フォーラム記事

ユキサーン
2022年9月26日
In デジモン創作サロン
 世界のあらゆるもの、あらゆる言葉は表裏一体である事が多い。  朝と夜、光と闇、善と悪、喜びと苦痛、他にもいろいろ。  どのようなものであれ、対極とも呼べる側面を持たない概念は少ない。  たとえば、特異なコンピューターウィルスの変異によって生まれたとされる生命体――デジモン達が生きる、数多の電子情報の集積によって形作られた世界、通称デジタルワールドと呼ばれるそれにも裏の側面、対極となる世界が存在する。  すなわち、ダークエリア。  自然豊かで文明も善き形に発展の傾向にある表の世界の住民から見れば、自然は腐敗し文明は悪感情を沸き立たせる形でしか発展しない醜悪なる世界。  そこに住まうデジモン達もまた、必然的に見た目や習性、性質など様々な面で悪性の方向に偏っている。  悪魔に吸血鬼、幽霊に死神など、光の当たる場所で生きている者たちからすれば「おそろしい」の一言では済ませられない、驚異的な力を有する情報を基とした種族がこのダークエリアには生息しており、時に彼等は表の世界――デジタルワールドへと侵攻しようとする時があり。  また逆に、デジタルワールドの方からダークエリアに『墜ちて』しまうデジモンもいる。  墜天使の種族などはその筆頭だろう。  デジタルワールドに住まうデジモンと、ダークエリアに住まうデジモンは、基本的に相容れない。  住んでいる世界が、生きるにあたっての境遇が、形作られた社会の常識が、何から何まで異なるのだ。  同じ言葉を扱えても相互理解などは不可能に等しく、同じ世界で生きようとすればどうしても擦れ合ってしまう。  そして、そんな世界だからこそ必要とされる役割というのも、また存在した。    土地だけは広大なダークエリアの一角、数多くの倒木が散見される亡骸の森。  その中にあるとある場所で、ダークエリアという環境をある意味において象徴する種族が立っていた。  全身が黒い甲殻に覆われ、前足と後ろ足に指から生えるそれとは別に鋭利極まる鉤爪を生やした、地獄の番犬と称されもするデジモン――その名もケルベロモン。  彼は何やら苦々しい表情で、あるものを見ていた。  それは、一言で言えば花園だった。  見方によっては毒々しい、赤い彼岸花が辺り一帯に花園を形成していた。  先にも述べた通り、ダークエリアにおける自然とは基本的に腐敗しているものだ。  倒木や枯葉、汚泥に潰れた果実などなど。  誰かがそうなるように仕向けたわけではなく、ダークエリアに存在する自然は基本的に「終わった」形で生じているものなのだ。  当然、糧となるものが見つかるなどケースは基本的に無く、この世界に住まう生き物の殆どは飢えを凌ぐために別の生き物を喰らう事で命を繋いでいる。  それが当たり前であり、こうした花園が形成されることなどは基本的には無いのだ。  この世界に存在するあらゆるものは、表の世界の住民にとって「忌み嫌うもの」の情報が集積され、形作られているのだから。   「…………」  であれば、この彼岸花は何を表すものか。  表の世界に咲いているものと同様に、彼岸花とは上から下まで全てに毒を含む植物。  毒だから、嫌われて当たり前のものだから、ダークエリアに咲いている――などというわけではない。  ダークエリアに生息するデジモンであるケルベロモンが、他者から「地獄の番犬」と称されている事からもわかるように。  ダークエリアとはそもそも、死した存在のデータが辿り着く領域のことであり。  だからこそ、ありとあらゆる発生物は既に「終わった」ものだ。  生命があるように、当たり前のように、眼前に咲き誇る彼岸花もまた「終わった」物の一つ。  つまり、それは。 「――人間の無念が漂着したもの、か。この時期は本当に多くなるな」  デジタルワールド、並びにダークエリアを形作った根源。  デジモンという存在が生まれる発端ともなった、人間の世界から流れついた情報――その中で最も毒性の強い「無念」の情報、その一つのカタチであった。    人間の意識というものは、良くも悪くもデジタルワールドに影響を与えるものらしく。  時にその感情のデータは、自然の形で世界に現出する事がある。  目の前の彼岸花は、その中でも最悪のカタチだった。  曰く、死んで果たされなかった願い。  曰く、死して消えない恨み辛み。  曰く、死後の無念そのもの。  ダークエリアに咲く花々には、どれもこれも少なからず悪感情が宿っている。  何の準備も無しに触れてしまえば、触れたデジモンは花に宿る感情に染め上げられてしまう。  恨みを宿した花に触れれば世界を恨み、悲しみを宿した花に触れれば心は絶望に染まり、何にせよやがて世界にとっての「よくないもの」と成り果てる。  そして災難なことに、何にせよ結果として強くなれる事から、むしろ望んで触れようとするデジモンもダークエリアの中にはいるのだ。  人間の感情とは、デジモンにとって良くも悪くも進化の鍵となりえるものなのだから。    特に、人間の世界において彼岸開きと呼ばれるこの時期は、こうした花々が多く咲き誇る時期であり。  ケルベロモンは、あるデジモンの命令により人間の世界から流出した「よくない感情」の発露とも呼べるこれ等の花々を取り除く役割を担っていた。    今年も、彼岸花の咲く地域を回っては役割を果たしている。  即ち、 「ヘルファイアー」  咲き誇る花々を、ただ美しく見えるだけの異物を、焼却処分しているのだ。  時に彼岸花に触れ、その感情に染め上げられたデジモンを発見した場合は、そちらも駆除の対象となる。    彼の名前はケルベロモン。  情報によって形作られた地獄、ダークエリアに住まう番犬であり。  その悪性を駆除する者である。  ◆ ◆ ◆ ◆  既にへりこにあんさんの作品で説明されている通り、ケルベロモンは現世と地獄を行き来することが出来る番犬。  即ち、この世とあの世の距離が近くなるとされる彼岸にぴったりの種族なのでした。以上、説明終わり!!!!!!  どうにか2000文字程度ですが2作目を投稿しました。色々急いで拙いところもあるかと思いますが、どうかご容赦を……。
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ユキサーン
2022年9月25日
In デジモン創作サロン
 未だ熱の冷め止まぬ残暑の秋、小雨の降る曇り空の下。  およそ十歳ほどの背丈の少年と九歳ほどの背丈の少女が、どこか寂しげな様子で山の中を歩んでいた。  少年の服装は白いタンクトップの肌着に茶色の半ズボン、少女の服装は薄く水色がかったワンピースと見るからに軽装の類であり、そのどちらも足にはサンダルを履いている。  二人の衣類は泥水に濡れ、衣類を纏っていない剥き出しの体の各所には切り傷や擦り傷の痕があるが、それを痛がったりしている様子は無い。  ある時、白い肌着の少年がワンピースの少女に声をかけた。   「……大丈夫、か……?」 「……うん……」 「……疲れて、ないか?」 「……うん……」 「………………」 「………………」  見るからに痛々しい傷を負っていながら、交わされる言葉は最小限で、確認作業以外の要素は何も無かった。  個々人に差異こそあれど好奇心旺盛な子供達が交わす言葉にしては、明らかに異様な雰囲気が漂っている。  いや、そもそもの話として異様なのはそれだけでは無い。  服装や交わされる言葉、そして体に負った傷などより最も気にかけるべき異様が、少年の体には存在していた。  それは、赤と黒。  少しだけ夏空に焼けた少年の右腕は赤くゴツゴツとした鱗に覆われ、長く伸びた三本の爪が指の役割を担う形となっており、即頭部からは同じ赤色の蝙蝠の羽にも似た何かが生えてしまっている。  そしてそれ以外にも、少年の体の異形の部分には黒い色で何やら紋様のようなものが描かれていた。  蛇の鱗が形作るそれとは何処か違う、ある種の呪いのようにも思える、主に三角形によって描かれた異彩なる紋様。  その意味を少年は知らないし、現時点では考えていられるほどの余裕も無かった。 「!!」  少年の即頭部にある羽のような何かが震える。  何かを感じ取ったのか、少年の視線が進行方向とは異なる方へと向けられる。  少女はそれに気づかぬまま歩き続けて、直後に山中に広大に広がる茂みの向こう側からその『何か』は現れた。 「!!」  驚き、怯えた表情を浮かべる少女の視界に映ったものは、一言で言えば獣だった。  薄く紫がかった白い毛並みを持ち、犬のようにも見える姿で、鋭く長い爪を生やした獣。  それがどういった生き物なのかなんて、少年にも少女にも知る由は無かった。  ただ一つ解る事は、この獣が自分達に襲いかかってきているという簡単な事実のみ。  そして、そんな事を理解する間も無く、赤色を含んだ少年は行動していた。  少女を狙って飛び掛かった犬に似た獣に向かって逆に自分から飛び掛かり、勢いのままに地面に組み伏せにかかる。   「ガアアアア!!」 「ッ!! ぐ、ああああっ!!」  当然、防衛本能とでも呼ぶべき抵抗があった。  獣は自らを地面に押し倒した少年の、左の肩に向かって噛み付こうとしたのだ。  牙がタンクトップの繋ぎの部分ごと人肌に食い込み、肉を破り、血液が漏れ出てくる。  当たり前の激痛が少年を襲うが、少年は赤く筋骨の発達した右腕で獣の頭蓋を殴打する。  叫びながら、必死に、何度も何度も。  いつしか自らの肌に食い込む牙の力が弱まっても、構うことなく。  やがて何かが潰れるような音と共に、獣は息絶えた。  瞬間、獣の体が突然バラバラの粒となって弾け、その場にいたという痕跡一つ残さず掻き消えてしまう。  息も絶え絶えといった様子の少年は、獣に嚙まれた左肩に異形の右手をあてながら立ち上がる。  時間にして十数秒ほどの戦い、その成り行きを見るしか無かった少女は怯えたままの表情で少年に声をかけた。 「――だい、じょうぶ……?」 「っ、平気だ……こんなの……」  言葉に反して、顔色は悪かった。  必死に笑顔を取り繕う少年の目元からは、僅かに涙が漏れ出ている。  左肩の痛みが、怪我の度合いが軽くないことは明白だった。  だけど、少女は少年に対してそれ以上何が出来るのかが解らなかった。  ただ少年の言葉を信じてあげる事ぐらいしか出来なかった。 「……っ!! うっ……!!」 「!!」    しかし、そんな少女の目の前で少年は何かに悶える様子で倒れ込んでしまう。  悲痛な声を上げる少女の目の前で、少年の体が更に異様なものへと移り変わっていく。 「はぁ……はぁ……っ!!」  まず最初に、獣に噛み付かれた左の肩の肉が、その表皮がぺりぺりと剥がれ落ちる。  曝け出されるはずの人間の骨肉はそこに無く、代わりにワイヤーフレームにも似た色彩の異質な何かが姿を現すと、それもまた即座に右腕や額の羽と同じ赤色に染まり、新たなる左肩として成り変わる。  それだけでも十分異質な光景だが、変化はそれだけに留まらなかった。  少年が半ズボンを履いている下半身、そのお尻の部分から左肩に見えたものと同じワイヤーフレームが生じる。  それが見る見る内に蜥蜴の尻尾のようなものを形作ると、左肩の時と同じように赤色が覆っていく。  そうして、履いている半ズボンを貫通する形で少年の下半身には赤い尻尾が現れた。  生えたというより、最初から少年の体には尻尾があったと、そう事実を上書きされているかのような光景だった。  事実、形成された尻尾は半ズボンを貫通しているにも関わらず、その変化に伴うはずの音は何も無かったのだから。 「……っ……」  変化が収まったのか、少年はそれまでの苦しんだ様子が嘘のように簡単に立ち上がる。  そうして自らの変化のさまを見回すと、複雑な表情を浮かべてしまっていた。  変化した少年の左の肩には力が漲り、お尻から伸びている尻尾が自分のものであるという感覚も確かにある。  本当のところ、自分の体が変わっていくその感覚に痛みが伴っていたわけではなかった。  それでも苦しむような声を漏らしてしまっていたのは、自分が別の何かになっていくその感覚と事実がどうしても怖かったから。 「……お兄、ちゃん……」 「――大丈夫だ。そっちこそ本当に大丈夫か……っ?」    落ち着きを損なった少年に少女が声を掛けると、少年は即座に平気を取り繕おうとした。  この少女――自分の妹に余計な心配をかけさせるわけにはいかないと、そう思ったが故に。  だが、どれだけ取り繕ったところで気持ちは正直で、少年の声は震えていた。  無理も無い話ではあった。  そもそもの話として、彼はただの子供であって。  このような山の中で、ろくな携行物も持たず、見知った大人の助けも無しに行くしかない――こんな現状に恐怖を覚えない方が異常だと言えるのだから。    ◆ ◆ ◆ ◆  数日前の事だった。  少年と少女は、東京の外れに存在する村に家族と共に住まっていた。  都会の近くでありながらも自然豊かな場所で、そこでの暮らしに少年も少女も特に不満は無かった。  通う学校では仲の良い友達もできていたし、夏休みの間もたびたび遊ぶ事があって。  その日は学校帰りに同級生の子供を呼び、結果としてはその子供の兄姉なども巻き込んで、公園でドッジボールなどをして遊んだりしていた。  無邪気な悪口の一つや二つこそあれど、少なからず楽しいと思える時間を過ごしていた。  それに最初に気付いたのが誰だったのかまでは覚えていない。  どうあれ誰かが、夕食の時間に差し掛かった頃に声を上げていた。  その声に引っ張られる形で、他の誰もが同じものに注目を寄せていて。  少年もまたその内の一人に加わり、視線を向けていただけ。  その時の光景を、少年も少女も二度と忘れられないと思った。    視線の先、夕焼けの秋空の景色、見知った世界の色彩の中に――切れ込みがあった。  まるで口でも開いたかのような形で、空が裂けていたのだ。  当時、少年の目にはそれが、何処かへと繋がる『穴』のように見えた。  空に出来た裂け目、その向こう側には夕焼けとも青空とも夜空とも異なる色彩が広がっていたのだから。  どうしても気になって見つめていた少年とは異なり、見ていると今にも吸い込まれそうな錯覚さえ覚えるそれに少女の方は怯えて目をやる事さえ途中でやめていて、その様子に少年もまた視線を少女の方へと向けていた。  そして、そうしている間に、空の裂け目という異変を皮切りに全ては確実に変わり始めていた。  ――あ……。  まず最初に、おそらくは空の裂け目に一番最初に気付いた男の子が呆然とした声を漏らしていた。  途端にその全身に服ごと緑色の線が走り、周囲の空気がバチバチとした音を鳴らしだす。  他の、空の裂け目を目撃していた少年少女の体にも、皆等しく同じ異変が起きていて。  少女の身を案じて視線を外していた少年の身にも、同じ事が巻き起こっていた。    ――っ!!    その時の感覚を、少年は今も覚えている。  頭の中に知らない言葉や気持ちが入り込んでくる、自分の体の動かし方を忘れてしまいそうになる、自分というものがなくなってしまうと錯覚しそうになる――得体の知れない違和感。  少女の体にも同じ事が起こっているのか、より一層怯えた様子で身を縮こまらせていた。  ただ事では無いという事は、まだ世の中の事を詳しく知らない少年の見識でも理解が出来た。  実際、彼の目の前で驚くべき事態は既に巻き起こってしまっていた。  空の裂け目を眺めていた見知った顔の少年少女たちの体が、その色がぺりぺりと頭からめくれて剥がれだしていく。  ヒトとしての形と纏っていた服装の痕跡を残しながら、緑色の網目で形作られただけの何かに変わっていく。  目も耳も口も何も見当たらない、のっぺらぼうどころの騒ぎではない抜け殻とでも呼ぶべきもの。  見ればその中心には0と1の数字が幾多に描かれた球体が存在し、それはくるくるとコマのように回転を続けていた。  ――なんだよ、これ……。  少年はその光景に恐怖以外の何の感情も抱けなかった。  元々見えていたものが何処へ消えたのかは解らないし、そんな事を考えていられるほどの余裕も無かった。  少年と少女が恐怖を抱いている間にも変化は続いていたのだ。  数字の描かれた球体の回転が勢いを増す。  それに伴うようにヒトのカタチを形作っていた線の緑色がどんどん色褪せ、それに重なるような形で新たな緑色の線が人間のそれとは全く別のカタチを描き始めていく。  まるで、人間だったものを別の何かとして作り替えるかのように。  その存在は元々そういう姿をしていたと、痕跡から塗り潰していくように。    少年の友達だったものは同じ大きさの蝋燭を想起させる形になって。  少女の友達だったものは四足歩行の蜥蜴のような生き物を想起させる形になって。  友達の兄貴分だったものはそれまでの体躯を遥かに超える恐竜のような形に変わり果てて。  そしてその全てが、遅れて新たな色彩を宿すに至っていた。  風邪を引いた夜でも見ないような、摩訶不思議極まる光景。  それを見た少年は目の前の異常事態に背を向け、少女の手を引き一目散に逃げ出した。  ここにいたら取り返しのつかない事になる。  それが何となく理解出来たから。  実際、その判断は間違いではなかった。  必死に駆け出した少年と少女の背後から、人間の発するものとは到底思えない――鳴き声が響いていたのだから。  もう、公園の中に彼等の知る者はいない。  そこにいるのはもう、本能とでも呼ぶべき何かに導かれる形で動き出した怪物だけだ。    何処に行けば良いのかなんて、子供の頭ではわからなかった。  ただ、母親や父親のいる場所にいけば大丈夫だと、根拠など無くともそう考えるしかなかった。  そうして何かに急かされるように、少年は少女と共に自宅を目指して走り続けて。  そして。  ――え……?  家族と共に住んでいる家の場所は覚えていた。  何度も何度も、学校に行く度に帰ってきた家の形を忘れてしまう事は無かった。  いつも通りに進んでいれば辿り着けると思っていた。    だが、少年と少女は目撃してしまった。  いつの間にか村中には大小さまざまな体躯と姿をした怪物が住民と入れ替わるように現れ、縄張り争いでもするかのように争いあっていて。  少年と少女が住まっていた家が、跡形も無く崩れて燃えているところを。  ――あ……あ……。  何処にも母親や父親の姿はなく、声の一つも聞こえない。  他の住民たちと同じように怪物に変わり果ててしまったのか、そうはならず何も知らないまま夕食を作っていて――怪物たちの争いの影響で家ごとグチャグチャに潰れてしまったのか。  ――お母さん!! お父さんっ!! 何処っ、何処にいるの!?  確認のしようなんて無かった。  ワケも解らず、せり上がってくる気持ちのままに泣きながら叫びを上げる。  しかし、ちっぽけな子供の声は怪物達の喧騒に遮られるだけで。  誰の言葉も、返ってくることは無かった。  ――……ぅ、ぅぁ……。  あまりの現実に少女の声は消え入っていた。  少年もそんな少女に対し、どんな言葉を投げ掛けてやればいいのか解らない。  いつだって解らない事を教えてくれた大人はもう、大人どころか人間と呼べるものですらなくなっている。  しかも、  ――!! お、俺まで……っ!?  例外は無かった、という事だろうか。  他の人間ほど長く見続けていたわけではなくとも、同じく空の裂け目を目撃していた少年の身にも――明確な変化が訪れていた。  右腕の感覚に違和感を覚え、反射的に見やってみれば、少年の右腕は表皮が剥がれ、少し前にも見た緑色の網目による形だけの抜け殻と化していた。  そしてそれは形を変え、見る見る内に赤と黒の色を宿し、三本の爪だけを生やしたものと成り果てる。  更に、続けざまに即頭部に辺りに違和感を覚え、左手で触れてみると――何も生えてないはずの部分に、自分の体としての感覚がある事に気付く。  空の裂け目を眺めていた時間が他の人間よりも短かったためか、結果としてその時点での変化はそれだけではあった。  だが、少年はこの時点で実感として理解していた。  自分はもう、人間と呼べるものではなくなっているのだと。  ◆ ◆ ◆ ◆  大人の助けも借りられなくなって、少年と少女は村を出て行くしか無かった。  怪物達の争いに巻き込まれて生き残れる自信なんて無かったし、そもそもの話としてあの村の中に居続けたところで自分達の『これから』が良くなるとは思えなかったから。  何処へ目指せば良いのかも解らないまま、異形の少年と少女は足を動かし続けたのだ。  恐ろしい怪物のいない安全な場所に向かって逃げ、生き延びるために。  現在歩いている山道は、そのために選んだ進路だった。  かつては父が運転する車に乗って、母と共に東京の街に行く過程で通り過ぎていた、車の走る道路が作られている山。  この山を越えて、しばらく進んだ先に東京の街がある。  そこなら村のそれとは比較にならないほど多くの人間が住んでいて、その中には自分達のような子供を助けられる大人だっているはずで、食べ物や住まいになる場所だってたくさんあるはずだと、そう願っての選択。    言うまでも無い事だが、東京へ向かうための道程は最初から厳しいものだった。  どの方角に向かえば良いのかまでは知っていても、車などの乗り物を運転する術など子供二人にあるわけも無く、必然として少年と少女はその足で目的地に向かうしかない。  となれば要される時間は車や二輪を用いたそれと比べて途方も無く、体力の消耗もまた激しい。  加えて途中途中、少女は当然として異形を含んでいる少年もまた、食料を手に入れ腹を満たす必要があって。  崩れて放棄されたコンビニの中に残されていたパンや飲み物、果樹園で育成されていた果物などを、本当はいけない事だと解っていながらその場で食べたりもした。  だが、各所に残されていた食べ物はいずれも少量で、蟲が集っているものさえあり、満足のいく食事なんてかれこれ一度だって出来てはいなかった。  水も食料も、この山に辿り着くまでの時点でとっくの昔に手持ちに無い。  リュックサックやポーチバッグの一つでもあれば何かしらの食料を携帯出来たかもしれないが、そのような都合の良い道具は探す余裕も無く、持ち切れないものはその場に捨てて進むしか無くて。  マトモに眠れもせず、たった一日分の時間があまりにも長く感じられて。  そうしてやっとの思いで辿り着いた山でも、小柄ながら子供一人食い殺す程度は容易いであろう怪物に襲われた。  両親も隣人も友人もいなくなった少年と少女の心労は、既に許容出来ない領域へと踏み入っていた。  見知らぬ怪物を殺してから数十分ほどが過ぎた頃、少女はふとして疑問を漏らす。   「……お兄ちゃん……」 「なんだ……?」 「……本当に、街にいけば大丈夫なのかな……」 「……どうして、そんな事を言うんだ……?」 「……だって、もしかしたら街の方も……」 「…………」  少女の不安は、少年にも理解出来ることではあった。  東京の街に行けば助けてもらえるし食べ物だって手に入る――そんなことは所詮、少年にとってもただの願望でしかないのだ。  もし仮に、空の裂け目を目撃した人間が等しく怪物に成り果ててしまうのであれば、それは街に住む人間たちだって例外ではない。  むしろ、住んでいる人間が多ければ多いほど、余計に大きな争いが起きている可能性は高くなる。  いっそ行かない方が安全かもしれないと、少女は暗にそう告げているのだ。    だけど、他に行く宛なんて思い浮かばない。  それに、誰の助けも頼れないまま、たった二人だけで生きていける希望も見えない。  何でもいいから目的を作らないと、少年はすぐにでも心が挫けてしまうような気がしていた。  だから、 「そんな事……見てみるまでわからないだろ!!」 「……それは、そうなんだけど……」 「大丈夫だ。危ないことになったら、お兄ちゃんがなんとかするから……変なことは考えないでいいんだ!!」  少年は少女を不安にさせまいと、そう返していた。  少女の意見をかき消そうとするような、あるいは自らの不安を押し殺すような、強がった声で。  実際、少女は少年の言葉にそれ以上何も言い返せなかった。  とぼとぼと、少年と共に歩き進んでいく。 (……なにか、食べ物は……)    たった二人で山を登り進むという事は、当然ながら初めてだった。  遠足などの学校の行事で向かう時は他の生徒ともども基本的に引率の先生の指示に従う形で動いていたし、そもそもの話として山道を行くにしても今ほど緑の深い場所へ向かう事は無かった。  だから、山にある食べ物のことなんて大して教えてもらう機会は無かったし、教えてもらった事なんて精々が「図鑑も無しにキノコに手は触れない」という注意ぐらい。  しかし、こうして大人に頼れぬ状態のまま二人で山に来てしまった以上、どこかしらで食べ物を調達する必要がある。  何せ、この山を越えてもまだ東京までの道は続いているのだ。  次はいつ何処で食べ物を口に出来るかもわからない。  食べてはいけない類のものを食べるなど以ての外だが、せめて目で見てこれは安全そうだと思えるものを見つけ出さなければならなかった。  せめて妹の腹を満たせる分の食べ物を――そう思って歩きながら少年は周囲に目をやっていると、ふとして少女から声がかかった。   「……おにいちゃん、それ……」 「? それって、どれ……」  振り向き、少女が何かを指差している事に気付き、指差された方向へ少年は視線を移した。  見れば、茂みの近くに見覚えのある果実が野放しとなっている。  というか、   「……え、ニンジン……?」  子供がよく嫌う野菜の一つ、本来は畑で栽培されるウサギの好物。  よく見ると普通のそれとは色合いや形が異なるように見えるが、一目で見て人参だと判断出来る程度には近しい根菜がそこにあった。  しかも、 「そう、みたい。あっちにも……」 「……パイナップル……?」  続けて少女が指差した方へ目を向けると、数多くある茂みの一つに紛れる形で酸味溢れる果実が一つ存在していた。  少なくとも、それが山の中になど生育されているわけが無い事ぐらいは少年も知っていた。  おかしい、それ以外の感想は出てこなかったが、   (……とりあえず、食べられるか確認はしないと……)  少なくとも毒がありそうには見えなかったため、少年はまず人参から手に取った。  目立った土汚れ一つないそれは何処か作り物のようにも見えて不気味にも思えたが、意を決して先端から齧ってみる。  意外にも、子供の舌でも味は悪くないものだと思った。  食べかけにはなるが食べ物としては問題無いことを確認出来た人参を少女に手渡し、続けて少年はパイナップルに手を伸ばす。  当然ではあるが、パイナップルにはトゲのついた皮がある。  それは子供の手一つで簡単に剥けるものではなく、本来であれば包丁などを使って縦八等分に切ったりすることを基本としているものだ。  無論、今の少年と少女の手にそのような便利で危険な道具は無い。  代用となるものは、少年自身の異形の右手以外に無かった。  少年は左手でパイナップルの葉を掴み、右手の三本の爪をパイナップルの皮に突き立て、強引に捲り上げようとする。  その最中、少年と同じく食べてみたのであろう少女が苦々しげにこう言った。   「……おにいちゃん、これあまり好きじゃない……」 「……我慢して」 「おにいちゃんだってお腹空いてるでしょ。あげる……」 「駄目だよ。野菜だって食べないとってお母さんだって……」 「……お母さんは……」 「…………」  少年は詰まらせた言葉を誤魔化すように、パイナップルの皮を捲る三本の爪の力を強めた。  途端に中にある黄色い果肉が姿を現し、果汁もまた漏れ出てくる。  少年はどうにか口をつけられる程度に皮を剥ぎ取れたパイナップルを一口齧ると、知った通りの味が舌に返ってくるのが解った。  とても甘い味と匂いがした。  だけど、少年の表情が変わることは無かった。  家族と一緒であればあるいは甘味に笑顔を浮かべていたかもしれないが、今の彼にそのような余裕は無かった。  食べられる事を確認すると、パイナップルもまた少女の方へ手渡そうとしたが、 「やめてよ。美味しそうだけど、それもいらない……」 「何でだ、甘くておいしいぞ。なんでこんな所にあるのかはわからないけど、食べられるものは食べていかないと……」 「……お腹、そんなにすいてないから……」 「それでもだ。入れられるだけ入れていかないと……後で腹ペコになってからじゃおそ――」 「――いらないって言ってるでしょ!!」  大きな声で、思いっきり拒絶されてしまう。  言い分が我が侭にしか聞こえなくて、少年は苛立った様子で言葉を紡ぎだす。 「なんで食べないんだよ!! ニンジンはともかく、パイナップルは好きな方だったじゃないか!!」 「好きだけど……いらないったらいらない!! お兄ちゃんが食べればいいでしょ!?」 「俺は……別に腹もそんなに空いてないからいいんだよ!!」 「こっちだってそう言ってるよ!! どうしてそんなに私にばかり食べさせようとするの!?」 「そんなの……!! 食べなきゃお前が死んじゃうからに決まってるだろ!!」 「ちょっと我慢した程度で死んだりしないよ!! それに、お兄ちゃんだって食べないと死んじゃうのは同じでしょ!? 半分こにするとかすればいいのに!!」 「お前は……女の子で、俺よりも年下で……だから、俺よりも量は必要なんだよ!! だから……!!」  互いに互いの言い分を否定するばかりの言い争い。  無論、進展など無かった。  少年がどれだけ理屈を並べ立てようが少女は納得しないし、少女の反論も少年は通す気が無い。  言い負かされているという自覚があっても、少年は少女が食べ物を食べないという話を認めるわけにはいかなかったのだ。 (俺が……俺が守らないと……守れなかったら……そうしたら……)  だが、少年も少女もある意味において危機感が抜けていた。  ここは既に自然溢れる山の中であり、既に一度怪物に襲われもしていた。  そして少年の手には、甘ったるい匂いと共に果汁を漏らす果実が一つ。  であれば当然、 「ゴーッ!! ゴッゴッゴッ!!」 「ひ……っ!?」 「ッ!?」    それを狙おうとする獣がいたとしても、不思議ではない。  吠え声に少年が振り向いた時には既に、棍棒を持った緑色の――ゲームなどで見た事のあるゴブリンのような――怪物が茂みの向こう側から現れていた。  二足で立つそれはいちいち少年と少女の出方など待たず、その手に持った棍棒を振るう。  嫌な音と共にそれは少年の顔面に右側から直撃し、少年の体が軽々と地面に転がされる。  尋常じゃない衝撃と激痛に少年の意識は朦朧とし、目元から思わず涙が漏れ出てきそうになる。  歯の嚙みあわせだっておかしい――もしかしなくとも数本折れたのかもしれない。  だが、直後に聞こえた声が少年の中の全ての前提を置き去りにした。 「っ、返してっ!! それは私たちの……っ!!」 「ゴアアアッ!!」  少女の必死そうな声が聞こえたかと思えば、直後に鈍い音が響いていた。  悪寒を感じ、うつ伏せに倒された状態から起き上がり、怪物のいる方へと視線を向ける。  そうして見えたのは、怪物に殴られたのか背中から地面に倒れこむ少女の姿。  それを視界に捉えた瞬間、少年の頭の中で何かが弾けた。  脱げ落ちたサンダルとか奪われた食べ物とか怪我の傷みとか歯が折れた事実とか、そうした余分なことを微塵も考えられなくなる。  代わりに浮かび上がるのは殺意。  少女を傷付けた怪物に対するそれは爆発的に思考に広がり、少年の視界を赤く染めた。 「があああああああああああああああっ!!」  何かが剥がれ落ちるような感覚と共に、少年は駆け出し怪物に飛び掛かる。  自らに襲い掛かろうとする少年の存在に気付いたゴブリンの怪物は、その手に持った棍棒で少年を殴り打ち飛ばそうとした。  だが、少年は自らを殴打せんとした棍棒に対し右腕の爪を振るう事で逆に打ち砕いてしまう。  怪物は自らの武器を壊された事実に驚きの表情を浮かべたようだったが、少年はそれに構わず右腕を振るった体勢のまま怪物に体当たりしていく。  ドスッと鈍い音が響き、ゴブリンの怪物は少年の体に押される形で仰向けに転んでしまう。  その手から離されるパイナップルを見ても、少年の視線は一ミリも揺らがなかった。   「ゴッ!? ガアアア……ッ!!」 「ぐがあああああああああああああああああああああ!!」  仰向けに倒れた状態から咄嗟に起き上がろうとしたゴブリンの怪物に、少年は再度飛び掛かり馬乗りの姿勢になる。  そのまま右腕を振り下ろし頭蓋を割らんとするが、ゴブリンの怪物は咄嗟に左腕で右腕の一撃を受け止め、続けて少年が振り下ろした左の拳を右の手で掴み取ってしまう。  腕の力による奇妙なつばぜり合いによって状況は膠着するが、それをよしとするほど少年を染める殺意は収まりを知らない。  両の手が届かないのであればどうすれば殺せるのか――その正解を導き出すのに、一瞬も掛からなかった。 「グルアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」    すなわち。  自らの顔を力いっぱい前に押し出し、口を開けて――怪物の喉元に喰らいつく。  それはもはや、人間ではなく獣が取る攻撃手段に他ならなかった。  少年の歯――否、牙が怪物の喉に突き刺さり、血肉を貪らんと凄まじい力が込められる。  怪物は右足を動かし、自らに馬乗りになる少年の腹を蹴って足掻くが、どうにもならなかった。  両腕はつばぜり合いの状態になっているが故に使えないし、蹴っても蹴っても首を噛み切らんとする顎の力が弱まる事は無かったのだから。  張りのあるウインナーでも噛み千切るかのような音と共に、少年は一息に怪物の首を引き千切った。  断末魔の悲鳴などは無く、まるで機械の電源でも落とすようにゴブリンの怪物の体から生気は失われ、山に入って最初に襲ってきた獣と同じくゴブリンの怪物はバラバラの粒子となって弾け飛ぶ。  獣の時と異なる点があるとすれば、ゴブリンの怪物だった粒子は殺害者である少年の体の方へひとりでに吸い込まれていったという事ぐらいか。  数秒、少年は落ち着かない様子で呼吸を荒げていたが、やがてその視線を倒れた少女の方へと向けた。  恐怖を思い出したかのような表情になると、すぐさま傍に寄り添い声をかける。 「――おい!! 大丈夫か!?」  見れば、少女は鼻血を漏らしている様子だった。  おそらくは顔を殴られたのだろう――その事実に少年の殺意が再点火しそうになるが、そもそも加害者は少年がその手で殺めたばかり。  終わらせた奴のことなど考えても仕方が無いため、とにかく少年は少女に呼びかけ続ける事にした。  その背中に右腕を通して担ぎ上げ、体を揺らしながら。 「しっかりしろ!! お願いだから、起きてくれっ……!!」 「……ぅ……」  必死に呼びかけたお陰か、少女は意識を取り戻した。  その事実にひとまず安堵する少年の顔が、静かに開かれた少女の目に入り、 「――きゃあっ!!」 「!?」  気付いた時には、少年は悲鳴と共に突き出された少女の両手で押されて尻餅をついていた。  あまりにも突然の出来事に少年は抵抗する間も無かった。  そもそも理解が出来てなかった。  少女の反応は、明らかに何かに怯えた様子のものだった。  直前の出来事から、自分に触れている相手を先ほどのゴブリンの怪物と見間違えてしまったのか、と最初はそう思った。   「お、おにい、ちゃん……なんだよね?」 「?」  だが違った。  少女は、自分の視界に入っている相手が少年である事を知った上で、なお怯えた様子を見せていた。  暫し呆然とし、直後に少年はようやく自らが抱くべき違和感の正体を知った。  それは、今の今まで自然なものとして認識していた事実にこそ疑問を抱くべきものだった。 (……あ……)  自分の視界の下方に、赤く染まった自分の鼻が見えていた。  まるで獣や爬虫類のそれのように、気付けば少年の鼻口部は前方に突き出たものになっていた。  それだけに留まらず、口の端が大きく裂けて歯は全てが牙と呼べるほど尖ったものになり、そこにはゴブリンの怪物の残骸とでも呼ぶべき赤黒いものがこびり付いている。  まさかと思い改めて自分の体を見回してみると、変化がそれだけでは無いことに気付いてしまう。  膝から下の部位、脱げ落ちたサンダルの代わりに大地に触れている自らの両足、それもまた右腕や左肩、そして鼻口部と同じく赤く染まり、五本の指の変わりに前方二本後方一本の爪が生えた異形のものへと変わり果てていた。  少し前にも同じような変化は起きていたが、今回の変化については少女の怯える姿を見るまで自覚することすら出来ていなかった。  いつの間に変わっていたのかも解らぬまま、それが自分の体の自然な形であると認識してしまっていたその事実に、他ならぬ少年自身が恐怖を怯えてしまう。  家族と暮らしていた村で最初の変化があって以来、暫くは大きな変化など無かったのに、山に入ってから、怪物を殺す必要に迫られる度に自分自身もまた怪物に変わっている。  まるで、そういう毒にでも蝕まれているかのように。  どれだけ変わりたくないと願ったところで、もうその流れは変えようが無いのだと思い知らされる。    こんな姿、こんな有り様、確かに少女が怯えてしまうのも無理は無かった。  殺意のままにゴブリンの怪物を殺したのは変化した自らの牙であり、そんな事が出来てしまう――そんな事をしようと決断してしまった自分を人間だと思えるわけも無い。  他ならぬ少年自身、そう思ってしまった。  一度思ってしまったら、もう不安を拭うことなんて出来るわけもなかった。  自分はもう人間じゃない。  いずれ、体も心も怪物になってしまう『なりかけ』でしかない、と。 「う、ああ……」    もし、このまま何の改善も出来ないまま怪物になってしまったら、その後どうなる。  傍で一緒に歩いている少女を、自分という怪物はどうしてしまうのか。  このまま一緒にいる事が、本当に正しい選択なのか。  元は同じ村に住む住民同士だった人間たちが、怪物に成り果てて争いあっていた光景が想起される。  怪物としての体が大部分を占めるようになってしまった少年には、もう何もわからなかった。 「……おにい、ちゃん……?」 「――っ!!」  恐怖の抜け切らない様子の少女の声が聞こえた瞬間、少年は駆け出していた。  一刻も早く少女から離れなければならないと、そう思い込んで。  自らを呼び止める声も、自分が傍にいなければ少女に身を護る手段は無いという事実も、聞こえなかったし考えられるだけの余裕も無かった。  自分がどの方角に向かって進んでいるのか、これから何処へ向かえば良いのか、自分はあとどのぐらいの時間を経て完全に怪物になってしまうのか、何もかも解らぬまま――ただ走っていた。  ◆ ◆ ◆ ◆ 「はぁ……はぁ……っぐ……!!」  得体の知れない何かから逃げるように走り続けて、どれほどの時間が経ったのか。  小雨が勢いを増して普通の雨ほどになった頃、いつしか息を切らせた少年は、濡れてぬかるんだ地面の上に転んでいた。  今となっては人間であった証明とも呼べる衣服が泥水を吸い、衣服を身に纏っていない部位ともども汚れてしまったが、少年にとってそんなことは最早どうでもよくなっている。 「……ぅ、うぅ……!!」  服が汚れてしまった事などよりも、怪物によって体につけられた傷の痛みなどよりも、胸の奥がずっと痛いと感じていた。  視界の下部に自分の鼻先が見える度に、お尻から伸びる尾の感覚を知覚する度に、今の自分がどういう存在なのかを突きつけられている気がした。  望んでもいなかったのに、自分という人間がまったく違う何かに変わろうとしている事実が、少年の心をどこまでも苛む。    どうして、こんな事になったのだろうと少年は想う。  数日前まで、自分も妹である少女も、両親と共に特別不満も無く生活することが出来ていた。  毎朝学校に行って、授業を受けて、時に友達と語らったり遊んだりして、学校から帰れば母の作ったおいしいご飯を食べられて。  そんな日々を変えてほしいだなんて、考えたことは無かった。  仮に考えたことがあったとしても、こんな形で変わってしまう事は望まなかった。  こんな形で日常が終わりを告げられるなんて、考えたくなかった。  立ち上がると、水たまりの上に今の自分の姿が見えた。  人間の体の半分以上が赤色に染まり、蜥蜴のような竜のような何かに変わろうとしている、まさしく『なりかけ』の姿が。  人間とトカゲ、二つの生き物のそれを混ぜ合わせただけのような、中途半端な怪物の顔が。 「うあああああああ……っ!!」  泣き叫んだところで現実は何も変わらない。  夢なら覚めろと願って右腕を力強く嚙んでみても、ただただ痛いだけ。  少年はただ怪物で、周りに頼れる誰かなどおらず、行く宛も無い。  これからどうすればいいのかなんて、解るわけも無かった。  今さら、妹である少女の傍になんて戻れない。  いつ何処から怪物が襲ってくるかもわからない山の中で離れ離れになる事が、あの少女に対してどれほどの危険を伴うのかを解っていても――他ならぬ自分自身が危険そのものになると考えてしまうと、それは何よりも恐ろしい事だと感じられたから。  そもそも、少女自身が今の少年のことを受け入れられるのかも解らない。  成り行きがどうあれ、ゴブリンの怪物を殺した直後の少年の姿を見て、彼女は確かに怯えていたようにしか見えなかったから。  そして、そこまで考えられていて尚――少年は今この時に少女を一人にしてしまった事に、罪悪感を拭いきれなかった。 「……俺は……っ、お兄ちゃんだか、ら……守らないといけない、のに……」    雨音の中、胸中に留めきれなかった言葉が漏れる。  その場には少年以外の誰もおらず、当然ながら返ってくる言葉も無い。   「……なんでだよ……。なんでこんなことにならないといけないんだよぉ……!!」  もはや、自分自身すら信じることが出来ない。  転んだ状態から起き上がって辺りを見渡しても、自分がいま山の中のどこにいるのかさえ解らない。  とぼとぼと、沈みきった様子のまま足が動く。  東京の街に行けたところで、怪物になってしまった自分に居場所なんてあるとは思えない。  村の中で見た怪物達と同じように、同類を見つけては自侭に暴れ回るだけだと少年は想う。  だったらもう、誰にも会わない方がいい。  誰も傷付かないように、誰も殺してしまわないように、誰もいない場所に一人で寂しくしていた方がいい。  自分のためにも、他人のためにも――そう考えるしかなかった。  半ば自棄に陥りながらも足を動かし続けていると、いつしか少年の目の前には洞穴があった。  曇り空の下でありながら、不思議と中まで明るいように見える、そんな洞穴が。 「……は、はは……」  自分ながら、怪物の居場所としてはちょうどいい場所が見つかったと思った。  こんな場所に好き好んで入っている人間なんていないだろうし、入っている者がいるとしたらそれは動物か怪物ぐらいだ。  そして、動物ならともかく怪物が入っているのなら、殺してしまえばいい。  どうせ放っておいても先の二体と同じように、襲うことしか能が無い奴等だろうから――放っておいたら、いつか妹の少女を襲ってしまうかもしれないのだから。  怪物になりかけの少年は、泥水に足を汚しながら洞穴の中へと入り込む。    見れば、そこは壁面に光る苔のようなものが生えた場所で、曇り空の下であろうと必要最低限の視界を確保出来るようになっていた。  山の中にある洞穴のことなど、当然ながら実際に見るのは初めてな少年からすれば、それは不思議な光景として映るものだった。  辺りには何やら結晶のようなものが生えたキノコのようなものまで見えていて、元々自棄になっていた少年はなんとなくの感覚でそれを採り、咀嚼してしまう。  口が人間のものではなくなった少年にとって、キノコに生えた結晶を噛み砕くことなど苦ではなかった。  美味しいと言えるものではなかったが、かと言って毒のある類のものというわけでも無いようにも思える。  不思議と、体の奥に活力が宿るような感覚があった。  こんなキノコがあったのかと僅かに関心を抱きながら、洞穴を道すがら奥へ奥へと進んでいく。   洞穴の中は特に道が分かれていたりすることも無く、光源となる光る苔が洞穴の至る所に生えているお陰で周囲に存在するものを確認するのに困ってしまう事も無く、いつしか少年は洞穴の中に広い空間を見た。 「ここは……」  そこは、左右の壁や天井を点々と覆っている光る苔によって晴れ間と変わらぬ明るさに彩られた、学校の体育館ほどはあろう大きさの空間だった。  足元には細々とした草が広がっており、至るところに赤や黄色、あるいは白い色の花々が咲き誇っている。  このような洞穴の中に草花が生い茂っているという事実に、見識のまだ浅い少年は素直に驚きを示していた。  よく見ると、光源に照らされた花々の中には見覚えのある花も混じっている。 「確か、彼岸花っていうやつだったっけ……」    過去に、興味本位で手に取ろうとして母親に怒られた覚えのある花だった。  母曰く、その花は上から下まで全ての部分に毒を含むため、子供が誤って食べたりなんてしたら大変なことになるのだとか。  花をわざわざ食べるような子供なんてそうそういるわけも無いと少年は思うが、注意されたという事は当時の母親から見て少年は食べようと考える部類の子供に見られていたのかもしれない。  あるいは、ただ単純に親切心で教えようとしてくれていただけか。 「どちらにしたって、俺もそこまで馬鹿じゃなかったんだけどな……お母さんったら……」  思わず少年の口から笑いがこぼれて、ため息と共に静まり返る。  どれだけ追想したところで現実は何も変わらない。  もう二度と両親に会う事は出来ないし、やってはいけないことをやったとしても叱ってくれる相手などいない。  思い返せば思い返すほど、寂しさが胸を突く。  誰に聞かせるでもない独り言だけがその頻度を増すだけだ。   「……上から下まで毒がある、か……」  ふと、独り言を呟いた後になって少年は思った。  もしも今、怪物に成り果てようとしている自分が彼岸花を食べた場合――死んでしまえるのか、と。  彼岸花に含まれる毒がどれほどのものなのかは知らないが、大人が厳しく子供に言い聞かせようとしていた辺り、本当に「大変なこと」になるだけの毒素は含んでいるのであろう事は想像がつく。   「……まぁ、怪物まで殺せるほどかは知らないけど……物は試しだよな……」  体も心も怪物に成り果ててしまう前に死ぬことが出来れば、それ以上誰かに迷惑をかける事は無い。  自分が誰かを殺してしまうことも、これ以上孤独に苦しむことも無い。  そもそもの話、仮に何かの偶然が働いて、自分が怪物に成り果てることなく人間のままでいられたとして、今更何を目的にすればいいのかがわからない。  以前に少女が言った通り、目的地としていた東京の街にだって怪物が溢れているかもしれない。  いやむしろ、こんな山の中にさえ怪物ばかり見る時点で、少なくとも空の裂け目が見える範囲にある都市は住んでいた村と同じ状況になっている可能性の方が高いと言える。  人間と呼べる存在がどれだけ残っているのかは知らないが、何にせよもう安全な場所なんて何処にも無いのだろう。  怪物の力を前に人間なんて無力だし、そもそもその人間自体が突然怪物に変じてしまうようになっているのだから。  そんな世界で独りで生き延びて何の意味があるのか、少年には解らないし考えることも出来ない。  お腹も空いてきたし、もう楽になりたかった。  妹のことが心残りではあるが、事実上見捨てておいて今更その幸せを祈る資格など無いと少年は思う。  花園に足を踏み入れ、その内から一本の彼岸花を怪物としての右手で掴み取る。  無造作に引っこ抜いたその彼岸花の色は、黄色だった。    異形の部位と同じ赤色に良いイメージは見るからに毒々しく、白色の花はなんとなく石鹸の味がしそうな気がして。  一方で黄色はたんぽぽや菜の花のように食用に使われていた覚えもあって、毒があってもそこまで不味くないかもしれない――と。  どの彼岸花も毒がある事に変わりは無いが、どうせ選ぶのなら不味そうではない色の花が良いとふと思ったのだ。  結果として、少年は黄色の彼岸花だけを千切って束を作っていた。   「……あいつが一緒なら、綺麗だとか言ってたのかな……」  愛でるわけでも供えるわけでも無い花々を目の前に、こぼれた言葉はそんなものだった。  裂けた口を大きく開き、一気に黄色の彼岸花の束を食べにかかる。  ただただ苦いだけのそれをある程度咀嚼し、ごくんと飲み込む。  それから数秒待ってみたが、体の中が痛くなったりすることは無かった。 「……………………うぇ」  怪物の体に通用するほどの毒素ではなかったのか、あるいはそもそも見た目が似ているだけで彼岸花ではなかったのか。  どちらにせよ解ったのは、花を直で食べてもおいしくは無いという当たり前のことだけだった。  というか苦い、ひたすらに不味い。 「……何も無いなら食べなきゃよかった……うぇ、にがぁっ……!!」    良薬は口に苦しと言うが、そもそも良薬を求めてもいない少年にとっては何一つ良いことが無かった。  それならばと、気は進まないが他の色の彼岸花も試してみるかと少年は視線を移そうとして、 「――ゴアアアアアアアアアア!!」 「!!」  洞穴の花園に声が響き渡る。  明らかに獣のものと思わしきそれが聞こえた方へ少年が目を向けると、花園のある空間より更に奥の方から重々しい足音と共に第二の来訪者――あるいはこの洞穴を住まいとする先住民と思わしき怪物が姿を現した。  その怪物は、これまで見てきた怪物の中でも比較的奇妙な見た目をしていた。  ゴリラのように筋骨の発達した体躯を持ちながら顔はヒヒのように赤く、それでいて両手両足を含めた体の各部位を岩石が覆っているという、ただの動物として語るには異様な外見。  よく見ると左肩の部分に黒色のベルトらしきものが二つも巻きつけられているようだが、はたしてそれは何処から手に入れたものなのか。  動物園で見た覚えのある象さえも超える大きさのそれは、少年という侵入者を前に威嚇の吠え声を発していた。  此処は自分の縄張りだと、そう主張するように。  すぐに襲ってはこないその事実に少年は目の前の怪物の知性の高さを察するが、ご丁寧に退こうなどとは考えなかった。  怪物の威嚇を無視し、少年は一歩前に出て前屈みの体勢を取る。  その行動に怪物は少年のことを獲物としてではなく敵として判断したのか、即座に自ら少年に向かって踏み込み、岩石に覆われた右腕を振り下ろしにくる。  少年はそれを左に素早く避け、怪物の顔面目掛けて跳ぶと、異形の右腕を勢いのままに振り下ろした。  瓦割りでもするかのように怪物の額部分を覆っていた岩石が砕け、衝撃が怪物の脳天に伝播する。  が、やはりそこはこれまで遭遇した怪物達よりも強靭そうな肉体を持つだけあり、岩石を纏った獣の怪物は一撃を受けた程度で行動を鈍らせることは無かった。  返す刀で岩石に覆われた左腕を振るい、眼前の少年の体を殴り飛ばしたのだ。  少年の体は強く打ち飛ばされ、彼岸花の花園の上を面白いぐらいにゴロゴロと転がされる。  直前まで食べていたものが赤いものと一緒に胃の中から吐き出され、鈍痛も気持ち悪さも拭えぬまま少年は立ち上がった。  いつの間にか、その瞳もまた人間のものではなくなっていた。  獣のように瞳孔が縦に細まり、虹彩が黄色く染まった、人間のそれより少し大きくなった瞳。  剥き出しの牙と同じく、少年がこれから先に成り果てることになる怪物の凶暴性を示すが如きもの。  実際、少年は自分が口から吐いた赤色の事はおろか、自らの体を苛む痛みにさえ意識は向けなかった。  起き上がってすぐに駆け出し、凶暴な面構えのままに躍りかかる。  当然ながら、そんな少年に対し岩石を纏った獣の怪物は一切容赦などしなかった。  獣の怪物が突如として右腕を構え、左足を一歩前に出すと共にそれを振るうと、右腕に纏われていた岩石が突如として剥離し、数多の飛礫(つぶて)となって少年を襲いだした。  突然の飛び道具に少年は驚きながらも対応し、体を横に捻らせながら倒れこみ、岩石の直撃を免れる。  そして起き上がると、 「がああああああああ!!」  その口を大きく開いたかと思えば、体の何処にそのようなものを内包していたのか、喉の奥底から膨大な熱を含んだ炎を球の形で少年は吐き出していた。  火球は一直線に怪物の踏み出した左足の方に向かっていき、その膝の部分の毛皮を焼いていた。   「グ、ゴアアアアアアア!?」  左膝を焼く炎の熱に、怪物の苦悶が咆哮として彼岸花の花園に響き渡る。  自らの行動に対し、異形の比率が7割ほどになった少年は疑問一つ浮かべなかった。  今の彼にとって「炎を吐き出す」という行為は、出来て当たり前だと感じるようになった事の一つでしかなかった。  それがいつ、どのタイミングで知覚するに至ったものなのかが解らずとも。  使うことで『敵』を殺せるのなら、何でも良かった。  炎を吐き出してすぐに少年は駆け出し、左膝の火傷を負った部分に左の手を擦り合わせている怪物の顔面目掛けて飛び掛かる。  先の火球を、今度は怪物の顔面目掛けて直撃させるために。    しかし。  いつの世においても、獣が最も恐ろしくなるのは、追い詰められたと獣自身が判断した時であり。  それは今、この瞬間も例外ではなかった。 「ゴォアアアアアアアアアアアアアアッ!!」 「!!」  獣が取った行動は、言ってしまえば至ってシンプルなものだった。  岩石を射出するために振るった右腕を素早く戻し、それを足元の地面に向かって突っ込んで――そのまま振り上げたのだ。  結果、怪物の豪腕によって持ち上げられた土壌の塊が飛び掛かっていた少年に向かって放たれる事になる。  翼があるわけでもなし、空中で自由の利かない少年にはそれに対応出来る手段など無く。  あえなく直撃し、勢いを殺され地面に落ちる。  土壌の塊が直撃したところで大したダメージになるわけではないが、土が目に入り込んで状況を把握しづらくなり、隙が出来る。  そして、この瞬間における隙はまさしく致命的なものだった。  跳躍の勢いを殺され落ちたその位置は、既に怪物の間合いだったのだから。  目に入った土を左手ですぐに拭おうとした少年に向けて、怪物は四つん這いの姿勢を取ると――横に一度だけ回転した。  それが必殺の一撃となった。  素早い回転によって手足よりも大きな岩石に覆われた尻尾が遠心力を伴い、少年の体に直撃する。  拳を打ち付けた時などよりも、ずっと致命的な音が少年の体から響いた。  サッカーボールでも蹴り飛ばしたかのような軽さで少年の体が宙を舞い、彼岸花の花園の入り口のすぐ右側の壁に激突する。  頭や口から決して少なくない量の血液が漏れだし、少年の意識が朦朧とする。 「……ぅ……ぐぁ……」  呻き声一つ上げるだけでも精一杯といった様子だった。  自らの命の危機に、少年の思考が今更のように落ち着きを取り戻す。  最初に思ったのは、仕方がないという諦観だった。 (……どう見ても、俺よりも強い事は明らかだったしなぁ……)  自分事ながら、あまりにも馬鹿すぎて笑いがこみ上げる。  勝てる見込みが最初から薄い、あるいは無かったことなど心のどこかで理解していたはずなのに、その上で逃げもせず挑んでしまったその事実。  戦う直前に自分自身の死を望んでおきながら、戦いになった途端に生き残ろうと体を動かしていた事実。  なにもかもが中途半端で、人間として考えても怪物として見てもまるで駄目な自分自身の有様に、少年はもう苦笑いを浮かべるしかなかった。 (……本当に、かっこ悪いなぁ、俺……)  どれだけ強がったところで、彼という子供がちっぽけな存在である事は変わらない。  仮に迷い果てて洞穴に入ることもなく、あのまま少女と共に東京の街に向かう選択をしていたとしても、このような怪物が山の中に現れるのなら、どの道少年が少女を護りぬくことなんて、出来たりはしなかっただろう。  少年は、今の世界を生きていくには何から何まで弱すぎた。  それなのに妹である少女の目の前で強がり続けて、自分勝手に見捨ててしまって。  本当に、何から何までかっこ悪いと少年は自嘲した。  今になって思う。  あの時、怪物に変貌した自分を見て怯えた少女の顔を見て。  自分が怪物になっていく事実を実感して、その変貌が少女に牙を剥かないように逃げたのは。    少女を護るためではなく、他ならぬ自分自身の心を護るための行動だったのではないかと。  自分の心が傷付かないようにするための言い訳に、妹である少女を使っただけだったのではないかと。  だって、ここまでかっこわるい自分が、自分勝手に振舞うことしか出来なかった自分が「誰かを護る」なんてかっこいい理由のために頑張れただなんて考えられない。  結局、自分は自分の心を護ろうとするだけで精一杯で。  今に至るまでの時間の中でも、少女のことを傷付けずに護りぬけただなんて言えなくて。  現在に至っても、わがままに生きていただけだったと思い知るだけだったのだから。 (……仕方無い、よな……)  死んだら、自分は何処に向かうのだろうと少年はふと想う。  山の中で殺した二体の怪物は、死を迎えると共に粒子となって消えていた。  死体と呼べるものなんて何処にも残らなかった。  あるいは同類とも呼べる怪物になろうとしている自分も、死んだら綺麗さっぱりなくなってしまうのだろうか。  それとも消えた風に見えるだけで、何処か別の――それこそ今もなお空に開いている裂け目の中にでも吸い込まれてしまうのだろうか。  何処にいるのかもわからなくなった両親と、同じ場所にいく事は出来るのだろうか。   (……あの子を見捨てた時点で、そんな優しい終わりなんて……)    不安を抱き、後悔をするにしても遅すぎた。  体を動かすための力はもう底を尽きかけているし、此処を縄張りとしているのであろう岩石を纏う獣の怪物が敵として現れた少年のことを見逃してくれるわけも無い。  実際、前方から少しずつ自分に向かって近付いてくる足音の存在を、少年は感じ取っていた。  自分は此処で、独りで死ぬ。  死んで、知らないどこかに消えていなくなる。  その結末はもう、変えようが無い。  走馬灯の一つも浮かべることが出来ないまま、少年は死の足音が近付いてくるのを待って。  そんな時だった。  絶対に聞こえるわけが無いと思っていた声が、花園の中に響き渡ったのは。 「――お兄ちゃああああああああああん!!」 「……ぇ……?」  声の聞こえた方を、死に掛けの少年は首だけを動かして、そして見た。  そこに、自分という存在に怯えていたはずの相手が――自分が見捨ててしまった相手がいた。  少年の妹である少女が、彼岸花の咲き誇るこの空間に足を踏み入れ、涙を浮かべた様子で少年の事を見ていた。  獣の怪物のことなど意にも介さぬ様子で、少女は倒れた少年の傍に駆け寄ってくる。  見れば、その両足からはサンダルが無くなっていた。   「……おまえ、どうしてここに……いや、そんなことより……」  今すぐにここから離れろ、と。  怪物に襲われてしまう前に逃げろと、少年は口に出そうとした。  だが、その前の少女の言葉があった。 「――ごめんなさい……!! お兄ちゃんの事を怖がっちゃって、お兄ちゃんの事を信じられなくなっちゃって……っ!!」 「……それ、は……」 「お兄ちゃんのほうがずっと辛かったことなんて知ってたのに。お兄ちゃんのほうがずっと我慢してたことなんて知ってたのに……わたし、何も出来なかった。お母さんとお父さんとおいしそうに食べてたあの果物を食べれば少しは大丈夫になるかと思って頑張っても、取り返すことも出来ないでぐちゃぐちゃになっちゃった……!!」 「――――」  それは、謝罪の言葉だった。  自分が悪いと思い続けていた少年にとっては、考えもしなかった言葉だった。  少女はここまで、少年の事を想ってくれて――実際に、この洞穴の中まで追いかけ続けてくれていた。  あの時、あの瞬間に少年は少女のことを見捨てたというのに。  少女は、少年の事を見捨てたくないと走り続けていた。  好きだったパイナップルを食べずに少年の方に押し付けようとしていた理由だって、少年の事を想ってのことだった。  その事実に、少年は何も言えなかった。  少女がそんな事を考えてくれていたなんて、知ろうともしなかった。  少女は倒れて動けない少年の事を抱きしめながら、続けざまにこんな言葉を紡いでいた。   「お兄ちゃん、もう離れないで……」 「…………」 「人間じゃなくなってもいい。わたしの事が嫌いになったっていい。もう、独りは嫌なの。お兄ちゃんがどんなに変わってしまってもいいから、わたしが死んじゃってもいいから、お願いだから……ずっとお兄ちゃんと一緒にいさせて……!!」 「……っ……」  近付いてくる怪物の足音も、少女に対して向けられた威嚇の咆哮も、耳に入らなかった。  少年はただ少女の願いを聞いて、心の中で反芻して、確かに噛み締める。  そして、 「……ひとつだけ、駄目なことがある」 「……お兄ちゃん……?」 「死んじゃってもいいから、なんてのはナシだよ。いつかはそうなるんだとしても、今はそんな事になってほしくない」 「……うん……っ!!」  こんな所で死んでたまるかと、奮い立つ。  体の痛みなどに、心の痛みなどに負けてはいられないと、立ち上がる。  自分独りなら、怖くはあるけど死んでもいいと思えた。  だけど、その死を自分を想ってくれた人間が共にするというのは、我慢ならない。  少女は少年の事を受け入れると言った。  少年がどれほど変わってしまってもいいと、怪物としての少年を肯定してくれた。  人間じゃなくても、怪物に成り果ててしまっても――それは自分にとっての「お兄ちゃん」であると信じてくれた。  その決意にどれだけの思考を要したのかはわからない。  だが、決して軽々しく出来る決断ではないと少年は思った。  であれば、少年はどう応えるべきか。  自分の事を信じてくれた少女に対して、自分が出来る事とはなんだ。 (……そうだよな)  答えは既に提示されていた。  他ならぬ自分自身、独りの考えでは踏み切れなかったというだけで。  信じてくれる誰かの事を知ってさえいれば、その誰かの事を信じられさえすれば、いっそ当たり前とも言える回答が。 (こんなに信じられている俺自身を、俺が信じてあげないのは……駄目だよな!!)  「ゴアアアアアアアアアッ!!」  今度こそトドメを刺さんと、獣の怪物が岩石に覆われたその両腕を振り下ろす。  マトモに受ければ少年も少女もまとめて潰される、渾身の一撃。  それを、 「があああああああああああああああああ!!」  真っ向から、両の手を突き出して受け止めにかかる。  当然のように凄まじい衝撃と重圧が体を伝い、少年は両腕どころか全身が砕け散りそうな錯覚さえ覚えた。   実際、骨は砕けているのかもしれない。  先の尻尾の一撃も相まって呼吸する度に全身に激痛が奔っているし、普通に考えて少年の体は既に戦いに耐えられるものではなくなっているのだろう。  それでも、諦めない。  痛過ぎて苦しすぎて涙だって出てくるけど、生きようとする事は絶対に諦めない。 (もう、いいんだ。我慢しなくたって、いいんだ……信じられている、から……!!)    今の自分の気持ちに正直になれ。  妹である少女を護りたいという気持ちも、少女と共に生きていたいと願う気持ちも、そのための邪魔となる目の前の怪物を殺してしまいたいと願う気持ちも、その全てが本物だ。  中途半端に人間の体が残っている、今の自分では本物の怪物に勝つことが出来ないというのなら。  もう、自分は怪物になってしまっていい。  人間でなくなっても、自分の事を信じてくれると言ってくれた妹のように。  自分自身も自分という怪物の事を信じるから。  きっと、どんなに変わり果てたとしても、この気持ちだけは残されているはずだと。  この気持ちが残ってさえいれば、どんなに変わり果てても自分は「お兄ちゃん」のままでいられると。 「グッ……ゥラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアー!!!!!」  彼岸花の咲き誇る花園に、咆哮が響き渡る。  少女の想いに答え、少年は想うがままに自らの気持ちを解き放つ。   「ゴアアアア!?」  直後に、怪物の両腕を受け止めていた少年の体を、眩ゆい光が覆い出した。  それは怪物の体を弾き飛ばすと共に巨大な繭のような形を成し、花園の上に顕現する。  まるで幼虫が蝶に至る過程である蛹の中身のように、少年だったものが異なる何かに変わっていく。 (――――――)  人間としての部位も怪物としての部位も、身に纏っていた服装も何もかも――その全てが剥がれて剥き出しのワイヤーフレームになる。  中心に0と1の数字が描かれた球体を据えながら、人型の体の輪郭を形作っていた緑色の線がほどけ、球体が高速で回転を始めると共にそれは新たなるカタチを繭の中で描き出す。    角と羽と髪の毛を生やし、元々存在していた部位の面影を残した頭部が。  三本の鋭利な爪はそのままに、刃のような突起を生やした両腕が。  強靭に発達した筋骨により、その巨体の重さを支える力強い両脚が。  力任せに振るえば鈍器にもなろう太さと長さを供えた尻尾が。  身に宿す膨大な力を溜め込み収める胴体と腹部が。  それ等全ての形が、存在の基礎外殻が、緑色の線によって精密に描かれる。  前提として、描かれたシルエットは人間のそれとは比較にならぬほど大きかった。  まるで抑え込んできた感情の大きさを示すが如く、敵対者の怪物を更に越してしまえそうなほどに。  輪郭の全てが描かれると、骨格の中心に存在する0と1の数字が描かれた――まるで心臓のように在る――球体が回転の速度を増す。  すると、緑の線で描かれただけの空っぽの竜のシルエットに、その内側から色が浮き上がってくる。  浮かび上がった色は赤と黄、そして白と黒。  赤色と黄色はひとりでに混ざり合って橙色になると、腹部以外を染めていく。  白色は橙色が染めなかった腹部や爪を染め、黒色はそうして染め上がった全身各部に重なるよう染め上がり、意味ありげな紋様を形取っていく。  新たなるカタチは完成し、色を宿して無は有と成る。  役目を終えたらしい光の繭は糸のように解けて消え、その中で変化――否、進化を果たしていた存在の姿を世界に現出させた。  橙色の体色に黒い紋様を浮かばせ、銀色の髪を生やした竜。  それが、少年だった存在が辿り着いた怪物だった。  その竜は横に裂け広がった大口を開けると、まるで産声のように咆哮を上げる。 「グオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」  獣の怪物のそれを更に超える、空間そのものを震わすような大音響だった。  その声に人間らしさなど欠片もなく、その野性的な姿は誰が見ても畏怖の対象としかなりえない。  されど、そんな竜に向けて少女はひとつの言葉を投げかけた。  信じるままに。 「お兄ちゃん」 「……大丈夫、だ……」  言葉に対する返答は、人間の言葉だった。  声質こそ重々しい、少年と呼ぶには相応しくないものであっても、そこに確かに面影はあった。  竜の中に、少年は確かに残っていた。  その事実を示すように、竜は少女の前で姿勢を低くすると、軽く笑みを浮かべていた。  直後に鋭利な爪の生えた右腕が差し出され、少女は竜に「乗れ」と言外に急かされているように思って、その意に従った。  右腕の上に少女が乗ると、竜はゆっくりと少女を自らの頭の上に乗せ、少女はそこに生えた銀色の髪の毛を掴んで支えとした。  それを知覚した竜の視線が、改めて敵対者に向けられる。  光の繭に吹き飛ばされていた獣の怪物は、新たに姿を現した竜の存在に警戒心を強めているらしく、向けられた視線に対して威嚇の咆哮で応じていた。   「ゴゥッ……グオアアアアアアアア!!」  無視して、竜は少女に対してこう言った。  もう、恐れなんて無かった。 「――しっかり、掴まっててくれ」 「……お兄ちゃん……」  実のところ。  いつの間にか色々なことが思い出せなくなって、自分の名前さえ解らなくなっているけれど。  自分がどう呼ばれているのかは、しっかり覚えている。  そして、自分の事をそう呼んでくれる相手のために、自分が今何をしたいのかも、解っている。  だから。 「オレがお前を護る。これからどんな事があったとしても!!」  橙色の竜はそう言うと共に駆け出し、岩石を纏う獣の怪物に襲いかかる。  獣の怪物は自らに迫り来る橙色の竜に向かって即座に両腕を連続して振るい、纏っていた岩石を飛礫として放つ。  見れば、先ほど放っていたはずの右腕の岩石がいつの間にか元通りになっていた。  更に、素早く横に駆け出して避けても、次から次へと岩石の飛礫は放たれる。  どうやら獣の怪物の体に纏われている岩石は怪物自身の体から生えていたものらしく、岩石の飛礫は少なくとも怪物自身の体力が尽きぬ限り放たれてこなくなる事は無いらしかった。  ただでさえ大きくなった橙色の竜の体に回避は難しく、何よりこのままでは埒が明かない。  故に、橙色の竜は決断をした。 「グゥラアアアアアアアアッ!!」  真正面から、突破をすると。  咆哮と共に移動方向を変え、獣の怪物との間合いを詰めに掛かる。  岩石の飛礫が障害として次々と投げ放たれるが、その度に橙色の竜はその両腕の爪を振るう。  爪が振るわれる度に岩石が砕け、一歩一歩確実に進んでいき。  そうして、岩石の飛礫が通用しない所を見て考えを変えたのか、途中でむしろ獣の怪物の方からも橙色の竜との間合いを詰めていた。 「ゴオオオオオオオオオオッ!!」 「ガアアアアアアアアアアッ!!」  怪物二体が、改めて衝突する。  体格はほぼ互角、であればこそか竜と獣は互いに腕を振るい殴り合いを始めていた。  竜が右腕を振るうと獣は左腕でそれを受け止め、纏っていた岩石を砕かれながらも返す刀で右の拳を竜の腹部目掛けて突き出していく。  苦悶の呻き声と共に竜の口の端から赤いものが漏れるが、退かずに竜は続けざまに左腕の爪で獣の岩石に覆われた額を打ち据える。  肉薄するまでに放たれていたものと同じように額の岩石は砕け、衝撃が伝播する。  岩石が緩衝材の役割を成したことで決定的なダメージには繋がらなかったようだが、その衝撃は獣を怯ませるのに十分なものだった。  そして、その隙を竜は見逃さなかった。  先に振るっていた右腕を引き戻し、今度は獣の胴体目掛けて振るう。  毛皮ごと獣の肉が抉られ、赤色が漏れる。  今度こそ苦悶の声を漏らした獣は自ら後方へと飛び退き、竜との間合いを開かせる。  本来ならば、竜は攻めの流れを崩さずに再び肉薄しに掛かるべきだったのかもしれないが、竜は仕切り直しとなった状況を前に、先の攻防の中で覚えた違和感を思い返していた。  それは、 (――投げてきていた岩よりも、硬い……)  獣が体に纏っている――否、獣の体から生えている岩の硬度に、違いがあったという点だ。  竜の右腕の一撃を受け止めた左腕の岩石、そして左腕の一撃を加えた額の岩石。  その二つの内、後者は竜が少年であった頃に一撃を見舞い、砕けていたはずだった。  岩石の飛礫を一撃で粉砕出来る竜の力であれば、纏う岩石ごと骨を砕けていてもおかしくはないはずだった。  それでも、先の一撃は明確なダメージには繋がっていない。  岩石の飛礫を何度も放ってきていた時に、獣の体から生えている岩石が再生するものであるという事は理解していたが、硬度に違いがあるなど考えもつかなかった。  左腕の岩石と額の岩石、この二つに違いがあるとすれば、一度砕かれたかどうかという点だろう。  つまり、 (……砕かれる度に、余計に硬くなるのか。あの岩……)  だとすれば、戦いを長引かせるのはまずいだろう。  殴り合う度に岩石の硬度が硬くなり、竜の爪が通用しなくなり、一方で獣の一撃の威力が増すというのなら。  隙を作ろうとする動きさえもこちらの不利に繋がる可能性がある。  であればこそ、次の攻防で決めなければならないと。  必殺技とでも呼ぶべき渾身の一撃で仕留めなければと、竜は認識を改める。 (……必殺技……)  その言葉を頭の中に浮かべた時、自然と思い浮かぶイメージがあった。  あるいは、怪物として持ち得る攻撃手段が。  今の自分であれば、それを使うことが出来て当たり前だという、確信と共に。   「――グゥゥゥゥ……」  気性が獰猛になる。  瞳孔が縦に細まり、意識せずに唸り声が上がる。  喉の奥が熱くなり、口の端から炎が漏れる。  一つの単語が、頭の中に浮かぶ。 「ゴアアアアアアア……ッ!!」  対する獣もまた、戦いを迅速に終わらせようと考えたのか。  突如として高く跳躍すると、縦に回転しながら竜の立つ所に目掛けて勢いよく落ちてくる。  その尻尾に纏った大振りの岩石を、全力で叩き付けるために。  あるいは、それこそが獣の怪物にとっての必殺技と言える攻撃手段だったのか。  応じるように、竜は急速に落ちてくる獣の方を見ると大きく口を開き、 「グライドロッ――」 「――エギゾーストフレイム!!」  自然と漏れた言霊と共に、口の中に溜め込んだ爆炎を一気に解き放つ。  空中から降下していた獣にそれを回避する術などは無く、炎は一本の太い線となって獣の怪物を飲み込み、その体を焼き尽くしていく。 「ゴ、アアアアアアアアアアアアアア!?」    絶叫が響き渡り、勢いも殺された獣が地面に墜落する。  辺りの彼岸花に炎が燃え広がる中、体を焼き尽くさんとする炎を消そうと獣は地面の上でのた打ち回るが、炎はなかなか消えずに暴れる力だけが確実に損なわれていく。  そして、そのような有様を見て、竜は一切の容赦をしなかった。  近付き、胴体を左足で踏みつけ、獣の体を地面に縫い付けるようにして抵抗の余地の一切を封じると、一息に右腕の爪を振り下ろしたのだ。  首を狙って放たれたその一撃は獣の喉笛を貫き、その命を確実に狩り取っていく。  そして獣の怪物は、断末魔の声を上げる間もなくその体を粒子として散らし、何処にも見えなくなった。  終わってみれば、呆気なく。  戦いは決着し、その場には橙色の竜とその髪の毛に掴まった少女だけが残された。  ◆ ◆ ◆ ◆  そして。  敵対者がいなくなったためか、あるいは一時の話とはいえ少女の事を護ることが出来たからか、それまでの凶暴な振る舞いが嘘のように橙色の竜は落ち着きを取り戻しており。  今は花の咲いていない所でうつ伏せに倒れ込み、その顔に近寄った少女と向き合っている所だった。  苦笑いしながら、竜は当たり前のことを口にした。 「……ごめん、ちょっと疲れた……」 「……仕方無いよ。ずっと、お兄ちゃん頑張ってたから……」  どうあれ、今この時に至るまでの出来事は十分すぎる厳しさを含んでいた。  マトモに一睡することも出来ず、腹だってろくに満たせてはいなくて、雨にも打たれ続け、そしてこの場では死に掛けもした。  それだけの事があっておいて、たとえ怪物に成り果てていようが、疲労が無かったことになるわけが無かったのだ。  獣の怪物を真っ向から殺しに掛かっていたあの時も、正直なところ限界に近かった。  それでも戦えたのは結局のところ、強がりに過ぎなかった。 「……なぁ、正直に答えてほしいんだけどさ。オレ、今もそのままだと思うか?」 「うん、今もお兄ちゃんだと思うよ。人間じゃなくなっても、そんなに変わってないと思う。だって、馬鹿みたいに強がって無理しちゃってるんだもん」 「……馬鹿みたいは余計だグルルルル」 「怒って驚かそうとしたって駄目だからね。ちゃんと、今は休まないと」 「ちぇっ」  そして、そんな事は少女にバレバレだった。  護りたい相手だからというのもあるが、少年だった竜はこの少女の言葉にだけはどう頑張っても敵わない気がした。  無論、そんな事実は表立って認める気も無いが。    少女の言う通り、少年だった竜は疲れ果ててマトモに動ける状態ではなくなっている。  今はこの彼岸花の花園の上で休んで、戦えるだけの体力を取り戻す必要がある。  とはいえ、ただ休むだけでは時間の無駄であるようにも思えて、橙色の竜は少女に対してこれからの動向を話しあおうと考えた。  その時だった。   「――くちゅん!!」 「……おい、大丈夫か? そのくしゃみ、風邪か……?」 「だ、大丈夫、だよ。あのぐらいの雨で風邪なんて……」 「……はぁ……馬鹿みたいに強がってるのはお前もみたいだな」  少女の言い様に竜は呆れたような声を漏らすと、右手で少女の体を優しく掴み取る。  そのまま体勢をうつ伏せから仰向けに移行すると、なんと少女の体をお腹の部分に押し付けたのだ。  まるで、自分の体をベッドの代わりにしろとでも言わんばかりに、右手と一緒に左手も重ね合わせて少女を逃がさない。  突然の事態に、顔が真っ赤に染め上がった少女が抗議の声を上げる。 「ちょ、ちょっとお兄ちゃんっ……!! いきなり何するの……!?」 「いや、濡れたのなら暖まらないとだろ。かと言ってオレが吐く炎は加減が出来るかも怪しい。だったらこうした方が……なんだっけ、オシクラ饅頭? になって安全に暖まると思って」 「そ、そのっ、解ってるんだよねお兄ちゃん!? 今、お兄ちゃん服着てないでしょ!?」 「……いや、そりゃオレは……今はドラゴンだし……どうでもいいだろ……」 「どうでもよくなんて無いでしょ!! そんなところまで人間じゃなくなってるの!?」  少女がなんか言っているが、橙色の竜はまともに応じようとはしなかった。  仰向けになったせいか、途端に疲れを実感し始めた体が眠気を訴えてきて、なんかもう色々な事に安心を得た橙色の竜は、 「……ふぁぁ……ごめんもうむり……」 「あ、ちょ、ちょっと!! お兄ちゃんってば!!」  諦めの言葉を口にすると同時、ぐっすりと眠りに入ってしまった。  いっそ、怪物らしいとも呼べる寝息を立てながら。  もうすっかり、自分が完全に怪物になってしまった事については吹っ切れてしまったらしい。 「……もう、お兄ちゃんったら……」  橙色の竜の振る舞いに少女が呆れた声を漏らす。  しかし直後にその表情には安らかな笑みが宿り、彼女は内心だけでこうも呟いていた。   (……本当に、良かった……)  村を出てから、ずっと心配だった。  自分の事を護るために躍起になって、自分を追い詰め続けていた自分の兄の事が。  ゴブリンの怪物に襲われた直後の事で、少年が少女の事を見捨てたと感じてしまった時、同様に少女もまた少年の事を見捨ててしまったと感じていた。  少なくともあの時点で、少年に寄り添うことが出来るのは少女だけで。  少女がもっと違う反応を見せることが出来て、ちゃんと言葉を交わすことが出来てさえいれば、そもそも少年がこんな洞穴の中に入り込んでしまい、怪物に襲われることも無かったかもしれないのだから。  いつかこうなる事が決まっていたとしても、結果として少年を怪物に変えてしまったのは少女だったのだと、少なくとも少女は考えている。    本当のところ、怖かった。  少年が成り果てた橙色の竜の姿が、ではない。  こうなる道に導いてしまっておいて、自分の事を憎んでいるのではないかと。  口では嫌われてもいいと言っていながら、それでも怖かったのだ。  少年と同様に、少女もまた強がっていただけだったのだから。  そして答えは提示された。  少女がそうすると決めたように、少年だった竜もまたこうして少女の事を受け入れると決めてくれた。  一緒にいて良いのだと、こうして行動で示してくれた。  これからどうなるのかなんて、竜にも少女にも解らない。  当初の方針通り、東京の街に先ほどの獣の怪物よりもずっと強い怪物と出くわす可能性はあるし、そうでなくともこうして怪物に成り果てた少年のことを他者が受け入れてくれるかどうかわからない。  いつか少女自身だって、少年と同じように怪物になってしまうかもしれない。  その可能性は決してゼロとは言えない。  あの日、他の人間ほどではないのだとしても、少女もまた空の裂け目を目撃した人間であることに変わりは無いのだから。 (……まだ怖い、けど……)    世界はすっかり変わり果てた。  人間が人間のままで生き続けることすら難しい、ある意味原初に遡った弱肉強食の世界に。  だけど、少女は信じたいと思った。  どんなに姿形が変わり果てても、母親や父親に会えなくなっても。  残されたものは、確かに此処にある。 (……いつか、お兄ちゃんと一緒に、あの村に戻れたら……お母さんとお父さんにいろいろ伝えたいなぁ……)  竜の温もりを感じながら、少女もやがて眠りに就く。  色取り取りの彼岸花の花園の中、橙色の竜と少女は目覚めるその時まで互いに離れなかった。
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ユキサーン
2022年9月13日
In デジモン創作サロン
 前の話へ。  実のところ。  牙絡雑賀と縁芽苦朗、そして彼等を襲う三体の電脳力者による激闘。  それが繰り広げられていた事実は、離れた位置で別の敵――熊人形の怪物と交戦して辛うじて撃破した赤い竜人姿の司弩蒼矢と拳法着を着た兎の獣人姿の縁芽好夢も知覚していた。  各々の話し声までは聞こえずとも、戦闘に伴った爆音や咆哮などはしっかり届いていたためだ。  特に、兎の長い耳を有する縁芽好夢の耳には、聞こうと意識するまでも無く。 「……多分、戦いだよね。この音は……」 「…………」  今更、自分の身の周りで起きている出来事が偶然であるなどとは考えられない。  まず間違い無く、遠方で繰り広げられているであろう戦闘は自分の存在、あるいは磯月波音を利用して自分を無理やり連れ去った者達と関わりのある事だろうと蒼矢は思った。  争っているという事は、少なくともそこには蒼矢を連れ去った連中の思惑を良しとしない者がいるのだろう。  それはあるいは正義の味方と呼べる者なのかもしれないし、また別種の悪党の類かもしれない。  願わくば前者であってほしいが、戦闘音だけでは何も判別する事が出来ない。  ただでさえ知らない事が多すぎる今の彼等にとって、遠方で巻き起こっている戦闘の構図は知っておくべき事ではあるのだろう。  だが、 「……悪いけど、今は波音さんを連れて逃げる事を優先しよう……」 「……うん……」  今の彼等には優先事項がある。  悪意ある者達に利用された挙句に蹴り捨てられた磯月波音を、急ぎ病院に運び出すことだ。  何せ、時間的猶予が見えない。  炎の魔人の人外の脚力によって放たれた蹴りが、ただの人間の肉体にどれほどのダメージを与えているのかどうか――医者でも何でも無い彼等には診断のしようが無い。  素人目で見て解ることは、とにかく急を要する容態であることだけ。  少なくとも、肋骨が折れて内臓が損傷している可能性は十分に考えられたが、それが命のタイムリミットをどれだけ削ぎ落としているのかどうかが解らない。  であればこそ、他の事柄は切り捨てておくべきなのだ。  たとえ景色の向こう側に大いなる真実が存在していようが、そんなものは後回しにしてしまった構わない。  命を救える可能性を損なってまで得たいものなど、今の彼等には存在しないのだ。  無論、司弩蒼矢の内に宿る怪物――リヴァイアモンもまた同意見だった。 『確かめようと覗き込んだ所でバレるかもしれねぇし、気配とか感知されたら接触は免れねえ。お前の方針が今回は正解だよ』 (……ありがとう。薄情なヤツだとか言わないでくれて) 『馬鹿、あんな今にも死にそうな奴を放っておく方がよっぽど薄情だろうが』  結論は出た。  蒼矢は軽く頷くとその視線を好夢の方へと移し、問うべきことを口にした。 「それで、波音さんは何処に? 安全な場所に隠したんだよね」 「……それなんだけど……その……」  と、そこで奇妙な反応があった。  磯月波音を安全な場所に隠していた縁芽好夢の方から、歯切れの悪い言葉が返ってきたのだ。 「? どうしたの?」  疑問をそのまま口に出すと、こんな回答が返ってくる。  「……あの人を隠した場所、あの戦闘音のする廃屋の辺りなんだよね……」 『「え?」』  ◆ ◆ ◆ ◆  二人の電脳力者の死によって、状況は決した。  二人の電脳力者をその力でもって討ち滅ぼした魔獣と魔王を、たった一体の――特別力で勝っているわけでもない――電脳力者がどうこう出来るわけも無い。  苦朗が投げ放ったミサイルの爆発を受け遠くへ吹っ飛ばされた『フェレスモン』の電脳力者は、女墜天使と機竜の末路を遅れて認識するや否や、表情を僅かに曇らせながら何処かへと飛んでいってしまった。  縁芽苦朗に、追撃の意思は無い。  それが、他に優先するべきことがあるからであることは、事情を知る者からすれば容易に察せられる。  故に、女墜天使をその牙と炎でもって殺めた『ケルベロモン』の電脳力者――牙絡雑賀は、すぐさま『ベルフェモン』の電脳力者たる縁芽苦朗の近くに跳び込み視線を向けていた。  縁芽苦朗もまた、横目に視線を返す。  その赤い瞳には親しみの情など微塵も宿っていない。  つい先ほどまで共闘していた間柄に生じるものとはとても思えない、重い空気が満ちる。  先に口を開いたのは、意外にも苦朗の方だった。 「……だから、来てほしく無かったんだ」 「…………」 「解っていた事だ。お前は、お前のようなお人好しは、俺のする事を知ったら必ず足を引っ張りに来る。なまじ電脳力者としての力が目覚めてしまった所為で、物理的に追いつくための足さえ手に入れてしまったのだからな」  彼にとっても雑賀にとっても、やるべき事はまだ終わっていない。  それでも言葉を吐き出すのは、あるいはそれが必要な事だと感じたからかもしれない。  だから、雑賀もまた苦朗の言葉に対して思ったことを口にした。 「来てほしくなかったのなら、あのトリ侍に伝言なんて頼まなければ良かった。あるいは、伝言させるにしたって、偽の情報でも伝えさせてしまえば、この件に関わらせない事だって出来た。それでも、嘘の無い情報を提示したのは……お前自身、そんな事をしたくないと思っていたからじゃないのか? 殺さずに済ませるための方法を、模索しようとしたからじゃないのか?」 「……いつもこうだ。『怠惰』を司る魔王としての性質か、あるいは呪いか……やるべき事は解っているのに、ついつい自分が楽になれる道筋を探ってしまう。それが致命的な『大罪』になると理解していても。……忌々しいものだ」 「……それは『怠惰』と呼ぶべきものじゃないだろう」 「結果が伴わなければ同じ事だ」  もし、自分が縁芽苦朗と同じ立場だったらどうしただろうと雑賀は思う。  特別恨みを抱いているわけでも無ければ悪人でも無いかもしれない赤の他人を殺さなければ、家族や友人といった大切な者たちを失ってしまうかもしれないという、命の天秤。  そんなものを提示されて、一切の迷いなく選択することが出来るか。  なまじ知識があるからこそ、現実に危機感を強く知覚出来る立ち位置にあったからこそ、恐怖は強かったはずだ。  それでも、彼はほんの僅かでも迷ってくれた。  司弩蒼矢という人間が、最悪の結末に至らないための道筋を、考えてくれた。 (……もしかしたら……)  自分よりもずっと多くの知見を有する彼のことだ。  あるいは、こうも考えていたのかもしれない。  もし仮に、司弩蒼矢の心が悪の力に染め上げられてしまったとしても。  リヴァイアモンの力が最悪の形で目覚めてしまったとしても。  たった一度、されど明確に一人、戦って言葉を交わした人間であれば。  その心に触れられる機会があった、人物の言葉であれば。  殺すことなく済ませられる道筋を、描くことが出来る可能性があるかもしれないと。  であれば、返すべき言葉はただ一つだった。 「俺も手伝う。アイツ……司弩蒼矢を助けるためならな」 「……助けないのならまた足を引っ張る、というわけだ」  魔王の口から深いため息が漏れる。  彼等は共に大きく消耗しており、争っていられる余裕も無い。  故に、決断は早かった。   「……あぁくそ、解った。思っていた以上に強情なやつだな……」 「!! それじゃあ」 「ああ。可能性を見い出せる内は、俺もまた司弩蒼矢を殺さずに済ませられるよう努めよう。これ以上の面倒はコリゴリだからな」  言うだけ言うと、苦朗は静かに目を閉じた。  こんな時に精神統一でもしているのかと雑賀が疑問を覚えていると、苦朗の方から問いが投げ掛けられた。   「一応聞くが、お前は司弩蒼矢のニオイとか記憶しているか? 犬らしく」 「犬らしくは余計だ馬鹿。悪いが初対面の場所がプールだったし、嗅ぎ取れてなんていないぞ。ここまで来るのに辿ったのは病院で覚えたお前のニオイの方だ」 「そうなると、やはり勘に頼る事になるか」 「? というか、お前はそもそも蒼矢が連れ去られた場所を知ってて動いてたのか?」 「そんなもの知っていたら魔術で爆撃でもしている。俺は魔王として邪念……というかさっきの連中が発するような悪意の類に敏感なだけだ。少し集中すれば、クソ野郎共の位置は把握出来る。お前が解らないのなら、面倒だが俺が感知する他にあるまい」  要するに、縁芽苦朗は『ベルフェモン』としての第六感に頼る事にしたらしい。  人間としての常識で考えれば、非現実的な捜索手段だろう。  だが、目の前に存在するのは不思議な力を用いる存在の筆頭とも言える存在――その最強格だ。  デジモンという存在を知る身として、雑賀もそれは可能であると考えられた。  故に、特に疑うことはせずに精神を集中させた様子の魔王を眺めていたが、 「――む?」 「見つかったのか?」 「逆だ。周囲の邪念が先ほどまでより薄すぎる。リヴァイアモンの力が覚醒してしまっていないにしても、先ほどの連中の仲間が潜んでいるはずだが……」 「……単にうまいこと邪念を消しているだけって可能性は? そういうものを感じ取れる奴が敵だって解っているのなら、そのぐらいはすると思うが……」 「その可能性は無いでも無いが……邪念というものは簡単に消せるものではない。ましてや『組織』のトップの電脳力者から力を与えられている場合、先の奴等のように場合によっては悪意を制御しきれていない可能性の方が高いはずだ。実際、つい少し前までは奴等以外の悪意を感じ取ることが出来ていたしな」  言葉に疑問を覚え、牙絡雑賀もまた『ケルベロモン』としての嗅覚でもって悪意の類を嗅ぎ取ろうとした。  だが、苦朗の言った通り――悪意や邪念の類と思わしきモノを感じ取ることは出来たが、先ほど戦った者達と比べずともそれは圧倒的に『薄い』と直感出来る程度のものだった。  建物にこびり付いた染み付き、あるいは残滓とでも言うべきもの。  確かに苦朗の言う通り、気付けば辺りから邪念の類は殆ど消えていた。   「奴等の仲間のものと思わしき邪念が薄れていて、リヴァイアモンの力が暴走している様子も無い。……となると……」  その事実が何を意味するのか。  なんとなく、雑賀には答えが解った気がして。  釈然としない様子の苦朗に対し、雑賀はこんな言葉を切り出した。 「司弩蒼矢が自力で敵を倒して逃げたんじゃないか?」 「……いやいや、それは流石に無いだろう。お前が戦った……つまり昨日の夜中の時点では成熟期の力までしか使えていなかったんだろう? 先の奴等を基準に考えても、司弩蒼矢を洗脳なり何なりするために完全体相当のデジモンの力を扱う電脳力者が複数ついていたはずだ。お前のように土壇場で完全体デジモンの力に目覚めたと仮定しても厳しいぞ……?」 「でもお前曰く魔王の力を宿してるんだろ? 蒼矢のやつ。要するに滅茶苦茶強い力を秘めてる」 「……そりゃあそうだろうが……」 「ていうか、お前という優しい魔王がいる時点で……蒼矢もそうなる可能性があるわけだし……」 「とりあえずテメェこのクソ犬は現実の話をしような?」  到底、苦朗には信じられない可能性だった。  だが魔王としての第六感も回答を出し続けている――三体の電脳力者と戦う以前と比べて、邪念の類が半分以上かき消えている、と。  この場に飛んで来るまでに掛かった時間、そして戦いの中で経過した時間、そして司弩蒼矢の心を自分達の都合に合う形に変貌させて『リヴァイアモン』の力を覚醒させるために『組織』が用いるであろう手段を加味すると、もうとっくの昔に辺り一帯に邪念の類が撒き散らされていて然るべきはずなのに。  追っ手などが迫っているのであれば尚更だ。  信じられないが、事実から考えても信じるしか無い。 「……しかし、だとしたら司弩蒼矢は何処に――」  そこまでの言葉を吐き出した、その直後のことだった。  ふと何処からか、獣の聴覚を震わす声があった。  ――急いで急いで!! 戦いがあったのならいつ崩落してもおかしくないんだ!!  ――解ってるわよ!! あーもう、よりにもよってこんな所で別の戦いが起きるとか……!!  片方は、雑賀にとって聞き覚えのある声だった。  もう片方は、苦朗にとって聞き間違いを信じたくなる声だった。  ぎぎぎぎぎ、とゼンマイ仕掛けの玩具のようなぎこちなさで二人の首が動く。 「「………………」」  恐る恐るといった様子で、彼等は屋上の端から自分達の立っているものとは向かいの方に見える別の廃墟――元は賃貸マンションの類だったらしく、一階の部分がコンビニになっている――の下層を見る。  ちょうど、明らかに急いだ様子の拳法着装備の兎の獣人と、体の各部に黄土色の甲殻の鎧を纏った赤色の竜人がコンビニの中から出て来たところで。  見れば、赤い竜人の両腕の中には見覚えの無い女の子がお姫様抱っこの形で担がれており、担がれている女の子に意識は無い様子だった。  ――こっちこっち!! 街にさえ出れば迷いはしないわよ!!  ――い、急ごう……!! 正直、もうかなりキツい……!!  屋上の端から覗き見ている雑賀と苦朗の存在になど気付くことも無く、彼等は廃墟の立ち並ぶ悪党達の『隠れ家』から、見慣れた街並みの方に向かって駆け出していく。  あまりの状況に、雑賀も苦朗も理解を得るのに七秒は掛かった。  どうにか冷静に、事実をゆっくり飲み込んでいく。  「……おい、あの子ってもしかしなくても……好夢ちゃんだったよな? 声が記憶通りならもう一人は司弩蒼矢で、明らかに協力して動いてるっぽかったが……」 「いや本当に待ってくれ。何でよりにもよってウチの好夢がこんな所に来てる? どういう経緯でヤツと一緒にいる? いつの間にかアイツら交友の関係にあったの? しかもあの姿は……」  いつも落ち着いた様子を見せていた苦朗でも、流石に動揺を隠せないようだった。  無理も無い、と雑賀は素直に思う。  交友関係があるとはいえ、家族としての関係まで持っているわけではない自分さえ、驚きを隠せないのだ。  義理とはいえ兄妹の関係を持ち、護ろうと必死になっている相手が、いつの間にかデジモンの力を使って事態の中心人物――それも、当初は殺すつもりだった相手――と協力して動いている事を知って、落ちついていられる事のほうが不自然だ。  とはいえ、今は戸惑っていられる状況でも無い。  動揺した様子の苦朗に対し、雑賀は確認のためにこんな問いを出した。   「……お目当ての野朗が見つかったわけだが、お前はどうする気なんだ? 前言撤回してでも殺す気はあるか?」 「……人質でも取られた気分だ。間違っても、アレを見て殺す気などもう起きんよ……」 「そうか。じゃあ、俺は行かせてもらうよ」  言うだけ言うと、雑賀はその両手の獣口から炎を噴き出させ、駆け出していった二人の方に向かって飛んでいった。  その背中を眺める縁芽苦朗に、言葉は無く。  代わりに一つ深いため息が漏らすと、彼は姿を元の人間のそれに戻してズボンのポケットからスマートフォンを取り出していた。  そして、牙絡雑賀は。 (多分、あの抱えてる女の子が病院の人が言っていた友達なんだよな。一緒にいたって事は確実に巻き込まれてああなったってワケだ……)  目の前で駆けている赤い竜人――その、懸命に友達を助けようとする姿を見て。   (二人の焦りっぷりから考えても危険な状態である事は確実。急いで病院に送ってやらないといけないんだろう)  拳法着を纏った兎の獣人――その、事情を知らずとも力を尽くしてくれた献身に感謝をして。 (……やっぱり、お前は優しい奴だったって事だな。司弩蒼矢……) 「おおーい!! お前達ー!!」 「「――っ!?」」  久しぶりに会った旧友に対して発するような呼びかけをした直後、 「――だぁッ!!」 「――はぁっ!!」 「ぶぐへぇ!?」  縁芽好夢が反射的に放った回し蹴り、そして赤い竜人と化している司弩蒼矢の長い尻尾の一撃が左右から顔面に直撃し、あえなく撃墜された。  あんまりと言えばあんまりな反応だが、そもそもの話として彼女は電脳力者としての牙絡雑賀の姿を知らないし、司弩蒼矢もまた彼の『ケルベロモン』を原型とした姿を知らない。  そして、彼女達から見ても『ケルベロモン』を原型とした雑賀の姿は、どちらかと言えば悪党面で。  故に、総合的に見ればこの対応は当然なものだと言えて。  彼女達が疑問を覚えたのは、ドグシャァッ!! と反射的に一撃を見舞った直後のことだった。 「――え? 待って、その声まさか……」 「……グ、グゥ。こ、好夢ちゃん。いくらなんでもその反応は酷すぎると思うんだ……俺だよ、雑賀だよ」 「ちょ、えぇー!? さ、雑賀にぃ!?」 「え? さ、サイガって、まさか……え? あの時の!?」  え? と好夢と蒼矢は互いに顔を見合わせる。  どちらの表情も「え? コイツと知り合いだったの?」と言外に語っていた。 「ごっ、ごごごごごごめん雑賀にぃ!! てっきり悪党の手先だと思って……」 「ぼ、僕も……全体的に黒いし怖いし……敵の追っ手かと……」 (え、初見であいつ等の仲間扱いされるぐらいに怖いの今の俺の姿!?)  あまりにもあんまりな言い草に半泣きしそうになりながらも、ちょっと不細工になった犬面は両腕の獣口を支えに顔を上げる。  今は互いの事情説明などしている場合ではないのだ。 「……は、話は後だ。その子、病院に運ばないといけないんだろ? だったら俺に乗れ。二人とも、見た感じもう走るだけでもキツいみたいだしな」 「いや雑賀にぃも雑賀にぃで明らかに疲れてるみたいだけど……」 「そうだよ。というか、両手も塞がってて僕と同じぐらいの体格なのにどうやって……」 「こうする」  言葉の直後だった。  成り行きで四つん這いの姿勢になっていた牙絡雑賀の姿に、更なる変化が生じる。  ガゴン!! と機械の駆動するそれにも似た音と共に両腕の先端にあった獣口が開き、まるで服の袖を捲くるかのように雑賀の両肩に向かってその位置を移す。  そうして露となった両手は、五指に鋭利な鉤爪を生やした『前足』とも呼べるものに変わっていた。  見れば、両脚の関節はそれまでより四足歩行に適した形に近付き、体格が少し大柄になって尻尾も伸びている。  人狼とでも呼ぶべきだったその姿は、よりその姿の基となった魔獣の名に相応しいカタチに寄ったものに成っていた――人間を二人ほど乗せて駆ける程度は可能かもしれないと思える程度には。  驚いた様子の二人を横目に、 (……まさかとは思ったが……我ながら便利な体になったもんだな)  自分自身驚きながらも、雑賀は急かすように言葉を紡ぐ。 「好夢ちゃんはともかく、お前は義肢に頼ってる身だろ。デジモンの力を使って誤魔化しているみたいだが、実はもう限界が近いんじゃないか」 「……それは……」 「議論してる時間も惜しい。適材適所ってやつだよ。どちらにしたって俺はお前達についていく気だからな」 「……解りました。お願いします」  司弩蒼矢は渋々とそう回答すると、磯月波音を担いだまま魔獣の背に跨っていく。  乗馬などの経験を持たない蒼矢としては特別良いとは言えない乗り心地だったが、それはそれとして磯月波音の体を左腕で抱えたまま彼は体重を前に倒し、右手で魔獣の両肩にある内の右の獣頭を掴みバランスを取る。  準備が整ったと認識した雑賀が四肢に力を込め、駆け出そうとした直前、縁芽好夢はこんな事を聞いていた。 「ねぇ、ちなみに私は?」 「定員オーバーだ。好夢ちゃんがもう少し軽そうなら頑張れるんだが」 「雑賀にぃ。事態が事態だから了承するけど流石に怒るよ」  言うだけ言って、赤き竜人と重傷の少女を背負った魔獣と拳法着を身に纏った兎の獣人が向かうべき場所へと向かう。  いつかに壊れて荒れた街並み、廃墟だらけの悪党どもの『隠れ家』を駆け抜け、彼等は揃って人の気を感じられる世界へと帰還する。    ◆ ◆ ◆ ◆  結果から言って。  牙絡雑賀、縁芽好夢、そして磯月波音を抱えた司弩蒼矢――彼等は何事も無く病院へと到着した。  人目のつかない場所で各々は元の人間の姿に戻り、磯月波音を連れて入り口の自動ドアを過ぎると、彼等の姿を見た病院の看護師達は迅速に動いてくれた。  いっそ、事前に誰かが連絡を取っておいてくれたのだと言われた方が納得出来る手早さで、全員それぞれ異なる医者の下で診察を受ける事になり、応急措置も行われた。  戦いの傷を体に残した雑賀と好夢、そして意外にも蒼矢は奇跡的にも応急処置で事足りる程度の怪我だったが、磯月波音の怪我は比べ物にならないほど酷かった。  折れた骨が肺を傷付けかねない危険な状態にあり、他の三人とは異なり即刻の手術を余儀なくされていた。  故に、現在彼等は磯月波音の手術室――その手前側に設置されている簡易ソファの上に腰掛け、手術の終わりを待っていた。   「…………」「…………」「…………」  重々しい空気だけが、空間に満ちる。  磯月波音の怪我の度合いを詳しくは知らなかった雑賀は当然のこと、他の二人もまた――目的地に辿り着いていながら、まったく安心なんて出来なかった。  特に蒼矢は気が気ではなかった。  今にも泣き出しそうな顔を隠すように俯き、祈るように合わせた両手を力いっぱい握り締めている始末だ。  どんな言葉を投げ掛けてやればいいのか、雑賀にも好夢にも検討がつかず、しばし沈黙の時間が続く。  最初に言葉を発したのは、意外にも蒼矢の方だった。 「牙絡、雑賀さん」 「……何だ」 「あの子を運ぶのを手伝ってくれて、ありがとうございます。あなたの言う通り、あの時点で僕の体……特に足は殆ど限界だった。多分、ここまで走り続けることなんて出来なくて、その……ウサギの子に運んでもらうしかなくなっていた……」 「……気にするな。一番頑張ってたのは、お前と好夢ちゃんだろう。俺はただ偶然、一番オイシイ所を持って行っちまっただけなんだ」 「……あなただって、頑張ってたんでしょう。戦いの音は僕達にも聞こえていた。……波音さんを利用して僕を連れ去った、あいつ等の仲間と戦っていたのは、あなただったはずだ」 「…………」  気付かれている、その事実に雑賀は軽口一つ返せなかった。  気まずくなって視線を泳がせると、縁芽好夢がこちらに視線を向けている事に気付く。  その表情は、暗にこう語っていた。  ――あんなタイミングで現れておいて、バレないとでも思ってたの? (……とはいえ、あそこで介入しない選択は無かったよな……)  彼女達がどこまで雑賀の行動に気付いているのか、そこまでは解らない。  だが、返答次第では逆に怪しまれることは確実だと言えた。  一度デジモンの力を行使して対峙した司弩蒼矢だけならまだしも、縁芽好夢は雑賀自身が過去に明確な嘘の言葉を吐いた相手であり、吐いた言葉の嘘もこうして行動に出た事で露呈してしまっているのだから。  下手に嘘を吐けば、逆に怪しまれてしまうことは容易に想像がつく。  牙絡雑賀は彼女の義理の兄である縁芽苦朗から『警告』を受けている身であり、今となっては『警告』が無くとも心情的には彼女に苦朗の事情を知ってほしくないと思っている。  だからこそ、どう答えるべきか悩んだ。  が、そんな雑賀の気持ちを知ってか知らずか、蒼矢はこんな事を聞いてきた。 「どうして、僕なんかを助けようとしたんですか?」 「? どうしてって……」 「何も、今回だけじゃない。あなたはプールで初めて会った時だって、加害者だった僕を『助ける』ために戦っていた。関わりなんて一度も無くて、そんな気持ちが浮かび上がる切っ掛けなんて殆ど無くて……そっれなのに、あなたは力を尽くしてくれた。一度ならず、二度までも」 「それについては既に答えたはずなんだがな。お前が『人間』だからだって。自分自身の言葉を『嘘』にはしたくなかったからだって」 「……正直に言うと、今でも信じられないんです。お金を貰えるからとか人を傷付ける悪者を許せないからとか、今となっては僕を連れ去った奴等と同じように僕の中の『リヴァイアモン』の事を狙っていたからとか……そういうことが理由ならまだ納得が出来た。けど、きっとその全部が間違いだった。あなたは本当に、助ける事だけを目的に戦っていた」 「…………」 「あなたの事を、僕は何も知らない。だから改めて聞くんです。あなたは――」 「――あなたはどうして、顔も声も知らない誰かを助けるために戦おうと、そう思えたんですか?」 「……友達が、いたんだ」 「!!」 「気のいいやつでさ、趣味も合ってて、よく絡んで……一緒に何度も馬鹿をやった」 「……雑賀にぃ……」 「……そいつが、少し前にいなくなった。何処の誰がやらかしたのかも解らない、ただ自分の知ってる世界から『消失』したって事実だけが遅れて伝えられる、そんな『事件』に巻き込まれて」  一度言葉にしてしまったら、もう止まらない。  次々と、言葉に乗せて生の感情が漏れ出てくる。   「……助けたかった。取り戻したかった。そう思って行動した。だけど、何にもならなかった。的外れな推理を打ち立てて、全く関係の無い場所を駆け回って……結局、俺はアイツを見捨てたわけじゃないんだって、自分に言い聞かせようとしていただけなんだって思い知った。訳知りなヤツから突然呼び出されて話を聞くまで、俺は何一つ……アイツを助けるための行動なんて出来てはいなかった」 「…………」 「なりたかったんだ。どんな方法を用いてでも、どんなに危険な道を進むことになるのだとしても……つもりじゃなくて本当の意味で、誰かを助けることが出来る自分ってやつに。だから俺はあの時……お前一人助けられないようじゃ、アイツを助けられる自分になることなんて出来ないって、そう思ったんだ」 「……それが、あなたの本当の理由ですか」 「本当の、というのは語弊があるな。それが一番最初の理由だっただけだ」  行動の始点。  人ならざる力を受け入れるようになった切っ掛け。  決して綺麗なものばかりではない本音。 (……誰かを助けることが出来る自分、か……)  その返答は、司弩蒼矢にとってあまりにも眩しいものだった。  本音で理由を答えてくれた以上、自分もまた理由を答えるべきだと――解っていながらも躊躇してしまう程度には。  怖くなったのだ。  だって、大切な友達を救うためという理由に対して――自分の最初の理由は、あまりにも自己中心的でどうしようもなくて、軽蔑されたっておかしくないものだったから。  軽蔑される事が怖くなる相手が出来るなんて、今まで考えもしなくて。  少しの間、蒼矢は沈黙していた。  そうしてやがて、彼は自分の意思で口を開いた。  あるいは、本音を打ち明けられる程度には牙絡雑賀と縁芽好夢のことを信じられるようになったのか。 「……僕は、あなたほど立派な事は考えられなかった」 「…………」 「僕はただ、認められたかった。父さんや母さんに、褒めてもらいたかった。そのために苦手な勉強も頑張って、満点とまではいかなかったけどそれなりに高い点数を貰えもしてた。……だけど、いつからか誰も僕の頑張りに見向きしなくなった。学年を重ねるごとに反応は薄くなって……代わりに弟に対する褒め言葉ばかりが多くなって……」  蒼矢自身、醜い告白だと思った。  今更自分のやってきた事が帳消しになるわけでも無いのに、わざわざ言葉にする意味があるのかとも。  だけど、彼もまた雑賀と同じく、と紡ぐ口を止められなかった。 「……頑張りが足りないんだって、もっと優秀に出来ないといけないんだって思った。だけど、それまで以上に勉強を頑張っても、大して成績は伸びなかった。母さんと父さんの反応も変わらなかった。だから、どうにか得意分野だった水泳だけでもすごいと言われるような結果を残そうって、そう思っていた。だけど……」 「そんな時に、交通事故の一件があったわけか」 「……結果として失ったものを、許容する覚悟が無かった。手足を一本ずつ失って、水泳なんてまず出来なくなって……その事実を受け入れられなかった。あの選択は、他の誰でもない僕自身のものであったはずなのに……もう二度と母さんや父さんの期待に応えることは出来ないんだって、もう僕を気にかけてくれはしないんだって、絶望してしまった」  そんな時に、彼は怪物の導きに従ってしまった。  フレースヴェルグと名乗る男の言う方法を、結果として実行してしまった。  文字通り、怪物と化して。 「デジモンの力のことを教えられて、それを使えば失ったものを取り戻せるかもしれないと言われて……その時の僕には躊躇っていられるだけの余裕が無かった。どんな手を使ってでも、どんな力に頼ってでも元の自分を取り戻すって、それ以外のことは考えられなかった。……実際はこうして、元通りとまではいかずとも補うための方法があったのに」 「……義手と義足、か。両方付けてるやつを実際に見るのは初めてだな」 「……あのプールで止められて、最初はもう終わりなんだなと思いました。だけど違った。僕を大切にしてくれる人は、確かにいた。僕自身がそれに気付こうとしなかっただけで、答えを知る事を恐れてしまっていただけで……たったそれだけの事で、許されない事をしてしまったんだって思い知った」  人間は、いったいどういった瞬間に怪物になってしまうのだろうと雑賀は考える。  得体の知れない力で姿形も変わってしまった時か、それとも理性や知性を失って獣のように振舞うようになった時か。  どちらも、生物学的には人間ではなくなったと言って差し支えの無い回答ではあるのかもしれない。  だが、少なくとも今の牙絡雑賀は――誰かを頼ろうと考える事すら出来ず、誰も助けてくれないと思い込んで、心が一人ぼっちになってしまった時にこそ人間は怪物になってしまうのだと、そう感じた。 「……ずっと、僕は僕自身のことしか考えられなかった。何度もお見舞いに来てくれた家族の優しさにも、すぐ近くで僕の事を大切にしてくれていた波音さんの苦しみにも、気付こうとさえしなかった。もっと早く気付いていたら、何かは変わっていたかもしれないのに」  実際、今の司弩蒼矢のことを雑賀も好夢も怪物だとは思わなかった。  完全体デジモン『メガシードラモン』を原型とした赤い竜人の姿を見た時から、その印象に変わりはなかった。  今の彼は間違い無く、誰かを助けるために戦える『人間』なのだと。 「……僕のせいで、学校の生徒も……磯月波音さんも……」 「それは違う」  だから、その言葉だけは紡がせまいと雑賀は声を上げた。  突然の言葉に疑問の表情を浮かべる蒼矢に構わず、彼は言葉を叩き付ける。 「水ノ龍高校で生徒が襲われた事件は、確かにニュースでも取り上げられていた。お前自身が行動を……あの学校に向かった事を自覚している以上、お前があの事件に関わっていたことは確かだろうよ。だけどな、俺には生徒を傷付けたのがお前だとは思えないんだよ」 「……何を根拠に……」 「生徒達の怪我の内容だよ。お前が仮に、プールで会った時の姿で行動に出ていたのなら、使っていたのは『シードラモン』の力だったはずだ。だが、生徒達の怪我は切り傷でしかなかったんだ、明らかに、あの時の姿のお前が出来る傷付け方じゃない。ついでに言えば『シードラモン』に切り傷を作れるような攻撃手段はそうそう無い。凍傷か嚙み痕、あるいは絞めつけの痕。お前がやったんだとしたら、最低でもそういった痕跡が無ければおかしいんだ」  言われて、蒼矢は戸惑っていた。  フレースヴェルグから教えられた事実、そこから薄っすらと思い出した光景から、自分の通っている学校の生徒達が傷付けられ怯えていた件は、デジモンの力を本能に引っ張られるような形で行使していた自分の行動によるものだと思い込んでいた。  思い込んで、正確な情報に触れる機会も余裕も無かったために、具体的にどのような怪我をさせられたのかまでは知らなかったのだ。  雑賀の言葉に、蒼矢の頭の中から声が響く。  あるいは、当時から蒼矢と見識を同じくしていたかもしれない魔王の声が。   『――確かに、考えてみればおかしいな。アイスアローをブッ放したわけでも、牙を剥いて噛み付いたわけでも、尾で絞めつけたわけでも無いってなると……俺にも見当がつかん。ソーヤ、プールサイドってトコには切り傷が出来そうなものって置かれてるのか?』 (そんなものは無いよ。転んで擦り傷が出来るか出来ないかってぐらい。鋭く尖ったりしてるような所も……多分無かったはず) 『……俺もその時は自我も何もかも色々曖昧だったからな……むしろその影響でお前も理性とか失ってたののかもしれねぇが、結果として俺は記憶なんてロクに出来てなかったし、だからこそお前の見解についても疑問は無かった。だが、こうなると……確かにツジツマが合わねえな。本当に切り傷だけだってんなら、少なくとも使われたのは刃物か……あるいは爪とかであるはずだ』  原因が他にある。  生徒を傷付けたのは、別の誰かである可能性がある。  だが、記憶が曖昧な今はその誰かの姿さえ思い浮かべることが出来ない。  発言者である雑賀もまた、当事者でない以上は見覚え一つ無い。  だが――加害者が自分ではない可能性、という情報に少なからず安心は得たのか、二人の会話を静観していた好夢には蒼矢の表情から僅かにだが陰りが消えたように見えた。  言葉を挟むなら今だ、と意を決して彼女もまた口を開く。 「それに、波音さんがあんな事になったのはあなたのせいじゃないでしょ。悪いのは全部、あの人の事を利用した挙句に暴力までしでかしたクソ野郎たち。あなたが言葉や暴力であの人を傷付けたわけでもなし、その事で自分のせいなんて言うのは筋違いよ。そんな事、波音さんだって思ってほしいわけがないじゃん」 「…………」 「戦って、護って、運んで……出来る事は全部やったの。後はお医者さんと……生きて済むという幸運を信じるしかない。だから……自分を責めるなんて馬鹿なことはやめてよ。みんな頑張って、やっとここまで来たんだから……」 「!!」  好夢の言葉に、蒼矢は目を見開いた。  彼女の言う通りだと、確かにそう感じたからだ。  今この場にいる誰もが、皆で助かり助けるために頑張った。  誰か一人でも欠けていたら、そもそも磯月波音を病院に運ぶ事も何も出来なかった。  にも関わらず自分のせいだ、などと――それは他の二人の努力を無駄だったと嘲るのに等しい言葉だ。 「……ごめん」 「解ればいいの」    それっきり、蒼矢からは一言も無かった。  好夢も、雑賀に対して問いたい事がたくさんありはしたが――何を思ったのか、それを口にはしなかった。  そして雑賀もまた、これ以上の言葉は無いとでも言うように口を閉ざしていた。    そうして、短くはない時間が過ぎて、  手術中であることを示す、手術室入り口上部のランプから光が消えた。  扉が開き、手術室の中から磯月波音を乗せた手術台が複数の医者と看護師の手で運び出され、その中に雑賀と蒼矢にとって見覚えのある老人の医者の姿が見えた。  ほぼ反射的に手術台の上の磯月波音の様子を覗きこもうとする蒼矢を老人は片手で制すと、何処か朗らかに笑って――手術の結果をこう告げた。 「――もう、大丈夫じゃよ」  その言葉が示す意味を、ゆっくり噛み締めて。  緊張の糸が解けた司弩蒼矢は、その場にくず折れていた。  その表情から痛みの色は抜け、代わりに喜びの色を浮かばせて。  抑え込んでいたものを吐き出すように、彼は泣き出した。  本当に、嬉しそうに嬉しそうに――泣いていた。  ◆ ◆ ◆ ◆  磯月波音の手術が終わって、一時間ほどが経過して。  少しずつ青空がオレンジ色に焼け始めた頃、司弩蒼矢はようやくの休息に安心を覚えていた。 (……本当に、良かった……)  磯月波音の容態は、もう安定した。  手術を監督していたらしい老人曰く、本当に奇跡的な状態であったらしい。  骨の折れ方が少しでも違えば、病院に運び出すのがもう少し遅れていたら……肺以外にも内臓のいくつかが深く傷付いて、まず助からなかったと。  当然、命の危機が去ったとは言っても、三人と同じようにすぐ外を出歩ける状態にはならない。  最低でも折れた骨が治るまでは医者の許可なく動くことは許されないし、意識が戻るまでは見舞いだって出来やしない。  とはいえ、どうあれ命が繋がったことに変わりはなく。  色々安心した司弩蒼矢は今、自分の病室に戻って来ていた。 (……リヴァイアモン) 『何だ』 (ありがとう。波音さんを助けるために、一緒に戦ってくれて) 『よせやい。こうなったのはお前自身の頑張りの成果でもあるだろ』 (それもそうだけど、だよ) 『……ったく……』  デジモンの力を使って炎を操る怪物をぶっ倒したり、廃墟だらけの場所を駆け回ったりしていようが、現実には彼もまだ入院患者の一人でしかないのだ。  退院するその時まで、人間としての彼の居場所はまだ此処であり。  故にこそ、彼は病室のベッドの上に座り込んでいる。  デジモンの力を行使して戦ったその影響か、あるいは病院に戻って来てからメンテナンスを受けたお陰か、義手と義足の扱いに関しては生活に支障が出るものではなくなっていた。  満足に動ける状態であることを提示出来れば、そう遠くない未来に退院出来るはずだ。  そうなったら今度は、蒼矢の方がお見舞いをする側になる。  満足に退院出来るその時まで毎日――傷付いた磯月波音の心に寄り添う事を、彼は既に決意している。 (ところで、あの時は状況が状況だから聞けなかったんだけどさ。リヴァイアモンの言う『デジタルワールド』ってどういう世界なの?) 『ん? んー、どういう世界かって聞かれてもな……俺って殆ど海の底の底で引き篭ってたからそこまで地上のことに詳しくはないっつーか……知ってる事にしたって嫌な事ばかりというか……』 (それでもいいよ。これからの事を考えても、出来る限りのことは知っておいた方がいいみたいだし) 『……まぁ、誰でも知ってる常識レベルの話なら、いいか……』  もう戦いの場にいるわけではない、という状況も手助けにはなっているのだろう。  自分を狙う『組織』の追撃がいつ来るかどうか、警戒心こそ忘れずにいるが、今の彼は自らの内に宿る存在と気軽に会話していられる程度には落ち着きを取り戻せていた。  これから先、デジモンの力を使う限り付き合っていく事になる相手――リヴァイアモン。  当人曰く、過去には『悪魔獣』だの『七大魔王』だのと呼ばれていたようだが、蒼矢からすればこの自分の中に宿っているデカいワニのような何かがそんな存在だとは考えにくかった。 (悪魔っぽくも魔王っぽくも無いし) 『それ褒めてんのか貶してんのかどっちだよ』  それに、仮に彼が悪性を秘めていたとしても、それと向き合う事はその力を宿している自分のやるべき事でもある。  お互いに、お互いの事をよく知らない間柄ではあるけれど、それだけは既に心に決めていた。  そんな風に考えていると、ふとして蒼矢の病室のドアが開き、部屋の中に牙絡雑賀と縁芽好夢が入って来た――いくつかのレジ袋を手に。 「……えぇと、雑賀さん。これは?」 「差し入れに決まってるだろ。どうあれこういう疲れた時には美味いもんとか食べて気持ちを切り替えるのが大事なんだ。ちょっとコンビニまで飛ばして買ってきた。話しがてら一緒に食おうぜ」 「しそ味のサイダーとあずき味のコーヒーとしょうが味のコーラと、それの付け合わせでサイドメニューのチキンとかポテトとか肉まんとか、色々買ってるよー。蒼矢さんは何がいい?」 「すいません何で飲み物が全部ゲテモノ仕様なんですか???」  言いながら、総じて味に期待が持てないラインナップの中から蒼矢はコーラとチキンを受け取り、次いで雑賀はサイダーと肉まんを、そして好夢はコーヒーとポテトを手に取り、看護師や見舞い客が座るために用意された簡素な椅子に二人はそれぞれ腰掛けていく。  最初に口を開いたのは雑賀だった。 「まずは一つ聞いておきたいんだが、具合はどうだ?」 「もう大丈夫です。完全に元通り、とはいきませんが……生活する分には問題無いかなと」 「じゃあ次の質問に移るが、デジモンの力についてどのぐらい理解してるんだ? お前の中に宿ってるデジモンが何なのか、知っているのか?」 「デジモン……って存在のことはまだよく解ってませんけど、僕の中にいるやつなら自分で『リヴァイアモン』って名乗ってましたよ。知ってるんですか?」 「とてつもなく有名なデジモンだよ。七大魔王って枠組みに位置するデジモンの一体で、七つの大罪の内の『嫉妬』を司る存在だ。全てのデジモンの中で一番と言っていいぐらいにデカくて、現実なら多分東京まるまる一個分ぐらいは大きいと思う」 「……東京一個分……」 「雑賀にぃ、いくら何でもそれは盛りすぎじゃない? 東京と同じ大きさの生き物って、食べ物とかどうするのさ」 「そんな事を俺に言われてもなぁ……」  東京一つ分の大きさ、という告げられた情報に現実味が無さすぎて、とりあえずの感覚で蒼矢は己の内の当人に聞くことにした。 (……リヴァイアモン、そんなに大きいの?) 『まぁ、そうだな。島一個分ぐらいはフツーに越すな。自分で言うのも何だが』 (……もしかして、引き篭ってるから肥ったとか……) 『ソーヤ君、テメェ一言多いとか言われた事無い?』 「……あ、本人にも聞いたけど本当みたいだよ好夢ちゃん」 「えぇ……マジなの……? 正直信じられない……」  何やら不機嫌そうな声色が返ってきたような気がしたが、聞き流して蒼矢は好夢に回答する。  蒼矢自身、己の内の『リヴァイアモン』に質問している事についても、それを口に出していることについても、特に疑問は無かった。  が、そんな蒼矢の言葉に雑賀は目を丸くしていて、直後に驚いた様子で問いを出してくる。 「……ちょっと待て。お前、今何て言った? 本人? 名乗った? え?」 「? はい、夢の中で赤いワニみたいな生き物が『リヴァイアモン』って名乗ってたんですよ。で、今の雑賀さんが言ってたことについても直接聞いてみて……」 「話せている、のか? 自分の中に宿っている、デジモンと……?」 「……? はい、そうですけど。これってデジモンを宿している人の共通の事ではないんですか?」 「少なくとも俺は話したことなんて無いぞ……え、まさかだがお前、こうしている間にも話とか出来てるのか? イマジナリーフレンドとかそういうのじゃなくて!?」 「は、はい。一応、意識とか交代することもしたことがありますよ。ヤツ等と戦ってた時の事ですけど……」  蒼矢の言葉に驚きを隠せない様子の雑賀を見て、好夢もまた自らの心当たりを口にする。 「……自分の中の別の誰かって話なら、わたしにも覚えがあるよ。兎の耳みたいなの生やした天使みたいな……よく見えなかったし名乗ったりもしてくれなかったけど、あの天使さんもすごいデジモンだったのかな。なんかピカピカした力をくれたし」 「――あぁ、うん。多分『リヴァイアモン』と同じぐらいビッグネームだと思う……」  明らかに動揺した様子の雑賀に、好夢の目が僅かに細くなる。  だが、彼女の眼差しを無視して雑賀はその視線を改めて蒼矢に向け、こんなことを言い出した。 「……蒼矢、お前さえ良ければの話にはなるんだが……『リヴァイアモン』と直接話をさせてもらえないか? いろいろと聞きたい事が色々あるんだ」 「……ちょっと待ってください」  雑賀の申し出に、蒼矢はすぐさま己の内の存在へ言葉を飛ばした。 (頼んで大丈夫?) 『別に構わないが……あ、食い物ちょっと貰ってもいいか?』 (別にいいよ) 「大丈夫みたいです」 「そうか。じゃあ頼むよ」  僅かに疑問を含むような声色だが、リヴァイアモンは雑賀との対話を了承したらしい。  静かに目を閉じ、自らを深い海の底に沈み込ませるイメージを思い抱く。  すると体の感覚が曖昧になり、蒼矢の意識の代わりにリヴァイアモンの精神が意識の表層へと浮上する。  瞼が開かれた時、その瞳は黄色く獰猛な獣の色を宿していた。  右手をチキンの袋に伸ばしつつ、司弩蒼矢という人間の声帯を介してリヴァイアモンが牙絡雑賀に対して問いを返す。 「――俺に何が聞きたいんだ?」 「『デジタルワールド』の事。具体的に言えばその地獄とでも呼ぶべき『ダークエリア』の事についてだ」  ダークエリア。  戦闘で死亡したデジモンのデータの行き着く先だとされている、デジモン達にとっての『あの世』とでも言うべき名前。  そこは現実の、ホビーミックスの形で語られた『設定』の中においても、リヴァイアモンを含めた『七大魔王』の住まう場所とも語られる領域のことである。  蒼矢の体を借りたリヴァイアモンには、それを自らに問う理由も察しがついていた。  ずばり、 「……なるほど、要は『七大魔王』である俺なら詳しい話を知ってると踏んだわけだ」 「話が早くて助かるよ。インターネット上に掲載されてるような『設定』が、本当のことを指してるのか俺には解らないからな」 「だが、何故よりにもよって『ダークエリア』の事が知りたいんだ? 死んだ後の心配でもしているのか」 「そういうわけじゃない」  死んだデジモンのデータの行き先、それに関わる情報の提供。  それを求める理由を、雑賀はサイダーの味に首を傾げつつこう語っていた。 「俺の友達……紅炎勇輝を攫ったヤツと繋がりと持ってるらしい女が言ってたんだ。勇輝は今、ギルモンになって『デジタルワールド』にいるって。勇輝を助けるためには、まず大前提としてこっちの方から『デジタルワールド』への通り道を作る必要がある。それも、ちゃんと行きと帰りが出来る通り道を」 「……まぁ、それが道理ではあるな。それで?」 「さっきの姿を見てくれたら解るように、俺は今『ケルベロモン』としての能力を使えるようになってる。それを使えば、とりあえず『ダークエリア』に向かう事は出来る……と思ってるんだが……」 「……人間の世界でその力を使って、ちゃんと『ダークエリア』に向かう事が出来るのかって事か」  今回の一件において雑賀が結果として手にしたケルベロモンという種族には、他のデジモンには無い特殊な能力が備わっている。  即ち、現世と地獄――デジタルワールドとダークエリアを繋ぐ『門』を作り出す能力だ。  まだ一度も試してこそいないが、もしもそれを使う事で現実世界からダークエリアに移動することが出来るのであれば、ケルベロモンの能力は雑賀にとってとても大きな意味を持つ。  魔王は少しだけ考え込むような素振りを見せると、直後に回答する。 「実例に乏しい話だから憶測になるが、まず『ダークエリア』に向かう事自体は可能なはずだ。現世だの地獄だの、こっちの世界における言い方がどうあれ『ケルベロモン』ってデジモンが紐付けられているのはあくまでも『ダークエリア』でしか無い。それ以外の異世界と繋がる『門』を作れる可能性はまず無いと見ていいだろう」 「……『デジタルワールド』と『ダークエリア』は繋がってるんだよな? どうにかして『ダークエリア』から『デジタルワールド』に行く事は出来るか?」 「可能ではある。力をもった魔王型デジモンとかがむしろ頻繁に行き来して厄介事を撒き散らしてるわけだしな」  その見解については、雑賀も映像作品として世に広まっている『アニメ』を介して察していた。  デジタルワールドとダークエリアは、確かに繋がっており、力を持つ者でさえあれば二つの世界を跨ぐことは不可能では無い、と。  デジタルワールドにいるとされる友人、それを助け出すための足掛かりを得たその事実に、雑賀は思わず笑みをこぼす。  しかし、そこでリヴァイアモンが言葉を挟んできた。 「が、ここまで告げておいてなんだが、懸念すべき事がある」 「……懸念すべき事?」 「お前に宿っている『ケルベロモン』の力、それに紐付けられている『ダークエリア』が、はたしてお前の友達が連れ去られていった『デジタルワールド』と繋がっている『ダークエリア』なのか、という点だ」  その言葉に、雑賀は表情を一変させる。  リヴァイアモンの言葉は、それまで抱いていた雑賀の希望を限り無く打ち砕くものだったからだ。  しょうが味らしいコーラを口に含みながら、人の身を借りた魔王は冷徹に事実を告げる。 「お前が知っていたかは知らないが、そもそも『デジタルワールド』と『ダークエリア』はそれぞれ無数に存在する。そして、一つ一つの『ダークエリア』と繋がっている『デジタルワールド』は一つだけ。……ここまで言えば解るな? お前に宿っている力が開く『門』の行き先が、お前の友達とまったく無関係の『デジタルワールド』にしか繋がっていない可能性があるんだ」 「……マジかよ……」 「真偽を知るためには、当然ではあるが辿り着いた『デジタルワールド』を隅から隅まで調べて回る必要がある。だが、一つの世界の中を探し回るだけでもどれほどの時間と危険を要するかわかったもんじゃねぇし、お前が聞いた話によると、お前の友達はギルモンに……少なくとも人間の姿ではなくなってるんだろ。同じ姿のヤツが何体も存在するなんて『デジタルワールド』じゃ当たり前の話だし、ピンポイントでお前の友達が『なった』ヤツを見つけ出すってのは……正直、かなり無理難題だぞ」 「…………」 「一応、全ての『デジタルワールド』と繋がっている『ダークエリア』の最深部――コキュートスと呼ばれる領域を介してなら、別のデジタルワールドに行くことも出来るらしい。だが、これについてはやめておけ。邪悪に身を墜としたりしたデジモン達を閉じ込めておくための牢獄でもあり、俺みたいな魔王クラスのデジモンの根城にもなっている領域だ。完全体デジモンの力を使える程度でそうそう生き残れる場所じゃあない。仮に運よく生き延び、通り抜ける事が出来たとしても――その先から向かった『デジタルワールド』がアタリだと確定するわけでも無い以上、推奨は出来ない」  デジタルワールドが複数ある、という話までは解っていた。  だが一方で、その同数もダークエリアが存在するというのは、初めて聞いた話だった。  嫉妬の魔王の言う事が本当であれば、確かに今のまま『ケルベロモン』の能力でダークエリアに向かうのは失敗の確立が圧倒的に高いギャンブルでしかない。  デジタルワールドに転移させられた紅炎勇輝がどんな目に遭っているのか、彼をデジモンに変えたと思わしき『シナリオライター』という組織の目的は何なのか。  それ等の懸念を考慮しても、探すのであれば確実性のある方法を取るべきだろう。  ハズレを引いた結果、どれほどの時間を無為にすることになるのか――そしてその経過時間で『手遅れ』になってしまわないか――わかったものではないのだから。  雑賀は気持ちを切り替えるために肉まんを一口頬張ってから、率直に問いを出した。 「どうすればいい?」 「確実に友達を見つけ出したいのなら……やはり、当事者やその関係者から情報を手に入れるしか無いだろうな。わざわざデジモンに変えておいて、特に理由も無く別の世界へ放棄するなんてことはまず考えにくいし、きっとそいつ等が転移させた世界には、お前の友達をデジモンに変えた上で送り出さないといけない理由があったんだ。だからこそ、友達のいる『デジタルワールド』に向かう方法を知るには、お前の友達を連れ去ったヤツが使ったものと同じ手段を手に入れるしかない」 「……でもさ、その、世界がどうとかよくわかってないんだけど……勇輝にぃを攫った犯人が別の世界に勇輝にぃを送ったのなら、犯人も勇輝にぃが送られた世界に行ってるってことは無いの?」 「その可能性もあるが、現にヤツ等が起こしていると思わしき『消失』事件は今日のニュースでも新しい被害者を生んでいた。勇輝以外にも、何人か。少なくとも、事件の知らせが続く限り実行犯はこの世界に残っているはずなんだ――俺や蒼矢が会った、フレースヴェルグとかいうヤツの関係者が」  そうなると、手がかりを探すためには『シナリオライター』と接触する必要がある。  彼等の目的がどうあれ、紅炎勇輝を助けようとする雑賀に対して、無償で情報を提供してはくれないだろう。  突然メールで呼び出して甘味を口にしながら談笑感覚で驚くべき情報ばかりを提供した、サツマイモ色の服装の女が稀有な存在であったというだけで。  恐らく、戦って屈服させるなりして情報を引き出すことになる。  しかし、そもそもの話として雑賀は彼等の拠点とでも呼ぶべき場所も、組織構成も何も知らない。  現状では関係者一人を探しだすだけでも四苦八苦することは確実だ。  どうしたものかと雑賀が思考を巡らせ、蒼矢の体を借りたリヴァイアモンがそんな彼の表情を黙って見つめ、好夢は会話の内容に疑問符が止まらずポテトをどんどん口に放り込みだして。  そんな時、一つの言葉が病室内に一陣の風を吹かせた。    「――よう、俺の事を呼んだか~?」  その声を、雑賀は覚えていた。  その声を、蒼矢もまた覚えていた。  縁芽好夢だけが、その声を知らなかった。  声の聞こえた方へ、三人は視線を向ける。  見れば病室の開かれた窓、その縁の上に猛禽のように足を乗せた状態で、話題の男――フレースヴェルグが来訪していた。 「ッ!?」  雑賀は残った肉まんを一気に飲み込んで臨戦態勢を整え、 「…………」  蒼矢の体を借りたリヴァイアモンは静かに目を細め、 (だ、誰……この人……)  好夢はフレースヴェルグの雰囲気に更なる疑問符を重ねていた。 「おいおい、何も戦いに来たわけじゃねぇって。そう殺気立つなよ小僧」  明らかな余裕の態度で、フレースヴェルグは雑賀に対して軽口を吐く。  その内に宿るデジモンの名を(あくまでも当人の自己申告に過ぎないが)知る雑賀からすれば、今この場に彼がいるという時点で気が気ではなくて。  意識の内か無意識の内か、気付いた時には牙絡雑賀の姿は再び『ケルベロモン』を原型とした姿に変貌していた。  一触即発の空気、病室の中に嫌でも緊張が奔る。  そんな中、人の身を借りたリヴァイアモンは確かに心からの言葉を聞いた。 『……代わって。そいつとは僕が話さないといけない』 (――解った。ヤバいと感じたらすぐ力を使えよ)  返答の直後、表層に浮上していたリヴァイアモンの精神が司弩蒼矢の心の奥底へと沈み込み、入れ替わるように司弩蒼矢の意識は元の位置へと帰還する。  体の感覚を軽く確かめてから、彼はフレースヴェルグに口火を切る。 「……用があるのは僕?」 「いろいろあったみたいだからなぁ。様子を見に来たのと、重要な確認ってやつだ」 「……そうか。雑賀さん、今は何もしないでください。少なくともこいつは、今は危害を加えようとしないと思います」 「お前、解ってるのか? そいつは……」 「解ってますが、どうあれコイツと話をつけないといけないのは僕の方ですから」 「……グゥ……」  蒼矢の言葉に、納得のいかない様子ながらも魔獣は一歩後ろに下がる。  今この場で戦いになったらどうなるか、それを理解しているからこそ――戦わずに事が済むならそれに越した事は無いと判断出来たために。  とはいえ、目の前の男が味方と呼べる存在でも無いことは事実。  だから蒼矢も『今は』と前置きしたのだろう――必要になれば、彼もまた戦う気であることは明白だった。  そんな彼等の思考に興味も無い様子で、フレースヴェルグはあくまでも調子を変えずに言葉を紡ぐ。 「しばらくお前達の戦いを観察させてもらってたが、どうあれ生き残れて良かったな。次の段階に進んだというか、しっかり成長してくれやがって、俺としても嬉しいもんだ」 「……観察? いつからだ」 「一応、お前の動向を観測しとけって『上』に言われてるんでな。お前が病院を出てからの事、上空から可能な限り眺めていたさ」  その言葉に、雑賀は思わず息を呑んだ。  彼は縁芽苦朗と共に、司弩蒼矢を狙う『組織』の者と空中戦を繰り広げていた身だ。  しかし、戦っている間にフレースヴェルグの姿を見た覚えは無い。  ただでさえ究極体デジモンの力を宿しているのだ――その力を発揮していたのなら、その存在は嫌でも戦場の電脳力者に感付かれていたはずだ。  ホビーミックスの『設定』にて語られている通りであれば、身隠しはおろか気配を隠すなどという行為が不可能だと言える程度には――この男が宿す『オニスモン』というデジモンは、巨体であるはずなのだから。  誰の目も意識も届かぬほどの高さ――雲の浮かぶ高度から観察していたとでもいうのだろうか? 「……じゃあ、波音さんが危険な状態になっていた時も、何もしなかったって事だな」 「波音さん……って、お前とそこの……なんかやけに胸が小せぇお嬢ちゃんが運んでた女のことか?」  誰の胸が貧相だゴラァ!? と条件反射的に殴りかかろうとした好夢の動きを雑賀が右の獣口で必死に甘嚙みして抑えている間にも、次々と言葉が紡がれる。 「……きっと僕なんかよりずっと強いくせに、何で助けようとしてくれなかったんだ」 「んー、あの時点だと俺から見てもあの女は『グリード』の連中の手先だと思ってたしなぁ。事情がどうあれ助けてやる理由も無ければ義理も無い。助けたいと思ってるやつが助ければそれでいいだろ。まぁ、そもそもお前が連れ去られた事にしたってあの女の行動が原因だったわけだし、俺からすればあの女をお前が助けようと動いた事が不思議だったわけだが」 「波音さんは何も悪くない。あの子にはどれだけ嫌だと思っていても、アイツ等に従うしか無い理由があったんだ!! お前は見ていただけで話を聞いてなかったから知らないだろうけど、あの子は土壇場で僕の事を庇おうともしてくれたんだ……!!」 「へぇ、それはまぁ……可哀想ではあるな。だからといって俺が出向く理由にはならねぇけど」 「可哀想だと思っていながら、何で……!!」 「何度も言わせるな。俺にはあの嬢ちゃんを助ける理由も道理も無いし、そもそも『上』の命令があった。役目を放棄するのも色々面倒だし。ガキの火遊びに首を突っ込んでられるほど暇じゃあない」   それとも、と前置きして。  フレースヴェルグは静かに、憤る蒼矢に対してこう返していた。 「――本当に、俺のやり方で『解決』しちまって良かったのか?」 「……それは、どういう……」 「――蒼矢。悔しいがこればっかしはこのクソ野郎の言う事が正しい」 「雑賀さん……?」  デジモンのことをまだ詳しくは知らないからか、蒼矢は疑問と共に雑賀の方を見た。  元々デジモンの事を知っていて、尚且つ一度対面したことがあるからこそ、この男が戦闘に介入してくるそのリスクを雑賀はこの場の誰よりも理解していた。  最悪の事態、そう呼べる『もしも』の話を彼は告げる。 「コイツが宿してると自己申告してたデジモン――『オニスモン』の力は、あまりにも大きい。翼を一振りしただけで暴風を巻き起こせるほどに。コイツが、もし本当に高高度から俺達の戦いを観測していて、それを終わらせようと考えて『必殺技』なんて使っていたら……あの廃墟だらけの場所を一瞬で壊滅させられたはずなんだ。その場にいた、俺達を丸ごと消し飛ばしながら……」 「な……」 「そうでなくとも、デジモンの力を使ったこいつの存在は歩く台風みたいなモンだ。仮に悪党共だけを狙って仕掛けてくれたとしても……周りへの影響は計り知れない。地上をマトモに移動することだって出来なくなってたかもしれないんだ。あの急ぎの状況で、それは絶対にまずかった」 『――オニスモン……古代に存在し、天空の覇者と呼ばれていた伝説のデジモンか。確かに、その人間がそいつの戦闘能力を自在に操れるのなら、あの辺りを消し飛ばすことぐらい容易かっただろうな。見方によっちゃ、俺と同じぐらい危険な種族だ』 (……もし、本当にそんな事になっていたら、あの状態の苦朗が対処出来たかどうか……)  雑賀と、己の内のリヴァイアモンの言葉に蒼矢は言葉も無かった。  フレースヴェルグと名乗るこの男が、今の自分よりも強いことはなんとなく察していたが。  そこまで危険な力を扱っているとは、想像も出来ていなかったのだ。  それも、当人曰く島一つを越える体躯を持つリヴァイアモンが、自らも『同等』と評価する力の持ち主であるという。  確かに、それほどの力をあの廃墟だらけの場所で行使されていたら、デジモンの力を使って強くなっていた三人だけならまだしも、ただでさえ大怪我をしていた磯月波音はまず助からなかったことだろう。  蒼矢は当然、予測を口にした雑賀も傍から話を聞いていた好夢も悪寒が止まらなかった。  対照的に、フレースヴェルグは自らに対する評価など気にも留めていない様子で、話題の主導権を奪っていく。 「さて、話が脱線しちまったが、元気なのは確認出来たし……確認といくか」 「……確認って、何のことだ」 「決まってる。司弩蒼矢、お前……俺達の仲間になる気はあるか?」 「ッ!?」 「…………」  その問いに緊張を奔らせたのは、問いを受けた蒼矢ではなくむしろ雑賀の方だった。  それだけは認められない、と言わんばかりの声色で彼は言う。 「おいッ、お前……!! 蒼矢を監視してたのはやっぱり……!!」 「お前には聞いてないぞ」 「……雑賀さん。落ち着いてください」 「これが落ち着けるか!! いいか、コイツは……」 「お願いします。これは、僕が僕の意思で決めないといけない事だと思うので」 「……っ……」  そう言われると、雑賀には何も言えなかった。  確かに、蒼矢が『シナリオライター』への仲間入りをするかどうかの話は、あくまでも彼が自分の意思で決めるべきことであって。  雑賀がそれを拒みたがるのは、あくまでも雑賀の事情に過ぎないのだから。  納得出来ない感情は、歯軋りという形で表れる。  すぐ隣で話を聞いていた好夢も、不安に染まった表情で成り行きを見守るしかなかった。  蒼矢はフレースヴェルグを睨みつけ、そしてこう言った。 「一つだけ聞く。雑賀さんの友達を……紅炎勇輝って人を連れ去ったのは、お前の仲間か」 「ああ」 「それ以外の人間も含めて、ニュースで語られる『消失』事件は……お前が属している組織が起こした事か」 「俺自身は特に何もしてないし、全てが俺達によるものってわけじゃあないが、そうだな」 「そうか。それなら、答えは一つだ」  そして。  蒼矢は自分の意思で、目の前の暴威の化身に向けてこう告げた。 「――僕もリヴァイアモンも、お前達の味方になんかならない。絶対に」  静寂があった。  嵐の前の前触れ――今となってはそうとしか思えない、不自然な沈黙が。  フレ^スヴェルグは蒼矢の返答に何故か口角を上げると、どこか楽しそうな声色で改めて問いを出した。 「……一応、理由を聞いておこうか。何でだ?」 「お前達が雑賀さんの敵である事に間違いは無いみたいだからだ。それに、ハッキリ言ってお前達のやっている事は僕だって認められない」 「ふーん。具体的に、何が認められないんだ?」 「自分達の都合で、誰かの当たり前を奪っている事だ」  何も知らなかった頃の自分に、絶望しきって全てを諦めていた自分に可能性を伝えてくれた、見方によっては恩人と呼べなくも無い相手に向けてそう告げる蒼矢の表情には、既に明確な敵意が宿っていた。  彼は既に、目の前の男だけに留まらず、男の所属する組織そのものを敵として認識していた。  あるいは、最初から言い出したくて仕方がなかったとでも言わんばかりに――言葉が次々と紡がれる。 「紅炎勇輝って人や、他の連れ去られた人達が攫われた時どんな事を想ったのかは知らない。もしかしたら『デジタルワールド』って所に送られて、喜ぶ人だっているかもしれない。……だけど、嫌だと思う人だっている。家族や友達と強制的に離れ離れにさせられて、知らない世界に勝手に送り込まれて、お前達の都合ばかり押し付けられて……そこまでされておいて良かったなんて思えるわけが無いと思う。少なくとも、僕はそうだ」 「…………」 「僕は家族と一緒にいられる、ありふれた今を手放したくなんてない。そりゃあいつかは一人立ちしないといけないけれど、それがこんな形であっていいはずが無いんだ。そして、僕と同じことを考えている人が、攫われて『デジタルワールド』に送り込まれた人達の中にいるとしたら……僕は、お前達の行いを許せない」 「その当たり前ってやつを、少し前はお前も奪おうとした側だったわけだがな」 「それは否定しない。あの選択は他の誰でもない僕のもので、絶対に許されていい事じゃなかった。だけど、たとえ僕が赦されない罪を犯した人間であるとしても、それは誰かを助けることを諦めないといけない理由になんかならない。僕を助けてくれた人達に、僕を大切に想ってくれた人達に、立派に胸を張れるように……僕はこの力を、誰かを助けるために使ってみせる」 「そうかい」  明確な拒絶、ある種の宣戦布告の言葉を受けて。  フレースヴェルグはあくまでも不快さを表さず、楽しげな笑みのままこう返した。 「面白い、望む所だ。せいぜい『上』の筋書きを書き換えられる程度には暴れ回るといいさ。俺としても、お前達のようなヤツが敵である方が好ましいし」  彼としては、元々蒼矢には敵であってほしかったらしい。  思えば過去にウォーターパークの中で会った時も、彼は自分を殺せる所まで這い上がって来いとまで言っていたが、ある種の戦闘狂とでも呼ぶべき人種なのだろうかと雑賀は思った。  そんなヤツを監視役として従わせている者が、彼が『上』だと呼ぶ存在がいる事実が、雑賀と蒼矢に超えるべきハードルの高さを認識させる。  無論、彼等に今更折れる気は無かったが。  問うべき事の返答を聞いた以上、フレースヴェルグにとってこれ以上の会話の必要は無い。  雑賀も蒼矢も好夢も、彼に聞きたい事が山ほどあるのは事実だが、それを今ここで聞くことは難しいと思った。  今でこそ彼は監視の役割に徹していて、故にこそ自らの能力を戦闘のために行使することは無いようだが、その気になれば彼はこの場の全員を皆殺しに出来るのだ。  力ずくで聞き出そうとすることなど無理無茶無謀。  そして、明確に『敵』となった以上、無償で益となる情報を与えてくれるわけも無い。  今は、彼がこの場で何もせずに去ってくれる事を、幸運だと考えるしかない。  ……そう、三人は思っていたのだが。 「しっかしまぁ――」  蒼矢に視線を向け、フレースヴェルグは順序も関係無しにこんな事を口走っていた。 「――お前さん、もしかしてあの女の事好きなのか?」  今更、彼の言う『あの女』が誰のことを指しているのかに気付かぬほど、蒼矢も間抜けではない。  故に、問いの意味を理解した途端に顔を真っ赤にした。 「――は、はぁ!? 何でお前にそんな事を教えないと……」 (いや、まぁ……アレはどう見てもなぁ……) (滅茶苦茶心配してたし。助かったと解った時に泣いてたし。アレはどう見ても脈アリでしょ) 「二人とも、そんな訳知りな顔で僕のことを見ないで!? い、いや確かに僕の事を想ってくれてたし助けようともしてくれたし大切な人であることは間違いないけど好きである事と大切である事はまた別の話であって」  問いを出したフレースヴェルグではなく、味方であるはずの雑賀と好夢から無言のままに追い詰められてしまう司弩蒼矢。  どれだけ親の期待に応えようとするために勉強や水泳ばかりに専念していようが、そのためにロクに同級生ともコミュニケーションを取れていなかろうが、彼もまた青春を生きる男子学生の一人――男女の好き嫌いの話に鈍感になれるほどご都合な認知はしていなかったのである!!  面白い具合に慌てふためく蒼矢に対し、発言者のフレースヴェルグは更に言葉を紡いでいく。 「だってなぁ。事情があったにしろ自分を騙して誘き出しやがった相手を、見捨てるならまだしも助けるってのはなぁ。見た目やら性格やら、何かしらの理由が無いと流石に不自然だと思うんだよなぁ」 「うるさいな!? 何度も言うけどあの子は僕を助けてくれようとしたんだぞ!! だったら助け返しても別に不自然じゃないじゃないか!?」 「いやまぁそれにしたって結果として二回も助けるってのはどう見てもなぁ。いつ合体する予定なんだ?」 「ぶふっ!? が、がったいって、何のこと!?」 「ジョグレス進化だろ」 「雑賀さん適当なこと言ってないで――」  そこまで言って。  蒼矢はそこで、フレースヴェルグの言葉の中に聞き流していられない言葉が混じっている事に気付いた。  それまでの慌てっぷりは何処へやら、疑問一色の表情で彼は問う。 「――ちょっと待て。お前今、何て?」 「いや、だからいつ合体する予定なんだって」 「そっちじゃない!! 二回? 僕が、波音さんを……二回助けたって……?」 「事実だろ。今回のことだけに留まらず、お前は前にもあの嬢ちゃんを助けていた。前にも言ったじゃねぇかよ。あの学校のプールで、存分に力を振るっていたって。その時の事も思い出したってお前自身言ってただろ」 「いや、言ったけどそこまで具体的な事は……というか、助けたって事はその時の僕って……」 「ん? あそこの女学生とかに襲い掛かってた……なんだっけな。イカみてぇな見た目のヤツを相手に戦ってたな。お前が戦ってなかったら、まぁ気に入られたヤツからひん剥かれてたんじゃねぇの? いやー、あの時の暴れっぷりときたらそそったなぁ」 「「「……………………」」」  牙絡雑賀、司弩蒼矢、縁芽好夢はそれぞれ異なる理由で言葉を失っていた。 (……いや、そりゃあずっと監視してたって事は知ってて当たり前だろうけど……)  雑賀は思わぬ形で真実を知った衝撃に、 (……学校の生徒を襲っていたのは、僕じゃなかった……?) 『……いやー、マジかー……』  蒼矢は自分の通っている学校に本当に襲撃者が出ていたという事実に、 (……イカみたいな見た目のヤツって、もしかしなくても防犯オリエンテーションの時に襲ってきたアイツ……)  そして縁芽好夢は記憶にも新しい出来事を想起したことによって。  三人揃って沈黙してしまったことに対して疑問を覚えたらしく、フレースヴェルグは珍種の動物でも見るかのような眼差しになって声を掛けた。   「どうしたんだお前達? 俺、そんなに変な事は言ってないはずなんだが」  返事を返すまで、数秒掛かって。  当事者である蒼矢が、やや呆然とした様子で問いを飛ばしていた。 「いや、あの。何でそんな重要な事を話してくれなかったんだ?」 「だって聞かれなかったし」 「学校の生徒が傷付けられたのは僕の所為だと思ってたんだけど。襲撃者がいるなんて全く知らなかったんだけど。雑賀さんを傷付けてしまった事は間違いないけど、その事についてはお前が話してくれてたら罪悪感を覚える事も無かったと思うんだけど」 「だって覚えてないとは思わなかったし」 「あの、この気持ちどうすればいいの?」 「うーん」  そして。  空前絶後の罪悪感の空回りを実感する羽目になって呆然としてしまう蒼矢の問いに対し、全くもって悪びれた様子の無い監視者はこう総評した。 「……ドンマイ?」 「「ドンマイで済むかぁ!!!!!」」  いっそ意図的ではないのかと疑わんばかりの情報伏せの事実にブチ切れる蒼矢と雑賀だったが、フレースヴェルグは軽い調子で「はいはい悪い悪い」と返すだけだった。  興でも冷めたのか、彼は再度首を鳴らすと一言も残さずに窓の外へと飛び出していってしまった。  無論、その姿を『オニスモン』を原型とした鳥人のものに変えていきながら。  背から生える一対の大きな翼の羽ばたきによって彼の姿は一気に空に向かっていき、必然的に生じた強風が病室内を駆け巡り、雑賀と好夢が用意していた食べ物が辺りに散乱していってしまう。 「ねぇ雑賀にぃ、あの野朗本当に何だったの……?」 「知らないよもうクソ野郎って事でいいだろ」 「……なんか……色々疲れました……」 『ある意味もう会いたくねぇヤツだったなぁ』  究極体デジモン『オニスモン』の電脳力者、フレースヴェルグ。  突然現れて突然爆弾発言をし、終いには余計な置き土産までしやがるはた迷惑な台風野郎であった。    そんなこんながありながら。  風が止み、散乱してしまった食べ物を拾い集める羽目になった三人は、先の会話を思い返しながら思い思いに話をしていた。   「それにしても蒼矢、まさかあの野朗相手にあそこまで言い切るとはなぁ」 「……正直、断るとしてもあそこまで言うことは無かったなぁと後悔してます。恥ずかしい……」 「正直見直したよ蒼矢さん。今のは波音さんにも見せたかったなぁ」 「やめてよホントに……!? ああもう、いくら何でもカッコつけすぎだろ僕……!!」 「で、結局いつ合体するんだ?」 「雑賀さん、それ以上は罪悪感無しでぶっ飛ばしますからね!?」  脚本家とでも呼ぶべき『組織』への、実質的な反抗の宣言。  大切だと思うものを護り、助けるために戦うと決めて。  彼等は既に『仲間』と呼ぶべき間柄になっている。 「……断っておいてなんですけど、家族についてはこれからどう護ればいいんでしょう……」 「出来る事をやっていくしかないだろ。誰かの助け……もっと言えば信用出来る『組織』を探してその力を借りるとか、狙ってくるような奴を先に倒すとか、そもそもそんな事を考えなくなるぐらいに強くなるとか。どっち道、手前の都合で拉致とかやらかすような連中を頼りには出来なかっただろ」 「まぁ、それもそうなんですが……」 「……これから大変だよね。いや、元々大変だった事にようやく気付けたと言うべきなのかな。今まで気付けなかっただけで、きっとずっと前からこういう戦いは起こってたんだろうし……」 「そうだな」  蒼矢のフレースヴェルグに対しての言葉が、実のところ感情のままに吐き出しただけの何のアテも打算も無いものである事など、二人は当然気付いていた。  そして、それでも構わないと思った。  たとえ合理的でなくとも、あの男の背後にある組織の誘いは断らなければならなかったのだと、理解しているから。  これからどうすればいいのかなんて、解らない。  そもそも敵として戦うことになる『組織』は一つではない。  先のフレースヴェルグが所属している『シナリオライター』とは別に、今回蒼矢の内に宿る『リヴァイアモン』の力を狙って磯月波音を利用した悪党達の組織――『グリード』の存在もまた決して無視出来るものではない。  むしろ、後者については今回の件で、雑賀も蒼矢も好夢も明確な障害となりえることを行動で示してしまっている。  こうしている今も、危機に立たされる可能性は存在しているのだ。  それでも、彼等が笑いあえるのは。 「きっと、誰もが当たり前の日常を過ごせるように、戦ってくれた奴等がいたんだ。誰かを助けるために戦っているのは、俺達だけじゃないんだ」 「……そうですね」 「俺達は、自分一人だけで戦わないといけないわけじゃない。誰かと助け合って戦ってもいい。それが解っただけでも、俺は希望が持てると思う」 「……まぁ、嘘吐いてカッコつけて自分一人で何でもかんでも背負おうとしてた馬鹿野朗の雑賀にぃが言っても、説得力無いけどねー♪」 「い、いや俺はそんな言われる筋合いは――ひゃっ!?」 「というか、何で食べ物拾うのにその両腕が頭になってる姿のままなの? その頭からも食べる事が出来るの? 金髪染めだったのに銀髪になってるし、犬っぽいのにさわっても全然もふもふしてないし……あぁでもこのちょこっと伸びた尻尾はかわいいし赤い筋肉の質感もイイ感じだし……おー……」 「やめてくんない!? 戻るの忘れてたとはいえ一応今の俺って地獄の番犬だからね!? そんな好意的な目であちこち見たり触ったりするべきもんじゃ……ちょ、やだ好夢ちゃん何処触って!? あぉ!?」 (……下手すると僕もああなってたのかな……) 『さぁ?』  きっと、自分が一人ではないという当たり前を、確かに知る事が出来たからかもしれない。  七月十四日、あと一週間もしない内に多くの学生が夏休みに移行する頃。  三人の学生はそれぞれ異なる苦難を越え、進化を果たしたその先で、新たなる戦いを予感しながらそれでも希望を抱いていた。
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ユキサーン
2022年9月04日
In デジモン創作サロン
 数え切れないほどの情報と概念が集う世界――デジタルワールド。  そこは人間を含めた知的生命体の生きる現実世界の影響を如実に受ける傾向にあり、現実世界に『戦争』が起きれば鏡合わせとなるが如くデジタルワールドでも『戦争』が起きたりするし。  現実世界の文明が発展すればするほど、デジタルワールドの文明も見違えるほどに発展していく。  原始時代を思わせる自然の風景は、徐々に文明的な建造物の立ち並ぶ『街』や『都市』へと移り変わり、しまいには『国』として上書きされるまでに至った。  環境が変わればそこに生きる者達の生態が変わるのもまた必然。  恐竜のような姿をしていようが狼のような姿をしていようが昆虫のような姿をしていようが、デジタルワールドに生息する生命体――デジタルモンスター達の中からはその姿形に似合う生き方から外れ、人間のそれに近しい生き方をするようになった者たちが現れはじめた。  文明を、理性的な共存方法を重んじる彼等は、しかして『戦い』というものをどれだけの時間が経過しようと取り除くことこそ出来なかったが、一方で弱肉強食の自然の摂理という闘争のカタチをある意味において平和的な、見方によっては理不尽なものへと変化させていった。  つまる所、 「メタルグレイモンⅩ抗体でセキュリティチェック宣言する時に進化元の『Ⅹ抗体』の効果発動!! 進化コストを支払ってメタルグレイモンⅩ抗体をウォーグレイモンⅩ抗体に進化!! メタルグレイモンX抗体の進化時効果とグレイモンの進化元効果、加えてテイマーカード『八神太一』の効果によって合計4枚チェック!! そしてオプションカード『緻密な戦術』の効果によってチェックしたセキュリティからオプションカードが出てもその効果は使えない!!  あとセキュリティ1枚減る度にメモリープラスだ!!」 「まだだ、4枚割ろうがセキュリティは1枚残ってる!! オメガモン持っていようがトドメになることは」 「ウォーグレイモンⅩ抗体をオメガモンに進化!! 進化時効果でアクティブになって『進撃』発動でアタック宣言!! 同時に進化元の『Ⅹ抗体』の効果を再び使ってオメガモンをオメガモンⅩ抗体に進化ぁ!! 進化時効果で進化元のウォーグレイモンX抗体をデッキの下に戻してお前のセキュリティを見て選んで1枚破棄!!」 「流石にそれは手札揃い過ぎだろお前!!!!!」  世はまさに、カードゲーム時代であった。  手にした合計55枚のカードの束、即ちデッキを手に勝ったり負けたりして――そうして個体としての『強さ』を高めようとするデジモン達の戦国時代。  そこに、腕っ節の強さだとか年齢だとかが介在する余地は一切無い。  各々が頼りに出来るものは即ち、カードの束から的確な戦術を編み出す知能と引き運のみ。  勝った者が栄誉を手に入れ、負けた者は悔しさで地団駄を踏む、新時代の戦闘方式。  ……いやいや、そうはならないだろう、と常識のある者であれば口に出すことだろう。  何せ、どれだけカードゲームが上手くなろうが勝利を重ねようが、デジモン達の一種族としての能力、発揮出来る力が特段変動するわけではないのだから。  成長期の子供が成熟した大人に勝ったところで、子供がより強い姿に成るわけではない。  あくまでも在るのは、勝利と敗北の概念だけ。  何ならカードゲームで負けようが暴力で道理も条理も自分勝手に捻じ曲げてしまえばいい――そんな風に考えるデジモンも、そう少なくはなかった。  だがある時、一部のデジモン達が口にした言葉が、それ以上に暴力派のデジモン達のプライドを燃え上がらせた。  ――正々堂々戦うのがそんなに嫌か?  ――イイ年した究極体のくせに、成長期相手に負けたままで恥ずかしくねぇのか?  ――暴力に逃げるな卑怯者!! 逃げるなぁ!!  ――そんなに怖いか? 新時代が!!  そんなこんなで、いつの間にかデジタルワールドの各所に形作られた『街』や『都市』の中では、他ならぬ彼等デジタルモンスター達を主役としたカードゲームによる『対戦』や『大会』がものすごい速度で流行した。  具体的に言うと、 「……あの、ドゥフトモン」 「何だい。今は僕の番だよ? 君の盤面的にから出来る事は基本的に無いし、僕のデッキはこういうものだから特に聞くことは無いと思うんだけど」 「いやそれは解ってるんだけど」 「しかし、そちらはアーマーアグロか。あまり時間を掛けていては負けてしまうな。では私は『究極のコネクション!!』を使って――」 「何であんたロイヤルナイツなのにそんなデッキ使ってるの???」  世界を守護する類の聖なる騎士たちとか、 「ねー、ユピテルモン?」 「何だ」 「何でキミのデッキのユノモン、パラレルイラストなの?」 「『大会』に出たからに決まっておろうが、バッカスモン」 「何で4枚全部優勝者仕様なの? 『大会』って昨日から始まったばかりだよね?」 「世界を巡って参加出来る『大会』全てに殴りこみしたからだが」 「そこまでユノモン愛してるのに何でミネルヴァモン入れてるの?」 「どちらも愛らしいからに決まっておろう」  現実世界に語られる神々を原型とした十二体の神人たちとか、 「なぁプレシオモン。リヴァイアモン様いったいどうしたんだ? なんかすげぇ拗ねてたけど」 「あぁ、確か推しのアルファモンの限定カードを目当てに最新ブースターをスーパーカートン買いしてそれで当たらなくて、その隣でわたしがバラ買いしていたパックから目当てのカードが出てしまったから、でしたっけ。別にわたしは特別欲しかったわけではないので、あげようとしたのですが断られて、それっきりあのような感じに」 「……えぇと、そもそもリヴァイアモン様ってどうやってパックを開けてるんだ?」 「さぁ? 魔王の超パワーとかではないでしょうか」  大罪を紋章の形で背負う魔王たちなど、お前ら暇なのかと誰もが言ってしまうぐらいのビッグネーム達がちょくちょく顔を出しに来る程度には流行りだしていた。  当然、世界の管理者がマッチポンプを企みそうになる程度には、世界の秩序は混沌を極めていた。  知能と運(と財力)さえあればジャイアントキリングなど当たり前。  負けた後で暴力など振るおうものなら、世界規模の恥さらし。  自らのプライドとか何とかを護るためには、正々堂々の平等なルールの下で行われる『対戦』でもって自らの『強さ』のほどを証明するしかない。  たった55枚のカードの束に、デジモン達は自らの闘争本能の全てを懸けていた。  というかむしろ、命のやり取りが介在しないためか、争いの勢いはただただヒートアップするしか無かった。 「レッド・メモリーブースト!! うおお引けてくれジエスモン!!」 「ベルスターモンを登場!! 効果でトラッシュからネイルボーンを回収、そしてノーコストで発動!!」 「友樹くんかわいい」 「マメモンをバンチョーマメモンに進化!! 効果でデッキの上を3枚オープンしてその中から相手の場のデジモンの数まで名称にマメモンを含むデジモンを出せる!!」 「ブロッサモンをニーズヘッグモンに進化!! デジバースト4!!」 「ケケケ場の『ディアボロモン』を消滅させてアーマゲモンを3コストで登場……!!」 「ゴッドドラモンのアタック時効果!! トラッシュからチンロンモンとホーリードラモンとメギドラモンを一枚ずつデッキの下に戻して相手のセキュリティを上から2枚破棄!!」  世はまさに、大カードゲーム時代。  神と呼ばれる存在でさえ理解不能と匙を投げるこの世界で、覇者となりえるのはいったい誰か。  そしてそもそも、カードゲームで『強さ』を誇らんとしているデジモン達に進化する気はあるのか。  おかしい形に捻じ曲がった世界の形に誰も疑問は覚えないのか。  生物として、強弱の概念がおかしくなったデジタルモンスター達の行き先は、誰も知らない……。 「いやそもそもカードゲームでマウントとか取るなよ」
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ユキサーン
2022年8月20日
In デジモン創作サロン
 新たな進化、不確定要素の追加。  その事実によって齎される優劣の変化を、怠惰の魔王を宿す男――縁芽苦朗を仕留めるために攻撃を仕掛けていたメガドラモンの電脳力者、レディーデビモンの電脳力者、そしてフェレスモンの電脳力者はそれぞれ計算していた。  元々、彼等は七大魔王たる『ベルフェモン』の力を宿す縁芽苦朗一人との交戦を想定して『組織』のメンバーの中から選出された者たちだった。  空中戦が出来ることは当然、情報通りであれば致命傷を負ったらしい縁芽苦朗を捕縛する、それが出来ずとも別働隊が『リヴァイアモン』の|電脳力者《デューマン》を仲間に引き入れるまでの間、十分な足止めが出来るだけの能力を有した戦闘要員。  牙絡雑賀という不確定要素こそあれど、彼等が介入を開始したその時点でそれはむしろ縁芽苦朗にとっての枷となるものでしかなくなっていて、彼等にとってそれは都合の良い要素でしか無かった。  事実として、彼等は鎖に巻かれた牙絡雑賀を巻き込むように攻撃を仕掛ける事によって、確かに縁芽苦朗を追い詰めることが出来たのだから。 (――イイ感じに攻めきれる所だったのに……)  縁芽苦朗という男が、不要な破壊行為を好まない性格をしていることは事前に知らされている。  魔王の力に任せた大規模な広範囲攻撃などは、体調の良し悪しに関わらずあまり使うことが無く。  ベルフェモンという魔王――にかつて進化した個体――のデータが思考にどれだけの影響を及ぼしているかどうかはともかく、少なくとも縁芽苦朗という人間は、自らの力によって予期せぬ被害を齎すことを好しとしないと。  故に、損耗の度合いから考えても、彼等の優位が崩される可能性は低いと考えられた。  手間取っている間に目的が達成されれば、自分達の勝利は揺るがないと、そう思っていた。  牙絡雑賀が電脳力者として地獄の番犬――『ケルベロモン』の力を覚醒させた、その時までは。 (――チィッ、あと少しで仕留められた所を……この犬っコロ……!!)  この状況において、戦力が一人増える事に対する意義は大きい。  先の同時攻撃を一掃してみせた火炎放射の存在を考えても、近距離にしろ遠距離にしろ仕掛けることが容易ではなくなったことは間違い無いのだから。  彼等の主な役割は時間稼ぎであり、それを果たすためには攻撃を仕掛け続けることで『無視出来ない』状態を作り出す必要がある。  それ自体は難しい話ではない――これまで通り、基本は飛び道具で牽制し続ければ良いのだから。  だが一方で、ここまで追い詰めておきながら時間稼ぎだけで済ませてしまうほど、役割と目的をお行儀よく遂行してやれるほど、彼等は欲が浅くも無かった。  致命傷を受けているはずの縁芽苦朗を殺し、その邪魔をしようとする苛立たしい端役も殺す。  そのつもりで動くと既に心に決めている。 (……あたし達と同じ、完全体クラスの種族の力。スペックの面では侮れないだろうけど、ケルベロモンは見た目通り、空を飛べる種族では無い。いくらあたし達の攻撃をかき消すことが出来るとしても、あたし達を直接仕留めることは難しいはず)  空を飛べぬ身で、されど空飛ぶ者たちに嚙みつかんと下手に跳び出しに来れば、そこにはただただ身動きの取れない無防備な犬畜生がいるだけだ。  先の展開から考えても縁芽苦朗が庇おうと動くだろうが、それはそれで優位な状況に持ち込む余地となりえる。  そもそもの話として牙絡雑賀が、他ならぬ苦朗の手で消耗させられていた事は彼等も目撃していた。  より強い力に覚醒したからと言って、体力まで回復しているはずが無く。  性能で劣る身であっても、優位性が崩れることは無い。  とにかく空中から一方的に、それでいて複数の角度から攻撃を仕掛け続ければ、いずれ相手の方からボロを出す――そんな確信があった。 「ダークネスウェーブ!!」 「ジェノサイドアタック!!」  だから、安定択を取って飛び道具を継続して放つ事にした彼等には、魔獣と化した牙絡雑賀の次の行動を予想することなど出来なかった。  彼は火炎を吐き出す両腕の獣頭――のように見える機械染みた何か――を飛び道具の方へと向ける事すらせず、自らの足元に向かってそれを押し付けると、 「行くぞ!!」  掛け声と同時に、雑賀の足元が爆発し、彼の体がさながらロケットのような勢いを伴って勢いよく上方へカッ飛んだのだ。  見れば、雑賀の両手の獣頭から火炎が吹き出ている――どうやら彼は、火炎放射機として扱える両手の獣頭をある種の推進機とする事で、体を飛ばしているらしい。  本来の『ケルベロモン』という種族では考えられない、いや考えられたとしても到底無理のある方法。  それを可能としたこと自体が、あるいは人間の体を軸とした別物である証明なのか。  自らに向かって降り注ぐ凶器の雨、その外に出るように空へ飛び出した異形の魔獣は自らを浮かす獣頭の角度を僅かに変え、すぐさま方向転換――自らに攻撃を仕掛けたメガドラモンの電脳力者とレディーデビモンの電脳力者の方へ突撃しにかかる。  後方へ火炎を噴出させながら飛来するその様は、ロケットというよりミサイルの類だ。  どうやって仕掛けるつもりかどうかは知らないが、近付けさせて良い事は無い――そう判断した機竜が再びミサイルを両腕から多量に発射して魔獣を撃墜しようとするが、 「――おおおおッ!!」 「何ッ!?」  直進の最中に魔獣は体をひねると、そのまま小規模に火炎を噴き出す事で反動を生じさせ、上下左右に軌道を変えていく。  空中を飛ぶというよりは、跳ねているとでも言わんばかりの挙動でもって自らに向かい来るミサイルの雨を掻い潜り、その勢いのまま機竜の眼前へと迫り。    そして、別の建造物の屋上に移動することで放たれた飛び道具を回避していた縁芽苦朗もまた、即座に別の角度から二体の電脳力者に肉薄しにかかる。  その軌道を遮るようにして遠方よりフェレスモンの電脳力者がその手に携えたライフルから弾丸を何発か放ってくるが、弾丸が空を切った頃には既に魔王が墜天使との間合いを詰めている。  回避は間に合わない――そう判断した墜天使は強く舌打ちし、 「死に体の分際で!!」  そうして二つの衝突が起きた。  魔獣はさながらサッカーのオーバーヘッドキックでもするように機竜の顔面目掛けて右脚に備わった鉤爪を振り下ろし、機竜もまた両腕の鋼爪を交差させて鉤爪の一撃を真っ向から迎え撃つ。 「――サーベラスイレイズ!!」 「――アルティメットスライサー!!」  グァギィン!! と。  金属と金属が打ち合い、互いを抉り合う耳障りな音が響き渡る。  片や両腕による、片や片足による一撃。  翼を有している点から考えても、メガドラモンの電脳力者の優位は明白であるはずだった。  だが拮抗する。  姿勢を支えるものなど無いにも関わらず、魔獣の膂力は機竜の機械の腕力を抑え留め――直後に、双方共に弾き飛ばされる。 「ガァッ……!!」 「グルゥ……ッ!!」  互いに一撃の威力に圧され、唸り声と共に向けられる眼差しはまさしく怪物のそれ。  互いを敵だと断定しているからこそ遠慮は無く、言葉を交える瞬間があるとすればそれは無知を埋めるためのものか、そうでなければ大抵の場合、 「ヘルファイアー!!」 「ジェノサイドアタック!!」  相手を倒すための、必殺技と言う名の言霊を吐き出す瞬間ぐらいだろう。  互いの攻撃の威力に弾き飛ばされると同時、魔獣と機竜は共に自らの放てる飛び道具を打ち出していた。  魔獣は左腕の獣口から業火を、機竜は鋼鉄の腕からミサイルを。  撃ち出された業火とミサイルは真っ向からぶつかり合い、生じる爆発によって音と炎と黒煙とを撒き散らす。  爆炎によって遮られた視界に敵の姿は見えなくなり、迂闊に突っ込むわけにもいかずに様子見を余儀なくされる――かと思えば、魔獣は両腕の獣口から炎を噴出させ、爆炎と黒煙の向こう側目掛けて突っ込んでいく。  姿などロクに見えてはいないはずなのに、その視線は正確にメガドラモンの電脳力者の位置を捉えていた。 (今なら解る。生き物のニオイだけじゃあない。悪意ってヤツのニオイがよく解る……!!)  デジタルワールドの地獄を駆け回り、悪たるモノを逃がさないために発達した、番犬としての機能。  目に見えずとも、耳に聞こえずとも、その種に刻まれた感覚でもって訴える形で。  ケルベロモンと呼ばれたデジモンの力が、牙絡雑賀に敵の位置を知らせてくれているのだ。 「おおおおおおおおおおッ!!」 「!? チッ……!!」    獣口より噴出される火炎によって加速した魔獣の両脚が、それに備わった爪が、黒煙の向こう側から様子を伺っていた機竜の化け物を再び襲う。  まさか間髪入れずに攻め込んでくるとは考えていなかったのか、僅かに反応が遅れながらも機竜は翼を広げて後方へと飛びながら、両腕の鋼爪で防御体制を取る。  ガガガガガガガガガガッ!! と、蹴りの形で突き出される魔獣の鉤爪が機竜の鋼爪に傷を付けていく。  フィクション上の『設定』に曰く、ケルベロモンの四肢に生えている鉤爪は、最強の生体合金であるクロンデジゾイドでさえ純度の低いものであれば切断するに足る硬度を有しているという。  実際にもその通りなのであれば、人間と混ざり合ったような在り方機竜の両腕の鋼爪を傷付けることぐらい、造作も無いだろう。  だが、機竜もただただ攻め込まれるだけにはならない。  連続した攻撃の速度に慣れてきたのか、ただ防ぐだけには留まらず、魔獣の鉤爪を所々で見切れるようになってきている。  その適応力は人間としての才覚か、それともデジモンとしてのスペックに起因するものか。  どうあれ、結果として――直後に反撃があった。  連撃の隙間を突く形で、機竜の鋼爪が魔獣の胴体に向けて鋭く突き出されたのだ。   「オラァ!!」 「グウッ!?」    情報の話において、あらゆる物質を切り裂くことが出来る、とされる爪。  その一撃は確かに魔獣の全身を覆う黒き装甲を穿ち、苦悶の声と共に口から血を吐き出させた。  激痛のショックで両腕の獣口から噴出されていた炎が途切れ、一撃の威力に圧される形で魔獣の体が後方へと吹き飛ばされる。  強固な装甲に覆われているとはいえ、炎を用いた加速によって体重を乗せてしまった上で受けた一撃のダメージは決して少なくはなく、空中でバランスを崩した事も相まってその呼吸は乱れていく。  そもそもの話、彼も彼で消耗を重ねている状態だった。  今の姿に至る過程で|縁芽苦朗《ベルフェモン》から(必要最低限の範囲とはいえ)痛めつけられて体力を削がれ、現在は空飛ぶ敵に対抗するために必殺技に用いる火炎を推進機として常に放ち続けている。  人間が運動の際にエネルギーを消費するように、デジモンもまた必殺技を用いる際に何かを消費している。  本来、夏場のエアコンのように適当に使い放しにしてしまって良いものでは無いのだ。  火炎を放射させるごとに、その威力と時間に応じて必然的に消費は発生する。  対等の状態で追い詰めているように見えて、戦いの前提の時点で牙絡雑賀は追い詰められていた。   (く……そっ……!!)  どんどん、敵との距離が離れていく。  たった一撃で自分のことを仕留めた――などと楽観してくれるほど甘い敵では無い。  見れば、メガドラモンの電脳力者はレディーデビモンの電脳力者と交戦している縁芽苦朗の方へと視線を向けていた。  あくまでも、この戦闘において重要なのは究極体のデジモンの力を振るっている彼の方なのだ。  敵からすれば、雑賀のことなど放っておいて、魔王を集中攻撃して無力化させてしまいたいのだ――その目的からしても、最優先で。  本来であれば究極体――それも最上位クラスのデジモンの力を操っている縁芽苦朗が、進化の段階で劣る完全体のデジモンの力で襲い掛かってきている刺客を相手に苦戦することなど無いはずだが、彼は詳しい経緯を知らない雑賀から見ても不調な様子だった。  究極体のデジモンが、数で勝るとはいえ完全体のデジモンに苦戦してしまう状況――そんなものを見てしまうと、自分という人間が――此処に来ることで、どれだけ足を引っ張ってしまったのかを考えずにはいられない。  今この時に至るまでに、彼がどれだけの負担を背負ってきたのかを想わずにはいられない。 (負け、ねぇ……っ!!)  解ってはいる。  そもそもの話、縁芽苦朗がこの場にやって来たのは、嫉妬の魔王リヴァイアモンを宿すとされる司弩蒼矢のことを追って殺すためだった。  それを止めようと動いた自分の選択が間違っていた、などとは思わない。  でも、だけどだ。  何も、命の危機に瀕することで足を止めてほしい、などと考えたことは無かった。  かもしれない、に過ぎない可能性の話のためにあの入院患者を殺してしまうぐらいなら、いっそ死んでほしいだなんて思うわけも無い。  求めるものはただ一つ。  友達と馬鹿みたいに笑って明日を迎えられる、ありふれた日常だけだ。 (この程度で……こんな、程度で、諦めちまうのなら……)  両手の獣口が再び点火する。  それまでより強く、咆哮のように、より激しく。   (そもそもこんな世界に!! 首なんか突っ込まねえだろ牙絡雑賀!!) 「お前の相手は――」  魔獣はその身を敵対者である機竜の方に向かって飛翔させていく。  決して逃がすまいと、決してその脅威を他に向けさせはしないと、告げるように。 「この、俺だろうがああああああああああああああっ!!!!!」  無論、魔獣の動きを機竜は爆炎の音と方向によって知覚していた。  だからこそ即座に振り返り、動きを見切って迎撃をしようと考えた。  だが、 (――更に速くなりやがったッ!?)  その速度は、それまで機竜が目撃したそれよりも更に上がっていて。  振り向いた時には既に、魔獣の姿が眼前に迫って来ていて。  咄嗟に凶器の鋼爪を振るったが、それが魔獣の体を捉えることは無く。  隙を晒した機竜の下方から、右手の獣口を機竜の方へ、左手の獣口をその反対方向に向け――魔獣は再び火炎を放つ。 「ヘル!! ファイアアアァァァーッ!!」 「グ、オオオオオアアアアアッ!?」  至近距離から解き放たれた地獄の火炎。  それは機竜の電脳力者の体を瞬く間に焼き焦がし、意思に関係無く苦悶に染まった絶叫を響かせる。  並大抵の生命でさえば肉体を炭化させて焼死、そうでなくともショック死は免れないほどの熱量。  それを受けておいて原形を保ち、生命活動を維持している――その時点で異形の姿の根本たるメガドラモンというデジモンの頑丈さが見て取れるものだが、死なないからと言って苦痛の程度が抑えられているわけも無く。   (こい、つ……コイツコイツコイツゥゥゥッ!!!!!)  体以上に、その思考が一気に煮え上がっていた。  予定には無いイレギュラー、結果的に魔王の枷となっていた端役。  そんなモノが自分に牙を剥き、しつこく食い下がり、あまつさえ自分の力を上回る気でいる。  そのような現実を許容出来るほど彼の沸点は低くは無く、精神は容易く激昂へと至り、 (殺す……殺す殺す殺す絶対絶対ここでコロシテヤルッ!!!!!) 「ガァァァアアアアアアアアアアアアア!!」  野獣の咆哮という形で、その怒りは噴出した。  自らの体が焼かれている事実など気にも留めず、機竜は魔獣に向かって突撃してくる――地獄の業火を真っ向から突っ切る形で。   「ッ!?」   炎の奔流から逃れようとするならまだ解るが、まさか炎の中からそのまま襲い来るとは予想出来なかったのだろう。  自らの攻撃そのものが死角となってしまい、反応が遅れてしまった魔獣は機竜の鋼爪による一撃を側頭部へモロに受けてしまう。  歯を食いしばって耐え、両腕の獣口からの炎の噴出が途絶えることだけは阻止するが、機竜の攻撃はそこで終わらなかった。  その場で自らの体を縦に回転させ、炎の噴射によって空中に浮き続けている魔獣目掛けて長く太い尻尾を振り下ろしたのだ。  咄嗟に避けることなど出来るわけもなく、鈍く重い音が響き、魔獣の体が地上の廃墟目掛けて勢いよく墜落する。 「グゥッ……!!」  どうにか両脚で屋上に着地することは出来たが、鋼爪と尻尾による攻撃のダメージからか苦悶の声を漏らす雑賀。  痛がっている場合では無いと視線を機竜の方へと向けるが、そこで彼の表情に驚きの色が混じる。 「■■■■■■!!」  見れば、つい先ほど縁芽苦朗の方を狙おうとしていたはずの機竜は、明らかに雑賀の方に向かって来ていた――言語化不能の怒号を上げ、両腕の鋼爪から数多のミサイルを発射しながら。  素早く別の建造物に向かって跳躍することでミサイルの雨を回避し、すぐに振り返って機竜の姿を目視した魔獣は、そこで驚くべきものを目の当たりにする。 (――何だありゃ……)  注目がこちらの方へ向けられる、というだけなら望む所であり、驚くことは無かった。  それでも驚愕したのは、機竜の電脳力者の姿に明らかな『変化』が起きていたからだった。  即ち、 (……なんで、デカくなってやがるんだ……!?)  心なしか、機竜の体が少し大きくなっていた。  一般的な成人男性ほどの体格から、その五倍は越す巨体へと、その体積が増している。  しかもよく見れば、頭から尻尾にかけて殆どの部位が大きくなっている一方で、メガドラモンという種族に本来存在していない両脚の方は大きくなっておらず、むしろ大きくなった尾の中に埋もれたかのようにその姿を消していた。  まるで、最初からそのような形であったかのように。  人間の面影、とでも呼ぶべきものを取り除いた代わりに、宿しているデジモンにより近しい姿へと変わっているその事実に、雑賀の背筋に嫌なものが奔る。  その有り様に、一つ心当たりがあったのだ。 (……あんなの、まるであの時の司弩蒼矢じゃねぇか……!!)  そっくりだった。  かつて夜中のウォーターパークで戦った、シードラモンと呼ばれるデジモンの特徴を有した異形へと変じていた、あの男の姿に。  デジモンに近しい姿に変化した電脳力者の姿は、司弩蒼矢との戦いの後に乱入してきたオニスモンの電脳力者ことフレースヴェルグ、現在共闘しているベルフェモンの電脳力物である縁芽苦朗以外にも、裏路地の一件でチンピラの集団と交戦したことでそれなりに確認してきたが、総合的に見て一つの共通点が見受けられていた。  宿しているデジモンが本来持たない部位であろうと、基本的には誰も彼も人間と同じ骨格の手足を有している点だ。  デジモンという怪物の要素を含んでいようと、あくまでもその姿形は人型の域を出ないもので。  唯一、司弩蒼矢だけは腰から下が完全に尾の形を取り、片腕も丸ごと蛇のようになっていたが、それはあくまでも彼が片腕と片足を失った人間としては不完全な状態であったからだと考えられていた。  だが、目の前の敵の変化はその前提を崩すものだ。  両腕が鋼で形作られた三本爪になっていようと、辛うじて人型という形を維持していたその姿は――もはや、人の一文字が入り込む余地がほとんど無い竜の姿へと、変じていた。  ケルベロモンの電脳力者として魔獣と化している雑賀のことを見据えるその目には、人間らしい理性や知性の色を窺い知ることは出来ない。  見て解るのはただ、怪物らしい凶暴な面構えと殺意と、その全身から漏れ出ている紫色の靄のような何かぐらいで……。 (――ってオイ待て、何だアレは?)  それ以上の疑問を挟む余地は無かった。  正真正銘、暗黒竜とでも呼ぶべきカタチを成した電脳力者が、上方からその右腕を振りかぶりながら雑賀に迫る。  巨大な体躯に至りながらも鈍重さを感じさせないその猛威に、真っ向から打ち合うべきではないと即座に判断した雑賀が咄嗟に建造物の屋上から飛び退いた直後。  振り下ろされた機竜の右腕によって、一秒前に雑賀が立っていた建造物が真っ二つに割れて倒壊した。  一方で、縁芽苦朗もまた苦戦を強いられていた。  牙絡雑賀がメガドラモンの電脳力者に肉薄したのとほぼ同時、彼も彼でベルフェモンの力を宿した体の身体能力に任せて墜天使を撃破せんとしていた。  が、見れば両腕を組んで防御の姿勢に移っていた墜天使の纏う黒衣が、墜天使と魔王の間で大盾の形を成しており、およそ架空の物語では語られる事さえないその変容が、魔王の重く鋭い一撃を受け止めていた。  威力を殺しきれなかったのか、墜天使の体が大盾ごと後方へと押し出され、僅かに墜天使の口から苦悶の声が漏れたりしたが、その結果を見た魔王の表情は苦々しいものだった。 (――確かに、言う通りかもしれんな)  位にして上位に位置するとはいえ、所詮は完全体クラスのデジモンの力を引き出しているに過ぎない相手に、究極体――それも最高クラスのデジモンの身体能力を引き出しておきながら、その一撃を受け止めるという行為が成立している事実。  それは紛れもなく彼という魔王の現状を表すものだ。  今の彼は、咆哮一つで消し去れる程度の相手を一息に戦闘不能に出来ないほどに消耗している、と。  考えられる理由は、先に墜天使から指摘された事実に加えてもう一つ。 (ブワゾンの毒素が体内に残っている今、下手に力を使えば俺の体は内側から確実に蝕まれ死に近付いていく。ランプランツスもギフトオブダークネスもロクに使えないとなると、リヴァイアモンが覚醒した時、太刀打ちすることは難しくなるだろう)  相手の宿すエネルギーが強ければ強いほど、相手を確実完全に内より滅殺する闇の猛毒。  その影響は魔王の身を以ってしても容易に消し去れるものではなく、今もなお現在進行形で|縁芽苦朗《ベルフェモン》の体内を苛んでいた。  戦闘中でも無ければ影響が残らないように毒素を中和することは出来る自信があるが、ただでさえ狙われている今そんな余裕があるわけも無い。  猛毒の影響を強めないように、単純な身体能力で戦闘することぐらいしか今の彼に取れる安全策は無く、その肝心の身体能力も消耗に伴って衰えを見せている。  その事実は、当然ながら墜天使も知覚していることだった。 「フン……!! まだそれだけ動けるだなんてね。息をするだけでも辛いんじゃないかしら? マトモに戦うことも出来ないのなら、さっさと楽になればいいものを!!」  だから彼女は言っているのだ、力を十分に行使出来ない今の|縁芽苦朗《ベルフェモン》は実質的に死に体当然であり、これ以上抵抗しても無駄に終わると。   そもそも敵がこの墜天使と機竜と貴公子の三人だけとも限らない。  ここぞという場面で援軍が仕掛けにくる可能性だって十分に考えられる――それだけの戦力が無ければ別働隊など構築出来るわけが無いのだから。  が、   「なめるな、生ゴミ」  吐き棄てるような言葉の直後だった。  肉球のついた魔王の右手の上に、まるで最初から存在していたかのように――何の拍子も無く浮かび上がるものがあった。  薄く、あるいは厚く、幾つもの紙を金具で固定し束ねた、学生であれば誰でも持ちうるもの。  すなわち、 「なっ」 「――リヴァイアモンの電脳力者と対峙するより前に、消費したくは無かったが」  それは、一言で言えば『学習ノート』だった。  小学生や中学生、高校生や更には社会人までにさえ利用されている、学んだことを書き記すための道具。  縁芽苦朗という名の学生には関係があっても、ベルフェモンという名のデジモンには無縁の、まして戦いの場に持ち出すこと自体が論外の代物。 「もはや温存の余地など無い事も、また事実。まったくもって最悪だ。ツケは払ってもらうぞ?」  それを彼は、様々な命運の掛かったこの窮地に、さながら切り札を開示するかのような素振りで手の上に乗せたのだ。  まるで、それこそが自らの――自らに宿すデジモンの本当の武器であると知らしめるように。  見れば、知らぬ間に腰から足元までが赤錆色の袴のようなものに覆われていて、さながら古き世の侍、あるいは架空の存在でしかない魔法使いのそれを想起させる格好になっていた。  女墜天使、そして遠方より狙撃の体勢を維持している貴公子の電脳力者の怪訝な視線など気にも留めず、在り様を変えた魔王は言霊を告げる。 「――事象摘出《ダイアログ》、物象再現《ダウンロード》」 「っ!?」    言霊が紡がれたその直後だった。  パラパラパラパラ、と風向きを無視してひとりでに開かれた『学習ノート』のページ、そこに描かれた記号の羅列が闇色の光を放ち、0と1の数字の羅列を浮かび上がらせる。  それは瞬く間に色を宿し、形を伴った塊を成し――青い鞘に収められた同色の柄を有する二振りの刀となって実体を得て、縁芽苦朗の腰元に携えられる。  おおよそ『ベルフェモン』という種族が携えていた情報など無い、未知のもの。  だが、それよりも女墜天使の意識が向いたのは、たった今彼がとった行動そのものについての事。 (本を媒体とした、情報の実体化……それに今の単語。まさか……!!) 「……あなた、その能力は!!」 「…………」 (……この反応、力を得てそう長くは経っていないようだな。電脳力者の力の本質も理解していないその上で、このレベルの戦闘能力となると……)  返答は無かった。  魔王はあくまでも、冷徹に女墜天使の反応から素性を分析しており。  そして女墜天使の方もまた、未知の能力に危機感でも覚えたのか――僅かな時間、様子見を余儀なくされて。  ほんの僅かな油断と隙が命取りとなる、その認識がより強固なものになる。  故にこそ、先に仕掛ける側がどちらなのかは、決まりきっていた。  右腰に携えた刀の柄を左手で持ち、左腰に備えた刀の柄を右手で持ち、獲物を見据えて――魔王が沈黙を破る。   「ツバメ――」 「っ!?」 「――二枚返し」  直感に任せて女墜天使が体を後方へと動かし、黒衣の大盾を形作った直後に。  刀を握った手に力が込められ、凶器は振るわれる。  刀剣の軌道は見えず、速度は到底女墜天使に反応出来るものでは無かった。  ただ結果として、その左肩と胸元に浅い切り口が生じる。  咄嗟に回避しようと動いていなければ、左腕か首のどちらかは両断されていたであろう事は想像に難くなかった。  そして、先に仕掛けた側としての優位をそこで途絶えさせるほど縁芽苦朗は優しくない。  自らの攻撃が命に至らなかったことを認識すると、再び二本の刀を手に攻め立てに掛かる。 「――ィッ、この……っ!!」  女墜天使は刀による連続攻撃を、黒衣を変化させて形作った武具などによって受け止めながら、自らの予測に確信を得る。  実のところ、刀自体の鋭さ自体は大したものでは無く、女墜天使の黒衣で十分受け止められる程度のものでしか無かった。  女墜天使から見て、おそらく『勉強ノート』に記載された情報を媒体として実体化した二振りの刀、その原型となっているものは成熟期の鳥人型デジモンである『ブライモン』が持っているものだ。  だからその殺傷能力も、完全体デジモンであるレディーデビモンの扱う黒衣と比べて劣る程度にしかなく、だからこそベルフェモンとしての力を振るっているはずの縁芽苦朗の攻撃を『受け止める』という選択が成立している。  事実だけを見て考えれば、魔王の方が手加減しているようにも見えたかもしれない。  だが、実際の話としてそれは有効な手加減だった。  何しろ、今の縁芽苦朗の体は女墜天使の放った猛毒の影響で、強い力を行使すればするほど命を内より蝕まれるようになっているのだから。  行使する力が弱ければ弱いほど、猛毒の効力は強くなれない。  そしてそもそも、女墜天使の予想が正しければ、この行為に伴ったエネルギーの消費は殆ど存在しないのかもしれない。  これは現在の努力の成果ではなく、過去の努力の結果そのもの。  ただ単に、今より前の時間に存在していたものをタイムカプセルのように保存し、現在に取り出して利用しているだけなのだから。  次々と『学習ノート』のページはめくられる。  物象ではなく、今度は現象が摘出される。 「事象摘出《ダイアログ》、現象再現《アップロード》――シャドーウィング」 「っあ、ぐあああっ!!」  至近距離から、まるで銃口でも向けるように。  女墜天使の方に向けて開かれた『勉強ノート』のページから、見えざる力が解き放たれる。  恐るべき速度を宿したそれは女墜天使の体に命中すると同時に破裂、各部を切り刻みながらその体を強く吹き飛ばしていく。  シャドーウィング――それは『ガルダモン』と呼ばれる完全体鳥人型デジモンが有する必殺技の名だった。  超速で真空の刃を放つ事で敵を切り刻み、時に空気との摩擦熱によって炎の鳥と化すともされる技。  全く異なるデジモンの武器だけではなく、必殺技まで再現しているというその事実が女墜天使に確信を与える。  つまる所、 (コイツ、確実に『ワイズモン』の力も同時に使っている……!!)  インターネット上に記載されているデジモンの『図鑑』に曰く。  『本』を通じてあらゆる時間と空間に出現し、『本』が繋がる時空間のどこにでも姿形を変えて出没するため、本体は別次元に存在するのではないかと言われている摩訶不思議なデジモン。  両手に『時空石』と呼ばれるアイテムを持ち、その機能によってデジタルワールドのあらゆる事象や物象を時空間に保存しており、それによって時空間に保存していた敵の放った攻撃さえも手中に収めるとされる――らしい存在。  縁芽苦朗は、魔王ベルフェモンの力だけではなく間違い無くその種族――ワイズモンの力を行使している。  通常、デジモンは進化に伴って進化する以前に有していた能力や特徴を削ぎ落とす構造となっており、故にこそデジモンの力を行使して戦う|電脳力者《デューマン》もまた、成っている種族の力以外は行使出来ないのが自然であるはずなのに。  女墜天使はその疑問に対して正しい解を得ることが出来ない。  縁芽苦朗もまた、わざわざ戦闘中に敵対者に知恵を施すような愚行を犯しはしないだろう。  だから女墜天使はこう考えるしか無い。  徹底的に痛めつけて、魔王を宿す者としては死に体となるほどのダメージを与えておきながら、それでも――追い詰められているのは自分達の方であると。  認めるしか無いその現実に、女墜天使の苛立ちが膨らんでいく。   (ふざけんな……ふざけんな……っ!!)  あと一息で仕留められる所まで追い詰めたはずだった。  予定外のイレギュラーの存在もあったとはいえ、追う側であった時は間違い無く優勢だった。  どれだけ平静を装っていても、強者殺しの猛毒たる『ブワゾン』を傷口越しに注ぎ込まれた以上、縁芽苦朗の体はとっくに致命的に損壊しているはずで、こうして戦闘行為を継続出来ていること自体がおかしい事であるはずなのに。  究極体のデジモンの力など、満足に使えなくなっていて当たり前なのに。  女墜天使が苦し紛れに放つ暗黒の力の奔流も、遠方より貴公子の電脳力者が様々な角度から放っている呪いの銃弾も。  それぞれ避けられるか、あるいは二本の刀や『勉強ノート』から解き放たれる現象によってその身に届く前に処理されてしまう。  攻め手があと一つあれば防戦を強要させることも出来たかもしれないが、機竜メガドラモンの電脳力者は魔獣ケルベロモンの電脳力者の相手に手一杯で加勢には移れそうになかった。  それどころか、見れば機竜の電脳力者は魔獣の電脳力者が放った火炎によってその身を燃やされてしまっていた。  それだけでやられてしまうほどヤワな怪物では無いはずだが、仮に機竜が戦えなくなった場合、確実に魔獣の電脳力者は自分か貴公子の電脳力者を襲うであろうことは、女墜天使にも容易に考えられた。 (何で殺せてないのよ……何で殺されそうになってんのよ……)  隠し玉の存在など関係無く。  自らの思い通りにいかない要因の全てを、女墜天使の理性が理不尽だと憤る。  あまりにも身勝手な、それを悪いとさえ思わない我欲が。  何もかもがうまくいかない、そんな現実を許せない。  だから、 「いいからさっさと……私達に殺させなさいよッッッ!!!!!」 「!!」    ヒステリックな絶叫と共に、女墜天使の体から――毒々しい、紫色の靄のような何かが生じたことも、あるいは必然だったのかもしれない。  縁芽苦朗は僅かに目を見開くと、突如として女墜天使から繰り出された『何か』を後方に飛び退く事で回避する。  そう――究極体デジモンの力を振るっている彼でさえ、直感的に回避の必要性を感じられるほどの攻撃を女墜天使は放っていた。  間合いを取った直後に、貴公子が抜け目無く背後から放ってきた呪いの銃弾を刀の一振りで捌いてから、苦朗は改めて女墜天使の姿を見据える。  そして、彼もまた『敵』の明確な変容を見た。 (……レディーデビモンに、あんな武装あったか……?)  それまでの女墜天使は、インターネットにも掲載されている『レディーデビモン』という種族と大して変わりの無い在り方をしていた。  強力無比な闇の力を帯び、時には左腕と共に槍にすら形を変える黒き衣に身を包み、コウモリに似た暗黒の飛翔物を無数に放って歯向かう者を焼き尽くす暗黒の墜天使――という『設定』通りの容姿と力。    それがどうだ。  背中から生えている黒い翼はマントのような優雅さを得て、身に纏う黒き衣はより動きやすくなるよう戦闘に特化した造形となり、頭上では小さな腕を生やした使い魔とでも呼ぶべき存在が邪悪な笑みを浮かべている。  確かに『レディーデビモン』という種族が身に纏う黒き衣には意思が宿っているかのように『顔』が浮かんでいる部分が存在していたが、ここまでの存在感は無かった。  そして、元々右腕から胴体までに飾りとして巻きついていたチェーンは、その長さを伸ばして武器としての役を得て。  時に槍と化す左腕の鋭い爪は乖離し、身の丈ほどはあろう規模の巨大な爪の武装として女墜天使の左腕に寄り添う形で浮いていて。  極め付けに、その頭に被さった悪魔染みた造形の黒い頭巾に刻まれていたのは、 (……「X」の一文字……。しかもこの、異常なまでの闇の力の発露……そういう事か)  デジタルモンスターという存在を、それに纏わる大きな事象の一つを知覚していれば。  それがどれだけ重要な事実を示すものか、あるいは気付ける者もいただろう。  そして、縁芽苦朗は気付ける側の存在であり、彼からすればそれだけの事実さえあれば確信を得るのに十分すぎた。  その頭脳は瞬時に女墜天使に宿っているモノの正体を看破する。 「――貴様等、バルバモンの電脳力者から闇の力を与えられていたんだな」    考えてみれば、だ。  牙絡雑賀に対して縁芽苦朗が力を注ぎ込む事で、結果として新たな力を目覚めさせたように。  同じような事を、同等の力を持つ魔王を宿す者が行えない道理など無かったのだ。  その気になれば、必要となる事情が絡めば、自分自身が出向くこと無く目的を果たせる確立を上げられるのであれば、むしろその選択こそ当たり前だと言える。    バルバモン――『強欲』の大罪を司る、七大魔王が一体。  インターネットに記載された、基本的に大袈裟に描かれがちな『図鑑』に曰く、それは世界一つを構成するに足るほどの力を自在に操ることが出来るほどの力を持っているらしいのだから。  どの程度の力を与えたのかは知らないが、こうして戦ってみれば嫌でも解ることがある。 (……確かに、これだけの力を発揮させられるともなれば、足止めとしては十分だろう。俺が死に体であることを加味すれば、尚の事だ……)  縁芽苦朗の知る限り、闇の力は怒りや悲しみといった負の感情の発露に伴って増大するものだ。  急に女墜天使が新たな力を発揮しだした理由も、大方思い通りに事が進まないことに対する憤りなどであることは容易に想像がついた。  どう考えても幼稚な、自らの研鑽不足や倫理観など微塵も勘定に入れていない『子供の理屈』に過ぎないが、それだけでここまで容易く強い力を発揮してしまうのだから闇の力というものは本当にタチが悪い。  こんな邪悪な力を持った者が増えていったら、どれだけの実害が現実にもたらされるか――縁芽苦朗は考えたくもなかった。  そして、その嫌な想像を現実のものにするが如きタイミングで、もう一つの『変化』が生じていた。  ――■■■■■■!! 「――――」  ふと、人間らしからぬ声が耳を突き、横目で声の聞こえた方を見てみると、先ほどまで『メガドラモン』という種族の特徴を有しながらも人間に近しい体躯で戦っていたはずの電脳力者が、女墜天使と同じく紫色の靄のようなものを噴出させながら――辛うじて人型と呼べていた姿形を捨て去っているのが見えた。  その目に宿った色を見ても、理性が保っているようには到底見えない。  まさしく『図鑑』が語る通りの暗黒竜がそこにいた。  恐らくあの在り様も、バルバモンの電脳力者から与えてもらった闇の力の影響だろうが、 (……あそこまでデジモンに近い形に、自らを変えることが出来ている、だと……!?)  それにしたって人間をやめ過ぎている、と。  縁芽苦朗もまた、牙絡雑賀と同じ疑問を抱いていた。  電脳力者に関係する事柄に長らく関わってきた彼からしても、あれほどの変容は今まで見た事が無かったのだ。  なんとなく。  リヴァイアモンの電脳力者をどうするか、なんて場合では無い、それ以上に見落としてはならない重大な何かが起きているような、そんな悪寒があった。  が、そんな事はどうでもいいとでも言わんばかりに、女墜天使はこんな言葉を漏らす。 「――あァ、五月蝿いわね……どいつもこいつも本当にイラつくわ……!!」  その言葉に含まれる感情は、まさしく憎悪一色。  魔王だろうが何だろうが、自分の思い通りにならないものを消し去りたいという、残虐性の表れ。  とにかくまずはこの場を処理しなければならない――と、そこまで考えた所で、苦朗は自らの体が思うように動かしづらくなっている事に気付いた。  呪いの銃弾を受けて、体が石化しかかっているというわけでは無い。  動かせはするが、全身にギブスでも取り付けたように動きそのものを抑制されている感覚があったのだ。  目下、最も原因と推測出来るものは一つ。   (あの使い魔の能力か……)  石化の呪いに加えて、金縛りの呪い。  動きを制限させ、確実に仕留める布陣もここまで徹底されるといっそ関心するが、猛毒に犯されている身としてはやはり笑えない。  片方だけならまだしも、二つの呪いを同時に受けてしまえば致命的な隙を晒すことになるだろう、と魔王は自らの能力を過信せず判断する。  動きが鈍くなったその間を逃さずに、変容した女墜天使がその左腕を一度苦朗に向けて突き出すと、巨大な爪の武装は女墜天使の傍を離れ魔王目掛けて突っ込んでくる。  どうやら爪の武装は女墜天使の左腕の動きと連動しているらしく、女墜天使が左腕を乱雑に動かすと、爪の武装もまた乱雑な軌道でもって苦朗の体を切り裂きにかかってきていた。  どうにか二刀で捌きこそ出来ているが、流石に成熟期デジモンの武器で何の対策も無しに完全体デジモンの武装と打ち合うのは無理があるらしく、刀は少しずつ欠け始めていた。   「――死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねッ、死ねェッ!!!!!」 (……チッ、マトモに相手してもらちが明かないな……)  前方の狂爪、後方の魔弾。  魔王としての能力を存分に発揮出来る状態ならまだしも、発揮するわけにはいかない状況ともなれば捌き続けるだけでも精一杯となる。  その上、敵はこの二体だけではない。  衝動のままに兵器を放ちまくっている機竜の電脳力者もまた、苦朗からすれば無視するわけにはいかない存在だ。  もし、体躯の巨大化に伴って放たれるミサイルの破壊力も上がっているのならば、ただの一発でも都市の方へ撃ち込まれてしまったら最後、民間人にいったいどれだけの被害が出るか。  対峙している牙絡雑賀の方もそれは理解しているらしく、ミサイルを放つ鋼腕が廃墟から都市圏の方へ向けられないよう人気の無い方角に動き続けることで狙いを絞らせているようだが、状況が好転する兆しも無い。  仮にリヴァイアモンの電脳力者の件が無かったとしても、これ以上戦いに時間をかけるわけにはいかなかった。 (ならば) 「フンッ!!」  狂爪と打ち合う二刀を、それを収める二つの鞘を咄嗟に投げ放つと同時、六枚の翼を動かし地上に向けて頭から急降下していく。 「うざいッ!!」  無論、女墜天使は狂乱しながらも反応し、投げ放たれた二本の刀と鞘を爪の武装によって切り裂き飛沫と化していく。  怠惰の魔王の腕力という支えさえ無ければ、所詮は成熟期の武器ということだろうー―完全体のデジモンの必殺の一撃で簡単に消し去れる程度の強度しか無い。  より増した殺意のままに女墜天使が追撃に動き、対照的に『フェレスモン』の電脳力者はあくまでも冷静に呪いの魔弾の狙いを補正していく。  そして地上――の廃墟の屋上の一つに向かって急降下した苦朗は、   「雑賀!!」 「!!」  メガドラモンの電脳力者の殺意を一身に引き受けていた魔獣に向けて、声を放った。  それだけで意図は伝わったらしい。  魔獣は自らを追い立てて来る機竜ではなく、苦朗を追い詰めようとする墜天使に対してその視線を向けて。  魔王は、翼を僅かに動かす事で降下の軌道を魔獣を追い立てる機竜に重なるように補正して。  そして、 「事象摘出《ダイアログ》、現象再現《アップロード》――」 「――ヘルファイアー!!」 「――ヴォルケーノストライクS!!」  二つの獣口から、魔王に追従する『学習ノート』から、二人の視線の先にある『敵』に向けて色こと異なれど膨大な熱を含んだ火炎が解き放たれる。 「――チィッ!!」 「――っ!!」  女墜天使は爪の武装でもって炎を両断し、貴公子は体をひねって回避をすることが出来たが、機竜は回避などせずに真正面から火炎弾に直撃する。  当然のように悲鳴が上がるが、竜の肉体に目立った損傷は無い。  炎そのものが、紫色の靄のようなもの――バルバモンが分け与えた『力』に相殺されているように苦朗には見えた。   「――グルルルルルルルッ!!」 (……やれやれ、憎悪一つでここまで力が跳ね上がるとはな……)    空中で軽く体を回し、縁芽苦朗は廃墟の上に両脚をつけて着地をする。  ちょうど、女墜天使と貴公子を再び牽制した牙絡雑賀と背中合わせとなる位置だった。    彼等はそれぞれ理解している。  それまで相対していた敵と戦い続けるだけでは、この状況を打開出来ないと。  殺意のまま、考え無しとさえ呼べる早さで襲いかかってくる敵を前に、作戦会議などやっていられる暇は無い。    そして必要も無い。  理解が前提にある以上、言葉など一つで事足りる。 「やれるか」 「そっちこそ」  それだけで十分だった。  怠惰の魔王の電脳力者はその標的を『メガドラモン』へと変更し、魔獣の電脳力者もまた標的を女墜天使と貴公子の方へと変える。  敵にとってもまた、攻撃を受けたことが切っ掛けにはなったのだろう。  殆ど憎悪に身を任せている女墜天使はその標的を魔獣砲へと変え、同じような状態にある『メガドラモン』の電脳力者の矛先もまた、簡単に魔獣から魔王の方へと切り替わっていた。  目の前の存在が魔王の力を内包していることなど些事だと言わんばかりに鋼爪を向け、咆哮と共にミサイルを連射してくるのを見て、縁芽苦朗は右手の上に新たに二冊目の『学習ノート』を出現させる。  その意思に添うように勝手にページがめくられ、幾多の文字が浮かび上がり、超常が顔を出す。 「事象摘出《ダイアログ》、現象再現《アップロード》――サンダークラウド」  成熟期魔人型デジモン『ウィザーモン』の操る魔法の雷撃が、魔王の前方で網のように広がりを見せる。  機竜の放った数多の有機生体ミサイルは雷撃の網に絡め獲られ、感電し爆発し炎と煙を撒き散らす。 「■■■■■■■■ッ!!」 (――やれやれ、こっちもこっちで最早闘牛の類だな)  その結果を見ても安心など出来るわけが無く、間髪入れずに爆煙を突き抜けて機竜が力任せに鋼爪を振り下ろしてくる。  当然のように、苦朗は怯まなかった。  瞬間的に機竜の懐に向かって跳躍し、逆に機竜の胴部目掛けて右の肘を打ち据える。  グォリィッ!! と肉が骨を打つ音が高く響くと同時、機竜の肉体が後方へと圧され仰け反る。  流石に究極体デジモンの身体能力に基づいた一撃は女墜天使同様に効いているらしく、機竜の喉の奥から血を含んだ吐瀉物が反射的に吐き出されるが、ダメージはそれだけだ。  むしろ、闇の力の象徴と思わしき体を覆う紫色の靄がその規模を増しているようにさえ見える。  この調子だと一撃受ける度に――最悪、一撃避ける度にも――機竜の怒りは増し、それに伴ってバルバモンの電脳力者から与えられた闇の力が増大し、余計にしぶとくなっていくことだろう。  一撃必殺を求めるのならば、やはり『ワイズモン』の力で攻撃するのではなく、魔王『ベルフェモン』としての力を本格的に用いる他に無いが、それは今となっては自分自身が戦闘不能となる可能性も視野に入れなければならない選択肢。 「……ぐぅっ……」 (……あの女の格好が変化してから、体の痛みがどんどん増している。バルバモンの闇の力に『ブワゾン』の毒が、あるいは同じく魔王として在る俺自身が、共鳴してしまっているのか? 今のままだと、必殺技は一回使うのが限度と見ておくべきか……)    自らの状況を知覚し、分析し、そうして苦朗は一つの回答を得る。 (……チャンスは、作れて一度……)  そして。 「があああああああああああっ!!」 「はあああああああああああっ!!」  魔獣と女墜天使の攻防は、初撃から熾烈を極めていた。  両腕の獣口からの炎の噴射によってひたすらに女墜天使に肉薄する魔獣は、その両脚から生えた鉤爪を半ばがむしゃらに振るい、女墜天使もまたその左腕から生じている巨大な爪の武装を振るう事で鉤爪による連撃に対抗する。  息つく暇など互いに無く、そもそも与える気も無い。  女墜天使は、眼前の魔獣を殺したい気持ちで頭の中がいっぱいになっていて。  魔獣は、縁芽苦朗が自分に目の前の敵を任せたその意味に、思わず背中を押されていたから。  今になって、いくら『怠惰』の大罪を宿す魔王の力を使っているとはいえ、縁芽苦朗が面倒臭さを理由に戦う相手を変えるなどと牙絡雑賀は考えない。  必ず理由は存在し、こうする事が打開に繋がると思ったからこそ彼は相手を変えた。  それが解るからこそ、魔獣は攻撃を止めない。  女墜天使を倒す、その一心で力を尽くそうとする。  だが、 「邪魔よおッ!!」 「ぐ、おらぁっ!!」    おそらくはバルバモンから与えられた力の影響。  そして、魔獣自身の体力の限界が近付いているその弊害だろう。  魔獣が振るう両脚の爪の威力よりも、憎悪に身を任せた女墜天使の左腕の先にある武装の威力の方が、上回っている。  故に、魔獣の体は女墜天使の凶爪によって弾かれ、間合いが開く。  間合いが開いたという事は、用いるべき手も互いに変わるということ。  間髪入れずに女墜天使は魔獣目掛けて無数の暗黒の飛翔物を飛ばし、魔獣はバランスを崩しながらも両手のの獣口から火炎を放ち対抗しようとする。 「――っ!?」  と、直後に魔獣の背筋を悪寒が奔り、魔獣は左手の獣口を無造作に振るった。  すると何かが獣口の装甲に弾かれる固い音が響き、見れば魔獣が左手を振るった方向には『フェレスモン』の電脳力者がライフル銃の銃口を向けてきていた。  どうやら弱い方を先に潰せばいいとでも考えたのか、ここにきて縁芽苦朗ではなく雑賀に向けて呪いの銃弾を放ってきたらしい。  装甲に覆われた部位で弾けていなければ、下手をすると石化の呪いに体を蝕まれていたかもしれない――が、対抗の対価として元々空中で体勢を崩されていた魔獣の体勢は更に崩れることになり、女墜天使の方へ狙いを定めていた獣口がその向きを変える。  結果、放たれた緑色の火炎は女墜天使どころか暗黒の飛翔物にさえ当たることなく、見当違いの空間を過ぎ去るに終わる。  そして、蝙蝠の群れが如き暗黒の飛翔物が魔獣の体に喰らいついてきた。 「ぐがああああああああああっ!!」  想像を絶するほどの痛みがあった。  体を覆う硬質な生体外殻越しでさえ覚える灼熱、骨肉を焼き焦がす暗黒の熱量。  それは『バルバモン』の力を付与されている事も相まってか、地獄の番犬たる『ケルベロモン』の力を身に宿してなお、牙絡雑賀を絶叫させるに足るだけの害悪を含んでいた。 「ぐ……くそっ……!!」  意識が煮え、視界が揺れる。  推力となる炎を絶やさず、歯を食いしばって耐える魔獣だったが、当然敵は待ったりしなかった。  女墜天使はその大きな爪を振りかぶりながら魔獣に迫り、貴公子もまた女墜天使とは違う方向から魔獣に接近して銃の狙いを定めていく。 「死ぃねえええええええええええええッ!!!!!」 「!!」  先と同じ攻撃内容、元よりどちらか片方しか捌けなかった状況。  どちらの攻撃も受けるわけにはいかないと解っていても、敵の位置を両腕の獣口から声なき声で伝達されていても、元より空中で自由の利かない魔獣の身一つでは二体の怪物に対応しきれるわけが無い。   だから。 「■■■■■■■■ッ!!」 「――ふっ!!」  打開の一手は、その共闘相手こそが握っていた。  彼が行った行動は、言葉にしてみればシンプルなものだった。  機竜『メガドラモン』そのものと言っても差し支えの無い姿となった電脳力者、その鋼の両腕から発射された巨大な有機体系ミサイルを、 「――受け、取れぇ!!!!!」  右の手と鎖で掴み取り、そのままブン投げたのだ。  今まさに、死角から魔獣を呪いの弾丸で石化させようとしていた『フェレスモン』の電脳力者に向かって。  僅かな力加減を誤れば、いやそうでなくとも掴み取ったその時点で起爆していて当たり前の兵器を、まるでキャッチボールでもするかのように。 「なっ――」  正確な投擲だった。  同時に、誰も予想だにしなかった手段だった。  貴公子が苦朗の叫びを聞き取り振り向いたその時には、既にミサイルは彼の目の前にあって。 「――ぐっ、おおおおおおおおおおおおおおおお!?」  気付いた時には遅すぎた。  投げ放たれたミサイルは貴公子の背中に命中し、起爆――貴公子の体を遠くへと吹っ飛ばしていく。  無論、他の二体と同じく『バルバモン』の電脳力者から力を付与されている可能性が高い以上、これだけで死に至ることは無いだろうことはミサイルを投げ放った縁芽苦朗自身も察しがついていた。  故にそれは、敵を仕留めるための行動ではなく、 「――受け、取ったあっ!!」  絶対絶命の状況に陥られていた魔獣に、反撃の機会を与えるための行動に他ならない。  魔獣は両腕の獣口から炎を噴出させ、咆哮と共に魔王の言葉に応じる。  どの方向に向かって避けるべきか、などいちいち考えない。  女墜天使の有する巨大な爪の武装、その脅威から逃れ次の手を考える――などと回り道をするつもりはもう無い。  直感しているのだ。  これが、魔王に与えてもらったこの状況こそが、今の自分にとっての最後の勝機であると。  今この瞬間!! 勝つために取るべき行動は一つしか無いと!! 「――うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」 「ッ!!」  即ち、直進。  自らに向かって突っ込んで来る女墜天使に対し、同じく真正面から仕掛けるという一手。  恐らく、女墜天使が予想だにしていなかった選択肢。  事実、真正面から突っ込んできた魔獣に対し、女墜天使は戸惑いを覚えてしまった。  振りかぶった爪の武装、それを振るう絶好のタイミングを僅かに遅らせてしまった。  そして、その僅かな誤差こそが結果を変える。  炎の噴射によってロケットのように加速した魔獣は、直後に炎の噴射を止め、慣性に身を任せたまま両腕の獣口を前方に構える。  剥き出しの牙、開きっぱなしの顎。  人間の頭蓋など容易く丸呑みに出来る規模はあろう二つの獣口は、魔獣が女墜天使に肉薄すると同時――振り下ろさんとした爪の武装と女墜天使自身の胴部にそれぞれ喰らいつく。   「ぎっ、アアアアアアアアアアアアア!?」  絶叫。  文字通り獣の大顎に喰らい付かれている状態となった爪の武装は微弱にしか動かず、牙を胴部に食い込まされた女墜天使自身はその咬合力と激痛に耐え切れないと言わんばかりに悲鳴を響かせた。  半ば圧し掛かる形になったことで魔獣の体重が加わり、浮力を維持出来なくなった女墜天使の体が落下をはじめる。  やった、と内心に呟きがあった。  この状況から巻き返されることは無い、最悪このまま地面に激突させてしまえば確実に戦闘不能に出来る、と。  だが、甘かった。  彼が喰らいついた怪物は、この程度で戦う力を損なう存在では無かった。   「舐めるんじゃ……ないわよォッ!!」 「な――っ!?」  獣口に胴体を喰らいつかれ、もうマトモに身動きも取れないはずの女墜天使の口から、怒号が響いた直後のことだった。  女墜天使の右腕から伸びていた真っ黒な鎖が、突如として魔獣の胴体に巻きつき――そのまま体の中へ沈み込んだのだ。  直後に、 「――グレイエム!!」 「ガア……ッ!?」  激痛。  体を構成する数多の細胞が爆発でも起こしたかのような、臓器や血管を串刺しにでもされているかのような、圧倒的な痛みの奔流が脳髄を駆け上がる。  牙絡雑賀の知る『レディーデビモン』というデジモンには、およそ存在した覚えの無い攻撃手段だった。  喉の奥から多量の血が吹き出る。   頭の上に見える使い魔の力なのか、体を動かすための力が損なわれているのが嫌でも解る。  消耗が許容量を超え、思考がまとまらず、意識が明滅していく。  そんな中――至近距離で吐き捨てるような怒号が聞こえた。   「――死ね!! さっさと死になさい!! 目障りなのよッ!!」 「――っ――」 「リヴァイアモンの力は私達が手に入れる。アンタ達はその邪魔をした。だから死んで当たり前なのよ、地獄に墜ちて当然なのよ!! だからさっさと墜ちやがれッ!!」  言葉が紡がれる度に痛みが増した。  体の中で破壊が巻き起こっているのが解る。  同時に、魔獣の中に沸き立つものが生じていく。 (――そうだ。こいつ等は敵だ。司弩蒼矢の力を狙って、そのために邪魔者である苦朗や俺を殺すつもりで、こうして殺すためにデジモンの力を使っている――)  もしかしたら、無意識の内に躊躇してしまっていたのかもしれない。  どんなに言い訳をしたところで、目の前の存在が元は自分と同じ人間である事に変わりはないから。  怪物の力で強くなっているからある程度は大丈夫などと自らに言い聞かせる事で、戦いに対する迷いを打ち消そうとしていただけで。  超えてはならない一線というものがある意識は、常にあった。  それが自分自身に対する甘えである事を、今更のように思い知る。 (――放っておいたら、こいつ等は勇輝を攫った奴等と同じように好き放題する。色んな奴を、暴力で苦しませる――)  夜中の病院の中で、縁芽苦朗からも伝えられていた事だ。  ただの人間では、デジモンの力を我が物とする電脳力者に抗う事なんて出来ない。  人間であろうとする限り、怪物の理不尽から何かを守ることなど出来ない。 (――大切な当たり前を、壊す――)  であれば。  どうするべきか。  そんな事はもう明らかだった。 (――なら――) 「――そんなに地獄が好きだというなら、お前達だけで、勝手に行ってろッ!!」 「ふざけ――グアッ!?」  体中を駆け巡る痛みを無視し、女墜天使の胴体に喰らいつく左の獣口に力を込める。  肋骨が軋みを上げ、骨肉の悲鳴が魔獣の耳に届くが、こんなものはあくまでも前準備に過ぎない。  喰らう、だけで留める気などもう無い。  この怪物は、この墜天使は、この害悪は、今ここで確実に――仕留めるべきだと、魔獣は決断した。  胴体に噛み付く左の獣口、その口内に緑色の炎が瞬く間に蓄積される。  その熱に、女墜天使は今更のように恐怖という感情を思い出したが、 「や、やめ――!!」  一度下された決断は、もはや覆りようも無く。  地獄の番犬と称された怪物は、その種に刻まれた必殺の言霊を解き放った。 「――インフェルノディバイド!!」  言霊と共に魔獣が放った攻撃は、実にシンプルなものだった。  胴体に噛み付かせた左の獣口から、そのまま地獄の業火を弾の形で解き放ったのだ。  それも――何発も何発も、さながら機関銃の連射の如く。  炎弾が一発一発放たれるごとに、女墜天使の体が緑色に燃え上がっていく。  まるで、その存在の全てを喰らいつくさんとでも言うように。  叫びも怒りも抵抗も何もかも――その全ては爆炎と牙によって無為と化す。  黒き衣も死人のような白い肌もそれ以外も何もかも、ぱらぱらとしたものへと変じていって。  そして、 「ガアアアアアアアアアアアアアーッ!!!!!」  魔獣が咆哮すると同時、胴体に噛み付いていた獣口が――完全に閉じる。  バキリ、と枯れ木を折るような音が空しく響き、女墜天使の肉体が上下に砕ける。  魔獣が片膝をついて廃墟の上に着地をした頃には、全てが灰となって何処かへと消えていた。  そして。  その事実は目撃こそせずとも、魔王も体の感覚で認識していた。 (――痛み自体はあるが、やはり奴が死んだ事で『ブワゾン』の効力は消えたようだな。ならば――) 「終わらせる」  元より。  縁芽苦朗が『メガドラモン』の電脳力者を含め、完全体のデジモンの力を振るう電脳力者達に遅れを取っていた理由は、その本来の力を発揮することに対してリスクを付随させられていたからだった。  たった一度『ベルフェモン』としての力を行使しただけで、体内の猛毒が活性化し命を奪われる、そんなリスクを。 「事象摘出《ダイアログ》、物象再現《ダウンロード》」  そしてたった今、猛毒を行使した張本人たる女墜天使が死んだことによってリスクは消え去った。  であれば、もはや今の彼に枷は無し。  つまる所、今回の戦いはそういうものだった。  彼が存分に力を発揮出来る状況さえ整えば、敗北してしまう事のほうが難しい戦い。 「■■■■■■■■ッ!!」 「スパイダースレッド――」  言霊を紡いだ直後、魔王の手の上にあった『学習ノート』のページの一つから数多の赤い糸のようなものが噴出し、本能のままに鋼爪を振るわんと迫る『メガドラモン』の電脳力者を取り囲んでいく。     「――エンチャット・ランプランツス」  直後の事だった。  機竜の周囲に展開された赤い糸に、黒い色の炎が薄く纏わり付いていく。  血の如き赤は漆黒の黒に染まり、その攻撃性もまた本来のそれより高く引き上げられる。  そして、縁芽苦朗はその右手を機竜に向かって翳し、 「消えろ」  一息に握り締めた。  その意に添うように周囲の黒い線の全てが『メガドラモン』の電脳力者に殺到する。  巻き付くとか締め上げるとか、そんなレベルでは済まなかった。  そもそもの話、最初に放った赤い糸のようなもの――ワイヤーは、敵対者を切り刻むためにとある完全体デジモンが用いるものであり。  それに『ベルフェモン』の力を付与した以上、齎される結果は明白で。  たとえ『バルバモン』の電脳力者から力を付与されていようが、関係無かった。  機竜の全身を数多の黒い線が通り抜ける。  骨肉を絶つ音が響き渡った時には機竜の体は声を上げる間も無く細切れになり、残った残骸もまた黒い炎が覆っていく。  もはや消え行くしか無い怪物の末路を前に、魔王は目を細めて内心で呟いた。 (……やはり、この変わり様も織り込み済みなのか? 『シナリオライター』は……)
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ユキサーン
2022年6月10日
In デジモン創作サロン
 前の話へ。  横方向に渦を巻いた水流が、電気を帯びて風船のように爆ぜる。  大量の水が壁や床を叩く、雨にも似た音が屋内に響き渡る中、赤い竜人――司弩蒼矢は立っていた。  彼が背後へと振り向くと、その視線の先には敵対者たる黒い礼服を身に包んだ『組織』の男が、意識を失い仰向けに倒れていた。  その有様は、赤い竜人と炎の魔人の戦いの勝敗を明確に示していた。   「…………」  雨音が途切れ、行使した技の影響で水浸しとなった屋内には静寂が訪れていた。  敵対者である魔人が意識を失い、元々の姿であった人間の姿に戻るとほぼ同時に、彼の能力で辺りに満ちていた副産物たる冷え固まった鉄は最初から存在しなかったかのように消えていた。  溶鉄を口から吐き出していた魔人が元に戻ったことによる影響だろうか。  この分だと、竜人が元に戻った場合も同じように足元を浸している雨水が消えたりもするかもしれない。  ……その事実自体も、あるいは重大な謎に関わる話なのかもしれないが、今の司弩蒼矢にとってはどうでもいい事だった。  彼は魔人を倒しこそしたが、その姿を元の人間の姿に戻そうとはしない。  まだ、この竜人の姿でやらねばならない事があるからだ。 (あの二人の安全を確保するまで、安心なんて出来ない。まずはどこに向かって逃げてくれているのか、調べて動かないと……) 『アテはあるのか?』  蒼矢の呟きは思考という形でしかなかったのだが、応じる声が脳裏より在った。  彼に宿っている(らしい)、リヴァイアモンと名乗る怪物の声だ。  蒼矢はその声に対して、頭の中で自らの言葉を紡ぎながらも行動する。   (この男が本当に何らかの『組織』の一員として動いていたのなら、仲間と連絡を取るために電話ぐらいは持っているはずだ。まずはそれを……)  蒼矢は目の前の、自らの技を受けて倒れ付す男の衣類に目をやると、それなりに高価に見える黒い礼服と同じく黒一食で薄そうな生地のズボン――そのポケットに右手を突っ込んでいく。  その手が何か固いものに触れ、目当ての物が見つかったと判断した蒼矢は竜人の手でうっかり壊してしまわぬように『それ』をポケットから慎重に取り出す。  取り出したものは、高校生として周りの人間達が手にしているのを見た事がある、割とありふれた型のスマートフォン。  その画面を見て、空いた左手で触れると、蒼矢の表情が曇った。  反応が無かったらしい。   (……壊れてる。無理も無いか……) 『正直機械に詳しくは無いんだが、あんだけの攻撃をぶっ放しておいてこんな薄っぺらい板みたいな物が何事も無いってのは考えにくいな』  試しに電源キーを長く押し続けてみるが、電源が点く気配は無い。  蒼矢自身予想していない可能性ではなかったが、魔人と化していた男が所持しているスマートフォンは既に壊れていた。  戦闘の過程で魔人の体ごと水没させてしまったからか、魔人に向かって電気を用いた攻撃を直撃させたからか、あるいはそもそもずぶ濡れの手で触れてしまったからか――様々な可能性は考えられるが、恐らく濃厚なのは二番目の可能性だろう。  近頃のスマートフォンは防水機能が付与されている機種が多く、むしろその機能を有さない機種を探す方が難しい。  一方で、防電機能を備えたスマートフォン――及び機械など避雷器ぐらいしか聞き覚え自体が無い。  そもそも常識の話として、10億ボルトの電圧を誇る自然の雷が電線に命中すると、充電中の携帯電話を含めたコンセントを繋いで機能させる家電製品が壊れてしまう可能性があるとさえ言われている。  竜人自身、魔人を撃破するために全力で鎧の発電機能を行使していた。  自然の雷と同じく10億ボルトとまでは言わなくとも、家電の許容量を超えた電圧・電流を有していた可能性は十分に考えられるだろう。  他に手がかりとなりえる道具が無いかと辺りを見回すが、現時点で水浸し、少し前には一度溶鉱に一掃された建物内に『何か』が原型を留めて残されているとはそもそも考え難く、仮に『何か』が在ったとしてもそれが二人の少女の足取りに繋がるものである可能性は低い。  むしろ、此処で微かな可能性を導き出そうとするよりは、外に出て実際に探しに向かった方が二人の少女の危機に『間に合う』可能性は高くなるだろう――そう考え、蒼矢は気絶した男を放置してひとまず建物の外に出る事にした。  建物を出てすぐに、思わず内心で当然の疑問を呟いた。 (……何処だ、ここ……) 『少なくともお前が知ってる場所では無いだろうな』  目の前に見えるのは、先ほどまで自分が連れ込まれていたものとは異なる建物がいくつも並んだ街並み。  どの建物にも、焦げ痕か何かのように黒い色がちらほら見えている。  足元に広がるのは、ひび割れすら所々に見える荒れたアスファルトの地面。  率直に言って、都会――それも島国の首都の景色としては、昔に大規模な災害があってその跡地なのだと説明されても納得出来るほどに荒廃した有様だった。  実際に起きたことが火災か地震かは知らないが、少なくとも真っ当に学生として生活していく上では立ち寄る必要すら無い場所に立っている事だけは蒼矢にも理解が出来た。  ふと、自らが連れ込まれていた建物の方へと振り返ってみる。  看板は見当たらなかった。外壁には他の建物と同じく黒い染みのような汚れが所々に見えていた。漂う臭気に好ましさは感じ取れなかった。  ただ主観として、あるいは自分が生まれるよりも以前に存在していたと思わしき、何処かの企業が経済目的に建てていたものだと蒼矢は思った。  戦いの場となった一階の空間自体、元は巨大な観葉植物か何かでも設置するためか、床から天井まで信号機の電柱程度の高さを有した空間が設けられていたためだ。  ……仮にそうだとすると、戦いの終盤に魔人が吐き出した溶鉄が建物を支える柱を溶かし尽くしていた場合、機転を利かせて溶鉄を冷やし固めていなければ、いずれ建物が丸ごと倒壊してしまう可能性もあったのだろう。  そうなった場合、溶鉄を放った魔人の男はともかく蒼矢は脱出する事が出来ず、崩落に飲み込まれていたかもしれない。 (……くそっ、どっちに向かったんだ……?)  道標となるものが無い以上、どの方向へ進むかは直感で選ぶしか無い。  だが、仮に兎の耳を生やしたあの少女が波音を担いで逃げた方とは違う方へと向かってしまった場合、少女達が魔人の属するらしい『組織』の者の手によって手遅れになってしまう可能性は飛躍的に上がってしまう。  少なくともあの少女は、自分の耳と足で『組織』が蒼矢を拉致した建物の場所を探り当てた以上、人気のある場所への逃げ道は理解しているはずだが、それでも人を担いだ状態ではあまり速く走る事は出来ないだろう。  少女達が建物の外へと出たタイミングと、追跡者が建物の外へ少女達を追い出したタイミングも多少離れてこそいるが、逃げ切れるだけの十分な時間があったとは言い切れない。  急がねばならない状況にありながらも、同時に間違えてはならないという事実が蒼矢の心に不安と焦りを募らせる。  だが、それによって生じた躊躇は五秒にも満たなかった。   (……迷っていられる時間は無い)  意識を研ぎ澄ますと同時、体の各部に存在する甲殻の鎧から――厳密にはその内部に組み込まれた発電装置から、蒼白い電光が迸る。  それは速やかに全身内部に行き渡り、心拍を跳ね上げ五感を醒まし、全身の筋肉を強制的に伸縮させる事で運動機能を向上させる。  まるで電気を纏ったかのような姿になった蒼矢は即断する。   (不足は文字通り足で補うしか無い。諦める理由に運なんて言葉を使ってたまるか……!!)    駄目元で方向を決め、一息に駆け出そうとする。  その、一歩目を踏み出す直前の事だった。  ――突如として、右腕と右脚を除いた全身に鋭い痛みが生じた。 「――ッ!!?」  まるで筋肉痛を何倍も悪化させたかのような、あるいは筋繊維の一本一本に針で穴を開けたかのような鋭い痛みに、思わずバランスを崩して右膝からくず折れる蒼矢。  全身に纏っていた電気の勢いが衰え、口元から苦悶の声が漏れ出す。  頭の中からリヴァイアモンの声が響く。 『……言わんこっちゃ無い。考えてみれば当然の事だぞ、痛いのは』  その声もまた、少しだけ痛みに震えているようだった。  肉体的にも精神的にも『共に在る』今、蒼矢が感じている痛みをリヴァイアモンもまた感じているのかもしれない。  最初からこうなる事を理解していたかのような言い分に、蒼矢は思考で言葉を紡ぐ。   (……甲殻の中に仕込まれている装置によって電気の力を使えるって事を教えてくれたのは、リヴァイアモンじゃないか) 『それにしたって電気を自分自身の体に流しだすとかマジで正気を疑ったわけだが。ついでに頭にしか無かったはずの甲殻が鎧として体の色んなとこにくっ付いてるってのも、その全部に発電のための装置が仕込まれている事についても予想外だったわけだが。……何より、何で俺より先にお前がその事実に気付いてんの?』 (気合を入れたら勝手にああなってこうなっただけ。一から十まで解ってたわけじゃない)  言葉を返しながらも蒼矢は膝を曲げた右脚を起点に立ち上がろうとするが、まるで麻痺でもしているかのように力が入らず、気付けば右脚だけでなく右腕もまた力が入りにくくなっていた。  元々生身であった部位に対しての激痛、そして機械仕掛けと化していた部位の、痙攣にも似た感覚麻痺――原因はわざわざ問うまでも無い。 『いーしーえむ……だったか? それの理屈は知らんのだが、要は電気で無理やり動かしているわけだろ? 体を。ロクに加減もせずに敵殺せそうなぐらい全力全開の電気なんて流したら壊して当然だ。そりゃまぁ、多少の耐性は備わってるつもりだけどよ……』 (……こうでもしない限り、アイツを倒す事さえ出来なかったのも事実だろ) 『そこは認めざるも得ないが、もうちょい加減は出来なかったのかって話だ。最後の一撃の時に出してた電気の量だって、明らかに過剰だったしな。それで動く事も出来なくなったらそれこそ本末転倒だろうが』  苦い表情を浮かべたまま立ち上がるが、体の内側から伝わる痛みは一向に途切れず、右脚と右腕の感覚は鈍いままだ。  痛みは過度極まる筋肉の強制伸縮によって生じた筋肉痛と、炎と鎖を操る魔人との戦いによって受けたダメージによるものだと推測出来る一方で、右脚と右腕の感覚麻痺については不確定要素が多く、確証を持てるような回答を蒼矢には導き出せない。  今の形に変わる前が人間の血肉ではなく機械仕掛けの擬肢であった事を考えると、莫大な電流に負荷が掛かり、人工の神経に障害が生じてしまっているのかもしれないが、そもそも変化する『前』の体の状態が何処まで変化した『後』の体に影響を及ぼすのかが解らないのだ。  どちらの問題も、時間と金さえあれば解決出来なくも無い話ではあるのだろう。  だが、今は痛みに悶えて立ち止まっていられるほどの時間も無ければ、動かしづらくなった義肢を修理するための金も場所も目に見える範囲には無い。  少女達に迫る危機へ追い付くためには、全ての要因を飲み込んだ上で走るしか無い。  痛みも不具合も承知の上で、改めて体に蒼色の電気を帯びさせる。   「……ぐうっ……!!」  理解して尚、口から苦悶の声が漏れる。  歯を食い縛って痛み耐えながら、路地を駆け出していく。  だが、苦痛に耐える努力も空しく、駆ける速度は中々上がってくれない。  不安と恐怖が、胸の内にただ募っていく。 (……くそっ、こうしている間にもあの子達が危険な目に遭ってるかもしれないのに……!!) 『気持ちは解ってるつもりだが、落ち着け。気合だけ先走って、先に体が壊れたら俺でもどうにも出来ないぞ』  頭の奥から聞こえる怪物の声は、蒼矢とは対照的に焦りの色を感じさせないものだった。  走ろうと奮闘しながらも、怪物の冷や水でも浴びせ掛けるような口ぶりに、蒼矢は苛立ちを覚えた。  心の声で、思い浮かぶままの言葉を投げ掛ける。 (……どうして、そんなに冷静でいられるんだ) 『焦ってどうにかなる話じゃないからに決まってんだろ』  真剣な声で、怪物はそう返していた。  その言葉には、若干の苛立ちが込められているように思えた。   『本当に失敗したくないのなら、こういう時こそ冷静にならなきゃならない。今のお前のそれは全力とは言わねぇよ。ただの力任せだ』 (……けど、もっと速く走らないと、間に合わないかもしれない……) 『その前に辿り着けないだろ、そのままだと。疲れは気合でどうにか出来ても、体は気合だけで治せないってのは俺でも解る話だぞ。そりゃ一時的には馬鹿みたいな速さで動けるだろうが、それ以上は途中で体の方が駄目になるのがオチだ』  そんな事は、言われるまでも無く解っているつもりだった。  だが、怪物からの声でその事実を改めて認識して、ふと蒼矢は疑問を覚えた。  もしかすると気付かぬ内に、自分は都合の良い方向に自らの行いを正当化しようとしていたのではないだろうか、と。  例え自分の体が、与えて貰った機械仕掛けの手足が壊れてしまっても、それを許容さえすれば少女たちを救える可能性を見い出せるのなら構わない――と。  実際はそこまで辿り着く事さえ出来ない可能性の方が高いというのに、そんな自己犠牲を前提とした理想論を前提に行動しようとしていた――その事実を、認識する。  確実性を求めようとしているようで、自ら確実性を放棄しているようなものだと。  心を落ち着かせ、体内に廻らせていた電気の力を弱めていきながら、彼は素直に怪物の知恵を頼る事にした。   (……だったら、どうすれば良い? ここは水場じゃないんだ。さっきやったように『海水』に変えた水を操作して擬似的に『海流』を作る、なんて芸当は出来ないと思うけど。その上で速く移動するための方法に心当たりは?) 『それなんだが、その電気の使い方と同じで、完全にお前のイメージに頼る形になるぞ』 (構わない。アイデアさえあれば、後はこっちで形にしてみせる)  頭の中で意思を伝えると、怪物は真剣な声色でこう告げた。 『……確か、陸地だと氷ってのは「滑る」ものなんだよな?』  ◆ ◆ ◆ ◆  数分前、その身を兎と人間を混ぜ合わせた(それでいてバニーガールのそれとは異なる拳法着にも似た黄色い服に身を包んだ)獣人の姿に変えた縁芽好夢は、自分よりも年上と思わしき――彼女は知らないが磯月波音と言う名の少女の体を両腕で抱えながら走っていた。  未知の力で身体能力を強化されているおかげか、その足取りは人間一人を抱えている割りには速い方だが、一方でその長い耳は確かに背後から迫る追跡者と思わしき存在の足音や息遣いを聞き取っている――距離を離すことに至っていない事は明白だった。  逃げ始めた時点からひたすら勘を頼りに道は角に曲がったり、追跡者の目から逃れようと意識しているものの、芳しい結果には結びついていないようだ。 (……このままだと、追い付かれる)  特撮番組にでも出演してそうな外見のイカの怪人、江戸時代の侍を思わせる風貌の鳥人、両腕に鎖を巻き全身を青く燃え上がらせた炎の魔人、片腕が『蛇』と化し脚が『尾』と化した青緑色の半漁人――そしてそれが『進化』したと思わしき、稲妻の剣を携え甲殻の鎧と赤い鱗に覆われた竜人。  これまで見てきた、誰も彼もが何処かに『人間』の要素を含んだ姿をした異形は、外見の違いと同じくその身体能力にも明確な差異があった。  こうして追い付いて来ている以上、恐らくは今の自分と同じ類の力を用いて異形と化しているであろう追跡者の足の速さは、最低でも少女を抱えて走っている自分を上回るものなのだろう――と好夢は走りながら確信する。  実際問題、逃げる前に交戦した炎の魔人の力は明らかに自分が使っているそれより上で、その仲間であろう追跡者が宿す力もまた今の自分を上回っている可能性が高い。  致命傷と言えるほどではないが、先の戦闘でダメージを受けている今、無防備な少女を守りながら追跡者と直接戦闘して勝てる確率は低いだろう。  せめて何処か、身を隠せる場所があれば好ましいのだが……。 (……とは言っても、この辺りにどういう建物があるかなんてわからない。下手すると袋小路に迷い込む可能性だってある……)  であれば、やはり人混みの賑わう表通りの方へと走り抜ける以外に逃げ切る方法は無い。  これまで通ってきた道を辿るわけではないが、幸いにもどの方角に向かえば表通りに出られるかどうかはある程度予測が出来る。  後は、うっかり行き止まりに向かってしまわない事を祈りつつ、走り続けるのみ。  ……なのだが。   (……あーくそっ、あのファイヤーマンの攻撃……思ったより体にキテるわね……骨は折れてないはずだけど、滅茶苦茶痛むし……)  文字通り体を焼くような痛みに表情を歪ませる好夢。  炎の魔人の攻撃を受けた部位は決して軽くは無い火傷を負っており、確実に好夢の走りを阻害していた。  気持ちとしては痛みを堪えて全力で走っているつもりでも、実際問題背後から聞こえてくる重みのある足音は確実に近付いて来ている。  そして、 「――デストロイ 「――――っ!!」  ――キャノンッ!!」  好夢が、その長い耳で不穏な単語を聞き取り、殆ど反射的に裏路地の一本道――その右の壁際に向かって動いた直後の事だった。  彼女のすぐ隣――数瞬前まで好夢が立っていた場所を、何か得体の知れない黒いエネルギーのようなものが通り抜けて、    ドギュゴッッッ!! という、爆竹や風船が破裂するそれとは異なる現実離れした爆音と共に、眼前に見えるアスファルトの路面の一部が砕け散った。  心音が高鳴る。  背筋に嫌でも冷たいものが走る。  もう、すぐ背後に追跡者は来ている事を理解する。    それでも、振り返る事はしない。  砕け散った路面の上をそのまま駆け抜けていく。  その行動に苛立ちでも募らせたのか、背後から男の声が強く響く。   「逃げんなウサギ女ァ!! 人のツラ殴り倒しておきながらお返しが無いとか思ってんじゃねぇぞ!!」 (――だぁうっさい!! っていうか追って来てたの、やっぱりあたしが一発でダウンさせた奴かよ!!)  ドスドスドスドス!! と。  背後から追い迫る怪物の、不必要なほどに重い足音には明らかに負の念が乗っていた。  捕まった後の末路など考えたくも無かったが、こうもリアルに恨みを買った事実を目の当たりにしてしまうと、直接的に殺される事もそうだが、官能小説染みた展開も覚悟しなくてはならないのかもしれない――と、好夢は真剣に恐怖を覚え始めた。 (――あー、こういう妄想があっさり浮かぶのって、絶対苦朗にぃから没収したエロ本の中身を少し『確認』しちゃった影響なのかなぁ……あーもー割と自業自得っぽいのがムカつくっていうか何ていうか……!! ちょっと真面目に妄想の元凶っぽい苦朗にぃの事ブン殴りたい……!!)  理不尽だと多少思いながらも、この場にはいない義兄に対して恨みの念を放つ好夢。  しかし今は不穏な未来図に不安を覚えていられる余裕など無い。  日陰しか無い裏路地を駆け抜け、日向の広がる錆びれた路道に出る。  左右に視界を泳がせ、遠くの音を聞き取ろうと意識を一瞬でも研ぎ澄まそうとする。  一つの結論を出す。    ――これ以上は逃げ切れない。 (……仕方無い、か) 「――あん?」  開けた路道で立ち止まる。  突然の行動に疑問を浮かべたのだろうか――追跡者の足音が止まる。  好夢は抱えていた少女の体を地べたにゆっくりと下ろす。  振り返り、初めて追跡者の姿を視界に捉える。  その姿を一言で説明するならば――黒毛の熊の人形。  間接部に縫い糸が見え、内部には綿でも詰まっているのか少し膨らんで見えて、人型と言うには丸みを帯びた輪郭。  腹は裂けており、その奥には底の知れない闇と覗き込む怪しげな光が見えていて、太い四肢の先端には灰色熊のそれを想わせる爪が人間の指と同じく五本存在している。  そして、よく見てみると背中越しに赤色のマントが取り付けられていた。  生物のようにも見えて、人形のようにも見える――生物として扱うべきか、無機物として扱うべきか、境界線がとても曖昧な身体。  これまで見てきたもの全てとは異なる異形の姿がそこにあった。  作り物にしか見えない両目を細めつつ、人間の身長など軽く超える体躯をした黒いテディベアは言葉を発する。   「諦めたのか、それとも立ち塞がってるつもりか。まぁ何にせよ一旦ボコるのは確定だがよ」 「勘違いしないで。諦めたりなんかしない」  真っ向から言葉を返しつつ、好夢はすぐ背後で横になっている庇護対象の事を考える。   (……あんな蹴りを貰ったんだ。多分、何処かしらの内臓がヤバい事になってる……)  冗談抜きに、命の危機だという事は素人目でも理解が出来た。  一部始終を目の当たりにしていた好夢から見て、腹の辺りを蹴られていたように見えた事から、辛うじて心臓や肺に折れた場合刺さる危険のある肋骨は折られていないだろうと思う――思いたい。  だが、それでも内臓に伝わっているダメージは甚大なものだろう。  早急に病院まで搬送しなければならないが、手持ちの電話で連絡を取っていられるほどの余裕は無いし、そもそもイカの怪人や侍の鳥人と遭遇した時も急にデジタル表記な腕時計の調子が悪くなっていた事を考えると、携帯電話もマトモに使えるかどうか怪しまれる。 (……まずはこいつを倒す。どんな手を使ってでも。それ以外に道は無い!!) 「何だ、不意討ちもせず勝てるつもりなのか? そんな細腕で」 「……その細腕の一撃でダウンしてたヤツが言う台詞だとは思えないんだけど」 「そこはまぁ、言い返せねえが」  力不足は理解している。  難題である事など承知の上。  それでも、誰かが立ち向かわなければこの危機は乗り入れない。  黒い熊の人形が嗤う。  身体を染める色が示すように、悪意が言葉として表れる。 「もう不意討ちが通るようなチャンスは与えねえ。そんな生意気な口が利けなくなるよう、しっかり痛めつけてやるよ」   後ろには一歩も引けない。  攻撃だって一つも通させてはならない。  故に少女は、意を決して真正面から熊人形の化け物に突撃する。 「はあああああああああああああっ!!」  渾身の力を込めて駆け出し跳び、熊人形の顔面――より正確に言えば鼻にあたる部位に向かって足を放つ。  防御も回避もされず、好夢の蹴りは確かに熊人形の顔面に突き刺さり、その威力でもって熊人形の体を少し後方へと圧し返した。  マトモな人間であれば、下手をすると顔どころか首の骨が折れかねない一撃。  だが、 「……その程度か?」 「――っ!!」  人外の膂力でもって放たれた蹴りを受けた熊人形には、全くと言ってもいい程に堪えた様子が無かった。  足を突き出した姿勢から空中で回転し、危なげなく両脚で着地をした好夢にとって、その反応は疑問を浮かばせるに十分なもの。  蹴りを放った好夢自身からしても、放った足に伝わる感触は違和感を覚えるものだった。  まるでそれは、布団かサンドバックでも殴っているかのような――確実に威力は伝わっているはずなのに、その全てが何事も無く吸収されているような、いっそ空しささえ覚える感触。  事実としてダメージらしいダメージを与えられてはおらず、当の熊人形は痒そうに左手の熊の爪で蹴りを受けた鼻の辺りを擦るだけだった。 「まだだっ!!」  好夢は走ると言うよりは跳ねるような形で駆け出し、熊人形の懐に潜り込んでいく。  その速さは、磯月波音の体を抱えていた時と比べても二倍以上――常人の走行速度を軽く凌駕していた。  勢いのまま、今度は地に足を着けて右の拳を腹部に向かってアッパーカットの形で放つ。  ぼすっ、という音だけがあった。  音は蹴りを放った時と同じく空しく、そして―― (――こいつの体、柔らかいくせに重い……!! 何よ、ガワの内側には鉛でも入ってんの……!?) 「おいおい、この程度じゃ話にならねぇぞ」  言葉と共に無造作に振るわれる凶器の右手を、後ろに跳ぶ事で辛うじて避ける好夢。  逃走中の一本道で放って来た飛び道具――それに用いていた力を掌か爪にでも込めていたのか、先ほどまで好夢の立っていたアスファルトの路道はあっさりと砕け散っていた。  マトモに受けていれば、とても五体無事に済んでいたとは思えない有様だ。  その威力もそうだが、拳で直に殴った時の感触でもって、改めて敵に宿っていると思わしき怪物の能力を思い知らされる。 (……さっきの火炎男といい、相性が悪過ぎる……!! こんなの、燃やすか切り裂くかしない限り無理じゃない!!)  熊人形の反応から見ても、単なる打撃が通用する身体ではないのかもしれない。  仮にそうだとすれば、これまで目にしてきた怪物の力を振るう者たちとは異なり、四肢を用いた物理攻撃以外に攻撃の手段に心当たりの無い好夢には文字通り打つ手が無い。  唯一の弱点と思わしきは裂けた腹部の奥に見える謎の『光る目』だが――それを視界に入れているだけで、得体の知れない恐怖が胸の内に湧き出てしまう。  アレは、触れてはならないものだと。  何故そう想ってしまったのか、好夢自身その理由は解らないが――実際に拒もうとする感情が止め処なく溢れてくるのだ。  だが、だとすれば何処を狙えば良いというのか。  答えを導き出す前に、熊人形が言葉を紡ぐ。 「さて、あまり時間を掛けられねぇんだ。手っ取り早く済まさせてもらおうか?」 「……何度も言わせないで。そう簡単に……」 「言い忘れてたんだがよ、痛めつけるってのは体もそうだが、心だって含まれてるぞ?」    意味の解らない言葉の直後だった。  熊人形が右手の爪を、さながら拳銃のジェスチャーでも作るような調子で無造作に突き出すと、その先端に真っ黒な色をした何かが収束していく。  それはやがて愛情や恋情を示すハートの形を成すが、形作られたハートには亀裂のようなものが生じている。  最初、その謎の攻撃に対して警戒をしていた好夢は、よく見ると右手が自身ではなくその背後へ向けられている事を知り、目を見開いた。  そう――熊人形の狙いは、好夢ではなく磯月波音――!! 「駄目ええええええええっ!!」  熊人形の思惑は察していた。  その黒いハートの形をした物体がどれほどの殺傷力を秘めているかは知らないが、それを使って好夢にとっては庇護対象である磯月波音を殺害出来ればそれで良し。  仮に好夢がその狙いを阻もうと庇う選択をしたとしても、それはそれで邪魔者を排除出来る。  どちらを選択したとしても、熊人形の思惑に沿う展開になる。  そして、解っていても――それ以外の道を模索する時間など、無かった。  好夢は咄嗟に熊人形の謎の攻撃の射線に飛び込んだ。  申し訳程度に両腕を交差させ、防御の姿勢を取ろうとする  そして、熊人形の口から言葉が紡がれた。 「|大失恋劇《ハートブレイクアタック》」  必殺技のような言霊の直後。  亀裂の入った黒いハートが真っ直ぐに磯月波音へと向かい、それを遮らんとした好夢の体に直撃する。  両腕を交差し作った防御が功を制したのか、黒く罅割れたハートは途端に砕け散った。  謎の攻撃を受け止め、防ぎ切った。  そう思った。  だが、 「……っ、ぁ……」  罅割れたハートを受け止めた好夢は、着地に失敗して尻餅をついていた。  それだけならば空中でバランスを取る事に失敗した、だけで済ませられる話だったが――尻餅をついた好夢の身体は、小刻みに震えていた。  今すぐにでも起き上がらなければならないというのに、腕にも足にも力が入っていない。  何か、身体を動かすための柱とも呼べるものを折られたかのような様子だった。   「終わりだなぁ」  熊人形が嘲るような口ぶりで喋る。  神経を逆撫でる声を耳にしても、好夢は立ち上がれない。  その瞳から光は失せ、漏れる言葉はどれもか細い。   (……何よ、この感じ……)  身体はまだ動かせるはずなのに。  背後で倒れている女性を助けたい、見捨てられないと思う気持ちは、間違い無く胸の内に在るはずなのに。  抑え込んでいたはずの恐怖が――いや、それ以外にも現在の状況に対して自身が意識して抱く理由も無いはずの哀しさや寂しさなど――負の感情が、胸の内にあった闘志を丸ごと押し殺すほどに湧き出てしまっている。  それは悔しさにも怒りにも変換出来ない。   (……怖いのは、解る。でも、何で哀しいの。何で寂しいの。心が、寒い。苦しい。やだ、こんなの……) 「イイ顔だ。こうして見ると中々可愛らしいじゃねぇか」  気付けば、好夢の身体からノイズのようなものが生じていた。  湧き出た恐怖によって削ぎ落とされつつあるのか、彼女の身体を変えていた力が徐々に薄れている。  それを望んでいるわけでも無いはずなのに、ただの人間に戻ろうとしている。  拒むように、好夢は口を開いた。   「……駄、目……まだ……闘わなくちゃ……ならないの……」 「あん? まだ完全には折れてないのか」  どんな形でも良い。  臆病で惰弱な自分自身に訴え続け、奮い立たせろ。  マイナスの感情を抑え込むプラスの感情を、強引にでも再稼動させるために。  だが、 「時間は掛けない方がいいんだが、まぁいいか――」  再び熊人形の口元が悪意に笑みの形を作る。  その両手の上にそれぞれ、黒く暗いエネルギーのようなものが収束していく。  罅割れたハートの形を成し、浮遊する。  直後に何がどうなるのか、予想は出来ても回避は出来ない。  それだけのための力も、湧き出て来ない。   「倍プッシュだ。どこまで耐えられるか見物だな」    黒く暗い力が、再び好夢の身体に当たり炸裂する。  同時に、先に注入されたもの以上の負の感情が胸の内に更に注入される。  許容量を超えた恐怖と哀しみと寂しさに、好夢の心と共に視界までもが黒く染まっていく。   「…………」  言葉さえ出ない。  耐え切れない感情の奔流に、思考も纏まらなくなる。  熊人形の悪意ある言葉と、重みのある足音だけが、好夢の耳に嫌でも入ってくる。 「――ったく、部外者の分際で手間を取らせやがって。だがまぁ、思わぬ収穫って事にしておくかね」  勝負は着いた、と言わんばかりの口ぶりだった。  実際問題、今の好夢には最早熊人形と戦うだけの力は無い。  情けなかった。無様だった。惨めだった。何の役にも立てなかった。  その事実に沸き立ってくるはずの悔しさも、恐怖や哀しみに阻害されてぼやけてしまう。 (……あた、しは……)  暗く冷たい心の激流に押し流される。  五感の全てに嫌気が刺す。  力が抜ける。 (……結局、あたしじゃ、駄目って事なのかな……)  もう無理だ。  これ以上、自分に出来る事は何も無い。  体を熊人形の右手で掴み取られながら、流されるようにそう想っていた。  人為的な圧迫感の中、嘲る声が再び耳を打つ。   「ご苦労さん。まぁ世の中そんな都合の良い救いなんて無いと諦めるんだな」 (――――)  その言葉に、好夢の中で何かが揺さ振られた。  ふつふつと、胸の内に何かが泡立っていく。   (――この世に、救いなんて、無い?)  責められるだけなら構わない。  自身の無力を嘲られるのはいい。  が、その言葉だけは許せなかった。 「……ふざ、けんなっ……」 「あん?」    胴体に密着した両腕に力を込める。  当然、抵抗の意思がまだあると見なされ、体に加わる圧迫感は増した。  作り物の指とは思えない力に握り潰されそうになりながら、それでも好夢は言葉を紡ぐ。 「……救いってのが、都合良く簡単に訪れるものじゃない事ぐらい知ってる……」  骨肉を襲う痛みに歯を食い縛りながら。  その瞳に光を宿し――だけど、と真っ向から睨み付ける。 「……救いはある。救われた事があるから解ってる!! 世の中の全ての人が救われる事が無いとしても、失われたものは絶対に戻らないとしても、それでも世の中の何処かには救いがあるんだって!!」 「現実ってやつを知らんガキだな。アニメの見すぎじゃねぇのか? 全ての悪党に対して本当に等しくヒーローがやってくるなんて、夢物語にも程がある」 「それでも、例え夢物語だとしても、実際にヒーローはやってきた!! あたしを頼りにしてくれたあの人は、必ずあの野朗に打ち勝つ。そして此処に救われないこの|女《ひ》|性《と》を救いに来る!! それこそ本当に、ご都合主義に溢れたアニメみたいに!!」 「――ぎゃあぎゃあ五月蝿いな。黙って凹んでろよ」  鬱陶しいとでも言いたげな口ぶりの言葉と共に、手の平越しに黒い力が好夢の全身を包み、その心を蝕まんとする。  三度目となる、冬の海の中に放り込まれるが如き冷たい感情の奔流。  その渦中に三度流されそうになりながらも、好夢は怒りと共にこう思った。 (……こんな紛い物の苦しみなんかに、負けてたまるか……)  与えられた紛い物ではなく、現実の苦しみの味を、少女は知っている。  寂しさも哀しさも、それ等に対して抱く恐怖も――とっくの昔に。  そして、その直後に与えられた現実の救いの味も、強く心に刻まれている。  故に。  都合の良い救いなんて有り得ない、なんて言葉を許すわけにはいかない。  そんな言葉が罷り通ってしまうような、冷たい現実を認めるわけにはいかない。  絶対に。   (……あたしに出来る事を、全力で……)  心身共に抵抗する。  華奢な身体を握り潰さんとする握力に。  心を絶望で押し潰さんとする作り物の冷たい濁流に。  無論、それだけで現実は変わらない。  だから、自身の力不足を理解する少女は、苦しみに耐えながら祈り続けた。  救いを、助けを、願いを、ただただ請いた。  あるいは、今も尚炎の魔人と闘っているかもしれない赤き竜のヒーローに。  あるいは、文明の発達と共に信仰こそ廃れど、何処かで人間達の営みを見守ってくれているかもしれない神様という存在に。  あるいは、今の姿に成るための力を与えてくれたかもしれない、自分の中に宿る声も素性も知らない誰かに。  早く護り手をバトンタッチしろ、と。  心から救われない人に、どうか救いの手を与えてください、と。  この冷たい現実を変えるための力を貸してくれ、と。    声の無い訴えが何処に届いたのかは知らない。  あるいは、それは弱い心が生んだ幻聴だったのかもしれない。  それでも、救いを請う少女の脳裏に、一つの声が届いた。  ――確かに、聞き届けたよ。    気付いた時、少女の視界は真っ白に染まっていた。  此処は何処だ、という疑問を解決する前に、眼前に見覚えの無い像が見えた。  今の自分の姿の元になっていると思わしき兎の獣人とは、少し違う――だけど、何処か似ているような輪郭。   (……誰……?)  当たり前の疑問があった。  だが、それを解決するより前に、白い世界に佇むその存在に一つの動きがあった。  自らの――人間のそれと比べるとあまりに大きな、あるいは翼のようにも見える右手を好夢に向かって差し出したのだ。  握手を求めている――直感的にそう判断した好夢だったが、応じる前に変化は生じる。  好夢の身体の内側に、何か暖かいものが満ちてきたのだ。  それは心に巣食っていた紛い物の苦しみを瞬時に拭い去り、それだけには留まらず身体から失われた活力をある程度取り戻させていく。  未知の力と、それによって与えられた癒し。  誰がやったのかなど、わざわざ考えるまでも無かった。  視線を、翼にも似た両手を有する存在へと向ける。  表情も実態も解ったものではないが、不思議とその存在は悲しんでいるように見えた。  ――|天《・》|使《・》のクセに、この程度の助力しか出来なくて申し訳無いけど。  男性のようにも、女性のようにも聞こえる声が響く。  謝罪とも憤慨ともとれる声色に、決して少なくは無い優しさを見た気がした。    ――それでも、与えられる限りの『光』は確かに託したよ。    この、自身を『天使』と呼ぶ何者かが、自分に『変わる力』を与えた存在の正体なのだろうか。  疑問は尽きず、聞きたい事は山ほどあれど、まるで夢から覚めるように『天使』の輪郭がぼやけてきた。  ――強く、イメージして。輝くものを。それだけで、きっと使えるから。  もう、話をするだけの時間も無いのだという事だけが解った。  だから、ただ一言だけを好夢は伝えた。  ――ありがとう。  そうして少女の視界に現れた幻想は消える。  視界は嫌になるほどの闇一色で、身体に加わる圧迫感が少女に現実を思い出させる。  だが、その身体の内側には確かに力が漲っていた。  白い夢の中で『天使』に与えられた力は、決して幻想などでは無かったのだと、そう思った。  故に、好夢は闇の中、一度だけ深呼吸をして、あるイメージを頭の中で固めていく。  眼前の闇を払うほどに強く、そして暖かくて輝かしい『光』の力を。  力を与えてくれた、あの『天使』の言葉に従って。  言霊を、放つ。   「……輝いて……」  直後の事だった。  好夢の身体から、黄色く眩い閃光が爆発的に迸った。  それは文字通り瞬く間に周囲を覆っていた闇を祓い、闇の向こう側で嘲る笑みを浮かべていた熊人形に届く。 「なッ、まぶ……!?」  堪らずといった調子で、熊人形は右手で掴み取っていた好夢の身体を放していた。  両脚で安全に着地をして、熊人形の拘束から開放された好夢は、空いた左の熊の手で自分の目元を覆う熊人形の懐に向かって即座に駆け出す。  そして握り締めた右の拳を、輝きのイメージと共に裂けた腹の奥に見える『輝く目』に向かって突き出す。 「そこだああああっ!!」 「――ぎっ、がああああああああ!?」  裂けた腹の奥が好夢の立ち位置からでは確認出来ないが、暗闇の奥に隠れた標的を捉えたらしい。  ここに来て初めて、熊人形の口から明確な苦悶の声が漏れたのがその証拠。  予想通り、熊人形の弱点はその裂けた腹の奥より見える『輝く目』であったらしい。  そして、恐らくは『天使』が与えた輝く光によるものなのか、心を蝕んだ黒いエネルギーの源泉であるようにも見えていた得体の知れない暗闇に手を突っ込んでも、好夢の心は何の冷たさも感じず平常心を保てていた。   「て、めぇぇぇえええええええええ!!」 「っ!!」  だが、一撃ではやはり足りなかったのか、熊人形は怒りの声と共に抵抗を見せた。  鋭い爪を有した熊の両手を、至近距離にまで踏み込んだ好夢に向かって振り下ろしたのだ。  巨腕でもって叩き潰すためか、あるいは凶爪によって引き裂くためか。  どちらにせよ、好夢がとるべき行動は一つだけだった。  即座に後方へと跳躍し、その勢いでもって裂けた腹に突っ込んでいた右腕を引き抜く。  力加減などせずに跳躍してしまったため、好夢は磯月波音の体が前方に見える位置にまで後退してしまう。  今、倒れている磯月波音に一番近い位置に立っているのは追跡者たる熊人形だ。  余程先ほどの攻撃が堪えたのか、よろめきながら近付いて来る。 「よくもやりやがったな……一度ならず二度までも、痛手を負わせやがって……」 (ま……ずっ……!!)    好夢はすぐさま前に駆け出そうとするが、その前に熊人形の右手が磯月波音の体を掴み取ってしまった。  元々、追跡者の目的の優先順位としては部外者である好夢よりも磯月波音の方が高いはずだ。  そして、この状況において、磯月波音の身柄は人質としての要素も孕む事になる。  ただでさえ、体の中身がどうなっているのか定かではないのだ――少し握力を加えただけで、どうなるか解ったものではない。  殺すも生きるも手の平の上に乗せられた以上、好夢はこれ以上抵抗する事が出来ない……!!   「だがテメェの抵抗もここまでだ。コイツを殺されたくなければ、大人しく……」  だが、追跡者はこの瞬間失念していた。  磯月波音を救おうと闘っているのは、好夢一人ではない事を。  そして、好夢もまたこう発言していた。    ――必ず打ち克つ。そして救いに来ると。 「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」 「――なッ!?」    故に。  これもまた、あるいは必然だった。  咆哮の如き声と共に、赤い竜人が磯月波音の危機に辿り着く。  背後から――右腕に装備された稲妻の形をした刃で熊人形の右肩を突き刺す形で。   「テメェ……!! まさか、アイツに勝ちやがったのか……!!」 「――当たり前だ。まだ僕達は諦めていないんだからな――頼む!!」 「りょーかい!!」  好夢の応答を聞くと、すぐさま赤い竜人――司弩蒼矢は、容赦無く熊人形の右肩に見える人形の縫い痕らしき部分を稲妻の刃で力を込めて切り裂く。  熊人形の右肩が半分ほど切れ、必然的に握力を失った右手から磯月波音の体が落ちる。  その瞬間を逃さず、好夢は即座に駆け出し滑り込み、地面に当たる前に磯月波音の体を安全にその両腕で抱き留めた。  即座に跳び退き、距離を取る。  司弩蒼矢もまた着地をすると、すぐさま移動し好夢のすぐ横に並び立つ。  よく見ると、その両脚はアイススケートで用いられるような靴――を模した形の白い氷で覆われていた。  それだけで、少なくともどんな方法でここまでやってきたのかは簡単に想像出来た。   「……滑って来たの? アスファルトの上を?」 「今可能な範囲で、速さを得られる方法がこれしか無くて……遅くなってごめん」 「いいよ。少なくとも、まだ手遅れじゃなかったんだし」  瞳と言葉を交わし、二人は共に視線を熊人形の方へと投げる。  怒り心頭とでも言わんばかりの表情を浮かべる、追跡者の姿がそこにあった。 「クソったれが……好き勝手してくれやがって。そこまで痛い目を見ないと解らないってんなら、もう容赦はしねぇ。心身共に凹ませてやる……」 「随分負担をかけて申し訳無いけど、また走ってもらってもいいかな。コイツはこっちで食い止めるから」  怒りの声を聞き流し、蒼矢は好夢に語りかける。  その言葉を聞いて、好夢は即答した。 「すぐ戻るわよ」 「えっ」  どうやら蒼矢からすれば意外な言葉だったようだが、好夢は気にせず間の抜けた声を漏らす蒼矢に対してこう言葉を返した。   「こっちもこっちで、アンタが来るまでボコられててね。お返しがたったの一発じゃ気に食わない。この人を少し離れた場所に寝かせてから、すぐ助けに来る」 「いや、でも君……大丈夫なのか?」 「少なくとも、目に見えて火傷だらけのアンタに言われたくはないわよ……っと!!」  蒼矢の返答も待たず、迫り来る熊人形から退く形で好夢は飛ぶように駆け出す。  裏路地を再度進み、一分も経たない距離に放棄されたものと思わしきコンビニを見つけると、好夢はガラスの割れた入り口からその内部に侵入し、本来は店員が立つレジの奥の方へと磯月波音の身柄を隠した。  これで足取りを追われていない限り、この場所に追跡者はやってこないだろう。  すぐさま踵を返し、司弩蒼矢の救援に向かわなければならないが、その前に好夢は意識も無く床に横になった磯月波音の手を掴み、念じた。  きっと、声は届かないだろうけれど。  白い世界の中で『天使』が自身に対してやったのと同じように、磯月波音の体に少しでも活力を与えるために。  瞼を閉じて、黒に染まる視界に輝きを強く想起し、言霊と共に祈る。   「……どうか、助かって……」  本当は意味なんて無かったのかもしれない。  祈りなんて、願望なんて、現実を変えてくれはしないのかもしれない。  それでも、事実として起きた奇跡を好夢は信じぬくと決めた。  偶然と奇跡が生んだ新しい力を、それを与えてくれた存在の優しさを、決して否定はしないと。 「…………」  瞼を開き、未だ幸福の訪れない女性から手を放す。  踵を返し、救われぬ者を背にして、少女は戦場へ駆け出していく。  悲劇では終わらせない――それだけを決意し、自らに言葉を投げ掛けながら。   「ここからが本番よ、縁芽好夢」  ◆ ◆ ◆ ◆  暗い。  さながら眠りから覚めるように目を開いて、そうして視界に入った景色に対して、彼が抱いた第一の感想はそんなものだった。 (……ここは……?)  彼を取り巻く世界にあるのは、夜闇のそれを世界全てに塗りこんだが如き真っ黒の景色。  五感を介して感じられるものは、生きている心地を感じられない寒々しい風と、頭の先から何かに引き寄せられるような落下の感覚のみ。  自分が何故こんな場所にいるのか、ぼんやりと思考をしてみて。  そうして、前後の状況がさっぱり頭に思い浮かばない事に気付く。  何か、忘れている気がする。  何か探さないといけないものがあったような、何かやらないといけないと思った事があったような。  霧がかかったように朦朧とした意識は、正しいと信じられる答えを導き出そうとしない。  眠る前に何を起きていたのか、いやそもそも自分が何をやっていたのか。 (…………)  何も浮かばない。  寒々しい暗闇の中、光源の一つも見えない。  自分以外の誰の声も聞こえない。  誰もいないのだから、この状況を抜け出すためのヒントも何も無い。  延々と続く落下の感覚と寒々しさが織り成す気味の悪さに、どうしようも無い不安ばかりが過ぎる。  自分は死んでしまったのか。  それとも、ただ単に夢を見ているだけなのか。  夢だとして、この何も無い景色はいつになったら終わるのか。  そうして疑問が疑問を生み、やがて寂しさと言える情感が湧き出てきた頃。    ざ                                 ザ    暗闇の中に、薄っすらと光が灯り始めた。  長々と続いていた落下の感覚が消え、彼は現在の自分がうつ伏せの体勢で倒れている事に気付く。  気だるげに四肢に力を加えて立ち上がろうとするが、思いの他うまく立ち上がれない。  違和感を覚え、ふと首を動かし手から足までなぞるように確認してみると、彼は自分の体が人間のそれでは無くなっている事に気付く。  ああ、そうだったなと思い出すように理解する。  今の彼の体は、人間のそれとは違うものになっている。  脳に宿っているらしいデジモンの力を用いた変換の能力を用いて、狼男のような姿に成っているのだ。  赤い毛皮に身を包み、四肢に黒のベルトをいくつも巻きつけた――  ザザザ!!                            ざざざざざっ!! 「――っ?」  頭の中をかき乱すようなノイズがあった。  まるで寝不足か何かのように、鈍い痛みが頭に集中している。  殆ど反射的に目を閉じ、痛みを抑えつけようと獣のものと化した片手を頭に押し付けていると、やがて頭に集中していた痛みは鎮まった。  改めて、彼は自分の体を確認する。  青と白と銀の色を宿した、部分部分が刃物のようになっている毛皮に身を包んだ狼――ガルルモンと呼ばれるデジモンの体を原型とした、さながら人狼と呼んでも差し支えの無い姿。  思うように立ち上がれなかったのも当然だ――人間のそれとは逆の間接を有し、二足歩行には基本的に向いていない構造をしているのだから。  しかし、理解してしまえば話は簡単だ。  二本の足だけではなく、二本の腕も支えとして立ち上がればいい。  二足歩行ではなく、四足歩行の姿勢。  ぎこちなさなどは特に無い慣れた様子でそれに移行すると、人狼は周りの景色を一望する。  月明かりに照らされた、深緑の広がる森の中。  少なくとも、都会の景色の中には存在しない規模の場所だった。  毛皮を伝う夜風が不思議と心地良い。  夢にしては随分と現実染みているが、本当に何がどうなっているのだろう。  そんな風に考えていると、ふとして風が吹くような音が聞こえた。  ホイッスルの音のようにも感じられたそれは、深く茂る森の向こう側から発せられたものだった。  誰かが呼んでいる、と人狼は判断した。  ただでさえ理解の及ばない状況だったのもあってか、人狼は誰でも構わないから会いたいと思った。  何の躊躇も無く四足で駆け出し、光源の乏しい森林の間を無我夢中に抜けていく。  何処となく慣れた挙動でもってある程度の距離を進んだ先には、円を描くような形で存在する一つの湖があった。  夜を照らす黄金の満月を映し出した、美しい湖面を中心とした景色。  その中には、先客とも呼べるかもしれない一人――いや、一匹の姿が見える。  今の自分の身を包んでいるものと同じ色の毛皮をフードのように被る、人間の五歳児ほどの小柄な背丈をした一本角のナニカ。  見たところ草笛を吹いていたらしいそれは、デジモンの種族としてはとても有名なものだった。 「……ガブモン?」  自分の現在の姿の原型たる、ガルルモンというデジモンに最も進化する可能性が高いとされる種族。  何故自分の目の前にいるのかといった声色で、彼は呆然としたようにその名前を呟いていた。  その声に反応してか、そのガブモンは自らが吹いていた草笛から口を放し、その顔を静かに人狼の方へと向ける。  まるで、友人か何かに向けるような、穏やかな表情をしていた。  目の前に現れた、人間ともデジモンとも呼べないかもしれない異形に対する恐怖や驚きなど、微塵も見当たらない。  初対面であるはずの自分に対して、何故そんな顔を向けてくるのか。  疑問だらけの中、穏やかな表情をしたガブモンの口がゆっくりと、うご  ざざざざざざざざざざざザザザザザザザ!!                 ザザザザザザザザザざざざざざざざざざざざ!!   「――ぁ、が……っ!?」  先ほどよりも更に強く、頭の奥で雑音が響いた。  タワシを擦り付ける音を何倍にも増幅させたような障りのある音に、人狼は耐え切れないといった様子で両の手を頭に押し付ける。  二本の足で自重を支える事さえも出来ず、ガブモンの目の前で人狼は倒れ込んでしまう。  頭が割れてしまいそうだった。  思考が定まらず、見えていた森と湖の風景さえもぐちゃぐちゃになっていく。  許容量を超えた痛みに耐え切れなくなったように、その目元から涙が溢れ出てくる。  言葉らしい言葉も吐き出せず、ただただ呻き声だけが漏れて。  色彩の奔流に呑み込まれるような形で、彼の意識は落下の感覚と共に再び閉じていく。  ◆ ◆ ◆ ◆  率直に言って。  熊の人形のような姿をした怪物の右肩に向かって刃を突き立て、その半分ほどを稲妻の刃でもって切り裂いてみせた司弩蒼矢の体力は限界に近付きつつあった。  炎の魔人との戦いの中で受けた殴打と火傷のダメージは全く癒えておらず、擬肢である右腕と右脚を除いた生身の筋肉は過度極まる電気刺激の影響で疲労し、激しい痛みを断続的に発してしまっている。  そして、今の竜人の姿に成る前は人工物で構成された作り物であった右腕と右脚についても、再度電気を流したりしたら痙攣程度では済まないレベルで使い物にならなくなるかもしれないと危惧するほどに、感覚が薄れてきている。  正直な所、熊人形の右肩を半分切断する事が出来たのは幸運だったと言えた。  刃を突き立てた時、自分の声にウサギ耳の少女が応え、磯月波音の体を受け止めてくれた事も含めて。  本当に、あのウサギ耳の少女には感謝しか無いと蒼矢は思う。 (……だからこそ、本当に戻って来てほしくないんだけどなぁ……) 『そういう事は全部自分で何とか出来るようになってから言うべきだな』  浮かべた思考に対して、宿りし怪物が呆れ気味な声色でそう漏らしていた。  実際問題、眼前に見える熊人形の怪物は自分達の事を逃がす気はないだろし――二人の少女の事を想うのであれば、まず自分一人の力でどうにかしてみせるべきだろう。  熊人形の怪物が、竜人と成った蒼矢を睨みつけながら忌々しげに言葉を吐きだしてくる。 「チッ……どうやってアイツに勝ちやがったのかは知らんが、面倒事を増やしやがって」 「そっちが色々と諦めてくれれば話は早いんだけど」 「やなこった。これから先、お前のような強大な力をもった戦力が必要になる場面は少なくねぇんだ。何が何でも、お前には仲間になってもらう」 「……少なくとも、こんな方法を取られた時点で仲間になるなんて絶対嫌だな」  鱗の鎧を纏った赤き竜人と鋭利な爪を携えた黒い熊人形の怪物は、それぞれの獲物を構え出す。  蒼矢はその腕に携えた稲妻の剣を、熊人形の怪物はその左手の携えた獣の爪を、腰元にまで寄せる形で。  先に動き始めたのは熊人形の怪物の方だった。 「大人しく仲間にならなかった事、しっかり後悔させてやる――」  呪詛のように害意の篭った言葉と共に、あからさまに構えた左手ではなく右の手が差し向けられる。  見れば、熊人形の怪物の周囲に、明らかに物理現象によって発生したものとして説明出来ない未知の凶器が複数発生していた。 「――ヘルクラッシャー!!」 「っ!!」  その個数を数える間も与えぬ形で怪物が言葉を吐き出し終えると同時、怒号の如き声と共に未知の凶器――紫色に燃え盛る禍々しい怨念染みた炎――が飛び道具として放たれる。  同時、蒼矢は氷に覆われた両脚でアスファルトの地面を蹴り、素早く滑り出すことでそれを回避していく。  紫色の炎の群れ、その一つ一つはとても大きく、蒼矢の半身を丸呑み出来てもおかしくない規模のものとなっており、下手に掻い潜ろうとすれば痛手を負いかねないほどに密度も高い。  故に、求められる進路は遠回りの道なのだが、氷の特性を利用した移動手段では踏ん張りを利かせづらく、途中途中で紫色の炎に命中しそうになってしまう。  その度に稲妻の剣を振るって紫色の炎を切り裂く事で直撃を免れようとするが、ただでさえ高速で動いている中で完璧な迎撃など出来るわけも無く、二回ほど紫色の炎に身を焼かれてしまう。  鉄の面を被った炎の魔人が放っていた炎のような熱は感じられないが、命中した箇所からは血肉を炙られているかのような鋭い痛みが生じている。  それに顔を歪めながらも、どうにか左手で右腕を押さえつけるようにしながら、稲妻の剣の先端を熊人形の怪物の方へと向け、 「サンダージャベリンッ!!」  必殺の意を有する言霊を口にする。  直後に赤き竜人の右腕に存在する金色の外殻――に備え付けられた銀の刃から青白く輝く稲妻が迸り、それは瞬く間に熊人形の怪物の胴体を貫いていく。  人体に対して放つものとしては膨大極まる電力の暴威――それに貫かれた以上、感電による神経系へのダメージは避けられないはずだが、雷撃に胴部を貫かれたはずの熊人形の怪物は明らかに平然としている様子だった。 「ハッ、この程度の電気が俺に効くかよ。せめて肉を焼き焦がせる程度の熱は持っとくんだ、なッ!!」  そんな軽口を挟みながら、紫色の炎に続く形で熊人形の怪物は駆け出してくる。  その挙動自体は少し前に対峙した炎の魔人と比べると鈍重と言えるものなのだが、なまじその巨体の歩幅は大きく、三秒もしない内に間合いを詰められてしまう。  氷を纏った足で滑る竜人には咄嗟の回避を間に合わせられるだけの猶予など与えられず、止むを得ず赤き竜人は稲妻の剣を携えた右腕を左の腰元に動かす事で居合いの姿勢を取り、熊人形の怪物が振るいに掛かる熊の爪に対して真っ向から打ち合う。  ガギンッ!! と金属の鳴る音が重く響き、二体の怪物の刃が鍔ぜり合いの構図を成す。  右肩を半分切断されているにも関わらず、赤き竜人の腕に伝わってくる力はようやく拮抗出来ている、と言えるほどだった。  疑問を覚えて右肩の方に視線を向けてみれば、切断されて黒い綿のような何かを露出させたはずの縫い目にあたる部分が、見えない何かに修繕されつつあった。  詳しい理屈は解りようも無いが、この分だと熊人形の怪物の体は単純に切られる程度では根本的な欠損に繋がらない構造をしているのかもしれない。  やがて、少しずつ圧す力が強まってくる。  そして、 「――へっ」 「――っ!?」    鍔迫り合いの、その最中に。  熊人形の空いた左手が自身に対して差し向けられる。  その、一見して無意味に思えなくも無い挙措に良からぬ意図を感じ取った赤き竜人は、熊人形の怪物の腕力に押されるようにして左側に向かって跳躍した。  直後、熊人形の怪物の左手から、先ほどまで赤き竜人が立っていた位置に向かって、何やら黒いひび割れたハートの形をした何かが解き放たれていた。  着地し、跳躍の慣性と足に纏った氷の特性に危うく転倒させられそうになりながらも、どうにか左手を地に着いてバランスを取った赤き竜人はたった今放たれた攻撃に目を細めていた。  即座に彼は、思考の形で怪物の事情に詳しそうな――リヴァイアモンと名乗るその存在に対して問いを投げ掛ける。   (一応聞くけど、今のは?) 『深く考えるまでも無く触れたらまずいものだろうよ』 (……具体的には?) 『良くないウィルスの類が仕込まれてる可能性が高いって話だ。触れたら最後、体だけじゃなくて心まで蝕まれるかもな』 (……心? ちょっと待て、ウィルスでそんな事が……?) 『人間からすりゃ珍しいのかもしれんが、デジタルワールドじゃ珍しくない話だ。そもそも奴等の目的はお前を仲間入りさせる事だろ。だったらそれを促すための力……例えば、心変わりの力を使える奴を起用して当たり前じゃあないか?』  ロクでもない、それでいて耳を疑う返事が返ってきた。  だが、デジモンと呼ぶらしい存在に関しては人間の自分よりも多くの知識を有しているであろうリヴァイアモンの回答は、恐らく正しいものだ。  事実として、熊人形の怪物と協力し合う関係にあると思わしき炎の魔人は、蒼矢が現在の姿に至って抵抗の意思を見せると、恐らくは脅迫して操ってきたのであろう磯月波音を、今度は殺害しようとした。  その言葉を真に受けるのであれば、蒼矢の心を自らの望む方向に傾けるために。  絶望と諦観で染め上げて、あるいは屈服させるために。  だが、そこまでの話を聞いて、事情を理解して。  ふとして、赤い竜人――蒼矢は地に左手を着いた姿勢のまま、熊人形の怪物に対して問いを口にした。 「……どうしてだ?」 「あん?」 「心変わりを促す力なんてものがあるのなら、最初からそれを使って僕の心を弄くれば良かったんじゃないのか。あの子を利用して僕を誘導する、なんて方法は最初から取る必要が無かったんじゃないのか」 「何だ、そんなことが聞きたいのか? まぁ、こっちにも色々あるわけなんだが……」  何より、と付け加えて。  熊人形の怪物は、赤い竜人の問いに対してこう締めくくっていた。 「こういうやり方の方が愉しいからに決まってるだろうが?」 「――――」  その、何を当たり前の事を聞いているんだとでも言わんばかりの、軽い調子の言い分に。  自然と、赤い竜人の口元から舌打つ音が漏れた。  人生において始めてと言っても良い振る舞いだった。 (……本当に、ふざけてる……)  納得など、共感など、理解など、出来るわけがない。  この熊人形の怪物は、確かにこう言ったのだ。  今回の案件において、磯月波音を利用したのは自らの愉しみのためだと。  ひょっとしたら言葉にしていないだけで、何らかの都合や効率の話だって絡んでいるかもしれないが。  もし、仮に理由が愉しみのためだけだとしたら。  導かれる答えは一つ。  司弩蒼矢を手に入れるための利用の対象が、磯月波音でなければならない理由なんて、何処にも無かった。  あの少女はただ、この怪物どもの楽しみのための消費物とされたのだ。  その理不尽に、怒りを覚えずにいられるはずが無かった。  が、その時――怒りに煮え滾る頭の奥底から、宿りし怪物の声が響く。   『ちょっと代われ』 (……リヴァイアモン?) 『体を少しだけ貸せって言ってんだ。多分出来るだろ? ちょいと、俺の方からも聞きたい事が出来たんだ』 (……解った……)  自分の体を、自分では無い誰かに預けること。  それは下手をすれば、自らの自由を失うかもしれない提案だったのだが、司弩蒼矢は特に躊躇などはしなかった。  今この状況に至るまでの事を想えば、信頼を置くに足る存在である事は疑う余地も無かったから。  無論、彼はスイッチでも切り替えるような体の主導権を変更する方法などは知らない。  ただ彼は、心の中で今の姿に至る前に見た海の中を夢想した。  そこに自分が潜り、代わりにあの巨大極まる赤色の鰐を、その心を浮き上がらせるようなイメージを抱いた。  結果から言って、体の制御権の移行は完了したようだった。  自分では無い存在が、実感でも確かめるように右手を握ったり開いたりしているのが、解る。  声質こそ変わらないが、別人のような喋り方でもって、竜人の口が開く。 「おい、小僧」 「あん? 何だ、急に偉そうになりやがったな」 「一つだけ聞かせろ」  そして。  司弩蒼矢の肉体を借りた怪物は、熊人形の怪物に対してこんな問いを出した。 「お前達の上は『強欲』のバルバモンか」  その、質問というよりは、まるで答え合わせでもするような言葉に。  熊人形の怪物は、疑問を覚えたように首を傾げ、こう返していた。 「……はぁ? そりゃあ、あながち間違いじゃねぇが……何だ? 急に偉そうになったと思えば、今度は知った風な口を利いて……いや、待て。テメェはまさか、中身の方か?」  が、問いを出した当人の方は熊人形の怪物の問いには答えようとせず、代わりに心の中で言葉を漏らしていた。 『……やっぱりか。クソが、人間の世界でまで幅利かせてやがんのかあのジジイ……』 (話が掴めないんだが。バルバモンって、それもデジモンの名前なのか?) 『さっき心変わりの力の事を聞いただろ。俺の知る限りではそれを得意とする筆頭であり、欲しいモンのためなら何でもするってヤツだ』 (……まさかとは思うけど、知り合いなのか?) 『嫌な意味でのな』  デジモンの事を詳しく知らない司弩蒼矢からすると、リヴァイアモンの言うバルバモンというデジモンがどういった存在なのか、イマイチ理解は及ばない。  しかし、つい先ほどまで冷静な言葉を投げ掛けていたリヴァイアモンの声色が、明らかに嫌悪の混じったものになっている事は理解出来た。  そんな事実には気付くわけも無く、熊人形の怪物は体の主導権が司弩蒼矢から宿る怪物の方に移っている事だけを察したらしい熊人形の怪物は、嬉々とした笑みでも浮かべるような調子で一つの提案を口にした。   「そうだ、お前は魔王なんだろ? だったら正義面してやがるそのガキと違って、俺達の仲間になってくれるか?」 「馬鹿を言え。七大魔王ってのが組織の名称じゃあなく、ただの称号に過ぎない事も知らねぇのか? 安易に同類扱いしてんじゃねぇよ吐き気がする」 「何だよ中身の魔王サマも正義面かよ。それとも『嫉妬』の魔王だからか? 自分より偉そうにしてるヤツは誰であろうと気に食わないって所か? だったらまぁ、気を悪くして悪かったな」 「下らん媚び売るくらいならもう放っておけ。何者であれ、俺の力を利用しようとして俺以外の何かを貶めようとするような輩の要求に従う気はねぇんだからな」 「従えば、少なくともソイツの身内には手を出さない……と言ってもか?」 「約束を守ろうなんて善性が残っているようには見えんが?」 「……なぁるほど、筋金入りってわけか」  心からの譲歩の意思など微塵も無い言葉の応酬があって。  熊人形の平らにも見える右手が改めて赤い竜人に差し向けられ、先端に黒いハートの形をした力の塊が生じる。  他ならぬリヴァイアモン自身が蒼矢に警告した、心変わりの力を使うつもりらしい。  現在体を動かしているのは司弩蒼矢の意思ではなくリヴァイアモンと名乗る怪物の意思によるものだが、仮にあの攻撃を受けてしまった場合、どうなるのか解ったものではない。  現在体を動かしているリヴァイアモンの精神が弄くられてしまうかもしれないし、逆に体を動かさず内的世界に精神を沈めている司弩蒼矢の精神が抉られてしまうかもしれないし、あるいはどちらに対しても何らかの効果が発揮されてしまうかもしれない。  回避以外の選択肢は無かった。  赤い竜人の体の主導権を担うリヴァイアモンは、右脚に力を込めて真横に力強く跳躍する事で放たれてくる黒色のハートを回避し、跳躍の勢いによって空中で回転した体勢のまま稲妻の剣の先端を熊人形の怪物に向ける。  直後に空気が弾けるような音が炸裂し、稲妻の剣から蒼光りする雷撃が放たれ、それは熊人形の怪物の頭部を瞬きの間に貫いていく。  が、どう考えても意識を断絶されて然るべき一撃を受けた熊人形の怪物は、返しの一撃にも大したダメージを受けた様子は無く、平然とした様子でその視線を赤い竜人の方へと向けていた。  肩から地面に激突し、それでも殺しきれなかった運動量の分だけ転がった赤い竜人は、殆ど四つん這いに近い体勢になって熊人形の怪物を睨む。  見方によってはトカゲのようにもなったその姿を見て、熊人形の怪物の口から嘲弄の声が漏れる。   「なんだぁ? カエルみたいにピョコピョコ跳ねるのが好きなのか? ハハッ、嫉妬の魔王サマの進化前は実はゲコモンだったってかぁ!? トノサマゲコモンもそういや赤かったっけなぁ!!」 「…………」  あからさまに嘲弄された赤い竜人は、特に表情を変えたりはしなかった。  熊人形の怪物の嘲弄などよりも、ずっと思考を必要とする話があったからだ。 (……頭を電気で貫かれて、平然としてるなんて……) 『この分だと「サンダージャベリン」は効かねぇみたいだ。おい人間、あの野朗の弱点とかに心当たりは無いか』 (僕は君達デジモンの事をそもそもよく知らない。着ぐるみみたいに見えはするけど……) 『キグルミって、何だ?』  しかし、現在は戦闘の真っ只中。  合間に挟める思考は、即座に敵対者の行動によって遮られるのが定め。  熊人形の怪物は嘲弄の声を漏らしながらも、自らの周囲に複数の紫色の炎を出現させ、更には両の手の先端から再び黒いハートの形をしたエネルギーの塊を出現させていく。  今度は逃がさない、とでも言いたげな布陣だった。  それに対して嫉妬の魔王の意思で動く赤い竜人は、窮地の中にある状況を理解した上で、鼻で笑った。  そして言う。   「手抜きなんて、狩る側としては三流もいいとこだな」 「これだって何も消費しないわけじゃねぇんだ。サービスしてやるから大人しく食らいなッ!!」  宣言とも言える言葉が吐き捨てられ、闇の猛攻が迫る。  赤き竜人は即座に両目を凝らし、回避のためにどの方向に跳び出すべきかと一瞬思案して、 「だあらっしゃあああああああああああああああああああ!!」  直後の出来事だった。  赤い竜人に対して猛攻を放つ所だった熊人形の怪物の後方より。  聞き覚えのある少女の声が聞こえ、それに熊人形の怪物が気付いた時にはもう遅く。  拳法着染みた黄色の衣装を身に纏った兎の獣人の右拳が、熊人形の怪物の背中に深く突き刺さっていた。  これまでの攻防から単純に考えて、痛手になり得るとは思えない一撃。  されど――少女が叩き込んだ拳は、ただの拳ではなかった。  何か、黄色く眩い輝きが宿ったものだった。   「――ぐ、あちぃっ!?」  故に、だろうか。  熊人形の怪物に対して放たれたその一撃は、熊人形の口元から悲鳴を上げさせていた。  集中力でも切れた影響なのか、周囲に出現していた禍々しい飛び道具は全てその形を崩して空気に溶けていく。 『――なるほどな。代わるぞ』 (え? わ、解った)  位置の関係で状況を詳しくは読み取れなかったはずだが、熊人形の怪物の様子に赤い竜人は何かを察した様子で瞳を閉じて――体の主動権を、リヴァイアモンから司弩蒼矢へと戻した。  突然の判断に戸惑いを覚えながらも、体の主導権を戻してもらった司弩蒼矢は四肢を地に着けた四つん這いの体勢から一転、右手に備えた稲妻の剣を支えとして素早く立ち上がる。  気付けば、熊人形の怪物は赤き竜人の方など見てはいなかった。  勢いよく背後へと振り返り、その視線を拳法着に兎耳の少女の方へと向けていた。  彼の標的は間違い無く司弩蒼矢とそれに宿るリヴァイアモンの力であるはずにも関わらず、だ。   「てめぇ、このクソガキ……!!」 「さっき言ったでしょ。すぐ助けに来るって!!」  返す刀として殺意をもって振るわれる鋭利な爪を避け、兎耳の少女は即座に赤き竜人のすぐ隣にまで足を運んでくる。  必然的に熊人形の怪物の視界には赤き竜人と兎耳の少女の姿が入り、自らの置かれている状況かあるいは一向に抵抗を続ける彼等の振る舞いに苛立ちを増したらしい彼は、こんな言葉を発してきた。 「無駄な抵抗してんじゃねぇ!! こっちが『組織』だって事実を解ってんのか。仮に俺を倒せたとしても、お前等に気の休まる時なんか来ねぇんだよ!!」  その言葉は、真実だろうと蒼矢は思う。  今の姿に成る前にも考えた事だが、磯月波音を利用するにあたっての計画的な行動を考えても、彼等の所属する『組織』の戦力は少なくとも両手の指の数を超えている。  炎の魔人に続き、目の前の熊人形の怪物を撃破出来たところで、また新たな襲撃者がやってくる可能性は決して低くない。  他ならぬ被害者である磯月波音自身も、言っていたではないか。  こいつ等は、家族を人質に取る事だって厭わない輩だと。  今になって思えば、あの囁く形の言葉は彼女自身の状況を表してもいたのだろう。  自分ではなく、自分にとって大切な誰かが命を狙われる状況。  それは、決して独りの力では抗いようの無い現実だ。 (それでも、諦めるわけにはいかない)  だが、その事実を理解した上で司弩蒼矢は屈する選択だけはしない。  自分が屈するだけで全てが無事に済ませられる話では無いと、そう理解しているからだ。  と、そこまで思考した時だった。  拳法着に兎耳の少女が、疑問ある声色でこんな事を聞きだしたのだ。 「アンタさ、何か『組織』がどうの言ってるみたいだけどさ。それにしてはまったく増援が来る気配が無いんだけど? アンタ等の狙いだと思うヤツが逃げ出したのに。連絡を取ってないならまだしも、ただの一人も来ないってのは本当にどういう事なの?」 「解ってねぇな。俺達の狙いはリヴァイアモンだけじゃねぇんだ。別件があんだよ。そしてその別件さえ終われば、すぐにでも増援は――」 「つまり、アンタ達悪党と戦ってるのは私達だけじゃないって事よね」  その言葉に。  司弩蒼矢だけではなく、彼に宿る怪物もまた、息を呑んだ。  戦っているのは、自分達だけではない。  敵の敵は味方――なんて言葉がどこまで鵜呑みに出来たものかは解らないが、少なくとも熊人形の怪物の言う『組織』の意向に抗う形で戦っている誰かが、何処かにいる。  顔も声も知らない、きっと自分と同じく怪物――デジモンの力を振るう人間が。   「アンタ達の企てたことの全容なんて知らないけど、アンタ達の行動を良く思わない人はいるんでしょ? そうじゃなかったら、こんな街外れ……目立たない場所に移動する必要なんて無いはず。コソコソやらないといけない事情が、少なからずあったはず。そして、それは多分……アンタ等を強さで超える正義の味方の存在よ」 「ハッ、嬢ちゃん。仮に正義の味方だったら何だってんだ? そいつが、魔王を宿してる化け物の味方になるとでも? むしろ逆だろ。正義ってやつを果たすために、全力でブチ殺しに掛かるだろうよ。わざわざ仲間にしようとしている優しい俺達とは真逆でなぁ?」 「アンタの言う通りなのかどうかなんて知らないけどさ」  迷いの無い声で。  赤き竜人の隣に立つその少女は、熊人形の怪物に対してこう告げる。 「少なくとも私はこの人を『助ける』側に回るわよ。絶対に、独りになんてさせてやらない」  確証なんて無くとも、明確な希望なんて見えなくとも。  初めて出会ったはずの、名前も顔も知らない相手を『助ける』ために戦うと、少女は宣言した。  その姿に、司弩蒼矢が脳裏に真っ先に思い浮かべたのは、殆ど暴走状態にあった自分と夜中のプールで戦った、牙絡雑賀と名乗った狼男。  自然と、胸中を蠢いていた不安が解きほぐされていく。  独りではないという事は、助けてくれる誰かがいるという事は、こんなにも心強いのだと、理解する。  であれば、自分の事を『助ける』と言ってくれた少女と、自分の事を想って犠牲の道を選んでしまった少女のために、彼が紡ぐ言葉も決まりきっていた。 「……行こう。僕達が帰るべきだと、きっと誰かが待っている場所に!!」  そうして。  最後の攻防が、始まった。  ◆ ◆ ◆ ◆   「――――っ?」  意識が覚めたその時には、全てが変わっていた。  落下の感覚は唐突に途切れ、両脚は地面の感覚を確かに捉え、殆ど横倒しに近い状態にあった姿勢は何事も無かったかのような直立の姿勢に整えられている。  体の方は変わらず人狼の姿だったが、殆ど発狂寸前にあった思考は知らず知らずに安定を取り戻していて、両の瞳はそれまで見えていたぐちゃぐちゃな景色それ自体が嘘であったかのように明確な風景を視界に映し出していた。  夜闇と月の光に彩られた森の景色と、そこに存在していたはずのガブモンの姿の代わりにその視界に映し出されたのは、牙絡雑賀という人間にとっては見慣れた光景とも言える街中の裏路地。  コンクリートのジャングルとも呼べるその場所を照らす光の色は、焼け付くような橙色。  肌寒さを僅かに帯びる空気から察するに、時は黄昏時――学業を営む者たちにとっては放課後に該当される時間帯らしい。  先ほどの自然溢れる深緑の光景とは真逆に、乾いた灰色が広がる汚れた景色。  彼はそれに対して、不思議と懐かしさと覚えていた。  霧がかかったように浮かび上がらずにいた思い出が、少しずつ浮かび上がってくる。   (……確か、ここって……)  思考に合わせるように、裏路地の中に何人かの人間のシルエットが浮かび上がる。  顔は黒く塗り潰されているかのように解りづらいが、構図を見ればどういった行いが為されているのかは明白だ。  一対六の、男同士のケンカ――言ってしまえば、|私刑《リンチ》の現場だ。  獣人の口から、うんざりするようにため息が漏れた。  解るのだ。  この構図、この光景が示す意味が。  これは、とある友人と出会う事になった、切っ掛けの光景だ。  中学生の頃の話だ。  彼が通っていた中学の生徒の間では、ある一つのグループが構築されていた。  今となっては記憶がおぼろげだが、それなりに格好を付けた気になってそうな名前が付けられていた覚えがある。  そのグループは、言ってしまえば暴力を誇示するための枠組みだった。  ただ無邪気に、自分達がやりたいと思ったこと――気に入らないヤツを相手にした私刑を行ったり、そうして屈服させた相手に金銭を要求したりといった――を暴力に任せて遂行していく。そんな思考を持った学生が集った枠組み。  それが生まれた最初の発端がどんなものだったのかは知らないし興味は無かったが、ある頃からそれは頭数を増やしていき、嫌が応でも彼という存在を巻き込んでいった。  幸か不幸か――今となっては後者だと思えるが――彼は賢い人間だった。  いつか標的にされてしまえば、一人の力ではどうしようも無い――そう危惧したからこそ、彼はそのグループの中に入り込む道を選んだ。  具体的に言えば、リーダーの男に先んじて媚び諂い、その方針に従うよう動いたのだ。  グループが標的と定めた、何の恨みも無い少年の顔面を殴ったりなどといった、私刑に対する加担という形で。  グループのリーダーは、自分の定めたルールに同調する相手に対しては友好的な態度を取る人間だった。  プライドや良心などを捨て去ってしまえば、取り入る事自体は簡単だったのだ。  愛想笑いの作り方や、人の殴り方を体得するには、十分過ぎるほどの時間――彼は自分という存在を群れの中の一人として形作っていた。  無論、学校の内外で行われたグループの目に余る行為は時として教師の耳にも入る事があった。  しかし、当時の被害者からすると本当に不幸なことに、学校は被害者達が望むような形の対応を行ってくれなかった。  停学や退学などといった「今後」のための対応は無く、申し訳程度の面談による注意という形に留めてしまったのだ。  そして、そんな学校側の控えめな対応に付け上がる形で、グループの行いは更にエスカレートしていった。  なまじ人数だけは多かったからこそ、場合によっては教師の力にも抗えるとでも思っていたのかもしれない――集団特有の心理だ。  生徒達の間で、秩序などもう殆ど在って無いようなものだった。  それは最早、暴力を司る一個人による独裁でしか無かった。    確かに、結果として彼に対するグループの暴力が振るわれる事は無かった。  だが、一方でそうした結果に対する安堵や喜びなんて無かった。  自衛のための選択、そう言い訳したって胸の中には虚しさばかりが募っていた。  自分のやっている事が悪い事だという事ぐらい、最初から理解はしていた。  だけど、一人が正義に立ち上がったところで物事が解決に繋がるわけでは無いとも思っていた。  無駄な痛みを背負うぐらいなら多数決の勝利に乗っかった方が、まだマシな話だとも。  ただでさえ、彼が混じってからもグループという群れの規模はどんどん大きくなっていて、たったの一度でもその方針とは異なる行動に出てしまえば、どんな目に遭わされるかは解ったものではなかったから。  どうせ、卒業さえしてしまえば半数近くは出会わなくなる相手だ。  自分の人生に関わる可能性など、さして高いわけでも無い赤の他人なのだ。  そんな相手のために、下手をすると一生モノになってしまうかもしれない傷を負う必要なんて無い。  個人の意思なんて、プライドなんて、集団の力の前には何の役に立たない。  自分が立っている世界とは、現実とは、所詮そういうものなのだから。  不思議と長く感じられる月日の中、彼はそんな風に自分が加害者であるという現実を受け入れて日々を過ごすしかなかった。  そう、ある日の裏路地で、とある少年がグループによる私刑の現場に独りで首を突っ込んで来るまでは。 「――――」  その、現代においてはどこにでもいるような黒髪の少年の目は、怒りに染まっていた。  自分自身が被害を被ったからではなく、単純に目の前の所業が許せないといった顔だった。  どうも、その日の私刑の標的が裏路地に連れ込まれる所を目撃してしまったらしい。  哀れなスケープゴートを救出するため、最初は言葉で暴力を止めるように訴えて、聞く耳を持たないといった様子のグループの顔を見て、腕づくで取り返しに掛かって。  結果から言って、勝負になんてなっていなかった。  そもそも根本的に、その少年の動きにはケンカ慣れしている様子さえ無かった。  正義に燃えた少年は、当たり前のように集団の暴力でもって数々の痣を残される羽目になった。  ボロボロに踏み躙られ、道端のゴミのような扱いを受けていくその様を、彼は加害者の視点から眺めていた。    結局、これが現実なのだ。  集団の力の前では、個人の力などこの程度のものでしか無い。  どうせこいつもすぐに屈服する。  そんな風に思いながら、冷えた心を胸に仕舞い込んだまま、暴力に加担して。  そうして、何度も殴って何度も蹴って――それでも弱音を吐かない少年に対し、ふとして疑問を覚えたように彼はこんな問いを出したのだ。  なんで首を突っ込んだのかと。  勝ち目が無いと解りきっているはずなのに、何故一向に諦めようとしないのかと。  ただただ、お前が損をするだけなんじゃないのか、と。  そうして、自分で自分が虚しくなる言葉を吐き出し終えると、殆ど間を置かずにその少年はこう答えていた。  ――許せないから。  ――ただ、こうしたいと思ったから。  ただの感情論だった。  追い詰められた状況の中で吐き出されたその言葉の中には、勝算や利害、損得の話など微塵も臭わない純粋な思いが感じられた。  きっと、少年自身にとっては当たり前の選択だったのだろう。  正義の味方になった気になって、善性に酔っているわけはないとも思えた。  後で知った事だが、標的とされた生徒自体も、その少年の友達でも知り合いでも何でも無かった。  彼はただ「独りを多人数で痛めつける」この状況を見て、自分が何をしたいと思うのか――いっそ本能とも呼べるものに従っただけだったのだ。  無論、どんなに綺麗事を口にしても、当然ながら現実は変わらない。  集団の暴力は、個人の意思など容易く押し潰していくことだろう。  たとえ心が折れなかったとしても、体の方はいつかロクに力が入らなくなる。  そこまで理解して、そこまで想像して、そして。  彼は。  ただ、心からそうしたいといった調子で。  彼は、少年の顔面を殴ろうとしたグループの一員の顔面を殴り飛ばしていた。  突然の裏切りに戸惑うクソガキ共を一瞥すらせず、彼は仰向けに倒れ伏していた少年の手を掴んで引いた。  彼の突然の行動に対して、集団だけではなく少年の方もまた驚いたような表情を浮かべていた。  だが、きっと確認の言葉は必要ないと思ってくれたのだろう――少年は、彼の助けを経て立ち上がると、彼と共に改めて集団に立ち向かっていった。  お互いに腕っ節が強い部類では無かったが、結果から言って二人の少年は集団をどうにか撃退する事に成功していた。  撃退に成功した彼と少年からしても無我夢中の行いであったため、詳しい攻防の内容をいちいち覚えたりはしていなかったが、二人の抵抗によって集団が逃げるようにいなくなった頃には、二人揃って裏路地の汚い壁に背中を押し付けるような形で腰を下ろしていた。  標的とされる所だった生け贄の少年は知らず知らずの内に逃げていたようで、時間経過によって影が濃くなってきた裏路地には二人の姿だけがあった。  疲れきった様子の少年は、彼に対してこんな問いを出した。    ――どうして、こっちの側に立って戦ってくれたんだ?  対して、他ならぬ少年に暴力を振るった集団の内の一人だった彼は、こう返していた。    ――多分、お前と同じ理由だ。  加害者であった彼自身、どの口でほざいているのかとも思いはした。  そもそも彼の立場を考えれば、今の行動は利口な判断とはとても呼べないものだ。  まず間違いなく、彼の裏切りは暴力の集団に速やかに伝わっていくことだろう。  なまじ最初から反抗していたのではなく、裏切りという形で集団の方針に抗ってしまった以上、標的としての優先度は高くなる。  もう、標的にされる事は避けられない。  人混みの中に紛れ込んだ人狼が、嘘の毛皮を被れなくなったらどうなるのかなんて明らかだ。  今まで自分が助かるために他人に押し付けてきた暴力が、あるいはこれまで見てきたもの以上の害意を伴って襲い掛かってくる未来。  そんな、自業自得とも言える未来を少しだけ想像して。  それでいて、彼は薄く笑みを浮かべていた。  ――お前、名前は?  ――牙絡雑賀。お前の方は?  ――紅炎勇輝。  それはまるで。  ずっと、お利口ぶって自分の心を偽ってきたのが馬鹿だったと。  最初からこうしていれば、もっと話は簡単だったかもしれないのにと言わんばかりに。  そして、そう思ってしまった時点で、彼は自分の本音を誤魔化す事など出来なくなっていた。  後悔と、そう呼べる感情が湯水のように湧き出てくる。  自業自得である事など百も承知だ。  偽った気持ちのまま情けない行いを続けてきた過去は絶対に消せない。  これからどうすれば良いのかなんて、すぐには思い浮かべられなかった。  だから代わりに、彼はいっそ開き直るように、一つだけ自分に決意した。  もう二度と、自分の気持ちを偽る事は止めよう、と。  下らない後悔に塗れるぐらいなら、せめて自分で自分に誇れる選択をしよう、と。  例えそれが、後に取り返しのつかない事態を招いてしまうかもしれなくとも。 (……ああ……)  思考が纏まっていく。  記憶が繋がり、自分がやるべき事を思い出す。  彼は、自分と言えるものを取り戻す。  同時、瞬きの間に黄昏時の裏路地の景色はまたも一変し、彼の視界いっぱいに黒が広がる。  一番最初に見た時には、道標一つも見えなかった世界。  ふと、その景色に移行するにあたって、落下の感覚が無かった事に疑問を抱いて。  ふとして足元へ視線をやれば、彼自身が自分が何をやるべきなのか、何を目指したいと思っているのかを思い出したからなのか、淡い緑色の炎で形作られた一本の道が、三歩先の位置から遥か遠くに向けて姿を現していた。  遠近感も何も無い世界にて発生した、安易に触れてしまえば足先から全身を炎上しかねない道。  彼には、現実的とは言えないその存在が、自らに対してこう告げているように思えてならなかった。  この先は地獄だぞ、と。  一度踏み締めれば、取り返しはつかないぞ、と。  彼自身も、何となくその通りかもしれないと思った。  きっと、自分が向かう道程は地獄と呼べてしまう類のもので。  そこに向かうという事は、避けようの無い危機を受け入れる事に他ならないのだと。  まだ、今なら後戻りが出来るかもしれないそれを、受け入れるのか否か。  そうした、炎の道からの暗示を受け、彼は誰に対して告げるでも無くこう答えた。 「……行くさ。行くに決まってる」  背後を振り向く事はせず。  彼は、その人狼は確かに両の手で闇を踏み締める。   「もう心に決めてんだ。司弩蒼矢だけじゃない。苦朗のヤツも勇輝のヤツも……俺が大切だと思える奴等は全員助けるって。助けるために全力を尽くすって」  躊躇無く、駆け出す。  当然のように、淡い緑色の炎が人狼の全身を燃え上がらせていく。  三色を宿した美しい毛皮が、人間の頃から履いていたジーンズが、その輪郭を失う。  人狼の全身が、緑色の火だるまになる。  毛皮を失った獣人の五体が、炎の中で血のように鮮やかな赤色に染まる。 「たとえ、そのために向かう場所が、本物の地獄だったとしても――」  だが、それでも。  彼の四つ足は、決して前に――目指すと決めた場所に駆ける事を止めない。  緑色の炎に包まれた彼の赤い体には、同時にこの世界を彩るそれと同じ黒の色を宿した鎧が纏われ始めていく。 「俺はもう、俺に嘘は吐かないって誓ってるんだッ!!!!!」  地獄にも等しい世界の中。  彼という人狼は、ただ一心不乱に炎の上を駆け続けて。  そして、  ◆ ◆ ◆ ◆  ――ガルルモン、進化――!!  荒れ果て、見捨てられた都会の残骸の上で。  深い傷を負った縁芽苦朗が、それでも強い願いと共に淡い緑色の炎を灯らせていた、左腕を中心に発生していた鎖の檻の中から。  かくして、その存在は産声を上げ地に降り立つ。  自らを縛り付けていた鎖を、それを構成していた物理を越えた何かを全て飲み込み、糧としながら現れたのは。  堅牢な外殻に身を包み、両手の先に犬の頭のような形の火器を、両足から銀に煌めく鍵爪を携えた赤黒の獣人。  其は、デジタルワールドにおいて地獄の番犬と称される魔獣。  存在の根幹、ギリシア神話においてもまた死者の向かう先とされる冥府の入り口を守護しているとされる者。  その名を、示される変化の形を、受け入れるように彼――牙絡雑賀は自らの名を告げる。 「ケルベロモンッ!!」 「――なっ!?」  戦力外の存在だと思っていた存在が急に姿を変えて現れたその事実に、上空から誰かが驚きの声を漏らしたが、変化を遂げた牙絡雑賀は気にも留めなかった。  その視線を、地に降り立った自分のすぐ近くにて仰向けに倒れた状態の縁芽苦朗に向けると、牙絡雑賀は目を細めてこう問いだした。 「……おい、大丈夫か? なんかやべぇ事になってるみたいだが……」 「……誰の所為でこうなったと思っているんだこの馬鹿野朗……?」  その怒り混じりの言葉に、牙絡雑賀は自分の存在が本当に縁芽苦朗の足を引っ張ってしまっていた事実を再認識する。  完全体クラスのデジモンの力を振るう相手を三人も相手にしていたとはいえ、究極体――それも『七大魔王』というビッグネームを掲げる存在を原型とした力を振るう者が追い詰められてしまっているほどの重荷を、押し付けてしまっていたのだと。  それを理解した上で、牙絡雑賀は魔王を宿す男に対してこう続けた。 「……何だかんだ言って、俺のこと護ってくれてたんだな」 「やかましい、そして勘違いをするな。俺が護ると決めているものぐらい、お前は察しているだろうに」 「そうだな。悪い、今の台詞は忘れてくれ」 「馬鹿言う暇があったら敵を見ろ」  互いに、つい先ほどまで意見の相違で衝突したとは思えない口ぶりだった。  元々敵同士というわけでは無いのだから、あるいはこれこそが当然の振る舞いなのかもしれないが。  そんな彼等の会話の内容など気にも留めないように、敵対者である三人の電脳力者が攻撃を仕掛けてくる。  嵐の如き真っ黒い蝙蝠の群れが、生き物のように口を有した有機体系ミサイルが、上空から速やかに迫り来る。  応じるように、牙絡雑賀は即座に両手に存在する犬の頭の形をした火器、その砲口を素早く向けていく。  そして、必殺の言霊を口にした。 「ヘルファイアーッ!!」  言霊が口に出されると同時、犬の顔の形をした火器の砲口から膨大な量の熱が噴き上がった。  その色は、縁芽苦朗が必殺技のために用いていたものとよく似た、淡い緑色だった。  その猛威は暗黒の蝙蝠の群れと有機体系ミサイルの群れを速やかに喰らい尽くし、灰も残さず消し去ってしまう。  そんな圧倒的な炎を放ってきた牙絡雑賀を排除するため、女悪魔と機竜の攻撃に注目を寄せて別方向の遠方より放たれていた呪いの弾丸を、仰向けの状態から立ち上がった縁芽苦朗は即座に掴み取り握り潰してしまう。  そうして、粉々に砕けたそれを見やる事なく、縁芽苦朗は牙絡雑賀の隣に歩み寄る。  互いに、互いを共闘相手と見なした上で、怪物に成った二人は告げた。   「せめて、足を引っ張った分ぐらいは役に立てよ。番犬」 「俺は俺で好きにやる。そっちも気張ってくれよ。魔王」  ◆ ◆ ◆ ◆  気を引き締めるような宣言の直後に。  息を強く吸い込んだ赤き竜人は、即座に熊人形の怪物の足元を目掛けて氷の吹き矢を数多に放出していく。  雷撃は通用しない、であれば冷気の類は通用するのか――そんな疑問の元に放たれた攻撃。  それは熊人形の怪物の体に確かに命中すると、熊人形の体を表面から凍結させんと氷の膜を形成し始める。  が、それは熊人形の怪物が即座に自身の周囲に出現させた紫色の毒々しい炎によって見る見る内に消し去られてしまう。  出現した紫色の炎は紛れも無く熊人形の怪物自身の体をも焼いているはずなのだが、熊人形の怪物の体は遠目から見ても焼け跡一つ見当たらない。  返す刀で向かってくる紫色の炎の群れに対し、氷の靴を有する赤き竜人は兎耳の少女と共に動き出す。  片や氷の力でもって滑りながら稲妻の刃を振るい、片や軽快に駆けながら暖かな輝きを纏った拳で紫色の炎を迎撃していく。  何事も無いように見えるが、彼らは共に戦いの中で消耗している身。  少しずつ、だが確実に――息は上がり始めていた。  対照的に、熊人形の怪物の方はあまり戦闘の中では体を動かしていない所為か、特に息が上がったりなどはしていない様子だ。  現在に至るまでに受けた攻撃の数を思えば、熊人形の怪物の方こそが消耗していて然るべきはずなのだが……? 明らかに生き物のそれとは異なる体の構造をしている相手に、真っ当な消耗や損傷を期待するほうが間違っているのだろうか、と赤き竜人たる司弩蒼矢は疑問を抱くが、当然ながら力の大元たるデジモンの事など知らない彼の頭では答えなど出ない。  だから、司弩蒼矢は回避行動を取りながらも頭の中で自らに宿る怪物と言葉を交わしていた。 (訳知りな感じに交代したわけだけど、何か解ったの?) 『まず、あの子を援護するべきだってのは確かだな。何のデジモンの力か正確には知らんが、闇の種族に対して有効な「聖なる力」ってのを持ってるようだし』 (援護って、具体的には?) 『攻めまくれ』    ある意味においては無駄の無い、解りやすい答えが飛んできた。  故に、赤き竜人たる司弩蒼矢は悩む事を止めた。  氷の靴を用いた滑りの軌道を鋭角に曲げ、紫色の炎の間を掠めるような軌道でもって、熊人形の怪物の方へと素早く向かっていく。  稲妻の刃を構える彼目掛けて、熊人形の怪物は即座に獣毛を有する左腕を振り下ろしてくる。  力で押し勝つ事は出来ない――それを理解した上で、赤き竜人は真っ向から熊のそれを想わせる鋭利な爪を稲妻の剣でもって受け止める。  二度目となるつばぜり合い。  ただでさえ消耗が重なっている故か、あるいは思い通りに目論見が進まない事に怒りでも感じている故か、赤き竜人の右腕を起点に圧し掛かってくる熊人形の怪物の腕力は更に強いものになっていた。  氷を靴の形で纏っている両足は、押し潰されないように踏ん張るのが精一杯――今このタイミングで更に攻撃を重ねられてしまったら、一度目のつばぜり合いとは異なり跳躍で回避する事も出来ない。  そうなるように、恐らく熊人形の怪物も強く圧力をかけてきているのだろう。  一見万事休すの状況――されど、赤き竜人の表情に絶望の色は無い。  今戦っているのは、自分だけではないと知っているからだ。 「ちっ……!!」  熊人形の怪物が、素早く追撃の手を加えようとするその寸前。  いつの間にか熊人形の怪物の右側面にまで移動していた兎耳に拳法着の少女が、熊人形の怪物の頭部目掛けて力強く跳躍した。  無論、彼女の存在については熊人形の怪物の方も意識には入れていただろう。  事実として、跳躍した兎耳の少女を阻むように、熊人形の怪物が発生させたと思わしき紫色の炎が進行方向上に存在しているのだから。  だが、兎耳の少女は動じることなくその両手に暖かな輝きを纏わせると、跳躍した勢いをそのままに自らに向かってくる紫色の炎を殴り散らし、同じく輝きを纏っていたその右脚を熊人形の怪物の頭に叩き込んでいた。  少女の脚に、かつて感じていた鉛のような重さが返ってくることは無く。  棄てられ廃れた街の残骸の上に、肉が潰れる水っぽい音の代わりに、バレーボールかサンドバックでも打ち付けるような音が響いていく。 「ぐ、お……っ!?」  先の流れにおいて通用する事の無かったその一撃は、輝きを伴ったことが影響してか、今度の今度こそ熊人形の怪物の口から呼吸の詰まるような声を漏らさせた。  放たれた蹴りの威力、あるいはそれに纏わりついていた輝きの力、あるいはその両方の影響からか、熊人形の怪物の頭部が綿を漏らしたぬいぐるみのよう容易く凹み、直後にその巨体が嘘のように二転三転する。  その姿を見やってから、足が地面に埋まるのではないかと思わんばかりの圧力から開放された赤き竜人は、両足と右手を地に着けて着地をした兎耳の少女と顔を見合わせ、互いに軽く頷いた。  ひび割れたアスファルトに熊の爪を突き立てる事で体勢を整えた熊人形の怪物は、 「調子に乗るんじゃあねぇッ!!」 「「――っ!?」」  怒声と共に、腹部に存在していた縫い糸を解けさせていた。  毒々しい緑色の『目』だけを覗かせていた人形の、そのハラワタとも呼べるものが曝け出される。  一言で言えば、それは闇だった。  人形の中身としてかくあるべき白綿などは形も見えず、代わりに不定形に蠢く闇が綿の代わりに人形の内側を満たしていた。  その中心部――一般的な人間の身長で言えば胸部にあたる高さ――に見える緑色の『目』が、さながら心臓のように蠢いているのを見ると、綿のような形を得ているように見える闇もまた血管や神経のそれを想起させる。  明らかに、現実の世界に存在する物質の類では無い。  最初から理解していた事ではあるが、これは想像を遥かに超えた怪物だ。 (……あの目って、もしかして……) 『ヤツの核……あるいは、本体とでも言うべきものだろうな。胴体とかを雷撃でブチ抜いても何ともなかったのは、そもそもあの体が「操るもの」でしか無かったのと、あんな濃密な「闇」の力に覆われていたからだろう。相殺されたのか受け流されたのかは知らんがな』 (あんな滅茶苦茶が当たり前って……リヴァイアモン、いったいどんな世界で生きてたの?) 『デジタルワールドだっつってんだろ』  見れば、中身を曝け出した腹部以外にも、熊人形の体に存在する他の縫い目の部分からも同じ闇色の綿が噴出しつつある。  それには光を遮る効果でも含んでいるのか、赤き竜人の目には周囲が少しずつ薄暗くなってきているように見えた。  ともあれ、リヴァイアモンの推理が正しければ、熊人形の怪物は自ら弱点を曝け出した事になる。  意図は知らないが、この機会を逃す手は無い――即座に司弩蒼矢は稲妻の剣を構え、その先端から雷撃を放っていく。  狙いは無論、曝け出された闇の中心に蠢き光る緑色の『目』だ。  しかし放たれた雷撃が『目』に直撃する前に、熊人形を満たす闇がさながら繭のように『目』を外側から覆い隠してしまい、雷撃はその進行を闇に阻まれる形でかき消されてしまう。  リヴァイアモンの言った通り、物理では説明出来ないあの『闇』の力には雷撃を防ぐほどの何かがあるらしい。  そして、蒼矢の行動に応じるように、中身を曝け出した熊人形――を操る本体と言える『目』の持ち主――の方にもまた新たな動きがあった。  飛び道具として周囲に出現させていた紫色の炎をそうしたように、中身を満たし弱点たる『目』を護るために生じさせていた『闇』を何らかの力で操り、縫い目や腹部より曝け出されたそれに先端が棘のように細い触手のような形を与えて、赤き竜人と兎耳の少女を襲わせ始めたのだ。 「ちょっ……何よ、第二形態とかそういうヤツ……!?」 「――っ!!」  突然放たれる未知にしておぞましき攻撃手段に、二人の人外の背筋に嫌でも悪寒が走る。  明らかに自由自在といった様子で伸縮し迫り来るそれに対し、赤き竜人は即座に口から氷の吹き矢を放つことで迎撃するが、次から次へと闇色の触手は熊人形のハラワタから新たに突き出てくる。  いくら迎撃そのものが可能だとしても、このままではジリ貧になるとしか思えない。  だが、赤き竜人はその場に踏みとどまり、氷の吹き矢と稲妻の剣から放つ雷撃でもって迫り来る闇色の触手を迎え撃つ事を選んだ。  先んじて決めた方針に習うように。 (何にしても、あの子の力が倒すのに必要なら、無理やりにでも押し切るしかない……!!) 『ああ、それで正解だ。いちいちビビってんなよ、こっちがやるべき事は変わらねぇんだからな』 「―――(頼む)!!」  回避のために動いても、どうせいつかは息が切れて追いつかれてしまう。  逃げるだけでは、根本的に勝ちの目に繋がる道には繋がらない。  むしろ、回避しきれないと解っているものを下手に回避しようとすればするほど、無駄に疲労は積み重なっていくばかりだ。  今必要なのは、あくまでもあの『闇』の力に対する有効打を持つ兎耳の少女にとっての突破口。  片方が迎撃に動く事で、もう片方にとっての突破口になるのであれば、迎撃の役を赤き竜人の方が担うのがこの場における最適解である事は間違い無い。  赤き竜人の呟くような声を獣毛を帯びたその長い耳で聞き取った兎耳の少女は既にその意図を汲み取り、回避のために動き回りながらも赤き竜人が作ると信じた空隙へ跳び出す機会を伺っている。  この日に会ったばかりの仲でありながら、 あるいは自分に出来ることを精一杯という一念で、窮地の中にある彼等は確かに信頼し合っていた。  しかし、ただでさえ肉体的に追い詰められている彼等に対して、熊の人形を操る闇の怪物は更なる一手を打ってくる。 「オラァァァアアアアアア!!」 「っ!?」  殆ど咆哮染みた声が飛んできたかと思えば、熊人形の――獣毛と鋭爪を携えた――左腕が千切れていたのだ。  その内側から漏れ出た『闇』によって縫い目が解かれる形で。  一見したその時点では、膨大な力を制御出来ずに自分で自分の得物を放棄してしまっただけのようにも見えたが。  縫い目から漏れ出ていた『闇』が千切れた左腕を覆い始めた事で、二人はその意図を知った。   先に放たれた闇色の触手を見れば解る通り、怪物が操る『闇』は伸縮自在の産物だ。  わざわざそれを用いて、千切れた左腕を繋ぎ合わせたということは。  即ち、 『――伸びてくるぞッ!!』  赤き竜人の頭の中で、リヴァイアモンが警告の声を発した直後、彼の言葉通りの出来事があった。  粘ついた闇に全体を覆われ、関節と言えるものがそもそも不定形になってしまったその左腕が真横になぞるような軌道でもって振るわれる。  熊人形の挙動に合わせてか鞭のようなしなりが加わったそれは、棄てられた建物の外壁をガガガガッ!! と削り砕きながら赤き竜人と兎耳の少女を薙ぎ払わんと急速に襲い来る。  伸縮自在なそれに対して、後方にただ跳躍するだけでは避けきれるとも限らない。  彼等に取れる選択は一つ――精一杯の力で跳び、縄跳びの要領でもって左腕を回避する事だった。  しかし、実際に跳んで回避した直後――まさに、彼等が地から離れたそのタイミングを狙っていたかのように、熊人形の腹部から生じる闇色の触手が伸びてくる。  着地は間に合わない。  殆ど反射的に口から氷の吹き矢を放ち迎撃しようとするが、咄嗟の行動故か精度が甘くなり、結果として撃ち漏らしてしまった二本の闇色の触手が赤き竜人の左肩と右脚にそれぞれ突き刺さってしまう。 「ぐっ……?」  鋭利な見た目をしていた割に、焼け付くような痛みは無かった。  が、ここに来て何の害も無いものを突き立てに来るとは思えない――着地しながらもそう思った赤き竜人は、即座に引き抜こうと稲妻の剣を携えた右手で闇色の触手を掴み取ろうとして、 「――が、ぁ……っ!?」  寸前で、その手が止まった。  赤き竜人の裂けた口から、息が詰まるような声が漏れる。  その体が、痺れでも感じているように得体の知れない震えを発していた。  速やかに闇色の触手を引き抜きたい、そんな彼の判断に反した体の動きだった。   (……これ、は……!!) 『……おいおい、マジかよ……』  赤き竜人自身、体を動かそうと意識はしているのだ。  しかし、その意思に反して体はただ震えるばかり。  闇色の触手を突き立てられた直後の、明らかな異常。  その正体を、宿りし怪物は速やかに看破し言葉とする。  明らかに、その事実に焦りを覚えた声色で。 『あの獣染みた体が、操るためのモノでしかなかったって解った時点でまさかとは思ったが……アイツ、あの野朗……闇のエネルギーを使って他者の体まで操れるってのか……!?』    最悪な回答がそこにあった。  自分の体に突き立てられた黒い触手、その真意に赤き竜人の背筋が急激に凍り付く。  明らかに自分の体の内部へと入り込んでいる触手の先端、その実態がどうなっているのかは全く解らないが、もしかすると現在進行形で植物の根のように張り巡らされているのかもしれない。  鋼鉄をも容易く溶かす炎よりも、それは遥かに恐怖というものを感じさせるものだった。  右手が、それに備え付けられている稲妻の剣が、竜人の意思とは関係無しに動き出す。 (まず、い……っ!!)  体の自由が利かないというだけでも致命的。  まして、相手の意のままに操られてしまうともなれば、嫌な予感は爆発的に膨らんだ。  熊人形を操る闇の怪物、それが所属しているらしい『組織』の目的は、司弩蒼矢の身柄の確保もそうだが彼の心変わりにこそあるらしい。  実際、先に戦った炎の魔人は彼が現在も護りたいと思っている少女――磯月波音を殺すことで『後押し』するとまで言っていた。  その言葉が適当に吐き出されたものではなく、更に目の前の闇の怪物の能力がリヴァイアモンの推測通りであれば、件の『組織』が司弩蒼矢に望んでいる心変わりが絶望や悲しみといった負の方面の意味を含んだものである事は明らかだ。  確かに現在、件の『組織』が司弩蒼矢の感情を負の方向に『後押し』させるために命を狙う磯月波音の身柄については、兎耳の少女が動いてくれたおかげで戦いに巻き込まれない場所に隠されてはいる。  しかし、何も磯月波音を殺害する事だけが絶望を抱かせる方法とは限らない。  例えば、何の事情も知らずにいながら純粋な善意で助けに来てくれた兎耳の少女を殺害されてしまう、とか。  それだって、心中に強い絶望を落とすには十分な案件だ。  意図が解りきっていても、そんな悲劇に耐えられる自信など司弩蒼矢は持ち合わせていない。  そもそも目の前で起きた悲劇を否定したいと思ったからこそ、決起したのだから。  まして、自分という存在が無ければあるいは『組織』に狙われることも無く平和に過ごせたかもしれない無関係の少女が死ぬという現実が、他ならぬ司弩蒼矢から放たれた攻撃によって引き起こされてしまったら。 「――っ!!」  そう思考した時点で、赤き竜人に取れる選択肢は一つだけだった。  目立った前触れも無く、赤き竜人の全身から青白い電光が迸り始め、脚を靴の形で覆っていた氷が速やかに弾け飛ぶ。  自らの体の各部に備え付けられた甲殻の鎧――それに内臓されている発電装置を、一斉に起動させたことで。  炎の魔人と戦った際には、その強靭な身体能力に対抗するために、全身の筋肉を電気刺激によって強制的に伸縮させ身体能力を飛躍的に向上させるために行った手段。  それを今度は、自らの体内に現在進行形で潜り込んで来る闇色の触手を駆逐するために用いているのだ。  実際問題、その対応自体は決して間違いでは無かったのかもしれない。  一泊を置いて、彼の体内に潜り込んでいた闇色の触手の影響が消えたのか、彼の体が得体の知れない震えを発することは無くなり、自らに突き立てられていた闇色の触手を引き抜くことにも成功したのだから。  しかし、直後に――その全身を激痛が貫いた。  闇の怪物が何かをしたわけではない。  これは、この場に来るより先んじて予見されていた話。  氷の靴など作って、滑って追いつかなければならなくなったそもそもの事情。  苦悶の表情を浮かべ、呻き声を漏らし、全身を痛みに奮わせる赤き竜人の脳裏に、焦りの色を含んだ怪物の言葉が走る。 『――っ、馬鹿野朗ッ!! お前、俺がさっき言った事を忘れたのか!? そんな必殺技レベルの電気を体に流したら、体の方が途端に駄目になっちまうぞ!!』 (それで構わない!! 今ここで、僕があの子を攻撃してしまうようになるよりは……!!) 『体がいっそ駄目になってしまえば操られないって思ったのか? 馬鹿、あの野朗は元々中身があるかも定かじゃないガワを操ってたんだぞ!? 体が駄目になった所で、ヤツがお前の事を操れなくなるなんて確証が何処にあった!?』 (だったら、体が動かせなくなる前に決着を付ければいい……!! たとえ、もう二度と手足が動かせなくなるかもしれなくても、今ここで彼女達が殺されてしまうよりはずっとマシだッ!!) 『……っ……!!』  司弩蒼矢とリヴァイアモン。  彼等の思考は、あるいはどちらも間違ってはいなかったのかもしれない。  ただ、安全と言える選択肢が存在しなかっただけで。  リスク抜きでは打開が出来ないほどに追い詰められてしまった故の、結果でしか無いのだから。   「っ、ぐぅっ……!!」 「――っ、ちょっとアンタ、大丈夫なの!?」  痛みを背負う事は覚悟していた。  だが、どれだけ激痛を背負っても体の動きはどこかぎこちなく。  とても、動き回って戦うなんて事は出来ないような状態になっていた。  そして、そんな彼に対して――闇の怪物は、容赦をしなかった。 「――ははっ!! わざわざ自滅してくれるとはなぁ!!」  彼が操る熊の人形――その頭部に存在する口が、闇色の綿のようなものを開いた腹の前方に漏らしながら生物的に開く。  見る見る内に、漏れ出た闇色の綿の外側から少しずつ紫色の炎が生じ、やがてそれは全体的な形を球体の形に整えられながら肥大化していく。  司弩蒼矢の目には、それが爆弾、あるいは砲弾のように見えた。  結果的に動きが鈍くなってしまった自分の抵抗するための力を、決定的に叩き折るためのものだとも。 「させ――っ!?」 「……っ!!」  マトモに動けない蒼矢の姿と、口から何か恐ろしい攻撃を放とうとしている熊人形を交互に見て、即座に兎耳の少女は熊人形の頭部目掛けて跳び出そうとした。  しかし、その直前に一度振り切られた熊人形の闇の左腕が再度動き出し、目の前の危機に視野を狭めてしまった兎耳の少女の体を一薙ぎしてしまう。  鈍い音と共に、少女の体が強く打ち飛ばされる。 「いい加減目障りなんだよ、メスガキ風情が」  その様に目を見開いた赤き竜人が手を伸ばそうとしたが、体は思い通りには動いてくれず、結果として兎耳の少女の体は赤き竜人のすぐ傍にまで転がり込む事になってしまった。  ここに来て、その位置関係が偶然のものであるなどとは考えない。  恐らく、熊の人形を操る闇色の怪物は、赤き竜人に対して放つ攻撃に兎耳の少女を巻き込むために、わざと赤き竜人のすぐ傍に吹き飛ばしたのだ。   「くっ……」  痛烈な一撃を受けた直後で、痛みに悶える兎耳の少女はすぐには動き出せない。  可能であれば赤き竜人がすぐさま少女を担いで動けば良いだけの話なのだが、重度の電気刺激によって決定的にダメージを蓄積させている足ではそもそも自分一人で移動する事さえ難しい。  迎撃以外の選択肢など、無いに等しかった。  歯を食い縛り、痛みに震える腕を動かし、稲妻の剣を構える赤き竜人の目の前で。  その体躯の三分の二ほどの大きさはあろう、黒いハートの形を成した砲弾を作成した怪物が、冷徹な声色で告げる。 「さぁて、これで最後だ……心身共に折れやがれ――オーバーフロー・ハートブレイクッ!!」  暗黒の心臓が、殆ど真正面に近い角度から飛来する。  それに対して赤き竜人は稲妻の剣の剣先を向け、真っ向から必殺の言霊と共に対抗した。 「サンダージャベリンッ!!」  稲妻の剣から放たれた青白い雷撃が、心臓でも模したような暗黒の砲弾の中心――より僅かに下方を捉える。  が、稲妻は暗黒の砲弾を散らす事も貫く事もなく、少しずつではあるが暗黒の砲弾の方が雷撃を掻き消しながら赤き竜人の立つ方へと近づいて来ている。   「ぐおおおおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」  己を奮い立たせるように、赤き竜人が獣のように咆哮する。  その全身各部に備え付けられた甲殻の鎧から、雷撃と同じ青白い電流が漏れる。  同時、彼の闘志に応えるかのように、稲妻の剣より放出される電流がより太いものになる。  だが、それでも足りない。  巨大な暗黒の砲弾に対抗するには、足りていない。  暗黒の砲弾は、確実に標的への着弾までの距離を縮めつつあった。  全身を、引き裂くような激痛が苛む。  これ以上は止めろと、他ならぬ彼の体の方が訴えてくる。  それでも、赤き竜人はその場から一歩も退かず、全身に迸る力を一本の槍とした雷を放ち続ける。 (それでも……それでも、今ここで諦めるわけにはいかないんだ!!)  何故なら、彼のすぐ傍には倒れ伏した少女の姿がある。  少し前にも、彼は同じような状態に追い込まれた少女の姿を見ていた。  だから、 (誰も……誰一人も……!!)  絶対に許容するわけにはいかない。  ここで、屈してしまうわけにはいかない。  例え、どんなに重い代償を払う事になるとしても。   「傷付けさせて……たまるかァァァあああああああああああああ!!!!!」  しかし、現実は非常だった。  どんなに強い思いを胸に抱いていても、結果として暗黒の砲弾はジリジリと詰め寄ってくる。  折れてしまうわけにはいかないと思っていても、勝手に右の膝が折れて地に着いてしまう。  せめて逃げてくれと、赤き竜人は声も無く至近の少女に祈っていた。  彼女さえ無事に済めば、あの闇の怪物を打倒出来る可能性はあると考えられて。  一方で、自分達の力ではもう太刀打ち出来ないと、心のどこかで諦め始めてしまっていたから。    そうして、暗黒の砲弾は迫り続け。  最早、間合いにして5メートルも無くなって。  無理か、と自らの無力さに歯を食い縛って。  そして、直後に。 「ぐっ、おおおおおおおおおおおおおお!!」  至近で、叫び声が聞こえた。  次いで、自らの右腕に何かが触れる感触があった。  赤き竜人は、決して逸らさぬべきだと決めて暗黒の砲弾へと向けていた視線を逸らし、右腕の感触の正体を確かめた。  そして、赤き竜人は息を詰まらせた。  膨大な電気を帯びた赤き竜人の右腕に触れたものの正体――それは、痛みに悶えて倒れ伏していたはずの兎耳の少女の、その両手だった。  見れば、彼女は赤き竜人と同じく片膝を地に着けた状態で、闘志を宿した目をこちらに向けている。  赤き竜人には、まず彼女の行動が信じられなかった。  砲弾の攻撃範囲の外に逃げているのなら理解が出来た。  だが、砲弾の攻撃範囲から逃げもせず、ましてや人間発電機状態の赤き竜人の体に触れようなどとは、流石に理解を得ることが出来なかった。  追い詰められた状況も忘れて、赤き竜人は兎耳に拳法着の少女に言葉を放つ。   「ちょっ……駄目だ!! 見て解らなかったのか!? 今の僕の体には電気が通ってて……!! それに、君がこんな近くにいたらアレに巻き込まれるんだぞ!?」 「わかってる、わよ……そんなこと!!」  応じる声には、苦悶の色が混じっていた。  明らかに、腕伝いに流れてくる電流に苦痛を感じている様子だ。  しかし、彼女は自らの痛みにも構わず言葉を紡いだ。 「アンタは言った!! 自分達が帰るべきだと、きっと誰かが待っている場所に行こうって!! だったら自己犠牲なんて絶対に考えるんじゃないわよ!! 吐いた唾を呑んでんじゃないわよ!! そうやって取り残された人は、寂しく泣いて生きていくしか無いんだから!!」 「っ」  その言葉には、明らかな実感が篭っていた。  取り残される寂しさを、失う悲しさを、知っている声だと思った。  自分なんかよりもずっと辛く苦しい目に遭った事があるに違い無いとも、思った。  そして、   「そしてあたしも言った。絶対、独りになんてさせないって!!」  その言葉の直後に、変化があった。  赤き竜人の右腕を掴む少女の両手に輝きが灯り、それは瞬く間に赤き竜人の右腕を伝い全身までも包み込み始める。  恐らくは、リヴァイアモンが『聖なる力』と呼んだものと同じもの――それが、赤き竜人の体に伝播していく。  心地良さ、と言えるものを感じる。  少しずつ、全身の痛みが緩和されていくのが解る。 『これは……確かに「聖なる力」なはずだが、治癒の効果も混じってる……のか?』 「……君は……」 「だから、この手は離さない。絶対に!! 手を繋ぐって、ただそれだけの事で救えるものがある事を、私は知ってるんだから!!」  実のところ。  少女は自分が行使している力の事を、詳しくは理解していなかっただろう。  自身の手足から生じる光が、司弩蒼矢に対してリヴァイアモンが語った『聖なる力』であるという事さえも。  あくまでも、目の前の敵が用いる『闇』に対して有効だという事ぐらいしか、理解は及んでいない。  だが、それでも――少女は祈っていた。  この光輝く力が、悪党を倒すためだけのものじゃなくて、傷付いた誰かを助けられるような優しい力でありますようにと。  結果として、少女の祈りに力は応えた。  暖かな光は、自らの力でもって傷付いていた赤き竜人の体を癒し、治していくだけには留まらず、赤き竜人の全身を伝う青白い雷と混ざり合っていく。  青と白の色彩が、闇を祓うが如き朝焼けの色彩に転じる。  二人の力が一つに合わさり成果を成す。 「……ごめん、つい弱気になってた」 「解ったら、力を合わせるのよ。具体的な理屈なんて知らない。だけどきっと、信じればどうにかなるから!!」 「ああ!!」  暗黒の砲弾に距離を詰め寄られつつある状況の中、司弩蒼矢は思わず笑みを浮かべていた。  つい少し前に自分が言い放った決意を、いくら追い詰められたからって簡単に曲げそうになってしまっていたなんて、根性無しにも程がある。  心変わりの力を持つ怪物が作り出した闇色の触手を、一時的にでも体に突き立てられていた影響だろうか――強く奮い立たせていたはずの心が、無意識の内に少し脆くなってしまっていたのかもしれない。  暗く落ち込みかけた心は、少女の光が照らされ明るさを取り戻す。  聖なる力を有する兎耳の少女を巻き込んだ雷の力の奔流は、暗黒の砲弾と僅かに拮抗し――やがて、押し返し始めた。 「な――ッ!?」  ここに来て。  自らの力が押し負け始めたという事実に、闇の怪物は絶句していた。  彼が用いる『闇』の――厄や呪いとも呼べる――力は、言ってしまえば怒りや悲しみといった負の感情、もしくは悪意を燃料とした力であり、自らの思い通りにいかない現実に対する苛立ちを起点としたその力は戦いの中で自然と増大していくものだった。  負けるわけが無い。  つい少し前に力を得たばかりの、成り立ての二人に劣る要素など何処にも無いはずだ。  なのに。  なのに!!  なのに!!!!! 「馬鹿な……あんな、ガキ共に……俺が負けるってのか……っ!?」  暗黒の砲弾が、少しずつ歪められていく。  黒と紫の闇に染め上がった球体に朝焼けの色が混じり、輝きが暗黒を侵略する。  そして、 「「いけえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!」」  少年と少女の叫びが響いたと同時。  暗黒は拓かれ、閃光が闇の怪物の『目』を貫いた。  絶叫さえも雷鳴に掻き消され、闇の怪物の意識は光に溶けていく。  ◆ ◆ ◆ ◆
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ユキサーン
2021年11月07日
In デジモン創作サロン
 十月三十一日――ハロウィン当日。  社会人――それも、食品を取り扱う企業に勤める者――にとって、ハロウィンとは子供に菓子を求められる日であると同時に、クリスマスやバレンタインと並んである種の戦争が勃発する時期である。  即ち、他の売り場よりも多くの顧客を呼び込めるかどうか、そうして結果としてどれだけ儲けられるかどうかの売買戦争。  売り手側は顧客が商品を買いたくなるようにするため、様々な手段を講じるものだ。  ビラ配りを始めとし、割引クーポンの配布に期間限定商品の販売などなど――その他の平時の商品管理なども並行して行いながら。  そういうわけで、スーパーやらマートやらの販売業の従業員たる人物が、ハロウィンで実際に子供達と触れ合う機会はほとんど無い、はずだった。  が、今年――しがない従業員の一人にして独身男性こと餡郷忍《あんごうしのぶ》が任された業務は、これまで経験してきたことの無いものだった。  即ち、 「俺が、着ぐるみの広告係……ですか?」 「そうそう。ハロウィンなんだ、ピッタリな業務だろう?」 「いや、確かにそうだとは思うんですけど……」    やけに軽快な語り口で説明をしているのは、彼の上司にあたる人物だった。  彼が告げた今回の業務は、言葉の通り――着ぐるみを着ながら子供達に菓子を渡し、売り場の広告宣伝にあたる事。  上司の指示である以上は逆らえないが、それはそれとして疑問の残る要素があり、 「えっと、本当に町中を歩き回って大丈夫なんですか? その、着ぐるみ装備で?」 「大丈夫大丈夫。今日はハロウィンだよ? 仮装している人はたくさんいる。中には気ぐるみを着ている人もいると思うし、雰囲気に溶け込む意味でもなんら問題は無いさ」 「いやそれも確かに気になりますけど、大丈夫なんですか? 着ぐるみって、前とか見えないし動きづらいしで滅茶苦茶不便なイメージあるんですけど。普通に制服を飾るのとかは……」 「今時そんな手抜きじゃ子供の客さえ引けないよ? ちゃんと前が見えるものにはしてるし、動くことについてもまぁ慣れていくはずだよ。ちゃんとボーナスもツケておくし、どうかな?」  余程のブラックな案件でも無い限り、ボーナスという単語には弱いのが社会人という人種である。  そもそもが上司からの指示であるということもあり、立場的にも逆らうことが難しい話だったりするわけで、忍は「まぁいいか」と内心で呟きつつ了承することにしていた。  そして、同じ事を任されることになった別の従業員共々、それなりに大きな着ぐるみを託されることになって。  従業員用に並べられたロッカーの前にて、手渡された着ぐるみを従業員用の制服の上から纏っていく。  今回の業務は他にも5名ほどの従業員が任されることになっているらしく、皆もそれぞれ異なる――恐竜やら動物やらを模したキャラ物の着ぐるみを身に纏っていた。 「あ、キャラとかは特に意識せずに喋ったりしてもいいから。喋れないと宣伝も出来ないわけだからね」 「それはそれで逆に意識しちゃうんですけど……?」  忍が着ているのは、クリーム色の毛並みをしており、ぽっちゃりとした太めの体系とすごく長い耳が特徴的な、なんというか白熊と兎を混ぜたような印象を抱くキャラの着ぐるみだった。  目元の部分は毛皮で少し隠れるような造形になっていて、視界の確保が為されているのかどうか外見だと怪しいところだった。  どういう意図の飾りか、アクセサリーとして耳の根元と両肩の辺りに黒いベルトが巻き付けられてもいる。  カッコいい路線? 可愛い路線? などと思いながら着ぐるみを纏った忍は、他の従業員達と共にハロウィンの街中――その内の、自らの持ち場――へとぎこちない足取りで入り込んでいく。    時刻は午後6時半頃。  夕食を終えた子供達が、わいわいがやがやと保護者同伴で夕焼けに染まった空の下を歩き回る時刻だ。  田舎ではどうなっているのか知らないが、都市には人だかりが多く、それ故に着ぐるみを纏った身では予想通りとても動きづらいものだった。  幸いなのは、上司の言った通り不思議と視界は確保出来ていることぐらいか。  やけに踵からつま先までが伸びた足の運びに四苦八苦しながら歩いていると、着ぐるみに気を惹かれたのか小学生と思わしき少年(魔法使いのような帽子を被っている)が一人、忍に対してハロウィン定番の挨拶を口にした。 「トリック・オア・トリート!!」 「とりっくおあとりーとー!!」 「うん、どうぞ。はい、どうぞ」  一人が口にすると、それに示し合わされるようにして他の子供達も同じ文言を口にしていた。  忍は着ぐるみの右腕にぶら下げるようにしていた白い袋、その中にあったお菓子を一つずつ、定番の挨拶を行った少年に手渡す。  菓子は店のチラシ(割引クーポン付き)によって花束でも形作るように包まれており、同じものがバスケットの中にはたくさん入っている。  遊園地の着ぐるみ従業員が持つものが基本的に風船であることを考えると、これもこれで中々にハードな部類だと言える。  これが些か肌寒さを感じる秋空の下ではなく、日光の降り注ぐ夏空の下でのことであったら尚更だ。  幸いにも、制服越しに着ているにも関わらず、蒸し暑さのようなものを感じることはなかったが。   (ある程度回って、菓子を全部渡しきったらひとまず戻っていいって話だったっけ……)  やること自体は単純であるため、おのずと暇になる時間もそれなりにある。  今時、定番の挨拶を口にする子供も、そこまで多いわけでは無く。  時間的にも暗くなる頃、親に外出そのものを止められている子供だって少なくはない。  近頃の日本は治安が良いとは言い切れないため、その判断は概ね間違ってもいないことを、忍は知っていた。  作業以外のことに思考を回すことが出来るだけの余裕があり、だからこそ彼は気ぐるみの視界で拾いきれる範囲だけでも街中の様子を窺い知ることが出来ていて。  故に、彼がそれに気づくことが出来たのは当然のことだと言えた。  夕焼けが衰え、夜の闇が都市を覆わんとした頃のことだ。  わいわいがやがやとした人並みの中、一際目立つ一団の姿が忍の視界に見えた。  恐らくは目立ちたがりの類だろう、多少はハロウィンの仮装でも意識したのか、バイクの左右に顔の形に見えるようくり貫いたカボチャに灯りを仕込んだもの――いわゆるジャック・オー・ランタンと思わしき何かをいくつもぶら下げ、バイクそのものにも悪霊染みた絵柄の塗装が為された、俗に言うところの痛車と呼ばれる類のバイクに乗っている集団だった。  全員共通して骸骨を燃したようなヘルメットを被っており、意図してエンジンの音を大きく鳴らしまくっていることから考えても、暴走族の類であろうことは容易に想像がついた。  毎年、高確率でこの手の馬鹿は現れる。  暇なのか存在感をアピールしたいのか、主な目的が何かは知らないが、うるさくてうるさくて仕方がない。  やけに鼓膜に響くその音に不快感を覚えながらも、無視することも出来ずにバイクの群れの行き先を目で追っていると、そこで思わず息を飲んだ。  見れば、大人達から貰ったのであろう菓子の包みを落としてしまったのか、車道の端の辺りに一人の少年が入り込んでしまっていた。  騒音、あるいは人込みの所為か、母と思わしき女性は子供の危険な足取りに気付くのに遅れてしまっている。  気付き、手に持った荷物も捨てて子供を抱きかかえて車道から引き離そうと動いた時には、バイクの群れと子供の距離はかなり縮まってしまっており、母の抱きかかえる手が間に合ったとしても、母ごと跳ね飛ばされかねない。  暴走バイクは各々密集しており、その速度から考えても子供や母親を器用に避けたり出来るとは思えず、何より各々が取り付けているジャック・オー・ランタンの灯りの影響で視界そのものが満足に取れているのかも定かではない。 「!!」    そこまでの事を、不思議にも瞬間的に知覚して。  まずい、と他人事であるにも関わらず危機感を覚えて。  直後、忍の体は思わず動いていた。    ぴょん、と。  軽い調子で、さながら跳ぶかのようにその体が僅かに浮くと、凄まじい速度で車道に踏み込んでしまった子供と母親、その間に割って入る。  半ば無我夢中で、忍は着ぐるみの大きな腕で子供と母親の体を抱き、そのまま再度跳躍した。  一瞬で街路樹を飛び越えるほど高さに至り、僅かな浮遊感の後にどしりと着地をする。  自重と落下速度に伴う衝撃が着ぐるみ越しの忍の足のみに伝わるが、それによって骨が折れたりなどすることはなく、本当に何事も無かった様子で忍は子供に対して自然とこう聞いていた。 「大丈夫?」 「う、うん。大丈夫!!」  流石に自分の身を襲わんとした危機については気付いていたのか、あるいは着ぐるみを纏った忍の顔が急に視界に現れたためか、明らかに緊張した様子で少年は問いに返事を返していた。  母親も同じような反応を見せていたが、子供の無事を確認すると現実を確認するように抱き締め、忍に対して感謝の言葉を述べていた。  そうした反応をその目で確認して、子供と母親が無事で済んだことを知覚してから、 (……あれ?)  遅れて、疑問を覚えた。  今、自分は何で子供と母親を助ける事が出来たんだろう、と。  同時に、その行動を成し遂げられた、成し遂げようとした事実そのものを、心の何処かで当然のことだとも思った。  二つの相反する感想が頭の中を巡っていて、されど疑問に答えを出せずにいると、母親の腕の中から出た少年(狼の被り物をしている)がこんな事を聞いてきた。 「ありがとうございます、えぇと……なんて名前なんですか?」  名前、というのが着ぐるみのキャラクターの名前の事を指していることは察しがついていた。  だが、彼は上司の男から着ぐるみのキャラクターの名前を何も知らされてはいなかった。  本名で名乗るのは色々な意味で駄目だと思える――と、そこまで考えて、彼はふとこう思った。    あれ。  僕の名前、なんだっけ? (あん……ご……えぇと、あんごらしのぶ……だったっけ。いや、なんか違う気がする……えぇと……) 「――ごめん。それは言えないんだ」  記憶がどこかあやふやになっている気がして、結局彼はそうとしか答えられなかった。  返事を聞いた少年は、着ぐるみを纏った彼に対してこう返してくる。 「うーん……じゃあ、もふもふさん!! たすけてくれてありがとう!! えぇと……そうだ、お礼に僕のお菓子を……」 「気持ちだけ受け取っておくよ。それは、後で君達が楽しむべきものだからね」  我ながら、やけに格好つけた台詞が出たなと内心で呟いてから、着ぐるみの彼は少年と母親の元から離れていく。  経緯から考えても仕方のない事だが、少年達を助ける過程で道にいくつかハロウィン用の菓子包みを落としてしまっていて、彼はまずそれを拾うことを優先する必要があったのだ。  一つ二つと取っていき、見える範囲の菓子を回収し終えて。  彼はふと、少年の言葉を反芻していた。 (もふもふさん、か)    どこかふわふわした思考のまま、彼はこんな風に想った。 (……確かに、僕の毛皮はかなり厚いしね。そういう風に呼ばれるのが普通、なのかな)  いつの間にか、視界はとても開けて見えるようになっていた。  足運びに困ることはなくなり、太った体型に反して体はとても軽いように感じられている。  夜風が心地良い。  不快なものがあるとすれば、先の一団が反省もせずに鳴らしていると思わしきバイクのエンジン音が、未だにその耳を刺していることぐらい。   (……まぁ、ああいうのは関わるだけ無駄だし。また同じ事になったら話は別だけど……)  不快に思いながら、されど特に関心を持つことはなく。 (……それにしても良かった、僕の手が間に合って。人間の体は脆いからなぁ……)  彼は多くの宣伝用菓子包みが入った袋を軽々と右肩に担ぎ上げながら、ハロウィンの街中を再び歩いていく。  同日夜中、迷惑極まりない目立ちたがりのチンピラを病院送りにする不思議な生き物の姿が多くの人間の目に入ったりして。  それ以外にも色々な、異なる姿の不思議な生き物の姿が確認されて。  それ等は結果として、ある種の見世物のように扱われ、ハロウィンを盛り上げる一因となったりしたという。  そうして、街の人だかりが薄まってきた頃。  もふもふさん、と呼ばれた彼はとある建物の上で休んでいた。  見れば、その右肩に担がれていた袋の中から菓子包みはなくなっており、それは即ち彼の業務がひとまず終わったことを意味していた。   「ふわぁ……」 (……流石に、眠くなってきたなぁ……)  仕事は終わった。  であれば、 (……戻らないと、いけないんだったな……)  大きな手で目元を擦り、光の消えつつある街中を覗き見る。  数多に人の住まう場所、通う場所が見えていた。  まどろむ意識の中、ぼんやりと思考をして、そうして彼は戻るべき場所を思い出す。  自然と、それが当然の事であるように、一切の疑問を覚えることなく。 「……行こ……」    そうして、彼は跳んでいった。  頭から伸びる長い耳、それをプロペラのような形に高速で回転させながら。  此処ではない、何処かへと向かって。  
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ユキサーン
2021年10月23日
In デジモン創作サロン
 いつからか、テレビで見るような怪物なんて、現実にも珍しいものではなくなった。  基本的にほぼ毎日、世界上に怪物と呼べる存在は観測され、それは基本的に現れたその日の内に街の中を好き放題暴れまわり、そうして最後には霧のようにその姿を消すばかりだ。  結果として、幾度となく現れる怪物に対抗するため、自衛隊や警察といった民衆を守るための組織、それの扱う『手段』もまた強く頼れるものになっていった。  そして、ある頃から――怪物の存在は、一部の民衆の間である種の娯楽となっていた。  少なくとも、対岸の火事としてテレビやパソコンの画面越しに見る分には、怪物が街中を暴れまわる様は、特撮のそれとは比較にもならない迫力を有した退屈とは無縁の世界を見ることが出来る機会に他ならない。  なまじ、自衛隊などの組織の努力によって人死にが滅多に起こっていない事実もまた、そうした風潮を加速させてしまっているのかもしれなかった。  しかし、そうした『慣れ』が根付いている一方で、誰も知らない事が一つある。  そもそも怪物は何処からやって来ているのか。  何処で、どのようにして生まれ、何のために街で暴れまわっているのか。  怪物達は多種多用な姿でもって現れているが、基本的にそれ等が街中以外で確認された事は無い。  街の中で現れるという事は、街の中に原因があるはずだ。  しかしそれはいったい何なのか。  真相は、誰もが考えているより近くに存在しているのかもしれなかった。  例えばそれは、街中にひっそり建てられた小道具屋やトレーニングジム、あるいはスイーツ店だったり。  そして、とある会社のいち会社員の手の中にあるものだったり。 「……はぁ……」  時は深夜帯。  この日、その会社員――|藍川徳《あいかわのぼる》は疲れきった目で夜空を眺めていた。  彼の勤めている会社は、世間で言うところのブラック企業だった。  |無給《サービス》残業は当たり前、給料は法で定められた最低ラインの限界ギリギリ、何より業務を遂行した社員を労おうともせず疲れを吐露する言葉に対しては「根性が足りん」の一言。  率直に言って、最初からこんな会社だと知っていたら、彼は入社しようなんて考えなかった。  だが、現実に彼はこの会社の会社員として勤める事を選んでしまい、だからこうして疲れた顔をする羽目になっている。  退職する、という選択肢が頭の中にありこそすれど、なかなか決断に踏み切ることも出来ないまま時間と疲ればかりが蓄積して。  今日もまた、上司の指示によって一人残業する羽目になってしまっていた。  もう外には暗闇しか見えず、間違い無く終電だって過ぎている。  今日はもう、会社内にあるソファでも借りて寝付く以外に無いだろう。  だが、まだ上司に押し付けられた作業は残っている。  本音を言えば放り投げてしまいたいが、そうしたら上司からどんな嫌味を叩きつけられるか解ったものではない。  そう思うと、眠ってしまうのも怖くなった。  叩きつけられる言葉が耳を貸す意味も気にする必要の無いものだと解っていても、怖くなった。  あるいは、そんな臆病を見透かされたからこそ、彼は社内でスケープゴート扱いされていたのかもしれない。  でもって。  現在、彼は会社の屋上で夜空を眺めていた。  まだ押し付けられた業務は完遂出来ていないが、デスクワークを続けている内に眠気が強くなってきて、夜風に当たらないとすぐにでも眠ってしまいそうだったため、此処に来たのだ。  その右手は会社のすぐ近くにあった自販機で事前に購入しておいた、エナジードリンクの缶を掴んでいる。  ラベルは澄み切った青色で、大きな文字で『D』と書かれたものだった。   (…………)    彼の耳を、羽音が叩く。  闇に紛れてろくに見えないが、こんな深夜でも空を舞う鳥はいるらしい。   (……いいなぁ……)  咄嗟に、そう思った。  地べたで社会に縛られた自分と比べ、鳥たちは籠の中に入れられない限りどこまでも自由だ。  あんな風に飛んでいけたら、誰の手にも捕らえられることの無い場所で自由に生きることが出来たのなら――と、そう思わずにはいられなかった。  だが、現実が変わることは無い。  自分は人間として生まれたのだから、人間の社会の中で限られた自由を謳歌するしか無い、と。  そう思うしかなかった。  嫌に憂鬱な気分になった気分を吹き飛ばそうとするように、彼はおもむろに右手に持ったエナジードリンク缶の蓋を開ける。  炭酸飲料特有のシュワシュワ音が鳴り止まぬ内に、いやむしろその音ごと飲み込もうとするように、彼はエナジードリンクを自らの喉に注ぎ込む。  口の中をバチバチと静電気に当たったような刺激が伝わっていき、体を蝕む疲れを忘れさせようとする。    それだけのはずだった。  それが普通のエナジードリンクであれば、それだけで済む話だった。  だが、現実にそうはならなかった。 「――――」  缶の中身を空にした途端、意識が急激にまどろむ。  眠気を吹き飛ばすために飲み込んだ物のはずが、逆に眠気を呼び覚ましている――最初は飲んだ当人たる藍川自身、最初はそう思った。  だが、そんな思考も何処かふわふわとした感覚と共に曖昧になり、彼はふらふらと後方によろめきながら――ビルの屋上で仰向けに倒れた。  その体からバチバチと電気のような何かが漏れ出たかと思えば、彼の輪郭がノイズのような何かに覆われると共に歪み出していく。    彼は自分自身の変化に気付かない。  その頭の中を埋め尽くすのはただただ爽快感、気持ち良さだけだ。  全身が無数の泡にでもなったように軽く感じられる。  実際に彼の体は人の形を取っただけの無数のノイズと化し、他の誰の目も無い屋上で、どんどんその規模を増していく。  そうしてやがて、人間だった無数のノイズは肥大化しながら、やがて一つの形へと整えられていく。  まず最初に形を成したのは胴体だった。  見えるのは発達した胸筋と、それを覆う漆黒の炎帯びし羽毛。  二つ目に形を成したのは、両腕とも呼ぶべき部位。  身の丈ほどはあろう規模の、胴体と同じく漆黒の炎翼。  三つ目に形を成したのは、下半身だった。  鱗に覆われた強靭な鉤爪に、尻尾のような一本の尾羽。  最後に形を成したのは、頭部だった。  先端に牙を有した歪な嘴、角のように長く伸びた飾り羽。    漆黒に燃える、牙持つ巨鳥――そうとしか呼べない姿に、人間一人が成り果てた。  そんな現象の引き金を、誰もが困った時には手を伸ばすものが引いた事実を、いったい誰が信じられるだろうか。  あるいは、信じられないからこそ、こんな現象がいつまでもいつまでも起き続けているのかもしれなかった。  巨鳥の目が開く。  その色は黄色く、瞳孔は縦に細い獣のそれになっていた。  仰向けに倒れた姿勢からどうにか起き上がり、巨鳥は引き寄せられるように夜空に煌めく月を見る。     ――綺麗だ。  一歩一歩進み、あっという間に屋上の端の柵を右の鍵爪が掴む。  もう片方の鍵爪もまた柵を鷲掴みにし、殆ど直立の姿勢になった巨鳥は両翼を広げ、  ――風が気持ちいい。  一息に飛翔した。  その体が夜の闇へと溶け込むと、やがて見えなくなる。  彼の姿を見る事が出来たのは、月と彼の同類のみ。  後日、行方不明者として一人の人間の名前が加えられることになったが、その事件と屋上に捨て置かれたエナジードリンクの缶が紐付けられることは無かった。
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ユキサーン
2021年10月21日
In デジモン創作サロン
 秋という季節は、夏のように特別暑いわけでもなければ、冬のように身を凍えさせる寒さがあるわけでも無い、春と並んで一年の中で人間の過ごしやすい季節として位置づけられている。  故にこそか、いつからか秋という季節には様々な言葉がくっ付けられるようになっていた。  曰く、芸術の秋だとか。  曰く、読書の秋だとか。  曰く、睡眠の秋だとか。  もはや秋という季節そのものが行いの言い訳になっている気がしないでもないが、そうしたくっ付け言葉の中で最も有名どころなものと言えば、 「食欲の秋だよな!!」 「スポーツの秋であるべきじゃねぇの? お前の場合」 「少なくとも今はやだよ」  都内某所にて。  何処かの高校のものであろう学生服を着た少年二人が言葉を交わしていた。  食欲の秋と口に出したのは明らかに太り気味な腹の出方をした少年の名は飯田健《いいだつよし》といい、スポーツの秋と口に出したのはどちらかと言えば平均的な体型をした少年の名を天史琢哉《あましたくや》という。  彼等はこの日、既に高校での授業を終え、下校の道中にあって。  共に帰宅部の身の上、彼等には帰り道に寄り道をする程度の時間があり、そして特別な理由もなく帰り道を共にする程度の仲があった。  主に飯田の方が歩く最中に何処に寄り道しようかと提案し、天史の方がそれに付き合う形になっている。  とはいえ、この日の提案は少し変わっていた。  飯田は下校中に天史の姿を見るや否や、いきなりこう切り出してきたのだ。  そういえば俺たち秋らしいこと何もしてないよな、秋と言えば色々あると思うけどやっぱり一番に語るべきは「食欲の秋だよな!!」と。 「で、何だ? いきなり食欲の秋って。色々唐突だし秋だから特別ってわけでも無いだろ。お前の場合」 「えー、でも実際そうじゃんかよー。秋っつったらハロウィンといい何といい美味いものが滅茶苦茶量産される時期じゃん。実際そういう風習にかこつけてセールやってる店だって多いじゃん!! やっぱりさぁ、俺たちって学生だからさぁ、たまにはしっかり美味いもん食って英気を養うべきだと思うわけよ!!」 「で、それに俺が付き合わせようとしてる理由は?」 「一秒で本音を吐かせに掛かるのやめない?」 「俺と絡んでる絡んでない関係なく色々食ってるだろ、お前の場合」  天史がそう返すと、飯田はズボンの右ポケットの中のスマートフォンを取り出し、一つの画面を天史に見せつけながらこう答えた。 「最近さ、近くに新しいスイーツ店が出来たんだよ。既にネットの方でも大々的に宣伝されてる」 「……それで?」 「どういう意図かは知らんけど、友達連れで来店するとスイーツが割安で食えるセールがあるみたいなんだよ。高く食うよりは安く食いたいしさ、お前だって得をするわけだしどうよ?」 「得をするも何もこれ俺の分は俺が払うわけだよな?」 「当たり前じゃないかね琢哉クン。タダより高いモンは無いんだぜ?」    と、どうやら今回の飯田は天史のことを割引クーポン扱いにするつもりだったらしい。  率直に言ってその事実に関しては良い気分にはならないが、それはそれとして割安で美味しいものを食べられるという話は天史としても悪い話ではなかった。  学生の小遣い換算で「安い」と言えるかどうかまでは知らないが、余程の値段でもない限りは付き合ってやるか――などと思いながらひとまず承諾すると、飯田についていく形で天史は歩いていく。  十分ほど歩いて辿り着いたのは横長に広い、スイーツ店というよりはバイキング店のそれを想わせる構造の、紅茶のカップのような外観の建物だった。  飯田のスマートフォンで見せてもらった画像と、傍の景色も含めて一致している。  どうやらこの場所が目的のスイーツ店らしかった。 (ここが……) 「よーっし、着いた着いた。さぁ食うぞぉ!!」 「わざわざ声に出す事かよ。恥ずかしくないのか?」 「こんな事で恥ずかしがってたら人生やってられねぇよ!!」  名前を「ハッピーハウス」と呼ぶらしいその店の入り口、そこに見えるドアを開いて中へと入る。  白を基本色とした外側の見た目とは裏腹に、内装は何処か上品さを想わせる紅色の壁に彩られていた。  外観が紅茶のカップなら、内装は紅茶そのもの――といったところだろうか。  どうやら一つのドアを開いた先はまだ玄関だったらしく、奥の方に見えたもう一つのドアを開いて進んでいくと、その先には甘い匂いと共にスイーツ店らしい景色が広がっていた。  カウンターを兼ねたショーケースの中に収められた種類豊富な菓子の数々に、それを挟む形で佇む縦長の帽子を被った複数の店員の姿。  その内、何故か顔にピエロのようなメイクをした男性の店員は、二人の姿を見るとどこか喜んだ口調でこう言ってくる。 「イラッシャイマセー♪」 (あ、外人なのかこの人)  僅かに驚きながらも、いまどき外国人が日本の店で勤めていることなど珍しくも無いと思い、特に疑問を覚えることなく、天史は飯田と共にショーケースの前に並んだ客の列の一つ、その最後尾に立つ。  複数人で来ると割引してもらえるセールがあるという話は本当らしく、複数の列を作りながら立つ客の多くは、親子か学友同士といった組み合わせが多かった。  複数人での来店である事を示すために足元には二つの丸で描かれたマークが記されており、その結果としてそうした客には横に並ぶ形で立たれてしまっており、お陰で後方からショーケース内の菓子が順番待ちの最中には見えづらくなってしまっていた。  であればこそ販売物の書かれた一覧の一つでも欲しくなるところだが、どうやら先に来た別の客に渡しているもので全てらしく、店員が二人の方へ一覧を渡すことは無かった。  その事実にちょっとだけ「むっ」としながらも待ち続け、やがて二人の立ち位置は最前列になった。  ようやく菓子の注文が出来る状態になり、さてどれにしようかと悩んでいると、ピエロ顔の店員がこんな事を口にした。 「悩んでいる様子デスが、お二人は初の来店でございマスか?」 「え? あぁはい。そうですけど」 「でしたラ、恐らくお気に入りの品とかは特に定まってない様子デショウ。ひとまずはパラダイスコースで味わう事をお勧めしマス」 「……パラダイスコース?」  突如として出て来た胡散臭さマックスのワードに、思わずといった調子で目を白黒させる天史。  広告サイトで確認しなかったのか、どうやら飯田も知らない話らしい――疑問を覚える二人に向けて、ピエロ顔の店員はとてもわかりやすく説明した。 「要すルにスイーツバイキングデス。固定の料金を払っテ、お客様の満足のイクまでスイーツを堪能シテもラうプラン。この店の商品の中で『お気に入り』を作ってモラウための措置デモありマス。二人での来店ヲしてくださッテマスので、通常ノ料金プランから割引になッテ、更に初ノ来店ト言う事で……コチラの料金となってマス」  そう言ってピエロ顔の店員は、何時の間に持っていたのか「パラダイスコース」と呼ぶそれの料金などが記載された紙を挟んだクリップボードをカウンターの上に置き、二人に見せ付ける。  見る限り、明らかに格安だった――いっそ、やり過ぎだと思えてしまうレベルで。  だが、意図は明確であり、何かしらの契約書を書かされるわけでも無い以上、選んだところで何の損害を受けることも無いだろうと天史は思った。  料金の方も、学生の身には魅力的過ぎた。  故に、彼は飯田と共に回答した。 「じゃあ、それで」 「畏まりまシタ。デハ、料金を支払い次第私がご案内サセテいたダキマース」  言って、番を代わるためにかピエロ顔の店員はカウンターに備えられた小型のマイクを介して別の店員と言葉を交わすと、カウンターから離れて天史と飯田の二人の近くにまで歩み寄ってきた。  ついてキテくだサーイ、と背中を向けて歩き出したピエロ顔についていく形で、二人は列を作った客達のいる方とは全く別の方に向かって歩いていく。  そうして辿りついた場所にあった少し大きめの扉をピエロ顔の店員が扉を開くと、そのまま何も言わずに先へと進んで行ってしまったので二人は流れ流れについていこうとした。  その時だった。 「――ん?」 「?」    ほんの少し。  些細、と言える程度の事ではあるが、二人は共に同じ刺激を受けていた。  まるで静電気でも弾けたような痛み。  金属性のドアノブに触れたわけでもなく、ただこの場に足を踏み入れた瞬間に感じたもの。  二人は共に、僅かに疑問を覚えた。  だが、どんどん先へと進んでしまうピエロ顔の店員の背中を見て、不要に待たせてはいけないと二人は急いで後へと続いた。  新たに足を踏み入れた空間は、先ほどまでいた場所とは異なり滑らかな生クリームを想起させる白色に染まっていて、徹底して清潔な空気感を演出している。  見れば、二人の他にもこのコースを選んだ客がいるらしく、既に複数並べられた横長のテーブルの左右に各々立っているようだった。  バイキングと宣伝するだけあってか、テーブルの上に置かれているスイーツの量はいっそ過剰に見えるほどに多く、おやつだのティータイムだの言っていられるレベルを軽く超えている気がした。  というか、 「……全体的にデカくないか……?」 「大食いを想定してるからじゃねぇの……?」  量もさることながら、作り置きされたスイーツの一つ一つの大きさもまた過剰なものだった。  シュークリームやソフトクリーム、マリトッツォにクレープなど、スイーツ店を出て近頃ならコンビニでも見かけるようなラインナップの数々。  それ等と分類的には同じものと思わしき、この場に存在する全てが、普通のバイキングで見るような一口サイズのものなど比較にもならない大きさで存在している。  大食い選手権をしている、と言われても疑問を覚えるレベルだった。  いっそ、お菓子の家を作っているとでも言った方が納得出来る話である。 「お客サマ、ココガ『パラダイスコース』の専用部屋となッテおりマース。小皿にフォーク、スプーンなどはアチラの方にございマスので、それでは至福の時間をご堪能くださいマセ」  自分の傍にまで近付いてきた天史と飯田の二人に向けてそう言うと、ピエロ顔の店員は案内を終えたとでも言わんばかりに踵を返し、元来た道へと戻って行こうとする。  その背中に向けて、天史は念押しの問いを投げ掛けた。 「ええと、バイキングって事は時間制限とかあるんですよね? 今からどのぐらいなんですか?」 「いえ? 時間制限ナドはございまセン。あえて言うなら、お客サマが『満足』を得るマデ、が時間制限となってマス」  返答を聞けたのは、それっきりだった。  本当の本当に、一度たりとも振り返ることはなく、ピエロ顔の店員は二人の視界からいなくなる。  あまりにもあっさりとした、それでいて普通の店の対応とは異なる奇怪な印象を含んだ返答に、天史は僅かに疑問を覚えながら、 「……とりあえず、食っていいって事だよな……?」 「だと思うが。料金は払って、そんでもってバイキングって話だ。あんな事まで言った以上、ゴーサインは出てるはずだ」 「…………」  正直なところ、疑問はあった。  だが、いくら考えてみても明確な答えなんて浮かばなかったし、深く考え込むほど馬鹿らしい気もしてきた。  この店に来る事に付き合った、そもそもの理由を思い返してみれば、尚の事。 「……まぁ、いいか。満足するまでって話だったな。腹いっぱいになるまで食うのは流石にアレだが、時間制限が無いんなら気ままに堪能させてもらうか」 「要するに食いたいだけ食えるってことだよな。だったらむしろ腹いっぱいになるまで食った方が得じゃね?」 「お前それで夕飯とか入るの?」 「デザートは別腹だから」 「女子かよ」  言いあいながら、二人はそれぞれ別の方向に向かって歩き出す。  天史自身、遠目から見て知ってこそいたが、テーブルごとに用意された様々な種類のスイーツは見た目も美しく、近寄るだけで甘い甘い匂いが殺到してくるのを実感していた。  嫌でも食欲を刺激される。  店売りのスイーツ程度なら何度か口にしたことはあるが、目の前のそれから伝わる匂いや雰囲気は職人の手作りかもしれないと錯覚しそうなものだった。  小皿と呼ぶには少々大きめな皿とティーカップ、そしてフォークを取って、スプーン二つを合体させたかのような形のトングでテーブルの上のスイーツを確保しに掛かる。  最初に取ったのは、幾つかのシュークリームと苺のショートケーキだった。  お供として用意されていたべリーティーをティーカップに注いでから、テーブルから少し離れた位置に見えていた、食卓用と思わしき円形のテーブルの傍にある椅子に腰掛ける。   (変に緊張するな……)  別に、大きさ以外は特に豪勢に見えるものでは無いはずなのに、匂いが鼻についたその瞬間から天史は自分の胸の鼓動が嫌に早くなっている事を感じていた。  思いの他、こういうものを食べられることを楽しみにしていたのだろうか? と自分で自分に疑問を持ちながら、彼はひとまずシュークリームの一つに手を伸ばす。  その大きさ故に、手で掴むというより手に乗せるといった方が近い形になりながらも、口を大きく開いてかぶり付く。  途端に、 「!?」  中に詰まっていたクリームが口の中を満たし、味覚の奔流が天史の脳を揺さぶった。  形容出来ない感覚があった。  甘い、なんて言葉で説明出来るものではなかった。  幸福感というものに器があるのなら、今の一口だけで大部分を満たされてしまっているだろうとさえ思った。  とにかく美味しい、美味しすぎる。  もっと食べたい――そう、自然と思った時には、気付けば手と口が租借のために更に動いていた。  一口するごとに、シューの皮とクリームが舌と喉を過ぎる度に、爽快感を覚える。  そうして一つを食べ終えた時には、この場に来る前の顔が嘘のように惚けてしまっていた。   (――すごい)  胸の中を満たすのは、ただただ幸福感のみ。  どうあれスイーツの類である以上、そしてここまでの味を演出している以上、少なくはない砂糖などの甘味の素となる食材が使われているはずなのに、胸焼けの気配はしなかった。  大きさの割りに、胃袋に重みも感じない。  今のレベルのスイーツを、満足のいくまで食べられる――そう思うと、自然と笑みがこぼれた。  シュークリームを食べ終えて、一旦ベリーティーを飲んで舌を満たしていた美味を流し落とそうとしたが、舌休めのためい用意されたであろうこのベリーティーもまた絶品と呼べるものだった。  幸福感が途切れない。  いっそ思考さえもとろけてしまっているかのような錯覚を覚えたまま、今回皿に乗せた物の中でも主役と呼べるショートケーキの端をフォークで切り取っていく。  スポンジケーキの生地を潰す際の感覚といい、市販のものとは明らかに異なっていた。  切り取った部分をフォークで貫通させて口元にまで寄せ、そして頬張る。 「……おいしい……」  当然のように、美味しかった。  それ以外の感想が、頭の中に浮かんでこなかった。  疲れという疲れが、抜け落ちる感覚があった。  それはまるで、全身をマッサージか何かで揉み解されているかのようで。  ベッドにでも横たわったら、そのまま熟睡してしまいそうな。   「…………」    皿に乗せていたものを全て食べ終えて。  暫し、空白の時間があった。  スイーツの味を堪能するためにか余計な言葉を漏らすことをしていないのか、他の客や同伴者の飯田からの声が聞こえることは無かった。  それ故に、天史の脳髄を駆け巡るのはただただ思考だった。  正直に言って、二種類のスイーツを口にしたその瞬間に、天史は『満足』というものを得た気がしていた。  こんなものを食べられたのだから、もう十分贅沢は出来ただろうと。  ピエロ顔の店員が言うには、この『パラダイスコース』とやらは客が『満足』を得るまでが実質的な時間制限との事らしい。  であれば、もうこの場を去ってしまっても何ら問題は無いのだろう。    だが、そこまで考えて。  ふと、途切れない幸福感――それを感じさせる味の残滓が舌の上に残っていて。  それが、今まさに薄れようとしていることに気がついた。  当然と言えば当然の事だった。  どんな食べ物であれ、いつかはガムと同じように味が薄れていくもの。  いつまでもいつまでも舌の上に残っている、なんてことは無いのだ。  唾液と共に喉を通り、胃袋の中で消え失せるのが当たり前。  しかし、 「…………」  その事実を受けて、天史の思考を飢えが襲った。  胸中を満たしていた幸福感は瞬時にして造反する感覚に変じる。  まだ、足りない。  この感覚を味わいたい。  まったく、満足なんてしていない。    そうして沸き立った衝動――あるいは禁断症状とでも呼ぶべきもの――は彼の手足を動かし、新たなスイーツへと奔走させる。  クッキーにモンブラン、マリトッツォにプリン、その他にも色々。  食べる度に幸福感に満たされ、されど少しの時間が経って幸福感は抜け落ち飢餓感へと変貌、そうしてまたスイーツを求める――その繰り返し。  不思議なことに、どれだけ大量にスイーツを食べ続けても、彼は満腹にはならなかった。  まるで胃袋に入った途端に重みの無い空気となってしまったかのように、彼の胃袋にスイーツの残骸が残留することは全く無い。  しかし、現に彼がスイーツを貪るごとに感じている味や質量は確かなものであり、そこから得るものは確かにあるはずだった。  では、いったい彼が食べたスイーツは何処へと消えてしまったのか。  胃袋の中に無いのであれば、この場に用意されたスイーツは食べた者の何を満たしているというのか。  答えは単純だった。 「――――」  食べた者、そのものだった。  見れば、天史琢哉の体には明らかな異常が生じている。  その皮膚が少しずつ異なる色彩に彩られ、体全体に至っては壊れたテレビの画面のように、まるでノイズが掛かったようにブレだしている。  スイーツを食べて、取り込んでいくごとに――その体の質感も輪郭も、何もかもがおかしくなっていく。  人間の体が、人間ではない何かと混ざりあい、何か別のモノへと変貌していく。  やがて、人の形を辛うじて保っているだけの白くべたつく何かと化した天史琢哉は、スイーツの並べられた横長のテーブルの傍から離れなくなっていた。  いや、彼だけではない――共に来ていた飯田健も、この場に来ていた他の客達も、皆等しく彼と同じ異常の最中にありながら、スイーツの群れから離れようとしない。  幸福感が抜け落ちることを、一瞬でも許容出来ないとでも言うように。  自分の中の何かを満たさんとするためにスイーツを貪るその様は、もはやある種の獣のようだった。  その思考が、変貌の最中にある自分自身の体に向けられる事は無かった。  その目が、スイーツ以外をマトモに見ようとする事はもはや無かった。 「       」     そうして、やがて。  天史琢哉を含め『人間』だった全ての客達が、糸を断たれた人形のように、美味の楽園の床に体を倒した。  全員共に、もはや人の姿をしてはいなかった。  ある者はキウイのような表皮の翼を持たない鳥のような生き物に、ある者はピンク色の果実に鳥の翼と足を生やしたような生き物に。  飯田健は首元からバナナのような果物を生やした緑色の恐竜のような生き物に。 「―― 、 ――」  そして天史琢哉の変貌っぷりは、そうした『動物』の姿をした者達とはまた異なっていた。  まず第一に、短いながらも人間と同じように両の手足が備わっていた――尤も、その色はほんのり赤みを含んだ白色だったが。  第二に、彼は『動物』の姿をした者達とは異なり衣類を身に纏っていた――尤も、元々来ていた学生服のそれではなく、何処か執事染みた礼装のそれだったが。  そして極め付けとなる第三に、その腰元からは尻尾か何かでも表現しているかのようにホイップクリームが小さくくっ付いていて、何よりその頭部は丸ごとショートケーキのそれになっていた。  見れば、ショートケーキの断面や下部には、それぞれ瞼と口が存在している。  ショートケーキのマスコットキャラ――とでも呼ぶべき生き物が、天史琢哉の成り果てた姿だった。  そうして。  誰も彼もが一言も発せず、倒れ付したまま数分が過ぎた頃。  スイーツの楽園の中に、彼等とは異なる誰かが足を踏み入れていた。    かつん、こつん、と。  どこか上品さを感じさせる靴音と共にその場に現れたのは、ケーキそのものを形としたようなドレスを身に纏い、淡い桃色の王冠を被った貴婦人と。  紫色の装束と金色の装飾品を身につけ、悪魔のような翼を背より生やした悪魔染みた格好の女性だった。  彼女達の内、ケーキのドレスを身に纏った貴婦人の方が、スイーツを貪りつくした果てに『人間』ではなくなった者たちの有様を見て、くすりと笑っていた。  ただし、それは嘲弄の笑みではなく。 「あらあらまあまあ。とても幸せそうですわ」 「まぁ、私特性の魔法薬で幸せしか感じられなくなってるでしょうからね。ああいう顔をしているのが当然と言えば当然よ」  悪魔の女性が貴婦人の言葉に答えを付け足すように言葉を紡ぐ。  貴婦人の女性とは異なる意味の、笑みを浮かべた様子で、 「……それにしても、面白いぐらいに上手くいくものね。デジモンのデータを食物に混ぜて、それを人間に過剰に摂取させる。そうする事によって『人間としての』データが希釈化され、食物に混ぜたデジモンのデータが全体の比率を満たし染め上げる。……スピリットを用いない、意図的な人間のデジモン化。もっと効率化出来れば、更に多くの力持つペットを生み出すことが出来ることでしょう」 「ふふふ。それでは、唯一ショートモンになったあの方は一旦こちらで面倒を見るとして、その他のお客様方の事はよろしくお願いしますわ――リリスモン様」 「ええ。見る限り、パラサウモンになったあの子は特に可愛がり甲斐がありそうだし、楽しみだわ。他の子達も可愛いし、私の城で優しく愛でてあげる」  そうして少しの時間が経った後。  大量のスイーツが平らげられた跡には、誰一人として姿は見えなくなっていた。  残されたのは、次の客を待つ手付かずのスイーツの群れとそれを乗せている数々のテーブルのみ。  食欲の秋、美味を生み出す屋根の下で、二人の学生の運命は一変した。  彼等の行く末を知る者は、少なくともこの世界には誰もいなかった。  ◆ ◆ ◆ ◆ 「おーいショートモン!! せっかくの秋なんだしケーキ作ってくれよ!!」 「お前の場合、春だろうが夏だろうが冬だろうが構わず頼みに来るだろうが。    モン」
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ユキサーン
2021年10月06日
In デジモン創作サロン
 学生、というものは基本的に無邪気なものだ。  大人になってから思えば恥ずかしいとさえ思える事を平気で口に出来るし、その言葉を聞いた誰かが傷ついているなんて事は気付きもしなければ考えもしない――当人にその気が無かったとしても、だ。  そうして精神的に傷付いた人間の方が精神的な成熟は早いと誰かが言っていた気がするが、そんなことで感謝をしろというのはあまりにも恩着せがましく、率直に言って発言者のことをぶん殴りたいとさえ思えている。  少なくとも、下校中なボサボサ髪の高校生こと空乃伝路《そらのでんじ》にとって、学校というものはそんなものだった。 「…………」  少しずつ残暑も衰えを見せてきた秋の中盤。  何かしらの広告が多くの液晶画面に映し出されている都会の街道を歩く彼の脳裏を過ぎるのは、一週間後の行事の話。   (……体育祭、か……)  それは何処の高校でも執り行われる、一つの行事。  提示された競技を何かしらの形で組み分けされた高校の生徒一同で行い、優劣を決めるというもの。  学校側の建前としては運動を楽しむだとか生徒同士の仲を育むだとか何とか色々あるかもしれないが、生徒側の視点から言わせればそれはある種の戦争でしか無かった。  勝った方が優れていて、負けた方が劣っている、そんな単純な事実。  なまじ運の要素など組み分けの内容以外には何も無く、全てが運動神経によって決まるものである以上、負けた側の敗因――いわゆる戦犯というものはとても解りやすく見極められる。  その勝ち負けで一生を左右するわけでも無いのに、運動神経がいくら優れていようが勉学の面が優れていると証明されるわけでも無いのに、それでも多くの学生が勝ち負けに躍起になる理由はただ一つ。  自分が他者より劣っていると認めたくない――そんな、いっそのこと『子供』染みた|自尊心《プライド》が未だに根付いているからだ。  そして、そういった『子供』は負けた時にその理由や責任を他者に押し付けたがる。  実のところ、空乃はそういったしわ寄せを受け続けてきたタイプの人間だった。 (……なんで高校にもこういうのがあるんだか……)  率直に言って、彼は憂鬱だった。  特別将来を左右するような事柄でも無いのに、その失敗を自分の所為にされては憂さ晴らしの玩具にされる。  抵抗出来るほどの腕っ節の強さも無く、同級生が助けてくれるなんて都合の良い話も無く。  教師に相談してみてもマトモな助け舟は貰えない始末で、他人をアテにする気など起きなくなって。  かと言って親に相談するのも恥ずかしいし、こんな事で憂鬱になっている自分自身をまずどうにかしたいというのが実情だった。  とはいえ、そう簡単に解決出来る問題であればそもそも憂鬱になどなりはしない。  だからこそ憂鬱なのであって、彼の目からやる気と言えるものは見事に死に果てていた。 (あーあ、さっさとやらかして退学にでもならないかなアイツ……)  どうしようも無いことを考えながら歩く空乃。  どうしようも無い連中に一人でも絡まれるのを嫌った結果、空乃はどの部活動に入ることも無く、中学から今日に至るまで帰宅部だった。  だから部活動に通う生徒よりも当然下校する時間は早く、空はまだ夕方というよりは昼のものだった。  企業に勤めている会社員は未だ勤務中な時間帯であり、それ故にか都会にしては人出入りはそこまで混み合ってなく、だからこそ帰宅することそれ自体が滞ることは今のところ無い。  こんな憂鬱な時はゲームセンターに通うか、さっさと帰宅してまだクリアしていないゲームをする――というのが彼の日常だった。  が、この日はある種の特別だった。  明確な課題があって、それを出来ることなら解決したいと思う程度には悩んでいた。  だから、だろうか。  その日、普段であれば特別見向きもしないであろう場所に、彼の視線は向いていた。 「ん?」  それは、数多く立ち並ぶ建造物の隙間に佇むような形で存在する、ビジネスビルの半分程度の大きさはあろう建造物だった。  室内の様子は窓にスモークを張られているのか外から見えないが、その建造物がどういった場所として造られているのか、それだけは建造物の入り口に設置された看板によって理解が出来ていた。  看板に描かれた文字、それ自体が答えを伝えていたからである。   「トレーニングジム?」  看板にはそのように書かれていた。  本当に、何の捻りもなく――本当に『トレーニングジム』とだけ、その看板には書かれていた。  普通なら、この手の客を求める施設には何かしらカッコつけた名前の一つでもついていそうなものだが、何の変哲も無いその名付けはいっそ奇妙だった。  客を求めてのものというより、何処かの企業が使用するための副次施設なのかもしれない――と、考えられる程度には。  周りに駐車場らしい空間も見当たらず、入り口もまた正面の一つだけである事も、あるいは空乃の予想を裏付けしていた。  一周回って奇妙なその『トレーニングジム』に対し、空乃は軽めの疑問と興味を抱く。  というのも、 (……まぁ、そういう方法もある、のか?)  先にも述べた通り。  現在、空乃伝路は憂鬱だった。  つまらない人間のために心身共に疲弊してしまっている、自分自身の弱さによって。  学校はアテにならず、身内の誰かに頼ることは恥の成分から出来ず、だからこそ自分の努力でもって解決したいと彼は思っていた。  そんな時に提示された、一つの――解りやす過ぎる方法。  即ち、ジム通いによる体作り。  部活動のように面倒事に巻き込まれるリスクも(絶対とは言い切れなくとも)少なく、必要になれば大人の手で丁寧に指導もしてもらえる環境。  普通に考えて無償で通える場所では無いだろうが、ゲームセンターで使い込むよりはずっと見合うだけの価値があるように思えた。  今、この時の空乃にとっては。 (行ってみるか)  深く考えたりはせず、とりあえずの感覚で彼は『トレーニングジム』の扉を開き入っていく。  途端に、 「?」  何か、電気の弾けるような音が聞こえた気がして。  僅かに疑問を覚えたが、答えらしい答えは何も出ず、やがて気にせず彼は受付と思わしき場所へと足を運んでいた。  受付には店員――もといスタッフと思わしき引き締まった体格の男性が立っていて、彼は空乃が口を開くより先に言葉を発していた。 「いらっしゃいませ。ジムのご利用ですか?」 「あ、はい。ええと、初めてにはなりますが。お金はどのぐらい掛かりますか?」 「初のご利用ですか。であれば、今回は無料でのご提供になりますね。コースは色々ありますが、どれをご利用なされます? いずれも今回は無料です」 「無料……ですかぁ」    空乃は一時沈黙する。  スタッフが手で指した方――カウンターの上に貼り付けられたラミネート加工済みの用紙――に書かれたコースは色々あり、その内のどれかを無料で体験出来るという事実に、悩んでいるのだ。  せっかく無料で使えるのなら、出来る限り本来の料金が高いものを選んでみた方が得か、と。  どうせ帰宅部らしく時間は余っているのだから、多少時間が掛かるものであってもやって良かったと思えるコースにしてみるべきだろう――そんな風に考えながら用紙に目を通していた空乃は、やがてこんな事を口にした。 「あの、どれが一番効果が出るとか、ありますか?」 「効果が出る、とは?」 「その、体力が上がるとか。運動神経の改善というか。とにかく体が強くなるものです」 「……なるほど。体を強くしたいのですね?」 「? はい、そうです……?」  一瞬。  スタッフの口元が笑みの形に歪んだように見えて疑問を浮かべる空乃だったが、気のせい、でなくとも特に深い意味は無いだろうと思い、先を促す言葉を紡いだ。  すると、スタッフの男は用紙に書かれた項目の一つを指差して、 「それではこちらの『身体強化コース』を提案します。スタッフのガイドに従ってもらいながら、体を強化していくコースとなっておりますが、如何でしょうか」 「じゃあ、それで」 「それでは……」  とりあえず、の感覚で勧められたコースを選択する旨を口にすると、スタッフの男はカウンターの引き出しから何かを取り出していた。  それは一目見る限り、少し小ぶりのスマートウォッチのように見えた。 「これは今回のコースを利用するにあたって、装着していただくものになっております」 「腕時計……ですか?」 「腕時計でもありますが、万歩計や心拍測定器としての役割も担っている機材となっております。この『機材』が計測した数値を参照して今回のコースにおける『目標』が設定されますので、後はスタッフの協力のもと頑張ってください」 「あ、はい、解りました」  空乃は手渡された『機材』を右の手首に取り付けると、受付に立っている人物とは別のスタッフの男の案内を受ける形で、流れ流れに歩を進めていく。  道中にロッカーがあったので、スタッフの指示に従う形で学校帰りの荷物を収納する。 「……そういえば、学生服のままなんですけど俺、着替えなくても大丈夫なんです?」 「大丈夫ですよ。着替えたいのなら用意をしますが」 「あ、いや、大丈夫です」  案内された先の部屋にはダンベルやランニングマシーンといったものをはじめ、トレーニングに用いられるものであろう多くの道具が設置されており、どれもこれもテレビ番組でスポーツ選手が鍛錬を積むのに使っているような、素人目から見て高性能そうなものばかりだった。  ただ一つ、奇妙なものがあるとしたら、 「トレーニングをする場所なのに、パソコンが置いてあるんですね」 「ええ。まぁ、色々な事に使えますから」  色々な事、というのが具体的にどういうものなのかについて、深くは聞かなかった。  今後何度も通うと決まったわけでも無いのだし、特別気にする必要は無い――そう思ったために。  そうして、空乃のトレーニングは始まった。    ◆ ◆ ◆ ◆  最初のトレーニングには、バーベルを用いることになった。  黒い色の台のようなものに背中を預けながら、設置されていた大きなバーベルを両腕の力だけで持ち上げる――そんな、テレビ番組で何度も見たような構図で、空乃は早速息を荒げていた。   「――お、重っ……!?」 「重くないと持ち上げる意味がありませんからね」 「こんなの、ずっと持ち上げてなんていられないんですけどっ」 「最初はそんなものですよ」 「ていうか、これちゃんと鍛えられてるんです? ちっとも持ち上がらないんですけど」 「大丈夫ですよ。未成年なら尚の事、頑張れば頑張った分だけ、体とは強くなるものなんです」  ぜぇぜぇはぁはぁ、と。  途中途中弱音を漏らしながら、バーベルを持ち上げようと腕に力を込め続ける。  しかし、腕力が足りないからかバーベルが持ち上がる事は一向になく、ただただ体力だけが費やされる時間が何分か続くだけだった。  やがてスタッフの方から少しの休憩時間を挟むよう促され、空乃は近くの椅子に腰掛ける。  初っ端から感じる疲弊に、自分の体がどれだけ弱いものなのかを改めて実感していると、スタッフの男はその手に持っていたラベルのついていないハンドサイズのペットボトルを「はい」と空乃に手渡してくる。   「ありがとうございます」 「それを飲むのも含めてのコースですからね。思いきり飲んでしまってください」 「?」  思わぬ言葉に疑問を覚え、手渡されたペットボトルを空乃は改めて確認した。  見れば、内部の飲料水の色は何処かケミカル染みた黄緑色だった。  明らかにスポーツドリンクの類には見えなかったが、 (野菜ジュースかエナジードリンクの類かな)  思い返してみれば、黄緑というのは特別珍しい色でもなかったので、言われた通りにごくりとペットボトルの中身を飲んでみる空乃。  味はスポーツドリンクやエナジードリンクというよりは、レモン味の炭酸水といった感じだった。  かなり強めの炭酸が含まれていたようで、口から喉までを激しい刺激が駆け巡ったが、その感覚がどこか心地良く、気付けば空乃は一気にペットボトルの中身を飲み干してしまっていた。  つい少し前の疲弊が嘘のようにスッキリとした気分を覚えていると、空乃に対してスタッフの男はこう問いを出してきた。 「続けられますか?」 「あ、はい。大丈夫です」  そう返して、空乃は椅子に座っていた状態から立ち上がる。  再起してからも、鍛錬のために作成された機材を扱い体を痛めつける時間は続いた。  ランニングマシーン、ダンベル、チェストプレスマシン、アブドミナルマシン、ショルダープレスマシン、レッグプレスマシン――などなど。  結果から言って、見える範囲にある機材は流れ流れに全て試すことになった。  一つ一つ使う度に息が上がり、その度に休憩を挟んで、立ち上がってはスタッフの指示に従う形で新しい機材に挑みに向かい。  その繰り返しをしている内に、気付けば室内にある機材の全てを体験し終えたらしかった。  らしかったと他人事なのは、他ならぬ空乃自身も実感が湧いて無いからだ。  現実的に、このような短時間で体が強くなるわけも無いと解ってはいるつもりだったが、頑張りが空回りしている気がしてなんとも言えない気分に空乃はなっていた。  そんな時、スタッフの男はこんな風に切り出してきた。 「では、一周したところでもう一度ハードル上げに挑戦してみましょうか」 「え、えぇ……上げられる気しないんですけど……」 「どのぐらい上げられるのか、それを確かめるだけでも鍛錬にはなります。それに、あなたの体はここに来る前より鍛えられてますよ。その腕の機材が示す『目標』を達成し続けてますから」 「…………」  信じ難い、というのが空乃の率直な感想だった。  確かに、息が上がりながらもスマートウォッチにも似た『機材』が表示する『目標』は達成出来ている。  スタッフの男に中断を呼び掛けられたのも、決まって『目標』が達成された時だった。  単に実感が無いだけで、納得が出来ていないというだけで、ノルマ自体は確かに達成していたのだ。   (……やれるだけやってみるか)  とりあえず、の感覚で再びバーベルを用いる『機材』のある位置へ足を運ぶ空乃。  先にやった時と同じように椅子のような台の上に寝そべった姿勢のまま、腕の力だけでバーベルを持ち上げようとする。 「っ、くぅっ……!!」  腕に圧し掛かる重みが変わることは無かった。  バーベルの重量を変更したわけでも無いのだから、当然と言えば当然だ。  だが、何の変化も無いわけでは無かった。 (――あ、あれ?)  ほんの少し。  僅か数センチの話ではあるが、確かにバーベルは腕の力によって持ち上がっていた。  持ち上がっていた、と気付いた時には更に数センチ上がっており、その腕力が増加している事実を確かに示していた。    とはいえ、完全にバーベルを上げきり、腕を伸ばしきるには及ばず。  ほんの数センチ上がっていたバーベルは、数秒のち元の高さへと戻っていた。  腕力を行使していた空乃自身の体力の方こそが、先に切れたのである。  ぜぇぜぇはぁはぁと息を荒げる空乃。  そんな彼の様子を見て、スタッフの男はさも当然のようにこう言ってくる。 「それが鍛錬の成果ですよ。実感出来ましたか?」 「…………」  確かに、と納得せざるも得なかった。  率直に言って、一回目の時は僅か数ミリさえ上がった気がしなかったのに、今回は数センチを数秒でも上げようとすることが出来ていた。  些細な変化だとは思う。  ちっぽけな成果だとも思う。  だけど、自分が強くなれているという実感に、空乃は言いようの無い爽快さを覚えていた。  達成したところで大した変化も無いだろうと思っていた『目標』が、それを達成して実際に強くなれているという事実が、実感を増させる。  室内にある機材、それを用いた体験を一周しただけでもここまで出来たのだ。  もう一周、いや更に続けていったら何処まで強くなれる?  スタッフの男が、再び問う。 「続けられますか?」 「続けます」  まだ、時間も体力も残っている――可能な限り続けてみよう、と思った。  ひとまずの休憩の折に、再び黄緑色の飲料水を頂き飲み干すと、彼は鍛錬を再開させる。  一度体験を済ませたからか、二週目の『目標』を達成する過程で感じる疲れは一週目ほどもなく、いっそ順調とも言えるペースで鍛錬は進行していった。  そうして、三度目のバーベル上げチャレンジ。  一度深呼吸をして、二度繰り返した姿勢になって、鉄の棒を両手で握りしめ、腕に力を込める。 「――っ――」 (強く、なれてる……)  成果は明白だった。  数センチは十数センチに、更に数十センチに――少しずつ、確かに増えていた。  腕は未だに伸びきらず曲がったままだが、上げ続けようと力を加え続けられる時間もまた、上げられる高さと同じく増えている。  心なしか、主に腕の筋肉の量が増えてきた気がした。    強くなれている。  その事実、その実感がじんわりと空乃の脳髄を駆け巡る。  嬉しい、と思った。  同時に、もっと更にと強さへの欲求が増し出てきた。    三週、四週と加速度的に『目標』を達成しながら、彼の体は強くなっていく。  いつしか、何度も反復して鍛錬を続けたことで、体から吹き出ていた汗が衣類の外にまで漏れ出そうになっていた。  それを知ってか知らずか、スタッフの男は空乃に対してこう提案した。 「そろそろ上着も汗でびしょびしょの頃でしょう。脱いだ方が楽になりますよ」  出会ったばかりの相手に、上半身だけとはいえ裸を見せるというのは、多少なり恥ずかしさを覚えるものだろう。  だが、空乃は迷わず学生服たるカッターシャツとその下の肌着を休憩に用いる椅子の上に脱ぎ捨てていた。  そうして曝け出された体は、元の痩せ気味なだけのそれとは明確に様変わりしていた。  主に上半身の筋肉は部活動で鍛えている学生のそれと見比べても発達しており、贅肉と呼べるものはどの部位からも消えてなくなっている。  経過した時間などから考えても、現実的にはありえない成長の度合いだった。  見れば、その髪の毛もまるで静電気にでもやられたかのように逆立っていて、胸元から四方に向けて薄っすらと黄緑色の線が浮かび上がっている。  明らかに異常な成長、だがスタッフの男は疑問の表情を浮かべることもなく、変化している当人である空乃の視線や意識がそちらへ向くことは無かった。  自分が強くなれている、その事実から引き出される歓び、それを何よりも優先するように思考が変化し始めている。  まだ体力も時間もあるから、という理由は、何週目からかもっと強くなれる気がするから、という理由に変わってしまっていた。  時間の経過はおろか、自身の体力にさえ意識を向けなくなった頃には、鍛錬用の『機材』を扱って何周したのか、それすら頭に浮かばなくなった。    鍛錬を積み、スマートウォッチの形をした『機材』の提示する『目標』を達成する度に、その体はどんどん大きく成熟し、そして変わっていく。  体の色は、少しずつ小麦のそれに近しい肌色からレモンのような黄色へと変色していった。  上半身の筋肉は更にその規模を増し、鍛錬用の『機材』を掴む両手は指が五本から三本に減ってその太さと爪の長さを増し、いつの間にかメリケンを備えた指抜け手袋まで備えるようになっていて。  鍛錬を行うより以前の体からサイズが大きく増す事になった弊害か、履いていたズボンがギチギチと悲鳴を上げるようになり、スタッフの男が何を言うまでもなく、窮屈さでも覚えたのか他ならぬ空乃自身が下着の端を掴むと、異常と言えるまで発達した腕力に任せて引き千切ってしまう。  ズボンのみならず、その下にあったパンツまでも含めて、恥など微塵も感じていない素振りであっさり――ビリビリ、と。  そうしてさらけ出された下半身もまた、既に人間のそれとは異なる様相を見せていた。  人間の男であれば基本的に誰でも備わっているはずの『証』は見当たらず、腰から足先に至るまでが上半身と同じく発達した筋肉によって構成され、腰元から短くはない尻尾まで生えていて。  両の手と同じく両足もまたその指の本数を三本に減らしてしまっていて、その関節の形もまた獣のそれと同じ逆のものに成り果てていた。   「ハァッ、ハァッ」  正真正銘の全裸となった空乃の体に、人間の面影はもはや殆ど無かった。  野太くなった、どこか獰猛さを感じさせる声を漏らす口元もまた爬虫類のそれのように裂けていて。  呼吸の度にさらけ出される歯は尖り、歯というよりはいっそ牙と呼んだ方が正しく思える形状へと変化している。  いつ覚えたのかも知らない衝動のままに鍛錬を続け、第三者の手で設定された『目標』を達成し続けて、そうして変わり果てながら――彼がその変化に疑問を覚えることは終ぞなかった。  その思考は既に、自らの力を高めたいという衝動に染め上げられており。  元々の目的も理由も忘れ、得られる歓びに従順となってしまったその空乃伝路は、 「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」    咆哮と共にその頭部から落雷を想わせる電流を奔らせて――怪物に成り果てた。  電流が収まった後、人間だった怪物の頭部には稲妻を想わせる形状の角と、手袋と同じ色の甲殻が見えるようになっていて。  角と尻尾を生やし、三本の指から鋭い爪を生やしたそれは、鱗が無いという一点を除けば竜のようだった。  竜の怪物は、まるで糸の切れた人形のように力なく、仰向けの姿勢で鍛錬の場の床に倒れこむ。  意識は既になく、されど涎まみれの舌まで出したその表情は歓喜に染め上げられており、少なくともこの竜が元は男子高校生であったなど誰も信じられそうに無かった。  少なくとも、こう成り果てる行く末を見届けていたスタッフの男とその関係者以外は。 「よく頑張ったね」  そう言って、空乃に付き添っていたスタッフの男は力を使い果たした元人間の竜の傍から離れると、ふとして室内に設備されていたパソコンの電源を入れる。  施設の関係者だけが知るパスワードを入力し、画面に映し出された一つのアイコンをマウスでクリックすると、パソコンの画面が突如として光を放ちだした。  スタッフの男はその光が当たらない位置にまで歩くと、筋骨隆々な竜の怪物へと視線を向け、最後にこんな言葉を残した。 「頑張った君には、もっと相応しい居場所がある」  直後のことだった。  パソコンの画面から発せられた輝きの中に、奇怪な色彩の穴が生じ、竜の怪物の体はそれに向かって頭から吸い込まれていく――0と1の、デジタルな粒子と化して分解されながら。  そうして呻き声の一つもなく、竜の怪物は室内から跡形もなく消え去った。  後に残ったのは鍛錬用に用いられる『機材』と、竜の怪物を飲み込んだパソコンと、この場で鍛錬を行っていたのであろう誰かが着ていた衣類の、その残骸のみ。  何かを締めくくるように、スタッフの男はお辞儀をしながら、静かに笑みを浮かべてこう言った。   「――ご利用、ありがとうございました――」
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ユキサーン
2021年6月02日
In デジモン創作サロン
 それは残業明けの、真夜中の帰り道での事だった。 ドラッグストアで買った適当な栄養ドリンクやら何やらが入ったビニール袋をぶら下げながら歩いていると、目の前の影に大量の目玉が浮かび上がった。  最初は、仕事の疲れで幻覚でも見たかと思った。  だが幻覚では無いようで、直後に影は俺に襲い掛かってきた。  まるで津波か何かのようになって覆い被さろうとするそれに対し、俺は思わず両腕で顔を覆って無意味にも自衛の構えを取ろうとしてしまったが、気付けば大量の目玉を浮かべた影はどこにも見当たらなくなり、体のあちこちを確認してみても何かしらおかしな点は見当たらなかった。  あまりにも現実離れした出来事に、今度こそ幻覚か何かだったのではないかと思った直後、俺の意識は酩酊にも似た感覚と共に眠りに落ちた。  目が覚めて、気付けば俺はうつ伏せに倒れこんだ状態になっていた。起き上がり腕時計を見てみれば時刻はとっくに深夜に差し掛かっている。明日も仕事だというのに、これでは睡眠時間もロクに取れはしないだろう。  路上で寝ていたなら誰かしら気付いて起こすはずだが、気付かれなかったのか?  とにかく家に帰ろう。  何やら視点が普段より僅かに低くなっている気がするが、そんなことはどうでもいい。嫌に疲れて腹も減って気がおかしくなりそうだ。  街灯の明かりさえ鬱陶しく思えてしまう。  あんなよくわからないモノが見えてしまう辺り、今の俺は物を正しく見ることが出来てないのかもしれない。  帰り道の途中、何人かの見知らぬ男達とすれ違った。  どうやら深夜になるまで飲み会でもした類らしく、顔は赤く火照って足はふらふらとおぼつかない様子だった。  とてもとても幸せそうな顔を浮かべながら、酔っ払い共は俺にその肩をぶつけてきた。  悪意は無かっただろう、だが少なからず苛立ちを覚えた。  酔っ払いの頭には伝わらないだろうが、少なからずの苛立ちを乗せて俺はぶつかった酔っ払い共の内の一人の背中を睨みつけた。  そして、こう思った。  寝てろ。  ついでに悪夢でも見ろ、と。  ――視線を外した直後、背後でどさりと誰かの倒れるような音を耳にしたが、俺は気にすることなく自宅を目指して歩を進めていった。  いろいろあったが漸く家に着いた。  単身赴任の身であるため家族が住まっているわけではないが、それでも一日のやるべき事を終えた事を示す居場所。  鍵を閉め、靴を乱雑に脱ぎ捨て、服を脱ぎ、風呂場に入る。  いちいち風呂を沸かせるのも面倒だ。さっさとシャワーを浴びてさっぱりしよう。  そんな風に思っていた時だった。  ふと、風呂場に設備された長方形の鏡に映し出された自分の姿が目に入った。  自分の裸の姿なんて、風呂場に行けば毎日見るようなもので、いちいち気にするものでも無いはずだった。  だが、たった今鏡に映った自分の姿には、明らかに異様な変化があった。  まず目の色が明らかに違った。  帰り道の中で見た、覚えのある色彩だった。  そして体の色も、所々が真っ黒に染まっている。  見れば、黒く染まった部位からは変化した目と全く同じモノが浮かび上がっていて、ぞぞぞぞぞぞ、と得体の知れない震えを発していた。  そして俺自身も、未知の恐怖に震えていた。  思わず悲鳴を上げた俺は、体の各所に見える黒い何かに得てシャワーを浴びせかけていた。  汚れでも落とすように、石鹸を擦り付けながら、がむしゃらに。  だが、無意味だった。  少しずつ、まるで俺の恐怖に呼応するように、黒い何かは俺の体に広がっていく。  足掻く間もなく、俺の体は半分近くが黒く染まり、不気味な目玉がギョロギョロと蠢く異質なものになっていった。  何をどうすればいいのかが解らない。  原因が、帰り道で襲い掛かってきた不気味な影にあることぐらいは察しがついているが、察しがついたところで何かが変わるわけではない。  とりあえず風呂場から出ようと足を運んだ所、抵抗の結果として泡まみれになった床を滑る形で転んでしまった。  右肩を強打してしまい、痛みに悶えながらも立ち上がろうとした時、俺は自らの体に起きた変化を『実感』することになった。  体の、まだ肌色の部分は堅いものにぶつけた感覚がある一方で。  黒く染まり、目玉が蠢く部分だけは――ぶつけた、というよりは『張り付いた』という風な感覚があったのだ。  いや、数秒経って改めて思えば、触覚自体がそもそも曖昧だ。  なんというか、自分の体の重み? と言えるものが感じられない。  体に力がうまく入らない。  現在進行形で体を黒く染めている影の所為か、膝から先がまるで瞬間接着剤でも塗りたくられたかのように、風呂場のタイル床に引っ付いて離れられなくなり、必然的に俺は膝立ちのような格好になる。  もがくような姿勢で、必死になってドアノブを動かし、這いずる形で風呂場を出る。シャワーを浴びた体は当然濡れていて、移動の度に木製の床を濡らしてしまうが、そんな事を考えていられる余裕も無かった。真っ黒に染まった足は変わらず床にくっついたままで、走ることはおろか歩くことさえ出来ない。  そうしてやがて、電話の置いてあるリビングにまで到達した頃、遂に足だけではなく手の方まで黒く染まり、床に引っ付いてマトモに動かせなくなる。 いや、手どころの話ではない。気付けば腕も腹も、床に張り付いてしまっていて、俺の姿勢は正しく倒れ伏した格好のまま固定されてしまった。  自分の体を見渡すことも出来ない状態だが、なんとなく解る。もう俺の全身は余すところなく黒く染まっていて、不気味な目玉をあちこちから浮かび上がらせてしまっている。ゴキブリホイホイに掛かったゴキブリどころの話ではない。これでは本当に化け物だ。  ふと、うつ伏せになっている状態なはずなのに天井が見えた。  いや、天井だけではない。  見たい、確認したいと思った直後、その方向に実際に目を向けているかのように景色が視界に映し出される。  黒く染まった体に浮かび上がった瞳は模様でも何でもなく、俺自身の目となるものだったらしい。  らしい、と他人事のように思えてしまっている辺り、どうやら俺は思いの外落ち着きだしてしまっているらしい。いや、違うか。もう既に、心のどこかで俺は諦めてしまっていたんだ。現状を打開しようとすることを。自らの身に起きている変化に抗おうとすることを。  どうせどうにもならないのなら、なるがままに従ってみよう。人生なんて元々、思い通りにいかないのが常なんだから。  そんな風に思っていると、黒く染まった全身にいよいよ決定的な変化が起き始めた。  少しずつ、体の形が人間のそれから明確に歪み始めたのだ。  禍々しい『影』に染め上げられた体が、床に向かって溶け出すように、あるいはまるで風船が萎むかのように、その質量を失い始めた。特別引き締まっていたわけでもないが、大人相応の大きさを有していたはずの体が、ゆっくりと時間をかけてペラペラなものに成り果てていく。その事実が実感として解る。  これまでの変化がそうであったように、痛みは特に無かった。うつ伏せの姿勢であった以上、顔や腹などが床に張り付いているはずにも関わらず、肌寒さはおろか息苦しさのようなものも感じない。むしろ、この状態こそが『正常』であるのだと、妙な直感さえ覚えていた。  いよいよもって体だけではなく思考の方までおかしくなってきているようだが、最早それを気にするような焦りも俺の中には浮かんでこなかった。既に俺の体に『人間らしい』と言える感覚などは無く、心性の変化にまで伴ってか、床に張り付いていた人の形をした黒いナニカ――俺は、その形を失った。  ヒトの形を失い、廊下の床や左右の壁にまでぶちまけられたペンキのように広がった俺の体は、一言で言えば度を越えて自由なものだった。ヒトの形を失ったというよりは、そもそもヒトの形を取る必要性が今の体には存在していない、とでも言うべきか。  頭や手足といった、人間としては当たり前に存在する体――それに伴う感覚は、とっくの昔に混ざり合っていた。  そもそも体の全てが『視点』となるのだから、人間で言うところの脳が収められている位置なんてわかったものではない。文字通りペラペラの怪物に成り果てた体を、オレはいっそ堪能していた。  恐怖や不安を覚え続けた過去が信じられないほどの、愉悦の感情。  人間という枠組み、そこに入っていた事で付きまとっていた不自由、その全てから開放された気分だった。 『視点』から見える景色、そこに見える『オレ』の数多の目は、気付けば震えを止めていた。  ペラペラの怪物となった自分の体を堪能している内に、いつしかオレの心には一つの欲望が宿った。  それは、あるいは恐怖に縛られたままの心では思い浮かべもしなかった結論。  人間である、という事を完全に諦めたオレが、逆に心の底から願うようになった思想。  ――どうせ怪物になるのなら。  ――もっと怪物らしい姿に成ろう。  怪物に二本の足なんていらない。一本の尾さえあればいい。怪物に貧相な五本指の手なんていらない。敵となりえる存在を引き裂く鉤爪さえあればいい。怪物に小さなものしか入れられない口も柔らかいものしか砕けない歯もいらない――そうした思想に伴って、オレの体はオレが望むままの進化を始めた。  床や壁に広がっていたペンキのようになっていた『オレ』の体が、一箇所に集っていく。ペラペラだった体が、少しずつ質量を得ていく。『両手』にはそれぞれ三本の鋭利な爪が、『両脚』は歪んだ一本の細い尾に、そして『口』は端が裂けたものとなり、『顔』は爬虫類のように尖ったものになる。  気付けば、ペラペラの体で廊下や壁に張り付いていた『オレ』は、リビングで体を起こしていた。  『始点』は『顔』へと移り、首を曲げて『オレ』は自分の体を見渡してみた。  全身が『瞳』が張り巡らされた、黒き竜。  これこそが今の『オレ』という怪物の存在を示す唯一のもの。  ああ、最高の気分だ。  ふと、人間だった頃に自分が稼いだ金で買ったモノのことを思い出して、玄関の方へと視線を移した。  思えば、さっさと風呂に入りたい一心で購入物については適当にその場に置いておいたのだったか。  よくよく考えれば腹も空いた。何か食べないと気が狂いそうだ。  ――そうして気付いた時には、『オレ』はかつての『俺』が購入したもの全てを『口』で租借し、腹の中に入れていた。  味はあまり感じられなかったが、代わりに体の中でとても暖かな熱が感じられた。  快感があった。もっとこの感覚を味わいたいと思った。  冷蔵庫のドアを開けて、中に保存していたものをとにかく『口』の中に放り込む。それでも足りず、食器棚の皿も食べた。一度味見をしてみれば、後はもう止まらなかった。灯りも付けていない部屋の中、『オレ』はとにかくとにかく部屋の中にあるものを全て平らげていき――そうして、いつしか眠りについた。  眠りから覚めると、体表に存在する全ての『瞳』もまた開かれた。日光が鬱陶しい。どうやら朝になるまで眠っていたようだ。  さて、怪物に成り果てたことについてはいいが、これからどうするか。怪物らしく人間を喰らうも良し、街の中で暴れまわるも良し。オレはもう人間ではないのだから、人間の世界のルールになど気を配る必要も無い。選択肢は数多に存在し、そのいずれも怪物となった自分の相応しいと思えるものばかりだ。  そんな風に考え、思考を巡らせていた時だった。 日光とは異なる光源の存在を、オレの『瞳』が視認していた。『視点』となっている顔をその光源の方へと向けてみれば、いつの間にか仕事でも使うノートパソコンの電源がついていて、その画面は普段見ない景色を表記していた。  それを見て、オレはなんとなく直感した。  ああ、なるほど。そこがオレの向かうべき、帰るべき場所なのか、と。これはオレという存在を迎え入れる世界への『入り口』なんだ、と。  体を動かし、少しずつ、異彩を放つノートパソコンの画面に向かって近付いていく。  近付く度に、オレの心の中には喜びの感情が生じていた。帰りたかった場所に帰れるのだと、そんな思考が生じていた。  そうして、オレは迷わずノートパソコンの画面に自らの『顔』を近づけて、そして、  オレの存在は数多の0と1の粒子となって解け、ノートパソコンの画面の中に、その先にあるこれからの居場所に向かって一切の抵抗なく、さながら濁流のようになって流れ込んでいった。  ――そうして、かつて誰かが住んでいたと思わしき部屋に残ったのは、何かに食い散らかされたと思わしき残骸と静寂のみ。  暫くの間、ノートパソコンの画面には真っ黒な目玉だらけの怪物の姿がドットで大きく描かれていたが、それもまた時間の経過と共に小さくなっていき、やがて消え去って。  この場所に住んでいたはずの誰かは、現実のそれとは異なる世界にその全てを溶かして、誰の記憶にも残らなかった。
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ユキサーン
2021年5月04日
In デジモン創作サロン
 前の話へ  少し、デジモンの『設定』というものについて考察を入れてみよう。  数多く存在するデジモンの種族の大半は、現実世界で認知されているものが元となっている。  獣型のデジモンならば犬や猫などの動物、ドラゴンや悪魔などの架空の生物ならば文献に絵など――その名残は種族の名前や姿に残されているため、知識さえあれば一目見ただけでも元となった情報は理解出来るのだ。  元となった情報が大袈裟なものであるほど、そのデジモンの能力は強いものになる。  投げても自動で持ち主の手に戻ってくる槍だとか唾液だけで川が築かれる狼だとか、そんな現実では有り得ないであろう情報ばかりが記述されている『神話』などの文献が元となったデジモンならば、その危険度は核兵器とは比べ物にならないだろう。  七大魔王という名を冠する七種のデジモン達は、まさしくその『文献が元となったデジモン』の類である。  彼等の力の象徴と言える情報は『七つの大罪』と呼ばれ、『七つの死に至る罪』という意味を含んだ宗教上の用語なのだが、正確には『罪』そのものではなく人間を罪に導く可能性が高いとされる感情や欲望の事を指しているらしい。  七種の感情と欲望はそれぞれ「憤怒」「強欲」「暴食」「嫉妬」「色欲」「傲慢」「怠惰」と分けられ、後々になってからそれぞれに対応する『悪魔』や、外見から関連付けるためか『動物』の情報もまた設定されている。  縁芽苦郎に宿る『ベルフェモン』というデジモンの元となった悪魔は『ベルフェゴール』という名を持ち、同時に熊や牛と関連付けされていることから、情報を反映させた結果として殆ど獣に近い姿になったのだろう。  そして、鳴風羽鷺の口から告げられた『リヴァイアモン』というデジモンは、ベルフェモンと同じく七大魔王の一角を担う存在。  ベルフェモンが『怠惰』に対応している一方で、リヴァイアモンが対応している罪源は『嫉妬』。  対応する悪魔の名は『レヴィアタン』と呼ばれ、海中に住む巨大な怪物として旧約聖書にて登場したのが発祥とされている。  伝統的には巨大な魚かクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれており、デジモンとして創作されたリヴァイアモンの外見もまたワニのそれと殆ど相違が無く、あまりにもその体が巨大である事から旧約聖書の情報が元になったのだと思われる。  だが、あくまでそれはレヴィアタンの一つの側面に過ぎず、悪魔としてのレヴィアタンは水を司り人に憑依する事が出来る大嘘吐きの怪物として描かれているらしい。  司弩蒼矢の脳に宿っているその魔王は嘘吐きの悪魔なのか、それとも冷酷無情で凶暴な怪物なのか。  そもそもリヴァイアモンが対応しているとされる『嫉妬』とは何なのか。  あまりにも巨大過ぎる体を持ち、泳ぐだけで波を逆巻かせるほどの力を持ちながら、どんな事情でもって暗い感情を抱くのだろうか。  さて。  ここまで『リヴァイアモン』というデジモンについて語ってきたが、正直なところ私にも詳しい事は分からない。  何しろ、ホビーミックスの一環で設定された情報自体が本当かどうか定かじゃないから。  現実世界において聖書の中で設定されたものと、デジタルワールドに実在している『本物』が本当に同じものなのか。  正しい事かもしれないし、正しくないのかもしれない。  誰かさんがデータ化させた『図鑑』の情報は、あくまで第三者の視点で見聞きしただけの感想に過ぎない。  魔物を率いる魔王も、人間から見れば悪者だが魔物から見れば優れた君主と見られるように、一つの視点だけで判断した情報で個の全てが語り尽くせるわけが無い。  何が正しいのか。  何が間違っているのか。  正しいと思っている事が間違っているのか。  間違っていると思っている事が正しいのか。  リヴァイアモンという名の怪物は、確かに居るのかもしれない。  そいつを宿している司弩蒼矢の脳も、その内侵されて文字通りの『怪物』になってしまうかもしれない。  さてと。  ここがターニングポイントなわけだが、運命は誰に味方するのか。  可能性の芽にしろ何にしろ、まだ劇の幕は開いたばかりだ。    ◆ ◆ ◆ ◆  リヴァイアモン。  その名前を、牙絡雑賀は知っていた。  その能力についても、危険性についても、知っているつもりだった。  だからでこそ、その名前を告げられた瞬間、嫌でも目の前が真っ暗になってしまった。 (……何でだよ……)  心の何処かで、考えていた事ではあった。  縁芽苦郎のように『七大魔王』に類されるデジモンを宿す電脳力者の一例が存在する以上、可能性の話として他の七大魔王デジモンを宿している電脳力者だって存在するかもしれない、と。  敵として対面してしまう可能性だって、十分に考えられてはいた。  だけど、 (……何で、よりにもよってアイツなんだよ……!? 何で、アイツの中に宿っているデジモンがよりにもよって『七大魔王』の一体なんだよ!? 何で、こんなピンポイントで最悪な答えに辿り着いてしまうんだよ……ッ!!)  疑問に答えは出ない。  そもそも、未明の事なのだ。  雑賀自身、自分自身の脳に宿るデジモンの種族は今でこそ解っているが、そもそも何故その種族が宿る事になったのか、その『原因』は全くと言っていいレベルで解っていない。  もしかしたら、自分の知らない内に第三者から『植え付けられた』のかもしれないし。  あるいは、ARDS拡散脳力場を放っている電脳力者と似たような理屈で姿が視えない状態のデジモンそのものが、幽霊か何かのように取り憑いてきたのかもしれない。  椅子取りゲームだと縁芽苦郎は例えていたが、ゲームに使われる椅子は普通の人間。  ただ一方的に居座られ、座られた椅子の価値も、座る側に依存させられる。  そしてそれは、他の電脳力者にも言える事。  司弩蒼矢もまた、自身に宿る『七大魔王』の存在を知らない。  知っていて、その圧倒的な『力』を実際に行使されれば、そもそも牙絡雑賀は今生きていないのだから。  憤りの感情が表に出ていたらしく、雑賀の反応を見た鳴風羽鷺は言葉を紡ぎだす。 「その反応を見るに、知っているみたいですね。『リヴァイアモン』というデジモンについて」 「……だったらどうした」 「知っているのなら話が早いって事ですよ。あなたの事については苦郎さんからも聞いてますが、まだ成熟期までの力しか使えないらしいじゃないですか。率直に言って、今回の件はあなたには荷が重い。後の事は苦郎さんに任せて、手を引いたほうが良いかと思いますよ~」 「…………」  言っている事は、間違っていないだろう。  事に究極体レベルの中でも最強クラスのデジモンの『力』が関わっている以上、それを求めて行動を起こす者の強さも、応じたものである可能性が高い。  強制的に従わせるという形であれば、最低でも完全体クラスのデジモンの『力』を有した電脳力者か、それすら越える究極体クラスのデジモンの『力』を持った電脳力者が。  確かに、実際の話として同じ『七大魔王』デジモンを宿す苦郎の力ならば、それ等を相手にしても無事に目的を達成出来るとは思える。  だが、その成功は決してハッピーエンドには繋がらない。   「……本当に、殺すしか方法が無いのか。本当に、それ以外の方法は無いって苦郎の奴は言ったのか」 「殺す以外の方法は、無いとも言い切れないですよ」  羽鷺は、特に考える素振りも見せずに即答した。   「でも、後の事を考えてるとそれが最善になるからそうする。無視出来ない可能性があるから、それを摘んでおきたい。要するに、そういうことなんじゃないですか? 苦郎さんぐらいの実力者なら、実際の問題として『グリード』とやらの一員に攫われた司弩蒼矢の身柄を確保する事は出来るかもしれません。ですが、確保したからと言ってそこで危険な可能性が潰えるわけじゃない。だから、とりあえず殺して確実な『安心』を得る。そういう事だと思いますよー」  助ける事が出来るかもしれないのに、とりあえずの判断で見捨てる。  縁芽苦郎本人が本当にそのような判断で行動しているのかはまだ解らないが、それでも雑賀は少なからず憤りを感じていた。  反論の材料を探そうとして、そしてそこで気付いた。  この場で見知らぬ相手に対して言葉を発していても、恐らく意味は無い。  そもそも、こうしている間にも縁芽苦郎は行動を開始しているかもしれないのだ。  この男に苦郎を説得してもらう――なんて事を試している時間も無いし、そもそもこの鳴風羽鷺が本当に縁芽苦郎の仲間なのかさえ解っていない以上、信用するには難しいものがある。 「……苦郎の奴は、もう居所を掴んでいるのか?」 「そこまでは知りません。知っていたとしても、基本的に非戦闘要員の僕に教えるとは思えませんしー」 「その二本の刀は飾りかよ」 「基本は護身用ですー」  大した情報は持っていないらしい。  だとすれば、これ以上の会話は必要無いだろう。  ここからどう動くかは、自分自身の直感を信じて決める以外に無い。  ◆ ◆ ◆ ◆    司弩蒼矢は、力無く地面に伏していた。  より正確に言うならば、起き上がろうとする意思自体が潰されていた。  まるで、頭の上から錘でも乗せられているかのような、胃袋の中に鉛でも詰められているような、その感覚。  視界は地面の灰色に染まっているが、心という物が目に見えるのであれば自分の心はどんな色に染まっているのか、蒼矢には到底想像も出来ない事だった。 「…………」  状況に対して思う事は色々ある。  どうして、こんな事になってしまったのか。  どうして、裏切りという事実にここまで苦痛を感じるのか。  どうして、自分の中に得体の知れない化け物が根付いてしまったのか、とか。  つい少し前までなら、この状況も罰の一環なのだと納得出来ていたつもりだった。  罪の無い人間に怪物として牙を剥いた以上、もう人間と同じ扱いはされないであろう事も。  結局、救われたいと思う気持ちが残っていたのだろうか。  そんな資格、自分にはもう無いであろうに。 「さて、と」  視界の外から男の声が聞こえる。  まるで待ちくたびれていたかのような、この状況をいっそ楽しんでいるかのような調子の声だった。 「そんなわけだ。お前が善意をもって接してくれていたと思ってた女の子は、俺達の協力者だった。これ以上の説明は必要無いよな?」  「…………」  何か言い返そうと思えば、言い返せるはずだった。  だが、蒼矢は何も言わなかった。  善意を必死に信じようとしたところで、ただ苦しみが増すだけだと判断した。  だが、 「まぁ、好意を持たれて良い気分になる気持ちは解らんでも無い。何せ、こんなに可愛い女の子なんだしな。望んで俺達の組織に入るってんなら、また『同じ』関係を築くことも出来ない事も無いぜ?」  その言葉を聞いて、蒼矢の瞳に明確な意思が宿った。  それが怒りと呼ばれる感情なのだと、彼は理解していただろうか。  彼は顔を上げて、男に言葉を返す。 「……さっきから馬鹿にしてるのか。何でお前の言う『組織』に望んで入らないといけないんだ」 「ん? 別に望まないなら望まないなりに強制的に入らせるわけだが。良いのか? 洗脳よろしく頭の中を弄くられても」 「…………」    到底馴染みの無い単語が飛んで来た。  これが『力』を得る前の頃であれば冗談か何かだと聞き流す事も出来たかもしれないが、実際問題として出来ない事では無いと認識してしまっている以上、全く笑えない。  男が言っている事は、要するにこういうことなのだろう。  望んで力を貸して楽になるか、望まず力を貸して苦しむか。  どちらにしてもロクな末路が想像出来ない。  何とか抵抗出来ないものかと思案するが、 「……抵抗はしないほうがいいですよ。抗った所で、いつか心の方が折れる。あなたは優しいですから、家族を人質に取られるだけで何も出来なくなるのは解りきってます」  女の子の囁くような声が聞こえた。  裏切り者のクセに、やけに優しげな声だと思った。  だが、この状況においてその妙な気遣いは、神経を焙る以外の効果を持たない。  蒼矢もまた、この状況になって我慢する事はやめた。  だから、 「……ああああああああああああああああああああっ!!」  叫びと共に、蒼矢の体を中心に青白い光の繭が現れる。  背中を押さえ付けていた別の誰かを吹き飛ばし、守ろうと思っていたはずの少女の目の前で彼の『力』が起動する。  繭の中で彼の身体が人としての輪郭を残しながらも変じていく。  身体の色は総じて小麦色から青緑色に、その質感は人肌から鱗のそれに。  下半身は丸ごと魚と蛇の面影を同時に想起させるような、先端に赤色の葉っぱに似た鰭を伴った細長い尾に。  左手の指と指の間には水を効率よく掻くための膜が張られ、首の下から尾の先端にかけては蛇腹が生じ。  顔の部分は人間の骨格のまま、さながら兜か仮面のように黄色の外殻に覆われ。  極め付けに、義手として確かに存在していたはずの右手は、一日前の時のそれと同じ異質の象徴――鋭利な牙を有し、人の頭ぐらいなら丸呑み出来そうなほどに大きく裂けた口を伴った瞳の無い『蛇』と化す。 (……結局……こうなってしまうのか……)  そうして、司弩蒼矢は怪物と化す。  この姿になる事を望んでいたわけではないのに、自然とこうなった。  自分自身が『力』を制御出来ていないからなのか、あるいはこの姿が怪物に相応しい姿だからなのか。  蒼矢の姿を見た縞模様の服の男は笑みを浮かべ、口笛を吹いた。 「へぇ、まさしく化け物って所か。人間らしい部位なんて殆ど無い。こりゃあ『組織』が欲するわけだ……」 「……何とでも言え……自分が怪物だという事ぐらい、もう解ってる……!!」  本来は水の中を泳ぐために使われる尾びれで直立し、右腕から変じた『蛇』を男に向ける。  その気になれば牙や氷の矢でもって赤い色を広げさせる事が出来るであろう凶器を向けられても、縞模様服の男は動じない。  ただ一方的に、言葉を投げかける。 「大人しく従ってくれるんならそれで済むんだが、抵抗するんなら仕方無い……痛い目見てもらうぜ?」  直後の出来事だった。  男の身体が、瞬く間に灰色と黒色を混ぜ込んだような色の光の繭に包まれる。 (……これ、は……)    これまで蒼矢は、自分以外の誰かが『力』を使って変化していく様を見た事が無かった。  プールで戦った牙絡雑賀と名乗っていた男は、自我を取り戻した時点で既に『変化』した後で、覚えている限りではそれ以外の『力』を使った人間の姿を見た事が無い。  それが『デジモン』と呼ばれる存在の力である事を知らない蒼矢には、目の前で生じている繭が『進化』を遂げるためのエネルギーの塊である事はわからない。  だが、それでも直感した。 (……僕より、強い『力』なのか……!?)  繭の中から、蒼矢とは異なる『力』を伴った怪物が現れる。  それは、上半身が裸になっている事を除けば大半が人間の面影を残した姿だった。  下半身が丸ごと海蛇の尾と化している蒼矢とは違い、男の下半身には元々穿いていた灰色のズボンから靴にかけて多少デザインが変わってこそいれど存在しているし、頭部にはしっかりと青い頭髪が生えている。  異質の象徴と言える物は、上半身に集中していた。  アクセサリーの一環としては明らかに付け過ぎだと言わんばかりに巻き付けられた鎖に、顔面を覆う形に取り付けられた鉄の仮面――極め付けに、全身から噴き出る青色の炎。  繭から解き放たれたその瞬間に、自分が居る空間の気温が上がってきた気がする。  それも、夏の蒸し暑さなど比類にもならないレベルで。 「……さァて、成熟期クラスの『力』で完全体クラスの力にどれだけ耐えれるやら」  本能的な危険信号が頭の中で反芻する。  可能性を思考する段階から、既に負ける未来図しか見えてこない。  逃げた方が利口だと理解しても、足から変化したこの尾びれで逃げ切れる気がしない。  そして、その考えは間違っていなかった。    ズグギィッッッ!! と。  右腕の『蛇』から氷の矢を咄嗟に放とうとする間も無く、怪物と化した蒼矢の体が、冗談抜きに香港映画のように吹き飛ばされ壁に激突する。  ただ、拳を使った振り上げる形の一撃。  それが蒼矢を襲った攻撃の内容だった。 「が……はっ!?」  重力に引かれて地面に落ちようとした所で、次の動きがあった。  蒼矢を殴り飛ばした炎の魔人が、自身の身体に巻き付けられた鎖を投げ放つ。  その鎖がまるで意思を持っているかのような挙動で蒼矢の体に巻き付くと、魔人は投げ放った鎖を改めて握り直す。  直後に、それは振るわれた。  最早抵抗するだけの余裕も無いまま、蒼矢の体は鎖に縛られたまま地面に向かって叩き付けられる。  頭部を丸ごと覆う兜のような甲殻が無ければ、即死してもおかしくない勢いだった。 「……ぐ……が……」 「おいおい、勢い余って殺しちまったりしないよな? 思いっきり頭蓋に入ったぞ」 「この程度で死ぬようなら、そもそも『組織』が必要としねェだろ。それに、流れで覚醒してくれるンなら都合が良いし」  揺らぐ意識の中で黄色い声が微かに聞こえる。  実の所、蒼矢はもうこの時点で戦おうとする意思を失っていた。 「そもそもの問題として水中戦、あるいは水上戦で真価を発揮するデジモンの『力』で、陸地が本場の相手に立ち向かえるわけが無いだろ。足も無いその姿が本当に正しい形なのかは知らねェが、コイツは正しくまな板の上の鯉って奴だ」  勝ち目が無いだけでは無く、そもそもこの魔人が『組織』に属しているのであれば、場合によっては増援がやってくる可能性さえある。  ただでさえ目の前の一人にすら太刀打ち出来ないのに、これ以上新たな『敵』が増えてはどうしようも無い。  いずれ、どこかで、折れる。  そうとしか考えられなくなってしまいそうになる。 「…………っ」  それでも戦おうとしているのは、はたして自分の意思によるものなのか、それとも怪物の意思によるものなのか。  蒼矢には解らない。  自分の中に宿っている怪物が何を考えているのかも、どう戦えばいいのかも。  いっそ、自分を忘れて本能に任せて暴れてしまった方がいいのか。   (……嫌だ。それだけは、それだけは絶対に……!!)  もしここで『折れて』しまえば、自分の力が何か別の目的に使われる。  それも、恐らくは悪意を伴う内容だろう。 (……この力が、危険なものである事はわかってるんだ。こんな奴等の好きにさせたら、駄目なんだ……!!) 「ギブアップはしねェのか。出来ればさっさと諦めてほしいんだが、なァ!!」  倒れ伏したままの蒼矢が、サッカーボールでも扱うように腹を蹴られる。  鈍い痛みが体を奔り、胃の中から何かを吐き出してしまうような声が漏れる。  可哀想になぁ、と魔人の仲間である男は黄色い声を出しながらそれを傍観していて。  この現状を生み出した少女は、無の表情のままそれを眺めていた。  だから、その状況に変化をもたらしたのは、彼等にとってのイレギュラーだった。 「……アンタ達、何をしてんの」  視線が、痛めつけられている司弩蒼矢から別の方へと移される。  痛めつけられていた蒼矢もまた、倒れ伏したまま声のした方へと目を向ける。  建物の入り口らしき場所に立っていたその人物の姿は、いっそ場違いとも言えたかもしれない。  そこに居たのは、どこにでもいそうな制服姿の女の子。  怪物が二体存在するこの空間に、恐れ知らずにも踏み込んできた、学生。  その介入に、面倒事が増えたと言わんばかりに魔人もその仲間も目を細めた。  一方で裏切りの少女は、本当に驚いたように目を丸くしていた。   「……なんでまたこんな場面で一般枠が来ちまうかねェ。これはアレか? 目撃者は野放しで帰すなっていう流れ……」 「その人から離れなさいよ」  その女の子は、魔人の言葉を遮る形で言葉を発していた。  状況も経緯も解らないはずなのに、それでもある怪物を庇おうとする言葉を。  思わず、魔人は呆気に取られたように笑い出した。 「……人? 人って言ったのか、この気持ち悪い化け物を。オイオイ良かったなァ、そんな姿でもまだ人だって認識してくれる奴が居てくれて!! 流石にこの反応はオレも予想してなかったわ!!」 「別におかしい事じゃないでしょ。つい少し前に鳥みたいな人にも出会ったし」  一歩、また一歩踏み込んでいく。  怪物の姿を認識出来ている時点で、魔人もその仲間もこの少女が『同類』である事は理解している。  だが、仮にデジモンの『力』を使って戦えるのであれば、さっさと『肉体の変換』を実行しているはずだ。  それ故に、彼等はすぐに気が付いた。  この少女は、また自分の『力』を使える段階には至っていない、と。  その事実は少女自身も理解しているはずだ。   「あんた達が何者かは知らない。その人が何でそんな目に遭わされてるのかも知らない」 「なら、どうして関わろうとする? 身の程ってのを理解してないタイプか」  少女の言葉に、魔人の仲間が問いで返す。  対する少女の答えは単純なものだった。 「身の程知らずだろうが何だろうが、ここで見捨てたら後悔しそうだったから」 「なら、今から後悔する事になるな」 「やってみろ」  言葉と同時に、少女――縁芽好夢が駆け出し始める。  ◆ ◆ ◆ ◆  そして、一方で。  そんな少女の義理の兄である縁芽苦郎は、現在進行形で足取りを追っていた。  当然、拉致された司弩蒼矢と拉致した連中の居所を、である。  彼の姿は既に『ベルフェモン』と呼ばれる魔王型デジモンを原型とした姿へと変じており、彼はその六枚の翼でもって飛翔する事で移動を続けていた。  無論、あまり高すぎる位置から探りを入れようとしても、手がかりも何も無いため見つかるわけが無い。  が、鳴風羽鷺が視覚、牙絡雑賀が嗅覚を頼りにするように、縁芽苦郎の宿す『ベルフェモン』の力にも、捜索の際に頼りになる感覚が存在する。  それは、視覚でも嗅覚でも触角でも味覚でも聴覚でもない――第六の感覚。  第六感と呼ばれる、基本的には五感を超えて物事の本質を掴む心の働きである。  それを最大源に発揮するためか、彼は飛びながらも瞳を閉じていた。 (……あっちか)  悪魔型や魔王型に分類されるデジモンは、基本的に悪感情と関わりが深い。  憤怒に憎悪、妬みに欲望――そういった悪意の吹き溜まりとも呼べる世界に住んでいるからだ。  そして、そんな環境に適合する形で進化を果たしたデジモンは、悪感情を自らの力に変換する力を経ている。  個体によっては自分自身の悪意だけでなく、他者の悪意までも。  だからでこそ、悪魔型や魔王型のデジモンは他者の悪意に敏感で、それ自体が常識を凌駕した生体レーダーの役割を為す。   (……考えが正しければ、連中は『リヴァイアモン』の力を我が物にしようとしているはずだ。そして、連中の長と言える者は、それを可能とするだけの力と技術を有している。御せぬ力を手元に置いたところで、それは不発弾と大差無いであろうからな……)  行動に出た組織こと『グリード』の構成員は、まず悪意でもって標的の『リヴァイアモン』の力を有する人間を追い詰めるはずだ。  その方法にまでは想像が及ばないが、何にせよ結果として心が悪意ある方へ歪んでしまえば魔王の力が目覚める切っ掛けになる可能性が高い。  今回の件で『グリード』が何のために『リヴァイアモン』の力を求めているのかは解らない。  だが、悪意を伴った人間が持てば、いずれ大きな脅威となる可能性が高い。  最悪、その『力』が暴走でもした場合、核弾頭以上の暴力が街を襲うハメになってしまう。  それを阻止するためにも、あくまでも可能性の段階であろうと、不安要素は取り除くのが最優先の事項だ。  即ち、現時点で『リヴァイアモン』を宿している可能性が高い人物――司弩蒼矢を殺す事。   「…………」  人間が人間が意図して殺すのには、それを知らない者には想像も出来ないほどの覚悟が必要となる。  殆どの人間は悪を貫こうとするだけで心が疲れ、擦り切れ、やがて動きを止める。  もしかしたら何の罪も無いかもしれない誰かを殺すなど、罪悪感から出来ずともおかしくはないし、それを恥じる必要も無い。  人を殺すという行為は、どう言葉を飾ろうとも悪行でしかない。  だが、その行動が誰かを『守る』という善の結果に繋がると解ってしまえば、悪行だと理解した上でも出来てしまう。  善は悪よりも強い。  善に流れる事が簡単だとも言い換えることが出来る。    だから、縁芽苦郎はあくまでも非情に徹する事を決めていた。  殺す対象が、本当は恐るべき力を宿していなかったとしても、何の罪も犯していなかったとしても、最悪の可能性を叩き潰し、大切なものを『守る』ことが出来るのであれば。  どんな罪であろうと被って進む。  そんな意思も持てないのであれば、そもそもこんな生き方はとっくに止めている。 (……間違い無く、雑賀の奴は我を恨むだろう。この一件が切っ掛けで、仲間になる事を拒否するようになる可能性もあるが……仕方あるまい)  思考――というより、覚悟の再確認が終わる。  瞳を開き、第六感から五感に頼るべき感覚を切り替える。  翼による飛翔を一度止め、視界に入っていた雑居ビルの一つに着地する。  そこから真正面に視線を向けると、そこにはどこか廃れた雰囲気のビルが一件存在していた。 (……技術成長の弊害だな。一定以上の大きさを有した建物は、取り壊し自体が大きな危険と予算を伴う。故に放置され、必要とされなくなった建物は『隠れ家』として使われる。定番とさえ言っても良い、か)  既に、目的の場所は目前にある。  後は、ビルを倒壊させるなり直接殴り込みに向かうなりするだけ――のはずだった。 「…………」  縁芽苦郎は、思わず目を細めていた。  獣の耳が、その聴覚が、背後から自らを追う何者かの接近を感知する。  第六感による生体レーダーでは感知出来なかった、悪意が比較的薄い|電脳力者《デューマン》の存在を。  そして振り返ると、そこで視界に入ったものを見て、溜め息を吐いていた。 「…ブライモンの電脳力者から伝言は聞かなかったのか?」 「聞いたさ。その上でここに来た」  そこに居たのは、白と青の二種類の色を宿した狼男。  獣型デジモン『ガルルモン』の力を宿す電脳力者……牙絡雑賀だった。   (……病室でこの姿を見せた際、その『ニオイ』でも記憶されていたか) 「何をしに来た」 「お前を止めに来た」 「止められると思うのか?」 「出来る出来ないの問題じゃねぇんだよ」  それだけで十分だった。  縁芽苦郎は牙絡雑賀の選択を理解した。  どこか狂気の色を秘めた赤い瞳を細め、そして宣告する。 「ならば仕方が無い。今一度、お前には眠ってもらうとしよう」    ◆ ◆ ◆ ◆  正直に言って。  縁芽好夢は、状況というものを詳しく把握出来てはいなかった。  元々、現在の少女の目的は以前見かけたイカ人間や侍の鳥人が持っている『異能』の力に自分自身も覚醒する事であり、そのために危険だと察してながらも普段は通わない道や場所を歩き続けて、その中で『異能』の持ち主との対面を望んでいた。  この場にやって来た理由も、何か絶叫染みた『声』が聞こえて、どうしても気になったからその方向を基準に走っていたら、偶然見つけた廃ビルの内部から似たようなものに覚えのある違和感を感じたのが、切っ掛けだったからに過ぎない。  そして今、好夢の目前にはお目当ての『異能』の持ち主が二人――いや、まだ『異能』を行使していないだけで、恐らくは『異能』の持ち主であろうと思われる人物が合計四人居る。  目的だけで語るのなら、まさしく好ましい展開だと言えたかもしれない。  しかし、右腕が丸ごと蛇と化している鱗肌の半魚人の惨状を見た時、喜び以上に不快感の方があった。  明らかにもう一人の『異能』を行使している何者か――鉄仮面に鎖に青く燃えている体が特徴な怪人――の手によって痛め付けられ、弱らせられている。  そして、そんな惨状を傍観していながら、それを止めさせようともせず完全に他人事の視線を向けている男と、感情と言えるものがひたすらに枯渇しているような表情の女の姿を視界に捉えた時、もう好夢には我慢が出来なかった。  不意討ちのメリットさえ無視してその場に躍り出たのも、結局のところ感情に従った結果に過ぎない。 (……苦郎にぃが見れば、感情的になってチャンスを逃すなんて馬鹿らしいとか言うだろうけど)  自分が馬鹿な事をしているという事については、好夢自身自覚している事だ。  行動の後になって、後悔の念が決して無いと言えば嘘にもなる。 「あんた達が何者かは知らない。その人が何でそんな目に遭わされてるのかも知らない」 「なら、どうして関わろうとする? 身の程ってのを理解してないタイプか」  だけど、行動に対する答えはあった。  だから、思ったことを口にすることに躊躇は無かった。 「身の程知らずだろうが何だろうが、ここで見捨てたら後悔しそうだったから」 「なら、今から後悔する事になるな」 「やってみろ」  とはいえ。  いくら度胸があろうと、現実的に考えて人間一人の力でこの状況を打破するのは難しい。  鈍器や拳銃といった武器らしきものを持っていない事についても、人数の差と例の人外の力を考慮すると大して安心出来る要素でもない。  当然ただ真正面から挑むだけではまず勝てない。  いやそもそも、勝ち目なんて元から存在しないのだろう。  彼女が、本当の本当に『普通』の人間であれば。 (……助けるんだ)  その時、縁芽好夢の胸の内には一つの決心があった。  状況は圧倒的に不利。助けなどが来る可能性には期待出来ない。  そもそも何も解っていない。自分の行動が間違っている可能性すらある。 (あの半魚人が善い人なのかはわからない。だけど、それでも助けてみせる……絶対に……!!)  だけど、それでも彼女は決めた。  人間としての顔も名前も知らない――そんな相手だとしても、助けてみせると。  決意が、少女に宿っていた『力』を目覚めさせる。  その脳裏に、拳法着を纏った兎の獣人の姿を焼き付ける形で、少女の体が駆け出す動作のまま光と共に変化していく。  ――纏う制服の色が黄の色へと変じ、胸元の布地には『武闘』の二文字が刻まれる。  ――耳の先端と口元には薄く白の、それ以外の全身各部には紫色の獣毛が生じ、額からは三本の短く尖った角が生える。  ――極め付けに両耳が頭髪を巻き込みながら伸び、まるで鉢巻の帯のように靡く兎の耳へと変じた。  黄色い制服を着た、紫色の兎の獣人。  それが、縁芽好夢の変化した姿だった。  そして変化が終わったと同時、駆け出す速度は一気に増す。 「おおおおおおおおおおおおおっ!!」 「!! チッ!!」  これには暴漢の一人も思わず驚きの表情を浮かべ舌打ちし、咄嗟に眉間へ力を込めたかと思えば、その身を暗い黒色の光と共に異形へと変化させようとした。  だがその直前、好夢は躊躇もせずに右の拳を男の顔面目掛けて突き出す。  鈍い音が炸裂し、男の体が弧を描いて仰向けに転がる。  その際に頭を強く打ってしまったのか、あるいは拳が脳を強く揺さ振ったからか、男はそのまま起き上がる様子も無いまま沈黙した。  そこまでやってから、好夢は自分の体に起きた変化を実感する。  紛れもない化け物の力を、突発的な出来事とはいえ発現出来た事を自覚する。 「……チッ、馬鹿が油断しやがって」  呆気なく気絶させられてしまった男に対し、炎の魔人は容赦の無い悪態を吐く。  彼等の間に仲間意識と呼べるものがあるのかは知らないが、どうやら助けようと動くつもりは無いらしい。  事実上の戦闘不能となった男から視線を外し、好夢は炎の魔人へその視線を移す。  が、炎の魔人はその視線を意に介さず、その視線をこの場に存在するもう一人の女の子へと向けた。  まるで突き刺すかのように、言葉を発する。   「お前、こいつを見張ってロ。そこの似非バニーガールは俺が始末してやル」 「…………」  少女は特に返事を返さなかったが、魔人の指示には従う事にしたらしい。  魔人は蒼鱗の爬虫類染みた容姿の怪人を押さえ付けていた足を退かし、少しずつ好夢の方へと歩み寄る。  少女はそれと入れ替わる形で、怪人の隣に棒立ちする。   (……こいつは、強い)  好夢は、素直に目の前の魔人の危険度をそう判断した。  自分自身、明確に『力』を手に入れたからだろうか――あるいは、俗に言う防衛本能からか。  自らに宿る『力』がどのような物なのかはまだ解らないが、少なくとも炎の魔人に対して優位に立ち回れるような部類の『力』ではない事は何となく理解出来ていた。 (……でも、やるしかない)  自分に宿っている『力』がどのような方向で自分を強くしているのか、正確には解らない。  だが、少なくとも脚力に腕力といった運動能力が飛躍的に上昇している、という事が解ったのは幸いだった。  もしも自身に宿っている怪物が防犯オリエンテーションの時に遭遇したイカ人間や鳥人間のように『四肢以外にも動かせる部位がある』部類の怪物であれば、自分の体の動かし方すら理解出来ないまま嬲られてもおかしくはなかったが――人間と体の動かし方が大差無いのであれば、人間の技術がそのまま応用出来るはずだ。  手札は揃っている。  後は、それが何処まで通用するかどうか。  好夢は、力で劣る事を察した上で、炎の魔人目掛けて真正面から突撃した。    ◆ ◆ ◆ ◆  率直に言って。  勝負にならないであろう事は、雑賀自身理解していた。  そもそもの話として、牙絡雑賀が自身の脳に宿っている『力』として扱っている『ガルルモン』というデジモンは、進化の段階にして最上には程遠い成熟期に該当されるもの。  対する縁芽苦郎の脳に宿っているのであろう『ベルフェモン』というデジモンは、デジモンの進化の到達点とも言える究極体――そして、その中で尚上位に該当される『七大魔王』と呼ばれる存在。  魔王にとって、有象無象の獣などは『敵』という区分にさえ入らない。  それほどまでに、成熟期と究極体の違いから生じる差は大きいのだ。  獣が襲い掛かろうが尻尾を巻いて逃げようが、魔王はその生死を容易く選択出来る。  そして、他ならぬ雑賀自身が明確に対峙する意志を示し、苦郎もまた出来る出来ないの問題を無視して雑賀のことを事態の解決を妨げる要因として認識した以上、排除しに掛かって来るのは解り切っていた事だ。  だが、それにしたって苦郎の初動はあまりにもシンプルなものだった。  ドン!! と。  凄まじい足音と共に苦郎は一瞬で雑賀との間合いを詰め、躊躇無く雑賀の胸の中央に右手の爪を突き立てて来たのだ。  初手から、小手調べも様子見も何も無い一撃必殺の勢いだった。  警戒していたはずなのに、動きに対応しようと身構えていたはずなのに――そんな考え自体を力技で踏み砕くかのような。  刺された――そう遅れて認識した時には、雑賀の体を猛烈な倦怠感と痺れが蝕み始めていた。 「があ……っ!?」 (……これ、は……あの、病院で目を、覚まし、た時と同じ痺れ、か……っ!?)  爪で刺されたのであれば、体を駆け巡るのは鋭い痛みであるのが当然なはずなのに、違和感しか感じられないその感覚に『毒』という単語が脳裏に過ぎる。  すぐさま苦郎の腹を蹴って距離を取ろうとする雑賀だったが、それより先に苦郎は雑賀の上げようとした足を自らの足でもって踏み潰す。  釘を打ち付けるような一撃が、雑賀の足を強引に縫い止める。  毒素に麻酔のような効果でも含まれていたのか、僅かながら痛みは緩和されていたが、むしろそれが自分の受けたダメージに対する理解を妨げてしまっていた。  そして、人間とは危機的な状況において情報が不足していると、思わず情報を求めてしまう生き物である。  よって、雑賀が思わず自分の足の方へ視線を移そうとしたのは、ある種自然な行いと言えたかもしれない。  だが、それは至近距離の相手に対し、致命的な死角と隙を生む行為。  雑賀が自身の足元――即ち真下に視線を落とした瞬間、死角となる真上から苦郎が頭突きを振り下ろす。  ガゴッッッ!! と。  頭蓋を通して伝わる衝撃と激突音に、雑賀の意識が一気に途切れそうになる。   「……っ……ぁ……」    足から力が抜け、立っている事すら難しくなり、崩れ落ちる。  苦悶の声を漏らす雑賀に対し、苦郎は威圧的な声で語りかけた。   「お前は我を止めると言ったな。我が、司弩蒼矢を……『リヴァイアモン』の力を宿している可能性を内包した電脳力者を殺そうとしている事を知った上で」 「……ったり前だ……そんな仮説のために、とりあえずの感覚で……人が殺されるのを見過ごせるか……っ!!」 「可否の問題は別として、それがどのような意味を持つのか考えた事はあるのか」  声色は冷たく、言葉に含まれた感情は重い。  住んでいる場所が違うというのは、正しくこのような人物を指す言葉なのだろうか。  胃袋の底に掛かる重圧に耐えながらも、雑賀は苦郎に怒りを剥き出しにして吠える。 「……考えても、納得なんて出来るわけが無いだろ……!! アイツ自身に罪なんて無いはずなんだ。アイツの家族だって帰りを待っているはずなんだ!! それなのに、魔王を宿しているなんて話もあくまで『かもしれない』の話でしか無いのに、何で殺されなくちゃいけないんだ!!」 「ああ、この行動は決して『正しい』行動では無いのだろう。どんなに理由を掲げようが、やる事はただの人殺し。人としては明確に正道を外れる行為だ」  意外にも、苦郎は自身の行動の非を認めた。  自身の行動は最も確実に危険な可能性を取り除けるが、一方で人間としては間違った解決手段であると。  だが、それを肯定した上で苦郎は言葉を紡いでくる。 「だが、それでも我は殺す。司弩蒼矢を、その脳に宿る魔王を」 「なんで……」 「解らんとは言わせぬぞ。お前は既にフレースヴェルグと対面し、究極体クラスのデジモンの力を扱う電脳力者を目撃している。電脳力者の戦闘能力が、宿している種族の能力を強く反映させたものになる事ぐらいは理解しているだろう」 「…………」 「リヴァイアモンは『七大魔王』という枠組みの中で最も解りやすい危険を秘めた存在だ。始末する以外に『確実に』危険な可能性を排除出来る方法は無い。まして、今回の案件に悪意を持つ者が絡んでいるのであれば尚更だ」  言葉の一つ一つが、病室で会話をした時以上に雑賀の心に動揺を与えていた。  日常の中に居たはずの怠け癖が目立つ知り合いの姿が、口を開く度に崩れていくのがわかる。  あるいは、これが本来の顔なのか。  友達が事件に巻き込まれ、結果としてデジモンの力を手に入れるまで――ずっと偽りの顔で回りの人間と接してきたのか。  知り合いならまだしも、自身の家族にすらも。 「……どれだけ非情に見えようとも、そうする事で問題を解決に導けるのであれば。確実に、絶対に、安定して、安全というものを確保出来るのであれば。とりあえずの判断で殺しておくべきだ。友人でも無ければ知り合いでも無い赤の他人のために危険を許容出来るほど我は博愛主義では無い。まして、その危険の矛先が我以外にも向けられる可能性があるのであれば尚更だろうが」  その言葉を受けて。  雑賀は、苦郎の真意を少しだけ理解した。  結局のところ、苦郎はただ失いたく無いだけなのだ。  つい一日前まで、非日常とは縁の無い普通の人間として当たり前の日々を過ごして来た雑賀には曖昧な形でしか想像すら出来ないが、少なくともこの男はこうして表と裏の世界を行き来しながら、雑賀の知らない所で今日まで戦ってきたのだろう。  自分にとって大切なものを、当たり前でなくては困るものを、守り抜くために。  ……病院の中でも、苦郎は雑賀に対してこう言っていたではないか。  義理の妹である縁芽好夢に、自分の裏側の顔である魔王としての情報を伝えないでくれ、と。   (……あぁ)    その選択に対する憤りは覚えるが、それでも狼男は目の前の魔王を恨めない。  単に家族を含めた親しい誰かの安全を理由にされているからでも、自分よりも物事に対する危険性を認識しているから……といった理由だけではない。  苦郎の語る危険性の問題は、雑賀からしても他人事で扱う事は出来ないものだ。  仮に、万が一にでも、司弩蒼矢に宿る魔王の力が悪い方向に流された場合、その矛先が|雑賀《ガルルモン》の家族に向けられる可能性だってゼロとは言い切れない。  ゲームやアニメ等の架空の情報でしか『魔王』を知らない雑賀と比べると、自らの力として現実に『魔王』が秘める危険性を認識している苦朗の方が理解は深いのだろう。  何より、この行動をただの人殺しだと自ら認めている辺り、ただ納得が出来ないという理由だけで首を突っ込んだ雑賀に比べ、ずっと責任感があると言えるかもしれない。 「それでも助けるつもりか? 司弩蒼矢を。たかだか一日前に対面した程度の縁だろう。それも敵としてだ。危険を承知の上で助けに向かう理由になるとはとても思えん。ここまで聞いてまだ瞳に意思を宿し抵抗を続けるつもりなら、我が抱えているものを台無しにするだけの理由があるのだろうな?」 「……確かに……」  まず、最初に雑賀は認めた。  目の前の魔王の行動が、正道ではなくとも間違いと言えない事を。   「……確かに、理由としては弱く見えるんだろうさ。一度だけ会って、殺されかけて、少し言葉をぶつけ合った程度のヤツを助けようなんて。思わず小便ちびってしまいそうなぐらい恐ろしい『魔王』が宿っているかもしれなくて、助けたとしても何かの切っ掛けで暴走して、結果として色んな人間を殺してしまうかもしれないって可能性だって『無い』とは決め付けられない。助けず殺してしまった方が合理的で、とりあえずは安全ってやつを守れるかもしれない。でも、だけど!!」  認めた上で。  毒に体と意識の両方を蝕まれながら、|雑賀《ガルルモン》は自らの『理由』を真正面から言い放つ。 「もし本当に魔王を宿しているのだとしても、殺して安直に終わらせるより、友達になって輪の中に入れてしまった方が絶対に面白くなる!! とりあえずの感覚で輪から弾き飛ばしてしまうよりは毎日が楽しくなるに決まってる!! 合理的でなくても、危険な選択かもしれなくても、その方がみんな嫌な気分にはならないに決まってる!! それが俺の『理由』だ!!」  その言葉に、魔王は思わずといった様子で目を丸くしていた。  そして直後に、困惑の色を滲ませてこう言った。 「……『それ』で止めろと言うのは、流石に良心というものを信じすぎていないか?」 「信じてるから、言ったんだ」 「言葉の意味を理解しているのか。お前が言っている事は、あまりにも楽観視が過ぎる。友達になる? なれると思っているのか? 確かに宿主である人間の方にはそれだけの良心が存在するかもしれん。だが、宿っているデジモンは違うだろう。大罪となるほどの嫉妬を宿し、明確な悪意を持つ魔王だ。電脳力者の心は宿すデジモンの影響を強く受ける。今でこそ良心で御する事が出来ているとしても、いつか本当に『人が変わる』かもしれぬのだぞ」 「だったら」  実際、雑賀自身も自分の心がデジモンの影響を受けているのか、そうでないのかなど判ってはいない。  今でこそ『影響』が表に出ていないだけで、宿っているデジモンが本当は『悪い』デジモンであるという可能性だって否定は出来ない。  だけど、 「お前は、どうなんだ。口調こそ確かに魔王っぽいし、態度だって目的の遂行を何より優先する機械みたいなものに見えるけど、本当に目的を遂行する事を優先するのならこうして俺と会話なんてする必要は無いはずだ……!!」 「…………」 「……本当はお前だって、殺したくなんてないんじゃないのか。接点なんて無くても、人殺しって行為には俺なんかには想像も出来ないぐらいに辛いものが絡んで来るはずだ。それを心から愉しむ悪党でもない限り、気乗りなんてするわけがない」 「……黙れ」 「だから、本当なら脅威になんて成り得ないと理解していながらも『寄り道』した。魔王の危険性を理解しながら俺に矛先を向けているのは、つまりそういうこ」 「黙れと言っている」  気付けば、苦郎はその左手で雑賀の首を鷲掴みにし、躊躇を感じさせない手早さで宙に吊り上げていた。  呼吸が滞り、更には時間の経過も重なり毒の効果が更に意識を蝕んでくる。  両手を拳の形に変えようとしても、その感覚だって曖昧なものになりつつある。 「たかが気紛れの行動一つでつけ上がるな。我が殺す事を拒んでいるだと? そうしなければ身内の安全が損なわれると理解していながら? どこまでお目出度いやつなのだお前は」  その手に加えられる力が一定のラインを超せば、首の骨は一息に圧し折られるだろう。  だが、そんな確実に命を奪われかねない状況でありながら、雑賀は真っ直ぐに魔王の目を見据えて言い返す。 「……あいつもそんな感じだったよ。随分重たい事情を抱えていたけど、それを理由に人殺しを許容する事は出来ていなかった。そっくりなんだよ。今のお前は……あの馬鹿野郎と大して変わらない……!! 強がってんじゃねぇよ。正直に言いやがれ。お前は本当はどうしたいんだ!!」 「…………」  その言葉には、多少なりとも魔王を沈黙させるだけの力があったらしい。  例えその表情が氷のように固められていて、発する声に一切の震えが混じっていなくとも、その沈黙には大きな意味がある。  事実として、雑賀の言葉を黙らせようと思えば、その首を掴む左手に力を更に加えて骨肉を潰してしまえば済むはずなのだ。  そうすれば、邪魔者はいなくなり目的を確実に達成し、身内の安全を獲得する事がとりあえずは出来る。  なのに、やらない。  出来ないのではなく、やらない。  あるいは、それが『怠惰』の大罪を司る魔王の性格による影響なのか。  束の間の沈黙は、溜め息と共に破られた。 「……予想を遥かに越える馬鹿野郎だなお前」  苦郎は呆れた様子で雑賀の首から手を離していた。  突然のことだった上に毒の影響で四肢がマトモに機能しなくなっていたため、吊り上げられた状態から着地した雑賀は仰向けに転倒してしまう。  起き上がろうとしてみるが失敗し、意識を保つだけでも精一杯の状態だった。  気にも留めずに苦郎は言葉を紡ぐ。 「……確かにお前の言う通りだ。随分と無駄な時間を過ごしてしまったな」 「苦……郎……ッ!!」  結局、言葉を尽くしてみても心は揺らがなかったのか。  そう思い表情を険しくさせる雑賀だったが、直後に苦郎はこう言った。 「確かに、会話などするべきではなかった……このような状況になってしまうのであればな」  言葉の意味を、雑賀はすぐには理解出来なかった。  ドドドドドドドドドドドッ!! と、至近距離で多数の轟音が響くまでは。  音の発生源かと思わしき『何か』を、苦郎が咄嗟に何らかの手段を用いて迎撃した――そう認識する事で、ようやく異常を認識出来た。 「なっ……」  眠気を飛ばされ、首だけを何とか持ち上げて状況を確認する雑賀。  気付けば、苦郎は倒れた雑賀のことなど見てはいなかった。  視線を追ってみると、遠方に何か異質な輪郭が見えてはいた。  だが、その一方でニオイは感じ取れない。  辛うじて姿を視認出来る程度の距離にいるにも関わらず、この瞬間になるまでその存在に気付くことすら出来なかった……っ!?  この状況で『攻撃』してくる以上、司弩蒼矢に宿る(と思われている)魔王の力を狙った企みに加担している何者か――と考えるのが自然だといえる。  明確な危機感を抱く雑賀だが、焦る心に反して動く事は出来ない。   「……な、何だよ今の……」 「見ての通りミサイルだが?」  苦郎の口からあっさりと告げられた単語に、雑賀は背筋を凍らせた。  ミサイル――現代においてはとても聞き慣れた、狙いを定めた『目標』に向かって自らの推進装置によって飛翔していく軍事兵器の事だ。  そう、兵器。  少なくとも国家の許諾抜きでは放たれる事の無い、武器というカテゴリからも逸脱した、主に人を殺すために造られた代物。 (……現実のものじゃない……)  普通の人間には認識されなくなる電脳力者としての力を行使している二人に向けて放って来た以上、相手は同じ電脳力者という事になる。  そして、その電脳力者はミサイルを自らの武器として『使える』デジモンの力を宿しているのだろう。  現実のミサイルを持ち出して来ている可能性もあったが、現実のミサイルであれば爆発の規模がこの程度で済むはずが無いし、そうそう簡単に携行出来るとも思えない。  遠方から確認出来る輪郭の特徴から見るに、その電脳力者が自身の肉体の変化の基準としているデジモンは、 「あの体……『メガドラモン』をベースにしてやがるのか……!?」 「……まったく面倒な」  本当に面倒臭そうな声を漏らす苦郎だが、その瞳は明確に細まり、隠しようの無い敵意と警戒心を宿していた。  メガドラモン――進化の段階としては『ガルルモン』が類される『成熟期』を越え、一方で『ベルフェモン』が類される『究極体』より下位に位置する『完全体』に該当される種族で、竜と機械を掛け合わせたサイボーグ型のデジモン。  背に存在する翼による飛翔も可能で、主な攻撃手段は、機械の両腕の中心に空いた発射口から放たれる有機体系ミサイル。  飛翔能力を持たず攻撃の射程も決して長くはなくミサイルの威力に耐えられるほど体が頑丈ではない雑賀からすれば、勝てないと断言出来るほどの脅威を意味する名前だった。   「大方『見張り』か『足止め』の役を担っているのだろう。司弩蒼矢を捕らえた後、こうして目的の達成を邪魔しようとする者を処理するための」  事実を改めて説明され危機感を覚える一方で、雑賀は疑問を覚えた。  苦郎は視線の先のメガドラモンの電脳力者の役割を見張りか足止めと判断していたが、見張りはともかく足止めという役割は相手の進行を止めさせるための役割で、倒せない相手との交戦を前提とした後手の役だ。  倒さずに平和的に解決――などと考える連中ならば、そもそも拉致の計画など企てない。  仮に、本当にその推理が正しかった場合、苦郎が危険視している組織は完全体クラスのデジモンの力を用いても進行を阻止出来ないかもしれない相手を想定して今回の件を企てたはずだ。 「……おい待て。足止め、だと……?」 「ああ」  そして、つい先日まで現実の日常しか知らなかった狼男より遥かに非現実の日常を知る魔王は、嫌な予感を的中させるようにこう付け加えた。 「『ベルフェモン』という格上の相手を想定しているのならば、たった一人で済むとは思えない」  ふと周囲を見渡してみれば、視線を向けているのはメガドラモンの電脳力者だけではなかった。  右手に三つ又の赤い槍を携え、高貴な黒い礼装に身を包んだ赤い顔の悪魔。  そして、その背から鴉にも似た黒い羽を生やし、露出度が高く水着のように薄い黒の衣装を纏う女が、それぞれ別の角度から敵意ある視線を向けている。  攻撃をして来ないのは、苦郎の動きに対して警戒しているからか。  だが、苦郎か雑賀のどちらかが動き始めれば、確実に攻撃を仕掛けてくるだろう。   「…………」  麻酔で体の自由が利かず、そもそも能力の優劣の時点で勝ち目など無いに等しい雑賀とは違い、同じく飛翔能力を持ちスペックの点から見ても劣る所の無い魔王を宿す苦郎からすれば脅威とは成り得ない。  それでも、苦郎はすぐには動こうとしなかった――いや、厳密には動けなかった。  自分一人にのみ戦力を向けられる状況であれば、苦郎はその全てを無視して進行しただろう。  だが、そう出来ない理由は……。 (……く……そ……)  思わず歯噛みする雑賀。  ここに来て、事の重大性を認識しながら、苦郎が動けない理由は一つしか思い当たるものが無い。  敵対する三人の電脳力者に囲まれている構図の中に、雑賀も加わっているからだ。 (……俺、ただの足枷にしかなってねぇ……っ)  この状況で敵対者を無視して進行した場合、彼自身が動けなくさせた相手を見捨てるという構図になる。  守りたい人間の優先順位で言えば雑賀は間違い無く家族より下に該当されるはずだが、それでも苦郎はこの場で見捨てるという選択を躊躇っている。  そこに、どのような心境の動きがあったのか。  ただ後味の悪い選択をしたくないだけなのか、あるいはもっと別の理由からか――何にしても、自分が足を引っ張ってしまっているという状況である事は、嫌でも理解出来てしまった。  その無力が悔しいのに、体の自由は利かない。  食い縛っていた歯からも感覚が途切れ、辛うじて繋ぎ止めていた思考の糸が限界を迎えて、 (――――)  そうして、雑賀の意識は深い闇の中に沈んでいった。  脳に宿るデジモンの力なんて、青年の抱く願いなんて。  何の役にも、立たなかった。  ◆ ◆ ◆ ◆  相性が悪すぎる――それが体の各部が当然のように燃焼している炎の魔人と、ウサギのように長い耳を生やした少女の戦いを倒れたまま眺めている司弩蒼矢の感想だった。  炎の魔人が豪腕を横薙ぎに振るうと、巻きついていた鎖が連動して鈍器と化しながらウサギ耳の少女を襲う。  ウサギ耳の少女は姿勢を低くしてそれを避けると、攻撃によって生じた隙を突くように懐に飛び込み拳を放つ。  だが、腹部目掛けて放たれたその一撃が炎の魔人には大したダメージにはなっていないらしく、返す刀の裏拳が少女の側頭部に向かって振るわれる。  咄嗟に打撃に使っていなかった左腕で防御する事は出来ていたが、明らかにその表情は苦痛の色を表していた。  そして、即座に炎の魔人は腕に巻き付いている鎖を先の流れと同じように鈍器として振るい、少女はそれを避ける。    距離を取って様子を見ていると鎖を用いた攻撃が振るわれる。  近付いて打撃を加えたとしてもダメージは通らず、返す刀で与えた以上のダメージを確実に負う。  いや、仮に返す刀が無かったとしても、その拳で殴り付けた際に浮かべた苦痛の表情を見るに、単純に『触れる』だけでも火傷という形で部分的なダメージは蓄積されていく。  攻撃しても防御しても回避しても、少女の力が削られる状況なのだ。  仮に、この状況での打開策があるとすれば……。 (……『触れず』に攻撃出来て、尚且つその体温を少しでも減らす事が出来る攻撃……)  内心で言いながら、既に蒼矢の中で答えは見つかっていた。  怪物として変化した自身の右腕――そこから放つ事が出来る水や冷気を用いた飛び道具。  それを命中させる事が出来れば、あるいは魔人の体温を低下させた上でダメージを与える事が出来るかもしれない。  だが、現在蒼矢の近くには見張りとして磯月波音が立っている。   「……くっ……」  現在の状況やここまでの経緯から考えても、磯月波音が炎の魔人の仲間である事は間違いないのだろう。  その時点で、彼女もまた蒼矢と同じく怪物の力を使う事が出来るのだと考えられる。  ここで抵抗すれば、ほぼ確実に彼女とも戦う事になる。 (……どう、すれば……)  分かっては、いるのだ。  自分がこのような目に遭っている原因が、誰にあるかなんて。  だけど、どうしてもその選択は選べない。  向けられた言葉も、そこに込められた情も偽りで、全ては茶番に過ぎなかったとしても。  実際に、少なくとも失意に暮れていたあの時に、ほんの少しとはいえ心に癒しを与えてくれた少女を、怪物の力で傷付けるなんて行為は許容出来ない。  自分勝手だというのは百も承知だ。  既に誰かを自分の都合で傷つけておきながら、今更そんな偽善が通るとも思わない。  だがその一方で、眼前で戦っている少女は自分を助けるために戦ってくれている。  自分勝手な偽善を通してその思いを無碍にしてしまうのか、あるいは善意を理由に癒しを与えてくれた少女を傷つけてしまうのか。  どちらを選んだとしても、明確に傷跡を残す選択肢。 「……どうして」  どちらも選べない、と言わんばかりに蒼矢は言葉を放つ。  目の前で誰かが痛めつけられているのにも関わらず、その表情を一向に変えない薄情な少女に向けて。 「どうして、無関係の少女が傷つけられているのを見てそんな顔を出来るんだ。どうして、この状況に対して何も言おうとしないんだ。何とか言ってくれよ……」 「……話すことなんて、なにもありませんよ」 「……オレの事はもうどうなってもいい……オレが屈服する事で『解決』出来る問題だったら、そうする事で家族やあの少女の『安全』を確保出来るのなら……ここで、諦めるから……」 「……そういう事は、わたしじゃなくてあの人に言ってください」 「君には説得出来ないのか。君は、アイツの仲間じゃないのか?」 「…………」  やはりと言うべきか、話は通じない。  それどころか、会話という行為そのものをする気が無いと言わんばかりの態度だった。   「……頼むよ。君を傷つけたくないんだ……」  遂には思わず俯いて弱音を漏らす蒼矢だったが、波音は返事を返さなかった。  もう、諦めるしかないのか。  諦めて、自分の都合で誰かを傷付ける選択をするしか無いのか。  そう思い、歯を食い縛って顔を上げた時だった。 「…………?」    見逃せない変化が生じていた。  何に? 無表情を貫いている少女の表情に、だ。   (……なんだ、この感じ……)  その変化に気付くまで、少女の表情に目立った表情は浮かんでいないように見えていた。  苛立っているようにも悲しんでいるようにも喜んでいるようにも見えない、印象で言えば冷たいという例えが正しいと言ってしまえるほどに。  だが、今の少女の表情はそう見せようとして明らかに違和感を覚えるものに変化していた。  自分で自分の顔の筋肉をどう動かせばいいのか分からなくなっているように。  感情を消そうとする事に、勝手に失敗しているように。 「……ぁ、ふ……笑わせないでください。わたしはあなたを騙していたのに。傷つけたくないなんておかしい話ですよ。嘘を吐くにしても少しはマシな……」 「嘘じゃない」 「……な……」  殆ど反射的に言葉が出た。  疑問の声が返ってきた。  その声は震えていた。   「嘘じゃないって言っているだろ!!」 「…………」 「確かにオレは君に酷い事をされた。でも、その一方でオレは君に少しだけ救われていた。許す許さないの問題じゃないんだ。例え全てが嘘だったとしても、あの時救ってくれた君を傷付ける事なんて出来ない!!」  いっそ怒号のような声が蒼矢の口から放たれる。  少女は肩を震わせながらも無の表情を作ったが、今となっては無理をしているようにしか見えなかった。  蒼矢の胸の中に、ズキリと痛みが走る。  ここまでの反応まで含めて全てが演技だった――などとは考えない。  明らかに、少女は何かを隠そうとしている。  自分の心を押し殺してでも、必死になって守ろうとした何かがある。 (……いったい、何なんだ……) 「あァーあァー」    疑問を抱いた直後の事だった。  ウサギ耳の少女と戦闘中の炎の魔人が黄色い声を漏らした。  次の言葉を紡ぐ間にも鎖が振るわれ、ウサギ耳の少女は回避のための動作を強要される。   「……結局は折れるのかヨ。もうちょっと頑張っテくれると思ってたンだがな」 「…………」 「まァ茶番としては楽しめる方だったんダが、困るんだヨなァ。お前、自分の立場解っテンのか? この状況を作り出しテくれた時点で殆ど用済みではあルんだガ、ここまであっさりと折れちまったラ演出にならねェだろうがヨ?」 「……わたしは、別に、折れてなんか」 「ご苦労サン。モう黙ッててもイいぞ?」  一方的過ぎる言葉だった。  何かに、落胆したような声色だった。  明確に、重要な意味を含む台詞だった。  少女の表情が、決定的に歪む。  炎の魔人は気にする様子も無く、蒼矢に向けて飄々とした態度で言葉を放つ。 「お前もお前で折れねェのナ。この状況なラ、お利口に仲間にナってくれると期待しテたんだガ」 「……彼女に何をした……」 「俺達の仲間になれば、欲しいモンは大抵手に入るんだゼ? なァーんでそンなに拒むのやら」 「彼女に何をしたと言っているんだ!!」  その態度にも、その言葉の内容にも――怒りを覚えずにはいられなかった。  ここまで来て、事情を少しも理解出来ないほど鈍い思考はしていない。  彼女は、磯月波音は、利用されていたのだ。  目の前の炎の魔人――あるいは、その属する『組織』の思惑に。 「何をシたって、勘違いさレちゃ困るナ。その女の行動はソの女が自分で決めタ事だぞ? この状況ダって、その女が選ばなければ回避出来た事だ」 「……病院にいたオレに対する言葉は、確かに拉致を成功させるための演技だったのかもしれない。実際はオレとは初対面で、これまで一度も会ったことなんて無かったのかもしれない。だけど、少なくとも今の行動は彼女自身が望んでやっている事だとは思えない!!」 「まァ、ドう考えヨうがお前の勝手なンだがな。正解が聞きたいンなら、その女に聞けばいいだろ」  ただし、と炎の魔人は付け加えて。 「喋ろウが喋るまイが、どっチにしてモ俺達の『組織』に従ッた方が良い事に違イは無いけドな。お前にしてモ、そこの似非バニーガールにしても、素直に仲間になった方が自分のためになるぞ?」 「ふざけるな。誰がお前達の仲間になんか……」 「お前にソの気が無かろウと、何の問題も無いんダよ。その気ガ無いなら、ソの気にサせるだケだ」  その声色には、余裕しか無かった。  最初から、抵抗の意思など問題にもならないとでも言っているような。  自分の心を文字通り鷲掴みにされているような不気味な感覚に、蒼矢は素直に恐怖を覚えていた。  構わずに炎の魔人は言葉を紡ぐ。 「さァて、あンまり時間も掛けたクはねェし、さっサと決断しテもらおウか。従うなラどんナ形がイイ? 素直に『仲間』としテの勧誘を受け入れルか。大切ナ誰かを人質に据えラれて嫌々従うか……頭ン中を直接イジられて人格を変えらレる形で従うか」  一つ目の選択肢は到底選ぼうと思えず。  二つ目の選択肢は、元々蒼矢自身が危惧していた可能性で。  三つ目の選択肢に至っては、方法もそれを許容出来る心理もまるで理解出来ない。   つい少し前の問答と同じ、悪意しか感じられない問い掛けだった。   「…………」  仮に仲間になれば、最低でも家族の安全は保障されるのか。  自分が怪物として『使われる』事を許容すれば、これ以上状況が悪化する事はないのか。  自身に宿っている怪物の『力』を我が物にするため、周りの人間が望まない形で傷付けられるような事が。  少しだけ、蒼矢は考えた。  そして、素直な感情のままに答えた。 「いい加減にしろ」 「……へぇ……」 「最初からオレを本当に仲間として扱うつもりなら、彼女を巻き込む必要は無かったじゃないか。ただ誘いたかっただけなら、普通に病院に来て話をすれば良かったじゃないか。どんなに嘘に塗れた胡散臭い話だったとしても、家族を人質に取ったと脅し掛けて来たとしても……それで大人しく付いて来れたかもしれないのに。自分しか傷を負わずに済むのなら、それで良かったのに。どうして彼女までオレの『力』のために傷付けられないといけないんだ!! 人質に取る取らないの前に、最初から既に誰かを傷付ける事しか頭に無いじゃないか!! そんな事をする『組織』なんかのためにオレの『力』は使わせない!!」 「あくまデも従うツもりは無いンだな。コれでも親切心で教えテやッたつもりだったンだが、そコまで強情になるンなら仕方がねェ。お望み通り、傀儡にでも成り果てルがいいさ」  炎の魔人が歩み寄ってくる。  背を向けられたウサギ耳の少女は後頭部を狙おうとしたのか飛び掛かったが、それを予測した炎の魔人が振り向くと同時に放った裏拳で建物の壁際まで殴り跳ばされてしまう。  蒼矢は右腕が変化した『蛇口』から炎の魔人に向けて高圧の水流を放ったが、水流は炎の魔人の体に触れると同時に殆どが蒸発し、ダメージを負わせる事などまるで出来ていなかった。  それでも諦めるわけにはいかなかった。  こんな悪党に自分の『力』を悪用されたら、きっと被害は自分が考えられる範囲を超えてしまう。  家族が人質に取られて害を為される事も到底許せる事では無いが、最初から平気で誰かを傷付けようとする相手に真っ当な取引が成立するとは思えない。  何としてでも、ここで阻止しなければならない。  だが、今の蒼矢の力では鉄の仮面で顔を覆った炎の魔人の力には到底敵わない。  高圧水流にしろ氷の矢にしろ、放つためには『溜め』が必要となる。  既に炎の魔人は、それが許されない距離まで近づいて来ている。  そもそも、放つ事が出来たとしてもそれだけで決定打に成り得るとは思えない。   (……駄目、なのか? 結局オレには……誰かを守ることなんて……)  大層な決意があろうと、状況を打開出来るだけの力が無ければ何も為せない。  地に這う事しか出来ない非力な怪物は、更に大きな力を持つ怪物に平伏させられるだけ。  司弩蒼矢には、何も出来なかった。  ウサギ耳の少女――縁芽好夢にも、何も出来なかった。  だから。 「……なンの真似だ」    この場において初めて、明確に苛立った声を炎の魔人は漏らした。  司弩蒼矢もまた、信じられないものでも見るように目を見開いていた。  炎の魔人の進行を遮るように、磯月波音が両手を広げて立ち塞がっていた。  まるで、司弩蒼矢を守ろうとしているように。 「……もう、やめてください」  その声は震えていた。  表情こそ見えないが、辛い気持ちになっている事ぐらいは容易に想像出来た。 「お願いだから、もうこれ以上あの子や蒼矢さんを傷付けないで……っ」  炎の魔人は、少女の言葉になど気にも留めなかった。  それ以前に、自分の進行を遮ろうと阻みに来た時点で笑みすら消しているようだった。 「なンの真似だッて聞いてンだヨ。自分の立場を忘れたノか? 逆らったラどうナるか解ってンのか?」 「…………」 「役立たズもここまで来ると笑えねェ。そもソも、今の状況を作り出すために協力してきたのは他ならぬお前自身だろうが。自分で裏切って傷付けた相手を、今度は守ろうって? ハッ、自作自演で都合良くハートを掴もうとは大したビッチだなオイ」  駄目だ、と蒼矢は思った。  少女の事は宿す力も含めて全く知らないが、それでも炎の魔人の進行を食い止める事など到底出来るとは思えない。  懇願の言葉だって通用する相手では無いし、そもそもこの状況で『組織』に逆らう形で蒼矢の事を守ろうとしてしまったら……ッ!! (……やめろ……)  蒼矢には、まるで理解出来ない。  こんな自分がどうして守られているのか、その理由の何もかもが。  少女だって、きっと理解しているはずだ。  守ろうとする行為が、自分自身の命を危険に晒す行為でしか無い事ぐらい。 「やめて、くれ……」  全てを理解しているはずの少女の背中は、地に這う化け物に対して何も語らない。  それを見過ごせば何が起きるのかを知っているのに、蒼矢には何も出来な