「本日の観光」に対する不安だったのだが、彼女には知る由も無い。
「おべんとー……あー、なんか昔見た日本のアニメーションで、そういうの作ってたような」
「ほう。どんな見た目でしたか?」
「えっと、なんだろ? よくわかんないけど、ピンク色の割合が多かったような」
「大丈夫です多分ですがどの作品か解りました。機会があれば、似たようなものを作ってみてもいいかもしれませんね。わたくし桜でんぶもめざしもそこまで好きじゃないんですけれども」
次々出てくる未知の食材名に疑問符が浮かびっぱなしのサリエラだったが、ふとそれ以上に大きな疑問――あるいは不安が、彼の胸の内に沸き上がった。
「ってかそもそも師匠って……料理、できんの?」
サリエラは碧い眼ほあからさまなくらい疑わしげに細まっているが、女は特に気分を害するでもなく、というか彼の視線については気にも留めずに手を止めないまま応答を続ける。
「一応、赤ずきんちゃんに料理を教えたのはわたくしですよ。とは言っても、ほとんどレシピ本の見様見真似ですが。まあ下手にアレンジを加えたりはしていませんので、味に関してはある程度安心しておいてもらっても良いかと」
「ふーん」
言葉に自信の無さは感じなかったので、サリエラもそれ以上は何も聞かない事にして、食堂の椅子に深くもたれかかった。と、ほとんど同時にチンという音がして、こんがりと焼けた食パンがトースターから跳ね上がる。
「お待たせしました」
トースト2枚と明太マヨ入りのボウルをテーブルに置き、女はサリエラの前の席に腰かける。ボウルから伸びたスプーンの柄が、少年の方へと向けられた。
「どうぞ、先に取ってください」
「……ありがと」
正直なところ、やけに鮮やかな赤い粒が無数に沈んだマヨネーズの見た目はサリエラの食欲をそそるものではなかった。
が、女の手前、躊躇する事も憚られて、結局、サリエラは小さく千切ったトーストの端に、少量の明太マヨを塗るだけに留める。
とはいえ、態度である程度は伝わったのだろう。
「ま、もし口に合わなかったらジャムなりオリーブオイルなり、どうぞ。冷蔵庫かそっちの棚にあると思うので。ああ、何なら目玉焼きを乗せても構いませんよ」
ボウルに戻ってきたスプーンでサリエラとは違い大量に明太マヨをトーストへと塗りながら女が言う。
気まずそうに小さく頷いてから、サリエラは知らない調味料を塗った焼きたてのパンを口に放り込んだ。
「……」
「……」
無言の租借と、無言の観察。
……やがてトーストにほとんど手を付けていないにも関わらず女の方が席を立ち、しばらくして戻って来るなり、机の上に小皿とオリーブオイルを置いた。
「ジャムの方が良かったですか?」
「ううん。……ありがと」
「ま、その辺は好みの問題ですから。しかし明太マヨでこれだと、食事を合わせるのは大変かもしれませんね。今更ですが」
「昨日のパスタは美味しかったけど……食事って、日本の料理とか? スシ?」
「寿司。そういえばわたくし、きちんとしたお寿司を食べたことは無いような」
「そうなの?」
「いやだって握れませんし」
「日本人なのに?」
「握れませんよ。というか寿司握れる日本人なんてそうそういませんて。そもそも魚とか捌けませんし」
「捌けないの? 怪物とか掻っ捌いてるのに?」
「捌けませんよ。腹を開けば大抵の生き物は死にますから必要があれば掻っ捌きますけれども、それと魚の解体ができるかどうかに関しては全くの別問題です。何ですか? そう言うサリエラは、魚。捌けるんですか?」
サリエラは頷いた。
「え?」
固まる女。
サリエラが1口。オリーブオイルを付けた食パンを咀嚼し終わっても動き出す気配が無いので
「父さんが漁港で働いてたから。小さいころ、教えてもらったんだ」
と告げてから、トーストを新しく千切った。
実のところ食パンもあまりなじみの無い類のパンだったが、こちらはまあまあ、口に合っているらしい。
「……ふむ。あれですね。その辺は生まれの違いですね。なら仕方ない。一応立場上師匠なのに魚の調理が貴方には出来て、わたくしには出来ない点は不可思議でも不自然でもありません。環境の違いなのですから。仕方ない仕方ない」
「うん。何に納得してるのかわかんないけど、そろそろ食べたら? 冷めちゃうよ?」
サリエラの指摘に、ハッとしたように手つかずの、明太マヨだけは塗ってあるトーストを見下ろして、女は少しだけバツが悪そうにそれを手に取った。
「……人間との食事は久しぶりでして。談笑しながらの食事というのはなかなか難しいですね。普段は、喋る方に意識を向けがちですから。すみませんねサリエラ。貴方の食事の邪魔までしてしまって」
「あ、いや、それは別に……俺は食べてるし……」
珍しく謝ってきた女にたじろぐサリエラ。
と同時に、文化は違えど、女がおおよそ自分と同じ物を食べているという事実に、何だか眩暈がして。彼は女と、また、目が合わせられなくなる。
「それより、誰かとの食事が久しぶりって……」
その事を悟られないように、結局食事を中断するような疑問を口にしてしまい、サリエラの言葉は妙なところで消え行ってしまう。
だが、女はいつも通り、サリエラの内心はそれほど気にせず、頬ばったトーストだけは飲み込んで
「何年ぶりになるんでしょうね」
と応じる。
「今になって思えば、お世辞にも美味しい食事ではありませんでしたが……楽しい時間では、あったのでしょう。聖母様も楽しそうにしていましたから」
……そう口にしてはみたものの、女の中に在るのは、空箱を開くような回想でしかない。
箱の外側にどんな思い出があったかは書いてある。だが、開けてみれば、そこには何も入っていないのだ。
だが、今回はサリエラの方が、女の内心に気付かない番だった。
「聖母様、って?」
首をかしげるサリエラに、女はハッと我に返る。と同時に、自分に向けられた紺碧の瞳に彼女の胸が妙にざわついた。
口を滑らせたのだと気付いて頭を抱え、夢のせいだと肩を竦めてから、彼女はサリエラを、まっすぐには見なかった。
「昔、数ヶ月ほど護衛の仕事をしていたんです。その時の警護対象でした」
「師匠が、護衛?」
女に護衛を頼むだなんて、世の中には変わった人がいるものだと、割合不躾な、加えて自分の事を棚に上げた考えてしまうサリエラ。
やはり女は、意識すらしていなかったが。
「赤かったのは……多分、髪だったと思います。本当に、見事な赤色で……燃える様な、という表現は、まさしく彼女のためにあったのでしょう」
「赤い髪……」
歯切れの悪い、ただ同時に珍しく女の感情を何となく感じられる言葉選びだが、しかしその特徴は、きっと自分の姉の事は示していないだろうなと、サリエラは小さく肩を落とす。
彼の家系に髪の赤い人物はいないし、また、『選ばれし子供』であれば、流石の女も先にそう言うだろうと思っての事だ。
最も、女の話の中で姉を見つけられるなど、そんな期待は、そもそもほぼほぼ無いのだが。
と、
「……すみませんサリエラ。また、ついついお喋りしてしまいましたね」
またしても、若干申し訳なさそうに女が額に手を当てる。2口分の歯形がついたばかりで、彼女のトーストは徐々に熱を失いつつあった。
「いや、俺はそれなりに食べてるし……」
「む? ではわたくし、貴方に謝らせるべきなのでしょうか?」
「それは無いんじゃないかな」
慣れませんねぇ、と改めてトーストを手に取り、微妙な困り顔で口をつける女。
そのしぐさが、表情がなんだか人間臭くて――サリエラも、それ以上何も言えなかった。
サリエラくんは本当にイタリア人なんだなあ(意味不明)と、食事文化の違いの描写で再確認しました。明太マヨが合わないとか弁当はジャパニメーションのふわっとした印象が強いとかそういった描写で師弟のそれぞれが育った環境が違うと示される感じがとてもいいです。
他者の命を糧にする食事というシーンが印象的だからか、その後のワニャモンの潰し祭りはなかなか応えます。……そうですよね。現代の少年少女が自分で命を奪うのに抵抗ない方がおかしいですよね。
一息つく間もなく現れた選ばれし子供の生き残りと彼との剣呑な仲に介入してきたシメール。とはいえシメールも何とも飄々としていて、全幅の信頼をおけないような振る舞いですが……だがそれがいい。
それにしても最後に彼が漏らした言葉の意味はいったい……聖女様とは何者なのやら。
ではこのあたりで失礼します。
第3話あとがき
Q.快晴さんは吐瀉物フェチなんですか?
A.そうではないつもりだが、美少年を吐かせたくなかったと言えば嘘になる。
というわけでサロンでは3か月ぶりです、快晴です。最近世の中色々と大変ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
今回は楽しいピクニック回でしたが、いかがでしたでしょうか。お出かけにはトラブルがつきものなので、狩人さんもサリエラくんも大変だったとは思いますが、皆さんが楽しんで頂けたなら幸いです。
あと、なんか新しいキャラ何名か出てきましたね(こなみ)。
特にシメールちゃんはようやく出せてほっと一息ついているところです。デフォルトがデルタモンで、キメラモン→????モンの『選ばれし子供』、名前もまんまフランス語の『キメラ』です。普段は『カオスデュークモン』の所で働いていて、同僚の『キュートモン』以上に彼の扱いが雑です。彼女についての詳細は、アルティメットシメールちゃんの事も含めてまた次のお話で。
聖母様、というキーワードも今更のように出てきましたが、彼女と主人公達との関係についても、次でようやくお話できると思います。
そんなこんなで、次回は所謂回答編ですね。そろそろ終わりが見えてきた気がする。多分。
今度の投稿もまたしばらくお時間をいただくかとは思いますが、どうか今後とも目を通していただければ幸いです。
という訳で以下、感想返信のコーナーです。
夏P(ナッピー)様
この度も感想をありがとうございます。毎回文字通り舞い上がっております。
キュートモンは……キュートモンはなんか、気付いたらああなっていました。割と書き易いキャラしてるので(語尾で差別化を図り易いだけかもしれない)、まあ、この先も出来れば生き残って欲しいですね。
『0426』は構想的には前作よりもかなり短いので、出しても良い情報はなるべく早めのタイミングで出すようにしています。デジコア云々に関しては、狩人さん自身がそんな重要な話だとは思ってはいないので……。残念ながら4話には無いのでした、入浴シーン。
まあ言うてサリエラが本編中に『武器』を進化させられるかはかなり微妙なところなんですが。この辺は基本的に作者のモチベーションを上げるための設定ですね。あと、快晴テリワン大好きです。姉弟対決は開催されるのやら。
次回も読んでいただけるよう、がんばります。
パラレル様
感想ありがとうございます。サロンの方でも、どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。
おねショタは……いいですぞ……。
本作は前作とは別方面の趣味をアクセル全開にして書いているのですが、どうにもその分キャラの人間味が薄まってしまっているんですよね……。それでも感想でそのように言って頂けると、このまま突っ走ろうと書き続ける糧になりますね。ありがたい事です。
このお話での『選ばれし子供』は作中でも述べた通り、偶然デジモンにならなかった子供達なんですよね。だけどもう人間でも無くて、本当に中途半端な存在なんです。それを実際のところ狩人さんがどういう風に受け止めているかについては、そしてサリエラくんやその姉の行き先についても今後明かされて行きますので、どうかこの先も読んでいただけたら、作者としては、幸いです。
それではまた、次回、『0426』の5話でお会いしましょう。
「!」
2度目ともなればある程度覚悟は出来ていたが、それでも急転した景色に心臓が跳ねて。それから、サリエラは思わず息を飲む。
薄紫の花々は、昼間の内に吸い込んだ光を宙に放つようにして、ぼう、とか細く黄緑色に光っているのだ。
コピー&ペーストの花畑には相も変わらず薄気味悪さが付きまとっていたが、砂漠の時よりもずっと視界を確保しやすい事もあってか、今度は「幻想的」という感想がサリエラの中で勝っていた。
と、不意にあたりの花が、不規則に揺れた。
サリエラの足元の花も揺れていて、つい1歩後退ると、丁度彼が踏みつけていた花の上に飛び乗るようにして、青い毛に包まれた何かが、茎の隙間から飛び出してくる。
「これって」
「昼食後お教えした幼年期の『怪物』ですね」
イヌともネコとも取れる哺乳類の頭部にふさふさの尻尾が生えたような『怪物』が、ゴムまりのようにサリエラの足元で、満面の笑みのような表情を浮かべて跳ねていた。
「『ワニャモン』と呼ばれる種族ですね。笑っている時は噛み付く一歩手前なので気を付けた方が良いですよ。もっとも、噛まれてもそう痛くは……ああいえ、あなたは純粋に人間なので確実なことは言えませんから、とりあえず、気を付けて下さい」
ミーミーと子猫のように鳴きながら、じゃれついているようにしか見えない仕草でサリエラに迫って来る『ワニャモン』。
通常の生き物で無い事は一目見れば明らかだが、しかしサリエラはその見た目にとても『怪物』という単語を結び付けられないでいた。
そんな彼の傍らで、唐突に杭が「あ」と声を上げる。
「狩人さん~、こっちにもいたよ~」
「本当ですね」
サリエラ、と、女は少年の名を呼びながら、素早く右手で自分の近くにいたらしい『ワニャモン』を捕まえて持ち上げる。
頭部兼身体を鷲掴みにされた『ワニャモン』は全身の毛を逆立てながら尻尾をバタバタと女の手首に叩き付けてはいるが、『成熟期』の『選ばれし子供』らしい女はその程度ではびくともしない。
サリエラは、女の方を見上げた。
女の顔が、良く見えた。
「今からお手本を見せます。いいですね? 杭ちゃん」
「いいよ~。『幼年期』は~、あんまり食べごたえないからね~」
言うが否や。
女は『ワニャモン』を握り潰した。
「……え?」
想像通りの音がした。
想像通りの音だったが、きっとサリエラは、その音を生涯忘れる事は無いだろう。
女の指の形通りに凹んだ『ワニャモン』の小さな身体からは、存在しないの筈の内容物が飛び散り、果物を絞るのとそう変わらない調子で零れ落ちていた。
中で砕けたワイヤーフレームは青い毛の隙間から突き出してはいるものの、それさえ女の皮膚を傷付けたりはしていない。その程度の抵抗さえ、『ワニャモン』という名の弱い『怪物』には許されていないのだ。
そうしている内に、『ワニャモン』の身体は他の『怪物』同様に粒子化して消えていったが――その光景と、女の皮膚と作業着に飛んだ『ワニャモン』の体液は、いつまでもいつまでもこびりついていて。
「とまあ、こんな感じでやってみて下さい」
何事も無く言う女に、サリエラの口からは呆けたクエスチョンマークが掠れた息のように漏れ出した。
だが、そんなサリエラを現実に引き戻すように
「っ!?」
足首に鋭い痛みが走る。
見下ろすと、同種が殺されて驚いたのか、元々そのつもりだったのか。サリエラの足元に居た方の『ワニャモン』が、変わらぬ笑顔に似た表情で、サリエラの足に牙を立てていた。
「いっ、離れ」
引き剥がそうと、『手袋』を嵌めた手で、『ワニャモン』の頭を掴もうとして。
それでサリエラは、女が先程、大した力を手に込めていなかった事を知った。
「あ」
『手袋』の先についた黒い爪が、『ワニャモン』の身体を抑える事無く、そのまま裂いた。
昨日、丸太に傷をつけたように。
否、それよりもあっさりと、サリエラの指は『ワニャモン』に致命的な4本の線を引く。
俯いているが故に良く見えた線の先は、確かに真っ暗闇の空洞なのに、指の腹には言いようも無い感触がしっかりと伝わっていて、その証拠に『手袋』の爪はぐっしょりと濡れていた。
「あ、あ」
なのに、『ワニャモン』が突き立てた小さな小さな牙は、『ワニャモン』が完全に消え去るまで、ずっとずっと、鮮明だった。
その鮮明さまでもが消え去って。ようやく、サリエラは『怪物』を殺した事を理解する。
『怪物』を――生き物を、殺した事を。
「う、あ」
この『世界』を訪れた初日に、自分や女に襲い掛かる『怪物』を何度も見て。
自分がそれを成す事自体は、頭では理解していた筈なのに。
それなのに、一方的に、自分の心も定まり切っていないタイミングで『ワニャモン』を殺した事実が、サリエラの心にのしかかってくる。
と、次の瞬間、一気にサリエラの方へと踏み込んで来た女が、サリエラの方へと杭を突き出した。
「!?」
突然の事に頭が真っ白になるサリエラの金色の髪を掠めて、それから一瞬の後に小さな悲鳴が彼の耳に届く。続いてざくり、と、サリエラの隣を横切るようにさらに足を進めた女が、杭を地面に突き刺す音も。
「え?」
「すみませんサリエラ。わたくしの落ち度です。以前は見かけなかった、では言い訳になりますが、きっとどこかに潜んでいたのでしょうね」
恐る恐る振り返るサリエラ。
杭が地面に縫い付けていたのは、女の子の姿をした妖精型の『怪物』だった。
「っ」
サイズと翅を除けば、ほとんど人間の少女と同じ姿をしているその『怪物』は、自分の腹を貫く杭を、どうしようもないのにどうにかしようともがきながら、しかし傍目にも徐々に力を失い始めていた。
「『ティンカーモン』。成長期のデジモンですが、能力が厄介でしてね。……というか、わたくしは『デジコア』が退化するとして、サリエラがくらったらどうなるのでしょう。やっぱり『手袋』の性能が低下したりするのでしょうか」
「も~。今それどころじゃないでしょ~、狩人さん~」
サリエラ~。と、間延びした声が少年を呼ぶ。
「止めは譲るよ~。ぼくはもう、食べた事あるからね~『ティンカーモン』~」
「……え?」
「頭を潰すといいですよ。それで『デジコア』も維持しきれなくなるでしょうし」
何の気なしに言う女。
サリエラは耳を疑うが、女や杭からしてみれば、幼年期よりは多少効率の良い獲物を、サリエラの『武器』に喰わせてやろうという純然たる善意でしかない。
少年自身も、それ自体は、理解していた。
「……っ」
紺碧の瞳が、穴の開いた『ティンカーモン』を見下ろす。
どうせ放っておいても死んでしまうだろうに、『ティンカーモン』は振り絞れる力を振り絞れるだけ使って、杭を外そうともがいていた。
少年は目を閉じる。
間違っても、黙祷では無い。ただ、見たくなかっただけだ。
そのまま両手を重ねて、膝をついて。その手に全体重をかけながら、彼は『ティンカーモン』の頭部がある位置を、ただ、圧した。
呆気ない感触だった。
「うっ、ううう」
少年は目を閉じ続けた。
一刻も早く、手の平に僅かに残る潰れた球体の感触に消えてほしいと願いながら。
次に目を開けたら、殺した『怪物』の姿など跡形も無くなっていてほしいと祈りながら。
それだけを想いながら――ようやく、顔を上げて目を開けた先には、杭を引き抜きながら、いかにも不思議そうな顔をしている女の顔があって。
「魚を捌くのと、何か違うんですか?」
単純な好奇心で発せられた疑問が耳を撫でた瞬間、サリエラはもう、耐えられなかった。
「うっ、うう、お、えっ」
サリエラが願った通り、『ティンカーモン』の痕跡を塗り潰すようにして、吐瀉物が地面にぶちまけられる。
昼食からは大分時が経っているからかそのほとんどが胃液だが、鼻をつく酸い臭いの不快さは変わらない。吐き出す物などほとんど無い筈なのに、胃から喉へと押し上がる完食には留まるところが無かった。
当然、サリエラが何故吐いているのかを理解できるような女でも無い。
「大丈夫ですかサリエラ。……まさか、実は何かアレルギーがあったとか?」
見当違いな心配の言葉と共に、とりあえず背でも摩るべきかと、女が伸ばすのは当然のように、潰した『ワニャモン』の体液で濡れたままの右腕で
咄嗟に、反射的に。サリエラは、その手を払う。
何も言えなかった。
何も言えなかったが、結果だけは残って。
「サリエラ?」
流石に女の口調に困惑が混じったあたりで、サリエラは辛うじて正気を取り戻す。
正気を取り戻した頭が――また、別の事を、考える。
そして彼の思考も、喉元では留まってくれなかった。
「姉さんも、こんな風に死んだの?」
まだ決まった訳じゃ無いと、そう言い聞かせて抑え込んでいた疑問が溢れるようにして口を突く。
女に殺されたかそうでないかは、この際重要では無かった。
本来なら『姉』にも在った筈の幸せを、全て自分が奪った気になって。今度こそ、少年は押し潰されそうになる。
涙が出た。
覚悟の無さへの情けなさと、どうしようもない罪悪感で。
「……」
一方で、女もまた、言葉を失っていた。
サリエラの濡れた瞳に、彼女の胸が奇妙なざわつきを覚える。
少年の瞳の中の碧い海に、何かを見つけそうになって、刹那。
女の瞳孔が、ネコ科の猛獣のようにすっと細まるのを、サリエラは見た。
「!?」
今回は彼に女の手を振り払う暇など無かった。
女は強引に、一瞬でサリエラの身体を抱えると地面を蹴り、その場を飛び退く。
次の瞬間、一閃。
抉るようにして、一筋の炎が花畑を焼き払った。
「は!?」
一撃を避けたにも関わらず、息の詰まるような熱がサリエラの頬を舐める。
「杭ちゃん、この『ゾーン』にこんな芸当の出来る『怪物』はいましたっけ?」
「いなかったんじゃないかな~」
「『ティンカーモン』のように認知し損ねていた」
普段と変わらぬ調子で杭と意見を述べ合う女の眼前に、女よりも背の高い人影が迫った。
「訳では、ありませんでしたね」
影が右腕を女の方に伸ばそうとした瞬間、女は影の腹部を蹴り飛ばし、その勢いで相手との距離を取る。
よろめく影を尻目に、彼女はサリエラを隣に下ろした。
「し、師匠。これって」
「……先程の事も含めて、話は後で。わたくしから離れないように」
それだけ言うと、女は改めて影の方へと向き直る。
影――左半身を濃紺のマントで、右目を薄汚れた包帯で覆った長身の男が、前のめりの姿勢で女の方を睨みつけていた。
「答え合わせの方から来て下さったようでなにより。その様子だと、『選ばれし子供』ですか」
血走った単眼が暗がりでらんらんと輝く。『選ばれし子供』と言うものの、男は女よりも年上に見えた。
「俺の事を」
吹き上がるマグマのような激情をどうにか押さえつけているかのような声音で、男が問いかける。
「覚えているか」
対する女は右手を顎に添え、杭だけは男の方に向けて構えたまま、暫くの間ううんと唸り
「ヒントいただけますか。何番台だったかとか」
意味はサリエラには解らなかったが、傍目にも不正解である事だけは理解できる問いを返した。
夜空に男の咆哮が響き渡る。人間の物とは思えない、耳をつんざくような声量だ。
それを合図に、女と襲撃者の男性はほとんど同時に駆け出す。
方や杭で、方や節くれだった右手で。
そのどちらも、相手の喉首を搔き切ろうと得物を前へ伸ばし
「はーーーい、ストップ、ストップ、ストップ!」
……彼女と彼を受け止めたのは、お互いの皮膚でも『武器』でも無く、2本の剣だった。
「ねえねえねえ。やめよう? 兄妹同士で殺し合いだなんて、我々は悲しいよ」
この遮蔽物の無い花園のどこから現れたのだと言うのだろう。
音も無く降り立った、男性とも女性ともつかない声の『怪物』は、恐ろしく派手な色合いのピエロの姿をしていた。
「この出来損ないと一緒にしてくれるな……! 何をしに来たシメール!!」
男が怒鳴る。
背中のボックスから引き抜いた剣の片方で男の腕を止めているピエロの『怪物』は、煩そうに口元を歪めた。
「相変わらず声おっきいお兄ちゃんだなぁ」
「……いや、ホントに何しに来たの~? シメール~」
「やっほ~、やっほ~、やっほ~。杭のお坊ちゃんくんは相変わらず緊張感の無い喋り方してるね! 元気にしてましたか!?」
「杭ちゃんの質問に答えて下さい、シメール」
女が幽かに凄むと、シメール、と呼ばれた『怪物』はようやく観念したようだった。
ピエロの『怪物』は軽く肩を竦めたかと思うと、突如、その身体を縮ませた。
「!?」
見る見るうちに、長身痩躯のピエロはサリエラよりも背の低い、やはり声と同様少年とも少女とも判断しかねる人型へと姿を変える。
ふわふわと広がる長い髪は非現実的な淡い青緑色をしているが、先の『怪物』の姿よりは、充分に人間的だった。
2本の剣は、それぞれ右がロボットのような、左が骨のようなデザインのトカゲのパペットに形を変えていて、しかし変わらず、杭と男の腕を抑えていた。
「さっきも言った通り、我々は大事なお兄ちゃん達のケンカを止めに来ただけだよ。食事でも無い殺し合いだなんて、とってもとってもとっても悲しいからね」
「はっ、どの口が言う」
「今喋ってるのは真ん中!」
「……」
女は面倒臭さを隠しもしない表情を浮かべて、シメール、と呼ばれた子供のパペットから杭を引き抜き、その穂先を下ろした。
「シメールの相手は流石に骨が折れますからね。今回は見逃しますからどこかに行って下さい」
「見逃す、だと?」
「そーだよそーだよそーだよ。このままじゃお兄ちゃん、他の皆みたいにこいつに殺されちゃうよ? 我々はそれじゃかわいそうだと思って、お兄ちゃんを止めに来たんだぜ?」
「ふざけるな。私は」
「ここは我々に免じていったん引いてよ。ね? ね? ……ね?」
みし、と、嫌な音がした。
シメールのパペットの口元が、僅かに男の腕に、食い込んでいるようにも見える。
「……チッ」
あからさまな舌打ちと共に、男もパペットから腕を振り払った。
そのまま、彼は単眼で女をもう一度睨む。
「私もシメールの相手までするつもりは無い。故に、ここは引き下がるが……だが、報いは受けてもらうぞ、 」
と、突如、不自然な空白がサリエラの耳を刺した。
それが女の、剥奪された名前を呼んだためであるとは思い付きもしないまま、話はサリエラを置き去りにしたまま進んでいく。
「……わざわざその名前で呼ぶという事は、やはり、生き残りが居た訳ですか。報いとはその件で?」
「『御蔵』で待つ。邪魔の入らない所で今度こそ、お前には死んでもらう」
「会話を成立させてくださいよ」
「それ~、あんまり狩人さんの言って良い台詞じゃ無いんじゃないかな~」
正直なところ心底どうでもよさそうな女を、血が滲む程唇を噛み締めながら睨み付け、しかしやがて、襲撃者は女に背を向けた。
と、その一瞬。
ほんの一瞬だけ、サリエラは男と目が合って。
……その一瞬だけ、サリエラを確かに認識した男は、目を見開いていたように、少年には見えた。
だが、それ以上は振り返る事も無く、男は『ポータル』の方角へと去っていく。
ふぅ、と。シメールは腰に手を当てると息を吐いた。
「もぉー。我々は『カオスデュークモン』から『武器』を買った物好きを見に来ただけなのにさ! こんなのってこんなのってこんなのって無いよ!」
「……本当にそれだけですか?」
「それだけそれだけ。ほんとのほんとのほんっとに、それだけ。いやまあ、お兄ちゃん折角生き残ったのにあっさり殺されちゃうの可哀想だなーと思ったのは1ミリくらい、本心」
今度は珍しく、女が息を吐く番だった。
と、『カオスデュークモン』の名前が出た事で、サリエラもようやく彼(?)の名前について思い至る。
『『カオスデュークモン』の武器屋』に行ったあの日、「さぼり」だったという『選ばれし子供』が、シメールだった筈だ。
眉間に軽く指を当てながら、女はようやく、サリエラの方へと振り返った。
「サリエラ。彼女はシメール。『選ばれし子供』です。それ以上は覚えなくて構いません」
「何何何!? こんなに可愛い妹分がわざわざケンカの仲裁してあげたのに、冷たく無い?」
「何が妹分ですか気色の悪い。わたくしがお姉ちゃんと呼ばれたい女の子はこの世にただ1人、赤ずきんちゃんだけですよ」
「お前の方が気色悪いよ」
そんな事は無いですと半ばムキになって返す女には何も言わず、今度は杭が言葉を紡ぐ。
「っていうか~、シメール。さっきのアレ、なに~? 『キメラモン』の能力じゃないよね~?」
「おおお! よく聞いてくれましたね杭のお坊ちゃんくん! 我々、暫くお坊ちゃんくん達に会わない内に、進化したのです!」
「『ピエモン』にですか」
「ぶっぶっぶっぶー。違う違う。全然違う。……ま、その話は追々。いや、お前に我々の進化先を明かす義理も無いんだけれど。何にせよ、今は噂の物好きさんだ」
くるり、とその場で回って、シメールがサリエラに身体を向ける。
そのまま彼女(らしい)はスキップでもするように跳ねながら、少年の方へと寄ってきた。
思わず後ずさりする彼を肩を逃がさないように掴んでから、シメールはずい、と幼く中性的な顔をサリエラに近付けた。
「っ」
「うん、うん、うん! 話に聞いた通り顔が良い! この度は『カオスデュークモン』の武器屋』なんかでお買い物ありがとう! ……って、あれ?」
不意に、シメールが首を横に傾ける。
女にも増して顔が近い彼女からどうにか逃れようと、しかし見た目以上に強い力に身動きを取れないでいたサリエラは、急に様子の変わったシメールへと改めて視線を戻す。
しばらく悩むような素振りを見せた後、首を傾げたままのシメールは
「お前、何? 聖母様に、そっくりじゃない」
そんな事を、口にして。
サリエラと、そして女の口から疑問符が漏れだしたのは、ほとんど同時の出来事だった。
結局、外まで見送りに来た赤ずきんへと名残惜しそうに手を振りながら、女が庭の丸石型の『ポータル』へと『鍵』をかざしたのは、日が高く昇って、出会いがしらの挨拶がおはようからこんにちはに代わるような時刻だった。
「サリエラ~、ごめんね~遅くなっちゃって~。明日はピクニックだ~って思ったら~、なんだか眠れなくって~」
「いや、俺も待ってる間にちょっと心の準備できたから、別にいいんだけど……」
この時間帯になったのはおおよそ杭の寝坊が原因だ。加えて女の方が、わざわざ杭を起こそうとはしなかったというのもある。
「寝顔が可愛いのでそっとしておきたい」という女の弁が冗談だったのか本気だったのか。まあ多分本気で言っていたのだろうと、サリエラも余計な事は言わなかった。
「っていうか、ピクニックと観光は、違うの?」
「全然違うよ~。ごはんが無いもん~。でも、ピクニックはその分おしゃべりいっぱいできるから~、楽しいよ~」
「まあ本来ピクニックは野外での食事を指す語なので、杭ちゃん的には普段の観光の方がピクニックに近いのですが……わたくしとサリエラは間違いなくピクニックですし、日が暮れれば杭ちゃんの食事の時間ですから、定義上問題は無いでしょう」
別に観光にピクニックを兼ねていても何もおかしくはありませんしね、と付け加える女。
例のごとく、サリエラはどちらの気分でもいられないのだが。
とはいえ実際に辿り着いた『ゾーン』での光景を前にしてみると、サリエラにも少なからず、『ピクニック』の風情は感じられなくも無く。
「こんなところも、あるんだね」
一面の花畑。
『宿』の『ポータル』の周りを飾る季節感のまるでない何種類もの花々とは違い、うっすらと紫がかったほの白い花が延々と咲き乱れている。
あまりにも整然とした――具体的に言うと、全ての花がコピー&ペーストで増殖されているかのような――並びに一種の寒気がサリエラの背を撫でないでもなかったが、それでも、地面どころか穿いている靴さえ見えなくなる程の花の絨毯には、圧倒されずにはいられなかった。
「この先に少し丘になっている箇所があるので、そこまで行きましょう」
「大丈夫? 『ポータル』の場所分からなくなったりしない?」
女の指さす方向を目で追って、しかしそのあまりの代わり映えの無さに、景色に気圧されていた不安があっさりとサリエラの顔に出る。
彼の考えは最もで、この『ゾーン』の『ポータル』を振り返って見てみれば、『周囲より多少背の高い同じ形の花』でしかない。一度見失えば、再び発見するのは至難だろう。
「まあ~、そこは安心してよ~、サリエラ~」
と、サリエラにそう声をかける杭。
その身体(?)は、心なしか胸を張るかのように反っているように見えて(実際、少しだけ反っている)。
「ぼく~、『ポータル』の探知機能もついてるから~。サリエラが狩人さんのところから迷子にならない限りは~、ちゃんと『宿』に帰れるよ~」
反射的に、サリエラは女の顔を見上げた。
「ねえ師匠」
「何ですかサリエラ」
「絶対に、俺の事置いて行ったりしないでくれよ?」
「……サリエラ」
「何」
「目的地までトレーニングを兼ねて走って行きましょう」
「俺の話聞いてた?」
「なんなら競争という事にしても構いませんよ。私を抜いても別に何も言いません」
「いや、まずは目的地に連れて」
「位置について」
「なあ」
よーい、どん!
サリエラには理解の及ばないタイミングで悪戯心を爆発させた女が、一方的にスタートの合図を切って地面を蹴る。
風のよう、というありきたりな比喩表現がサリエラの脳裏に真っ先に浮かぶが、これでもやはり女は加減をしている方だった。加減をしている上で、サリエラの目で捉えられる彼女の背中が豆粒大になるのも時間の問題だった。
「ちょ」
一拍遅れて駆け出す少年に、杭が「はやくはやく~」と声を張り上げる。
それが出来れば苦労はしないと内心で弱音に近い悪態を吐きながら、彼は青みがかったグレーの作業着を見失わないよう目を凝らし続けた。
とはいえ幸い、遮蔽物の無い花園だ。
結局、今回もどうにかサリエラは女から完全な置いてけぼりを喰らう事は無く。しかし彼が肩で息をしながら徒歩よりはややマシ程度の速度でへろへろと目的地の前で崩れ落ちた頃には、女は既にどこから取り出したのかも定かでは無いビニールシートの上に昼食の準備を整えていて。
「お疲れ様です、サリエラ」
息を吸って吐くのが精いっぱいの肺は、「疲れさせないでよ」という少年の主張にまで余裕を回してはくれなかった。
代わりにサリエラは女から差し出されたペットボトルを力無く奪い取り、蓋を開けるや否や中身を喉に流し込む。
常温の水が、この時ばかりは甘く感じられた。
「ぷはっ」
「なかなか良い飲みっぷりですねサリエラ。しかしその様子では先が思いやられると言いますか。『怪物』の中には光速に近い速度で移動する輩も居るので、行く行くは対応できるようになって欲しいところなのですが」
「冗談でしょ?」
「ええ、まあ。わたくしも流石にその速度での移動は出来ませんからね。その手の『怪物』は直接攻撃で襲ってくるのがほとんどなので、大事なのはどちらかと言えば反射神経になるかもしれません」
サリエラはどちらかと言えば、光の速さでの移動を求められる事ではなく、光の速さで動く怪物の存在を否定してほしかったのだが。
とはいえ女式の『冗談』を聞いている内に、ようやく呼吸は整ってきたらしい。
今度は杭からの「おつかれさま~」に手を挙げて応じながら、サリエラは靴を脱いでビニールシートの上にあがり、そのまま腰かけた。
地面の感触は柔らかい。
この花々を下敷きにしているのだと思うとほんの僅かに彼の中に罪悪感が芽生えるが、そんな考えも、振り返った先に一切サリエラの、女の踏みつけた花の痕跡を見つけられない事に気づいた瞬間、吹き飛んだ。
いくら綺麗でも、落ち着ける景色では無いなと、サリエラは小さく身体を震わせるのだった。
と、
「サリエラ。こちらをどうぞ」
肩越しに、女から彼女が早朝から準備していた弁当箱が差し出される。
「蓋の上部分にフォークとスプーンが入っていますから、それで食べて下さい」
「あ、ありがと。……ん?」
ふと、弁当箱を受け取りながら、サリエラは女の手に違和感を覚える。
彼女が出しているのは右手だ。
その小指に、あった筈の包帯は無く、ある筈の無い爪がしっかりと付いていて。
「あれ、師匠、小指……」
「え? ……ああ、今気づいたんですか? 昨日の夜にはもう治してあったのですが」
「ぼくが治したんだよ~」
間延びした杭の声が、女の言葉を捕捉する。
「何でもできるんだな、杭って」
先の言葉を信じるのであれば、『扉』のサーチも可能なのだという。
女はサリエラの呟きに気を良くしたらしい。注意深く見なければ解らない差ではあるが、「杭ちゃんは特別ですからね」と応える女の口元は、ほんの少しだけ表情を綻んでいた。
杭ちゃんは、特別。
妙に熱を帯びたその台詞に、まあなんて言ったって喋る杭だもんなと、サリエラはまず言葉を発する事は無いであろう、ズボンのポケットに突っ込んでいる自分の『手袋』に触れる。
それが、『怪物』のデータに由来するものである事を思い出して。
彼は、杭の『特別』の理由については、やはり考えない事にした。
なんにせよ、食事の前に思考する事では無い。
受け取った弁当箱を膝に乗せて、サリエラはその蓋を取る。
「……わぁ」
調理工程は見ていたが頑なに見せてもらえなかった箱の中身は想像以上に色鮮やかで、女があれだけの速さで走っていたにも関わらず、片方に具材が寄っている、というような事も無かった。
卵焼き、タコさんソーセージ、茹でた野菜にプチトマト、冷凍のミニハンバーグや一口分だけ盛られたパスタ。日本人が『お弁当』と言われて思い描く模範解答のようなラインナップではあるが、意外と気を遣われた彩りはそもそも弁当に馴染の無いサリエラには新鮮で。
おかずの反対側に詰められたご飯は、これも一応女なりにサリエラの事を考えたのか、ピラフになっている。エビやタマネギ、コーン粒だけでなく米もつやつやと光沢があって、全体が冷めた今になってもほんのりと、バターの香りが漂っていた。
料理が出来る、と言うのは本当に嘘では無かったらしい。
サリエラは、ようやく一つ、安堵した。
「さ、どうぞ。万が一口に合わないものがあったら遠慮なく言ってください。食文化上の事情で赤ずきんちゃんを困らせるかもしれない要素は、少しでも減らしておきたいですし」
「……わかった」
あくまで赤ずきんの負担を減らすことが最優先なんだなと一周回って今更のように感心しながら、遅れて弁当箱を開ける女を尻目に、サリエラはまずはスプーンでピラフを口に運ぶ。
「けっこう、なんていうか……もちゃもちゃしてるんだね」
「おや、お気に召しませんでしたか?」
「ううん、そこまでは気にならない。味は、おいしいと思う」
感想としては昨日の赤ずきんが作ったナポリタンに近いモノがあるが、こちらはそもそもイタリア料理と認識していないので、受け入れやすかったのかもしれない。
落ち着きを取り戻した身体が、胃の空き具合をようやく訴え始めたのだろう。食べ始めた所だというのにサリエラの腹がくうと情けなくなって、彼は思わず頬を赤らめると、誤魔化すようにピラフの続きを口に運んだ。
一先ず食事に関して問題は無いと判断したのか、女も遅れて自分の作った弁当に手を付け始める。
「人間って大変だよね~、住んでる場所によってみんな~、食べ物の好き嫌い違うんでしょ~?」
「一概には言い切れませんが、何にせよ現実の世界では『ゾーン』間ほど移動が楽ではありませんからね。食材はなるべく手近な物を使った方が、楽と言えば楽ですから」
杭ちゃんには美味しい物を食べてもらうべきなので、別にその辺、苦ではありませんけれどね。そう付け足して、女は食事を続ける。
そういう意味では、文字通り「なんでも好きな物が食べられる」杭は恵まれているのかもしれない。
なんて考えが過ったサリエラはふと、自分の膝の上に置かれた弁当箱へと視線を落とす。
これは、女が内心はどうであれ、サリエラのために用意した物だ。
「……」
案外世話好きなのだろうか、と結論付けてみるものの、そんな風に意識してしまうとどうしてもむずかゆいものがあって、サリエラは急いで今口の中にある分を咀嚼してから女と杭へと声をかける。
「そういえば」
「? 何でしょう」
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないの? その、ここに出る『怪物』の事」
「ああ……確かに、着いてから話すと言っていましたからね。とはいえわたくしとしては、見てもらった方が早いと思うのですが」
「そりゃ、師匠は説明の手間省けるからその方が早いでしょ」
「えっとね~、ここに出るのは~、あんまり食べごたえの無いのばっかりだよ~」
「わかんないよ」
談笑になってしまい、結果としてサリエラの中の「むずかゆさ」は広がるばかりだったが――不思議と、『怪物』の話をしているのに、嫌な気分では無い事にも彼は気が付いていて。
女程では無いにせよ、サリエラにとっても、ここ数日の『誰かとの食事』は久しぶりの行為なのだ。
不気味ではあるが美しい景色。
知識にも記憶にも無いが不味くは無い、自分では無い誰かが用意してくれた異国の食事。
これっぽっちも気を許せない筈で、姉の仇なのかもしれなくて、人として大事な物が欠けているようにしか見えないのに――それでも、言葉は通じてしまう相手。
ひどいピクニックだ。とサリエラは自嘲気味に鼻を鳴らして。女がそれに、首を傾げて。
食事が終わるとこの『ゾーン』に現れる『怪物』は『幼年期』と呼ばれる、普段の女のデジコアやサリエラの武器よりも2、3下のランクに位置する者達がほとんどだという話やその特徴を聞いて。
腹が落ち着いたら女が勝手に考案したかネットの知識を聞きかじったかの、効率も効能もあったものではないトレーニングをやらされたりもして。
疲れ果ててビニールシートの上で休憩している内に、寝不足の事もあって、サリエラは眠ってしまったらしい。
次に女に起こされた時には日が傾いていて
例の『手袋』を付けている内に、その日が沈んで
空がくるりと、暗転した。