フォーラム記事

快晴
2022年9月30日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫  「「走れメロスよ、燃え盡きるまで」……なんつってな。まあメロスと違って休む暇は無いし、止まると死ぬのはセリヌンティウスじゃなくてお前だ」  そういう訳だから、がんばれよ。  俺が安全圏からかけたねぎらいを耳に入れたか入れなかったかまでは知らないが、少女は息を切らしながら、『迷路』の路地を懸命に駆けて行く。  ここは『迷路』の中でも特に道幅が狭く、複雑に入り組んだ区画ときている。  商いに使えるスペースがあるでも無し、平時であればわざわざ訪れる者も居ないようなこの場所に彼女が入り込んだのには、それはそれは深い訳が在って。  少女の背後。  デジモンの群れが、彼女の事を、一丸となって追っているのだ。  いや、群れというには、あまりにも節操のない有象無象か。  種族、世代、属性。どれもこれもがバラバラで、唯一奴らに共通点があるとすれば、「野生のデジモンである」その一点だけだろう。  そもそも『迷路』のデジモンは、そういう種族--例えば、ゴブリモンだとか――を除いては、基本的に集団で行動したりはしない。  しかし今この瞬間、現実問題として。デジモン達は、競い合うようにして1人の少女を追い立てている。 「はぁ、はぁ、はぁ」  少女は勢いよく角を曲がる。  直進にしか能の無い種が混ざっているためか。カーブのために減速した先頭集団を、すぐ後ろにつけたデジモンが突進で弾き飛ばす。  そんな風に、案外順位の入れ替わりは激しいものの、体格差のあるデジモンに踏み潰されるなりしてこの世から退場した哀れな連中を除いては、未だこの狂ったレースからの脱落者は居なかった。  10メートル近く転がって行った元先頭集団達も、彼らを突き飛ばした勢いをそのままに列を飛び出した直線馬鹿どもも、立ち上がるなり、立ち止まるなり。慌てて少女を追う列へと戻って行く。  細い道も、うねるような曲がり角も、今のところ少女の味方にはなっている。  だが、追手達はたとえ一時的に少女の姿が見えなくなろうともまるで意に介さない。  何かに導かれるようにして、次の瞬間には確実に彼女の背を捉え、後続も迷いなくそれに続くのだ。  そうなれば、少女の味方だった筈のこの区画の地形が、翻るようにして彼女に牙を剥くのも、時間の問題で。  そしてその瞬間は、呆気ないくらい唐突に、彼女の前にそびえ立った。 「っ」  行き止まり。  後方以外を全て、薄い青色の光が走る壁に囲まれて。少女は足を止める他無くなってしまう。  何重もの獣の唸り声が、背後から押し寄せてきた。  今日、ただどこかですれ違っただけの彼女に、限りない憎しみを向けているかのように。  散々に嬲って殺してやると、その場の全てが、宣言しているかのように。 「……ふぅー……」  対して、少女は――深呼吸。  すっかり上がっていた息を無理やりに整えて、彼女は振り返るではなく、目の前の壁を睨む。  歩み寄った壁面には、自分の影が、落ちていた。 「それで?」  刹那、少女は背後に向けていた右の手の平に、袖から小さな赤いキーホルダー--『迷路』の探索者達が俗に「旧式」と呼ぶデバイスをすとんと落とす。  追手のデジモン達に向けられた液晶画面から、どす黒い瘴気が、噴き出した。  綿のように軽やかに舞い上がった瘴気--黒い蟲たちは、不愉快な羽音を迷路の路地いっぱいに響かせながら、今まさに少女に飛び掛かろうとしていたデジモン達に纏わりつく。  羽音は瞬く間に、言葉を持たない獣達の悲鳴に塗り替わり、それもすぐに、みちみちぎりぎりと細かく肉を引き千切って喰らう音へと移ろって行った。  なんて事は無い。彼女はただ、壁という囲いを利用して、追手を一網打尽にしたかっただけなのだ。  誘い込まれたのは、連中の方である。 「『キルミー』だっけ? 馬鹿馬鹿しい。私、そんな事言ってないし、頼んで無い。だから、殺されるのは、食べられるのは、あんた達。……デリバリーご苦労様、ハンバーガー屋さん。死んで」  蟲に続いて顕現した、枯れ木で出来た巨大な竜のようなデジモンが、広げた翼で両脇の壁をなぎ倒しつつ、地面を蹴る。  少女を跨ぎ、彼女の前方にそびえ立つ壁を、杭のように鋭い牙が狙う。  彼女の影を穿つようにして、牙を突き立てる必殺技『ドライアドスティンガー』を放つそのデジモンは、完全体の植物型デジモン・エントモン。  少女--イザサキ リンドウの、パートナーだ。 「んふふ。大きくなったね、リンドウちゃん」  対して。  崩れた壁の先で、リンドウから分離するように逃げてきた黒い影を自分の元に迎え入れながら、この展開を待ち構えていたようにも見える、男にも女にも見える均衡のとれた身体つきをした人物--通称『レンタルビデオ』ことネガが、艶やかな唇を弓なりに歪めた。 「気色悪いから、名前、呼ばないでくれる?」 「んふふ。雰囲気に、それからパートナーデジモンまで。ストゥーさんそっくりだ。酸いも、甘いも。お父さんと同じように、『迷路』でのいろんなコトを、たーっくさん。経験、してきたんだねぇ」 「……」 「これで顔も似ていたら、ボク、本気で好きになってしまうところだったかも」 「うん、やっぱり殺すわ」  エントモンが通過した事により頭に、身体に被ったカビの胞子を手で払いながら、リンドウは、一言。  彼女の父--と、いう事になっている――先代絵本屋、ゲイリー・ストゥーがネガと対峙した時とは違って、リンドウにはネガに加減をする理由が無い。  デジモンを惹き寄せ、取りついた相手を襲わせる必殺技『キルミー』に誘われたデジモン達の群れをあらかた食い殺したエントモンの蟲達は、リンドウからの合図に、今度は主を襲った諸悪の根源・シェイドモンとそのパートナーを断たんと、一斉に彼らの方へと引き返して来た。  蟲で出来た、黒い雲が走る。  エントモンのもう1つの必殺技『ブラステッドディザスター』がネガ達へと迫った。  の、だが 「悪いね。『レンタルビデオ』と兼業とはいえ、飲食業だから。黒い蟲はNGなんだ」  ネガの取り出したデバイスが、画面から光を放つ。  次の瞬間、ネガを庇うように前に出ていたシェイドモンの上に、女性用の着物のように雅な布で装飾された、1本の刀が現れる。  刀はゆっくりとシェイドモンの元へと降り立ち、シェイドモンもまた宙へと立ち上り、影を刀に纏わりつかせ、ついには呑み込んだ。  そうして気付けば、影は美しい女性の姿を成して、頭上に深い緑色の円冠を戴いていた。  真の「最初の女」にして、悪霊達の母の似姿。  本来性別という概念の無いデジモンにさえ、甘美な悪徳を授ける妖婦--『色欲』の魔王・リリスモンが『迷路』に顕現する。  その間にも1人と1体の眼前へと迫っていた蟲達に向けて、まるで誘うかのようにリリスモンが手を伸ばす。  だが実際に虫達に差し出されたのは、彼女の細腕では無く、魔性の手。  五指それぞれが鳥と獣を混ぜたような化け物の頭で構成された、それ以外は影と目玉--奇しくも、シェイドモンに似ている――で出来た腕が、向かって来た黒い蟲を包み込み一気に握り潰した。  『エンプレス・エンブレイズ』  デジモンですら無い怪物を召喚する、リリスモンの必殺技だ。 「こりゃあイイ。これで俺達の望みはまたひとつ、空虚な妄想から美しい信実に近付いたという訳だ。暴君のように厚い面を赤らめて、お前らの仲間に入れろと処刑台に躍り出たい気分だよ」  エントモンに破壊され、降り積もった壁の破片の上に腰かけて。その場にいる全員によーく聞こえるよう、俺はげらげらと笑い声をあげて見せる。  途端、リンドウに向けていた物とは正反対、冷ややかな眼差しがネガから俺へと向けられた。 「ストゥーさんの身体を、声を。あなたごときが使わないでくれないかな」 「はっ。今度は「外見だけのストゥーさんには興味ないんですゥ」ってか? 王様万歳と諸手を挙げて、アイツのガワだけは守ってやった俺を讃えてくれても良いものを」  だが、まあ。と。俺はその場から立ち上がり、以前のゲイリー・ストゥーとの唯一の相違点たる眼帯を捲り上げて、指を突っ込む。  そうして、目玉を1つ、取り出した。 「真剣勝負に水を挿すのは本位じゃねェ。この肉体がお前らの心を掻き乱すと言うのなら、俺は姿を見られた機織り名人の鶴女房のように、名残惜しみつつ飛び去るとするさ」 「……『それ』にも手出し、させないでよ」 「もちろんさリンドウ。俺は悪魔だからな。お伽噺の軽薄な男どもと違って、約束「だけ」は、守るんだ」  目玉--切り離したクラモンをその場に浮かべて、俺の方も中身をピーターモンに進化させてその場を飛び立つ。  中年の身に永遠の少年の真似事は色んな意味でキツかろうが、移動だけならこの形態が一番手間がかからない。  適当な壁の上に降り立ち、腰を下ろして、目を閉じる。  そのまま視覚・聴覚情報を、残してきたクラモンへと切り替えた。  向こうにピントが合うなり、目に飛び込んで来たのはさめざめと涙を流すネガの姿。  相対するリンドウは白けた視線を向けているが、まるで気にしていない風だった。 「ああ。ストゥーさん、可哀想なストゥーさん……どうしてボクを置いてイッちゃったの?」 「知らない」  そんなの、私が聞きたかった。  そう、リンドウの唇が動いた気がする。  ただ、あくまで気がするだけだ。少なくともネガには聞こえなかったか、聞こえていても、無視したか。  途端に表情を改めて、ネガは端正なツラでリリスモン越しにリンドウへと微笑みかける。 「だけど、嗚呼。やっぱりストゥーさんの言う事は正しかった。本当に素敵なレディに成長したね、リンドウちゃん。ストゥーさんの言いつけを守って、あの時手を出さなくて本当に良かったよ」  ネガの唇を、赤い舌が這う。 「あの頃よりずっと、美味しそうだ」 「きっしょ。死ね」  短く適切な罵倒を合図に、リンドウのパートナーもまた、動き出す。  エントモンから噴き出した蟲達は、彼女達が喋っている間に、こちらは男性の人型を創り上げ、手形の怪物の元へと駆けつけていて。  ベルゼブモン。  気高き豊穣神から追い堕とされてなお、糞山にたかる蝿共に崇め奉られる暴食の魔王だ。  ベルゼブモンはブーツのホルダーから愛用のショットガン『ベレンヘーナ』2丁を抜くと、『エンプレス・エンブレイズ』によって呼び出された怪物へと高速で銃弾を浴びせかける。  点の攻撃にしかならない筈の銃弾は瞬く間にその連射性能故に面の攻撃となり、手の怪物に細やかな抵抗さえ許さないまま蜂の巣へと変えてしまう。 「んふふ、そうこなくっちゃ」  飛び散った黒い粒子を、まるでカーテンか何かのように掻き分けて。  蝿の王の前に、悪霊達の女王が舞い降りる。  こうして、同じ舞台に役者が並んだ。  幕を上げる演目は舞踏。愉快な円舞曲は、どちらかが死ぬまで止まらない。 「やって、ベルゼブモン」 「がんばってね、リリスモン」  魔王の主人たちはそれぞれ対照的な表情を浮かべて、彼らを戦場に送り出した。  先に動いたのはリリスモン。  彼女は口元に左手を添えると、ふぅ、と艶やかに息を吹きかける。  吐息は瞬く間にどす黒い渦に代わり、大口を開けてベルゼブモンを取り込もうと迫る。  相手のデータを末端から破壊していく、暗黒の息吹『ファントムペイン』。  属性上、他の種族が受けるよりか効果が出るまでに時間がかかるだろうが、それでも真正面から喰らって良い技では無い。  一直線にリリスモンに向かっていた足で素早くブレーキをかけると、ベルゼブモンはさっと身を翻す。  そうして身体を捻りつつ、構えた『ベレンヘーナ』の引き金を1発ずつ引くベルゼブモン。  銃弾は『ファントムペイン』に蝕まれるよりも早く、彼女の胸元を狙って突き進む。が―― 「ちっ」  肉を貫く音の代わりに響くのは、リンドウの舌打ち。  リリスモンが軽く指を振るうなり、彼女の前に頭冠と同じ色の魔法陣が浮かび上がり、銃弾を弾いてしまったのだ。  必殺技名すらない、魔王が故に行使を許された『魔術』の類。  お返しだ、と言わんばかりに、今度はその魔法陣から、闇色の閃光がベルゼブモンへと降り注いだ。  始まるのは、片や銃、片や魔術を用いた早撃ち合戦。  無限に続く弾幕同士の殴り合いは、轟音と共に『迷路』の空間を黒く染め上げて行く。 「んふふ。いいね、激しくて。とても力強くて、暴力的だ」  そんな中でも、ネガの声は良く響く。  仮にも映像作品を趣味で作っているからか、声の出し方響かせ方まで計算づくなのだろう。彼の声音は、小気味良い鈴のようだった。 「でも、それだけじゃボクのリリスモンには勝てないよ。お父さんならどうしたか、もっと、よーく考えてごらん?」  そうしてくれなきゃ、調理のし甲斐が無いじゃない。  ネガは微笑む。リンドウが自分の再現できる精一杯の『オトウサン』ごと彼女を捻り潰した画は、彼の中でさぞかし美しく煌めいている事だろう。 「……」  ゲイリーの思考回路と知識を用いて、戦況を予測する。  『迷路』における人間を交えたデジモン同士の戦闘とは、「出来る事が多い奴が有利」というのが奴の持論だ。  俺の成長期をマッシュモンになるよう調整しだした時は奴の正気を疑ったが、それも今となっては懐かしい。  あいつはどこまでも愚かで憐れな男だったが、デジモンの能力の応用に関しては、このオレサマでさえ素直に舌を巻く程で。  で、そんなゲイリーの灰色の脳みそは、性能面ではリリスモンの方が優勢だと判断する。  中・近距離に対応した必殺技。攻防どちらにも秀でた魔術。魔獣を使役する術。   一撃の威力はベルゼブモンに軍配が上がるだろうが、あの男はその類のステータスはあまり重視しない。どちらにせよ、究極体の必殺技など、大概、当たれば相手は死ぬのだ。  故にこそ、この程度の性能差。  ひっくり返してもらわねばならない。 「お前の『父親』はもっと強いぞ、リンドウ」  だから、同列の魔王ごとき。1人で殺してもらわねば。  俺達の復讐譚は、何も、始まらないのだ。 「五月蝿い」  状況からして耳障りだったのはネガの台詞回しだろうが、俺の内心を読んだのかと思う程のタイミングだった。  リンドウは顔を上げ、前方をねめつける。ネガを、というより、戦況そのものを。  彼女は、旧式デバイスをぎゅっと握り締めた。  多くの『迷路』の探索者と違って『選ばれし子供』であるリンドウには、デバイスのコマンド機能を使わずにパートナーに指示を伝えられる強みがある。  ベルゼブモンの目つきが変わった。  悪趣味なビデオ屋の意表を突く策は、彼女の中で、整ったのだろう。  地面が、陥没する。  体躯こそ縮んだ訳だが、エントモンの時以上の脚力を以って、蝿の王はその場を蹴った。  攻撃魔術がベルゼブモンの身を掠め、焼き、裂く。  その間に、リリスモンは魔法陣を消し、再び手の平を唇に添えた。 「まさか、負傷覚悟での特攻?」  ネガがわざとらしく首を傾ける。  吹き出された『ファントムペイン』ごとリリスモンを切り伏せようと、ベルゼブモンは腕を振り被る。  下手な刃物よりも鋭い鉤爪による、斬撃の必殺技――『ダークネスクロウ』。  振り下ろす勢いに乗って巻き起こった風圧は『ファントムペイン』を吹き飛ばし、鉤爪は色欲の魔王の肩口を抉った。 「じゃ、ないよね?」  抉りはした。  ベルゼブモンの爪は赤く濡れ、腕はリリスモンの胸元付近にまで沈み込んでいる。  だが、今更負傷を顧みないのは、リリスモンも同じ。  そんな事は、俺達とネガが一度共闘した時から、解っていた事だ。  リリスモンは、ベルゼブモンにわざと攻撃を当てさせる事でその腕を捕らえ。  己もまた、真っ直ぐに右腕を突き出していた。  右腕--『ナザルネイル』。  美女が腕からぶら下げるには余りにも物騒な異形の腕は、しかしベルゼブモンと違ってその爪の鋭さばかりを強みにしている訳では無い。  咄嗟に、『ダークネスクロウ』を繰り出していない方の腕で『ナザルネイル』を逸らしたベルゼブモンだったが――爪の先を、掠めたらしい。  リリスモンの方と違って傷口は浅い。しかしその小さな裂け目から噴き出したのは、血液データでは無く、毒々しい色の泡の塊。  ベルゼブモンがぎょっと顔をしかめた。  おそらく、凄まじい匂いがしたのだろう。  『ナザルネイル』は、触れたものを全て、腐らせる。  リリスモンの右手が折り返し、今度はベルゼブモンのデジコアを狙う。  当たれば助かる見込みは無い。ベルゼブモンはその場から飛び退きながら、傷口周辺をも蝕み始めた左腕を、握り締めた『ベレンヘーナ』ごと『ダークネスクロウ』で切り落とした。  落ちた腕は弾む事無く、ぐしゃりとその場で潰れて液状になった肉を撒き散らかす。  ネガは、その様子をしげしげと眺めて――やがて、困惑したように眉をひそめた。 「もしかして、「そのつもり」だった?」 「……」 「だとしたら、がっかりしちゃったな。ストゥーさんもマンモンには優しくしないようにしてたみたいだけど、でも、無謀な事はさせてなかったでしょう?」  最期を除いて、ね。と。少しだけ意地の悪い調子でネガは付け加えた。  リンドウは、黙っている。不快そうな光を瞳に宿したままではあるが。  一方、片や腕を吹き飛ばし、片や肩口の裂けた魔王達は、しかしお互い微塵にも己の負傷に目を向ける事無く、目の前の獲物へと右腕を突き出す。  同じ轍は踏むまいと、ベルゼブモンは腕が消し飛んで出来た分の空間まで利用して、なるべく余裕を持って『ナザルネイル』を回避する。  そのまま今度は、振り下ろしでは無く、貫手という形態を以って。ベルゼブモンは僅かながら隙の出来たリリスモンのデジコアに直接狙いをつけ--  しかしベルゼブモンの爪が色欲の魔王の豊満な胸部を貫く寸前、彼の身体がぐん、と傾いた。  子猫の戯れのようなひっかき傷だけを残して、ベルゼブモンは前のめりに倒れながら、後ろへと引き摺られて行く。  『ナザルネイル』の脅威を前に、そしてその「手」に関しては当初呆気なく対処出来てしまったが故に、完全に失念していたのだろう。  リリスモンの使える「手」は、腐敗の右手だけではないと。 「--ッ」  再びの『エンプレス・エンブレイズ』。  蘇った異形の不死鳥は恨みがまし気にベルゼブモンを睨みつけた後、5つの頭同士で奪い合うようにして、捕らえた蝿の王の両足を啄み、噛み千切った。  魔王の矜持か、蟲故に知らないのか。ベルゼブモンが、悲鳴を上げる事は無かった。  だが額からは脂汗が伝い、食いしばった歯の隙間から洩れる息はひどく荒い。  それでも--まだ、右手の爪が残っている、と。  左腕の肘から上で身体を持ち上げて、歩み寄って来るリリスモンに向けて、右手を振り上げようとして、  リリスモンはスキップでもするように飛び跳ねると、ベルゼブモンの右腕に着地して、その腕を圧し折った。 「……お疲れ様、リリスモン」  失望交じりの息を軽く吐き出した後、しかしすぐにネガは表情を取り繕って、笑顔でパートナーへとねぎらいの言葉をかける。  手のひらで自分の傷口を押さえつけていたリリスモンは、しかし無事役目を全う出来たと知ると、そこだけはバーガモンの時と大差の無い、無邪気な笑みを浮かべてネガへと大きく手を振った。 「右腕も引き千切っておいてくれる? その方が、だるまさんみたいで可愛いからね」  指示さえあれば、行動は早かった。  リリスモンは喜々として、ベルゼブモンに乗せた足を重し代わりにしたまま、彼の腕を自分の方へと引き寄せる。  ぶちぶちと、まあ、音だけは、小気味の良いくらいだった。 「さて、と」  ネガが、リンドウへと向き直る。  しばらくの間、彼の眼差しは冷え込んでいたものの--やがて、ふっ、と。ネガはその表情を綻ばせた。 「……うん。やっぱりじっくり見ると、本当に顔が良い。ストゥーさんに似てないのは残念だけれど、君には君の良さがある」  特に、この期に及んですまし顔なのは、本当に素敵だね。と。  もはや脅威など一かけらも感じていないのだろう。  アホみたいに細いピンヒールの先を支点に、半ば踊るようにして。ネガはリンドウへと距離を詰めて行く。  軽い足取りは景気の良いミュージカルを彷彿とさせたが、生憎このレンタルビデオ屋が好む歌声は悲鳴の類。パッケージにナイフを構えた左手のコンテンツアイコンがついたミュージックビデオなど、やっすいショーパブでもお断りだろう。 「一緒に遊ぼう、リンドウちゃん」 「きっしょ。死ね」  なので、リンドウの返事は何も変わらなかった。  何一つ、変わっていないのだ。  ネガに対する軽蔑も――そして、彼の敗北を願う、その意思も。 「え?」  ぱあん、ぱあん。と。  響いた銃声は、2発。  ネガが振り返ったのと、彼とリンドウの間に境界を拵えるかのような位置に金色の腕が飛び込んで来たのは、ほとんど同時の出来事だった。  右腕の、肘から先。  胸の中央。  もはや魔弾でなくとも外しようなど無い位置だ。  暴食の魔王の凶弾は、にこにこと自身を見下ろしていたリリスモンの急所へと、寸分の狂いも無く喰らいついていて。 「なん、で――」  パートナー同士、浮かべている表情はひどく似通ったものだった。  信じられない、と。  何故、こうなったのか、と。  答えは、すぐに。  主が撃ち抜かれ、倒れ伏した際に魔力の供給まで途絶えたのか。全身を硬直させた怪鳥を、主と同じように処理する『ベレンヘーナ』の所在によって、詳らかにされる。  ベルゼブモンは黒紫色の腐った汚泥に塗れた銃に自身の尾を巻き付け、その先端で、引き金を引いていたのである。  リリスモンと、ネガ。その両方の目を盗んで、銀の尾で回収した『ベレンヘーナ』の引き金を。 「……ッ!」  それでもなお、その場からは動けないベルゼブモンを仕留めようと、リリスモンは『ファントムペイン』を吹き出そうとして――しかし、ごぼり、と。血液データばかりを、吐き出した。  心なしか、咳き込む音さえ、弱々しい。  デジコアが破損したのだ。  まだ形を保っている事の方が、おかしいのである。 「……お父さんが」  黙ってその様子を眺めていたリンドウが、ふと目を細めて、口を開く。 「簡単に、だけど。自分のデバイスにあなたの対策を残してた」 「ストゥーさんが?」 「メインはシェイドモンについて。結局使わなかったけれど、『フリーデスフォール』回避用の『絵本』も用意してあった。……それを纏めたファイルの隅に、「過度な猟奇趣味。負傷し続ければ気を引けるか?」って。走り書きをね」  それは、ネガと共闘した日の帰り道。  アイツがハンバーガーを喰っている俺の傍らで、デバイスに纏めていたものだ。  油断など、最初から期待していなかった。  ネガの目を逸らす方法があるとすれば、それは彼の「好みの光景」ただ1つ。  パートナーの四肢を引き千切られた少女が、敗北を前に一体どんな表情を見せるか。  怯えるにせよ、気丈に振る舞うにせよ。ネガ基準での「美しい姿」を、彼が一瞬たりとも見逃せるワケが無い。  そしてデジモンの無力化に成功した場合、デジモンを回復する手段を持つかもしれないテイマーへと警戒が向くのは当然の流れ。  リリスモンが職務に忠実であったからこそ、ほんの僅かといえども、ベルゼブモンへの警戒は手薄になったのだ。 「だから、最初から片腕は捨てさせるつもりだった。……片腕だけで済むと思ったんだけど、そこは、私の想定が甘かった」  勝者の種明かしに、しかし勝利の余韻は感じられない。  きっと、未だに抵抗を試みてもがくリリスモンに、どこぞで野垂れ死んだ間抜けを重ねてセンチメンタルに浸っているのだろう。 「良かったね、『レンタルビデオ』」  感傷を冷ややかな眼差しで覆い隠して、リンドウは真っ直ぐにネガを見据える。 「あなた、結局お父さんに負けたんだから」 「……んふふ」  ネガは、満足そうに微笑んだ。 「嬉しいな。ストゥーさんが、死ぬ少し前に、ボクの事を考えてくれていただなんて」  本当に、光栄だよ、と。  ネガの表情は、いっそ眩しく感じる程で。  ……アイツはネガの事を「女の趣味が悪い」と評していたが、オレサマに言わせれば、男の趣味の方が格別に悪いとしか思えない。  あんな男の、どこが良かったんだ。  等、考えつつ。  俺はクラモンに任せていた、リンドウとネガの戦闘の場へと舞い戻った。 「もういいよ、リリス――いや、バーガモン。よく、頑張ってくれたね」  クラモンを回収する俺をまるで無視しながら、ネガは自分とリンドウを隔てるように落ちている、リリスモンの腕を拾い上げた。  本体を離れてもその毒性が失われる訳では無い。自分やベルゼブモンに投げつけてきやしないかとリンドウは身構えていたが―― 「え?」  ――ネガは『ナザルネイル』を、自分の頬に添えた。  いよいよ意識を朦朧とさせていたと見えるリリスモンが、カッと目を見開いた。  ぱくぱくと、言葉を発する事の無い口を動かし始める。まるで、ネガを引き留めようとしているかのように。  対照的に、ネガはリリスモンへと、子供をあやすような穏やかな笑みを向けながら、視線だけをリンドウに、続けて俺の方へと流す。 「んふふ。君達には、殺されてあげないんだ」  そして最後には、やはり、ネガの瞳は、パートナーへと。 「愛してるよ、バーガモン」  そう言い残すと、ネガは『ナザルネイル』の人差し指に、自分の指を絡めて強く押した。  途端、彼の滑らかな頬に小さな穴が空く。  次の瞬間にはごぼごぼと嫌な音を立てて、あれだけ端正なつくりをしていたネガの顔が蝋燭のように溶け落ちて、すぐに均衡のとれた肉体も同じ末路を辿って行った。  後には腐汁塗れになった身体のラインをはっきりとさせない衣装とピンヒールの靴が残され、靴は自分の細さに耐え切れずに倒れて、べちゃりと持ち主だった液体に波紋を立てる。 「ア--アア――」  搾りかすみたいな女の声に、何事かと顔を上げると――リリスモンが、ネガのなれの果てを見つめながら、滂沱の涙を流していて。  縋りつくように左手を伸ばすが、当然のように、届く事は無い。  哀れなものだ。  選ばれし子供のパートナーでもないのに。 「……ま、ニンゲンの方の末路なんて、どうでもいいさ」  ネガの溶けた肉の中から『ナザルネイル』を拾い上げ、爪の先には気を付けつつ、ゲイリーの姿のまま咀嚼する。  正直クソみたいにくっせぇが、珍味とでも思えば、まあ、喰えなくは無い。  空いている手で、眼帯を外す。流石に本体を出すとなると、一々自分で取り出すのは面倒なので。 「だがオレサマ、結構お前の事好きだからな。慰めてやるよ、お疲れさん。サイコーだったよ、お前らのハンバーガーとかいう食べ物。寂しくなるぜ、もう2度と喰えないと思うとな」  だから、と。  ゲイリーの肉体の隣に、眼窩から零したクラモン共で構築したもう1体の俺--ディアボロモンを、顕現させる。  ディアボロモンに、横たわるリリスモンの右足を引き千切らせて、ベルゼブモンの方へと投げさせた。  こいつはベルゼブモンの分け前だ。除けておかないと、全部喰っちまいそうだったからな。  『選ばれし子供』のパートナーだ。退化によるデータの再編成で、あらかたの傷は治せるだろうが、四肢を全部やられたとなると、多少はデータを補う必要もあるだろう。……ったく。  ……リリスモンは、もはや何の反応も示さなかった。  ただ、うつろな眼から零れた水で、『迷路』の床を濡らしているばかりだ。  最後の最後は、面白みのない奴だったな。  だが、『レンタルビデオ』の末路と思えば、まあそんなもんだろうと思わなくも無く。 「せめて、お前の事は、残さず美味しく、食べてやるよ」  食事中も、リンドウはじっと、ネガだった汚泥を眺めていた。  途中、えづくような声が聞こえたような気がしたが、聞かなかったことに、してやった。 *  とまあ、そんな感じで。  リンドウは実質の初陣で勝利を飾り、オレサマは喰うべき得物、その3つ目を腹の中に納めた。  こうして俺達の復讐譚は、幸先よく、華々しく、幕を上げる。  演目は、お伽噺。  いつの頃からか。少なくともこの肉体の持ち主がが、最初に『迷路』の外に出るよりも前。  こんな歌をどこからか、いつだって誰かが囁いていたそうだ。  『迷路』のどこかに不思議な絵本を売る店があって、『迷路』に迷った可哀想な輩を、どこの誰だろうと助けてくれるのだ、と。  それは所詮、どこかの誰か。もっと言うなら捨てて置かれた哀れなガキが夢見た、お伽噺にもなれない与太話だった。  誰も彼もが夢見る程度には、希望と諦めに満ちた噂話だった。  なのでそんな最低のお伽噺は、あの男の代でお終いとしよう。  誰も助からない。  誰も救われない。  ただ俺と『俺』の娘だけが望む結末を、いずれ迎えるまでの物語。 「リンドウ。オレサマの『メアリー・スー」」  『色欲』を手に入れた俺は、奴の真似をして唇の端を艶っぽく持ち上げる。 「最悪のおとぎ話を、始めようぜ」 「何よ、今更」  ゲイリーの顔では流石にサマにはならなかったか。  リンドウは、デバイスを介してパートナーを治療する手を一度止めてあげた顔を、あからさまにしかめている。 「当たり前でしょう」  彼女は、吐き捨てるように、呟いた。
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快晴
2022年9月28日
In デジモン創作サロン
≪≪Episode4  ※注意  今回のお話のテーマはペットロスです。  きつい展開や、ひょっとするとフラッシュバック等あるかもしれませんので、お読みになられる方は、どうかご注意ください。  それでは、以下本編です。  可愛い子犬を見ただけで、背筋が冷たくなるのはどうしてなのだろう。  こんなにあたたかくて、ふわふわで、人懐っこくて、元気なのに。いつかはそうじゃなくなると、僕はもう、知ってしまっているからだ。  冷たくて、固くて、何の反応も示さない。  ずっとずっと苦しそうで、僕の事なんて覚えている風じゃ無くて、なのに僕はずっと覚えていなくちゃいけなくて、可哀想で、あんなに大好きだったのに、ずっとずっと辛くて。  こんなに寂しくなるくらいなら、僕達は、出会わなければよかったのに。  そうすれば、あの子はもっと、僕のうちより裕福だったり、お世話してくれる人が優しかったり。そういう場所で、幸せに暮らせていたんじゃないかって。そんな事ばかりを考えてしまう。  こんなにも、会いたくて会いたくて仕方が無いのに  僕はあの子に、僕を恨んでいてほしかった。  せめて、別れの時くらい。  あの子が辛く、無かったように。 * 「どうして勝手にそんな事したんだよ! 僕は嫌だって言ってたじゃないか!!」  学校から帰って「ソレ」を見つけるなり、いけないことだとは解っていたけれど、僕は父さんと母さんをキツい口調で問い詰めた。  2人とも、まるで僕が喜んでくれると信じて疑っていなかったかのように、揃いも揃って目を丸く見開いている。  どうしてそんな顔が出来るんだろう。ラテが可哀想だと、そう思わなかったのだろうか? 「でも、言ってたじゃない。そろそろ新しい子を飼おうって。前にも話したでしょう? お父さんもお母さんも、ずっとペットの居る生活をしてきたから、なんだかずっと寂しくて、我慢できなかったのよ」 「「寂しい」から? ふざけんなよ! 軽い気持ちでペットを飼うなって、CMとかでも言ってるだろ!? それに、僕は嫌だって、もうペットは飼いたくないって、何回も言った! ラテのことも碌に幸せにしてやれなかったのに、うちに新しいペットを飼う権利なんてあると思ってるのかよ!」  まだそんなことを言うのか! と父さんが僕を怒鳴りつける。  正直、身がすくんだ。父さんは身体が大きくて、怒ると声もよく響いた。暴力を振るったりするような人では無かったけれど、不機嫌な時の態度には威圧感があって、だから怒鳴られると、声が、出なくなってしまう。  ……だけど、ラテもこの人の大声に怯えて尻尾を丸めていた時の事を思い出して、僕は自分を奮い立たせながら声を上げる。 「だってそうじゃんか! ラテはあんなに苦しそうだった! 辛そうだった! もっとちゃんと気を付けてたら、大事にしてたら、そうじゃなかったかもしれないのに」 「どうしてそんなにラテを不幸にしたがるの!? お医者さんにも大往生だって言ってもらったじゃない! 焼いた後のお骨だって、こんなきれいに残るのは珍しいって葬儀屋さんも」 「リップサービスに決まってるだろそんなの! 生きてる時の事知らなきゃ何とでも言えるんだ!!」 「いい加減にしないか!!」  父さんは、さっきよりも大声で僕をしかりつけて。  今度こそ、声を出せなくなった。  なんでだよ、  なんでだよ。  僕は、間違った事なんて1つも言ってないのに。  僕はせめてもの抵抗みたいに2人を睨みつけて、リビングを飛び出した。  母さんが僕の名前を呼んだけれど、構うもんか。  ラテのことも忘れちゃうくらい寂しいなら、2人が勝手に面倒を看れば良い。僕は、ラテの事をちゃんと覚えている僕は、またあんな思いをするなんて、2度とごめんだった。  2階の自室に上がる前に、振り返る。  玄関。靴箱の上。  円筒状の水槽の中にいるその生き物は、水の中であってもなお潤んだ瞳で、怯えたように僕の方を見上げていた。 「……」  丸い瞳。  コーヒー色の毛並み。  2足歩行だし、角が生えているし、長い耳の先や手足、模様の部分にはピンク色の毛が生えている、見た事も無い、変な生き物のくせに。  その子はなんだか、ラテに似ていた。 「お前に、怒ってたんじゃないから」  そんな考えを振り払いながら、僕は落とした声をその子にかける。硝子と水を隔てた先にまで、聞こえていたかは分からない。  聞こえなくても、良いとは思った。  どうにせよ、不幸にも、うちに飼われて来てしまったのだ。  だから、ちゃんと、優しくしてあげなきゃいけないのに。  結局僕も、両親と同じで、最低だった。  それ以上その子を見ないようにして、自室に帰る。  ベッドに飛び込んで、身体を丸めた。  目を固く閉じても嫌な考えが浮かんでくるばかりだった。  その中でも特に最悪だったのは、ペットロスに関する話。  新しいペットを飼うのが良いと。そんな事が堂々と、対処法として書かれていた事を思い出す。 「ラテ……」  1人きりになると、いよいよ涙が滲み始めた。  僕の味方も、そしてラテの味方も。この世のどこにも、居なかった。 *  ラテは僕が小さい頃にもらわれてきた雑種犬だった。  本当に可愛くて、人懐っこい子だった。僕達はすぐに仲良くなって、構い過ぎるとよくないと母さんに叱られるくらいに、毎日、一緒に遊んでいた。  父さんも母さんも、前の子を病気で亡くしてしまったそうで、ラテの健康にはとても気を付けていたのをよく覚えている。  ドッグフードも評判のいいメーカーのものを選んでいたし、おやつなんて、僕が食べているものよりも高かったくらいだ。  ただ、ラテは外で飼われていた。  テレビで聞きかじった知識から、家の中の方がいいんじゃないかと問う僕に、両親は「田舎はこれでいい」と言うばかりで。  まあ、実際、ラテが若い頃は良かったのだと思う。犬小屋の立地自体は悪く無くて、夏場は木陰がラテを日差しから守ってくれたし、必要なら冷凍庫でペットボトルに水を入れたものを凍らせて、ラテ用のタオルにくるんで小屋に入れてやったりした。  冬場は、そもそもラテは、あまり寒いのを気にしている風では無くて。  だけど年を取ると外の気温にラテがへばっている事も増えて行って。  それだけじゃない。小学生がラテにちょっかいをかけたり、いじわるなおばさんが、ちょっと吠えただけのラテをすごい剣幕で怒鳴りつけたり。  そういう人達が近所にいるせいで、ラテはだんだん人見知りが激しくなって、懐いている人には変わらずに人懐っこかったけれど、一度敵と認識した相手には、尋常じゃないくらいに、なんなら相手が帰った後でさえ、吠え続けるようになってしまって。  そして――最終的にあの子を不幸にしてしまったのは、他ならぬ僕だった。  ラテが、人間でいえばもうお年寄りといってもいい年齢に達してほとんどすぐの頃。  ある日、ひっくり返って仰向けになったラテのおなかを撫でていた時、僕はラテのおなかに、ちょっとしたしこりがあるのに気付いてしまった。  僕は、そのくらいならきっと大した事は無いと楽観視する両親にしつこく言って、ラテが病院嫌いなのはわかっていたけれど、あの子を動物病院に連れて行ってもらったのだ。  検査の結果、おそらく悪性の腫瘍等ではないけれど、いつそういうものに転じるかはわからないし、良性の腫瘍でもしこり自体が大きく成り続けると、破裂して化膿するかもしれないと、お医者さんは手術を勧めた。  手術のリスクなんかも聞いて。僕達は色々悩んだのだけれど、結局、僕が強く言って、ラテのお腹の腫瘍を切り取ってもらったのだ。  それからしばらくして、ラテに認知症の傾向が見え始めた。  目も段々と白く濁り始めて、柵にぶつかりながら同じところをぐるぐる回ったり、ごはんを食べたり水を飲んだりするのが下手になって、入れ物をひっくり返す事が増えた。  だんだんと表情がなくなっていって、尻尾はずっと下がっているようになって。  終いには、ラテは僕の事さえ本気で噛むようになった。  痛い痛いと言っても離してくれなくて、指に小さな穴が空いて、そこから血が零れ続けた時の事をよく覚えている。外犬だからか、少し菌が入ったらしい。傷が塞がった後も、暫くの間腫れ続けた。  ラテが全く知らない犬になってしまったみたいで、僕は怖かった。  そう感じるのと比例して、僕がスマホでラテの写真を撮る頻度は減って行った。  後で見返した時、このころのラテの写真は穏やかに眠っている時のものばかりで、それが余計に辛かった。  そんな、ゆるやかに悪化する日々が1年以上続いて  自分で立てなくなってから1ヶ月。  自力で食事を取れなくなってから1週間。  完全に寝たきりになってから、たった1日。  1時間前には息をしているのを確認したのに。  見つけたのは、僕だった。  夜、お風呂から出て、ラテの事を確認しに行くと、あの子は息を引き取っていたのだ。  固く、冷たくなって、くたびれたクッションに沿ってどこか平べったい印象になってしまったラテのやせぎすの身体に、僕は長い事、泣きついていた。  16歳。  年齢を聞くと、誰もがダイオウジョーだ、大事にしてもらったんだと、そう言ってくれた。  だけど、僕の記憶に最後に残ったラテはうつろな目でぜいぜいと苦しそうにあえいでいる姿ばかりで、とても安らかな最期だとは言ってあげられなくて。  もし  もしも、あの時、僕がラテの腫瘍に気付かなければ。  手術をするべきだと推さなければ。  認知症にはならずに済んだかもしれない。あれは、環境が変わると悪化するものだそうだから。  目だって、その時のストレスのせいで悪くなったのかもしれない。  何も見えなくなって、  何も解らなくなって、  周りに居るのは、本気で噛み付いてしまうほど嫌っている人達で――最期の一瞬を、看取ってあげることすらできなかった。  それが幸せだなんて、どう、言い切れるというのだろう。  それから1ヶ月もしない内に、両親は『新しい犬』の話を僕に振り始めた。  僕は信じられなかった。当然、何度も嫌だと言った。  だけど両親と僕の価値観は違っていて、あの人達は、犬は、そこに居るだけで家族を幸せにしてくれる存在だと言うのだった。  もし、仮にそうだとしても。その犬をラテみたいに不幸にしたくないと言うと――母さんはさめざめと泣き始めて、父さんは烈火のごとく怒り狂った。  そうして、結局。  『新しい犬』は、本日、うちへと迎え入れられた。  ただし、水槽の中に入った状態で。 * 「……」  朝、起きて(最も、あんまり眠れなかったのだけれど)。1階に降りるなり目に飛び込んで来たのは、水槽の中で泣き喚く『新しい犬』の姿だった。  泣き喚く、といっても、声は聞こえない。硝子と水は、やはり音を遮っているらしい。  鳴き癖のあったラテの事を鑑みてこういう飼い方の出来る生き物を選んだのだとしたら、本当に最低だなと僕は思った。  ……水の中の生き物が涙を零したところで、そんなもの、きっとわからないのだろうけれど。  目を固く閉じて、大口を開けて。何かを叫んでいる様子には、なんとなしに、覚えがあるような気がしたから。 「ああ、おはよう」 「……泣いてるけど、あいつ」  声をかけてきた母さんに、おはようとは返さずに、僕は『新しい犬』の水槽を指さした。  ごはんはあげたんだけれど、と、母さんは困ったように息を吐いた。 「まあ、きっとまだ慣れてないのよ。あんまり構うと、余計癖になっちゃうかもしれないから。今は見守っておくくらいでちょうどいいのよ」 「あっそ」  本当に? と出かかった言葉を呑み込んで、僕は『新しい犬』からも母さんからも顔を背けた。  今日は休日。朝食さえとってしまえば、もうしばらく。親ともあの生き物とも顔を合わせなくてもいいはずだと自分に言い聞かせる。  そんな俺の心情を知ってか知らずか、母さんがまた息を吐いているのが耳に届いた。 「いい加減機嫌直してよ。悲しくなっちゃうじゃない」  機嫌? 悲しい? 了承を得られない僕に黙って勝手な事をしておいて、何を言っているのだろう。  僕は唇を噛み締めながら、朝から昨日のように怒鳴り散らす羽目になるのをぐっとこらえた。何より、ここだと『新しい犬』にも聞こえてしまいそうな気がして。 「モカは、もう新しい家族なんだから」 「家族だって言うなら安易に増やすなよ」 「またそんな屁理屈ばっかり……!」  どっちがだよ、口の中で呟やきながら、朝の身支度を整える。  途中、起きてきた父さんが母さんに「まだふて腐れてるのか」と呆れたように口走っているのが耳に入って、ひたすらに不愉快だった。  シリアルと牛乳をいっしょくたにして流し込んで、すぐに自室に戻る。  もはや、家の中に居るだけで気分が悪かった。財布とスマホだけ持って、僕は家を出た。  ……途中、ふと流し見した『新しい犬』はまだ泣いていたけれど、母さんたちは、引き続きあの子を放っておくつもりらしい。  魚の扱いがそうであるように、実際に鳴き声を聞いて、触れる事が出来たラテと違って、対応も淡泊になるのだろう。食事さえ与えていれば、とりあえず大丈夫だと。  慌てて目を逸らした。  もしも構ってやって、僕があれを飼う事を許したものだと思われたら、たまらなかったからだ。  ……ああいう、水の中で飼える不思議な生き物について。僕には覚えがあった。  なけなしの抵抗のつもりもあったのかもしれない。  家を出て向かう先は、とある青い屋根の建物へと定めていた。 * 「いらっしゃい」  しばらくの間自転車をこいで、辿り着いた隣町の路地の一角。  海のような青色で塗られた屋根のあるお店--昔、お父さんとお母さんと一緒に来た事がある--に、僕は1人でやってきた。  扉を開けると鈴の音が鳴って、奥から出てきたおじいさんは、昔見た時と同じ、怖い話の挿絵に出て来そうな、白い肌に全身黒ずくめの姿をしていた。  胸元の金色の刺繍だけがきらきらと輝いていて、それがいっそう、ちょっとブキミだ。 「えっと、あの」  おじいさんの表情はとても優しげだったけれど、来る前はあんなに意気込んでいたのに、実際にお店の人に会うとしどろもどろになってしまって。  ……それでも、それは自転車で走って来て、少し疲れてしまったからだという風に取り繕ってから、僕は思い切って顔を上げた。 「あの。……昨日、男の人と、女の人が、ここに、ペットを飼いに来たと思うんですけど」  ここは、ペット屋さんである。  ただのペットじゃない。水の中にいる、魚でも貝でも無い、不思議な生き物--確か、デジモン、という名前だったと思う--を取り扱っているペット屋さんだ。  ちょうど僕からも見える棚に、鳥のデジモンが入った水槽が置かれている。  斜めに置けるようになった、フラスコにも似た丸みのある瓶に入っているその鳥は、絶対に水鳥とかじゃなくて、僕にはカラスのように見えていた。それも、3本もの足を持つ、金の仮面を付けたカラスだ。  砂を敷き詰める代わりに小枝で作った鳥の巣を底に敷いて、カラスは堂々とした姿勢で、やって来た僕を棚の高い位置から見下ろしている。  こういうカラスみたいなのや、もっとおかしな姿の、本当に生き物なのかわからない、ゲームに出てくるモンスターみたいなやつらが入った水槽を、このお店では、売っているのだ。 「すまないね」  お店のおじいさんは、困ったように眉尻を下げた。 「そういうのは、個人情報だから。ちょっと、人には教えられないんだよ」 「だいじょうぶです。あの、僕のお父さんと、お母さんなんです。このお店で、犬……犬? の、デジモンを飼った筈なんですけど」  お父さんとお母さん、と、おじいさんは繰り返して、彼は僕をもう一度じっと観察した後、にこり、と、今度は普通に微笑んだ。 「そういう事なら。確かに、昨日このお店には、男女のお客さんが来て下さったよ。2人以上でここに来る方々は珍しいし、実際、昨日のそういうお客さんはその1組だけだったから、きっとあのお2人が君のご両親だと思う」 「じゃあ、あの子はこのお店で買ったんですよね?」 「ああ。あの子--ロップモンの事だね。ロップモンは、このお店で取り扱っていたデジモンだよ」  やっぱりそうだったのかと、僕は大きく深呼吸する。  ……いけないことかもしれないと、思わなかった訳ではないけれど。  お互いのためにも、お願いするなら、早い方がいいと。僕は意を決して、吸い込んだ息を吐き出すように、口を開いた。 「今から、その、ロップモンを引き取り直してもらう事って……できませんか?」  おじいさんは、僕の言葉に驚いたように目を見開いて。  少しだけ思案するように目を伏せた後、改めて。引き続き優しそうではあるけれど、真剣な表情で僕の顔を見つめ直した。 「詳しい話を聞かせてもらえるかな。どうして、あの子をこの店に返そうと思ったのか。その理由を、教えてほしい」  少しだけ、ほっとした。  見た目は怖いけれど、お父さん達と違って、このおじいさんは、僕の話を聞いてくれそうだったからだ。  声も穏やかで、なんだか安心できる。  そう思うと、自分で思っていた以上に沢山の事を、おじいさんに次々と話してしまった。  お父さんとお母さんが、僕に黙って『新しい犬』を買って来た事。  死んでしまったラテの事。  僕自身の考え。  うんうんと、何度も頷きながら、おじいさんはぼくの話を止めずに聞いてくれて。 「だから……今からでも、何か、理由をつけて。あのロップモンって子を、引き取り直してほしいんです」  僕がそう言い終わって。  それ以上は、何も言わない事を確認してから。おじいさんはもう一度大きく頷いて、僕の方へとまた微笑みかけた。 「なるほど。確かに君が反対しているのに、新しい生き物を飼うというのは良くない事だ。……知らなかったとはいえ、私達もあの子を2人に勧めてしまったからね。まずは謝らせてほしい。……すまなかったね」 「えっ、あ……その、おじいさんが悪い訳じゃ……」 「だけど、私達も私達なりに、あの子を君のご両親に託したのには理由があるんだ。聞いてもらえるかな?」  僕は少しだけ迷って、でもすぐに頷いた。  自分だけ話しておいてこの人の話を聞かないのは、それは、とても良くない事のように思えたから。  おじいさんは、僕の話を聞いてくれたのだから。 「あの子、ロップモンはね。……少し前に、双子のお兄さんを亡くしているんだ」 「えっ」  思わぬ情報に、思わず声が出る。  同時に、頭の中に、家を出る直前に見たロップモンの姿が、過って行って。 「あの子達は、怪我をしているところを保護したのだけれど、助かったのは、ロップモンだけだったんだ。……私にも弟が2人いるからね。解るんだ。彼らはちょっと問題児なところがあるけれど――それでも、居なくなってしまったら、きっと寂しい。……ロップモンは兄が亡くなって以来、事あるごとに、泣いてばかりなんだ」  僕には、兄弟は居ない。  でも--僕にはラテがいて。  いなくなってしまった。 「私達では、どうしてあげる事もできなくて。……そんな時、君のご両親がこのお店にやって来た。デジモンは、人間から強く影響を受ける種族でね。だから私は、今のあの子には、デジモンでは無く、人間の新しい家族が必要だと――そう、判断したんだ」 「新しい、家族」 「先程の君の話を聞くに、あまり心地のいい言葉ではないかもしれないが、どうか許してほしい。……それに、君くらいの子がいる、という情報を、あの子を勧める決め手としたのも。だけどあの子は寂しがっていたから、なるべく複数の人間が暮らす空間に置いてあげるべきだと、私は、そう思ったんだよ」 「……」  僕は、それでもやっぱり、ラテの事を思い出すと悲しくて仕方が無かったのだけれど―――お母さんと喧嘩していた時と違って、おじいさんの話は、なんだかわかるような気もした。  少なくとも、ロップモンの気持ちを考えないでいた--考えないようにしていたのは、本当だ。  あんなに、寂しそうにしていたのに。 「所詮部外者でしか無い私がこんな事を言うのは酷いとは思うのだけれど。君、少しだけ、考えてみてはくれないかな。新しい家族としてあの子を扱うのが辛いのだとしたら、あの子の友達に。……そういうものには、なってもらえないだろうか」 「とも、だち……」  ラテは家族だったけれど、同時に、友達でもあった。……友達だと、思っていた。  だから、どっちにしたって。この先あのロップモンという子と仲良くなって--ラテと同じように、お別れの時が来てしまったら。  考えただけで、胸の奥が痛くなるのだけれど。  でも、ロップモンは  今、心が痛くて痛くて、たまらないのだろう。  ラテの事は、僕の中でぽっかりと空いた穴のようになってしまっているけれど  それでも、僕には学校の友達や好きなゲームがあって、今は喧嘩しているけれど、お父さんとお母さんだって、本当に仲が悪い訳じゃ無い。  だけどロップモンには、他には誰も居ないのだ。  悩んで。  悩んで、悩んで、悩んで、悩んで。  ここまで来ても戸惑って、躊躇して、俯いて、泣きそうになって――絞り出すような、声になってしまったけれど。  うん、と。  僕は、小さな返事をおじいさんへとしてみせた。 「ロップモンと接してみた上で、どうしてもその事が君を傷付けるというのならば。その時は、きっと私達がなんとかしてあげよう」  おじいさんは腰をかがめて、僕と目を合わせた。 「君は、こんなにも勇気ある決断をしてくれたんだ。必ず、約束は守るとも」 「……うん」  おじいさんは、また優しく微笑んで。  だから僕も、これ以上は泣かない事にした。  それから、僕はおじいさんに、スマホにロップモンを世話するためのアプリをインストールしてもらった。  スマホで全てお世話ができる、というのはよく解らなかったけれど、お父さんとお母さんのスマホにも同じものが入れてあるらしくて、少なくともロップモンは朝ごはんをもらっていた筈だから――実際に、そういう事が出来るのだろう。  それから、僕は家に帰った。  ガレージには車が、勝手口の靴箱には靴が無くて、多分、2人は買い物にでも出かけたのだと思う。 「……」  僕はラテの骨を埋めた、ラテの犬小屋の隣に手を合わせて、心の中でごめんなさいを言ってから家の中に入った。  真っ先に向かったのは、玄関。  目を向けたのは、靴箱の上。  ロップモンは流石に泣き止んでいたけれど、リビング側に背を向けるようにして、水槽の端でうずくまっていた。  こうやって、ようやくじっと眺めた水槽は、小さな公園を水の中に再現したかのようだった。  ブランコの置物。ビニールボールみたいなビー玉。巣箱は色とりどりの布で作ったテントに似せられていて、敷かれている砂も、これだと公園の砂みたいに見えてくる。  ロップモン1匹だけが暮らすものにしては、水槽も中の飾りも少しだけ大きくて。  ……きっと、本当なら。ここは、ロップモンともう1匹のおうちだったのだろう。 「……ただいま」  ブランコの向こうで身体を丸めていたロップモンが、僕が声をかけるなりびくりと肩を震わせ、おそるおそる、振り返った。  丸い瞳は、相変わらず。水の揺れで歪む以上に、潤んでいる。 「えっと……。……昨日から、ごめん。ずっと、ちゃんと、看てあげなくて」  それがロップモンに伝わるかはわからなかったけれど、僕はそう言って頭を下げた。 「お前だって、寂しかったのに」  なんとなく、ロップモンが僕を見つめているのがわかった。  顔を上げると、その子の瞳は不安に揺れていたけれど、やっぱり、しっかりと僕に向けられていて。  言いたい事が。  言うべき事が、たくさんあるような気がしたけれど。  濡れた黒い瞳を見ていると、何故だか、何も言えばくなってしまって。  僕はポケットからスマホを取り出して、早速お店のおじいさんに入れてもらったアプリを開いた。  選ぶのは、おやつの項目。  タッチすると、途端、水槽の中にぽん、と黒くて少しだけ光沢のある、小さな長方形の物体が飛び出した。  店長さんによれば、これはようかんで、ロップモンの好物らしい。  ようかんが好きだなんて、へんなの、と思ったけれど、ラテもぜんざいを作っている最中の味付けしていない小豆のおこぼれを貰うと喜んでいたし、案外そういうものなのかもしれない。  ロップモンは小さな手でちょこんとようかんを挟んで、それと僕を交互に眺めている。  好物だ、とは言っても、いきなり、昨日から構いもしなかった僕にそんなものを渡されて、困惑するなという方が無理な話だろう。 「……隠して食べろよ? おやつをあげただなんて、母さんたちには、内緒だからな」  外で車の音が聞こえた。2人が買い物から帰って来たのかもしれない。  僕は、深く、深く息を吸い込んだ。  言葉は、やっぱり浮かんでこないのだけれど。  だけどこれだけは、店長さんと約束したのだから、言わなければいけない事だった。  頭の中で、ラテの顔がちらついて、泣きそうになってしまったのだけれど――吸った息を全部吐き出すようにして、早口で。 「僕、お前と友達になるから!」  それだけを、伝えて。  僕は半ば逃げるようにして、ロップモンに背を向けて、そのまま自室に続く階段を駆け上がった。  やっぱり、まだ父さんと母さんに、ロップモンと一緒にいる姿は見られたくなくて。  どうしても、ラテを裏切ってしまったような気持ちになって。  部屋に入ると、もう堪えられなくなって、僕はベッドに飛び込むと、また枕に顔を押し付けて泣いた。胸が、潰れてしまいそうだ。  帰ってるの? と、家に入って来た母さんが僕を呼んだけれど、とても返事なんてできなかった。  だけど、不思議と。ふと心の中が、少しだけ楽になっている部分もあって。  だって、最初から。あのロップモンというデジモンが、嫌いだったわけじゃない。  あの子にまでつらく当たって、このままずうっとやっていくのは、それは、やっぱり、嫌だったから。  明日から、ちょっとずつでも。  きっと「ようやく機嫌が直った」と、母さんたちにはからかわれるだろうけれど。それは、すごく嫌なのだけれど。  でも――がんばって、僕は、あの子と友達になるのだ。  友達に、成りたくないわけじゃ、ないんだから。 「……う、うううう……っ」  だから、今日だけは、まだ、許してほしくて。  僕はそのまま、お昼ごはんも晩ごはんも食べないで、部屋の中で泣き続けた。  まるで、ラテにまた、さよならとごめんなさいを言うみたいに。 *  だけど、流石に泣き疲れたのか。  夜の早い内に、僕は眠ってしまったらしい。  ふと気が付いた時には、時計は夜中の2時を指していて。  外は真っ暗。  多分、父さんも母さんも、泣いてたロップモンを放っておくことにしたみたいに、僕のことも、そうしたのだろう。  流石にトイレに行きたくなったのと、喉が渇いていて、僕は物音を立てないように気を付けながら、1階へと降りた。  リビングにはラップをかけたごはんが置いてあったけれど、それに手をつける気にはなれなくって、トイレを済ませた後は水だけ飲んで--それから、部屋に帰る前に、僕はロップモンの水槽を確認した。 「……?」  ロップモンの姿は見当たらなかった。  まあ、それもそうだろう。あの子はきっと、テント風の小屋の中だ。こうも暗いと、見えないのも仕方ない。  そもそも真夜中なのだ。気になったからって、起こしてしまうのはよくないと、慌てて、だけどやっぱりなるべく静かに、僕は階段を上って自室へと戻る。  部屋の扉は、開いていた。 「?」  閉めたような気がしたのだけれど。  でも、そういう事もあるか、と。扉の向こうへと、足を踏み入れようとして。 「ヒッ」  思わず、鋭く息を呑んだ。  だって、仕方がないじゃないか。  ベッドの傍。  頭が天井に着きそうな程、大きくて、形だけは人に近い、毛むくじゃらの化け物が、佇んでいたのだから。  口を塞いでも、もう遅かった。  背中を向けていた化け物は、僕の声に反応してゆっくりと振り返る。  僕の頭くらいなら丸呑みにしてしまえそうな、大きな口。  僕の身体なんて簡単に引き裂いてしまえそうな黒くて鋭い爪。  父さんよりもずっと力の強そうな大きな身体。 「あっ、あ……」  何もかもが、恐ろしくて。  助けを、呼びたかったのに。声すら出なくって。  その場にへたり込んでしまって、動けなくなって。  一歩、また一歩。  歩み寄るその化け物に、何もできないでいる僕に、そいつは、大きな手を伸ばして―― 「……え?」  その手が不自然に、何かをつまむような格好になっていると気付いた僕の、夜の暗さに慣れた目は、唐突にはっきりと、化け物の指先に挟まれた『それ』に気が付いた。  途端、金縛りが解けるみたいに、身体が自由に動くようになって。  差し出されたのだと。そう感じた『それ』を、僕は化け物――いや、『その子』から、両手を出して、受け取った。  『それ』は、ようかんだった。  片側だけ、断面がちょっと歪になっていて、きっと2つに割ったのだろう。  半分こに、したのだろう。  実際、その子の反対側の手には、僕に渡した物の片割れがちょこんと乗せられていて。  その子は、自分のようかんを口に運びかけて  しかし僕がその片割れを口にしないのを見ると、小さく首を傾げた。  まるで、僕にも同じように、一緒に、それを食べる事を望んでいるかのように。 「……」  おそるおそる、ようかんをかじる。  当たり前のように、甘かった。  ぼくがようかんを食べ始めたのを確認するなり、きゃっきゃと声を上げて笑うと、その子は自分の分を、ぱくりと一口。  口に放り込んで、にんまりと口角を上げた。  好物、というのは、本当だったのだろう。 「……なあ、お前」  僕の呼びかけに、その子は再び、僕を見た。 「ロップモン……なのか?」  その子は、また声を上げて笑った。  見た目にそぐわない、小さな子供のような声。  一種、子犬の鳴き声のようにも聞こえて。 「ト、モダ、チ」  しばらくするとその中に、意味の分かる言葉が混じり始めた。 「トモ、ダチ。トモダ、チ!」  僕が、きっとこの子に、かけた言葉。  そんな言葉と共に、その子はぼくにずい、と頭を寄せてくる。  まるで促すように首を振るので、僕はその子の首に手を伸ばした。  犬は、額を撫でられるより、首筋をさすってやるほうが喜ぶんだそうで、少なくとも、ラテはそうだったから――その子にも、そういう風に、してあげた。  こんなに怖い外見をしているのに、この子の身体を覆う茶色い毛は、ふわふわと柔らかくて、あたたかくて。  ラテと、同じ、生き物の感触。 「……ラテ……」  あんなに泣き続けた筈なのに、また、僕の目尻から涙がこぼれ始めた。  今度は、この子が瞳に困惑を浮かべる番だった。  僕は、この子に何か、声をかけてあげなくちゃって、そう思っていたのだけれど  だけどやっぱり、言葉は、出て来なくって 「ラテ、ラテ……! 会いたいよう……!!」  出てくるのは、あの子の名前ばっかりになって。  もしも会えたって、どうなる訳でも無いのに。  でも、謝りたかった。  本当は、嫌わないで、許してほしかった。  嫌いになんかなってないって、僕の事が大好きだって、幸せだったって。また僕の前で嬉しそうに尻尾を振って、撫でてほしいと催促してほしかった。 「トモ、ダ、チ?」  その子が、膝を付いて、もっと姿勢を低くする。 「オニイチャン……?」  そうしてロップモンは、自分が無くしたものを、口にする。  はっとして、顔を上げた。  ロップモンの瞳もまた、大きく揺らいで、潤んでいた。 「……」  たまらなくなって、僕はぎゅっと、ロップモンの首になかば飛びつくような格好で、この子を抱きしめた。 「寂しいよな」 「サ、ビシ」 「わかる。寂しいよ。寂しいよな」 「サビ、シイ。サビシイ……」 「寂しかったよ……!」  僕の吐き出した言葉と  ロップモンの感情が、重なったらしい。  今度は、僕達は一緒になって、わんわんと声を上げて泣いた。  同じように泣き続けた。  ……なんだか不思議だった。  1人で泣いていた時と違って、涙が少しだけ、あたたかい。  それはロップモンも同じだったのかもしれない。ロップモンは僕を抱き返していて、ちょっと痛いくらいだったけれど、その痛さと同じくらい、この子の痛みも伝わってきていたから。  ああ――きっと、お店のおじいさんが望んでいたのは、こういうことだったのだろう。  「寂しい」は、誰かと一緒に共有して、そしたらようやく、薄れていくものなのだ。  父さんと母さんが「新しいペット」を欲しがった気持ちも、今なら少しだけわかる。  あの2人が「寂しい」を分け合う方法は、そういう形だったのだと。  そして、今は僕とロップモンが、こうやって2つの「寂しい」を、半分こにしているところだった。  僕にとって、ラテの代わりじゃなくて  この子にとっての、お兄さんの代わりじゃなくて  僕達は、そうやって、友達になるのだ。 「……それじゃ、僕はお前の事、「あんこ」って呼ぶ事にするよ」  どれくらい泣き続けたかはわからないけれど、外が、うっすらと明るくなり始めている事は確かだった。  ようやく涙も尽きたのだろう。気が付けば、僕は微笑みながら、ロップモンを見上げていた。 「アンコ?」 「うん。お前の名前。ようかんが好きだし、毛の色もそれっぽいから、あんこ」 「アンコ、アンコ!」  ロップモン――あんこがころころと笑う。僕はまた、この子の首筋を撫でた。 「明日……いや、もう今日かな。ううん、どっちでもいいや。また朝になったら、一緒に……今度は、遊ぼう。楽しい事を、一緒にしよう」 「アソボ、アソボ!」 「うん、遊ぼう」  だから、一旦はおやすみ、と。  僕はあんこにわかれを告げて、あんこもそれに頷くと、大きな手を振って、器用に扉を潜り抜けて、下へと降りて行った。  ベッドに戻って、瞼を閉じる。  目の周りはひりひりと痛かったけれど、なんだかひさしぶりに、ぐっすりと気持ちよく眠れそうだった。  目が覚めたら、あんこと一緒に何をしよう  あんこは、自由に水槽の外に出たり入ったりできるのだろうか?  外に出ているなら庭で遊ぼう。  中に入ったままなら、きっとアプリで何かできる筈だ。  そして――できることなら。僕の大切な家族だったあの子の話をして、あんこの大切な家族の話を聞いてあげよう。  次に、目が覚めたら  きっと、僕にも。『明日』が来ると  そう、信じていたのに。 *  僕を起こしたのは、甲高い母さんの悲鳴だった。  飛び起きて、そのまま1階まで駆け下りる。  昨日まで喧嘩してたからって、母さんに何かあったりしたらと思うと、居ても立っても居られなかったのだ。  それは父さんも同じで、僕達はほとんど同時に母さんのもとに駆け付けて  母さんは、あんこの水槽の前で硬直していた。 「どうしたの!?」 「モ、モカが……!」  声を震わせながら、母さんが水槽を指さした。  モカ? と僕は首を傾げたけれど、そういえば母さんは、ロップモンの事をそう呼んでいたような気がする。  だから、当然。母さんが指さした先似たのは、僕があんこと呼ぶことにしたロップモンだった。  今日の夜見た時と、同じ姿をしたあんこが、悲鳴を上げた母さんを心配そうに見つめていた。 「……いや、ロップモンだよ。昨日と姿は変わっちゃってるけど、この子は――」 「こんなの聞いてない!!」  母さんは、金切り声を上げた。  困惑する僕の傍らで、父さんまでうんうんと頷いて見せて。 「成長すると姿が変わるとは聞いてたけど、こんな気色悪いヤツになるなんてあんまりだ、ひど過ぎる」 「……は?」 「あんな同情を引くような文句で、よくも、こんな……!」  僕は  2人が何を言っているのかわからなかった  かろうじて聞き取れたのは、「返品しよう」という言葉くらいで 「ごめんね、あなたの言う通り、もっとちゃんと考えて飼うべきだったね」  だけど、そうやって、僕を「言い訳」にされたところで、また僕の中で何かがぶちんと音を立てて切れた気がした。 「いい加減にしろよ! 姿が変わったって、この子はロップモンだろ!?」  大声を張り上げる。  2人がぎょっと目を剥いた。 「飼うなら責任持てよ! なんでそんなひどい事平気で言えるんだよ!? 僕は嫌だ! もうこいつとは友達になったんだ、これから、一緒に――」 「なんなんだお前は!!」  父さんが僕以上の大声を被せて、僕の声を掻き消してしまう。 「飼いたくないって散々ごねてたくせに、今度はなんなんだ! ええっ!? いい加減にしろ、そんなに父さん達を困らせたいのか!?」 「違う! 父さん達が間違ってるから、僕は本当の事言ってるだけだ!!」  なけなしの声を振り絞ると、父さんが手を振り上げる。  肩がびくりとはねた。  でもわかってる、これはフリだ。僕がどうしても言う事を聞かない時の、最後の手段。  本当に殴られる事なんてない。こわがらせるだけだ。  でも、怖くても、あんこは、僕が守らなくちゃ 「返すのなんか、絶対に、反対――」  鈍い音がして、視界が揺れて  鐘の音がなるみたいに、ごおん、と。頭の中で、痛いのが広がっていって  「あなた!」と、今度は母さんが声を上げていたけれど。  僕の口は、塞がってしまった。  滲んだ景色の中で、父さんは流石にばつが悪そうな顔を一瞬、僕に向けたけれど  すぐにその目を水槽の方に向けて、あんこをキッと睨み付けた。 「あんなヤツ、飼うんじゃ無かった」 *  返品するにしても、取りに来させようと。  その場で呆然と尻もちをついた僕から、父さんも母さんも、そそくさと逃げるようにして、外へ出て行ってしまった。  車の音がした。  きっと、2人してあのペット屋さんに向かったのだろう。  自転車よりも、ずっと早くに着く筈だ。  そうしたら--おじいさんが水槽を受け取りにこっちに来るまで、どのくらい、時間がかかるのだろう?  きっと、あの優しいおじいさんのことだ。  生き物を平気で気持ち悪いと言うような人や、カッとなって手を挙げるような人のいるところに、この子を置いておいたりなんかしないだろう。  だから、おじいさんが来るまでが、ぼくとあんこの一緒にいられる時間。  僕は、声を上げて泣いた。  頭はまだずきずきと痛んだけれど、こんなの、どうだっていい。  もっともっと、痛いところがあった。  胸に近いけれど、胸じゃ無い。 「ト、モ、ダ、チ」  歯を食いしばりながら、その隙間から発したような声で僕を呼びながら、あんこがまた、水槽を出て、僕の前に現れた。 「ゴ、メン」  怖かったのだろう。  あの揺れた視界の端に、今にも飛び掛かりそうな程すごみのあるあんこが見えたのだけれど、同時にこの子は、震えていた。  怪我をしていたところを保護したと、おじいさんは、言っていたっけか。  きっと、自分達よりずっと大きな生き物に襲われたのだ。  こんなに大きな生き物になったのに、それがずっと、忘れられなくて。父さんを見て、思い出してしまったのだろう。 「いいよ、いいよ。お前のせいじゃないよ……」  泣きながら、またあんこを抱きしめた。  あたたかくて、ふわふわの毛。  また、僕の前から、いなくなってしまう。 「ごめん、ごめんな。僕が、僕がもっと、強かったら」 「イ、イヨ。イイ、ヨ。セイ、ジャナ、イ」  僕の言葉を真似るあんこが、より一層愛おしくて、僕は腕にぎゅっと力をこめる。  こんなことしたって、きっとあんこは、僕から取り上げられてしまうのに。 「嫌だ」  僕の、友達なのに。 「嫌だ、嫌だ」  せっかく、友達になったのに。 「あんこまで、僕の前からいなくならないで……!」  応えるように、あんこも僕を抱き返してきた。  鼻を啜る音が聞こえた気がする。それが僕のものだったのか、あんこが発したものだったのかは、わからないのだけれど。  ……と、その時だった。  僕の足が、床から離れたのは。 「え?」  見ればあんこは僕を抱きかかえて、持ち上げていて。  あんこの瞳を、見つめて返す。  潤んだ眼差しは、やはり僕へと、注がれていた。 「トモダチ」  縋りつく様な、子供の声だった。 「イッショ。イッショ?」  僕は、あんこのふわふわの毛を、ぎゅっと掴み直した。 「一緒に、いたいな」  ふわふわの毛は、だけど濡れて、湿っていた。  あんこは爪が当たらないように気を付けながら、僕の顔を胸に押し当てるようにして抱え直す。  僕の頬を、あんこのあたたかい毛が撫でた。  それから、僕は。  ぽちゃん、と。水面で何かが跳ねるような音を聞いた。 * 「……え?」  あんこが手を離したのに気付いて顔を上げると、僕は、家の中にはいなかった。  大きなぶらんこに、人が座れるくらい大きなビー玉。  ひろーい砂場に、真ん中には色とりどりの布で作ったりっぱなテント! 「すごい! 見て見てあんこ、ぼく、こんなひみつきちがほしかったんだ!」  あれ?  ぼくって「こんなの」だったかな。  それに、さっきまですっごくかなしかった気がするのに。  それから--あんこって、ここまで大きかったっけ?  うーん、と首をひねっていると、その時、わんわん!  良くひびく犬のほえる声。  ふりかえると、茶色くてふわふわの毛をした、ぼくのだいすきなトモダチが、こっちに駆けてくるのが見えた。 「ラテ!」  ぼくも急いで、ラテの方へと走っていった。 「ラテ! どうしたの? 勝手に出て来ちゃ、ダメじゃないの?」  いやな人にほえる時と違って、きゃんきゃんと甲高い声で。ぴょんぴょん跳ねたあと、ラテは僕にぐいぐいとはなを押し付けてきた。  ぼくはラテの首筋から肩にかけてをなでてあげた。  犬って、こうしてあげると、頭をなでるよりもよろこぶんだって。 「あはは、ラテ! もう、勝手にどこかに行っちゃダメだよ?」  わん! と、ラテがまるでへんじするみたいにひときわ大きくほえてみせた。  そうさ。ラテはホントはおりこうさんなんだ。  ……だからラテは、そんな、勝手にどこかに行ったりなんか、しないのに。  どうしてぼくは、こんな事を言ったんだろう。  それに――ぼくは、もっと他に、ラテに言わなきゃって思ってた事が―― 「……まあいっか」  大事なコトなら、きっとそのうち思い出すはずだ。  今はそれより、ラテがこんなに幸せそうなんだもの。ラテとぼくは、これからもずっといっしょ。それより大事なコトなんて、そうそうあるワケもないのだから。  ……あ、ちがった。  もういっこ、おなじくらい大事な子がいるんだ。 「おーい、あんこ!」  ぼくはぼくとラテがいっしょにいるのを、じっと見守っていたあんこに向けて、大きく手を振った。 「そんなところにいないで、いっしょにあそぼうよ!」  あんこは、ちょっとだけおどろいたみたいな顔をして、すぐににんまりと大きな口を半月みたいな形にして笑った。  きっと、ラテを大きいからだでラテをこわがらせちゃわないか、不安だったんだね。  だって、あんこはやさしい子だから。  でもラテも、はじめて会ったのに、あんこがこわくないみたいだ。  かしこいラテは、あんこがやさしいのもお見通しにちがいない。 「かけっこ? かくれんぼ? ぶらんこがいいかな? ……あっ、そうだ! 砂場でお城をつくろうよ! あんこは大きいから、きっとすごいのがつくれるよ!!」  あんこが、こっちに駆けてくる。  まだ何も始まっていないのに、ぼくの胸の中はあたたかいものでいっぱいで、これからもずーっと、こんな日がつづくのだと、ぼく達はわくわく、にこにこ。  みんなでいっしょに、砂場の方に、歩いていった。 * 「……はい。申し訳ありません。お手数をおかけします、おばあ様」  もう何度目かもわからない謝罪の言葉と共に、男はスマートフォン型の端末の通話を切った。  気にするな、と、彼の言うところの「おばあ様」は言っていたが、今回の件に関しては完全に自分の不手際だと、考えれば考える程、男の気は重くなるばかりで。  だがどうしても、こと『情報』の操作に関しては、祖母と、そして弟の手を借りねばならず、男は2人に事態を伝えない訳にはいかなかったのだ。 「あれー、おきゃくさんだ!」  男とは対照的に、底抜けに明るい子供の声がひとつ。  ……つい昨日、男が出会った少年を、更に幼くしたような事もが、丸い瞳で男の事を見上げていた。  少年の隣にいる犬が、男を見るなり唸り声を織り交ぜて大きく吠えたてる。 「あっ、ラテ! めっだよ! おきゃくさんに、ほえたらめっ!」 「構わないよ。……私達は、君の友達に会いに来たんだ。少しだけ、いいかな?」 「おじいさん、あんこのおともだち?」 「ふふっ、それがあの子の名前なんだね」  彼が名前を得た、という事実に。  その事については、ふっと優しい笑みを浮かべて。  しかしすぐに表情を引き締めると、少年に会釈をしてから、男は砂場で城を作っていた、茶色い獣人のデジモンの方へと、歩み寄った。 「ウェンディモン」  男の姿を見止めて、ウェンディモンは彼へと向き直る。  その丸い瞳には、幽かに怯えが入り混じっていた。  だが、男は獣人のデジモン――ウェンディモンを咎める気は無いのだと、小さく首を横に振る。 「……すまなかったね。私達は、君の苦しみを完全には理解してあげられなかった」  ウェンディモンというデジモンは、ロップモンの心の負の部分が限界を迎えた際に、暗黒進化と呼ばれる形で至る姿だ。  男が、ロップモンの孤独を慮って、彼をある家族に売り渡した時には――もう。ほとんど手遅れだったのである。  兄を目の前で亡くした彼の孤独は、既にロップモンを蝕み切っていたのだ。  ただ、暗黒進化を迎える寸前に、彼は『トモダチ』を得て。  その結果が、これだった。  本来破壊の限りを尽くす筈のウェンディモンが、こうやって理性的な振舞いを保てているのは、その『トモダチ』の存在が大きいのだが、この現状を「間に合った」と口にする事は、男には、とても出来なくて。 「成熟期でありながら、私達にも匹敵する能力を行使できるデジモン。と、話には聞いていけれど。……見事なものだよ。まさか、私達の空間さえ、利用してしまうだなんて」  少年と、ラテと呼ばれた犬が追いかけっこをしている。  片や若返り、片や蘇った存在は、おそらく男とウェンディモンの話が終わるまで、ああやって楽しそうに走り回っている事だろう。 「今回の事は、私達の落ち度だ。だから、君から。君の幸せを奪うような真似は、しないとも」 「……」 「もちろん、君がルールを守る限りは、と、そう条件付けは、しなければならないのだけれどね」  静かに男を見下ろすウェンディモンに向けて、彼はぴん、と人差し指を立てた。 「けして、アクアリウムを割ってはいけないよ」  自分の店で、アクアリウムを求める客に、いつも言い聞かせているように。 「デジタルワールドが溢れてしまうからね」  次の瞬間、ウェンディモンの身体が光に包まれた。  ずんぐりとしていたフォルムは、一気にスマートになり、頭からは長い耳がぴょこんと生える。  アンティラモン。  それは、ウェンディモンの進化した姿であり――故に、進化前の力は、失われる。  進化前の力。  即ち、時間と空間を、自由に行き来する力が。 「……そうかい」  自力ではこの空間から出られなくなったアンティラモンに、餞別のように微笑みかけて、男は兎の聖獣に背を向けた。 「おかえりー、あんこ! ……わあ、どうしたの? あんこ、うさぎさんになっちゃった」  嫌だった? と問うアンティラモンに、そんなことないよ、かっこいいよ、と。きゃっきゃと鈴を転がしたように笑う子供の声を後に、男は『外』へと浮上する。  見慣れたアクアリウムの店のバックヤード。  振り返れば、公園に似た内装の、円筒状のアクアリウムの中では、子供が1人、犬が1匹、それから兎が1羽。実に楽しそうに、駆け回っていて。 「……」  男は部屋を後にする。  見続けては、居られなかったのだ。  アンティラモンの幸せは寿ぐべき事ではあった。  だが、少年の笑顔を本来知る家族から、少年の記憶さえもが永遠に失われたという事実は--自分達が鑑賞して少年の存在を奪い去ったという真実は、男の胸に重くのしかかっていて。  それでも、男は今日も、店に出る。  そう望むデジモンのアクアリウムを人間の元に届ける事は、男が自分自身に課した、使命なのだから。
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快晴
2022年9月25日
In デジモン創作サロン
はじめに  こちらの小説は、『デジモンサヴァイブ』発売前に「ぼくの考えたデジモンサヴァイブ」をテーマに制作したお話です。  もちろん流れは全く違いますし、PVからイメージを膨らませた部分が多いので全く見当違いな部分も多々あるのですが、微妙に当たっていたところ等が無いでも無いようなので、『デジモンサヴァイブ』未クリアの方は一応ご注意下さい(※意図的にネタバレを書いたりはしていません)  また、この小説に登場する静岡県は架空の静岡県です。実際の静岡とは一切関係ありませんので、どうかご留意ください。  それでは、以下、本編です。 * 「ねえ、ラセン様って知ってる?」  首を横に振ると、幼馴染は「知らないよね」と力なく微笑んだ。 「おばあちゃんに教えてもらったの。カハビラコ? の神様なんだって」  そう言われても、そもそも、カハビラコが何なのかが判らない。……いや、その点に関しては、幼馴染も同じようではあったが。 「それでね、ラセン様は、「失くした物を見つけてくれる」神様なんだって」  そこまで言って、幼馴染は「あーあ」となげやりに宙を仰ぐと、行き場の無い思いを託すようにして、手首から下げた、葉っぱの形をしたお守りを握り締めた。  空を見上げて、その向こうに。なくしたものを、探すかのように。 「ちゃんとお願いしたら、■■■ちゃんの事も、見つけてくれるのかな?」  そうして、その数日後。幼馴染はこの町から居なくなった。  幼いながらに、わかっていた。それは、あの子が他所の町に引っ越したからなのだけれど。  でも、元々内向的で、友達の少なかった彼女の事など、学校の他の子も、町の人達も、すぐに話題にしなくなって。  まるで、あの子の存在が世界から完全に消えてしまったかのような錯覚を覚えて。  神隠しのようだと。そう、思ってしまったのだ。  『螺旋の蝶』 「ラセン様?」  私の質問に大きく目を見開いて、しばらく思案した後 「……あー、はいはい、静岡のね」  すぐに、該当する心当たりを思い出したのだろう。うんうんと何度か頷いてから、不意に教授はチョコ要る? と、紙皿に盛ったチョコレートの山を私へと差し出した。  種類はスーパーでもよく見かけるものから、多分恐ろしく甘い海外産のものまで、幅広く。 「ああ、どうも。いただきます」  卯田将勝(ウダ マサカツ)教授。通称、仏の卯田教授。「授業にさえ出れば単位をくれる」「この人が卒論の担当になったらまず落ちない」と学生達には元から有り難がられている先生ではあるが、こういう素朴で優しい人柄がにじみ出ている所にも、彼の人気の理由はあるのだろう。  私は比較的馴染みのある、安価なアソートチョコレートを口に運んだ。 「どうぞどうぞ。遠慮しないで、好きなだけお食べ。……しかしラセン様とはまたマイナーな。君、出身はその辺なワケ? だったら僕の方が話を聞きたいくらいなのだけれど」 「ああ、いえ。私も幼馴染からちらっと聞いただけで。先生の授業を聞いていたら、思い出したんです」  一度思い出したら、気になってしまって。そう言いながら卯田教授の表情を伺うと、彼は解る解ると気さくな相槌を繰り返していた。 「ちなみに、その幼馴染クンからはどれくらい話を聞いているのかな?」 「ええっと、静岡の、カハビラコの神様で、「失くした物を見つけてくれる」と……こんな感じでしたかね」 「ああ、この前の講義は『常世神』騒動に触れていたからね、はあ、それで。なるほど」  講義の内容は覚えてる? と、教授。  別段、私を試そうとしている風では無い。むしろ、忘れている箇所や間違いがあるなら補足しようという善意からの問いかけに思えた。  なのでこちらも気兼ねせず、記憶の中の授業を辿る。 「『日本書紀』に紹介されている新興宗教とそれに関連する騒動、ですよね。富士山麓から都にかけて流行した、虫……一説によればアゲハチョウの幼虫を『常世神』と呼んで祀り、財産を捨てさせる事で逆に財を得る事が出来る……とかいう宗旨でしたっけ」 「そうそう。ちゃんと聞いてくれてたんだねぇ。ほら、良かったらチョコもう1つお食べ」 「あ、どうも」  今度は派手な包装紙に包まれていたチョコを口に運ぶ。マカダミアナッツ入りの、甘ったるいチョコレート。ハワイ土産だろうか、その類の味がする。 「ラセン様は、発生地である富士の麓で辛うじて生き残った『常世神』信仰が、仏教以前の死後世界に関する思想や地元に伝わる異類婚姻譚と合流するような形で誕生した、比較的新しい神格だと言われている。あまり知られたカミではないけれど、他県に伝わるケモノガミ伝説とも多く類似点が見られる等、一部の研究者の中では割合興味深い題材だと――おっと、脱線するところだった。……兎も角、ラセン様は、『常世神』の派生だとされている、と覚えてもらえば、解釈しやすいかもしれない」  そう言って、卯田教授は引き出しからメモ用紙を取り出すと、さらさらと何かを書き記す。  差し出されたそれに視線を落とすと、そこにはいくつかの本のタイトルと、作者の名前が書かれていた。 「確か大学の図書館にも置いてあった筈だ。その資料を参考にするといい。それを読んで、その上でまだ興味があるなら、また訪ねておいで」 「ありがとうございます、助かります」  頭を下げる私に、いいよいいよと笑う卯田教授。  少し話を聞ければ御の字程度に思っていたが、やはり頼るときは思い切って専門家を頼ってみるものだ。  教授が推薦するくらいだから、信用できる資料になるだろう。  ついでに余りのチョコもいくらか握らされて、私は卯田教授の研究室を後にする。  ひとつだけ手元に残してそのまま口に運んだのは、個包装の変わりだねチョコ。  舌で溶かすと、酷く懐かしい味がした。昔、よく食べていた気がする。  ……幼馴染とも、食べたのだろうか。  あの子は、甘いものが好きだった。……気がする。 *  あの子の訃報を知らせたのは、あの子の親族や友人では無く、テレビ局からの取材だった。  連日ニュースを賑わせた、放火事件。画面の向こうの他人事は、その瞬間、一気に身近な存在となってしまった。  「亡くなった彼ら彼女らの生きた証を残したい」と、それが、テレビ局側の弁で、電話口の男が言うには、私とその子は、幼い頃、とても親しかったらしい。  どうして、そんな話を知っているのだろう。  私は、幼馴染の名前も思い出せないというのに。  いや、何もかもを忘れていた訳ではない。小学校に上がるよりも前の話。幼い頃に引っ越して行った、仲の良い友人。一緒に踊ったお遊戯会。近所の公園の遊具ではしゃぎまわった日々。覚えている。私には確かに、そんな幼馴染が居た。ピンぼけした写真のようではあるけれど、顔だって一応、覚えてはいる。  だが、その名前だけが。  どうしても、思い出せないのだ。  テレビ局の男の口にした人名に、「知っている人物だ」という確信自体はあるのだけれど――それが幼馴染の名前だと、断言する事は、出来なくって。  でも、彼が掻き集めたという故人の思い出話は、私の記憶とも重なっていて――やはり、私の幼馴染は、亡くなっているらしかった。  昔の事過ぎて、確信が持てないから、と。詳細を述べるのを渋った私に、電話口の男性は「思い出したら教えてほしい」と、自分の名前と電話番号を述べた。  気が動転していた私は、「お仕事頑張ってください」と、多分的外れなねぎらいの言葉をかけて、電話を切った。  ……頑張ってくださいも、何も。  彼らが取材しなければ、生きた証が無いなんてことは、絶対にありえないだろうに。  だけど――少なくとも。  私の中の、幼馴染が生きていた証は。私自身が一つ、消してしまっているようなもので。  だから、ずっとその事が、小さな棘のように胸を刺していて。  その棘の先でなぞるようにして、あの子の事を振り返っていた時に、卯田先生の授業が切っ掛けとなって思い出したのが『ラセン様』の伝承だった。  失くした物を、見つけてくれる神様。  失せ物探し、という訳ではないらしい。  そういう側面も無いでは無いが、例えば、失った財産を再びもたらすだとか、農作物の不作があった次の年に豊穣をもたらすだとか――忘れてしまった事を、思い出させるだとか。  ある程度こじつけられるなら、大概の望みをかなえてくれる、まあ、土着の信仰にはよくある、何でも屋のようなカミが、ラセン様だと言う。  だけど、その時。  私は確かに、そのカミの名に、惹かれたのだ。  仲の良かった友の名前さえ忘れてしまったのに、あの子の教えてくれたカミの事を思い出して、縋りついたのだ。  そうすれば、「あの子」の事も、思い出せる気がして。  ……何を言われた訳でも無いのに。もう、何年も会っていないのに。  逆にあの子が、私を覚えていた保証だって無いのに。  思い出せれば、忘れていた事を、許してもらえるような気がして。 * 「せっかくだから、ラセン様についておさらいしておこうか」  高速道路に入って、多少余裕が出来たのか、卯田教授がそう、口を開いた。  車内には海外の女性歌手が母国語でカバーした日本のポップミュージックが流れていて、ほぼほぼ世代に関係なく歌詞は解らないが歌詞の意味とメロディーは解る曲のチョイスは、恐らく同行者である私を気遣っての事だろう。 「はじまりは、そのまんま、鶴女房に代表される異類婚姻譚の流れでしたね」  翅のねじれた、カハビラコ--現代語で言うところの、蝶。  羽化に失敗して翅が伸びず、地面に落ちていた蝶を、通りかかった青年が哀れに思い、花の傍へと連れて行ってやる。  するとその晩、艶やかな着物を見に纏った身分の高そうな女性が青年の元を訪ねて来て、一夜の宿を求めた。  幼い頃親にせがんだむかしむかしのお伽噺はもちろんの事、民俗学の授業を取るようになってからというもの、耳にたこが出来そうな程聞かされてきた、物語。 「とはいえ蝶との婚姻譚は、そのラセン様の元になった話の他に、例が無いんだよ」 「そうなんですか?」  話の流れを確認した時、「よくあるタイプ」だとばかり思っていたのだが、話はそうでも、登場する生き物の種類をピックアップしてみるとそうではなかったらしい。  鳥や哺乳類だけでなく、蛇や蛙、魚や貝、果ては蜘蛛。昔話の善良な男の元に現れる異類女房は、こんなにもラインナップに富んでいるというのに。……意外だ。 「そも、君は知っているかな? 例えば万葉集には、蝶の事を詠んだ和歌はひとつも載っていないんだよ」  そうなんですか? と思わず問い返す私をバックミラーで確認する教授は、少しだけ悪戯っぽい笑みを湛えていた。 「蝶--いや、この場合はカハビラコと言った方がわかりやすいかな。カハビラコを詠んだ和歌自体は、数多く残されているのだけれど。でもカハビラコについて詠んだ詩は、和歌集で取り上げるには相応しくは無かったんだ。……何故だと思う?」 「え? えっと……」  記憶を辿って、たっぷり数秒。  生態では無く象徴としての蝶に関する知識を掘り当てて、ようやくピンとくるものがあった。  カハビラコ。  河の上をひらひらと飛ぶもの。  河を挟んだ、此岸と、彼岸。 「蝶が、死んだ人を司る存在だったから、ですか」  その通り、と、卯田教授は口元の笑じわを深くした。  車での移動と相性が悪いとされているからか、いつものように、チョコを勧めてきたりはしなかったけれども。 「司るどころか「死者がこの世に蘇った姿が蝶」とまで言われていた、という資料まである程なんだよ。だから、蝶が出てくる詠は、ほぼほぼ弔いのためのものばかりだ。死はいわゆる「ケガレ」と直結する概念だから、カハビラコは「名前を言うのも憚られるほど気持ち悪い」生き物扱いだったみたいでね」 「だから、『ケモノガミ』と、類似の神」 「そう」  君は優秀だね、と教授は称賛してくれるが、どちらかと言えば、私としては今ようやくこんがらがっていた紐が解けたような感覚だ。  ケモノガミ。  教授から教えてもらった資料には、獣の神に豊穣や厄災避けを祈願するために子供を生贄に捧げていた風習から、時代を経る内に神隠しを引き起こす祟り神へと転じてしまった土着のカミだと書かれていた。  ……異類婚姻譚の冒頭を持つラセン様の伝承は、しかし蝶を助けた青年に既に妻子が居た事でいっきにこじれてしまう。  訪ねてきた女を前に、夫の不義を疑った妻は、皆が寝静まった頃、穀物を突く杵で訪問者を布団の上から滅多打ちにする。  しかし我々からすればお察しの通り、女は青年に助けられた蝶が化けた存在。  男の妻の行動に憤った蝶は、2人の子供を連れ去ってしまう。  そして自らの過ちと子を失った悲しみに、妻は富士川へと身を投げた。  これは、暗に生贄を意味していたのか。 「それで、常世神の話は覚えているよね。「財産を捨てれば、財産が舞い込んでくる」。それが常世神信仰の教義な訳なのだけれど。……これを物以外にも当てはめたのが、ラセン様信仰、という事になるのかな」  1人残され悲しみに暮れる男の下に、再び蝶が姿を現した。  蝶が説いたのは、まるきり常世神信仰の教義。  財を捨て、戸口に食べ物や酒を並べ、橘につく虫を祀る。  そうすればやがて、常世の国に招かれて、妻子との再会が叶う、と。  言われた通りの事を実践した男は、蝶の言う通り、やがて常世の国に招かれ、妻と子供と再会し、幸せに暮らした。  めでたし、めでたしで、物語は、お終い。  ……ひとつ、追記と言うか、常世神の教えと相違点を挙げるとすれば、後に祀られていた「橘につく虫」--恐らく、アゲハチョウの幼虫だとされている--は羽化を経て、最初に男が助けたのと同じ、翅がねじれた蝶になった。という点だろうか。  男に倣った者達によって、常世の国に招かれるために祀られた「橘につく虫」も、全て羽化に失敗して翅がねじれた。故に、このカミはラセン様と呼ばれるようになった。……という文章で、目を通した資料は締めくくられていた。 「つまるところ、ラセン様って失せ物探しの神様じゃなくて、物を捨てたらその対価をくれるカミ、ですよね?」  幼馴染から聞いていた話とかなり食い違っていて、教授との「おさらい」を経て深まった理解のせいで、逆に認識が揺らいでしまった。  教授の方はというと、私の困惑を知ってか知らずか、ハの字に眉尻を下げて笑っているけれども。 「そうは言っても、ケモノガミが豊穣神から祟り神に転じたように、ラセン様の在り方も時代と共に変化していったのかもしれない。そも、ラセン様伝承自体が、研究者視点で言わせてもらうならば大層な「混ざりもの」だ」  「物を捨てればそれ以上の財が手に入る」と謳った常世神信仰は、都の風紀を大いに乱し、教主である大生部 多(オオウベノ オオ)は最後には討伐されてしまったのだそうだ。  教授曰く、男の助けた「蝶」とは、都から逃げ帰った常世神信仰の巫(かんなぎ)とするのが現代の見解であり、ひょっとすると元の伝承は、蝶以外の生き物との異類婚だった可能性すらある。との事で。  カミほど移ろいやすいものは無いよ、と。  そう言って、教授はどことなく、力無く、微笑んだ。 「もしかすると、嫌になってしまったかな? フィールドワークに若い感性が付き合ってくれるのはとても嬉しいけれど、君にとって億劫になるようだったら、今からでも送って帰るけれど」 「いえ、それは無いです」  即答すると、教授は目を見開いて驚いているようだった。  でも、ラセン様の正体が何であれ、このカミが幼馴染と私の切れてしまった縁の糸を繋げる可能性がある、唯一の手掛かりなのだ。  ラセン様についてさらに知りたいと願う私に、教授はフィールドワークの手伝いを提案してくれた。  少なくとも、幼馴染の親の実家は、この高速道路のずっと先に、存在している訳であって。  私達を乗せた車は、静岡県の某村、富士山の麓へと向かっている。  常世神信仰発祥の地であり、ラセン様の伝承が今なお残る地域。 「知りたい事が、あるんです。……欲しい答えじゃ、なかったとしても」  私は左の手首に装着した、葉っぱの飾りがあるブレスレットに、そっと右手を添えた。  曰く、これはお守りなのだそうだ。  目的地の村における、町おこしの一環だと聞いている。ラセン様伝承にあやかって橘の葉を象った飾りはひどく安っぽくて、とても御利益があるようには思えないのだけれど。  でも、これは、この先にカミがいる、ひとつの証拠。  昨晩の事もあって、ラセン様を介して幼馴染の足跡を辿りたいと願う気持ちは、強くなる一方だったのだ。 「そうかい」  卯田教授は、静かに相槌を打って。  車内に流れる音楽だけが、引き続き、場違いなくらいに明るく楽しげなままだった。 *  フィールドワークの前日。その夜の事だった。  がたん、と郵便受けに何かが投げ込まれる音を聞いたのは。  時間からして、郵便の類では無いし、荷物を頼んだ覚えも無い。  明日に備えて様々な準備をしている中で、億劫ではあったものの、そのまま忘れて数日間放置――というのも避けたかったので確認しに行くと、中には宛名も何も書かれていない、小さな木箱が納められていた。  先程とは打って変わって、急いで室内に戻ってから中身を確認すると--見覚えのある、葉っぱの形を模した飾りが付いたお守りが、蛍光灯の光の下、鈍い光を、放っていた。  それで何かが判るというわけでもないのだが、思わず周囲を見渡した。  フィールドワークに向かう話自体は、同行者は当然の事、大学にも届を出してある。知ろうと思えば、知る事が出来ないわけではない。  だが、送り主には確信めいたものがあって、どうやって知ったのか、あるいは見ていたのかと、気味が悪いと言うよりは、不思議な気分に、なるばかりで。  これは、幼馴染から贈られてきたものだ。  火事で死んだ筈の、幼馴染から。 *  高速を降りて暫く市街地を走っていた車は、気が付けば山道の方へと入って行き、道が整備されていないのか、時折ガタガタと揺れるようになってきていた。 「車酔いは大丈夫?」 「はい、今のところは」 「あと30分もしない内に着くと思うから」  高速道路と、高速道路を降りてしばらくの間は見えていた雄大な富士の山も、今ではすっかり背の高い木々の景色に阻まれて、望む事は出来ない。  開けた場所に出ればその限りでは無いのだが、生憎と地理には疎くて、今自分がどちらの方角を向いて走っているのかも、いまいちピンとは来ないのが現状だった。  静岡の形を金魚に例えた時、尾びれの付け根あたり。というのが、辛うじて私にもわかる、おおまかな位置情報である。  とはいえ、当然ではあるが教授の方はきっちり道中が頭に入っているらしく、カーナビも無いのにハンドルさばきに迷いは無い。  こと現代においても不注意が重なれば取り返しのつかないところにまで迷い込んでしまいそうな山の道を、しかし先に宣言した通り、教授は30分もしない内に、車を目的地へと辿り着かせた。 「はい、お疲れ様。到着したよ」  田舎暮らしを賛美する類の番組でも、よほどのことが無い限り取り上げなさそうな、閑散とした山間の集落。  早朝に出発して、もう昼も過ぎだというのに、周辺にはうっすらと霧が立ち込め、そんな季節でも無い筈な上、車内だと言うのに、どこか肌寒い。  街では聞かない鳥の鳴き声が、辺りから時折、響き渡っていた。  まばらに建っている古い様式の家々には、塀越しに同じ木の葉が覗いている。  おそらく、橘の木だろう。  そう思うと、にわかにここがラセン様の伝承が今なお伝わる地域だという実感が湧いて来た。  卯田教授は村の中をもうしばらくだけ進んで、他の家と比べれば幾分か新しい印象のある建物の横、駐車場と呼ぶにはあまりにも心許ない、土肌が剥き出しの空き地に車を停めた。  荷物を持って、車を降りる。  山の空気は濡れた土のにおいとほんのりとした青臭さが入り混じっていて、少しだけ、重たい印象があった。 「ここは、村の公民館。今は廃校になってしまったらしいけれど、この近くにまだ小学校があったころは、ここでサマーキャンプも行っていたらしくて、今でも外部から客が来た時は、臨時の宿泊施設として使っているのだそうだよ」  田舎の宿というと民宿的なのを想像していたのだが、なるほど、公民館。  食事は麓で購入してある。あくまでも、寝泊まりのためだけに村の厚意で開放されているのだろう。  施設内に入って、受付で挨拶を済ませる。  年配の女性職員は余所者にもひたすら興味が無いようで、見るからにけだるそうな調子で事務書類を卯田教授に渡し、手続きが終わってからは、それきり、こちらに一瞥をくれようともしなかった。    A4用紙に掠れた線で印刷された館内案内に従って2階に上がる。  和室と会議室。それぞれ教授と私は別々の部屋だが、自由時間に入る前に明日の予定を確認しておこうという事になり、荷物だけは置いてから、私は一度、教授に割り当てられた部屋である和室の方へと向かった。  花の模様が書かれた座布団を拝借して、教授と向き合って腰を下ろす。  脇の壁にはこの村の、おそらく老人会の写真が年度別に飾ってあって、その数は年々、減り続けており、最後の写真の下に書かれた年は、年号が変わる前のものだった。……寝る時にこういうモノがあるとあまりいい気分じゃないし、私の部屋が会議室で、良かったと思う。 「さて、今日は後はゆっくり過ごさせてもらうとして。本番は明日。村の祭りの時だね」  ただ資料を集めるだけなら、これまでのデータを閲覧して、卯田教授や、卯田教授以外の民俗学の先生に話を聞くだけでも十分だ。  にも関わらず、この村にわざわざ足を運んだのは、ラセン様を祀る村の祭りが、ちょうど明日、行われるからである。  出来過ぎた偶然のようにも思えるが、芋虫が育ち、蝶と成る季節の事を思えば、そう不自然な時期では無い。  来客をもてなすための突発の行事、というワケでは無いのだろう。……そんな事をする村には、とても見えないし。 「祭は夕方から。明日の日中は設営等の準備があるらしいから、できれば下手に出歩かないで欲しいというのが、先方からの要望だよ。散策したいなら、今日中に見て回っておいた方がいいかもね」  教授の言葉に、返事の代わりに漏れたのは愛想笑い。  ……散策、と言っても見て回れる要素があるようには思えなかったのと、単純に、景色が絵に描いたような田舎過ぎて、1人では迷子になってしまいそうで、不安だったのだ。  ラセン様を祀った社も、祭りの時以外は閉じられているという話だし、正直、大人しくここで時間を潰した方が賢明なのではないか、というのが、現時点での私の認識だ。  知らない山奥で迷子だなんて、シャレにならない。  教授も私の心情を察しているのか、つられるように微笑んでから 「ああ、一応。公民館の裏手にも小さい祠があるそうだよ。そのくらいなら、見に行っても問題は無いんじゃないかな」  と付け加える。  ……やはりその道のプロと言うか、情報を持っている人物がいるのは、助かる。 「わかりました。見ておきます。……ひょっとして、明日のお供えは、私達の場合そこにするんですか?」 「そうだね。流石に公共の施設の前に並べておくわけにはいかないだろうから」  お供え--常世神信仰でいうところの、「戸口に食べ物や酒を並べる」の部分だ。明日の祭りの時に、必要らしい。  自分達の食事とは別に、こちらも麓で購入済みだ。日持ちするものばかりだから、持って帰れと言われても困らないし、逆に村の方で回収されるにしても、後で食べられるだろう。  と、まあ。そんな感じで明日の予定等を確認した後、村の長老に挨拶しに向かった卯田教授と別れ、私は教授に教えられた、公民館の裏手にある祠へと向かっていた。  本当は私もご挨拶に伺うのが筋なのだろうが、「若い子が居ると必要以上に引き留められるから」と、待機を命じられた形だ。  良かったのだろうか、と思う反面、祭が終わればすぐに帰る以上、不愛想な余所者くらいの距離感でいた方が、お互いのためにもいいのかもしれないと思わないでも無く。 「っと、これ……だよね」  錆びたフェンスを背景に、私の背丈ほどもない小さな祠が、ぽつん、と立っていた。  こういう祠と言えば、小さいなりにきっちりと切妻屋根がついているイメージなのだが、苔むした石の台座に乗せられたそれは四角形で、格子状の細工が施された扉が閉じられている事もあって、どこか檻と言うか、虫かごにも似た印象を覚えてしまう。  磨りガラスからうっすらとのぞく小堂の中は主に深い緑色で満たされていて、恐らく、橘の葉か、手首のお守りに付いているような、橘の葉を模した飾りが敷き詰められているのだろう。  とりあえず、手を合わせておく。  これが正しい所作なのかはわからないけれど、他に様式を、知らないので。  と、 「ん? ひょっとしておみゃあ、例のお客さんさ?」  不意に背後から声が聞こえて、思わず振り返る。少し肩が跳ねてしまったかもしれないが、視線の先に居た老人がそれを気にした様子は無かった。 「あ、ええっと、こんにちは」 「こんにちはー。えーらいけっこい子が居たでラセン様の化身かて思ったわ」 「けっこい……?」  方言だろうか。方言だと思う。  しかしラセン様の化身と言うと 「ラセン様の化身、というと。……もしかして、蝶を助けた青年のところに現れたとかいう?」 「そうだに。ちょうど明日は常世祭りだもんで、ラセン様もいらっしゃるだら、はよ着き過ぎた思うたっけ」  そう言って、老人は笑いながら私の腕にあるお守りに視線を落とした。よくわからない言葉はそこそこあるが、イントネーションが標準語に近いので、なんとなくは聞きとる事が出来る。……あくまでなんとなく、だから、半分くらいしか頭に入って来ないのだけれど。  ただ、雰囲気が柔らかいというか、余所者を拒むような空気では無いのは幸いだった。……暗い雰囲気の田舎だと、さっきまでそう思っていたのが、少しだけ申し訳なくなってくるのだが。 「私ともう1人の方は、明日のお祭りを見学するために来たんです。短い間ではありますが、どうかよろしくお願いします」 「まあわけぇのにまめったい。折角だもんで、ゆるせいしてけ。なんならうちっち寄って行くさ? 口に合うかわからんが、橘の砂糖漬けで作った菓子もあるだに」 「え、うちっち……もしかしてお家ですか? ええっと……」  流石に見ず知らずの人の家に上がり込むのは躊躇してしまう。あくまで大学の教授でしかない卯田先生に、ここまで車で連れてきてもらった私が言うのも、何だけれど。  ああ、でも。  ラセン様の話も、そうだけれど。  私の記憶が正しければ、ここは、幼馴染の親のどちらかの実家もある筈だから――ひょっとしたら、彼に関するお話も聞けるかもしれない。 「その……お言葉に甘えても、いいですか?」  老人がにか、と歯を見せて笑う。  是非寄って行くと良い、という感じの事を言って、彼は私に、後について来るように、と手招きすると、近くの家の方へと向かって歩いていく。  ふと、塀の向こうで、風も無いのに橘の木が揺れたような気がした。  鳥か何かが留まっていたのかもしれない。虫がついているとすれば、啄みにくらい、来るだろう。  相変わらず、景色は霧のせいで少しぼやけている。  幼馴染がここへ来ていたのだとしたら、あの子もこんな景色を、見ていたのだろうか。 * 「人が来るのも久しぶりだに」  お茶菓子と紅茶と、それから砂糖代わりのマーマレードが机に置かれた。  橘の実は酸味が強く生食には向かないが、その分、何かと加工には向いているらしい。この村の数少ない特産品だった。 「今のラセン様も50年以上だもんで、みがましーはしてきたけども、そろそろにーしーもんかたさないかんだら」  同じようにマーマレードをとかした紅茶を、来客用では無い湯呑で啜りながら、彼はそんな事を言う。  間に合って良かったな、という感想が、なんとなしに、脳裏を掠めた。 「おみゃあらが来てくれて良かっただに。ラセン様も喜んどるら」 「……そうですか」  相変わらずの笑みを浮かべる彼に、こちらも笑って返す。  自分で言うのも何だが、人の良さげな笑みは、すっかり板についてしまった気がする。  しばらくラセン様以外の話も交えて談笑した後、キリの良さそうなタイミングで紅茶を飲み終えて、立ち上がる。  それとなく振り返り、斜め後ろにある空間を確認した。  一般的な家庭であれば仏間がありそうな場所に、この集落のそこかしこにある祠とほぼほぼ同じデザインの祭壇が設置されている。  閉じた虫かご。敷き詰められた緑。何もかもが、変わらない。  そして庭の方に視線を向ければ、やはり橘の木が堂々とそびえ立っていて。  外から見るとあまり目立たなかったのだが、木々の合間には、白く、可憐な星形の花が咲いていて、時折濡れたような匂いに混じって、柑橘の香りが漂っていた。 「それでは、明日の夕方。同行者と一緒に社の方に行けば良いんですね」  頷く彼に、より一層、笑みを深くして見せる。 「心待ちにしていますよ。ラセン様に、お会いできるのを」 「村のもんも楽しみにしてるだもんで、明日はえらいにぎやかになるだらな」  会釈をしつつ、向こうからは見えないように、そっとお守りに指を伸ばす。  祭りの開始が徐々に迫ってきている実感が湧いてきて、心なしか、胸の奥から鼓動が大きく響いているような気がしてしまうのだった。 * 「あ、教授。戻ってたんですね」  私が施設に戻って来たのとほぼ同時に、給湯室からマグカップ--香りからして、ココアが入っている――を持った卯田教授が出てきた。  長居してしまったなとは思ったけれど、教授よりも帰りが遅くなってしまうとは。……「若い子が居ると必要以上に引き留められる」とは聞いていたけれど、村長さんに限った話では無かったらしい。 「やあ。その様子だと、ここいらの人のお家で御呼ばれしていたのかな?」 「あ、はい。橘のバターケーキ、いただいちゃいました」 「祭の前日だから、あちこちで橘を使ったお菓子を用意しているんだよ。生食には向かないけれど、砂糖漬けやジャムすると日持ちするからね。……それから」  どう? 他にも収穫があったんじゃない? そう続ける卯田教授を前に、私は思わず自分の頬に触れる。  顔に出ていたのかもしれないと、そんな気がしたのだ。 「はい。ええっと……」 「はは、そうだね。立ち話も何だから、君さえ良ければ、また和室の方においで。昼食を取りながら話をしよう。……っと、君、お弁当はお腹に入りそう?」 「じゃあ、お邪魔させてもらいますね。お腹は大丈夫ですよ。まだ入ります」 「若いねぇ」  その後自分のお弁当を回収した私は、またしても和室の方にお邪魔する。  というか、会議室で食事をするのは、許可をもらっているとはいえ若干気が引けたので、教授の申し出は単純に助かった。  私は老人の家で聞いた話を、箸休めの代わりに卯田教授へと公開する。  教授からすれば知っているような話ばかりだろうし、私自身、方言交じりの話を正しく読み取れているかは微妙だったのだが、卯田教授はいつも通り、適度に相槌を挟みながら、笑顔で聞いてくれていた。 「祭の時のラセン様は、村の方が演じられるんですね」  そのようだね、と、教授は頷いた。  教授も、村長さんから話を聞いて来たのだろうか。 「今のラセン様は、もう50年以上同じ方だそうだよ」 「大ベテランですね。……でも、つまりそれって、他に成り手が居ないって事ですよね。……ちょっと寂しい感じ、しちゃうというか」 「民俗学をやっていると、よく目にする耳にするような話だよ」  ココアを啜って、はぁと小さく息を吐いてから、教授はわずかに視線を上げる。 「でも、それはカミの側にとっては、そう悪い話では無いのかもしれない」 「? と言うと?」 「カミほど移ろいやすい存在は無い、という話はしただろう。……正しく祀られなくなった時点で、そのカミは、本当に元々崇められていたカミと同じ存在だと、言えるのだろうかと僕は考える。偽の風習と共に在るくらいなら、いっそ消え去ってしまった方が、カミにとっても幸せなのかもしれない、と。……時折、考えてしまうんだよ」  こんな仕事をしているとね。と付け足す教授は、どこか上の空にも見えて、しかし同時に、いつに無い程の真剣みを帯びていた。  ……が、どう返答したものかと悩んでいる私の視線に気付いたのか、はっと目を見開いて、いつも通り、教授は目尻に穏やかな皺を拵えた。 「っと、すまない。また脱線させてしまったね。他にはどんな話を?」 「あ、ラセン様と常世祭りに関するお話はこのくらいです。……後は、なんていうか、至極個人的な話だというか……」 「?」  個人的な話、の部分で、思わず頬が緩んでいたのかもしれない。  これに関しては、嬉しい誤算だったからだ。……ある意味で、増えてしまった悩みもあるのだけれど、一旦は、さて置いて。 「明日のお祭りの時、私の幼馴染が、村に遊びに来るらしいんです」  そうなのだ。  先ほど家に上げてもらった老人は、私の幼馴染の事を知っていた。  親類では無かったけれど、幼馴染は彼と親しい方のお孫さんで、幼馴染は毎年祭の日にこちらに遊びに来ているという事、今年も来るというのを、幼馴染の祖父母から既に聞いているというのを、話てくれたのである。  つまり、生きていたのだ。  私の幼馴染――南雲 明は。  実際に目にするまでは、確かな事は言えないと思う自分もいるけれど。  でも、来て、良かったと。改めてそう思う。  ……しかしそうなると。名前自体は合っていた以上、火事で亡くなった南谷 明さんは誰だったのか、という話になってしまうが――もしかしたら、同姓同名の別人だったのかもしれない。  友人や親類なら兎も角、テレビ局の人は、所詮は赤の他人だ。歳が近ければ、なおの事。勘違いしても、そこまでおかしな話では無い。  それはそれで、例え知らない人だとしても、偲ぶべきなのだろうけれど。  でも、自分の知っている人がどうやら生きているらしいと言う安堵感の方が、今は強くて。……不謹慎でも、やはり、どうしても。テレビの向こう側は、他人事だった。 「そうなのか」  ラセン様と全く関係の無い話であるにもかかわらず、教授の表情は、変わらず、穏やかだった。 「それは、良かったね」 「はい。……本当に」 「折角の再会なのだから、明日はゆっくり楽しむと良いよ。……何なら、ラセン様に関する取材も、僕の方で済ませておくけれど」 「いや、それは流石に。実際興味はありますし、あと実を言うと卒論のテーマにも困っていたので……。お祭りっていうのも久しぶりですし、村の方が扮するラセン様を見るのも、楽しみにしているんですよ」  そうかい、と教授。私は再び、頷いた。  と、 「お守り、失くさないようにね」  不意に、教授はそんな事を、口にする。 「?」 「一種、ラセン様に会うためのパスのようなものだから。常世祭りに参加するなら、一応、言っておかなければと思ってね」  言いながら、教授もズボンのポケットから私と同じお守りを取り出す。  そういう役目もあるのかと、私も改めて手首から下がった橘の葉のお守りを見下ろした。 「わかりました。今日明日はずっと付けておきます」 「それが良いんじゃないかな」  安っぽい造りの、葉っぱのお守り。  だが逆に、そんなありきたりな感じが、今ではこの集落にとってラセン様が身近な存在である証拠のようにも見えて、私はなんだか、微笑ましく思ったりもするのだった。 *  翌日。村の方の準備も着々と進み、日が暮れる頃。 「どうですかね、卯田教授」  地元の婦人会の方のご厚意で浴衣を貸してもらった私は、とりあえず同行者である卯田教授にその姿をお披露目する事にした。 「おお、いいね。似合ってるよ」  お世辞だとしても、卯田教授の物言いは品があるからか、それを感じさせない。単純に、気分が良かった。 「会議室に居ないからどうしたのかと思ったけれど、下で着付けてもらっていたんだね」 「はい、セパレートタイプ……いわゆる上下別の簡易版なんですけれど、帯とかはとても1人ではできなくって」  気分だけでも、よかったら。と渡されたそれは、本格的な浴衣では無いものの、帯をきっちり仕上げてもらっているお蔭か、Tシャツとズボンの上からでもそれなりに様になっている。  何より、柄がとても可愛らしいのだ。  アゲハチョウをモチーフにしているらしいデザインは、しかし黄色と黒の代わりに紫がかった青と紺を使う事で色調を抑えてあり、悪い意味での派手さは無く、袖を通すのにも抵抗感は無かった。  ……ひとつだけ、残念と言ってしまうと申し訳ないのだけれど、そういう点を挙げるとすれば―― 「ただ、袖、巻くと言うか、絞ると言うか。風習とはいえちょっともったいない気がします。返す時皺になりそうなのもちょっと……」  それこそ蝶の翅のように優美な袖を、ラセン様のねじれた翅を模して、ねじって、紐で縛る。  着物で参加する人は、みんなそうするのが常世祭りでのルールらしい。私が動くたびに、浴衣の袖は、形を固めてあるせいでひらひらとではなくぶらぶらと揺れた。 「まあそれは仕方が無いよ。そのための簡易浴衣、という部分もあるのだろうし」 「それもそうですね。……あと、草履も貸して下さったんですけれど、運動靴でもいいですかね? やっぱり、慣れない所で不慣れな履物は、ちょっと不安で……」 「それは、その方がいいよ。舗装されていない道も多いからね。村の方には僕の方からそう言って返しておくから」 「ありがとうございます」  とりあえず、これでこちらの準備は完了といったところだろうか。  草履を卯田教授に預けて、貴重品を簡易浴衣に付いていた隠しポケットに仕舞い、お供え物を持って外に出る。  相変わらず、山間の村にはうっすらと靄がかかっていたが、夕陽を吸って世界を橙の色に染まった景色はどこか神秘的で、自分達が普段暮らしているのとは、違う世界に居るかのようで。……昔の人がこの時刻を逢魔が時と呼んで恐れたのも、何だかわかるような気がした。  そも、虫を祀るのに夜のお祭り、というのも、少し変だなと思っていたのだけれど。  教授曰く、蝶の蛹は日の出の時刻に羽化するそうなのだが、日没後も光を浴びせ続けると、体内時計が混乱して、夜の内に羽化してしまうそうで。  そうなると蝶は灯りの下以外は暗がりを行き来せねばならず、目の見えない空間で翅を傷付けてしまう可能性が高い――ようするに、人為的に「翅がねじれる」とまでは行かずとも、ラセン様同様の飛べない蝶を作り出すことができるのだ。  常世祭りは、夜通し蛹に光を与え続ける事で、ご神体となるラセン様に近い特徴の蝶を羽化させる目的があったのではないか、と。そんな推測を、話してくれた。  ……蝶を助けた物語から始まった信仰で、蝶をわざと傷つけるのはどうかと思うけれども。  だけどその性質を知らない人々からすれば、祭の夜に羽化し、ラセン様と同じ常世神となる蝶は、ひどく神秘的に見えた事だろう。それだけは、私にも解らなくは無かった。  教授と共に、昨日の昼間に手を合わせた祠の方へと、お供えを持って行く。  案の定、祠の戸は、開いていた。  ……いや、開いていたというか、通常の観音開きでは無く、祠の扉そのものが取り外されている。  あけっぴろげになった内部には、昨日考えた通り、床面に青々とした橘の葉が敷き詰められていた。  の、だが。 「……御神体的なのは、無いんですね?」  てっきり、干からびた「翅のねじれた蝶」の死骸やら、あるいは羽化前の蛹やら、ひょっとすると芋虫が鎮座しているものと身構えていたのだけれど。  祠の中には、葉っぱ以外には、何も置かれていない。上記の物を模した、像や絵の類すらも。 「……」  教授も流石に不思議に思ったのか、返事は無かった。彼は葉っぱ以外は何も無い祠の中を、じいっと凝視している。  ……いや、単純に聞こえていなかったのかもしれない。その可能性も考慮して、もう一度呼びかけると、教授ははっと、我に返る。 「ああ、すまない。……今日はあくまで、村の奥にある社のラセン様が主体だから、もしかしたら祠のご神体も、そちらに持って行ってあるのかも」  確かに、そう考えると他所から来た人間に準備を見せたがらないのも解る気がした。  神仏の移動というのは、どこの地域でも大概気を遣って行われるものだし。 「……カミ様が居ないなら、祠、写真とか撮っちゃ駄目ですかね?」 「やめておいた方がいいと思うよ」  村の方に聞くべきなのだろうが、こういうデリケートな話題はそもそも言い出しにくい。  なら、普段調査で場数を踏んでいる教授に尋ねて、こういう答えが返ってきた以上、自重するに越した事は無い。私はスマホを取り出したりはしなかった。  と、 「おーい、昨日の!」  聞き覚えのある声に振り返ると、昨日の老人が、私を見ながら手招きしていた。  彼の背後には、彼と同じくらいの歳の老婆と、その横に、老人たちと比べると背が高く、身体つきもしっかりとした影が1つ、佇んでいて。 「南雲さんところの、帰って来たもんで、声かけといたよ」 「へっ、あ、ありがとうございます」  教授の方に視線をやると、彼は行っておいでと皺を深くして微笑んだ。 「すみません、じゃあまた後で、お社の方で」  小さく手を振る教授に見送られて、小走りでその影の方へと寄って行く。 「へへっ、久しぶり」  名前も、忘れていたというのに。  都合のいい話で――「変わらないな」と思ってしまった。  そこだけ時が巻き戻ったかのように、つられて、私は恐らく、目の前の存在と同じ表情を浮かべている。 「久しぶり。あーちゃん」  嘘みたいに、昔の呼び名が口を突いて。  元気そうで、良かった。と。  零れるように、本音が漏れた。 * 「馬子にも衣裳ってカンジ? 浴衣、めっちゃ似合ってんじゃん」 「はぁ? 十数年ぶりに会って、いきなりそれ? ひどく無い?」  社までの道を並んで歩き始めるなり、明の第一声。  唇こそ尖らせてはみたものの、憎まれ口交じりの幼馴染の言い回しは、その声が変わっていたとしても、やはり懐かしかった。  同い年の筈だが、顔立ちに僅かにあどけなさが残っているのもその印象に一役買っているのかもしれない。  明も同じように思ったのか、噴き出すようにして、「変わらないなぁ」と視線を上げていた。 「そっか。もう十年以上か。どう? そっち、変わってない?」 「変わってないよ。良くも悪くも中途半端に田舎って感じ。……ショッピングモールできたんだけど、それってあーちゃんが引っ越す前だっけ? 後だっけ?」 「え、何それ知らん。後、後。へぇ、いいなー。引っ越す前にあったら、何かと遊びに行けたのに」 「言うて遊べるところ全然無いよ。あ、でも映画館入ってるんだ。いっつもガラガラだけど」 「いや十分じゃん。てか混んでるより良くない?」 「まあ快適は快適だけど、いつ潰れるかと思うとさ。市内の映画館も結局全部潰れちゃったし」 「そうなの? やっぱり結構変わってるじゃん」  何気ない会話は、しかし年月を経たからこその内容で、ただそれだけに、ますます「久しぶりに会った」という実感が湧いてくる。  ああ、本物のあーちゃんだ。  ずっと、元気にしてたんだ。 「……本当に、良かったよ。元気そうで」 「大袈裟だなぁ。お互い若いのに、十年そこいらで病気したりしないって」 「いや、そう言う訳じゃ無くて」  明が首を傾げる。  失言だったかな、と思いはしたけれど、それでもやっぱり、黙っているのも心苦しくて、私は数秒の沈黙を挟んでから、口を開いた。 「ニュース、知らない? この間、大きな火事があったでしょ」  ピンときていない顔の明は、しかし私が場所を名指すと、ああ、と得心したように頷いた。 「あったあった」 「それで、テレビ局の人から電話があってね。……あーちゃんが、死んじゃったって言うから」 「マジで?」 「マジで」  死んだのかー。と、明は自分の両の手の平を見下ろして肩を落とす。  生きてるでしょ、と、私はその様子を見て、苦笑した。 「それで、たまたまラセン様の話を思い出す事があって。一緒に来てたおじさん、大学の教授なんだけど、ちょうどお祭りもあるし、フィールドワークに連れて行っても良いって言ってくれたから。……ここに来たら、あーちゃんの事も、わかるかなって」 「え、そんな理由でこんなド田舎まで来たの? フットワーク軽すぎでしょ」 「悪かったねそんな理由で。……っていうか、それ以上に単位と卒論のテーマ目的だから。勘違いしないでよね」 「はっはっは、今時流行らないぞそのキャラは」  茶化さないでよ、と、軽く明の背中を叩く。縛った浴衣の袖が、付き添うようにして、一緒にぶつかった。  悪い悪い、怒るなよと明が笑う。……だけどふと、真顔になったかと思うと、明は少しだけ、遠いところを見た。 「でも、卒論。もうそんな時期か。……十年って、案外あっという間だった気がするな」  その目が見ているのは、私の知らない、明の歩んできた景色。  視線を追っても、見えるものでは無い。 「……あーちゃんの方は、ここ最近、どうしてたの?」  それでも、言葉にしたものを聞く事は出来る。  やはり気になって尋ねてみると、「そんな大した事はしてないよ」と、明は肩を竦めて苦笑いしていた。 「大学は行ってるけど、1、2回生で取れるヤツは取ったから、どっちかっていうとバイト漬けの日々かな」 「へえ、いいじゃん。どんなバイトしてるの?」 「介護施設のヘルパー」 「え?」 「まあ、かーなーりしんどいけど、いうて資格無い人間がやれる範囲だから、正規の職員に比べたらそんな大した事はしてないんだけどさ。理不尽で嫌になる事の方が多いけど、やっぱり、感謝された時は気分、悪くないっていうか」 「……」 「……あれ? どうかした?」  言葉を失う私に、明が首を傾げる。  私が  私が、幼馴染が死んだと思った事件は  この上なく身勝手な動機で、社会的弱者を狙った凶行だった。  介護施設が、標的になった犯行だった。  ――亡くなられた南雲 明さんは、誰に対しても親切で、思いやりのある人でした。高校時代には水泳部で背泳ぎの選手として活躍し――  ――どうして、あんな若い子が。いっつも優しくてねぇ。変わってやれるなら変わってあげたい。申し訳なくて――  この村に訪れる、つい前日。  結局私が情報を提供する事の無かったニュースで見た、私の知らない『南雲 明』が、頭の中で、螺旋のように渦を巻く。  知らない人だ。知らない人だった筈だ。  友人たちと肩を組んで笑う青年の写真に、面影なんて、覚えなかった筈だ。  目の前の、『南雲 明』を見た時と違って。 「ねえ、あーちゃん」 「ん?」  でも 「あーちゃんがさ、バイトしてるっていう介護施設」  同姓同名同年代で、同じ職種の、別人。 「一体、なんて」  ……そんな偶然が、本当にあり得るのだろうか。 「……」 「ん? 何?」 「……ううん、何でも無い」  あり得るのだ。  我ながら、馬鹿げた事を考えたものだ。なんて言ったって、幼馴染は、目の前にいる。触る事だってできた。  それに、火事の有った施設名は、さっき挙げている。おかしな反応をするなら、その時にしているに違いない。  あの日、火事で亡くなったのは、画面の向こうの、知らない人。  その、筈なのだ。  と、 「ねえ」  不意に口を開いたのは、今度は明の方だった。  どうしたの? と、私は取り繕うように顔を上げる。 「写真、撮っとこうよ」 「え? 今?」  突然の申し出に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまうが、明は気にする素振りを見せない。  彼の視線は、隠しポケットの中にある私のスマホの方にある。 「次、いつ撮れるかわからないし。社の方は、撮影禁止だったと思うから」 「そうなの?」  まあ、再会を祝して、と言うのなら、急な話ではあるが、私の方にも、異論は無い。  カメラを取り出す。  日は沈み、山のラインに沿ってうっすらと赤色が残るのみで、暗がりの迫り始めた世界に合わせて、カメラを夜景モードに設定する。 「じゃ、こっち寄って」 「うん」  インカメラに切り替えて、腕を伸ばす。  明が、ゆっくりと私の真横に並んだ。 「はい、チー……」  ズ。  たった一文字を。私は口に出来ないまま、固まってしまう。  スマホの画面に映るのは、凍り付いた表情の私と――ノイズ。  幼馴染が立っているべき場所に、同じ形、同じ大きさの砂嵐が、吹き荒れるようにして夜の景色を、乱していた。 「……え?」  その光景に、理解が追い付かなくて。  そうしている内に、明が、私から離れた。  視界の端へとフェードアウトしていく明の腕は、いたって普通の肌の色をしていたけれど。  スマホの画面端には、狂った残滓が残っていて。 「ごめん」  そんな、理由も解らない謝罪の言葉を耳にした瞬間、霧がスチームでも噴き出したのかのように、一瞬にして濃くなって。  幼馴染の姿を、飲み込んでしまう。 「え、ちょ、待って」  制止が聞き入れられる事は無い。身体も思考も、現実に追いつかなかった。  辛うじて伸ばした手に触れるのは、うっすらと濡れたような気配ばかり。  半ばパニックになりながら、辺りを見渡す。  方角が、わからない。  私、さっき、どっちを向いていたっけ。  それに、明は。幼馴染は。  一体どこに。  一体どうして。  なにもかも、訳が分からなくて、もう一度、カメラを開いたままのスマホを覗き込む。  すると、肉眼に比べて気持ちカメラは霧から、あるいは夜闇から受ける影響が少ないのか、ぼんやりと、持ち上げた方角に、灯りを映し出していた。  丸くてささやかな灯りがぽつぽつと並んでいる様は、祭りの提灯を連想させる。  明との会話に夢中になっていたけれど、私の記憶が正しければ、行く手の先に、そんなものが、見えていたような。 「おーい!」  声を、張り上げる。  見えているなら、届く筈だ。ただでさえ、田舎の夜は祭りの最中でもひどく静かで。 「誰かいませんかー!」 「大丈夫かー?」  すると、想定通り、返事が聞こえてきた。 「おみゃ、昨日来たわけーしっけ。霧濃いなったもんで、驚いたら? こっち、こっちにおいでー」 「転ぶといかんだもんで、とばないで来い」  やはり、向こうに人がいるらしい。  ……明の事は気がかりだが、ここで私が迷子になってしまってはその方がどうしようもない。  村の人に聞けば、何か解る事もあるかもしれない。  運動靴のままで良かった。私は急いで、灯りと声の方へと足を進める。歩きスマホは褒められた事ではないが、私の目よりは頼りになりそうで、そのまま、向かった。  そうしない方が良かったのではないかと気づいた時には、もう遅くって。  肉眼で確認した村人達と、スマホが映す世界との乖離に、私は、またその場で立ち尽くす。  視界には、確かに。  あの、見るからに人の良さそうな、素朴な田舎の人々が、余所者である私にも、無事にこの場に辿り着いた事を喜ぶような、温かな眼差しを向けているのが見える。  でもスマホの中に居る彼らは、そも、人の姿をしてはいなくて。  芋虫。  緑色の身体。模様……には見えない、大きな青い瞳。腕の先と尻の側に、マゼンタカラーの鋭い突起のついている芋虫が、一斉に私へと、視線を向けていたのだ。 「ああ」  村人の1人が、困ったように眉をハの字にして笑う。  芋虫の紫色をした口が、縦に割れた。 「それ使うと見えるじゃんか。南雲の孫は、何してるだら」 「しょんない、わけーしは皆アレ使いおる。ここまで来たら、同じだに」  合唱するように、周囲の村人--否、虫たちからも、同意の声が上がる。  その中で、一番社に近い所にいる芋虫が、にいっと目を細めた。 「新しい、ラセン様だに」  私の中の何かが自分を弾くようにして、踵を返す。  先の見えないでこぼこ道を、半狂乱になりながら引き返していく。  逃げなければ、と。それだけが頭の中を駆け巡る。  背後から聞こえてくる音が、余計に私の感情を煽っていた。  かちかち、かちかちと、地面を尖った爪の先で突くような音が、幾重にも幾重にも、私の方を向いて迫って来るのが判った。  あの、芋虫たちの、足音だ。  ぞわり、と胸を中心に吐き気に近い気持ちの悪さが身体いっぱいに広がっていく。  ただでさえ霧に覆われた視界がぼやける。頭が痛い。  逃げなければ。  逃げなければ。  どこに行けば良いのかはわからない。  でも、走り続ければ、芋虫たちからは距離を置ける筈だ。幸い、足が速いようには思えない。  捕まったら、何をされるか解ったものでは無い。  だって彼ら、さっき、なんて言った?  新しい、ラセン様? 「あっ」  その時だった。  ぐん、と、何かが強く、私の背中を引いた。  まるで、浴衣の背を強く掴まれたかのように。 「っ!?」  続けざまに、片や腕、袖にも何かがひっついて、思い切り引っ張られて。  私は仰向けに、倒れてしまう。  ……霧の向こうに、しかしはっきりと見えていた。  どうして、覆い隠してくれなかったのだろう。 「ひいっ」  息を呑む。  カメラを介さない、姿形だけはいたって普通である筈の老人たちの口から、何本もの白い糸が垂れ下がって、私の方へと伸びていたのだ。  糸は浴衣に纏わりつき、私を絡め取って、逃げてきたばかりのあぜ道を引き摺って行く。 「いっ、いやっ、離して。やめてっ!」  金切り声を上げながら身をよじれば、蜘蛛の巣に囚われた羽虫のように、余計に絡まって行くばかり。  どんなに懇願しても、村人たちの口元の皺は、上向きにつり上がるばかりだった。 「ラセン様」  ざりざりと音を立てて、道に埋まった小石の先が、なんども背中を引っ掻いていく。  左右を見渡たせば、道の脇にはびっしりと、食べ物と酒。それから貴金属類や宝石といった『財』が並べられていて、その全てから、柑橘の--橘の香りが、漂っていて。 「嫌……」 「ラセン様」  絞り出した悲鳴さえも、村人たちが『ラセン様』を呼ぶ声に掻き消される。  名を呼んでいない者達も、うわ言のように、何かを呟いているようだった。 「新しい富が入って来たぞ」 「新しい富が入って来たぞ」 「新しい富が入って来たぞ」  それは、常世神信仰の決まり文句。  財を捨て、財を得る。 「ラセン様」  何かを捨てれば、対価を得る。  余所者を捧げれば--彼らは一体、何を得る? 「どうか我々を、常世の国にお招きください」  もう、どうしようもないと。頭の中で、諦めかけているというのに。  辛うじて持ち上げられるだけ、手を、もがく様に、上に伸ばす。  涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっているのに、拭う事すら、叶わない。  ねじれた浴衣の袖は、人為的に作られた羽化の失敗した蝶そのもののようで、破れて、泥にまみれ、紐をほどいたところで、もう元通りにはならないだろう。  手首に巻いていたあのお守りも、擦り切れて、土に汚れきっている。  安っぽい緑色の塗装はとうの昔に剥がれて、枯れたような色が覗いていた。 「助けて」  惨めに口にしたその祈りだけが、私に出来た唯一の悪あがきで。    その時、ふと。塗装を失ったお守りの表面に、何か、文字が書かれているのが見えた。 *  刻まれた文字は、疫・呪・凶。  いやに物騒な文字ばかりだ。  だが、これは「身を守るための呪文」なのだという。 * 「えっ」  唐突に、視界が高くなる。  ぶちぶちと糸を引き千切る音がして、何かが、私を持ち上げていた。 「な、なに」  まだ肩や腕に糸が絡まっているせいでうまくは動かせなかったけれど、どうにか身を起こす事は出来た。  見れば、私は大きな手の平の上に居た。  土の手。土の腕。土の胴。土の脚。  周囲の地面からごっそりとえぐり出して造られたらしいパーツを、私を引きずっていた糸を自分の身体に巻く事で繋ぎ止めた土の巨人が、私を抱え上げている。    頭を覆うメットだけが、妙に身体から浮いた色。……あのお守りと同じ、安っぽい緑色だった。  土の巨人は、私を一瞥して。  次の瞬間、霧よりもなお濃い、瞳と同じ色をした真紅のガスを、背中から噴き出した。 「!?」  ガスを吸い込んだらしい村人が、1人、また1人、仰向けに倒れていく。  私も反射的に、どうにか自由になった手で口元を覆う――が、確実に少しは吸い込んだ筈なのに、身体に影響が現れる事は無かった。 「これ、は」  手を離しても、結果は同じだった。私には影響が、無いらしい。  対して、村人たちは倒れた順から、ぱあん、ぱあんと硝子の砕けるような音と共に、光の粒になって、消えていく。  悍ましい光景の筈なのに、それ以上に頭が混乱しているのか、今は恐怖よりも、何故か安堵の方が強かった。  土の巨人から、私に危害を加えるような意思を感じなかったからかもしれない。……もっとも、彼(?)の目からは、何の感情も読み取る事など、出来ないのだが。  だが―― 「ギ、ギイ……!」  紅いガスに目を剥きながら、覚束ない足元で--しかし数人、否、数体の「村人」が、倒れる事無く、こちらへと歩み寄って来る。 「ラセンサマ」 「アタラシイ、トミ」 「エイエンノ、イノチ」 「トコヨノクニ」 「ワレラ、ツレテ」  彼らの皮が、剥がれ落ちた。  虫が蛹を、脱ぐように。 「ひっ」  現れたのは、明らかに彼らの元の体躯には収まらないと思われる、土の巨人と並ぶ程の大きな昆虫たちだった。 トンボやアリ、ハチにカマキリの姿をした怪物たちが、ガスに苦しみ、口元から涎を零しながら、だが一歩ずつ着実に、迫って来る。  そんな中、土の巨人は、私を手の平から地面に下ろした。 「えっ」  逃がしてはくれないのか、と戸惑いと共に巨人を見上げると、彼はくい、と社の方を顎で指す。  行けと、言っているのだろうか。  でも、そここそ『ラセン様』が居る場所なのでは?  だが、問いかける事も出来ないまま、土の巨人は自分を生み出した地面を蹴る。  拳を構え、虫たちの方へ。  振り下ろした一撃が、トンボの胴を捉え、叩き落とした。  と、 「こっち、こっちだ」  聞き覚えのある声に、振り返る。  社を囲う、木々の隙間、茂みの中。  卯田教授が、潜めた声で私に呼びかけつつ、手招きをしていた。 「教授!?」  強張った身体に鞭を打って足を進めた。  這う這うの体で茂みに飛び込むと、苦い表情の教授が私の背中をさすってくれた。 「すまない。怖い思いをさせてしまったね」 「あの、これは。というか、教授はどこに……でも、無事で……」 「悪いが、話は後だ。……こっちに来てほしい」  終わらせるんだ。ラセン様伝承を。  そう言って、教授は立ち上がり、私の手を引いた。 「ちょ、教授」  わけのわからないまま、彼の後について行く。というより、教授の力に引っぱられている形だ。  村人たちの出した糸と違って振りほどく事自体は難しそうでは無かったが、有無を言わせぬ気迫があって、とてもそうしようとは思えなかったのだ。  思った以上に、歩いただろうか。  社は思ったよりも奥まった場所にあって、鳥居のような、神社を想起させる類のものは何も無かったけれど、代わりにぐるりと周囲を橘の木に覆われていた。  白い星型の花は、夜闇の中でも幽かな光を浴びて輝いて見えている。まるで、ここだけ、夜空をひとつ、切り取ったかのようだった。  その、中央。  公民館の裏で見たものと形やデザインは同じだが、ひと際大きな、四角形の社。  祠の中とは比べ物にならない程橘の葉が敷き詰められた祭壇に、1人の女性が、鎮座していた。  ヒーローものの登場人物が着ているライダースーツのような、身体のラインを際立たせる装束に、昆虫の頭を模したメット。  線は細く、髪は青い。  ……ただ、後ろ髪があるべき場所には、前髪と、そして私の着せられている浴衣と同じ色の蝶の翅が生えていて――やはりそれは、ねじれて、螺旋を描いていた。  全てが、作り物のようなのに。  その佇まいは、むしろ神秘的なくらいで。 「あの」  少なくとも、話に聞いていた60歳前後の女性のようには見えない。  女性は私達の方には目もくれず、ただ、じっと前を、見据えている。 「この方って、まさか」  教授は何も答えずに、ただ、ズボンのポケットから何かを取り出し、私に差し出した。 「え?」  それは、出発前に教授自身から渡されたものと、全く同じデザインのお守り。  ただしこちらは無理に作った郷土土産感溢れる、安っぽい質感のモノではなく、本物の橘の葉のように、艶やかで、瑞々しく、とても鮮やかな緑色をしている。 「これが本物の、常世祭りで使うお守りだ」 「へ?」  意味が解らず、呆然とする私の手を取って、教授はその「本物のお守り」とやらを握らせる。 「蒐集したデータをラセン様の元に渡すためのUSBメモリーのようなもので……いいや、説明している時間は無い」  そう言いつつ、「無理な話かもしれないけれど」と前を気をして、卯田教授は真剣な眼差しを私へと向けた。 「信じてほしい。君の事は、必ず無事に帰すから。……そのお守りを、そこにいる彼女に――ラセン様に、渡してほしい」 「……」  やはり――これが、ラセン様なのか。 「お願いだ」  教授が、膝をついて頭を下げる。  躊躇が、無かった訳じゃ無い。教授にどんな思惑があったのかは、私にはわからない。  だけれども、彼の態度はいたって真摯で、真剣で。そして何より、悲痛だった。  それに、教授が私を帰してくれるというのなら、私自身、他に縋る術も無い。あんな虫の化け物たちから逃れる方法など、私には思い付かないのだ。 「わかり、ました」  教授の顔を伺う事はせず、ラセン様の方へと、向き直る。  彼女は相も変わらず、こちらを見てはいない。先程私を助けてくれた土の巨人のように、ただ、前を向いているから、前を見ている。それだけの存在だった。  そんな彼女の視界を塞ぐように、私はラセン様の前に立ちはだかる。  そうして、しゃがんで、彼女と目を合わせて。  膝の上に乗せていた、彼女の細い指を持ち上げて、その手の平に、しっかりとお守りを、握らせた。 「……」  それまでは何の反応もしていなかったのに。  お守りを置いた瞬間、私の手の動きに従うばかりだったラセン様が、自主的に自分の指を折り曲げ始める。  お守りを中心に、ノイズが、走った。  ノイズは波打つようにして、繰り返し、繰り返し、ラセン様の身体を伝って、その全身へと広がっていく。  巻いた翅の向こうで、教授の表情が僅かに安堵に緩むのが見えた。  よく解らないけれど、何かが成功した、という事で、いいのだろうか。  そう思って、私もまた、軽く息を吐こうとして。  私の吐息を塗り潰すみたいに、がしゃあん、と、何かが、砕ける音が、背後で鳴り響く。  咄嗟に振り返ると、私の丁度真後ろに、見覚えのある紅い瞳が覗く土塊が転がっていて。  「ひっ」 「ラ、センサ、マ」  鼓膜を引っ掻くような、不愉快に掠れた声。  さらに後方へと視線をやると、周辺の木々を押し倒しながら、土の巨人や虫たちよりもさらに巨大な影が、社の方へと踏み入って来るのが見えて。 「ワレラ、ノム、ラ。トコシエ、ニ。トコ、ヨ、トコヨノ、クニ、ワレ、ラノ、コキョウ……!」  それは、虫の王者と呼んでも差し支えの無い程、猛々しい姿をした甲虫。  巨大な角に、艶のある翅は、いかにも人の目を引くものだ。  だがその色は夜の帳にも似た藍色で、関節を繋ぐ部分には赤い筋繊維が剥き出しになっている。人の理とは違う世界の化け物だと、一目見て理解せざるを得なかった。  カブトムシの怪物が、引き裂いた土の巨人のパーツをあちこちに投げ捨てながら、縦に裂け、鋭い牙の覗く口から、しゅーしゅーと掠れた鳴き声を漏らしていたのだ。 「村長」  私と、ラセン様を背に回すように、卯田教授がカブトムシの怪物の前に、立ちはだかる。  彼を、村の長と呼びながら。 「もう、やめましょう。この村はとうの昔に無くなってしまったんです。もう……僕達を、開放して下さい」 「ムラハ! ムラハア、ル! ココニ、ワレラノ、コキョウハトコシエニトコヨノクニトコヨニトコシエトコココニワレラノザイハエイエンノクニコキョウトコシエニカエッテキタ!! ラセンサマ、ガ、オワスカギリ」  鋭いかぎ爪の付いた四つ指が、私とラセン様に向かって伸びる。  その直線状には卯田教授が居て、彼は、彼を無視して私達を捕らえようとするカブトムシの腕に、そっと手を添えた。 「『シザーアームズ』」  私には、教授の呟いた言葉の意味は、解らなかったけれど。  その理由は、次の刹那には明確になった。 「グウッ!?」  落ちた時の音は、見た目に反して呆気無いものだった。  カブトムシの怪物の指は、私達に触れることなく、地面に触れていた。  今私に見えるのは、その切断面ばかりで。 「教……授?」 「動かないでいてくれ。きっと、すぐに終わらせるから」  あくまで、いつも通りの、優しい声色だった。  教授の殻を脱いだその怪物が、あまりにも恐ろしい風貌をしていたにも関わらず、だ。  青いカブトムシの怪物に対して、赤いクワガタムシの化け物。  身体はカブトムシの怪物よりも一回り程小さかったが、身の丈ほどの大顎には、とてつもない威圧感があって。  がちん、がちん。と。  教授だった怪物は、金属を打ち合わせるような音を立てて大顎を鳴らす。 「オマ、エ、ハ?」 「なんだ。本当はとっくの昔に、忘れていたんですね」  一瞬、カブトムシの怪物が気圧された隙に、クワガタムシの化け物は、カブトムシの腕を切り落としたその手で、土の巨人の頭を拾い上げる。 「ゴーレモン。……もう少しだけ、手伝っておくれ」  クワガタムシの化け物がそう囁くなり、あちこちに散らばった土の巨人の粒子一粒一粒が、眩い光を放つ。  思わず目を閉じる私の頬を、温かな風が撫でる。  はっとして瞼を開くと、クワガタムシの化け物は、もうそこには居なかった。  代わりに立っていたのは、クワガタの大顎を模した頭部を持つものの、形自体は、人の姿をした金色の影。  土塊を甲殻に変えて纏い、螺旋の腕と、筒状の五指を持つ、怪人だった。  怪人はその指を、カブトムシの怪物へと真っ直ぐに揃えて向ける。 「『ホーミングレーザー』!」  その掛け声と共に、指の先から発射されるのは、星のように青白い光。  十の光線はひとつの流れ星となって、カブトムシの怪物へと降り注いだ。 「『ホーンバスター』!!」  だが、対するカブトムシの怪物の大きな角も、白熱するような光を帯び、流星を叩き割るかのように正面に捕らえての突進を始める。  一歩ごとに地面が抉れ、揺れる。  私は縋りつくように、ラセン様の手に自分の手を重ねていた。  カブトムシの怪物が、教授だった怪人の寸前にまで迫る。  刹那、怪人の指先から、光が途絶えた。 「!」  否、途絶えたのではない。途中で止めたのだ。  右手の指を覆うように光を残し、怪人は身を屈める。  彼は、カブトムシの怪物の懐へと、潜り込んだ。  甲虫であっても、比較的柔らかい腹の、その中央へと。 「『エミット――」  改めて、怪人は指を揃える。  だん、と、叩きつけた足をアンカーのようにして身体を地面に固定し、目にも留まらぬ速度で貫手を繰り出す。 「--ブレイド』!!」  穂先となった指先が、カブトムシの怪物の胴を貫いた。  胸を貫通し、体内に入った光は再び星となって――一気に、怪物の背中をも、駆け抜けていった。 「イ、ギィ……!?」 「村長」  怪人は腕をそのまま抜くのではなく、振るった。  カブトムシの胴は横半分が裂け、黄緑がかった体液が噴き出す。 「これで、終わりです」 「マダ……コキョウ、ココハ、トコヨ、ノ」 「本当の常世の国に、行ってください。……皆が、先に待っていますから」 「……ミナ、ガ………」  ゴーレモンと呼ばれた土の巨人から噴き出たガスを吸った芋虫たちがそうだったように。  先に飛び散った体液も含めて、カブトムシの怪物が、霧散する。  と同時に、怪人を覆う外殻からも、砂が零れ始めた。  彼の身体はみるみる内に膨らみ、また、赤いクワガタムシの化け物へと戻る。 「……さて」  改めて、クワガタムシの化け物は振り返った。 「どう、説明するべきか」 「……」  そのクワガタムシに、瞳は無い。  だが彼の視線が、私へと注がれているのは解った。  今になってもなお、どこか、教授の眼差しを、そこに覚えていた。  と、 「いっつもさ。遅いんだよ、まさかっちゃんは」  耳元に、澄んだ少女の声が響いて、私は振り返る。  ラセン様が、顔を上げていた。  私の視線に気付くなり、ラセン様は少しだけ悪戯っぽく、唇で弧を描く。  カミ、と称される割に、声と同様、その仕草は年頃の少女のようにも見えた。 「でも、ありがとう。■■■ちゃんの事を見つけてくれて」  クワガタムシの化け物に向き直りながら、そう、ラセン様。  言葉の合間に、一度ノイズが走って、聞き取れなかった。……クワガタムシの化け物にしても同様なのか、彼はふう、と、溜め息を吐く。 「全てが上手く、とはいかなかったみたいだね。ごめん」 「いいよ、■■■ちゃんは許してあげます。最後はまさかっちゃんに、呼んでほしかったから」 「……」 「ああ、その前に。まさかっちゃんの事、戻しておかないとだ」  ラセン様は立ち上がり、クワガタムシの化け物へと手をかざす。  次の瞬間、またしてもクワガタの巨体は萎み――今度は、見慣れた初老の男性のものへと。 「……まさかっちゃんって、こんなんだっけ?」 「こうだったよ。……僕は、歳を取ってしまったから」 「そっか。……そうだよね」  ここで、ラセン様がまた、私の方へと振り返る。  口元にはやはり、先程同様の悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。 「あなたも、ごめんなさい。巻き込んでしまって」  だがその笑みでは誤魔化せない程、彼女の口調は罪悪感に満ちていた。  彼女が動き出す前の教授と、同じように。 「村の虫達に社を開いてもらうのと、記憶データに接続するのに、どうしても若い女性が必要だったから。……詳しくは後でまさかっちゃんに聞いておいて」 「え、あ、はい」 「これでやっと--ラセン様伝承を、終わらせる事が出来るの」  ありがとう。と。  今度は寂しげに微笑んだ彼女に、背後の教授が、螺旋の翼の合間から、節くれだった両の手を添える。  そして 「つばさちゃん、みーつけた」  教授はかくれんぼで友達を見つけた鬼役がするように、そう言って。  途端、ラセン様は、何かが抜け落ちたかのようにその場に崩れ落ちかける。  だが彼女が倒れるよりも前に、しゃん、と、金属の擦れるような音が響いて。  一瞬、ラセン様の首筋に一閃の光が走ったような気がした瞬間――そこから広がった、全てを溶かす様な光が、瞬く間に辺りを呑み込んだ。 * 「……え? あれ?」  目を開くなり飛び込んで来た光景は、ぼろぼろの社だった。  人の手など、長く入っていないだろう。確かに床には橘の葉が敷き詰められてはいるが、その全てが薄汚い茶色に変色していて、社を取り囲む橘自体は青々としているものの、手入れなどまるでされておらず、ぼさぼさに枝は伸び放題。花もぽつぽつと、まばらにしか咲いてはいなかった。  数秒前までの記憶と一致するのは、穴だらけになった地面ばかりで。  だが、むしろそれらこそが、ここであの怪物同士の戦いが繰り広げられていたという、何よりも雄弁な証人だった。  と、 「本当に、すまなかった」  いつの間にか私の隣に歩み寄っていた教授が、膝を付き、手の平を、頭を、地面にくっつけた。  俗に言う、土下座というやつだ。  ……なんて、呑気に数秒。混乱の末一周回って凪いでいた頭がたっぷりの時間を使ってその光景を眺め--現実を直視した瞬間、私は跳ねるようにして立ち上がった。 「やっ、やめてください教授! というか、えっと、その……そうだ、まず、まず謝罪よりも、説明を! 何が何だか、わからないままなんです。怒るにしても、このままじゃ何に怒ればいいのかすらわかりません」 「ああ……」  それもそうかもしれない。  そう言って、それでもしばらくの間教授は頭を下げ続け--やがて観念したかのように、顔を挙げた。  そして 「野崎 優華(ノザキ ユウカ)さん」  彼は、私の名前を呼んだ。  何故だか、すぐには反応できなかった。……途方もなく久しぶりに、名前を呼ばれた気がして。 「……カハビラコは、本来名前を呼ぶのも悍ましい存在とされてきた」  教授が続けるのは、古代日本における、カハビラコ――蝶の特性。 「だから、次のラセン様として見染められていた君は、誰にも名前を呼ばれないようになっていたんだよ」 「次の……」  何度か聞いた言葉だ。  村人たち--あの巨大昆虫たちは、私の事を、新しいラセン様だと。 「ラセン様にする事が出来る人間の条件は、若い女性。それだけだ。橘の葉を模した特別なお守りを鍵に、前任のラセン様が保存している記録を引き継がる。それを起点に村のバックアップをあの芋虫たちを介して復元し続けるのが、いわばラセン様の役割なんだ」 「お、お守りって……」 「そう、他ならぬ僕が君に渡した物だ」  地元の土産物だと。  折角だから、記念にと。  教授に出発前に渡されたのが、あの安っぽい方の橘の葉のお守りだった。 「万が一にも君がラセン様にされないよう、最初に渡した方は君を護る手段付きの偽物だった……と言っても、言い訳にしかならないだろう。君は怪我をしているし、身体以上に、心を傷付けてしまっただろうから」  すまない、と。教授は心底申し訳なさそうに、またしても頭を下げた。膝を付かれるのは、やんわりと阻止はしたのだが。 「もう少し、説明を続けて下さい。その……結局、ラセン様って、何だったんですか」 「……すまない。……そうだね。移動しながら話そう。多分、実際に見てもらった方が、早い部分もあるから」  教授に促され、社を覆う橘の林を抜ける。  霧は、すっかり晴れていて。目も、暗闇にはある程度慣れていて。何より田舎の澄んだ空気は、星空の光をよく落としていた。  なので、割合。視界の確保には困らなくて。  ……なのに、建物の類は、外に出てからというもの、ひとつも見つける事が、出来なかった。  いくら限界集落で、まばらにしか家が建っていなかったとはいえ、それでも確かに建物はあった筈だ。何度もすれ違ったし、公民館のすぐ近くの家には実際上がらせてもらったワケで。  だというのに、何も無い。  ……建物があったと思わしき場所に、ぽつん、ぽつんと。小さな祠が、置かれている以外には。  私は祠の内の1つへと駆け寄った。  開けっ放しになった扉の向こうは、敷き詰められた葉が枯れている以外は、公民館の裏手の祠とまるで同じ。  ご神体等は、何も置かれてなどいない。  何かが、抜け出したかのように。 「まさか」 「こここそが、あの芋虫たちの家だよ。……室内では、祭壇という形を取っている事が多かったみたいだけれど」  あの時も、いたんだよ。  教授の言葉に数十分前を振り返った結果、頭に思い浮かぶのは公民館の裏手の祠。 「教授が、写真は撮らない方がいいって言ったのは」 「写ってしまうから、だね」 「……教授には、見えてたんですか」 「うん」  教授はあっさりと肯定する。  ……その表情は、やはり普段からは想像もできない程、苦々しいものだったけれど。 「教授は」 「僕は、この村の出身者だ。……最も、本物の卯田将勝は、数年前に病気で亡くなっているのだけれど」 「……え?」 「「財を捨てると、財を得る」。ようするに何かを捨てると、それ以上の何かを得る。……この村の村長は、村を捨てる代わりに、村を。……自分の思い出の中にあった村を、ラセン様に、望んだのさ」  この村は10年ほど前に、既に廃村になっていたのだと教授は言う。  それ以前から住民の高齢化と過疎化が著しく進んでいた限界集落を、それでもどうにか存続させようと、当時の村長が手を出したのが村に代々祀られているラセン様の力だったのだと。 「君がさっき会ったラセン様の本当の名前は、比良手 つばさ。公的には、50年前に火事で両親共々亡くなったことになっている、僕の幼馴染だ」 「!」 「本当は、彼女だけは祖父母の家に居て、難を逃れたのだけれど。……でも、当時村は新しいラセン様を必要としていて、同時に身寄りの無い子供の面倒を看る余裕がある家庭なんて、どこにも無かった。……体の良い厄介払い。都合の良い人柱、だよ」  火事で死んでなんていない。僕はあの後彼女に会った。そんな主張に、誰も耳を貸さなかったなと、卯田教授は自嘲気味に微笑んで――歯噛みする。 「本物の卯田将勝は、幼馴染の生死を周囲に問いただした一件以来村と軋轢が生じ、県外の高校への入学を機に集落を離れたんだ。……でも、つばさちゃんの記憶の中には、彼が存在していたからね。村を再現する時に、卯田将勝もまた、この村の住人として復元された」 「復元、と、いうのは」 「先にも言った通り、ラセン様の能力はあくまで情報のバックアップ。「捨てたものを再び得る」というのは、ラセン様がものを捨てる前の情報を保存しているから、その情報を引っ張り出してきて、ものが無くなった部分に対象のデータを上書きすれば、実質元通り--というのが、まあ、ラセン様伝承のカラクリだ」  ラセン様伝承の元となった、常世神信仰。  その信仰も、富士山麓では本当に「財を得る」だけの力を持っていたのだろうと、教授は推測を口にする。  では、何故そんな奇跡にも等しい業が可能だったのかといえば、その理由は霧にある、と、彼は続けた。 「さっきまで村のそこかしこに漂っていた霧と、その中に住まう住人達は、ラセン様と、そしてラセン様が保存した情報と、理を同じくする者達でね。記録と、テクスチャ。その両方を張り付けるのに、都合が良かったんだ。……病気や年齢で。若くても、この村を出て行って。様々な理由で減って行った住民たちを、そして自分自身をも。村長はラセン様の力を使って、あたかもずっと皆が生き続けるかのように――常世の国を、創り出していた。というワケさ」 「その、霧の中の住人達、っていうのが」 「この地では、常世神。ある地域では、ケモノガミ。あるいは単純に妖怪や、付喪神とも。……でも、今は少し違うかな。文明の進歩によって、人間は我々を正しく観測する手段を手に入れた。インターネット上の、0と1の数列からなる電子の列と我々は、非常に波長が近かったんだろうね。……だから、我々の存在を知る一部の人間達は、我々をこう名付けたんだ」  電子生命体・デジタルモンスター。  略して、『デジモン』と。 「デジ、モン……ちょっと、アレみたいですね。ポケ」 「ああ野上さん。それはよしてくれ。我々も気にしているんだ」 「えっ、あっ。すみません」 「……とはいっても、こと現代においても文明と切り離された山奥にまで観測の手は回ってはいないから、この区画の住民たちにはあまり馴染みが無かったのだけれど。僕自身、山を下りるまでは、その名称は知らなかったし」  なんだか、変な気分になって来る。  ラセン様。常世神。旧い神話を語るその人は、私もよく知る教授の姿をしているのに。  その口から紡がれる台詞を聞けば聞くほど、彼が人間では無いという事実が湧いてくるばかりで。  クワガタムシの、化け物。 「……教授は、どうしてこの村を出たんですか?」 「僕に張り付けられた記録とテクスチャが、『卯田将勝』だったから、と、言う他無いかな」  曰く、ラセン様のバックアップを元に、あの芋虫(ワームモン、というのが、現代になって付けられた種族名らしい)を使って復元された卯田将勝もまた、「幼馴染の死に疑念を抱いた青年」のままだったのだと、教授は言う。 「ラセン様がこの集落全てに関する情報を保存しているとはいえ、自分の基盤になっている者だけは、再現のしようが無かったんだ。比良手つばさが名前を失ってラセン様になっているのに、比良手つばさが村に存在すると、矛盾が生じてしまう。……だから、つばさちゃんは引き続き、火事で死んだ記録以外は何も残っていない謎の少女、という扱いだったのさ」  気にする者も、いなかったのだという。  村の年寄り達は彼女がラセン様になった事を知っていたし、ただ1人の友人への振舞いを除いては、内向的でおとなしい彼女は、同世代にとってはつまらない存在だったのだと。  だけど、比良手つばさの存在を。  名前は思い出せずとも、卯田将勝だけは、覚えていた。 「つばさちゃん自身の、なけなしの抵抗だったんだと思う。助けを、求めていたんだと思う。ラセン様としての自分を終わらせて、開放して欲しがっていると。……少なくとも、僕はそう解釈した」 「……」  比良手つばさの時とは、厳密には状況が違っているだろう。  少なくとも、住民たちはまだ、全員が人間だった筈だ。  でも私の脳裏には、ワームモン達の糸で引き摺られて社に連れて行かれた時の光景が、べったりとこびりついていて。  思い返せば吐き気がして。身体が震えて。怖気が走る。  糸が人の手に変わったところで、その悍ましさは、変わるだろうか? 「つばさちゃんをラセン様から解放するには、ラセン様に外部からもう一度比良手つばさの情報を入力して彼女の自我を表層化させて。その上で、ラセン様そのものを……壊す、必要があった」  再び、教授の表情が歪む。  「ラセン様のまま壊すと、バックアップデータが暴走を起こして思わぬ事態を引き起こす可能性があったから」と、教授はそんな説明を付け加えたが、彼を苦しめた事実はラセン様の破壊その物では無いのだろう。  『開放』の意味が、2人の関係自体には無関係な筈の私にも、重くのしかかっていた。 「あまり時間は無かったんだ。コンピューターだって、年月と共に機能が劣化していくだろう。ラセン様もまた、徐々に権能に陰りが見え始めていた」  言われてみれば、村長にはその兆候がよく表れていたのかもしれない。  片言で、うわ言のように同じ言葉を繰り返していたカブトムシの怪物は、もう、当の昔に正気では無かったのだろう。 「だから僕はそれを逆手に取って、次のラセン様を探すという口実で山を下りたんだ。あの時はまだ若い姿だったから、つがいを連れてくる風を装って戻って来るのを期待されていたんだろうね。案外、すんなり外に出してもらえたよ」  山を下りた彼は、生贄となる女性を探すのでは無く、本物の卯田将勝の元に向かったのだそうだ。 「ラセン様に入力する情報には、彼女が再現した僕の中にあるデータじゃ無くて、本物の卯田将勝の中にある、文字通り血肉の通ったつばさちゃんの記憶データが必要だった。拒否するなら、脅してでも。最悪殺して脳だけにしてでも、記憶データを回収するつもりだった。なのに」  ここで、卯田教授は  卯田教授というよりも、彼の皮を被ったクワガタムシの化け物として、とでも言いたくなる表情で、深々と、溜め息を吐くのだった。 「あいつ、親戚を装って病室に乗り込んだ僕に対して、何て言ったと思う?」  そう、振られて。  私は慌てて今日の出来事の向こう側。  大学での、卯田教授の記憶を掘り返して 「まさか」  真っ先に浮かんで来たのが、研究室で柔和に微笑む卯田教授の、その行動だった。 「「チョコ要る?」じゃ、無いですよね?」  クワガタムシの化け物は、返事の代わりに、もう一度大きく、息を吐いた。 「民俗学というアプローチを通じて、卯田将勝は既に答えに辿り着いていたんだ。幼馴染の末路。村の行く末。つばさちゃんを開放するための手段。……それを実行できない自分の代わりが、いずれ自分の下に、やって来ることも」  それを菓子を食べながら談笑する形で聞かされるとは思わなかったからひどく面食らったと、若干不服そうに、彼は言う。  なんというか、反発から村を出たというエピソードも含めて、卯田教授はどうやら、若い頃は結構反骨精神に溢れていたっぽい……感じがする。 「カルテの改竄。テクスチャの変更と強化。村を出た後の卯田将勝の記憶データのインストール。……卯田将勝の友人の手なんかも借りたけど、専門じゃ無いのに我ながらよくやったよ。……ま、そうやって心身ともに卯田将勝という人間のデータを取得していなければ、僕はきっと、村の他の連中よりもよほどひどい、自我の無い怪物になっていただろうけど」 「そう、なんですか?」 「ワームモンから進化したあのクワガタ……クワガーモンというデジモンは、本来とても凶暴なデジモンでね」  進化、というのはよくわからないが、思えば社に居た村人--ワームモン達も、土の巨人ゴーレモンと対峙した時に、生き残った者は姿を変えていた。  そして彼らの、姿以上に、行動に。人間性を感じられなかったことは、よく覚えている。  教授がその、クワガーモンとやらにならなかったとしても、卯田将勝にならなければ、結果は同じだったんじゃないだろうか。 「……僕は、この世に橘の実や葉、樹液より甘くて美味しいものがあるなんて、別に知りたくなかったんだけどな」  でも、本物の人間性を得た事が、教授--クワガーモンにとって幸せだったのかは、私にはわからない。  ……正しく祀られる事の無くなったカミの行く末、か。  と、私の視線に気付いたらしい教授が、力無く首を横に振る。 「君は、僕に同情するべきではないよ。僕は君を利用し、危険に巻き込んだ。ここに連れてくるために何度も嘘を吐いたし……記憶データの接続にしたってそうだ。前日につばさちゃんから送られてきたお守りには、先に述べた卯田将勝の持つ比良手つばさの記録データを事前に登録していたけれど、何か一つ手違いがあれば、あのお守りを介して、君はラセン様にされかねなかった」 「……」 「本当に、すまなかった。……もちろん、謝って、許される事では無いだろう。出来得る限りの、責任は取ろう」 「責任?」  卯田教授はとんとん、と、指先で自分の胸の中心を叩いた。  怪物であっても、そこを貫かれればただでは済まない、弱点があると思われる位置だ。 「僕は、僕自身を消滅させるべきだろう。もちろん、君を無事に家に送り届けてから、今回のフィールドワークを共にしたから、という理由で君に疑惑の目が向かないようなタイミングまでは、待ってもらう事になると思うけれど」 「……」 「必要であれば、賠償金? と、いうのかな。兎に角、金銭も出来る限りは、用意しよう。幸い卯田将勝は、仕事だけじゃ無く貯金も遺してくれていたから。多少の融通は、利くと思う」 「……」 「だから」  教授の提案を、一先ず黙って聞いていた、その時だった。  突然教授が言葉を区切ったかと思うと、彼はばっと、勢いよく振り返る。  何事かと思ったが、それから一拍程遅れて、夜に慣れた目に、ようやく教授が反応したと思わしき影が映り込んだ。  その影は、人に近い形をしていたけれど、  身体のパーツは、虫のもので構成されていた。 「ま、待ってください」  構えた腕に、一瞬朱色の光沢を帯びた卯田教授を、慌てて制止する。  あんな事があった後だ。警戒するべきに違いないのだが。  だが――敵意を、感じられなかったのだ。目の前の、人型の昆虫とでも呼ぶべきデジモンから。  そのデジモンは、私の制止を受け入れた教授に礼儀正しく一礼したかと思うと、数歩、こちらに歩み寄って、すっと右の手を差し出した。  その黒い甲殻の手の平には、見慣れた、小さな電子機器が乗っていて。  思わず隠しポケットを始めとした全身を確認したが、やはり、該当する機器は、所持していないらしくて。 「落とし物」  聞き覚えのある、若い男性の声で。  そのデジモンは、私のスマートフォンを指して、そう告げた。  私は前に出て、ワームモン達に捕まった時に落としたらしいスマホを受け取る。  指代わりに5本伸びた鋭い爪で、私を傷付ける可能性を慮ったのか。人型の昆虫デジモンは、私がスマホを回収するなり、さっと腕を引っ込めた。  彼はそのまま、くるりとこちらに、背中を向ける。 「! 待って、あーちゃ」 「俺は、スティングモン。だから、ごめん。人違いだよ」  透明な4枚の羽が、ピンと伸びる。 「でも、最初で最後に、ゆかちゃんに会えて、良かった」  元気でね。  初めて会った、そのデジモンは。  久々に出会った友人に、最後の別れを告げるようにして。  そう言い残して、飛び立った。  ……向こうの山肌に、うっすらと、靄がかかっているのが見える。  ラセン様が消えたとしても、霧はこの地域に残る怪異のひとつだと教授は言っていた。  彼の帰る場所は、そこにこそ、あるのだろう。 「……教授。私の、幼馴染は」  スマホを胸元で、ぎゅっと握り締める。  濡らしてしまいそうだったからだ。頬から、零れてきた水で。 「火事で、死んじゃったんです。本当に。死んじゃったんですね」 「……今の、スティングモンは」 「もう何年も会ってないし、連絡も取って無かったのに。名前も――忘れて、いたのに。都合のいい話ですよね。……会えて、嬉しかったんです」  今度は、教授が口を噤む番だった。  私は目元を拭う。  新しい涙は恐怖で流した時のものの上を軽く引っ掻いているかのようで、ほんの少しだけ、ひりひりと、痛かった。 「その「嬉しかった」っていう気持ちは、今も、変わりません。だって、今日ここで会えなかったら、私、もう二度と、幼馴染――南雲 明(ミナグモ アキラ)が。……あーちゃんが、「生きていた」って事実さえ、思い出せなかったでしょうから」  都合の良いIFでしかないのは、自分が一番、よく解っている。  彼が復元されたのは、私をスムーズにラセン様の元に誘導するための手段でしか無かった事も。  でも、ラセン様の能力はあくまで「バックアップ」だと言うのならば、並んで歩いて笑って喋った南雲 明は、目的のために歪められた偽物では無く、限りなく本物に近い再現だった筈だ。  もしも、私達が  どこかで、再び出会っていたら。  お互いに懐かしい名前で呼び合って、お互いの知らないお互いの話で笑い合う。そんな未来も、あったのだ。  私は、今日。  失われた未来と、出会えたのだ。 「そういう意味では、連れてきてくださった事、感謝しているんです。……本当に恐ろしい体験でしたし、教授の印象に「嘘吐き」が追加された、っていうのは否めないんですけれども。……でも、教授。遠回しにでしたけど、私の事帰らせようとしたり、一応、最悪の事態にはならないように、手回しはしてくれてたでしょう? ……幼馴染さんの事、優先してもよかった筈なのに」  それは、と言いつつ、教授が口ごもる。  というか、そもそも。ラセン様が定期的に交代しなければ持たない存在だと言うのなら、いっそ私を生贄にしてしまっても、比良手つばさの開放は成立したのではないかと思わなくはない。  ……「同じ苦しみを味合わせたくなかった」と、誰かが考えたのだとしたら。それは比良手つばさ自身だったのか、本物の卯田将勝教授だったのか。……あるいは。 「だから、教授に責任を取って欲しいだとか、そんな事は、言わない事にします。……というか、卯田教授が居なくなったら、困るんですよ。単位、欲しいんです、私。……私だけじゃなくて、教授の教え子、全員。私の一任で、皆から留年回避のチャンスを奪ったりとか、出来ないんで」  責任、と言うのなら。  生きて、退職するまで、ゆるい基準で単位と卒論の合格判定を学生に配って下さい。  そう、ぎこちないなりに笑顔を浮かべて、締めくくる事にした。  本音の全てでは無いけれど――紛う事無き本心なのも、事実ではあったから。  教授は、それでもしばらく、黙りこくって。  しかし視線を逸らさない私に、本気だと悟って、ようやく観念したのだろう。 「困った事だ。卯田将勝は、難儀な性質をしている」  こんな奴に、成るんじゃ無かった。  クワガーモンは、改めてそう言って肩を落として――次に顔を上げた時には、彼は卯田教授の顔をしていた。 「怪我の治療費と衣服の弁償費用は、払わせてくれ。それと麓に降りたら、夕食を奢るよ。……そのくらいは、せめて口止め料としてでも、受け取っておくれ」 「じゃあ、お言葉に甘えて。……回らないお寿司の気分ですかね、私」 「……所持金を確認させてほしい。流石に無い袖は触れないから」 「冗談ですよ、ファミレスがいいです。その方が気楽ですし。……っと」  袖、という単語で、思い出す。  村の景色が失われても、ラセン様の翅を模した浴衣はそのままだった。  あちこち擦り切れて、穴も開いて、みすぼらしくなってしまっているけれど。  ただ、何かの拍子で、袖を縛っていた紐が両方とも、千切れてしまったようだ。  私は帯を外して、簡易浴衣の上下を脱いだ。  どうせ、返すところも無い。  なんとなしに、私はそのまま、夜空へと浴衣を、投げ捨てる。  すると突然、びゅう、と一陣。強い風が吹いて。  浴衣をさらって、舞い上げた。  月明りの下で、着物の袖が、ふんわりと広がる。  蛹を脱いだ蝶が、巻いて畳んだ翅を伸ばすように。  螺旋の蝶は、飛び立った。 *  こうして、ラセン様を巡る奇妙な物語は幕を下ろした。  ……かのカミに関して、私はもし余裕があれば、民俗学のレポートの題材にしたいと、そういう思惑も抱えてはいたのだが。  だが当然、ありのままの事実を書くわけにはいかない訳で。  事実は小説より奇なりとは言うけれど、レポートは事実でも奇をてらうと怒られる。  何より教授には口止め料として食後のパフェまで付けてもらったので、公言はしないという契約は既に成立済み。……故に、ラセン様の真実は、私の胸の内だけに留めておくと、心に決めている。  だから、今書いているメールは、ラセン様について卯田教授に尋ねるためのものではない。  だが全く無関係とも言いきれない。この困惑を解消してくれる人間--いや、人間じゃないのだけれど――人物は、卯田教授以外に、いないのだから。  帰宅して。  一夜明けて。  公民館から回収した荷物(公民館だけは、比較的造られたのが新しいからとか何とかで、まともに形が残っていた。もちろん、廃墟は廃墟だったのだけれど……)を整理しなければ、と、鞄を開くなり、零れ落ちてきたのだ。砂が。  砂。  砂である。  それだけなら、まだ、廃墟に1日置いておいたことを理由に、片付けられた可能性はあるのだが。  ……その砂の奥から黄色い目玉と緑のおしゃぶりが生えてきた上に動き出したら、驚くなと言う方が無理な話だろう。  その後も我が物顔で部屋の中を這いまわる、この生き物(?)の正体が何なのか。教授に問いただす必要があったのだ。 「……」  とはいえ、見当がついていないわけじゃない。  随分とさらさらになってしまったが、砂の黄土色にも、おしゃぶりのやすっぽい緑色の光沢にも、見覚えがあったから。  帰りの車の中で、教授が教えてくれた。  私の護衛として、偽のお守りを起点に周囲の地面を吸収して生み出せるようにしていた、とあるデジモンの話を。  それは本来、本物の卯田将勝が、自分が村民に戦いを挑む事になった際に備えて用意していた、人工デジモンであったという話を。  クワガーモンはそのデジモンの力を借りる(教授は『ジョグレス』と言っていた)事によって、格上だった村長に並ぶ能力を持つデジモンに進化していたのだ、という話を。  本物の卯田将勝が蒐集したとある地域の伝承を再現する形で生み出されたデジモンは、一時的に構成されたものであるから、村の土へと還ったのだと、卯田教授は言っていた。  出来れば、直接助けてくれたあのデジモンには、お礼を言いたかったのだけれど、と。ちょっとした心残りになってしまっていたのだが。 「……あの時は、ありがとうね」  私の予感が正しければ、一応、その悩みは、解消されたと言ってもいいのだろう。  最も、砂の塊の生命体は、まるで首を傾げるみたいに、砂山をやや斜めに崩す様な形になりつつ、おしゃぶりを上下に動かしていたのだが。 *  結論から言えば、ラセン様の伝承に関する騒動は、私がデジモンと関わる『最初の事件』でしか無かった。  ただ、どれもこれも、愉快な事ばかりとはいかないけれど、けして不快な思い出では無い。  続きとなる物語については――機会があれば、また、いずれ。  『螺旋の蝶』 Fin
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快晴
2022年9月22日
In デジモン創作サロン
「オレ様、マ○ラタウン(ばりのクソ田舎)の蛇苺! こっちは手下のブギーモンフェレ」 「ブッブギギー」  その女性の姿をしたデジモンは、汚物系デジモンの投げたウンチを見る時のような――ひょっとすると、それ以下、あるいは未満のモノに向けるような一瞥をオレ様達にくれ、その後は再び、手元の本へと視線を落とした。 「兄貴、兄貴」  ブギーモンは別に自分の名称に使われている文字以外では喋れない訳では無いので、いたって普通に、ただし声を潜めてオレ様の耳元に囁きかける。  いわゆる悪魔の囁きなのだが、オレ様も悪魔なのでただの内輪話だ。 「どうするんスか兄貴。完全にファーストコンタクト失敗じゃないッスか」 「オレ様だってヤメときゃ良かったって思ってるフェレよ。どうして誰も思い付いた時に、具体的に言うと昨日の飲み会の時に止めてくれなかったフェレか」 「みんな酔ってたんスよ。オレ達デジモンなのにその手のネタで攻める兄貴の漢気に、みんなが酔ってたッス」 「へへっ、よせやい、照れるフェレ……じゃなくて」  部下に恵まれたのか恵まれてないのかイマイチわからない自らの境遇に、こんな時どんな顔をすればいいのかわからなくなっていたオレ様だったが、手下は笑ってやり過ごしてくれても肝心のしばらく長期の任務を共にする同僚の態度はクールを通り越して『デジモンゴーストゲーム』第17話仕様。本家は比較的感情が豊かという話だが、目の前の彼女は前髪に若干の類似性が見出せなくはない程度の綾○系だからか。その表情はテンプレじみた『無』を貫き通していた。  とはいえ、過ぎてしまったものは仕方が無い。オレ様は切り替えの早いフェレスモンだった。  「第一印象が最悪」という事は、逆を言えば、それ以上印象が悪くなる事は無い、という意味でもある。  どうせ時間は有るので、好感度は徐々に上げていけばいい。ステップアップのためのハードルが低い所から始められると思えば、「自己紹介でサムいギャグかまして滑ったイタいフェレスモン」からオレ様の伝説が幕を上げるというのもけして悪くは無い。  ご機嫌麗しゅう我が同士。オレ様は「自己紹介でサムいギャグかまして見事に滑ったイタいフェレスモン」こと蛇苺だ。「自己紹介でサムいギャグかまして見事に滑ったイタいフェレスモン」の蛇苺をよろしくな。  ……わりぃ、やっぱつれぇわ。 「……まあ、用は済んだから持ち場に戻っていいフェレよブギーモン」 「ウッス。じゃ、兄貴も頑張ってくだせぇ」 「うい……」  「自己紹介でサムいギャグかまして見事に滑ったイタいフェレスモン」に巻き込みで事故をもらったブギーモンは、だというのに嫌な顔一つせず、言われた通り、警備のために『城』の方へと戻って行く。  やはりオレ様には過ぎた配下だ。  別にオレ様自身気苦労が増えるだけの出世などしたくはなかったのだが、こればっかりは、進化してしまった以上は仕方の無い事だった。  いくら宮仕えの身とはいえ、過酷なダークエリアにおいて完全体というのは、それだけで、割合貴重なので。  ブギーモンのプリケツが見えなくなるまで見送って、今度こそ他にする事も無くなってしまったオレ様は、意を決して再び女性の姿をしたデジモンの方へと向き直る。  白い長髪に、橙色の瞳。タイトな赤いドレス。多少色白が過ぎるが、それでもレディーデビモン程では無い。  本来なら帽子とサングラス、それから靴と手袋が、この種族が人間に化けている時はお得なセットとして付いてくるらしいのだがそれらは見当たらない。代わりに、と言うのもおかしな話ではあるが、左の足首が、地面に打ち込まれた杭に鉄の足枷と鎖で繋がれていた。  彼女は、アルケニモン。  『畑』を管理するためにこの領地の宰相・ワイズモンに囚われ、ここに拘束されているらしかった。 「改めて、オレ様はフェレスモンの蛇苺。『畑』の警備のために『城』からこんな土臭いところに派遣されてきたフェレ。可哀想な身分同士、仲良くやるフェレよ」  アルケニモンは、もはやこちらに視線を向ける事すらしなかった。 「……ふっ、おもしれー女フェレ」  視線はくれなかったが、オレ様がそう呟くなり、彼女は足元の鎖を少しでも俺から遠退けるかのように自分の元に手繰り寄せた。  ようするに、セカンドアプローチも失敗、という事らしい。  見誤っていた、アルケニモンからオレ様への好感度には、まだ底があったようだ。  前途多難である。  先にも記述した通り、これは長期の任務。しかも終了期間未定の、だ。  この『畑』の作物--『暗黒の花』の栽培が終わるまでは、基本的にオレ様、アルケニモンと、2体っきりらしい。  まあ、まだ落ちる程アルケニモンからオレ様への嫌悪感が根深いと言うのなら、逆を言えばポジティブな変化への伸びしろは大きいという事だ。  気長に頑張ろう。  ワイズモンは「危険な任務」だとのたまっていたが、こんなダークエリアのクソ辺境の花畑(予定地)、腹をすかせたボアモンの類だろうがそうそう荒らしにはやって来るまい。  ようは、どうせ、暇だから。  どうしてもダメそうなら、今、そうしているアルケニモンを倣って、後日ブギーモンに自宅から愛読書を運んできてもらうのもいいかもしれない。  ……等々考えながら。オレ様はダークエリアの空を見上げて、渦巻く黒雲の向こうに多分無いラ○ュタに思いを馳せたり馳せなかったりするのだった。  少なくともこの時は、オレ様、随分とのんきに構えていたのである。 *  辞令は突然に。  突然ワイズモンに王の間へと呼び出されて、「オレ様またなんかやっちゃいましたフェレか」とおっかなびっくり顔を出したオレ様に言い渡されたのが、先の『暗黒の花畑』の警護の任務だった。  比較的最近別世界『ウィッチェルニー』出身という設定が『デジモンプロファイル』に記載されて「その設定前からあったっけ」と界隈を騒然とさせたワイズモンは、その、なんか別世界とか時間とか空間も好きなように行き来できる力(※これは前からある設定だぞ)とかしこい頭を駆使して、とてもすごい闇の力を秘めたアイテム--『暗黒の種』を入手・複製に成功したのだそうだ。  『暗黒の種』がどんなアイテムなのかは、各自『デジモンアドベンチャー02』あたりを視聴してくれ。  オレ様も復習しようと思ってア○プラで開いたら、ページトップの全体用サムネが何故かアグモンと細目状態の太一でとても微妙な気持ちになってしまったのでみんなにも同じ気持ちを味わってほしい。  閑話休題。  で、この『暗黒の種』。成長すると、彼岸花という花に似た『暗黒の花』を咲かせるのだが、それが滅茶苦茶闇属性デジモンのパワーアップに有効なのだそうで。  我らが王に捧げる供物として栽培するために、急きょ畑と育成者を用意した。  万が一にも奪われると困るので完全体の警備員も立てたい。いざとなったらすぐに部下も動員できるオマエが行け。  ……と、いうのがワイズモンの主張だった。  人事部っていつもそうフェレね中間管理職の事何だと思ってるのフェレか。と一応訴えてはみたものの、アンデッドがあふれた世界でオレ様は普通に襲われる立場。ついでに言うと我らが王は襲う側の筆頭で、ワイズモンが抑えていない限りは部下だろうと見境なしである。  結局、我らが王の腕の一振りで脅されたオレ様に拒否権は無く、直属の配下であるブギーモン達とささやかな宴会を開いたその翌日、領地の端にある、RPGの類だったら絶対『迷いの森』等名付けられていそうな暗い森の中の『暗黒の花』畑予定地へと飛ばされたのであった。  まあ、普通にそんな迷うような土地でも無いし  ついでに言うと、うちの領土はそんなに広く無いので、『城』に帰ろうと思ったら飛行で半日もかからないのだが。  ……通勤でも良かったんじゃないかなぁ。 * 「と、オレ様がここの警護についたのはそういう経緯フェレ」 「ああそう」  勤務3日目。  その相槌がアルケニモンの口から発せられたものだと気付くのに、たっぷり数秒。  理解した瞬間、オレ様は思いっきり腰を抜かした。  多分、オレ様達フェレスモン種の必殺技『デーモンズシャウト』を喰らった相手っていうのは、こんな感じの気分になるのだろう。  何せアルケニモンはこの間、暇を持て余して一方的にしゃべりかけるオレ様にあんまりにもあんまりなくらい無反応を貫いており(厳密には近寄るなオーラは常々出していたし、オレ様が顔を近づければ反対の方向に目を逸らしたりはしていたが)、オレ様の方もオレ様の方で、コイツ、ひょっとして口が利けないんじゃないかとか、フェレスモンのもう一つの必殺技『ブラックスタチュー』って、石化技じゃ無くて未来道具でいうところの『石ころぼうし』みたいな効果でそれが暴発したんじゃないかと疑い始めていたところだったのだ。  それが、喋った。  なんという事だろう。たった4文字ではあるが、0からの4文字である。無から有を作り出したと言っても過言では無い、とんでもない快挙である。  この瞬間、宇宙が爆誕した。 「……喋って欲しくないなら、一生黙ってる」 「アッちょっと待って。ごめん、ごめんフェレ。オレ様が悪かった」  宇宙猫ならぬ宇宙悪魔……いや、この表現はなんかマズいな。なんとなくマズい。コズミックホラーチックでよろしくないのと、オレ様、元ネタを同じくする宇宙人がいるのでややこしいのだ。  兎も角、そういった類の表情を浮かべて固まっていたらしいオレ様に、ぱたんと読んでいた本を閉じたアルケニモンが、一言。  ひっくり返っているオレ様から、死にかけのゴキモンあたりを連想しているのかもしれない。こちらに寄越した視線はきっと、遠い業界ではご褒美なのだろう。  とはいえオレ様が望んだのは強いプレイでの応えではないし、そういう意味で痛みを知るただ1人にはなりたくないので慌てて礼ではなく謝罪を繰り返してみたところ、ふぅ、と、何もかもを諦めたような一息を、アルケニモンは吐き出した。 「しつこかったし。面倒だけど、こっちの対応をワイズモンに言いつけられて、これ以上待遇が悪くなるのも、嫌だから。それにしつこかったし」 「重要なポイントなんだろうけど2回も言わないでフェレくれ」 「本当にしつこかったから。……質問があるなら答えるから、気が済んだら、静かにして」  人(デジモン)の嫌がる事を繰り返すだなんて、この女、よほどのサディストである。オレ様よか悪魔だこの蜘蛛女。  とはいえこのまま台詞を忘れた俳優のように固まって、クールごとのNG大賞にノミネートされるでもなくアルケニモンと永久に口を利く機会を失ってしまってはたまったものではない。  誰かがそこに居るのに無言、という空間は中々に堪える。  そうでなくても、ここでの任務。思った以上に、暇なのだ。  オレ様、饒舌な悪魔なので、そろそろ口寂しかったのである。 「とりあえず自己紹介するフェレ。呼び名も解らんようでは有事の際とオレ様が暇な時に困るフェレからね」 「基本的にしゃべりかけないんでほしいんだけど」  はぁ、と今度は心底嫌そうに大きなため息をついて、しかし自分から持ち掛けた提案に応える程度の律義さはあるのだろう。  目を合わそうとはせずに、アルケニモンは続けた。 「アルケニモン。完全体魔獣型。……ワイズモンから聞いてるでしょ、そのくらい」 「そのくらいオレ様だって知識として知ってるフェレ。ただ個体名があったら把握しておくのが筋フェレし……そもそもオレ様、キサマの仕事が何なのか、まずそこから知らないフェレのだが?」 「……」  別に、と。  しばしの沈黙を挟んで、吐き捨てるようにアルケニモンは言う。 「私は、ここに繋がれているのが仕事なの。ここにずっと繋がれて、気の滅入る本ばかり読んで、ずーっと嫌な気持ちでいるのが仕事。……もう、どこにも行けないの」 「フェレェ? 何フェレか、キサマ。好きなキャラに勝手にあてがうキャラソンにいつも米津○帥の曲とか使うタイプフェレか?」 「は?」 「いや、わかるフェレ。気持ちは痛い程わかるフェレ。オタクを概念で殴り殺す曲ばっかり書いてるフェレもんな、彼。でもデスクワークの辛さまで代弁させるのはちょっとどうかと思うフェレ。ようするに、キサマの仕事は『暗黒の種』の成長記録係フェレね?」 「……バッカみたい」  低めた声で罵倒されて。  それっきり、アルケニモンはこちらから顔を逸らした。  後は元の木阿弥である。いや、さっきより酷い。完全無視。  気を引こうとして目の前でソーラン節とか踊ったりしてみたがまるで効果が無かった。アルケニモンのオレンジ色の瞳は本の文字だけを追い続け、ついぞ就寝時間までこちらを顧みる事は無かったのである。  こうして宇宙は滅んだ。 *  と、思ったのだが、再び話をするチャンスは、想定よりも早く。  次の日の昼下がりに、思わぬ--そしてあまり願わぬ形で訪れた。 「イービイビイビイビ! ここが魔獣王の畑イビね!?」  勤務4日目。  どこからともなく。わかりやすく描写すると『無印』52話みたいな感じで湧き出てきたイビルモンの群れが、畑の上空を覆ったのだ。  オレ様は戦慄する。先鋒を務めるイビルモンの口調がオレ様と丸かぶりだったからだ。 「……友達?」  加えて眉をひそめたアルケニモンのいぶかしげな視線までもが突き刺さる。  こんな時でなければ新たな宇宙の誕生を寿いだりしたかったのだが、会話のきっかけになるとしてもアレとねんごろな仲だと思われるのは心外が過ぎる。 「オレ様にあんな品の無い顔のフレンズは居ないフェレ。マコトくんに謝るフェレ」 「誰だよ」 「マコトくんは親が転勤族故転校をくりかえしていた孤独な卓球少年フェレ。まあ別にオレ様の友達じゃないフェレけど、同族のよしみで紹介しておくフェレ。詳しくは『デジモンクロスウォーズ』第3期の」 「お前に友達がいないことは解ったから、後にしてくれる?」  それに顔面の品の無さは似たり寄ったりよ、と付け加えられたような気がしたけれど聞かなかったことにした。正確に言うとその手前の部分もすごく刺さったけど、たとえ胸の傷が痛んでも夢を忘れず涙を零さずにいれば愛と勇気は友達なので、オレ様はその場から飛び立った。  まあ、実際。  先にどうにかした方が良いのは、事実だった訳で。  畑を背に、イビルモン達の前に躍り出る。 「我が名は蛇苺! クソ田舎の果てよりこの地に来たフェレ! そなたたちはダークエリアの源とかいうよくわからん設定を持つ、古い小悪魔型フェレか!?」 「キャラ被りは帰れイビ! イビ達はそこにある暗黒の種に用があるのイビ! それさえあれば、大悪魔型への進化も夢じゃないのイビ! 完全体だからって、この数に敵うと思うなイビよ、大人しく種を」 「『デーモンズシャウト』!」  キャラ被りイビルモンが喋っている内に、背景と化していたイビルモンズにオレ様のシャウトを浴びせる。  途端、攻撃を喰らったイビルモンズは残らずぐるりと目玉を回し、手近な相手--もちろん、同胞であるイビルモン達だ――に攻撃を仕掛け始める。 「イビ!?」  「初手で混乱かけてまともに行動させない」。闇に連なる者の基本戦術だ。千○繁御大ボイスのマタドゥルモンもそうだそうだと言っています。  オレ様はすかさず技にかかっていないという意味では混乱していない、しかし状況にはしっかり混乱しているイビルモンに、片っ端から攻撃を仕掛ける。殴る蹴る、三又槍で突く。  本気でやる必要は無い。イビルモンは、ただでさえ正面からの戦闘は避けたがるタイプのデジモンだ。まともな連携も取れない状態で格上の相手など続ける筈も無い。  1体、また1体。と。あっという間に、蜘蛛の子を散らすように。イビルモン達は散り散りに逃げ去っていく。 「ちょ、お、オマエら!? 待つイビ、暗黒の種さえ手に入ればこんなヤツ――」 「ひとつ教えておいてやるフェレよ」  それでもなお仲間を引き留めようとするイビ野郎を、ひとまず首謀者と判断。  後ろから頭を掴んで、こちらを向かせる。 「イ--」 「大悪魔型どころか、デジモンには小悪魔型以外の『悪魔型』は現在存在しないフェレ」  イビルモンのただでさえデカい目玉が驚愕に見開かれる。  悪魔っぽいデジモンは主に、オレ様のような堕天使型に分類される。完全体で例外と言えば、ぱっと思い付くのは、アンデッド型のスカルサタモン、水棲獣人型のマリンデビモン等だろうか。  つまり『02』のデーモンの配下には、見た目は文句なしに悪魔だけれど分類は違う3種が揃っていたのだ。魔王の人望の厚さが成せる業と言えよう。  ちなみに『天使型』には大天使型も小天使型もいる上、もっと細かい分類まであるぞ! テストに出るから気を付けろよな。 「脳みそはそのままにしておいてやるフェレから――一から勉強し直すフェレ! 『ブラックスタチュー』!!」 「イビー!!??」  驚きの表情をそのままに、イビルモンが石化する。  後でブギーモンに取りに来てもらって、城で「『よくわかるデジモンの分類』的なCD教材を耳元で鬼リピし続ける」的な拷問にでもかけておくよう言っておこう。  畑の柵の向こうにイビルモン石を投げ捨てて、俺はアルケニモンの元へと舞い戻った。  アルケニモンは何事もなかったかのように、手元の本に視線を落としている。 「あのフェレな~」  蜘蛛の子を散らす、という表現が脳裏を過った時に思い出したが、アルケニモンにはドクグモンだかコドクグモンだかを使役する必殺技があった筈だ。  本人は鎖で繋がれているから、百歩譲って加勢しないのは仕方ないにせよ-- 「ちょっとは手伝ってくれてもよかったフェレしょ。今回はたまたまパニックバリアDXとか積んでないやつばっかりだったからよかったフェレけど、『デーモンズシャウト』だって混乱確定技じゃ無いのフェレよ?」 「……本当に、ワイズモンから何も聞いてないの?」 「フェ?」 「……ずっと、バカにしてるのかと思ったけど。その反応を見るに、お前がバカなだけなのね」 「レ!?」  ふぅ、とまた呆れたように息を吐いて、今回は比較的素直に、アルケニモンは顔を上げる。  瞳には若干の憤りが混じっていたが、それより何より、諦めの感情が色濃くて。 「私、ワイズモンの魔術で姿を……なんなら力も、人間のものに固定されてるの。もちろんドクグモン達も取り上げられた。少しくらいなら糸は出せるけど、それだけ」 「はぁ? なんでフェレ」  ワイズモンは頭の良いデジモンだ。ウチの場合は王がアホ過ぎるだけだが、この領地を実質牛耳り、周辺の諸侯を相手取れる程度には、ワイズモンはうまく立ち回っている。  そんな奴が、わざわざ完全体の戦力を不完全にして手元に置く意図がわからない。アルケニモンが反骨精神溢れる女傑だとしても、奴ならどうとでもしそうなのだが。 「『暗黒の花』の開花条件は? それも聞いてないの?」 「……あ」  実を言うと聞いてはいないのだが、『02』の知識はあるので、言われてみれば。思い当たる節がようやく見つかった。  『暗黒の花』は「人間の」負の感情を糧に育つ花だ。  とはいえ現在のデジタルワールドは、デジモン・人間双方の世界間の渡航を厳しく制限している。一部の選ばれし子供やそのパートナー、管理システム『イグドラシル』の端末と、あとは空間を自由に行き来する能力持ちのデジモン以外は、おいそれとリアルワールドに行ったり来たりなどできないのだ。  ちゃんと数週間前から管理局に書類を提出して、引っ掛け問題まみれのテストをクリアすれば行けない事も無いのだが、「『暗黒の花』を育てたいので人間さらってきます!」なんて横行が、そもそも許される筈も無く。  そうとなったら、その頭脳を駆使して代替案を用意するのがワイズモンというデジモンだ。  ははーん、だいぶ読めてきたぞ。アルケニモンってデジモンは―― 「……迷惑な話。最初の『アルケニモン』が人間のデータを持ってたとか何とかで、人間とは縁もゆかりも無い私みたいなアルケニモンにも、類似のデータが混ざってるんだとさ」  --他ならぬ人間の代替品、という訳だ。 「だから言ったでしょう。私の仕事は、ずーっと嫌な気持ちでここに繋がれている事。……そうしたら、その内『暗黒の花』が花開くんだと」 「そういや、昨日は「気が滅入る本」云々言ってたフェレね。……何の本読まされてるのフェレか」 「ワイズモン曰く、『大手ライトノベル新人賞の第一次選考落選作品の問題点だけを学習したAIに書かせた超大作学園ファンタジー』らしいわ」 「……」 「この章、文の締めの文字が全部「た」で終わりそうよ」  つらい。  つらすぎる。  クソ田舎領宰相の卑劣な策だ。ひとのこころとか無いんか。いや、ひとのこここが無いのはデジモンだから当たり前かもしれんが、青く若い人の子の夢と情熱を「気が滅入る」ポイントに使うのは、アルケニモン以前に全国のワナビー・ザ・ビッゲスト・ドリーマーにも失礼だ。やめてくれワイズモン、その術はオレ様にも効く。 「ちなみに今ヒロインが花の嵐にさらわれていったところ」 「キサマ……消えたのフェレか」  噂を聞くに、新人賞だと無茶苦茶多いそうだな、その〆。  いやまあ、それはさておき。 「とりあえず事情は分かったフェレ。こっちはワイズモンに、キサマの仕事は畑の管理としか聞いてなかったのフェレよ。悪気があって聞いた訳じゃ無いとは弁明しておくフェレ」 「……別に。心底ウザいと思ってただけで、存在そのものを気にしてないから」 「世間じゃそれを気にしてると言うフェレし、せめて存在は認識しておいてほしいフェレ」 「必要無いでしょう。私を嫌な気分にさせ続けたいなら、それをお前の仕事だと私も割り切るけれど、そのつもりも無いなら話しかけないで。気が散るから」 「フェレ~。カタいコト言うなフェレ、長期の任務フェレよ? オレ様が暇だから喋ろうぜアルケニモン」 「……私は、お前の任務も少しでも短くしてやるために言っているのだけれど」  また、深く息を吐いて、飽きれた双眸をアルケニモンはこちらに向ける。 「まあいいわ。じゃあ、こうしましょう」 「ん?」 「さっきみたいに、お前がこの畑を襲撃する輩を追い払ったら、戦闘の手段を持たない私はその礼として、お前と会話してあげる」  ええー、と、思わず声が漏れた。 「それってほぼほぼ「喋らない」宣言じゃないフェレか。さっきのイビルモン達は芋々しさからして周辺住民だろうフェレけど、基本こんなクソ田舎の辺境の畑、そうそう襲撃されないフェレよ」  と、ここで。  ほんの僅かに、アルケニモンが唇を弓なりに歪めた。  とは言っても、どちらかといえば疲労感を感じざるを得ないような、嘆息のついでのような笑みだったが。 「どうかしらね」  そして結局、それがアルケニモン本日最後の台詞となった。  後はいつもの通り、何を言っても、何をやってもだんまりである。ためしに目の前で幻のラジオ体操第3とかやってはみたが、イビルモン相手に多少は動いたオレ様の身体のクールダウンになっただけだった。  ……だが。それから数日というもの。  オレ様は、アルケニモンの言葉が沈黙の宣言であれば良かったのにと、遺憾ながら思い知らされる事となる。  以下、ダイジェストでお送りしよう。 * 「ヒャハハハハハ! ボクはデジモンの顔が苦痛に歪む姿を見るのが三度の飯よりも大好きなサイコパスジョーカーモンだよぉサイスぺろぺろ! 真っ赤な鮮血の紅い花を咲かせたくなかったら、†暗黒†の種をボクに」 「「真っ赤」か「紅い」のどっちかにするフェレ『ブラックスタチュー』!」 「ぎゃー!?」 「その手の登場人物は、この本の中だけの存在でいてほしかったわね。……赤い花、ねえ。私も、成熟期の頃は似たよなものだったわ。レッドベジーモンだったの、私」 * 「オラオラオラ! 誰の断りを得て畑なんか造りやがったんだオラオラ! こんなところに段々の畝があったら気持ちよくパラリラできねえだろうがオラオラ! 今すぐ真っ平らにして」 「田舎のヤンキーがやめろフェレ『ブラックスタチュー』!」 「ぎゃー!?」 「本当は、ピストモンみたいな、自由に好きなところを走り回れるデジモンになりたかったのだけれど。……ま、本当だったら、アルケニモンにだって、走り回る事自体は出来なくは無いでしょうけどね」 * 「見つけたぞ! ここが暗黒の種を違法栽培しているという魔獣王の畑だな? 我が名はホーリーエンj」 「大天使型の相手とかまともにしていられないのフェレよ不意打ち『ブラックスタチュー』!」 「ぎゃー!?」 「でも、こんなことになるくらいなら、進化なんてしたくなかった。人間のデータが混ざっているからって、こんな仕事を押し付けられるくらいなら、ね」 * 「スンスンスンスンスーハースーハー! 食事! 新鮮な食事のにおいがする!! このゴートモンの食欲を刺激する新鮮な書類データのスメル!! うおおおおそこの女その本を私によこせええええええ!!」 「そんなパターンもあるのフェレか!? 『ブラックスタチュー』!」 「ぎゃー!?」 「……いや、それは食わせてやればよかったんじゃない? 私、いいんだけど。別に」 * 「兄貴ー、蛇苺の兄貴ー! 頼まれてたもん持ってきたっすよー」 「『ブラックスタチュー』!」 「ぎゃー!?」 「ってわー!? ごめん、ブギーモンじゃねえか!! つい反射的に」 「……」 * 「クックックック……オレはグルスガンマモン。アニメのクソつよグルスガンマモンとは全くの別個体。いたって標準の成熟期デジモンだ……。アニメ個体のようなインパクトを手に入れるべく、オレの力を強化できそうなめちゃすごアイテムがあると聞いてここまでやって来た。寄越してもらおうか……!」 「ちょっと不憫だけどそれはそれとしてやるわけないだろ『ブラックスタチュー』!」 「ぎゃー!?」 「フン、闇のデジモンを強化する暗黒の花、ね。……咲いたあかつきには、魔獣王の頭も強化されてくれればいいんだけれど」 *  勤務11日目。 「効率が悪い」  畑の畝に沿ってケーブルを這わせながら、オレ様はひとりごちる。 「宰相はとにかく効率が悪い」  ワイズモンの事は立場の件さえ無ければ、っていうかアイツが魔獣王をコントロールしてさえいなければビンタをかましてやりたい程度には好きじゃないのだが、どうせ叶わぬ夢なのでとりあえず、オレ様はオレ様の責務を全うしている次第なのだった。 「……いや、ぼそぼそ言いながら何やってるの? ブギーモン共まで来てるし」 「何って、畑の改良--」  オレ様はその場でひっくり返った。  先程まで椅子代わりにしている岩にもたれかかって眠っていたアルケニモンが、いつの間にか目を覚まして声をかけてきたからだ。  オレ様、今日はまだ誰とも戦っていないのに、である。 「これだけ騒がしければ起きるわよ。で? 何してるの。畑の改良って」  状況が状況なためか、普段の冷たい視線は訝し気な態度によって若干緩和されている気がある。  最も、余計な事をするなと言いたげな空気は感じないでも無いのだが、ブギーモン達も居る以上、ワイズモンからの指示である可能性も考慮してとりあえず話は聞こうと判断したのだろう。  この件に関しては100%オレ様が独断で動いているのだが、オレ様の方もオレ様の方で同僚を蔑ろにするのは気が引けるので。  というか、アルケニモンに頼む事もあるし。  同じ作業をしているブギーモンに断りを入れてから、オレ様はアルケニモンの隣へと並んだ。  話をする時の、定位置である。 「おう。この畑、10日経っても全然芽吹きもしないクセに、襲撃者だけは毎日のように来るフェレだろう? あんまりにも効率が悪いから、ちょっとばかし手を加えてやる事にしたのフェレ」  部下のブギーモンズは畑の中と外、いくつかの組に分かれて作業中である。  外のブギーモンズの仕事は穴掘りだ。落とし穴を作らせている。  襲撃者の傾向から見て侵入口は大体把握したので、陸路で来る奴は大体落ちるだろう。底にはブギーモンの三又槍を穂先を上にして敷き詰めるよう指示してあるので、落ちたが最後、並の成熟期ならひとたまりも無い筈だ。  武器を手放すのに抵抗があるのでは? と疑問を抱く諸兄も居るだろうがそこは安心してほしい。アイツらは不思議な呪文の類も使えるし、城に戻れば予備もある。  というより、安全に落とし穴で処理した敵デジモンのデータも三又槍を介して自身に還元されるので、正面切って戦うタイプでは無いブギーモンズ的にはむしろ万々歳の策なのである。  で、畑の中。  オレ様のように畝沿いにケーブルを敷いたり、畑の端で人間界で言うところのスマートフォンに近い端末を操作しているブギーモンズは、何をしているのかという話になるのだが。 「ま、これに関してはオレ様が実演してみせた方が早いフェレな」  オレ様も自分の端末を取り出して、液晶画面をアルケニモンの方に向けた。  同時に、使用するアプリを開く。空色を背景に、白い鳥のマークが表示された。 「……ねえ、これって」 「おっと皆まで言うなよアルケニモン。これはオレ様達にとっての幸運の青い鳥フェレ」  多分な、と付け加えて、ほぼほぼ部下とデジモン公式関連で形成されたTLから、検索の画面へと移行する。  適当な人気コンテンツの名前を入力し、話題の項目では無く、最新を選択。  ――半年待って推しの扱いがこれとかスタッフ本当にやる気あるの?  ――周年ガチャなにコレ。全然未実装キャラ推し勢の救済してくれないじゃん。信じて損した。  ――新要素要らないんですけど……これやるくらいならメインストーリー更新できたよね?  イイネなどまず付いていない、あったとしても身内のが多くて2、3個といった個人のネガティブな呟きを、片っ端から引用でリツイートしていく。  添えるコメントなどは適当だ。大事なのは、この引用リツイートという様式。これが相手にプレッシャーを与える上で重要なのである。 「……何やってるの?」 「オレ様、そして部下達の青い鳥アカウントは、現在鍵垢になっているフェレ。フォローしていない鍵垢のリツイートは、引用のも含めて通知が表示されないのフェレ」 「いや、それは知ってるけど……」 「こういう攻撃的なツイートを鍵も付けずにTLに流す奴のツイートは基本的に愚痴が大半フェレ。それも片っ端から引用リツイートしていくフェレ」  すると、気付いたアカウントの主は、姿の見えない引用リツイートの主に対して「誰?」から始まり徐々に攻撃的なお気持ちを、ようするに新たにネガティブな呟きを投稿するようになる。  さっさと自分も鍵にすれば良いものを--いや、まあ、そのお蔭でオレ様達の仕事が捗るのだから多くは言うまい。 「で、オレ様達が引用リツイートしたネガティブな呟きは、自動的にダークエリアのこの区画、魔獣王のサーバに流れ込むよう連結しておいたのフェレ」 「まさか、このケーブルって」 「御明察! 城のサーバから、ネガティブツイートをこっちに流しているのフェレ。直のキサマからの感情に質は劣るフェレだろうが、量だけは腐る程あるフェレからな。安定供給できる筈フェレ」  そも、元の暗黒の種だって、咲かせていたのは1人につき1輪だ。アルケニモンの負の感情がいくら深かろうとも、畑ひとつを賄える程太く逞しい根ではあるまい。  やはり戦いは数。この辺は、魔獣王という強大な個体に依存しているワイズモンと、ブギーモン上がりのオレ様との思考の差だろう。 「……」  アルケニモンは、特に何も文句は言っては来なかった。  正直意外だ。余計な事をするなと目くじらを立てるとばかり思っていたのだが、今現在、彼女は困惑を瞳にありありと浮かべながら、オレ様の端末と畑の畝との間で視線を行き来させるばかりで。  と、やがて。 「お前って」  目線をこちらに寄越す事はせずに、しかしオレ様に向けて、アルケニモンは口を開く。 「バカのくせに、弱くはないし、頭が悪いわけじゃないのね」 「バカでもないのフェレだが?」 「なんでワイズモン共に仕えてるの? これだけ部下も居るなら、誰かに仕えなくても、もっと好きなように暮らせるんじゃないの?」 「……」  どうやってバカを訂正させようかめちゃんこ賢い頭を捻っていたオレ様は、しかしバチクソ賢いのでそれよりも重要な事に気付いてしまった。  これは、アルケニモンがオレ様に振って来た、初めての、オレ様自身に対する興味感心だと。  やった。  やったぜ。  苦節11日。ようやくこの段階まで辿り着いた。長かった。「自己紹介でサムいギャグかまして滑ったイタいフェレスモン」からここに至るまでの辛く険しい道のりが走馬灯のよに 「話したくないならもう聞かない。黙ってる」 「あっ待って。話す。ちゃんと話すから。ちゃんとお話聞いてフェレ」  慌てて浸るのをやめて、過った11日間よりもさらに向こう、若かりし頃の思い出を引っ張り出してくる。  と言っても、そう特筆するべき事は何も無い。濃度で言うなら、ここ数日の方が濃いくらいだ。 「自分で言うのも何フェレが、オレ様、ブギーモンの頃からそこそこ要領が良かったのフェレ」  同じブギーモンでも、戦闘が得意なやつ、飛ぶのが上手いやつ、呪文を覚えるのが早いやつ、と、様々な個体が居た。  オレ様の場合、悪魔としての性質--「願いを叶える」能力が、昔から特化していたのである。  自他問わず、対象が抱いた「願い」を叶えるための効率的なルートが、すぐに頭に浮かんでしまう。  戦闘能力自体は高くは無かったが、相手の裏をかく戦術を立てるのは得意。  飛ぶのが上手いわけじゃないが、目的地に辿り着く為の最短ルートを見つけられる。  呪文の覚えも悪かったが、知っている呪文は組み合わせるなりしていい感じに使える。  大した能力も無いのに、能力がある奴と同じ結果が出せるものだから、いつの間にか群れのリーダーを任されて。  ついでに経験値稼ぎも効率よくやった結果、同世代の誰よりも早く、フェレスモンに進化してしまった、というワケである。 「まあいうて、ブギーモンの群れとか、この前のリベリモン程じゃ無いフェレけど田舎のヤンキーみたいなもんフェレ。だから昔は気楽に、悠々自適に暮らしていたのフェレけど……」  ワイズモンがオレ様達を訪ねてきたのは、この辺の区画で究極体が出た、という噂が流れてきた、その数日後だった。  結論から言えばその噂は本当で、しかも件の究極体の事は、ワイズモンが管理しているという。  その究極体デジモンは理性の無い獣で、野に放てば周辺を無茶苦茶にしてしまう。  日々の安寧を護りたいなら、自分に仕えてその管理を手伝え、というのがワイズモンの言い分だった。  もちろん嫌ではあったが、ここで断ればワイズモンが時空石に封じている究極体デジモンを解き放つのは目に見えていて。  なんてったってオレ様、聡いフェレスモンなので。 「とまあ、そんなワケで、オレ様とオレ様の部下達は、魔獣王……というか、ワイズモンに仕えているのフェレ。いうて衣食住は以前よりしっかり保証されてるフェレからな。一長一短ってところフェレ」 「……そう」  そう言って、アルケニモンは遠いところを見ていた。  自称聡いフェレスモンだとは言っても、コイツの考えている事の詳細まではわからない。思ったより不自由しているオレ様に同情しているのか、自分よりは自由だと妬んでいるのか。   「アルケニモン」 「ところでアレもお前の部下なの?」  違った。  遠いところじゃ無くて普通に畑の中見てやがった。  慌てて視線を追うと、畑の中央で、引いたばかりのケーブルをじぃっと見つめる1つ目玉がふよふよと浮かんでいて。  何かにつけて闇系デジモンの幼年期に充てられる事と、デジモン図鑑で検索すると何故かダークネスバ『グ』ラモンもヒットする(ふしぎだね。)事でお馴染みの正体不明種・クラモンである。 「さてはここに集まってる呟きから孵ったフェレね?」  クラモンはネットワーク上での争いが具現化したデジタマから生まれるデジモン。呟きの主たちは、どうやらママになったんだよ!  ……それが可能な程度にはネガティブな呟きが集まっているという証拠ではある。が、畑のデータを食い荒らされては敵わない。  オレ様は畑に入って、駆除のためにむんずとクラモンを鷲掴みにした。 「くぅ~?」  うわぁめっちゃやわらかいんだが。もにもにのぷにぷになんだが。  オレ様昨今のスクイーズブームとかよく解らないまま乗り過ごした勢なんだが、なるほどこういうことか。これはヤバい。やみつきになる触り心地。あとなんだこのけしからんつぶらな瞳は。  ダークエリアで生まれたての幼年期デジモンに触れる機会なんてそうあるものでは無い。思えばオレ様も、少なくともフェレスモンになってからこの手のデジモンに直に触ったことは無かった気がする。 「はわわ……ちいさきいのち……!」 「何やってんの」  アルケニモンのツッコミは至極真っ当だが、こうなるとこのままコイツをぷちんと潰すだなんて、オレ様には到底出来そうに無い。 「オレ様……オレ様ちゃんとお世話するフェレから……飼っていいフェレか……?」 「いや勝手にしなさいよ」  涙ながらに訴えるオレ様に、いつもの塩っけを取り戻すアルケニモン。  彼女は心底呆れたように髪をかき上げる。 「っていうか、何? そんな成りして、可愛いもの好きなの? そういえば、個体名も蛇苺とかいうやけにファンシーな名前だったし……」 「おお~ん? ジャパニーズ・オタク・カルチャー『KWAII』をナメるなフェレよ?? ……ってか、オレ様の名前覚えてたのフェレな」 「くぅ~」  どこから出しているのかはさっぱりわからんが、クラモンが合の手を入れるかのようにか細い鳴き声を絞り出す。  ふふっ、愛い奴め。その鳴き声と大きな瞳、そして悪魔を堕とした触り心地に敬意を表して名付けよう。今日からお前はあいぷるだ。立派な金貸しとかに育てよう。 「覚えない方が無理でしょ、そんな見た目と噛み合わない名前。それに名乗りもしつこかったし」 「ひとこともふたことも余計フェレねキサマは。あいぷるを見習うフェレ」 「あい……ぷる……?」 「それに、蛇苺は由緒ある名前フェレ。人間どもの聖典において最初の人間を誘惑した生き物と、彼らに知恵を与えた赤い果実。その2つを融合させた名前フェレよ?」  蛇苺の名は、群れの長になった時に自分で付けたものだ。惰性で引き受けたものとはいえど、だからこそ、名前の持つ威厳を利用したかったのである。  いくらオレ様が要領のいい悪魔だとは言っても、その手の知識が勝手についてくるワケじゃない。それらしい名前を探し出すのはなかなかに骨が折れたが--その分、思い入れのある名前だ。  ……だというのに、コイツ。なんて顔でオレ様を見てやがるんだ? 「おいアルケニモン。オレ様本物の貴族じゃないから大概の無礼は気にしない事にしてるフェレけど、人さまの名前を馬鹿にするムーブは流石に看過できないフェレよ?」 「いや……。……そう、ね。お前が気に入ってるなら、うん。いいんじゃない。悪かったよ」 「?」  何だろう、馬鹿にしている、という類の振舞いでは無い気がしてきた。  アルケニモンの台詞は妙に歯切れが悪く--まるで、オレ様の知らない何かを知っている風にも見て取れて。 「素人質問で恐縮フェレけど、キサマ、何かひっかかってるのフェレか?」 「……聞いても後悔しない?」 「このまま聞かないでもやもやしてるよりはいいフェレ。話すフェレ」 「くぅ~」  橙の瞳に色濃く躊躇を覗かせていたアルケニモンは、しかし「どうせこいつずっといるしな」みたいなノリで観念したのだろう。失礼な奴だな。  彼女は至極億劫そうに、口を開いた。 「あのね、人間に知恵を与えた果実は、一般的には林檎だと言われているわ」 「……フェ?」 「もちろん諸説はあるけど。でも、ワイズモンから渡された本に嫌という程血のように赤い林檎が登場したから、間違いないと思う」 「……」 「あと、苺は果物じゃなくて野菜のカテゴリーよ」  元レッドベジーモンが言うなら、少なくとも苺が果物じゃなくて野菜なのは確実なのだろう。  何故、何故だ。何故オレ様は今の今まで知恵の果実を苺だと思って生きてきたんだ。  えっじゃあ今までオレ様が自己紹介した相手はみんな「なんでこのデジモン、蛇苺なんて名前なんだろう」と思ってた……ってコト!? 「イヤッ、イヤッ、ヤダーッ」  オレ様は裏声で悲鳴を上げながらその場で涙目になりながら転がりまわった。  アルケニモンの冷たい瞳にも僅かながらに同情心が混じっており、小さくてかわいい輩たるあいぷるは、何してるんだろうコイツと言わんばかりにつぶらな瞳でじっとオレ様を見つめている。 「……なんで、そんなサブカルチャーに詳しいっぽいキャラしときながら、そんな勘違いしてたのよ」 「そんなのオレ様が聞きたいがー!? もう顔真っ赤フェレよ」 「……それはひょっとして、ギャグのつもりで言ってるの?」 「おっ、どうしたんスか蛇苺の兄貴。顔真っ赤ッスよ」 「……」  聞かないで……と声を絞り出すオレ様と、もう何も言わないでおこうと決めたのか口を噤むアルケニモン。  ……とはいえ部下の前でこの体たらくでいる訳にもいかないので、オレ様は申し訳程度に表情を整えて立ち上がり、やって来たブギーモンに用件を尋ねる。 「落とし穴が完成したのッス」 「ああ、ご苦労さんフェレ。地表テクスチャの調整はオレ様がやっておくフェレから……っと、そうだ」  オレ様は再び、アルケニモンの方へと向き直った。 「アルケニモン、キサマ、その状態でも糸なら出せるのフェレよな?」 「……ほんのちょっとだけよ」 「長ささえあれば数はいいのフェレ。空から来る奴用に鈴を吊るして張るのフェレよ。ブギーモンに渡してやってほしいのフェレ」  まあ、そのくらいなら。と。相変わらずなげやりな調子ではあるが、アルケニモンは比較的協力的な様子を見せていた。  知らない方が良かった真実を教えた事実に引け目を感じているのか――いや、あまり深くは考えないでおこう。単純に、思い返すとオレ様のこころがしんどい。  まあ、コイツときっちり会話が出来た事自体は、そう、悪くは無かったので。 「そうそうアルケニモン」  あいぷるを頭に乗せてから、落とし穴の最終チェックに向かう前に、オレ様はまた、彼女の方へと振り返る。 「何」 「もしこの試みが上手くいったら、青い鳥作戦の発案者はキサマだったという事にするといいフェレ」  アルケニモンが、目を見開いた。 「……なんで?」 「言ってるフェレだろう? オレ様、無駄に優秀なのがバレて仕事を増やしたくないのフェレ。だがキサマは手柄と実績さえあればここから解放してもらえるし、何なら今後、ある程度自由に行動できるだけの地位を貰えるかもしれないのフェレ」  あのワイズモンは嫌な奴だが、目的のためにより良い方法があるなら、それを取り入れるだけの柔軟性は持ち合わせているタイプのデジモンだ。  そも、アルケニモンをここに縛り付けている理由が無くなるのなら、他の利用方法も考えはするだろう。どうせ逃げられないのなら、より良い待遇を求めるに越した事は無い。 「兄貴~! アカウントが止められやした~!? 一体どうすれば」 「バカ! リツイートのペースは考えろっつったフェレだろ!? そういうのは上限があるのフェレよ。……と、まあ。オレ様はあっちに行くフェレから、こっちは頼んだフェレよ」 「……考えとく」  気を回してやってもどこまでもそっけない対応で返すアルケニモンに肩を竦めつつ、それから後は、ほぼ1日中。オレ様は部下の仕事をチェックするために、畑のあちこちを駆けずり回った。  ……その甲斐が現れたのは、早速、次の日。  勤務12日目にして、『暗黒の種』が芽吹いたのだ。 「夢だけど!」 「くぅ~」 「夢じゃ無かったフェレ!」 「くぅ~」  両腕で芽吹きを再現しながら、畑の周りを駆けまわる。  普段ならオレ様に向けて刺すように投げかけられるアルケニモンの視線は、しかしこの時、土を押しのけて顔をのぞかせた緑の芽へと、じっと注がれていたのだった。 *  芽吹いてさえしまえば、『暗黒の花』の成長は早かった。 「オレ様達は知らなかったフェレ。何気ない日常が、とても脆く儚い事を」 「くくくくくぅ~くくぅ~♪」  オレ様の台詞に合わせて生き残りたい感じがするBGMを流し始めてくれるあいぷると、それを白けた表情で眺めるアルケニモン。『暗黒の花畑』は、平和そのものだった。  まあそれもこれも、オレ様が必死にこの畑をサヴァイブらせた結果である。オレ様は心も声帯も不動ではないので、浮足立ちながら咲き誇る彼岸花のようにもみえる『暗黒の花』の畑を飛び出した。  花は無事育ち切り  本日はその、収穫祭である。   この光景も一旦は今日が見納めなので、ちょっとくらい遊んだってバチは当たるまい。 「と、まあ。オレ様達の選択肢がこの畑の進化を決めたのフェレ」 「やめてくれる? その一種のマーケティングじみた総括。……でも、無事に咲いてくれて。それは、良かったわ」  日曜朝9時といいこのところ新規絵に事欠かない種族でありながら、これまでに出てきたどのアルケニモンとも違った姿かつ境遇に置かれている彼女は、普段より多少穏やかにそう述べると、開いたままにしていた本をそっと閉じた。  収穫祭の知らせを受けてからというもの、彼女の振舞いと表情は僅かに軟化している。  本当に良かった。最初に盛大に選択肢をミスっただけに、挽回できた感動もひとしおである。 「もうしばらくしたらブギーモンズが到着する筈フェレ。そのタイミングでワイズモンもワープしてくるフェレから、まあ、あとはキサマ自身で上手くやるフェレ」 「くぅ~」 「そう。……とりあえず、まずは元の姿が恋しいわ。さっさと戻してもらうつもり」  『暗黒の花畑』だけじゃなくて、アルケニモンの人間形態も見納めか。そう言われてみると、何だかまだ実感が湧かないが--オレ様もようやく自宅に帰れるのだと思うと、気持ちが逸る部分もあって。  と、そんな上司の気分を汲んだ訳でも無いだろうが、なかなかのタイミングで「お~い」と知っている声が1つ。  翼を掠めるなりしたのか、ちりんちりんと鈴の鳴る音がして、すぐに鈴の音は何度も後に続いた。 「よう、数日ぶりフェレな」 「兄貴もお勤めご苦労様ッス」  先導を務めていたブギーモンがオレ様の前へと降り立つ。    途端、彼の前に突如として仰々しい皮の装丁が施された分厚い本が出現し、空中でひとりでにページをめくり始めた。  ちょうど、中央当たりのページにまで来ただろうか。  本は瞬く間に巨大化し、その中からフードに覆われた人影が出現する。 「ほう、見事なものだ」  このクソ田舎国の宰相・ワイズモンである。  ワイズモンは『暗黒の花畑』を見渡して、それからようやく、オレ様とアルケニモンを交互に見た。 「両名、ご苦労であった。報告は既に聞いている。お前達の働きは、相応に評価しよう」 「久しぶりねワイズモン。そう言うなら、さっさと鎖を外して元の姿にもどしてくれない?」  いくら直前までは多少機嫌が良かったとは言っても、自分をこんな目に遭わせた相手が目の前に現れては気分の良いままではいられなかったのだろう。アルケニモンは、噛み付くようにワイズモンに訴える。  だが、ワイズモンは「まあ待て」と、いつも通り余裕ぶった態度で彼女に制止を求めるのだった。 「まずは、魔獣王さま手ずからの収穫祭を終えてからだ。褒美はその後に与えられよう」 「……」 「まあまあアルケニモン。もうちょっとの辛抱フェレ。……魔獣王を待たせて機嫌損ねるのもマズいフェレからな」  オレ様の耳打ちに、彼女はずいと身体を逸らす。  そういうとこ、変わらないね。一周回って安心した。 「さ、キサマ達も整列するフェレよ。みんなで魔獣王さまをお迎えするのフェレ」 「くぅ~」  ぱんぱんと手を叩く合図にしたがって、ブギーモン達が綺麗に整列する。  これで準備は整った、と言わんばかりにワイズモンは目を細め、畑の向かい側に彼の武器――『時空石』を出現させる。 「魔獣王さまの、御成りー!」 「くぅ~」  こらこら合わせるなあいぷる、と、クラモンを宥めつつ、オレ様も一応姿勢を改める。  最初に現れたのは、腕だった。  『暗黒の花』に負けず劣らず赤い爪。腕。  角。仮面。胴。  何もかもが、スケールが違う。  真の闇の王のような200mとまではいかないが、それにしたって多少の悩みがちっぽけに思えるくらいでかくていかつい魔獣の王様が、森の木々を踏みつけにしながら顕現する。  こんなに大きくなっちゃったからには、真面目に頑張って来たのだと思うのだが、度を過ぎた真面目が祟って理性すら手放したとされる怪物――ヴェノムヴァンデモンである。  オレ様達は、一斉に魔獣王ヴェノムヴァンデモンの前に跪いた。  横目で見やると、アルケニモンは頭こそ下げていなかったが、流石にこのデカさには圧倒されているようで。 「グ、ウ……ハラ、ヘッタ」 「大変お待たせいたしました魔獣王さま。お食事をご用意しました故、どうかごゆるりとお召し上がりくださいまし」  おめーなんにもしてねーだろと一瞬思ったが、よく考えたら『暗黒の種』そのものを用意したのは宰相殿である。なんにもしてねーことはなかった。  それにしたって生育は丸投げにしたのだから、自分の手柄みたいな空気感はどうなのよと思いはしたものの、まあ、魔獣王はいちいち誰かの手柄だとか何だとかを気にするタイプのデジモンでは無い。  目の前にあるものを、喰らうのみ。 「--ク」 「?」  そういう類の化け物であると、わかっていた筈なのに。  どうして、皆失念していたのだろう。 「ニク」  魔獣王は、わなわなと身体を震わせたかと思うと――ぶん、と腕を振って、畑そのものを、薙ぎ払った。  赤い花が、空に舞い散る。 「な――なにして」 「ニクジャナイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!」  憤りに立ち上がったアルケニモンの声さえ、魔獣の咆哮に掻き消される。  その日、オレ様達は思い出した。  ヤツに知性が無い故の恐怖を……。  コイツに従わされている屈辱を……。  ……そう、ヴェノムヴァンデモンは理性の無い化け物。  目の前のお花畑が今日のごはんと言われて、どう理解が出来ようか。 「おっ、お待ちください魔獣王さま! こちらは『暗黒の花』! 食べれば闇のデジモンであるあなたさまに更なる力を」 「ニク! ニクヲヨコセ!! ……ニク……!」 「あっ、やっべ」 「っ、おい、ワイズモン!」  ヴェノムヴァンデモンの口元に涎が光ったのを見て、ワイズモンは本の中に飛び込んだ。  すると本はたちまちぱたんと閉じて、そのまま光と共に姿を消す。  ……逃げやがったあの野郎……! 「キサマ達撤退フェレ! 木の隙間を縫いながら死に物狂いで逃げるフェレ!!」  だったらオレ様達もこのまま付き合っている道理は無い。  手塩にかけた『暗黒の花畑』が無茶苦茶にされる絵面にはクるものもあるのだが、このままぼんやりしていれば、オレ様達が今日の晩御飯である。  幸いブギーモンは卑怯故に逃げ足の速いデジモン。巨体故に動作の鈍いヴェノムヴァンデモンからなら、世代差があっても何とか逃げおおせるだろう。 「っ、ちょっと」 「そうだった……! 今外すフェレ」  がしゃがしゃと鎖を打ち鳴らす音と引きつった声に、アルケニモンが繋がれている事を思い出す。  俺は愛用の三又槍で、急いで鎖を打ち砕いた。足枷はそのままだが、ひとまず勘弁してほしい。 「ほら、走るフェレ!」  オレ様は地面を蹴り、その場を飛び立つ。  くぅーくぅー鳴きながら頭に張り付いているあいぷるはまだしも、デジモン1体を運んで飛ぶ程の余裕はオレ様にも無い。  まあ仮にも元レッドベジーモン。植物が多いところでの逃げなら、彼女もうまい事やるだろう。  生きていたらまた会おうフェレ。  心の中で呼びかけて―― 「きゃっ」  ――返事の代わりの短い悲鳴に、彼女の運命を悟ってしまった。  ただでさえ、本来6本の脚で移動するアルケニモンが  半月以上もの間、歩き回れはしない状態で囚われ  足枷のせいでバランスも悪く  パニック状態で走り出せと言われて、走り出せる、筈があろうか。 「ニク、ニクゥ!!」 「ひいっ」  あれだけ気丈に振る舞っていたアルケニモンが、鋭く息を呑んでいた。  魔獣王の鋭い爪は、すぐ傍にまで迫っている事だろう。  這うようになけなしの前進を試みても、きっと、足はもつれて、動かない。  ……逃げればいい。オレ様は、このまま。  実際、振り返りもしなかった。  半月の間寝食を共にしたとはいえ、オレ様は長らく、あのデジモンにしょっぱい対応をされてきた。  そもそも根っからの悪魔系であるオレ様に、対した義理など備わっている筈も無く。 「た」  だから 「たすけて……っ」  オレ様は踵を返して空から地面に滑り込み、ヴェノムヴァンデモンが彼女を捕らえる寸でのところでアルケニモンの身体を掴んで飛び出し、一緒に泥だらけになりながらスライディングする。  あいぷるが突起のような手で必死にオレ様の頭部を掴んでいて、とてももにもにぷにぷにの感触である事実だけが、今のオレ様の心の支えだった。 「ふー……っ」  息を、吐き出す。  身体を起こしてアルケニモンを見下ろすと、乱れて泥まみれになった白い髪の中に、恐怖で潤んだ橙の瞳が覗いていた。 「お、お前……」  この期に及んで、なんで? とでも聞きたそうな顔にも見えるが――まあいいさ。 「おい、アルケニモン」  呼びかけるなり、彼女の肩がびくりと震えた。 「もう一度言うフェレ」 「……え?」 「だから、もう一度。改めて言うのフェレ!」  オレ様、悪魔なので。  そういう風に、出来ているので。 「オレ様の名前と、キサマの望みを言うのフェレ!!」  喚び出されたら、仕事をしなくちゃならんのだ。 「っ」  いよいよ堪えきれなくなって、アルケニモンの目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。  きゅっと結んだ唇が、決壊するように大きく開いた。 「たすけて、蛇苺ッ!!」  ぽん、と。  彼女の頭の上にあいぷるを預ける。  立ち上がって、対峙するのはオレ様達の王。  魔獣王ヴェノムヴァンデモンは、肉が増えたと言わんばかりにほくそ笑んでいる。  オレ様は  割と  本気で  一瞬  当たり前だ、的な事を叫びたかったのだが 「ま、ここは「ちゃんと」やるフェレかな」  風に乗って飛んで来た『暗黒の花』を一輪。空いている手で掴み取る。  オレ様はそのまま、むしゃりとその赤い花を噛み千切って、咀嚼した。 「契約成立フェレ」  呑み込んで、次の瞬間。  カッと全身が熱を帯び、踏み出した足が地面を陥没させる。  地を蹴れば想像以上に身体が飛び出し、突き出した三又槍が、再びこちらに迫っていたヴェノムヴァンデモンの手を弾き飛ばす。 「グゥ!?」  こ、これはすごい……! そういう風に使えると理解はしていたが、予想以上だ。 「ウオオオ! すごい、力がみなぎって来るフェレ! アルケニモン! これは一体……」 「え……『暗黒の花』の力じゃないの?」 「姐貴、姐貴。蛇苺の兄貴は多分「知らん……何それ……怖……」って言って欲しかったのッス」 「えっ、それこそ知らないんだけど」  ノリの悪いやつフェレな、と悪態の一つもつきかけて、しかしオレ様はそれ以上に大事な事に気付いてしまう。  今、オレ様の意図に気付いてアルケニモンに促したのは―― 「な、何やってるのフェレかキサマら!」  ――先に逃がした筈のブギーモンズで。 「いくらオレらでも、兄貴が残ったのに逃げられるワケが無いッス!」 「オレ達は最初から、兄貴以外には仕えてるつもりは無いッスからね」 「そうッスよ、アルケニモンの姐貴とあいぷるの事は任せてくだせえ」 「応援するッス! 加勢はしないけど応援は無限にするッス!」  兄貴、頑張れー! と。  公開から多少経った映画のCMの最後に出てくる女子高生達の「この映画サイコー!」並に揃ったブギーモンズの激励に、不覚にも涙腺が緩んでしまう。 「き、キサマ達……!」  口元を抑えて涙ぐみつつ、再びヴェノムヴァンデモンと向き直る。  食べ物としてしか認識していなかった相手に突き飛ばされ、魔獣王は怒りに顔を歪めていた。  しかし流石に究極体。知性が無いとは言っても、これまでに積み重ねてきた研鑽は伊達では無い。体勢は既に立て直されており、今度はしっかり『敵』と認知したらしいオレ様を、上下の目でじっとりとねめつけていて。  だが、オレ様も今この瞬間は『暗黒の花』の恩恵を受けて元気100倍フェレスマン。この鬼スゲー力を以って、邪魔する奴らは全員ブッ○して行こうぜ状態である。  脳内BGMに負ける筈が無いのさと鼓舞されて、俺は三又槍を構えて飛び出した。 「イヤーッ!」 「グワーッ!」 「イヤーッ!」 「グワーッ!」 「イヤーッ!」 「グワーッ!」 「イヤーッ!」 「グワーッ!」 「イヤーッ!」 「グッ、チョウシニ、ノルナ!!」 「グエッ」 「イヤーッ!」 「グワーッ!」 「アイエエエ……なんて激しい戦いッスか……!」 「……」  強化されたオレ様と魔獣王との激突に恐れおののくブギーモンズと、いい感じに描写されている筈の戦闘に何故か白い眼差しめいたアトモスフィアを向けるアルケニモン=サン。  実際オレ様もなんとなく言いたい事が無いでも無かったが、生憎そんな余裕は無かった。ショッギョ・ムッジョ。  軽く一撃貰っただけで、完全に形勢逆転ときた。  大きい事は良い事だ。パワーが桁違いなのである。  対するオレ様は、いくら究極体と渡り合える程の力を『暗黒の花』から取り込んだとはいえ、こと対魔獣王というカードにおいては、どうしようもない程決定打に欠けていて。  混乱技である『デーモンズシャウト』は思考能力が残念なヴェノムヴァンデモンには実質意味を成さず、また『ブラックスタチュー』は体格差が有り過ぎて、向こうを石にする前に必殺技の隙を叩き潰されるのが目に見えている。  アニメの同族が出来たんだから、オレ様もやろうと思えば巨大化自体は出来るとは思うが――いいや、ヴェノムヴァンデモン相手に的がデカくなるのはいただけない。 「グウウウウ、ウットウシイ! 『ヴェノムインフューズ』!!」  いよいよオレ様の目障り指数が臨界点を突破したのだろう。  ヴェノムヴァンデモンの目が光り輝き、光線が発射される。  相手を体内から破壊するウィルスを注入する必殺技『ヴェノムインフューズ』だ。 「っ」  掠めただけでアウトである。三又槍を持ち変えて、一先ず、オレ様は回避に専念し始めた。  だが逃げ回ってばかりではいられない。オレ様にかかったバフ、『暗黒の花』に含まれる暗黒成分は、『暗黒の花』1本分。そりゃヴェノムヴァンデモンだって必殺技を使い過ぎれば疲れるだろうが、先に消耗し切るのはオレ様の方に違いない。  だから、考えろ。  考えろ考えろ考えろ。  倒す方法は解っている。ヴェノムヴァンデモンの下半身に潜む霧状の『本体』。奴さえ引き摺り出せば、そいつになら、『ブラックスタチュー』が効く筈だ。  なので今閃くべきは、どうやって本体を出現させるか。  勝手に出てくるのを待つ? いや、アレは獣だからこそ、むやみに弱点を曝す様な真似はしない。  一番手っ取り早い方法は、奴の首を斬り落とす事。  上部の『ヴェノムインフューズ』の砲台を壊せば、正確に攻撃に狙いをつけるために、奴も顔を出すに違いない。  問題は、昆虫の甲殻と例えられるヴェノムヴァンデモンの外殻をどうにかするための手段が、オレ様には無いのであって。 「ここまで来て手詰まりフェレかよ……!」  歯噛みする。  いくら効率よく動けようが、オレ様の能力値は総合的に、フェレスモンの中では平均以下。   力も無く、  飛ぶのも下手で、  魔術の覚えも悪い。  望みを叶える最短ルートが見えるからこそ、叶わない望みからは目を逸らして、ここまで上手くやって来たっていうのに。  ……最後の最後で、願いを叶える相手そのものをミスっちまったな-- 「蛇苺ッ!」  アルケニモンに名前を呼ばれて。  身体が勝手に動いた。アイツが糸に何かを括りつけて、こちらに投げてよこしたのが判ったからだ。  反射的に受け取ったそれは、7日目の産物。  石にして、そのまま放置してある大天使の得物。  ブレス部分に齧って千切られた形跡がある。おそらく、データそのものを喰えるあいぷるが外したのだ。 「堕天使も天使の一種だろ! それでなんとかしろっ!!」  デジモンには、小悪魔型以外の『悪魔型』は現在存在しない。  オレ様も例外では無く、きっとアルケニモンは、そのやりとりをなんだかんだで覚えていたのだろう。  『聖剣エクスキャリバー』が、俺の手元に捧げられた。 「--ったく!」  無理くりにでも、にやりと口角を吊り上げて、自分の右腕に『聖剣エクスキャリバー』を、アルケニモンの出した糸で巻き付ける。 「ラノベの読み過ぎなのフェレよ!!」  だが、事実オレ様は魔人型のブギーモンとは違って堕天使型デジモン。  堕天使型デジモンの暗黒の力は、天使型デジモンの光の力と表裏一体。天使が堕ちれば悪魔に成ると言うのなら、その逆だって、不可能ではあるまい。  ましてや、今回のエネルギー変換は剣の切っ先、その分だけでいい。  それだけでいいなら――やってやるさ! 「『ヴェノムインフューズ』!!」  光線を掻い潜り、振るわれる腕を抜け、魔獣王の首筋に肉薄する。  三又槍を投げ出し、オレ様は思い切り右手を振り被った。  体内に取り込んだ暗黒のエネルギーを、ありったけ。  生半な知識しか無い呪文を、どうにかこうにか組み合わせて。「効率良く」聖エネルギーに変換しながら、流し込む。  『聖剣エクスキャリバー』は、瞬く間に巨大な光の剣と化す。  眩さに、ヴェノムヴァンデモンが顔を歪めていた。  ここまで来れば、処刑用BGMは脳内再生余裕。 「『約束された――勝利の剣』アアアアアアアアアアアアアアアッ!!」  なので、ルビは各々で振るように。 「ギャアアアアアアアアアア!?」  悲鳴ごと断ち切るようにして、ヴェノムヴァンデモンの首が切断された。  なんて約束された威力なんだ『聖剣エクスキャリバー』。これは公式の最強デジモンランキング10位入賞待ったなしである。  とはいえ――ヴェノムヴァンデモンのそれが断末魔でない事は、オレ様もよく知っている。  無理やり聖属性の武器を振るったツケに、右腕が燃えているかのように痛んだが、まあ、大いなる力には大いなる責任が伴うものなので。  でもこれ以上着けていたら絶対悪影響が出そうなので、オレ様は急いで糸を解いて『聖剣エクスキャリバー』をその辺に投げ捨てた。 「ギッギッ、ギギギギギギギギッギギイギギギギギイイイイイイ!!」  と同時に、当初の目論見通り、ヴェノムヴァンデモンの下半身から握り締めたスクイーズのように、彼の本体が顔を出す。  絵面は酷いが、文句は言うまい。そんな暇も無いからな。 「シネ! シネシネシネ!! 『ヴェノムイン--」 「雇われてたよしみフェレ! 命だけは取らないでおいてやるフェレよ!!」  手を翳す。  ここから先は、オレ様がこのところいつもやっていた事だ。  慣れたものさ。 「『ブラックスタチュー』!!」  塊が蠢いているように見えるが、ヴェノムヴァンデモンの本体は霧の集まりである。  石化させられれば当然、固まるのは細かい水の粒1つ1つ。  何より死んだ吸血鬼は、そうなるものだと相場が決まっているのである。……いや、殺してはいないんだけれども。  ヴェノムヴァンデモンの本体は、今度は悲鳴の一つも上げられぬまま、細やかな砂となってダークエリアの風にさらわれていった。 * 「ぽんぺ……」  オレ様はお腹を抱えて蹲っていた。  『暗黒の花』。  超高密度の暗黒エネルギー。  そんなものを勢いよく取り込んだものだから、お腹がびっくりしてしまったらしい。  めっちゃ痛い。おなかめっちゃ痛い。なんなら右腕より痛い。 「何なのよあんたは、最初から最後まで……」 「それが契約を履行した相手にかけるねぎらいの言葉フェレかぁ……?」  自分で言うのも何だが、アルケニモンを咎める声さえ弱々しくなってしまう。  ……こういう時、出すもの出してしまえば楽になれるモンなんだが、生憎暗黒エネルギーは完全に使い切ってしまったので、現在本当にお腹が痛いだけなのである。  しかし、言われると思うところもあるのだろう。アルケニモンは途端にしおらしくなり、未だにぐしゃぐしゃになっている髪に軽く手櫛を通しながら、小さく息を吐いた。 「その件に関しては……感謝してる」 「……」 「あり」 「あっ、ごめんちょっと待ってフェレ。また波が来たのフェレ。話は落ち着いてからにしてほしいのフェレ」 「……」  やめるんだアルケニモン。腹痛はお腹を冷やすと悪化する。そんな冷たい目で見ないでくれ。  ……と、すんすん泣きながら痛みに耐える事数分後。ようやく波が引いたオレ様の元に、用を済ませたブギーモンズが、あいぷるを伴って戻って来た。 「ウッス、兄貴。大丈夫ッスか?」 「おう、なんとか。……キサマ達は? 『暗黒の花』、回収できたフェレか?」 「正直ダメッスね……ほとんど魔獣王にやられちまったみたいッス」  あっ、でも。と、ブギーモンズはあいぷるの方を見た。  あいぷるの『手』には、『暗黒の花』の花束が握り締められている。 「あいぷるのやつ、幼年期なのにとんでもない素早さッスよ。お蔭で風に持って行かれた分は、ほとんど回収してくれたっぽいッス」 「おー、よくやったぞあいぷる。この調子で貸した物をすぱっと回収できるような、立派な金貸しとかに育ててやるフェレからな」 「つぅ~」  あいぷるの瞳は何も解っていない風ではあったが、それとなく自慢な雰囲気は感じなくも無く。  オレ様は、一部とはいえホーリーエンジェモンのデータを吸収した結果、進化してツメモンになったあいぷるから『暗黒の花』束を受け取った。  これをいい感じに纏めれば、もう、ここに用はあるまい。 「魔獣王が風になった以上、ワイズモンもおいそれと顔は出せない筈フェレ。今の内に城に戻って、各自荷物を纏めてずらがるフェレよ」  郷愁の想いは無いでも無いが、同時に魔獣王の力の前に、囚われていたも同然の地だ。頭が消えた国がこの先どうなるかなんて想像もできないし、何よりオレ様、奴らに取って代わるために戦ったワケでは無いので。  まあ、なんやかんやと、残された住民たちも上手くやるだろう。  田舎のヤンキーは、無駄に逞しいと相場が決まっているのだ。 「が、その前に、と」  まだやる事が残っていると、オレ様は少しだけ離れた所から俺達を眺める、アルケニモンの方へと歩み寄った。 「……何」 「何、じゃないフェレよ。オレ様、キサマと契約したフェレからね。キサマの「たすけて」を叶えた以上、対価を払ってもらうのフェレ」 「……」  悪魔は望まれれば願いを叶えるが、それは相手から対価を得るため。  アルケニモンとて例外では無い。……それは彼女も理解しているのか、アルケニモンはそっと目を伏せて、「好きにして」と呟いた。 「悪魔らしく魂? とやらを取るなり、煮るなり、焼くなり、殺すなり。売り飛ばしてくれたっていいわ。人間の姿にしかなれないアルケニモンだなんて、少しは珍しいだろうから。お金が目当てなら、それで」 「そーフェレかそーフェレか。それじゃ、遠慮無く」  びしり、と。  オレ様は指先を、アルケニモンの額に突き付けた。 「キサマの名は、今日から『苺』フェレ」 「……は?」  心の底からの「は?」の迫力に若干胃がまた痛んだが、それは説明不足故だと自分に言い聞かせてこほんと咳払い。指を下ろして、代わりに口を開く。 「ほら、オレ様の名前、蛇苺の苺は禁断の果実でも何でもないのフェレだろう? とはいえ悪魔って結構名前に囚われるフェレから、改名にも手続きがいるのフェレ。……個体名は無いフェレよね? だったら、苺はキサマに押し付けてやるのフェレ」  そういうワケだから、オレ様の名前は今後『蛇』フェレと名乗りを上げると、ブギーモンズが「よっ、蛇の兄貴!」と囃し立てる。  ふっ、悪くない気分だ。オレ様、今度は新天地で、原初の人を誑かした生き物の名で生きていくのである。めっちゃ強そう。ええやん。伝説の傭兵みたいで。 「そ――そんなのでいいの!?」  だというのに、アルケニモン改め苺は声を荒げて水を挿す。  ホントこいつそういうところあるよな。これから長い付き合いになるんだから、多少なり気を付けてもらわないと。 「なにフェレか、オレ様の名前について指摘してきたのはキサマフェレだろ? 責任を取ってもらう意味でも適任フェレ。オレ様が蛇で、キサマは苺。オレ様には合わなくても、元々赤い野菜なんだからキサマにはお似合いの名前フェレ」  あと、と。  オレ様は手に持っていた『暗黒の花』--を、束ねて花冠にしたものを、苺の頭に被せてやる。 「!」 「正確には、オレ様達の契約はまだ完全に履行されたワケじゃないのフェレ。キサマの「たすけて」には、「元の姿に戻りたい」も含まれてるっぽいフェレからな。……キサマさえそれを望むなら、改めて契約するのフェレ」 「……あんたの望みは?」 「畑に居た時と同じフェレ。今度は別の王侯貴族に『暗黒の花』を売り込んで、オレ様達の住まいを探すのフェレ。花はキサマの持ち物って事にして、必要以上にオレ様に目が行かないための隠れ蓑になってもらうのフェレよ」 「……」 「その代わり、新天地で元の姿に戻る方法を探してやるフェレ」  すっ、と。  オレ様の話を聞き終えた苺が、右手を差し出す。  それは、この半月で。  真の意味で彼女が初めて自発的に、オレ様に接触を許した瞬間だった。 「……いいわ、蛇。契約して。もうしばらく私をたすけてほしい」 「いいフェレよ、苺」  オレ様はその手を握り返した。  さらにその上から、あいぽんが「つぅ~」と鳴きながら、見届け人のようにオレ様達の手の上に被さる。  ああ――長く険しい道のりだった。  オレ様、効率だけが取り柄のフェレスモンなのに、最初にスベった分を取り戻すまでに――アルケニモンを笑わせるまでに、こんなにも時間と手間をかけてしまった。 「契約成立フェレ」 *  ともあれこれが、オレ様とアルケニモン。即ち蛇と苺が手を組むまでの物語である。  マミアル原理主義者に強火で焼かれそうなオレ様達赤系デジモンコンビと愉快な仲間達の冒険はむしろこれからだったのだが、残念。文字数も大概に膨れ上がってしまった事だし、この辺で一旦打ち切りとさせてもらおう。  ご愛読ありがとうございました。  『Snake & Strawberry』の次回作に、どうかご期待ください。
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快晴
2022年9月19日
In デジモン創作サロン
『牛鬼の首』 作・森川 美魚 (緞帳) (鈴の音) 男:ああ、鈴だ。また鈴の音だ。 (男、上手袖より登場。駆けこむようにして、下手側のサスペンションライト(以下、サス)へ) 男:(耳を塞いで頭を抱えながら)俺が何をしたって言うんだ。誰にだって、経験くらいはあるだろう。(客席側を向いて)なあ、そこのあんた。見たところ、学生さんだな? (クラスメイト×)友達と、怖い話で盛り上がった事はあるか? あるよな?(別の観客の方を向いて)そっちのあんたは? なあ? あるだろう?  ……そうだ。誰でもやるような事じゃないか。ホラー映画の馬鹿な若者みたいに、黴臭い田舎町の頭のおかしい因習を貶したでもない。しめ縄の向こうに忍び込んでガラクタみたいなご神体を壊したでもない。ましてや、人さまの恨みをかったりだとか、傷付けただとか--殺した、だとか。そんな真似は誓ってしちゃいないんだ! なのに、なのに (鈴の音) 男:ひいっ!(腰を抜かしてその場にへたり込む) (鈴の音を2回 その後、猫の鳴き声) 男:(上手側を向いて、視線を落とす)はあ、はあ、ね、猫……紛らわしいだろうが! (男、サスの光の外に身を乗り出して、ものを奪い取るような仕草) (驚いた猫の声) (男、鈴を拾ってサスの下に全身を戻す)  ※ここで使う鈴は小道具として舞台上に先に置いておく。蹴ったり動かしたりしないように、注意。 (男、しばらく呆然と鈴を見つめる。次第に蹲り、泣き始める) 男:う、うう……。どうして、どうしてこんな事に。死にたくない。まだ死にたくないよ……。 (男、舞台に鈴を持った手を叩きつけ、そのまま泣き続ける) (男、再び拳で舞台を叩く。音響はそれを合図に鈴の音を鳴らす) (男、泣くのを止めて動きを止め、数秒後、顔を上げる) 男:ああ、そうだ。ひょっとして、ひょっとすると。俺は助かるかもしれない。だって、そうだ。あいつは。あいつはまだ生きているじゃないか。(身体を起こす)そうだ。話したあいつは生きていて、聞いた俺ばかりが死ぬだなんて、そんなの、道理が通らねえ。 (男、這い寄るように前へ(舞台から落ちないように)。客席を見渡す) 男:なあ、あんたら。ここはひとつ、人助けだと思って、聞いちゃくれないか。……いや、おかしな真似なんてしやしねぇよ。話を、話を聞いてもらうだけさ。きっと、面白いと思うぜ? なんたって、あんたら。わざわざこんなところに来るくらいなんだ。 (サス、徐々に光を落とす) (ホリゾント、暗い青) 男:好きなんだろう、怖い話。聞いていけよ。 (ストップモーション) (舞台照明がシルエットになったのを確認してから) 男:『牛鬼の首』っていうんだ、この話は。 (暗転) (鈴の音) * 「じゃあさ、ホラーとかいいんじゃない? 低予算ホラー!」  そんなに大声を出さなくても、お前の声は最初から蝉になんか負けちゃいねぇよと俺は眉を潜めた。  だが、美魚(ミオ)の提案自体には概ね賛成だった。元よりアクセルべた踏みの見切り発車。俺達のささやかな『反乱』には、最初から行くアテも大義も無く、で、あれば、高尚な目的を掲げ品の良い古典劇を手本にしがちな顧問に対抗するには、むしろ安っぽくて俗っぽい怪奇モノが妥当なようにも思えて。 「しかし侮るなかれ! POV方式ホラーがいまや手垢がつく程乱用されているのは、低予算ながら世界的大ヒットをかました作品があったから! さらにさらに、パニックサメ映画の金字塔だって、セットの完成が遅れたのを逆手に取って、前半は全くサメを出さないままに「怯える人々」ばかりを撮って逆に観客の恐怖を煽る煽る! ……ようは、魅せ方次第で、エラソーな題材使わなくたって、みんなに面白がってもらえる作品は作れる、ってハナシ!」 「そうそう。問題は一高校生に過ぎない俺らが、知識も技術も無しにそんな大それた傑作を作れるか、って所なんだがな」 「わっはっは、ほんとそれなー!」  美魚は豪快に笑って、俺は肩を竦めた。 「ま、やってみようぜ。案外素人の頭で作った方が、馴染みがあるからウケるかもしれない」 「その意気だぜ青少年。とりま、お祝いをしよう!」 「何にだよ」 「方針が決まった事に!」  それから、と。  彼女は脇に置いていたスポーツ飲料のペットボトルを掲げる。 「私達の、多分輝かしき船出に、乾杯!」 「……乾杯」  そんなノリノリになる事か? と思わなくも無かったが、仕方が無いので、ノってやる。  なにせ、美魚はこれからの戦友で、そして普通に、友達なのだ。  俺達は、ペットボトルの側面を、中身がちゃぽんと揺れる音と共にぶつけ合わせた。  講堂の正面。  燦々と日差しの降り注ぐ、夏休みの真っただ中。  俺と美魚は、演劇部部員。  演劇部の、演劇部嫌い同盟の同志だった。 *  自転車通学が可能な範囲内にある公立高校の中で、ここの演劇部が一番クオリティが高いと聞いたから。というのが、今の高校に進学した理由だった。  しかし蓋を開けてみれば、ここの演劇部は部活動とは名ばかりの、演劇部顧問の個人劇団。  脚本・演出は全て顧問。自分の祖父の事をいちいち「おじいさま」と呼んだりする程度には育ちの良さを伺わせるこの英語教師は当たり前のようにシェイクスピア作品に傾倒していて、だから、その手の、妙に意識の高い舞台しか、俺達はやらせてもらえなかった。  分かる者には良さが解る--ようするに、春と秋に行われる大会の審査員にはウケるように作られた物語は、俺のような青二才にはオチの意味さえ図りかねるハナシばかり。  当初は何度も自分のセンスを疑いもしたが、舞台後に回収される同年代向けのアンケート用紙には「よくわからなかった」と一言添えられている事がほどんどで、どうやら俺の頭は引き続きまともでいてくれているらしい。  俺は、そんな大人だけが楽しい「よくわからない」ものをやりたいがために演劇部に入ったんじゃない。  素人なりに1つの舞台を1から作り上げて、自分では無い誰かを思いっきり演じて、見たい人にただただ単純に「面白かった」と手を叩いてほしかっただけなのだ。  なのに 「まめみむめもまも、まめみむめもまも、まめみ……」  講堂の出入り口。下駄箱の周りをゆっくりと歩き回りながら1人、ま行の発音トレーニングに勤しむ。  さ行とは行とま行は油断すると発声時にすぐひっかかりが出るので、とりあえずこれをやっていれば周囲からとやかく言われる事は無かった。  今回俺に割り振られた役は、通行人Cとデンマーク王子ハムレットの亡き父王と、それからオープニング時のバックダンサー。  台詞があるのは通行人Cだけで、あとは動きでの表現となる。この足運びも、ハムレットの前で舞台を横切っていく亡王の練習の一環だ。老王の訴えは、ハムレット役が勝手に解説してくれる手はずになっている。  ダンスはどうせ後で他の部員たちと合わせてやるので、その時に。……いや、本音を言えば、踊るのは嫌いなのだ。うちの高校のダンス部は陽キャの皮被ったチンピラの寄せ集めで、そのクセ(だからこそ、かもしれないが)文化祭では観客の視線を独占する連中は、俺の中では敵同然。あんなやつらと同じような真似をしていると思うと、ハッキリ言って、癪に障る。 (……文化祭、か)  ふとその単語を繰り返して、俺はさらに憂鬱になった。  県大会が、文化祭の1週間後に控えているのだ。  故に顧問の認識では「文化祭は県大会のリハーサル」となっており、専用の脚本等は用意されていない。俺達は顧問謹製の小難しい脚本を演じねばならなかったし、当然のように、ウケは悪かった。  それでも、そんな事にかまけている場合では無い。というのが顧問の弁で、部員はクラス別で開催される劇で役割を持つ事すら認められていない。  コイツ、高校生の青春を何だと思っているのだろう。と俺は内心憤っていたが、顧問の次に力のある部長と副部長は顧問に心酔していて、だから、誰かが何かを言い出せる雰囲気には、とてもならなくて。 「何だ、今の音は! ……今の音。い、ま、の、お、と。い、ま。ま、ま……」  通行人Cの台詞を、音に区切ったりしながら繰り返す。  別に、端役を振られる事が嫌なんじゃない。台詞が多い役だけが上等だとは思っていない。  だけど気乗りもしない舞台のための練習はこの後2時間は続くのだ。それの繰り返しが、あと3ヶ月。  「何だ、今の音は!」と宣いながら下駄箱前を歩き続けて潰すには、いささか長過ぎると辟易しても許されるだろう。  加えて6月の、むしむしと汗ばむ空気は、俺の嫌気を助長するばかりだった。 「なんだ、いまのおと、おと……」 「あっ、ごめん。台詞の練習中?」  と、鈴のようによく通る声を背後からかけられて、俺は脚本に落としていた視線を上げて、振り返る。  そこに居たのは、同級生の森川 美魚で。 「えっと……もうダンス練習?」 「ううん、衣装合わせ! ちょっと来てもらって良い?」  美魚は裏方担当の部員。所作は静かで、気配が無く、いつも突然現れるような印象を受けるのに、声だけは本当に大きい奴だ。今だって相応にびっくりさせられた。  しかし言葉はこんなにしっかり耳に届いているのに、彼女の言葉に心当たりが思い浮かばず、俺は小さく首を傾げた。  合わせる程の衣装、何かあったっけか。  もう、大まかには決まってた筈なんだけれど。  とはいえ従わない理由も無い。  俺は、美魚の後について、学校全体の共用スペースである講堂の2階にある、演劇部の厳密な意味での部室--先輩達から寄贈された衣装や小道具置き場兼、裏方担当部員たちの作業部屋--に、足を踏み入れる。  低い丸机の上に、美魚の言う『衣装』とやらは、乗っていた。 「え? これ、手甲?」 「そ! いわゆるガンドレット!」  黒い手袋に段ボールを張り合わせて作られたそれは、見た目が見た目なだけに手作り感満載ではあるものの、デザインや構造そのものは鎧騎士の腕回りとなんら遜色無い。 「ほら、手ってモロに年齢出るじゃん。手袋使おうかって話は出てたんだけど、紛いなりにも王様が、それだけっていうのも味気ないでしょ? だから、作ってみたの。まだ顧問に許可は取ってないけど、このくらい遊ばせてもらわなきゃ私もやってられないっていうか」 「え、すごいじゃん。これ、森川さんが作ったんだ」 「美魚でいいよ。タメだし、同じ部活の仲間じゃん。それに君は、どうやら見る眼がある!」  へへーん、と自慢げに笑いながら、ガンドレットを手に取った美魚は、見せびらかすようにしてそれを俺の方へと突き出す。 「ホントはもっと、こういうの作りたいんだけど……先生の脚本って、そんな雰囲気じゃないじゃん。今回は劇中劇にハムレットがあるから、まだやりがいあるけどね」  「これ、先生にはナイショだよ」と、美魚は取って付けたように舌を出す。  言わないよ、と。対して俺は、くたびれたような声が出た。 「俺だって、もっとこういうのを付けててもいいような、普通の話をやってみたいよ」  そして、ひょっとすると初めて、この部活に対する愚痴を聞いて、気が緩んでしまったのだろう。  つい口にした言葉にハッと我に返った時には、美魚はぱちくりと、目を瞬いていて。 「……」 「えっ、と……」  お前の話を内緒にする代わりに、俺の失言も黙っていてほしい。  そう、持ちかけるべきかと、口を開きかけて――  次の瞬間、美魚はずい、と俺の耳元に顔を寄せ、 「ねえ、この後さ、時間ある?」  自分の声の大きさを自覚しているのか。他には誰にも聞かれないよう、極限まで潜めたその声で、そんな言葉を、囁いた。 「……お、おう」  女子に、そんな至近距離で話しかけられた事は生まれてこの方初めてで  ただでさえ高温多湿に湯だっていた頬から絞り出すように、俺は辛うじて、肯定の言葉を息に乗せて吐き出すのだった。  これが、美魚と俺が手を組んだきっかけ。 *  美魚がこの高校に進学したのも、ここが自転車で通える範囲内にある高校の中で、一番演劇部の評判が良かったからなのだそうだ。 「なのに、蓋を開けてみたらびっくり仰天、顧問の私物劇団かってーの!」  近くのカラオケ屋。ワンドリンクの1時間コース。  なけなしの小遣いを出し合って頼んだポテト盛りをアテにちびちびとソフトドリンクのグラスを傾けながら、美魚が酔っ払いを装ってくだを巻く。 「私、本当は脚本がやりたかったんだよね。なんなら演出も。だけど、生徒がそれやらせてもらえるのって、卒業公演の時だけって話じゃん。聞いてないよ、もう……」  これまで演者としてやりたい舞台をやらせてもらえないと肩を落としていた訳だが、裏方、もっと言うと脚本家志望者は、さらに悲惨であったらしい。  そも、卒業公演は、3年生全体の「やりたい事」を総括して脚本を作ると聞いている。思い通りの1本なんて、どちらにせよ出来たものではないのだろう。 「だからせめて、評価だけでもしてほしいって、コレ」  ばさ、と。美魚はエナメルバッグから取り出した紙の束を、机の上に投げ置いた。  一番上の紙には、パソコンのWord機能で試行錯誤した事が滲み出る、辛うじておしゃれっぽく加工された色付き影付き斜め文字の明朝体で『空耳虫』と題が打たれている。 「見せたの、顧問に」 「って事は、脚本?」 「そ! ……でも、読んですらもらえなかった。テスト作成とシェイクスピアの翻訳に忙しいから、あなたも今は学生の本分に集中しなさい、って。テストはしゃーないけど、シェイクスピアは先生が好きでやってるんじゃん! そこで著作権法を順守する大人力があるなら、子供に経験の場を設けてもバチは当たらないんじゃないですかー!?」  唐突にマイクの電源をonにして、「ですかーですかーですかー」とセルフエコーにエコーをかける美魚。  ……俺はその傍らで、思わず美魚の書いたという脚本を取った。 「なあ、えっと……美魚。これ」 「読んでいいよ。っていうか、読んで欲しくて出した」 「……」 「読んで」  促されて。  俺は紙束のページをめくった。  それは、自分の事を蜘蛛だと思って虫ばかりを食べる娘と、彼女になんとしても普通の食事をさせたいと試みる青年の物語だった。  青年は一計を案じ、架空の虫--人々に空耳を聞かせる眼に見えない虫・空耳虫の話を娘に語り聞かせ、案の定空耳虫を食べてみたいと願った彼女に、そのための下準備だと一般的な食事を覚えさせていく……と、まあ、大まかなストーリーはそんな感じである。  なんとなく聞いたような話ではあるし、所々に素人特有の演出の拙さが見え隠れしている。  だけど美魚の言葉選びは高校生にしては巧妙で、会話のテンポも悪くない。コメディチックなやりとりと奇妙な世界観は、けして読んでいて嫌になるようなものではなかった。  そして何より、最後には2人はお互いの在り方を認め合って、少女の照れ隠しの言葉を青年が空耳と勘違いして終わる……と、ありきたりながらも、解り易い大団円で――少なくとも、県大会に向けてやっている劇の、主人公がハムレットの有名な一説を命題のように客席に投げかけて終わるエンディングよりは、俺好みで。 「いいじゃん。面白いよ、これ」 「本当?」  さしもの美魚も、自分の作品を人に読んでもらうとなると不安だったようだ。  ほっと胸を撫で下ろしてから、彼女はにっと微笑んだ。 「食べ物の小道具作るのとか、ちょっと憧れなんだよね。食品サンプルとか好きだからさ。それで、何かと食事シーンの多い話に仕上げたのでした!」 「ちょっと難しそうだけどな、物を食べる演技って。でも、俺これやってみたいよ。ちょっと演じてみても良い?」 「もちろん! はは、よかった、カラオケ屋さんにしといて。相手役は私がやるよ。下手だけどそこは許してね。……どのページがいいかな?」 「ここがいいな、青年が娘に空耳虫のフリして話しかけるところ。誤魔化し方が雑で好きなんだ」 「あはは、何ソレ! でも作者冥利に尽きるな、そう言ってもらえると。……それじゃあ、早速。「あら、もしかして、今の声は」」 「「ヒャア! クモノオヒメサマニキカレテシマッタァ!」」 「ぶふっ、ちょっ、待って、待って! どこから出してるのその声!! ひー! うそでしょひひっ!?」 「「ヒョエエエエェ~タベナイテ~! オタスケヲォ~ヲォ~ヲォ~」」 「ひひひひひやめてマイクでエコーかけないで! あはははお腹痛いんだけど!?」  こうして、部活の方針に不満を持っていた者同士、俺達はあっという間に打ち解けて、それから、美魚の書いた脚本の話や演技の話、好きな本や映画の話。あとは普通に学校での出来事なんかでも盛り上がって。  一曲も歌なんて歌わないまま、すっかりしなびたポテトをだけは、退出時間ぎりぎりになってから半分ずつ一気に頬張って。 「あー、楽しかった! 高校入学してから一番楽しかったかも!」 「俺も、まさか美魚がこんなに面白いやつだとは思わなかったよ」 「それ、君が言う?」  店を出た俺達は、駐輪場でお互いの自転車に軽く体を預けながら、名残惜しむようにこの1時間の所感を述べるのだった。  帰り道は、逆方向なのだ。 「今日はありがとうね。……自分の書いたものが日の目を見られて、本当に嬉しかった」 「大袈裟だなぁ」 「そんな事無いよ。たった1人の読者でも、たった1人の演者でも。0と1とは大違いなんだから」 「それは一理ある。……台本を書いてもらわなきゃ、演技も始められないからな」  どちらともなく、にっと笑い合う。  別の客がこちらに歩いてくるのが見えて、俺達は自転車の鍵を回して、駐輪場を出た。 「ねえ、次は明日の昼休みにどう? 他にも考えてるネタがあるんだ」 「奇遇だな、俺は顧問の愚痴をまだ言い足りてない。俺、購買行くから、そこで落ち合おうぜ」 「了解! じゃあ」  また明日。  まともに言葉を交わしたのは、今日が初めてだったとはとても思えないくらい自然とその言葉が出て、  次の日も、また次の日も。同じ約束を交わして、毎日違う話をした。  俺達だけで文化祭に出ようと、先に言い出したのがどちらだったかは、忘れてしまったけれど。  そんな提案がどちらからともなく出てくるまでに、そう大した時間はかからなかった。 * 「『牛鬼の首』?」 「うん。『牛の首』は知ってる?」  部活終わりのカラオケボックス。  差し出された、昨日出来上がったばかりだという台本は、今回はご丁寧にファイリングされており、それだけに美魚の本気度が伺える。……最も、ファイル自体は彼女に預けていた俺の私物なのだが。   「えっと、聞いた事あるような。怖い話だっていうのは判るけど。都市伝説の一種だっけ?」 「ふふん、ただの都市伝説と侮るなかれ! 『牛の首』は、一説によれば江戸時代から存在する怪談なのです! というワケで、モチーフにしても著作権法は許してくれるでしょう。向こうが南蛮の古典なら、こっちは江戸っ子の粋を見せつけてぇ~、あっ、やろうじゃぁねぇかぁ!」 「よっ、オモダカヤ」  脚本を俺に手渡して空いた手を虚空に構え、美魚がそれっぽく見得を切る。俺も適当に知っている屋号を被せた。  たっぷり数秒付き合わされてから、美魚は「それでね」と、何事も無かったかのようにこちらへと向き直る。 「『牛の首』っていうのは、「怖過ぎて聞いた人は死んじゃうから誰も内容を知らない怪談」……ようするに、「ものすごく怖い話」っていう形骸だけが1人歩きしている都市伝説なの」 「なるほど。ホラーの題材としちゃぴったりだし――中身は無いようなもんだから、逆を言えば、好きなようにいじくれるって事だな?」 「流石。話が早くて助かるわ~」  そう言って次に美魚が出してきたのは、彼女のスマートフォン。  画面には、牛の頭と人に似た上半身、そして蜘蛛のような下半身を持つ、毒々しい色合いの怪物の絵が表示されていて。 「で。これは牛鬼?」 「そ。そのまま『牛の首』にするのも何だったからさ、ここはひとつ、大妖怪の力も借りてやろうじゃないかと思ってね。……好きなんだ、牛鬼。妖怪の中では一番ね」 「牛鬼推しって、正直初めて見たな。俺の知ってる妖怪好きは、みんな大体、巨大な一つ目のついた黒い球体みたいな妖怪が好きだったよ」 「多分だけどね~、君の友達が好きだったのは、その妖怪自体じゃなくて可愛いロリッ娘だったんじゃないかなぁ」  まあロリコンと叱られたい人達はさて置き、と、美魚は改めて、スマホの中の異形の妖怪を見下ろした。 「牛鬼ってね、各地に伝説があるの。「海からやってくる巨大な化け物はみんな牛鬼呼ばわりだったんじゃないか」って推測する学者さんもいるくらいなんだって」  Wikiに書いてあった、と自慢げに、美魚。  作品作りの資料にその手の情報サイトを使うなと、特に作品を作らせてはくれない顧問が言っていたので、これもある意味で反抗のつもりなのかもしれない。 「基本的には、人や家畜を襲うどうしようもない化け物なんだけど……でも、その中には恩を返すために人を助ける義理堅い牛鬼の話もあってさ。見た目は恐ろしい怪物でも、中身は案外人間に近いのかもしれないと思うと、ほら、なんだか親近感湧かない?」  わからなくはないかなと俺は笑った。  そして彼女の識る牛鬼像が、彼女の紡ぐ物語の原点になっているのかもしれないと思うと、なおの事、どこか惹かれるものがあった。  思い返せば、最初に見せてもらった『空耳虫』も、解り合えなかった2人が、最終的にはお互いを認め合うお話だった。  他に構想を聞かせてもらったり、実際に見せてもらったものにしてもそうだ。  思想や文化。果ては種族をも超えて。  誰かと誰かが解り合う話が、美魚の書きたい物語らしい。 「まっ、今回はホラーだから、どうしようもない化け物方面の牛鬼なんだけどね」 「でしょうね」  ただまあその辺はテーマ次第といったところか。  しかし裏を返せば、解り合う物語に造詣が深いからこそ、解り合えない怪物の描き方にもまた理解が生まれるのだろう。  いよいよ美魚に急かされて脚本を開けば--きっと、彼女の今持てる知識や技術をふんだんに詰め込んだのだろう。  そこに在ったのは、足元から虫の這い上がって来るような、じわじわと意地の悪い物語。  『牛の首』という空っぽの怪談に、『牛鬼』という幾つもの伝承が有る故におぼろげな怪異が上手い具合に噛み合って、場面を想像するだけで、恐怖に  そして、主人公--いや、ありふれた切っ掛けから思いがけず牛鬼に目を付けられた哀れな犠牲者。名前すら無い『男』を演じるのが、この俺だと思うと  俺が、こんなに面白い役を演じていいのだと思うと、興奮に  肌が、粟立った。  俺は、きっと、ずっと。  これをやりたかったのだ。 「主人公は君で当て書きしたから。多分、演じやすいと思う。演じやすいと、いいんだけど」 「演じるさ。演じたいんだ。いや、すげーよ美魚! こんな大役、3年の公演でも振ってもらえるかどうか」 「またまた大袈裟な! ふふ、でも、ありがとね」  美魚は眉でハの字を書きながら、いつもより少しだけ声のトーンを落とした。 「ちょっとだけ、不安だったんだ。私のやりたい事ばっかりになってるんじゃないかなって。それに、どこまでいってもシロートだもん。演出の安っぽさって、脚本から滲んじゃうからさ」 「そんなことねーよ。俺は、むしろこっちの方面はからきしだから……全部美魚に投げっぱなしになってるなって、正直、申し訳なかった」  そうなの? と美魚は笑い、  そうだよ! と俺も笑った。  思わぬ本音を曝し合って、お互い気が晴れたのだと思う。  俺達は、本音ですら無い作り話を、本気で演じ始めるのだった。  俺は牛鬼に目を付けられた哀れな男の台詞を読み上げて、  美魚は部屋の照明を点けたり落としたり、スマホを操作してSEを鳴らしたりしながら、出来得る限り舞台の照明や音響を再現してみせた。  最後に、俺は死にゆく男の悲鳴を上げて―― 「……なんだろう、ここまで良かったのに、これだけどうもしっくりこなかったな」  非日常が、日常に戻ってしまう。  美魚もまた、部屋の照明を元の明るさに戻すと、うーんと首をひねっていた。 「カラオケボックスとはいえ人の居る所だから、遠慮しちゃってるんじゃない?」 「でも、本番はもっと人の居る所……に、なるといいんだけど。何にせよ舞台上でシャウトしなきゃいけないんだぜ? 多分、場所の問題って言うより……経験不足、だと思う」 「確かに、普段上げないもんね、こういう恐怖のあまりの「ぎゃー」って悲鳴」  どうしても「嘘っぽさ」が出てしまうのだ。  日常生活での恐怖体験なんて、クソでかい蜂に突進されて「うおっ」とか反応してしまう程度が精々である。 「どうしよう、代わりに咀嚼音的なSE入れるとか。もしくは直前の台詞から削って、シルエットで逃げ回る男をやってもらうとか?」 「いや、SEだと余計嘘っぽくなっちゃうし、シルエットは多分、うちの設備じゃ動き回ってる画は厳しいんじゃないかな。それに、イメージはできてるんだ。消え入るようにじゃなくて悲鳴をぶつ切りにして、男が牛鬼に喰われたのを表現したいんだよ。クソッ、美魚の脚本は完璧なのに……!」 「完璧じゃないよ、君と一緒。私も素人なんだから。高く買ってくれるのは嬉しいけど、脚本を買いかぶり過ぎて演出と演者が共倒れなんてかっこわるいでしょ? だから、ほい、コレ」  頭を抱える俺の手を、美魚は鞄から取り出した、なにやら細い物体で突く。  目をやってみると、それはまだ袋に入ったままの、新品の赤ペンだった。 「気付いたところとか、変えてほしいなと思うところがあったら、それでどんどん脚本に書き込んで欲しいの」 「? これ、消えないペンだろ? それに赤だと目立つぞ」 「だからいいんじゃない! 修正を更に修正する事になったとしても、「修正しようと思った何かがあった」ってトコロまでは消したくないんだよね」  そう言うと、美魚は筆箱から自分の赤ペンを取り出して、最後の悲鳴の後に「叫びきらずぶつ切りに」と付け足す。 「……君はさっき「美魚に丸投げで悪い」って言ってたけど、ぶっちゃけ脚本作りはここからが本番だよ! 演者視点で引っかかったところとか、どんどんツッコんでもらわなきゃ」  真の意味での完璧にはならないとしても  見てくれた人が、惰性では無く心から閉幕に手を叩いてくれる舞台を作る。  それが、私達のやりたい演劇じゃない? と、美魚はどこか悪戯っぽく、にっと笑うのだった。 「……そうだな」  アンケートに「よくわからない」と書かれて返って来るのが、不満だった。  演劇というひとつのジャンルそのものに造詣が深い人だけに、じゃなくて、見た人が、ただ、楽しんでくれる、心を動かしてくれる作品が「俺のやりたい物語」なのだ。  そして演劇である以上、演じる者がいなければ、どれだけ出来が良かろうとも、脚本は台詞ばかりの本に過ぎない。  俺は脚本のページをいくらか戻して、一度上手の袖にはけるシーンに「下手側の方がいいかも」と書き込んだ。 「直前の動き的に、こっちにはけた方が自然かなと思うんだ。実際に動いてみなきゃわかんないけど、だからこそ両方試したいっていうか」 「ん! 了解した。今度鍵の返却私の当番だから、その時こっそり試してみよう」  うん、と頷いてから。  でも、と俺は、もう一度最後のページを開いた。 「ここの悲鳴は、やっぱり、俺が練習してなんとかするべきだと思う。したいんだ」 「……そっか。そこまで言うなら、役者さんに頑張ってもらわなきゃだね」  ただ、問題の練習に関しては――と、俺も美魚も、首をひねる。 「「何だ、今の音は!」の前に、悲鳴を入れるとか? それで練習するとかどうよ」 「通行人Aが真っ先に叫ぶんだよな……」 「そうだった。うーん。悲鳴の練習、悲鳴の練習かぁ……」  ぶつぶつと呟きながら、思案顔の美魚。  しばらくして、彼女はぱっと顔を上げた。  瞳が、きらきらと光を帯びているようにも見える。 「あのさ、今度の休みって、空いてたりする?」 * 「キャー!!」  お前が上げてどうするんだと思ったが、一応練習の一環だという事を思い出して、俺も負けじと腹から声を出す。  演劇部は腹式呼吸による声量が命。腹式呼吸には腹筋が必須。そして腹筋の後には3倍の背筋をしなければ筋肉の見栄えが悪くなる。あとダンスに体幹が必要だから足腰も鍛えろというのが顧問の弁で、実のところ演劇部というのは、文化部の顔をした運動部である。  と、言う訳で。鍛えているので、声は出た。  だが、恐怖の悲鳴には程遠い。スリル自体は滅茶苦茶あるのだが、いかんせん俺達は、楽しんでいた。  久方ぶりの、部活の休み。  俺と美魚は、県外の遊園地に来ていた。 「久々に乗ったけど楽しいね! なかなかいい声出てたでしょ」 「だから、お前が叫んでどうすんだってーの」 「でも、ジェットコースターなら気兼ねなく叫べるでしょ? ほら、次はお化け屋敷行こう。お化け屋敷で恐怖を研究して、次のジェットコースター搭乗の際にその成果をお披露目するのです!」  欠片も色気の無い、動きやすそうなTシャツとジーンズ姿の美魚は、しかし制服姿しか知らない俺には少しばかり新鮮で、率直にそう伝えると「君の私服姿は舞台で見慣れてるから全く新鮮味が無いね」と笑われてしまった。 「もしかして、デートのつもりだった? んもう、最初にそう言ってくれたら、もっと背中の開いてるせくしぃな服着て来てあげたのに」 「まさか。むしろそんな雰囲気じゃ無くて良かったよ」 「あはは、私も良かったよ。君がアオハルと色恋沙汰を混同して考えるようなヤツじゃなくて。そんな奴には青春ならぬ文春砲です。どっかーん!」  美魚のフリだけの拳が、俺の脇腹を突く。  俺は「ぐあー」と叫びながら吹っ飛んだ。わざとらしい演技だったが、今日の美魚にはすこぶる好評だった。  最初の最初に耳元で囁かれた時には顔を真っ赤にしていた記憶があるが、今同じ事をされたとしても、俺は同じ反応は出来ないだろう。  美魚は、友達だ。  戦友であり  ……親友だと、向こうもそう思ってくれていたらいいな、と。そういう意味では、特別だったりもするのだけれど。  そうやって、馬鹿やりながらお化け屋敷を回って。いい歳こいて2人してビビり散らかして。  絶叫系をあるだけ巡って、乗る度に思いっきり叫びまわして。  演技の研究と銘打ってヒーローショーで名前も知らないヒーローを応援してみたり、渇いた喉に割高な値段を要求する遊園地の自販機に憤慨してみたり。  1日中、俺達は遊び倒した。 「本当に楽しかった~っ!」  最寄駅の改札を抜けるなり、美魚がうーんと身体を伸ばす。  だな、と、俺も相槌を打った。  夏休みとはいえ平日なのと、閉園時間より多少余裕を持って出てきたのが功を奏したのか、ホームは多少混んではいるが、満員電車ですし詰めといった事態には陥らずに済みそうである。  俺達が最前列なので、ひょっとすると、運が良ければ、座れるかもしれない。 「で、どう? 今日一日『練習』しまくって、悲鳴のコツはつかめたカンジ?」 「んー……うん。少なくとも、前より声は出せるんじゃないかな」  それに、悲鳴は兎も角、お化け屋敷が意外と本格的で、恐怖を感じた時の心の動きはヒントを掴めたかもしれないと述べると、それは良かったと美魚は微笑む。  アナウンスが入った。  電車が通過するらしい。俺達が乗るのは、この次の電車だ。 「あのさ」  名残惜しむように、しかしどこか晴れやかな様子で、美魚が口を開く。 「こんな事言ったら、君は怒るかもしれないけど……最近、部活で顧問の劇やるの、実は前程嫌じゃないんだ」 「……うん、俺も」  そっか  良かった。と。美魚は前を見て、にっと笑う。  それはきっと、やりたい劇じゃなかったとしても、一緒に劇を作りたい友達が出来たからだろう。  最近、周りからの演技の評価も良くなってきた。台詞がひとことしか無くても、ただ、舞台を歩くだけでも。褒められて悪い気はしない。  美魚の方も作った小道具の評判が良くて、ハムレットの相手役であるオフィーリアの衣装にも、彼女が手を加える許可が下りたらしい。  俺達はこの夏、めいっぱい部活に叛逆するための脚本を作るつもりでいるけれど  だけどもし、夏休みが明けて、文化祭の参加書類を提出する段階で、顧問にそれを取り下げられたとしても――きっと、俺も、美魚も、後悔はしないだろう。  その時はまた、カラオケ屋で1ドリンクと1品だけを頼りに、2人きりの公演をやるまでだ。  そう思える程度には、俺達の青春は、急に色鮮やかに輝き始めていて  だから、明日は、もっと楽しくなって  『牛鬼の首』の脚本も、俺の演技も、もっと完成に近づいて 「え?」  突然、背中を押された。  電車がホームに、入ってくるのが見えた。 *  死のうと思っていた。  線路に飛び込んで自殺しようと思っていたら、目の前にい仲睦まじくしているカップルがいて、腹が立った。  自分がこんなに苦しんでいるのに、当たり前みたいに幸せそうにしている奴らが居るのが許せなかった。  そう思ったら、身体が勝手に動いていた。  犯人の弁を纏めるとそんな感じで、俺がそれを知ったのは、美魚の葬式が終わった後だった。  美魚は、電車に轢かれて死んだそうだ。  辺りは血の川のようになって、身体も碌に、残らなかったのだそうだ。  俺は電車の側面に接触して、ホーム側に弾かれて、どこかで強く頭を打ったらしい。  数日間、目が覚めなくて。覚めてからも、ずっと悪い夢の中に居たようだ。  病室に押しかけてくる大人たちは、そんな俺の今の気持ちを、恋人を失った俺の気持ちを教えてくれと何人もが何度もせがんで来て。  その度に、俺は、彼女は恋人では無く友達だったのだと、うわ言のように、繰り返していたようである。 *  牛鬼が見え始めたのは、いつの頃からだっただろう。  退院を許され、マスコミや出歯亀の見舞客も激減し、ようするに、美魚の死に対する興味が、世間から薄れ始めた頃だった筈だから。それはきっと、8月の終わりの頃だったのではないだろうか。  ふと、唐突に蝉の声が止んだと思ったら、鈴の音が聞こえたような気がして。  そうして顔を上げたら、その怪物が、佇んでいたのだ。  腐ったような紫色の牛の上半身。黴の緑色を模した鬣。  赤いラインの模様が走る毒蜘蛛の下半身にも頭がついていて、それは鋭い牙の覗く大口を常に開いて見せつけていた。  それは、美魚がかつて見せてくれた牛鬼だった。 「……ずっと、疑問だったんだ」  俺は日がな一日眺め続けていた美魚謹製の脚本をようやく閉じて、目の前の牛鬼へと語りかける。 「牛鬼って言えば、牛の頭と蜘蛛の身体がくっついたような怪物なのに。美魚の見せてくれたアレは。……お前は、そういうのじゃなかったから」  牛鬼は、何も言わない。  微動だにもしない。  なのに時折、ちりん、ちりんと、牛鬼の角の先から垂れる金の鈴が、美しい音を立てている。  鈴の音は、美魚の声のようによく通った。 「なあ、ひょっとして。美魚は牛鬼だったんじゃないのか?」  問いかける。  牛鬼が、何も言って返さないのを良い事に。 「美魚が言ってた。一飯の恩を返すために、人を助けた牛鬼の話……人を助けた牛鬼は、代償に、身体が溶けて、死んでしまうんだって」  血の川のようだと  その様子は、例えられたらしい。 「なあ、あの時背中を押されたのは、俺だった筈だ。俺だけだった筈なんだ。死ぬのは、俺だった筈なのに」  現に俺は、電車と接触自体はしているのだ。  咄嗟に俺を引き寄せた反動で、今度は美魚が投げ出されたとでも言うのだろうか。きっとそう考える方が妥当なのだろう。  だけど、納得がいかなかった。そうはならないだろうと、頭がその展開を思い描く事を拒否し続けていた。 「どうして俺の代わりに美魚が死んだ? どうして美魚の家族は娘を死なせた俺をなじりに来ない? どうして美魚の身体は残らなかった? どうして――美魚が教えてくれた牛鬼は、お前なんだ」  牛鬼の顔には布が垂れ下がっていて、彼と目を合わせる事は出来ない。  しかしご丁寧にもその布に書かれたかの怪異の名が、答えを物語っているようだと、そう、判断する他に無くて。 「美魚は、牛鬼だったんじゃないのか?」  思想や文化。果ては種族をも超えて。  誰かと誰かが解り合う話を創りたがっていたのは--彼女が、そういうものでありたいと、願っていたからではないのかと。  俺は、ただ。訊ねたかったのだ。 「……」  ちりん、と。また小気味良い音が響いて。  刹那、思い出したかのように、蝉が夏の終わりを足掻くみたいに、勢いよく声を上げ始めた。  いつ、落としたのだろう。  牛鬼の居たところには、俺のスマホが落ちていて。  ひょっとすると、投げたのかもしれない。文字の向こうに透いて見える、同級生からの好奇や同情が嫌になって。  だがその時、俺は立ち上がって歩み寄り、しばらくぶりにスマホを手に取った。  顔認証によって拾い上げるなりセキュリティが解除されたロック画面をスワイプで流すと、画面の向こうには、当たり前のように先の牛鬼が待ち構えていて。 「……」  それは、美魚から送られてきた、脚本の理解度を上げるための資料だった。  比較的最近に出回ったという、牛鬼の怪談話。  『牛鬼の首』のベースのひとつとなったその物語では、しかし『牛の首』から取り入れた要素のように、人が死んでしまうのではなく―― *  俺はその次の日、あの遊園地の最寄り駅を訪れた。  外出の理由は、せめて、美魚の死んだ場所で手を合わせたいと。そんな事を言った気がする。  よくもまあ、口から出まかせが出来たものだ。  仕方が無い。俺はどうやら、まだまだ役者でいる気のようだったから。  駅は夏休みの最後を謳歌しにやって来た学生や家族連れでそれなりの賑わいを見せていて、ここで誰かが死んだなんて、たちの悪い怪談話以上には、きっと誰も考えもしないだろう。  ホームの向こうに鈴の音を鳴らす牛鬼が見えるだなんて、そんなこと。誰も、信じてはくれないように。  俺は駅を出てすぐ、線路への侵入を防ぐフェンス沿いに、俺は目を皿のようにして、目的のものを探し続けた。  途中、アルミを巻いた花用ではない瓶に粗末な仏花が備えられているのを見つけたが、両親に言ったように、手を合わせるような真似はしなかった。  美魚はこんなところで死んだわけじゃない。  美魚は、こんなところで死にたかったんじゃない。  こんなところに花を供えられたら、まるで彼女がここからフェンスを乗り越えて、自分から電車に飛び込んだみたいじゃないか。  だが、何の因果か。皮肉なのか。  俺が目的の物を見つけたのは、その花の、ほんのすぐ近くで。  目的の物を手にしたからか。  遠巻きに俺を眺めていた牛鬼は、気が付けば俺の視界の端、ぎりぎり姿を確認できる位置から、俺の事を見下ろしていて。  で、あれば。きっと間違いは無いのだろう。  俺が拾ったのは、石の欠片だった。  巻き上げられて、ここまで跳ね飛ばされたのだろう。  石は、渇いて赤茶けた液体に塗れていた。  牛鬼の血だと、そう思う事にした。 *  文化祭への出演は、思ったよりもすんなりと受理された。  顧問が俺を止めなかったのは、彼女の脚本を読まずに突き返したうしろめたさ故か、あるいは俺が長らく休んでいる間に、代役をきっちりと立てていたからか。  部員たちも、気持ち悪いくらい俺に協力的だった。  フィクションの登場人物にも負けず劣らず、すっかり悲劇の主人公じみた存在となった俺にスポットライトを当てるのには、きっと胸が躍ったに違いない。  まあ、よかった。  いくら演技を練習したとしても、美魚の考えてくれた素晴らしい演出を実行するには、どうしても1人の手では足りなかった訳だから。  案外、牛鬼も頼めば手伝ってくれたかもしれない。  ……なんて。いいや、どうだろう。彼らは人を助けると死んでじまうから、そんな親切心さえ、命取りになるのかもしれないし。  かくして舞台は整い、時は訪れ、幕は上がった。  客の入りは上々だった。  普段は演劇部の番を屋台巡りの時間と思い込んでいるような連中も、「亡くなった恋人の書いた脚本を演じる学生」というキャッチーさには惹かれたのだろう。  直前のダンス部の発表と比べると空席は目立ったが、それ以上に客席の中央を陣取る牛鬼の方が目を引いて、俺としては、気にするほどの事ではないように思えた。  始まるなり、上手からサスに駆けこんで来た俺を見てクスクス笑ったり声を潜めて何かを話している奴も居たが、物語が進行するにつれて、ここに居るのが俺であって俺では無いと、理解させられたのだろう。  会場は、とても静かだった。  時折、鈴の音が響く以外は。 「……」  最後の場面転換。  鈴以外の音をまるで立てる事無く、暗転の暗がりの中、蜘蛛の脚で器用に観客たちを跨ぎながら、こちらにやって来た牛鬼が壇上に上がる。  俺は観客たちにも、照明や音響を操る部員たちにも気付かれないように気を付けながら、懐からあの日拾った、牛鬼の血がついた石の破片を取り出した。  少しだけ加工して、先を尖らせてある。  俺は石を握り締めて、手の平の奥へ、奥へと破片を喰い込ませた。  不思議と、痛みは感じなかった。  ぱっ、と。サスペンションライトの光が俺の頭上に落ちる。  背後の牛鬼が眩しそうに首を傾けて、角の鈴が、ちりんと揺れた。 * (男、音響に合わせて手元の鈴を鳴らす仕草) (俯いて、しばらくしてから顔を上げる) 男:これが、俺の聞いた話の全て。経験した事の全てだ。 (男、鈴を足元に投げる(※踏んだり舞台から落としたりしないように注意)) 男:(くたびれたように)はあ、はは、ははははは。あんたら、聞こえるか? 鈴の音は聞こえるか? 聞こえないなら、俺の話をただの与太だと嗤ってくれ。 (数秒、沈黙) 男:ああ、静かだ。久しぶりに、静かだ。そうか、やっぱり、誰かに話せば良かったんだな。それとも、俺は夢を見ていたのかもしれない。だって、そうさ。おかしいじゃないか。聞けば牛鬼に憑り殺される話だなんて、そんなもの、存在する訳が無い。きっと、ただ怪談の恐ろしさに、あてられちまってただけなんだ。 (鈴の音) (男は気付いていない(ふりをしている)) 男:『牛の首』って怪談は、あんまりにも恐ろしいものだから、聞いただけで人が死んでしまう。そんな噂だけの物語に中身を詰めた野郎はとんでもない己惚れ屋だったんだろうさ。『牛の首』でなく、『牛鬼の首』と。そう、名付けたくらいなんだから。 (鈴の音) 男:(まくしたてるように)だっておかしいだろう? 言葉を介して感染するように人に憑りつく牛鬼だなんて、聞いた事が無ぇ! 俺だって色々調べたさ。牛鬼ってのは、人を襲う妖怪。それはわかる。だけど、話を聞いただけで相手を殺すだなんて、そんな、そんな話は (鈴の音) 男:話は、見つからなかったんだ。だから、なあ。あんたら……聞こえてなんか、いねぇだろう? (鈴の音) 男:鈴の音なんて鳴っちゃいないと、俺に、そう、当たり前の事実を教えてくれよ……。 (鈴の音 連続で3回) 男:ひぃっ! (男、下手袖側を見て飛び退き、尻もちをつく) 男:違う、違う。これも幻だ。鈴の音と一緒で、幻だ。なあ、なあ? そうだよな? (男、客席に問いかけながら、ゆっくりと後退る。視線はなるべく上の方で) (鈴の音は等間隔で鳴らし続ける) 男:どうしてだ? あいつは生きているじゃないか。俺は話した。俺も話した! あいつと同じように、この『牛鬼の首』を語り聞かせてみせたじゃないか! (男、尻もちの姿勢から這うような姿勢になって、舞台上を逃げ回る) (男、ふと動きを止め、こわばった表情で恐る恐る背後を見上げる) 男:なあ、まさか。ひょっとして、お前。 (もう一度尻もちの姿勢に成り、じりじりと後退しながら、舞台の中央へ) (少しずつ間隔を狭めながら鈴の音を連続で鳴らし続ける) 男:い、嫌だ、嫌だ。こっちに来ないでくれ! 俺を一体どうする気なんだ、俺達は友達だっただろう。やめてくれ。嫌だ、嫌だ! (徐々に基本照明を落とし、ホリゾントを暗い青) (男、舞台の中央で体勢を崩して動きを止める) 男:たすけ……ギャアアアアアアアアアア!!(叫びきらずぶつ切りに) (ストップモーション) (悲鳴と同時にホリゾントを赤にしてシルエット) (鈴の音。一定間隔で、緞帳が降りきるまで)  男、嫌な音を立てながら身体を変貌させる。  男、舞台を降りる。  男、人を襲う。  異変に気付いた客席から悲鳴が上がる。構わず人を襲う。  男、牛鬼になる。 (緞帳)  俺は、美魚に会いに行く。  終
【単発作品企画】牛鬼の首【彼岸開き】 content media
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快晴
2022年6月18日
In デジモン創作サロン
 Episode1  Episode2  Episode3  Episode4≪≪  田舎ではとても手に入らないような限定グッズ。  学生ではとても手が届かない値段の環境カード。  当たり前のように差し出され、施されるそれらを見て。私はようやく、この世界に自分の居場所が無い事を知った。  ……いいや、本当は。始める前から判っていた。  判っていたから、解って欲しくて、始めた事だった。  もはや恋と言っても過言では無い程惚れ込んだ、1枚のカードをみんなに愛して欲しかっただけなのに。  なのにふと気が付けば、私がみんなの『お姫様』で。  ああ、一体。いつ、私が。  そんなモノになりたいと願ったよ? * 「デジモン、アクアリウム共に異常なし。……はい。返却を受け付けたよ」 「いつもありがとう、店長さん」  じゃあ。と今しがた返したアクアリウムへと手の平を向けるが、中のデジモン――ゴリモンというらしい――は、もはや私に微塵も興味が無いようだ。穴の空いた樽を模したオブジェを寝床に、銃になった右手を枕にして、鼻提灯代わりの泡を水面に向けて幾つもぷかぷかと浮かべている。  水と硝子に隔たれてさえいなければ、ぐーぐーいびきも聞こえている事だろう。 「もしかして、ずっとこんな感じだったのかい?」 「まあ、はい。餌の時くらいだったかな、反応してくれるの。……でも、ゴリラは基本的には温和な性格らしいですしね。デジモンだとしてもそういう面をじっくり観察できたのは良かったです」 「それなら良かった。君が不快な思いをしなかったのなら、短い間だったとしても、君と暮らした経験はこの子にとって有意義な時間となった筈だから」  正直眉唾ではあるが、まあ、ただでさえ不思議な生き物を取り扱っている、年季の入った店長さんがそう言う以上、実際に、そうなのだろう。  それに、何事もマイナスよりはプラスに働く方が良いに決まっている。少なくとも、私がここ数日ゴリモンと暮らしていて嫌な思いをしなかったのは本当だ。ゴリモンにとっても良い時間であったのなら、それに越した事は無い。  返してもらった手数料とレンタル料を引いたアクアリウムの代金を財布に仕舞いながら、私はもう一度だけゴリモンの方を見た。  成熟した雄ゴリラは背中に銀色の毛が生え、シルバーバックと呼ばれるらしいが、ゴリモンは全ての毛が真っ白だ。  腕が銃器になっているという異様さを除いても、現実ではまずおお目にかかれない純白の猿人。  彼がその毛並みをゆらゆらと揺らしながら水の中でくつろいでいる光景の美しさは、きっと私がいくら手持ちの言葉を並べ立てたとしても、表現し切ることは出来ないだろう。 「我々としては」  と、私の視線に気付いたのか。店長さんは小型の水槽の側面に軽く指を添える。 「今から買い取りに変更してくれても、一向に構わないのだけれど」  だが、私は首を横に振った。  このやり取りも、もはや恒例行事のようなもので。 「そうしたいのは山々なんですけれど、1匹飼いだしたら我慢できなくなりそうですし。多頭飼育崩壊? とか。そういうの、シャレになりませんしね」  アクアリウムとデジモンをレンタルした回数も、もはや両の手では足りない回数になってしまった。  それだけ、デジモンという生き物には。そしてこの店には、言い表せない程の魅力があって。  1匹選べ、だなんて。とても出来ない相談だ。  それに、これらのアクアリウムは私の生活への潤いであるのと同時に、唯一無二の『資料』でもある。  私の描く物語に『次』がある限り、その舞台には、相応しい役者を引っ張って来なければならない。 「じゃあいつか」  添えていた指をいつの間にか水槽の底に滑り込ませ、店長さんはアクアリウムを持ち上げる。  小型とはいえ水を張った水槽は重いだろうが(実際重かった)、彼はその動作に年齢からくる無理を感じさせたりはしなかった。 「もしも君が運命の子に巡り合えた、その暁には。どうか、遠慮なく言って欲しい」  店長さんの声色に、私がアクアリウムを購入しない客である事への非難は微塵も混じっていない。嫌味を言うような人では無いし、レンタルという方式は最初から合意の上だ。  だから、単純に。  運命、という言葉に。そしてただの1つだけを選ぶというの行為に。引っかかりを覚えているのは私の事情で、勝手でしか無い。  何かに一途な思いを寄せ続けるのには、いくらか前に、もう、疲れてしまったから。 「……まあ、その時は」  だというのに、きっかけとなった行為自体は形を変えて続けているのだから。本当に、どこまでも浅はかで、滑稽な話だ。 「その時で」  生返事をしながら、次の『資料』を求めて透明なアクアリウムの表面に自分の顔以外の影を探す。  モンスターの名を冠する通り、怪物然としたデジモンがいい。  人でなしの恋の相手には、やはり、人外こそが相応しい。  私は、いわゆる文字書きという人種だ。  誰に見せるという訳でもないのだけれど。昔取った杵柄と言う名のペンだけを、未だに、捨てられないでいる人間だった。 *  趣味への情熱は掻き消え、新しいモノに手を出す余裕や気力は芽生えず。高まるのはエンゲル係数ばかり、とほぼほぼ人の形をした虚無になりかけていた私は、しかしそれでも--そんなものになりかけていたからこそ、自分の空白を埋めてくれる存在を探していたのだと思う。  青い屋根が綺麗だと思ったのが、きっかけだった。  特別浮いているという訳ではないけれど、こんな町にしては鮮やかな屋根瓦は家と職場を行き来する度になんだか目について。  とはいえ普段のルートがたまたま舗装工事で通行禁止になっていなければ、私はその屋根の下にアクアリウムの店がある事を、今になってもきっと知る事は無かっただろう。  田舎町特有の閉塞感がそのまま迷路の壁になったような路地伝いに、その店は、ぽつんと佇んでいた。  見た事すら無い異国の文字を使っているせいかエキゾチックな印象のある看板や、色とりどりの光をぼんやりと透かす磨りガラスとは対照的に、ドアノブにぶら下がった『OPEN』の札はひどく簡素で、業務的で。  それらのちぐはぐ具合に、その時の私は妙に惹かれたのだった。  得体の知れない店だからと気後れして引き返さなかった自分の選択は、私の人生の中では珍しく正解であったのだろう。  モノクロ写真から歩み出てきたような老紳士の店主。幻想的なアクアリウムと、その中に住まう幻想そのものの生き物達。  夢にも描けないような世界が、こんな片田舎の一角に在っただなんて。とても信じられないのに光景は目の前にあって――私はすっかり、この店に魅せられてしまったのである。  最初に借りたのは、タンクモンというデジモンのアクアリウムだった。  とてもひとつのアクアリウムを選ぶなんてできないと思わず零してしまった私にレンタルという方式を提案してくれたのは、店長さんの方だった。  なんでもパピーウォーカー的な形で、デジモンを人に慣らすための一時預かりというのは、一応、需要があるのだそうで。  戦車を無理くり生き物に変貌させたような、デジモン自身のインパクトのある風貌にはもちろんの事、弓なりに曲がった流木をいくつか重ねて組まれた塹壕の滑らかな表面や、灰の砂利を掻き分けて水槽のあちこちに絡みつく青々とした水草の対比は見るも鮮やかで、最初のアクアリウムとして選ぶには申し分ないと、まあ、散々悩んだ末ではあるが、私はそのアクアリウムを家に持ち帰ったのだった。  机上に積んでいた本やゲームのパッケージを久方ぶりに有るべき棚へと戻して飾ったタンクモンのアクアリウムは、期待以上に私の家での時間を色鮮やかな物にしてくれた。  何せ、ありふれた日常の中に戦場の一幕のような光景が飾られていているのだ。  専用のアプリで食事を差し出せば、塹壕の中で身を屈めて鋭い牙を剥き出しにし、がつがつと頬張るタンクモンの横顔は、実際に見た事など当然無いけれど、私が想像出来得る限りの兵士の顔をしていて。  食事を見守る私にさえ向けられる鋭い眼光には、硝子越しとはいえすくみ上るような迫力があった。  しかし、さて。レンタルという形を取っている以上、この新たな同居人との生活の『区切り』を決めなければならないと。そう思った時にほぼほぼ無意識に選んでいた手段が、『筆を執る』という行為だった。  まあ、比喩ではある。筆とは言っても、実際はキーボードを延々叩き続ける作業なのだ。昔から、私の書く文字は酷く汚い。  だがそれはそれとして。長らく忌むべきモノと遠ざけるようにしていた執筆であったのに。……結局、私には文章しか無かったのだ。心の動く体験を、何らかの形で留めておくための技能は。  だから、嫌になって。投げ出した筈だったのに。  明日の自分を顧みず、夜通しパソコンと向き合った末に出来上がったのは、歯の浮くような恋の話だった。  戦車の怪物が、少女を救う話だ。銃の腕でも構わずに、1人の女の子を怪物が抱きしめる話だ。  私は話が書き上がった日の次の休みにタンクモンのアクアリウムをお店に返却して、それからは、同じ事の繰り返しである。  その時目についたアクアリウムを借りて、中のデジモンをモチーフにした恋物語を書く。出来上がったら時間のある日にアクアリウムを返して、また次のデジモンを借りる。  誰に見せるという訳でも無い。称賛も、感想も、もはや望みはしない。  誰も知らない秘密のルーチンワークは、私が自分を虚無では無いと信じ込むための縁でしかないのだから。  だから、今日も。  読みたい物では無く書いた物を積むために、私は次のアクアリウムを探していたに過ぎないのだけれど。
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快晴
2022年6月12日
In デジモン創作サロン
 はじめに  こちらの小説は、拙作『デジモンプレセデント』の最終回後のお話となっています。  『デジモンプレセデント』に登場する人物やキーワードを読者が知っている前提でお話が展開しますので、その点は、初めにご留意いただけると助かります。  それでもOKという方は、よろしければ、『前例』のその後の物語に、どうかお付き合い頂ければ幸いです。  以下、本編です。 *  思わず顔をしかめてしまうような、吐き気の込み上げる汚泥の臭いでもしてくれれば。そうすればボクは、どれだけ救われた事だろう。  足元をひやりと濡らすその感覚は、幼い頃両親に連れられて遊びに行った遠浅の海の感覚にも似ていて、実際に、あの子が進化前も進化後も海の生き物の姿を模していたからか。その液体からは、幽かに潮の香りがした。  空になった金属の寝台の上にはあの子のデジコアすら残されておらず、本来デジモンの死を視覚的にボクらに叩きつける筈の粒子化の兆候は、いつまで経っても、足元の液体には訪れてはくれなかった。  だから、理解する。  理解するしか無かった。  同じ失敗だとしても、身体を維持しきれずレアモンに進化しただとか、そういう訳じゃ無くて。  あの子は――ボクのパートナーは、溶けて。  デジコアすらも、残らなかったのだ。 *  デジモンプレセデントスピンオフ  Episode マカド ユキトシ ‐ 2 or 0 * 「くちゅん」  自分のくしゃみで目を覚ましたボクを、カジカPが車の助手席から信じられない物を見るような眼で見つめていた。  ボク的にはフローラモンさんのせいで割とよくある目覚めの瞬間なのだけれど、やっぱり、世間的には珍しいのだろうか、くしゃみで起床。 「……なんでそんなやたら品の有るくしゃみがあんたから出てくるんだよ」 「あっ、そっち? いやぁ、でも心外だねカジカP。その言い方だと、普段のぼくの品性がカンザキさんに疑われちゃうじゃないか!」 「疑うまでも無く信用してないぞ元テロリスト」  カジカPが何かを言い出す前に、運転席からそんな一言が飛んでくる。  言葉選びの割に語調に棘は無く、むしろ軽口といった調子で台詞を吐き出しているのは甘崎鋭一――今回の仕事をボクに押し付けてきた、ボクの担当してくれている保護司だ。  僕よりずっと年上(とはいっても、保護司としては若い方なんだそうだけれど)なクセに、早くに引退したイケメン俳優がいいカンジに歳を重ねた姿だと言っても結構な割合で信じてもらえそうな程顔の良いおじさんだ。さっきの話じゃないけれど、かけている眼鏡や着ている服、今こうやって乗せてもらっている車にしたって、品と言うか、センスがある。  なんか、カジカPの親戚らしいのだけれど。君の家はアレか、こういう、何かと突出した人種が生まれやすい家系なのか。 「ま、俺の車にでかいくしゃみで汚い唾飛ばさなかった事自体は褒めてやる。……だがそれ以前に」  と、今度は若干の棘を含めて、カンザキさんの意識がボクから移動した。  ボクの隣--シートベルトだけは行儀よく装着して、ツンすました表情で席に腰かけている、鮮やかな花のデジモンへと。 「パートナーのしつけはちゃんとしとけ。こんな狭い社内で花粉、出させるな」 「ふん、ぼくがマカド以外に花粉を吸わせるなんて、そんなヘマするもんか」  ぷい、と。  便宜上ボクの現パートナーであるフローラモンさん――元々は、ピノッキモンだった――は、気を悪くした様子を隠すでもなく、顔を窓の方へと逸らす。 「大体、もうすぐ着くのにマヌケ面で寝てるコイツが悪いんだ。ぼくは起こしてやったんだぞ? ぼくがいないと、コイツはホントにダメなヤツだからな!」  言ってる事の傍若無人っぷりはすごいのだけれど、なのにどことなく、言葉の奥にはかつての姿と重なる部分が少しだけあって。ボクは思わず笑ってしまう。  すぐさまそれを察したのか、単純に窓ガラスに反射していたのか。振り向いたフローラモンさんが「なに笑ってるんだ」と目を吊り上げたものだから、今度は僕が、窓の外へと視線を逸らす羽目になったのだけれど。  しかし……ああ、「元テロリスト」。  その肩書は、少なくともあの研究所では、デジモン嫌いを極め過ぎたハタシマさんだけのモノだった筈なのだけれど。  でもキョウヤマ先生に加担したばっかりに、世間一般で見ればまあ、ボクも、ボクとハタシマさん以外のあの場に居た人達もみんな、そういうモノという事になってしまっているらしい。  仕方の無い事だし、この期に及んでボク自身は、あの頃を振り返ってもなんら後悔は湧いてこないのだけれど。  でも、ハタシマさんと同類にされるのは普通に嫌だなぁ。  ……なんて思いながら顔を上げれば、緑の葉の隙間からいくつもの橙色が覗く蜜柑畑の向こうに、空じゃない青色が  海が、見え始めていて。 「……」  窓を開けたら、もうそろそろ。  潮の香りが、するのだろうか。  あの日、研究室で嗅いだのと同じような。 *  どうしてボクとフローラモンさんがカジカPやカンザキさんと一緒に海に行くはめになったのか。  事の始まりは、数日前にまで遡る。 「社会奉仕の一環だと思って手伝え」  自分でも解る程度には渋い顔をしていたボクを、それでも逃がさないようにカンザキさんが、一言。  出かけたと思ったらカジカPを連れて帰ってきたものだから何事かと思ったのだけれど、『音楽クリエイターと歌姫』であると同時に『水の闘士とそのパートナー』でもあるカジカPと彼のパートナーのオタマモン経由でやって来る仕事など、はっきり言って厄介事以外の何物である筈も無く。 「そりゃ、新種のデジモンってハナシはそそられるけどさぁ」  場所は和歌山県某所の海水浴場。  突如海の中から誰も見た事の無いデジモンが出現し、暴れまわったらしい。  時間帯の関係か、単純な幸運か。地元の一般人や観光客に目立った被害が出る事は無かったものの、応戦した現地のデジモン研究者のパートナー1体が、不幸にも犠牲になってしまったのだそうだ。  彼は自分の命と引き換えにその場からは件のデジモンを追い払ったというが、リアルワールドから撤退させたわけでも無し、ましてや消滅させられたのは彼の方なのだ。現地の人間・デジモンは、今も不安にさらされているのだろう。 「そういうワケだから、ゲコ達に白羽の矢が立ったのゲコよ」 「まあ普通海に逃げられたらどうしようもあらへんからの。水中の痕跡を辿るやなんて、よっぽどやないとでけへんさかい。……そ、例えばウチみたいな、水の闘士でもない限りはな」  とまあ、ようはそういうワケだ。  古代十闘士・エンシェントマーメイモン。ネットの海の守護神であるが故にデジタルワールドの海域であればまるで手足のように操る事が出来たという、水棲デジモン達の祖。  その途方も無い力を癇癪で行使して島一つ消し飛ばした事があるとか無いとかいう激情家の直系こそが、カジカPのオタマモンが纏う水のスピリットの闘士なのだ。  原初の究極体には及ばずとも、きっと彼女達には、現代の一般的なデジモンにとっての不可能を、可能にしてしまえる力があるのだろう。  だから、それは解る。  どうしてカジカP達が駆り出されているかについては、よーく解る。  問題は、どうして彼らの付き添いとして、ボクが事態に巻き込まれようとしているのか。なのだけれど。 「「調査に協力してくれるなら、水棲デジモンの専門家も連れてきてほしい」っつーのが向こうからの要望だ。……お前、専門はそっちだったろう」 「……」  いや、  うん、  まあ、  そんな事だろうとは、思ったけれど。 「それこそ、他に適任がいるでしょ。ほら、カジカP。君のフィアンセの上司とかさ」  カジカPが盛大に噴き出す。  君達、付き合ってもう3年くらいになるんじゃなかったっけ。まだそんな初々しい反応するのかい? 「まっ、まっ、まっ!! まだそういう感じじゃないから!?」 「結婚を前提に付き合ってる気は無いんだ、キミは。へぇ」 「あっ、いやそういう訳じゃっ! けしてそういう訳じゃッ!! 俺もリューカちゃんも今はまだ仕事に打ち込みたいって感じだからってだけでけして軽い気持ちで付き合ってるってわけじゃないっ、ないんですよ!?」  ここまでわかりやすいくらいテンパっている人も中々見ないよなとカジカPの真っ赤な顔を観察するボクの頭に、不意に衝撃が走った。  いや、まあ衝撃とは言っても大したものではない。ぺち、と軽い何かが、振り下ろされたような感覚。  カジカPのミューズは彼の足元で前脚を軽く竦めているし、カンザキさんは「若者をあんまりからかうんじゃねえ」とでも言いたげな視線だが目の前で腕組みをして立っているだけ。  と、なると。  ……なんて、答え合わせをするよりも前に、ぺた、と根っこの脚でボクの前へと降り立つ影が一つ。  部屋の奥で遊んでいた筈のフローラモンさんだ。 「ほら、マカドの無駄話は止めてやったぞ。さっさと続きを話せカジカ」 「お、おう。フローラモン。元気そうで何より……」 「? どうしたフローラモン。さっきまで面倒臭くて仕方ないって顔してた癖に。えらく食いつくじゃねえか」 「うるさいなぁ。マカドが駆り出されるならぼくもついて行かなきゃだから、わざわざ聞きに来てやったんだぞ。ほら、早く」  そう言ってカジカPを急かすフローラモンの声は、妙に弾んでいる。  面子から何かを察したのか、しかめっ面でそそくさと引っ込んでいったデジモンと同じ個体だとは思えないような変わりようだ。  とはいえ話がスムーズに進むならそれに越した事は無いと判断したのだろう。今度はカジカPに代わって、オタマモンが口を開いた。 「もちろん、ゲコ達は先にカンナさんに声をかけたゲコ。でもカンナさんは今、次の学会の準備でとっても忙しいのゲコ」 「それに、ウンノ教授はデジモンの進化分野においては今や日本有数の研究家ではあるが、水棲デジモンのみに的を絞った時までそうかと聞かれれば、そうじゃない」  キョウヤマ先生のご子息のデータを使っているとかいう義手をひらひらと振りながら、あっけらかんと「アタシより詳しい奴なんていくらでもいるだろうさ」と答えるウンノ先生の姿が、話からだけでも想像できる。  本人には謙遜のつもりも無いのだろう。……頭脳に加え、単純な『戦力』として数えれば多少畑違いだとしてもあの人ほど心強い人材もそうそう居ないと思うのだが、でもまあ、忙しいなら致し方ない。  そしてウンノ先生が学会で忙しいなら、他のほとんどのデジモン学者だって学会に向けて忙しくしている訳で。  だから、当然この先一生デジモン学会からもお呼びがかかる筈の無い、しかし辛うじて昔取った杵柄だけはある暇人のボクにお鉢が回って来た、と。  明快な流れだ。自業自得とはいえ、少し悲しくなる。  なんて、僅かに遠いところを見る僕の傍ら。  ふん、と、フローラモンが、鼻を鳴らした。 「カンナの事情なんて知ったこっちゃないけど。ま、どうしてもって言うならぼくは行ってやってもいい」 「フローラモンさん?」  いやに乗り気なフローラモンさんに疑問符を投げかけると、彼は黙っていろと言わんばかりに、ぺちん、とボクの脛を腕の先にある花弁で叩いた。 「パートナーとはいえ毎日コイツみたいな阿呆と家で2人っきりだと、ホントに気が滅入るんだ。たまには他所の空気ぐらい吸わせてもらわないと、いくらぼくでもしおれちゃいそうだもの」  肩を竦めつつ、しかしどこか期待に満ちた、うずうずとした立ち振る舞いを前に、ボクはようやくピンと来た。  他所の空気--潮風の香り。 「ああ、なるほどなるほど、わかったぞ! フローラモンさんってば、海に行きたいんだね!」  顔を覆う花弁と同じくらい頭部を真っ赤にしながら、フローラモンさんは先ほどよりも力を込めて、ボクの脚を何度か叩くのだった。 *  とまあ、フローラモンさんたっての希望となれば、ボクの方もいよいよ断る訳にはいかず、車でおよそ3時間。ボク達は県を跨いで、いくつかの蜜柑畑を通り抜け。件の海水浴場へとやって来た。  ちょっとした林に囲われた駐車場はカンザキさんの愛車以外に車は一台も停まっておらず、隣接しているシャワールーム兼脱衣所に至っては、入り口をテープで封鎖しているような有様だ。この分だと、海の家などとても営業していないだろう。  平日とはいえ、時期的には夏休みの真っただ中。今回の事件は、海水浴場にとっても大きな打撃に違いあるまい。 「なんだ、思ってたよりずーっとヘンピなところだな」 「仕方ねぇだろう。……危険なデジモンがうろついてるかもしれねぇんだ。あんまりはしゃいでくれるなよフローラモン」 「ふん! わかってるよ。ぼくをマカドと一緒にするな!」 「うーん、ボクは今のところ至って大人しくしてるんだけどなぁー?」  どうだか、とでも言いたげな視線が2つ程。  やはりパートナー同士、考える事も似たり寄ったりなのだろう。新種のデジモンを前にボクがテンションをぶち上げない訳が無いとでも言いたげな目を、カジカPとオタマモンはこちらに向けていた。  まあ、  否定はしないけれども。  ……でも、今は。  潮の匂いがきついなぁって、そっちの方が、気になっているところだ。  と、 「あっ、おーい! お疲れ様です!」  女性の声と共に、ぱたぱたとアスファルトを蹴るビーチサンダルの音。  一斉に振り返ると、白衣姿で比較的背の高い女性が、短い髪をふわふわと揺らしながらこちらに走って来るところだった。 「ごめんなさい、私ったら逆方向に居たみたいで……お待たせしてしまったんじゃないですか?」 「いいや、今着いたところだよ。むしろ悪いね、迎えに来てもらっちまって」  こんな時に、と、付け加えるカンザキさんに、女性は首を横に振って力無く微笑んだ。 「いえ、無理をお願いしたのは私の方なので」  女性が今度はボクやカジカPの方へと向き直って、頭を下げる。 「初めまして。この町で水棲デジモンの研究をしている笹原優海(ササハラ ユウミ)です」  顔を上げた頃には、既に彼女--ササハラは笑顔の種類を変えていて。それを見た途端、奇妙な感覚がボクの脳裏を通り過ぎていったような気がした。  これは―― 「ササハラさん」 「?」 「ほんとのほんとに、初めまして? ボク達、前に会った事無い?」  奇妙な感覚――既視感の正体を探ろうとしたボクの足を、次の瞬間、フローラモンさんがまた叩いた。 「はじめましてって言ってるだろう? お前、ホントに人の話を聞かないな!」  声を張り上げるフローラモンさんを、ササハラがふいに一瞥する。彼女はまるで、今初めてフローラモンさんを視界に入れたかのように見えた。 「……どう、でしょう」  首をかしげがてら、彼女は視線をボクへと戻す。 「研究分野は同じですから、もしかしたら、どこかでお会いした事があったのかも」 「でしょでしょ? ほら、ササハラさんだってこう言ってる」 「おいササハラ、コイツに無理に話合わせなくていいぞ。すぐに調子に乗るからな」 「馬門志年さん、ですよね」  ササハラは引き続き、じっと、ボクを見据えている。  当然、カンザキさんが伝えているのだろう。そうでなくとも。本当に初対面だとしても。ボクの名前は、悪い意味で全国に知れ渡っている訳で。  だというのに、少なくとも今のところ。ササハラの瞳に、犯罪者としてのボクに対する侮蔑は含まれていないように見えて。 「お力添え、ありがとうございます。短い間だとは思いますが、どうかよろしくお願いしますね」 「あれあれあれあれ? いいのぉ? ボクってば一応元テロリストだよ? チェンジ! ぐらいの事言ってくれても、別に気にしないんだけど」 「いえ、そんな。……全く気にしていない、と言えば嘘にはなりますが、でも見ての通りの田舎町なので、同じ分野の方とじっくりお話できる機会は久しぶりでして……。来てもらえただけでも、本当に嬉しいんです」 「おいササハラ、そいつサボりたいだけだぞ。一々相手するなって。後が面倒なんだから」  暴力行為は伴わずとも若干痛いところを突いてくるフローラモンさんには構わずに、ササハラはこちらに手を差し出す。  ……久々過ぎて、見かねたカンザキさんに小突かれるまで。握手を促されているのだとボクは気付けなかった。  慌てて手を握り返す。  背は高い方だけれど、手の平は小さいんだなと、そんな事を考えたりした。 「ええっと、それから」  軽い会釈と共にどちらともなく手を解いた後、ササハラは眼鏡のブリッジをくい、と持ち上げたかと思うと、次にカジカP達の方へと身体を向ける。  心なしか、声のトーンが一段階上がっているような。 「カジカさんと、オタマモンさんですよね」 「っす。本名は鹿賀颯也なんで、好きな方で呼んで下さい」 「ゲコ」 「えっと、ではカガさん。オタマモンさん。……あの『水のスピリット』のカガさんとオタマモンさんですよね!?」 「え、あ、ハイ。その」 「せやで。ほんでもってウチがその『水のスピリット』や」 「!? 今の、今のもしかして、『水のスピリット』の声ですか? 声だったりします!?」 「ゲ、ゲコ」 「あの、その、ちょっと見せてもらう事とかって――」  ふう、と、ボクの傍らでカンザキさんが息を吐く。  彼がササハラに向けた眼差しには、若干の憐みが混じっていた。 「お前に言うのも何だが、まあ、大目に見てやってくれ。パートナーを失くしたばかりだ。無理にテンション上げてかないと、気力が持たないんだろう」 「……」  お前に言うのも、とは言ったけれど。  カンザキさんが彼女に重ねているのは、他ならぬ過去のボクの影なのだろう。  反省の色が見えない。胸糞悪い人でなし。パートナー殺しの狂人。マッドサイエンティスト。……キョウヤマ先生のところに居た時に思い立ってエゴサしてみたら、散々な言いようが当時の記事から掘り返せたっけか。  まあ、全部事実だし。  仕方が無いんだけど。 「って事は、彼女のパートナーが、その新種のデジモンにやられちゃったっていう」  思考を逸らすためにカンザキさんの発言に沿う。  言い方を選べ、と咎めつつ、カンザキさんは、内容自体は否定しなかった。  ササハラは相変わらず、きらきらと目を輝かせながらオタマモンとカジカPのデジヴァイスに視線を行ったり来たりさせている。 「だとしても」  ふん、と。またフローラモンさんが鼻を鳴らした。 「ぼくはあいつ、嫌いだな。礼儀がなっていないんだもの」  「お前に言われたか無いと思うぞ」とフローラモンさんを軽く咎めるカンザキさんの低い声はもちろん聞こえているのだけれど、ボクの耳はふと、波の音が近いなと。寄せては返すその音にばかり、傾き始めていた。  こんな音の中を、あの子と一緒に駆けて行った事もあったっけか。
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快晴
2022年5月29日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話        次の話≫≫  俺は腹を抱えて笑い転げた。  なんて滑稽! なんて惨め!  出会った時からツイてない野郎だとは思っていたが、まさかこれほどとは。  過呼吸を起こしながら、右目から溢れた涙をぬぐう。生理現象というやつか。人の身体は何かと不便だが、この愉快なキモチを彩るスパイスだと思えば、けして悪いものでは無い。  俺はとにかく、気分が良かった。 「もう一度!」  表情が変わらないなりに瞳の奥に「不快」を滲ませるリンドウの肩を掴み、寝物語を寝ないで強請るガキのように、俺は彼女に詰め寄った。 「もう一度、話しておくれ。お前のオカアサンの最期について」 「父が、お母さんを殺したの。……パートナーの、デジモンを使って」  だが、リンドウの方も何度でも繰り返す心づもりらしい。  忘れないように。刻み付けるように。  怯えた子供の躊躇は、最初から、どこにも無かった。 「でもすぐに死んだわけじゃないんだってな。一緒に家の外に逃げて、偶然にも、奇跡的にも! 『迷路』の入り口を見つけて。……オカアサンは、何て言ったんだっけ?」 「私の本当のお父さんは、『迷路』で絵本のお店をしているって」 「うんうん」 「あなたは、人殺しの娘じゃ無いって」 「それでそれで?」 「「あなたはひとりぼっちにはならない」って。……後は、「行って」って。……おしまい」  こらえきれずに噴き出して、今度は文字通り、その場に転がってげらげらと笑った。  声を上げて笑った。  ああ、可笑しい。可笑しい、可笑しい!  慣れない事をするからだ阿呆め。本当に、何一つ成せない哀れな道化だったな『オマエ』はよう。 「だがお前がオトウサンだと思っていた男はただのオカアサンの昔のトモダチ! お前は妻を殺した男の娘で、今では見知らぬ土地でひとりぼっち!! ああ、人生ままならねェな。わかる。わかるよ。オレサマだって面白おかしく暮らしてただけなのに――」  ……。  顔の筋肉が一瞬で表情を真顔に作り替えたのが解った。  あー、嫌な事思い出した。最悪だ。こんなところでも俺の悦びに水を差しやがって。あの腐れ聖騎士め。 「まあいい。……ああ、可哀想なリンドウ。『選ばれし子供』の2世。なまじ力を持って産まれてきたばかりに、実の親からも過酷な運命を強要される悲しき存在よ」  言い争っていたのだと、リンドウは言った。  父親の提案に対して、彼女のオカアサンは、その言葉を否定し、リンドウを連れて逃げ出そうとしていたのだと。  そこを、背後からブスリとひと刺し。  ……連中、なまじ選ばれて生まれてきた自負があるばかりに、俺を追い払った今でも自分達が世界を護る特別な存在だと信じ続けているのだろう。  そしてその役割を、己の子供たちにも、同じように。 「『アイツ』に「後は任せた」って言われたからな。手伝ってやっても良いぜ。……お前が運命に、抗いたいなら、な」 「手伝ってほしい、の間違いでしょ。あなたが、復讐したいのを」 「言うねエ。まァ、そのくらいの気概がなきゃ始まらねえ。……うまくやれると思うぜ、俺達は」 「……」  リンドウの前で、指を3本立てる。  今度はボキリと折ったりはしないさ。人間の骨折は、直ぐには治らないらしいからな。 「俺の目的は3つ。正確には、1つの目標を成すために2つの手段ってところだが。……まず1つ目」  俺は黄昏の色をした左目を動かして、リンドウの足元に控える成長期デジモンを見下ろす。  折角取り込んでいた『暴食』を分けてやったというのに、そいつ--モルフォモンは、警戒心たっぷりに俺を睨みつけていた。そんなあどけない顔でねめつけられても全くすごみは無いのだが、やれやれ、この恩知らずめ。 「『七大魔王』の捕食。……正確には、昔『迷路』にいたオグドモンの分け身、だな。アレは良かった。すごく良かった。全部喰い切れれば、前以上の力が手に入った筈なのに」  『コイツ』に残されていた知識曰く、リヴァイアモンの元ネタであるリヴァイアサンは、終末の際に神から人々に分け与えられる供物であるともいう。  神からの供物。  その特性故か、『暴食』をモルフォモンに貸し与えてなおアーマゲモンに進化できるだけの力を確保できたわけなの、だが。  まだ、足りない。  あの聖騎士を殺すには――まだ、まだ足りない。 「『傲慢』と『暴食』は取り込んだが、他は『迷路』の各地に散らばっちまった。内、『嫉妬』はマンモンに。『強欲』はオグドモンのパートナーの手元に。どれに成るかは解らんが、1つは場所も割れている。……ここにある以外の4つを喰ってから、最後に『選ばれし子供』のパートナーであるお前のモルフォモンを取り込んで、疑似的に俺がお前のパートナーになる。……これが、目的その1。俺の強化」  モルフォモンを一瞥してから、しかしリンドウは小さく頷いた。  もちろんモルフォモン自身は異を唱えたそうではあったが、コイツが生意気にも俺に歯向かった所で、だ。 それに、どうせパートナーのいう事は聞かざるを得ないだろう。 「そして2つ目は、こっちは知識だな。本物の『絵本屋』の捜索だ」 「……『絵本屋』って、お父さんの事じゃ無かったの?」 「まだその名前で呼んでやるのかい? 泣かせるね。……ま、『アイツ』も嘘は言っちゃいねえよ。俺達も絵本屋だ。確かにな。ただ言うなれば、人間どもから見てデジモンに元となるネタがあるように、絵本屋にも元ネタがあるって話だ」  使ってみて初めて分かった事だが、この身体の脳には、好きな時に特定の、出所不明のアーカイブを閲覧できるシステムが備わっていた。  時折要らん知識をべらべら喋ったり、初見のデジモンだろうがすぐに情報を引き出していたのは、記憶力以上にコレの力だろう。  そして、その不明な「出所」こそが、恐らく本物の『絵本屋』だ。  俺のデータを強化するオグドモンの分け身よりかは優先度は低いが、無力なガキと非力なチューモン1匹ずつを生き残らせるに至った『知識』の力に魅力を感じないと言えば、嘘になる。  実際に、それらを駆使した『アイツ』の戦略は、『迷路』における脅威の1つではあったワケで。 「俺の助けになる、本物の『不思議な絵本』を見つける事。これが、目的その2」  2本の指を曲げ、リンドウを見据える。  じいっと見返す双眸を見るに、3つ目は、言うまでも無いのだろうが。 「最後の1つこそ、我が宿願。『選ばれし子供達』の絶滅だ」  殺す。  殺し尽してやる。  あの聖騎士を、そのパートナーを。奴らに力を与えた全ての光の申し子達を、1匹残らず鏖殺する。  最初はそうじゃなかった。  人の世界のデータを、同胞を。好きな時に好きなだけ貪り喰い、好きな時に好きなだけ壊し尽す全能感に酔っていられれば、俺はそれで満足だったのだ。  だが、世界はそれを許さなかった。  俺は殺された。完膚なきまでに叩きのめされた。  それでも、自分のデータの塵を必死に掻き集めて。  今度は俺を殺した奴らを殺し返すために、蘇ったと言うのに。  なのに――まだ、足りなかった。  だから、今度こそは。 「皆殺しにして、俺の安寧を取り戻すんだ。世界の全てが俺の都合通りに回る、俺が神である世界を、な」 「……あなたのものじゃないでしょ。最初から」 「俺のモノさ。そうなってもらう」  俺の在り方を例えるために、『アイツ』が用意したのが『メアリー・スー』という型だった。  なかなか良かった。美しい物語だ。  全てが1人の女の思い通りになって、彼女が死ぬ時には、皆が彼女のために泣く。実に理想的だった。  ……ひょっとすると、それは俺以上に『アイツ』の望みだったのかもしれないが――今となっては、知る術もあるまい。 「さて。お前の望みも、聞こうじゃないかリンドウ」  俺は自分の話を切り上げて、再びリンドウへと話を振る。  俺の根底には、どうにも『悪魔』があるらしい。『七大魔王』とやらとデータの相性が良いのもそのためだろう。  それ故か、俺は人間との取引に際して契約を必要としていた。  俺とこの娘を結ぶための、条件を欲していた。 「……私の、望みは」  相槌を打つ。  リンドウは俺を、俺の左目を真っ直ぐに見据えていた。 「多分、あなたと一緒」  目を見開く。  見覚えのある、影が過った。 「私の大事な物を奪う世界を」  ――俺に何も与えない世界を  --「台無しにしてほしい」  少女の願いは  かつて、少年の口から聞いた願いと、酷く似通っていて。  再生の出来ない状態にされて、ふわふわ落ちる事しか出来なかった俺を受け止めて。  共に戦っていたナカマを倣って、ぶち殺す事も出来た筈なのに、そうせずに。  俺を生かして  餌も与えて、育てる代わりにと、口を突いたのが、その願い。  ああ、  ああ。  『コイツ』が最後の最後に振り返って、遠いところを見た先に居たのが、この娘のオカアサン! 「お前はゲイリーの娘だよ」  思わず呟いたその台詞に、リンドウが大きく目を見開いた。  人間の、血だのなんだのを媒介とする繋がりはデジモンである俺には解らない。  解らないが、合致する性質が両者を無条件に『家族』足らしめるなら。絶望を縁に同じ願いを抱く彼らは、俺からすれば、同じモノだ。  何より-- 「契約しよう。イザサキ リンドウ」  あの戦場での戦利品を取り出す。  持ち主の頭は弾け飛んだが、こちらは無事に形が残っていた。  レンコの眼帯で、俺は左目を、今現在、俺の身体を構成しているクラモンの通り道を覆い隠す。  これで、見てくれはより「らしく」なった筈だ。  ――何よりあの男から、妻を殺してまで手元に置きたかった我が子を奪えると思うと、心の底から気分が良い。  先程聞かされた、イザサキという苗字とやらには、覚えがある。  イザサキ タスク。  十六崎 奨。  『選ばれし子供達』のリーダー格の少年であり――俺が最も憎むデジモンのパートナー! 「お前は俺が力を得るために手を貸し、俺は手に入れた力でお前の世界を壊し尽す。……どうだい?」 「わかった」  リンドウは返事を躊躇わなかった。  モルフォモンも、俺への警戒こそ怠りはしなかったが、主の意に背くつもりは無いらしい。  俺は、手を。差し出した。  クラモン達を介して乗っ取った、ゲイリー・ストゥーの--リンドウの大好きな『オトウサン』の手を。 「ようこそ、『スー&ストゥーのお店』へ」  リンドウは迷わず、握り返す。  この手が、何よりも求めていた手を。 「歓迎するぜ、我が娘」 『Everyone wept for Mary』 第1部 完
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快晴
2022年5月29日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話        次の話≫≫ 「う、うう……っ」  自分のうめき声で目が覚めた。  全身が痛い。あちこち打ち付けながら転がったのだろう。服は泥まみれ、皮膚の露出している箇所は例外なく擦り傷だらけだった。  特に左肩を強く地面にぶつけたのか、腫上がって熱までこもっているのが判るし、ほとんど動かせないでいる。最悪、どこか骨が折れているかもしれない。  だが――生きている。  通常の落馬でも人は簡単に死ぬと聞く。  ましてや俺とユニモンが居たのはここから遥か上空。普通に考えて、人間どころかデジモンだろうと、落ちて無事で済む高さでは無い。  俺はどうにか軋む身体を持ち上げて、周辺を見渡した。  クレーター、と呼べるほどではないが。  地面が大きく凹んでいて。  その中央に、横たわる白馬の姿があった。  引き摺るようにして近くまで這い寄る。  思わず息を呑んだ。  吹き飛んだ片翼の事もあるが、それだけではない。  ユニモンの、馬らしからぬ鋭い牙は、そのほとんどが無残にも内側から折れて飛び散り、荒い呼吸と共に外れた顎が不格好にがたがたと震えていた。  文字通り、死に物狂いだったのだろう。  リミッターの外れた『ホーリーショット』の一撃で、ユニモンは落下の衝撃を相殺したらしかった。  しかしそうなると当然、姿勢としては頭から落ちる形になる必要がある。  無理な体勢が祟って、前脚を強打したらしい。目を背けたくなるような方向に、ユニモンの脚が曲がっていた。  俺の身体が鞍から投げ出されていたらしいのも、無理のない話だった。……いいや、むしろ、ユニモンは最後まで、俺の事を庇っていたのだろう。俺の無事を考えなければ、もう少しまともな着地ができていた筈だ。  そうでなければ、今、俺が生きている筈が無い。 「ユニモン、ユニモン……!」  必死で呼びかけながら、デバイスでデータの修復を試みる。  通常の馬であれば即安楽死の処置が取られるべき傷ではあるが、幸いにも俺の愛馬はデジモンだ。  心臓部--デジコアさえ無事なら、救う手立ては、ある筈だ。 「待ってろよ、今、今直してやるから」  少し動かしただけで痛みに引きつる指先が、この上なくもどかしかった。  救護班を呼びに行くか? いや、無理だ。攻撃を受けたのは俺達だけでは無かった。成熟期ごときに貴重な回復能力持ちを回してくれるとは、到底思えない。  ここでもまた、俺達の「弱さ」が枷となるのだ。  何よりここに、ユニモンを置いていくわけにはいかない。  だって、まだ、上空には『奴』が―― 「--ッ」  額から嫌な汗が噴き出した。ぎょろりと剥いた緑の瞳が、記憶の奥から脳裏を掻き毟る。  ああ、そうだ。  戦いは、終わってなどいない。何も成せては、いないのだ。  追撃が来れば、ユニモンという足の無い俺は、今度こそ逃げようがない。  まともに攻撃を当てられたら、死体も残らないだろう。 「……その方が、いいのかもしれない」  だが、ふと。  そんな言葉が、口を突いた。  どうせ、力の差は歴然だ。  俺に、俺達に出来る事など、何も無い。  だが、ここで死ねば--一生懸命戦って、しかし報われる事の無かった、哀れな子供に。哀しい英雄にはなれるだろう。 「ごめん、ユニモン」 「……」 「俺は……」  そんな、つい思い描いた、細やかな救いを掻き消すように。  俺の言葉を、遮るように。  突如として、凄まじい光が、天を覆った。 「いっ!?」  ただでさえ光に弱い眼球に激痛が走る。  ユニモンが残っている方の翼で影を作るようにして俺を覆ったが、焼け石に水状態だ。  ずきん、ずきんと波打つ脳にまで突き刺さるような痛みに、ユニモンのたてがみを握り締めながら歯を食いしばって――一体、どれだけの時が経っただろう。  ようやく、光が引いたらしい。  荒々しい深呼吸を挟んで、どうにか、目を開ける。 「……え?」  もう、これ以上悪い事なんて、そうそう起きないだろうと。  せめて、そう願っていた筈なのに。  天空に在ったその光景は、あっさりと、俺を更なる絶望へと突き落とした。  白く光り輝く、騎士のデジモンが、鎧同様の光を放つ一振りの剣を、『奴』の脳天に突き立てていたのだ。  それだけで、あれだけ暴れ狂っていた、目玉を潰しても即再生していたような化け物は完全に動きを停止し――どころか、その端々から、崩れ始めていて。 「うそ、だろ……?」  そして、騎士を包む光の、正体。  それは、『選ばれし子供達』のそれぞれのデバイスの画面から伸びた、一条の光の集まりだった。  皆、デバイスを掲げている。  『奴』の攻撃を前に朽ち果てた者達でさえ、地に落ち、散らばったデバイスからは、生きた証のように光を、騎士のデジモンへと送り続けている。  この戦場に存在する全ての子供達が、この世界の脅威に対する『力』となっていたのだ。  ……俺は、  俺も。震える手で、デバイスを掲げた。  何の光も、零れはしなかった。 「待って」  そこには本物の『奇跡』が在った。 「待ってってば」  『奇跡の子』など、その舞台のどこにもいなかった。 「待ってくれよぉ、なあ」  『あのデジモン』の肉体に倣うようにして、その場に崩れ落ちる。  目が痛い。  こらえていたものが。ひょっとすると、もう何年も胸の内に抑え込んでいた物が、いい加減に、零れ落ちた。  今度こそ、目の前に突き付けられた。  俺は、何物にも成れないと。  王になど、英雄になど。……人の子として在るのを望むのでさえ、贅沢だと。  強いて言えば、ヘタをうって味方を死なせただけ。  居るだけ無駄。むしろ邪魔。やはり母さんには、先見の明があったという事か。  生まれてくるべきでは、無かったのだ。  うずくまって、泣き喚く。  自分がどうして涙を流しているのかさえ、解らなかったのに。  だが、その時だった。  幽かに。  本当に、幽かにではあったが。  一緒に抱え込んでいたデバイスに、光が灯ったのだ。 「……!」  顔を、上げる。  ……そうして、今度こそ。本当に。  俺は、自分の心が壊れる音を聞いた。 「どうして」  俺の傍に、もう、ユニモンはいなかった。  代わりにもっと大きな影が、俺の事を、見下ろしていて。 「なんだよ、それ……」  それは、象の姿をしたデジモンだった。  マンモン、と。『絵本屋』から得た知識で、名前も、能力も、知っているが、この場において、「象の姿をしている」以上に大事な情報は無かった。 「なんで今更、そんな進化するんだよ、ユニモン……ッ!!」  象は、俺が母さんを。  冷たい目で俺を『迷路』に突き飛ばしたあの女を理解するために、理解しようとするために、使った記号だ。  絵本じゃ大概、子供想いの理想の母親として描かれるくせに  その実、産まれてきた我が子を痛みの元凶として躊躇なく踏み潰す、醜い生き物。  そんなものが、どうして今更、俺の傍に寄り添おうとしている? 「俺はっ! 俺はもう、そんなもの要らない! 違うっ!! 俺が欲しかったのはそんなものじゃないっ!!」  癇癪を起して、両手で頭を抱えて掻き毟る。止めようとするかのように寄せられた長い鼻は、視界に入るなり力いっぱい弾いた。  自分でも、どこからそんな力が出てくるのか、わからなかった。 「触るな触るな触るな!! お前も、お前も結局は俺を捨てるのか!? 突き飛ばすのか!? やめろ、やめてくれ。信じてたのに!! お前だけは、俺の……何があっても、俺と、いっしょに、いてくれるって……」  ああ、頭じゃわかってるんだよ。ユニモン。  お前にそんなつもりは無いって、わかってる。  墜落から庇ってくれた時みたいに、俺の事を、助けようとしてくれてるんだろ?  『迷路』で迷って泣いていた俺に、食べ物を分け与えて、手を握って、一緒に歩いてくれた、あの時みたいに。  今度は『子供を愛する母親』になって、俺を、慰めたかったんだろう?  だけど、お前の知識の中にある『母親』も、俺と同じで、『象』しか無かったから。  だから――そんな進化しか、出来なかったんだろう。  わかってる。  わかってるんだ。  でも、それは――俺の心じゃ、裏切りとしか、受け止められないんだ。  だって俺とお前は、『選ばれし子供とそのパートナー』じゃあ、無いんだから。  互いに信じあう心さえ、ここが、行き止まり。 「あああああああああああああああああああああああ」  咆哮。嗚咽。怒号。  何なのか。どれなのか。自分でもさっぱりだ。  ひとつだけ確かなのは、ささやかな抵抗のように発せられた俺の悲鳴さえ、沸き上がる『選ばれし子供達』の歓声に、掻き消されていたという事実だけだ。  そうして、それから。  世界中が待ち望んだ、勝利の瞬間が、訪れる。  呆気ない程拍子抜けな破裂音と共に、この世の脅威として顕現したそのデジモンは、弾け飛び  あの日俺は、クソみたいなクラゲの雨を見た。
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快晴
2022年5月23日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話        次の話≫≫ 「ねえキミカゲ。……本当に行っちゃうの?」 「そりゃあ、まあ。そのために衣食住を提供されてた訳だしな」  俺の背中にぴったりと張り付いてぽつりと呟いたアカネに、俺は淡々と、事実で返す。  表情を窺い知る事は出来ない。ユニモンがヘマをするとは思っていないが、乗馬中の前方不注意は、それが障害物の無い空の上だろうと褒められたものではないからだ。  ナシロ家のご息女は、どうしてもユニモンに乗って空を飛びたいと両親に駄々をこねて。  余所者の少年との外出許可をもぎ取って来たらしかった。  ……俺が『迷路』で暮らしている間に、とんでもないデジモンがこちらでは暴れまわっていたのだそうだ。  それがおおよそ、3年前。  件のデジモンは『選ばれし子供達』とかいう、デジモンの住む世界の側から選ばれた人間の子供達とそのパートナーとなったデジモン達によって、どうにかこうにか、倒されたのだと。  で、数日前。  突然の事だった。倒された筈の『とんでもないデジモン』が、再びこの世に、蘇ったのは。  各地からは再び『選ばれし子供達』とそのパートナーが、招集された。  俺にはデジモンの世界から選ばれた覚えなどとんと無いが、それでも、デジモンを連れ、数多の探索者を呑み込んだ『迷路』から生還した『奇跡の子』。  こういう事態に陥った時のために、俺とユニモンはこの街に、飼われていたらしい。  旅立ちは明日。  『選ばれし子供達』と共に蘇った化け物を討つために、俺達はこの街を出なければならないのだ。 「って言っても、仕事が終われば帰っては来られる筈だから。3年前にも倒されたデジモンなんだろう? なんとかなるよ。きっとね」 「でも、その3年前の時にも、何人もの……私よりも、小さい子が……」 「……」  アカネに気付かれないよう嘆息する。  彼女の濁した言葉の先を、俺は『迷路』で嫌になるほど耳にして、目にしてきた。  今更のようにそれが非日常だと突き付けられたところで、俺とユニモンが生きてきた日々は、その中にしか存在しない。  そしてアカネの両親--もっと言えば、アカネ以外のこの街--が、そんな化け物を連れた世間知らずの健康長寿など、望んでいる筈も無く。  死んでくれと、思っているだろう。  化け物は化け物同士で殺し合って、勝手に死んでくれと、そう願っているだろう。  それでも、もし。  俺とユニモンが生き残ってなお、許される術があるとするならば。 「覚えてるか、アカネ」 「? 何を?」 「初対面の時、俺がアカネに、なんて名乗ったか」  アカネの身体が僅かに俺の背から離れる。  視線を上げて、虚空から思い出を掘り返しているらしい。  しばらくの間うんうん唸って、彼女がようやく見つけてきた答えは 「え? えっと……洋風の朝ごはんみたいなお名前だったような……」  なんて、どうしようもないくらい、素っ頓狂なもので。  ……多分、ハムレットの事だろう。おいしそうな名前って言ってた気がするし。  だがハムレットはたとえ話に使っただけで、俺の前の名前はデンマーク由来では無い。 「……そんな見事な記憶力を持つアカネには、哀れなオフィーリアも無言で白いヒナゲシを差し出すだろうさ」 「あっ! キミカゲったらまた私の事バカにしてるでしょ!?」 「そんな事無いよ。ヒナゲシには「陽気で優しい」って意味があるから、アカネにぴったりだって思っただけで」 「えっ……そ、そうなの?」 「白いのの花言葉は「忘却」だけど」 「やっぱりバカにしてるじゃない! ふーんだ! どうせ私は物知りのキミカゲと違って、忘れっぽいおバカさんですよーだ」  ユニモンがぶるると、咎めるようにいなないた。  俺との付き合いの方が長いだろうに、こいつったらいつもアカネの肩を持つのだから。全く、薄情な白馬だことで。  ただ―― 「「馬だ、馬を寄越せ。代わりに王国をくれてやる」」  膨れ面でそっぽを向いていたらしいアカネは、しかし俺の唐突な引用台詞にこちらへと向き直ったらしい。  前方は引き続き注意しつつ、俺は少しだけ、視線を背後へと流した。 「俺が『迷路』で名乗っていた名前は、『グロスター』。俺の好きな『リチャード3世』って物語の、主人公の名前さ」  正確にはグロスターはイギリスの地名及び、そこから取った公爵位の事だが、そこまで説明すると多分アカネの頭がパンクする。  俺だって、彼女と過ごして、何も学んでこなかった訳じゃ無い。 「そいつは醜くて、卑怯者のひねくれ者で、残酷で嘘吐きで本当にどうしようもない嫌われ者だったけど――強くて、賢くて、どんな手段を使ってでも国の王様になるっていう野心があった」  そうやって、本当に王様になっちゃったんだ、と、俺は続ける。  俺と成長期だった頃のユニモンにそんな野心があった訳ではないけれど。  『迷路』で生き残るには、それだけの気概が必要だった。  こけおどしでも王様の名前を名乗って、持てる全てを駆使して相手を殺して、奪って生きる。  そうやってユニモンが今の姿になった時、自分の計画が軌道に乗り始めたグロスター公が、自分の醜い容姿も本当は見れたものかもしれない。と、姿見を買い求めようか。と、笑ったように。……俺達も、少しくらいは、自分の事が、嫌いでは無くなって。  なにせ-- 「まあ、卑怯者の嫌われ者だったからさ。徐々に孤立して、追い詰められて。結構善戦したんだけど、最終的には正義の味方に殺されちゃうワケ」 「……死んじゃったの?」 「うん。で、その最後の台詞が、さっき言った「馬を寄越せ」」  思わぬ結末だったのか、途端に声を震わせるアカネとは対照的に、俺は笑う。 「逆に言えばさ。馬さえいれば、きっと彼は負けなかったんだよ。さっきも言った通り、グロスター公は強かったんだ。……ましてや、傍に空を駆れる愛馬が居れば--負けたりなんて、すると思う?」  --進化という形で、俺は最高の愛馬を与えられた。  俺達はグロスター公の生き方に憧れたけれど、その結末まで忠実に辿る訳じゃ無い。  俺とユニモンは、『リチャード3世』のIFだ。  それはいわゆる『メアリー・スー』モノのように、都合よくねじ曲がった、馬鹿馬鹿しい二次創作のようなものかもしれないけれど――事実として、現実として。俺は生きて『迷路』を抜けて、惨めな捨て犬から『奇跡の子』に成った訳で。  アカネの産まれた街を一望できる、小高い丘へと、ユニモンは着地した。  草木がざわざわと風に吹かれている他に、周囲に、俺達以外の影は無い。  俺だけユニモンから降りて、ここに来るまで背中で感じるしかなかったアカネと向き合った。 「まあそういう訳だからさ、心配するなよアカネ」  きっとぎこちなかっただろうが、それでも俺は、アカネに微笑みかける。  応えるように、ユニモンも短くいなないた。……こいつは俺の、自慢の愛馬だ。 「……ねえ、キミカゲ」  対して、なおも不安を拭いきれない、今にも泣き出しそうな眼差しを、しかしアカネは、まっすぐに俺へと向ける。  彼女は口の中で転がすようにして、言葉を探している風で――やがて 「その、『リチャード3世』ってお話には、ええっと……私がキミカゲに贈る言葉に、ちょうどいいセリフとかって、無いのかしら?」 「贈る言葉?」 「「さよなら」とか「いってらっしゃい」とか、そういうのじゃなくて……その……」 「……」  ふうむ、そう言われると少し弱る。  何せ『リチャード3世』は言いくるめと罵倒が交互に来て、謀殺で進んでいく話だ。  基本的に、主人公に向けられるのは憎しみと呪いの言葉ばかりで、ようは、縁起でも無いのだが。  だが、まあ。アカネがお望みと、言うのなら。 「じゃあ、俺の台詞の後に、続けてくれる? 「それは私の口からは言えません。でもあなたに教えられたお世辞をまねして、もうそう言ったと思いなさいとだけ、言っておきます」 「え? ちょっと、長いんだけど……でも、ええと。「それは私の口からは……」」  何度か練習を繰り返して、数分後。ようやく台詞が頭に入ったらしいアカネがユニモンから降りようと足を持ち上げる。  その手伝いに、と俺は手を伸ばし、ユニモンの方も足を曲げて彼女を補助する。  俺の手を握って跳ねるように地面に降り立つアカネ。  俺はその手を離さないまま、彼女の前に、傅いた。 「「お別れに、私の幸せを祈ると」」  ぽかん、と口を開いたアカネは、だがすぐにそれが『俺の台詞』だと気付いたらしい。自分の察しの悪さにか、あるいは別の何かにか。ほんのりと頬を赤らめて 「そ、「それは私の口からは言えません」! でも、えっと、……そう! 「あなたに教えられたお世辞をまねして、もう言ったと思いなさいって、言っておきます」」  やけに早口で、言葉を返してきた。  情緒も何もあったものではないし、俺が先に言ったものとはいくらか違っているのだけれど。  言い終えて。アカネが安心したように、可笑しそうに、ふにゃりと笑みをこぼして。 「なあに、コレ。私だったら、普通に幸せを祈るわ。昔の人って、変なの」 「まあそういうシーンだから。その内読んでみればいいよ。機会があれば、舞台を見るのもいいかもしれない。どっちもアカネにはちょっと長そうだけど」 「まあ! そうやってすぐにいじわる言うんだから。でも、確かに長いご本もお芝居も、ちょっと苦手。……そうだ! キミカゲ、絵が上手よね? 絵本にしてよ。そうしたら、私もきっと読めるわ」 「ははは、天下のシェイクスピア作品を絵本にだって? ……ま、前向きに検討しておくよ」  ユニモンが鼻を鳴らす。  おいおいお前まで軽く言ってくれるなよ。15世紀の王侯貴族の衣装だとか、絵に起こすだなんて考えただけでも眩暈がするんだが。  ……とはいえ、何にせよ。所詮は口約束。  こうは言っても、俺にもしもの事があったとして。  その時は、いつか本当にアカネが『リチャード3世』を見てくれれば、俺の事はその程度のクズ男だったと、そう見切りをつけてくれる事だろう。  何せ先の台詞は、グロスター公が散々に貶めた女性を惨々に利用するために口説き落とした時のもの。  それで良いんだ。そんなもので良い。  俺とアカネの関係は、簡単に切ってしまえる程度の物で―― 「私、待ってるからね、キミカゲ!」  俺の手を取り直したアカネの髪が、そよ風にたなびいた。 「紙のバレリーナみたいに、ずっと待ってる」  『しっかり者のすずの兵隊』の紙のバレリーナは、そんな風にさらわれるようにして、一本足の鉛の兵隊が投げ込まれた火の中へと落ちてきたというのに。  そうやって、結局アカネは、自分の好きな絵本の話をする。  ああ、もう――やはり縁起でも無い事ばかりいうな、この女は。  敵わない。  俺はもう、饒舌な舞台俳優の真似事は出来なかった。  彼女につられて笑ってしまって、もう、それどころでは無かったのだ。 *  その日の夜の事だった。  ナシロの家に、この街のえらいさんらしい年寄りが、俺に向けた甘言を携えてきたのは。  もしも明日からの戦いで武功を上げれば、正式にこの街の住人として迎え入れると、信じがたい程、甘い言葉を。  そう。軽々しく信じていい話でもないのに。  世の中、そんな上手い話が転がっている筈も無いのに。  俺の、俺達の人生は、これからより良い方向に向かって行くと。  そんな希望を、俺は、俺達は、抱いてしまって。 *  だが残念。  『迷路』を訪れるのはいつだって、英雄を夢見る身の程知らずか、要らない物を捨てに来たろくでなしか、捨てられた方の、人でなしだ。  『迷路』を抜けたところでその人となりが変わる筈も無く、重ねて夢まで見始めた俺に、やはり救いようなど、無かったのに。 *  俺とユニモンが、その他の『選ばれし子供達』が対峙したそのデジモンは、想像を絶するような、正真正銘の化け物だった。  『迷路』で得た『絵本屋』の知識にも無い、異形の怪物。  3年前に暴虐の限りを尽くしたデジモンが、更に進化したのだと、3年前にもかのデジモンと対峙した子供が言っていた。  だがそれ以上に俺の心を揺さぶったのは――選ばれたという、子供達の方で。  こいつらは、一体、何だ?  国に、世界に、戦いを強要された兵隊だとばかり思っていたのに、どうにもそうでは、無いらしい。  彼らは、ただの子供だった。  真っ当に愛してくれる家族が居て、純粋にデジモンを友と呼び、戦場の中でさえ緊張感の無い能天気な振舞いをして見せる、誰にでも--俺のような存在にも――親切で、未来への希望に満ちた瞳の子供達。  そんな、お伽噺の住人みたいな彼らは  ただ、祈るだけで。あるいは応援するだけで。それだけで、デバイスを通じてパスを繋いでいるデジモン達を、簡単に究極体に進化させる事が出来た。  それも、『迷路』で見たような連中とは、比べ物にならないような、強力な個体に。  そんな戦場で  たかだが空を飛べる程度の成熟期が、何の役に立つというのだろう?  本物の『力』を前に、『奇跡』が何の、意味を成す? 「ユニモンッ!!」  だが、俺達は死ぬ気で戦う他無かった。  武功を立てる必要があった。  名声が、名誉が必要だった。  そうしなければ、俺達には帰る場所が無い。  幸い、雨のように降り注ぐ敵の攻撃は、広範囲であるものの味方の多さ故に分散を余儀なくされていて、回避する事自体は可能だった。  選ばれし子供達の力を以ってしても、やはり敵は規格外の怪物らしい。  デジモンの粒子化と子供の散らばったパーツを見た回数は、既に両手では足りなくなっていた。そんな中で俺なんかが未だ生きているのは唯一、俺とユニモンが『迷路』を生き抜いた経験が活かされている点だろう。  ただ、それだけ。  必殺技でさえ、かすり傷すら負わせられない。  ああ、それでも。 「目だ、目を狙いに行く!」  『ホーリーショット』は関節部への攻撃には不向きと言い聞かせるように判断して、天馬を敵の正面へと駆る。  当然危険度は跳ね上がるが、もう他に手段は無い。リスクに見合う効果を期待するしか無かった。 「行けっ、ユニモン!!」  もう何度目かも判らないまま黒い雨の中を掻い潜り、勢いを殺す事無く旋回したユニモンが、『ホーリーショット』を敵の目玉へと炸裂させる。  着弾の瞬間、弾けたデータ片の煙が上がる。  つまり――ダメージが、入ったという事だ。 「続けろ! 片方だけでも潰すんだ!!」  いななきと共に、『ホーリーショット』が連射される。  幽かながら、活路が見出せた。  半分とはいえ視野を潰せば、攻撃の精度は格段に落ちる筈。  手綱を握り締めている手の平が汗ばんだ。  ユニモンが攻撃に集中している分、敵からの攻撃の回避は俺からの信号を頼る形になる。  攻撃が発射される敵の背中を注視しながら、手綱の操作とユニモンの脇腹への合図を繰り返す。  俺の意図に気付いたのか、飛べる味方が何体か加勢に来た。  途中撃ち落とされた奴も居たが、自分達の面倒は、自分達で見るのが、精一杯で。  ――やがて、時が来た。  巨大な水風船が潰れるようにして、  弾け飛んだのだ。敵の、翡翠みたいな、深い緑色をした目玉が。 「やった!」  苦しい戦況の中に、『目』に見えた成果。  俺だけでは無い、他の選ばれし子供達からも歓喜の声が上がって  すぐに、潰えた。 「え?」  消し飛んだ目玉の奥から、夕陽のようなオレンジ色の目玉が。いくつも、いくつも。数えきれないくらい無数に。  沸き上がってきたのだ。蕾が開きでもするみたいに。  瞬きの間に、敵の目玉は元通りになって。  当たり前みたいに、ぐるりと世界をねめつけて。  首がぐるんとこちらを剥いて。  かぱっと、大きな、口が開いて。  それで、  光って、  ぱん、と。空気が削れるような音がして。  どうしてだろう。アカネの悲鳴が、聞こえたような気がして。  隣に居た奴らと一緒に、ユニモンの片羽が、消し飛んだ。 「あ――」  痛みに泡を吹きながらも、ユニモンの蹄が宙を掻き、羽の根元をバタつかせるが、片方しか無い翼では飛びようも無い。  世界がくるりと一回転。  俺とユニモンは身体が逆さになって、そのまま天から、突き離された。  どこに、という訳でもないのに、俺は手を伸ばした。  何も掴めない。  何も無い。  何が『奇跡の子』だ。  何が「負けたりなんてしない」だ。  ああ、何も。何も無い。  もう――何も。  ……ああ、そういえば。  王になったグロスター公は最期の戦場に赴く前に、貶めた人々の亡霊に、「絶望して死ね」と何度も吐き捨てられるんだっけか。  俺も。  俺に相応しい最期も、そうなのか? 「ごめんなさい」  誰に言ったんだろう。  何に言ったんだろう。  でも、ただ  もう、許してほしくて。  俺は、絶望して死ななきゃいけない程、悪い子だったのか?  ……母さん。
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快晴
2022年4月29日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話         次の話≫≫ 「浅学なお前にひとつ教えておいてやる」  顔面に向かって投げつけたUSBを、段差に腰かけていたネガは事も無さげに受け止める。 「スナッフフィルムの頭文字はAじゃなくてSだ。覚えとけ」 「んふふ。いくら博識なストゥーさんとはいえ、あんまりな言い方じゃない? あれはボクとバーガモンにとって、一番気持ちよくなれる写真を選りすぐったモノなのに」  ああ、でも。と。  ネガは艶やかな唇を弓なりに歪めて、僅かに頬を赤くする。 「その様子だと、最後まで見てくれたんだね。……それは、嬉しいな」  はにかむネガに向かって、俺は力いっぱい舌打ちした。 * 「ネガ? ……ああ、『レンタルビデオ』くんちゃんね。へえ、ゲイリーの事まで口説きに来たんだ。残念! 見る眼だけはあるなーって思ってたのに」 「ホントに女の趣味悪ぃのな、アイツ」  丸椅子に腰かけ、ヘラヘラと笑うその女の顔はひどく良い。  だが彼女の胸は相も変わらず、一枚板風のカウンターに合わせて分度器を置けば正確な角度を計測できそうな程度にはまっすぐな面に仕上がっていて、男にも見えるネガの方が、よほど凹凸を感じられたような印象は、本人を目の前にしても変わる事は無かった。  俺は渋々店にルルを呼び、  ルルは至極面倒臭そうにそれに応じた。 「まあ」  いつもの無駄話は早々に切り上げて、本題を急かすように俺はルルへと1冊の『絵本』を差し出す。 「絡みがあったってンなら話は早ぇ。売ってもらうぞ、ルル。あの変態野郎について、知ってる情報を全部寄越せ」  『絵本』の表紙に描かれた壮年男性の横顔を見止めるなり、ルルがヒュウと口笛を鳴らす。 「『青髭』じゃん! へぇー、けちんぼでいやしんぼのゲイリーが! ホントに良いの? この店の最高級品でしょ? これ。返せって言われても返さないよ?」 「見合う情報を売るならそれでいい」 「はぇー……。ゲイリーがこんなにも潔いだなんて。不覚にも行商人ルルちゃん、ちょっと怖くて震えちゃった。くわばらくわばら、明日はきっと雨が降るね、血以外の」 「それじゃあ弾丸か毒くらいしか無いだろうが。縁起でも無い事言ってねェで、さっさと出すもん出しやがれ」 「んもう、待ってよせっかちなんだから! 人より早くコンニチハしちゃうゲイリーくんの息子と、あたしのカワイイ売り物ちゃんを一緒にしないでよね」  と、茶化しはするものの、情報の対価として十分な品だとは認めているのだろう。ルルは僅かに目を細めて、貪欲な商人としての眼差しに鋭さを帯びさせた。 「ネガ。通称――いや、自称か。『レンタルビデオ』。国籍年齢性別全部わかんないけど、趣味だけは確か。あたしみたいな可愛い女の子をモデルに、18歳未満お断りのムービーを撮る事だね。で、それを人に売りさばいて、生計を立ててるみたい」  最も、そっちの方こそ趣味だろうが。  人の皮を剥ぐ前に身ぐるみでも剥いでりゃ、ものを売り買いするよりも遥かに楽かつ速やかに稼げるワケで。  加えて、奴のパートナー―― 「なんかお察しって感じの顔してるけど、続けるね。彼、兼業でバーガーショップもやってるみたい。こっちは『レンタルビデオ』くんちゃんのパートナー、バーガモンの趣味みたいだけど」 「はっ、そりゃイイ。倫敦旅行の気分でも味わえそうだ。フリート街の理髪屋の隣にあるっていう、ミセス・ラヴェットのパイ屋さながらじゃアねえか」 「どこ。誰」 「……」 「っていうかイギリスって、フィッシュ&チップス以外に食べ物あるの?」 「それはあンだろ」  ふーん、ゲイリーくん物知りぃ。と、ルルはひどく適当に流して話を続ける。  下手な合いの手を入れた俺も悪いがな。そういうお前の胸並みに薄い反応は、一番人を傷つけるぞ。 「で、この辺が一番ゲイリーの欲しがりそうな情報かな。件のバーガモンの、進化ルートについて」  ルルは自分のデバイスを取り出していくつかの入力を済ませると、その画面を上に向けて、こちらへと差し出した。  途端、左から進化順に並んだデジモンの立体映像が、宙へと浮かび上がる。  バーガモンと、シェイドモン。  その隣に続くのは――白い蛇。 「サンティラモン?」  意外な姿に、思わず疑問符付きで名前を口にしてしまう。  シェイドモンはその特異かつ凶悪な能力もさることながら、食い溜めしたデータによって進化先の凶悪さが増す、という特徴を有している。  あの変態野郎が、生半な物を文字通り「喰わせている」とは思えないのだが。  ……いや、シンプルな畜生の姿に引っぱられたが、よく考えれば元ネタは『十二神将』の珊底羅大将か。しかもかの神将は、本地が「明けの明星が化身」とかいう、デジタルモンスターの世界においては超ド級の厄ネタ持ちだった筈。  強力なデジモン、という印象こそ希薄だが、元ネタ云々を抜きにしても単純に、サンティラモンは陰険かつ残虐なデジモンだと聞いている。  がっつり滲み出てるじゃねえか。ネガの人となりが。 「データがあるって事は、交戦したのか?」 「一応ね。でも、ゴキモン出したら即逃げてっちゃった」 「……腐っても中身はバーガモンなんだな」  そこに関しては、なんだ。気持ちは解らんでは無い。 「それに、ゴキモンも深追いしなかったしね。だから、戦闘データは無いの。そこはちょっとゴメン」 「……」  ルルに害意を向けたにも関わらず、ゴキモンは--否、ゴキモン「も」追跡しなかった。となると―― 「究極体には、まだ成れないんだな」 「多分ね」  メアリーがああも簡単に連中を見逃したのは、ネガの商品が琴線に触れただとか、そんな理由じゃあ無い。  アイツらは、果実だ。  熟れる寸前だが、まだ青い。  あの大飯喰らいの悪魔でさえ行儀よく待てが出来るような、蕩けるように甘くなる果実なのだ。 「ふうん」  ルルは細い指で『絵本』・『青髭』の、軽くウェーブのかかった長い髭のラインをなぞった。  画材にモルフォモンの鱗粉を用いた昏く煌びやかな青色が、彼女の指先を追うようにしてきらきらと光る。 「そっかぁ、メアリー・スーのためだもん、奮発しちゃうよね。なんかつまんないの」 「あのなァ……もらうモノもらっといて、こっちの事情にまでケチつけんなよ」 「だって、アレががっつり絡んでる時のゲイリー、面白くないんだもん。いや、ゲイリーは最初から自分にはユーモアのセンスがあると思ってるタイプのクソ薄っぺらい男だけどさ」 「お前の胸部の厚みには負けるが?」 「でも、今日はなんか違うかなーって思ったのに……はーあぁ、つまんなーい!」  ガキのように両腕をカウンターに投げ出して(なお実際に子供であるリンドウは、こんな真似して見せた事は無いのだが)、胸周りに分けてやりたい程度には頬を膨らませるルル。  こいつからの急な罵倒は今に始まった事では無いのだが、それにしたってこうも幼稚に振る舞われると、こちらもなんだか、居心地が悪い。  全く……。 「大枚叩いてお前から聞き出さなくても、その時が来てその気になりゃあ、メアリーは勝手にジャンクフードを喰いに行くだろうさ」 「うん?」 「言ったろ、あの『レンタルビデオ』とかいう若造は、女のシュミが最悪なんだ。ロリコン野郎が挽肉臭いカメラ片手に歩き回ってると思うと、おちおち娘に留守番もさせられねえ」 「……」  ああもう、いつになく察しが悪い。  俺はちらちらと、リンドウがモルフォモンと過ごしている筈の俺の私室の方へと目配せする。  最初は引き続き、何やってんだコイツと冷めた眼差しが俺を刺していた訳なのだが――しばらくしてようやく、ピンときたらしい。  呆けたように半開きだった口は、ついににんまりと、半円を描く。 「へえ。へえ! 何何? ゲイリーってば、割と真面目に父親やってるってワケ!? リンドウちゃんのためってコト? えー! ウケるんですけど!?」  どっちにしても酷い奴だなコイツ。胸の次くらいに情が薄い。 「でも、ふうん。それは確かにいただけないね。イエスなロリータにはノータッチがジェントル。『絵本屋』で得た知識にもそう書いてあったって、ゲイリー常々言ってたもんね」 「言ってねえ」  初めて聞いたわそんな知識。 「ふふふ、いいよいいよ、あたしもちょっと興が乗って来た。それに、リンドウちゃんは将来の顧客になる可能性もあるからね。出血大サービスって程じゃ無いけれど、もうひとつイイコト教えてあげよう」  ルルがデバイスを持ち直し、操作するなり、俺の手元の端末がぶるりと震える。  目の前の女から送信されたデータを開くと、『迷路』の地図と、赤いマーカーが表示された。 「マンモンの千里眼があればすぐだろうけど、ひとつくらい手間、省いてあげる。それ、『レンタルビデオ』くんちゃんの拠点だから」  恐らくまだ軽くあしらえるだろうが、ルルにとってネガは身に振る火の粉の類だ。やはり、多少は調査してあったらしい。 「一応礼は言っとくぜルル。ウドの大木は見上げるだけでこめかみが軋むからな」 「……」  俺の発言には振れず、しかし軽く肩を竦めながら、ルルは席から立ち上がった。 「以上、ルルちゃんの情報提供なのでした!」  とはいえ、と、ルルはカウンター上の『青髭』を、持ち上げるでなく、手を重ねる。 「あたし今機嫌良いし、この『絵本』、絵も綺麗だから。ちょっとしたモノならオマケしてあげてもいいかなーって思ってるんだけど」 「なんだ、お前の方こそ珍しい。鼠の巣穴に握り飯でも落とした気分になるな」  ま、貰える物なら貰っておくが。クソみたいな腐れ縁だが、お互い化かし合うような仲でも無いし。 「そうだな……。あー、じゃあ酒はあるか。安物でいい。あんまりいいヤツは口に合わなかったからな」 「あらまあゲイリーくんったら根っからの貧乏舌なんだから。ちょっと待っててね、あったと思うから。ゴキモ」 「おうパートナー経由しないでデバイスから直接出せ」  何さ、注文の多いゲイリーくんなんだから、とルルが唇を尖らせるが、茶バネは山猫のレストランでもNGだろう。仮にも飲食物なんだから、その辺はしっかりしてほしい。  と、ふいにルルが端末を操作する手を止めたかと思うと、デバイスの画面から、彼女の選んだ品物が実体化する。 「?」  それは瓶でも紙パックでもなかった。  袋だった。鮮やかなデザインの四角い袋。酒はおろか、とても液体が入っているようには見えない。 「何だコレ」 「飴ちゃん」 「俺は酒を注文した気がするんだが」  問いかける俺を尻目に、中身のサンプル品だろうか。ルルが新たに取り出したのは、赤い球状のロリポップだった。 「こっちの方が、今のゲイリーには必要かなと思ってさ」 「……」  俺はそれ以上何も言わず、飴の袋を受け取った。  余計なおせっかいではあるが――実際、これなら多少なりリンドウの気を引けるだろう。棒付きのキャンディーは、なんというか、見栄えもいい。  そんな俺の様子に目を細めて、ルルはキャンディーの先端をマイクのようにこちらに差し出す。 「ねえ、ところでゲイリー。最後に一つだけ聞いて良い?」 「あん?」 「『レンタルビデオ』くんちゃんはロリコン、ってさっき言ったじゃない」 「言ったな」 「ちょっかいかけられて追い返しただけのビデオ屋さんの性癖を、どうしてゲイリーくん、知ってるのかな?」 「……………………」  俺はやっぱり、それ以上何も言わなかった。  言えなかったし、目も逸らした。 「ははっ、ちょっと感心してたあたしが馬鹿だった。ゲイリーくんってば、やっぱりサイテー」  ルルは笑顔で、俺の唇にロリポップをねじ込んだ。  不意打ちのように穿たれたそれは、甘い展開を呼ぶ筈も無く前歯に叩き付けられる結果に終わり、そうして俺は鋭い痛みの中、キャンディーの破片で苺と自分の血の味を知った。
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快晴
2021年4月03日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫  数年ぶりに太陽を見上げたあの日、俺の目尻からは止めどなく涙が零れ落ち続けた。  陽の光を美しく感じただとか、そんな感動的なシチュエーションでは無い。ただ単に、俺の目玉が天上の光球に耐えられなかったのだ。  酒の肴にとせめてもの色彩を求めて外していたサングラスを、溜め息交じりにかけなおす。  すっかり慣れてしまったこの疑似的な薄暗がりのせいで、今や俺の瞳には、常に『迷路』を満たす光すら負担になってしまっているらしかった。  『迷路』に昼夜の概念は無い。強いて言うならデバイスが表示する時計の針だけは外の世界が基準になっているらしく、デジモン達は何故かその針の動きを順守していて、だから人間の側も、おおよそ彼らに倣って生活している。  燦然と輝く太陽も夜の帳も無い世界での暮らしが長過ぎたせいで、俺の眼は光を調節する機能がきちんと働いていないのだそうだ。  詳しい事はわからんが、昔一度だけ行った病院とかいう施設で偉そうな白衣がそう言っていたので、そうなのだろう。 「何が勝利の美酒だか」  不味い酒だ。度数が弱いのか酔わずにむしろ頭が冴えてしまい、嫌な事ばかりを思い出す。  レンコがゴブリモンに持って来させた俺宛ての報酬がそんな安物だとは思いたくなかったが、何にせよ、口に合わない事だけは確かであって。  店の中で飲めば、お天道様にさえ見放されたクソガキからは目を逸らせるかもしれないが、店内で酔っ払っていいのは客だけだし、人を幸せに酔わせていいのは『絵本』だけだと決めている。  店の壁に預けていた身体を持ち上げ、酒をデータに変換してデバイスの中に仕舞った。  口を付けてしまったが、こんなものでもルルに渡せば二束三文には変えてくれるだろう。  今日は、もう寝よう。  流石に聖騎士狩りは疲れた。絶対に、もう二度とごめんだ。  どうせそういう訳にもいかないんだろうが、兎に角今日はもう眠って、忘れたい。  そう、思っていたのだが。 「……」 「……」  店の扉の方を向くなり、そこから半身だけを覗かせたリンドウが、じっとこちらを見つめていた。  ご丁寧に、背後には彼女の姿勢を真似たモルフォモンまでくっついている。 「どうした、リンドウ」  歩み寄ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。 「もしかして、眠れないのか」  こくり、と小さく頷くリンドウ。  一方でモルフォモンは、パートナーに付き合っているだけなのか普通に眠いらしい。ふあ、と口を広げて大あくびをかましている。  まあ、こんなナリでも根は怪物のモルフォモンと違って、リンドウは子供だ。  メアリーの食事は見ていられても、同じ舞台に立たされるのは、流石に堪えたのかもしれない。  あるいは、単純に。  何時まで経っても暗くもならない『迷路』の壁が、彼女に夜を知らせてくれないのだろうか。 「じゃあ、絵本でも読んでやろう。店の商品じゃないヤツだ」  中身は電脳麻薬と言えども、パッケージが美しい方が客にもウケが良い。  普段リンドウを住まわせている部屋の本棚にあるのは、『絵本』という名の薬の装丁の試作品兼本物の『ただの絵本』だ。  文に関しちゃ童話集から引っ張って来たモンだが、絵だけは全て、俺が描いている。  絵は、唯一の特技だった。もちろん、何の役にも立ちはしないんだが。 「さ、どれにする?」  部屋に戻った俺の前で、リンドウが本棚から迷いなく一冊の絵本を取り出す。  『しっかり者のすずの兵隊』の絵本だ。 「お前、いっつもこれ読んでないか?」 「だって」 「うん?」 「バレリーナが、お母さんの顔。してるから」 「……」  受け取った絵本から、先に該当の箇所を確認する。 「アカネはもっと愛嬌ある顔してただろ」  無邪気に笑う女だった。間違っても紙のバレリーナのような、張り付いた笑みは浮かべていない。 「でも、似てる」  しかしリンドウは頑なに譲らない。  ……ガキだった俺の知ってるアカネは当然子供の姿なので、トゥシューズで1本足ポワントしている八頭身程スタイルは良く無かった訳で。  大人になったアカネは、こういう女になっていたのだろうか。 「まあ、そういやアカネもこの話が好きだったな。『しっかり者のすずの兵隊』が」  だから俺の方も未練が投影されてしまった、と。  頭が痛い。  酒のせいだと片付けるには、己が気色の悪さに心当たりが有り過ぎた。  しかしリンドウの方はと言うと、『しっかり者のすずの兵隊』よりむしろ、俺の口から出た母親の名に興味が向いているのがありありと見て取れて。 「お父さんは、お母さんのどこが、好きだった?」  ベッドに腰かけちゃぁいるが、リンドウは当分眠気とは縁の無さそうな顔をしている。  おい、モルフォモン。  頼むから寝る時は一緒に寝てくれ。寝かしつけてくれ。パートナーだろ。  おい、先に寝るな。おい待て。 「……」  髪を引っ掻くが、リンドウからの視線の種類が変わる事は無かった。  俺は観念して、彼女の隣に、腰かける。 「どこが好きか。一々考えなくてもいい程度には、俺はアカネが好きだったよ」  どちらかと言えば、素朴なタイプの少女だった。アカネは。  申し訳ないが顔だけなら間違い無くルルに軍配が上がる(なお念のために言っておくが、胸のサイズは年相応しか無かったアカネの圧勝である)。  良くも悪くも田舎のお嬢様で、おっとりしてんだかお転婆なんだか判断に困る、好奇心旺盛で、夢見がちで--だから、周囲の目なんてこれっぽっちも気にせずに、俺なんかにも平気で話しかけてくるような少女だった。  ……いつも、屈託無く笑う女だった。 「じゃあ、どうして。お母さんの事、置いて行っちゃったの?」 「アカネが俺の事を好きだとは、思わなかったんだ」  あくまで興味だと思っていた。  『選ばれし子供』でもないのに『迷路』から出てきたってだけでデジモンを連れている俺が、物珍しいから構っているのだと思っていた。  思うようにしていた。 「お母さんは」 「うん?」 「お父さんの事、大好きだって」 「……」 「そう言ってた」  ああ。  そうかい。  でもよ、アカネ。  だからって他人とこさえた娘まで、よりにもよって『迷路』の『絵本屋』とまで伝えて寄越すだなんて。  そんなのは、美談にするにしてもちょっとばかり、虫が良すぎるんじゃねえか? 「まあ面倒見る俺も俺なんだがな……」 「?」 「いいや、なんでもない。……アカネの話は、また追々、な。今は『しっかり者のすずの兵隊』だろ? ほら、ベッドに横になった。俺ァ絵本を描くのは兎も角読む方はからきしなんでね。つまらないと思ったら、さっさと夢の世界に逃げちまいな」 「……」  リンドウはまだ絵本よりも聞きたい話があるようだったが、それは俺の喋りたい思い出では無く、俺にもこの娘にも今必要なのは、身体を休めるための寝物語だった。  無言は貫きつつ、しかし指示にはやはり素直に従って横になったリンドウの肩へと、俺はブランケットを引き上げた。  隣じゃ既に、モルフォモンがすうすうと寝息を立てている。デジモンの分際で人様のベッドで、飼い主よりも先に寝るとは。本当に、厚かましい事この上ない奴だ。  一度脇に置いていた絵本を開く。  材料不足で1本足として作られた鉛の兵隊の、ほとんど受け身の冒険譚。  一説によれば、無機物に人格を与えて主人公にした童話の先駆けがこの物語なのだという。  挿絵の兵隊は役職よろしく相応に精悍な顔つきをしていて、片足が無いとはいえ装いは立派。と、俺とは似ても、似つかない。  紙のバレリーナがアカネに似ていると言うのなら――最期に彼女と結ばれたコレは、やはり、俺とは違う男だったのだろう。 「今日はクリスマス。子供達は、プレゼントを抱えて帰って来たお父さんに飛びつきました」  冒頭に並んだ俺が知らない世界の言葉に、軽い吐き気を覚える。  酒のせいだと、そう、片付けようとしたのに。  現実逃避のつもりで下した視線の先には、忘れようも無い女性の顔しか無かった。 * 「グロスター? 変な名前」  少女――『迷路』から出てきた俺を(恐らく嫌々)引き取った家の一人娘は、俺の名前を訊ねて答えを得るなり、首を傾げながらそんな言葉を返してきた。  失礼だな、と思った。  生憎外の世界の常識など何も覚えちゃいないのだが、俺がこれまでに読んだ本を基準にしていいなら、人の名前は出会い頭に侮辱して良いもんじゃない。 「……例えば、どこが?」  とはいえ文字通り「右も左もわからない」『迷路』の外じゃあ、こいつの両親は俺とユニモンの命綱だ。  立場の偉い人間の機嫌を損ねるのは自分の感情を蔑ろにするよりも避けるべき事で、俺が現在の名前の参考にした物語の主人公も、全てが成就するまでは自分の考えなど腹に隠してうまく立ち回っていたのだから。  だったら、俺も。そうするべきなのだろう。  少女はふふっ、と。おかしそうに微笑んだ。 「だってだって、普通お名前に伸ばし棒なんてつかないもの! 他所の国ならそうでもないかもだけれど、あなたも私と一緒で、この国の生まれでしょう?」 「多分ね」 「だったらお名前もそれっぽい方がいいわ。だってナシロ グロスターだなんて、ふふ、ふふふふ! 私、あなたのお名前を呼ぶ度に、笑っちゃうかも」  別に、彼女と同じ苗字を名乗るつもりは無いのだけれど。  まあ、どうにせよ。  これからこちらで暮らさなければならないのなら、違和感の無い名前を名乗るに越した事はないのだろう。  別に愛着がある訳でもないし、毎回のように、知らない人から笑われるのも、嫌だから。 「じゃあ、好きに呼んでよ。君の好きな物語の登場人物とか、そういうのでいいから」 「え? 私が決めていいの?」 「いいよ」 「わかった! とびきり素敵な名前を考えてあげるわね」 「そりゃ嬉しい」  社交辞令として言葉のみで表現した喜びを額面通りに受け取って、顎に人差し指を当てたアカネはうんうんと唸りながら、ああでもないこうでもない、と俺の呼称を思案する。  デジモンは楽でいいよな。呼ぶ時は種族名で良いんだから。  気晴らしにポケットの中のデバイスを指先で小突くと、中に居るユニモンは、返事代わりにぶるりと端末を震わせた。  やがてアカネは顔を再びこちらに向けたが、肝心の表情は、思案顔のままであって。 「私、『しっかり者のすずの兵隊』が好きなの」 「はぁ、結局作者は外人だな。好きなのかい? デンマーク。それならハムレットとでも名乗っときゃ良かった」 「ハムレット? なんだかおいしそうなお名前ね。でも、小さい「つ」もらしくないわ。……だけどいくら私が『しっかり者のすずの兵隊』が好きだからって、『スズ』って名前じゃ、女の子みたいでしょう? だから、悩んでいて」 「俺は別に構わないんだが」 「私が納得できないの」 「じゃ、言い換えてナマリとかでいいだろ」 「それも嫌。重りみたいで。お馬さんに乗れなくなっちゃうわよ?」  俺はこの「面倒くせぇ」という感情がけして顔に出ていないよう祈る他無かった。  万が一表情を咎められたら、そろそろ昼間の陽光に耐えられなくなった事にしよう。 「スズ。スズねぇ……」  とはいえこのままだと名前が決まる前に陽が沈みそうで、そうなると言い訳も出来やしない。  連想の枝葉を広げて、それらしい名前を探す。  スズ違いではあるが、幸い俺が『迷路』の『絵本屋』で得た知識の中から、引っ張り出して来られるものは比較的すぐに見つかった。 「キミカゲ、とかどうよ」 「へ?」 「スズランの別称が君影草だから、キミカゲ。これなら国的にも性別的にもそれっぽいかな、と思って」  途端、似合いもしない皺を眉間に刻んでいたアカネの顔が、ぱあ、と輝かんばかりに綻んだ。 「キミカゲ! いいわね。私、スズランも好きよ。可愛くて! それに私の名前もお花の名前なの」  その顔のまま改めて寄って来たアカネは、ポケットに突っ込んでいた俺の両手を、それぞれの手で引っ張り出し、包んだ。 「お揃いね、私達!」  この日、俺は。  女というのがこんなに笑う生き物なのだと、初めて知った。 * 「君が生きていると知れば、すぐにでもご両親が迎えに来てくれるだろう」  俺に、と言うよりは自分に言い聞かせるように繰り返していたアカネの父親の台詞は、まあ、案の定。終ぞ現実となる事は無かった。  そりゃそうだろう。父親はそもそも記憶に存在すらしていないし、俺が最後に見た母の瞳は、幼い俺を『迷路』の入り口へと突き飛ばした女の酷く冷めた双眸だった。  不法投棄を平気でやるろくでなしだとしても、自分で捨てたゴミを漁り直すほど落ちぶれちゃいなかったのだろう。  今でこそ『迷路』から生きて、デジモンを連れて出てきた少年として。期待や畏怖を込めて『選ばれし子供』ならぬ『奇跡の子供』だのなんだの呼ばれてはいるが。  あの女にとっちゃ、ただ単に。捨てたゴミが、処分されていなかっただけの話なのだ。  この地域を牛耳る老人の腰巾着達の中で一番若手なもんだから、俺なんて貧乏くじを押し付けられてしまったアカネの父親には心の底からご愁傷様と言う他無いが、まあ、その分甘い汁も啜ってきたのだろうし、いい加減俺の親探しは諦めてほしい。  俺だって、好きで世話になってる訳じゃ無いんだから。 「ってワケだから。まあ、当分俺はこの家にまだ居ると思う」  先の父親の言葉の何を不安がってかはしらないが、俺とユニモンの住まいとして(隔離、と言った方が正しいのかもしれないが)提供されている離れに浮かない顔でやって来たアカネに事情を説明すると、彼女の顔は余計に曇ってしまい、俺はアカネが底抜けに明るい表情以外も出来るんだなと割合失礼な感心を覚えるのだった。 「どうして?」 「うん?」 「どうして、キミカゲのお母さんは、キミカゲの事……」 「……」  捨てちゃったの? とストレートに問うてこないあたり、やはり何だかんだと育ちは良いのだろう、アカネは。  そんな彼女が、俺の身の上に勝手に同情は出来ても理解を示せる筈も無い。 「こんなご時世だ。そう珍しい話じゃないとは思うんだけどね」  一応はそう前置きしながら、俺はデバイスから絵を描く機能を起動させた。  狭いが真っ白なキャンパスを指で撫でて、適当にとある動物の絵を描く。 「アカネは、この生き物は知ってるか?」 「え? えっと……象、よね? 本物は見た事無いけれど、鼻が長くて、大きなお耳。こんなのって、象だけだもの」 「そう。象。……思うに俺の母親は、象みたいな女だったんだと思う」 「へ?」 「ああいや、末摘花みたいな女だったとかそういう話じゃ」 「すえつむはな?」 「何でも無い。顔が象に似てるとかとんでもない巨女だったとか、そういう話じゃないってのだけ、解ってくれれば」  人との会話は比喩表現があればあるほど良いと思っていたのだが、実際のところ、全然そんな事は無いらしい。  全く。『絵本屋』は『迷路』生き延びるための知識とそれ以外の無駄知識を何かと仕込んじゃくれたものの、一般常識はからきしだ。  経験が物を言う部分は、どうしても、どうしようもない。  ……今から教える生き物の生態くらいは、どうにか、呑み込んでくれればいいのだが。 「象って生き物は、頭が良いから、産まれてきた我が子を一瞬、憎むらしい」 「え?」  頭が良い、と我が子を憎む、に因果関係を見いだせないのだろう。  アカネの声に疑問符が付いていたのは解っていたが、俺は構わず続ける。 「象は子供の段階でもゆうに100キロを超える身体で親の外に出てくるんだそうだ。だから出産時滅茶苦茶痛いんだって。人間でも「鼻からスイカを出すくらいの痛み」とか言うんだっけ? ……象の出産は、それ以上なんだとか」  今度はアカネは何も言わなかったが、彼女の顔は彼女自身の豊かな想像力によってしかめられていたので、俺も話を止めたりはしなかった。 「で、その痛みの原因を、象は「自分の胎から出てきた何か」だと理解できる程度には頭が良いらしい。「それ」が落ちたと思われる場所を、執拗に踏みつけるんだと」 「でも、そんなことしたら」 「うん、子象は死ぬ。……そうならないように、自然界じゃ先輩母象が、人間の飼育下だと飼育員が、いわゆる産婆の役割を果たすんだそうだ。ただまあ、それでも死亡例の報告は結構あるらしいよ。少なくとも、俺が『絵本屋』で読んだ象の飼育に関する資料にはそう書いてあった」  パートナーであるユニモンのコンディションを保つために目を通した大型草食動物の飼育に関する本を、そのまま流れで馬の項以外も読み進めて。  そうしてたまたま辿り着いたこの記述のお蔭で、俺は母親が俺に向けていた眼差しの理由について、ようやく腑に落ちたのだった。  母さんは、産まれてきたから、俺が憎かったのだと。 「親が子を殺したい程憎む理由なんて、そんな単純なモンでいいんだよ。……まあ、象よりかは多少賢かったから、子供が「勝手に迷子になってそのまま居なくなった」って言い訳の効く歳になるまでは我慢したんだろうけど」 「キミカゲは」  あくまでからからと軽薄に笑う俺に、アカネの方が堪えられなくなったらしい。  喰い気味に、詰め寄るように。しかし震える声で、彼女は俺へと問いかける。 「キミカゲは、キミカゲのお母さんの事、憎くないの?」 「……さぁ」 「さぁ、って」 「少なくとも、子象に母象を憎む権利は無いよ。一々そんな事考えてたら、生きていけなくなっちゃうから」  実際、『迷路』に迷い込んでほとんどすぐにパートナーを得る、という幸運を以ってしても、俺達は生きていく事ただそれだけに精いっぱいだった。  あの眼差しだけは今になっても脳裏に焼き付いているけれど。  あの女の顔は、気が付けば思い出せなくなっていて。 「……も……」 「うん?」  と、アカネはまだ何か言いたい事があるらしく。  青い顔をして俯く彼女の方を覗き込めば、今にも泣き出しそうな表情で、アカネは自分の手の平をじっと見つめていた。 「私も。もし赤ちゃんができたら、そうなっちゃうのかな」 「……」 「象さんみたいに、好きな人との子供の事まで、嫌いになっちゃうのかな?」  ふっ、と。  鼻で笑った音が、うっかりアカネの耳にも届いたらしい。  勢いよく顔を上げたものだから、こちらも表情を取り繕えなかった。  そのままの顔で、俺はアカネへと、また笑いかけてしまう。 「なんで笑うの!?」 「そうはならないんじゃないかな、って思ったから」 「え?」  青かった顔は怒りで赤くなりかけて、しかし俺の返答で呆けたのか、変化はそのまま止まる。 「だってアカネは、象より頭が良さそうには見えないし」 「まあ!」  最も、続きを聞いてしまえば当初の予定通り、熟れた林檎のような赤色に、彼女の顔面は染まってしまったのだが。  全く、表情どころか、顔の色までよく変わる女だ。 「失礼な人! 私、本気で心配してるのに」 「そうは言っても、アカネは象っていうより愛らしい小鳥って感じの女の子だから」 「む、今更おべっか言ったって……」 「鳥は空を飛ぶために身体を軽くする必要があるから、脳みそも小さい」 「キミカゲのいじわる!! もう知らない!!」  ぷい、と大袈裟なくらい俺から顔を背けてから、立ち上がったアカネは勢いをそのままにわざとらしい足音を立てながら部屋を飛び出していく。  ポケットの中のデバイスが、俺を嗜めるようにまたぶるりと震えて。思わず俺は、肩を竦めた。  と。 「罰として」  不意に足音が引き返してきたかと思うと、アカネは開けっぱなしの扉の隙間から身体の半分だけを覗かせて、ジト目で俺の方を見つめていた。 「子供の名前は、キミカゲが考えて」 「どんな罰だよ」 「いいから」 「……青色の花の名前がいいんじゃないかな。その子と鈴蘭と赤根とで、トリコロールみたいになって、なんというか、お洒落だ」 「なぁに、それ」  ふん、と。  また、大袈裟に。しかし何故か先程より幾分かご機嫌な調子で鼻を鳴らして、そうして今度こそ、アカネは俺の部屋の前から去っていく。  去り際に見えた横顔が、未だに彼女と同じ名前らしい植物の根と同じ色をしていたように見えたのは、見間違いだと、そう片付ける事にした。
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快晴
2021年3月05日
In デジモン創作サロン
Episode1 Episode2 Episode3≪≪ Episode4  頭が痛くなることはありますか?  めまいを起こしたことはありますか?  小学生の私はその質問に正直に答えて、そしたら学校は、病院の検査でよく見てもらうようにと。そんな手紙を、親に書いて寄越した。  色々調べてもらって、その結果。私の身体はどこもかしこも異常無し、で。  帰り道、無言を貫いたまま速足で私との距離を作ろうとする母に、怖くなった私がしつこく「どうしたの」と問いかけ続けると、一度だけ。  母は振り返って「あんたが大袈裟な事を言ったから、時間とお金を無駄にした」と。そう言って、冷ややかに私の事を、見下ろしていた。  母の機嫌は次の日には何事も無かったかのように直っていたけれど。  何にもないと言われた私の頭痛は、今になっても、治っていない。 * 「あのう、あのぅ……!」  店員さんが戻って来た事に気付いて、私は気を紛らわせるために覗き込んでいた水槽から顔を上げる。  苔むした廃屋のオブジェに身体を預けていた歯車のデジモンが、私の視線を無機質な赤い瞳で追いかけたのが解った。 「あの、それで、アイスちゃんは一体……」  100均で買えるような、透明でお洒落なデザインではあるけれど、どこか安物感がぬぐえないプラスチック製の水筒。  同じデザインの容器がハーバリウムになっているのはSNSで見た事があるけれど、私がこの店で買ったこれは、アクアリウム。  染色した草花ではなく灰の砂と小さな貝殻やヒトデ、氷山を模したオブジェと一緒に、1体の生き物--デジモンが、入っている。  入っていた。  アイスちゃん、と呼んでいるそのデジモンは。  今朝、気が付いた時には。姿形が跡形も無く、消えてしまっていたのだ。  いつも水面に浮かべていた、本物の氷の粒と一緒に。 「大丈夫だよ。落ち着いて」  返事を待っているだけで荒波のように打つ脈がいつもの頭痛に変わり始めていた私とは対照的に、店員さんの声はあくまで凪いだように穏やかだった。  優しげで、柔らかい声。  見た目は(申し訳ないのを承知で率直に言わせてもらうと)黒ずくめに皺だらけの青白い顔、とほんのちょっぴり不気味なのだけれど、この人の言葉遣いや振舞いはいつもどこか温かみがあって、そうでなければ、アイスちゃんの一大事だというのに、私はこの店に駆けこむ事すら出来なかったに違いない。  怖いのだ。  迷惑がられて、疎まれるのは。  ……でも、店員さんはいつも通りの調子でそう言ってくれたから。  だから、ふと、浅く呼吸を整えるくらいの余裕は出来て。  そのタイミングを見計らって差し出された水筒のアクアリウムの中にいつもの影がある事に気付いて、私は思わず、声を上げた。 「アイスちゃん!」  浅く透けた白い氷の粒が、いくつも積み重なって出来た、一応は人型のデジモン。  アイスモン、という種族だから、アイスちゃん。  そのまんま過ぎる名前で呼んでいるその子は、氷山のオブジェの谷間に腰かけたまま、黄色い瞳で申し訳なさそうに私の事を、見上げていた。  私はそんなアイスちゃんの眼差しと、店員さんの顔を交互に見比べる。  この子の無事を確認できたのは良かったけれど、でも、どうして。  だってアイスちゃんは、確かに、どこにもいなかった筈なのに。 「溶けていた、と、言えばいいのかな」  やがて、ひとつずつ言葉を選ぶようにして。顎に手を添えた店員さんが、口を開く。 「アイスモンは、名前の通り氷のデジモンだからね。長時間アクアリウムの外の空気にさらされたり、もしくはこの子自身が力を使い過ぎたり。そう言った要因が重なると、溶けてしまう事があるんだ」  どくり、と。  ひと際大きく、心臓が跳ねた。  ああ、言われてみれば。  アイスちゃんは確かに元通りになってはいるけれど、この子がいつも出していた氷は、一粒たりとも、浮かんでいない。  そうしようと思えばいつも一瞬で生み出していたのだから、つまりは、そういう事なのだ。  思いっきり心当たりがあるのが、顔にも書いてあるのだろう。  店員さんは、眉をハの字に傾けている。 「君がこのアクアリウムを買ってくれたのは、この子の能力に魅力を感じての事だというのは私達も重々承知している。それに、お世話に関しては何一つ不備が無かったというのも、この子の様子を見れば判ろうというものさ」 「でも、でも。私のせいで、アイスちゃんは病気になっちゃったんですよね?」  と、私の子の「病気」という単語には、店員さんは軽く首を横に振った。 「一時的な疲労さ。だから、君。あまり自分を責めてはいけないよ。アイスモンが無理をしたのは、この子が君を好いていて、なおかつ多少体調を崩しても君がきちんと看てくれるという信頼があるからだ。暗い顔でいると、むしろこの子の心配事を1つ増やす結果になってしまうよ」  私の思考を先回りするような店員さんの台詞に、嫌味が含まれているようには感じない。  純粋に、アイスちゃんの身を案じてくれているのだろう。  彼の言葉に促されて落とした視線の先にあるアイスちゃんの瞳は、確かに、不安で揺れているようにも見えた。  ……そうだ。  体調が悪いせいで自分を責めなければいけなくなるのは。  そんな事は、辛いに決まっている。 「えっと……」  今度は私が言葉を選ぶ番だった。  頭の中で、店員さんの言葉を繰り返す。 「アイスちゃんは、力の使い過ぎと、アクアリウム内に外気を取り込みすぎたせいで、弱ってしまったんですよね」  店員さんは頷いた。 「じゃあ、その。疲れているなら、ゆっくり休ませなきゃだから……」 「1週間」  いよいよ痛み出した頭の中でぐるぐると彷徨っていた思考に、呆気なく回答が示される。  ピンと人差し指を立てながら、店員さんは静かに微笑んでいた。 「アイスモンには氷を出さずにいてもらって、君もアクアリウムの――水筒の蓋は、開けない事。そうしたら、もう1度アイスモンを私達のところに診せにおいで。それで問題が無さそうなら、また、アイスモンに氷を出してもらうといい」 「えっと、あのう……」  「もちろん、頻度は減らしてもらう事になるけどね」と付け加える彼に、頷きつつも、同時に湧いて出てきた疑問の言葉が口をつく。 「その。ずっとは、我慢しなくて、いいんですか?」  店員さんが更に深く口元に皺を刻む。  笑うと、殊更温かな印象が増す人だ。  改めてアクアリウムを見下ろすと、やはりアイスちゃんは私の事を見つめていた。  ずっと。いつもそうなのだ。  アイスちゃんは、私の事を、よく見ている。 「でも、1週間は安静に、ね」  私は今一度、今度はただただ、素直に頷いた。  頭が上下に振れると、その分、ズキリと頭が痛むのだけれど。 「うん、約束だ。……それから、こちらは要らない心配だとは思うけれど。当然、水筒の事も壊してはいけないよ。繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝が溢れてしまうからね」  ああ、また聞き逃してしまったな、と。私は思わず苦笑する。  およそ1ヶ月程前。このお店でアイスちゃんのアクアリウムを買った時にも私は似たような注意を店員さんの口から聞いて、そして、同じような景色を見ていたばかりに、彼の言葉を聞き漏らしたのだ。  宙に、砂嵐で出来た半円が浮かんでいる。  閃輝暗点、というらしい。片頭痛の前触れとして現れがちな症状なのだそうだ。  ある文豪はコレを歯車と例えたそうなのだけれど、私がアイスちゃんの診察結果を待っている間に見ていた黒い歯車のデジモンとは、やっぱり、似ても似つかない。  しばらくの間だけ。  視界だけは明瞭になるのを待ってから、私はアイスちゃんの姿が帰って来たアクアリウムを鞄に収めて、帰路に就く。  頭痛は酷くなる一方だったけれど、でも、何も見えないよりは多少はマシで。  ただ、痛みと一緒に熱を帯びてしまった頭は、我慢しなければいけない事は解ってはいても、口の中でがりりと噛み砕くための氷を求めていた。 *  氷食症。  いつの頃からか自分の身に起き始めた異変に病名があると知った時。妙に安心した事をよく覚えている。  同時に、氷食症の原因が「よくわかっていない」という曖昧さに、幽かに落胆した事も。  間違っても病気に罹りたいわけじゃない。健康が一番だなんて、そんな事。言われるまでも無くよく解っている。  でも、どれだけ頭が痛くても理由も解らずに「貴女は健康そのもの」だと言われるよりは。  そのせいで、責められたり、怒られたりするよりは。  よほど、気持ちが楽だった。  とはいえ、この「無性に氷を食べたくなる」という衝動には、やはり病というだけあってそれなりに悩まされた。  症状が出始めたのが夏場というのもあって、最初の内は飲み水に入れた氷を噛み砕いていても特に何かを言われる事は無かった。暑さのせいだと、そう片付けられたし、何より自分もそういうものだと思っていたのだから。  しかし肌寒い季節がやってきて、それでも製氷機から氷をすくい上げて噛み潰している私に、いよいよ母が我慢ならなくなったらしい。  女の子は身体を冷やしてはいけない、と。最初の内はそれだけだった忠告は徐々に語調の強さと言葉数を増し、最終的には出典も明らかでは無いインターネット産の知識を参考に、母は身体を冷やす事の恐ろしさをくどくどと解き、私を責めるのだった。  それでも私の歯は氷を噛み砕きたくて、たまらなくて。  何より氷を噛んでいる間は頭痛も多少マシになっているような気もして。  だから家族の目を盗みながら。例えば、食器を洗う合間だとか。  水の音で誤魔化しながら、音を立てないよう指先でつまんできた氷をゆっくりと両顎で潰したりだとか。そういう事は、していたけれど。  でも、それではとても、足りなくて。  製氷機の購入も検討したのだけれど、それこそとても親に隠れて持ち帰れる物では無いし、単純に私のお小遣いではなかなか手を出せないというのもあって。  そんな時に出会ったのが、アイスちゃんだった。  デジモン、と呼ばれる不思議な生き物の入った、アクアリウムを売っているお店。  小さい頃に、1度だけ。幼い気紛れから足を踏み入れた事があるそのお店について思い出したのは、地面が平らだと信じられないくらい足元がおぼつかなくなって、灰色の暗雲のようなものが視界を覆って何も見えなくなる程ひどい頭痛に襲われた時だった。  用事で出ていた帰り道。  ぐるぐるの世界に吐きそうになりながら、辛うじて青い屋根を視界に収めた時。  私は、その屋根の下にあるお店が、照明がそう明るく無いお店であった事と、店員さんが優しそうなお爺さんだった事を、思い出したのだ。  半ば縋るように、駆け込むように来店した私に嫌な顔ひとつせず、いらっしゃいと声をかけてくれたのは以前と同じ人。黒い装束も胸元の金の刺繍も何一つ変わらない、白髪頭のお爺さんだった。  相当なご高齢だと思っていたけれど、印象そのものは、当時と全く変わらなかった。  小さい子供にはひとつ上の学年が相当なお兄さんお姉さんに見えていたように、幼い私はここの店員さんの事を年齢以上に老け込ませていたのだろう。  ……子供の意見なんて、やっぱり、あてにならないのだ。  店員さんはふらつく私へ、予備のパイプ椅子に腰かけるよう促してきた。  見るからに危なっかしかったのだと思う。水槽の方へと倒れられてはたまらないと思われたのかもしれない。(最も、店員さん自身はそんな雰囲気、おくびにも出してはいなかったけれど)  ご厚意に甘えて。あるいはご迷惑をおかけしないように。私は用意された椅子へと腰を下ろした。  心臓に合わせて脈打つ頭の痛みが引いて来たあたりで立ち上がり、私は店の中を見て回った。  初めて来た時にも不思議なお店だとは思ったけれど、やはり記憶とは曖昧なもので、改めて見て回った店内は、幼さを理由に「不思議」の一言だけで片付けられていたそれらの光景に、むしろ首を傾げてしまうくらいで。  その時特に目を引いたのは、水の中で揺れる炎のデジモンだった。  底には砂利では無く岩肌を模したシートが敷かれており、同じ色のブロックの隙間から枯れたような色の水草が伸びた、そんなアクアリウムの中央で。炎のデジモンは、私の視線に感付くなり身体を膨張させるみたいに身に纏う炎を一層に燃え盛らせた。  水は水素と酸素の塊だから、燃える時は燃えると何かの漫画で見たのだけれど、それにしたってあんまりにも現実味の無い光景だなぁ、と。私は回らない頭のままで、苦笑した。  とはいえ水の中の炎はどこか輪郭がぼんやりとしていて、だからだろうか。再び光をトリガーに頭が痛みだす事は、無かったけれど。 「そのデジモンは、メラモンと言うんだよ」  しばらくして、様子を見に来たらしい店員さんが、そのデジモンの事を私に説明してくれた。  炎が燃える時の擬音が名前になっているそのデジモンは、見たままの通り火炎型のデジモンで、生息地によって気性の激しさがまるで違うのだと。この個体は気性が荒い方だと、そんな話を。  その時ふと、炎のデジモンがいるなら、氷のデジモンはいないのかと。そんな事が、気になって。  思い付いた通りの疑問を口にして。店員さんはすぐに、『氷のデジモン』のところへと、私を案内してくれた。  それが、私が後に「アイスちゃん」と呼ぶことになる、アイスモンだった。  メラモンが炎で出来ているように、全身が氷でできたアイスモンには氷を出す力が備わっているらしくて。  値段を尋ねれば、彼の入ったアクアリウムは製氷機よりも、ずっと、安くて--ちょうど、手持ちで足りる程の値だった。  溢れ出す、と表現されていた何らかは、水筒の蓋を開ける程度であれば、問題は無いらしい。  蓋を開けた状態で覗き込んだアクアリウムの中には、流氷のようにアイスモンが生み出した氷の粒が浮かんでいて、そのせいで、アイスモン自身の姿は上からは確認する事が出来ないのだった。  私はアイスモンのアクアリウムを購入し、持ち帰った。  食器棚からコンビニかどこかで貰ったはいいが、そのまま使わないで置いていたプラスチック製のスプーンをこっそりと拝借して、自室にアイスモンの入った水筒を置くなり、私は金色に塗られたアルミの蓋を開け、中の氷を、ひと匙。掬った。  そのまま唇へと滑らせ、奥歯で噛み砕いた氷は 「……おいしい」  久方ぶりに、親の目を、耳を、気にせずに。何の憂いも無く思い切り、がりりと氷を噛めたからだろうか。  思わず私の口からは、そんな言葉が、漏れ出した。  と、ふと視線を感じて水筒の側面へと視線を落とすと、アイスモンが、氷の組み合わさった顔で、信じられない程よく出来た笑みを浮かべて、両手を上げてぴょんぴょんと、全身で「喜び」としか取れない感情を表現していた。  彼は、私を見上げていた。  褒められるのが嬉しいと、そう言わんばかりの光をらんらんと黄色い瞳に宿らせて。  それからというもの、私は欲しい時にアイスモンの出した氷を掬って食べたし、アイスモン――いつからか、アイスちゃんと呼ぶようになっていた――はいつだって、私のためにアクアリウムの水面に氷を浮かべてくれていた。  紛いなりにも生き物が暮らしている水に浮かんだ氷だなんて、人から見れば不衛生だと思われるだろう。  だけど透き通った氷はただそれだけで、なんだか清潔なモノに見えるのだ。  実際のところ、アイスちゃんの氷を食べて、お腹を壊した事なんて一度も無かったのだから。  だから、問題なんて、ひとつも無かったのだ。  私は氷を出してくれるアイスちゃんがたちまち好きになったし。  アイスちゃんは、氷を喜んで食べる私を、好いてくれていた。  私達は、ペットと飼い主として以上に、良いコンビだったのだ。 * 「……」  私は机の上に置いたアクアリウムをぼう、っと眺めた。  心なしか、アイスちゃんは私の顔色を窺っているように見える。  約束の1週間まで、あと半分と少し。  たったの7日間が、今までに無く、長かった。  伊達に『症』と付いてはいないな、と思った。  私のこの、氷を食べたい、という衝動。  最初の内は、我慢できるだろう、と。むしろここしばらくはアイスちゃんが好きな時に氷を出してくれるお蔭で精神的に余裕が出来ていたから、症状も軽くなっているかもしれないと、楽観的に考えていたけれど――甘かった。  初日の夜には既に、以前のように、夕食時に使った食器を洗いながら冷蔵庫の製氷機から氷をつままなければ耐えられなかったのだ。  久々に口にした冷蔵庫産の氷はあまりおいしくはなかったのに。  氷食症の症状には、氷を食べるだけでなく「噛みたい」という衝動も含まれているらしいのだけれど、冷蔵庫の氷には私が求めている以上の固さのものが時折混じっていて、力を込めた奥歯に嫌な痛みを伴う負担がかかる事もしばしばだった。  逆に、時には口に入れただけで簡単に砕けてしまうものもあって、そういった氷はすぐに舌の上でシャーベット状になってしまい、これっぽっちも満足感が得られなかったりもする。 「……やっぱり、おいしかったんだね。アイスちゃんの氷」  アイスちゃんの視線が複雑そうに宙を泳いだ。  褒められて嬉しく思う反面、私が望むモノを出せない罪悪感を覚えているのだろうか。 「ごめんね。……気にしなくていいから。もうちょっとの辛抱だもん」  この子が気を病む必要なんて、微塵も無いのに。  この子を責める気なんて、毛頭無いのに。  なのに、お互いを笑顔にしていた筈の私達の関係は、どこかぎこちなく、出会って初めの頃よりもむしろよそよそしくて、なんだか、自室まで居心地の悪いような有様だった。 「ごめんね」  もう一度繰り返してから、私は自分のスマホを取り出した。 「ご飯にしよう。私も、もうすぐだから」  半ば気持ちを誤魔化すように、店員さんにもらったQRコードからダウンロードしたアプリを起動する。  金色の、三日月にも似たアイコンのアプリで、記憶が正しければ、これは店員さんの服の刺繍と同じ模様だった筈だ。お店その物のマークなのかもしれない。  これは、デジモンの世話をするためのアプリらしい。  私達と同じ物を食べさせることも不可能では無いそうなのだけれど、このアプリを使えば、理屈は解らないけれど、アイスちゃんの食事もアクアリウム内の清掃も、指先1つで思いのままだった。  最初は疑っていた私も、『デジモン』という生き物は、そもそもが私の理解を超えた存在で、だからだろうか。慣れるのにも、そう時間はかからなくって。  アプリ起動後に出現した、骨付き肉の絵をタップするなり、絵と同じ形の肉が、アイスちゃんの目の前に出現した。  突き出た骨の両端を手で握り締めて、アイスちゃんは、肉に口をつける。  ……とはいえ、アイスちゃんはあまり、美味しそうに食事をしているようには見えなかった。  それもそうだろう。こんな気分で、食事だなんて。 「……ごめんね。私、もう行くから」  その上見られていては余計に食べ辛いだろうと、私は席を立つ。  アイスちゃんが私の退出を最後まで見届けていたのは解ったけれど、私は、とても振り返る気にはなれなかった。  逃げているようだと。そんな気さえした。  食卓に嫌いな物なんてひとつも並んではいなかったけれど、ごはんは正直、美味しくは感じられなかった。  ここのところ、いつもそうだ。満腹にはなっても、満たされる感覚が無い。  口の中に残った醤油の塩味と砂糖の甘味はどことなく不愉快で、魚の脂に濡れた歯はどことなく不快だった。  口を漱いで、洗い流せばそれで済む話なのかもしれないけれど、私の口が求めているのは、やはり―― 「ああ、もう! またそんなモノ食べようとして!」  気持ちが急くあまり、とんだ凡ミスを犯してしまったと、母に隠すように伏せ気味にした顔をしかめる。  氷の引き出しを引っ張る手に、力がこもり過ぎたのだ。  がさっ、と中の氷が打ち寄せる波のように揺れて、それが母の耳に届いてしまったらしい。  眉を吊り上げた母は、とりあえず芸人に無理をさせておけば面白いとでも思って良そうな品の無いバラエティー番組の視聴を切り上げて、つかつかとこちらに寄って来た。 「ごめんなさい」  私は急いで冷凍室の引き出しを閉め直す。  が、寄せた氷がやはり波のように音を立てて戻って行ったのとは違って、母は引き返してはくれなかった。 「あのねぇ、氷だってタダじゃないのよ? それにあんたが食べた分、お母さんが毎日給水器に水を入れ直してるの。解る?」  そんな事、私だってしてるから解る。  毎日してるような事じゃ無いっていうのも。 「第一女の子は身体を冷やしちゃダメなの。後で痛い目を見るんだからね?」  私は、今、辛いのに。 「喉が渇いたなら、そう、白湯。白湯を飲みなさい」  勝手にお湯を沸かしたら、どうせ今度はガス代だってタダじゃないって言うクセに。  それに、私は喉が渇いてるんじゃない。  私は、  私は―― 「……わかった。ごめん」  彼女に背を向けて、薬缶の残り水をコップに注ぐ。  一応は満足したらしい。それでもいくつかの小言を置き土産に、母は居間の方戻ったけれど。  だけど湯冷ましを喉に流し込んでも、私の中身は渇いたままだった。  母の背中を目で追えば、道中に箱で積んである、口当たりの良い言葉でとにかく身体にいいとばかり書かれた健康食品がいくつも目について、それらの値段を頭の中で勘定してしまうのが嫌で、私はそれ以上視線を上げる事無く、夕飯に使われた食器を洗う事に専念した。  噛み潰せない氷の代わりに奥歯を噛み締め続けてはみたけれど、こんなものでは、とても足りない。  ああ、ざらざらと口に氷を流し込みたい。  砕けた氷で頬の内側が傷ついたって、別に構わない。  ほんの少し食べるだけでも。それだけでも、私は全部、それ以外の何もかもを我慢できるのに。  してるのに。  なのに、氷を食べられないなら。  この痛くてたまらない頭を、どう耐え抜けばいいって言うの? 「……」  仕事を終えて部屋に帰って。  アクアリウムの中から身体の向きを変えてアイスちゃんが出迎えてくれたけれど、彼の住まう水の上に氷がやはり一粒も浮かんでいないのを見て、堪えられなくなってしまった。  水が、目尻から滴って来た。  こんな熱い水、いらないのに。  驚いて容器の側面に寄って来たアイスちゃんに近寄れすらしないまま、殴られたみたいに痛む頭を押さえてしゃがみ込む。 「どうして。どうしてよぅ……!」  結局噛んで潰せなかった言葉が、いよいよ口の隙間から洩れ出した。  私は。私はちゃんと我慢してるのに。  我慢するために、正直でいる事を止めて、代替品で誤魔化しているのに。  我慢する事さえ我慢しなきゃいけないだなんて。そんなの、あんまりじゃないか。  どこまで自分は健康だと言い続ければ――頭が痛いのを、解ってもらえるの? 「うう、うぅ……」  鼻をすすって、目をこする。  こういう行為も、母の目に留まると「汚い」だの「目にばい菌が入る」だの色々言われるのだけれど、私では、他に涙を隠す方法が思い付かなくて。  そうして、例の頭痛の前兆。砂嵐が端に滲む中で、それでも多少は明瞭になりかけた視界の中に――ふと、見覚えのある、影を見つける。 「へ?」  それは、氷だった。  アクアリウムの水面。  形はいつもより歪つだけれど、今の私にとってはどんな硝子細工よりも美しく、魅力的で、心から欲してやまない、透明な粒。  それが、目の前に。 「アイス、ちゃん……?」  黄色い瞳は、いつものように。  私の目を、じっと見ていた。  私は。  気を遣わせて、ごめんなさい。と。  ちょっと癇癪を起してしまっただけだから。無理をさせちゃダメって言われてるんだから、気持ちは嬉しいけれど。と、断らなくては、ならないのだ。  だって。  だって、だって。  1個食べたら、また、ねだってしまう。  もう1個出して、と。  いいや、1個や2個で済むはずがない。また、ひょっとすると今回以上にこの子が弱ってしまうまで、氷を欲しがってしまうかもしれない。  でも。  だけど。 「……いいの? アイスちゃん」  水筒の蓋に、手が伸びる。  同時に、いつもそばに置いてある、ただ、このところは使う事が無かった使い捨てのプラスチック製スプーンにも。  指の隙間に包装を解いたスプーンを挟んで、残りの指全部で。両手を使って、水筒の封を解く。  あれだけ曝すなと言われた外気が、また、アイスちゃんのアクアリウムへと入り込んでしまう。 「ごめんね……でも、ありがとう」  申し訳なさと。それと同じくらいの逸る気持ちで、私はアイスちゃんの顔を碌に見られなかった。  スプーンを差し込んで、周りの水ごとすくい上げた氷を早く引き出そうとして。  それが氷では無いと気付くのに、一瞬、遅れてしまった。 「きゃっ!」  氷では無かった。  氷で無いなら、何なのかまでは、わからない。  だって『それ』は、スプーンの上で、爆発したのだから。  見た目通り、大きさ通りの威力しか無い『氷のようなモノ』の衝撃は大した威力では無かったけれど、悲鳴と一緒に、手元から。  アクアリウムは床に向けて一直線。真っ逆さまに、滑り落ちた。  とはいえ、カーペットの敷かれた床で跳ねたところで、プラスチック製の水筒がただそれだけで、壊れる筈も無い。  だから『それ』は、店員さんが言っていたようなモノでは、無かったのだろう。  アクアリウムが壊れれば、溢れ出してくるようなモノでは。 「……え?」  虎がいた。  それも、部屋いっぱい。背中が天上にまで付きそうな程、大きな虎が。  身体の全てが、水で出来た虎が。  私の見間違いでなければ、この虎は、転がったアクアリウムから零れ落ちた水が、膨れ上がるようにして出来上がったモノだった。  全身が水で出来ている、とは言ったけれど、牙も、爪も、ぎらぎらと金色に輝いていて――その中に秘められた全ての攻撃性が自分に向けられていると、それに気付けは無くは無い程度には、どうやら自分は鈍い人間ではないらしかった。  最も、『この子』の次の動作を避けられる程、判断力に優れた人間では、無いのだけれど。  虎は、音も無く私に飛び掛かった。  それからというもの、私は、頭痛にも。それから、氷を食べたいという衝動にも、悩まされる事は、無かった。  砂嵐に塗れた景色にも、それ以外にも。  もう二度と。 *  深夜。  公園の金網の傍。夜が明ければプラスチックゴミを回収しに、この場所にゴミ収集車がやって来る。  とはいえゴミを出していいのも、太陽が顔を出してからなのだが。しかしやはり、定められたルールを守らない人間というのはどこにでもいるもので、ぽつんと置かれたゴミ袋の前で、女はふんと、鼻を鳴らした。  まあそうは言うものの、こういう輩のお蔭で自分も人目につかずにコレを捨てられるのだ。と、自嘲するように肩を竦めてから、彼女は既に置かれているゴミ袋に僅かな隙間を作り、筒状の物体を袋の中へと押し込んだ。  『両親』との関係は想像以上に上手くいった。  製氷機を満たす氷分の水代にすら目くじらを立てていた母親も、しかし娘が美容に気を遣い始めると、むしろ進んでそのために必要な美容品や衣服を買い与えるような始末で。  当然のように、不信感は募った。  だからこそ利用し続けようと決めて、それは上手くいった。  自分はそれが出来る、選ばれた存在なのだと。  彼女は自身にそう言い聞かせて。それもやはり、上手くいった。  いってしまったのだ。 「……君は、種としてそういうデジモンだからね。スプラッシュモン」  女の肩が跳ねた。  あれだけ注意深くこの場へと訪れ、これだけ慎重に警戒を張り巡らせていた筈なのに。  男は当たり前のように、彼女の背後に、立っていた。  男の胸元には、こんな宵闇の中でも。宵闇の中だからこそ、金の刺繍が、光っている。 「それでもあの子を信じたかったから。あの子が見ているのは、氷を出せるアイスモンの能力じゃ無く、アクアリウムの中の自分自身だと。そう信じたかったから。完全体でありながら、十分に究極体にまで通用するデジモンへと自分を育ててくれたあの子を、愛していたから。……だから、あの子を試したんだろう」  そして、やっぱりダメだった、と。  男がそう続けたのを聞きながら、彼女はその場から後退る。敵わない相手だと、知っているからだ。 「君がそうする事を、結局許容したのは、私達だ。溶けたのではなく、進化したのだと。そう明かさなかったのは、嘘をついたのは、私達だ。だから、私達に君を責める権利は、無い。……でも」  彼女の表情は歪んでいた。  それが最も醜い表情であると理解した上で、奥歯を噛み締め、目を吊り上げながら。 「君がその嘘を。アイスモンではなく、今度はあの子のふりをし続ける、という『嘘』を、貫き通せなくなった時。……その時は、解っているね?」  だが、水である彼女には。  水そのものである、『彼女』には。  どれだけ感情が高ぶろうとも。やはり、涙など浮かべようも無いのだ。 「私達の仕事は、君達デジモンが、人の傍で暮らすための手伝いをする事だから。……君の存在がその邪魔になるのなら。その時は」  女は夜道を駆け始めた。  人の姿で、ではない。水虎の姿で、だ。  よほど、この場から。一秒でも早く、離れたかったのだろう。 「……」  男はゴミ袋の前に膝を付き、女が今しがた捨てていった『ゴミ』を引き抜いた。  それは100均で買えるような、透明でお洒落なデザインではあるけれど、どこか安物感がぬぐえない、プラスチック製の水筒だった。
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快晴
2021年2月01日
In デジモン創作サロン
Episode1 Episode2≪≪ Episode3 Episode4  自分で言うのも何だが、要領は良い方だった。  言われた事は大体そつなくこなしてきたし、初見の物事にもおおよそ求められている解答を用意できるので、周囲の人間はそこそこ俺に期待してくれたし、「天才だ」なんてもてはやしてもらえたのも1度や2度では無かった。  だが、所詮俺はそこ止まりの人間だ。  器用貧乏。  俺を言い表すのに、ここまでしっくりくる言葉もそうそう無いだろう。  早い話、最初から能力値がある程度高い代わりに、成長も上達もしないのだ。  いつも、何をやっても。気が付けばその分野において自分の上位互換のような人間が俺の隣に現れていて、そうすると、周囲から俺の存在は消えてなくなってしまう。  スタートダッシュだけは上手いものだから、きっと慢心しているのだ。努力が足りないのだと、分析や資料集め、修練といった、自分なりの頑張りを重ねてみても、俺を追い抜かしていった奴らは、その背中が豆粒ほどの大きさでしか視認できない程、遥か先にまで走って行ってしまう。  結局のところ、天才と言う単語は往々にして、そういった奴らを指し示す単語だった。  そして、この日。  俺はどうしてこうも俺の人生が肝心なところで上手くいかないのか、ようやく身をもって理解する事が出来た。  成人にまでなって何を今更、という呆れと、まだまだ若いんだからこんなところでそんな悟りを開く必要はない、という諭しが左右の耳から聞こえてきたけれど、当の真ん中、俺自身は、数日前の出来事もあって、もう全てに投げ遣りな気分だった。 *  一斉に駅に向かう学生達の列からこっそりと逸れて、未だ慣れない革靴の底をコツコツと鳴らしながら路地裏を1人、歩いていく。  表情筋だけで仕事のやりがいと職場の明るさを表現しようとした結果、小学生の集合写真と大差無いレベルの表紙に仕上がった企業パンフレットは、一番最初に目についたゴミ箱へと丸めて捨てた。  再三記された会社そのものの「風通しの良さ」が、隙間風のようにうすら寒かったからだ。  そもそもあの日以降の就職活動は、半ば消化試合のような物だった。  消化試合な上に、負け戦だ。  内定はどこからも貰っていない。まず落ちる事前提の、高望みも良いところの企業にだけ履歴書を送りつけて、あとは就活サイトからも登録を外した。こうやって足を運んでいるのは既に説明会が予約済みだった箇所だけで、地元の企業に至ってはいくつか面接をバックレている。  傍から見ればそこそこ順風満帆だった俺の人生に、「就活の失敗」という影が落ちれば、まあ、それは、首を括るにしてもそれなりの理由になるような気がしたからだ。  無才の俺は、死ぬことにすら周囲の納得できる理由を用意しなければ、やっていられないらしくって。  ……まあ、そんな風に死ぬ死ぬ死にたいみたいな事ばっかり考えている割に、俺は企業訪問の後に出来る、いくらでも両親に言い訳が利く自由時間に、そこそこの楽しみを見出したりはしているのだが。  歩くのは、割合好きだ。知らない場所ならなおの事良い。  目的の無い散歩は、誰かと何かを比較する必要も無いのだから。  とはいえ「時間があった」という理由だけで大学から少し離れたところにある山の登山道を往復してからゼミに顔を出した時には、流石に学友に呆れられたりもしたっけか。  電車をいくつか乗り継いでやって来たこの町は、中途半端に田舎町、といったところだろうか。  都会とは程遠く、都心のベッドタウンと呼ぶには心許なく。コンビニは遠いが大型の商業施設は比較的近い。そんな町だ。  少し前にこの近所で女性の変死体が発見されたとかいう話を母がやたらと気にしていたが、そんな事故だか事件だかに左右されるまでも無く空気はどことなく濁っていて、その原因を少なからず担っているに違いないバイクの爆音が時折空気を揺らしては走り去っていく、寂れた空間。  当然どこまで歩いたところで目新しい発見など在る筈も無いが、俺としては、時間さえ潰せれば、町の造形などどうでも良かった。  贅沢を言えば、余所者でも気軽に入れてそれを噂話のタネにされたりしない、静かでそう金のかからない何かの店が見つかればいいのだが。  飲食店でもいいが、一番良いのはペットショップだ。ふらりと立ち寄ってひやかしても、比較的咎めるような視線を向けられにくい。気がする。  展示された犬猫達は高級品であると同時に、血の通った生き物だ。金銭と責任。その両方を天秤にかける以上、即決で購入する人間の方が少ないのだろう。  だから、どうにもそれらしい店を見つけた俺の足は、当たり前のように、その場で止まった。  きっかけは、一度出た道路沿いの道から見えた、青い屋根だ。  青色の屋根瓦などそう珍しい訳でもないが、あそこまで深い色をしたヤツは、少なくとも俺は初めて見たもので。  最初から特に進路の定まっていない道中だ。このまま何も無ければ件の大型商業施設に寄って、そこから出ているバスにでも乗って駅に向かう形になるなと考えていた俺は、その屋根の家へと目的地を変更した。  普通の民家ならそのまま通り過ぎるつもりだったが、店の前に置かれた謎の言語で書かれた看板と、味気なくドアノブにぶら下がった『OPEN』のプレートを見るに、何らかの物品を販売している場所である事だけは確かなようだった。  入り口の磨りガラスから覗く光は無駄に怪しげではあるものの、俺は何となく、この手の照明に親しみを感じていて。 「……失礼します」  面接室でも無いのに、とは思いつつ、コートの下に来ているリクルートスーツがそうさせるのか、俺は若干抑えたトーンで断りを入れてから、店の扉を開けた。  中の光景は、半分くらい、予想通りだった。  外観よりも広く見える空間の中に、きっちりと並べられた鉄の棚。その全てに、明るい、様々な色の光を灯した水槽が、所狭しと並んでいる。  ただ、半分くらい、と言ったのは、その水槽の種類があまりにもまちまちだったからだ。単純に大きさや形の問題じゃない。家の台所で見かけたような容器までちらほらとあり、しかしその全てに例外無く、砂やら装飾、生き物といった、何かしらの存在が入れられているのだ。  アクアリウム、って言うんだっけか。  それにしたって、いくらか無節操ではあるけれど。  俺は入ってすぐの棚、その支柱にぶら下げられている、夏祭りで金魚でも掬った時に入れておく赤いビニール紐で口を縛ったポリ袋を覗き込んだ。  底に敷き詰められているのは全部違う色の波模様が入ったビー玉で、その上を泳ぐ魚を丸い側面が何度も反射して、1匹しか居ない魚で万華鏡を作り上げている。  で、その魚というのも、ガラス玉の飾りにも負けず劣らずの極彩色だ。  熱帯魚だろうか。淡いグリーンの身体には赤、黄、青のペイントが身体の面積いっぱいに施されていて、しかも広げた胸鰭は上から見ると蝶の羽のようにも見える。こんな魚、今まで見た事も無い。  入れ物自体は何の変哲も無いポリ袋であるにもかかわらず、その点も含めて、優秀な美大生の作品みたいにこの『アクアリウム』は幻想的だった。……中の魚にとって住みやすい環境かは、さて置いて。 「ベタの一種か?」  狭いところで飼える魚というと、そのくらいしか思いつかないんだが。 「いいや、その子はスイムモン。見ての通り、熱帯魚型のデジモンだよ」 「わっ」  思わず声が出たし、肩も多分、跳ねた。  身体まで跳ねなかったのは行幸か。棚に当たっていたらと思うと、遅れて冷や汗まで浮かんで来た。  振り返ると、壁際におそらく会計用のカウンターがあって、その向こうのパイプ椅子に、俺の両親と同世代くらいの男性がにこやかな表情を浮かべて腰かけている。  この店の店員だろうか。アクアリウムに気を取られて、そして売り物に対してあまりにも地味なコンクリートの壁と半ば色彩が同化しているせいで、全然気がつかなかった。 「申し訳ない。驚かせてしまったね。どうにも昔から、気配というヤツが薄いらしくて」 「ああ、いや。お邪魔してます」  俺は軽く会釈してから、男の言葉を再び頭の中で繰り返した。  スイムモンって、言ってたっけか。  いや、それはいい。聞き慣れない名前だが、魚なんて、知らないものの方が多いだろうし。  問題はその後。熱帯魚、まではいい。  熱帯魚『型』? の、デジモン? 「あの、デジモンって?」 「ああ、やっぱり君も、この店は初めてかい」 「っス」 「良ければ、他の子達も見てごらん」  質問の答えにはなっていないような気がしたが、とりあえず促されるままに他のアクアリウムへと視線を移す。  ……それで、確かに少なくとも。熱帯魚『型』の部分には納得が行った。  スイムモンの隣の、水草と流木で森を象ってある水槽に入っていたのは、魚でも何でもない、全身赤色のクワガタムシだった。  昆虫の呼吸器官は人間で言うところの腰だか尻だかのあたりに横一列に並んでいると聞いた事がある。だから、水に落ちるとあっという間に溺れてしまうのだとも。  だというのにこのクワガタムシ、陸上で酸素を吸って生きている生き物なら虫じゃ無くても確実に溺れる水の底にまで沈められているのに、俺の視線に気付くなりぎちぎちと太い大顎を鳴らして威嚇してくる程度には元気にしている。  「呼吸の出来る水」それ自体はもう存在しているみたいな話を何かの本で読んだのだが、それにしたって、最終的には酸素と入れ替わった二酸化炭素を輩出できずに中の生き物は死んでしまう、というオチがついていたような。  そもそもこのクワガタ、二本足で立ってるし、口はブラシ状じゃ無く牙と舌まであるし。どうなってるんだ。 「……これは、クワガタ型のデジモン、とかっスか」 「残念。昆虫型だよ。ただ、名前はクワガーモンさ」  ひどく大雑把な分類と特撮モノの怪獣みたいな名前に一種の眩暈を覚えつつ、俺はこっちに寄って来た店員らしき男の方へと向き直る。  クワガーモンは、まだ顎を鳴らしていた。 「凶暴だし懐かないけれど、飼いにくいってわけじゃない。食事さえきちんと与えていれば、縄張りを侵される事が無い分野生のものよりは幾分か穏やかだからね」 「穏やかなんスか? これで?」 「ああ。野生の個体は、威嚇抜きで襲ってくる」  虫だろうと、一直線に飛び掛かって来たとしたらなかなか怖いな等考えている俺の傍らで、男は節くれだった人差し指を立てて、唇に当てる。  途端に、クワガーモンが静かになった。 「それで、お客さん」  恐らくエアーポンプの類から発せられている、こぽこぽという音だけをBGMに、店員はにこりと微笑んだ。 「見たところ、この店は初めてだね? それから、デジモンそのものも」  男の物腰は柔らかく、質問に責めているような空気感は無い。  不思議と、こちらからも言葉を返すのが、億劫に感じないタイプの人種だった。 「企業説明会の帰りに、寄り道っス。お店どころか、この町に来るのも初めてで。……なんか、そういう生き物の生息地とかなんですか? この辺」 「そうだと言えばそうだし、違うと言えば違う、かな。この子達は本来であれば、どこにだっている。私達は、その中でも特別人間に興味のある子達が、より人間の近くで暮らすための、簡単なお手伝いをしているに過ぎないよ」 「へえ、なんというか……その言い方だと、こいつら妖怪とか、そんな感じっスか」 「近いかもしれない。付喪神の一種だと思っている研究者もいるそうだから」  俺はしゃがんだ先に置いてあった金魚鉢の中で、出目金の形をした浮きに飛びついていた白い猫へと指を差し出した。 「じゃ、これとか化け猫っスね」  ぴょこぴょこと指先を振ると、白猫はばっと浮きの腹を蹴って、泡の帯を作りながら一直線にこちらへと向かってくる。 「いや、その子はハツカネズミのデジモンだよ」 「……」  白猫改めハツカネズミのデジモンは、俺の指をねこじゃらしに見立ててか、手袋をはめた手でガラスの壁に猫パンチを繰り返していた。  いや、  猫じゃん。 「デジモン? の分類難し過ぎるっしょ。誰が決めてるんスか」 「学者先生だったり、専用のコンピューターだったり。そんな感じかな」 「コンピューター? へぇ、ハイテクっスね」  店員の口から出てくるのは荒唐無稽な話ばかりで、しかし目の前にある現実そのものの方がよっぽど非現実的で。でも、本当の事なのだろう。  ……だからだろうか。 「いいなぁ」  振り返った先にある、結局のところ一本道しか無い帰路から目を背けたくて。 「こんな不思議な生き物相手の仕事。ちょっとだけ、憧れるっス」  何もかもを投げ出して、逃げ出したい癖に。  どこへも行けない自分の中から、諦めの悪い言葉がぽつりと、漏れた。 「……」  ただしそれは、つかの間の夢だった。  すぐに正気に戻った俺は、頭を横に振って、湧いて出てきた雑念を振り払う。  急な仕草に驚いたのか、猫のようなハツカネズミは、来た時同様、ぴゅーっと金魚鉢の側面から泳ぎ去って行った。 「スンマセン、無責任な事。素人が何を偉そうにって感じっスよね」  鼠の俊足を見習って、俺も立ち上がり、早くこの店を立ち去ろうと出入り口に足を向ける。  あらゆる意味で「お邪魔しました」と、俺は店員に、最後に一声かけてから外に出ようとした。 「興味があるのかい? この店の仕事に」  のに。  問いかけられて。  だから、俺の足は、止まった。 「企業説明会の帰りだと言っていたね」 「……はい。就活生っス。ただし未だに内定0の、就職浪人候補生っス。……さっきのは、そういうアホの甘え腐った妄言だとでも思って、忘れてもらえると嬉しいんですが」 「そうなのかい? 興味があるなら、私達も歓迎するのだけれど。このアクアリウムを欲しがるお客さんはいても、私達の仕事そのものに関心を抱いてくれる人は割と珍しいからね」 「でも、こういうのって専門職でしょ?」 「そんな事は無いよ、とは言わないけれど、最初から全てを要求したりはしないさ。ひとつずつ教えていくから、その辺は心配いらないよ」 「……」  最初から全てを要求したりはしない、か。  ……常套句だとしても、そんな言葉をかけられたのは、いつ以来だっけか。  まあ、いいか。  そもそもの俺の目的は、少しでも家に帰る時間を先延ばしにする事だ。  この店員がさっきの俺の発言に気を悪くしていないと言うならば、少なくとも今この瞬間だけでも、話に乗っかるのも悪くは無い。  それに、どうせ。  俺のスペックなんて不要だと判断すれば、勝手に向こうから見切ってくれるだろう。  今後の武運をお祈りしてくれる筈だ。就活なんて、そんなモンだ。 「……詳しい話、聞かせてもらっても良いですか?」 「そんなに畏まらなくてもいいよ。……君。明日の11時頃、時間は空いてるかい?」 「面接っスか」 「いいや。試験結果の発表、かな」 「?」  首を傾げる俺に、少し待っているよう言い渡してから、男は店の奥へと姿を消す。  数分もしない内に戻って来た彼は、手の平の上にキューブ状のキーホルダーを乗せていた。 「試験の内容は、こうさ。君には明日、うちの店に来るまで、このキーホルダーを――より正確に言うと、キーホルダーの中に居るデジモン・ウッドモンを預かってもらう」  こういうキーホルダーは大概色付きの油で満たされた中に、ヨットや水生生物、観光名所のミニチュアがぷかぷかと浮かんでいるものだが、男が差し出しているそれはそういったものではなかった。  茶色い砂と漂白された極小の貝殻。藻が生えているのか妙にこんもりとした印象のある黒い小石。透明な水底に沈められたそれらを見るに、これは小さいながらも、間違いなくアクアリウムだ。  そして、その中央にある、木片のような何か。  一瞬流木でも模しているのかと思ったそれには、浅い海のように淡い青色の輝きが2つ--早い話、目があって。  店員の弁から察するに、コイツがウッドモンなのだろう。 「……植物型?」 「正解」  ウッドモンが両腕を持ち上げた。  挨拶しているようにも見えるし、威嚇しているようにも見える。  多分後者だろうと思いながら、それでもとりあえず、俺は軽く会釈して返した。 「この子は見ての通り、枯れ木のデジモンでね。だが、もうじき、そうじゃなくなる」 「花でも咲くんスか?」 「そうなるといいね。なにせ、それが君の受けてもらう試験だから」 「え?」  男はウッドモン入りのアクアリウムキーホルダーへと視線を落とし、くすりと微笑んだ。 「デジモンというのは、成長の段階で『進化』する生き物でね」 「はぁ。アレみたいですね、ポ」 「発言を遮る無礼を許してほしい。しかし、ああ、君。それはいけない。私達の権限をもってしても、その発言は困る。……話を戻そう。この子はね、前々から花のデジモンになる事を夢見ているんだ」 「花のデジモン」  男に倣って、俺も今一度ウッドモンへと目をやる。  こうも小さいと確かな事は言えないが、男性の言う通りウッドモンの姿は枯れ木そのもので、蕾なんてとても付いているようには見えなかった。 「進化自体は、今夜にでもする筈だ。出来るように、世話はしてある。ただ、枯れ木であるこの子に花を咲かせるには、あと一押し、人間からの助力が必要でね」 「助力、っていうと?」 「それを考えるのが、君に与える試験、という訳だ」  ええ、と、思わず声が漏れる。  いくらなんでも、漠然とし過ぎている。  にもかかわらず、責任があまりにも重大だ。1匹? 1体? 1本? ……単位はわからないが、兎にも角にも生き物一個体の今後を、俺の行動が左右してしまうだなんて。 「そう難しく考えなくてもいいよ。人間と一緒に過ごすだけでもこの子達には新しい可能性が生まれるし、仮に君が花を咲かせられなかったとしても、まだ、この子にはチャンスが残されているから。じゃなきゃ、いくら進化が近いからって、この子を試験用に差し出したりはしないよ」  男の一種の気楽さに、嘘が混じっているようには見えなかった。  だが代わりに見て取れる俺に対する『期待』や『可能性』の影は、ちょっとばかり、重荷にも感じて。  だが――そもそもは、自分の迂闊な発言から芽吹いた種だ。  責任、と言うのであれば、この男性をその気にさせた時点で、既に発生している。 「解りました」  意を決して、頷いて見せる。  手を伸ばすと、男は一層に柔和な笑みを浮かべてキーホルダーを俺の手の平に置いた。 「明日11時に、また来ます」 「じゃあ、それまでこの子を、よろしくね」  はい、と返事をしてからキューブの中を見下ろすと、ウッドモンと目が合った。  俺を品定めしているように見えた、という印象は、きっと勘違いでは無いのだろう。 「栄養は十分に蓄えてある筈だから、食事の心配はしなくていいよ。ただ、10時頃には眠る子だから、そのくらいには部屋の灯りを落とすか、それがダメならキーホルダーに布か何かを被せてあげてほしい」 「健康的っスね。了解しました」 「それから、まあ。その形状ならまず心配は要らないと思うのだけれど――1つだけ、必ず守ってほしい事がある」 「何ですか?」  瞳にそれまでにない真剣みを宿して、男はぴんと、人差し指を立てた。 「けして、アクアリウムを壊してはいけないよ。繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝が溢れてしまうからね」 「今の」  あまりに発音が不自然な箇所があったので、思わず顔が引きつっていたかもしれない。 「デジモンの専門用語とか、そういうのですか?」 「そういうものだよ」  再び表情を柔らかな笑みに戻して、しかし男はそれ以上は謎の単語について触れなかった。  受け取ったウッドモン入りキーホルダーは、間違っても親には見つからないよう、カバンに付けたりはせず筆箱の中に仕舞って持って帰った。 *  会社の雰囲気、業務の詳細、他の就活生の印象に至るまで。  根掘り葉掘り聞き出そうとする母の、矢継ぎ早な質問に内心辟易しつつも律儀に答えを用意して。  ようやくリビングから解放されたのは、帰宅後、スーツを脱いでから1時間以上経った後だった。  自室の扉を閉め、椅子に腰を下ろしてから、やっとの思いで息を吐く。  カバンの中を漁られなかっただけ今日はまだマシだったという事実になおの事、母の過干渉で首を絞められるような思いだった。  ……父の帰宅後にほぼほぼ同じイベントが待っていると思うと、本当に、気が滅入る。  こんな調子で、花を咲かせるための手伝いなど出来るのだろうか。そもそも時間は足りるのだろうか。  心配ばかりが渦を巻く中、筆箱の中に隠していたキーホルダー型アクアリウムを取り出すと、中にいるウッドモンまでもがうんざりしたような表情を浮かべていて、俺は力無く笑う事しか出来なかった。  はてさて。コイツが呆れているのは、俺と一緒に聞いていた母の質問攻めに対してか。あるいは揺れる筆箱の中で筆記用具にもみくちゃにされた運搬の環境に対してか。  しかしそれにしても、帰り道、そこそこ気を遣ったとはいえ最寄駅からは自転車だし、かなり揺れたと思うのだが、アクアリウムの内部は店で店員に渡された時とそっくりそのままで、まるでこの透明な容器の壁一枚隔てただけの小さな空間には、別の時間が流れているかのようだった。  ……一体、壊したら何が溢れ出るんだろうか。  気にはなるが、興味すら持たない方がいいだろう。借り物を壊すだなんて、試験以前の問題になってしまうし。 「さて、どうしたもんか」  指に引っ掛けていたキーホルダーを机に下ろす。  キューブの底面は幽かに音を立てたが、やはり砂が舞い上がったりはしなかった。  視線を宙で泳がせながら、脳内から植物の育成に関して持っている知識を引っ張り出していく。  栄養は足りていると、店の男は言っていた。  水が足りてるのは見ればわかる。酸素が足りてるのかはわからん。  日の光については、この時間帯だとどうしようもない。 「音楽……聞かせるといいんだっけ」  特にクラッシックがいいだとか。 「でも、それは無理かな」  万が一、普段の趣味でも無い曲を俺が聞いているのを母に感付かれたら、理由を問い質しにあの人が部屋までやって来かねない。  曲についてはいくらでも言い訳は思い付くが、このウッドモン入りアクアリウムキーホルダーについて彼女の納得のいく説明を出来る自信は無い。  そして何より、音楽に母の声が掻き消されて、あの人が俺を呼ぶ声を聞き逃すかもしれないと思うと、それも恐ろしくて。 「『4分33秒』ならいくらでも聞かせてやれるんだけどな。すげぇ勉強が捗る曲だ」  と、曲名には首……と言うよりも固い木そのものの前身を斜めに傾けていたウッドモンは、勉強、という単語が出るなり嫌そうに青い目を細めた。 「? なんだ? デジモンも、勉強とか、するのか? その……花を咲かせるための勉強、的な?」  この縦揺れは、頷きなのだろう。  木片のお化け、とでも言いたくなるようなウッドモンが、木の枝のような手で自分よりも小さな教育書の類を熱心に読み込んでいる様を想像すると、それはなんだか、とても可笑しかった。  でも、まあ。そうか。  受験で志望校に合格する事を、サクラサク、なんて言ったりもするしな。 「その様子だと、ウッドモンは勉強が嫌いなのか? ……そっか。俺も、嫌いだな」  最初は、そうじゃ無かった。  新しい事にはいつも興味があった。  段階を経て学んでいく算数や英語は兎も角、国語や生活、図工の教科書は、もらってすぐに、解る所は最後まで読んだ。特に実験や工作はそのうちこれを学校でやるんだと思うと、毎回わくわくしていたように思う。  そうじゃなくなったのは、いつからだっただろう。 「……ああ、そういや」  思い出から掘り返した記憶には、朝顔の花が、埋まっていた。 「人間の子供はな、ウッドモン。大概皆、花を育てた事があるんだ。朝顔っつー、夏の花」  花を育てる授業にはスケッチが付き物で、俺は運動場の片隅で行われる、実験と工作がセットになったようなこの授業が、大好きだった。  俺の朝顔はクラスで一番最初に芽が出たものだから、それがなおの事、嬉しかったのだと思う。  毎日少しずつしか大きくならない朝顔に代わって、俺は将来この花が咲かせる筈だった大きく丸い青色の花弁を、支柱に巻き付けた蔓の背が伸びる度に自由帳いっぱいに描いていた。  ちょうど夏休みの終わりには『朝顔の絵』を課題にした、ちょっとしたイラストのコンクールもあって、金賞を目指すと俺は家族の前でも声高に宣言していたっけか。  両親は大層喜んで、俺に協力すると言った。  次の日2人が俺の前に積んで重ねて置いたのは、青の種類だけで両の指が足りなくなるような絵の具のセットと、古今東西様々な技法が載った美術の辞典と、朝顔の事しか書かれていないのに、俺の自由帳よりもずっと分厚い専門書だった。  --こんな普通の絵じゃダメ。金賞に選んでもらえるのは、特別な絵なんだから。いっぱい読んで、勉強してね。  俺は途端に朝顔が嫌いになった。  絵を描くのも嫌になった。  幼い俺にはその理由がちっともわからなかったけれど。でも、その瞬間から、何もかもを投げ出したくなってしまったのだ。  だけどやっぱり、子供の拙い言葉じゃ何も伝えられなくて。  「自分の言った事には責任を持ちなさい」と諭していた母は、それでも嫌だと食い下がる俺に対してついに泣き出して「どうしてママの言う事がわからないの?」という疑問に「育て方が悪かったのね」という答案を用意する作業を振り子のように繰り返し、それを見た父は、母を泣かせた事実とかかった金銭の現実を罵声に変えて俺に浴びせかけ、俺の味方は、誰もいなかった。  怖くて怖くて、最後には何度も謝って。ちゃんとやるからと泣きついて。それでも、なかなか許してもらえなかった。  「どうしてパパとママが怒っているのか、全然わかっていない」と言って。 「俺はさぁ、お前には悪いけど、やっぱり、花育てるの向いてないんだわ。なんたって、子供でも育てられるって事で配られた朝顔、見事に枯らしちまったんだもん」  あれだけ愛おしく思っていた朝顔が汚い茶色の枯草に変わっていると気付いたのは、夏休みがほとんど終わりかけていた頃だった。  俺がその夏ずっと伺っていたのは、複雑な品種名が横に書かれた写真の朝顔と、親の顔色だけだったからだ。  母と一緒に行った、金賞の絵が飾られた展覧会には、母のママ友の息子の絵が、金のリボンと一緒に堂々と展示されていた。  青と紫の丸を何個も重ねただけの絵だった。  子供らしくて素敵な絵だと、母は他所の子供の絵を褒めて。  うちの子もこんな絵が描けたらよかったのにと笑っていた。 「才能が無いし、そもそも努力のし方が下手なんだよな。……それに、才能や努力と同じくらい大事なモンが、多分、致命的に、足りてないんだ」  それ以降。何をやっても、結果は同じだった。  出だしは大概上手くいく。だけど気付けば成果も成功も俺の手から滑り落ちていて、そうなると当然、熱も、興味も、失われて行く。  幸か不幸か、ほどほどに上手くやれば、生きていく上で困る事は無かった。  だから、前に進める以上、いつかは何かが上手くいくと、そう、思っていたのに。  その幻想も。2ヶ月ほど前に、打ち砕かれた。  広告会社のレクリエーションで、集まった就活生がいくつかのチームに別れ、「『就職活動』をテーマにキャッチコピーを作る」というお題が出て。  相談の末、俺の所属したチームは満場一致で俺の出した案を採用した。  どんなものだったか、詳しくは覚えていない。忘れてしまったし、忘れたかった。  ただ、手堅く5・7・5調に仕上げたもので、自信を持って出した案だった事だけはよく覚えている。  書いた物が集められた後、上位の3つが公開され、俺はその中で2位だった。  広告会社の社長も褒めてくれた。一種のお世辞だったとしても、「学生とは思えない」だなんて言われてしまえば、気分が悪い筈も無く。  そうなると当然、1位への期待は高まった。  俺の中にも、悔しさなんて微塵も無かった。純粋に興味があった。  本職に褒められた事がよほど嬉しかったのか。  ただ単に、慣れていたからか。  ……あるいは、今度こそ手の届く位置にある、僅差の作品に違いないと、そんな馬鹿げた夢を、見ていたのかもしれない。  だが、部屋の前方にあるプロジェクターに映し出された一文を目にした瞬間。  俺の頭は、真っ白になった。  『お父さんって、すごいんだ!』  1位の作品は、そんな言葉だった。  俺は周囲の暖かな拍手と共に受け入れられるその文字の意味を、価値を。これっぽっちも、理解できなかった。  いびつな円を重ねただけの絵の素晴らしさが、何も解らなかった時と同じように。 「感謝とか、愛とかさぁ。人間なら当然持ってる……尊敬? 多分、そういうのが俺、足りてねぇんだわ」  愚かな俺にもわかるようようやく叩きつけられた答えを前にして、俺は帰りの電車に乗るための駅の便所で胃の内容物を全部ひっくり返した。  よく、あそこまで堪えられたと思う。  「育った環境のせいだ」と言い訳が浮かぶ時点で、俺はダメだった。  でも同時に、この広告会社でのレクリエーションの数日前。履歴から就活サイトの俺のマイページを無断で開いて、俺の就職する会社をここがいいそこはダメと好き勝手に品定めしていた事を後で息子に喜々として報告するような両親に、どうすれば「すごい」と尊敬の眼差しを向ける事ができるのだろう。  ログアウトの作業を怠った自分のミスだ。  受けるべき会社の正しい選択も出来ない自分が悪い。  両親の厚意を受け止めない自分は最低である。  ……そんな風に、自分に言い聞かせ続けるのは、もう、限界だった。疲れてしまった。  俺はその程度の人間だから。だから、何にもうまく、いかないのだ。 「そういうヤツが、「綺麗な花を咲かせましょう」だなんて。昔から無理だって相場が決まってるんだよ。『はなさかじいさん』でも心の綺麗なじいさんしか……って、お前は知らねーか。悪い」  ふと見やると、ウッドモンは回想で意識が混濁しているような状態で、ほとんど独り言のように呟いていた俺の語りかけに、想像以上に真剣な表情で耳を傾けていた。……耳が何処かは、さて置いて。  手のひらサイズどころか指の先くらいの大きさしかないのに、それでも十分に伝わってくるほど視線に熱を帯びた青い瞳に、俺はバツが悪かった。 「……悪い」  同じ台詞を、繰り返す。  植物の育成には、クラッシックの他に「声をかける」という手法も効果的ではあるらしいが、俺の半ば弱音の昔話にそんな効果があるとは到底思えない。 「そういう訳だから。災難だけど、今回のその、進化、ってヤツは、諦めてくれ。……あの店でなら、『次のチャンス』ってので今度こそ花のデジモンになれるんだろ? 明日の11時になったらちゃんと返しに行くから。……ごめんな」  まっすぐな目を見ていられなくなって、謝罪と共に、こちらから目を逸らす。  その刹那だった。視界の端に、光が、見えたのは。 「え?」  キーホルダーの方だと気付いて視線を元に戻した頃には、光は、もう無くて。  光の、そしてウッドモンの代わりにキューブの中に鎮座していたその塊に、俺は言葉を、失った。
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快晴
2021年1月31日
In デジモン創作サロン
≪≪前の話       次の話≫≫  ――『迷路』はひょっとすると、デジタルワールドが人間との共存、すなわち『選ばれし子供達』システムを開発するにあたって用意した、一種の実験場なのかもしれない。  過去に派遣された『迷路』の調査隊、その生き残りが、そんな言葉を書簡に記していたらしい。  デジモンという名の兵器を使用するためのリモコンは、デジモンの側が選んだ未成年--所謂『選ばれし子供』しか所持できない。  そんな悩みを解決したのが、この『迷路』だ。  入口も出口もランダムに出現と消失を繰り返すこの謎の巨大空間は、当然のように入る事も出る事もひどく困難ではあるが、中に入ってデバイスさえ手に入れられれば、1体のデジモンとおおよその衣食住をほぼほぼ約束してくれる。  『迷路』はどうやら、人間が「デジモンに殺される」以外の方法では死ににくいように出来ているらしく。  ……そうでなければ、誰からも選ばれなかった子供など、そもそも生きてはいられなかっただろう。  まあ、何はともあれ、今日も今日とて。  人の世界で食いっぱぐれた爪弾き者達は、一発逆転、自分が貴種流離譚の主人公である事を祈って、『迷路』に足を踏み入れているのである。 「で? どうなんだい。お兄サンもその手の英雄気取り――今は騎士気取りってところかい?」  周囲を警戒しながら進んでいた青年の行く手を阻むように曲がり角から登場した俺を見て、彼は引きつったような表情を浮かべて即座にパートナーを隣にリアライズさせた。  赤い八本足の馬。北欧神話の最高神が跨るこの世で最も素晴らしい軍馬にして、獣の聖騎士・スレイプモン。  相方の警戒度を汲み取ってか、既に左手の聖弩『ムスペルヘイム』はこちらに向けられている。  思っていたよりは小さいな、というのが率直な印象だ。  やっぱりデカいんだな、マンモンって。 「絵本屋……!」 「話が早くて助かる。その様子だと、俺がレンコの婆さんと旧知だって事も知ってンな?」  青黒い隈で縁どりされた目を吊り上げて、青年は俺を睨みつける。  スレイプモンは強力なデジモンだろうが、ただの人間だけなら小鬼の腕力でも十二分に殺せる。  どうせ今に至るまでレンコかシールズドラモンに仕込まれたゴブリモンのスーサイド・スクワッドに、しこたまゲリラ作戦を仕掛けられているのだろう。  かわいそうに。  かわいそうだが、自業自得だ。喧嘩を売る相手を、お前は間違えたのだ。 「おっ……お前は絵本屋なんだから、歌と一緒で「誰でも救う」筈だろう!?」 「そりゃアもちろん! 解ってるなら落ち着けよ。な? 兄弟。ひとまずその北国の南国みたいな名前の付いた弩弓を下ろさせてくれ。俺ァお前さんと交渉に来たんだ」 「交渉……?」  弩こそこちらを向いたままだが、青年の閉じた唇は、俺の二の矢を待っていた。 「ああそうさ。何、大したことじゃない。俺は今現在、お前も知ってるいじわる婆さんにしょっぱい報酬で雇われててよゥ。お前が年若いなりに心優しい老翁のように相応の献身を持って俺に誠意を見せると言うのなら、小さなつづらに金銀財宝を詰め込む雀のように、俺は喜んでお前の力になろう」 「……いくらだ」 「おっと、俺の望みは金じゃァない。本音を言えば金は欲しいが、とても欲しいが。……だが札束で殴る力は年寄りの方が強いと相場が決まっているだろう? 確認のために栗鼠みたくあっちとこっちを行ったり来たりはごめんだからな。もっとシンプルに、わかりやすく。なおかつ確実に今この場で払える対価を、俺はお前に要求しようじゃないか」  右手を差し出す。  3本の指を立てて。 「脚、3本だ」 「……え?」 「だから、脚を3本だ」  手を引き戻して、その指でサングラスのブリッジを軽く持ち上げる。 「うちの大飯喰らいは馬刺しをご所望でね。それ以外の肉は気分じゃないらしい。……今、この場で。スレイプモンの脚3本を引き千切ってこっちに寄越すなら、俺とお前はお友達だ。よろしくな」 「ふざけんな!!」  青年が俺を力いっぱい怒鳴りつける。  握り締めた拳を振り被らず、なおかつ今のを攻撃の合図だとパートナーに受け取らせなかったあたり、お互いそこそこ育ちは良いのだろう。  やっぱりお前らは、『迷路』にゃ向いてないタイプだよ。 「そんな事したら、今助かったとしてもあのババア共の格好の獲物になるだけだろ!? 同じデータ量の物ならいくらでも用意するから」 「マンモン」  つま先を持ち上げて靴の裏に仕込んでいたデバイスの画面を騎士気取り共に向ける。  真っ先に飛び出した長い鼻が俺に向けられていた聖弩を装着した腕を打ち上げ、コンマの差で俺を穿ち損ねた灼熱の光矢『ビフロスト』が天へと昇って行く。  下手な追撃を仕掛けず次にマンモンの牙が狙いかねないパートナーを回収して高速で後退したあたり、全く、立派な騎士様だことで。  デカブツを足の裏から突き出したツケで後ろへと転がりながら、俺は急いでデバイスを靴から引き剥がす。  奇襲のためとはいえ汚れた画面はあまり見ていて気分の良いものでは無い。標的を仕留めたワケでもないとなれば、なおの事、だ。戦象が幅を利かせた時代など、数世紀も前に終わっていると痛感せざるを得ない。 「この期に及んでまだ交渉の余地があると思ってた点に関しちゃァ、ま、触れないでおいてやるよ。代わりに今日が人生の終点なお前のために、明日を生き抜くための知恵を一つ授けてやろう」  俺はデバイスの画面を袖で拭いながら、店で客を見送るときのようににこりと青年に微笑みかけた。 「五体……九体? 満足だろうと、既にお前はレンコ婆さん達の格好の獲物なんだよ」  手遅れだ。と。  その台詞が青年の耳にまで届いたのかは解らない。  何せ、彼らの頭上からは今まさに、数十にも及ぶ火の玉が降り注いでいるのだから。 「っ、スレイプモン!」  しかし流石は神馬の騎士。  たてがみ一本焦がす事無く、パートナーを背に乗せたスレイプモンはその場から走り去る。  火の玉――ゴブリモン共が一斉に投げ込んだ『ゴブリストライク』の炎が『迷路』の地面を舐めた頃には、連中の影は豆粒大だ。  ……あれで聖騎士型最速って訳じゃねぇっつーんだから、全く、強い究極体ってのはそれだけで嫌になる。  と、 「誰がいじわるばあさんだい。ええ? ゲイリー」  デバイスから、レンコの低めた声が響いた。  俺は画面を耳に当てる。 「誰、と俺ァ明言はしてねぇぜレンコ婆さん。胸に手を当てて、それでも自分の顔が思い浮かぶっつーなら、部下の労働環境をもう少し改めてやるこったな」 「はっ、生憎死人の顔しか浮かばないね。となると、アタシの部隊は完璧って事かい。そういう訳だ。引き続きしゃかりき働きなゲイリー。働きの悪い駄馬には鞭以外くれてやらないよ」 「鞭より酒の方がいいぜ。戦の前に酔わせるのは戦象運用の基本だ」 「暴れるだけのデカブツは今は必要無いんだよ。……ただ、まあ。戦の後でなら、考えておいてやるよ。サクラに合う酒なんかをね」 「そりゃいいや」  マンモンが寄越した長い鼻に掴まる。  デバイスの画面の端をワンタッチするだけで装着できるよう設定してある専用の鞍を装備させてから、俺はマンモンの背に跨った。  前方にあるグリップの窪みにデバイスを差し込んでから握り締め、姿勢を低くし、右足でマンモンの側面を軽く蹴る。 「走れ」  たちまち丸太のような脚が、力強く地面を蹴った。  マンモンの仮面に刻まれた紋章が持つ千里眼の機能を、俺のデバイスと同期させる。途端にコイツがサーチした周辺の地図情報とレンコ達やスレイプモンの位置情報が、眼前にウインドウという形で表示された。  ほとんど同時にレンコのデバイスにも同じ情報が行っている筈だ。  素早さこそ尋常ではないが、動き方そのものは単純だ。  このままいけばゴブリモン達がせっせと用意している罠にスレイプモンは嵌まるだろうし、その頃には俺も追いつくだろう。  ここに至るまでの進化ルートの恩恵か。素早さのパラメータそのものとは別に、俺のマンモンは素早く動く為の身のこなしが身体に染みついている。  完全体全体で見ても大した性能を持たないコイツの、数少ない長所とも言える部分だった。  地道なショートカットを積み重ね、マップ上に表示された俺達の現在地を示す黒い点と、スレイプモン共の現在地を示す赤い点との距離は、徐々に狭まりつつある。  そして何度目かの角を曲がる直前、そこそこの破裂音と、コンマ数秒遅れて馬の嘶きが、響き渡った。 「あっぶね」  ひやひやさせやがってこのうすのろめ。  滑り込みセーフだ。間に合わなかったらレンコになんてどやされていたか。 「さっさと行け!!」  踵でマンモンを小突くなり、今までだって十分全速力だった筈のマンモンの図体がさらに加速する。  必殺技とは名ばかりの、デカい身体と長い牙を用いた体当たり『タスクストライクス』で、マンモンはようやく動きを止めたらしいスレイプモンへと直進した。 「っ」  遠目ながらに、スレイプモンのテイマーの顔が更に引きつったのが見て取れた。  振り返った騎士ご自慢の赤い鎧には、みすぼらしい煤汚れが広がっている。  まるで目の前で小型の火薬が炸裂したような有様だが、破裂したのは爆弾ではない。  彼らには、きっと通路にたまたま居たマッシュモンが、突然爆発したように見えていた事だろう。 「スレイプモン!!」  パートナーの呼びかけに応えてスレイプモンが絶賛突進中のマンモンへと向けたのは、聖弩『ムスペルヘイム』ではなく右腕の聖盾、『ニフルヘイム』だ。  灼熱の国の名を冠した『ムスペルヘイム』に対して、『ニフルヘイム』は寒々とした北欧においてなお凍えるような霜の国の名だ。  当然放たれる必殺技も、その名に相応しい物となっている。  『オーディンズブレス』。  北欧神話主神の吐息は、老人の見た目をしている割に口臭こそ無さげだが極低温。  盾を守護するように、超局所的なブリザードが渦を巻き始め-- 「判断を誤ったなァ!」  言いつつ、俺はデバイスだけは回収しつつ鞍のグリップから手を離した。  揺れる巨体は半ば弾き飛ばすように俺を宙へと置き去りにし、放り出されたパートナーを構わずに、マンモンはそのまま直進を続ける。  俺どころか、ブリザードそのものも意にも介さず、だ。 「!?」  爆炎に少なからずさらされた目を慮って点では無く面の攻撃を選んだ点は評価に値するが、代わりに属性的な相性について頭からすっぽ抜けていたのだろう。  マンモンは古代獣型デジモン。  デジモン達の故郷において最も寒い時代を生きていたデジモンだ。  対氷雪においては。その点に関してのみは規格外の獣にブリザードだなんて。  いくら究極体の聖騎士様だと言っても、こんなギャグのセンスじゃ雪の女王でも片腹を壊して痛めちまう。  爆発音にも負けず劣らずの破砕音。  マンモンの継ぎ接ぎの牙が、『ニフルヘイム』越しに神馬を捉えた。  と、同時に。  投げ出され、今まさに地面に叩き付けられてまあ死んでもおかしくはなかった俺の身体を、ひょい、とリンドウとおなじくらいの背丈の影がかすめ、重力に逆らって上空へとさらっていく。  ピーターモン。  イギリスの戯曲に描かれた、大人になりたがらない少年を模したデジモンだ。  「大人になりたがらない」と言う割に、これはメアリーが、普段のマッシュモンから一段階進化した姿である。  俺よりタッパが小さい癖に軽々と大の大人を抱えて上昇したピーターモンメアリーは、やがて『迷路』の壁の上に俺を下ろした。 「お父さん」  俺とマンモンに騎乗しては危ないからと、この場所でレンコと一緒に待機していたリンドウが、モルフォモンを伴って駆け寄って来た。  しゃがみこんで、その小さな身体を受け止める。さりげなく同じようにツッコんでこようとしたモルフォモンは手で払ったが。 「良い子にしてたかリンドウ」 「アンタの娘だとはとても信じられない程度にはね」  案の定、返事はリンドウ自身からではなくレンコからの皮肉という形で返って来た。  必死で象を走らせてきた同胞にねぎらいの言葉の一つも無いのかと思わんでもないが、この怒らせると心底面倒臭い婆さんが機嫌を損ねていないなら、それに越した事は無い。  それでも一応軽く肩だけは竦めてから、戦況を確認するために立ち上がり、壁の下を覗き込む。  マンモンは既に、スレイプモンから振り払われていた。  全くこれだから究極体の膂力は。  はなから期待なんかしちゃいないが、それにしたって象が馬に馬力で負けてちゃ世話無いだろうに。 「だけどまあ、あの子は十分仕事をしてくれたね。助かったよ」  にもかかわらず、俺とは違ってマンモンの方は、レンコのねぎらいの対象となったらしい。 「だからアンタ、子供の前でそんな顔すんじゃないよ」 「素直な感情の発露の方が五百倍くらいマシな絵面だろうがよ」  不服さで歪んだ表情にリンドウが気を取られている内に、俺は彼女の目を手で覆う。 「お父さん?」 「下は見ないで、後ろに下がれ、リンドウ」  そのまま押し出すようにして、俺はリンドウが戦況を確認する前に後退させた。  店にこの娘がやって来た時の光景から察するに、きっと彼女は気にしないだろう。  だけど多分アカネはそうじゃないだろうし、俺だって年端もいかない少女にあんなものを好き好んで見せる程性癖ねじくれちゃあいない。  すぐに消えてなくなるデジモンの死骸ならまだしも、人間の首の断面図だなんて、旧時代の年齢制限は子供に許してくれやしないものなのだ。 「!?」  スレイプモンが目に見えて狼狽えているのがわかった。  マンモンに意識を向けていたとしても、飼い主を蔑ろになんてしちゃいなかったのだろう。  その証拠に、脳が出した最期の命令を忠実に守ってか、テイマーの青年の肉体は、鎧と一緒の赤色に染まった鞍からずり落ちてもなお、命綱だと信じてやまなかった手綱にぶら下がっていた。頭さえきちんと乗っかっていれば、今もスレイプモンの背中に跨っていた事だろう。  将を射んとする者はまず馬を射よ、なんて諺があるらしいが、『迷路』の中じゃぁまるでその逆。  馬を。デジモンを射るなら、まず将を。  デジモンは人間を守ってくれるだろう。だからこそデジモンに跨った人間は、デジモンにとって付け入る隙であり、弱点でしか無いのである。  そんな目に見えるような弱点を、『スカウターモノアイ』が見逃すはずも無く。  スレイプモンが猛吹雪をものともしない古代象の図体に気圧された一瞬は、レンコのシールズドラモンが青年の首を斬り落とすのに十分な隙を作り出した。  神馬の早駆けには適わずとも、シールズドラモンもまた、体術のみを頼りに目視が不可能な速度で動く生粋の暗殺者なのだ。  首の後を追いかけて落ちていった青年の胴体に代わって鞍に立っていたシールズドラモンは、スレイプモンが振り落とすまでも無くその場から飛び降り、地面に着地するよりも前にナイフの一撃『デスビハインド』の2発目を彼(?)の2列目の左足の関節部に叩き込んだ。  赤い鎧の硬度はマンモンの『タスクストライクズ』でも穿てない程度には凄まじいものだが、馬の駆動を確保するためには関節にまでその防御力を求められないらしい。  痛みに身悶えするスレイプモンが、鉄槌と見紛う6本の足を方々へと振るう。  しかしそれを見越してシールズドラモンはスレイプモンが反応するよりも早くその場から撤退しており、結果として馬脚はあれだけ大事に守護していた主の変わり果てた姿を後方へと蹴り飛ばすのみの結果に終わった。人の恋路でも邪魔した前科があるのかもしれない。  そしてスレイプモンが今度はシールズドラモンに意識を向けざるをえない状況に陥っている間に、マンモンは体勢を整え、メアリーもまた、既に飛び立っている。 「さて、こっからが本番だぜレンコ婆さん」 「解ってるよ。アンタに言われるまでも無く、ね」  再びの『タスクストライクズ』。  盾受けし損ねて傾いたスレイプモンの、負担をかけざるをえなくなった左の中脚にダメ押しのように突き刺さるのは、シールズドラモンのものではないナイフ。  メアリーの必殺技。こちらも相手の急所を突く正確さをウリにした剣捌き『スナイプスティング』だ。  メアリーの一撃はシールズドラモンの空けた穴を引き裂き、その裂け目を壁を蹴って一瞬で引き返してきたシールズドラモンが再びナイフで穿つ。  1本になった脚が、傾いた。  人間の赤子を妖精の子とを取り換えるというチェンジリングの迷信に恥じない手際の良さで、妖精と化したメアリーはスレイプモンの脚が地面に倒れ切るよりも前に、身の丈以上の1本を掠め取り、飛翔する。  一拍おいて足泥棒へとスレイプモンはマンモンの牙を抑えつつ『ムスペルヘイム』を構えるが、先手を打っていたのはやはりメアリーだ。  彼は脚を抱えるのに邪魔なナイフを、既に手放していた。  デジモンのナイフだ。ただの刃物では無い。  放り投げれば、百発百中。執拗なまでに目標を追尾する。  メアリーが『トゥインクルシュート』で放ったナイフは、弩の矢溝に挟まり込んでいた。  ……本来であれば弦を断ち切る手筈だったが、目標を変えたという事はメアリーは「切れない」と判断したのだろう。  まあ、灼熱の矢を平気で撃ち出す究極体の兵器に今更、か。  だが結果は何にせよ、これで『ビフロスト』は(一時的だとしても)封じ込んだ。  対『オーディンズブレス』の盾役にはマンモンがいる。  自分の思考を補ってくれるパートナーの頭は途中で踏んだのか。床に落とした完熟トマトと大差無い始末で。 「詰んだか?」 「いや、あと少し」  スレイプモンが残された手段から選択したのは、逃走。  『オーディンズブレス』を使わずに聖盾『ニフルヘイム』でマンモンを思い切り殴りつけ、牙による拘束を無理やりに引き剥がす。  象の巨体が横転する。  追撃を仕掛けられれば、必殺技抜きでも間違いなくマンモンは殺されていただろう。  そうしなかったのは、マンモンに気を取られ過ぎては今度は脚1本と同盟者の命以上のモノを失うと理解しているからだ。  5本脚なので6本の時より脚力も下がるというシンプルな引き算に苦しめられてはいるようだが、バランス的にはそこまで問題は発生していないのか。  スレイプモンは、マンモンに背を向けて走り出した。  全く。普通の馬だったら脚1本無くなったら安楽死コース一直線だぞ。  がたん、と大きく重い物が、雑に投げ出される音がした。  振り返れば壁の上に戻って来たメアリーがスレイプモンの脚を下ろして、親指と人差し指で作った輪を口に嵌めている。  もうひとつの必殺技を使うつもりなのだ。  平時であれば、ほとんど意味の無い必殺技を。 「在庫一掃バーゲンセールだ。手前の命一つまでまけてやる」  永遠の少年の口笛の音色が、『迷路』の壁と言う壁に、反響する。  ちょうどスレイプモンの進路にあたる壁の上にも、当然。  ……そしてレンコ婆さんに配置させていた『在庫』達も、口笛--『ミッドナイトファンタジア』の音色に応えて、動き始めた。 「!!」  眠りについたマッシュモン。それも10や20では足りない数が、スレイプモンの頭目掛けて、降り注ぐ。  『ミッドナイトファンタジア』は、近くで眠っているピーターモンより幼いデジモンを強制的に操る必殺技だ。  あのマッシュモン達は、メアリー自身のコピーであり、店の商品--『絵本』の材料である。  成長期メアリーの『ポイズン・ス・マッシュ』はつい先日返り討ちにしたシャカモンを連れた坊主の指摘した通り、成長期にしては強力なものが含まれている代わりに「効果がランダム」という弱点を持つ。  だがあらかじめ採取しておいたキノコ爆弾の性質を解析しておく事は可能だし、なんならこれらは他ならぬメアリーのデータの一部には違い無いので、数を集めて専用の機械でコンバートすれば、「元にした爆弾の能力しか持たないマッシュモン」を生み出す事も出来るのだ。  最も、一般的なマッシュモンでそれが可能かと聞かれれば首を横に振らざるを得ないのだが――ま、メアリー・スーは、特別なので。  で、今しがた『ミッドナイトファンタジア』で操ってスレイプモンに振らせたのは、文字通りの在庫。とても『絵本』の材料には出来ない不良品どもだ。  出てくる粉の効能が弱すぎたり、逆に強過ぎたり。  当然性能はまちまちときている。このままでは、『ポイズン・ス・マッシュ』がマッシュモンサイズになっただけの代物に過ぎない。  だから。この場では。  ただ、辺り一面に、粉を撒く。  そのためだけに、ストレージから睡眠状態にして運んで来たマッシュモンどもだ。  だが―― 「……成長期程度、最小限の力で派手に蹴散らしてくれると思ったんだが」  予想に反して、スレイプモンはマッシュモンのほとんどに『オーディンズブレス』で対応した。  突っ切るだけでも十分に殺せる。  踏み潰してしまえばまず助からない。  そうやって死んでいったマッシュモンもそれなりに数はいるが、当初の予定から考えると少な過ぎる。 「おいおいどうすんだレンコ婆さん。このままだと予定の威力は出ねェぞ?」 「……飼い主に似たんだろうね、結局」 「あん?」 「「己の力を誇示したがってる」って事さ。必殺技はデジモンにとって、その最たる例だからね。名乗りを上げて見せびらかすのが騎士の流儀だと、そう思ってるんだろう」  ようは、戦い方がなっちゃいない、と、レンコは呆れ半分含めて苦虫を噛み潰したかのように顔をしかめた。  ……究極体の、聖騎士型だ。  戦闘経験が少ないだなんて、そんな事はないだろう。  だが、究極体に進化してからの戦闘経験のみをカウントすれば、そうじゃない。  連中、あんまりにも強過ぎるから、「必殺技を1撃撃てばなんとかなる」と。頂に至るまでの試行錯誤も忘れてそんな悪い事を覚えてしまう。  それが悪いとは言わんし、それで済むならその方がいいのは判るんだが。  『迷路』で生き残れる奴は、いつだって殺される恐怖を忘れない奴らなのだ。 「いやまあ、今回の場合その慢心に助けられてるんだけどな、アイツ」 「構わない。無傷って訳にはいかないだろうからね。作戦を決行する。……切れる手札は、まだあるしね」 「ただし俺は在庫一斉処分損なんだが?」 「お父さん」  と、  不意にリンドウが、俺の服の裾を引いた。 「? どうした?」 「何か、困ってるの?」 「ん。ちょっと作戦用の『粉』が足り無さそうでな。必要な犠牲が勤めを果たしてくれなかったんだ」 「マッシュモン達の事? あの馬のデジモンを倒すのに、マッシュモンから出る粉がいるの?」  おう、どうしたんだリンドウ。  えらく食いつくじゃないか。 「粉ならなんでもいいんだ、別に。この際小麦粉でも持って来ればよかったな」 「……今、粉、ほしい?」  リンドウは俺では無く、モルフォモンの方を見て、そう言った。  っと、そうか。そういやモルフォモンも、粉を出せるタイプのデジモンだったか。 「おう、欲しい欲しい。モルフォモンの鱗粉でも借りたいくらいだ」  別にこの小さい羽虫一匹投げ込んだ所で戦況は変わらん(もっと言うと投げ込む手段すら無い)のだが、幼い少女のお手伝いの気持ちを蔑ろにするのも気が引けた。 「適当な事言ってんじゃないよゲイリー。無い物ねだりしてないでさっさとピーターモンに次の指示を――」  だというのにこのいじわる婆さん、コレだもんな。  ……なんて、レンコの言いつけを茶化しながら遂行しようかとした、その時だった。 「ほしいなら、あげる。モルフォモン」  レンコの言葉をまるで無視して、デバイスを握り締めたリンドウが、その手でモルフォモンの額に触れた。  次の瞬間、相変わらずのにこにこ笑顔でパートナーを見つめていたモルフォモンが、眩い光を放ち始め--途端に、その幼げなシルエットが、歪んだ。 「!?」  進化の光だ。  俺とレンコが呆気にとられる中、光が掻き消えるのと同時にその場から飛び立ったのは、モルフォモンと同じ虫のデジモンだった。  ただしモルフォ蝶の青く鮮やかに煌めく翅は枯れ木の色へと変わり果て、尻にはあのクソ能天気な笑顔からは微塵も想像できないような、物騒な得物がぶら下がっている。  モスモン。  記載は資料によってまちまちだが、『迷路』では基本的に成熟期として扱われる昆虫型デジモンだ。  成熟期という世代へは、成長期の頃に死んでしまいさえしなければ、時間経過だけで進化へと至る事が出来るのだと聞いた事がある。  だがそれにしたって、モルフォモンはデータを入手してから在庫マッシュモン共々ストレージに仕舞いっぱなしにしていたデジモンだ。  コンピューターの中に保存した状態では流石に成長もへったくれも無いし、外に出してからのごく短い期間もへらへら笑いながらリンドウの後をついて回っていただけで、とても進化が可能な程の研鑽を積んでいたとは思えない。  だというのに、リンドウが願っただけで。  モルフォモンは、この場に最適解と言って過言では無いようなデジモンに、進化した? 「気持ちは解るが、考えるのは後にしとくれゲイリー。今はスレイプモンだ」  レンコの声に、ハッと我に返る。  そんな台詞を吐いた彼女の声もまた動揺に震えてはいるものの、軍人らしく、レンコは背筋を伸ばして壁の向こうの戦況を伺っていた。  今はまだマッシュモン達に対処しているが、このまま放っておけば逃走を再開するだろう。  そうなれば、再度捕捉するのは流石に、骨が折れる。  別に、メアリーのコピーだろうがマッシュモンどもが無駄死にするのは構わない。  だが、俺がタダ働きになるのは、その、単純に、嫌だ。 「リンドウ、モスモンの鱗粉、爆発させずにばら撒けるか」 「……多分、大丈夫」  リンドウはデバイスをそっと両手で包み込む。  それが指示だとでもいうのだろうか。  だが実際に、いつの間にやら『オーディンズブレス』の届かない上空に陣取ったモスモンは、ケツのガトリングから自身の鱗粉――昔見た資料を信じるなら火薬らしい――を撃ち出しこそすれ、爆破はさせなかった。  意識の範囲外から降り注ぐというよりは投げつけられた鱗粉の塊に今一度の困惑をスレイプモンが浮かべる中、止めとなるオーダーはレンコが自分のデバイスへと向けて発した。 「総員、放て」  レンコ。ゴブリモン達の頭目。  ゴブリモンは、成長期の中ではかなり『迷路』に向いたデジモンだ。  総合的な能力値こそ平均を下回るが、彼らは知能がそこそこ高く、臆病で、群れる事を是とし、隠れて行動する事を恥としない。  そして何より。  ゴブリモンの必殺技は、マッハで撃ち出される火の塊だ。  たとえ数値としての攻撃力が低くとも。  火が点き、燃えれば。相応の威力を、叩き出す。  燃え移るモノに事欠かなければ、なおの事。  最初にマッシュモンを爆発させてスレイプモンを足止めした罠も、こいつらのこの必殺技があってこそ、だ。  『ゴブリストライク』  付近のあちこちに隠れて待機していたゴブリモン達が、またしても一斉にスレイプモン目掛けて火球を投げ込んだ。  俺と対峙した時のように、走って逃げようとしたのだろう。  だが、こうもモスモンの鱗粉が充満してしまっては、もう手遅れだ。  粉塵爆発。  『迷路』の通路一本分から、並の究極体でもまず出せないような文字通りの『火力』が吹き上がった。
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