プロローグ
「『あわてんぼうのサンタクロース』って歌、あるじゃないですか」
女は懐から長い電飾を取り出した。
一目見て解るような安物だが長さだけは十分にあり、胸元に忍ばせれば確実に不快感を付き纏わせるであろうそれをよりにもよってこんなところにまで携帯しているこの女の神経が、それだけでも窺い知れそうなものだった。
「あるね~。クリスマスよりも早く来ちゃったサンタさんの歌だっけ~?」
女に応えたのは、間延びした少年の声。、彼女が電飾をいじり始めてなお手放そうとしない、左手に握られた杭から発せられている。
杭。
ホームセンターなどで500円ほど出せば買えるような、打ち込まない側が円になっている金属製の杭だ。長さは女の腕より少しばかり長く、見た限りでは、本当に何の変哲もない杭である。
それが、言葉を話している。
「常々思うのですが、あの歌のサンタクロース、不審者極まりなくはありませんか? ……いえ、サンタクロースとはそもそも不法侵入者そのものではありますがそれはさておき、いくらサンタクロースとはいえ煙突から落ちてきて真っ黒くろけの状態で仕方なく踊り出す知らないジジイってどうですか? 嫌でしょう。わたくしが家主だったら殺しますよ」
口を動かしつつも、女は手を止めない。
……とはいえその作業ぶりはお世辞にも丁寧とは言い難い。対象に纏わせている電飾の螺旋はひどい不等間隔で、その上ところどころ縛りがゆるくなっている。
まあ、当然気にするような女ではないのだが。
「というか、そういった輩をついこの間殺したような、殺さなかったような」
「う~ん、そんなことあったっけ~? むしろぼく達が不審者の側って事ならよくあるけど~」
「ではわたくしの感覚は正常なのでしょう。事実としていつも殺しにくるじゃありませんか、『彼ら』。まあ、こちらも「みんなも踊ろうよ僕と」と言う程の器量も度胸も持ち合わせていませんから、そういったところがわたくしとサンタクロースの違いなのかもしれませんが」
「狩人さんも時々赤い服着てるのにね~」
「杭ちゃん、サンタクロースの服が赤いのは返り血ではありません。飲料会社の陰謀です。……っと、こんなものですか」
ようやく電飾を巻き付ける作業が終わったらしい。女は余ったコードの部分を引き、近くのコンセントにプラグを差し込んだ。途端、何の面白みも無いフィラメントが白熱しているだけの光が無数に浮かび上がる。
「メリークリスマス!」
「メリ~クリスマ~ス!」
女と杭が同時に叫ぶ。
安物故に点滅といった機能は持ち合わせておらず、ただ光るばかりの電飾では雰囲気も何もあったものではないが、1人と1本にはそれで充分らしい。
今まさに女と杭に『クリスマスツリー』にされている巨木は髭のように小さく生い茂った葉の下にある口からか細い息と体液らしき薄汚れた黄金色の液体を漏らしていたが、それも、1人と1本にとっては些細な問題で。
「いやぁ、我ながら良い出来ですね。如何せん電飾以外の飾りが《チェリーボム》くらいしかないので少々味気ないですが、これはこれで趣があるという物でしょう。贅沢を言えば『スターモン』か『スーパースターモン』が欲しいところですが、この辺には居なさそうですし」
「他の『ゾーン』から持って来れば~?」
「『ジュレイモン』の方がそれまで持たないでしょう。残念ですが、夢幻とは擦ったマッチの火に一瞬照らし出される程度が一番美しいのですよ杭ちゃん。まあわたくし、『マッチ売りの少女』そんなに好きじゃないんですけどね。ほら、あのお話の主人公、絵本だと大概赤い頭巾を被っているじゃありませんか。赤い頭巾の子が酷い目に遭っているのを見ると心が痛むのです」
「狩人さんは~、本当に赤ずきんが好きだね~」
狩人、と呼ばれた女はもう一度巨木――『ジュレイモン』のクリスマスツリーを今度は遠巻きに眺めて、それから腕を、杭を持ち上げる。
もはや彼女の目に映る『ジュレイモン』は、興味の対象ではなかった。
「杭ちゃん、本日はクリスマスらしくブッシュ・ド・ノエルを用意してみました」
「クリスマスツリーと兼用だなんて~、なんだかお得な感じだね~」
「料理は見た目も楽しむ物ですからね」
事実上の死刑宣告に、『ジュレイモン』の洞の瞳がぐらぐらと揺れた。
この『ジュレイモン』は通常個体。いわゆるこの世界では原始的な、理性の無い『怪物』の類に過ぎないが、それでも命持つ者として生み出された以上は備わっている恐怖の感情が、突き付けられた杭の切っ先を前に泡のように膨らんでいて。
最も、もはや彼に足の役割を果たしていた何十もの根を動かすだけの力は既に無く、腕に至っては、その全てが剪定された枝のように辺り一面に散らばっているのだが。
だが――女はやはり、『怪物』の心情など気にも留めない。
ぱきり、と『ジュレイモン』の腕だった物のうちひとつを踏みつけながら、彼女は杭を構えた。
「いっただっきま~す」
間延びした声が、食前の言葉を形作る。
その瞬間から、女の動作には遊びも一切の無駄も無かった。
滑るような足運びから繰り出された杭を用いた正確無比な一閃が『ジュレイモン』の幹を貫き、『怪物』達にとっての心臓――『デジコア』を砕く。
搾りかすのような断末魔が絶える頃には巨木の影は跡形も無く消え去り、唯一女の足元で、電飾が相も変らぬ明滅を繰り返すのみだった。
「ごちそうさまでした~」
「どうです? 美味しかったですか、杭ちゃん」
「うん~。思ったより硬かったけど~、その分『ウッドモン』よりもいい感じだったよ~」
「それは行幸。ここまで足を伸ばした甲斐があるというものです。さて……」
女は顔を上げる。
眼前には鬱蒼とした森が広がり、しかし木々の隙間から時折標札や電柱といった人工物が規則性も無く付き出している。女が今しがた利用していたコンセントにしても、木の枝からぶら下がっていたような代物だった。
そんな、精神を病んだ人間が描いたかのような現実味の無い森の風景に、低い羽音が、響き渡る。
「デザートと前後してしまいましたが、メインディッシュの続きが来たようですよ、杭ちゃん」
「昆虫型か~。高タンパクだね~」
「栄養分としてはあなたの身体に鉄以外の物が必要だとはとても思えませんが、昆虫、あれでいて美味しいらしいですね。よかったよかった。ライトトラップ作戦も無事功を制したようで」
「『ジュレイモン』は一石三鳥だったのか~。お得だね~」
改めて、女は杭を胸元で構える。
そうしながら、彼女は彼女を包む森の景色をもう一度眺めた。
女は杭の食事の際に一瞬だけ訪れる、『怪物』の居ないこの世界の景色が好きだった。
そんな、女にとっての美観を損ねるようにして、次の瞬間。暗い緑色を突き破り、赤い大顎が彼女の首目掛けて突っ込んでくる。
「……やれやれ」
女は杭を持っていない方の手で、巨大な赤いクワガタの顎の先を掴んだ。
彼女はそのままなお直進しようとするクワガタ――『クワガーモン』を身体を捻って自身の背後へと叩きつける。軽い地鳴りと共に、女が持っていた方の顎は無残に折れ、予想だにしなかった衝撃を今だ理解できない昆虫の頭は、ただぎちぎちと無残な音を立てながら各関節に対してあがくような蠢きの指示しか出せずにいた。
そしてそれ以上の事を、女は許容しない。
今度は『クワガーモン』の胸に飛び乗ったかと思うと、女は『ジュレイモン』の時同様、杭の一刺しで『クワガーモン』の『デジコア』を破壊する。
「行きましょうか杭ちゃん」
比較的よく見つかる獲物故か、先程のように味の確認等はしなかった。
杭の方も、「うん~」とやはり間延びした声で、女に同意する。
「美しい景色に、美味しい食事。わたくし達のクリスマスは完璧ですね」
「いつもと変わらない気もするけどね~。確かに、ごはんはおいしいけど~」
「では我々の日常は常に特別な日のように素晴らしいという事でしょう。良い事です。それはいかなるクリスマスの贈り物よりもかけがえのない尊いものだと言っても過言ではありません」
「なるほど~。良い事言うね~、狩人さん~」
「でしょう?」
杭と話ながら、女は足を進める。
夜の森は暗いが星座を描かない星々はその分眩く、やはり彼女の目に映る世界は、彼女にとっては、よきもので。
「さあ、観光を続けましょう」
女は微笑んだ。
杭の他には、『宿』で彼女達の帰りを待つ家政婦にしか見せない笑みだった。
*
この世界――『デジタルワールド』が生み出されて、もう十数年程になる。
各々の目的を持って訪れる者は後を絶たないが、それでも観光客は、相も変わらず1人と1本だけだった。
第1話あとがき
か わ い い ア ン ド ロ モ ン は お 好 き で す か 。
というわけで、こちらでご挨拶と言う形の投稿でははじめましてとなります。快晴という者です。何卒お見知りおきを。
本作は数分前に投稿したばかりだと思われる前作『デジモンプレセデント』とはがらりと雰囲気の変わった、変わってると思う、多分変わっている感じの作品となっております。チート気味女主人公と喋る杭、そしてイケメン(重要)少年によるハートフル観光物語『0426』第1話、いかがでしたでしょうか。
Twitterの方でちょっとした予告的な物は投げたのですが、本作は元々自分が数年前にオリジナル小説として書いていた作品を、デジモン小説としてアレンジし直したものとなっています。
なので、『デジモンアドベンチャー02』の最終回後の世界をモチーフにした『デジモンプレセデント』と比べるとどうしてもオリジナル色が強く、作者としても好き嫌いが別れそうかな、というのが1話を書いてみての感想です。
もちろん前作同様登場するデジモン達の特徴は大切にしていきたいと考えていますし、前作と繋がりが全く無い訳では無いのですが、まあそれはまた追々……今はただ、読んでい下さった方々に少しでも楽しい時間を提供できていればと、そればかりを祈りつつ戦々恐々としております。お手柔らかにお願いしますね……?
さて、次回予告です。
次回はいわゆる説明パートとなります。『この世界』こと『デジタルワールド』とは何なのか。女の強さの秘密とは。そして、少年のお名前と目的とは? あたりが適度に明かされる予定です。
完結済みの状態で投稿していた『デジモンプレセデント』と違い、今作は書き次第投稿という形なので明確に次はいつ、という提示は出来ませんが、なるべく短いスパンで投稿できるように頑張りますので、どうか今後とも『0426』をよろしくお願い申し上げます。
夕刻。
「いってらっしゃいませ」と手を振る赤ずきんに背を向け、女は『宿』の庭――季節感をまるで無視した花々が咲き乱れるこじんまりとした空間の中心に置かれた丸い石に、昨日入手したばかりの『鍵』をかざした。
途端に女と杭を囲む風景がぐるりと渦を巻き、気が付いた時には、景色が一変していて。
「……ほう」
砂。一面の砂。
感嘆と共に、「砂漠に呑まれた街」という印象が、女の脳裏を横切った。
家々の骨組みが半ば砂に沈み込んだ風景は、人間が滅んだ世界という題材で作られた欧州の映画のワンシーンのようで、地平線上に落ちかけている夕日が、それらの全てを赤く色づかせている。
「きれいだね~」
「ええ。この時間帯なら活性化している個体もまだ居ないでしょうし、景色もゆっくり楽しめそうです」
女は『怪物』の居る風景――正しくは自分と杭、そして赤ずきん以外の生命体が闊歩している風景を基本的に好まない。
故に、彼女が今しがた述べたように、夜間により活発に動き回るようになる『怪物』と少しでもエンカウント率を減らしたければ昼間に行動すれば良いのだが、そうなれば『彼ら』を主な食物としている杭の食事が疎かになる。
そういった理由に加えて単純に女が昼間に行動したがらないというのもあり、1人と1本の観光はいつも夜間に始まり、だからこそ新たな『ゾーン』の下見の時間を設けるための夕刻の出発は、女にとって貴重といえば貴重な自身が主に楽しめる機会ではあった。
「でさ~、狩人さん~。この『ゾーン』はどんなごはんが出てくると思う~?」
「まさしく花より団子の精神ですね杭ちゃん。砂漠……となるとやはり『トゲモン』や『スコルピモン』を想像してしまいますが、それだと系統的には昨日の『ゾーン』と変わらなくなってしまいますね」
「あ、ミイラみたいなやついるかな~?」
「『マミーモン』ですか。居るかもしれませんね。そういえば『向こう』の世界においてミイラは漢方薬としても使われていたそうですが、杭ちゃんにも効くんですかね?」
「どういう効果のお薬だったの~?」
「……長生き?」
「それは生き続けてみないとわかんないな~」
雑談をしながら周辺を探る女と杭。荒れ放題、という表現がしっくりくる代わりに周囲の見通しはけして悪くは無い。道と呼べるのかは判断しかねたものの、逃げ回った末に袋小路の行き止まり、といった顛末を迎えそうな狭い路地も無かったので、「とりあえずは心配な点は無いですかね」と言って、女は近くの瓦礫に腰を下ろした。
「砂地での戦闘はあまり経験が無いのですが、まあ、今のところ歩行には困っていませんし大丈夫でしょう」
「でも慢心してぼくの事落とさないでよね~? 砂まみれは嫌だよ~?」
「落としはしないと思いますが、砂まみれにならない保証はしかねますね。激しい動きの『怪物』が出ただけで、靴の中とかジャリジャリになりそうなんですが」
「砂漠ですっごく動く『怪物』って~、例えば~?」
「そうですね……」
その時だった。
雷のような轟音とともに地面が揺れ、砂の地面が脈を打ち、同時にやや遠方で廃墟の一つが崩壊し、砂煙が噴出したのは。
「……スフィンクスとか?」
「むしろあんまり動かなさそうじゃない~?」
1人と1本は動じなかった。
ただ、女の方は軽く首をかしげる。
振り返れば太陽はまだ赤い顔を覗かせていて、『怪物』達が本能に身を任せて暴れまわる時間帯にはまだ少しだけ早いのが解った。
自分と(肩書上は)同じ探索者の仕業かとも思ったが、日も暮れていないのにわざわざ派手な方法で周囲を爆破する必要性など、計画性が常に瀕死状態の女にしたって思い至る事は出来ず。
数秒ほど考えた後
「行ってみますか」
「だね~」
と、興味本位100%なのが傍から見てもよくわかるような調子で、女は杭を持ち直し腰を上げた。
光を伴わない雷鳴と派手な砂煙は若干位置を変えながらも場所を変える事はせず、連続して立上がっている。
探索者の仕業という考えは、近づくごとに女の頭から消えていった。
「砂まみれ、やはり避けられなさそうですね」
「ま~この場合仕方ないや~」
女は透明な安全メガネを取り出し、装着する。念のためにと常に携帯している物だ。
「次来るときは防塵マスクも持ってきましょうかね。……しばらくお喋りはできませんが、悪しからず」
「は~い」と杭が返事をしたのを聞いてから、女は杭を持っていない右手で口元を抑え、砂の爆心地へと駆け始めた。目的の場所に近づくにつれ細やかな粒子の大群が容赦なく視界を奪い、質量を持った爆風が叩きつける中、ゴーグルで防護した女の目が赤い羽ばたきを捉えた。
砂塵をものともせず、むしろ切り裂くように滑空しながら、角の生えた赤い巨鷲がリング状の光線を執拗に地面に浴びせ続けている。
雷だと思っていたものは、この『怪物』が光線と共に放っている鳴き声だったのだ。
『アクィラモン』。成熟期の巨鳥型『デジタルモンスター』だ。
空を主戦場とする『怪物』は女にとっても厄介な存在ではあったが、『アクィラモン』の鋭い眼光は未だ女には向けられておらず、好機は今しかないと彼女は判断する。
すぐ傍に、地面に突き刺さった鉄骨があった。
砂地を強く蹴り、女は空中で身体を捻ると鉄骨の先端、その側面に一瞬の着地をして、そのまま重力に捉われるよりも速く、さらにその一時の足場を蹴り飛ばした。
跳ね上げられた身体が矢となり、その中でも左手に掲げられた杭が矢じりとなって、『アクィラモン』の胸を貫こうとした。
の、だが。
「!」
直前。
本当に寸分の差だった。
事実として杭の先はわずかに『アクィラモン』の脇腹を掠めはしたものの、女の一撃が自身の芯を捉える直前に『アクィラモン』はその場で一回転し、彼女の攻撃を回避したのだ。
そうして、今度こそ重力に逆らえず落下し、しかし何事も無く、それから音も無く女が砂の上に着地した頃には、あれほど光線を連発していたとは思えない程あっけなく、『アクィラモン』は夕日が沈む方向へと飛び去って行くのだった。
「……」
「追わなくていいよ~、狩人さん~」
「?」
残された砂煙にまだ口を開けずにいた女に、杭が声をかける。
「なんかね~、ちょっとだけ食べれたんだけど、あの鳥さん~、あんまりおいしくなかったの~」
「……?」
珍しい感想だと、女は思った。
杭が『食べ物』の硬度や量に不満を述べる事はあっても、味に対してそう言った事を言い出すのは、少なくとも女に覚えのない事であった。
「だから~、別にいいや~」
しかし他ならぬ杭の言葉だ。女に無碍にする理由は無い。
しばらくの間だけ、原因が断たれた事によって砂煙が薄くなりゆくのを見届けてから
「まあ、それに越した事はありませんね。杭ちゃんが気に入らない以上、わたくしも無理をして空の獲物を相手したいとは思いませんから」
と、そう答えた。
……その頃には既に、『アクィラモン』は女の目でも確認できない所へと姿を消していたのだが。
「しかし、何だったのでしょうね」
改めて、女は『アクィラモン』の消えた方角を見つめる。
最も目を向けているのは、もはや影も形も無い『怪物』ではなく、赤々とした太陽であったが。
「通常では無い時間帯に派手に暴れてたた割に、逃げる時はひどくあっさりでしたし」
「確かに~、ちょっと変だったよね~。……もしかして~赤ずきんと一緒の『理性持ち』だったのかな~」
「いくら基本カラーが赤色でもそうは思いたくないですね。まあ、何事にも例外はあるものですよ杭ちゃん。こんな何も無いところで『必殺技』を無駄撃ちするような輩が赤ずきんちゃんと同類だとはわたくしとても」
かたり、と。
本当に、本当に小さな音だった。
だが、不意に背後から拾ったその物音に、女はほぼ反射的に杭を握り直し、後ろに対象がいれば確実に刺せる勢いで突き出しながら振り返る。
結果として、杭には何も刺さらなかったが。
しかし『アクィラモン』がけして理由も無く暴れていた訳では無かったということは、女にも理解する事が出来た。
「ひっ」
そこに居たのは、1人の少年だった。
歳は多めに見積もっても精々が10代半ば、といったところだろうか。怯えているせいもあって顔にやや幼さが目立つが、顔つき自体はギリシャの若い英雄の像を思わせる精悍さを携えており、金髪碧眼という貴族的な特徴も相まってかなり目を引く容姿をしている。
砂に埋もれかかった瓦礫から這い出ている最中、という事もあって、若干、情けない事になってはいるが。
「……」
女は青年に向けた杭を1ミリも動かすことなく構え続ける。
構え続けているものの、脳天には疑問符が浮かんでいた。
『アクィラモン』――この際種類はさて置き、夜を待たずに『怪物』が暴れていた事については先に口にした「何事にも例外がある」が答えとして女に納得を与えてくれた。
しかし目の前の少年については、そうではない。
自分以外の人間を『デジタルワールド』で見かける事に関しては、女も何も不思議には思っていない。そういった輩は何人も居たし、その半数以上とは諸々の事情で敵対し、その全員が既にこの世を去っている。
女が首をかしげているのは、自分が杭を、『武器』を向けているのに、何故この少年は何もしてこないのかに対してだ。
さらに言うのであれば、何故、こんなにも怪しい少年に対して、自分は杭を向けるだけに留めているのか、という自身の行動に対してだった。
「……顔」
一瞬悩んだ末、女は少年に対する第一印象を思い返す。
女は杭を下げはしたものの構え自体は解く事無く青年へと歩み寄り、膝を折った。
そのまま彼女は安全メガネを外して作業着の襟にひっかけると、空いた右手で怯える青年の両頬をぐい、と掴み自分の顔付近へと引き寄せた。
「!?」
姿勢が姿勢なだけに抵抗も出来ずに、恐怖と混乱の混じった瞳で女を見上げる少年の感情にはこれっぽっちも興味を示さずに、ただただ、女は少年を見つめて――
「顔が、良い」
そう、結論付ける。
「……は?」
言うが否や、女は少年の顔から手を離し、同時に、杭を握り締めた左手の構えも解いた。
「!」
状況がさっぱり理解できない、と心情を代弁するかのように見開かれた少年の瞳は、間近で見るとより一層際魅力的で。
浅く、そして透き通った暖かい海を空から見下ろしたような、紺碧の瞳だと女は思った。
「良かったですねイケメンの坊や。貴方が萎れた老人とかだったら多分、勢い余って殺していた事でしょう。貴方にイケメンDNAを受け渡したご両親に心の底から感謝して、貴方自身の若さを全身全霊で喜びなさい」
少年は身震いする。ふざけたような言葉の羅列だが、その抑揚には誇張も、冗談の気配も何も無かった。
容姿や年齢、それから女の気分次第では、自分は確実に殺されていたのだろうと、そう理解できる程度には。
対する女は少年の恐怖心などまるで意に介さず、というか、どうして少年は何も喋らないのだろうと普通に考えれば当たり前のような事に新たな疑問を抱き始めていた。
そして女の相方である杭の方も、察したのは女の内心の方であって。
「言葉、通じてないんじゃないの~?」
「へ? いやそんな……いえ、日が沈む前に『怪物』が暴れていたくらいですし、そのくらいはあり得ますか。しかし困りましたね。わたくし、フランス語はさっぱりなのですが」
「? フランス人なの~? この人~」
「杭ちゃん、こういう金髪碧眼のイケメンはフランス人だと相場が決まっています。わたくしが見た外国人が出てくるアニメーションやゲームの金髪碧眼イケメンは大概がフランス人でした。だからフランス人かと」
無茶苦茶な理屈だが杭は納得したらしい。「狩人さんすごいね~。探偵みたいだね~」などと言い出す始末である。女の方も女の方で、妙に得意げだ。
一方少年は自分がフランス人では無く、女と杭が話している事も全部伝わっていると、どうしても言いだせずにいた。
下手な事を言って機嫌を損ねれば、自分はまたしても命の危機にさらされると恐れているのだろう。震えの止まらない身体を押さえつけるようにしながら、かろうじて困惑と敵意の無さだけは伝わるようにと、碧い瞳に感情の全てを込めて女を見つめている。
「? 寒いんですか?」
そして残念なことに、女は少年の眼から何も読み取らなかった。
「寒くは、ない、かなぁ……」
思わず恐怖の感情を呆れが上回り、少年は体感温度に関する感想を口に出す。
それを聞いた女は2、3回目を瞬かせた後
「ボンジュール」
と、発音などこれっぽっちも気にしていない調子で突然少年に挨拶した。
「な、なんでフランス語の挨拶を……?」
「いえ、こちらがフランス語を話せないのを見抜いてかろうじて知っている日本語で話しかけて来てくれたのかと思いまして。これは気を使わせてしまったなと思いこちらもかろうじて記憶にあるフランス語を口にした次第です」
「なんでかろうじて知っている日本語が「寒くはない」なんてピンポイントな気温に関する言葉だと思うの!? 知らないよ日本語の「寒くない」だなんて! ……うっ? なんだか俺今すっごく気持ちの悪い言葉の使い方したような……。俺、今何語で話してるんだ……?」
と、ここで女と杭が顔(最も杭の場合は顔など無いので、女が見ているのは今現在彼女の小指の隣にある杭の丸くなっている箇所なのだが)を見合わせた。
少年はハッと我に返る。
勢いでまくし立ててしまった相手が、ちょっとしたことで自分を殺しかねない人間と、何故か言葉を話す杭だと、一瞬とはいえ失念してしまっていたのだ。額から一気に嫌な汗が吹き出し、頬が青ざめていく。
だが、意外にも女から返ってきたのは
「貴方、この世界について少しでも理解していますか?」
という、本当にごくわずかながらも、しかし確かに心配らしきものを含んだ問いかけで。
「……?」
だが少年には、女の質問の意味が解らない。
少年はこの世界に関して、たった1つの情報しか持っていない。
それ以外の事は、何も解らない。何も知らない。
この世界に関する「少し」など、彼はひとかけらも理解せずにここに来た。
故に、何を答えていいのかさえ、解らないのだ。
「……」
「……」
沈黙。今度は互いに、困惑を理由に。
それを破ったのは
「つまり君ってばさ~、迷子ってやつなの~?」
杭の間延びした推測で。
「……えっと……」
迷子のつもりは無かった。
彼は彼で、確固たる目的をもって『デジタルワールド』を訪れており、その点においては女と杭を除く全ての『この世界』の探索者達と少年は何も変わらない。
だが事実として現実として、少年はここがどこなのか解っていない。
一体、どう答えるべきなのか。
……そう悩んでいる内に、先に女が少年の手を素早く取ると、瓦礫の隙間から引き摺り出して、そのまま立上がらせた。
「!」
「ここからまっすぐ進んだ所にわたくしの膝程の高さしか無いピラミッドがあるのですが、それがこの『ゾーン』における『ポータル』……まあ扉のようなモノです。そこに此処に来るときに使った『鍵』をかざせば、元の世界に帰れる筈です。早く行った方が良いですよ。もうすぐ陽が沈みますから。……では」
方向だけは指示してから、女は少年を置き去りにして自らが指した方角とは真逆に歩き始める。
「へ~、いつになく親切だね~狩人さん~」
「あれですね。いわゆるイケメンパワーというやつでしょう。何にせよ力とは正義ですから。しかし杭ちゃん、我々迷子を助けるという善行を積んだので、きっと本日の観光は良い事があるに違いありません」
「じゃあおいしいやつに会えるかな~?」
「ええ、もちろん。『アクィラモン』など前菜どころか準備運動に過ぎません」
「えへへ~、やった~」
「ちょ――ちょっと待って!」
談笑しながらずんずん進んでいた1人と1本を呼び止める声。
振り返れば、出口を教えたはずの少年が、出口とは真逆――つまり女と杭の方へと駆けて来ていて。
「どうしたの~? 忘れ物~?」
追いついた少年は、息を切らしながらも杭の問いかけに首を横に振る。
「俺、俺……姉さんを探してるんだ。姉さんがいるって聞いたから、この世界に来たんだ」
「「姉さん」~?」
今度は少年は、首を縦に。
「言わなきゃいけない事があって、それで……」
「とりあえず落ち着いて下さい。急に姉とか言われましても。何ですか? 何か知っている事は無いかと、わざわざ聞きにきたのですか?」
もう一度、少年の首が縦に振られる。女に対する怯えはまだ残っていたものの、少年が碧い目を通して向ける真剣みと熱気には、流石に気圧されるものがあったらしい。ちらり、と一瞬半分ほど姿を消した太陽に目をやってから「手短になら、聞きましょう」と諦め交じりに応答した。
「で~、どんな人なの~? お姉さんって~」
しかしここにきて、少年は言葉に詰まる。
女からこの世界――『デジタルワールド』について問いかけられた時と、同じように。
つまるところ、少年はやはり、何も知らなかった。
「イケメンの坊や?」
「え、あ、ええっと……歳は、19歳だったはず」
「ふむ。わたくしより少し下くらいですか。外人の見た目年齢はよく判りませんが、生きていればそのくらいになったかもしれない金髪碧眼女性なら今までに何人か片付けたような」
少年は息を飲む。女があまりにも事も無げに言うのが、余計に彼の肌を泡立たせた。
だが、もちろん女は気にしない。
「で? 他に特徴は?」
と問いかけるのだったが――今度こそ、少年は何も言えなくなってしまった。顔を赤らめ、唇を固く結んでいる。
知らない事を恥じるように。知れない事を悔やむように。
しかし困ったのは、それ以上に事情を知らない女の方である。
もうすぐ本格的に杭との観光を始めようというこの時間を、見ず知らずの無知な少年に煩わされているという事実に、女は少なからず不満を覚え始めていた。
いっその事、『怪物』が現れる前に目の前の少年も片付けてしまおうかと思い始めるが――しかし、いざ杭を向けようとしてみると何故か躊躇が込み上げて来て、さらに少年の瞳を見ていると、その感情がより顕著になるのだった。
と、その時。
「ぼくらもその~、君のお姉さんについてはよくわかんないけど~、狩人さんさ~、この子に『デジタルワールド』について教えてあげたら~?」
杭が、そんな事を提案してきたのだ。
「え?」
今回は、女が呆けた声を出す番だった。
「え? 杭ちゃんどうしました? 本気で言ってます?」
「なんとなくで言ってるよ~。でもなんかさ~、ちょっと気になるんだよね~この子~」
「しかし、それだと今日の観光は……」
「昨日いっぱい食べたからさ~。我慢しても、いいかな~って」
女は自分がぽかんと口を開けている事にすら気付かないようだった。なにせ杭が食事を優先順位の1番上から移動させることなど、それこそ、今までに無かったのだから。
何よりも、「気になる」という表現が、女の中で引っかかった。
気になる。
つまるところ、女が少年に抱いている違和感と同じものを、杭もまた感じているというなのだから。
女は改めて、少年の方を見やる。
金糸の髪に紺碧の瞳。整った顔立ちに健康的な身体つき。
だが、それだけだ。
見てくれが多少良いからと言って、女にとって少年もまた、風景の中の異物には変わり無い。確かに少年は今まで女が片付けてきたどの異性よりも優れた容姿をしているが、だからと言って『観光地』の景色よりも美しいとは思わない。
なのに、わざわざ殺してまでその場から消したいとは考えられなかった。
自分でその場から居なくなってくれればいいのに、程度がせいぜいだった。
「……」
目を細め、朝、鏡を見る時のように、どこかに間違いを探すようにして少年の頭のてっぺんからつま先までを眺める女。
しかし出会ったばかりの彼に『間違い』を見出すことなどできるわけも無く――そして、それ以前に出す答えなど、杭が提案した時点で決まっていたようなものだった。
「イケメンの坊や」
何度か呼ばれるうちに、少し嫌気がさしてきたのだろう。女からの呼び名に少年はやや不服そうで、しかしだからと言って変更を要求するほどの度胸は宿らず、若干顔をしかめて訴えるように女の眼を見上げるに留めている。
やはり、女はそんな感情など読み取ろうとすらしないのだが。
「陽が沈むとですね、先程のような『怪物』が、いやまあ、姿はそれぞれですけれども、より多く現れるようになります」
「さっきのよりも強いやつもね~」
またしても少年の顔から血の気が引いた。
そもそも女と杭が彼を見つけたきっかけも、少年が『怪物』に襲われていたからに他ならない。
「なので、とりあえず安全地帯に移動してから貴方の話を聞くことにします。とはいえ『ポータル』に着くよりは先に日没を迎えるでしょう」
「あ、じゃあちょっとくらいは何か食べられるかな~?」
「そのくらいはさせてみせますよ杭ちゃん。……まあ、とにかくイケメンの坊や。話したい事があるのならば、わたくしからはぐれないように」
はぐれた場合見捨てるとまでは言わなかったが、ただ単に言わなかっただけだというのは少年にも解り切っていた。それでも、女の態度が少なからず軟化したことを好機と捉えたのだろう。彼は女の眼を見て大きく頷いた。
「何なら背負いますが、どうしますか?」
「それはいい」
「青くなったり赤くなったり~、おもしろいね~」
ころころと笑うように言う杭に、少年の顔は耳まで赤く染まった。今回は本当に単純な、年相応の羞恥心からくるものだ。
いくら命がかかっていても、あるいは女の冗談に過ぎないとしても。年上とはいえ女性に負われるのを考える事すら思春期の男心が許さないようで。
当然そういった精神に理解の無い女は肩をすくめるだけすくめて、ほとんど何の前触れも無く彼女は砂地を蹴った。
「!?」
慌てて少年も走り出す。反応こそ遅れたものの、追いかける背中は大きく距離を空ける事なく少年の前にあり、彼はその事に胸を撫で下ろした。最も速度に関して女はかなり手を抜いているのだが、少年には知る由もない。
だが少年の安堵も、そう長くは続かなかった。
遠くの砂山のさらに向こうに太陽が消えた瞬間、黄昏時を切り取るように、一瞬で夜の帳が下りたのだ。
「ひあっ」
突如暗転した世界に思わず声を上げる少年。それからほとんど間を置かずに、上がる声は悲鳴へと変わった。
先ほどまでそこには居なかった筈なのに、砂の故を悠々と歩く黒光りする鎧に似た皮膚を持つ四足歩行の竜。
あろうことか2本の足で立ち上がり、こちらへと振り返る赤いパンチグローブを付けたサボテン。
そして、さらさらと砂を零しながら地中から身を起こす、白い骨を組み合わせて作ったようなサソリ。
そのどれもが、少年の知る生物と比べて遥かに、大きい。
そんな様々な姿の『怪物』達が、夜の訪れと同時に姿を現し――そのどれもが例外無く、殺気立った目で女を、そして少年を睨みつけていた。
「わ~。狩人さんの言う通りだったね~」
ただし変わらずに杭の間延びした声はあまりに呑気で、女はそんな杭と少年とを対比して少しだけ、可笑しそうに微笑むのであった。
「『モノクロモン』も居るのは行幸でしたね。竜系統は前の『ゾーン』では見かけませんでしたから……っと」
まずは、と、道を塞ぐサボテン――『トゲモン』の方へと、向かいかけて。
しかし女は不意に姿勢を低くすると、地面に杭を突き刺して立ち止まった。
女の居る場所には、丁度、あまりにも場違いな色とりどりのバルーンが風に揺れていて。
杭が地面を穿った瞬間、それらは夜空へと昇って行った。
「ひっ」
少年が更に息を飲んだのはその後だ。
砂から引き抜かれた杭には、見た目だけは愛らしい黒みがかった毛皮を持つ獣の頭が刺さっていた。
ぶん、と勢いよく女が杭を振ると、その勢いで獣は杭から抜け、飛ばされ、地に落ちるよりも前に砂漠の砂よりも細やかな粒子に変わっていった。
「『オポッサモン』も居るみたいですね。これは中々種類が豊富である予感。さながらバイキング形式といったところでしょうか」
「わぁ~、それは楽しみだね~」
あくまで軽い調子で今後のディナーの予定を語らいつつ、女は動くのを止めなかった。
サボテンらしく全身から生えた無数の棘を今まさに女の方に飛ばそうとしていた『トゲモン』の前へと大きな一歩で躍り出ると、女は杭を、斜めに振り上げる。
先端こそ尖っているものの、それ以外の部分は円筒形に過ぎない筈の杭が、まるで彼自身が刃であるかのようにトゲモンの胴を真っ二つに切り裂いた。
文字通り『開けた』視界に、女は顔を上げる。
残りの『怪物』達が寄ってくるまでの、一瞬の間。
生き物の影を切り取ったその『世界』には、星座の無い星空と、暗い砂の海と、その中に浮かぶ島々のような鉄骨の塊が並んでいた。
「きれいだな」
普段の口調も忘れて、女はぽつりと、呟いた。
1話
『デジタルワールド』は基本的に『怪物』――『デジタルモンスター』達のための庭であったが、何事にも例外は存在するもので。
女が拠点と定めているのもその内の1つであり、彼女が『宿』と呼ぶそこは、そういった例外の中でも群を抜いて安全度の高い場所であった。
最も『宿』の、正確には『宿』周辺を含む『ゾーン』の「『怪物』が出現しない」という特徴は当然のように誰もがうらやむモノであり、それ故に女は『怪物』以外の敵を作りがちではあったが、今のところ、「殺してでも安全な場所を奪い取りたい」という有象無象の彼ら彼女らの願いは叶った試しが無く。
昨夜ふと脳裏を過った「殺したような殺さなかったような知らないジジイ的な輩」とはそういった類だったのではないかと、寝起きの女は寝ぼけた頭でそんな事を考えた。
考えただけで、1人残らず既にこの世を去っている彼らの事を、思い出そうとすらしなかったが。
「……おはようございます杭ちゃん。起きていますか?」
返事が無いので未だ睡眠中であると判断し、女は杭を枕元に残して起き上がる。窓の方を見やると、日は想定よりもかなり高く昇っていた。
「寝過ぎた……」
予定などある筈も無く、そもそも日中のほとんどを睡眠に費やす女ではあったが、夜更かしが想像以上に大きく響いたという事実が、女の眉間に若干の皺を生じさせていて。
「やっぱり20過ぎたらダメだな……ねっむ。しんど。やだわー歳には勝てないわーいつまでも若くないってかーやだわー」
普段の丁寧な口調を置き去りにし、眠気を振り払うように妙なテンションでひとりごちる女。杭を起こさないように声量自体は押さえているが、それが余計にくたびれた感を演出してしまっている。
女もそれに気づいたのか、誰が見ているわけでもないのに軽く肩をすくめると、本当に何事も無かったかのようにすたすたと歩き始め、自室の扉を開けた。
開けた先には、『アンドロモン』が居た。
昨晩のクリスマスツリー兼ブッシュ・ド・ノエル兼ライトトラップであった『ジュレイモン』と同じく、完全体と呼ばれるクラスに位置するワクチン種のサイボーグ型デジモン、『アンドロモン』。
「人間に似た物」の意を持つ名前に相応しく、形だけは確かに人型をした、しかしとても人らしいとは言えない所々に筋繊維を剥き出しにした鉄の装甲の『怪物』が、けして背が低い方では無い女の事を彼女の約2頭身分程上から見下ろしていた。
頭には赤色の頭巾が被せてあり、その影から覗くぎょろりとした目玉が、キュイン、という音と共に女へとピントを合わせる。
そして
「猟師様」
見た目通り機械的ではあるものの、女よりも遥かにやわらかな印象のある女性的な声が、彼女に向けて、発せられた。
「おはようございます、猟師様。お目覚めの所恐縮ですが、大変なのです」
『アンドロモン』。
女の命名によって決まった個体名で表記するのであれば、赤ずきん。
彼女(厳密には『怪物』に性別など存在しないが、女はひとまず声音から判断している)こそ、女の身の回りを世話するこの『宿』の家政婦である。
「おはようございます、赤ずきんちゃん。どうかしましたか?」
何故赤ずきんが自分の部屋の前にいるのか。
先ほどのくたびれた独り言は思いっきり聞かれていたのか。
それはそうとして赤ずきんは何故今日も今日とて愛らしいのか。
3つの疑問が瞬く間に女の脳裏を駆け抜けていったが、一つ目については泳がせた視線が捉えた、赤ずきんが胸元に押し付けるようにして持っている靴下によって見当がついた。
「あの、あの。……朝起動したところ、これが枕元にあったのです」
雪の結晶が描かれた、緑色の厚手の靴下。つま先部分がやや膨らんでいるのだが、赤ずきんはどうやら、その事には気づいていないらしい。
よっぽど慌ててやってきて、しかし女が睡眠中であることを知って、そのまま部屋の前で待機していたのだろう。
「この靴下は、赤ずきんのものではないのです。だから、もしや、もしや赤ずきんは、猟師様の靴下を、よりにもよって片一方だけうっかりおふとんにまで持ってきてしまったのではないでしょうか……? だとしたら赤ずきんはなんてことを。赤ずきんはダメな家政婦だとは思っていましたが、今回の事は度が過ぎています。どうかお許しを猟師様。ああ、お恥ずかしい、お恥ずかしい……」
「……あー」
困っている赤ずきんを、ずっと眺めていたい。
一瞬。ほんの一瞬そんな気持ちが過ったものの、杭と赤ずきんとに対してしか発揮されない良心がすぐさまそれを咎めたようで、彼女は背伸びをすると左手でひょいと赤ずきんから靴下を取り上げ、逆さまにして中身を自分の右手の上にあける。
落ちてきたのは、白く透き通った花飾りのついた、ブローチだった。
何を隠そう、女の夜更かしの原因である。
「……?」
が、それを知る由も無い赤ずきんは小さく首を傾げ、しばらくその大きな目玉でブローチを凝視する。
「どうして、そんな物が靴下の中に?」
「……」
「はっ。もしや赤ずきんは猟師様の靴下を部屋に持ち込むだけでは飽き足らず、寝ぼけて小物入れ代わりに」
「違います違います赤ずきんちゃん。これは、サンタクロースからのプレゼントです」
赤ずきんの予想が確実にあらぬ方向に向かっていくと判断した女は慌てて訂正の言葉を差し込む。
最も、女の台詞も、嘘と言えば嘘なのだが。
「……?」
赤ずきんの頭が更に横に傾いていくのをほんの少しだけ可笑しそうに眺めてから、女は改めて、口を開く。
ブローチを乗せていない方の手で、赤ずきんに身を屈めるように指示をしながら。
「赤ずきんちゃんが今年一年良い子にしていたので、持ってきてくれたのでしょう」
そう言って女は、『アンドロモン』の赤い頭巾、人で言うならばおよそこめかみのあたりに、白い花のブローチを留めた。
「ほら、良く似合っていますよ」
赤ずきんは、
しばらく、彼女がかがみこんだが故に少しだけ上に位置している女の顔を眺めて。
そのまま微動だにせず――数秒後。
ぽひゅん、とおかしな音と共に噴き出た煙が、頭巾と首のケーブルの隙間から立ち上った。
「赤ずきんにプレゼント。赤ずきんにプレゼントだなんて。……どなたかは存じませんが、猟師様には、猟師様にはその、センタクスーツ様から何か贈り物があったのですか?」
「サンタクロースですよ赤ずきんちゃん。個人的に、スーツは面倒でもクリーニングに出した方がいいと思います。最近は洗えるスーツとかありますけどね。……わたくしはもういい大人ですから。サンタクロースがプレゼントをくれるのは、基本的に子供だけです」
「では、杭様は。杭様はまだ幼いですよね? サンタククイズ様は杭様にも何かお届けになられたのですか?」
「おしいですが赤ずきんちゃん、サンタクロースです。女性への贈り物は高難易度の選択問題ですけれども。……で、杭ちゃんは、ほら。……あー、そうそう、生ものは届けてくれませんから。サンタクロース。お菓子と茶色い炭酸飲料がせいぜいでしょう。ただまあ、昨日の観光の最中は比較的杭ちゃんの好きなやつらが多く出てきましたから、そういったところにサンタの加護があった可能性は否定しません」
「えっと、えっと、では……」
再び数秒をたっぷり沈黙に用いて、その後赤ずきんの口から発せられたのは、
「このブローチは……本当に、赤ずきんがいただいても良いものなのでしょうか?」
どことなく、消え入るような印象のある声だった。
もちろん、と女は大きく首を縦に振る。
「いただくも何も、元々サンタクロースが赤ずきんちゃんに届けたものですから。所有権は貴女のものです」
『デジタルワールド』産の鉱石の加工や金具の取り付け。女にとっての慣れない作業は迷走を極めに極めたりしていたのだが、それでも。
「赤ずきんちゃんが喜んでくれて、そしてそのペンダントを大切にしてくれるのならば、きっと、送り主にとってそれ以上の対価は無いでしょうしね」
それでも、それは女の、嘘偽りない気持ちで。
「……」
なおも赤ずきんは、戸惑ったように何も言わなかったが――やがて、意を決したように、その気になれば刃とする事も出来る黒い右手の指で、そっとブローチに触れた。
「嬉しい、です」
ようやく女が耳にする事が出来た感想は、掠れていて、それでいてはにかむような、声色をしていた。
「……」
女の中で、
プレゼントを喜んでもらえて良かったという純然たる幸福感と
なぜサンタクロースのような老人ごときに「赤ずきんに感謝される」というおいしいところを譲ってしまったのかという悔恨の念と
何はともあれ赤ずきんは本日も最高に愛らしい、という事実確認がせめぎあう。
せめぎあった結果、最後のが勝った。
「あーもー赤ずきんちゃんはハイパー最強超絶可愛いのですからもー、あーっ、尊いーっ!」
ひょい、と自分よりも遥かに大柄な赤ずきんの胴を軽々と抱え上げ、女は満面の笑みでオルゴールの飾りのようにくるくると回り始める。
「わっ」と突然の事に声を上げる赤ずきんであったが、女の行動自体は割合日常的なものなのでいつものようにされるがままにされている。
最も、何故女が自分の事を「可愛い」と褒めるのか、そして何故抱え上げて回るのか。その理由については、赤ずきんはこれっぽっちも理解できずにいるのだが。
「可愛いー! 赤ずきんちゃん可愛いよー! わたくしの天使ちゃん! 結婚して! 結婚しよう! ステンドグラスの綺麗な教会で盛大な式を挙げて、出席者一同から莫大なご祝儀をせしめてお返しに2人の写真入りの皿とか相手が一生使わなさそうなものを送り付け――」
「うるさ~い!」
「うぐっ」
ごっ、と、眠気をはらんだ杭の唸り声からコンマ数秒遅れて、女の腰に厚手の本の角が猛スピードで激突した。
与えられた衝撃通りに前のめりになる女だったが、気合で数歩足を進める程度にとどめ、顔面に確かな痛みを訴えつつも、そこだけは丁寧に、赤ずきんを廊下へと降ろした。
「……おはようございます、杭ちゃん」
「う~。ぼくまだ眠かったのに~!」
「だからと言って、だからと言って本は、本はやめましょうよ杭ちゃん。図鑑の類ですよこれ? 普通に凶器、鈍器ですよ? ペンは剣よりも強しと言いますが、本は剣より強いペンが書き連ねた文字の集合体なのですから、もう、最強じゃないですか。投げるなら、あれです。何の、とは言いませんがそういった事務所によくあるガラスの灰皿とか、そういうのにしましょうよ」
「あの、猟師様。猟師様はお煙草をお吸いにならないので、そういうものはこの『宿』に置いていないのですが」
「赤ずきんちゃん、わたくしは「腰にものを投げつけないでください」をものすごーく遠回しに言っていただけなので、その辺はお気になさらず」
「狩人さんが騒がなきゃいい話でしょ~? も~」
ピンポイントに強打した腰を摩りながら、女は再びベッドの前へと引き返す。
枕の方を向いていたはずの杭の先端は、女の方へと向けられている。
魔法使いの杖のように、対象へと。
「まあ、こちらも謝りますが杭ちゃん。……そうそう。おはようございます、とは言ったものの、もう昼前なのですよ」
「いくら昼前でもあの目覚ましは嫌だよ~。せめて3日に1回の頻度はやめてよね~」
「善処します」
「狩人さん~、正直やめる気ないでしょ~……」
呆れたような声に対して女は答えず、ただ杭を左手で持ち上げた。そのまま改めて自室の扉を抜け、外で待機していた赤ずきんに、持ち出したばかりの杭を預ける。
「顔を洗ってきますので、2人は先に食堂で待っていてください」
「はい。……朝ご飯はどうしますか?」
「目玉焼きトーストで。昼は昨日の残りですよね?」
頷く赤ずきんに「じゃあ、それももう出しておいてください」と言って背を向ける女。先ほどとは打って変わって「待ってるよ~」と呑気にも思える声音の杭に軽く手を振って、彼女は自室から少し離れた洗面所へと足を踏み入れる。
冷たい水で顔を洗い、女は濡れた顔のまま歯を磨き始めた。
「……」
実年齢に2、3歳は余分な歳を足しかねない、若干白髪の浮いた肩までの黒髪。目つきはお世辞にも良いとは言えないが、そう悪くない(と、少なくとも女は自分でそう思っている)顔立ち。細さの割には肩幅の広い、筋肉はそれなりにある身体つき。
目を細め、見慣れているはずの自分に対して間違い探しでもしているように鏡をねめつけながら、女は身支度を整える。とはいえ今更着飾ることに興味など無い女が自身にかける時間など些細なもので、した事と言えば最低限の髪の手入れと寝間着からの着替えくらいのものだったが。
と、ジャージのズボンを脱ごうとしたその時、太ももに硬いものが当たっている事に気が付いた。
「ん? ああ、『鍵』……」
ポケットに手を突っ込んでまさぐると、中にメモリーカードの入ったうっすらと金色に輝く八面体が出てきた。
昨日の観光中に、獲物の内の1体から奪い取った、別の『ゾーン』へと繋がる『鍵』だ。
各々の『ゾーン』に設置されている様々な形の『ポータル』にかざす事によって、『デジタルワールド』の探索者達は他のエリアへの移動を行っている。
「忘れてた」
当然、寝間着のポケットに入れたまま忘れて良いようなものではないのだが、当の女と言えば、まるで赤ずきんの寝床に仕込んだ靴下のように自分にまで自演のクリスマスプレゼントを仕込んだような気分になって、『鍵』を片手にくすりと笑っているのだった。
それで機嫌を良くして一昔前に流行った映画のBGMを口ずさんだりしながら、女はいわゆる作業着と呼ばれる類の衣服に袖を通す。上下ともインディゴブルーで揃えられたそれらはほとんどまんべんなく茶色に近い染みがあり、服の種類のお蔭か違和感や不潔感こそ希薄だが、その汚れの由来が何なのかと考えれば常人であれば異様さを感じずにはいられないだろう。
最も、女が普段着に好んで作業着を選ぶのは、機能性故でもなんでもなく、ただ単に「なんとなくかっこいい」という理由しかないのだが。
着飾る事には興味が無いが、個人的なこだわり自体はあるようだ。
こうしていつも通りの身支度を終え、女は今度は忘れないようにと左手で鍵を軽く玩びながら、まっすぐに食堂へと向かう。
目的地の戸を開けた瞬間、チン、という音とともに、トースターから顔を出した食パンが彼女を出迎えた。
「おかえり~狩人さん~。今日も焼き時間ぴったりだね~」
「お待たせしました。嗚呼、ほら、杭ちゃん見てください。これ、昨日の『鍵』。危うく洗濯に出すところでしたよ」
言いながら、女は机に置かれた杭の隣に、件の『鍵』を差し出した。「スーツよりも洗っちゃダメなやつじゃないかな~」と呆れた調子の杭の言葉に、女は杭が案外早い段階で目を覚ましていた事を知る。
そのあたりで起きていたのなら、わざわざ辞書を腰にぶつけずとも口頭で注意すればよかったのではないか。そう思いつつ、しかし自分に非があるのも確かなので何か言おうか何を言おうかと迷っている間に、女の朝食と昼食を盆の上に載せた赤ずきんがやってきた。
「猟師さま、どうぞです」
「ありがとうございます赤ずきんちゃん」
結局、自分の前に2回分の食事を下ろす赤ずきんを眺めていたら全てがどうでもよくなった女は、とりあえず一緒に出されたココアを軽く啜ってから
「いただきます」
と、数秒前までの思考などまるで破棄して塩こしょうで味付けした目玉焼きの載ったトーストへと手を伸ばした。
と、
「あの、猟師様。この『鍵』は……」
という赤ずきんの問いに、女の手が止まる。
「あっ……すみません、お食事中に」
「いえ、構いませんよ赤ずきんちゃん。この『鍵』は昨夜、杭ちゃんの夕食を探していた時に偶然入手したものです。まだ、どこに繋がっているのかは確認していません」
「昨夜……ということは、トンコツスープ様からの贈り物ですか」
「随分とおいしそうな方面に思い切りハンドルを切りましたね赤ずきんちゃん。しかしサンタクロースです。久々に食べたいですけれども。豚骨のラーメン。……残念ながら、大人には来ませんからね、サンタクロース。これは偶然からの贈り物であって、赤ずきんちゃんの思うような、心温まるようなプレゼントではないのですよ」
「あっ。そういえば猟師様は、今朝がたそのような事をおっしゃっておられましたね。お恥ずかしい……」
「でもさ~狩人さん~。赤ずきんの言う通り~、サンタさんからの贈り物だったのかもよ~それ~」
最終的に~、赤かったし~。と、杭。
ああ、そういえばそうでしたね。と、女。
何故の赤色かはお互い一切触れる事は無く、ついでに何が赤かったのかという詳細については、女も杭も既に記憶に霞がかかっている。
よくある事なので、そもそも興味の対象では無いのだ。
「……では、つまり。その『鍵』もまた、ペンタブケース様からの贈り物、ということなのでしょうか」
「もはや原型を留めなくなってきていますね。本当にサンタクロースを示唆しているのか心配になってきました。確かに失くすとそれなりにへこむらしいので、ケースに入れておくのは一つの手かもしれませんね、ペンタブのペンの管理」
「名前なんてなんでもいいんだよ~。難しく考えなくても~、サンタさんはプレゼントをくれるいい人~。それでいいんだよ~」
「と、杭ちゃんも言っているのでそれはきっとサンタが運んできたものです。まあ、クリスマスの贈り物には違いありませんし、杭ちゃんの言う通り、それを譲ってくださった方も少なからずサンタ精神溢れる慈愛に満ちた性格をしていたのでしょう」
多分。と一応付け足したあたり、女にもかなり適当な事を言っているという自覚はあるのだろう。多分。
しかし事情を知らない赤ずきんは女や杭の話に顔には表れないながらも興奮しているのか、彼女の目玉はじと机の上の八面体を見下ろしつつ、再び、指先で件の白い花のブローチに触れた。
「猟師様にも杭様にも贈り物があったということは、きっと赤ずきんにもこれを本当にくださったのですね。赤ずきんに贈り物があって、猟師様と杭様に贈り物が無いだなんて、そんなの、おかしいですもの。……しかし、やはり赤ずきんに贈り物だなんて……ワンパクボーズ様は、本当に善い方なのですね。嬉しいです。嬉しいです。赤ずきんはとても幸せです」
満面の笑み、という表情は、まさしく今の赤ずきんの顔を言い表すのに最もふさわしい言葉なのだろう。
たとえ尖った歯の覗く口元がわずかに緩やかなカーブを描いているだけだとしても、女は愛しい赤ずきんの表情をそういう物だと判断する。
女にも、何かしら言いたいことはあったのだろう。
本当はサンタクロースからではなく、自分が赤ずきんに似合うと思ってブローチを作って贈ったのだとか、
ワンパクボーズだと子供にプレゼントを届ける老人ではなく子供そのものでしかもガキ大将になるのではないかだとか、
思うところは、それなりにあったが――やはりというか、赤ずきんのあまりの眩しさに、どうでもよくなったらしい。
ほうっ、と、妙に満足げなため息をついて
「赤ずきんちゃんかわ」
「はい《旅人》さん朝ごはん冷めちゃうよ~」
何か言おうとしたが、杭に遮られた。
「……」
「はっ。あ。す、すみません。赤ずきんときたら、お食事中の猟師様の前でお喋りしてしまって……本当にごめんなさい」
「ああ、いえ、むしろ文字数はわたくしの方が食っていますから。あらためまして、いただきます」
気を取り直して、黙々と食事を再開する女。その傍らで、杭と赤ずきんが件の『鍵』について話し始める。
とはいえまだ使用していない以上、どんな場所に繋がっているのかという憶測の話が中心ではあったが。
「やっぱり~、おいしいものがいっぱいあるといいな~。いま観光してるところは植物型と昆虫型が多いところだし~、次は獣型がたくさんいたら、ぼく嬉しい~! 今のところにも時々いるんだけどね~? ぼく~、久々にあの、牛みたいなやつが食べたいな~」
「牛、といいますと……『ミノタルモン』でしょうか」
「ううん~、えっとね~、黒い奴~」
「では『ヴァジラモン』ですね。そういえば赤ずきんの記憶には、以前猟師様がかの『デジタルモンスター』と戦った際のお話が残されています。確か、猟師様は杭様の食事の前に、『ヴァジラモン』の角を折ったのでしたっけ」
「うん~。すっごい音がしたよ~。でもそのせいで逆に興奮させちゃって~、あの時は半分逃げ回りながらのごはんになっちゃったんだ~」
「猟師様からお借りした書籍に牛と闘う方々の話が載っていたのですが、きっとその時の猟師様もそのような、凛々しい様子だったのでしょうね」
「そんないいものだったかな~。……でも楽しかったよ~美味しかったし~。えへへ~。次もちゃんとお土産話持って帰ってくるから~、赤ずきんも楽しみにしててね~」
「はい。赤ずきんも、猟師様と杭様から旅のお話を聞くのを何よりも楽しみにしていますから」
和気藹々とする1本と1体に思わず口元を綻ばせながら、女はココアを啜る。食べるのは早い方らしい。2度目の「いただきます」からそう時間が経ったわけではないが、並んだ皿の中身は、おおよそ空になっていた。
旅行は計画している段階が一番楽しいというが、実際、新しい『鍵』を見つける度に杭と赤ずきんがあれこれと想像を張り巡らせたり、思い出話に花を咲かせている様子を見るのは、女にとっても『観光』に勝るとも劣らないほど、至福の時間であって。
……『デジタルワールド』を観光気分でほっつき歩いているのは、この女と杭くらいのものなのだが。
「杭ちゃん」
女はマグカップを置き、空いた左手の人差し指でとんとん、と杭をつつく。
「何~?」
「『ポータル』周辺の確認もありますから、今日は少し早めに出ましょう。日が沈む少し前くらいで」
「えへへ~、わかった~」
嬉しそうな杭につられるように微笑んで、女は次に、赤ずきんの方へと顔を向けた。
「夕食は帰ってからにしますが、何時になるか判断しかねるので煮物系のものを作り置きしておいてください。こっちで温めて食べますから。遅いなと思ったら先に寝てくれて構いません」
「はい。了解しました。でも、できる限り赤ずきんは起きて待っていますね」
「赤ずきんちゃんは本当に良い子ですねぇ」
ジェスチャーでしゃがむように指示してから、わしわし、と赤い頭巾の上から彼女を撫でる女。「わっ」とまた声を上げたものの、嫌ではないのだろう。今だけは頭上にある女の顔を見つめてされるがままにしている。
そんな赤ずきんと、はしゃぐ杭を見下ろしながら、女も優しげに微笑んでいる。
例のごとく、この1本と1体にだけ、向けられる表情だった。
それ以外のものなど、女にとってはどうでもよいものだった。