フォーラム記事

快晴
2022年4月29日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話         次の話≫≫ 「浅学なお前にひとつ教えておいてやる」  顔面に向かって投げつけたUSBを、段差に腰かけていたネガは事も無さげに受け止める。 「スナッフフィルムの頭文字はAじゃなくてSだ。覚えとけ」 「んふふ。いくら博識なストゥーさんとはいえ、あんまりな言い方じゃない? あれはボクとバーガモンにとって、一番気持ちよくなれる写真を選りすぐったモノなのに」  ああ、でも。と。  ネガは艶やかな唇を弓なりに歪めて、僅かに頬を赤くする。 「その様子だと、最後まで見てくれたんだね。……それは、嬉しいな」  はにかむネガに向かって、俺は力いっぱい舌打ちした。 * 「ネガ? ……ああ、『レンタルビデオ』くんちゃんね。へえ、ゲイリーの事まで口説きに来たんだ。残念! 見る眼だけはあるなーって思ってたのに」 「ホントに女の趣味悪ぃのな、アイツ」  丸椅子に腰かけ、ヘラヘラと笑うその女の顔はひどく良い。  だが彼女の胸は相も変わらず、一枚板風のカウンターに合わせて分度器を置けば正確な角度を計測できそうな程度にはまっすぐな面に仕上がっていて、男にも見えるネガの方が、よほど凹凸を感じられたような印象は、本人を目の前にしても変わる事は無かった。  俺は渋々店にルルを呼び、  ルルは至極面倒臭そうにそれに応じた。 「まあ」  いつもの無駄話は早々に切り上げて、本題を急かすように俺はルルへと1冊の『絵本』を差し出す。 「絡みがあったってンなら話は早ぇ。売ってもらうぞ、ルル。あの変態野郎について、知ってる情報を全部寄越せ」  『絵本』の表紙に描かれた壮年男性の横顔を見止めるなり、ルルがヒュウと口笛を鳴らす。 「『青髭』じゃん! へぇー、けちんぼでいやしんぼのゲイリーくんが! ホントに良いの? この店の最高級品でしょ? これ。返せって言われても返さないよ?」 「見合う情報を売るならそれでいい」 「はぇー……。ゲイリーくんがこんなにも潔いだなんて。不覚にも行商人ルルちゃん、ちょっと怖くて震えちゃった。くわばらくわばら、明日はきっと雨が降るね、血以外の」 「それじゃあ弾丸か毒くらいしか無いだろうが。縁起でも無い事言ってねェで、さっさと出すもん出しやがれ」 「んもう、待ってよせっかちなんだから! 人より早くコンニチハしちゃうゲイリーくんの息子と、あたしのカワイイ売り物ちゃんを一緒にしないでよね」  と、茶化しはするものの、情報の対価として十分な品だとは認めているのだろう。ルルは僅かに目を細めて、貪欲な商人としての眼差しに鋭さを帯びさせた。 「ネガ。通称――いや、自称か。『レンタルビデオ』。国籍年齢性別全部わかんないけど、趣味だけは確か。あたしみたいな可愛い女の子をモデルに、18歳未満お断りのムービーを撮る事だね。で、それを人に売りさばいて、生計を立ててるみたい」  最も、そっちの方こそ趣味だろうが。  人の皮を剥ぐ前に身ぐるみでも剥いでりゃ、ものを売り買いするよりも遥かに楽かつ速やかに稼げるワケで。  加えて、奴のパートナー―― 「なんかお察しって感じの顔してるけど、続けるね。彼、兼業でバーガーショップもやってるみたい。こっちは『レンタルビデオ』くんちゃんのパートナー、バーガモンの趣味みたいだけど」 「はっ、そりゃイイ。倫敦旅行の気分でも味わえそうだ。フリート街の理髪屋の隣にあるっていう、ミセス・ラヴェットのパイ屋さながらじゃアねえか」 「どこ。誰」 「……」 「っていうかイギリスって、フィッシュ&チップス以外に食べ物あるの?」 「それはあンだろ」  ふーん、ゲイリーくん物知りぃ。と、ルルはひどく適当に流して話を続ける。  下手な合いの手を入れた俺も悪いがな。そういうお前の胸並みに薄い反応は、一番人を傷つけるぞ。 「で、この辺が一番ゲイリーくんの欲しがりそうな情報かな。件のバーガモンの、進化ルートについて」  ルルは自分のデバイスを取り出していくつかの入力を済ませると、その画面を上に向けて、こちらへと差し出した。  途端、左から進化順に並んだデジモンの立体映像が、宙へと浮かび上がる。  バーガモンと、シェイドモン。  その隣に続くのは――白い蛇。 「サンティラモン?」  意外な姿に、思わず疑問符付きで名前を口にしてしまう。  シェイドモンはその特異かつ凶悪な能力もさることながら、食い溜めしたデータによって進化先の凶悪さが増す、という特徴を有している。  あの変態野郎が、生半な物を文字通り「喰わせている」とは思えないのだが。  ……いや、シンプルな畜生の姿に引っぱられたが、よく考えれば元ネタは『十二神将』の珊底羅大将か。しかもかの神将は、本地が「明けの明星が化身」とかいう、デジタルモンスターの世界においては超ド級の厄ネタ持ちだった筈。  強力なデジモン、という印象こそ希薄だが、元ネタ云々を抜きにしても単純に、サンティラモンは陰険かつ残虐なデジモンだと聞いている。  がっつり滲み出てるじゃねえか。ネガの人となりが。 「データがあるって事は、交戦したのか?」 「一応ね。でも、ゴキモン出したら即逃げてっちゃった」 「……腐っても中身はバーガモンなんだな」  そこに関しては、なんだ。気持ちは解らんでは無い。 「それに、ゴキモンも深追いしなかったしね。だから、戦闘データは無いの。そこはちょっとゴメン」 「……」  ルルに害意を向けたにも関わらず、ゴキモンは--否、ゴキモン「も」追跡しなかった。となると―― 「究極体には、まだ成れないんだな」 「多分ね」  メアリーがああも簡単に連中を見逃したのは、ネガの商品が琴線に触れただとか、そんな理由じゃあ無い。  アイツらは、果実だ。  熟れる寸前だが、まだ青い。  あの大飯喰らいの悪魔でさえ行儀よく待てが出来るような、蕩けるように甘くなる果実なのだ。 「ふうん」  ルルは細い指で『絵本』・『青髭』の、軽くウェーブのかかった長い髭のラインをなぞった。  画材にモルフォモンの鱗粉を用いた昏く煌びやかな青色が、彼女の指先を追うようにしてきらきらと光る。 「そっかぁ、メアリー・スーのためだもん、奮発しちゃうよね。なんかつまんないの」 「あのなァ……もらうモノもらっといて、こっちの事情にまでケチつけんなよ」 「だって、アレががっつり絡んでる時のゲイリーくん、面白くないんだもん。いや、ゲイリーくんは最初から自分にはユーモアのセンスがあると思ってるタイプのクソ薄っぺらい男だけどさ」 「お前の胸部の厚みには負けるが?」 「でも、今日はなんか違うかなーって思ったのに……はーあぁ、つまんなーい!」  ガキのように両腕をカウンターに投げ出して(なお実際に子供であるリンドウは、こんな真似して見せた事は無いのだが)、胸周りに分けてやりたい程度には頬を膨らませるルル。  こいつからの急な罵倒は今に始まった事では無いのだが、それにしたってこうも幼稚に振る舞われると、こちらもなんだか、居心地が悪い。  全く……。 「大枚叩いてお前から聞き出さなくても、その時が来てその気になりゃあ、メアリーは勝手にジャンクフードを喰いに行くだろうさ」 「うん?」 「言ったろ、あの『レンタルビデオ』とかいう若造は、女のシュミが最悪なんだ。ロリコン野郎が挽肉臭いカメラ片手に歩き回ってると思うと、おちおち娘に留守番もさせられねえ」 「……」  ああもう、いつになく察しが悪い。  俺はちらちらと、リンドウがモルフォモンと過ごしている筈の俺の私室の方へと目配せする。  最初は引き続き、何やってんだコイツと冷めた眼差しが俺を刺していた訳なのだが――しばらくしてようやく、ピンときたらしい。  呆けたように半開きだった口は、ついににんまりと、半円を描く。 「へえ。へえ! 何何? ゲイリーくん、割と真面目に父親やってるってワケ!? リンドウちゃんのためってコト? えー! ウケるんですけど!?」  どっちにしても酷い奴だなコイツ。胸の次くらいに情が薄い。 「でも、ふうん。それは確かにいただけないね。イエスなロリータにはノータッチがジェントル。『絵本屋』で得た知識にもそう書いてあったって、ゲイリー君常々言ってたもんね」 「言ってねえ」  初めて聞いたわそんな知識。 「ふふふ、いいよいいよ、あたしもちょっと興が乗って来た。それに、リンドウちゃんは将来の顧客になる可能性もあるからね。出血大サービスって程じゃ無いけれど、もうひとつイイコト教えてあげよう」  ルルがデバイスを持ち直し、操作するなり、俺の手元の端末がぶるりと震える。  目の前の女から送信されたデータを開くと、『迷路』の地図と、赤いマーカーが表示された。 「マンモンの千里眼があればすぐだろうけど、ひとつくらい手間、省いてあげる。それ、『レンタルビデオ』くんちゃんの拠点だから」  恐らくまだ軽くあしらえるだろうが、ルルにとってネガは身に振る火の粉の類だ。やはり、多少は調査してあったらしい。 「一応礼は言っとくぜルル。ウドの大木は見上げるだけでこめかみが軋むからな」 「……」  俺の発言には振れず、しかし軽く肩を竦めながら、ルルは席から立ち上がった。 「以上、ルルちゃんの情報提供なのでした!」  とはいえ、と、ルルはカウンター上の『青髭』を、持ち上げるでなく、手を重ねる。 「あたし今機嫌良いし、この『絵本』、絵も綺麗だから。ちょっとしたモノならオマケしてあげてもいいかなーって思ってるんだけど」 「なんだ、お前の方こそ珍しい。鼠の巣穴に握り飯でも落とした気分になるな」  ま、貰える物なら貰っておくが。クソみたいな腐れ縁だが、お互い化かし合うような仲でも無いし。 「そうだな……。あー、じゃあ酒はあるか。安物でいい。あんまりいいヤツは口に合わなかったからな」 「あらまあゲイリーくんったら根っからの貧乏舌なんだから。ちょっと待っててね、あったと思うから。ゴキモ」 「おうパートナー経由しないでデバイスから直接出せ」  何さ、注文の多いゲイリーくんなんだから、とルルが唇を尖らせるが、茶バネは山猫のレストランでもNGだろう。仮にも飲食物なんだから、その辺はしっかりしてほしい。  と、ふいにルルが端末を操作する手を止めたかと思うと、デバイスの画面から、彼女の選んだ品物が実体化する。 「?」  それは瓶でも紙パックでもなかった。  袋だった。鮮やかなデザインの四角い袋。酒はおろか、とても液体が入っているようには見えない。 「何だコレ」 「飴ちゃん」 「俺は酒を注文した気がするんだが」  問いかける俺を尻目に、中身のサンプル品だろうか。ルルが新たに取り出したのは、赤い球状のロリポップだった。 「こっちの方が、今のゲイリーくんには必要かなと思ってさ」 「……」  俺はそれ以上何も言わず、飴の袋を受け取った。  余計なおせっかいではあるが――実際、これなら多少なりリンドウの気を引けるだろう。棒付きのキャンディーは、なんというか、見栄えもいい。  そんな俺の様子に目を細めて、ルルはキャンディーの先端をマイクのようにこちらに差し出す。 「ねえ、ところでゲイリーくん。最後に一つだけ聞いて良い?」 「あん?」 「『レンタルビデオ』くんちゃんはロリコン、ってさっき言ったじゃない」 「言ったな」 「ちょっかいかけられて追い返しただけのビデオ屋さんの性癖を、どうしてゲイリーくん、知ってるのかな?」 「……………………」  俺はやっぱり、それ以上何も言わなかった。  言えなかったし、目も逸らした。 「ははっ、ちょっと感心してたあたしが馬鹿だった。ゲイリーくんってば、やっぱりサイテー」  ルルは笑顔で、俺の唇にロリポップをねじ込んだ。  不意打ちのように穿たれたそれは、甘い展開を呼ぶ筈も無く前歯に叩き付けられる結果に終わり、そうして俺は鋭い痛みの中、キャンディーの破片で苺と自分の血の味を知った。
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快晴
2021年4月03日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫  数年ぶりに太陽を見上げたあの日、俺の目尻からは止めどなく涙が零れ落ち続けた。  陽の光を美しく感じただとか、そんな感動的なシチュエーションでは無い。ただ単に、俺の目玉が天上の光球に耐えられなかったのだ。  酒の肴にとせめてもの色彩を求めて外していたサングラスを、溜め息交じりにかけなおす。  すっかり慣れてしまったこの疑似的な薄暗がりのせいで、今や俺の瞳には、常に『迷路』を満たす光すら負担になってしまっているらしかった。  『迷路』に昼夜の概念は無い。強いて言うならデバイスが表示する時計の針だけは外の世界が基準になっているらしく、デジモン達は何故かその針の動きを順守していて、だから人間の側も、おおよそ彼らに倣って生活している。  燦然と輝く太陽も夜の帳も無い世界での暮らしが長過ぎたせいで、俺の眼は光を調節する機能がきちんと働いていないのだそうだ。  詳しい事はわからんが、昔一度だけ行った病院とかいう施設で偉そうな白衣がそう言っていたので、そうなのだろう。 「何が勝利の美酒だか」  不味い酒だ。度数が弱いのか酔わずにむしろ頭が冴えてしまい、嫌な事ばかりを思い出す。  レンコがゴブリモンに持って来させた俺宛ての報酬がそんな安物だとは思いたくなかったが、何にせよ、口に合わない事だけは確かであって。  店の中で飲めば、お天道様にさえ見放されたクソガキからは目を逸らせるかもしれないが、店内で酔っ払っていいのは客だけだし、人を幸せに酔わせていいのは『絵本』だけだと決めている。  店の壁に預けていた身体を持ち上げ、酒をデータに変換してデバイスの中に仕舞った。  口を付けてしまったが、こんなものでもルルに渡せば二束三文には変えてくれるだろう。  今日は、もう寝よう。  流石に聖騎士狩りは疲れた。絶対に、もう二度とごめんだ。  どうせそういう訳にもいかないんだろうが、兎に角今日はもう眠って、忘れたい。  そう、思っていたのだが。 「……」 「……」  店の扉の方を向くなり、そこから半身だけを覗かせたリンドウが、じっとこちらを見つめていた。  ご丁寧に、背後には彼女の姿勢を真似たモルフォモンまでくっついている。 「どうした、リンドウ」  歩み寄ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。 「もしかして、眠れないのか」  こくり、と小さく頷くリンドウ。  一方でモルフォモンは、パートナーに付き合っているだけなのか普通に眠いらしい。ふあ、と口を広げて大あくびをかましている。  まあ、こんなナリでも根は怪物のモルフォモンと違って、リンドウは子供だ。  メアリーの食事は見ていられても、同じ舞台に立たされるのは、流石に堪えたのかもしれない。  あるいは、単純に。  何時まで経っても暗くもならない『迷路』の壁が、彼女に夜を知らせてくれないのだろうか。 「じゃあ、絵本でも読んでやろう。店の商品じゃないヤツだ」  中身は電脳麻薬と言えども、パッケージが美しい方が客にもウケが良い。  普段リンドウを住まわせている部屋の本棚にあるのは、『絵本』という名の薬の装丁の試作品兼本物の『ただの絵本』だ。  文に関しちゃ童話集から引っ張って来たモンだが、絵だけは全て、俺が描いている。  絵は、唯一の特技だった。もちろん、何の役にも立ちはしないんだが。 「さ、どれにする?」  部屋に戻った俺の前で、リンドウが本棚から迷いなく一冊の絵本を取り出す。  『しっかり者のすずの兵隊』の絵本だ。 「お前、いっつもこれ読んでないか?」 「だって」 「うん?」 「バレリーナが、お母さんの顔。してるから」 「……」  受け取った絵本から、先に該当の箇所を確認する。 「アカネはもっと愛嬌ある顔してただろ」  無邪気に笑う女だった。間違っても紙のバレリーナのような、張り付いた笑みは浮かべていない。 「でも、似てる」  しかしリンドウは頑なに譲らない。  ……ガキだった俺の知ってるアカネは当然子供の姿なので、トゥシューズで1本足ポワントしている八頭身程スタイルは良く無かった訳で。  大人になったアカネは、こういう女になっていたのだろうか。 「まあ、そういやアカネもこの話が好きだったな。『しっかり者のすずの兵隊』が」  だから俺の方も未練が投影されてしまった、と。  頭が痛い。  酒のせいだと片付けるには、己が気色の悪さに心当たりが有り過ぎた。  しかしリンドウの方はと言うと、『しっかり者のすずの兵隊』よりむしろ、俺の口から出た母親の名に興味が向いているのがありありと見て取れて。 「お父さんは、お母さんのどこが、好きだった?」  ベッドに腰かけちゃぁいるが、リンドウは当分眠気とは縁の無さそうな顔をしている。  おい、モルフォモン。  頼むから寝る時は一緒に寝てくれ。寝かしつけてくれ。パートナーだろ。  おい、先に寝るな。おい待て。 「……」  髪を引っ掻くが、リンドウからの視線の種類が変わる事は無かった。  俺は観念して、彼女の隣に、腰かける。 「どこが好きか。一々考えなくてもいい程度には、俺はアカネが好きだったよ」  どちらかと言えば、素朴なタイプの少女だった。アカネは。  申し訳ないが顔だけなら間違い無くルルに軍配が上がる(なお念のために言っておくが、胸のサイズは年相応しか無かったアカネの圧勝である)。  良くも悪くも田舎のお嬢様で、おっとりしてんだかお転婆なんだか判断に困る、好奇心旺盛で、夢見がちで--だから、周囲の目なんてこれっぽっちも気にせずに、俺なんかにも平気で話しかけてくるような少女だった。  ……いつも、屈託無く笑う女だった。 「じゃあ、どうして。お母さんの事、置いて行っちゃったの?」 「アカネが俺の事を好きだとは、思わなかったんだ」  あくまで興味だと思っていた。  『選ばれし子供』でもないのに『迷路』から出てきたってだけでデジモンを連れている俺が、物珍しいから構っているのだと思っていた。  思うようにしていた。 「お母さんは」 「うん?」 「お父さんの事、大好きだって」 「……」 「そう言ってた」  ああ。  そうかい。  でもよ、アカネ。  だからって他人とこさえた娘まで、よりにもよって『迷路』の『絵本屋』とまで伝えて寄越すだなんて。  そんなのは、美談にするにしてもちょっとばかり、虫が良すぎるんじゃねえか? 「まあ面倒見る俺も俺なんだがな……」 「?」 「いいや、なんでもない。……アカネの話は、また追々、な。今は『しっかり者のすずの兵隊』だろ? ほら、ベッドに横になった。俺ァ絵本を描くのは兎も角読む方はからきしなんでね。つまらないと思ったら、さっさと夢の世界に逃げちまいな」 「……」  リンドウはまだ絵本よりも聞きたい話があるようだったが、それは俺の喋りたい思い出では無く、俺にもこの娘にも今必要なのは、身体を休めるための寝物語だった。  無言は貫きつつ、しかし指示にはやはり素直に従って横になったリンドウの肩へと、俺はブランケットを引き上げた。  隣じゃ既に、モルフォモンがすうすうと寝息を立てている。デジモンの分際で人様のベッドで、飼い主よりも先に寝るとは。本当に、厚かましい事この上ない奴だ。  一度脇に置いていた絵本を開く。  材料不足で1本足として作られた鉛の兵隊の、ほとんど受け身の冒険譚。  一説によれば、無機物に人格を与えて主人公にした童話の先駆けがこの物語なのだという。  挿絵の兵隊は役職よろしく相応に精悍な顔つきをしていて、片足が無いとはいえ装いは立派。と、俺とは似ても、似つかない。  紙のバレリーナがアカネに似ていると言うのなら――最期に彼女と結ばれたコレは、やはり、俺とは違う男だったのだろう。 「今日はクリスマス。子供達は、プレゼントを抱えて帰って来たお父さんに飛びつきました」  冒頭に並んだ俺が知らない世界の言葉に、軽い吐き気を覚える。  酒のせいだと、そう、片付けようとしたのに。  現実逃避のつもりで下した視線の先には、忘れようも無い女性の顔しか無かった。 * 「グロスター? 変な名前」  少女――『迷路』から出てきた俺を(恐らく嫌々)引き取った家の一人娘は、俺の名前を訊ねて答えを得るなり、首を傾げながらそんな言葉を返してきた。  失礼だな、と思った。  生憎外の世界の常識など何も覚えちゃいないのだが、俺がこれまでに読んだ本を基準にしていいなら、人の名前は出会い頭に侮辱して良いもんじゃない。 「……例えば、どこが?」  とはいえ文字通り「右も左もわからない」『迷路』の外じゃあ、こいつの両親は俺とユニモンの命綱だ。  立場の偉い人間の機嫌を損ねるのは自分の感情を蔑ろにするよりも避けるべき事で、俺が現在の名前の参考にした物語の主人公も、全てが成就するまでは自分の考えなど腹に隠してうまく立ち回っていたのだから。  だったら、俺も。そうするべきなのだろう。  少女はふふっ、と。おかしそうに微笑んだ。 「だってだって、普通お名前に伸ばし棒なんてつかないもの! 他所の国ならそうでもないかもだけれど、あなたも私と一緒で、この国の生まれでしょう?」 「多分ね」 「だったらお名前もそれっぽい方がいいわ。だってナシロ グロスターだなんて、ふふ、ふふふふ! 私、あなたのお名前を呼ぶ度に、笑っちゃうかも」  別に、彼女と同じ苗字を名乗るつもりは無いのだけれど。  まあ、どうにせよ。  これからこちらで暮らさなければならないのなら、違和感の無い名前を名乗るに越した事はないのだろう。  別に愛着がある訳でもないし、毎回のように、知らない人から笑われるのも、嫌だから。 「じゃあ、好きに呼んでよ。君の好きな物語の登場人物とか、そういうのでいいから」 「え? 私が決めていいの?」 「いいよ」 「わかった! とびきり素敵な名前を考えてあげるわね」 「そりゃ嬉しい」  社交辞令として言葉のみで表現した喜びを額面通りに受け取って、顎に人差し指を当てたアカネはうんうんと唸りながら、ああでもないこうでもない、と俺の呼称を思案する。  デジモンは楽でいいよな。呼ぶ時は種族名で良いんだから。  気晴らしにポケットの中のデバイスを指先で小突くと、中に居るユニモンは、返事代わりにぶるりと端末を震わせた。  やがてアカネは顔を再びこちらに向けたが、肝心の表情は、思案顔のままであって。 「私、『しっかり者のすずの兵隊』が好きなの」 「はぁ、結局作者は外人だな。好きなのかい? デンマーク。それならハムレットとでも名乗っときゃ良かった」 「ハムレット? なんだかおいしそうなお名前ね。でも、小さい「つ」もらしくないわ。……だけどいくら私が『しっかり者のすずの兵隊』が好きだからって、『スズ』って名前じゃ、女の子みたいでしょう? だから、悩んでいて」 「俺は別に構わないんだが」 「私が納得できないの」 「じゃ、言い換えてナマリとかでいいだろ」 「それも嫌。重りみたいで。お馬さんに乗れなくなっちゃうわよ?」  俺はこの「面倒くせぇ」という感情がけして顔に出ていないよう祈る他無かった。  万が一表情を咎められたら、そろそろ昼間の陽光に耐えられなくなった事にしよう。 「スズ。スズねぇ……」  とはいえこのままだと名前が決まる前に陽が沈みそうで、そうなると言い訳も出来やしない。  連想の枝葉を広げて、それらしい名前を探す。  スズ違いではあるが、幸い俺が『迷路』の『絵本屋』で得た知識の中から、引っ張り出して来られるものは比較的すぐに見つかった。 「キミカゲ、とかどうよ」 「へ?」 「スズランの別称が君影草だから、キミカゲ。これなら国的にも性別的にもそれっぽいかな、と思って」  途端、似合いもしない皺を眉間に刻んでいたアカネの顔が、ぱあ、と輝かんばかりに綻んだ。 「キミカゲ! いいわね。私、スズランも好きよ。可愛くて! それに私の名前もお花の名前なの」  その顔のまま改めて寄って来たアカネは、ポケットに突っ込んでいた俺の両手を、それぞれの手で引っ張り出し、包んだ。 「お揃いね、私達!」  この日、俺は。  女というのがこんなに笑う生き物なのだと、初めて知った。 * 「君が生きていると知れば、すぐにでもご両親が迎えに来てくれるだろう」  俺に、と言うよりは自分に言い聞かせるように繰り返していたアカネの父親の台詞は、まあ、案の定。終ぞ現実となる事は無かった。  そりゃそうだろう。父親はそもそも記憶に存在すらしていないし、俺が最後に見た母の瞳は、幼い俺を『迷路』の入り口へと突き飛ばした女の酷く冷めた双眸だった。  不法投棄を平気でやるろくでなしだとしても、自分で捨てたゴミを漁り直すほど落ちぶれちゃいなかったのだろう。  今でこそ『迷路』から生きて、デジモンを連れて出てきた少年として。期待や畏怖を込めて『選ばれし子供』ならぬ『奇跡の子供』だのなんだの呼ばれてはいるが。  あの女にとっちゃ、ただ単に。捨てたゴミが、処分されていなかっただけの話なのだ。  この地域を牛耳る老人の腰巾着達の中で一番若手なもんだから、俺なんて貧乏くじを押し付けられてしまったアカネの父親には心の底からご愁傷様と言う他無いが、まあ、その分甘い汁も啜ってきたのだろうし、いい加減俺の親探しは諦めてほしい。  俺だって、好きで世話になってる訳じゃ無いんだから。 「ってワケだから。まあ、当分俺はこの家にまだ居ると思う」  先の父親の言葉の何を不安がってかはしらないが、俺とユニモンの住まいとして(隔離、と言った方が正しいのかもしれないが)提供されている離れに浮かない顔でやって来たアカネに事情を説明すると、彼女の顔は余計に曇ってしまい、俺はアカネが底抜けに明るい表情以外も出来るんだなと割合失礼な感心を覚えるのだった。 「どうして?」 「うん?」 「どうして、キミカゲのお母さんは、キミカゲの事……」 「……」  捨てちゃったの? とストレートに問うてこないあたり、やはり何だかんだと育ちは良いのだろう、アカネは。  そんな彼女が、俺の身の上に勝手に同情は出来ても理解を示せる筈も無い。 「こんなご時世だ。そう珍しい話じゃないとは思うんだけどね」  一応はそう前置きしながら、俺はデバイスから絵を描く機能を起動させた。  狭いが真っ白なキャンパスを指で撫でて、適当にとある動物の絵を描く。 「アカネは、この生き物は知ってるか?」 「え? えっと……象、よね? 本物は見た事無いけれど、鼻が長くて、大きなお耳。こんなのって、象だけだもの」 「そう。象。……思うに俺の母親は、象みたいな女だったんだと思う」 「へ?」 「ああいや、末摘花みたいな女だったとかそういう話じゃ」 「すえつむはな?」 「何でも無い。顔が象に似てるとかとんでもない巨女だったとか、そういう話じゃないってのだけ、解ってくれれば」  人との会話は比喩表現があればあるほど良いと思っていたのだが、実際のところ、全然そんな事は無いらしい。  全く。『絵本屋』は『迷路』生き延びるための知識とそれ以外の無駄知識を何かと仕込んじゃくれたものの、一般常識はからきしだ。  経験が物を言う部分は、どうしても、どうしようもない。  ……今から教える生き物の生態くらいは、どうにか、呑み込んでくれればいいのだが。 「象って生き物は、頭が良いから、産まれてきた我が子を一瞬、憎むらしい」 「え?」  頭が良い、と我が子を憎む、に因果関係を見いだせないのだろう。  アカネの声に疑問符が付いていたのは解っていたが、俺は構わず続ける。 「象は子供の段階でもゆうに100キロを超える身体で親の外に出てくるんだそうだ。だから出産時滅茶苦茶痛いんだって。人間でも「鼻からスイカを出すくらいの痛み」とか言うんだっけ? ……象の出産は、それ以上なんだとか」  今度はアカネは何も言わなかったが、彼女の顔は彼女自身の豊かな想像力によってしかめられていたので、俺も話を止めたりはしなかった。 「で、その痛みの原因を、象は「自分の胎から出てきた何か」だと理解できる程度には頭が良いらしい。「それ」が落ちたと思われる場所を、執拗に踏みつけるんだと」 「でも、そんなことしたら」 「うん、子象は死ぬ。……そうならないように、自然界じゃ先輩母象が、人間の飼育下だと飼育員が、いわゆる産婆の役割を果たすんだそうだ。ただまあ、それでも死亡例の報告は結構あるらしいよ。少なくとも、俺が『絵本屋』で読んだ象の飼育に関する資料にはそう書いてあった」  パートナーであるユニモンのコンディションを保つために目を通した大型草食動物の飼育に関する本を、そのまま流れで馬の項以外も読み進めて。  そうしてたまたま辿り着いたこの記述のお蔭で、俺は母親が俺に向けていた眼差しの理由について、ようやく腑に落ちたのだった。  母さんは、産まれてきたから、俺が憎かったのだと。 「親が子を殺したい程憎む理由なんて、そんな単純なモンでいいんだよ。……まあ、象よりかは多少賢かったから、子供が「勝手に迷子になってそのまま居なくなった」って言い訳の効く歳になるまでは我慢したんだろうけど」 「キミカゲは」  あくまでからからと軽薄に笑う俺に、アカネの方が堪えられなくなったらしい。  喰い気味に、詰め寄るように。しかし震える声で、彼女は俺へと問いかける。 「キミカゲは、キミカゲのお母さんの事、憎くないの?」 「……さぁ」 「さぁ、って」 「少なくとも、子象に母象を憎む権利は無いよ。一々そんな事考えてたら、生きていけなくなっちゃうから」  実際、『迷路』に迷い込んでほとんどすぐにパートナーを得る、という幸運を以ってしても、俺達は生きていく事ただそれだけに精いっぱいだった。  あの眼差しだけは今になっても脳裏に焼き付いているけれど。  あの女の顔は、気が付けば思い出せなくなっていて。 「……も……」 「うん?」  と、アカネはまだ何か言いたい事があるらしく。  青い顔をして俯く彼女の方を覗き込めば、今にも泣き出しそうな表情で、アカネは自分の手の平をじっと見つめていた。 「私も。もし赤ちゃんができたら、そうなっちゃうのかな」 「……」 「象さんみたいに、好きな人との子供の事まで、嫌いになっちゃうのかな?」  ふっ、と。  鼻で笑った音が、うっかりアカネの耳にも届いたらしい。  勢いよく顔を上げたものだから、こちらも表情を取り繕えなかった。  そのままの顔で、俺はアカネへと、また笑いかけてしまう。 「なんで笑うの!?」 「そうはならないんじゃないかな、って思ったから」 「え?」  青かった顔は怒りで赤くなりかけて、しかし俺の返答で呆けたのか、変化はそのまま止まる。 「だってアカネは、象より頭が良さそうには見えないし」 「まあ!」  最も、続きを聞いてしまえば当初の予定通り、熟れた林檎のような赤色に、彼女の顔面は染まってしまったのだが。  全く、表情どころか、顔の色までよく変わる女だ。 「失礼な人! 私、本気で心配してるのに」 「そうは言っても、アカネは象っていうより愛らしい小鳥って感じの女の子だから」 「む、今更おべっか言ったって……」 「鳥は空を飛ぶために身体を軽くする必要があるから、脳みそも小さい」 「キミカゲのいじわる!! もう知らない!!」  ぷい、と大袈裟なくらい俺から顔を背けてから、立ち上がったアカネは勢いをそのままにわざとらしい足音を立てながら部屋を飛び出していく。  ポケットの中のデバイスが、俺を嗜めるようにまたぶるりと震えて。思わず俺は、肩を竦めた。  と。 「罰として」  不意に足音が引き返してきたかと思うと、アカネは開けっぱなしの扉の隙間から身体の半分だけを覗かせて、ジト目で俺の方を見つめていた。 「子供の名前は、キミカゲが考えて」 「どんな罰だよ」 「いいから」 「……青色の花の名前がいいんじゃないかな。その子と鈴蘭と赤根とで、トリコロールみたいになって、なんというか、お洒落だ」 「なぁに、それ」  ふん、と。  また、大袈裟に。しかし何故か先程より幾分かご機嫌な調子で鼻を鳴らして、そうして今度こそ、アカネは俺の部屋の前から去っていく。  去り際に見えた横顔が、未だに彼女と同じ名前らしい植物の根と同じ色をしていたように見えたのは、見間違いだと、そう片付ける事にした。
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快晴
2021年3月05日
In デジモン創作サロン
Episode1 Episode2 Episode3≪≪  頭が痛くなることはありますか?  めまいを起こしたことはありますか?  小学生の私はその質問に正直に答えて、そしたら学校は、病院の検査でよく見てもらうようにと。そんな手紙を、親に書いて寄越した。  色々調べてもらって、その結果。私の身体はどこもかしこも異常無し、で。  帰り道、無言を貫いたまま速足で私との距離を作ろうとする母に、怖くなった私がしつこく「どうしたの」と問いかけ続けると、一度だけ。  母は振り返って「あんたが大袈裟な事を言ったから、時間とお金を無駄にした」と。そう言って、冷ややかに私の事を、見下ろしていた。  母の機嫌は次の日には何事も無かったかのように直っていたけれど。  何にもないと言われた私の頭痛は、今になっても、治っていない。 * 「あのう、あのぅ……!」  店員さんが戻って来た事に気付いて、私は気を紛らわせるために覗き込んでいた水槽から顔を上げる。  苔むした廃屋のオブジェに身体を預けていた歯車のデジモンが、私の視線を無機質な赤い瞳で追いかけたのが解った。 「あの、それで、アイスちゃんは一体……」  100均で買えるような、透明でお洒落なデザインではあるけれど、どこか安物感がぬぐえないプラスチック製の水筒。  同じデザインの容器がハーバリウムになっているのはSNSで見た事があるけれど、私がこの店で買ったこれは、アクアリウム。  染色した草花ではなく灰の砂と小さな貝殻やヒトデ、氷山を模したオブジェと一緒に、1体の生き物--デジモンが、入っている。  入っていた。  アイスちゃん、と呼んでいるそのデジモンは。  今朝、気が付いた時には。姿形が跡形も無く、消えてしまっていたのだ。  いつも水面に浮かべていた、本物の氷の粒と一緒に。 「大丈夫だよ。落ち着いて」  返事を待っているだけで荒波のように打つ脈がいつもの頭痛に変わり始めていた私とは対照的に、店員さんの声はあくまで凪いだように穏やかだった。  優しげで、柔らかい声。  見た目は(申し訳ないのを承知で率直に言わせてもらうと)黒ずくめに皺だらけの青白い顔、とほんのちょっぴり不気味なのだけれど、この人の言葉遣いや振舞いはいつもどこか温かみがあって、そうでなければ、アイスちゃんの一大事だというのに、私はこの店に駆けこむ事すら出来なかったに違いない。  怖いのだ。  迷惑がられて、疎まれるのは。  ……でも、店員さんはいつも通りの調子でそう言ってくれたから。  だから、ふと、浅く呼吸を整えるくらいの余裕は出来て。  そのタイミングを見計らって差し出された水筒のアクアリウムの中にいつもの影がある事に気付いて、私は思わず、声を上げた。 「アイスちゃん!」  浅く透けた白い氷の粒が、いくつも積み重なって出来た、一応は人型のデジモン。  アイスモン、という種族だから、アイスちゃん。  そのまんま過ぎる名前で呼んでいるその子は、氷山のオブジェの谷間に腰かけたまま、黄色い瞳で申し訳なさそうに私の事を、見上げていた。  私はそんなアイスちゃんの眼差しと、店員さんの顔を交互に見比べる。  この子の無事を確認できたのは良かったけれど、でも、どうして。  だってアイスちゃんは、確かに、どこにもいなかった筈なのに。 「溶けていた、と、言えばいいのかな」  やがて、ひとつずつ言葉を選ぶようにして。顎に手を添えた店員さんが、口を開く。 「アイスモンは、名前の通り氷のデジモンだからね。長時間アクアリウムの外の空気にさらされたり、もしくはこの子自身が力を使い過ぎたり。そう言った要因が重なると、溶けてしまう事があるんだ」  どくり、と。  ひと際大きく、心臓が跳ねた。  ああ、言われてみれば。  アイスちゃんは確かに元通りになってはいるけれど、この子がいつも出していた氷は、一粒たりとも、浮かんでいない。  そうしようと思えばいつも一瞬で生み出していたのだから、つまりは、そういう事なのだ。  思いっきり心当たりがあるのが、顔にも書いてあるのだろう。  店員さんは、眉をハの字に傾けている。 「君がこのアクアリウムを買ってくれたのは、この子の能力に魅力を感じての事だというのは私達も重々承知している。それに、お世話に関しては何一つ不備が無かったというのも、この子の様子を見れば判ろうというものさ」 「でも、でも。私のせいで、アイスちゃんは病気になっちゃったんですよね?」  と、私の子の「病気」という単語には、店員さんは軽く首を横に振った。 「一時的な疲労さ。だから、君。あまり自分を責めてはいけないよ。アイスモンが無理をしたのは、この子が君を好いていて、なおかつ多少体調を崩しても君がきちんと看てくれるという信頼があるからだ。暗い顔でいると、むしろこの子の心配事を1つ増やす結果になってしまうよ」  私の思考を先回りするような店員さんの台詞に、嫌味が含まれているようには感じない。  純粋に、アイスちゃんの身を案じてくれているのだろう。  彼の言葉に促されて落とした視線の先にあるアイスちゃんの瞳は、確かに、不安で揺れているようにも見えた。  ……そうだ。  体調が悪いせいで自分を責めなければいけなくなるのは。  そんな事は、辛いに決まっている。 「えっと……」  今度は私が言葉を選ぶ番だった。  頭の中で、店員さんの言葉を繰り返す。 「アイスちゃんは、力の使い過ぎと、アクアリウム内に外気を取り込みすぎたせいで、弱ってしまったんですよね」  店員さんは頷いた。 「じゃあ、その。疲れているなら、ゆっくり休ませなきゃだから……」 「1週間」  いよいよ痛み出した頭の中でぐるぐると彷徨っていた思考に、呆気なく回答が示される。  ピンと人差し指を立てながら、店員さんは静かに微笑んでいた。 「アイスモンには氷を出さずにいてもらって、君もアクアリウムの――水筒の蓋は、開けない事。そうしたら、もう1度アイスモンを私達のところに診せにおいで。それで問題が無さそうなら、また、アイスモンに氷を出してもらうといい」 「えっと、あのう……」  「もちろん、頻度は減らしてもらう事になるけどね」と付け加える彼に、頷きつつも、同時に湧いて出てきた疑問の言葉が口をつく。 「その。ずっとは、我慢しなくて、いいんですか?」  店員さんが更に深く口元に皺を刻む。  笑うと、殊更温かな印象が増す人だ。  改めてアクアリウムを見下ろすと、やはりアイスちゃんは私の事を見つめていた。  ずっと。いつもそうなのだ。  アイスちゃんは、私の事を、よく見ている。 「でも、1週間は安静に、ね」  私は今一度、今度はただただ、素直に頷いた。  頭が上下に振れると、その分、ズキリと頭が痛むのだけれど。 「うん、約束だ。……それから、こちらは要らない心配だとは思うけれど。当然、水筒の事も壊してはいけないよ。繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝が溢れてしまうからね」  ああ、また聞き逃してしまったな、と。私は思わず苦笑する。  およそ1ヶ月程前。このお店でアイスちゃんのアクアリウムを買った時にも私は似たような注意を店員さんの口から聞いて、そして、同じような景色を見ていたばかりに、彼の言葉を聞き漏らしたのだ。  宙に、砂嵐で出来た半円が浮かんでいる。  閃輝暗点、というらしい。片頭痛の前触れとして現れがちな症状なのだそうだ。  ある文豪はコレを歯車と例えたそうなのだけれど、私がアイスちゃんの診察結果を待っている間に見ていた黒い歯車のデジモンとは、やっぱり、似ても似つかない。  しばらくの間だけ。  視界だけは明瞭になるのを待ってから、私はアイスちゃんの姿が帰って来たアクアリウムを鞄に収めて、帰路に就く。  頭痛は酷くなる一方だったけれど、でも、何も見えないよりは多少はマシで。  ただ、痛みと一緒に熱を帯びてしまった頭は、我慢しなければいけない事は解ってはいても、口の中でがりりと噛み砕くための氷を求めていた。 *  氷食症。  いつの頃からか自分の身に起き始めた異変に病名があると知った時。妙に安心した事をよく覚えている。  同時に、氷食症の原因が「よくわかっていない」という曖昧さに、幽かに落胆した事も。  間違っても病気に罹りたいわけじゃない。健康が一番だなんて、そんな事。言われるまでも無くよく解っている。  でも、どれだけ頭が痛くても理由も解らずに「貴女は健康そのもの」だと言われるよりは。  そのせいで、責められたり、怒られたりするよりは。  よほど、気持ちが楽だった。  とはいえ、この「無性に氷を食べたくなる」という衝動には、やはり病というだけあってそれなりに悩まされた。  症状が出始めたのが夏場というのもあって、最初の内は飲み水に入れた氷を噛み砕いていても特に何かを言われる事は無かった。暑さのせいだと、そう片付けられたし、何より自分もそういうものだと思っていたのだから。  しかし肌寒い季節がやってきて、それでも製氷機から氷をすくい上げて噛み潰している私に、いよいよ母が我慢ならなくなったらしい。  女の子は身体を冷やしてはいけない、と。最初の内はそれだけだった忠告は徐々に語調の強さと言葉数を増し、最終的には出典も明らかでは無いインターネット産の知識を参考に、母は身体を冷やす事の恐ろしさをくどくどと解き、私を責めるのだった。  それでも私の歯は氷を噛み砕きたくて、たまらなくて。  何より氷を噛んでいる間は頭痛も多少マシになっているような気もして。  だから家族の目を盗みながら。例えば、食器を洗う合間だとか。  水の音で誤魔化しながら、音を立てないよう指先でつまんできた氷をゆっくりと両顎で潰したりだとか。そういう事は、していたけれど。  でも、それではとても、足りなくて。  製氷機の購入も検討したのだけれど、それこそとても親に隠れて持ち帰れる物では無いし、単純に私のお小遣いではなかなか手を出せないというのもあって。  そんな時に出会ったのが、アイスちゃんだった。  デジモン、と呼ばれる不思議な生き物の入った、アクアリウムを売っているお店。  小さい頃に、1度だけ。幼い気紛れから足を踏み入れた事があるそのお店について思い出したのは、地面が平らだと信じられないくらい足元がおぼつかなくなって、灰色の暗雲のようなものが視界を覆って何も見えなくなる程ひどい頭痛に襲われた時だった。  用事で出ていた帰り道。  ぐるぐるの世界に吐きそうになりながら、辛うじて青い屋根を視界に収めた時。  私は、その屋根の下にあるお店が、照明がそう明るく無いお店であった事と、店員さんが優しそうなお爺さんだった事を、思い出したのだ。  半ば縋るように、駆け込むように来店した私に嫌な顔ひとつせず、いらっしゃいと声をかけてくれたのは以前と同じ人。黒い装束も胸元の金の刺繍も何一つ変わらない、白髪頭のお爺さんだった。  相当なご高齢だと思っていたけれど、印象そのものは、当時と全く変わらなかった。  小さい子供にはひとつ上の学年が相当なお兄さんお姉さんに見えていたように、幼い私はここの店員さんの事を年齢以上に老け込ませていたのだろう。  ……子供の意見なんて、やっぱり、あてにならないのだ。  店員さんはふらつく私へ、予備のパイプ椅子に腰かけるよう促してきた。  見るからに危なっかしかったのだと思う。水槽の方へと倒れられてはたまらないと思われたのかもしれない。(最も、店員さん自身はそんな雰囲気、おくびにも出してはいなかったけれど)  ご厚意に甘えて。あるいはご迷惑をおかけしないように。私は用意された椅子へと腰を下ろした。  心臓に合わせて脈打つ頭の痛みが引いて来たあたりで立ち上がり、私は店の中を見て回った。  初めて来た時にも不思議なお店だとは思ったけれど、やはり記憶とは曖昧なもので、改めて見て回った店内は、幼さを理由に「不思議」の一言だけで片付けられていたそれらの光景に、むしろ首を傾げてしまうくらいで。  その時特に目を引いたのは、水の中で揺れる炎のデジモンだった。  底には砂利では無く岩肌を模したシートが敷かれており、同じ色のブロックの隙間から枯れたような色の水草が伸びた、そんなアクアリウムの中央で。炎のデジモンは、私の視線に感付くなり身体を膨張させるみたいに身に纏う炎を一層に燃え盛らせた。  水は水素と酸素の塊だから、燃える時は燃えると何かの漫画で見たのだけれど、それにしたってあんまりにも現実味の無い光景だなぁ、と。私は回らない頭のままで、苦笑した。  とはいえ水の中の炎はどこか輪郭がぼんやりとしていて、だからだろうか。再び光をトリガーに頭が痛みだす事は、無かったけれど。 「そのデジモンは、メラモンと言うんだよ」  しばらくして、様子を見に来たらしい店員さんが、そのデジモンの事を私に説明してくれた。  炎が燃える時の擬音が名前になっているそのデジモンは、見たままの通り火炎型のデジモンで、生息地によって気性の激しさがまるで違うのだと。この個体は気性が荒い方だと、そんな話を。  その時ふと、炎のデジモンがいるなら、氷のデジモンはいないのかと。そんな事が、気になって。  思い付いた通りの疑問を口にして。店員さんはすぐに、『氷のデジモン』のところへと、私を案内してくれた。  それが、私が後に「アイスちゃん」と呼ぶことになる、アイスモンだった。  メラモンが炎で出来ているように、全身が氷でできたアイスモンには氷を出す力が備わっているらしくて。  値段を尋ねれば、彼の入ったアクアリウムは製氷機よりも、ずっと、安くて--ちょうど、手持ちで足りる程の値だった。  溢れ出す、と表現されていた何らかは、水筒の蓋を開ける程度であれば、問題は無いらしい。  蓋を開けた状態で覗き込んだアクアリウムの中には、流氷のようにアイスモンが生み出した氷の粒が浮かんでいて、そのせいで、アイスモン自身の姿は上からは確認する事が出来ないのだった。  私はアイスモンのアクアリウムを購入し、持ち帰った。  食器棚からコンビニかどこかで貰ったはいいが、そのまま使わないで置いていたプラスチック製のスプーンをこっそりと拝借して、自室にアイスモンの入った水筒を置くなり、私は金色に塗られたアルミの蓋を開け、中の氷を、ひと匙。掬った。  そのまま唇へと滑らせ、奥歯で噛み砕いた氷は 「……おいしい」  久方ぶりに、親の目を、耳を、気にせずに。何の憂いも無く思い切り、がりりと氷を噛めたからだろうか。  思わず私の口からは、そんな言葉が、漏れ出した。  と、ふと視線を感じて水筒の側面へと視線を落とすと、アイスモンが、氷の組み合わさった顔で、信じられない程よく出来た笑みを浮かべて、両手を上げてぴょんぴょんと、全身で「喜び」としか取れない感情を表現していた。  彼は、私を見上げていた。  褒められるのが嬉しいと、そう言わんばかりの光をらんらんと黄色い瞳に宿らせて。  それからというもの、私は欲しい時にアイスモンの出した氷を掬って食べたし、アイスモン――いつからか、アイスちゃんと呼ぶようになっていた――はいつだって、私のためにアクアリウムの水面に氷を浮かべてくれていた。  紛いなりにも生き物が暮らしている水に浮かんだ氷だなんて、人から見れば不衛生だと思われるだろう。  だけど透き通った氷はただそれだけで、なんだか清潔なモノに見えるのだ。  実際のところ、アイスちゃんの氷を食べて、お腹を壊した事なんて一度も無かったのだから。  だから、問題なんて、ひとつも無かったのだ。  私は氷を出してくれるアイスちゃんがたちまち好きになったし。  アイスちゃんは、氷を喜んで食べる私を、好いてくれていた。  私達は、ペットと飼い主として以上に、良いコンビだったのだ。 * 「……」  私は机の上に置いたアクアリウムをぼう、っと眺めた。  心なしか、アイスちゃんは私の顔色を窺っているように見える。  約束の1週間まで、あと半分と少し。  たったの7日間が、今までに無く、長かった。  伊達に『症』と付いてはいないな、と思った。  私のこの、氷を食べたい、という衝動。  最初の内は、我慢できるだろう、と。むしろここしばらくはアイスちゃんが好きな時に氷を出してくれるお蔭で精神的に余裕が出来ていたから、症状も軽くなっているかもしれないと、楽観的に考えていたけれど――甘かった。  初日の夜には既に、以前のように、夕食時に使った食器を洗いながら冷蔵庫の製氷機から氷をつままなければ耐えられなかったのだ。  久々に口にした冷蔵庫産の氷はあまりおいしくはなかったのに。  氷食症の症状には、氷を食べるだけでなく「噛みたい」という衝動も含まれているらしいのだけれど、冷蔵庫の氷には私が求めている以上の固さのものが時折混じっていて、力を込めた奥歯に嫌な痛みを伴う負担がかかる事もしばしばだった。  逆に、時には口に入れただけで簡単に砕けてしまうものもあって、そういった氷はすぐに舌の上でシャーベット状になってしまい、これっぽっちも満足感が得られなかったりもする。 「……やっぱり、おいしかったんだね。アイスちゃんの氷」  アイスちゃんの視線が複雑そうに宙を泳いだ。  褒められて嬉しく思う反面、私が望むモノを出せない罪悪感を覚えているのだろうか。 「ごめんね。……気にしなくていいから。もうちょっとの辛抱だもん」  この子が気を病む必要なんて、微塵も無いのに。  この子を責める気なんて、毛頭無いのに。  なのに、お互いを笑顔にしていた筈の私達の関係は、どこかぎこちなく、出会って初めの頃よりもむしろよそよそしくて、なんだか、自室まで居心地の悪いような有様だった。 「ごめんね」  もう一度繰り返してから、私は自分のスマホを取り出した。 「ご飯にしよう。私も、もうすぐだから」  半ば気持ちを誤魔化すように、店員さんにもらったQRコードからダウンロードしたアプリを起動する。  金色の、三日月にも似たアイコンのアプリで、記憶が正しければ、これは店員さんの服の刺繍と同じ模様だった筈だ。お店その物のマークなのかもしれない。  これは、デジモンの世話をするためのアプリらしい。  私達と同じ物を食べさせることも不可能では無いそうなのだけれど、このアプリを使えば、理屈は解らないけれど、アイスちゃんの食事もアクアリウム内の清掃も、指先1つで思いのままだった。  最初は疑っていた私も、『デジモン』という生き物は、そもそもが私の理解を超えた存在で、だからだろうか。慣れるのにも、そう時間はかからなくって。  アプリ起動後に出現した、骨付き肉の絵をタップするなり、絵と同じ形の肉が、アイスちゃんの目の前に出現した。  突き出た骨の両端を手で握り締めて、アイスちゃんは、肉に口をつける。  ……とはいえ、アイスちゃんはあまり、美味しそうに食事をしているようには見えなかった。  それもそうだろう。こんな気分で、食事だなんて。 「……ごめんね。私、もう行くから」  その上見られていては余計に食べ辛いだろうと、私は席を立つ。  アイスちゃんが私の退出を最後まで見届けていたのは解ったけれど、私は、とても振り返る気にはなれなかった。  逃げているようだと。そんな気さえした。  食卓に嫌いな物なんてひとつも並んではいなかったけれど、ごはんは正直、美味しくは感じられなかった。  ここのところ、いつもそうだ。満腹にはなっても、満たされる感覚が無い。  口の中に残った醤油の塩味と砂糖の甘味はどことなく不愉快で、魚の脂に濡れた歯はどことなく不快だった。  口を漱いで、洗い流せばそれで済む話なのかもしれないけれど、私の口が求めているのは、やはり―― 「ああ、もう! またそんなモノ食べようとして!」  気持ちが急くあまり、とんだ凡ミスを犯してしまったと、母に隠すように伏せ気味にした顔をしかめる。  氷の引き出しを引っ張る手に、力がこもり過ぎたのだ。  がさっ、と中の氷が打ち寄せる波のように揺れて、それが母の耳に届いてしまったらしい。  眉を吊り上げた母は、とりあえず芸人に無理をさせておけば面白いとでも思って良そうな品の無いバラエティー番組の視聴を切り上げて、つかつかとこちらに寄って来た。 「ごめんなさい」  私は急いで冷凍室の引き出しを閉め直す。  が、寄せた氷がやはり波のように音を立てて戻って行ったのとは違って、母は引き返してはくれなかった。 「あのねぇ、氷だってタダじゃないのよ? それにあんたが食べた分、お母さんが毎日給水器に水を入れ直してるの。解る?」  そんな事、私だってしてるから解る。  毎日してるような事じゃ無いっていうのも。 「第一女の子は身体を冷やしちゃダメなの。後で痛い目を見るんだからね?」  私は、今、辛いのに。 「喉が渇いたなら、そう、白湯。白湯を飲みなさい」  勝手にお湯を沸かしたら、どうせ今度はガス代だってタダじゃないって言うクセに。  それに、私は喉が渇いてるんじゃない。  私は、  私は―― 「……わかった。ごめん」  彼女に背を向けて、薬缶の残り水をコップに注ぐ。  一応は満足したらしい。それでもいくつかの小言を置き土産に、母は居間の方戻ったけれど。  だけど湯冷ましを喉に流し込んでも、私の中身は渇いたままだった。  母の背中を目で追えば、道中に箱で積んである、口当たりの良い言葉でとにかく身体にいいとばかり書かれた健康食品がいくつも目について、それらの値段を頭の中で勘定してしまうのが嫌で、私はそれ以上視線を上げる事無く、夕飯に使われた食器を洗う事に専念した。  噛み潰せない氷の代わりに奥歯を噛み締め続けてはみたけれど、こんなものでは、とても足りない。  ああ、ざらざらと口に氷を流し込みたい。  砕けた氷で頬の内側が傷ついたって、別に構わない。  ほんの少し食べるだけでも。それだけでも、私は全部、それ以外の何もかもを我慢できるのに。  してるのに。  なのに、氷を食べられないなら。  この痛くてたまらない頭を、どう耐え抜けばいいって言うの? 「……」  仕事を終えて部屋に帰って。  アクアリウムの中から身体の向きを変えてアイスちゃんが出迎えてくれたけれど、彼の住まう水の上に氷がやはり一粒も浮かんでいないのを見て、堪えられなくなってしまった。  水が、目尻から滴って来た。  こんな熱い水、いらないのに。  驚いて容器の側面に寄って来たアイスちゃんに近寄れすらしないまま、殴られたみたいに痛む頭を押さえてしゃがみ込む。 「どうして。どうしてよぅ……!」  結局噛んで潰せなかった言葉が、いよいよ口の隙間から洩れ出した。  私は。私はちゃんと我慢してるのに。  我慢するために、正直でいる事を止めて、代替品で誤魔化しているのに。  我慢する事さえ我慢しなきゃいけないだなんて。そんなの、あんまりじゃないか。  どこまで自分は健康だと言い続ければ――頭が痛いのを、解ってもらえるの? 「うう、うぅ……」  鼻をすすって、目をこする。  こういう行為も、母の目に留まると「汚い」だの「目にばい菌が入る」だの色々言われるのだけれど、私では、他に涙を隠す方法が思い付かなくて。  そうして、例の頭痛の前兆。砂嵐が端に滲む中で、それでも多少は明瞭になりかけた視界の中に――ふと、見覚えのある、影を見つける。 「へ?」  それは、氷だった。  アクアリウムの水面。  形はいつもより歪つだけれど、今の私にとってはどんな硝子細工よりも美しく、魅力的で、心から欲してやまない、透明な粒。  それが、目の前に。 「アイス、ちゃん……?」  黄色い瞳は、いつものように。  私の目を、じっと見ていた。  私は。  気を遣わせて、ごめんなさい。と。  ちょっと癇癪を起してしまっただけだから。無理をさせちゃダメって言われてるんだから、気持ちは嬉しいけれど。と、断らなくては、ならないのだ。  だって。  だって、だって。  1個食べたら、また、ねだってしまう。  もう1個出して、と。  いいや、1個や2個で済むはずがない。また、ひょっとすると今回以上にこの子が弱ってしまうまで、氷を欲しがってしまうかもしれない。  でも。  だけど。 「……いいの? アイスちゃん」  水筒の蓋に、手が伸びる。  同時に、いつもそばに置いてある、ただ、このところは使う事が無かった使い捨てのプラスチック製スプーンにも。  指の隙間に包装を解いたスプーンを挟んで、残りの指全部で。両手を使って、水筒の封を解く。  あれだけ曝すなと言われた外気が、また、アイスちゃんのアクアリウムへと入り込んでしまう。 「ごめんね……でも、ありがとう」  申し訳なさと。それと同じくらいの逸る気持ちで、私はアイスちゃんの顔を碌に見られなかった。  スプーンを差し込んで、周りの水ごとすくい上げた氷を早く引き出そうとして。  それが氷では無いと気付くのに、一瞬、遅れてしまった。 「きゃっ!」  氷では無かった。  氷で無いなら、何なのかまでは、わからない。  だって『それ』は、スプーンの上で、爆発したのだから。  見た目通り、大きさ通りの威力しか無い『氷のようなモノ』の衝撃は大した威力では無かったけれど、悲鳴と一緒に、手元から。  アクアリウムは床に向けて一直線。真っ逆さまに、滑り落ちた。  とはいえ、カーペットの敷かれた床で跳ねたところで、プラスチック製の水筒がただそれだけで、壊れる筈も無い。  だから『それ』は、店員さんが言っていたようなモノでは、無かったのだろう。  アクアリウムが壊れれば、溢れ出してくるようなモノでは。 「……え?」  虎がいた。  それも、部屋いっぱい。背中が天上にまで付きそうな程、大きな虎が。  身体の全てが、水で出来た虎が。  私の見間違いでなければ、この虎は、転がったアクアリウムから零れ落ちた水が、膨れ上がるようにして出来上がったモノだった。  全身が水で出来ている、とは言ったけれど、牙も、爪も、ぎらぎらと金色に輝いていて――その中に秘められた全ての攻撃性が自分に向けられていると、それに気付けは無くは無い程度には、どうやら自分は鈍い人間ではないらしかった。  最も、『この子』の次の動作を避けられる程、判断力に優れた人間では、無いのだけれど。  虎は、音も無く私に飛び掛かった。  それからというもの、私は、頭痛にも。それから、氷を食べたいという衝動にも、悩まされる事は、無かった。  砂嵐に塗れた景色にも、それ以外にも。  もう二度と。 *  深夜。  公園の金網の傍。夜が明ければプラスチックゴミを回収しに、この場所にゴミ収集車がやって来る。  とはいえゴミを出していいのも、太陽が顔を出してからなのだが。しかしやはり、定められたルールを守らない人間というのはどこにでもいるもので、ぽつんと置かれたゴミ袋の前で、女はふんと、鼻を鳴らした。  まあそうは言うものの、こういう輩のお蔭で自分も人目につかずにコレを捨てられるのだ。と、自嘲するように肩を竦めてから、彼女は既に置かれているゴミ袋に僅かな隙間を作り、筒状の物体を袋の中へと押し込んだ。  『両親』との関係は想像以上に上手くいった。  製氷機を満たす氷分の水代にすら目くじらを立てていた母親も、しかし娘が美容に気を遣い始めると、むしろ進んでそのために必要な美容品や衣服を買い与えるような始末で。  当然のように、不信感は募った。  だからこそ利用し続けようと決めて、それは上手くいった。  自分はそれが出来る、選ばれた存在なのだと。  彼女は自身にそう言い聞かせて。それもやはり、上手くいった。  いってしまったのだ。 「……君は、種としてそういうデジモンだからね。スプラッシュモン」  女の肩が跳ねた。  あれだけ注意深くこの場へと訪れ、これだけ慎重に警戒を張り巡らせていた筈なのに。  男は当たり前のように、彼女の背後に、立っていた。  男の胸元には、こんな宵闇の中でも。宵闇の中だからこそ、金の刺繍が、光っている。 「それでもあの子を信じたかったから。あの子が見ているのは、氷を出せるアイスモンの能力じゃ無く、アクアリウムの中の自分自身だと。そう信じたかったから。完全体でありながら、十分に究極体にまで通用するデジモンへと自分を育ててくれたあの子を、愛していたから。……だから、あの子を試したんだろう」  そして、やっぱりダメだった、と。  男がそう続けたのを聞きながら、彼女はその場から後退る。敵わない相手だと、知っているからだ。 「君がそうする事を、結局許容したのは、私達だ。溶けたのではなく、進化したのだと。そう明かさなかったのは、嘘をついたのは、私達だ。だから、私達に君を責める権利は、無い。……でも」  彼女の表情は歪んでいた。  それが最も醜い表情であると理解した上で、奥歯を噛み締め、目を吊り上げながら。 「君がその嘘を。アイスモンではなく、今度はあの子のふりをし続ける、という『嘘』を、貫き通せなくなった時。……その時は、解っているね?」  だが、水である彼女には。  水そのものである、『彼女』には。  どれだけ感情が高ぶろうとも。やはり、涙など浮かべようも無いのだ。 「私達の仕事は、君達デジモンが、人の傍で暮らすための手伝いをする事だから。……君の存在がその邪魔になるのなら。その時は」  女は夜道を駆け始めた。  人の姿で、ではない。水虎の姿で、だ。  よほど、この場から。一秒でも早く、離れたかったのだろう。 「……」  男はゴミ袋の前に膝を付き、女が今しがた捨てていった『ゴミ』を引き抜いた。  それは100均で買えるような、透明でお洒落なデザインではあるけれど、どこか安物感がぬぐえない、プラスチック製の水筒だった。
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快晴
2021年2月01日
In デジモン創作サロン
Episode1 Episode2≪≪ Episode3  自分で言うのも何だが、要領は良い方だった。  言われた事は大体そつなくこなしてきたし、初見の物事にもおおよそ求められている解答を用意できるので、周囲の人間はそこそこ俺に期待してくれたし、「天才だ」なんてもてはやしてもらえたのも1度や2度では無かった。  だが、所詮俺はそこ止まりの人間だ。  器用貧乏。  俺を言い表すのに、ここまでしっくりくる言葉もそうそう無いだろう。  早い話、最初から能力値がある程度高い代わりに、成長も上達もしないのだ。  いつも、何をやっても。気が付けばその分野において自分の上位互換のような人間が俺の隣に現れていて、そうすると、周囲から俺の存在は消えてなくなってしまう。  スタートダッシュだけは上手いものだから、きっと慢心しているのだ。努力が足りないのだと、分析や資料集め、修練といった、自分なりの頑張りを重ねてみても、俺を追い抜かしていった奴らは、その背中が豆粒ほどの大きさでしか視認できない程、遥か先にまで走って行ってしまう。  結局のところ、天才と言う単語は往々にして、そういった奴らを指し示す単語だった。  そして、この日。  俺はどうしてこうも俺の人生が肝心なところで上手くいかないのか、ようやく身をもって理解する事が出来た。  成人にまでなって何を今更、という呆れと、まだまだ若いんだからこんなところでそんな悟りを開く必要はない、という諭しが左右の耳から聞こえてきたけれど、当の真ん中、俺自身は、数日前の出来事もあって、もう全てに投げ遣りな気分だった。 *  一斉に駅に向かう学生達の列からこっそりと逸れて、未だ慣れない革靴の底をコツコツと鳴らしながら路地裏を1人、歩いていく。  表情筋だけで仕事のやりがいと職場の明るさを表現しようとした結果、小学生の集合写真と大差無いレベルの表紙に仕上がった企業パンフレットは、一番最初に目についたゴミ箱へと丸めて捨てた。  再三記された会社そのものの「風通しの良さ」が、隙間風のようにうすら寒かったからだ。  そもそもあの日以降の就職活動は、半ば消化試合のような物だった。  消化試合な上に、負け戦だ。  内定はどこからも貰っていない。まず落ちる事前提の、高望みも良いところの企業にだけ履歴書を送りつけて、あとは就活サイトからも登録を外した。こうやって足を運んでいるのは既に説明会が予約済みだった箇所だけで、地元の企業に至ってはいくつか面接をバックレている。  傍から見ればそこそこ順風満帆だった俺の人生に、「就活の失敗」という影が落ちれば、まあ、それは、首を括るにしてもそれなりの理由になるような気がしたからだ。  無才の俺は、死ぬことにすら周囲の納得できる理由を用意しなければ、やっていられないらしくって。  ……まあ、そんな風に死ぬ死ぬ死にたいみたいな事ばっかり考えている割に、俺は企業訪問の後に出来る、いくらでも両親に言い訳が利く自由時間に、そこそこの楽しみを見出したりはしているのだが。  歩くのは、割合好きだ。知らない場所ならなおの事良い。  目的の無い散歩は、誰かと何かを比較する必要も無いのだから。  とはいえ「時間があった」という理由だけで大学から少し離れたところにある山の登山道を往復してからゼミに顔を出した時には、流石に学友に呆れられたりもしたっけか。  電車をいくつか乗り継いでやって来たこの町は、中途半端に田舎町、といったところだろうか。  都会とは程遠く、都心のベッドタウンと呼ぶには心許なく。コンビニは遠いが大型の商業施設は比較的近い。そんな町だ。  少し前にこの近所で女性の変死体が発見されたとかいう話を母がやたらと気にしていたが、そんな事故だか事件だかに左右されるまでも無く空気はどことなく濁っていて、その原因を少なからず担っているに違いないバイクの爆音が時折空気を揺らしては走り去っていく、寂れた空間。  当然どこまで歩いたところで目新しい発見など在る筈も無いが、俺としては、時間さえ潰せれば、町の造形などどうでも良かった。  贅沢を言えば、余所者でも気軽に入れてそれを噂話のタネにされたりしない、静かでそう金のかからない何かの店が見つかればいいのだが。  飲食店でもいいが、一番良いのはペットショップだ。ふらりと立ち寄ってひやかしても、比較的咎めるような視線を向けられにくい。気がする。  展示された犬猫達は高級品であると同時に、血の通った生き物だ。金銭と責任。その両方を天秤にかける以上、即決で購入する人間の方が少ないのだろう。  だから、どうにもそれらしい店を見つけた俺の足は、当たり前のように、その場で止まった。  きっかけは、一度出た道路沿いの道から見えた、青い屋根だ。  青色の屋根瓦などそう珍しい訳でもないが、あそこまで深い色をしたヤツは、少なくとも俺は初めて見たもので。  最初から特に進路の定まっていない道中だ。このまま何も無ければ件の大型商業施設に寄って、そこから出ているバスにでも乗って駅に向かう形になるなと考えていた俺は、その屋根の家へと目的地を変更した。  普通の民家ならそのまま通り過ぎるつもりだったが、店の前に置かれた謎の言語で書かれた看板と、味気なくドアノブにぶら下がった『OPEN』のプレートを見るに、何らかの物品を販売している場所である事だけは確かなようだった。  入り口の磨りガラスから覗く光は無駄に怪しげではあるものの、俺は何となく、この手の照明に親しみを感じていて。 「……失礼します」  面接室でも無いのに、とは思いつつ、コートの下に来ているリクルートスーツがそうさせるのか、俺は若干抑えたトーンで断りを入れてから、店の扉を開けた。  中の光景は、半分くらい、予想通りだった。  外観よりも広く見える空間の中に、きっちりと並べられた鉄の棚。その全てに、明るい、様々な色の光を灯した水槽が、所狭しと並んでいる。  ただ、半分くらい、と言ったのは、その水槽の種類があまりにもまちまちだったからだ。単純に大きさや形の問題じゃない。家の台所で見かけたような容器までちらほらとあり、しかしその全てに例外無く、砂やら装飾、生き物といった、何かしらの存在が入れられているのだ。  アクアリウム、って言うんだっけか。  それにしたって、いくらか無節操ではあるけれど。  俺は入ってすぐの棚、その支柱にぶら下げられている、夏祭りで金魚でも掬った時に入れておく赤いビニール紐で口を縛ったポリ袋を覗き込んだ。  底に敷き詰められているのは全部違う色の波模様が入ったビー玉で、その上を泳ぐ魚を丸い側面が何度も反射して、1匹しか居ない魚で万華鏡を作り上げている。  で、その魚というのも、ガラス玉の飾りにも負けず劣らずの極彩色だ。  熱帯魚だろうか。淡いグリーンの身体には赤、黄、青のペイントが身体の面積いっぱいに施されていて、しかも広げた胸鰭は上から見ると蝶の羽のようにも見える。こんな魚、今まで見た事も無い。  入れ物自体は何の変哲も無いポリ袋であるにもかかわらず、その点も含めて、優秀な美大生の作品みたいにこの『アクアリウム』は幻想的だった。……中の魚にとって住みやすい環境かは、さて置いて。 「ベタの一種か?」  狭いところで飼える魚というと、そのくらいしか思いつかないんだが。 「いいや、その子はスイムモン。見ての通り、熱帯魚型のデジモンだよ」 「わっ」  思わず声が出たし、肩も多分、跳ねた。  身体まで跳ねなかったのは行幸か。棚に当たっていたらと思うと、遅れて冷や汗まで浮かんで来た。  振り返ると、壁際におそらく会計用のカウンターがあって、その向こうのパイプ椅子に、俺の両親と同世代くらいの男性がにこやかな表情を浮かべて腰かけている。  この店の店員だろうか。アクアリウムに気を取られて、そして売り物に対してあまりにも地味なコンクリートの壁と半ば色彩が同化しているせいで、全然気がつかなかった。 「申し訳ない。驚かせてしまったね。どうにも昔から、気配というヤツが薄いらしくて」 「ああ、いや。お邪魔してます」  俺は軽く会釈してから、男の言葉を再び頭の中で繰り返した。  スイムモンって、言ってたっけか。  いや、それはいい。聞き慣れない名前だが、魚なんて、知らないものの方が多いだろうし。  問題はその後。熱帯魚、まではいい。  熱帯魚『型』? の、デジモン? 「あの、デジモンって?」 「ああ、やっぱり君も、この店は初めてかい」 「っス」 「良ければ、他の子達も見てごらん」  質問の答えにはなっていないような気がしたが、とりあえず促されるままに他のアクアリウムへと視線を移す。  ……それで、確かに少なくとも。熱帯魚『型』の部分には納得が行った。  スイムモンの隣の、水草と流木で森を象ってある水槽に入っていたのは、魚でも何でもない、全身赤色のクワガタムシだった。  昆虫の呼吸器官は人間で言うところの腰だか尻だかのあたりに横一列に並んでいると聞いた事がある。だから、水に落ちるとあっという間に溺れてしまうのだとも。  だというのにこのクワガタムシ、陸上で酸素を吸って生きている生き物なら虫じゃ無くても確実に溺れる水の底にまで沈められているのに、俺の視線に気付くなりぎちぎちと太い大顎を鳴らして威嚇してくる程度には元気にしている。  「呼吸の出来る水」それ自体はもう存在しているみたいな話を何かの本で読んだのだが、それにしたって、最終的には酸素と入れ替わった二酸化炭素を輩出できずに中の生き物は死んでしまう、というオチがついていたような。  そもそもこのクワガタ、二本足で立ってるし、口はブラシ状じゃ無く牙と舌まであるし。どうなってるんだ。 「……これは、クワガタ型のデジモン、とかっスか」 「残念。昆虫型だよ。ただ、名前はクワガーモンさ」  ひどく大雑把な分類と特撮モノの怪獣みたいな名前に一種の眩暈を覚えつつ、俺はこっちに寄って来た店員らしき男の方へと向き直る。  クワガーモンは、まだ顎を鳴らしていた。 「凶暴だし懐かないけれど、飼いにくいってわけじゃない。食事さえきちんと与えていれば、縄張りを侵される事が無い分野生のものよりは幾分か穏やかだからね」 「穏やかなんスか? これで?」 「ああ。野生の個体は、威嚇抜きで襲ってくる」  虫だろうと、一直線に飛び掛かって来たとしたらなかなか怖いな等考えている俺の傍らで、男は節くれだった人差し指を立てて、唇に当てる。  途端に、クワガーモンが静かになった。 「それで、お客さん」  恐らくエアーポンプの類から発せられている、こぽこぽという音だけをBGMに、店員はにこりと微笑んだ。 「見たところ、この店は初めてだね? それから、デジモンそのものも」  男の物腰は柔らかく、質問に責めているような空気感は無い。  不思議と、こちらからも言葉を返すのが、億劫に感じないタイプの人種だった。 「企業説明会の帰りに、寄り道っス。お店どころか、この町に来るのも初めてで。……なんか、そういう生き物の生息地とかなんですか? この辺」 「そうだと言えばそうだし、違うと言えば違う、かな。この子達は本来であれば、どこにだっている。私達は、その中でも特別人間に興味のある子達が、より人間の近くで暮らすための、簡単なお手伝いをしているに過ぎないよ」 「へえ、なんというか……その言い方だと、こいつら妖怪とか、そんな感じっスか」 「近いかもしれない。付喪神の一種だと思っている研究者もいるそうだから」  俺はしゃがんだ先に置いてあった金魚鉢の中で、出目金の形をした浮きに飛びついていた白い猫へと指を差し出した。 「じゃ、これとか化け猫っスね」  ぴょこぴょこと指先を振ると、白猫はばっと浮きの腹を蹴って、泡の帯を作りながら一直線にこちらへと向かってくる。 「いや、その子はハツカネズミのデジモンだよ」 「……」  白猫改めハツカネズミのデジモンは、俺の指をねこじゃらしに見立ててか、手袋をはめた手でガラスの壁に猫パンチを繰り返していた。  いや、  猫じゃん。 「デジモン? の分類難し過ぎるっしょ。誰が決めてるんスか」 「学者先生だったり、専用のコンピューターだったり。そんな感じかな」 「コンピューター? へぇ、ハイテクっスね」  店員の口から出てくるのは荒唐無稽な話ばかりで、しかし目の前にある現実そのものの方がよっぽど非現実的で。でも、本当の事なのだろう。  ……だからだろうか。 「いいなぁ」  振り返った先にある、結局のところ一本道しか無い帰路から目を背けたくて。 「こんな不思議な生き物相手の仕事。ちょっとだけ、憧れるっス」  何もかもを投げ出して、逃げ出したい癖に。  どこへも行けない自分の中から、諦めの悪い言葉がぽつりと、漏れた。 「……」  ただしそれは、つかの間の夢だった。  すぐに正気に戻った俺は、頭を横に振って、湧いて出てきた雑念を振り払う。  急な仕草に驚いたのか、猫のようなハツカネズミは、来た時同様、ぴゅーっと金魚鉢の側面から泳ぎ去って行った。 「スンマセン、無責任な事。素人が何を偉そうにって感じっスよね」  鼠の俊足を見習って、俺も立ち上がり、早くこの店を立ち去ろうと出入り口に足を向ける。  あらゆる意味で「お邪魔しました」と、俺は店員に、最後に一声かけてから外に出ようとした。 「興味があるのかい? この店の仕事に」  のに。  問いかけられて。  だから、俺の足は、止まった。 「企業説明会の帰りだと言っていたね」 「……はい。就活生っス。ただし未だに内定0の、就職浪人候補生っス。……さっきのは、そういうアホの甘え腐った妄言だとでも思って、忘れてもらえると嬉しいんですが」 「そうなのかい? 興味があるなら、私達も歓迎するのだけれど。このアクアリウムを欲しがるお客さんはいても、私達の仕事そのものに関心を抱いてくれる人は割と珍しいからね」 「でも、こういうのって専門職でしょ?」 「そんな事は無いよ、とは言わないけれど、最初から全てを要求したりはしないさ。ひとつずつ教えていくから、その辺は心配いらないよ」 「……」  最初から全てを要求したりはしない、か。  ……常套句だとしても、そんな言葉をかけられたのは、いつ以来だっけか。  まあ、いいか。  そもそもの俺の目的は、少しでも家に帰る時間を先延ばしにする事だ。  この店員がさっきの俺の発言に気を悪くしていないと言うならば、少なくとも今この瞬間だけでも、話に乗っかるのも悪くは無い。  それに、どうせ。  俺のスペックなんて不要だと判断すれば、勝手に向こうから見切ってくれるだろう。  今後の武運をお祈りしてくれる筈だ。就活なんて、そんなモンだ。 「……詳しい話、聞かせてもらっても良いですか?」 「そんなに畏まらなくてもいいよ。……君。明日の11時頃、時間は空いてるかい?」 「面接っスか」 「いいや。試験結果の発表、かな」 「?」  首を傾げる俺に、少し待っているよう言い渡してから、男は店の奥へと姿を消す。  数分もしない内に戻って来た彼は、手の平の上にキューブ状のキーホルダーを乗せていた。 「試験の内容は、こうさ。君には明日、うちの店に来るまで、このキーホルダーを――より正確に言うと、キーホルダーの中に居るデジモン・ウッドモンを預かってもらう」  こういうキーホルダーは大概色付きの油で満たされた中に、ヨットや水生生物、観光名所のミニチュアがぷかぷかと浮かんでいるものだが、男が差し出しているそれはそういったものではなかった。  茶色い砂と漂白された極小の貝殻。藻が生えているのか妙にこんもりとした印象のある黒い小石。透明な水底に沈められたそれらを見るに、これは小さいながらも、間違いなくアクアリウムだ。  そして、その中央にある、木片のような何か。  一瞬流木でも模しているのかと思ったそれには、浅い海のように淡い青色の輝きが2つ--早い話、目があって。  店員の弁から察するに、コイツがウッドモンなのだろう。 「……植物型?」 「正解」  ウッドモンが両腕を持ち上げた。  挨拶しているようにも見えるし、威嚇しているようにも見える。  多分後者だろうと思いながら、それでもとりあえず、俺は軽く会釈して返した。 「この子は見ての通り、枯れ木のデジモンでね。だが、もうじき、そうじゃなくなる」 「花でも咲くんスか?」 「そうなるといいね。なにせ、それが君の受けてもらう試験だから」 「え?」  男はウッドモン入りのアクアリウムキーホルダーへと視線を落とし、くすりと微笑んだ。 「デジモンというのは、成長の段階で『進化』する生き物でね」 「はぁ。アレみたいですね、ポ」 「発言を遮る無礼を許してほしい。しかし、ああ、君。それはいけない。私達の権限をもってしても、その発言は困る。……話を戻そう。この子はね、前々から花のデジモンになる事を夢見ているんだ」 「花のデジモン」  男に倣って、俺も今一度ウッドモンへと目をやる。  こうも小さいと確かな事は言えないが、男性の言う通りウッドモンの姿は枯れ木そのもので、蕾なんてとても付いているようには見えなかった。 「進化自体は、今夜にでもする筈だ。出来るように、世話はしてある。ただ、枯れ木であるこの子に花を咲かせるには、あと一押し、人間からの助力が必要でね」 「助力、っていうと?」 「それを考えるのが、君に与える試験、という訳だ」  ええ、と、思わず声が漏れる。  いくらなんでも、漠然とし過ぎている。  にもかかわらず、責任があまりにも重大だ。1匹? 1体? 1本? ……単位はわからないが、兎にも角にも生き物一個体の今後を、俺の行動が左右してしまうだなんて。 「そう難しく考えなくてもいいよ。人間と一緒に過ごすだけでもこの子達には新しい可能性が生まれるし、仮に君が花を咲かせられなかったとしても、まだ、この子にはチャンスが残されているから。じゃなきゃ、いくら進化が近いからって、この子を試験用に差し出したりはしないよ」  男の一種の気楽さに、嘘が混じっているようには見えなかった。  だが代わりに見て取れる俺に対する『期待』や『可能性』の影は、ちょっとばかり、重荷にも感じて。  だが――そもそもは、自分の迂闊な発言から芽吹いた種だ。  責任、と言うのであれば、この男性をその気にさせた時点で、既に発生している。 「解りました」  意を決して、頷いて見せる。  手を伸ばすと、男は一層に柔和な笑みを浮かべてキーホルダーを俺の手の平に置いた。 「明日11時に、また来ます」 「じゃあ、それまでこの子を、よろしくね」  はい、と返事をしてからキューブの中を見下ろすと、ウッドモンと目が合った。  俺を品定めしているように見えた、という印象は、きっと勘違いでは無いのだろう。 「栄養は十分に蓄えてある筈だから、食事の心配はしなくていいよ。ただ、10時頃には眠る子だから、そのくらいには部屋の灯りを落とすか、それがダメならキーホルダーに布か何かを被せてあげてほしい」 「健康的っスね。了解しました」 「それから、まあ。その形状ならまず心配は要らないと思うのだけれど――1つだけ、必ず守ってほしい事がある」 「何ですか?」  瞳にそれまでにない真剣みを宿して、男はぴんと、人差し指を立てた。 「けして、アクアリウムを壊してはいけないよ。繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝が溢れてしまうからね」 「今の」  あまりに発音が不自然な箇所があったので、思わず顔が引きつっていたかもしれない。 「デジモンの専門用語とか、そういうのですか?」 「そういうものだよ」  再び表情を柔らかな笑みに戻して、しかし男はそれ以上は謎の単語について触れなかった。  受け取ったウッドモン入りキーホルダーは、間違っても親には見つからないよう、カバンに付けたりはせず筆箱の中に仕舞って持って帰った。 *  会社の雰囲気、業務の詳細、他の就活生の印象に至るまで。  根掘り葉掘り聞き出そうとする母の、矢継ぎ早な質問に内心辟易しつつも律儀に答えを用意して。  ようやくリビングから解放されたのは、帰宅後、スーツを脱いでから1時間以上経った後だった。  自室の扉を閉め、椅子に腰を下ろしてから、やっとの思いで息を吐く。  カバンの中を漁られなかっただけ今日はまだマシだったという事実になおの事、母の過干渉で首を絞められるような思いだった。  ……父の帰宅後にほぼほぼ同じイベントが待っていると思うと、本当に、気が滅入る。  こんな調子で、花を咲かせるための手伝いなど出来るのだろうか。そもそも時間は足りるのだろうか。  心配ばかりが渦を巻く中、筆箱の中に隠していたキーホルダー型アクアリウムを取り出すと、中にいるウッドモンまでもがうんざりしたような表情を浮かべていて、俺は力無く笑う事しか出来なかった。  はてさて。コイツが呆れているのは、俺と一緒に聞いていた母の質問攻めに対してか。あるいは揺れる筆箱の中で筆記用具にもみくちゃにされた運搬の環境に対してか。  しかしそれにしても、帰り道、そこそこ気を遣ったとはいえ最寄駅からは自転車だし、かなり揺れたと思うのだが、アクアリウムの内部は店で店員に渡された時とそっくりそのままで、まるでこの透明な容器の壁一枚隔てただけの小さな空間には、別の時間が流れているかのようだった。  ……一体、壊したら何が溢れ出るんだろうか。  気にはなるが、興味すら持たない方がいいだろう。借り物を壊すだなんて、試験以前の問題になってしまうし。 「さて、どうしたもんか」  指に引っ掛けていたキーホルダーを机に下ろす。  キューブの底面は幽かに音を立てたが、やはり砂が舞い上がったりはしなかった。  視線を宙で泳がせながら、脳内から植物の育成に関して持っている知識を引っ張り出していく。  栄養は足りていると、店の男は言っていた。  水が足りてるのは見ればわかる。酸素が足りてるのかはわからん。  日の光については、この時間帯だとどうしようもない。 「音楽……聞かせるといいんだっけ」  特にクラッシックがいいだとか。 「でも、それは無理かな」  万が一、普段の趣味でも無い曲を俺が聞いているのを母に感付かれたら、理由を問い質しにあの人が部屋までやって来かねない。  曲についてはいくらでも言い訳は思い付くが、このウッドモン入りアクアリウムキーホルダーについて彼女の納得のいく説明を出来る自信は無い。  そして何より、音楽に母の声が掻き消されて、あの人が俺を呼ぶ声を聞き逃すかもしれないと思うと、それも恐ろしくて。 「『4分33秒』ならいくらでも聞かせてやれるんだけどな。すげぇ勉強が捗る曲だ」  と、曲名には首……と言うよりも固い木そのものの前身を斜めに傾けていたウッドモンは、勉強、という単語が出るなり嫌そうに青い目を細めた。 「? なんだ? デジモンも、勉強とか、するのか? その……花を咲かせるための勉強、的な?」  この縦揺れは、頷きなのだろう。  木片のお化け、とでも言いたくなるようなウッドモンが、木の枝のような手で自分よりも小さな教育書の類を熱心に読み込んでいる様を想像すると、それはなんだか、とても可笑しかった。  でも、まあ。そうか。  受験で志望校に合格する事を、サクラサク、なんて言ったりもするしな。 「その様子だと、ウッドモンは勉強が嫌いなのか? ……そっか。俺も、嫌いだな」  最初は、そうじゃ無かった。  新しい事にはいつも興味があった。  段階を経て学んでいく算数や英語は兎も角、国語や生活、図工の教科書は、もらってすぐに、解る所は最後まで読んだ。特に実験や工作はそのうちこれを学校でやるんだと思うと、毎回わくわくしていたように思う。  そうじゃなくなったのは、いつからだっただろう。 「……ああ、そういや」  思い出から掘り返した記憶には、朝顔の花が、埋まっていた。 「人間の子供はな、ウッドモン。大概皆、花を育てた事があるんだ。朝顔っつー、夏の花」  花を育てる授業にはスケッチが付き物で、俺は運動場の片隅で行われる、実験と工作がセットになったようなこの授業が、大好きだった。  俺の朝顔はクラスで一番最初に芽が出たものだから、それがなおの事、嬉しかったのだと思う。  毎日少しずつしか大きくならない朝顔に代わって、俺は将来この花が咲かせる筈だった大きく丸い青色の花弁を、支柱に巻き付けた蔓の背が伸びる度に自由帳いっぱいに描いていた。  ちょうど夏休みの終わりには『朝顔の絵』を課題にした、ちょっとしたイラストのコンクールもあって、金賞を目指すと俺は家族の前でも声高に宣言していたっけか。  両親は大層喜んで、俺に協力すると言った。  次の日2人が俺の前に積んで重ねて置いたのは、青の種類だけで両の指が足りなくなるような絵の具のセットと、古今東西様々な技法が載った美術の辞典と、朝顔の事しか書かれていないのに、俺の自由帳よりもずっと分厚い専門書だった。  --こんな普通の絵じゃダメ。金賞に選んでもらえるのは、特別な絵なんだから。いっぱい読んで、勉強してね。  俺は途端に朝顔が嫌いになった。  絵を描くのも嫌になった。  幼い俺にはその理由がちっともわからなかったけれど。でも、その瞬間から、何もかもを投げ出したくなってしまったのだ。  だけどやっぱり、子供の拙い言葉じゃ何も伝えられなくて。  「自分の言った事には責任を持ちなさい」と諭していた母は、それでも嫌だと食い下がる俺に対してついに泣き出して「どうしてママの言う事がわからないの?」という疑問に「育て方が悪かったのね」という答案を用意する作業を振り子のように繰り返し、それを見た父は、母を泣かせた事実とかかった金銭の現実を罵声に変えて俺に浴びせかけ、俺の味方は、誰もいなかった。  怖くて怖くて、最後には何度も謝って。ちゃんとやるからと泣きついて。それでも、なかなか許してもらえなかった。  「どうしてパパとママが怒っているのか、全然わかっていない」と言って。 「俺はさぁ、お前には悪いけど、やっぱり、花育てるの向いてないんだわ。なんたって、子供でも育てられるって事で配られた朝顔、見事に枯らしちまったんだもん」  あれだけ愛おしく思っていた朝顔が汚い茶色の枯草に変わっていると気付いたのは、夏休みがほとんど終わりかけていた頃だった。  俺がその夏ずっと伺っていたのは、複雑な品種名が横に書かれた写真の朝顔と、親の顔色だけだったからだ。  母と一緒に行った、金賞の絵が飾られた展覧会には、母のママ友の息子の絵が、金のリボンと一緒に堂々と展示されていた。  青と紫の丸を何個も重ねただけの絵だった。  子供らしくて素敵な絵だと、母は他所の子供の絵を褒めて。  うちの子もこんな絵が描けたらよかったのにと笑っていた。 「才能が無いし、そもそも努力のし方が下手なんだよな。……それに、才能や努力と同じくらい大事なモンが、多分、致命的に、足りてないんだ」  それ以降。何をやっても、結果は同じだった。  出だしは大概上手くいく。だけど気付けば成果も成功も俺の手から滑り落ちていて、そうなると当然、熱も、興味も、失われて行く。  幸か不幸か、ほどほどに上手くやれば、生きていく上で困る事は無かった。  だから、前に進める以上、いつかは何かが上手くいくと、そう、思っていたのに。  その幻想も。2ヶ月ほど前に、打ち砕かれた。  広告会社のレクリエーションで、集まった就活生がいくつかのチームに別れ、「『就職活動』をテーマにキャッチコピーを作る」というお題が出て。  相談の末、俺の所属したチームは満場一致で俺の出した案を採用した。  どんなものだったか、詳しくは覚えていない。忘れてしまったし、忘れたかった。  ただ、手堅く5・7・5調に仕上げたもので、自信を持って出した案だった事だけはよく覚えている。  書いた物が集められた後、上位の3つが公開され、俺はその中で2位だった。  広告会社の社長も褒めてくれた。一種のお世辞だったとしても、「学生とは思えない」だなんて言われてしまえば、気分が悪い筈も無く。  そうなると当然、1位への期待は高まった。  俺の中にも、悔しさなんて微塵も無かった。純粋に興味があった。  本職に褒められた事がよほど嬉しかったのか。  ただ単に、慣れていたからか。  ……あるいは、今度こそ手の届く位置にある、僅差の作品に違いないと、そんな馬鹿げた夢を、見ていたのかもしれない。  だが、部屋の前方にあるプロジェクターに映し出された一文を目にした瞬間。  俺の頭は、真っ白になった。  『お父さんって、すごいんだ!』  1位の作品は、そんな言葉だった。  俺は周囲の暖かな拍手と共に受け入れられるその文字の意味を、価値を。これっぽっちも、理解できなかった。  いびつな円を重ねただけの絵の素晴らしさが、何も解らなかった時と同じように。 「感謝とか、愛とかさぁ。人間なら当然持ってる……尊敬? 多分、そういうのが俺、足りてねぇんだわ」  愚かな俺にもわかるようようやく叩きつけられた答えを前にして、俺は帰りの電車に乗るための駅の便所で胃の内容物を全部ひっくり返した。  よく、あそこまで堪えられたと思う。  「育った環境のせいだ」と言い訳が浮かぶ時点で、俺はダメだった。  でも同時に、この広告会社でのレクリエーションの数日前。履歴から就活サイトの俺のマイページを無断で開いて、俺の就職する会社をここがいいそこはダメと好き勝手に品定めしていた事を後で息子に喜々として報告するような両親に、どうすれば「すごい」と尊敬の眼差しを向ける事ができるのだろう。  ログアウトの作業を怠った自分のミスだ。  受けるべき会社の正しい選択も出来ない自分が悪い。  両親の厚意を受け止めない自分は最低である。  ……そんな風に、自分に言い聞かせ続けるのは、もう、限界だった。疲れてしまった。  俺はその程度の人間だから。だから、何にもうまく、いかないのだ。 「そういうヤツが、「綺麗な花を咲かせましょう」だなんて。昔から無理だって相場が決まってるんだよ。『はなさかじいさん』でも心の綺麗なじいさんしか……って、お前は知らねーか。悪い」  ふと見やると、ウッドモンは回想で意識が混濁しているような状態で、ほとんど独り言のように呟いていた俺の語りかけに、想像以上に真剣な表情で耳を傾けていた。……耳が何処かは、さて置いて。  手のひらサイズどころか指の先くらいの大きさしかないのに、それでも十分に伝わってくるほど視線に熱を帯びた青い瞳に、俺はバツが悪かった。 「……悪い」  同じ台詞を、繰り返す。  植物の育成には、クラッシックの他に「声をかける」という手法も効果的ではあるらしいが、俺の半ば弱音の昔話にそんな効果があるとは到底思えない。 「そういう訳だから。災難だけど、今回のその、進化、ってヤツは、諦めてくれ。……あの店でなら、『次のチャンス』ってので今度こそ花のデジモンになれるんだろ? 明日の11時になったらちゃんと返しに行くから。……ごめんな」  まっすぐな目を見ていられなくなって、謝罪と共に、こちらから目を逸らす。  その刹那だった。視界の端に、光が、見えたのは。 「え?」  キーホルダーの方だと気付いて視線を元に戻した頃には、光は、もう無くて。  光の、そしてウッドモンの代わりにキューブの中に鎮座していたその塊に、俺は言葉を、失った。
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快晴
2021年1月31日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫  ――『迷路』はひょっとすると、デジタルワールドが人間との共存、すなわち『選ばれし子供達』システムを開発するにあたって用意した、一種の実験場なのかもしれない。  過去に派遣された『迷路』の調査隊、その生き残りが、そんな言葉を書簡に記していたらしい。  デジモンという名の兵器を使用するためのリモコンは、デジモンの側が選んだ未成年--所謂『選ばれし子供』しか所持できない。  そんな悩みを解決したのが、この『迷路』だ。  入口も出口もランダムに出現と消失を繰り返すこの謎の巨大空間は、当然のように入る事も出る事もひどく困難ではあるが、中に入ってデバイスさえ手に入れられれば、1体のデジモンとおおよその衣食住をほぼほぼ約束してくれる。  『迷路』はどうやら、人間が「デジモンに殺される」以外の方法では死ににくいように出来ているらしく。  ……そうでなければ、誰からも選ばれなかった子供など、そもそも生きてはいられなかっただろう。  まあ、何はともあれ、今日も今日とて。  人の世界で食いっぱぐれた爪弾き者達は、一発逆転、自分が貴種流離譚の主人公である事を祈って、『迷路』に足を踏み入れているのである。 「で? どうなんだい。お兄サンもその手の英雄気取り――今は騎士気取りってところかい?」  周囲を警戒しながら進んでいた青年の行く手を阻むように曲がり角から登場した俺を見て、彼は引きつったような表情を浮かべて即座にパートナーを隣にリアライズさせた。  赤い八本足の馬。北欧神話の最高神が跨るこの世で最も素晴らしい軍馬にして、獣の聖騎士・スレイプモン。  相方の警戒度を汲み取ってか、既に左手の聖弩『ムスペルヘイム』はこちらに向けられている。  思っていたよりは小さいな、というのが率直な印象だ。  やっぱりデカいんだな、マンモンって。 「絵本屋……!」 「話が早くて助かる。その様子だと、俺がレンコの婆さんと旧知だって事も知ってンな?」  青黒い隈で縁どりされた目を吊り上げて、青年は俺を睨みつける。  スレイプモンは強力なデジモンだろうが、ただの人間だけなら小鬼の腕力でも十二分に殺せる。  どうせ今に至るまでレンコかシールズドラモンに仕込まれたゴブリモンのスーサイド・スクワッドに、しこたまゲリラ作戦を仕掛けられているのだろう。  かわいそうに。  かわいそうだが、自業自得だ。喧嘩を売る相手を、お前は間違えたのだ。 「おっ……お前は絵本屋なんだから、歌と一緒で「誰でも救う」筈だろう!?」 「そりゃアもちろん! 解ってるなら落ち着けよ。な? 兄弟。ひとまずその北国の南国みたいな名前の付いた弩弓を下ろさせてくれ。俺ァお前さんと交渉に来たんだ」 「交渉……?」  弩こそこちらを向いたままだが、青年の閉じた唇は、俺の二の矢を待っていた。 「ああそうさ。何、大したことじゃない。俺は今現在、お前も知ってるいじわる婆さんにしょっぱい報酬で雇われててよゥ。お前が年若いなりに心優しい老翁のように相応の献身を持って俺に誠意を見せると言うのなら、小さなつづらに金銀財宝を詰め込む雀のように、俺は喜んでお前の力になろう」 「……いくらだ」 「おっと、俺の望みは金じゃァない。本音を言えば金は欲しいが、とても欲しいが。……だが札束で殴る力は年寄りの方が強いと相場が決まっているだろう? 確認のために栗鼠みたくあっちとこっちを行ったり来たりはごめんだからな。もっとシンプルに、わかりやすく。なおかつ確実に今この場で払える対価を、俺はお前に要求しようじゃないか」  右手を差し出す。  3本の指を立てて。 「脚、3本だ」 「……え?」 「だから、脚を3本だ」  手を引き戻して、その指でサングラスのブリッジを軽く持ち上げる。 「うちの大飯喰らいは馬刺しをご所望でね。それ以外の肉は気分じゃないらしい。……今、この場で。スレイプモンの脚3本を引き千切ってこっちに寄越すなら、俺とお前はお友達だ。よろしくな」 「ふざけんな!!」  青年が俺を力いっぱい怒鳴りつける。  握り締めた拳を振り被らず、なおかつ今のを攻撃の合図だとパートナーに受け取らせなかったあたり、お互いそこそこ育ちは良いのだろう。  やっぱりお前らは、『迷路』にゃ向いてないタイプだよ。 「そんな事したら、今助かったとしてもあのババア共の格好の獲物になるだけだろ!? 同じデータ量の物ならいくらでも用意するから」 「マンモン」  つま先を持ち上げて靴の裏に仕込んでいたデバイスの画面を騎士気取り共に向ける。  真っ先に飛び出した長い鼻が俺に向けられていた聖弩を装着した腕を打ち上げ、コンマの差で俺を穿ち損ねた灼熱の光矢『ビフロスト』が天へと昇って行く。  下手な追撃を仕掛けず次にマンモンの牙が狙いかねないパートナーを回収して高速で後退したあたり、全く、立派な騎士様だことで。  デカブツを足の裏から突き出したツケで後ろへと転がりながら、俺は急いでデバイスを靴から引き剥がす。  奇襲のためとはいえ汚れた画面はあまり見ていて気分の良いものでは無い。標的を仕留めたワケでもないとなれば、なおの事、だ。戦象が幅を利かせた時代など、数世紀も前に終わっていると痛感せざるを得ない。 「この期に及んでまだ交渉の余地があると思ってた点に関しちゃァ、ま、触れないでおいてやるよ。代わりに今日が人生の終点なお前のために、明日を生き抜くための知恵を一つ授けてやろう」  俺はデバイスの画面を袖で拭いながら、店で客を見送るときのようににこりと青年に微笑みかけた。 「五体……九体? 満足だろうと、既にお前はレンコ婆さん達の格好の獲物なんだよ」  手遅れだ。と。  その台詞が青年の耳にまで届いたのかは解らない。  何せ、彼らの頭上からは今まさに、数十にも及ぶ火の玉が降り注いでいるのだから。 「っ、スレイプモン!」  しかし流石は神馬の騎士。  たてがみ一本焦がす事無く、パートナーを背に乗せたスレイプモンはその場から走り去る。  火の玉――ゴブリモン共が一斉に投げ込んだ『ゴブリストライク』の炎が『迷路』の地面を舐めた頃には、連中の影は豆粒大だ。  ……あれで聖騎士型最速って訳じゃねぇっつーんだから、全く、強い究極体ってのはそれだけで嫌になる。  と、 「誰がいじわるばあさんだい。ええ? ゲイリー」  デバイスから、レンコの低めた声が響いた。  俺は画面を耳に当てる。 「誰、と俺ァ明言はしてねぇぜレンコ婆さん。胸に手を当てて、それでも自分の顔が思い浮かぶっつーなら、部下の労働環境をもう少し改めてやるこったな」 「はっ、生憎死人の顔しか浮かばないね。となると、アタシの部隊は完璧って事かい。そういう訳だ。引き続きしゃかりき働きなゲイリー。働きの悪い駄馬には鞭以外くれてやらないよ」 「鞭より酒の方がいいぜ。戦の前に酔わせるのは戦象運用の基本だ」 「暴れるだけのデカブツは今は必要無いんだよ。……ただ、まあ。戦の後でなら、考えておいてやるよ。サクラに合う酒なんかをね」 「そりゃいいや」  マンモンが寄越した長い鼻に掴まる。  デバイスの画面の端をワンタッチするだけで装着できるよう設定してある専用の鞍を装備させてから、俺はマンモンの背に跨った。  前方にあるグリップの窪みにデバイスを差し込んでから握り締め、姿勢を低くし、右足でマンモンの側面を軽く蹴る。 「走れ」  たちまち丸太のような脚が、力強く地面を蹴った。  マンモンの仮面に刻まれた紋章が持つ千里眼の機能を、俺のデバイスと同期させる。途端にコイツがサーチした周辺の地図情報とレンコ達やスレイプモンの位置情報が、眼前にウインドウという形で表示された。  ほとんど同時にレンコのデバイスにも同じ情報が行っている筈だ。  素早さこそ尋常ではないが、動き方そのものは単純だ。  このままいけばゴブリモン達がせっせと用意している罠にスレイプモンは嵌まるだろうし、その頃には俺も追いつくだろう。  ここに至るまでの進化ルートの恩恵か。素早さのパラメータそのものとは別に、俺のマンモンは素早く動く為の身のこなしが身体に染みついている。  完全体全体で見ても大した性能を持たないコイツの、数少ない長所とも言える部分だった。  地道なショートカットを積み重ね、マップ上に表示された俺達の現在地を示す黒い点と、スレイプモン共の現在地を示す赤い点との距離は、徐々に狭まりつつある。  そして何度目かの角を曲がる直前、そこそこの破裂音と、コンマ数秒遅れて馬の嘶きが、響き渡った。 「あっぶね」  ひやひやさせやがってこのうすのろめ。  滑り込みセーフだ。間に合わなかったらレンコになんてどやされていたか。 「さっさと行け!!」  踵でマンモンを小突くなり、今までだって十分全速力だった筈のマンモンの図体がさらに加速する。  必殺技とは名ばかりの、デカい身体と長い牙を用いた体当たり『タスクストライクス』で、マンモンはようやく動きを止めたらしいスレイプモンへと直進した。 「っ」  遠目ながらに、スレイプモンのテイマーの顔が更に引きつったのが見て取れた。  振り返った騎士ご自慢の赤い鎧には、みすぼらしい煤汚れが広がっている。  まるで目の前で小型の火薬が炸裂したような有様だが、破裂したのは爆弾ではない。  彼らには、きっと通路にたまたま居たマッシュモンが、突然爆発したように見えていた事だろう。 「スレイプモン!!」  パートナーの呼びかけに応えてスレイプモンが絶賛突進中のマンモンへと向けたのは、聖弩『ムスペルヘイム』ではなく右腕の聖盾、『ニフルヘイム』だ。  灼熱の国の名を冠した『ムスペルヘイム』に対して、『ニフルヘイム』は寒々とした北欧においてなお凍えるような霜の国の名だ。  当然放たれる必殺技も、その名に相応しい物となっている。  『オーディンズブレス』。  北欧神話主神の吐息は、老人の見た目をしている割に口臭こそ無さげだが極低温。  盾を守護するように、超局所的なブリザードが渦を巻き始め-- 「判断を誤ったなァ!」  言いつつ、俺はデバイスだけは回収しつつ鞍のグリップから手を離した。  揺れる巨体は半ば弾き飛ばすように俺を宙へと置き去りにし、放り出されたパートナーを構わずに、マンモンはそのまま直進を続ける。  俺どころか、ブリザードそのものも意にも介さず、だ。 「!?」  爆炎に少なからずさらされた目を慮って点では無く面の攻撃を選んだ点は評価に値するが、代わりに属性的な相性について頭からすっぽ抜けていたのだろう。  マンモンは古代獣型デジモン。  デジモン達の故郷において最も寒い時代を生きていたデジモンだ。  対氷雪においては。その点に関してのみは規格外の獣にブリザードだなんて。  いくら究極体の聖騎士様だと言っても、こんなギャグのセンスじゃ雪の女王でも片腹を壊して痛めちまう。  爆発音にも負けず劣らずの破砕音。  マンモンの継ぎ接ぎの牙が、『ニフルヘイム』越しに神馬を捉えた。  と、同時に。  投げ出され、今まさに地面に叩き付けられてまあ死んでもおかしくはなかった俺の身体を、ひょい、とリンドウとおなじくらいの背丈の影がかすめ、重力に逆らって上空へとさらっていく。  ピーターモン。  イギリスの戯曲に描かれた、大人になりたがらない少年を模したデジモンだ。  「大人になりたがらない」と言う割に、これはメアリーが、普段のマッシュモンから一段階進化した姿である。  俺よりタッパが小さい癖に軽々と大の大人を抱えて上昇したピーターモンメアリーは、やがて『迷路』の壁の上に俺を下ろした。 「お父さん」  俺とマンモンに騎乗しては危ないからと、この場所でレンコと一緒に待機していたリンドウが、モルフォモンを伴って駆け寄って来た。  しゃがみこんで、その小さな身体を受け止める。さりげなく同じようにツッコんでこようとしたモルフォモンは手で払ったが。 「良い子にしてたかリンドウ」 「アンタの娘だとはとても信じられない程度にはね」  案の定、返事はリンドウ自身からではなくレンコからの皮肉という形で返って来た。  必死で象を走らせてきた同胞にねぎらいの言葉の一つも無いのかと思わんでもないが、この怒らせると心底面倒臭い婆さんが機嫌を損ねていないなら、それに越した事は無い。  それでも一応軽く肩だけは竦めてから、戦況を確認するために立ち上がり、壁の下を覗き込む。  マンモンは既に、スレイプモンから振り払われていた。  全くこれだから究極体の膂力は。  はなから期待なんかしちゃいないが、それにしたって象が馬に馬力で負けてちゃ世話無いだろうに。 「だけどまあ、あの子は十分仕事をしてくれたね。助かったよ」  にもかかわらず、俺とは違ってマンモンの方は、レンコのねぎらいの対象となったらしい。 「だからアンタ、子供の前でそんな顔すんじゃないよ」 「素直な感情の発露の方が五百倍くらいマシな絵面だろうがよ」  不服さで歪んだ表情にリンドウが気を取られている内に、俺は彼女の目を手で覆う。 「お父さん?」 「下は見ないで、後ろに下がれ、リンドウ」  そのまま押し出すようにして、俺はリンドウが戦況を確認する前に後退させた。  店にこの娘がやって来た時の光景から察するに、きっと彼女は気にしないだろう。  だけど多分アカネはそうじゃないだろうし、俺だって年端もいかない少女にあんなものを好き好んで見せる程性癖ねじくれちゃあいない。  すぐに消えてなくなるデジモンの死骸ならまだしも、人間の首の断面図だなんて、旧時代の年齢制限は子供に許してくれやしないものなのだ。 「!?」  スレイプモンが目に見えて狼狽えているのがわかった。  マンモンに意識を向けていたとしても、飼い主を蔑ろになんてしちゃいなかったのだろう。  その証拠に、脳が出した最期の命令を忠実に守ってか、テイマーの青年の肉体は、鎧と一緒の赤色に染まった鞍からずり落ちてもなお、命綱だと信じてやまなかった手綱にぶら下がっていた。頭さえきちんと乗っかっていれば、今もスレイプモンの背中に跨っていた事だろう。  将を射んとする者はまず馬を射よ、なんて諺があるらしいが、『迷路』の中じゃぁまるでその逆。  馬を。デジモンを射るなら、まず将を。  デジモンは人間を守ってくれるだろう。だからこそデジモンに跨った人間は、デジモンにとって付け入る隙であり、弱点でしか無いのである。  そんな目に見えるような弱点を、『スカウターモノアイ』が見逃すはずも無く。  スレイプモンが猛吹雪をものともしない古代象の図体に気圧された一瞬は、レンコのシールズドラモンが青年の首を斬り落とすのに十分な隙を作り出した。  神馬の早駆けには適わずとも、シールズドラモンもまた、体術のみを頼りに目視が不可能な速度で動く生粋の暗殺者なのだ。  首の後を追いかけて落ちていった青年の胴体に代わって鞍に立っていたシールズドラモンは、スレイプモンが振り落とすまでも無くその場から飛び降り、地面に着地するよりも前にナイフの一撃『デスビハインド』の2発目を彼(?)の2列目の左足の関節部に叩き込んだ。  赤い鎧の硬度はマンモンの『タスクストライクズ』でも穿てない程度には凄まじいものだが、馬の駆動を確保するためには関節にまでその防御力を求められないらしい。  痛みに身悶えするスレイプモンが、鉄槌と見紛う6本の足を方々へと振るう。  しかしそれを見越してシールズドラモンはスレイプモンが反応するよりも早くその場から撤退しており、結果として馬脚はあれだけ大事に守護していた主の変わり果てた姿を後方へと蹴り飛ばすのみの結果に終わった。人の恋路でも邪魔した前科があるのかもしれない。  そしてスレイプモンが今度はシールズドラモンに意識を向けざるをえない状況に陥っている間に、マンモンは体勢を整え、メアリーもまた、既に飛び立っている。 「さて、こっからが本番だぜレンコ婆さん」 「解ってるよ。アンタに言われるまでも無く、ね」  再びの『タスクストライクズ』。  盾受けし損ねて傾いたスレイプモンの、負担をかけざるをえなくなった左の中脚にダメ押しのように突き刺さるのは、シールズドラモンのものではないナイフ。  メアリーの必殺技。こちらも相手の急所を突く正確さをウリにした剣捌き『スナイプスティング』だ。  メアリーの一撃はシールズドラモンの空けた穴を引き裂き、その裂け目を壁を蹴って一瞬で引き返してきたシールズドラモンが再びナイフで穿つ。  1本になった脚が、傾いた。  人間の赤子を妖精の子とを取り換えるというチェンジリングの迷信に恥じない手際の良さで、妖精と化したメアリーはスレイプモンの脚が地面に倒れ切るよりも前に、身の丈以上の1本を掠め取り、飛翔する。  一拍おいて足泥棒へとスレイプモンはマンモンの牙を抑えつつ『ムスペルヘイム』を構えるが、先手を打っていたのはやはりメアリーだ。  彼は脚を抱えるのに邪魔なナイフを、既に手放していた。  デジモンのナイフだ。ただの刃物では無い。  放り投げれば、百発百中。執拗なまでに目標を追尾する。  メアリーが『トゥインクルシュート』で放ったナイフは、弩の矢溝に挟まり込んでいた。  ……本来であれば弦を断ち切る手筈だったが、目標を変えたという事はメアリーは「切れない」と判断したのだろう。  まあ、灼熱の矢を平気で撃ち出す究極体の兵器に今更、か。  だが結果は何にせよ、これで『ビフロスト』は(一時的だとしても)封じ込んだ。  対『オーディンズブレス』の盾役にはマンモンがいる。  自分の思考を補ってくれるパートナーの頭は途中で踏んだのか。床に落とした完熟トマトと大差無い始末で。 「詰んだか?」 「いや、あと少し」  スレイプモンが残された手段から選択したのは、逃走。  『オーディンズブレス』を使わずに聖盾『ニフルヘイム』でマンモンを思い切り殴りつけ、牙による拘束を無理やりに引き剥がす。  象の巨体が横転する。  追撃を仕掛けられれば、必殺技抜きでも間違いなくマンモンは殺されていただろう。  そうしなかったのは、マンモンに気を取られ過ぎては今度は脚1本と同盟者の命以上のモノを失うと理解しているからだ。  5本脚なので6本の時より脚力も下がるというシンプルな引き算に苦しめられてはいるようだが、バランス的にはそこまで問題は発生していないのか。  スレイプモンは、マンモンに背を向けて走り出した。  全く。普通の馬だったら脚1本無くなったら安楽死コース一直線だぞ。  がたん、と大きく重い物が、雑に投げ出される音がした。  振り返れば壁の上に戻って来たメアリーがスレイプモンの脚を下ろして、親指と人差し指で作った輪を口に嵌めている。  もうひとつの必殺技を使うつもりなのだ。  平時であれば、ほとんど意味の無い必殺技を。 「在庫一掃バーゲンセールだ。手前の命一つまでまけてやる」  永遠の少年の口笛の音色が、『迷路』の壁と言う壁に、反響する。  ちょうどスレイプモンの進路にあたる壁の上にも、当然。  ……そしてレンコ婆さんに配置させていた『在庫』達も、口笛--『ミッドナイトファンタジア』の音色に応えて、動き始めた。 「!!」  眠りについたマッシュモン。それも10や20では足りない数が、スレイプモンの頭目掛けて、降り注ぐ。  『ミッドナイトファンタジア』は、近くで眠っているピーターモンより幼いデジモンを強制的に操る必殺技だ。  あのマッシュモン達は、メアリー自身のコピーであり、店の商品--『絵本』の材料である。  成長期メアリーの『ポイズン・ス・マッシュ』はつい先日返り討ちにしたシャカモンを連れた坊主の指摘した通り、成長期にしては強力なものが含まれている代わりに「効果がランダム」という弱点を持つ。  だがあらかじめ採取しておいたキノコ爆弾の性質を解析しておく事は可能だし、なんならこれらは他ならぬメアリーのデータの一部には違い無いので、数を集めて専用の機械でコンバートすれば、「元にした爆弾の能力しか持たないマッシュモン」を生み出す事も出来るのだ。  最も、一般的なマッシュモンでそれが可能かと聞かれれば首を横に振らざるを得ないのだが――ま、メアリー・スーは、特別なので。  で、今しがた『ミッドナイトファンタジア』で操ってスレイプモンに振らせたのは、文字通りの在庫。とても『絵本』の材料には出来ない不良品どもだ。  出てくる粉の効能が弱すぎたり、逆に強過ぎたり。  当然性能はまちまちときている。このままでは、『ポイズン・ス・マッシュ』がマッシュモンサイズになっただけの代物に過ぎない。  だから。この場では。  ただ、辺り一面に、粉を撒く。  そのためだけに、ストレージから睡眠状態にして運んで来たマッシュモンどもだ。  だが―― 「……成長期程度、最小限の力で派手に蹴散らしてくれると思ったんだが」  予想に反して、スレイプモンはマッシュモンのほとんどに『オーディンズブレス』で対応した。  突っ切るだけでも十分に殺せる。  踏み潰してしまえばまず助からない。  そうやって死んでいったマッシュモンもそれなりに数はいるが、当初の予定から考えると少な過ぎる。 「おいおいどうすんだレンコ婆さん。このままだと予定の威力は出ねェぞ?」 「……飼い主に似たんだろうね、結局」 「あん?」 「「己の力を誇示したがってる」って事さ。必殺技はデジモンにとって、その最たる例だからね。名乗りを上げて見せびらかすのが騎士の流儀だと、そう思ってるんだろう」  ようは、戦い方がなっちゃいない、と、レンコは呆れ半分含めて苦虫を噛み潰したかのように顔をしかめた。  ……究極体の、聖騎士型だ。  戦闘経験が少ないだなんて、そんな事はないだろう。  だが、究極体に進化してからの戦闘経験のみをカウントすれば、そうじゃない。  連中、あんまりにも強過ぎるから、「必殺技を1撃撃てばなんとかなる」と。頂に至るまでの試行錯誤も忘れてそんな悪い事を覚えてしまう。  それが悪いとは言わんし、それで済むならその方がいいのは判るんだが。  『迷路』で生き残れる奴は、いつだって殺される恐怖を忘れない奴らなのだ。 「いやまあ、今回の場合その慢心に助けられてるんだけどな、アイツ」 「構わない。無傷って訳にはいかないだろうからね。作戦を決行する。……切れる手札は、まだあるしね」 「ただし俺は在庫一斉処分損なんだが?」 「お父さん」  と、  不意にリンドウが、俺の服の裾を引いた。 「? どうした?」 「何か、困ってるの?」 「ん。ちょっと作戦用の『粉』が足り無さそうでな。必要な犠牲が勤めを果たしてくれなかったんだ」 「マッシュモン達の事? あの馬のデジモンを倒すのに、マッシュモンから出る粉がいるの?」  おう、どうしたんだリンドウ。  えらく食いつくじゃないか。 「粉ならなんでもいいんだ、別に。この際小麦粉でも持って来ればよかったな」 「……今、粉、ほしい?」  リンドウは俺では無く、モルフォモンの方を見て、そう言った。  っと、そうか。そういやモルフォモンも、粉を出せるタイプのデジモンだったか。 「おう、欲しい欲しい。モルフォモンの鱗粉でも借りたいくらいだ」  別にこの小さい羽虫一匹投げ込んだ所で戦況は変わらん(もっと言うと投げ込む手段すら無い)のだが、幼い少女のお手伝いの気持ちを蔑ろにするのも気が引けた。 「適当な事言ってんじゃないよゲイリー。無い物ねだりしてないでさっさとピーターモンに次の指示を――」  だというのにこのいじわる婆さん、コレだもんな。  ……なんて、レンコの言いつけを茶化しながら遂行しようかとした、その時だった。 「ほしいなら、あげる。モルフォモン」  レンコの言葉をまるで無視して、デバイスを握り締めたリンドウが、その手でモルフォモンの額に触れた。  次の瞬間、相変わらずのにこにこ笑顔でパートナーを見つめていたモルフォモンが、眩い光を放ち始め--途端に、その幼げなシルエットが、歪んだ。 「!?」  進化の光だ。  俺とレンコが呆気にとられる中、光が掻き消えるのと同時にその場から飛び立ったのは、モルフォモンと同じ虫のデジモンだった。  ただしモルフォ蝶の青く鮮やかに煌めく翅は枯れ木の色へと変わり果て、尻にはあのクソ能天気な笑顔からは微塵も想像できないような、物騒な得物がぶら下がっている。  モスモン。  記載は資料によってまちまちだが、『迷路』では基本的に成熟期として扱われる昆虫型デジモンだ。  成熟期という世代へは、成長期の頃に死んでしまいさえしなければ、時間経過だけで進化へと至る事が出来るのだと聞いた事がある。  だがそれにしたって、モルフォモンはデータを入手してから在庫マッシュモン共々ストレージに仕舞いっぱなしにしていたデジモンだ。  コンピューターの中に保存した状態では流石に成長もへったくれも無いし、外に出してからのごく短い期間もへらへら笑いながらリンドウの後をついて回っていただけで、とても進化が可能な程の研鑽を積んでいたとは思えない。  だというのに、リンドウが願っただけで。  モルフォモンは、この場に最適解と言って過言では無いようなデジモンに、進化した? 「気持ちは解るが、考えるのは後にしとくれゲイリー。今はスレイプモンだ」  レンコの声に、ハッと我に返る。  そんな台詞を吐いた彼女の声もまた動揺に震えてはいるものの、軍人らしく、レンコは背筋を伸ばして壁の向こうの戦況を伺っていた。  今はまだマッシュモン達に対処しているが、このまま放っておけば逃走を再開するだろう。  そうなれば、再度捕捉するのは流石に、骨が折れる。  別に、メアリーのコピーだろうがマッシュモンどもが無駄死にするのは構わない。  だが、俺がタダ働きになるのは、その、単純に、嫌だ。 「リンドウ、モスモンの鱗粉、爆発させずにばら撒けるか」 「……多分、大丈夫」  リンドウはデバイスをそっと両手で包み込む。  それが指示だとでもいうのだろうか。  だが実際に、いつの間にやら『オーディンズブレス』の届かない上空に陣取ったモスモンは、ケツのガトリングから自身の鱗粉――昔見た資料を信じるなら火薬らしい――を撃ち出しこそすれ、爆破はさせなかった。  意識の範囲外から降り注ぐというよりは投げつけられた鱗粉の塊に今一度の困惑をスレイプモンが浮かべる中、止めとなるオーダーはレンコが自分のデバイスへと向けて発した。 「総員、放て」  レンコ。ゴブリモン達の頭目。  ゴブリモンは、成長期の中ではかなり『迷路』に向いたデジモンだ。  総合的な能力値こそ平均を下回るが、彼らは知能がそこそこ高く、臆病で、群れる事を是とし、隠れて行動する事を恥としない。  そして何より。  ゴブリモンの必殺技は、マッハで撃ち出される火の塊だ。  たとえ数値としての攻撃力が低くとも。  火が点き、燃えれば。相応の威力を、叩き出す。  燃え移るモノに事欠かなければ、なおの事。  最初にマッシュモンを爆発させてスレイプモンを足止めした罠も、こいつらのこの必殺技があってこそ、だ。  『ゴブリストライク』  付近のあちこちに隠れて待機していたゴブリモン達が、またしても一斉にスレイプモン目掛けて火球を投げ込んだ。  俺と対峙した時のように、走って逃げようとしたのだろう。  だが、こうもモスモンの鱗粉が充満してしまっては、もう手遅れだ。  粉塵爆発。  『迷路』の通路一本分から、並の究極体でもまず出せないような文字通りの『火力』が吹き上がった。
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快晴
2021年1月09日
In デジモン創作サロン
Episode1≪≪ Episode2 Episode3  店の前を通るたび、祖母は私の手を強く引いて、その場から足早に立ち去ろうとするのだ。  いつもそんな事をするものだから、私は逆に、中に何があるのか随分と気になってしまって。磨り硝子の向こうから覗く怪しげだが煌びやかな光の元が何であるかを、どうにかして特定しようと亀のように首を伸ばせば、腰の曲がった祖母は、なのに年寄りとは思えないような力で、痛いくらいに私の事を引っ張って大股で歩き始めるのだった。 「あんな店の事を気にしてはいけません。馬鹿になってしまいますよ」  ある時その理由を祖母に尋ねてみれば、彼女はそんな事を言う。  それで私は、この人は店の中に何があるのか、何を売っているのかなんて本当は何も知らなくて、壁に立てかけられた、今も読めない遠い国の言葉で書かれた看板と、時折店を訪れる人間の種類だけを判断材料に私にそう言っているのだと、この時ようやく、理解した。  それでもその時の祖母の蔑むような表情が怖くて、これ以上この老婆に馬鹿だと思われたくない私は、それ以降、店の前をゆっくりとは歩かないように、心掛けていた。 *  祖母が亡くなった。  私は祖父の時と比べて半分もいない参列者達へと泣き女の真似事と愛想笑いを交互に繰り返しながら、仏前で私と同じような事をしていた祖母に励ましの言葉をかけていたその他多数は、祖父の遺された人脈にしか興味の無い薄情者だったのか、単純に歳で全員くたばってしまったのか。はたしてどちらなのだろうかと浅く首を捻ったりしているのだった。  まあ、嫌われていたのだろうとは思う。  権力か財力でしか、相手を判断できない人だったから。  如何せん、跡継ぎだと猫かわいがりしていた息子の長男にも、彼が大学を出るなりあっさりと愛想を尽かされてしまう程度には、振舞いに内面が滲み出ているような人だった。  かく言う私も最初の内は、比較的近所で暮らしているよしみで半ば周囲に押し付けられるような形で彼女の面倒を見ていたのだけれど、1年と持たずに心も体もダメになって、それを理由に祖母は施設に預けられた。  近くに頼れる親戚が住んでいると、うまいぐあいに介護の認定が下りないらしくて、だから、私はそのために。親戚ぐるみで潰されたのだろう。  環境が変わって拗らせたアルツハイマーは、祖母の本来の性格を洗い浚い表に引っ張り出した。  どんどん人に迷惑をかけるようになる彼女の振舞いを時折耳にしながら、祖父は祖父で権力を鼻にかけてばかりの人だったけれど、高慢さに見合った遺産だけは残してくれたから、お蔭で、祖母は放っておいてもいいわけだから、やはりお金は大事なのだと。私はそういう事ばかり考えるようにしていた。  なんてくだらない人生なのだろう。  祖母の事ではない。私の人生の事だ。  今はどうにか1人で暮らしているが、虫食いのようになった私の精神と履歴書の経歴は、真っ当な仕事を私に許してはくれない。実家に帰らなくてはいけなくなるのも、時間の問題だろう。  祖父母は両方とも死んだが、両親は健在だ。この「健」康で「在」るという状況も、どうせ長続きはしない。  私は年老いた父と母が骨になるまで世話をしながら、仕事も結婚もせず、いい年して親元で暮らしている娘だと、周囲から後ろ指を指されて残りの人生のほとんどを生きるのだ。  そうして全てが終わったころには、年寄りは私で、きっと誰にも看取られずに死んでしまう。  近所にもそういう人が居た。田舎の温もりとかいうやつは、地元の権力者にこびへつらって初めて成立する。私はどちらかと言えば権力者の側で、住民たちは、最初から跡継ぎの候補にすらなれない子供の事など、最初から好いても嫌ってもいないのだ。  そうして私も腐乱死体になれば。ようやく面と向かって人に嫌がらせを出来るのだと思うと、それだけは、胸のすくような気持だった。  気持ちだけは、そうやって、楽になり始めていたのに。 「■×#△○※&!!」  聞き取れない、しかしこちらをなじっている事だけは確かな大声を上げながら、きつい顔つきの中年女性が飛ばした自転車で歩道を駆け、私を追い抜いていく。自転車道は隣だが、彼女の道は目の前にしかないのだろう。  この辺りでの、悪い意味での名物おばさんだ。ちょうどすれ違った女子高生たちが、私と同じこと言われたのだろう。2人で肩を寄せ合って、指を指しながら女を笑っていた。  だけど私はと言えば、なんだか、とても疲れてしまった。  ああいう頭のおかしい連中は、エンカウントを重ねれば重ねる程、こちらの心を摩耗させていく。箸が転がるように可笑しいのは、せいぜい最初の内だけなのだ。  歩く気すら失せた。  この際後ろから轢いてでもくれれば、ちょうど目撃者もいる事だし、多分、もう少しだけ独り暮らしを続けられる程度の金が手に入ったのだが。  とはいえこのまま立ち止まってしまえば、次に女子高生たちの笑い者にされるのは自分になってしまう。  神経に障ると面倒だった。向かう先を改めて明確にしようと、私は顔を上げて。  ふと、ひとつ向こうの路地に、青い屋根を見止めた。 「……」  見止めたも何も、昔から場所だけはよく知っている。  あの店だ。  祖母の嫌いな、あの店の屋根だ。  そう思うと、ほとんど無意識に足がそちらへと向いていた。  すれ違った女子高生はもう自転車の女の事など忘れているようで、部活動か何かの話をしているようだった。  あっという間に、店の前に着いた。  最近も近くを通らなかった訳では無いのだけれど、こうして真正面に立つのは随分と久しぶりか、ひょっとすると、初めてかもしれない。  まじまじと見つめた所で、遠い国の言語で書かれた読めない看板も、白く濁った磨りガラスも、その向こうにある怪しい色の光も何もかもが変わらないままだ。  扉のノブには「OPEN」と。流石に読める言葉で書かれた、味気ないプラスチックのプレートがぶら下がっている。  ああ、そうだ。  祖母は死んだ。もういうない。  私がこの中をちょっとひやかしたところで、誰も私を、咎める者はいないのだ。  ひとつでも。  たったひとつだとしても、私を苦しめるモノがこの世から減った事を、実感したい。  この扉を潜る事は、その何よりもの証拠に、なるような気がして。  唐突に湧き出た欲求に突き動かされるようにして、私はドアノブを回す。  扉を引くと、死角になる位置につられていた鈴がからんからんと小気味良く揺れた。  照明と呼べる灯りはほとんど無かったが、暗いとは思わなかった。  中には黒い金属製の棚が店の端から端まで何列も並べられていて、その全てにほとんど隙間無く、光の灯った、水の入った容器が置かれている。  水槽、と言えば良いのかもしれないが、容器はそれ以外にも本当に様々で、円柱や三角形といった、単純に形が変わっているものから、瓶やグラス、果てはピッチャー、ペットボトルにポリ袋まで、透明で水を留めて置けるなら何でも構わないと言わんばかりの品々が所狭しと、並んでいた。  そして、どの容器にも色とりどりの砂利が敷き詰められ、水草や石、珊瑚や流木、ミニチュアの水車小屋といった、それぞれの雰囲気に合わせた装飾が施されている。  アクアリウム。  そんな単語が、頭に浮かんだ。  実際に、そういうものなのだろう。  ということは、と、私はさらに店内に踏み込み、光る水の中へと視線を走らせる。  ここに住まう生き物がいる筈だと、一番手前にあった水槽の中身をきょろきょろと見渡して――それらしい赤色を見つけた瞬間、私は肩を落とした。  小さな恐竜が、目を閉じて、水の中に佇んでいる。  赤い身体に、緑のトサカ。形は肉食恐竜を彷彿とさせるが、この派手な色と余計な装飾品のせいで、ひどく造詣にリアリティを欠いている。  ようは、水の中におもちゃが沈めてあるだけらしい。  子供だましだと、そう思った。  結局のところ、祖母の言う事はいつもただしくて、産まれた時から彼女の意図を汲めないでいた私は、どこまでも愚か者だったのだろう。  アクアリウムに魚を入れずにおもちゃを入れて売り物に、だなんて、それは確かに、馬鹿みたいな――  ――馬鹿みたいな店だと、そう結論付けようとした私の目の前で。  おもちゃだと思っていた恐竜の目が、ぱちりと開いて。  とても作り物だとは思えない、綺麗な、それこそ海のように美しい青い瞳がこちらを見つめ返したものだから、私は柄にも無い小さな悲鳴を上げて、その場から軽く後退ってしまった。  そんな私を見て首を傾げる恐竜に、心臓が早鐘を打ったけれど。  しかし混乱よりも先に後ろにもある水の容器の存在が頭にやってきて、私は危うく大惨事を引き起こすところだった自分の軽率さと、それから、それ以前に脳内を占めていた「子供だまし」という感想を恥じた。  と、 「お客さん、このお店は初めてだね」  奥から、柔らかな印象の男性の声がして。  びくり、と肩は跳ねてしまったけれど、私はどうにか、今度はその場から動かずに済んだ。 「ごめんね、驚かせてしまって」  現れたのは、声の印象通りの見た目をした、初老の男性だった。  喪服のような真っ黒な装束に、青白い頬と灰の髪。両脇が鮮やかなアクアリウムに彩られているせいもあってか、まるで男だけが、白黒写真からそのまま歩み出てきたかのような印象だ。  正確には、ただ一点。左胸のポケットの上に描かれた、三日月にも似た刺繍だけは、小さいながらも黄金のような輝きを放っているのだが。 「ああ、いえ。はい」  どうにか私が絞り出せたのは、何に対してかもわからない、要領を得ない返答だった。  一拍間を置いてどんどん恥ずかしくなって、かあ、と頬が熱を持つ。  しかし男性はそんな私をいちいち追及したりはせず、カツカツと小気味良い革靴の音と共にこちらにやって来たかと思うと、例の恐竜が入った水槽を指さした。  男の指に反応したのか、赤い恐竜は器用に尻尾をくねらせながら、ガラスの前へと泳いできた。少し目を離してみてみれば、それはまるで、金魚のようでもあった。 「これはね、ティラノモン。見た目は怪獣みたいだけれど、大人しくて頭が良くて、飼いやすいデジモンだよ」 「デジ……モン?」 「この店のアクアリウムの中にいる生き物たちの事さ。色んな子が居るから、他の水槽も見てごらん」  言われるがまま目を動かすと、確かに、男性の言う通り、水槽の内装にも負けないくらい鮮やかな、恐竜ーーティラノモン同様、一見おもちゃのようにも見える小さな生き物たちが、思い思いに、水の中を動き回っていた。  恐竜、鳥獣、天使と悪魔。ロボットやぬいぐるみ、果てはなんだかよく解らない、単純な図形が組み合わさっただけのように見える何かまで。魚の類も居るには居るが、数はそう多くは無くて、それらにしたって見た事の無い種類ばかりだった。  そんな、嘘みたいな見た目のものばかりなのに――皆あたりまえのように、水の中で、息づいている。 「あっ、あの、これって」 「やっぱり、君、デジモンの事を知らないんだね」 「すみません……」 「いやいや、責めている訳じゃ無い。むしろそういうお客さんは久しぶりなものだから、私達としては嬉しいくらいだよ」 「そう、ですか……すみません」  詰まって出てこない声が代理として用意するのはいつも謝罪の言葉だった。  むしろそれが人の気を悪くすると、頭では解っているのに、だ。  だがやはり、男性はそれに関しては何も触れず、「好きなだけ見てくれていいからね」と優しく声をかけてくれた。  ……客商売なのだから、当たり前かもしれないけれど。  でも、少しは、気持ちが楽だった。  同時にもう一度、当初の「子供だまし」という印象が、ぶりかえすように、申し訳なかったが。  別の棚を見るべく足を進める。  一度だけふと振り返ると、私の移動を察したのか、ティラノモンがばいばいと手を振っていたので、私も胸元で小さく振り返した。  色んな『デジモン』が入った水槽を見て回る。  年甲斐も無く、はしゃいでしまっている自分が居た。  ひとかけらだとしても、これは祖母に奪われた時間だと気付いて、少しだけ自棄になっていたのかもしれない。  そうして、順繰りにひとつひとつの棚を見て回って。 「……?」  これだけ色々な種類を見てきたというのに、それでもひと際艶やかな色合いの『デジモン』に、思わず私の目は留まった。  それは、ガラスの瓶だった。  香水瓶かと思ったのだけれど、それにしては大きい。となると洋酒の瓶……とかだろうか。  側面には波のような紋様が施されていて、栓の部分まで凝った装飾のガラス細工で出来た、それはそれは美しいガラス瓶。  底には星の混じった真っ白な砂と、同じくらい白い珊瑚に囲まれて、小さいが細部まで凝った形をしているボロボロの帆船が沈めてある。  そして、その中央。  ピエロのようなデジモンが、ただ1体、砂の上に横たわっていた。  深海のように静止した世界では、色合いこそ場違いなくらい派手で華やかな装束を身にまとっているけれど。衣服は上下とも酷く汚れてぼろぼろで、所によっては穴まで空いている。金属の装飾品にはひとつ残らず錆が浮かんでいて、おまけに顔の上半分を隠す白黒の仮面の端にはフジツボまで生えているような有様だ。  何よりも、その道化の肌は死人のように真っ白で。それで私は、白い珊瑚は死んだ珊瑚である事を思い出した。  彼の唇には、海と同じ青い色が塗られていて。その隙間から時折、こぽり、こぽりと白い泡が昇って行くので、それだけが、このデジモンがどうやら生きているらしいと思える証拠なのだった。  自分で思っている以上に、私はその、死に体としか思えないピエロのデジモンの事を見つめていたのだろう。  革靴の底が鳴る音にハッと顔を上げると、この店の店員らしい男性が、どこか複雑そうな表情で私達を見下ろしていた。 「あっ、あ……すみません。長居してしまって……」 「いやいや、構わないよ。それよりも」  その子、気になるのかい。と、男性はそう訊ねていて。  答えには、いつものように迷う筈だったのに。  何故かその時は、私はほとんど反射的に、男性の言葉に頷いてしまった。 「そうかい」  僅かな間を置いてから、男性は軽く背を曲げて、私と同じ視線でピエロのデジモンを見た。 「この子はピエモン。見ての通り、ピエロのデジモンさ。神出鬼没の地獄の道化、と元いたところでは恐れられている種族なのだけれど、この子はそれにしたって珍しい、海を住処にしていたピエモンなのさ」 「していた、っていうのは」 「偶然だったのか。わざとだったのか。それはわからないけれど、この子は「海賊」と恐れられているデジモンの縄張りに入り込んだのさ。そうしてそのデジモンに襲われて、戦って、負けてしまった」  あっちに同種の別個体がいるけれど、見るかい? と男性は言ったけれど、私は首を横に振った。  まだ、この場所を離れたくなかったのだ。 「這う這うの体で彷徨っていたところを、たまたま見つけてね。保護したんだ」  とはいえ、と、男は瓶の側面を撫でる。  ティラノモンの時とは違って、ピエモンが動き出し、寄って来る事は無かった。 「この子はもうじき、死ぬだろう。私達の力をもってしても、この子の傷は、もう癒せなかった」 「……死んじゃうんですか」 「ああ」  男は頷いた。 「死んでしまうとも」  こんなやりとりをする物語を、昔、国語の教科書で見たような気がする。  こんな事を考えてしまうのは不謹慎極まりないかもしれないけれど、だけどこのデジモンの死は、それすらもどこか鮮やかであるような気がして、私はもう一度、じっとガラス瓶の中を見つめた。  見つめて――抑えきれなくなった気持ちが、雫のように、口から零れた。 「あの」 「うん?」 「この、えっと、アクアリウム……? は、その……おいくらですか?」  男は一瞬だけ目を見開いて、しかしすぐに、私が今までに見たどんな人間よりも温かくやわらかな印象を感じる笑みを浮かべて、口を開いた。 「いいや。お代は結構」  今度は、私が目を丸くする番だった。 「ここに居る子達は、確かに皆、うちの商品ではある。でもその子は……乱暴な言い方になってしまうけれど、それでも率直に言ってしまえば、不良品だ。それを承知で求めてくれる人から、お金なんて、取れないよ」 「いや、でも」  聞いた事がある。  美しい瓶というのは、それだけで相応の値段になる事もある、と。  生憎美術品の価値はほとんど全く分からないのだけれど、素人目にもこれだけ綺麗な細工を施された瓶だ。中の生き物が死にかけているからと言って、瓶の値段まで左右されるとは思えない。  なのに男性は首を横に振って 「いいんだよ。……君は、ピエモンだけじゃなくて、このアクアリウムそのものを「欲しい」と言ってくれた。この子の終の棲家を、穢さないでいようとしてくれたんだろう?」  慈しむような視線で、私と、そして、ピエモンを見た。  それは、そうかもしれないけれど。  でも、それにしたって、と。こんな時、どんな言葉を返していいのかわからず口の中でもごもごと台詞を転がす私を後押しするように、男性は、さらに続けた。 「ならこれは、きっと、そういう運命だったんだ。デジモンを知らない君がここにやって来て、ピエモンを見つけてくれたのは」 「運命……」 「それに、何より。……ちゃんと自分を見てくれる人に看取ってもらえた方が、この子も幸せだろう」  運命だとか。幸せだとか。  曖昧で、客観的な概念を、口もきかない生き物に押し付けてよいのだろうか、と、そう思うのに。  何故だかこの男性が言うと、実際にそうであるような気もして。  結局、私は何の対価も払わずに、死にかけたピエモン入りのアクアリウムを引き取る事になった。  店の入り口付近にあった簡素なカウンターの上で、男性はてきぱきと瓶の梱包を始める。  慎重に巻きつけられた緩衝材は、瓶の装飾もその中身も、すっぽりと覆い隠してしまった。 「食事や清掃についてはもう気にするような段階では無いからね。出来る限り静かなところに置いて……ああ、そうそう。あまり強い光には当てないであげてほしい。お世話の部分に関しては、これで十分だから」 「はぁ」 「ただ」  既に瀕死とは言え、それだけでいいのだろうかと気の抜けた相槌しか出て来ない私に、ふっと真剣みを帯びた光を瞳に宿して、男性がぴん、と人差し指を立てる。 「ひとつだけ、必ず守ってほしい事がある」 「なん、でしょう」 「中のデジモンが完全に息絶えるまで。けして瓶を割ってはいけないよ。繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝が溢れてしまうからね」 「……?」  私は思わず首をひねった。  中に生き物がいるのに瓶を割ってはいけないだなんて、そんなの、当然じゃないか、と。  それに、彼が最後に付け加えた言葉もひどく不明瞭で、しかし水以外の何が溢れ出すのかについて、私の頭では単語を補完する事すら出来なくて。  だけど同時に、男性があまりにも真摯な眼差しを向けるものだから、結局、私は聞き返す事すらしないまま、こくり、と小さく頷いただけだった。  金の縁どりが入ったお洒落な箱に収まった酒瓶のアクアリウムを両手で抱えて、店を出る。  帰り道は、少しでも揺れないようにとゆっくり、ゆっくり歩いた。  こんなに大事に物を運んだのは初めてだ。  祖父母の遺骨だって、こんなには気を遣わなかったのに。 *  慎重に鍵を開け、狭いマンションの一室の、さらに狭い短い廊下で今日に限って躓いたりしないよう、おっかなびっくり歩みを進めて寝室兼リビング兼私室に辿り着いた私は、丸い机の上にそっと箱を置いて、細心の注意を払いながら、中から瓶を、取り出した。  瓶の底が机に乗っかって、ことりと幽かな音を立てた時でさえ、その何倍もの大きさで心の臓が跳ねたように思う。  もちろん緩衝材を外すのにだって、玉葱の薄皮でも剥くみたいに、爪の先を使って徐々に引っ張りながらという有様で。  そうこうして、ようやく、あの美しいガラス瓶の全てが安っぽい電灯の下にさらけ出されて 「え?」  私は思わず、目を疑った。  珊瑚の遺骸や船の残骸、どころか星の砂まで、いくら私が神経を張り詰めながら持って帰ったとはいえ、瓶の中の全ては店に在った時と寸分狂わない位置に、佇んでいた。  でも、私がうっかり呼吸さえ止めてしまう程目を引かれたのは、そういった違和感についてではなくて。  むしろあからさまなくらいに、酷いくらいに。この死んだような世界において、それは明確な変貌だった。  白い砂地の中央。そこがまるでサーカスの丸い舞台であるかのように、あの時一度だってその目を開かなかったピエモンが、ピンと背筋を伸ばして、立っていた。  そして次の瞬間、ピエモンはその場で、くるくると踊り始めた。  古いオルゴールに備え付けられたバレリーナの絡繰りみたいに、器用に、片足だけで、ピエモンは何度も回り続ける。  足だけじゃない。ターンに添えられた腕の動きは指先のひとつに至るまで神経が張り巡らされており、千切れて、錆て、汚れて、穴だらけの身体なのに、花が咲いたみたいに、優雅だった。  陸地だろうと私じゃ到底できっこない回転。しかしその後にゆったりとついて回る肩から伸びた青いリボンや燕尾状の裾は、彼が確かに水の中に居る事を、何よりも雄弁に、物語っていて。  私は店に居た時の非では無いくらい、片時もピエモンから目を離せなくなる。  ああ、こうやって開いた彼の瞳は、赤い。何よりも血の通った色だ。  これから死んでしまうだなんて、とても信じられないくらい、痛々しい程に鮮烈で、燃え盛るように暖かな赤色だ。  白黒の仮面を被った彼の顔がこちらに向く度に、私の何の変哲も無い土塊色の瞳は彼の両眼に引きつけられて、そうすると、ピエモンは私の視線に何度も何度も、安心したようにはにかむのだった。  自分に観客が居る事を、まるで噛み締めているかのように。  ……だけど、そんな時間はそう長続きはしなかった。  ふと、ピエモンの装飾以上にゆっくりと、彼の指先が描く円を追ってたゆたう煙が、目についてしまったからだ。  瞳とは違って、赤茶けた煙だったけれど。  それが本物の、彼の血の色だった。 「だめっ!!」  気付いた私の行動はほとんど反射的だった。  あれほど揺らさないように気を付けていたアクアリウムの両端をがっと鷲掴みにして、大声を、張り上げてしまう。  私の豹変に当然のように驚いたピエモンは目を丸くしながら足を止めて、引き伸ばされる要素を失った血煙が、僅かに立ち昇りつつも、彼の胸の付近で停滞を始める。  彼のダンスは、止まってしまった。  ああ。どうして。  どうして、こんな事を。 「だめ、だめだよ。そんなことしたら、死んじゃう」  最初から知っていた事じゃないか。このピエモンという生き物は、もうすぐにでも、死んでしまうのだ。  であれば、最期くらい自分の好きなようにさせてあげるべきなのに。  頭では、解っているのに。……なのに、縋りつくように、引き留める言葉が零れていて。  対するピエモンは、最初こそ不思議そうに首を傾げていたものの、すぐに気を取り直したようににこりと微笑むと、懐から真っ白なハンカチを取り出した。  彼はそのハンカチを、ハンカチと同じくらい白い手を握り締めた中にぎゅうぎゅうと押し込んで――次の瞬間には、彼の指の隙間からは小さな花畑と言って何ら差し支えない程の、百花繚乱、豪華絢爛なブーケが飛び出す絵本の1ページみたいに出現する。 「!」  呆気にとられる私の方にぐい、と。  ガラスに隔たれてけして受け取る事など出来ないそれを、ピエモンは何のためらいも無くこちらに差し出してきた。  その時。青く塗った唇が、僅かに、動いた。  「笑って」と。  少なくとも、私の目には。  そんな言葉を、描いていたように見えた。  なのに。  なのに。  ピエモンの望みとは裏腹に、私の目尻からは涙が伝い始めた。  目の前のデジモンに対して溢れた感情では無い。  私自身の「これまで」が、唐突に頭の中で洪水を起こしたのだ。  私は道化だった。  ずうっと、ずうっと。道化だった。  生まれた時から誰にも必要とされていなかったのに、誰かに愛されようと無駄な足掻きを続けて狭い舞台の上を無様に転がりまわる孤独な道化。  笑い者にすら、なれなかった。滑稽な醜態にも無様な失敗にも、誰一人として、気にも留めてくれなかったから。 「私」  片方の手をブーケから放したピエモンが、流石に困惑したような表情で私の顔を覗き込む。  向こうからは、歪んで見えているのだろうか。 「せめて、あなたみたいな。綺麗な道化に、なりたかった」  歪んでいるのだろう。  最期の舞台に立ったピエロに、汚い嗚咽交じりのこんな言葉しかかけられないような人間が、真っ当である筈が無いのだから。  私は両手で顔を覆い隠す。  自分で作った暗闇の中で、そのまま泣き続けた。  ずるずると鼻をすすって、しゃくり声を上げて。  ……その隙間に、こんこん、と連続した鈍い音が響き始めたのは、いつからだっただろうか。 「……?」  ようやく気付いて。  再び、視界に光を差し込んで。  変わらずに卓上に置かれたガラス瓶。その内側を、ピエモンはノックでもするように、拳で叩いていた。  また、私が自分を見ていると気付いたピエモンが唇に弧を描く。  持ち上がった端からこぽりと漏れた泡の塊には、やはり緋色が混じっていた。 「どう……したの?」  しかしピエモンはノックを止めない。  この仕草自体が、私への要望だと言わんばかりに。  彼は、扉を叩いているのだ。 「出して、って、こと?」  ピエモンは大袈裟なくらい首を縦に振った。 「でも、どうやって?」  私が尋ねると、ピエモンはブーケを放り投げた。  花束は茎の部分を下にして、ゆらゆらと揺れながら白砂の上に落ちていく。  水の中だから、ゆっくりだ。  でも、もし。  軽いブーケでは無く、重たい水の入った瓶を。  水の中では無く、今、ここで。私の胸の高さくらいから、落としたら。  --中のデジモンが完全に息絶えるまで。けして瓶を割ってはいけないよ。  あの店の店員の声が、耳の奥でこだまする。  ――--が溢れてしまうからね。 「ねえ」  私は置いた時と同じくらい慎重に、ガラスの酒瓶を持ち上げる。 「あなたの舞台は、そこにあるの?」  今からしようとしている事からは、考えられないくらいには。  ピエモンは、ただ、静かに頷いた。 「連れて行って」  私はアクアリウムを手放した。  ガラス細工の砕ける音。  水の飛び散る音。  砂は舞い上がり、珊瑚は踊り、沈没船が出航する。 「……!」  一瞬にして、私を取り巻く世界の全ては塗り替わった。  部屋の景色を呑み込むようして組み上がった静寂の海の舞台。  その上には、私と、ピエモンだけが、立っている。  大きな身体だ。酒瓶に収まるくらいあんなに小さかったピエモンは、筒状に整えた特徴的な髪の分を除いても、ゆうに2mはある大男だった。  でも、不思議と恐ろしくは感じない。  ほつれて、血まみれで、錆び付いていて、死にかけていても。ひどく、残酷なくらい、彼は美しい道化だった。  私は、彼と同じ舞台に立っていた。  生まれて初めて、立ちたい所に、立っていた。 「連れて行って」  同じ台詞を繰り返す。  自分がどんな顔をしているのか。もう、解らなかったけれど。  だけどピエモンは、微笑んでいた。  微笑んで、膝を付き、体躯にしては細い腕で、彼は私を抱き寄せる。  ピエモンの穴の空いた胸に耳をぴったりと寄せて、そうしてから、私も彼を、抱き返した。  どれだけ耳を澄ませても、彼の中心から心臓が動く音は聞こえなくて。  だから私は、そっと目を閉じた。  喜劇の舞台に幕を、下ろすように。 *  事件性は無いらしい。とは言っても、独り暮らしの女性の変死だ。  少なくとも地元の新聞は、フローリングの上での溺死について、それなりに記事のスペースを大きめに割いていた。  しかしたった1枚紙をめくってしまえば特産品やら工芸品にまつわる明るいコラムへと文章は早変わりし、それから下半分は健康食品の宣伝が枠を占めているといった様相である。  それ以上興味を惹かれる部分も見つけられず、男は新聞を畳んで机の端に置き、パイプ椅子から立ち上がる。  どうやらアクアリウムを求めて、新たに客が、来たようだった。
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快晴
2020年12月11日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫ 第二話 「ぶえふっひゃっ、ひゃっひゃっひゃぁあっは、はひっ、ふへへへへへへへえ"っ"、うえっ、げっほ、ごほごほごほっ! は、はあ、はあ、はあ……。ぶふっ。ひ、うひひひひひひいひひいひひいひひひひひい!! はっ、腹! 腹痛いんだけど!? むすっ、娘! 『ゲイリーの娘』!? 『ゲイリーのむっつりスケベ』の間違いで無く!?」 「うるせえ笑い声だけでハ行網羅してんじゃねぇ」  俺はたったの2日間で、美人の笑顔という概念が嫌いになりそうになっていた。  もう一度言うが、笑顔の似合う美女の笑顔にも限度というものが存在する。世の中の美女達は是非とも心に留めておいてほしい。  何事も、何物も。用法容量を守って使用する事が大事なのだ。薬売り(嘘は言っていない)と約束してくれ。  俺はなおも笑ってはむせるを繰り返す、伸ばした黒髪にガラクタの類――一見、宝石飾りのようにも見える――を幾重にも編み込んだ美女・ルルに向けて、音も無く一冊の絵本を開こうとする。  が、流石に「『迷路』随一の行商人」なる肩書は伊達では無く、ひぃひぃ苦しそうな息を漏らしながらも、ルルは俺が本を開く前にその表紙を抑えた。 「ひっ、ひひ。ちょっとやめてよ、『マッチ売りの少女』だなんて。君の店で一番依存度高い粗悪品じゃないか」 「いや、スマン。このまま胞子で窒息して死ネと思っただけで、『絵本』のチョイスに悪意はねェんだ」 「あはは、悪気しかない!」  引き続き、腹を抱えて椅子に背を預けるルル。  相も変わらず、反った胸部に、凸と呼べる部分は皆無だった。 「む。ゲイリーったらあたしのおっぱい見てるでしょ。サングラスで誤魔化せてると思った? 娘さんもいるっていうのに、とんだスケベ野郎だね。むっつりじゃ無くて、ストレートスケベ。」 「寝言は誰かと寝られる程度の色気を身に付けてから言え」 「知ってる? ゲイリー。デカい胸ってねぇ、授乳した時赤ちゃんがミルク飲みにくいんだってさ。つまり貧乳のルルちゃんは誰よりもママンの愛に溢れたボディをしてるってワケ! そう思うとあたしって無茶苦茶エロくない?」 「貧しい事と何も無い事は違うんだぜルル。お前のそれは、胸板っつーより板胸だ。成熟期の時のメアリーでももう少し有る」 「まあまあ、そうイキるなよ。君の方こそ女性絡みの走馬灯一生分見返しても乳首のちの字も出現しなさそうな健全顔してる癖に。……まあ、どうしても。って言うなら、その噂の娘さんに、弟くんなり妹ちゃんなり、プレゼントしてあげてもいいかな~って、あたしは、そんな気分なんだけれど」 「だったら今すぐ仕事の頭に切り替えてくれ。デバイスの在庫はあんのか? ねェのか?」  つれないんだから、とルルは唇を尖らせるが、むしろ必要以上にノってやったくらいだ。  うちの店は全年齢対象。『迷路』の外には大人のための絵本なんてモノもあるそうだが、『迷路』の内の絵本屋には、老若男女の頭を夢の国仕様にするヤツしか置いちゃいない。  運び屋ルル。『迷路』随一の行商人。お互いに、昔なじみのお得意様。  売り物の種類と幅が違うだけで、俺達のやっている事にそう変わりは無い。 「ゴッキモォーン」  仕事用に切り替わったとは到底判断しかねるにやけ面のまま、ルルはパートナーデジモンの名を呼んだ。  足元からカサカサと、細やかな割に異様に存在感のある足音を立ててカウンターの上にまで這い出て来たのは、名前の通り、まあ、その、いわゆる巨大な『茶バネ』である。  出現から流れるように発動されるのは、彼(?)の必殺技『ドリームダスト』。ルルのデバイスのゴミ箱機能から、任意のゴミが俺目掛けてひっくり返された。 「営業妨害で訴えんぞ」 「神も仏もいるけど警察は居ないからごめんで済むよね。誠に申し訳! いや、っていうかこっちも仕事だから。ほら、ゲイリー。好きなの選んで。君のプレゼントのセンスが見たい」  ルルは商品のほぼ全てを、デバイス内のゴミ箱で管理している。  この茶バネ、進化先もガーベモンという名の碌でも無い(ついでに言うと必殺技はもっと碌でも無い)姿をしたデジモンで、ルル曰く、デジモンの本来の故郷でならガーベモン種は体(?)内にブラックホールを所持しているが、空間としてどっちつかずな『迷路』の中ではどうにもその接続先が曖昧らしい。  それを逆手に取ったとか何とかで、ルルのガーベモンの腹は彼女のデバイスの中に設定されており、お蔭で無分別な収納が可能。逆に取り出すときは、退化したゴキモンに必殺技を使わせる形を採用し、好きな種類を選んで取り出せるという訳だ。  いざという時は商品の取り出しと同じ動作で戦闘へと移行出来るのも大きな強みで、非常に理に適っている。  適っているのだ。  絵面以外は。 「このひっでェ絵面が『迷路』での買い物のデフォだと思わせたくないから、リンドウに直接選ばせるのはヤメたんだ」  外の衛生状態がどうなってるのかは知らんが、流石に黒光りする虫が歓迎されるほど世紀末迎えちゃいないだろう。ゴミ漁りをあの子にさせたとなってはアカネに顔向けできないし、俺だって草葉の陰で泣くアイツは見たくない。  ……まあ、結局拾ってきたゴミのリサイクルくらいは許してもらわにゃならんのだが。『迷路』に寄越したくらいなんだ。そのくらいは、大目に見てほしい。 「これとか良さげかな。ピンクだし」 「女の子の好みをピンク色しか認識できないゲイリーくんの頭の中には、薄桃色のお花が咲き乱れているんだね。センスが実にお花摘みって感じ」 「パートナーが雉撃ち仕様のお前にだけは言われたくない」  言い返しつつ、こいつにセンスが汚物以下と言われてしまっては選ぶ気も失せる。俺は手に取っていたピンク色のデバイスを元の場所に戻した。客の購買意欲を削ぐとは商売人の風上にも置けない奴め。  いやまあ、管理場所がアレの時点で、今更の話だが。  悩んだ末最終的に手に取ったのは、やや小ぶりで端にチェーンを通せる穴の開いたキーホルダー仕様のモノだった。  デジモンを使役する人間からは所謂旧式と呼ばれるタイプの骨董品ではあるが、出来る事が少ないのは『迷路』初心者のリンドウにとってはむしろプラスに働くだろう。こちらとしても、一先ずモルフォモンに解りやすく首輪を付けられるなら、それでいい。 「うんうん、ゲイリーにしてはよく頑張った方じゃない? 小さくてかわいいから、きっと娘さんも喜ぶよ」 「随分と態度が変わったなルル。お前まさか、旧式の在庫捌きたかっただけじゃねェだろうな」 「あたしはいつだって売れ残りを本当の意味でゴミにしたくないと思ってるよゲイリー。あたしと君の利害は一致した。OK?」  くそ商売人め。 「わーったわーった。で、幾らだ」 「『絵本』でいいよ。折角出してるしその『マッチ売りの少女』ちょうだい。あと『ねむり姫』と『浦島太郎』。在庫が無いなら他の状態異常系でも許してあげる」 「いや、ある。今出すからちょっと待ってろ」  お伽噺のような時間を「状態異常」で片付けられるのはそこそこ心外だが、材料はと言えばメアリーの傘から出てくる光る粉だ。俺の揚げ足取りでルルの気が変わり請求書に現金と書かれる事を思えば、言葉選びのひとつやふたつ、やり玉に挙げるべきでは無いだろう。  沈黙は金。 「あ」 「何だ気が変わったとかはよせよ俺ァ何も言ってねえぞ」 「いや、あたしこそ何も言ってないんだけど。まあいいや」  ゲイリー。と、ルルが蠱惑的に唇を歪める。  そうそう、美人の笑顔と言えばこういうもんだ。あとはもう少し乳を盛って出直して来い。 「む。唐突に支払いをキャッシュに変更したくなったけれど、それはさておき」 「おう、何だ。スレンダー美人で器量よしのマイフレンド」 「ねえねえ嘘つきがホントに泥棒の始まりなら世紀の大怪盗にでもなれそうなマイフレンド。せっかくだから、会わせてよ。君の娘さん、リンドウちゃんに、さ」 「はぁ?」  思わず呆けた声を上げる俺に、ずい、とルルが顔を寄せた。  こういう前のめりの姿勢になると、服の隙間から覗く胸元が女ってやつは(乳が無いと特に)無防備になりがちなのだが、ルルの場合、平た過ぎて見える部分すら皆無なのであった。  残念ですら無い。 「なーに? 変な顔しちゃって。あ、いや元からか。……ほら、あたしだって、自分の商品を使ってくれる子がどんな子か、そのくらいは、見ておきたいからさ」 「対価は払うんだ。それで十分だろ。余計な好奇心は感心しないぜルル。リンドウは見世物じゃない」 「じゃ、会わせてくれたら『絵本』1冊分オマケしてあげる」 「ちょっと待ってろ。今呼んでくる」  許せアカネ。  そもそも俺みたいな甲斐性無しを頼ったお前もまあまあ悪い。 「リンドウ」  カウンターを出て店の奥に向かい、少女の名を呼びながら自室の扉を開けると、リンドウは俺のベッドを椅子代わりにして、ちょこんと隣に腰かけたモルフォモンと一緒に商品では無いいたって普通の絵本を読んでいたらしかった。  相変わらず、無表情でさえなければ心温まる光景になりそうなんだが。 「どうしたの、お父さん」 「デバイス購入前の本人確認だとよ。悪いが一緒に来てくれ。モルフォモンも連れてきていい」  こくり、と頷いて、リンドウは絵本--『しっかり者のすずの兵隊』――を脇に置き、モルフォモンと並んでこちらへと寄って来る。  ルルの手前、それらしく親子ムーブするべく、俺は彼女の手を引いた。  子供だからか、小さい手だ。このサイズ差は、正直嫌なことを思い出す。ネズミの手でも握ってるみたいだ。  ……最も、あの頃は、俺が引かれる側だったのだけれど。 「おう、連れてきたぞ」  くだらない感傷を投げて捨てるようにカウンター前の席に腰かけたルルへと声をかければ、待ってましたと言わんばかりのきらきら笑顔で彼女が振り返る。  流石に空気は読んだか。散らかしたゴミと茶バネ型デジモンは、自分のデバイスへと仕舞ったらしい。 「やっほー! 君がリンドウちゃん? こんにちは、あたしは『迷路』の行商人のルルちゃんだよ」  いっちょまえにも子供の相手らしく席から降りてしゃがみ込むルルだったが、肝心のリンドウの方は、面識も胸も無い割に馴れ馴れしいこの女に警戒気味らしい。メアリーが無遠慮に触りに来た時のように、彼女は俺の背に回ってルルから隠れてしまう。  うむ、お前の感覚は正しいぞリンドウ。後でなんか……こう、飴とかあげよう。  ルルは代わりに寄ってきた好奇心旺盛なモルフォモンに顔を触らせながら、気を悪くするでも無く、いたって普通に、顔の良い女の顔で微笑む。 「あっはは、照れちゃってまぁ、かっわいいー! 君、絶対お母さん似でしょ。お父さんの貧弱過ぎる遺伝子情報に感謝しなくちゃだめだよ~?」  そんなクソみたいな感謝の仕方をリンドウに仕込むんじゃない、と思わないでも無かったが、生憎貧弱も何もリンドウの半分は俺では無く知らない男の遺伝子で出来ている。ルルにはそろそろ帰って欲しかったし、俺は反応をへの字を書いた唇での沈黙だけに留めた。  幸い、ルルの方も見るだけ見て満足したらしい。  カウンターの上に置きっぱなしにしていた『マッチ売りの少女』をそのままにして、立ち上がった彼女は俺の方へと手を出した。 「はい、ゲイリーくん。約束の『ねむり姫』と『浦島太郎』」 「へいへい」  製造にかかるコストはその2つの方が高いので本音を言えばそっちをまけてほしかったが、幼女見物にそこまでの価値が無い事は流石に理解している。  まあ売れ行きだけで言えば安いのとルルの言う通り依存度が高いのとで『マッチ売りの少女』の方がよくはける。何にせよ、向こうからの値引きにとやかく言える立場でも無いだろう。 「あいよ。返品交換は受け付けねェからな」 「はいはい、確かに。これからも行商人ルルとゲイリー・ストゥーはズッ友だよぉ。なんてね! じゃあね、ゲイリー。リンドウちゃんとモルフォモンくんも、ばいばーい」  またね、と、そう言ってルルは手を振ったが、俺個人は兎も角やはりリンドウに進んで御器かぶりの類を見せたくなかったので何も返さないでおいた。  モルフォモンだけは無邪気に手を振ってはいるのだが……まあ、元ネタの蝶は腐肉食だとかそんな話も聞いた事があるし。属性が近いとかで、関わり合いになってもこっちは案外うまくやるだろう。  そも、デジモンの好き嫌いなど、どうでもいい。 「と、いう訳で、だ。リンドウ」  ルルが出て行ってしばらくしてから、彼女から買い取ったキーホルダー型のデバイスをリンドウへと差し出す。 「昨日言ってたデバイスだ。これがあれば、モルフォモンを……あれだな、より安全に、飼えるようになる」  正確な役割を語れば話は長くなるのだが、旧式のデバイスだと出来る事、特にテイマー側から発動できるサポート等は最低限だし、とりあえずデジモンにつける解りやすい首輪、という認識で間違いがある訳でも無い。  結局何考えてるんだか判らない無の表情でリンドウがコレをじっと見つめている間に、俺は諸々の設定を済ませ、少女の手に赤い旧式デバイスを握らせた。 「絶対に無くさない事。解ったか?」 「うん」  頷くリンドウ。  デバイスを通じて正式に彼女をパートナーとして認識したらしいモルフォモンも、改めてリンドウに寄り添い出したので、俺の仕事もひとつ片付いたとみて良いだろう。  と。 「……」  妙な圧を感じて振り返れば、地下に続く階段の際から身体半分だけ覗かせた我らが薬剤師、麗しのメアリー・スーが、「やっぱり美人は笑っている方がいい」と俺の認識を改めさせる程酷いしかめ面で、出入り口の方を睨んでいた。 「メアリー」 「……」  ぎろり、と動いた左右違う時間帯を宿した色の瞳が、俺に「ルルは帰ったのか」と訴えかける。  この1体と1人、どうにも仲が悪い。  正しくはメアリーが一方的に嫌っている形なのだが、ルルの方にも関係を良好にするつもりはさらさら無いので余計に関係がこじれているのであった。  別に仲良くして欲しいとは思わんが、紛いなりにもビジネスライクではあるのでもめ事は起こしてほしく無いところ。  なんて思っていると「だから顔出さなかったんだろう」と言わんばかりに俺をねめつけて、こちらに寄ってきたメアリーはひったくるようにカウンターから『マッチ売りの少女』の『絵本』を回収し、そのまま出入り口の方へと駆けて行く。 「あ、おい。メアリー!」  折角1冊浮いたのに。  制止も聞かずに外へと出て行ったメアリーの華奢な背中を見送って、俺はため息と一緒に肩を落とした。 「? 何しに行ったの」 「塩代わりに粉撒きに行きやがった」  今頃『迷路』の通りには白い粉が煌めき、通行人達はきっとその中に、ごちそうや飾り立てられたモミの木、死んだ老婆の面影を見るのだろう。一足早く、メリークリスマス。リンドウの着ていた服から察するに外は恐らく初夏あたりだが、俺の懐と愚図のマンモンの吐息は何時だって冬の季節とよろしくやっているので問題あるまい。  さよなら、『マッチ売りの少女』1冊分の稼ぎ。擦ったマッチから出るリンの臭いを吸い込んでしまった時のように、鼻の奥が、ツンと痛い。  ……言うて、薬を作るのはメアリーの仕事なので、彼女が作った物を彼女がどうしようが俺に口出しできる権利は無い。  一瞬だけ抱えた頭から手を離して、俺は首を傾げるリンドウの前で膝を折り、小さい彼女と視線を合わせてから自分のデバイスを取り出した。 「リンドウ、良い子にしてたから飴をあげよう」 「……味は?」 「色んな色があるけど全部一緒のお砂糖味だ。甘いぞ」 「じゃあ、モルフォモンと、同じ色のは?」 「モルフォモンよりかはちょっと薄いが、青色はあるぞ。今出すから手を--」  その時。  視界の端に、開くドア。  メアリーが戻ってきたのかと思って顔を上げると、そこに居たのは、癖のある白髪と左目を覆う真っ黒眼帯が印象的な老婆だった。  ただしその老婆はこう、「死んだおばあちゃん」的な趣は皆無で、年寄りの割にがっちりとした身体に迷彩柄の軍服を纏っている、それはそれはもう、殺しても死ななさそうな老婆であり。  例のごとく、知り合いである。 「レン」  名前を呼びかけようとしたのだが 「シールズドラモン」  それよりも先に、俺を遮るように、老婆は隣に佇むトカゲ型の軍用ロボット的な見た目のパートナーの種族名を呼んだ。  老婆――レンコの単眼からは、隠しようも無い蔑みの感情が、一心に俺の方へと向けられていて。  俺は冷静に、自分の状況を確認する。  俺は電脳麻薬の売人で  目の前にいるのは年端もいかない幼女で  俺に娘がいる事を、俺自身昨日知ったばかりで  俺以外にそれを知る人間など、さっき会ったルル以外に居る筈も無くて  見知らぬ幼女の前にしゃがみ込む胡散臭い男を、俗に人は、「不審者」と呼ぶ。  『迷路』の外だろうが、内だろうが。 「待ってくれレンコ。これは」 「処せ」  音も無く引き抜かれたシールズドラモンのナイフが、瞬きの間に、俺へと迫った。
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快晴
2020年11月26日
In デジモン創作サロン
       次の話≫≫  あの日俺は、クソみたいなクラゲの雨を見た。 『Everyone wept for Mary』  『迷路』を訪れるような連中は、主に3つのタイプに分類する事が出来る。  『神』の偶像を求めて英雄を夢見る身の程知らずか、  要らない物を捨てに来たろくでなしか、  捨てられた方の、人でなしだ。  まあ何にせよメアリーと俺の『絵本のお店』こと『スー&ストゥーのお店』は如何なる所以を持つ者であろうとも幅広く受け入れ、金か金に該当する対価さえ払えば分け隔てなく夢のような時間を提供する。  お伽噺の妖精が、不幸な子供に幸福を約束するように。  だが、まあ。  往々にして英雄気取りというモノはその大概が、やっている事だけは人並み外れてご立派でも、愛だの正義だの並べ立てる常識ばかりは、月並みで。  そんな訳だから、今日も今日とて『スー&ストゥーのお店』の壁は、俺の稼ぎ以上に景気良く吹き飛んだわけなのだが。 「マンモン」  パートナーの名を呼ぶと、隣に呼び出した太古の昔に滅びた毛むくじゃらの象の似姿が、長い鼻の先から吹雪を噴出する。  当たれば何でも凍らせてしまう絶対零度の鼻息が、本日の不届き者を呑み込もうと―― 「シャカモン!!」  ――した、が。  距離が開き過ぎていた。  巨象の鼻という鞭は確かに強力で、だからこそ阿呆を打ち据える刑具として俺はマンモンを呼び出したワケなのだが、如何せんこのうすのろは、力ばかりが強過ぎて。  結果として、俺達はむざむざ相手にパートナーのリアライズを許す隙を与えてしまった訳だ。  衝撃の後遺症に脇腹を抑えた坊主頭の男は、しかし果敢にもデバイスを前に掲げ、それに応じたパートナーは、顕現の瞬間すら微動だにしないまま、文字通りマンモンの必殺技『ツンドラブレス』を受け止めた。  身体から溢れ出る黄金の光は瞬く間に飢える季節を再現した風を溶かし尽す。  全く、頭の中お花畑だとオーラまで春風を纏っているものなのか。  俺は究極体の後光相手にはいまいち仕事をしてくれないサングラスのブリッジ越しに眉間を押さえてから、腹立ち紛れにマンモンの前脚を力いっぱい蹴りつける。  図体、実力、詰めの甘さ。それからそもそも象の姿をしている事など全部ひっくるめて、俺はこいつが大嫌いだった。 「パートナーにまでその調子ですか、貴殿は噂に聞いた以上に罪深いお方だ、ゲイリー」 「俺ァ知ってるぜクソ坊主。人間、生きてりゃ何かと罪を重ねるモンだって、ありがたいお教サンにも書いてあるんだろ? なあ、そういう意味じゃあ、俺とお前はお友達だぜ? なんたって、俺らは皆、生きている!」 「しかし貴殿は罪を罪と認め、赦しを貴ぶ心を持たないと見えます。「薬あればとて毒このむべからず」……その毒を、悪徳を更に諸人に振り撒いているとなれば、見過ごす訳にはいきません」 「悪徳ゥ? 勘違いも甚だしいね。まァ、薬は過ぎれば毒となるもんだ。だから俺達の『絵本』を毒呼ばわりする事に関しちゃ56億7千万歩譲って許してやるよ。しっかし悪徳扱いは言いがかりが過ぎるってもんだマイフレンド。メアリーと俺は、人生以前に『迷路』に迷った衆生に、乳粥喰うよりいい感じの『幸せな時間』を提供してるのさ。今からでも遅くはねえ。お前さんの気が変わったなら、お代と店の修理費と引き換えに、好きな『絵本』を好きなだけ用意するぜ?」 「……そも。言葉が、通じていないのですね」 「悪ぃな。サンスクリット語はさっぱりだ」  手持ちの仏教用語をしこたま持ち出して煽ってはみるが、流石に唯一無二の如来型を連れているだけはある。少なくとも坊主頭の外見上に動揺は無く、男のパートナー――究極体デジモン・シャカモンの威光に衰えは無い。  そろそろ、俺の口先三寸だけではもたなさそうだ。 「メアリー!」  振り返って、店の奥へと呼びかける。 「いい加減クレーマーの相手手伝ってくれ! 俺ってば罪深いらしいから、このままだとこいつの頭に燦然と輝く後光で溶けてバターとかになっちゃう!!」  なのに、俺の必死の呼びかけなんて、まるで最初から聞いていないという風に――顔を元の位置に戻せば、俺の目の前にメアリー・スーは立っていた。 「いつの間にかもう居るゥ」  ここで、ようやく坊主頭の男が息を飲むというアクションを見せた。  何せメアリーは絶世の美女。  そこに居るだけでこの世における均衡とは何たるやを物語る身体つき。豊作が約束された稲田のように波打つ金の長髪。左には夕焼けを、右には夜空を湛える丸い瞳。白い顔には左上から右下にかけて、まるで顔を分断するかのような大きな傷痕が走っているが、顔が良すぎてこれっぽっちも気にならない。  纏う衣服すら、彼女をより良く魅せられるよう、何もかもが計算ずく――まあ正確には、頭にちょこんと乗せている、紫地の中に歪な黄色い輪っか模様が描かれた毒々しいデザインの帽子のみちょっとばかし浮いてはいるのだが、こればっかりはご愛敬――なので、 「見惚れたからって、何も恥じる事は無いぜ生臭」  メアリー・スーはいつだって、老若男女、人畜問わず愛される女なのだ。 「っ」  反論しようとする男の前で、メアリーはワンピースの両端をつまんで持ち上げ、頭を下げる。  すると男は言葉を呑み込んで、しかし首を横に振った。 「貴女がメアリーか。……貴女もゲイリーと同じく、考えを改められる気は」  背中からでも、メアリーが嗤ったのが伝わってきた。  そのまま、彼女の口は、裂けたのだろう。 「は?」  俺がその昔丹精込めて作ったメアリー・スーに相応しい皮を内側から剥いで、中から飛び出すのは大きな毒キノコだ。  成長期の植物型デジモン、マッシュモンである。  正体を現したメアリーは、色だけは変わらず左右違うままの瞳をにんまりと潰して、飛び出した瞬間から握っていた、自分を小さくしたかのようなキノコ――正確には、キノコ型爆弾――『ポイズン・ス・マッシュ』を光り輝くシャカモンに投げつける。  ぶつかるや否や、後光に対応して眩く煌めく胞子が、シャカモンの顔面に飛び散った。  あまりに突拍子の無い展開に目を剥いていた坊主頭は、しかし必殺技を使ったメアリーが、デジモンの中でも下のランクに位置する成長期であると認めるなり、うっすらと、唇を弓なりに歪めた。 「ゲイリー。随分と血迷っていたのですね。マッシュモンとは……貴殿の卑しい御商売にはすこぶる便利でしょうが、世代差というモノを御存知ですか?」 「おう知ってるよ。マッシュモンは成長期、シャカモンは究極体」 「であれば」 「まあその辺はどうでもいいんだ。それよりも、底が知れたな、似非坊主」  からん。  からんからんからんからん。と。ひどく小気味いい音が響き渡る。  シャカモンの周りに漂っていた16の球が零れ落ちる音だと気付くのが最後になったのは、誰よりもシャカモンの傍に居た筈の坊主頭の男だった。 「……シャカモン?」  シャカモンはやはり、動かない。  変わらず微動だに、しないのだ。 「なに、を。何をしているんですか!? 『怠条真言』を、『怠条真言』を使って――」 「お前はまァ、ご立派ではあるよ偽坊主。『迷路』の中でまで人の善性を説いてみちゃったりなんかして、なんやかんやとパートナーもシャカモンだもんな」  でも、それまでに積み重ねた功徳とやらは、もはやシャカモンの中には無い。  デジモンと言えど生き物だ。俺達は皆、生きている。  生きている以上、息を吸う。  息を吸うなら、そこにさえあれば、毒の胞子だって吸ってしまうのだ。 「マッシュモンの『ポイズン・ス・マッシュ』にゃ、「記憶を消す」効果があるキノコ爆弾も含まれているのさ。……なァ、積み重ねた研鑽も衆生の救済を願った心もその全てを失った釈尊が、如来のままで在れると思うか?」 「だ――だが、その技は効果が」 「ランダムなんだが、メアリーのそいつは特別製でね。ま、『迷路』と一緒で抜け道は何かとあるもんだ」  ケタケタ。  ケタケタ。ケタケタ。 ケタケタケタケタケタケタケタケタ!  顔というか、身体というか。はたまた柄とでも言うべきか。  そういうものの半分以上を開いた大口で覆い尽くして、メアリーは笑う。嘲笑う。  言葉を持たないその声は、ただ笑うために在るのだと、そう言わんばかりに、笑い転げる。 「でも、まあ」  俺は心地の良いBGMに耳を傾けるようにしてメアリーの笑い声を胸に留めながら、あくまで俺自身は穏やかに、デバイスを操作してパートナーの解毒を試みる男に語り掛ける。 「釈迦の死因って、諸説あるけどキノコで食当りらしいぜ。偶像どもは確かにそれぞれいろんな形で神を真似ちゃいるが、死に方まで良い線行く奴はそういねぇ。そういう意味じゃあメアリーはお前達にも幸運を運んだっつってもいいんじゃないかねェ?」 「ふ、ふざけ――」 「だがまあ、お前の言う通り成長期。直接は無理だ。悪いなァ」  マンモン、と。  また、ずっと隣にだけは居た木偶の坊の名を呼んで。  愚図なりに、マンモンの方も俺の意図は読み取った。  尖った牙を突き刺すだけの体当たり、『タスクストライク』を以って、マンモンは宙に浮かぶだけのオブジェと化したシャカモンにぶち当たる。  巨体に物を言わせた衝突はシンプルであるが故に凄まじく、人に似ているとはいえ究極体の皮膚は継ぎ接ぎの牙の貫通を許しはしなかったものの、シャカモンの身体はそのままマンモンに押され続け――最終的に、『迷路』の壁に叩きつけられて、壮大なノイズを走らせたかと思った瞬間、崩落する壁の瓦礫に混ざるようにして、塵と化して、消えてゆく。 「な、あ」 「マンモン、戻ってこい」 「そん、な――」 「まだ残ってる」  鋭く息を呑む音が耳に届く。  もしや死ぬのはシャカモンだけだとでも思っていたのだろうか。  なんて厚かましい。こちらは店の弁償費用とメアリーのガワの修理代をこの男に払わせねばならず、坊主というのは清貧であると相場が決まっている以上、こいつの持ち物の中で最も価値がありそうな物を請求するのは道理だろうに。  なんて愚かな男なのだろう。こんな奴とは、絶交だ。  なのに振り返ったマンモンは、戸惑うように、まだ、こちらには駆けてこない。 「何してる。早く来い愚図」  マンモンは来ない。 「お前、いい加減に」  と、次の瞬間。  一通り笑い終えたらしいメアリーが、ぴょん、と飛び乗るように坊主頭を押し倒した。 「!?」 「あー……。ったく。マンモン、もういい。メアリーがやるってよ。せめて代わりに、終わったら、片付けとけ」  美女の皮を破いた時のように。  毒キノコの姿が、変貌する。 「ひぃっ!? や、やめ」  めりめり、ばきばき、ぼきぼき、うぎゃー。  色々な音が混じったそいつは安っぽいB級ホラー映画さながらの度を越えた凄惨さで、幸い見世物という訳では無いので俺は構わず無視してメアリーに背を向け、店に空いた穴を開いた扉の代わりにして室内へと戻る。  戻った瞬間、見知らぬ少女と、目が合った。 「……」 「……」  俺がメアリーに背を向けていて、  この娘が俺を見ている以上。  背景にあるスプラッタ劇場も、一部なりとも視界に収めている筈なのだが。  少女はさっきのシャカモンかと思う程、眉ひとつ動かさず、俺を見ていた。 「……どちら様?」  声を絞り出す。  見られていた事自体にそう困る点は無い。『迷路』じゃ日常茶飯事の部類だ。メアリーのそれはちょいとばかり勢いがあるし、加えて麗しの美女たるメアリー・スーの中身がアレである事は極力伏せておきたい事実だが、知ろうと思って知れない事でもないし、見ようと思って見れないものでも無い。  ただあの騒ぎの中、穴の開いた建築物の中に、涼しい顔で椅子に腰を下ろしているとなると、肝っ玉の太さ云々のみで片づけるにはちょっとばかし気色の悪い感覚も覚えずにはいられなくて。  だが、それでも。  ここに人間が来た以上は、俺は店主のゲイリー・ストゥーとして、相手の年齢も素性も関係無く、こう尋ねなければならないのだ。 「もしかして、お客さんかい?」  と。 「……」  少女は答えない。  しかしこれでは話が進まない。沈黙を肯定と取る事にして、俺は饒舌に声を張り上げる。 「それなら当然大歓迎だ! メアリーと俺の『スー&ストゥーのお店』は、いつだって誰だって絵本の中のお伽の国へ、夢のような時間へご招待するぜ! さあ、今すぐ『絵本』を用意しよう。お嬢ちゃん好みの物語を教え」 「お父さん」  ようやく。  ただ俺の目を見ているばかりだった少女が、ようやく放った一言は、役立たずのマンモンの『ツンドラブレス』よりもはるかにすみやかに、俺の全身を凍り付かせた。
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快晴
2020年11月26日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話        エピローグ 「そっか~、じゃあ~サリエラって~、つまりはぼくのおじさん~?」  関係性としてはそうなるかもしれないが、その呼び方は少しなぁとサリエラは眉をひそめる。  対する杭は、相変わらずのんびりと間延びした声で、ご機嫌にころころと笑うばかりなのだが。  あの後『宿』に帰還し、皆が眠りについて。  当初の宣言通り、翌朝になっても女が寝室から出てくる事は無かった。  今度は部屋にしっかりと鍵がかけられていて、サリエラにも杭にも、そして赤ずきんにも、中の様子を窺い知る事は出来なくて。 「以前にもこういうことはありましたから。だから、猟師様なら大丈夫ですよ、サイコロ様」  と少なくとも赤ずきんが心配している風では無かったので、サリエラはやはり、それこそ天運に出目を任せなければいけない転がったサイコロのように、結果を待つ事しか出来ないのだったが。  なので、女に言われた通り。  女の眠っている間託された杭と、いくらか、話をした。 「ま~ぼく~、自分で言うのもなんだけど~、色んな事が出来る、っていうのは~、解ってるよ~。この世界でならある程度~モノの形とか好きなようにいじれるし~そもそもこうやってみんなとおしゃべりできてるのもそういう力だし~」  でも、と、杭はさらに続けた。 「正直~、『神』の子とか~そういう実感はあんまり無いんだよね~。ごはんを食べればどんどん出来る事が増えるらしいんだけど~、ぼく自身は~ごはんをたくさん食べられれば、それでいいから~」  きっと。  僅かに聞き出す事が出来た、女から聞いた姉の話を踏まえて考えると。  彼女は杭を『神』の子として産みはしても、その責務までは押し付けなかったのだろうと、サリエラはそう思う。  姉が欲しがっていたのが、あくまで、家族だったと言うのならば。  だからこそ、サリエラは考えてしまう。  もしも父親の先の妻が死ななければ。  もしも姉の髪が赤色でさえなければ。  父が冷静に、姉が自分の子である事を確認していれば。  そうすれば。姉は、そもそも「家族が欲しい」だなんて望みを抱かずとも、良かったかもしれないのに。 「でもそうすると~」 「ん?」 「サリエラは~、産まれてくるの~?」 「……」  わからないな、と、少年は思った。  同時に、それでも――否、そのほうが、良かったのかもしれないとも。頭の片隅で。  杭はどうやら、それを察したらしい。  彼にしてはやや真剣みを帯びた、それでものんきな印象自体はぬぐえない声音で 「ぼくは~、今のままがいいな~」  そんな言葉を、かけてきて。 「ぼくは狩人さんが好きだし~、赤ずきんの事も好きだし~、今はサリエラの事もやっぱり好きだよ~。……それに~、おいしいモノも。おいしかったモノも」 「……」  おいしかったモノ。  杭は、姉の事を、「きっとまずくはなかったんだと思う」と言っていたっけかと、サリエラは振り返る。 「ぼくは~、好きなモノがたくさんある、今の方が、やっぱり、いいな~って」 「……そもそも」 「?」 「「今のまま」じゃなかったら、杭、産まれてきてなくない?」 「はっ!」  雷に打たれたかのように、杭に震えが走った。 「じゃ、じゃあ~、やっぱり今のままじゃ無きゃダメ~~~~!! このままじゃなきゃヤダ~~~~!!」  駄々をこねるように叫ぶ杭に、一瞬苦笑いしてから、サリエラは彼をあやし始める。  まあ、そもそも。  いくら「もしも」について考えた所で、終わった事が覆るでも無い。  誰が望もうと、望まなかろうと……どうしようもないのだ。  ただ1つ、出来る事があるとすれば。 「……ねえ杭」 「? なに~、サリエラ~」 「杭ってさ、狩人さんの身体を元通りにしたみたいに、他の人の身体をいじったりできるんだよね?」 「できるよ~。まああれだけの事できるのは死なない狩人さんの身体があってこそだし~この前力を使ってその後なんにも食べてないから~今は大した事できないんだけど~」  でも、できるよと。杭は言う。 「……」  ただ1つ出来る事。  それは、この『今』を生きている人物に、その者にとっての真実を確かめる事だ。 「杭。ひとつだけ、頼んでもいいかな」 * 「うっわ白髪増えてる」  言ってから、数日ぶりに発した言語がコレだと気付いて、女は1人、鏡の前で頭を抱える。  『バグラモン』になった後はいつもこうだと、女は苛立たしげに目を細めて、右手で髪の先を玩んだ。  ……ついでに右目もあのまま赤色になってくれないものかと、改めて。ねめつけるように鏡を覗き込むが――そこにあるのは、最初から赤茶けているだけの、いたって普通の目玉しかなくて。  本物の『レオモン』のように綺麗な青色でもいいのに、と。それなら聖母と少しだけお揃いだったのに、と。無い物ねだりに、女は嘆息する。  『レオモン』の『デジコア』が女に特別に与えてくれた能力は、後付けの不死のみだ。  それ以外のスペックは、他の成熟期とそう大差無い。だというのに強敵に挑む機会が多いとなれば、よほど頭の良い個体でも無い限りそれは死ぬだろう、というのが女の見解だ。 「でも、種として正義感を持った、ある意味で最初から『理性持ち』に近い『怪物』だと言うのなら」  男性の声が、聞こえたような気がした。 「きっと、この『デジコア』は君を食い殺しはしないと。そう考えたというのは、実はある。私の研究の果てに、君がそのままの姿でいてくれたら、まあ、それなりに嬉しいしね」 「はぁ……」  深い、深い、溜め息を吐いた。  どこまでも身勝手で、自分勝手な男だった。  身勝手と自分勝手が極まり過ぎて、『神』さえ自分の思い通りにしたいと、そう願った男。  『神』が現状全ての生きとし生けるものの頂点だとしたら、『神』を意のままに出来るようになれば、自分は何になれるのだろうかと。あるいは、人未満に成り下がった『神』は、一体何になるのだろう、と。そんな不遜極まりない知的好奇心を満たしたいがために、そのために必要ない倫理観などかなぐり捨てて、目的のためなら手段も材料も選ばなかった男。  「私の遺志を継ぐのが君なら、それもまた悪くは無い」というのが、男の最期の言葉だった。  ……そんな男について誰よりもよく知っていたせいで、実のところ、女は聖母が欲しがっていたモノの、聖母が思い描いていたような素晴らしさや美しさについては懐疑的だった。  口が裂けても。もし実際に裂かれたとしても。女は、そんな事声に出して言ったりはしなかっただろうが。  聖母は家族を欲した。  零は『神』をも超える立場を。  杭はおいしい食事を望んで  ……『この世界』にやって来た少年は、姉を探していた。  だったら、自分は何をしたかったのだろう。  そんな事を、女は考える。  研究棟の外に出て、様々な『ゾーン』を渡り歩き。  見た事も無かった美しい景色には、杭以上に女自身が、魅了されたりはした。  だがそれはたまたま手に入ったモノで、最初から欲しかった訳では無い。  鏡の向こうの自分に問いかけるようにして、穴が開く程見つめては見ても――何も、答えは返っては来ないのに。  と、 「あ、猟師様」  不意に鏡面の端に、洗面所の前を通りかかった赤ずきんの姿が映し出される。 「そうでした。わたくし、赤ずきんちゃんの事が吸いたかったのです」  そして女は、結論を出して大きく頷いた。 「? 猟師様?」 「赤ずきんちゃん、ちょっと失礼」  洗面台の前から移動した女は、そのまま女の様子を伺っていた赤ずきんに抱き着き、鋼鉄に覆われた彼女の腹部に顔を埋める――事は当然出来ないので、顔面を押し付けた。 「ほひゃっ、猟師様?」 「あ"ー……生き返る……」 「申し訳ございません猟師様、『アンドロモン』である赤ずきんの腹部に猟師様の体力を回復する機能は備わってはいないと思うのですが……はっ。というか猟師様は数日ぶりの起床とあって体力値も相応に減少しておられるはず。だというのに赤ずきんときたら、猟師様のご朝食の準備もまだといった始末。赤ずきんは駄目な家政婦です。ああ、お恥ずかしい、お恥ずかしい……」 「ああいえ、事前にいつ起きると伝えて置かなかったわたくしの落ち度なので。それに少なくとも今気力は間違いなく充電されているのでどうかしばらくこのままで」 「ええっと……はい、猟師様がそうお望みなのであれば……?」  思う存分鉄とオイルの臭いの混ざった空気を肺に取り入れながら、女は視線を上げた。  無機質な目玉にそれでも戸惑いの浮かぶ赤ずきんは、やはりいつもの通り、名前の通りに赤い頭巾を頭にかぶっていて。 「……」  頭巾の前はただのボロ布で、その前は使い古されたスカーフだった。  その子供は『理性持ち』になる前から、いつもそれらの赤い布を頭に巻いて、聖母の真似をしていたのだ。……いつも聖母の隣にいる、女の気を引きたかったがために。  『理性持ち』の『アンドロモン』となり、当時の記憶など失っていた筈なのに、女とこの『アンドロモン』が初めて出会った時、彼女は、それがまるで自分の身を守ってくれるものだと言わんばかりに、赤いボロ布を頭にかぶって、震えていたのだ。  その姿に、彼女の元となった子供が意図していた通り、女は聖母を連想して。  零の置き土産を全て潰して回る気でいた女は、『アンドロモン』を連れ帰り、赤ずきんと名付けたのである。  そこにはやはり、聖母の代替品を求めた自分が居たのだと。解りきっている事実が、改めてちくりと女の胸を刺した。 「いやまあ、それはそれとしてやっぱり赤ずきんちゃんどちゃくそ可愛いんですけれども」 「?」 「なんでもないです。……なんでも」  名残惜しさを隠さずに、女はようやく赤ずきんから離れる。  赤ずきんの事を心から愛おしいと想う気持ちは、杭を大切に想う気持ちと同様、本物なのだ。  少なくとも、今は。 「……では、申し訳ありませんが、朝ごはんの準備をお願いします、赤ずきんちゃん。昨日の残りご飯とかあるなら、おかゆとかにしてもらえると助かるのですが」 「了解いたしました、では、赤ずきんは猟師様のご朝食を用意してくるのです。……あっ、その前に。忘れてしまうところなのでした」 「?」 「サリエラ様が、お庭で待っているのでもし猟師様がお目覚めになったらお伝えして欲しい、との事でした」 「はあ、そうですか。まあそうでしょうね、まだまだ聞きたい事もあるでしょうし。しかし赤ずきんちゃん、彼の名前はサリエラなので、サリエラだと……ん?」  赤ずきんと女は、同時に首を傾げた。 「どうか、なさいましたか猟師様」 「サリエラだと、サリエラですね」 「そう、ですね。サリエラ様は、サリエラ様ですね」  お互いきょとんとしていた2人だったが、先に赤ずきんが「あっ、猟師様のお食事を用意しなければ」と動き始める。  「そう急がなくても大丈夫ですよ」と赤ずきんの背中が廊下の角を曲がって見えなくなるまで眺め続けた後。  もう一度、不思議そうに首をひねってから、それから、洗面所の方へと振り返った。 「さて、そろそろ出てきたらどうですかシメール。どこから入り込んだのかは知りませんが」  ぎょろり、と突然壁に現れた丸く巨大な目玉が動いて。  次の瞬間には、目玉の大きさに見合った巨大なカメレオンの『怪物』の姿を取る。 「人聞きの悪い! 大丈夫大丈夫大丈夫。ちゃんと弟くんとお坊ちゃんくんの許可はもらってるよ」 「今後許可しないよう言い聞かせておきます。貴女さえいなければ、あと4、5分……贅沢を言えば10分ほどああしていたかったのに」 「固い堅い硬い事言わないでよもぉ。あと普通に気持ち悪い事言うな。……ま、我々今日はサボりじゃ無くて昼休憩の自由時間を不本意ながら消費している状況だから、用事はさっさと済ませてすぐに帰りますよーだ」 「では早くしなさい。一秒も無駄にしないで」  うざいなと3回繰り返しながら、カメレオン――『カメレモン』の姿を取っていたシメールは二足歩行で立ち上がり、元の青い髪の人型へと形を戻す。  そのまま腰にパペットを装着した手を当てて、にっと、彼女は笑っていた。 「お兄ちゃん、ちゃんとちゃんとちゃんと死んだ?」 「……さあ」 「さあ、って事は、魂をこう、こう、こう……キュッと潰した感じかな? じゃ、死んだんでしょ。良かった良かった良かった。これで独りよがりな盲信からも、さよならできたんだねぇ」  見苦しかったからね。本当に良かった。  屈託なく微笑んで、シメールは心底どうでも良さそうに吐き捨てた。 「……で、用事とはそれだけですか」 「ううん、こっちは正直ついで。一応の確認。……我々はただ、お前に我々の意見を伝えて置かなきゃと思っただけだよ」 「意見?」 「うん。我々は、絶対絶対ぜーったい! ……聖母様を殺したお前の事、未来永劫永久に許さないってコト!」 「……」 「我々って言うか、我々その他全部。って感じなんだけれど」  シメールはそう言って、腰に当てていたパペットを両方とも、持ち上げて自分の顔の隣へと並べる。 「許さないぞ、お前の事」 「『神』の子を殺したお前の事」 「謝ったって、許してやらないんだからな」  そしてそれぞれの口が、同じ声音で、同じことを言う。 「どんな理由であれ『この世界』の未来の可能性をひとつ潰したお前に、『神』は未だに腹を立てている。だからいつか、創り出すぞ。お前を殺す、『怪物』を。あの男がお前を恨む最後の者だとは思わない事だね」 「で、となると次は貴女かもしれないと? シメール」 「そうならいいけどね! とってもとってもとってもいいんだけど! でも、そこはわかんない。これはただ単に、メッセンジャー的な役割を持つ『怪物』の『デジコア』が我々の中にあったから、使い走りをさせられただけ。やんなっちゃうね。また次があったらとてもとてもとても面倒だから、さっさと死んでよ、    」  言いながら、シメールは女の隣をすり抜けて、近くの窓を開け放つ。  そこから出るつもりなのだろう。 「じゃ、我々の仕事、これで終わりだから」 「……それでは、こちらからも1つだけお尋ねしてもいいですか、シメール」 「は?」  シメールは怪訝そうに眉を吊り上げた。 「えっ、何何何。早く帰れって言ってたお前が何のつもり? 気色の悪い。良いか悪いかで言えば悪いんだけど、まあ、何だよ。さっさと言いなよ」 「では、遠慮なく」  そう言って、女はシメールの腰へと視線を移す。  それだけで言いたい事が半分ほど解ったのか、シメールはあからさまに顔をしかめた。 「サリエラを『この世界』に寄越したのは。それからあの砂漠の『ゾーン』で彼を襲ったのも。貴女ですよね? シメール」 「無茶苦茶無茶苦茶無茶苦茶痛かったんだからな」  シメールが服の裾をめくる。  サリエラに見せた時よりかは幾分か塞がっていたが、それでもまだ、詰め込まれた『デジコア』の光が覗く穴が開いていて。 「でも、なんで気付いたの?」 「なんでって、貴女、頻繁に腰を庇っていましたから。貴女に手傷を負わせられる手練れなんて、わたくしくらいのものでしょう?」 「自分で言うなよ鬱陶しいな」  台詞と乖離無い表情を浮かべて、シメールは裾を元の位置に戻す。 「我々としても、お前が来るのは想定外だったんだけど。なんでなんでなんであの『ゾーン』の鍵なんて持ってるんだ。そして来た」 「『神』の子だから、杭ちゃんはクリスマスが誕生日だとでも思って『この世界』がプレゼントしてくれたのかもしれませんね」 「適当な事言って……」 「で? 結局貴女は、何がしたかったんですか、シメール」 「それこそ、クリスマスプレゼントのつもりだったんだけどさ」  シメールの――『メタモルモン』の『選ばれし子供』としての身体が、また、変貌を始める。 「聖母様に会わせてあげたかったんだよ。あなたには弟さんがいらしたんですよって。死んだ親と捨てた親は兎も角、何も何も何も知らない弟なら、死後の世界的な場所でも仲良く出来るかと思って」  赤い羽根と白い羽が、全身をくまなく覆っていく。  あの日と同じように。 「『向こう』で殺したら、同じところに逝ってくれるかわからなかったからさ。こっちでこっちでこっちで殺すつもりだったのに。お前と来たら、あーあ」  きっとシメールがこの『怪物』の姿を選んだのも、赤い少女を偲んだからなのだろうと、女はぼんやりと、そんな事を考えながら、窓の外に飛び出していく彼女を見送った。 「『わたし』だって、聖母様の事が好きだったんだよ。だから、お前の事なんて大嫌いだ」  シメールの姿は、すぐに見えなくなったし、そもそも女は、その姿を目で追おうとまではしなかった。  女の足は、食堂では無く、庭の方へと向く。  そうやって重なった要因のせいで、どこまでの人生の狂った少年が、そこで待っている筈だったから。 *  この『ゾーン』の『ゲート』となっている丸い石の前に、彼はいた。  色とりどりの、季節感をまるで無視した花々の中で、それでもひと際目立つ少年が、どこにでもあるような、金属でできた尖っていない方が丸い杭を携えて。  その姿を見つけて。  女は、何も、声をかけられないでいた。  杭の力で、髪を真っ赤に、炎のような赤色に染めたサリエラが、そこに佇んでいたからだ。 「    」  そしてサリエラは、女の名を呼んだ。  そこにある花々にも負けないくらい、鮮やかに微笑みながら。  聖母のように。 「……いくらなんでも、悪戯が過ぎますよ、サリエラ」  言いながら、女の声が震える。 「わたくしだって、理解できますよ。普通殺したら人間は死ぬんです。わたくしが殺したんですから。覚えているんですから。貴方が聖母様じゃないってことくらい」  そう、頭では理解しているのだ。  理解しているのに  それでも会いたくて会いたくてたまらなくて、一日だって忘れた事の無い、一度だって思い出せないその姿が、嘘のように、嘘であるのに、目の前にあって。  だから、ようやく、零れたのだろう。 「どうして。どうして無理だとしても。嘘でもいいから一緒に行こうって。そう言ってくれなかったんですか、聖母様……!」  女が本当に、したかった事が。  少女の願いを叶えるために、無かったものとして片付けた言葉が。  女がその場に崩れ落ちる。  『怪物』の皮膚でさえあっさりと引き裂く爪が、柔らかい土を浅く引っ掻いて、言葉と一緒に溢れ出した感情が、雫となってその上に斑点を作り出す。  それを見て、少年も。  サリエラもようやく、求めていた物を、手に入れた。  ありとあらゆる不幸が重なって。  どうしようもない死に方しか出来なかった人だったけれど。  でも、確かに。  姉は誰かに愛されて、『この世界』で、生きていたのだと。  ……姉は、ここに居たのだと。 「ごめん、姉さん」  サリエラは虚空に向けて呟いた。 「俺は頑張って、もう少し。なんとか幸せに暮らす事にするよ」  選ぶ言葉は、もう、変わってしまっていたけれど。  そうして彼は、泣きじゃくる女の元へと歩み寄って、膝をつく。  本来あるべきところへと、彼女の『武器』を、差し出しながら。 「師匠。俺。あんたの事、どう思ったらいいのか。やっぱりわからないし、化け物だとしても生き物を……殺すのは。嫌だし、怖いんだけど」  小さく、彼は息を整える。  これを言ってしまえば、今度こそ。  サリエラは、もう元の自分には戻れない。後戻りが出来ない。  両親はいなくても、元の世界に帰れば、安全に生きていける手段はいくらでも存在している。  だが  それでも 「それでも。それでもいいなら、俺を。サリエラをまだ、ここに置いててくれないかな。姉さんの望んだ世界を、ちゃんと自分の目で、見てみたいんだ」  もう、決めた事だった。  サリエラという名の少年が、決めた事だった。  女が顔を上げる。  滲んだ視界にも、やはり赤い髪と碧い瞳は、鮮やかだった。 「ねえ~、どうする~狩人さん~」  そんな中、やはりどうしようもないくらいゆったりと。  穏やかに、間延びした声が、響き渡る。 「ぼくは~、いいと思うんだけど~」 *  『デジタルワールド』  偶然によって生み出され、そのままいくらかの時が流れたこの世界にも新たな年がやってきて、同時に細やかな変化が訪れた。  各々の目的を持って訪れる者は相も変わらず後を絶たないが、そんな中で、1人だけ。  1人と1本だけだった観光客は、2人と1本に増えて。  今日もどこかでおいしい食事と、美しい景色を探している。 『0426』Fin.
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快晴
2020年11月25日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫ 6話  男は『選ばれし子供』では無かった。  男はこの世界のある意味での創造主たる零 一の部下の1人で、そういう意味では『神』よりも偉大な彼の事を、他のメンバー同様に敬愛していた。  その一方で、男は『選ばれし子供』を始めとした子供達の事を、皆に聖母様と慕われる赤毛の少女を含めて別段何とも思ってはいなかった。  なにせ彼ら彼女らは、言ってしまえば、実験動物。  零に進んでついて行くような部下だ。元よりそれらしい倫理観すら希薄だった男は、加えて子供があまり好きではなく。  子供達に風変わりな――言い換えれば、功名心を募らせるあまり、特に子供たちを顧みない施術を行う、第3棟と呼ばれる実験棟が男の所属する部署で、犠牲も多く、その分『キメラモン』の『選ばれし子供』のように特異な個体もいくらか製造されており、少なくとも男は、その事を実に誇らしく思っていた。  最も、それでも。重ねた屍の数だけは勝っても、性能に関しては、零が直接手を加えた個体には遠く及ばなかったのだが。  それでも、それは男にとっては当然の事で、大した問題では無かったのだ。  零の『最高傑作』が、零の他の作品たちも、零以外の作り上げた作品たちも、零自身をも、零以外をも、全て消し去ってしまうまでは。 「……来たか。    」  抑えようとしたにもかかわらず、女の姿を認めるなり、怒気のあまり男の声が震えた。  その震えさえも、女が神に罰された『怪物』であるが故に発生するノイズによって、掻き消されてしまうのだが。 「まあ、貴方にこれといった用事は無いんですけれどね。しかし来ましたよ。……で、結局、何番なんでしたっけ、貴方」 「貴様ら実験動物と一緒にするな。俺は」 「その言い方だと白衣連中の1人ですか。じゃあいいです。貴方がたの個体名、普通に覚えにくいので」  単眼で女を凝視する元研究者と、「しかし白衣の方こそ念入りに殺したつもりだったのですが」と回想のためかどこか上の空の女。  『ゲート』から出て以降女の2、3歩後ろについていたサリエラは、気が気でないといった表情で2人を交互に見つめていた。  『御蔵』。  見上げるだけで首を痛めそうな程巨大な白い枯れ木と、その根元に絡んだいくつもの石柱。それらがこちらも木に負けないくらい高い壁に覆われているだけの『ゾーン』。  この場所が、そしてこの巨木こそが、『この世界』に携わった人々が求めた、そして『怪物』達全ての母体たる『神』である。 「俺と、俺達の研究室に保管されていた『デジコア』の目的が一致した。だから、俺は、死ななかった」 「……。……ああ、そういえば。そういう『怪物』も居るんでしたっけ。『デジコア』だけの状態で、大した執念です。その部分だけ、あの武器屋バカの『カオスデュークモン』を見習ってほしいくらいですよ」  会話の意味が解らず首を傾げるサリエラの隣で、女は自分の胸元を見下ろしてふぅと息を吐く。  妙なところで恨みを買いがちな自分の中の『デジコア』を、自分の事は棚に上げて、見下ろしているようだった。  そんな中でも、杭の声音は、相変わらずのんびりと間延びしていて。 「でっかい木だね~。狩人さん~、これ~、おいしいの~?」 「貴方が食べると、多分、お腹を壊しますよ杭ちゃん」  彼に返答を寄越す時だけは、女の調子もいつもと変わらない。  最も、この1人と1本が目の前の男を歯牙にもかけていない事が傍目から見てもまるわかりで、そういう点でも、やはりサリエラは気が気では無かったのだが。  案の定、男は苛立たし気に唸っていて――しかし彼の視線は、ふと見やれば、女では無くサリエラの方へと向いていた。 「?」  くい、と、男が顎を動かす。  離れていろ、とでも言っているようだった。  まさか気を遣われたのだろうかと内心驚くサリエラだったが、このまま女の傍に居た所で、自分が何か出来る事がある訳でも無い。  「姉について教える」と言われてはいるが、女がどういった方法でそれを伝えてくるのかについては、今現在、サリエラには皆目見当もついていないのだ。 「あ、あの。師匠」 「ん? ……ああ、そうですね。少し、離れていて下さい。極力気を付けますが、巻き込まないと約束はし切れないので。あ、石柱には近づかないように。見た目以上に脆いですから、アレ」  とても戦闘前とは思えない緊張感の無さで普通に指示を出されて、男の方もまだ動きを見せそうにないので、サリエラはおずおずと元来た道、ゲートの側の方へと引き返す。  狭い『ゾーン』であるため、多少距離を置いたところで女の姿を見失う事は無さそうだったが。 「さて、では。行きますよ、杭ちゃん」 「うん~、がんばってね狩人さん~」  次の瞬間、轟音と共に地面が、弾んだ。 「!?」  距離を取っていたにも関わらず、サリエラのかかとが浮き上がり、そのままバランスを崩した彼はその場に尻もちをつく。  数秒遅れて顔を上げれば、女が居た場所には元研究者の男がしゃがみ込んでいて、地面に叩き付けられた右の拳が、大きな蜘蛛の巣状のクレーターを作り出していた。  女が丸太をやすやすと叩き切ったように  彼の拳もまた、化け物じみた力を備えているらしく。 「わ~、危なかったね~狩人さん~」  だが女の方も、潰れて死んでいるなんて事は当然無くて。  杭を左手に携えた女は、『ゾーン』の中央にある巨木の枝の上に佇んでいた。 「そこか」  上半身を捻り、振り返りながら口を開く男。  いっぱいいっぱいに開かれた口の前には途端に赤々と輝く光球が現れ、刹那、そこから女の方へと真っ直ぐに、光球と同じ色をした太い線が一本、放たれる。  サリエラの所にまで光線の余波が吹きつけて来て、花園を一瞬で焼いた熱波が、少年の息を僅かに詰まらせ、視界を霞ませた。  そんな中でも、女が枝から跳んで離れる残像だけは、どうにか捉える事が出来た。  今度はサリエラに「脆い」と教えていた石柱の上へと飛び移り、柱が崩れるよりも早くその場を蹴って、いくつもの残骸をそれ以下のガラクタに変えながら、女は元研究者の男と距離を詰める。  最後の一蹴りと同時に、女は杭を前へと突き出して--しかし男は右腕を胸の前に持ってくると、正確に『デジコア』を穿とうとしたが故に狙いの確かだった女の一撃を、杭の先端を逸らすようにして弾く。 「!」  そのまま男は再び、口から熱線を吐き出した。  一方、女の方も彼の次の動作は察していたのだろう。  杭を弾かれた勢いをそのまま利用し地面を転がって初撃を躱すと、再度地に付いた足で追撃が届かない位置にまで退避する。 「ごめん~、狩人さん~。思ったより硬かった~」 「いいですよ杭ちゃん。『選ばれし子供』の皮膚の硬度なんて、わたくしでもパッと見ではわかりませんから。ああ、いや、『選ばれし子供』じゃないんですけど、相手」  それに、と、喋りかけるために下ろしていた視線を上げ、女は杭を構え直す。 「彼の右手、見た目よりも攻撃の判定が大きいようですよ、杭ちゃん。少し手前くらいから穿つようにすれば、多分、貫けるかと」  台詞を置き去りにするような速度で飛び出した女と、迎え撃てるタイミングで大きく右腕を振り被る元研究者。  杭を振り下ろすタイミングと男の拳が空を切るタイミングが重なり、しかし次の瞬間には、突然可視化された光の粒子が、2人の間に飛び散った。 「!?」 「よくできました」  女は追撃を仕掛けず、男の脇を通り抜けるような形でそのまま駆け抜ける。  女の居た虚空を、また、熱線が焼き焦がしていた。 「カラクリが解っていればこんなものですよ、『サイクロモン』。デジモンの特徴がほとんど肉体に出ない『選ばれし子供』の性質を攻撃に利用した点はまあ、見事ではありますが、その程度の小細工がわたくしにも通用するとは思わない事です」 「それほどの」  男が単眼を見開く。 「それほどの才能を、何故イチノマエ教授のために、イチノマエ教授の作品のために使って! 死ななかった    !!」 「……」 「貴様が、貴様が全て壊したんだ!! あの方は、貴様さえいなければこの世界の『神』であった筈なのに!!」 「『神』とは聖母様の子の事でしょう」 「それを貴様が潰したんだろうがッ!! 貴様が死ねば良かったのに!!」  冷めた言葉選びが、男の精神を逆撫でする。  激昂が咆哮となって『御蔵』の空気を揺るがし、思わず耳を塞ぐサリエラだったが――  その動作の合間に、元研究者の男の右腕は、宙を舞っていた。 「……は?」 「死ねませんよ」  くるりくるりと回る腕が、『御蔵』の枯れた根の上に大雑把な赤い点描を描く。  一方で残された肩口から噴き出した血は、右手の代替品を描こうとして、ただただ地面と女の黒い作業着に零れ落ちるばかりだった。 「そういう命令ですからね」  見た目以上に大きな音を立てて、男の腕が地面に落ちる。  その音を合図に、女は胸元にまで引き寄せた。  先のような切り落とす一撃では無く  杭本来の、指し穿つ一撃を、今度は、男のデジコアに放つために。  そこから、肉に穴を開ける湿った音と、骨を破砕する乾いた音が同時に鳴るまでは、『御蔵』の空間はひどく静かで 「……師匠?」  その音さえ途絶えてから、ある種ノイズのようなサリエラの声が、その場に零れ落ちた。  元研究者の男の外套が翻り、  ごぽ、と。  女の喉から、せり上がったものが噴き出す、嫌な音がした。 「師匠」  二度目の問いかけにも、女は応えない。  応えられる筈も無かった。  『男の右腕が見た目以上の攻撃範囲を誇っていたのは、男の中にある『デジコア』--『怪物』・『サイクロモン』の種族的特徴によるものだ。  そして今、女の胸の中央を貫いている男の左腕の肘より先が、ワイヤーに接続された状態で前へと飛び出しているのも、『怪物』に由来した力である。  男の左腕――かつての虐殺の際、女と杭に片眼を潰され、そして奇しくも右腕と同じように切り落とされた左腕の、代替品として用意した義手。  サリエラが『この世界』で姉を探すために『手袋』を身に付けたように。  男と男の『デジコア』が真の意味で復讐のために選んだ『武器』が、その義手だった。  その腕は、『トライデントアーム』と。本来はそんな名で呼ばれている。 「師匠!?」  ようやく事態を理解しないまでも認識したサリエラの声が悲鳴に変わる。  女がその呼びかけに応じて頷いたように見えたが、ただ単に、ワイヤーが引き戻された事によって女の身体が強く揺さぶられただけだった。  杭だけは、突き出そうとしていた腕がだらりと垂れ下がった今になっても握り締めたままだったが。  それでも、一切返ってこない反応と、背中まで貫通した男の腕は、彼女がもはやどうしようもない事を、何よりも雄弁に物語っていて。  その一方で、男は。  しばらくの間、サリエラ以上に理解の追いついていないような顔で、先程とは全く別の理由で目を大きく見開いていたが。  やがて 「は。はは、はははははは、ははははははははは」  笑い始めた。  「女をあっさりと殺せてしまった」という事実を受け止めきれずにいたものの、義手であってもしっかりとその感触を伝える『武器』の性能そのものが、ほぼ強制的に女の死を彼に認識させる。  それらが入り混じった混乱に突き動かされて、彼は敬愛するイチノマエの生前以来の大声で、兎にも角にも、笑い続けた。 「ははははははは! やった、やったぞ、やりましたよイチノマエ教授!!     め、何が「死ねない」。殺した、俺が殺した、殺してやったぞ! ざまあみろ、死にやがった、あの化け物!!」 「っ」  死んでいる。  女が死んでいる。  過ごした時間は僅かとはいえ、それでも「死」とはあまりにも無縁に見えた女の状態について、他人の口から聞かされて、『ゲート』付近から身を乗り出していたサリエラが、思わず息を呑む。  小さな音だった。  それなのに、ぐるり、と元研究者の男は首を、突如としてサリエラの方へと向ける。  単眼は、弧を描いていた。 「ああ、よかった。まだ居た。そのままそこに居ろ。貴様、赤毛の親族だろう」 「!」  赤毛。  姉の事だと、少年は理解する。 「赤毛の血縁なんだろう。つまり、アレとおおよそは同じ血なんだろう? なら、貴様にも! 『神』のデータを移植できるかもしれない!!」 「……は?」  だが、続いた男の言葉に関しては、彼の理解と言うか、許容範囲を超えていて。 「な、なに」 「待っていろ、『コレ』を外してそっちに行く。貴様は俺と一緒に来い。性別が合致していないというのは惜しいが、何、『この世界』ならデータを操作すればどうにでも出来る!! イチノマエ教授、俺は、俺はやり遂げますよ、継ぎます、貴方の遺志を!!」  単なる復讐だと、少年は思っていた。  この男が望んでいるのは、女への復讐だと。  だが、それは事実ではあっても真実では無い。  男の狂信を成し遂げる過程に、女への復讐があっただけだ。  故にこそ、果たされた復讐の証拠にはもはや興味も用も無いと言わんばかりに乱雑に女の骸を『武器』から引き抜こうとして  そうしながら、恍惚の表情で次の狂信を果たすための道具――姉の物だったかもしれない名を名乗る少年を見据えているのだ。この男は。  そのあまりに異様な空気に、もはや揺さぶられた時以外にはぴくりとも動かない女の姿に。  引きつった呼吸と早鐘のように打つ心臓の音しか届かなくなり始めた少年の耳に 「狩人さん~、起きて~」  あんまりにも場違いに、のんびりと間延びした声が、まるでこの空気を引き裂くかのように、響き渡った。  今になっても、女は杭を、握り締めたままだった。 「狩人さん~、起きてってば~」  杭の声はあくまでのんきなものだった。  男の手まで、思わず止まる。 「この人~、なんだかすごい事言っちゃってるよ~。サリエラがピンチだから~、早く起きて~」 「う――うるさい!!」 「わっ」  ただ、すぐに我に返りはしたらしい。  男が杭を怒鳴りつける。 「    は死んだんだ、『武器』風情がやかましい! ……というか、何だ。『武器』の癖に喋るな、気色の悪い! 義手を抜いたら貴様の事も叩き」  折ってやる。  その発言自体を叩き潰すかのように、男の左肩付近に衝撃が走った。  男の望み通り、女の身体が彼から離れていく。  ただし、女を貫いたままの自分の義手ごと、だ。  自分を突き飛ばしているエネルギー体の形が、まるで獅子の顔を象っているかのようだと、そう、気付いたのとほとんど同時に 「うぐぇ!?」  圧し潰された肺から、空気が噴き出した。  そのまま背中から倒れる男を目で追っていたサリエラが、獅子型の衝撃波の出所へと目を向けるなり、肉の膨れ上がる音と、骨が差し込まれる音と、金属が砕けては零れ落ちていく、そんな、当然今まで聞いた事も無い途方も無く嫌な音が何重にも響き渡って。  その中央に、女が2本の足で、立っていた。  鳴り響く全ての音は女の肉体が再生する音で、それとは反対に、元通りになる身体に圧し潰されて吐き出されながら、男の『武器』だった義手がバラバラに砕け散っていく。 「げほっ、ごほっ、ごほっ!」  文字通り「息を吹き返した」女の肺が、気管に残る血を吐き出す。  全て吐き出して、代わりの酸素を取り込むように深呼吸して。  上半身を起こした女は、特にこれといった感慨も無さげに、尻をついている男の事を、見下ろした。 「良かったですね。お望み通り、1回死にましたよ」 「……は?」 「は?」  この時ばかりは、男もサリエラも、同じ1語しか吐き出せなかった。  当然である。死んだ生き物は、生き返らない。  それはたとえ『怪物』であっても、心臓が怪物の『デジコア』に取って代わられている『選ばれし子供』にしたって、同じ事だ。  だというのに、この女は。 「避けようかとは思ったんですけどね。貴方、ずっと左腕を隠していたでしょう。そこに『武器』があるのは正直見え見えでした。やましい事があるから隠すんでしょうに。……ただ、それをすると先にわたくしの方が貴方を殺してしまいそうだったので。多少なり気が住んだらこっちの話を聞いていただけるかと思いましてね。なので、避けないで1度死ぬ事にしました」 「も~、だったら先に言っといてよ~。それに~なかなか起きないから~ちょっと焦ったんだからね~?」 「それは、その。はい。すみませんでした、杭ちゃん」  無茶苦茶だと思った。サリエラはそう思った。  言っている事の理屈も道理も解らないと、そう思った。  ただ――女が最初から意味の解らない、無茶苦茶な存在だと、それだけは先に知っていたからか。  今回だけは、元研究者の男の方が、混乱の具合は酷かった。 「な、きさ、な。なぜ、なぜ生きて」 「他ならぬイチノマエと、そして『神』に押し付けられたんですよ。貴方の敬愛するあの老害共にね」  女の蘇ったばかりの声音に、あからさまな不機嫌が混じった。 「わたくしの『デジコア』の主の事は知っていますね『サイクロモン』。『レオモン』--貴方の『デジコア』の原初となったデジモンの片目を潰したデジモンです。……それ以外にもこの『怪物』、『怪物』の癖に妙な正義感があるとかなんとかで、「余計な事にちょっかいを出しやすい」性質を持っていましてね」  女は肉体とは違ってそのままの、黒い作業着の穴の縁を軽く指ではじいた。 「だから、「死にやすい」んだそうです。『神』の元いた世界でも、ありとあらゆる『レオモン』が、それに連なる近縁種が。様々な理由で身の丈に合わない強敵との死闘を演じて、そのまま死んでしまうのだと」 「説明に、なってな――」 「しかしそのせいで『レオモン』という種は、設定されていたデータ量以上に『死の因果』を使い過ぎたとか、なんとかで。どこかでそれを釣り合わせなければならないとなった時に。……丁度、押し付けられるとなったのが、わたくしとその『デジコア』だったようです」  なので、それ以来死ねなくなってしまいました。  事も無げに、女はそんな事を言うのだった。 「そ、そんな馬鹿げた話があってたまるか!!」  そして、そんな説明で男が納得する筈も無い。男でなくても納得はしないだろう。 「仮に、仮にそんな事が可能だったとして、貴様はそんなものでは無かった筈だ。イチノマエ教授が作った貴様は」 「そうですね、馬鹿げた話ですよ。わたくしもそう思います。というか、実際再生能力についてはわたくし由来じゃないですし。とりあえずちゃんと理由もあるので黙って聞いて……いえ、見ていなさい」  サリエラ、と。  ここに来て、女が少年の方を見る。  赤茶けた瞳はまっすぐに、少年の碧い瞳を見つめていて。  口元は、僅かに微笑んでいて。 「これが、貴方の姉が。聖母様が遺した物なので」 「……」 「貴方もちゃんと、見ていて下さいね。そのために来たんですから」  少年がその意味を問いかける前に  男が疑問に喚き始める前に  女は杭を、右手に持ち替えた。 「『獅子王丸』」  そして女は、自らの『武器』の名を呼んだ。 「杭ちゃんを外に出してあげて下さい」  花が。  白い花が、咲いたのだと、サリエラは一瞬、そう見紛った。  女の『武器』としての杭がその先端から割け、純白の内側をさらけ出す。  サリエラの目にはそう見えただけで、実際のところ、これは花では無い。  これは、若木だ。  芽吹いてからまだ間もない、瑞々しい白い木が、枝葉を伸ばして脱ぎ捨てた『武器』の殻と女の右半身を覆う。  それに呼応するように、女の髪も木肌と全く同じ、真っ白な物へと変貌する。  ……全ての変化が。  女と杭の『進化』が終わるころには。  彼女の右目は、失った物を補うかのように、赤い色に変わっていた。 「なんだ」  震えた男の声が 「ソレは」  問いかける。  彼の単眼はせわしなく、今や女の右腕と化した若木の表皮と、『御蔵』に座した巨木のくすんだ木肌の色を見比べていた。 「『バグラモン』」  女は『怪物』の名を答える。  だが、男にとって、その行為に、名に、意味は無い。  女の右腕――『武器』の正体以上に大切な事柄など、在りはしないのだから。 「ああ、ああ」  そして女から、その白い『怪物』から何故か目を離せないでいるサリエラとは違い、元研究者だった男は、なまじ知識があるだけに既にその腕がなんであるかを理解していた。  彼の狂信の果てにあるモノは、既に存在していたのだと。 「そう……か。そうだったのか」  右腕を失った際の出血で青ざめていた顔が、それでも興奮で紅潮する。 「ああ、ああ! 見て下さいイチノマエ教授! それとも、貴方は御存知だったのですか!?」  両腕の無い身体でもがくように起き上がり、縋りつくように、男は『バグラモン』へと這い寄っていく。 「貴方の、悲願は」  『バグラモン』の長い右腕が、そっと男の胸を掠めた。  それだけで、男は凍り付いたかのように、身体の全てをその場に固定される。  ……引き戻された白い手の平には、ぼんやりと光る球状の何かが、浮かんでいて。 「『アストラルスナッチャー』」  吐き捨てるように、そう呟いて。  炎よりも赤々とした瞳で、冷めたように、見下ろして。  女は手の平の上で、球を粉々に握り潰した。  男は二度と、動かなかった。 * 「……とまあ、そういう訳ですサリエラ」  長い沈黙を経て振り返った『バグラモン』は、そう言ってサリエラに微笑みかけた。 「いや」  少年は声を絞り出す。 「どういう訳なの?」  本気で解らない、と言いたげな少年の心情を流石に汲み取ったのか、『バグラモン』はぽりぽりと生身の左手で白い髪を引っ掻いてから、彼の方へと歩み寄り始める。 「あの男は『神』の子こそがイチノマエの悲願だと言っていたのですがね。実際のところ、そうでは無かったのですよ」 「え?」 「所詮は、壊れた神の破片を女の腹の中で培養しただけのモノです。……満たしていなかったんですよ、イチノマエが望む、『この世界』の管理者としてのスペックを。『神』の子は」  イチノマエは、生まれてきた子にほとんど死なせる前提で、様々な実験を施す気でいました。  ……そんな事を言いながら、『バグラモン』は少年の前で立ち止まる。 「聖母様は、偶然、その事を知ってしまったのですよ。……いや、知ってしまった時のシチュエーションそのものはわたくし、聞いていないので。あの男の事です。イチノマエが直接聖母様にその事を教えた可能性もありますね。あいつ、クソ野郎でしたから」  だが、聖母が誇りに思っていた事自体は『神』の子を産む娘として選ばれた事だったとしても。  聖母が望んでいたのは、産まれてきた子供の輝かしい未来と、幸せだった。  経緯そのものは人並みも、人の道をも外れていたけれど。  彼女の願いは、どこまでも月並みだったのだ。 「『レオモン』の『武器』・『獅子王丸』はね、サリエラ。意思を持つ妖刀なんですよ。わたくし、実のところ素手の方が強いので、それまで『武器』は持たないスタイルだったんですよね。……だから、その時は。わたくしが最初に『武器』として認識した物を、自動的に意思を持つ妖刀に出来る状態でした」  『バグラモン』が、少年へと右手を差し出す。  霊木の手を。……後に神木となる手を。 「わたくしは『獅子王丸』にした杭で聖母様のお腹の中の子を刺し殺し、そのデータを『獅子王丸』に頼んで保管し、育てるよう、聖母様に命令されました。……その後『この子』を育てる障壁になりそうなものを事前に全て取り除いたのは、まあ、わたくしの独断でしたけれどね」  サリエラは、促されるまま『バグラモン』の右手に両手を添える。  それがもはや抜け殻となって動かない『サイクロモン』の男の中から、何か大切なものを奪い取ったに違いない『武器』であるにも関わらず、少年は、そうせずにはいられなかったのだ。 「これが、貴方の姉の子供です」  少年の唯一の肉親が、そこには居た。  ……それ以上の事を、サリエラは、どうすればいいのか解らなかったのだ。  ただ、姉が無意味に殺された訳では無いと、そう思う他無い真実が、目の前にあるだけで。 「……師匠はさ」 「なんでしょう」 「どうして、姉さんの頼みを聞いたの?」 「……」  不意に押し黙った『バグラモン』の影が揺らぐ。  そのまま、霊木の右腕は風に流される砂のように掻き消えて、杭と、いたって普通の、人間のモノにしか見えない女の腕が現れる。 「きっかけが、何であれ」  やがて、女が口を開く。 「聖母様の事を、心から慕っていたからだと。彼女の願いを叶えたかったのだと。……そう言ったら、貴方は怒りますか? サリエラ」  女の髪だけは、一瞬では元には戻らないらしい。毛先から徐々に黒い色を取り戻しつつはあるが、まだまだ白い髪のままだった。  犯した罪を、引き摺るかのように。 「……わからない」  だから、サリエラも、今は、何も。  言葉を、用意出来なくて。 「少しだけ、考えさせてほしい」 「……わかりました」  と、女はそっと、サリエラの方へと杭を差し出した。  杭に手を添えていた少年は、そのまま杭を受け取る。 「少しの間だけ、預かっていて下さい。……次に寝たら、わたくし、数日は目を覚まさないと思うので」 「えっ」 「いや、驚く事は無いでしょう。いくら『デジコア』が不死だとは言っても、再生は杭ちゃんの『神』の子としての能力由来なので、普通に堪えるんですよ」 「い、いや……その感覚全く解らないんだけど……」  女なりのジョークなのか、本気で言っているのか。  いつものように判断の付かないまま、『ゲート』へと引き返し始めた女の背中を眺めていたサリエラは、ふと、手の中へと視線を落とす。  杭は、女と杭が『バグラモン』になって以来沈黙したままだ。 「安心して下さい。杭ちゃんは少し疲れて眠っているだけですから。通常通り、明日の朝には目を覚ましますよ」 「そう……なの?」 「ええ。……なので、わたくしが寝ている間。親族同士、お喋りでもしていてください。積もる話も、あるでしょう?」 「……」  そうは言われても、というのが。  結局のところ、サリエラの率直な感想なのだけれど。  ただ、どうにせよ 「さあ、一先ず『宿』に帰りましょう」  少年は、次に向かうべき場所として  女の背中を追う事を、この時彼は、迷わなかった。
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快晴
2020年10月17日
In デジモン創作サロン
 夕刻。土砂崩れで抉れた崖の間際。影を1つ見つけ、私はその場に降り立った。 「空を、飛んでみたかったの」  ここで何を、と問いかけた私に、振り返った見知らぬデジモンは、愛想だけでどうにか取り繕ったような笑みを浮かべてそう答える。  不思議なことを言う。  このデジモン。姿形は強いて言えばリリモンに似てはいるが、彼女達のような華やかさは一切無い。  髪は夜の帳よりも黒く、顔は青白く。暗がりを住処とする『ナイトメアソルジャーズ』の連中よりもさらに色みの無い装束を身に纏っており、それから何と言っても、私の確認した限りでは、翼や羽に該当する器官は見受けられなかった。  そんなデジモンが、どうやって空を飛ぶと言うのだろう。 「言ったでしょう。飛んでみたかった、って。飛べるなら、そんな事は言わないわ」  貴方はいいわね。立派な翼。私を見上げて、しかし羨望と呼べる感情を抱いているとはとても思えない表情で、抑揚無く謎のデジモンは呟いた。  とはいえこのデジモンの本心がどうであれ、これが自慢の翼なのは事実である。  私は大きく、赤々と燃え上がる羽を広げた。  幼年期や成長期のデジモンと比べればある程度は大きいが、それでも十分に小さなそのデジモンが、すっぽりと、私の明るい影に覆われてしまう。  私が少しでも強く羽ばたけば、風圧で崖から落ちるよりも前に、翼から零れ落ちた炎でたちまち焼けてしまうだろう。そのくらい、このデジモンは小さかった。  空を飛べる、というのは本当に、気分が良い。  仲間達の中には進化の段階で飛べない種へと変わってしまう者も多く、故にこそ、鍛錬を重ね、今現在のこの姿――バードラモンに至った時。私は文字通り、身も心も、舞い上がったのだ。  で、あれば。このデジモンが空に思いも馳せるのも当然ではあるか、と。  私は機嫌よく、答えをわかり切ったつもりで、なおもかのデジモンへと問いかける。  どうして、空を飛びたかったのか、と。  しかし、しばらく悩んだ素振りを見せた謎のデジモンから返ってきたのは、いささか私の予想からは外れた答えだった。 「私、ブンショウを。……書くのが、好きだったの。だから、その参考にしてみたくて」  ブンショウ。  聞いた事も無い言葉だった。  それは何だ、と私は問うた。  思いもよらない返答に、胸のあたりがざわついた。  ブンショウが何かはよくわからないが、それが「空を飛ぶ事」では無いのは理解できた。  とすれば「ブンショウを書く」というのは、私がその昔焦がれ、今も愛してやまない「空を飛ぶ」という行為さえ通過点にしてしまうモノなのではないか。  そう思うと無性に腹立たしくて、しかし、見た事も無いデジモンが言う謎の行為に、興味を引かれないと言えば、それも嘘になって。  だから。尋ねたその時、私の口調は、少しだけ。強いものになっていたようにも思う。  すると謎のデジモンは、ほんの僅かに眉を寄せて、それから静かに目を伏せて、たっぷりと間を置いてから、朝露に濡れた花を思い起こさせるような、やるせない笑みで私を見上げた。 「私は教えるのが下手だし、一言では。ううん。それなりに時間をかけても、説明するのは、難しいと思うの。それでもいいなら、明日から。同じ時間に、同じこの場所に来てくれたら。私にお話出来る範囲で、ブンショウについて、教えてあげる」  わかった。と私は頷いた。  食事を必要とする時間でもなければ、何か予定がある訳でも無い。  空を飛ぶ力を得、姿形も巨鳥となり、燃え盛る翼をわざわざ獲物にしようとする天敵も、今やこの森にはそういない。  逆に非捕食者という立場ではこのデジモンの方が危うそうではあったが、しかしそれについて尋ねるよりも前に、謎のデジモンは「その代わり」と改めて口を開いた。 「私がブンショウについて教え終わったら、その背に私を乗せて、空を飛んでほしいの」  私は驚いた。  そんな事をすれば、このちっぽけなデジモンは、たちまち私の炎に焼き焦がされてしまうに違い無いからだ。  敵対者であればいざ知らず、私は好き好んで自分よりも弱いデジモンを焼き殺すほど、残虐な振舞いをするデジモンでは無い。  だというのに、私がその旨を伝えても、謎のデジモンは小さく首を横に振るのみであった。 「いいの、それでも。私は、別に」 *  さて、そういう訳で次の日から、この奇妙なデジモンの「ブンショウ」語りに、私が耳を傾ける日々は幕を開けた。  曰く「ブンショウ」とは、言葉を文字に書き起こしたモノなのだそうだ。  とはいえよくわからない事に、「ブンショウ」というのは文字を書くだけではなくて、自分が見たり、ただ考えたりしただけの風景や物事を、誰かの心に訴えるために使われるらしい。  そんなもの、私とこうしているように、直接喋って伝えれば良いのではないかと思ったが、「同じ話を全く同じように、複数の相手に別々にするのは難しいでしょう」との事で、なるほど、それは確かにその通りだと、納得する他無かった。  では、絵にすればもっと解り易く相手に伝えられるのではないか。と問えば、今度は私が謎のデジモンの似顔絵を爪の先で地面に描かされて、口で言うのと実際にやるのとでは全く違ってしまうのだと思い知らされる羽目になった。  目鼻の位置だけは辛うじて、逆を言えばそれ以外の情報をまるで伝えられない私の絵に「まあ、やっぱりブンショウでも、ちゃんと伝えられるとは限らないんだけどね」とそう述べて、謎のデジモンは長らくその絵を眺め続け、私はなんだか、その内このデジモンを乗せる事になる自分の背が、むずむずと痒くなるような感覚を覚えるのであった。  ところで謎のデジモンは、本当に生態すらも謎に包まれていて、約束の時間以外に崖の付近へと寄ってみても、まるで姿を現さないのだ。  時々顔に痣を拵えているところを見ると、全く戦闘をしないデジモンという訳では無いのだろうが、解る事と言えばそれだけで。  直接聞こうにも顔を合わせている間は「ブンショウ」の話だけで時間がいっぱいいっぱい使われてしまって、話が終わった後にこのデジモンがどこに消えるのかさえ、私は知れないままでいた。  なのである時、朝早く。私はこの森で一番の物知りな、巨大なジュレイモンの元を尋ねた。  しわがれ声で、燃え盛る私に必要以上に近寄らないよう何度も言い含めるジュレイモンに拙いながらも謎のデジモンの特徴を伝えると、曰く、見た目の詳細は解らないが、デジタルワールドのどこかにはエカキモンという絵を描く事を己の能力とするデジモンが居て、ひょっとするとそのデジモンはエカキモンの亜種で、字を書く事を得意とするならば、ジカキモンなるデジモンなのかもしれない。との事だった。  その日の夕方。思い切って、謎のデジモンにお前はジカキモンなのかと尋ねると、謎のデジモンは片方が青い痣で縁どりされた目の中に在る、古木の色をした瞳を大きく見開いて、それから、「そうなのかもしれないわね」と、可笑しそうに微笑んだ。  私はきっと、このデジモンはジカキモンなるデジモンではないのだろうと思ったが、本人が否定も肯定もしてくれないので、このデジモン自身が何かを言う出すまでは、ジカキモンと呼ぶ事に決めた。  ジカキモンは兎に角、よくわからない、不思議なデジモンだった。 *  ジカキモンから「ブンショウ」について習い始めて、何日が経っただろうか。  いつもの場所に私が降り立つと、ジカキモンは崖の縁に腰かけて、足をぶらぶらと揺らしていた。  ひざ丈の黒いスカートと同じく黒色の靴下の間に見える白い肌には、顔に時折あるのと同じ青紫色の痣があって、ほんの僅かに、他のヶ所よりも盛り上がっている。 「ああ、御機嫌よう」  振り返って目を細めるジカキモンの上半身を、私は呆れ顔のまま嘴で挟み込む。  縁には鋭い牙があるものの、怪我をさせない力加減くらいは解っている。それに少なくとも、燃えている箇所やかぎ爪で触れるよりは、安全に違いなかった。  なるべくジカキモンに負担を与えないよう細心の注意を払いながら、ぎりぎり自分の翼が山の木々に引火しない範囲で、崖際からなるべく離れた位置にまでジカキモンを引き摺って行く。  嘴を開いてから首を持ち上げると、ジカキモンは私の涎に塗れた顔を服の裾でぬぐいながら、「心配かけてごめんなさいね」と、謝罪の念などこれっぽっちも籠っていない声音で、軽薄にからからと笑うのだった。  このデジモン、以前にも同じような事をして、あの時は本当に崖から落ちかけたのだ。  こんなに赤々と燃える身体なのに、その時は自分の中身があっと言う間に凍り付いたような気がして、その時も咄嗟に私はジカキモンを、今よりはずっと乱暴な形になってしまったが、嘴で咥えてこちらに寄せたのだった。  「痛い」と顔をしかめたくせに、ジカキモンが抑えたのは私の歯形が付いたのとは別の箇所で、どうにも、怪我をして弱っていたらしい。  そんな時に、こんな真似を。空を飛べないのにするんじゃない。私がいなければどうするつもりだったんだ。そう咎めても、ジカキモンはただ困ったように、「心配してくれるのね。あなただけよ、ありがとう」と見当違いな礼を述べるばかりで。  おかげでその日の「ブンショウ」の話は、ほとんどが頭に入って来なかった。  辛うじて、ジカキモンが崖から落ちかけた時の感覚は、ジカキモン風に言うと「キモが冷える」になるという事だけは覚えたが、これは出来れば二度と同じ感覚を覚えたくは無かったからで――だというのに、ジカキモンはまた同じことをしていたのだ。  キモが冷える、と。私は恨みがまし気に呟いた。  キモが何なのかは、いまいちよく解らないにもかかわらず、だ。 「ごめんなさいね」  ジカキモンは繰り返した。  その様子が何故だか、むしろ嬉しそうなくらいで、私はジカキモンがきっと私をからかっているのだろうと少しばかり腹を立てる。 「本当に、ごめんなさい」  だが、彼女が僅かに声のトーンを下げたのを聞いて、小さな怒りの灯火は、あっという間に掻き消えた。  時々。本当に、時々。  ジカキモンはこんな風に声色を変えては、私の感情を書き換えてしまうのだ。  だから、もう怒っていないと。私は素直に、自分の中の今現在を伝える。  ジカキモンは、首を軽く横に振った。 「いいえ、ごめんなさい。今日は……また、少し、飛びたい気分だったの。なんていうのかしら。泳げなくても、足を水に浸けると、水の感覚を知る事は出来るでしょう? そういう感覚、のつもりだったのだけれど……伝わっているかしら?」  私は頷いた。  この山の麓は水源が豊かだ。私は泳ぐ種でこそ無いが、あの冷たいせせらぎに足を浸した事はある。  そう言われてみれば、ジカキモンの行動も、全く意味が解らないという訳でもないなと思った。 「そう。なら、良かった。自分の考えや思いが伝わるのは、とても、嬉しいわ」  それは、ジカキモンが時折口にする言葉だった。  自分の考えや、思いが伝わる。それが「ブンショウ」の醍醐味なのだと、ジカキモンは何度も、口にするのだ。  そう言う時は決まって、ジカキモンはほっとしたように、本当の意味で、笑顔を浮かべている。  だから私は、ジカキモンがその言葉を使う瞬間を、いつの頃からか、好ましく思うようになっていて。  だから、だろうか。  私はふと、ジカキモンにひとつ、提案してみる事にした。  今さっきまで、崖際に腰かけて足をぶらぶらと振って。  その中で、ジカキモン自身が感じた「空」を、ブンショウにして私に伝えてほしい、と。  私は、そうジカキモンに懇願した。  思わぬ提案だったのだろうか。  ジカキモンは、私がこのデジモンの名前がジカキモンなのかと問うた時のように、また目を見開いて。  それから、しばらく間を置いて 「わかったわ」  と、私の頼みを承諾した。  そうして。少しの時間。  ジカキモンは山の麓に広がる森と、青色と赤色が両方ある夕刻の空を、眺めていた。  やがて、彼女は口を開く。  空を飛べないジカキモンは、なのに、自分が空を飛んだ時の「ブンショウ」を話し始めた。  だが、誰がそれを嘘つきの妄言だとなじる事ができようか。  少なくとも私の中に、そんな事をしようという考えは微塵も思い浮かばなかった。  ジカキモンは、空を飛んでいた。  今、丁度この時刻。赤の空と青の空を隔てる紫の雲の隙間を、深緑の森を見下ろしながら、鳥型のように、ではなく、風に舞い上がった花弁のように、飛んでいた。  自由に、自由に、飛んでいた。  それは、私のかつて見た夢だった。  実際に翼を得る前に、出来得る限り高い木の枝に登って、いつか征くのだと夢見た空の景色だった。  私は、その世界が欲しくて。  欲しくて、たまらなくて。  だから 「……どうして泣いてるの?」  「ブンショウ」を語り終えたジカキモンが、あからさまな困惑を浮かべて私に問うてくる。  懐かしいのだと、私は答えた。  オマエが語り聞かせてくれたブンショウは、空を飛びたいと、ただそれだけを願っていたあの頃に見ていた景色なのだ、と。 「そう」  でもね。  そう言って、ジカキモンは自分の「ブンショウ」を否定する。  もっと上手なヒトがいる、と。自分のは、これっぽっちも、才の欠片も無い、つまらない、くだらない「ブンショウ」だと。さも当然のように、ジカキモンは言うのだ。  そして最後に、「あなたのはじめての「ブンショウ」が、私なんかのになってごめんなさい」と。  崖から落ちそうなあの時よりも。ずっとずっと申し訳なさそうに、そう、言うのだ。  どうしてそんな事を言うのだろう。今度は悲しくなって、涙が出た。  目元から零れるなり、私の涙はじゅう、と音を立てて、蒸発する。  胸の中にはまたおかしな感覚があって、しかしこれは、「キモが冷える」とはまた違ったものなのだろうという確信があった。  ああ、ならば。  私は再び、ジカキモンに問うた。  もしも私がジカキモンを背に乗せて飛ぶ事が出来れば、ジカキモンの「ブンショウ」は、もっと素晴らしい物になるのだろうか、と。 「わからないわ」  ジカキモンは首を横に振る。 「わからない。……でも、そうね。私は、あなたの背に乗って飛びたいわ」 *  その日、私は夢を見た。  ジカキモンと2人で、空を飛ぶ夢だ。 * 「ジカキモン!」  声がどうしようもなく弾んだ。  ジカキモンは今日も崖際に腰かけていたが、私は咎めようとは思わなかった。  何せ、今日は今までよりもずっと丁寧に、彼女を安全な場所へと引き寄せる事が出来るからだ。  爪の先には注意が必要だが、少なくとももう二度と、彼女を焦がしてしまう心配はいらない。 「あなたは」  そっと手の平に乗せたジカキモンが、困惑したように私を見上げる。  まあ、仕方の無い事だろう。  私の姿は、昨日までとはまるきり変わってしまっているのだから。 「すごいだろう、進化したんだ」  朝、目が覚めると。私はこの姿になっていた。  バードラモンよりもさらに巨大な、赤い鳥。完全体のデジモンだ。  ……だが、さらに高みの姿となれた事以上に、私の胸を躍らせたのは 「どうだろうか、この姿は、オマエに少しだけ似ている」  炎でジカキモンを傷付けない姿になった事はもちろんだが、2本の足で立ち上がり、翼とは別の前脚があるこの姿は、大きさや形の差は有れど、シルエットだけを見れば、ジカキモンに、そっくりだった。  それがなんだか、とても、とても嬉しくて。 「……そうね」  しかしジカキモンの方は、どうも私の進化を芳しく思っている風では無い。  その事実は一瞬、胸の中で靄となりかけたが……ただ、まあ。ジカキモンからすれば、バードラモンの姿の私に慣れているのだ。突然それが完全体となって現れれば、困惑するのも無理はない。  私は、そう判断する事にした。  そう、その程度は、些事なのだ。 「ジカキモン」  私は手の中にすっぽりと納まる小さなジカキモンに、嘴を寄せて、囁いた。 「この姿は、オマエを燃やしたりしない姿だ。心配する事は、何も無い。だから、今から。私と一緒に、空を飛ばないか」  ジカキモンは、今度こそ仕草にも驚きを表した。  私は首を傾げる。 「何をそう驚く事がある? 「ブンショウ」の話がまだ終わっていないからか? だが、オマエは私と約束しただろう。今が、その時だ」  ジカキモンは、しばらく、黙って。  やがて顔を上げたかと思うと、やはり困ったような顔で、 「少しだけ。ちょっとの間だけ、待っていてくれる? すぐに、戻るから」  枯れたような声で、ジカキモンは、そう言った。 「……わかった」  ひょっとすると、今日はジカキモンにとっては、飛びたい日では無いのかもしれない。  そう思って、私は肯定のすぐ次に、明日でも、明後日でもと言葉を足す。  だが、それにはジカキモンは首を横に振った。 「いいえ、少しでいいの。必ず戻るから、ここで、待っていて」  私に手の平から降ろすように促して、それから、ジカキモンは背後に広がる林の奥へと、私の方を振り返らずに駆けて行く。  長く、待っていたように思う。  だが夕陽が沈み切っていない様を見るに、大して時間は経過していないのだろう。  それでも「お待たせ」と背後から声がした時に、自分の中で何かが何度脈を打ったのか、それすら判らない程の時が流れたのだ。  振り返り、今度は私が目を見開く番だった。  ジカキモンは、髪や目、肌の色こそ変わらなかったが、それでも、いつもよりもずっと、それこそ花のように色鮮やかな衣装を身に纏っていた。  やはり、空を飛べそうな装束では無かったのだが――それについては、むしろ安堵する自分も居て。 「オマエも」  私は膝を降り、僅かにではあるが、ジカキモンに視線を寄せた。 「進化したのか?」 「いいえ」  ジカキモンは眉をハの字に寄せ、口には弧を描いた。 「私は飛ぶ事だけじゃなく、成長する事も出来ないの」 「だけど、オマエは綺麗だ。いつもより」 「そう」  誤魔化すように、ジカキモンの眼が細められる。 「だったら、頑張った甲斐くらいは、あったのかもしれないわ」  そう言うなり、ジカキモンはすぅ、と私の方へと、手を差し出した。  指先には、四角い形を取るよう折り畳まれた空色の紙が挟まれている。 「これは?」 「封筒よ。中に、手紙が……私の書いたブンショウが、入っているから」  ここに戻ってきたら読んで、と。  ジカキモンは、私にそれを直接は渡さず、履いていた靴を脱ぐとそれを重石の代わりにして崖の間際に置いた。 「さあ、行きましょう。あなたの背中に、乗せて頂戴」 「手の上の方が良い。その方が、安全だ」 「いいえ、背中が良いの。あなたの背中が。あなたの翼の間に腰を下ろして、金色の髪を、しっかりと握ってみたいの」  ジカキモンは頑なに、背中が良いと言って譲らなかった。  何度かは説得を試みた私も流石に折れて、四つん這いに近い姿勢になって、ジカキモンを、背に乗せる。  ジカキモンが乗った事を確認して、私は立ち上がらないまま地面を、崖を蹴る。  翼を広げて、ばさり、ばさり。  私とジカキモンは、空を飛んだ。  ジカキモンを待つ間に、昼の青色は夕焼けの赤色に塗り潰されて、私はそれを、火が燃え広がったようだと考える。だからまるで、昨日までの自分を高い所から見下ろしているようで、気分が良かった。 「どうだ、ジカキモン」  私は背中の小さなデジモンに問いかける。 「お前は空を、飛んでいるか?」 「ええ」  バードラモンの時よりも遥かに速く跳べる筈の翼をゆったりと動かしているからか。風も無く、ジカキモンの声は、思ったよりもよく聞こえた。 「ええ、ええ。……そうね」  ぎゅ、と、金の髪をジカキモンが握り締めているのが解る。痛くは無いが、初めて誰かを乗せる背は、どうにもこそばゆい。 「私、幸せよ。今が一番幸せ。今までこれ以上に幸せな時間なんて無かったし、これからもきっと、もう二度と。こんなに幸せだと思う日なんて、訪れないでしょうね」 「そんな事は無い」  思わぬ言葉に、私はムキになって返す。 「確かにこの、赤い夕暮れの景色は美しい。だがこの島の空には、朝焼けの黄金も、夜の白銀もまだ残されている。昼間には空も大地も海もそれぞれ別の青色で、きっとオマエも気に入る筈だ。ああそうだ、オマエは工場地帯の景色をまだ見てはいないだろう。あそこは普段雲でも霧でも無い、少々嫌な臭いの靄に覆われているが、時たま、灰と黒鉄の建造物がびっしりと隙間なく並び立つ様が覗くのだ。森に住まう者達の中にはそれを異様に嫌う輩も多いが、あの謎めいた空間を、私はオマエにも一目見てほしい。そうしたら、きっと私達は、同じものを違うブンショウで、語らう事が出来ると思うのだ」  興奮が私の舌を回す。  ジカキモンに見せたい景色の話題は尽きる事が無かった。  まるで、初めて空を飛んでいるかのようだった。 「……私ね」  不意に、ジカキモンが私の髪に顔を埋めた。  突然の事に自分の中の何かが跳ね上がりそうになるが、まさか羽ばたきを止める訳にはいかない。精一杯、震える声で「どうした」とだけ尋ねるが、ジカキモンはそれには答えなかった。 「今が一番幸せよ。さっきよりも、『今』が、幸せ」 「……なら」  先程とそう変わらぬ台詞に、しかし私は深く満たされる。  続いた言葉は、自分でも驚くくらいに、穏やかだった。 「次に空を飛ぶ時は、オマエはもっと、幸せだろう」 「あなたは、本当に。素敵なブンショウを使うわね」  首を傾げる私に、今度はジカキモンの方が、風に揺れる梢のように声を震わせて。顔を上げないままに呟くのが聞こえた。 「だから私、もう――いいえ、本当は最初から、あなたに教えられる事なんて、何も無いと思うのだけれど。それでも。……それでもあなたは、また、私を背中に乗せて飛んでくれるの?」 「私は今」  笑っていたように思う。いくら形が変わったとはいえ、嘴にそんな機能も無いだろうに。 「お前と居るから、知らない空を、飛んでいるよ」  ジカキモンが顔を上げたのが解った。  ちょうどいい。ここなら、森も海も、殊更良く見える。  美しい景色だ。 「ありがとう。大好きよ」  デジコアが突然どくりと動いて、全身の羽毛が逆立ったような気がした。  そうやって出来た羽根の隙間に、ぽたりと、雫が落ちたような気がして。 「ごめんなさい。さようなら」  私はその感覚に、気を取られ過ぎたのだ。  ジカキモンは、私の背中から飛び降りた。  気付いた時には、手遅れだった。 *  何度詰め寄っても、私の代わりにジカキモンの遺したブンショウを声に出すジュレイモンの枯れた言葉が内容を変える事は無かった。  どんどん膨れ上がる幸せが、いつか失われる日が来ると。壊れる日が来ると。それが怖かったのだと、ジカキモンは書き残していたのだと言う。  だから、その日が来る前に。幸せが最も美しいその時に。……全てを、終わらせたかったのだと。  身勝手な自分を憎んで欲しいと、最後にそう書き添えて。ジカキモンは、それを実行したらしかった。  ああ、だけど。そんな筈は。そんな筈は無いのだ。  あれだけ見事に『空を飛んだ』ジカキモンが、こんなつまらない、何も描かないブンショウを書く筈が無い。  きっと手紙は2枚あって、本物のブンショウは風に飛ばされてしまったか。あるいはひょっとすると、悪戯の過ぎるマッシュモンが、ジカキモンのブンショウを偽物とすり替えてしまったのかもしれない。  いいや、いいや。もしかすると、ジュレイモンが嘘吐いているのかもしれない。そうだ、そうに違いない。この古い巨木のデジモンが命じれば、応じる者はいくらでもいる。誰かに命じて、こいつが手紙を私から奪ったのだ。  ジカキモンの最期が、こんなブンショウであってたまるものか。  ジュレイモンを、ジュレイモンを中心とした森の一部を怒りに任せて焼き払った私は、それから昼夜を問わずにジカキモンのブンショウを探し回った。  目を潰す眩さがひたすら鬱陶しい朝日の中を  目を覆う暗がりがただただ不快な宵闇の中を  急速に色あせたいくつもの青色を何度でも掻き分けて、時にはどんよりとした鈍色の、工場地帯の靄にまで飛び込んで  しかしついにジカキモンのブンショウが見つかる事は無く、  代わりに多くの土地が焼け、  そして私は、私の飛んだ空もまた、無くなってしまったのだと知った。  私は飛んだ。  ただただ高く在る事を目指して、ひたすらに羽ばたいた。  目に映る何もかもを焼いた私の炎は知らぬ間に、多くのデジモンの胸の内にまで飛び火したのだろう。  住まう土地の枠さえ超えた幾体ものデジモンの群れが、私に刃を向けたのだ。  今や私の自慢だった翼は穴だらけで、『ナイトメアソルジャーズ』の堕天使型達にも負けず劣らずといった有様だ。  気が付けば日は海の向こうにまで傾き、ちょうどそれは、ジカキモンと飛んだ空だった。  私は最後の力を振り絞って、縋るように、自分の羽と同じ色の中に、あの日飛んでいた自分を探した。  どこまでも昇った。  どこにも無かった。  と、不意に稲妻のような黄金が、ひょいと私を追い抜かして行くのが見えた。  それが本来であれば凶悪なウイルス種を滅する天使の破魔矢で、他ならぬ私の胸の中央を穿って去って行ったのだと気付く頃には。私は飛ぶための力をすべて失って、自分の身体が粒子化する光が尾を引く様を眺めながら、逆さの姿勢で天から突き離されていた。  逆転した茜の景色は、来た道を引き返しているだけなのに、違う世界を見ているようだった。  それでふと、私は今、ジカキモンが見たのと同じ景色を見ているのだと、そう気付いて。  ジカキモンが目に焼き付けた最後の光景を臨んでいるのだと悟って。  私はようやく、ジカキモンが本当の意味で最後に書いたブンショウと、同じ物を見つけたらしかった。  私は、やはりジカキモンは空を飛んだのだな。と微笑んで。  そうして私達は、きっと最期に同じ音を聞いた。  だからこのブンショウは、これでお終い。
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快晴
2020年10月17日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫ 5話 「そんなにそんなにそんなに手を洗ったらさぁ、がっさがさがさになっちゃうよ、弟くん」  必要以上の水が蛇口から零れ落ちる音のせいにして、サリエラはシメールの男性とも女性ともつかない軽薄な声に聞こえていないふりを決め込んだ。  だけどサリエラの手にはもう流れ落ちるような汚れは無い。そもそも『手袋』を付けていた彼の手に、最初から、汚れなど付着していない。  少年がどれだけ意識しようとも、この世界における死は、その程度の物だった。 *  襲撃者と乱入者。この2名の登場を以って花畑の『ゾーン』の探索を切り上げた女達は、『宿』へと引き上げた。 「で」  『宿』の扉を開ける前に――自分を出迎えるであろう愛しの赤ずきんと顔を合わせる前に。  確実に自分と赤ずきんとの時間の邪魔になるであろう同行者・シメールに、女は苛立ちと諦めの混ざった視線を向ける。 「貴女は何をしに来たのですか、シメール」 「お前には全然全くこれっぽっちも用は無い。用があるのは、我々とあいつ等のお客様だよ」 「……」  女が視線が自分の方へと動いた事に気が付いて、サリエラは慌てて目を逸らす。  これまでとは違った理由で、彼は女の顔を、まともには見られないでいた。 「ま、弟くんもこの調子だし? お前もどうせどうせどうせ理解が追い付いていないだろうから? ここは我々、シメールちゃんにお任せなワケ!」 「……用事が済んだら、さっさと帰って下さいよ」  結局、諦めが苛立ちに勝ったらしい。  女はドアノブに手をかけた。 「ごはんぐらい食べさせてくれてもいいじゃない、こんなにこんなにこんなに可愛い妹分が」 「兎でも食べてなさい」  と、次の瞬間には「ただいま戻りました、赤ずきんちゃん」と極限まで下げ切っていた声のトーンを心なしか弾んでいるかのような調子にまで引き上げる女。  シメールはサリエラの方へと振り返ると、女の方を骨のトカゲのパペットで指し示しながら、にんまりと表情を歪めた。 「まったくまったくまったく。ヒドい奴だよねぇ。弟くんも、そうは思わない?」 「え、あの」 「あははは、悪い悪い悪いね! 本人が居る前で、言い辛いよね」  けらけら笑うシメールに、サリエラは眉を寄せる。  平時でも苦手な相手だな、というのが率直な感想だった。 「おかえりなさいませ、猟師様、杭様、サモエド様。……あれ?」 「サモエドだとロシア原産の白い犬になりますね。しかし彼は金髪碧眼のイタリア人、サリエラなのですよ赤ずきんちゃん。それから後ろのヤツは気にしなくていいです」 「やあやあやあ! 『アンドロモン』のお姉ちゃんも久しぶりだね!」  表情の乏しいアンドロイドの瞳が、それでも困惑したように女とシメールの間を右往左往する。 「あれ~? 赤ずきんとシメールって~、会った事あるの~?」 「むかーし昔々ね! それこそ」 「シメール」  瞬間、杭の切っ先がシメールの細い首にぴたりと横づけされる。  最も、肝心の彼女は、やれやれと呆れたように、腰に手を当てて肩をすくめるばかりだったが。 「あー、はいはいはい。なんでもありませんよーだ。流石の我々も真ん中の首は面倒だからね。と、言う訳で自己紹介! 我々は『『カオスデュークモン』の武器屋』の従業員にして『デルタモン』の選ばれし子供、シメールちゃんなのです! 以後、お見知りおきを」 「ええっと、はい。赤ずきんは、『アンドロモン』の赤ずきんです。よろしくお願いします、シメール様」 「よろしくしなくていいです」  赤ずきんの一人称が「赤ずきん」だと知るなり、「こりゃいいね! 『カオスデュークモン』の奴よりずっとずっとずっといい!」と笑うシメール。「あんなのと一緒にしないでくれませんかね」と、女は赤ずきんの前でさえ感情を抑えられないでいるようで。  どうにか流れを変えた方が良いと思ったのだろう。杭が間延びした口調で赤ずきんへと声をかける。 「ところで赤ずきん~。今日の狩人さん達の晩御飯は~?」 「あ、はい。本日のご夕飯には、ポークソテーをご用意しています」 「……」  心なしか、サリエラの表情が曇る。  未だにどこか酸い臭いの残る口内は、到底肉の類を求める気分にはなってくれそうになかった。下手をすると、想像しただけでも胃液がせり上がりそうな程で。  シメールを静かに威嚇し続けていた女も、流石にサリエラの沈黙には気が付いたのだろう。「すみません赤ずきんちゃん。サリエラはどうにもお腹の調子が悪いらしいです」と普通に気を遣っているのだか素で見当違いなのか、いまいち判別の付かない助け舟を出す始末だ。 「まあ。それではサンダル様の分は冷蔵庫に仕舞っておきます。どうかお大事になさってください。後程お腹に良さそうなものをお持ちしましょうか?」 「い、いや……いい。今日は、いいよ」  心の底から心配そうな赤ずきんから視線を逸らしながら首を横に振るしか出来ないサリエラ。  赤ずきんの方も、それ以上追及はしなかった。少しだけ戸惑うように首を傾けてから、「では、猟師様のお食事をご用意してきます」と台所の方へと戻って行く。 「それでは、赤ずきんちゃんが準備をしてくれている間に、わたくしは手を洗ってきます。サリエラは?」 「それは、俺も行く」 「じゃあじゃあじゃあ、その後だね! 弟くんとのお喋りは!」  がしり、と遠慮なくパペットの口で肩を掴んできたシメールに、サリエラの身体が跳ねる。  女は相変わらずの呆れ顔のまま、杭の尖っていない方の先でシメールの身体を押した。 「ちょっかいをかけるだけのつもりなら、程ほどにしてくださいね、シメール」 「やだなぁ」  と、すぅ、と目を細めたシメールが、サリエラの頬に顔を寄せた。 「真面目な話だよ。我々がするのは、ね」  こうなるとサリエラはどこにも視線を向けられなくて、辛うじて「がんばってね~、サリエラ~」と自分を鼓舞する杭の声に、耳を傾けるくらいしか出来なかった。 * 「なるほどなるほどなるほど! ここが弟くんのお部屋! 狭いね!!」  手洗いを仕方なく切り上げ部屋に戻るなり、シメールはサリエラの脇をするりと抜けたかと思うと彼のベッドに飛び込んでトランポリンを始める。 「あ、あの」 「生意気! 部屋は狭いくせに、ベッドは我々よりも大分大分大分いいヤツ使ってるね。だから大目に見てよ。少しくらい遊ばせてちょうだい」 「……姉さんの事を、教えてくれるんだよな?」  嘘のように、シメールが動きを止めた。 「そうだよ」  最後の弾みを利用して床に降り立ったシメールが、にやりと口角を上げる。 「聞けばお前の姉……我々その他が言うところの『聖母様』を探すために、弟くんは『この世界』に来たんでしょ? よよよ。愛だね愛だね愛だね。泣かせるね」 「そんなのじゃ」 「「そんなの」でありなよ。その方が、少なくとも我々は気分が良い」  その時、シメールの笑みに僅かに自嘲が混じるのをサリエラは見た。  だが、それについて問うよりも前に 「「じゃあ、どうしてあの女はそれを俺に教えてくれなかったの?」ってトコ?」  シメールの、では無くトカゲのパペットの口が動いて、腹話術のように声を発する。  実際に、知りたい話ではあった。  シメールの嘲笑いが、自分から、ここには居ない女の方へと、移行する。 「それをあの女に求めてやるのは酷な話だよ弟くん。あの女は自分の名前を拒絶されているのの他に、聖母様の容姿に関する記憶も剥奪されちゃってるんだよ。まあ、自業自得と言えば自業自得。自業自得なんだけど」 「忘れてるんじゃ無くて?」 「それが出来るなら、話はもっと単純だったんだけどね」  彼女の口から漏れ出す笑い声はあくまで軽薄だ。軽薄であるが故に、どこか、仄暗い。 「とりあえず、口で説明すると3つあっても足りないくらいだからね。実際に、見てもらおうかな」  と、シメールがそんな事を口にするなり、途端に彼女の頭身が縮む。  思わず身を引くサリエラの前で、辛うじて人型は保ったまま、真っ黒な影のようになったシメールはうねうねと形を変え--やがて、黒い忍者服に身を包んだ子供のような体系の、頭がテレビのようになった『怪物』が、姿を現した。 「じゃじゃじゃーん! シメールちゃん、進化! 『ハイビジョンモニタモン』! ……なんちゃって。嘘嘘嘘。嘘だよ弟くん。『選ばれし子供』は、姿形までは『怪物』にはなれないから『選ばれし子供』なんだからね」  そう言って腰に手を当て、胸を張るシメールだったが、異形の頭では表情すら予測しようもない。  ただ、視界には困っていないらしい。「じゃあそれは」とでも言いたげなサリエラの先手を打つように、シメールは台詞を連ねる。 「改めて自己紹介。我々はシメール。3つ首の『怪物』・『デルタモン』の『選ばれし子供』。それから今は、究極体の『メタモルモン』というデジモンさ。よろしく、よろしく。よろしくね」 「メタモル……」 「そう、『メタモルモン』。こいつは名前の通り、『変身』の能力を持つ『怪物』でね。もっとももっとももっとも。我々の能力の原理は『変身』というよりも『再現』なのだけれど、この辺は説明がとてもとてもとても面倒臭いから一先ず置いておくね」  ぶつん、と音がして、モニター装置の頭に映像が映し出される。  白く、無機質な印象を受ける建造物の様子だ。 「今映しているのは、『この世界』を管理していた研究者連中が使用していたメインの『ゾーン』。……彼らが何をしていたのかについては、流石の流石に流石のあの女も、お話はしてるでしょ?」  記憶を辿るサリエラ。  蘇るのは、風呂場で女から受けた説明だ。 「「『怪物』に理性を与える研究」……だっけ?」 「うんうんうん。そうだね。それもある。それもあるし、それもそうなんだけれど――はぁ、あの女。とってもとってもとっても大事な部分が抜けている。いやまあ、間違ってはいないんだけれど……」 「?」 「一口に「『怪物』に理性を与える」とはいっても、アプローチの仕方は色々色々色々あったワケ」  例えば、壊れた『神』の代替品を創る。だとか。  シメールが続けた言葉に、首を傾げていたサリエラも思わず息をのむ。  『この世界』の『神』が、出現した時から壊れていたというのはサリエラも既に女から聞いている。  言われてみれば、確かに。先に聞いた方法で『理性持ち』を作るよりも、可能であるのなら、新しい管理システムを作ってしまった方が、何かと手っ取り早いに違いなく。 「ま、それも『理性持ち』を作るシステムが上手くいったからこそ。なんだけれどね。だから、まことにまことにまことに不本意ながらあの女をフォローするとしたら、これは『目的』のための『手段』の中でたまたま発生した『奇跡』だから、一応、あの女、嘘は言っていなかったり」  口調の軽さは変わらないが、シメールの方もどうにも女の事が気に喰わないらしい。彼女がこの場に居ないためか、先程よりも振舞いがずっと顕著だった。  シメールの頭部に映し出された画像が、動画へと変わる。  前を行く大人の男性について歩く誰かの目を通した映像が、白い廊下を抜け、同じように大人に連れられた何人かの子供達が集まった、だだっ広い空間へと辿り着いた。 「ここはね、実験の成果をお披露目する会場。……ま、実質闘技場なワケなんだけれど」  中央には黒い線を引いて作られたコートがあり、そこでは2人の子供が、子供とは思えないような俊敏な動きで取っ組み合いをしている。  時に殴り、蹴り、爪を立て、歯を剥き出しにして。  見ている方も見ている方で、床や壁にまで血が飛び散っても、白衣姿の大人たちは何食わぬ顔で視線を手元のパッドと子供達との間を交互に行き来させながら、熱心に記録を続けている。  しばらくして、決着がついたようだ。  片方の子供が、荒い呼吸を繰り返しながら地面に突っ伏して、動けなくなる。  もう片方の子供も立ってはいるものの、全身傷だらけで、上げた雄叫びはどことなくか細い。  ……両者を見ている研究者らしき大人たちは、どちらも浮かない表情をしていた。  と、 「お疲れ様」  コートの方に悠々と、1人の男性が歩いて来る。  研究者も、子供たちも、彼に向って、頭を下げた。  男は今戦っていた子供達の回収を促すと、この映像の一人称となっている誰かの方へと、歩みを進めて。 「その子が、第3棟の最高傑作?」  黒の短髪に黄色い肌。アジア系の男性は、誰かの方を覗き込む。 「はい。例の特異体質の」 「実戦は今日が初めてなんだっけ?」 「ええ。しかし、イチノマエ先生のご期待には沿えるかと」 「それは楽しみだ。では、こちらもあの子を出そうかな」  おいで、    。  音声にノイズが走ったと思った瞬間、1人の少女が一瞬で、男の前に姿を現した。  ごくり、と、誰かの隣から息をのむ音が聞こえた。  そしてその音は、サリエラ自身の喉からも。 「……光栄です。まさか先生の作品に相手をしてもらえるとは」 「それだけ期待しているんだよ、君達のところのその子には。『怪物』に対処できる『選ばれし子供』はいくら居たって足りないくらいだから」  黒檀の髪に、赤茶けた瞳。  イチノマエと呼ばれた男と同じ民族らしい少女は、唇を真一文字に結んで、何の感情も無く動画の主を見下ろしている。  サリエラと同い年くらいの、女の姿が、そこにあった。 「ちょっとシーン飛ばすね。単純に、弟くん多分きっと恐らく酔っちゃうから。我々だってなにもなにもなにもわざわざ自分達がボコボコにされてる時の映像リピートしたくないからさ」  シメールが言うなり、画面が切り替わる。  半分が何か布のような物で覆われているのか不明瞭になった画像。その辛うじて見える部分では、右腕を三角巾で吊るした女が動画の主――当時のシメール――に先行する形で歩いていた。 「腕を折られたのは初めて。驚いた」 「なにもなにもなにも、説得力が無い」 「デジコアの主が左利きじゃなかったら、危なかった」  無駄話をするな、と、誰かがシメールを小突いたらしい。視界が揺れる。  不服そうに、小さく呻くシメール。と、その間に、目的地に到着したらしい。彼女達の後ろを歩いていたらしいイチノマエが前に出て、一同が止まった扉の前に、何らかの端末をかざした。 「さあ、ここから先は、私と『選ばれし子供』の2人だけで。君は向こうに戻るといい」 「え? いや、しかし」 「3棟の子供達はこの子だけじゃないだろう? ……今後とも、更なる成果を期待しているよ」  間を一拍だけ置いて、承知しました、ともう1人居たらしい男が去っていく。  鼻を鳴らすような音が、幽かに、音声に混じっていた。  イチノマエに促されるまま2人が扉を抜けた先には、広いが、酷く殺風景な部屋が広がっていた。  そしてその中央に、部屋に対してあまりにも鮮やかな、赤色が一点。  サリエラと、映像の中のシメールが息を呑んだのは、全く同時の出来事だった。 「いらっしゃい。初めまして、可愛い子」  髪の色を除けばサリエラと瓜二つの少女が、あどけない微笑を浮かべていた。 「早速だけれど、貴女の名前を、教えて頂戴」 「これが、お前のお姉様。そして我々とその他たちのとっての、聖母様だ」  画面の中の景色が全て制止する。  生まれて初めて向かい合った姉は、液晶画面の隔たりも含めてまるで狂った鏡のような印象を引き起こし、サリエラは思わずめまいを覚える。  だが同時に、少なからず、けして心地よい感覚では無いものの、納得の感情も彼の中に、芽生えていて。 「そっか。……きっと、それが原因だったんだね」 「うん?」 「『呪われた娘』って。そう書いてあったんだ。……死んだ父さんの日記にさ」  少年が『この世界』に来る3ヶ月ほど前。彼の両親は、事故でこの世を去った。  酷い事故だった。漁港に制御不能になった漁船が、猛スピードで突っ込んで来たのだ。座礁した船はバラバラになり、辺り一面が滅茶苦茶になって、しかし少年の両親は、ただ眠っているかのような、ほとんど変わらない姿で家に帰ってきた。  現実を受け入れられなくても、時間は流れた。目まぐるしく全てが片付いて、あらゆるものに置き去りにされた少年が、やっとの思いで始めた両親の遺品整理の最中に、それは見つかったのだ。  日記、と言うよりは、書き留められた懺悔だった。  そこに書かれていたのは、少年がついぞ父から聞く事の無かった、父の『前の妻』と『2人の間に出来た娘』の記録。  父の前妻は、「生まれてくる筈の無い特徴を持った娘」を産んだ直後に、息を引き取ったのだと。  そして父はその娘を、一部の知人の協力を得て、周りには死産だったという事にして、施設に預けたのだと。 「ふうん」  そっけない相槌の割に、シメールの声音は、どこか感慨深げだった。 「その施設っていうのが、イチノマエ先生の息のかかった施設だったか、そうじゃなかったけどイチノマエ先生の取り巻きの誰かがそこから引き取ったか。まあどうにせよどうにせよどうにせよ、聖母様は、捨て子だったんだね」 「……」 「いやまあ、それ自体は我々も知ってたよ当然当然当然ね。なんていったって、我々達は大概がそうだったから。でも、うん。可哀想、聖母様。何か不思議なことがあって、髪の色こそ赤色だったけれど――ちゃんと、お父さん似だったのに、ねぇ?」  腹違い。  半分しか血の繋がっていない筈の姉と自分の顔が瓜二つ、という事は、父の前の伴侶はけして不貞を働いただとか、そういう訳では無かったのだろう。  「お父さん、イケメンだったんでしょ?」と軽薄に笑うシメールとは対照的に、少年は顔をしかめていた。 「だけどだけどだけど、そういう意味では。生まれる筈の無い子が産まれるという意味では。聖母様は確かに『呪われた娘』だっただろうし、だからこそだからこそだからこそ、あのお方は『聖母』になれたんだろうね」 「……その、さっきから言ってる、『聖母様』っていうのは」 「名前の通りさ。聖母様は、お腹に『神』の子を宿していたんだ」  テレビのスピーカーから吐き出されたその音は、やはり、あくまでからりと、どこまでも軽薄に、乾いていた。
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快晴
2020年8月02日
In デジモン創作サロン
 どうも、快晴です。  8月3日という事で、今回は拙作『デジモンプレセデント』に登場するオリジナルデジモンのイラストを投稿しています。  イラストを見てもし、このデジモンに興味が湧いたという方がいらっしゃったら、『デジモンプレセデント』を読んでもらえると作者としてはとても嬉しいです。  このデジモンが登場するところまで見てもらえたら大体どんな話か伝わると思いますので、お時間のあるかつなんでも許せる方は是非に……是非に……。 リンク:デジモンプレセデント プロローグ  以下、作成時に一応考えた図鑑説明っぽいものです。  ぶっちゃけ見た目の時点でネタバレみたいな部分は有りますが、一応注意。 ・ウィローオウィスプモン  究極体 暗黒騎士型 ウイルス種  本来データを破壊する悪質なコンピューターウイルスとしての力を振るうヴァンデモンが、破壊すべきでは無い対象、すなわち「守るべき存在」を得て騎士に進化した姿。 獣(悪魔)の力を制御する事で知性を保っての進化に成功しており、ベリアルヴァンデモン同様あらゆる面でヴェノムヴァンデモンを超える力を獲得しているが、守護の対象を失った瞬間、力のほとんどを失ってしまうという脆さも併せ持っている。  性格は冷酷にして苛烈。たとえ守護の対象に恐怖や嫌悪を抱かせる結果になるとしても、対象に害を成す者には徹底的に、残虐なまでの制裁を行使する。その姿は悪魔とも竜とも例えられる。  必殺技は、生半可な純度のクロンデジゾイドであれば簡単に食い破る牙を持つ、小型のワイバーン型使い魔を無数に放つ「ミッドナイトレイド」と、両腕に備わった生体砲・ソドムとゴモラから形成した炎熱の杭で敵を刺し貫く「パンデモニウムツェペシュ」。
自作のオリジナルデジモン content media
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快晴
2020年7月25日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫ 4話  女は時折、赤色の夢を見る。  暗がりの中に、ぽつんと佇む赤色の――大きさや形まで、瞬きの合間に変わってしまうような――人影が、ノイズのかかった笑い声を上げながら、自分に囁きかけてくる夢を。 「素敵な名前ね」  聞こえるのは何時も、同じ台詞だった。  如何せん、後にも先にも、女の名前を「素敵」だと言ったのは、赤色の彼女くらいのものだったのだから。  彼女の事を思い出せなくなっても、その鮮烈な、生きた炎のような赤色だけは、女の記憶をいつまでも焦げつかせているように。  そして女が「素敵」の理由を尋ねると、赤色は決まって自分の名前を指して、「割り切れないわ」とやるせなく微笑むのだ。  忘れようが無かった。 「……」  女は赤色の元につかつかと歩み寄り、間近で、彼女の姿をじっと眺める。  頭のてっぺんから、つま先まで。  間違い探しをするように眺めて。  結局、そこに間違いすら無い事を悟ったあたりでふと、女は赤色と、目が合ったような気がした。  目が合ったような気がして、  それが、どこかで見たような、紺碧と重なったような気がしたのだ。 * 「……」  もぞ、と身体を動かして目覚まし時計を見やると、起床の設定をした時刻の5分前だった。 「損した気分」  ほとんど口の中で呟いて、女は再び目を閉じる。  二度寝をする気は無かったが、素直に身を起こすのも癪だった。  そんな風に目を閉じると、再び、夢の景色が蘇る。  文字通り、瞼の裏に張り付いているような夢だ。見た回数をカウントするのは、両手の指で足りなくなった辺りで既に止めている。  ただ、見る事自体は比較的久しぶりだったような気がするなと思いかけて。ふと、最後に見た碧色が、脳裏を過った。 「……」  碧。暖かな海の色。  今さら思い返すまでも無い。  あれは、サリエラ少年の瞳だ。 「ないわー」  杭には気を遣いつつも、今度ははっきりと声に出して独りごちる。  いくら人間とのコミュニケーションが件の夢よりも遥かに久しぶりであるとはいえ、他人のパーツを懐古に用いるのは、女としても本位では無かった。(なお、当然気を遣っているのはサリエラの方では無く夢に出てきた赤色の方だ)  ただ、と。  顔の良いサリエラの、特に美しいあの紺碧の瞳であればまあ、赤色の彼女もそこまで気を悪くはしないだろう。と。  少なからずそんな風に思ってしまったのも、事実ではあった。  どうせ、思い出せはしないのだ。 「やっぱりもう起きよう」  伸びをした後、いつものように洗面所に向かい、いつもの身支度を済ませて作業着姿の女はいつも通り食堂へと足を踏み入れる。  ただいつもと違うのは、左手に杭は無く、台所に赤ずきんの姿さえ無い事で。  午前6時。いつもより早い起床だった。 「さて」  台所へと向かい、冷蔵庫から取り出した缶のアイスココアを飲み干した後、女は改めて冷蔵庫を開けて一昨日の夜買い出した食材を調理台の上に積み上げていく。  2人分の、弁当の準備だ。  赤ずきんに頼んで作ってもらう事も考えたが、わざわざ彼女をいつもより早い時間に起こしたいとは微塵も思えず、であれば自分が起きて作ればいいかと判断して今に至ったらしい。  最も、今日の『観光』の出発時刻が特に決まっていない以上、別段早起きして作る必要は無いのだが、「以前見た本では大抵お弁当は朝早い時間に作られていた」という理由だけで、女は躊躇なく睡眠時間を削る事にしたのだった。  女は料理を手際よく進めていく。  鍋にお湯を沸かしながら、キッチンの蛍光灯だけが照らす薄暗い食堂に、トントンと包丁がまな板を叩く等間隔の音だけが響き渡る。  それからしばらくして、ふつふつと鍋の中を気泡がせり上がるようになり始めたころ、不意に食堂の扉が開いた。 「?」 「あ……」  入ってきたサリエラが、台所の女に気付いて少しだけ身を引いた。 「おはようございます、サリエラ」 「おはよう、師匠。……早いね」 「ええ、まあ。そう言う貴方も随分と早いお目覚めで」 「なんか、目が覚めちゃって」  コンロの火を弱めると、女は一度手を止めて冷蔵庫から先ほど自分が飲んだのと同じ缶のアイスココアを取り出し、サリエラに食堂の椅子に座るよう促してからそちらへと向かった。 「どうぞ」 「どうも」 「朝食ももう食べますか? ひと段落したらトーストにめんたいマヨでも塗って食べようと思っていたのですが」 「メンタイマヨ?」 「あー……。明太子という日本の……なんて言えばいいんでしょうかね。スケトウダラの卵巣を唐辛子等々で漬けたものを、ほぐしてマヨネーズとあえた……ソース、と言って良いのかは微妙なところですが、まあ、そんなものです」 「……おいしいの? それ」 「わたくしは好きですが。気になるならボウルのまま出しますから、少量つけて食べてみればいいかと」 「じゃあ、そうする」  わかりました、と女は台所手前の棚に置いてある食パンの袋から2枚取り出し、トースターにセットした。そのまま調理場へと戻り、2本入りの辛子明太子のパックから片方だけをボウルに開け、マヨネーズを混ぜ始める。 「師匠はなんでこんな時間に?」 「お弁当を作っています。今日の観光用の」  赤ずきんと違って手は止めずに言う女。サリエラの睡眠時間を削ったのも実のところ「本日の観光」に対する不安だったのだが、彼女には知る由も無い。 「おべんとー……あー、なんか昔見た日本のアニメーションで、そういうの作ってたような」 「ほう。どんな見た目でしたか?」 「えっと、なんだろ? よくわかんないけど、ピンク色の割合が多かったような」 「大丈夫です多分ですがどの作品か解りました。機会があれば、似たようなものを作ってみてもいいかもしれませんね。わたくし桜でんぶもめざしもそこまで好きじゃないんですけれども」  次々出てくる未知の食材名に疑問符が浮かびっぱなしのサリエラだったが、ふとそれ以上に大きな疑問――あるいは不安が、彼の胸の内に沸き上がった。 「ってかそもそも師匠って……料理、できんの?」  サリエラは碧い眼ほあからさまなくらい疑わしげに細まっているが、女は特に気分を害するでもなく、というか彼の視線については気にも留めずに手を止めないまま応答を続ける。 「一応、赤ずきんちゃんに料理を教えたのはわたくしですよ。とは言っても、ほとんどレシピ本の見様見真似ですが。まあ下手にアレンジを加えたりはしていませんので、味に関してはある程度安心しておいてもらっても良いかと」 「ふーん」  言葉に自信の無さは感じなかったので、サリエラもそれ以上は何も聞かない事にして、食堂の椅子に深くもたれかかった。と、ほとんど同時にチンという音がして、こんがりと焼けた食パンがトースターから跳ね上がる。 「お待たせしました」  トースト2枚と明太マヨ入りのボウルをテーブルに置き、女はサリエラの前の席に腰かける。ボウルから伸びたスプーンの柄が、少年の方へと向けられた。 「どうぞ、先に取ってください」 「……ありがと」  正直なところ、やけに鮮やかな赤い粒が無数に沈んだマヨネーズの見た目はサリエラの食欲をそそるものではなかった。  が、女の手前、躊躇する事も憚られて、結局、サリエラは小さく千切ったトーストの端に、少量の明太マヨを塗るだけに留める。  とはいえ、態度である程度は伝わったのだろう。 「ま、もし口に合わなかったらジャムなりオリーブオイルなり、どうぞ。冷蔵庫かそっちの棚にあると思うので。ああ、何なら目玉焼きを乗せても構いませんよ」  ボウルに戻ってきたスプーンでサリエラとは違い大量に明太マヨをトーストへと塗りながら女が言う。  気まずそうに小さく頷いてから、サリエラは知らない調味料を塗った焼きたてのパンを口に放り込んだ。 「……」 「……」  無言の租借と、無言の観察。  ……やがてトーストにほとんど手を付けていないにも関わらず女の方が席を立ち、しばらくして戻って来るなり、机の上に小皿とオリーブオイルを置いた。 「ジャムの方が良かったですか?」 「ううん。……ありがと」 「ま、その辺は好みの問題ですから。しかし明太マヨでこれだと、食事を合わせるのは大変かもしれませんね。今更ですが」 「昨日のパスタは美味しかったけど……食事って、日本の料理とか? スシ?」 「寿司。そういえばわたくし、きちんとしたお寿司を食べたことは無いような」 「そうなの?」 「いやだって握れませんし」 「日本人なのに?」 「握れませんよ。というか寿司握れる日本人なんてそうそういませんて。そもそも魚とか捌けませんし」 「捌けないの? 怪物とか掻っ捌いてるのに?」 「捌けませんよ。腹を開けば大抵の生き物は死にますから必要があれば掻っ捌きますけれども、それと魚の解体ができるかどうかに関しては全くの別問題です。何ですか? そう言うサリエラは、魚。捌けるんですか?」  サリエラは頷いた。 「え?」  固まる女。  サリエラが1口。オリーブオイルを付けた食パンを咀嚼し終わっても動き出す気配が無いので 「父さんが漁港で働いてたから。小さいころ、教えてもらったんだ」  と告げてから、トーストを新しく千切った。  実のところ食パンもあまりなじみの無い類のパンだったが、こちらはまあまあ、口に合っているらしい。 「……ふむ。あれですね。その辺は生まれの違いですね。なら仕方ない。一応立場上師匠なのに魚の調理が貴方には出来て、わたくしには出来ない点は不可思議でも不自然でもありません。環境の違いなのですから。仕方ない仕方ない」 「うん。何に納得してるのかわかんないけど、そろそろ食べたら? 冷めちゃうよ?」  サリエラの指摘に、ハッとしたように手つかずの、明太マヨだけは塗ってあるトーストを見下ろして、女は少しだけバツが悪そうにそれを手に取った。 「……人間との食事は久しぶりでして。談笑しながらの食事というのはなかなか難しいですね。普段は、喋る方に意識を向けがちですから。すみませんねサリエラ。貴方の食事の邪魔までしてしまって」 「あ、いや、それは別に……俺は食べてるし……」  珍しく謝ってきた女にたじろぐサリエラ。  と同時に、文化は違えど、女がおおよそ自分と同じ物を食べているという事実に、何だか眩暈がして。彼は女と、また、目が合わせられなくなる。 「それより、誰かとの食事が久しぶりって……」  その事を悟られないように、結局食事を中断するような疑問を口にしてしまい、サリエラの言葉は妙なところで消え行ってしまう。  だが、女はいつも通り、サリエラの内心はそれほど気にせず、頬ばったトーストだけは飲み込んで 「何年ぶりになるんでしょうね」  と応じる。 「今になって思えば、お世辞にも美味しい食事ではありませんでしたが……楽しい時間では、あったのでしょう。聖母様も楽しそうにしていましたから」  ……そう口にしてはみたものの、女の中に在るのは、空箱を開くような回想でしかない。  箱の外側にどんな思い出があったかは書いてある。だが、開けてみれば、そこには何も入っていないのだ。  だが、今回はサリエラの方が、女の内心に気付かない番だった。 「聖母様、って?」  首をかしげるサリエラに、女はハッと我に返る。と同時に、自分に向けられた紺碧の瞳に彼女の胸が妙にざわついた。  口を滑らせたのだと気付いて頭を抱え、夢のせいだと肩を竦めてから、彼女はサリエラを、まっすぐには見なかった。 「昔、数ヶ月ほど護衛の仕事をしていたんです。その時の警護対象でした」 「師匠が、護衛?」  女に護衛を頼むだなんて、世の中には変わった人がいるものだと、割合不躾な、加えて自分の事を棚に上げた考えてしまうサリエラ。  やはり女は、意識すらしていなかったが。 「赤かったのは……多分、髪だったと思います。本当に、見事な赤色で……燃える様な、という表現は、まさしく彼女のためにあったのでしょう」 「赤い髪……」  歯切れの悪い、ただ同時に珍しく女の感情を何となく感じられる言葉選びだが、しかしその特徴は、きっと自分の姉の事は示していないだろうなと、サリエラは小さく肩を落とす。  彼の家系に髪の赤い人物はいないし、また、『選ばれし子供』であれば、流石の女も先にそう言うだろうと思っての事だ。  最も、女の話の中で姉を見つけられるなど、そんな期待は、そもそもほぼほぼ無いのだが。  と、 「……すみませんサリエラ。また、ついついお喋りしてしまいましたね」  またしても、若干申し訳なさそうに女が額に手を当てる。2口分の歯形がついたばかりで、彼女のトーストは徐々に熱を失いつつあった。 「いや、俺はそれなりに食べてるし……」 「む? ではわたくし、貴方に謝らせるべきなのでしょうか?」 「それは無いんじゃないかな」  慣れませんねぇ、と改めてトーストを手に取り、微妙な困り顔で口をつける女。  そのしぐさが、表情がなんだか人間臭くて――サリエラも、それ以上何も言えなかった。
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快晴
2020年4月06日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫  3話 「キュ?」  ぴこん、と。兎の耳らしきものが揺れるのを、『扉』使用時の転移の衝撃で尻もちをついていたサリエラは確認した。  と同時に、 「寒っ」  突然の気候の変化に、少年の身体がぶるりと震える。  上着を着て行くよう昨晩から師と仰ぐ運びとなった女に言われ、実際その通りにはしていたのだが、予期せぬタイミングで頬を冷風に撫でられては驚いてしまうのも無理からぬ事で。  『ゾーン』間の移動も、まだ2度目なのだ。  とはいえ相変わらずサリエラのそういった反応を一々気にするような女でも無く、色こそモスグリーンに変わっているが機能自体は普段と変わらぬ作業着姿の彼女は、『扉』のすぐ先に在る建物の前に居る、耳――正確には、兎の耳に似た感覚器官――同様、全身が兎を模したマスコットキャラクターのような、マフラーとイヤーマフを付けた小柄で愛らしい印象の強いピンク色の『デジタルモンスター』――『キュートモン』の方へと歩み寄る。  女の姿を確認するなり、『キュートモン』はそのつぶらな黒い瞳の形を半円へと変化させた。 「珍しい客っキュね。いつ以来っキュか、半端者」  小さな口から飛び出してきた声音は低い男性の物で、立ち上がっている最中だったサリエラは思わず目を見開く。  女はふぅ、と息を吐くと 「何度でも言いますが、わたくしからすればあなた達の方が半端者なのですがね、『キュートモン』。まあいいです。……戸籍を用意してもらって以来なので、最後に直接会ったのは一昨年の秋でしょうか。とりあえず、息災のようで何より」  そう言って、握った杭と一緒に軽く左手を持ち上げる。途端、杭の方からも「久しぶり~」と間延びした声が発せられた。 「杭の坊ちゃんも相変わらずみたいっキュで。……で、半端者。今回はどんな厄介事をウチに持ち込む気っキュか?」  ちらり、と『キュートモン』は丸い瞳を女の背後へと動かす。  本人からしてみれば鋭い眼光を放っているつもりなのだが、姿が姿なだけに、サリエラは「兎がこっちを見ている」くらいの感想しか抱いていない。 「金銭を支払う用意をしてやって来た客に対して随分な口をききますね『キュートモン』」 「キュゥ? お客様は『神』様のつもりでいるのキュか半端者」 「……」  一瞬、押し黙って。  次の瞬間、女は少なくともサリエラには目視出来ない速度で、『キュートモン』の耳に似た感覚器官を右手で掴んで持ち上げる。 「兎って、切り株にぶつければ死ぬんでしたっけ?」 「試したいならオレの事は降ろして肉畑の隅の切り株でも見てろっキュ」 「あ~、なんかそんなお歌あったよね~。う~さ~ぎ~お~いしい~、か~のや~ま~」 「……。……やれやれ、坊ちゃんがこの調子じゃ、お前もまだまだっキュね半端者」  はぁ、と。  若干外れた音程でご機嫌に歌い続ける杭と引き続き『キュートモン』をそれぞれの手に、溜め息を付きながら女は振り返る。  幽かに凄んでいた女にサリエラはすくみ上がっていたのだが、彼女はやはり構わず、それこそ獲物を捕らえた狩人のように『キュートモン』を少年の前に掲げた。 「サリエラ。コレは『キュートモン』。『この世界』に存在する『理性持ち』の中では比較的目にする事が多い『怪物』ですから、覚えておくといいかもしれませんね。この個体の事は一々覚えずとも構いませんが」  名前に反して女がこの『怪物』を微塵も愛らしいと思っていない事だけはサリエラにも伝わってきた。 「……目にする事が多いって、どのくらい?」 「さあ? ……『キュートモン』は力こそ他の『怪物』に比べて弱いですが、繁殖……と言って良いかはさて置き、自分達だけで個体数を増やせるという唯一無二の特性がありましてね。今どれほどの数がこの『デジタルワールド』に存在しているのか、正確には定かでは無いのですよ」 「増える、の……?」 「ほら、兎って性欲が強いらしいじゃないですか。その関係じゃないですかね」 「……」 「別段増える目的でも無いのに年がら年中発情できる種族には負けるっキュよ人間」 「…………」  この人(?)達は一体真昼間からなんて会話をしているのだろうか。  というか、歌詞がわからなくなったのか、しかしハミングは未だ続けている杭は彼女達を止めてくれないのか。  そもそも自分はどうしてここに来たのだっけか。  様々な疑念が浮かび上がる中、サリエラはとりあえず、昨夜の出来事を振り返る。 *  夕食とデザートのケーキを食べ終えて。  猫舌なのかちびちびとだけ温かいココアを口に運びつつ、女は風呂場の続きを話し始めた。 「『デジタルワールド』は先にも述べた通り『怪物』の巣窟。生身の人間が簡単に処理できる相手ではありませんからね。対抗の手段が、必要でした」 「それがその……杭みたいな、『武器』ってヤツ?」 「そうなるね~」  サリエラの問いには、女では無く、間延びした声で杭が応えた。 「ぼく達『武器』はさ~、基本的には『デジタルモンスター』の一部なんだよね~。だから~『怪物』と同じように~、データを取り込むと強くなれるんだよ~」 「『進化』と、研究者連中は呼んでいましたね。幼年期Ⅰ・Ⅱ、成長期、成熟期、完全体、究極体。これらが『怪物』の成長の区分で、後に述べたモノ程強いと考えた方がいいでしょう。……そんな『彼ら』の所持品や身体の一部を人間用に加工したもの、それが『この世界』における『武器』です」  そう言って、女は机の端に置いた杭を左手の人差し指でとんとんとつつく。  杭が度々述べている「食事」というのは、つまり『怪物』達が成長するための行為と同じものなのかと、サリエラはじっと彼を見つめた。 「というか、『デジタルワールド』の探索者なんてその大半が『武器』目当てなんですよサリエラ。人の世界に存在する大概の武具よりも強力で、なおかつ容量さえあればパソコンの中に入れて簡単に持ち運びができる兵器、それが『武器』です。……まあ、その容量を馬鹿みたいに食う上完全な形でのリアライズには未だ成功の兆しすら無いそうなので、実用化にはこれっぽっちも目途が立っていないのが現状だそうですが……だからこそ、今はまだ研究材料として『武器』には価値があり、求める者が後を絶たないという訳です」 「……なあ、そんな話、俺にするって事は、さ」 「当然、貴方にも持ってもらいますよ、サリエラ」  少年は眉をひそめる。  今の説明を聞いて『武器』を持ちたいと言える程のんきな神経は、いくらサリエラが年頃の青少年とはいえ持ち合わせてはいない。  興味が皆無と言えば嘘にはなるが、女が『怪物』を杭で突き穿ち叩き切る姿を見てまだ数時間も立っていないのだ。危険度の方が、脳にこびりついている。  流石に女もサリエラが難色を示している事は感じ取ったようだ。  ココアの続きをわずかに啜り、彼女は小さく息を吐く。 「最初に言ったでしょう、そもそもは『この世界』での自衛の手段だと。貴方が無抵抗に『怪物』に嬲り殺されたい趣味嗜好の持ち主だと言うのならば口出しはしませんが、そうで無いならば悪い事は言いません。『武器』をお持ちなさい」 「でも……」 「大丈夫だよ~、『怪物』がいっぱいいるように~、『武器』にだって色んな種類があるからね~。サリエラに合うのもきっと見つかるって~」  そういう問題では無いのだけれど、と思いはするものの、選り好みをしていられない事自体は彼も承知している。  女が『怪物』相手に平気で立ち回る姿を見たように、少年は『怪物』が自分ではどうしようもない相手だという事実も経験済みだ。 「わかったよ」  ただ、と、サリエラは続ける。  懸念は次から次へと、尽きる事が無さそうだった。 「元々は『怪物』の持ち物なんでしょ? 『武器』って。……どうやって手に入れて、どうやって試す気?」 「ご安心を、サリエラ。わたくしも無力な貴方を観光に連れ回す気はありません。何より」 「『怪物』は丸ごと食べたいからね~、ぼく~」 「……という訳です。なので、アレですね」 「アレ?」 「明日はショッピングに出かけましょう」 「ショッピング」  場違いな単語だと、サリエラは思った。  顔に出たその感情に対して、女は頷く。 「言ったでしょう。需要があるんです、『武器』は。故に、それを商売にしている『理性持ち』が居ましてね。明日はそこに出かけます」 「『理性持ち』って事は……『怪物』? 『怪物』が、商売? 大丈夫なの?」 「他にやってる人間も『怪物』もいないから~、大丈夫だとも~大丈夫じゃないとも~言えないかな~」 「相当のモノ好きという意味では、あんまり頭大丈夫じゃないのかもしれませんけどね」  サリエラは一気に不安になった。  もちろん、彼の不安が女の決めた次の日の予定を覆す事など、有りはしないのだが。 「その『理性持ち』というのは――」 * 「おうおう。そろそろ放してやってくれよ、我らが『選ばれし子供』ちゃん」  背後から響いた全く予期せぬ男性の声に、思わずサリエラはその場で跳ねた。  それが相当可笑しかったらしい。直後、サリエラの前へと回ってきた『怪物』はくつくつと笑いを漏らしながら、肩を震わせていた。  歩くたびに、それまで全くしなかった筈の、金属同士がこすれ合う音が冷たい空気を揺らしている。 「兎を食べる時は皮を剥くんでしたよね」 「ワイヤーフレームしかねえっキュよこの下は」 「食べるならぼくは丸ごと食べたいかな~、皮が一番栄養が多いんでしょ~?」 「オレを果物か何かと勘違いしてないキュか坊ちゃん」 「ほれ、無視だよ。嫌になっちまうよな」  『怪物』は呆然とするサリエラに、同意を求める。  口調は親しげで、事実『ソレ』には敵意も何も無かったが――存在そのものが纏う威圧感に、サリエラは何も口をきけないでいた。  暗い銀と紫の甲冑を纏った、大きなランスと大きな円盾を持つ背の高い騎士の『怪物』――究極体の『理性持ち』は、そんなサリエラを見下ろし、肩を竦める。 「まあた、おもしろいもん見つけてきたなぁ、『選ばれし子供』ちゃんのヤツ。坊主、名前は? ……え? ああ、この『カオスデュークモン』? そうだよな。名前を聞く前に名前を名乗るのが筋ってもんだよな。そりゃそうだ。この『カオスデュークモン』もそう思う。この『カオスデュークモン』の名前は――」 「『カオスデュークモン』。そっちで油を売る前に半端者にオレを放すよう言うっキュ」 「おいおいおいおい、先に言ってくれるなよ『キュートモン』、この『カオスデュークモン』、今自己紹介のまっ最中だったんだぜ? まあ大目に見てくれや。この『カオスデュークモン』も「放してあげて」ってもう言ったよって言葉はグッと飲み込むからさ。それにほら、この『カオスデュークモン』の名前が解らないと坊主も不便だろうと思ったんだよ」 「鬱陶しいくらい既に名乗ってるキュ」 「鬱陶しいくらい口にしていましたよ」 「鬱陶しいくらい言ってたね~」 「……ミンナ、ナカヨシ、ダネー」  どことなく哀愁を漂わせ、肩を落とす『カオスデュークモン』。女はふんと鼻を鳴らした。 「いいですか『カオスデュークモン』。この世に自分の名前を一人称にして許されるほどの逸材なんてわたくしの可愛い赤ずきんちゃんしかいないのです。おやめなさい。本気で似合っていませんよ」 「やめられるもんならこの『カオスデュークモン』だってそうしたいんだがねぇ。こればっかりはどうにも『デジコア』の方に刻まれてるらしくって――いやまあ、それよりもだな、『選ばれし子供』ちゃん」  女は『カオスデュークモン』が何かを言いかける前に、『キュートモン』を地面に下ろした。 「あなたを怒らせたくはありませんからね。『カオスデュークモン』。このくらいにしておきますよ。……ただ、部下の教育にはもう少し力を入れた方が良いかと」 「とりあえず敬語喋っとけばOKと思ってるオマエに言われたくないっキュよ。キュん、オマエ単体なら兎も角、オマエ達にしてみれば『カオスデュークモン』ごとき怖くもなんとも無いクセにっキュ」 「言わないであげて『キュートモン』。初対面の坊主も居るのにこの『カオスデュークモン』の株どんどこ下げるような事言わないであげて『キュートモン』。この『カオスデュークモン』、お前の上司。数少ない究極体。ドューユーアンダスタン?」 「ああ、そうっキュ。自己主張が薄いからすっかり忘れてたっキュよ。……何を連れてきたのキュか半端者」  上司だという割にかなり『カオスデュークモン』の主張を雑に無視しながら、改めて『キュートモン』はサリエラを睨む。  ……やはりサリエラには、睨まれているという感覚はほとんど無いのだが。 「あ、えっと、俺は」 「サリエラだよ~。昨日ぼく達と知り合ったの~。狩人さんの弟子で~、ぼくのともだち~。お姉さんを探して『こっち』に来たんだって~」 「……」  杭に紹介の台詞を取られて。  しかしまあ、どう名乗ったものかと悩んだのも事実なので、この場合は杭に感謝するべきなのかと――サリエラは、かなり微妙な顔をして。  それを見て、『キュートモン』もサリエラの性質と言うか、立場と言うか、そういうものを何となく察したらしい。「半端者が、弟子をねぇ」と呆れたように呟いて、彼自身は鋭いつもりでいた目力を幾分か弱めた。 「まあ連れてきたヤツは兎も角、新規の客には違いないっキュ。相手はしてやるっキュよサリエラ。……ほら、何をぼさっとしてるっキュ『カオスデュークモン』。さっさと店を開けるっキュ」 「うん、こここの『カオスデュークモン』の店なんだけどね?」 「それから金を払うのはわたくしなのですが。とはいえ後半にはわたくしも同意ですよ『キュートモン』」 「はいはい、どうせこの『カオスデュークモン』は仕事の遅い『カオスデュークモン』ですよーっと」 「自覚はあるんだね~」 「……」  悲し気に目を細め、『カオスデュークモン』はがしゃがしゃと音を立てながらとぼとぼと歩き、『キュートモン』の背にそびえる丸太小屋のような建物の壁に持っていたランスを立てかけて、扉のノブに手をかける。  だが、それを引く前に振り返ったかと思うと、改めて、鎧と比べるとあまりにも明るい金色をした瞳をサリエラの方へと向け、緩やかに細めた。 「歓迎するぜ、新米探索者くん。ようこそ、この『カオスデュークモン』の『『カオスデュークモン』の武器屋』へ」 *  武器屋、という割に『『カオスデュークモン』の武器屋』の中は酷く殺風景で、唯一飾られている武器と言えば、改めて室内に持ち込んでから取り外した『カオスデュークモン』自身の所持品……あの大きなランスと円盾のみである。  とはいえ単純に立派ではあるそれらの装備品を、当初は思わず食い入るように見つめていたサリエラだったが――不意に『カオスデュークモン』と言葉を交わしていた女が振り返り「ああ、間違っても触らないように。溶けますよ」と声をかけてきて以来、彼は(真偽はともあれ)それらから距離を置いている。  何もかもにおっかなびっくり、という少年をにまにま目を細めて眺めながら、女との話を終えた『カオスデュークモン』はようやく、武器を求めている当人を、店の奥のカウンターから身を乗り出し、手招きする。 「坊主。『選ばれし子供』ちゃんから大体の話は聞いたぜ。まさか何の準備も無しにお姉さんをさがして『この世界』に飛び込んでくるたぁこの『カオスデュークモン』もびっくりだ。よしよし。飴ちゃんをやろう」 「あ、えっと……どうも……」  近寄るなり半ば強引に握らされた飴と『カオスデュークモン』を交互に見比べ、とりあえず頭を下げておくサリエラ。  『カオスデュークモン』は愉快そうにけらけらと声を上げた。 「本当に、『デジタルワールド』じゃぁあんまり見かけない、つまり長生きできないタイプだ! 面白いねぇ」 「キュ……『カオスデュークモン』」 「おっと失礼。如何せんこの『カオスデュークモン』も坊主みたいな客は初めてでな。うーむ。シメールならうまいこと相手してやれるんだろうが」 「シメール?」  唐突に出てきた単語にサリエラが首をかしげると、背後の女の手元から「あ~」と間延びした声が届く。 「そうだ~、そういえば居ないね~シメール~。どうしたの~?」 「……体調不良だと、この『カオスデュークモン』は聞いている」 「サボりですか」 「サボりだな」  ウチのもう1人の従業員キュと、女と『カオスデュークモン』のやり取りを見守っていたサリエラにキュートモンが耳打ちする。  1人だけ『怪物』の名前じゃないのかと少々引っかりはしたものの、すぐに赤ずきんの事が思い浮かんで、サリエラはそれ以上何も聞かなかった。 「ま、居ない奴頼ってもしゃーないしな。ほれ、坊主。ちょいと手を出しな」 「?」  言われるがまま手を出すサリエラ。  一々素直に従うのがよほど珍妙なのか、『カオスデュークモン』は軽く噴き出してから、カウンターの引き出しを開けて1枚のメモリーカードを取り出し、それをサリエラの手の平に置いた。  と―― 「!?」  ずん、と。  飴を受け取った時と変わらない心づもりでいたサリエラの手を、予期せぬ重みがずしりと襲う。  結果、まあまあ鈍い音を立てて、サリエラはカウンターに手の甲をぶつける羽目になった。  衝撃で、メモリーカードがサリエラの感じた重みに反して軽やかに宙へと飛び出す。 「っ」 「悪い悪い」  『カオスデュークモン』が、メモリーカードが落ちるよりも前にそれを手甲の内に収める。 「試す様な真似をして、この『カオスデュークモン』は本当に悪かったと思っている」 「い、今のは……?」 「平均的な重さの『武器』キュね」  心底の呆れを込めて、キュートモンが『カオスデュークモン』の言葉を引き継ぐ。 「データを解凍して重さと見た目が合致するようにすればオマエにでも持てたかもしれないキュけど、今のでまともに持てないようじゃあオマエの膂力も底が知れるというモノキュ。加えて簡単に見た目に騙されるようじゃ、ハッキリ言って探索者にはまるで向いてないっキュね」 「う……」 「半端者の連れじゃなかったら適当にあしらってやる所だったっキュよ、まったキュ……」  そんな事を、言われても。  こちらは右も左もわからないのだ、と。しかし『キュートモン』が指摘しているのはまさに自分のそういうところだと、ただただサリエラはうなだれる事しか出来ない。  「キュん」と『キュートモン』は鼻を鳴らした。 「……なあ、『キュートモン』。流石に言い過ぎでね? 坊主この『カオスデュークモン』の『『カオスデュークモン』の武器屋』のお客さんだぜ? 解ってる?」 「客だから自分の身の丈を教えてやってるのっキュ。……ほら、『カオスデュークモン』。オマエもさっさと『手袋』なりなんなり出すっキュ。そのくらいなら、コイツにも多少は扱えるだろうキュよ」 「へいへい。全く、どっちが店主か解ったもんじゃねえや。……『選ばれし子供』ちゃん、ちょいとその坊主用に調節するから手伝ってくれや」 「はあ、まあいいですよ。では『キュートモン』、しばらくサリエラの相手をお願いします」 「え?」 「仕方ないキュね……ほら、サリエラ。こっちに来るっキュ」  「サリエラ~、また後ね~」と杭の声に送られて、サリエラは一度小屋の外に出される。  そのまま『キュートモン』の後ろについて店の裏手に回ると、そこには畑が広がっていた。  ……最も、ずらりと生え揃っているのは植物ではなく、こんがりと焼けた骨付き肉なのだが。 「……え」  目をこすり、視界を改めようとするが、紺碧の瞳に映る景色は変わらない。 「なにコレ」 「……まさか肉畑を見るのも初めてっキュか。……ああ、いや、半端者の『宿』には無いんだったキュか。なら仕方が無いキュね」  呆然とするサリエラを他所目に、キュートモンは一番近くにあった、自分の半身程ある骨付き肉を畝から引き抜いて、畑の隅に在る籠へと投げ入れた。  肉が吸い込まれるように籠の中に消えていくのを見守ると、同じような作業を繰り返し始める。  2、3本が抜かれたあたりで、これは収穫作業なのだとサリエラは理解する。 「……手伝おうか?」 「そう思うなら言う前に手を動かすキュ」 「……」  キュートモンを真似て肉を引き抜いてみると、重さは恐らく見た目通りで、サリエラにも簡単に回収する事が出来た。  土から肉を引く、というのはあまりに異様な体験ではあったが、作業自体にはすぐに慣れ、数分もしない内に全ての肉が畑から姿を消す。  ふう、と『キュートモン』は息を吐き、額を拭った。 「やっぱり少しでもタッパのある奴がいると早いっキュね。……ほら、サリエラ。1つくれてやるキュ」 「え? わっ」  籠から入れたばかりの肉を取り出して、『キュートモン』はサリエラにそれを投げる。  どうにか受け止めた骨付き肉はほんのりと温かく、作業中も気にはなっていたあからさまに良い匂いが、サリエラの鼻孔をくすぐった。  朝食からそう時間が経っている訳では無いが。  魅力的では、あった。 「どうしたキュ? 食べないキュか? ……安心するっキュ。今更また騙したりはしないっキュ。そんな回りくどい事しなくても、お前くらい、オレ程度の『デジタルモンスター』でも簡単に殺せるキュからな」 「っ……」 「だからそれは、単純に畑仕事の報酬っキュよ。さっさと食べるっキュ。オレも食べるキュから」  そう言って新たに籠から肉を取り出し、それ以上は何も言わず、『キュートモン』は骨付き肉にかぶりつく。  兎に似た『怪物』が肉を歯で引き千切っている様子に思わず目を取られるサリエラだったが、流石に『キュートモン』の食べながらの目配せには気が付いて、自分も慌てて、肉に噛み付いた。  表面こそ少し硬かったが、じゅわりと広がる肉汁と香ばしい匂いは十分少年の食欲を刺激するもので、気が付けば、サリエラはあっという間に骨付き肉を平らげていて。 「……まあ」  けぷ。  小さなげっぷを挟んでから、大きく膨らんだ腹を摩り、同じく骨付き肉をただの骨に変えた『キュートモン』は軽く頷いた。 「そんな風に食欲があるなら、ひとまずは心配無さそうキュね」 「?」 「やる気だけはあると思ってやるっキュ。……だから、少しだけ、アドバイスもしてやるっキュ。弱者の先輩として、少しだけ、キュな」 「弱者……」 「見た目通り、オレは『デジタルモンスター』の中では弱い順から数えた方が早い存在キュ」  さっきも言ったキュけど、オマエよりは強いキュからな。そこは勘違いするなキュよ。と付け加えて。それから、『キュートモン』は話を続ける。 「この世界で弱い奴が生き残る方法は2つキュ。1つは、強い『理性持ち』に取り入る事。もう1つは、死に物狂いで自分より弱いやつを見つけて殺して、それを積み重ねて次の段階に『進化』する事キュ。まあオレとオマエは今のところ前者キュな。あの半端者と杭の坊ちゃんの機嫌を損ねない限りはまず死ぬことは無いキュ。そこだけは、安心していいっキュ」  サリエラは思い返す。  『怪物』を簡単に切り伏せる女の姿を。  ……そう言えば、先程も『キュートモン』は、女と杭なら究極体である『カオスデュークモン』にも勝てると言っていなかったか。  もちろん、初めて目にした究極体が『カオスデュークモン』であるサリエラには、ピンと来ない話ではあったが――きっと異常な事なのだろうと、それだけは、なんとなしに、感じ取る。 「ただ『この世界』は――いや、厳密にはオマエらニンゲンの世界もそうなのかもしれないキュけど――『デジタルモンスター』、ニンゲン問わず、「弱い『理性持ち』は死んだ方が都合がいい」ように出来ているっキュ。それは、忘れない方がいいっキュ」 「都合がいい?」 「例えばオレが死ぬとするキュ。そうなると、オレの『理性持ち』としてのデータは一度分解されて、新しく生まれる別の『デジタルモンスター』にどこかで引き継がれるっキュ。……『理性持ち』を作った学者連中は、『理性持ち』の『デジタルモンスター』がどんどん増える事を望んでいたから――まあ、ひたすら弱いオレ達『キュートモン』に増殖能力があるって事は、つまり、そういう事なのキュよ」  一瞬間を置いて、『キュートモン』の言葉を噛み砕いて、理解して。  押し黙るサリエラに、また溜め息をひとつついて、きっと本人のためだと、『キュートモン』は小さな口をまた開く。 「姉を探していると言ったキュね。……正直、期待はしない方がいいっキュ」 「それは――うん。あんまり、してないんだ」  わざわざ、杭との話を教えたりはしなかったが、  サリエラはただ、力無く首を横に振る。  姉の生存はもう昨日の時点で絶望的だと判断している。むしろ彼に必要なのは、姉の死に対する、確信であり、末路についての詳細だった。 【キミのお姉さんは、この『鍵』を使った先の世界に居る】  『あの日』突然送られて来た差出人不明の手紙だけが、少年が唯一縋りつける、縁だったのだから。 「そうっキュか。……なら、いいっキュ」  彼にとって幸いな事に、『キュートモン』はサリエラの言い分を追求しなかった。  代わりに仕草自体は名前の通り愛らしく首を傾げて、困ったように、眉間に皺を寄せる。 「しっかし、妙に何かと世話を焼きたくなる子供っキュね、オマエは。『カオスデュークモン』もやたらと気にかけているっキュし……」  サリエラは思わず目を見開いた。 「杭も俺の事、「気になる」とか、そういう事言ってたんだ。「懐かしい」って、そんな風にも」 「杭の坊ちゃんが? キュウ……。……如何せん、オレは最初の『キュートモン』から数えて4世代目くらいらしいキュから、推測でしか言えないのキュが……ひょっとすると、オマエの姉はもしかしたら、『選ばれし子供』だったのかもしれないっキュね」  『選ばれし子供』。  『カオスデュークモン』が女を呼ぶ際に使っていた言葉だと、サリエラは半ば身を乗り出して『キュートモン』に迫る。 「さっきから気になってたんだけど、『選ばれし子供』って、何? 師匠、子供って言う程若く無いと思うんだけど」 「はぁ!?」  『キュートモン』の声が荒いだ事によって、結局、サリエラはむしろのけ反る事となるのだが。 「あんの半端者、ウチに『武器』買いに来たクセに『選ばれし子供』の話すらしてないっキュか!? ……あー、しないか……。アイツはそういうヤツっキュわ……」 「え、えっと……」 「おいサリエラ」  びしり、と『キュートモン』の小さな指がサリエラの方に向けられる。 「オマエが鍛えれば『デジタルワールド』内でなら最終的にあの半端者並に強くなれると思っているならその幻想は今すぐ捨てるっキュ」 「いや、流石に師匠みたいになれるだなんて思ってないけど……」 「そういう問題では無いキュ。『デジタルモンスター』をロードして強くなれるのは、オマエじゃなくて『武器』だけキュ。間違ってもウチの店の不具合じゃないっキュ。その辺勘違いするなキュよ」  店主を雑に扱う割に商売けはあるんだな。まくし立てる『キュートモン』に面食らったサリエラの頭には、混乱からかむしろ呑気な感想が浮かんでいた。  最も、そんな考えは、「よく聞けキュ」から『キュートモン』が紡いだ 「『選ばれし子供』というのは、『理性持ち』の『デジタルモンスター』にならなかったニンゲンの事キュ」  そんな言葉に、あっという間に、掻き消されてしまったのだが。 「……え?」  呆けるサリエラ。  『キュートモン』は、頭を抱えて天を仰いだ。 「あんの半端者……。サリエラ、オマエを疑っているワケじゃないっキュが、本当に、本当に何も聞いていないキュか?」 「えっ……と……」  注意深く、風呂場での説明を思い返す。  聞き漏らしは無かったかと詳細を思い出すほどに、あの場の熱気まで再現するように頬がまた熱を帯び始めたが、そこは、咄嗟に、両手で隠した。 「……」  ――創世後動かなくなった『神』に代わって『この世界』を管理し始めた研究者達は、『怪物』に理性を与える研究を始め、それは概ね、上手くいきました。その結果のひとつがわたくしの愛しい赤ずきんちゃんであり―― 「……『怪物』に理性を与える研究の副産物が自分だって、それは、確か、言ってた」 「嘘は言ってないキュがひどく言葉足らずっキュね……。サリエラ、アイツはそういうヤツっキュ。今の内に諦めておくキュ」 「『選ばれし子供』というのは、『怪物』の心臓部、『デジコア』を移植されて後も人間の姿形を保ち、しかし『怪物』の能力自体は引き継いだ存在の事ですよ」  文字通り、サリエラは跳ね上がった。  『キュートモン』の話に集中していたせいで、女の声は、全く意識の外から響いて来たのだ。  ……最も、『キュートモン』の話に集中していなくてもおそらく結果は同じだったに違いなく、飛び上がりはしていないだけで、『キュートモン』の方も女の接近には気づいていなかったのだが。 「……そういう訳なので、一応、『怪物』ではないのですがね」 「サリエラが驚いているのはオマエに気配もクソも無いからキュ半端者」 「酷い言いようですね『キュートモン』。というか、わたくしから教える側的なキャラを取るのは止めていただけませんかね。わたくし、彼の師匠なんですよ?」 「そう思うなら、基本情報は前もって伝えておけキュ」 「いいじゃないですか、今教えたんですから」  話にならない、と眉間に幽かな皺を寄せる『キュートモン』。  サリエラの方はサリエラの方で、当然、聞きたい事も有りはしたが―― 「ね~、狩人さん~。サリエラ呼びに来たんじゃないの~?」  ――口に出すよりも早く、それは女の左手にある杭に、遮られる。 「おっと、そうでしたね。……サリエラ、こちら、貴方の『武器』です」  女は右手に握っていた物を、サリエラの方へと差し出す。  先程の事もあるので恐る恐る手を差し出そうとしたサリエラは、ふと、女の小指の先端に、ここに来た時は無かった筈の包帯が巻かれている事に気づく。 「師匠、小指、どうかした?」 「ん? ああ、ちょっとわたくしの爪を使ったので」 「は?」 「狩人さんの『デジコア』とは~近い種類の『怪物』のデータが使われてるとかで~、『武器』を人間用に改造するのに~都合が良かったんだって~」 「割と痛かったので、心して受け取って下さいね。サリエラ。……あ、わたくし今何だかとても師匠っぽい」 「……」  流石に引き気味の表情を隠す事も出来ないまま、サリエラはそれでも仕方なく、女の爪を使ったという『武器』を両手で受け取る。  『武器』という名称に反して、それは軽く、柔らかだった。 「……手袋……?」  「さっき言ったっキュよ」、と『キュートモン』。  黄色地にオレンジの縞が入った2枚の手袋には、確かに先に鋭い爪のような飾りがついているものの色は黒く、とても女の生爪を剥いだものが使用されているようには見えない。  手の平の側を見てみると、ぷっくりと丸い球体が付いていて、まるで猫になりきるためのパーティーグッズだと、これでは杭の方がまだよほど武器らしいと、サリエラはさらに首を傾けた。 「えっと、あの、師匠……これ? これが『武器』なの?」 「ええ」  頷いて、女はサリエラに背を向ける。 「今から使い方を教えるので、ついて来て下さい。『カオスデュークモン』が準備をしている筈です」 「サボってなかったらね~」  「この『カオスデュークモン』はサボってないぞ、この『カオスデュークモン』は!」と少々離れた所から声が飛んで来る。  「地獄耳キュね。見習いたいモンだキュ」と首を軽く横に振ってから、『キュートモン』も女の方へと歩き始めたのを見て、サリエラも慌てて後に続いた。  『『カオスデュークモン』の武器屋』の少し先、広場のようになっている場所で『カオスデュークモン』は待ち構えており、彼の隣には大きな丸太が地面に2本、立てられていた。 「ほい。特訓用の丸太、設置しといたぜ」 「実質薪割りでは」 「その分お代は引いておくから」 「……」  女はぽりぽりと頬を掻いてから、サリエラの方へと振り返った。 「『手袋』は……まだですか。着けてみてくださいサリエラ」  言われた通り、手袋を装着するサリエラ。  着けてみると余計に「ただの手袋」感が強くなり、サリエラはますます腑に落ちない。  当然気にせず、女は怪訝そうなサリエラから視線を外すと、不意にファスナーを下ろし、作業着を脱いだかと思うとそのままそれを広げて地面に敷くように置いた。 「爪を使うなら『あっち』の方が良いと思うので……」  言いながら、白い半袖のTシャツ姿になった女は、作業着の上に杭を丁寧に置いた。 「杭ちゃん、すみませんが、しばらくその状態でいて下さいね」 「わかった~」  間延びした返事に満足そうに頷くと、立ち上がった女は丸太と向かい合う。  次の瞬間、音も無く、女の肌が静かに裂けた。 「!?」  何本もの藤色に光るひび割れが、露出した腕にうっすらと走る。  呆気に取られるサリエラの前で――女は左手を、振り上げた。  そのまま振り下ろした指先が丸太の表面を撫でるが否や、触れていない部分にまでびしりと亀裂が伸び、丸太は、綺麗に3つに分かれてそれぞれの方向に倒れていった。 「……。……え?」 「ふぅ」 「狩人さん~、おつかれ~」  一息つくのと同時に、女の身体からひび割れが消える。  それから彼女は、振り返った。 「まあ、こんな感じでやってみて下さい」 「いや無理でしょ」  少年は真顔で呟いた。 「無理じゃないですよ」 「無理だって! っていうかそもそも今の」 「今のが『選ばれし子供』の能力っキュね。『選ばれし子供』は『デジタルモンスター』と同じように、進化が出来るのキュ」  戸惑うサリエラに、もはや慣れてきたのかジト目の『キュートモン』が解説を買って出る。  師匠ポジを自称する女はやや不服そうだったが、ひとまず杭の回収を優先したようだ。作業着に袖を通しながら、口を挟むような事はしなかった。 「さっき半端者も言ってた筈だキュ。『選ばれし子供』は、ニンゲンの姿のまま『デジタルモンスター』の能力を振るえる連中っキュと」 「だ……だったらなおの事、俺にあんなの……」 「それを可能にするのが、この『カオスデュークモン』の『『カオスデュークモン』の武器屋』の『武器』なのさ」 「べつにこいつの商品じゃなくても出来るキュけどね」 「……」  切なげに目を細めて――しかし、すぐに気を取り直して。  『カオスデュークモン』は、促すように、手の平をサリエラへと向けた。 「さ、やってみろよ坊主。「騙された」と思ってさ」 「……」  先の事を考えればあまりにも意地の悪い文句と、その後続いた杭からの「がんばれ~、サリエラ~」という間延びした応援に、背中を押されるというよりは退路を塞がれて、サリエラは直立した丸太の前に立つ。  一度だけ、両手にすっかりなじんだ手袋を見下ろして。  深呼吸を挟んで――構える。  女の取っていたものの見様見真似でしかなかったが、それがサリエラに出来る精一杯だった。  そのまま、彼は指をピンと伸ばして、黒い爪を丸太に向かって、振り下ろし――
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快晴
2020年3月08日
In デジモン創作サロン
 まえがき  本作品は「#おまラス」ことデジモン創作サロンの企画「おまえのLAST EVOLUTION 絆を見せてくれキャンペーン」に参加している作品です。  映画のネタバレはありませんが、やや過激な表現、もしくは人によっては不愉快になる表現が含まれている可能性がございますので、苦手な方はご注意下さい。 「リナちゃんでもワンクッション置くよ!?」  私から顔面にドロップキックをかまされふっ飛ばされ、起き上がった『強欲』の魔王バルバモンの、第一声。  とりあえず目の前のこいつに『デジモンストーリー サイバースルゥース』の知識がある事だけは確認できたが、判った事と言えばそれだけだった。  なので 「やかましい」  私はこれまでに蓄積されていた鬱憤を全て包み込んで、吐き出したひとことへと乗せる。  基本的に出番はパッとしない事が多いものの、バルバモンと言えば魔王の中の魔王。究極体魔王型というだけでデジモンの中ではトップクラスの存在に違いないのに、こいつの場合設定そのものが中世ヨーロッパの貴族の女性の髪形くらい盛られていいるのだ。  一介の人間に過ぎない私なんかよりも、遥かに格上だろう。  だがそれはそれ、これはこれ、だ。  私はバルバモンというデジモンがその設定故に嫌いだった。  何より私はイライラしていて、目の前の存在が『少なくとも祖父では無く、確実に不審者』であるという事実は、八つ当たりという名の暴力を向けるには十分過ぎる理由になる気がしたのだ。  ……この行動が理由でこいつに殺されたとしても、それはそれで。という思いが無かった訳でも無い。 「いや、「やかましい」て」  しかしバルバモンはというと、私のキックに対して怒ったような素振りは見せなかった。  強いて言うのであれば、困惑、くらいだろうか。 「聞いてた? これ、お嬢ちゃんのお爺ちゃんの身体だよ? 自分の身内の身体がさ、魔王に乗っ取られてたらさ。いくらなんでも普通、もっと驚くとか、怖がるとか……ほら、ワシを畏れ敬いなさいよ」 「やかましい」  お嬢ちゃん、といういい加減年齢にそぐわなくなってきた呼称にもかなりイラッときたので、私はもう一度、当初の台詞を繰り返した。 「私。嫌いなの、バルバモン」 「お、おう」 「あんたの図鑑説明の最後にある「必殺技はベリアルヴァンデモンより超強いよ」の1文のせいで私がどれだけ嫌な思いをさせられたか解ってる?」 「そ、そんな事言われても……ワシ強いもん……」 「五月蝿い」 「スミマセン」  事態は未だに呑み込めていないが、『強欲』の魔王はどうやら、私ごときに気圧されているらしかった。  それがさらに、私の苛立ちを加速させる。  この魔王が情けない姿を曝すという事は、この魔王より『下』であると明言されてしまっている、他の魔王型デジモン達の格まで下げてしまうという事に他ならないのだから。  加えてそれら魔王型デジモンの格が下がるという事は、そのデジモン達と死闘を繰り広げたキャラクター達にまでその影響が及ぶという事なのだから。 「私、デジモン、好きなの。好きなのに……っはー。何? なんでよりにもよってバルバモンなワケ? 今この瞬間が夢か現かなんて知らないけど、どっちにしたって「私が初めて対峙したデジモン」が大嫌いなバルバモンって。何」 「そ、そこまで言う事無いじゃん?」 「……」  私はもう、同じことを言う気にはなれなかった。 「……ねえ、お嬢ちゃん」 「……」 「渋谷系デジモンしてたパンプとゴツ見下ろすヴァンデモンだって、もうちょっと優しい目ぇしてたよ?」 「……」  とりあえず第2の情報として、このバルバモンには『デジモンアドベンチャー』の知識がある事も、解った。 「……えっと」 「……」 「お嬢ちゃん、デジモンは、好きなんじゃよね?」 「……」 「ほら、多分、それならワシの話、面白いと思うよ」 「……」 「何がどうしてこうなったのか、知りたくない? 知りたいじゃろ? 知りたいよね?」 「……」 「言葉のキャッチボォルッ!!」 「手短に簡潔に解り易く話して。老人の無駄話だって判断したら、帰る」 「お……応」  一応は反応を示した私に、バルバモンは一瞬、安堵らしい表情を見せて、それから床に正座をする。 「まあ、いくらワシが魔王とはいえ、まずは、ごいあさつからじゃの」  そのまますかさず公式の誤字ネタをブッ込んできたバルバモンの頭に、私は今度は回し蹴りを叩き込んだ。 *  七大魔王を殺すと、別世界の七大魔王が、強くなる。  そんな設定が降って湧いたのも、思い返せばバルバモンが先ほどネタにした『デジモンストーリー サイバースルゥース』からだったか。  祖父の罵詈雑言を聞き流すスキルを日頃から身に着けていたせいだろう。祖父を依代にリアライズしているためか祖父と同じ声をしているバルバモンの話は驚く程頭に入って来なかったが、それでもどうにか掴めた事の大枠を要約すると、上述の設定のせいで強くなり過ぎた七大魔王を『弱った人間』の中に押し込める事によって弱体化させる、という策をデジタルワールドのホストコンピューターが実行した、との事で。  突如『画面の向こう側』でしか無かった世界観が日常の中に飛び込んで来た事には困惑を覚えざるをえなかったけれど、ひとことで言うと「大体イグドラシルのせい」になるのはとてもデジモンっぽいなと私は思った。 「まあワシらもはいそうですかとタダで弱体化させられるのヤじゃったし、他の連中は知らんがワシの場合は、ホレ」  かぱ、と。  バルバモンは、金色の仮面を外す。  元から露出している口元を除いてその下に顔らしい顔は無く、代わりにあるのは無機質で単眼の白い面で。 「『ネクスト』かよ」  単行本4巻の117ページ参照と言った所か。 「ふふ……ワシはイグドラシル、イグドラシルはワシ……」 「ペルソナ違いだやめろ」  何故か得意げな笑いから一転。ええー、と似合いもしない不服そうな声を漏らすバルバモンを静かに睨み付けると、彼は仕方なさげに金色の仮面を顔に戻す。 「とは言っても、ワシの場合ちょいと権能を借りただけでな。能力の使用はこの身体、つまり依代を探した際の1回こっきりよ」 「……じゃ、なんで私の祖父を使おうと思ったワケ?」 「おっ。なんじゃろな、ようやく会話が成立してきてワシ心がほわほわすっぞ」 「……」  踵を返す。 「待って。スミマセン調子に乗りました帰らないでワシの話聞いてってば」 「聞かれた事にだけ答えろ」  これだけ言っても危害を加える気が無いらしい。むしろ困ったような溜め息を吐き出し頭を振ると、バルバモンは話の続きを紡ぐ。 「孫がな、欲しかったんじゃよ」  私は老人の無駄話だと判断し、引き留めるバルバモンを無視して帰宅した。 *  とはいえ薬の時間になれば様子を見に行くのは私の役目だ。  先程の光景が白昼夢で無かった保証はどこにも無く、サボる事自体は不可能では無いのだけれど、それをして後で責められるのも私なのだ。  忌々しい事に慣れた風習として必要な筈の物の買い物を済ませ、私の足は半ば自然に、祖父の家へと向かっていた。 「……ただいま」  自分帰る場所でも無いのになと思いつつ、父が生まれた家だからという理由でその挨拶と共に勝手口の戸を開ける。 「応、おかえりなのじゃ!」  出迎えた金色の仮面に、私は半身だけを乗り出し荷物だけ置いて再び戸を閉めようと 「違うおかえりって帰れって意味のお帰りじゃないから! 待って、行かないでお嬢ちゃん!!」 「(頭の)風邪、早く治すよ」 「幻覚じゃない! ワシ幻覚じゃないから!!」  閉じさせないように長い爪の生えた指が扉を抑えている。  このままバルバモンの指戸口に大激突的な流れになればいいのにと思いはしたが、流石に究極体魔王型。老人の姿をしていても、力は向こうの方が強かった。  ……それでも多少は拮抗出来る辺り、弱体化自体は本当らしい。 「……何」  もちろんこのまま私の方から手を放して家に帰れば良いのかもしれなかったが、こんなに早く戻ってはサボりを家族に怪しまれるし、これ以上このやり取りを近所の住人に聞かれたらと思うと、それはただただ嫌だった。  こちらの心情を知ってか知らずか、兎に角自分に対応の兆しを見せた私にほっと安堵の笑みを浮かべると、バルバモンは中に上がるよう空いた手で私を手招きする。 「いやあ、お嬢ちゃんが戻ってきてくれて助かったわい。この家、妙に汚いもんじゃから掃除しとったんじゃが――」 「ヘルパーさんにお願いできたらもう少し行き届いたんだろうけどね」  ここに関してはバルバモンのせいでも何でもないが、私は反射的に吐き捨てた。  祖父の自称『気高さ』は身内以外の世話を受け付けなかったし、元より吐き気のするようなクソ田舎の空気はプロによる介護を悪徳と捉えていて。  ぐ。と、バルバモンは戸惑いからか台詞を霧散させて。  しかしどうしようも無いと判断したのか、改めて、口を開いた。 「あー、その……動いたもんじゃから、腹が減ってな」 「はぁ」 「あれじゃよ。ワシ、ひそかにニンゲン世界の物食べるの楽しみにしとったんじゃよね」 「ご飯なら、買って来たけど」  私は足元の買い物袋を持ち上げる。  ぱぁ、と、バルバモンの表情が変わった。 「でかしたぞお嬢ちゃん! 何を買うてきてくれたんじゃ?」 「牛乳」 「ふむ」 「牛乳」 「……それから?」 「牛乳だけ」 「えっ」 「……」 「え……?」  どん。  音を立てて机に置いた袋から2本。1リットルの紙パック牛乳を取り出す。 「……依代の記憶とか、覗いたりできないの?」 「え、できんよ……。いらんし……」  その取捨選択だけは賢いな、とは思った。 「元々私の祖父は偏食が酷くて」 「はあ」 「お医者様が「食べ物があまり食べられないなら、せめて牛乳を食事につけるように」と」 「なるほど」 「そしたらあの人、その日から「医者は毎日牛乳を2リットルだけを取れと言った」っつって聞かなくて」 「なんで?」 「何を持って行っても改めてお医者様に言ってもらっても聞かなくて、それ以外の物を食べさせようとすると「わしを殺す気か」って言って大暴れするから」 「……」 「人間、案外そんなんでも生きていける物なのよね」 「……」 「どうしてもって言うなら冷蔵庫の野菜室にクサリキュウリがある筈だから蜂蜜でもかけて食べればいいんじゃない?」 「せめてクサリカケにしよう? てか捨てよう??」 「勝手に捨てると怒るから」 「えええ……」  人間ですら無い老人型魔王の方が考える事がまともなんだなと鼻で笑って、私は彼の脇を抜けて冷蔵庫を開ける。  むあ、と広がる臭いに胃の腑の奥から吐瀉物をぶちまけないよう息を止めながら、牛乳パックを半ば投げ込むように中へと押し込んだ。 「……ぅぉぇ」 「吐いたら自分で掃除してね。雑巾は捨てていいから。それじゃ」  言葉に変えた呼吸で周りの空気を軽く吹き飛ばしながら足早に去ろうとすると、バルバモンに回り込まれてしまった。  こんななりだが、なんだかんだで、動作は素早いらしい。 「待ってお嬢ちゃん。ワシせめて咀嚼が必要で人体に有害じゃない物が食べたい」 「骨粗鬆症みたいな髭してるんだからカルシウムとってなさいよ」 「やだその罵倒数千年生きてきた中で一番傷ついた。あと骨にはビタミンDとかも大事らしいからね? 多少はね?」 「半裸で日光浴でもしててどうぞ」  もう一度バルバモンを抜き去ろうと試みるが、両手を広げて公式絵みたいなポーズを取られるとケープと羽が非常にかさ高く、勝手口への道はほぼ完全に塞がれてしまっている。  引き返して玄関に回るのも一つの手だが、こいつのすばやさを鑑みるに先程の二の舞だろう。  それに 「やーじゃー! やじゃやじゃやじゃやーじゃあ! 食べたいー! ニンゲンの食事たーべーたーいー!!」  ここまでくると、どれだけ無視を決め込んでも受け入れてくれそうにはなかった。  目の部分は仮面だしそもそも液体を噴出しそうな目でも無かったのに完璧な涙目で食欲を訴えるしわがれ声は、『強欲』の魔王の『強欲』部分が最高にダメな形で発揮されているとしか、思えなくて。 「チッ」 「……いや待って。今「チッ」っつった? 「チッ」って舌打ちしたよね?」  私は見せつけるように同じ動作を繰り返した。  「うわぁ」と静かに、引いた声が響く。 「アルケニモンだってマミーモンにここまでの塩対応はしてなかったよ? ……してなかったよね? してなかったと思うんじゃけど」  舌打ちに代わって、今度はわざとらしく、溜め息。  ……それから。 「ちょっと待ってて」 「へ?」 「すぐに戻るからここ通して。追いかけたりしてこないでね」 「お……? 応……」  すんなりと。  あんなに騒いでいたのが嘘みたいに、バルバモンは通路の端へと身を避ける。  今度こそそこを通り抜けて勝手口を出て。……一瞬、やっぱりそのまま帰ろうかと思ったけれど、約束を簡単に反故にするような人間にはなりたくないと思って、結局、私はいつも貧乏くじを引く。  祖父の家の前に停めていた自転車の籠に置いたままにしていたコンビニの袋を、手に取った。 「はい」  そうして引き返して、バルバモンの前で袋の中身を取り出す。 「……それは?」 「1食当り熱量217キロカロリー、蛋白質3.8グラム」 「……」 「脂質5.9グラム炭水化物」 「やめよう?」 「37.6グラムナトリウム540ミリグラム」 「成分表の読み上げやめよう??」 「……海老マヨのおにぎり。と、骨なしフライドチキン」  いい加減デ・リーパーみたいなムーブを取りやめにして、私は217キロカロリーのラベルをバルバモンの方へ向け、同時に袋の中に残っていたまだ温かいチキンの入ったを手に取った。 「これ食べればいいんじゃない?」 「? え、でもこれ、お嬢ちゃんのご飯なんじゃ?」 「ううん。ご飯はもう食べた。……でも、なんか、こういうの1人で食べなきゃ、食べた気がしないから。……でもいいよ。身体に悪いのは解ってるし。だからどうぞ」  食品を袋に戻して、バルバモンに手渡す。特段食べたくて買った訳じゃ無いのは事実だ。  バルバモンは、私のそんな、いわゆる『おやつ』をまじまじと見下ろして――不意に 「じゃあ、半分こしようぜ」  とのたまったので 「いらない。人の物ってあんまり食べたくないから」  と断った。  もう今日だけで何回「え」を連呼したか解らないバルバモンの口と口周りの皺が、への字に折れながら文字に起こすと3回分くらいの「え」を紡ぎ出す。 「人の物って、ワシこれ今お嬢ちゃんにもらったばっかりなんじゃけど?」 「いらないなら手を付けないで返して。食べ物を粗末にするのは私だって本意じゃないし。今ならまだ間に合う」 「いらんくないいらんくない! ……あー、老人と孫っぽくていいと思ったんじゃけどなぁ」  孫。  自分を指す単語として久方ぶりにそれを聞いた様な気がして、しかしすぐに、数時間前には耳にしている事を思い出す。 「さっきも言ってたけど」 「おん?」 「孫って、何のつもりで言ってるの?」 「えぇ~え? ワシさっき説明しようとしたんじゃけどな~。でもお嬢ちゃん聞いてくれなかったじゃん? それなのにおんなじ説明繰り返すの、ワシとしてもな~?」 「ああ、そう」  気にならない訳では無いが再び話す気が無いというのなら仕方が無い、そう思って帰ろうとしたら、案の定出入り口を塞がれた。  なんだかんだと、もさもさの髪と髭も引く程鬱陶しい。 「興味! 興味を持って!」 「自分も無駄話を求めない以上人に無駄話を強要するのは筋違いかと思って」 「ひん……一見正しげな事言ってるように思えて魂に《ネクロミスト》くらってるとしか思えないようなドライさ……。これにはファラオモンもびっくり……」 「ファラオモン、バルバモンより大分好きよ」 「ほげぇ……。「デジモンに動じない」を検索条件に入れたワシの落ち度なの……?」  こちらに聞く気が薄いと解って素の会話に重要そうなワードを混ぜてきた節がある。  このまま流してもいいが――ただ、その前に。 「それよりご飯、冷める前に食べたら?」  温かいものを、温かい内に。  気遣い云々では無く、冷めた事を自分のせいにされるのが嫌で、私は手放したコンビニの袋に指を指す。 「ん? ふむ……まあ、それはそうじゃな」  そしてバルバモンはいやに素直に、私の言葉に動じた。  相変わらず魔王としての威厳が地の底なのは腹立たしかったが、そもそもバルバモンというデジモンの評価にそこまでのものは求めてはいないし、  それに、 「いただきますなのじゃ」 「……」  食前の挨拶が出来る分、祖父よりはマシな思考回路をしてるなとは、また、思ったりもして。  骨なしのフライドチキンを前に大きく開いた口には、ギザギザの歯が並んでいた。  半分以上をその歯で挟み込んで、そのまま軽く上を向いて溢れ出す肉汁を零れないよう流し込み、その後、バルバモンはチキンを噛み切って、咀嚼する。 「むぐむぐ……あー、城での食事とは随分と趣が違うが、なかなかうまいんじゃー。思ったより衣がサクサクで肉も柔らかいのう。これがお手頃価格で買えるんじゃろ? 人間界いいとこじゃな!」 「はじめて庶民のモノ食べたお嬢様みたいなムーブやめろ」 「わはははは。もはや権能は使えんとはいえイグドラシルの力の片鱗でコンビニおにぎりの開け方はわかるぞい!!」 「だから――。……。あー、もう……」
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快晴
2020年2月11日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫  2話 「……猟師様、杭様。もうお帰りになられたのですか」  ただいま帰りました、と食堂の扉を開けた女とその後ろに居る少年を迎えたのは、肉と野菜を煮込む胃を刺激する匂いと、おたまを片手に硬直して驚きを示す、白いエプロン姿の赤ずきんで。  数秒後、女達に向けていた首に合わせるようにして振り返った赤ずきんは、がしゃんがしゃんと音を立てながら彼女の方へと走ってきた。 「あああ……申し訳ありません猟師様。今夜の夕食にはシチューを作っているのですが、まだなのです。完成にはまだかかってしまうのです。お腹を空かせた猟師様にすぐにごはんをお出しできないだなんて、赤ずきんはなんてひどい家政婦なのでしょう。ああ、お恥ずかしい、お恥ずかしい……」 「いやいや赤ずきんちゃん。悪いのは「多分遅くなる」等と言っておきながら即帰宅したわたくしの方なので、どうか気を病まないでください。大丈夫です、まだお腹空いてません。赤ずきんちゃんお手製のシチューなら1時間だろうが2時間だろうが、なんなら1週間後だろうが完成を待ちますので、どうぞ調理に戻ってください。というか、無理ですし。この状態で、食事」  中を開けば基本的にはがらんどうであり、その上死後は細やかな粒となって消え去る『怪物』達だが、何故か斬れば体液が噴き出す個体が少なからず存在している。  衣服等に付着した分は対象が死亡しようともそのままで、おまけにあの地形である。  女も杭も、そして彼女達の背後で蒼い顔をしている、どうにかこうにか女から見捨てられずに済んだ少年も、『怪物』の体液の上から砂を被ってその上からさらに体液を浴びての惨たらしいミルフィーユが服や皮膚、髪の上で形成されていて、まともな神経をしていればとても耐えられないような有様であった。  流石の女もごはんにするか、お風呂にするか、赤ずきんかと聞かれれば、赤ずきんと答えかけて、しかし彼女を汚す事を気にしてとりあえずは入浴を選択するような心理状態である。  そして赤ずきんは自分の需要など確認すらせず「ああ、ごめんなさい。お風呂ですよね。洗ってはあるのでお湯を入れてきます」と慌ただしく食堂を飛び出していった。  心なしか寂しそうな女の傍ら、「急がなくていいよ~」と呼びかける杭だったが、赤ずきんの背中は曲がり角に消えてすぐに見えなくなった。 「……ま、わたくし達も風呂場に行きましょう。お湯は身体なり洗っている間に溜まるでしょう」 「ぼくは浸かる必要無いしね~」 「が、その前に」  くるりと少年の方へ振り返る女。その目つきは、若干冷たい。 「イケメンの坊や。貴方さっき、赤ずきんちゃんの顔を見て息を飲みましたね?」 「え、あ……」  口調こそ変わらないが、赤ずきんの前とは打って変わって明らかに殺気立っている女を直視できずに、少年は視線を泳がせる。女は自分を抑え込むようにふう、と小さく息を吐き、杭の先端を少年に向けて何度か軽く持ち上げながら 「無理も無いのは解ります。頭では解っています。ですが、次にやったら殺します」  と、ほとんど独り言のように囁いた。  少年は女を追いかけながら彼女が『宿』に戻るまでに十体近くの『怪物』を殺すところを見ていたが、明確な殺意を向けた存在は今、この瞬間の自身だけしかいない。  一瞬にして肌が泡立ち、目に涙が溜まる中、少年は必死の形相で何度も何度も頷いた。  確かに目の前の女に比べれば所々筋繊維が剥き出しになっている、女性の声で喋るアンドロイドなど危害を加えてこない限りは本当に可愛らしいもので、赤ずきんと呼ばれた『怪物』を二度と怖がりはしないだろうと、彼は心の底から確信するのだった。  と、流石に少年を襲う吐き気を伴う程の恐怖心は感じ取れたらしい。特にフォローにはなってはいないが「ま~ぼくと赤ずきん関連じゃなきゃ狩人さんは怒らないから~、大丈夫だよ~」と少年を励ます杭。  何が大丈夫なのか少年にはさっぱりだったが、女の方は言いたい事を言って気持ちが落ち着いたらしい。「杭ちゃんの言う通りで、そういう事です」と殺気を放っていた事自体が嘘のように振る舞ってから、赤ずきんの走っていった通路を辿るように進んでいく。  やや釈然としないまま、少年もその後を追った。  しばらく歩いて、女は毎朝(今日は昼だったが)食事の前に訪れる洗面所の前で足を止め、既に開いている扉から中を覗き込む。  奥が脱衣所に、更に奥が浴場になっているその空間では、赤ずきんがせっせとタオルを用意していて。 「赤ずきんちゃん」  浴槽に流し込まれるお湯の音にかき消されない程度の声量でかけられた女の声に、お湯の音にかき消される程度の驚きの声を上げてから振り返る赤ずきん。  少年は、今度は息を飲まなかった。 「お湯の支度をしてくれているならあとはこっちでやりますから、火の元の方をお願いします」 「あ、はい。了解しました。……あ」  と、ここでようやく、赤ずきんは少年の存在に気付いたらしい。碧い目と半ば飛び出た目玉が平行線を描くと、赤ずきんは不思議そうに首を傾けた。 「貴方様は……?」  そしてハッとしたかのように口元に手を当て 「もしや、レンタルパーク様?」    と、呟いた。 「へ?」 「サンタクロースですか赤ずきんちゃん。サンタクロースですよね赤ずきんちゃん? 何ですかレンタルパークって。動物園貸し切りとかそんな感じですか。無茶苦茶楽しそうじゃないですか。……しかし残念。申し訳ありませんが、彼はサンタクロースではありません。彼は……そうですね、客人といったところでしょうか」 「狩人さんは~「イケメンの坊や」って呼んでるよ~」 「お客様」  赤ずきんは少年に向けて、丁寧に頭を下げた。 「ごめんなさい、気付くのが遅れてしまって。赤ずきんは赤ずきんといって、猟師様と杭様の『宿』で家政婦をしているモノです。どうかお見知りおきを、イケメンの坊や様」 「っ……な、なあ」  流石に呼び名として「イケメンの坊や」が定着する事は羞恥心が許さなかったようだ。顔を真っ赤にしつつ、少年は恐る恐る手を上げる。 「どうしたの~?」 「イケメンの坊やはやめてくれよ。俺には――」  言いかけて、いったん口をつぐみ、一瞬の間を置いてから 「――サリエラ。俺は、サリエラって名前なんだ」  少年はそう、名乗った。  と、女が首をかしげる。自分でも違和感を感じるような名乗りを女が不自然に思ったのかと少年――サリエラは身構えたが、どうやら、そうではないらしい。 「サリエラ。……塩入れ(サリエラ)? はあ、変わった名前ですね。まあ日本と西洋では塩観が違いますから、そういうのも有りなんでしょうが。それともご両親が彫刻好きだとか?」  女が疑問に思ったのはサリエラの名乗り方ではなく、名前そのものだったようだ。妙な疑念を抱かれなかったことに安堵するサリエラだったが、その一方で、女がサリエラという名前の意味をすぐに理解したことに、少なからず驚いた。 「えっと……イタリア語は解るのか?」 「いえ全然。ただ同名の美術品について聞いた事があるだけです。『彫刻界のモナ・リザ』とかなんとか。作者の名前は長いので覚えていませんが、ただの調味料入れが王侯貴族の持ち物になっただけであんなにゴージャスにされていると思うと、ほら、面白おかしいじゃないですか。そういうの、割と好きなんですよ」 「っていうか~、サリエラはイタリアの人なの~?」  ここぞとばかりにこくり、と頷くサリエラ。  「フランスの人じゃないんだね~」と、杭は女の勘違いを指摘する。芸術の話をしてややご満悦な女だったが、それには若干バツが悪そうに肩をすくめ、「わたくしもまだまだイケメンに関する見識が足りていなかったようですね」と反省らしきものを態度に示すのだった。  少しばかりの気まずさを隠すように軽く咳払いを挟み、女は改めて、赤ずきんの方へと向き直る。 「というわけで赤ずきんちゃん。このイケメンの坊やはサリエラというそうです」 「りょ、了解いたしました」  新たに名前を教えられた赤ずきんは再び視線を女からサリエラへと移し、もう一度ぺこりと頭を下げると 「どうぞよろしくお願いします、サリエリ様」  当たり前のように名前を間違えた。 「……」  名乗ったばかりの名前を当然のように間違えられて言葉を失うサリエラ。訂正を、と数秒の後、なんとか喉の奥からそれが出かかったのだが、 「本当に惜しいですが、それだとタイトル的にモーツァルトが主人公だと思われかねない映画の主人公になりますね。実際の彼は自分がモーツァルト殺しの犯人だと噂されていた事にかなり気に病んでいたとどこかで聞きましたけれども。……まあ、挨拶は後で改めて場を設けますので、赤ずきんちゃん、そろそろ煮込みかけのシチューに灰汁が浮いているのでは?」 「はっ。……赤ずきんはまたうっかりしていました。行ってまいります、猟師様。必ずや美味しいシチューにいたしますので、お手数ですが、こちらの事はお任せします」 「はい、大丈夫ですよ」  準備したタオルだけは脱衣所に置いて、赤ずきんは再び焦った様子で走り出す。……が、洗面所を出る前にサリエラの前で一瞬足を止め 「それでは、また後程。失礼いたしますサメジマ様」  そう会釈してから走り去っていった。 「え、えええ……」 「あれは嫌な事件でしたね」 「いや、何が」 「真実はさて置き、とりあえず名前の間違いについては気にしないでください。赤ずきんちゃんは……簡単に言うと、人の名前を正確に覚えられないのですよ」  女が妙な間を挟んだせいで余計に釈然としないサリエラだったが、「赤ずきんが関係する事だと女は怒る」という情報は既にインプット済みである。不満や疑惑は口にせず、代わりに女の説明に対しても了承の意を表しはしなかった。  最も女の方も赤ずきんが青年の名前を間違えた時、言葉を発するのは少年より早かったとはいえ僅かな沈黙を保っていたのだが――サリエラは、その事には気づいていない。 「まあ先ほども言ったように挨拶に関しては、そうですね。食事の時にでも改めて行いましょうか。とりあえず、まずは風呂です」  そう言って、女は作業着のジッパーを下ろし、杭を脇に置くと袖から腕を抜いた。途端、服に入り込んでいたらしい砂が音を立てて床へと零れ落ちる。 「あ~。後で掃除しないとだね~」 「服も一度風呂場で洗った方がいいでしょう。……詰まりませんよね? 排水溝」 「ここで少しはたいといたほうがいいかもね~。どうせ掃除するんだし~」 「ちょ、ちょっと!」  女がインナーの裾に手をかけた瞬間、赤ずきんの事でもやもやしていたサリエラの思考が一気に切り替わった。  何にかというと、まあ、青少年として当然の恥じらいに、である。 「な、何してんの!?」 「何って、服を脱いでいます」 「あ、もしかしてサリエラは~、服を着たままシャワー浴びた方が良いって言いたいんじゃない~?」 「ああ成程。これだけ汚れていたら、風呂場である程度流してから脱いだ方が少し手間を省けますか。……まあ、やはり詰まるのが心配なのと後で脱ぎにくいですし、わたくしはここで。貴方は好きにしてください」 「じゃなくて!」  青くなったり、赤くなったりとは少し前に杭がサリエラを指して言ったことだが、今回の彼の顔は耳まで真っ赤に染まり、見た目通りの熱を帯びている。 「? じゃなくて?」 「いや、だって……俺は男で、えっと……あんたは女で、その、その……」  恥ずかしい、と言う事さえ恥ずかしいようだ。まだ露出自体は作業着着用時と大差ない女の身体の線に対してまで目が泳ぎ始めている。  一応、流石に女も少年の心情を読み取ったらしい。 「大丈夫ですよ、杭ちゃんも性格上は男の子ですし。わたくしは気にしません」 「おっ、俺が気になるんだよ!」  読み取れただけで、気遣いはズレていたが。 「もういいよ! 俺は後で入るから!」 「そうなんですか? どうせなので風呂の中で色々お話しようと思っていたのですが。……いやしかし、早く洗っておかないと髪の毛とか大変なことになりますよ。せっかく綺麗な髪をしているのに、それはもったいない」 「俺の髪なんかどうでもいいよ」 「わたくしが気になります」 「なんでそっちは気にして自分の裸は気にしないの!?」 「んー……強いて言うなら、繁殖能力が無いからですかね? 異性に女性的だと思われる事も、思われない事も、もはやどうでも良い身なので」  とにかく自分は恥ずかしいのだとどうにかこうにか女に伝えようとしていたサリエラも、彼女の返答には思わず閉口する。  女の機嫌云々の話では無く、彼を構成してきたこれまでの一般常識が、サリエラに言葉を返させるのを拒ませた。  だというのに、女の方は事も無げに言う。 「なので、貴方を散々イケメンと呼称しているものの、男性的魅力を感じているわけではないので安心してください。色んな意味で、取って食ったりはしませんから」  本当に、何の感情も籠っていない言葉だった。  例えばその日、その時の天気を述べているかのような、ただただ事実だけを語った言葉だった。  青年は、そんな時に用意できる「常識」など知らない。 「……なんか、ごめん」  考えても考えても、出てくるのは、せいぜいが何に対してかも解らない謝罪の言葉で。  そして当然、女はサリエラの考えていることなど気にしない。  気にしないが、その謝罪には反応した。 「ふむ。ようやく解ってくれましたか。では一緒にお風呂に入りましょう」 「なんでそうなったの!?」 「? その「ごめん」というのは、わたくしとのお風呂が嫌だと駄々をこねた事に対してでは無いのですか?」 「もう一回言わせてもらうけど、なんでそうなったの!」  首をかしげる女。「もういいよ……入ればいいんでしょ……」と顔を覆うしかできないサリエラ。脇に置かれた杭だけが、「狩人さん以外とお風呂だなんて~、初めてだね~」と妙に楽しそうだった。
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快晴
2020年2月06日
In デジモン創作サロン
            次の話≫≫ プロローグ 「『あわてんぼうのサンタクロース』って歌、あるじゃないですか」  女は懐から長い電飾を取り出した。  一目見て解るような安物だが長さだけは十分にあり、胸元に忍ばせれば確実に不快感を付き纏わせるであろうそれをよりにもよってこんなところにまで携帯しているこの女の神経が、それだけでも窺い知れそうなものだった。 「あるね~。クリスマスよりも早く来ちゃったサンタさんの歌だっけ~?」  女に応えたのは、間延びした少年の声。、彼女が電飾をいじり始めてなお手放そうとしない、左手に握られた杭から発せられている。  杭。  ホームセンターなどで500円ほど出せば買えるような、打ち込まない側が円になっている金属製の杭だ。長さは女の腕より少しばかり長く、見た限りでは、本当に何の変哲もない杭である。  それが、言葉を話している。 「常々思うのですが、あの歌のサンタクロース、不審者極まりなくはありませんか? ……いえ、サンタクロースとはそもそも不法侵入者そのものではありますがそれはさておき、いくらサンタクロースとはいえ煙突から落ちてきて真っ黒くろけの状態で仕方なく踊り出す知らないジジイってどうですか? 嫌でしょう。わたくしが家主だったら殺しますよ」  口を動かしつつも、女は手を止めない。  ……とはいえその作業ぶりはお世辞にも丁寧とは言い難い。対象に纏わせている電飾の螺旋はひどい不等間隔で、その上ところどころ縛りがゆるくなっている。  まあ、当然気にするような女ではないのだが。 「というか、そういった輩をついこの間殺したような、殺さなかったような」 「う~ん、そんなことあったっけ~? むしろぼく達が不審者の側って事ならよくあるけど~」 「ではわたくしの感覚は正常なのでしょう。事実としていつも殺しにくるじゃありませんか、『彼ら』。まあ、こちらも「みんなも踊ろうよ僕と」と言う程の器量も度胸も持ち合わせていませんから、そういったところがわたくしとサンタクロースの違いなのかもしれませんが」 「狩人さんも時々赤い服着てるのにね~」 「杭ちゃん、サンタクロースの服が赤いのは返り血ではありません。飲料会社の陰謀です。……っと、こんなものですか」  ようやく電飾を巻き付ける作業が終わったらしい。女は余ったコードの部分を引き、近くのコンセントにプラグを差し込んだ。途端、何の面白みも無いフィラメントが白熱しているだけの光が無数に浮かび上がる。 「メリークリスマス!」 「メリ~クリスマ~ス!」  女と杭が同時に叫ぶ。  安物故に点滅といった機能は持ち合わせておらず、ただ光るばかりの電飾では雰囲気も何もあったものではないが、1人と1本にはそれで充分らしい。  今まさに女と杭に『クリスマスツリー』にされている巨木は髭のように小さく生い茂った葉の下にある口からか細い息と体液らしき薄汚れた黄金色の液体を漏らしていたが、それも、1人と1本にとっては些細な問題で。 「いやぁ、我ながら良い出来ですね。如何せん電飾以外の飾りが《チェリーボム》くらいしかないので少々味気ないですが、これはこれで趣があるという物でしょう。贅沢を言えば『スターモン』か『スーパースターモン』が欲しいところですが、この辺には居なさそうですし」 「他の『ゾーン』から持って来れば~?」 「『ジュレイモン』の方がそれまで持たないでしょう。残念ですが、夢幻とは擦ったマッチの火に一瞬照らし出される程度が一番美しいのですよ杭ちゃん。まあわたくし、『マッチ売りの少女』そんなに好きじゃないんですけどね。ほら、あのお話の主人公、絵本だと大概赤い頭巾を被っているじゃありませんか。赤い頭巾の子が酷い目に遭っているのを見ると心が痛むのです」 「狩人さんは~、本当に赤ずきんが好きだね~」  狩人、と呼ばれた女はもう一度巨木――『ジュレイモン』のクリスマスツリーを今度は遠巻きに眺めて、それから腕を、杭を持ち上げる。  もはや彼女の目に映る『ジュレイモン』は、興味の対象ではなかった。 「杭ちゃん、本日はクリスマスらしくブッシュ・ド・ノエルを用意してみました」 「クリスマスツリーと兼用だなんて~、なんだかお得な感じだね~」 「料理は見た目も楽しむ物ですからね」  事実上の死刑宣告に、『ジュレイモン』の洞の瞳がぐらぐらと揺れた。  この『ジュレイモン』は通常個体。いわゆるこの世界では原始的な、理性の無い『怪物』の類に過ぎないが、それでも命持つ者として生み出された以上は備わっている恐怖の感情が、突き付けられた杭の切っ先を前に泡のように膨らんでいて。  最も、もはや彼に足の役割を果たしていた何十もの根を動かすだけの力は既に無く、腕に至っては、その全てが剪定された枝のように辺り一面に散らばっているのだが。  だが――女はやはり、『怪物』の心情など気にも留めない。  ぱきり、と『ジュレイモン』の腕だった物のうちひとつを踏みつけながら、彼女は杭を構えた。 「いっただっきま~す」  間延びした声が、食前の言葉を形作る。  その瞬間から、女の動作には遊びも一切の無駄も無かった。  滑るような足運びから繰り出された杭を用いた正確無比な一閃が『ジュレイモン』の幹を貫き、『怪物』達にとっての心臓――『デジコア』を砕く。  搾りかすのような断末魔が絶える頃には巨木の影は跡形も無く消え去り、唯一女の足元で、電飾が相も変らぬ明滅を繰り返すのみだった。 「ごちそうさまでした~」 「どうです? 美味しかったですか、杭ちゃん」 「うん~。思ったより硬かったけど~、その分『ウッドモン』よりもいい感じだったよ~」 「それは行幸。ここまで足を伸ばした甲斐があるというものです。さて……」  女は顔を上げる。  眼前には鬱蒼とした森が広がり、しかし木々の隙間から時折標札や電柱といった人工物が規則性も無く付き出している。女が今しがた利用していたコンセントにしても、木の枝からぶら下がっていたような代物だった。  そんな、精神を病んだ人間が描いたかのような現実味の無い森の風景に、低い羽音が、響き渡る。 「デザートと前後してしまいましたが、メインディッシュの続きが来たようですよ、杭ちゃん」 「昆虫型か~。高タンパクだね~」 「栄養分としてはあなたの身体に鉄以外の物が必要だとはとても思えませんが、昆虫、あれでいて美味しいらしいですね。よかったよかった。ライトトラップ作戦も無事功を制したようで」 「『ジュレイモン』は一石三鳥だったのか~。お得だね~」  改めて、女は杭を胸元で構える。  そうしながら、彼女は彼女を包む森の景色をもう一度眺めた。  女は杭の食事の際に一瞬だけ訪れる、『怪物』の居ないこの世界の景色が好きだった。  そんな、女にとっての美観を損ねるようにして、次の瞬間。暗い緑色を突き破り、赤い大顎が彼女の首目掛けて突っ込んでくる。 「……やれやれ」  女は杭を持っていない方の手で、巨大な赤いクワガタの顎の先を掴んだ。  彼女はそのままなお直進しようとするクワガタ――『クワガーモン』を身体を捻って自身の背後へと叩きつける。軽い地鳴りと共に、女が持っていた方の顎は無残に折れ、予想だにしなかった衝撃を今だ理解できない昆虫の頭は、ただぎちぎちと無残な音を立てながら各関節に対してあがくような蠢きの指示しか出せずにいた。  そしてそれ以上の事を、女は許容しない。  今度は『クワガーモン』の胸に飛び乗ったかと思うと、女は『ジュレイモン』の時同様、杭の一刺しで『クワガーモン』の『デジコア』を破壊する。 「行きましょうか杭ちゃん」  比較的よく見つかる獲物故か、先程のように味の確認等はしなかった。  杭の方も、「うん~」とやはり間延びした声で、女に同意する。 「美しい景色に、美味しい食事。わたくし達のクリスマスは完璧ですね」 「いつもと変わらない気もするけどね~。確かに、ごはんはおいしいけど~」 「では我々の日常は常に特別な日のように素晴らしいという事でしょう。良い事です。それはいかなるクリスマスの贈り物よりもかけがえのない尊いものだと言っても過言ではありません」 「なるほど~。良い事言うね~、狩人さん~」 「でしょう?」  杭と話ながら、女は足を進める。  夜の森は暗いが星座を描かない星々はその分眩く、やはり彼女の目に映る世界は、彼女にとっては、よきもので。 「さあ、観光を続けましょう」  女は微笑んだ。  杭の他には、『宿』で彼女達の帰りを待つ家政婦にしか見せない笑みだった。 *  この世界――『デジタルワールド』が生み出されて、もう十数年程になる。  各々の目的を持って訪れる者は後を絶たないが、それでも観光客は、相も変わらず1人と1本だけだった。 0426
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快晴
2020年2月06日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話             Epilogue 「この世はアイドルで満ち溢れているっ!!」  あまりの興奮にスマホ片手にドンと叫んだ俺を眺めながら、ハリちゃんがじゅろろろーとミックスジュースが文字通り底をついた事を主張している。  自宅から持ってきたタライに身体を半分以上浸けながら今日も今日とて俺のミューズは夏の暑さも和らぎそうな冷たい視線をこちらに向けていて、仕草は違えど2人とも呆れている事自体は程度の差はあれ伝わって来た。  そういうのはね? 君たちが世にもマジェスティックなアイドルだからこそ許されるんだぜ?  誰が何と言おうが俺が許すのだが。  一応、それらしくこほんと咳払いしてから、俺はもう一度自席に腰を下ろした。  ……あの目まぐるしい1ヶ月間――『ユミル事件』からさらに騒々しい1ヶ月と少し。  今年も、8月3日がやって来た。  とはいえ、この日になれば大々的に報道されていた『お台場霧事件』の特集は少々鳴りを潜めている。当然と言えば当然だろう。何せ、『お台場霧事件』を引き起こしたのはヴァンデモンだが、『ユミル事件』を解決したのも、ヴァンデモンだ。  全く違う個体なのに、同じ種類のデジモンだというだけで世間は好き勝手な事を言う。  それが良い意味であれ悪い意味であれ――『彼女達』を振り回している事には、変わりない。  最もあの『最後の進化』以来、『彼女達』は、そういうもんだと完全に吹っ切れている節もあるけれども。  『ユミル事件』の〆……カンナ先生の「忙しくなりそうだ」という予感は必要以上に的中し、もう、なんというか、本当に、色々あった。  説明を「色々あった」の一言で片づけてしまいたい程度には、色々あった。  しかしそういう訳にも行かないので、簡単にだけ、紹介しておこう。  とりあえず、まずは件のカンナ先生。  十闘士のスピリットやエンシェントワイズモンの存在そのものを伏せていた事もあって、研究者界隈からは結構な事も言われたみたいだ。  でもそんなの先生はどこ吹く風で、あの事件で得た資料を手早く纏め上げたかと思うと文句を言ってきた相手全員の前に突き出して、あっという間に黙らせてしまった。  そのくらい――先生が得た物は、デジモンの関係者たちにとっても信じられないくらいに価値のあるものらしかった。  それから、コロモンになっていたスカモンも、いつの間にか黒いアグモンに進化していて。  本人曰く、「普通のアグモンになる筈だったんだけど、ウイルス種だった期間が長すぎたのかもしれないわね」との事らしく。……このままいけば、というか、カンナ先生なら間違いなくきちんと育てきるだろうから、女性口調のブラックウォーグレイモンとかが正式に爆誕してしまうのだろうか……。  ……口調は軽いけどどことなく陰のある金髪色黒女勇者系美女、か……。 「もしかしてやけどカジカの奴、またアホな事考えとるんちゃうか」 「ゲコ。ラーナモンも大体解ってきたゲコね。もしかしなくても考えてるゲコ」  未だに俺のスマホに居ついてる関西弁水の闘士と俺のミューズからの視線が痛いけれど、次行ってみよう、次!  ……エンシェントワイズモンの周囲に居た『人間』達の事だ。  炎の闘士と土の闘士の人は警察に逮捕されて、風の闘士と雷の闘士の人は、一応、行方不明という扱いになっている。  エンシェントワイズモンの集めた闘士の器達は全員、エンシェントワイズモンが引き起こそうとしていた『世界の終わり』に関しては何も知らされていなかったらしい。とはいえ彼らが単体でやらかした事もかなりの量がある上、世界を滅ぼさないまでもばっちりエンシェントワイズモンと協力関係にあったのは事実なので――少なくとも、逃亡中の放火魔として罪状を重ね続けた炎の闘士の人は、もう一生、塀の外には出られないだろうとの事だった。  もちろん、最終的にはこっちに協力してくれたって言ったって、マカドだって、例外じゃない。  ただ、本人も言っていた通り非戦闘員だったらしいマカドは一応、直接人に危害を加えた様子は無いらしく。加えて、数年前の事件にしても法的な制裁は既に受けた後だとの事で、なんか、思ったより早く、出てくる、らしい。  今でも時々手紙でやり取りしているものの、相変わらず鬱陶しい奴なので割と本気で返事を書くのを止めようと思ったりもしつつ、『マカドが現在面倒を見ているデジモン』の事が気になってしまい、結局、つい数日前にポストに手紙を突っ込んだばかりだ。  マカドが、面倒を見ている、デジモン。  幼年期Ⅱとはいえ度を越えた傍若無人っぷりが半端ないタネモン――ピノッキモンの、生まれ変わりだ。  事件が終わって、カンナ先生が事後処理をしている間に出向いたデジタルワールドの森の館に、もう、ピノッキモンの姿は、無かった。  代わりに、やって来た俺とオタマモンを出迎えるように、玄関前の広間の中心にぽつんと、緑色のデジタマとUSBが、置かれていた。  中に入っていたのは老人の昔話のように長い手紙で、俺達に向けての今回の事件に関するお礼や謝罪やら、ゼペット爺さんの身元に関する情報やら、自分のデジタマの処遇についてやら――『蝙蝠姫の子守歌』への、感想なんかが、書かれていて。  で、その自分のデジタマについて。ピノッキモンは、「マカドに面倒を看させるように」と書き添えていたのだ。  どんな人間だとしても、それでもやっぱり、氷の闘士だった訳だから――心配していたのだろう。  かつての『片割れ』まで巻き込んで転生しているように見える事まで計算してだったのかは今となっては判らないけれど、一応、マカドとタネモンは、上手くやっているらしい。  「ユミル進化はさせない」と、マカドもそれだけは、約束してくれた。  「ピノッキモンさんにそんな事をしたら今度こそ殺される」と、まあ、そんな理由では、あるけれど。  あと、ゼペット爺さん――本物の『京山幸助』さんは、手術で無事胸元のスマホを取り除いた後、高齢過ぎるという理由で、塀の中じゃなくて介護施設で暮らしている。  元々は有名な『伝説のハッカー』だったらしく当然お尋ね者でもあったらしいのだが、結局、警察からは逃げ切った――という事になるのかもしれない。  ……1回、マカドの代わりにタネモンを連れて会いに行ったんだが、『伝説のハッカー』なんて言っても誰も信じないだろうなって思ってしまう程度には、普通のおじいちゃんしてたけれども。  そして、忘れちゃいけない子がもう1人、目の前に。 「ハリちゃん」  飲み物も空にしてぼうっと窓から外を眺めていたハリちゃんが、俺の呼びかけに答えてこちらを向いた。 「身体痛いのは、もう大丈夫なんだよね」 「お蔭様で」  コラプサモンを還した後――ハリちゃんは、しばらく寝込んだ。  全身が軋むように痛い。との事で、あれだけの大仕事をしたという事もあってみんな随分と心配したのだけれど――その痛みが治まったと聞いた時には、もう、『こう』なっていたのだ。  カンナ先生が出来る限り確認した後、先生からの報告で事情を知った研究者や医者に診てもらったのだけれど、何1つとして、おかしなところは見当たらなくて。  ハリちゃんに施された『調節』云々なんて、まるで最初から無かったみたいに――異常は、1つも。 「きっと、マスターが『イロニーの盾』に細工を施していたのでしょうね。私がマスターの盾を使うような事態に陥った場合まで、最初から、想定していたのでしょう」  左腕。  手のひらサイズにまで縮まった『イロニーの盾』をブレスレット風にカモフラージュしたものを見下ろして、ハリちゃんがぽつりと呟いた。  俺の一言で、彼女もまた、この2か月を思い返したのだろう。 「私の中にあったデジモンに近い特異性は、消えて、無くなってしまいました」  『オフセットリフレクター』が『反転』のためのデータとして引っ張り出したのは、ハリちゃんの中の、デジモンとしての特徴だったのだ。  特異性が消えて  ハリちゃんは、スピリットによる進化が、出来なくなって。  その代わりみたいに――成長を、始めた。  びっくりするくらいの勢いで。  身長が、ぐんと伸びた。もうリューカちゃんより背が高い。俺も抜かれそうで怖いくらいだ。  体型は一応スレンダーなままだけど、それでもどことなく女性的な線が目立つようになった気がする。  もう、お兄さんが化ける必要も、無いからだろう。  ハリちゃんはコラプサモンとの対峙の時にカメラに映ってしまっていたのだけれど、今となっては言われでもしなければ――ひょっとすると、言われたとしても、同一人物だとは思えないかもしれない。  色んな意味で、メルキューレモンは、最後まで妹を護りきったのだろう。  ……と、ハリちゃんはその左手を喉元へと持ち上げる。  顔には、お兄さんそっくりの、唇を片側だけ吊り上げる笑みを浮かべながら。 「この声以外は!」  ……そう。  ハリちゃんの声は、相変わらず機材を通しても何ら変化を起こさない――デジモンの声のままだった。  歌を教えている事自体には感謝していると、言ってたっけか。  俺の興味が失われないようにと、苦心していたのかもしれない。  2ヶ月前ならともかく、今となってはハリちゃんの声質が変わったくらいで――いや、どうだろう。絶対に以前と変わらないくらい全力でレッスンに取り組めていたかと聞かれると、ちょっと解らない。  うーん。やっぱり妹の事となると頭の回転の仕方が変わってるような気がするというか、何というか。  まあ何にせよハリちゃんはマジェスティックな声をそのままに、レッスンもものすごい勢いで頑張って。  本日、めでたく、デビューする事になりました。  いっえーい!  ……いや、まあ、とはいっても会場は俺の知り合いばっかりが集まった小さなライブハウスで、歌うのもソロではなくオタマモン……ラーナモンと、1曲目を除いて一緒になんだけれども。  だけど確かに――ハリちゃんは、ここから世界への1歩を、踏み出して行くのだろう。 「……カジカP」 「ん?」 「少し……心配です」 「ゲコ? ハリさん緊張してるゲコか?」 「していない訳ではありませんが、カジカPにお伝えしたい心配は、その事ではありません」  突然の「心配」とやらに疑問符を重ねる俺に、ハリちゃんは言いにくそうに、口を開いた。 「私は今から、アイドルを始めるのですよね?」  頷く。 「確かに、マスターは私にこの声を残しては下さいましたが……カジカP。マスターが貴方が私をアイドルにする事を、許可した記憶が見当たらないのです」  俺は、頷かなかった。  許可は――最後の最後まで、貰っていない。 「マスターは帰還後、カジカPを、どうしてしまうのでしょう」 「……」 「私の見当が正しければ、カジカPは連続で殴られた後上空に蹴り上げられて、頭部からの落下をさらに加速させるような形で身体を固定されたた上で地面にのめり込まされてしまうのではないかと……」 「んんん? 何? 俺のパラダイス、がらんどうになってロストしちゃうのかな??」 「っていうか何ゲコかその技」 「……真面目な話、覚悟しといた方がええかもしれんで」  不意に、やけに神妙な調子がスマホから聞こえて来て。 「……ラーナモン?」 「しつこいで、鋼の闘士は。古代の方で十分解っとるとは思うけどな? ……骨の5、6本は、あり得る」 「……」 「知らんけどな?」  言いつつ、直接面識があった訳でも無いっぽいのに、ラーナモンの声には妙な実感がこもっている。  古代鋼の闘士は古代水の闘士に振り回されがちだったけれど――それと同じくらい、古代水の闘士は古代鋼の闘士から理不尽なレベルの説教をくらう事も多かったとか、そんな話を、ピノッキモンが、していたような……。  ……うん。  あまり、深くは考えないようにしよう。  ……っと、古代鋼の闘士の名前が出たから、その事も、少しだけ。  エンシェントワイズモンは、確かにこの世界を滅ぼそうとしたけれど――それはそれとして、古代デジモンの研究者・キョウヤマとしては、結構真面目に研究データを残していたそうだ。  重要な資料として、既に沢山の研究者達に、情報が共有されているらしい。  その辺、なんだか無駄に律儀で――そういうとこやっぱり、お兄さん父親似だったのかもしれない。 「まあ……大丈夫だよ、うん」  そんな律儀なメルキューレモンが最後に俺に残した「震えて待て」の一言をとりあえずは振り払って、改めて、俺は俺のミューズ達を見た。  最高の歌姫である我がパートナーと  これから至高への階段を駆け上がる、アイドルの卵。  そしてこの2人でさえ、始まりに、過ぎない。  俺の、事。  あの後、雲野デジモン研究所の一員として良くも悪くも時の人となった俺は、メディアからもファンからも別にそうでも無い一般人からも質問攻め状態になって。  おめーのでしゃばるような場面じゃなかっただろと、俺を責める人達も当然居て、SNSは炎上気味にもなって、ちょいちょい凹んだりもしたけれど――  ――そんな中でも理解を示したり、励ましてくれるファンも友人達も、当たり前みたいにちゃんといて。  俺は、そんな人達と一緒に、あるプロジェクトを立ち上げる事にしたのだ。  今回のオタマモンとハリちゃんによるライブの直後に、本格的な企画を集まってくれたメンバーと共に始める予定でいる。  名付けて、『デジモンアイドル育成プロジェクト』!  人間では無く、デジモンの有志ばかりを集めて1から歌の基礎を教えていこうという企画だ。  「この世にアイドルなんかいねえ」とふて腐れ続けてきた俺だったけれど、この2ヶ月、俺の知らない世界と触れ合って、それから、ハリちゃんに歌を教える内に――改めて、「アイドルなんて、自分で創ればいいじゃないか」という結論に至ったのだ。  この世界には、まだまだ魅力的なデジモンがたっくさんいる。  試しにツブヤイタッタワーで呼びかけてみたところ、冷やかしもそこそこあるだろうけれど、予想以上の反響が集まった。  故に――「世界はアイドルで満ちている」、と。  もしも本気でアイドルを目指すデジモン達が、俺を頼ってくれるなら――何が何でも、俺は全力で応える所存だ。彼ら彼女らを、この世の至宝に育て上げて見せる。  何と言っても俺は若き天才音楽クリエイター・カジカなのだから。  曲も歌い手もひっくるめて、俺は『音楽』を作るのだ!  と、そんな風に脳内も盛り上がってきたところで、ガチャリ、と控室の扉が開いて、隣にバケモンを連れた友人が、俺のアイドル2名を呼びに来てくれた。 「おっ、出番か!」  いつもの様に、オタマモンが水のヒューマンスピリットを纏い、闘士の精神の方は、ビーストスピリットの方に移動したらしい。 「頑張って来いや! ウチもカジカと見とるさかい!」 「あ、それなんだけどカルマーラモン」 「ん?」 「俺、ちょっと連絡したいところがあるんだ。スピリットの方リアライズさせるから、先行っといてもらえるかな」  そう言うと、直ぐに察してくれたらしい。  最初はキャラが濃すぎると思っていたけれど、それはどうやらお互い様らしくて、それからお互い、少しずつ、慣れてきた。  水のスピリットは、両方ともずっと、俺のところに有り続けるらしい。  ハリちゃんがデジモンへの進化を失い、他の器達からスピリットが取り上げられた今。  俺とオタマモンは国公認の『サンプルケース』として、これからも水の闘士として、やって行く事になっている。  で、その水の闘士そのものであるカルマーラモンは、「ははーん」とわざとらしく、何故かウキウキしたような声音で返して来たのでそれを合意だと判断し、水のビーストスピリットをリアライズさせて、友人に渡す。  ラーナモンもハリちゃんも、俺へと笑って見せた後、先に控室を後にして行った。 「……」  久しぶりに、1人だ。  1人で一度、向き合ってみるべきだと、思ったから。  ドット絵も『水』の文字も無くなった待ち受け画面で、ただ時計を確認する。  あの子はきっちりしてるので、まだ、出発はしていない筈だ。  あの子――リューカちゃん。  彼女は今日、パートナーと一緒に、『暗黒の海』の調査に出発するのだそうだ。
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快晴
2020年2月05日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫ Episode タジマ リューカ ‐ 9  曇り空。  一足早くやって来た夏の空に、まだここは自分の領域だと主張するように舞い戻ってきた梅雨の空気が、それでもまだ雨を降らせる事自体は準備中だと勝手を言うみたいに、どんよりと、太陽と青空――そしてコラプサモンを、覆い隠してしまっている。  それはまるで『闇』の在り方にも似ている気がして、雲野デジモン研究所の屋上で空を見上げながら、私はくすりと、微笑んだ。  天気の中では、こんな空が、1番好きだ。  ヴァンデモンが多少なり過ごしやすいっていうのは元より――あの時は冬の寒空の下だったけれど、カンナ博士と出会ったのは、こんな日の昼下がりだったのだから。  そう、あの日から、全ては始まったのだ。 「……」  端にある柵に掴まって、周囲を見渡す。  嘘のように、人の気配が無い。  コラプサモンがいつ動き出すか解らないから、せめて建物から出ないようにと、朝からそんなニュースばかり流れている。 「そういえばね」  と、そんな風に静まり返った街を見下ろす私を見て、何か思い出したらしかった。時間相応の睡魔と戦うべく目をこすっていたヴァンデモンが、ふと、その手の動きを止めた。 「1ヶ月前、コウキさんとお喋りした時。最初、コウキさん、そこから街の事見下ろしてたよ」 「そういえば、そのような話をしていましたね」  ハリが私の隣に並んで、柵から軽く身を乗り出した。  きっとコウキさんは、今ハリがしているような姿勢で、この子の蜂蜜色の瞳を、見つけたのだろう。 「ヴァンデモン。……今はそんな場合では無いかもしれませんが、このままだと言いそびれかねないので、1つ。マスターから、伝言を預かっています」 「コウキさんから? 何?」 「「アナタはワタクシ達の父親よりも、ずっと正しかった」……それから「ありがとう」との事です」 「……えへへ」  ヴァンデモンは、照れたように笑って。  ハリも仄かに、表情を緩めた。 「……昨日の、昼から、夕方ごろにかけての段階では――こうやって、マスターに託された言葉さえ、伝える気にはなれませんでした」 「……」 「いつかの質問の続きを、貴女達に尋ねる前に、マスター本人から直接、聞かせていただいたのに。……それさえ、忘れてしまうところでした」  寂しそうだけれど、それでも安心を見つけているらしいハリの横顔を眺めると――やっぱり、他の感情を差し置いて、「羨ましい」が、顔を出してしまう。  黙っているのも卑怯な気がして素直にそれを伝えると、ハリはむしろ誇らしそうに、1ヶ月前よりもずっとはっきりと、こちらにはにかんでみて見せた。  と、ハリは不意に、何かを思いついたように目を瞬いてから 「せっかくですから、答えを得てしまった質問の代わりに。1つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」 「? なあに?」 「単純に気になっただけなのですが……どうしてホメオスタシスは、今になって『闇』を受け入れるような真似を始めたのでしょうか」 「……」  結局、今になっても聖騎士型デジモンが突然現れて私達に襲い掛かる――なんて展開は起こらなくて。  まあ、今はそれどころじゃないっていう話なのかもしれないし、「『ファイヤーウォールの向こう側』の『呪い』に干渉されたデジモンは殺されるけれど、今現在それを厳密な意味で所持しているのは人間だから手の出しようが無い」っていう事なのだとしたら、私はこの子を護る事が出来たという事なので……そうだとしたら、少しだけ、嬉しい。  でも多分、そうでは無いのだと思う。  そもそもヴァンデモンと私――闇の子と、それを看る人間という図は、エンシェントワイズモンやデーモンさんの言葉を信じるなら、ホメオスタシスの干渉によるものらしいので。 「多分、だけどね」  曇り空でもなお眩しそうに、目の上に手で影を作りながらヴァンデモンが口を開く。 「『光』ばっかりじゃ、ダメなんだよ。確かに『光』は『闇』を消しちゃうけど、『闇』が全部無くなっちゃったら、『光』は自分が『光』だって事すら解んなくなっちゃうんじゃないかな?」 「自身を維持するために、むしろ『闇』が無ければ『光』そのもののホメオスタシスは存在証明が出来なくなってしまうと」  多分。ともう1度、自身無さげにではあるものの頷くヴァンデモン。 「それにさ。僕が眠いのは昼間だけど……夜が無かったら、ほとんどの人やデジモンはぐっすり眠れないでしょ? そういう事なんじゃない?」 「なるほ」 「それだ――――――――っ!!」 「!?」  なんとなく腑に落ちたらしいハリの言葉を遮るように、聞きなれた大声が響き渡って。  3人同時に振り返ると、興奮で目を大きく見開いたカガさんが、ビシリとこちらを指さしている。 「か、カガさん……?」  呆気に取られる私達を他所に、くるりと踵を返して走り去っていくカガさん。  その間にスマホからオタマモンが飛び出していた事さえ、気付いていない。 「ゲコ」 「オタマモン。ソーヤさん、どうしたの?」 「ま、10分もしない内に帰ってくるゲコ。期待して待つゲコ」 「?」  期待、という言葉に首を傾げるしかない私達だったけれど、オタマモンさんの方はどこか安心したように、加えて何となく誇るように、ふん、と大きく、鼻息を吐いている。  やっぱりどういう事か解らず疑問符がこの場を埋め尽くしそうになっていると――「ああ、そうゲコ」とオタマモンさんが小さな手でぱちんと床を打った。 「最終決戦前ゲコからね。応援のメッセージも届いてるゲコよ」 「応援?」 「ピノッキモンからゲコ。……スマホはソーヤが持ってっちゃったゲコし、ちょっと長いゲコから要約して伝えるゲコ」  古代十闘士の『わがまま』に巻き込んだ事、そしてその尻拭いをさせてしまう事への謝罪と。  正式に闇の闘士の器になり――鋼の闘士の『妹』となったハリへの激励と。  それから、応援。  「頑張れ」と。単純だけど、あのしわがれ声から力強く発されたに違いない、その言葉を、想像して――何よりも、心強く感じた。 「ゲコ、それからマカドからも連絡来てるゲコけど、これは応援っていうより要求ゲコ。この期に及んで、最終決戦の資料を送れってうるさいのゲコ。面倒くさいゲコからお見舞いの時持っていくって伝えたら、今度は「メロンもよろしく」とか言ってきたゲコから今メールの着信拒否してあるゲコ」 「……」  氷の闘士の人……。  ……いや、「お見舞い」なんて『先』の事を挙げているあたり、この作戦が絶対にうまくいくって、あの人なりに……ううん。何故だろう。別にそんなつもりじゃない気がしてならない。  でも、本来流動の性質を持つ水の派生であるはずなのに、がっちりと固まってブレない在り方は、ある種氷の闘士としては相応しいのかもしれない。  どんな形にせよ、調節が入っていたにせよ――最終的に、あの人だって、氷の闘士として私とヴァンデモンを助けに来てくれたのだから。 「リューカ」 「?」 「私の勘違いであれば謝罪しますが、マカドは、リューカが思っているような人物では無いと思います」 「……」  真剣な眼差しと呆れ顔の中間のような無表情に、私も一瞬、何も言えずにいたけれど――ふいにそれが、なんだかとてもおかしな顔のように見えて、申し訳ない事に吹き出してしまった。  今度はハリが、はてなマークを浮かべる番だった。 「ご、ごめんねハリ。……うん。ごめん」 「何故リューカが今笑ったのかは判断しかねますが、それは恐らく、謝るような事では無いかと」  ふと、目が合う。  その瞬間、『暗黒の海』で最後に見た『幻』の言葉が内側から沸き上がって来て、かあっと頬が熱くなる。 「? どうかしましたか、リューカ」 「あ、あの、その……」  慌てて、ヴァンデモンの方に顔を向ける。  だけどこの子は、困ったように目を細めていて。 「リューカ。いくら僕が解ってても、……それは、「リューカが言いたい事」じゃなきゃ、ダメだよ?」 「……」  ヴァンデモンが、私の思惑を、普通に、拒否した。  意見を言う事は今までにも何度もあった事だし、私の体調や心情によっては無理を通す事ももちろんあったけれど。  でも、こんなにさらっと、当たり前みたいにっていうのは――もしかして、初めてなのでは? 「……ふふっ」  なんだか、物凄く嬉しくなって、何が何でも、それにバネにしようと、心に決める。  意を決して、私が何をしたいのか理解できないままでいるハリの方に、改めて振り返った。 「あ、あのね、ハリ」 「はい」 「わ――」  息を、吸い込む。  勢いで言ってしまわなければ、また、止まってしまいそうで怖かったから――一気に 「私と友達になって下さい!」  吐き出す。  吐き出して、頭を下げて。  ……言ったはいいけれど、やっぱり、顔を直視する程の勇気は、私には無くて。  なんだか胸元の『闇』の紋章までざわついているような錯覚を覚えながら、冷や汗の滲む、世界で一番長い数秒間を体験する羽目になって――  ――でも 「なります」  やがて、答えが、やって来て  それでも信じられなくて顔を上げて  ……ハリが、唇の片側だけを吊り上げた、何とも言えない、微妙な笑顔をしている事を、思い知った。 「――」  これはいわゆる引いている笑顔だと、頭が真っ白に 「コウキさんと一緒の笑い方だね」  なりは、したけれど  ヴァンデモンの一言で、我に返る。 「友達、というものが具体的にどういった物かはまだ、理解、しかねますが……。それでも、貴女からその事をこれから学んで行く以上、この表情が、良いと思いました。……マスターも同盟者であるカンナさんに、度々向けていましたから」  我に返って、改めて眺めてみると――それは確かに、兄の真似をする妹という――そもそも笑顔を知らなかった筈のハリが浮かべる上では、見てるこっちが微笑ましくなるくらい、眩しい笑顔だった。  だから、今度こそ。  私も、笑う。  笑って、見せる。  普段使わない筋肉がそこそこの無理をしている気もしたけれど、そうやってでも、ぎこちなくても、笑うべきだと思った。 「今度、一緒に、ケーキ。食べに行こう。コウキさんから割引券、貰ってるから」 「承諾します。……あの店は、ババロアがお勧めらしいです」 「……僕もついてっていい?」 「もちろん」 「置いて行ったりなんかしないよ」  そんな事する訳が無いと、少しだけ不安そうにしたヴァンデモンへと微笑みかける。  次の、瞬間。  ハリが、がば、と、私に抱き着いた。 「!」 「……突然、申し訳ありません」 「ハリ?」 「何故か、こうしたくなったのです。……ご迷惑でなければ……もう、しばらくだけ」  後半になるにつれ擦れていったハリの声に――気付いてしまう。  ハリは私の台詞に、コウキさんの背中を、重ねてしまったのだと。 「ハリ……」 「リューカ。今の言葉。何があっても、どんなことがあっても、嘘にはしないで下さいね?」 「……しないよ」  コウキさんみたいに、とは、出来ないかもしれないけれど。  私はハリと、隣に佇むヴァンデモン……それから、自分自身に、言い聞かせる。 「絶対に」  こくり、と、ハリが頷いたのが解った。  と、そこへ 「待たせたね」 「博士」  上にコロモンさんが乗った状態でノートパソコンを抱えたカンナ博士が、屋上に続く扉から顔を覗かせた。  慌てたように私から離れて、ぷい、と博士から顔を逸らすハリ。  思わず苦笑いが浮かんでしまう。……ハリも本気で嫌っているという訳では無いと思うけれど、カンナ博士と打ち解けるまでには、コウキさんが想像していた以上にまだまだ時間がかかりそうだ。  対するカンナ博士は、そんなハリの様子さえ可笑しそうに唇に曲線を描いてから、コロモンさんとノートパソコンを屋上に下ろす。 「一応、出すべき報告は出して来たよ。反応は見てない。……どうせ今からやる事の許可なんて待ってもその間に、この混乱じゃ結論が出る前にコラプサモンが動き出すまでも無く世界が終わっちまうだろうさ。だから――」 「ヴァンちゃん達の活躍次第ってトコね。カンナの始末書で済むか、世界崩壊の最後のひと押しになっちゃったって、世間から大バッシングの嵐に曝されるか」 「そん時は『暗黒の海』にでも高飛びしようかね? リューカちゃん連れてってくれる?」 「カンナ博士が言うなら開きますけど……衣食住の保証は出来かねますよ?」 「一応住民居るんだし何か食べるものくらいあるだろうさ」  ……少なくとも、魚がいるようには思えなかったけれど……。  どうなのだろう。今度、機会があったらデーモンさんに、聞いてみよう。 「でも、そうはなりませんよ。カンナ博士。始末書書くの、手伝いますから頑張って下さい」 「はいはい。アンタのコーヒーでも飲みながら」  ひらひらと、カンナ博士は左手を振ってみせる。  相変わらず、あの綺麗な指輪が薬指でよく目立っていて。 「文字通り、片手間に片付けてやるよ、そのくらい」  自然と、笑みが漏れた。  やっぱりこの人は、そこに居てくれるだけで私の心を温かくしてくれる。  隣に並んで歩きたいと思うのと同時に、この人のなら、例え背中を眺める事になっても――それでいいと、思えるような。  これが、「頼もしさ」というものなのだろう。  そしてそれは、たとえ幼年期になっていても、カンナ博士のパートナーだって、変わらない。 「言っとくけど、コロちゃんは手伝えないからね? 次に何に進化したって、しばらくスカちゃんやエテちゃんみたいな器用なマネはできないわヨ?」  舌足らずな幼年期デジモンの喋り方だろうと、カンナ博士に叩く軽口の調子は絶好調で、大してムスッと子供みたいに顔をしかめる博士自身も、退化しているからといってコロモンさんを子供扱いしていないのが伝わってくる。  ……そして、私に温もりを与えてくれる人がもう1人―― 「っていうか、アレ? そういえばカジカPは?」  ――……本来なら、カンナ博士とコロモンさんがここに来るよりも前に、到着している筈だったのだけれど。 「なんか、来るなりすごい勢いで帰って行ったけど」 「へ? 何で?」 「ま、もうちょっとだけ待つゲコ。多分もうすぐ来るゲコから」  やはりオタマモンさんも、カガさんの目的を明かすつもりは無いらしい。  最も、カガさんが居ないと作戦を始められないので、待つ待たないの問題では無いのだけれど―― 「ねえ、リューカ」  と、ヴァンデモンが、私の背中をつついた。 「? どうしたのヴァンデモン」  振り返って見上げると――顔いっぱいに、悪戯っぽい笑みを浮かべている。  まるで、小悪魔のような。 「……?」  ピコデビモンに相応しい気がしないでもないけれど、今までまるで見る事の無かった表情に首を傾げる私の耳元に、そっと顔を近づけて――ヴァンデモンが、囁く。 「……!」  それは、本当にイタズラの提案だった。  誰に害を成す訳でも無いけれど、カガさんは絶対に驚くような――ちょっとした、しかしとんでもない、悪戯。 「ダメかな?」  返事の代わりにそっとヴァンデモンの手を取って、両手で包み込む。  ……本当に、私の『闇』という重荷からは、解放されているのだろう。  我慢を、止めて。  こんな事まで、提案するようになった。 「悪い子だね、ヴァンデモン」  ヴァンデモンは照れ臭そうに笑って。  私の口からも、ふふっ、と、声が漏れた。  そのまま2人で手を繋いだまま、ここに居るカガさん以外の仲間達を見回す。  ハリに告白する時とはまた別の意味で、深呼吸。  その仕草だけで、カンナ博士は今からする事を察したらしい。 「……やるのかい、リューカちゃん。ヴァンちゃん。……『最後の進化』とやらを」 「はい」  一種の成長とも言うべき正当の進化。  進化の段階を数段飛ばすワープ進化。  別個体との合体を行うジョグレス進化。  古代の聖遺物『デジメンタル』を纏う事によって力を手に入れる、アーマー進化。  同じく古代の聖遺物――古代十闘士達の力が鎧となったもの――『スピリット』を纏って人だろうとデジモンだろうと行う事が出来る、スピリットエヴォリューション。  ……そして 「コラプサモンは、存在するだけで位相を歪ませるデジモンなんですよね? ……それだけに、無事に帰せたとしても「人間がデジモンにユミル進化する」っていう可能性を、完全に0には出来ないかもしれないんですよね?」  神妙な面持ちで、カンナ博士が頷く。 「だったら。私とヴァンデモンが、その『前例』そのものを歪めてしまおうと思うんです」  最後の進化。  スピリットエヴォリューションがアーマー進化に近いのと同様に、この進化は―― 「人間とデジモンによる、ジョグレス進化」  呟くように言いながら、カンナ博士は表情を崩さない。  スピリットを使って人間がデジモンに進化して。  改造によって人間がデジモンに進化して。  最終的に――世界の歪みによって、人間が、デジモンに進化する。  それを防ぐには、どうすればいいか。  辿り着いた結論が、これだった。 「人間がデジモンそのものに変わる訳にはいかず、デジモンが人間のように寿命を得る訳にはいかないのなら――お互いがお互いの負担を、分け合えばいいんです」  デジモンと混ざらなければ人は人単体ではデジモンになれず。  寿命を持っているのは人間の方だから、混ざっているデジモンのデータにユミルの力が刻み込まれる訳じゃ無い。  そういう風に。 「……そうだね。理屈そのものはスピリットによる進化と何も変わらない。世界が歪んでいるだなんてそんな特殊な状況、そうそうある訳じゃ無いからね。人間とデジモンのジョグレス進化が想定通り上手くいって、なおかつそこからすぐにコラプサモンを追い払えたら、徐々に元に戻り行く位相の中でその『前例』は、「特殊な状況下でのみ発生した特殊な進化」としてしか世界に記録されないだろうさ」 「そうなる筈です」 「でも、もしも上手くいかなかったら?」  カンナ博士が、問いかけてくる。  心配というよりは、冷静な、研究者の瞳で。 「もしも、人間とデジモンのジョグレス進化が最悪の形で作用したら? 完全に人でありデジモンである融合体になっちまって、そのままジョグレスを解除出来ない状態になったりしたら、それがエンシェントワイズモンの望んだ、『ユミル進化体』の第一号――『世界の終わり』のトリガーになるかもしれない。……100%そうならないと、言いきれるかい? リューカちゃん」 「はい」 「どうして?」 「人とデジモンのジョグレス体っていう『前例』はありませんが――人間と長期間融合して、でもその後ちゃんと分離したデジモンという『前例』は、あります」  博士の眼が丸く見開かれる。  思い当たったのか、思いついていないのか。どちらの反応がそうさせているのかまでは解らないけれど、私は間髪入れずにそのデジモンの名前を挙げる。 「『ヴァンデモン』です」  ……まさか、こんな形で『あの』デジモンの名前を言う日が来るなんて、考えもしなかったけれど。  でも、『あの』ヴァンデモンは確かに実在していて、それだけに私達を苦しめて来たのだ。  だからこれは、誰もが知っている『前例』だ。 「2002年の時は完全な憑依でしたけれど、私とヴァンデモンの場合、お互いパートナー同士で……なおかつ、ヴァンデモンは私の血を、データとして内包しています」  ぎゅっ、と、ヴァンデモンが私の手を握る力を少しだけ強くした。  そうだ。  今だって、こうやって繋がっている。  進化なんて手順を踏むまでも無く、私達は、ずっと、一緒だった。 「うまくいきますよ、博士」  『暗黒の海』が脈打つデジヴァイスを取り出す。  コラプサモンが生み出す歪みにも、むしろこのデジヴァイスなら何の問題も無く作用する事だろう。  歪んだ世界。  『暗黒の海』を孕んだデジヴァイス。  『呪い』と私の昏い感情の結晶である『闇』の紋章。  そして、最愛のパートナー。  ……必要な条件は、あと1つだけ。 「解った」  カンナ博士が、目を伏せた。  不安そうに、困ったように。  でも、送り出すように、微笑みながら。 「信じるよ。リューカちゃん。ヴァンちゃん。 ……アタシは、アンタ達を信じてる」  そして最後のロックも、今、外れた。  次の瞬間。デジヴァイスがその全体に走ったヒビというヒビから、『暗黒の海』と同じ色の光を放ち始める。  どんなに暗い色であろうと、その性質が『闇』であろうと――正しく、進化の『光』を。  私はそれを両手で握り直して、ヴァンデモンの方へと向ける。  応えるように、今度はヴァンデモンが、両手で私の手を包み込む。  言葉は、要らなかった。  眼を合わせて、呼吸を、合わせる。  そのまま、私とヴァンデモンは、抱き着くよりも強く、お互いの身体を結びつけるみたいにして――引き寄せ合った。  そして、『最後の進化』の名を叫ぶ。 「「マトリクスエヴォリューション・ユミル!!」」  私達の身体と進化の光そのものを呑むようにして、胸元の『闇』の紋章が輝いた。  その中で――身体が、溶ける。  同じように、ヴァンデモンも解けたのが判った。  しばらくして、どくり、と跳ねる心臓が、いつの間にかその音を消して大きな大きな『熱』へとカタチを変貌させていく。  やがて、その『熱』を覆うようにして、溶けた私と解けたヴァンデモンの全てが戻って来て――形を、成した。  獣の身体。  貴族の佇まい。  魔王の装甲。  ……それから、小悪魔の面影。  ヴァンデモンというデジモンに連なる全部を纏って――最後に、赤い、血のように赤いコウモリを模した仮面が目元を中心に、顔の半分以上を覆い隠した。  ああ――世界が、眩しい。 「「カンナ博士」」  途端に眠気が押し寄せて来たけれど、堪えるようにして声を絞り出す。  自分で喋っている感覚があるのに、同じくらいヴァンデモンが話しているような感覚も有った。 「「名前を、付けていただけますか? 今の、私(ぼく)達の姿に」」 「アタシが付けていいのかい?」 「「博士に、付けて欲しいんです」」  素直に、甘える様な声が出た。  カンナ博士は肩を竦めながらクスリと笑って、しかしすぐに眉間に皺を寄せたかと思うと少しだけ、唸った。 「しっかし、いきなりそんな事言われてもねぇ……。うーん……」  逆に真剣さが伝わって来て、こちらとしては、普通に嬉しい。  どんな名前になるのかと、胸のあたりが熱くなる。 「ちょっとだけ、宗教画のドラゴンみたいな背格好だ。かの吸血鬼『ドラキュラ』も確か、日本語だと『竜の息子』だっけか。……ドラクルヴァンデモン? ……いや、違うな。語感はいいけど、吸血デジモン系統にもうドラクモンいるから微妙にややこしい……うううん……」 「カンナ、早く決めてあげなさいヨ」 「「あ、いや、その。コロモンさん。そんな、勝手を言っているのはこちらの方なので……」」 「っていうか、その姿でも割とリューカさんのままなのゲコね」  と、オタマモンさんの口から『リューカ』――私の名前が出た瞬間、ぶつぶつと早口で呟きながら考えを纏めていたカンナ博士が、静止する。 「柳の、花……」  それから一瞬の間をおいて、カンナ博士が口にしたのは――『私』の名前を、形作るもので。  ……やがて 「ウィローオウィスプモン……なんて、どうだろう?」  改めて口を開いたカンナ博士は、そんな名前を、口にした。 「「ウィローオウィスプ……ウィルオウィスプではなく、ですか?」」 「ん。……ちょっと言葉遊びみたいになっちまってるけどね。柳花ちゃんの『柳』で『ウィロー』。それからヴァンパイアとアンデッドを混ぜた名前がついてるヴァンデモンにも、昨日アンタ達が持ち帰ってきた『呪い』の性質にも当てはめられる彷徨う亡霊――『ウィルオウィスプ』。その2つをくっつけてみたんだけど……どうかな?」 「「ウィローオウィスプ……」」  何度か、博士の用意してくれた名前を私達2人の声で繰り返す。  西洋の『鬼火』を意味するウィルオウィスプから取られてはいるけれど、柳という植物の名前が入ったせいで日本の幽霊画のようなイメージが先行してしまう。  デジモンになったお蔭なのか、はっきりと理解できる今の私達の全体像は、どう考えてもヴァンデモンの系譜なので、それこそ名前だけならドラクルヴァンデモンの方が相応しいのかもしれない。  しれない、けれど…… 「「ありがとうございます、カンナ博士」」  そうは思っても、気が付けば、自然にお礼の言葉が出ていた。  ウィローオウィスプモン。  博士が考えて、付けてくれた名前。  ヴァンデモンの新しい進化先として。そして、人間とデジモンのジョグレス体としての――『前例』。その名前。  ……風が、吹いた。  髪を切る前のカンナ博士と同じくらいの長さがある、このデジモンの金色の髪が、それこそ柳の枝のように揺れている。  「誕生花だったから」。……そんな理由しか無いこの名前の事、そんなに、好きじゃなかったのだけれど――でも、それも、無意味なんかじゃ無かった。  新しいデジモンの『前例』に刻み込まれるこの名前の事。『私』は、ようやく、好きになれそうな気がした。 「騎士型……ってだけじゃ味気ないな。うーん。……うん、よし。ウィローオウィスプモン。ウイルス種、究極体、暗黒騎士型。……これで、論文書くよ」  にっ、と歯を見せて笑うカンナ博士。  こんな非常事態なのにと思う反面、私達という新たな『前例』に研究者としての好奇心を押さえきれずに半ば自棄になっている部分があるのがばっちり伝わってくる。  身を焦がしていた復讐心から解放されて――これが、本当のカンナ博士。  嬉しくって、可笑しくって。私達も、全部が犬歯みたいになっているギザギザの歯が覗くのも構わずに、唇の両端を吊り上げた。  そんな中――ふと、視線に気づく。  カンナ博士からそちらに視線を移すと、いつもよりも低い場所にあるハリの双眸が、じっと私達の胸元を凝視していた。 「「ハリ?」」 「マスターと、お揃い……」  言われて、気付く。  ベリアルヴァンデモンの外殻を甲冑化したようなウィローオウィスプモンの鎧の胸部には、しかしヴァンデモンお馴染みのデザインであるコウモリのマークに代わって、『闇』の紋章のマークが刻印されている。  つまり……コウキさんのビースト形態である、セフィロトモンと同じだ。 「少なからず、羨望の感情が浮かびます」  あまりにも真剣な顔で言うものだから思わず謝りそうになったのだけれど、それよりも先に、一種遮るようにして「しかし」とハリが言葉を続ける。 「その感情を僅かに上回って――私が、マスターと同じものを持つ貴女達の隣で闘える存在である事を、誇らしくも思います」  ダブルスピリットエヴォリューション・ユミル。  ……そう叫んだハリが次の瞬間、2つの闇のスピリットを纏って――進化する。  ダスクモンに進化した時とは、全く違う。  『闇』なのに、優しい色の進化の光を纏って――それが晴れた先に立っていたのは、昨日彼女が一瞬見せた闇の闘士のヒューマン形態・レーベモンが、さらに荘厳な鎧と黄金の翼を備えた姿だった。 「闇の闘士――ライヒモン」  黒い獅子を模した兜から覗く瞳は、変わらずに、ハリのものだった。 「「いい鎧だね。『僕』が何か言う必要は、無さそうだ」」  ヴァンデモンの台詞が、違和感無く口をつく。  ハリ――ライヒモンは、微笑んでいるかのように目を細めた。 「今回は、フォービドゥンデータではありませんからね」 「クロンデジゾイドかしら? ……うーん、ちョっと違う?」 「一応はクロンデジゾイドの一種で、オブシダンデジゾイドというものです」 「オブシダン……黒曜石か。古くから鉄を持たない民族が刃物として利用してきた鉱石だ。……鎧兼刃、ってところかね?」 「レーベモンの持つ『贖罪の盾』も、この鎧と同化しています。「攻撃は最大の防御」を信条とした、十闘士そのものの盾。それが、この闘士の役割なのでしょう」 「盾、ね……」  盾、という単語に、僅かに眉を寄せるカンナ博士。  だけどライヒモンは、その感傷をまるで許さないかのように 「闇の闘士の融合形態は、本来人目に姿を現す物では無いのだとマスターが仰っていました。……この非常事態であるからこそ、スピリットが許容してくれているのです。これが済んだら、二度と見られませんからね? せいぜい、よく見ておいて下さいカンナさん」  心なしか、語調を強めて、そんな事を言った。  でも台詞そのものにはどこか慎重に言葉を選んだような調子があって……コウキさんを真似ているのだと、傍から見ても明らかで――むしろ、微笑ましい。  博士も心情は同じなのか、やや伏せかけていた顔を上げて、「一見しかできないのに纏めなきゃいけない資料が多すぎて大変だよ」と、どう見ても大変そうには見えないくらいに飄々と、軽く肩を竦めている。  ライヒモンは、それを面白くなさそうに眺めて――しかしふと、左腕に視線を落として、仄かに瞳に熱を灯らせた。 「リューカ」  そして、彼女は『私』の名前を呼んだ。 「私は……きっと、貴女達の役に、立ってみせます」 「「隣に居てくれるだけで、十分に心強いよ」」 「私が、それだけなのは嫌なのです」  ちょっとだけ、見つめ合って。  私達はニヤリと牙を見せて  口元の隠れているライヒモンは、だけど顔の右側に幽かに寄った皺のお蔭で、半分だけ唇を吊り上げているのが判った。  ……これで、後は、本当に―― 「ごめん、お待たせ!」 「遅いゲコよ」  ――カガさんとオタマモンさん、そして水の闘士からの『協力』を残すのみになった。  オタマモンさんが、やれやれと言った様子で、だけど真っ先にカガさんの方へと向かっていく。 「ちょいちょいちょい! オタマモン! なんやったんやさっきまでのカジカ! ウチかてヴァンデモンらにアレ……アレ言うたろ思てたのに、こっちの話なんかなんも聞かんとやな」 「これからもそのデジヴァイスに居るつもりなら慣れた方がいいゲコよ、ラーナモン。ソーヤはその場のノリと思い付きだけで生きてる人間ゲコから」 「なんかのっけから辛辣っ! いや、リアライズしたのにも気付かなかったのは流石に悪いと――え?」  ラーナモンさんの相変わらずな関西弁と、迎えに来たオタマモンさんに気を取られていたカガさんが、ようやく、私達の姿に気づく。  きっと、驚いてくれると思った。  カガさんの、何に対しても全力の反応を見たくて――そんな悪戯心で、カガさんの到着を待たずに進化したのだ。  どんな顔をするだろうかと、期待が、胸に込み上げて来て  ……だから、それはきっと、悪い事を考えた報いだったのだろう。 「綺麗なデジモンだなぁ」  驚く顔を見たかった筈なのに、カガさんは、当たり前みたいにそんな事を口にして。  その言葉が、隣に居るライヒモンではなく、もちろんコロモンさんでもなく、私達を見た感想として発せられた言葉だと、気付いた、気付いてしまった瞬間――  顔が、コウモリを模した仮面以上に真っ赤に染まったのが、流石に、解った。  カタチこそ一応は人型に近いけれど、長い銀の尾が生えていて、膝から下はピコデビモンにも似た獣の足で、姿勢が若干前屈気味になっていて、歯はギザギザで、手は3本の指がそれぞれ2股に別れた虫を思わせる形状で――ヴァンデモンに連なるデジモンのどの姿にも似ているけれど、似ていない。小悪魔であり吸血鬼であり屍であり獣であり魔王であり、そのどれでもない、どことなく竜にも見える、暗黒騎士。  そんな姿を、カガさんは―― 「……いや。え、いや。ちょっと待って。だ――れ、って事は無いな。ヴァンデモンか。ヴァンデモンだよな? ……え? ヴァンデモンって事は――」  一拍、遅れて。  私達が求めていたような反応が返ってきたのに、もう、それどころじゃなかった。  確認するようにカガさんが「リューカちゃん?」と声をかけて来てくれるのだけれど、『私』の方はというととてもカガさんの顔を直視できなくて、手の平の方が生体砲――ベリアルヴァンデモンの肩にある『ソドム』と『ゴモラ』を縮小したもの――になっているのも構わずに、合計6本の指で顔を覆い隠して背ける事しか出来なかった。  ついでに尻尾まで、ばたばたと暴れている気がする。 「ちなみに私はハリです」 「あ、いや。それは流石に解る。顔のとことか昨日とほとんど一緒だし」 「とりあえずウィローオウィスプモンは落ち着くゲコ」 「「す、すみません……」」  オタマモンさんの言う事は最もなので、引き続きカガさんの顔は見ないようにしながら、深呼吸。  もう少しでマトリクスエヴォリューションが解除されてしまうんじゃないかと思う程の衝撃だった。  やっぱり、悪戯なんて、しないに越したことは無い。  ……そう心に誓ったのが『私』だったのか『僕』だったのか。それだけは、若干不明瞭だったけれども。  カンナ博士とコロモンさんがカガさんに私達について説明している間に、ようやく呼吸が整ってきた。  そのタイミングを見計らってオタマモンさんが、カガさんのズボンの裾を、引っ張る。 「ほら、ソーヤ。そろそろ『出す』ゲコよ」 「っと、そうだったそうだった」  カガさんはオタマモンさんに向けて紙を1枚、差し出した。 「ゲコ……相変わらず『こう』なると字がきったないゲコね……」 「わりい……」 「オタマモン。カジカこれ何一生懸命書いとったんや」 「『歌詞』ゲコよ」  思いもしなかった単語に、指に隙間を作ってそちらを見やると――カガさんは、今度は私達の方を向いて、ニッと笑っていて。 「お待たせ」  指に伝わる頬の感触が、完全体の時とは違って肌色だからなのか、必要以上に熱を帯びていた。  今回の、作戦。  カンナ博士とコロモンさんが報告と記録を担当して、  人とデジモンがジョグレス進化した私達と、闇のスピリットを纏ったハリがコラプサモンと対峙し――  ――私達がそれをするために、カガさんとオタマモンさんが、もう1度ラーナモンさんの力を借りて、今度はラーナモンさん1体分の声で外套のように、私達が纏う『霧の結界』を作る。……と、いうものだ。 「新曲。タイトルは、『蝙蝠姫の子守歌』だ」  さっきのヴァンデモンの台詞のお蔭でようやく纏まったんだ。と、どこか自慢げに、そして心の底から嬉しそうに、……少しだけ、照れたように、カガさんは続ける。  当初、『霧の結界』のトリガーには、もう1度『ボレロ』を使う事になっていた筈なのに。  なのに――この10分ちょっとで、仕上げて、くれたというのだろうか。 「リューカちゃん。ヴァンデモン。……今はウィローオウィスプモンって言うべきか? まあ、とにかく」  示し合わせたように、オタマモンさんがカガさんのスマホに戻る。  途端、画面から進化の光が漏れだして 「スピリットエヴォリューション!」 「オタマモン、進化――水の闘士、ラーナモン!」  オタマモンさんが、進化したようだ。  カガさんは、そのラーナモンさんが入っているスマホを持って、こちらに歩み寄って来て―― 「マジェスティックな曲になったから、世界で1番最初に、聞いてくれよな」  ――私達へと、差し出した。 「「カガ、さん……」」  ただ、差し出したんじゃない。  1番大事なパートナーも、カガさんが全身全霊で、私達に向けて作ってくれた『歌』も――全ては、この中に。  託して、くれたのだ。  顔も、やっぱり熱いのだけれど――今度は、胸がかあっと、熱を持つ。  カンナ博士は、そっと私達を温めてくれるけれど  カガさんはいつも、知らない熱を、私達に教えてくれる。  怖いくらいに。  怖いけれど――恐ろしくは無い、不思議な感覚。  ……『私』、もしかしたら、やっぱり。  この人の、事―― 「ん? なんや、ウチも特等席やんけ! こら丸儲けやで!」 「……ラーナモン、頼むから、絶対に、俺のミューズの邪魔とかだけはしないでくれよ……?」 「せえへんわ! 失礼な! それにウチ今ラーナモンちゃうし、カルマーラモンやし」  ……どういう仕組みなのだろう。スピリットって。  闘士として持っている精神が、どっちのスピリットでも共有できる……と、いう事なのだろうか。  まあ、その辺は、カンナ博士がちゃんと解き明かしてくれるだろう。 「「ありがとうございます、カガさん」」  細心の注意を払いながら、私達はしっかりとカガさんのスマホを受け取った。  とはいえ必殺技を放つ事になるであろう手で握り締め続けるわけにもいかないので、急いで腰に巻き付いたベルトの付近のデータを作り変えてホルダーを作り上げる。  ……何の気なしに作ってしまったけれども、デジモンってこういう身体の弄り方を出来るんだなと、人ごとのように感心した。  カガさんのスマホを、そこに仕舞う。 「「ラーナモンさん、よろしくお願いしますね」」 「ゲコ! 全力で『応援』させてもらうゲコよ!」  頷いて、それから顔を上げる。  カガさんは、不安も期待もごちゃまぜになった瞳をしていて。  カンナ博士はいつの間にかコロモンさんを抱きかかえていて、どちらも信頼してくれているけれど、それはそれとして心配を隠そうとはしていない眼差しをこちらに向けている。  ……この人達のいる所が、私達の、帰る場所だ。  胸の内で――きっと、そうするまでもないのだろうけれど、それでも――『私』と『僕』は、声を、揃えた。 「「いってきます!」」  いってらっしゃいの声は、少しずつ、バラバラだったけれど。  でも――同じように、背中を押してくれた。 「行きましょう、リューカ」 「ゲコ!」  そしてすぐ隣には、一緒にただいまを言ってくれる『友達』と、『マジェスティック』な歌姫がいる。  世界を救う理由なんて、それだけで十分だ。
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