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フォーラム記事

縁田華
2024年2月23日
In デジモン創作サロン
#演葬 タイトルのイメージ 【マギレコBGM】 時を超えて鳴らす鐘 - マップ (Painful Memories),https://m.youtube.com/watch?v=C2mabBIHFMU ◇クリスティーナ・エイミー・ロス      ハッピーバースデーの歌と共に貰ったプレゼントの箱の中には、綺麗なサテンの臙脂色のリボンがかけられていた。お父さんが私の為にと大きな街で買ってきてくれたものだ。凛々しく咲くダリアの花のように華やかで可愛らしい長方形の箱を、私は小さな手で開ける。リボンをゆっくり解いてみると、中には薄い松葉色の眼に、プラチナブロンドの髪をした人形が入っていた。まるで本物の人間のようだが、触れてみると硬い。木よりも硬くガラスのように乾いた音がするのだ。それだけではない。桜色の、私が着ているものよりも華やかなドレスに長い巻き髪。艶々に磨かれた鳶色の靴。服にはボタンが付いていて、着せ替えることもできる。私はとても嬉しくて、ぎゅっと抱きしめた。彼女にはコニーと名付けた。今日から私のお友達だ。街の学校にも仲良しの友達は二、三人いた。けれど、ずっと傍にいてくれるのはこの子だけ。楽しい時も、嫌なことがあった時も、一緒にいてくれる一番の友達だった。今日も私はコニーを抱きしめ、一緒に本を読む。私の好きなお話を、彼女はじっと聞いている。夕方の、朱色の陽光が私達を優しく包み込む時間。二人っきりの秘密の時間だった。まだ六歳の頃のことだ。        私は何かと厳しいお母さんよりも、優しいお父さんのことが大好きだった。けれど叱られるのは嫌だったし、誰かが叱られるところを見るのも嫌だった。私の家は街の学校よりも大きくて、何人もの黒人奴隷がいるが、家事や身の回りの世話をしてくれるのはブレンダとデビーの二人。残りの奴隷達は綿花農園で僅かばかりの土地を借りて働いていた。彼女達二人は、市場で鎖に繋がれていたところをお父さんが連れてきた。ブレンダは特に酷く鞭で打たれていたらしく、今でも怯えた様子を見せることがある。それまでは白人のメイドさんが一人いたけれど、お父さん曰く『身籠った』という理由で故郷に帰したようだ。まだ私が四つの時のこと。この二人のメイドさんと私達は、かれこれ五年くらい一緒にいた。ブレンダはとても料理が上手くて、彼女が焼いてくれたケーキはとても美味しい。前にお父さんとお母さんが連れて行ってくれた町のレストランにあるデザートと同じくらい、甘くて美味しかった。その時私は口の周りにクリームでサンタさんみたいなヒゲを描いていたような覚えがある。それを見たお父さんは私の口の周りを拭いてくれた。それと同じくらい、ブレンダのおやつは大好きだ。口の中に入れた瞬間に、とろけるような優しさが舌を包み込む。それがクッキーだろうが、ホットケーキだろうが、変わらない。だから私はブレンダのことが好きだ。でも、ある日お父さんが彼女の背中を鞭で叩いているところを私は見てしまった。学校から帰ってきた時、怒鳴り声が聞こえてきたのだ。おばさんの悲鳴が、悲しい声が私の耳にも入ってくる。 「申し訳ありません!申し訳ありません!」 「お前のような奴は誰のお陰で生きられると思っているんだ‼︎今度同じようなことをしたら、次はこの程度では済まないと思え‼︎」 庇ってあげたい。けれど足が震えて動かない。私は何も見なかったことにして二階への階段を駆け上がった。仕方ない。ここ南部ではごく当たり前のことだから。こんな光景は何も私の家だけの話ではない。文字(アルファベット)の読み書きを知らなかった頃から教えられた。学校にも黒人はいない。先生は勿論のことクラスメイトにも。本来なら私達とは住む世界が違うし、奴隷は人ではないのだから。北部には『自由黒人』と呼ばれる黒人がいるらしいが、私達には関係ないことだった。それでもあの悲しい声は出来ることなら聞きたくない。胸が締め付けられるからだ。            コニーが家に来るまでの私はいつも屋敷の中を駆け回っていた。八畳ほどの自分の部屋の中に目立ったおもちゃはなかったように思う。私の為に、と母が絵本を沢山買ってきたので本棚の中には沢山の童話や絵本があって、少し前までは母が枕元で読み聞かせてくれたものだ。子供部屋の中にはちょっとだけ豪華な装飾のベッド、机の上にはアルファベットの積み木にペンと学校の教科書しかなかったからとてもつまらなかった。学校に入ったばかりの頃はお人形を持っている子が羨ましく思えたくらいに。ベッドはマホガニーやオーク程上等な木で出来ている訳ではなく、白木のベッドで宮はない。机も椅子もそこら辺のものより上等だったが、幼い私にはにつかわしいと思えない程重厚に見える。そこにランプとブックエンドがあり、教科書はそこに収められていた。お父さんの部屋にも本が沢山あったが、文字ばかりで絵が一つもないからか、私には読めなかった。一度ベッドの上で飛び跳ねた時にはお母さんに叱られたこともある。あの時は毎日が幸せだった。雨の日だって雪の日だって、私の心の中は春のお花畑のように明るかった。目に映るもの全てが輝いて見えたのだから。たまには転んだこともあったけど、そんな時でもにこにこしている。それが私の毎日だった。          そんなある日、私の家に手紙が届く。お父さんの署名が滑らかな字で書かれたそれを見るなり、お母さんは丁寧に封をペーパーナイフで開けた。食事用のナイフのように見えて、実は刃先にギザギザはついていないので、私もたまに借りては使っている。中を見るなり、彼女は泣き出してしまった。そして私に、 「クリス、お父さんが死んだわ。明日はお葬式。これがお父さんに会える最後の日だからね」 私は一瞬何を言われたのか分からなかったが、気づくと目頭が熱くなっていた。彼が生きていた最後の日を思い返してみる。私の名前を呼んで、頬にキスをしてくれた。行かないで、と大きな躰にしがみついたのに。彼は行ってしまった。 「行ってくるよ」と一言だけを残して。              既にもう、お父さんが冷たくなってから三日は経っていたようで、私はお母さんに連れられて町の教会へ行くことになった。鏡に映るのは墨色一色の、夜の暗闇よりも暗い色のドレスを着た私。靴にもドレスにも、リボンはおろかフリルの一つもない。デビーが全て着せてくれたけれど、ドレスの下にコルセットは着ていない。お母さんは着けているのに。私はまだ小さいから着けさせて貰えないのだ。お父さんに見せてあげたかったのに。そんな日が二度と来ないことを知ってか知らずか、堪えきれずに私の眼からは涙が零れ落ちてきた。          小さな教会に通じる道は、雨が降っているせいか道端の花達でさえ元気がない。躑躅(つつじ)の花は茜色に咲き誇りながら、暴力的とさえ言える大粒の雫に打たれている。その姿はどことなく気高さを感じるが、お母さんに手を引かれて花から離されてしまった。彼女は黒い傘を差しながら私の手を引っ張る。右掌が冷たくなるけれど、傘のおかげか髪が濡れることはなかった。そのまま十分くらい歩いてから、遠目に十字架が見えてきた。日曜日ぶりの教会だ。今日は木曜日の筈だけどそうは思えない。大きな扉を開けたその向こうには、私とお母さん以外にも知らない人が沢山いた。皆黒いスーツのような服を着ていて、殆どが男の人ばかりだ。私達以外の女の人も二、三人いたけれど、背の高い男の人ばかりが長椅子に座っていた。啜り泣く声があちこちから聞こえてくる。私も、お母さんも、一緒に泣いていた。大きな優しい手が、私の手を優しく掴む。いつもは厳しいお母さんの手が、この日、初めて温かいと思った。黒く磨かれた棺の中にいるお父さんは、白くて綺麗な服を着ていて、白百合の花に包まれている。まるで花の中で眠っているようだけど、頬に触れるととても冷たい。それに、お父さんには左腕がない。右腕は確かにあって、袖口からは手も出ているのに、シャツの左は萎んでいるようにさえ見える。それを見た私は、 「お父さん‼︎お父さん‼︎どうして、どうしてよぅ……」 思わず泣き叫んでしまった。もうお父さんは帰って来ない。初めて知った。これが『死』なのだと。やがて、恰幅のいい初老の神父さんが祭壇にやってきて、聖書を開くと、聖句を唱える声が聞こえ始めた。それでも私は泣いたまま。外では今も雨が降り続けていて、空も灰色のままだ。きっと今日中に止むことはないだろう。私の心と同じように。 「あなた、どうか安らかに、ね……」 お母さんは泣きながらそう呟いた。        それから二、三日の間は何を見ても灰色にしか見えなかった。陽の光が差す丘でさえも私には鮮やかには見えない。大事な筈のコニーが心配そうにこちらを見つめていても、私は話しかける気にはならない。窓から外を見てみると、土と僅かな小石ばかりの道があるというのが分かる。今は二日続いた雨の所為で小さな水溜りがあった。土が、乱暴に塗りたくられたチョコレートのように固まっていて、浅い窪みには今にも干上がりそうな水溜り。何故か私はそれが気になり、駆け出した。長い廊下に曲がりくねった木の階段を。玄関のドアを勢いよく開けると、目と鼻の先にそれはあった。小鳥の囀りも柵の上の蝸牛も振り払って、私は水溜りへと近づく。ごく普通の、キラキラとした星のような小さな光が舞う澄んだその中には、私の顔が映っている。お母さん譲りの亜麻色の髪と鳶色の眼。短く後ろがきりそろえられていて、その一部がリボンで結ばれていた。デビーが町で私に似合いそうな色を選んでくれたのだ。お気に入りではないし、今日出会ったばかりの色だけど、私は気に入っている。そよ風が私の髪を撫で、水面が揺れる。そのうちゆっくりと蒲公英の綿毛が水の中に沈み込んだ。土で濁ったその中に私が足を踏み入れると、パシャリと小さく水が跳ねる音がする。刹那、水溜りから光が溢れ出し、私は光に包まれた。眩しさから眼を瞑り、次の瞬間には見たこともないところにいた。          周りには鏡がある。色々な形をしていて、色々な枠にはまっているそれらは全てが全て浮いていた。窓のような形の鏡や、長い四角の鏡。円い鏡もある。少し歩いていくと乾いた音が辺りに響いていく。私以外にはここに誰もいないのだろうか。大理石の床を見遣ると、私の姿が映っている。灰色なのに鏡のようだ。歩いても歩いても鏡ばかりで、それ以外は何もない。壁でもどこでも鏡だらけ。私はずっとここから出られないままなのだろうか。そう思うと、目頭が熱くなってきて、長いスカートの裾が濡れていくのが分かる。手も足も震え、私の泣き叫ぶ声が広間の中全体に響き渡った。その叫びに応えるようにして、奥の鏡から優しい光が溢れ出す。金にもレモン色にも見えるその光は、子供一人がやっと入れそうな大きさの、窓のような形の鏡から放たれているようだった。私は鏡よりもずっと小さな掌でそれに触れる。漸くここから出られる、独りじゃなくなる。そんな想いで胸がいっぱい。何も知らない私は前へと踏み出した。          光の向こうにあったのは森だった。けれどいつもと様子が違う。懐かしい茜色の空を駆ける黒い影はいない。小さな花達は私が知るそれとはほんの少しだけ違う。プリムラのように見えるが、見たことのない形をしていて少し大きい。白詰草もあるが、何故か四つ葉ばかりが生い茂っていた。小さな茂みの方を向いてみると、何かガサガサと音がして揺れている。 「何⁈怖いよ‼︎助けて、お母さん‼︎」 私が叫ぶと同時に、 「キミは誰?見ない顔だね」 可愛らしい声が私の耳に入ってきた。声からして三、四歳くらいの男の子だろうか。恐る恐る振り向くと、目の前には若い果実に小さな足がついたような生き物がいた。円な瞳でこちらを疑いもなく見つめている。 「わ、私はクリス!本当はクリスティーナっていうんだけど、みんながそう呼ぶの……」 「ぼくはピピモン!クリス、キミを待っている人がいるんだよ」 「待ってる人?あなたは違うの?」 「……ぼくもクリスのことずっと待ってたよ。でも、ぼくよりも心強い人は確かにいるんだ」 私はピピモンの後ろをついて行く。強い風が私の髪に、頬に吹き付ける。小さな緑玉は足を踏みしめながら吹き飛ばされそうになるが、力が及ばないのか転がってしまう。私がなんとか彼を抱きかかえたことでその心配はなくなった。獣道を歩いていくと、その向こうに何かが見えてきた。 「あっちだよ!クリス」 「あっちに何があるの?」 彼は何も答えない。少なくとも出口ではないことは確かなようだが。私はゆっくりと、出来るだけ音を立てずに歩く。怖いから?それだけではないのかもしれない。けれど、私は少しずつ進んだ。          進んだ先にあったのは、睡蓮の花がところどころに浮かぶ、虹色に輝く澄んだ泉。それと、人一人がゆったり眠れそうな広さのベッド。枕とシーツ、かかっている薄いタオルケット全てが白い。ベッドそのものも白く塗られていて、渦巻き模様の飾りが付いているがどこも錆び付いていない。まるで最初から私を待っていたかのように新しいまま。泉のすぐ近くに誰かがいるけれど、遠目から見ても人間には見えなかった。鎧を纏った大きな彼の表情は、後ろを向いていることもあり分からない。足元の草を踏む音に気づいた彼は、こちらを向き、 「……待っていたぞ。悠久にも近い時間、ずっとずっと」 威厳のある、絵本の中の神様を思わせる低い声で私に語りかけてきた。 「ピピモン、ご苦労だったな」 「えへへ、ありがとう!」 私の腕に抱かれている緑玉は、目の前の騎士に礼を言った。とてもにこやかで嬉しそうだ。 「して、娘。名を申せ」 「わ、わ、私⁈クリス!クリスっていうの!」 「……クリス?それがお前の名だというのか」 「あなたは……?」 「好きに呼べ……。私に名などない。忘れられて久しいからな」 「それじゃ……、私が決めていいかな?ピピモンも、ね?」        ◇ゼフィ(ブルムロードモン)    その日、私とピピモンは生まれて初めて名前というモノを貰った。幼い少女の手で『ゼフィ』と名乗ることを許されたのだ。小さな果実には『フィル』と名付けられた。どちらも清廉な意味が込められているらしく、特に私の名は、庭に咲いていたという白い花から取ったのだという。花言葉は『清らかな愛』。その名を与えられた時から、私は彼女への愛に目覚めていたのだと思っている。クリスの前へ跪き、驚き戸惑う彼女の小さな手の甲へ接吻をする。何故だろう、目頭が熱くなり嗚咽が漏れる。同時に目の前の少女が愛おしく感じられ、太く大きな手で抱きしめた。亜麻色の短い髪を撫でると、彼女も細い腕で抱きしめてくれた。その日から私達の紲が形づくられたといってもいい。小さな貴人。魂の双子。護るべき者を漸く見つけられた私の心は晴れ晴れとしていた。          クリスはベッドにちょこんと腰掛けると、フィルを膝に乗せた。私が、辛うじてだが座れるようにしてくれたのだろう。少し不安そうな顔をしているが、緑玉の眼は少女に向き、にこやかな笑顔をたたえている。見たところ、彼女は齢十にも満たず、私よりも遥かに背が低い。それは隣に座っていてもはっきりと分かる。心なしか、フィルを抱きしめる力が僅かに強くなっていく。同時にゆっくりと眼が細められていき、涙がぽろぽろと零れていった。啜り泣く声は私の耳にも届くが、私には髪を撫でてやることしか出来ない。 「帰りたい、帰りたいよぅ……!お母さん……」 「……気持ちは分かるが、鏡の道を通ってきた以上二度と帰れないと思っておいた方がいい」 「学校の、アリスともナンシーとももう会えないの?遊べないの⁈」 「……仕方がない。だが、クリス。お前には私もフィルもいるではないか」 「そうだよ‼︎ぼく達がいるじゃない」 それでもクリスは泣き止まない。泣き腫らした顔をこちらに見せている。今夜はずっと彼女の傍にいようか。膝上のフィルも困った顔をしている。私は泣いている少女を置いて、井戸のある小屋へ向かった。          納屋や家畜小屋。見覚えのある人間であればそう形容出来そうな小屋の中には、水差しやマグカップ、それと三人で分け合えば一年は保つ量の食料がある。柵で隔てられた向こう側にはポンプ式の井戸が、入り口側の木の棚の上には缶詰とビン詰ばかりが並んでいる。ビン詰の中には海苔の佃煮やジャム、リキュール漬けのさくらんぼ、オリーブの酢漬けといったものがある。床に目を遣れば、飯盒や薪もあった。円い筒のような形で、一見すると菓子などを入れる缶のように見える。私は泣いている少女の為に、粥の缶と海苔の佃煮のビン、それと豆のスープ缶を棚から取り出し、飯盒と一緒に外へ持って行った。泉の近くで火を焚き、少しずつ薪を焚べていく。外はもう暗くなっていて、僅かに星が空に瞬いていた。こうなるとランタンが必要になってくる。ついでに井戸から水を汲んでこなければならない。幸い、この井戸はそのままでも飲める水だから、小さな少女が腹を壊すことはないだろう。マグカップの中に水を注ぎ、それを小さな少女の元へ運んでいくと、彼女は私の手からカップを受け取り、小さな口で少しずつこくこくと飲んでいった。飯盒の中には缶詰の粥が入っていて、それをほんの少しずつ温めていく。中蓋の中にはスープを流し入れ、銀色が濃いコンソメの色に染まっていった。茶色い浅瀬に澄んだ水を注ぎ込み、熱を加えれば豆のスープは完成だ。          ランタンの中では焔が熾り、小さくとも苛烈なそれに照らされながら私達は食事を始めた。スプーンでビンの中から海苔を掬い、それを粥の上に乗せてやると、クリスの顔が急にしかめ面になった。 「……何コレ。ヘドロ?気持ち悪いんだけど……」 「食べてご覧?粥と一緒に口に含めば更に美味く感じられるだろう」 恐る恐る少女は佃煮を一口掬い、口に運ぶ。その刹那、はっとした表情を見せた後に、穏やかな笑顔がひょっこりと現れた。 「甘くて、お粥にもとっても似合ってるよ!見た目さえ気にしなきゃイケる!」 器の中を見ると、十分の一くらいだろうか。ほんの少しだけ減っている。きっと気に入ったのだろう。膝上のフィルの頬には、半ば糊と化した米粒が付いているが、彼もまた朗らかな笑顔を見せていた。私が見守る中、二人は海苔を混ぜた粥を分け合っている。食べ終えた後は白く薄いボウルが空になっていた。二人はスープの器に手を伸ばした。ほんの少しだが湯気が立ち上っている。私はまだ粥を食べ終えていないのだが、二人が笑いながら美味しそうに食べているのを見ると、自然と美味しく感じられる。クリスの眼からはもう涙が去っていた。        ◇フィル    クリスもぼくも泉の外には出られない。ゼフィに出るなと言いつけられているし、彼が必要なものを全て用意してくれるからだ。ぼくはクリスとボール遊びをしていた。黄色の、よく弾む柔らかいボールを蹴ったり、ぼくが頭で返したり。くるぶしまであるスカートで走り回る彼女はぼくより足が速く見える。草を踏みしめるのが精一杯のぼくよりしっかり立っている。そのうち遊び疲れたのか、彼女は芝生の中に座り込み、周りに咲いている蒲公英(たんぽぽ)を摘み始めた。黄色い蒲公英の中に白い蒲公英がぽつぽつと混ざっている。キラキラとした眼で白いのを見ると、彼女は茎を半分折った。そのうちゼフィが買い出しから帰ってきて、少女は摘んだ花を全て彼に差し出す。大きな手で優しく受け取った彼は小屋へ向かった。そのお礼なのか、クリスの小さな掌には髪留めがある。針刺しのような見た目の茶色いソレを、彼女は早速髪にくっつけた。あまり上手く行かなかったのか、真っ直ぐではなく細い一束が巻き込まれたような形になっている。戻った騎士は、 「よく似合っている」 と彼女の髪を撫でていた。          嬉しそうに駆けていく小さな少女は突然倒れてしまった。転んだのかとも思ったが、起きあがろうとしない。どうも様子がおかしい。ぼくが近づいてみると、苦しそうにしている。 「クリス、大丈夫⁈ぼくだよ!フィルだよ‼︎」 「うぅ……」 ゼフィは悲しそうな顔で少女を見つめている。 「何故、何故この子が……!漸く巡り会えたというのに‼︎」 小さな躰をベッドに運ぶが、そこにはいつの間にか禍々しく黒い荊が周りに生い茂っていた。ゼフィが横たえてやると、荊がクリスの躰を持ち上げ、締め付けるかのようにして巻きついていく。騎士はぽつりと呟いた。 「……封印だ。この地に悪しき者の意思が蠢いているのかもしれん」 「……そんな!クリスと遊べなくなっちゃうの⁈」 「破る手立てさえ有れば彼女は目覚める。だが、我々にはもはやどうすることも出来まい」 「どうすれば、いいの……?」 泣き喚くぼくをゼフィが優しく抱きしめる。きっと今のクリスにはぼく達の声一つ聞こえてはいないのだろう。苦しそうに眠る少女の瞼からは一筋の涙が溢れていた。 「クリス、我々がお前を目覚めさせてみせる」 ゼフィは小さく細い腕を握って呟いた。
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縁田華
2023年10月22日
In デジモン創作サロン
タイトルのイメージ Shin Megami Tensei: Devil Survivor - Reset VocalYouTube · Slyzer2009/08/03(https://m.youtube.com/watch?v=jfleA3UOBR0) #ザビケ 「ボス、アイツです!」 「あの家の子か。明らかに妖獣を従えているな。まだ未熟なようだが……。彼らは我々の目的に必要な存在だからな。早いところ回収しなくては」 ◇◇◇  昭和七年、十歳の春。帝都は日進月歩の勢いで進んでいっている。少し行けば百貨店や劇場があるし、そうでなくても家や尋常小学校の近くには駄菓子屋さんがある。九年前の大地震からの復興にはまだ遠そうだけど、それでも私はこうして生きている。あの地震のせいで母はいないと聞いたが、私は覚えていない。無理もない、私はまだ赤ん坊だったから。父は忙しなく国内外を飛び回っていて、年に二、三回しか帰ってこない。学校が終われば、私は少しだけ寂しい思いをしながらも、お小遣いを握りしめて友達と一緒に駄菓子屋さんに行っていた。そのあとに紙芝居屋さんが来て、そこで飴を買うことも珍しくはない。一通り楽しんだ後は夕食が出来上がるまでに帰り、自分の部屋で宿題をしたり、読書をしたり、おもちゃで遊んだり、ラジオを聴いたりしていた。私に兄弟はいない。歳の離れた姉はいたが、十五歳も歳が離れているので遊んだことはない。茜色の夕陽は嫌いだ。楽しい時間を私からどんどん奪い去ってひとりにするから。  楽しい時間は過ぎるのが早いのに、つまらないと思えば思う程に長い時間がいつまでも続くような気がした。少し前に父が帰ってきて、百貨店に連れて行ってくれた時に買ってくれた熊のぬいぐるみを抱きしめつつ、私はラジオから流れてくる音楽を聴いていた。ノイズ混じりとはいえ、私の耳に飛び込んで来るそれは、静かに、けれども少しだけ寂しさを紛らわせてくれた。音楽そのものは外国の歌で、何処の国の言葉か分からなかったけど。  元々私の家は大きな製紙会社をやっていて、製品は海外にも輸出している。品質はよく、丈夫で破れにくいと評判だった。金持ちの宿命なのか、私は学校から帰ってくるといつも一人。ウチには三人のお手伝いさんがいるけれど、一人は今買い出しに行ってていないし、もう二人は来る日と来ない日がある。二人とも来ないということはあり得ず、大抵はどちらかがやってきて、家の掃除や洗濯をしてくれる。ごく稀に二人とも来る時があった。そういう時は大体特別な日で、父もこの日だけは帰って来てくれる。私はそれがたまらなく嬉しかった。  柱時計の鐘が六回鳴る頃、窓の外は朱色から藍色に変わりつつあった。カラスがゆっくりと空を駆け、子供達の姿も疎らになっていく。恐らくあと一時間くらいで晩御飯になるのだろう。台所からはお肉とお野菜のいい匂いが漂ってくる。 「今日のご飯はなんだろうな……」 匂いも気になるが、もう少しだけラジオを聴いていたい。数分だけという枷をつけてから、食堂に行くことにした。  私が今いる居間には、西洋風のソファーやローテーブルが備え付けられているほか、部屋の奥にある棚の上にはラジオがある。それ以外に目立ったものは何もない。フランス人形や花瓶の一つでもありそうなものだが、ここにはない。美しく映るものは全て客間にある。滅多に使われないせいか、埃を被っているけれど。黒いアップライトピアノもあるが、私がたまに触って演奏しているのもあって黒く輝いている。ご飯のことを考えつつも、私は何故か客間が気になってしょうがない。ラジオのスイッチを切り、廊下へ出た。  金メッキが施されたドアを開けると、そこにはいつもと変わらない部屋がある。いや、違う。大きな長方形の鏡から眩い光が溢れているが、鏡の中の私はいつもと変わらない。切り揃えられた短い髪に亜麻色のワンピース。橙色の眼。 「コレ、ただの鏡だよね……?」 次の瞬間、鏡の中から真昼の太陽よりも眩しい光が放たれる。白い水晶のような温かい光の中からは、人間の頭くらいはありそうな大きな卵が現れた。卵の色は薄い黄緑色で、模様は描かれていない。もう少しで孵るからか左右に揺れている。私は戸惑いつつもソレを撫でてみた。すると、一度撫でる度にヒビが大きくなっていく。限界までヒビが入った卵の中からは、どの図鑑にも載っていない未知の生き物が現れた。私の掌の中にいるその小さい子は、円な瞳でこちらを見ている。感触はぷにぷにしていて不思議な感じだ。薄緑の丸っこい子は大きく口を開けて、 「ぼく、ゼリモン!キミは?」 「私は美千代!そうだ、あなたに名前を付けなくちゃ。あなたはノルデ!昔、お父さんが買ってくれた絵本にいた人がそんな名前だったの」 「……ノルデ?」 「そう、あなたはノルデ!これからよろしくね」  その日から私はノルデと暮らすことになった。彼の姿を見たお手伝いさんは最初こそ驚いていたけど、素直で人懐っこいノルデはすぐに受け入れられた。私はノルデと一緒に散歩に行ったり、駄菓子を買ってやったり。簡単な曲をピアノで弾いた時には、 「美千代って何でも出来るんだね!すごいね」 「何でもって程じゃないよ」 「でもでも!ぼくには出来ないことばっかりだよ」 「ありがとう」 不思議なことに、ノルデと遊んでいると私の心が温かい何かで満たされていく。もう一人で泣いて眠ることもないし、憂鬱な気分になることもないだろう。私は彼を抱きしめながら、そんなことを思っていた。  朝になりベッドから起き上がると、ノルデには耳と胴体が生えていた。何だかてるてる坊主のように見えるが、名前を呼べばちゃんと寄ってくる。いつものノルデだった。けれど、外の様子がおかしい。小鳥の囀り一つ聴こえてこない。柱時計の音は確かにした筈なのに。カーテンを開けて、窓の外を見ると空が灰色の分厚い雲で埋め尽くされている。それだけならまだ良かったのだが、外には見慣れない紺色のコートを着た男がいた。その隣には人間には見えない黒い何かがいる。西洋の鎧を纏った竜人のような姿をした彼は、黄燐のような色の眼で窓の方を見ている。見るからに怪しい彼らには、早く去っていって欲しい。お手伝いさんが、 「お嬢様、お食事の時間ですよ」 と呼びにくるまで、私はずっとノルデと部屋にいた。着替えこそしたが、本当は一日中部屋の中にいたい。私はノルデと一緒に、重い足取りで食堂へと向かった。  階段を降りると、テーブルには私とノルデの朝食が用意されている。私のティーカップには紅茶が注がれているが、ノルデの分はただの水だった。アルミの皿に澄んだ水が満たされているのだ。白い円形の皿には焼きたてのロールパンと二、三本のソーセージと目玉焼きが盛られ、少し小さめのサラダボウルには手の込んだサラダがある。ノルデのご飯は切られたソーセージが入った、じゃがいもとにんじんのコンソメスープだった。サラダ以外はどれも温かく、まだ湯気が立ち上っている。 「……いただきます」 私は手を合わせてそう呟いた。ノルデはまるで犬か猫のようにご飯を食べている。美味しそうに食べてはいるが、ベロを火傷したのか一生懸命に水を飲んでいた。その様子を見た私は、少しだけ安心出来たので、パンを千切ってから口に運んだ。バターを塗らずとも優しい甘さが口に広がっていき、思わず笑みが溢れる。 「どうしたの?」 「ううん、何でもないよ」  遊びに行こうと家を出た私とノルデは、いつもの大きな通りを歩いて映画館に向かおうとしていた。ほんの少しのお小遣いを握りしめて。だが、街の様子がおかしい。世界の終わりとしか思えないくらい静まり返っているのだ。静かな世界の中、私以外の足音が聞こえ、振り向いてみると、 「やあお嬢さん、こんにちは。君のことをずっと探していたんだよ」 地の底から這い寄ってくるような不気味な声と紺色のコート。傍らには黒い鎧の竜人。私とノルデは一目散に逃げ出した。全速力とはいえすぐに追いつかれそうだ。漸く振り切れたと思いきやそこは行き止まり。ノルデも私ももう限界だった。 「こっちへ来るんだ」 黒い竜人が私の手を強く引っ張り、コートの男のところへ連れて行こうとする。それでもノルデは、 「美千代を離せ!」 と体当たりをしたが、竜人は意にも介さない。コートの彼は誰に向けるでもなく、 「お前たちさえいれば………」 と呟く。 「美千代、美千代!」 ノルデが私のところに駆け寄ってくる。そのまま私に抱かれると泣いてしまった。  私とノルデは黒い車に乗せられた。扉はすでに閉められ、動き出してしまったのでもう逃げることは出来ない。鈍色に映る景色をぼうっと見ながら、そのうち私は眠りへと落ちていった。
【ザビケ】ブレイクニューワールド #1  「reset」 content media
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縁田華
2023年8月18日
In デジモン創作サロン
キャラクター紹介その1 https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/bloody-camellia-kiyarashao-jie-zhui-jia-fen?origin=member_posts_page(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/bloody-camellia-kiyarashao-jie-zhui-jia-fen?origin=member_posts_page) https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/bloody-camellia-lian-zai-jue-ding?origin=member_posts_page キャラクター紹介その2 https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/bloody-camellia-kiyarashao-jie-zhui-jia-fen?origin=member_posts_page イメージした曲 L.E.D.-G - 鴉,https://m.youtube.com/watch?v=1TuMU3zSG2M 前の話 https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/16-ren-lian-si-qiu-lian-si?origin=member_posts_page(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/16-ren-lian-si-qiu-lian-si?origin=member_posts_page)  僕は恋をしているのだろうか。胸の内が焦がれるように、じわじわと熱が僕の心を蝕んでいく。きっとあの紅い眼の小さな女の子に惚れてしまったのだろうことは嫌でも分かる。何故だろう、と自分の心に問いかけずとも答えは分かりきっている。『求めていたから』それだけで充分だ。あの姫君は、ヒトとは思えぬ、妖精や聖女を思わせる容姿に加え、妖しく煌めくピジョンルビーのような紅い眼は強大な闇の力を秘めている。それこそ幽世の王達を、条件付きとはいえ統べることさえ出来てしまうのだから。彼女の紅い眼の魔力には僕でさえ敵わない。彼女が望めば、この世界さえ滅ぼせる。  地下墓所(カタコンベ)の深部にある、真新しいベッドの上には少女に贈る為の服が二着ある。二つとも僕が想っている小さな女の子に贈る為のモノだ。暗い空色の方は、彼女の幼い頃の記憶を頼りに。黒いドレスは僕が想像しうる理想の彼女のイメージを貪欲に詰め込んだものだ。ただ、今の僕が彼女に贈るのは、暗い空色の方。別に黒い方を着せたくない、という訳ではない。これは一種の儀式なのだ。彼女を僕の許へ迎え入れる為の。本来なら指輪も花束も要るだろう。こんな薄暗い、亡者が眠るところではなくてステンドグラスが煌めく教会で、神父の目の前で愛を誓うのだろう。けれど、僕にはそんなモノ要らない。 「これをあの子の許へ送ってねぇ?」 僕は暗い空色のワンピースと焦茶色の靴を使いの者達に渡し、美しく包むよう命じた。よく磨かれた箱の中には招待状も入っている。あの子達が無事にこの城まで辿り着けることを、僕は願ってやまない。始まらないだろうから。主たる僕と姫君、それと客人達がいなければ。饗宴が。  あの小包を使いの者に渡した後のこと。僕の胸は高鳴るばかりで、最早抑えが効かなくなりつつあった。知らない間ににやけてしまい腰の獣に噛みつかれ、僕は一瞬だけ目を醒ます。だが、それさえも長くは保たない。つまりはそれだけあの紅い眼の少女のことを想い続けているのだ。彼女の艶姿を一刻も早く堪能したい。彼女の髪に触れたい、声を聞きたい。何も単に利用するという訳ではない。傍に置いてありったけの幸せを与えてやりたいだけだ。それに、僕という強力な後ろ盾を得られるのだ、彼女にとっても悪い話ではないだろう。  小包の中には彼女に相応しい服と靴、それと招待状以外は何も入っていない。招待状の文面は当たり障りのないもので、カードのデザインも蒲公英の絵が描かれた柔らかで奥ゆかしいものだった。だが、そんなことはどうでもいい。彼女に相応しいもの、それは質素だが可愛らしい服と靴だった。彼女のような者が着るのは勿体無いような気もするが、それでも似合ってしまうのだ。その事実がただ恐ろしい。襟は白いフリルで縁取られているが、そこからはワンピースの裾を除いて、一切のフリルやリボンなどの飾りが見えない。丈は割と長いが、足首を超えることはない。スカートの丈は別に短くてもいいのだが、僕は膝丈までの長さが至高だと考えている。少女という生き物にはいつだって清楚であって欲しいから。靴はチョコレート色の、所謂『ペタンコ靴』と呼ばれるような、踵の低い靴だった。白や銀のパンプスでも別に良かったが、それだとあの暗い空色のワンピースが目立たなくなってしまう。靴は今回殆ど添え物のような扱いになっていて、一つの飾りも付いていないシンプルなものだ。女の子らしい格好ではあるが、質素で憐れみさえ感じさせるような服と靴は、彼女の為だけの一点モノだ。一流の針子が丹念に縫い上げているし、素材にだってこだわっている。だから袖を通した瞬間に、その着心地の良さをきっと彼女にも感じ取って貰えるだろう。素肌を優しく包み込むから部屋着としても着られる筈だ。  実は僕の手元にはもう一つ、ドレスと靴のセット一式がある。こちらはモノトーンの、ホルターネックのドレスだが、胴にはコルセットが付き、ところどころ黒いフリルで縁取られているので、襟と裾の部分にしかフリルが付いていないあのドレスよりも豪華に見える。ふんわりとしていて、腰には大きな藍色のリボンが付いている。まるで宵闇を舞う蒼い蝶のようで、妖しい魅力を放っている。袖は付いていないものの、透き通ったレースの袖を腕に嵌めることで腕を少しだけ温められるし、更にふんわりとした雰囲気を醸し出せるだろう。何も、パフスリーブ付きのそれはぴっちりとしたモノではない。腕を締め付けようとは思わない。小さな彼女のことを一等考えたこのパフスリーブの先は振袖のようにゆったりとしている。靴は銀とも真珠の白ともつかぬ色のパンプスだが、やはり飾りは付いていない。踵は然程高くないが、小さな彼女が履いても大人顔負けの気品を漂わせ、まるでそこに小さな貴婦人がいるかのようにさえ見せられる。これで黒いヴェールと合わせてしまえば、彼女を蝶の姫君と呼んでしまえるのだ。あの子が、レナータがこの城に来るのを僕は待ち続けている。橙色の光が満ちた玉座の間で、幾日も。  何をするでもなく、僕は彼女のことを想い続けながら座っていた。眠っている時でさえも、少女の柔らかな眼差しを。微笑みを。そよ風でふわりと靡く髪や、その小さな掌。傍らにはいつも、小さな茶色い兎と、少女と同じようで違う紅い眼をした黒い蜥蜴のような魔王がいる。この時のレナータは、深海のような紺色のドレスを着ていて、下には白いフリルの透けたペチコートを穿き、薄手の黒いストッキングと革のベルトが交差した黒い靴を履いていた。髪は高い位置で二つに結え、薄い紺色のリボンで飾られた黒いベレー帽を被っている。ここまでなら然程おかしな光景、という訳でもない。問題はこの小さな少女が屈強な大男の腕に抱えられているということ。その足元に小さな兎がいるという、ある意味で恐ろしい光景だった。芝生が広がり、白詰草や蒲公英が咲くのどかな丘の上、少女は地面に下ろされ、垂れ耳兎を抱えて何処かへ去っていってしまった。悲しいことに、そこで目が覚めてしまったが、それだけではなかった。  大きな扉が開く音を耳にし、僕は驚きのあまり跳ね起きた。客観的にはむくりと起き上がった、の方が正しいだろう。赤く、長い絨毯が敷かれた低い階段付きの台から少し離れたところには、恋焦がれてやまない少女と魔王、その二人以外には、銀色の少し短めの髪にオリーブ色の眼の小さな少女がいる。暗い空色の袖から覗く白く小さな掌にはいつも通り、三本角の兎がまるで大事なぬいぐるみのように抱かれていた。今まで見たこともない白い妖精は少女の頭の上に乗り、時折一本だけ跳ねているアホ毛を弄って遊んでいる。柔らかな赤い絨毯の上に乾いた足音が響き、次いで小さな足音が僕の耳に入る。 「……おい」 「……王様、こんばんは」 「こ、こんばんは!」 三者三様、それぞれが挨拶の言葉を口にした。スピネルのように真っ赤な眼がこちらを睨みつけているが、他の子(チビ)達は怯えているし、澄んだ紅い眼はまたしても泣きそうになっている。 「どういうことだ!何の用があって俺達をここへ呼び出した!答えろ!ノエル」 「ふっ……、ふふふっ……!あーっはははははは‼︎」 「何がおかしい⁈」 「だぁーってぇ!そんなの分かり切ってるでしょう?いいこと教えてあげるって!それに、君達も知りたいことがあるんじゃないのぉ?ねぇ」 「……ルナさん、そうまでして知りたいことがあるんですか?」 「……まあ、な」 口ごもりながらも、魔王は仔猫のような少女にそう返した。    まるで硝子のように生気を感じられない眼の、人形がそのまま動いているかのように見える少女メイド達の案内で、俺達はあの時と同じ食堂へやってきた。やはり、前に来た時と同じように、革張りのソファーのような座り心地の高級な肘掛け椅子が並べられ、その間に長い食卓があった。ざっと三十から四十脚はあるだろうか。右に十五脚。左にも同じくらいの数がある。城の中にはそんなにいないだろうに。頭上で妖しく揺らめく、透明な宝石が散りばめられたシャンデリアの光が、暗い部屋の中を弱々しく照らしている。俺達五人は並んで椅子に座り、王ノエルが来るのを待った。そもそもの話、コイツが宴を開くと碌なことがない。にも拘わらず何故こんなことをするのか。彼が考えていることは分からない。  こゆきは膝丈の、菫色のワンピースを着ていて黒いサテンのリボンでもみあげと後ろ髪を纏めていた。腰の薄い墨色のリボンを真ん中でベルトのように締め、ちょっとしたお出かけスタイルを演出している。こういう場には本来なら相応しくないのだろうが、街にある少しお高めのレストランで食事をしに行く時なんかにはいいかもしれない。彼女のオリーブ色の眼は怯えつつも、前髪から覗く藍色の眼は不気味な程冷静だった。その一方で、俺の左隣に座っている薄水色の髪の少女レナータは変わらず怯えている。あの招待状に書かれた通りに、記憶の中の質素な服を着ているが、彼女はそうとは知らず気に入っているようだ。今日はあの時と同じく、いつものスリップではなく、細かなレースやフリルがあしらわれた白いシュミーズに、裾の方に細かなフリルがついた白いペチコートだ。コルセットの類は着けていない。動くのに邪魔だろうし、そもそもあんなにゆったりした服はキツく締め上げるべきではない。足首に届く程長く、絹のように輝かんばかりの髪は高い位置で二つに結えられている。髪留めにしているリボンは艶やかな白。チョコレート色の、飾り気のない靴を履き、黒く薄いストッキングを飾り気のないガーターベルトで吊っていた。これで短いスカートでも穿いていれば、恐らくは色気が滲み出たことだろう。だが、彼女はそうしなかった。  レナータの服は全て俺が買い与えたモノで、その選択には多かれ少なかれ彼女の意志が関わっている。クローゼットの中を一度でも覗くか、買い物に付き合ってみれば分かるが、短くても外出用の服はみな膝丈までで、ズボンもミニスカートもTシャツもパーカーもハンガーに掛かっていない。彼女自身のこだわり故なのだろうか。それとも何か別の理由があるのだろうか。脚を見せることを嫌がるのと同じように。  暫くすると、少女メイド達が五人分の水を、円い焦茶色の盆に載せて運んできた。手の中に納まる程の、円柱にも見えるグラスの中には氷ブロックが四つ入っていて、グラスの表面には既に水滴がびっしり付いている。口に含んでみると冷たくて美味しい。機械のような金属の味もしない。天然の水か、それとも井戸の水か。俺が冷たい水の味を堪能していると、正面から、 「さて、始めようか」 「……何をだ?」 「知りたいでしょう?レナータちゃんのことを。僕はねぇ、ほんのちょっとだけ知ってるんだよぉ?夢の中で『中の子』と話したからねぇ」 「なっ⁈てめっ、アマリリスに何しやがった⁈」 「心の中を覗いただけだよぉ?夢の中であっても分かっちゃうんだぁ。泣いてるその子とお話するのは三十分が限界だったけどねぇ。今のレナータちゃんには過去の記憶なんて邪魔なモノないからねぇ。君がその子をお人形さんにしようと思えば幾らだって出来るんだよぉ」 「何が言いてえんだ、このクソ王!」 俺は思わず叫んだ。隣に座っている少女達が肩をすくめ、目を瞑る。ただでさえレナータはもう限界の筈だろうに、涙を堪え、クロの長い耳で肩を摩られながら王の方を見ている。少し経ってから一口グラスに口を付け、 「王様、全部、話して……?ルナに」 漸く口を開いた。堪え切れなかった涙は食卓の上に流れて落ち、子兎でさえ困った顔で心配そうに見つめるばかり。 「良いのか?レナータ」 「もう、いいの……」 「そうかぁ、じゃあ教えてあげようか。レナータちゃんの過去を、ねぇ」 王は牙が生えた口を開き、甘ったるい声で語り始めた。  一八六九年、プロイセンの山奥。昼でも陽の光が届きにくい樅の森の向こうにあるその城で、双子の赤ん坊が産声を上げた。まだ陽が昇り切る前の寒い朝のこと。窓硝子の向こうでは粉雪が降りつつあった。中年の、恰幅のいい侍医が、天鵞絨のカーテンがかかる天蓋付きの豪華な寝台の上に横たわる若い女から、二人の赤ん坊を取り上げる。一人は亜麻色にも小麦の穂の金にも見える色の髪を持ち、青灰色の眼で母親を見つめている。こちらは男の子で、この城に住まう一族ひいては大公とその妻までもが待ち望んだ後継ぎだった。しかし、そのすぐ後に若い母親の胎から産み落とされた赤ん坊を見るなり、侍医は恐怖のあまり叫び声を上げた。その子は女の子だが、ヒトとは思えぬ容姿をしていたのだ。この世のものとは違う、白銀にさえ見える薄水色の髪。高貴な、或いは鮮血を思わせる紅玉(ルビー)色の眼。陶磁器を思わせる白い肌。淡い珊瑚色の唇。ソレを見た若い母親も、次いで金切り声を上げた。その声は廊下にまで響き渡り、声を聞きつけた二、三人の若い女中が彼女の寝室に入ってくるという珍事も起こっている。二人の赤ん坊は程なくして引き裂かれ、男の子は広々とした城の中で、女の子はこの一族に古くから伝わる習わしのもと、庭園の奥にある塔の中で育てられることとなった。  女の子はアマリリス、男の子はコンラートと名付けられた。洗礼を受けたのは男の子だけ。妹にあたるアマリリスは生まれて直ぐに、塔の中で初老の乳母が子守をすることになったからだ。一族の習わしは残酷なもので、教会の洗礼を受けさせずに、毒の花の名前だけを与えて塔の中に閉じ込める。家人との接触は絶たれ、外の世界に行く自由もない。この家の者達は数百年の間そうしてきたようで、紅い眼の子供が産まれてくる度に同じことを繰り返してきた。禍いを閉じ込める、ただそれだけの為に。彼らは恐れていたのだろう、数百年前の災厄が再び起こることを。    五百年以上前のこと。ある秋の日にこの城に紅い眼をした男の子が産まれ、それと同時に当時の領主が治めていたある村を、黒死病(ペスト)が襲った。実ったばかりの穀物を齧った溝鼠からヒトへ。粗末な家が多く、村人達の身なりも綺麗とはいえないこの村で、何も知らない農民達は、教会で神に祈るしかなかったのだ。同じ頃、城でも騒動が起こっていた。領主は生まれたばかりの息子達を見るなり、 「この者達は悪魔の使いだ!この双子が民を苦しめているのだ!我が妻は斬首刑に、この双子は縊り殺せ!」 と叫んだ。しかし、召使い達がそうすることはなく、表向きは死んだと思わせておき、二人はせめてもの慈悲として、人知れず冷たい石造りの塔に閉じ込められた。別々の部屋で、一日二食の食事と僅かなおもちゃだけが与えられる、それだけだったが、彼らは何も分からなかった。その間にも、双子を産んだ母親は薄暗い地下牢へ閉じ込められ、処刑を待つばかりだった。白く、薄いサテンのドレスを着せられ、石造りの台にシーツが敷かれただけの、硬いベッドの上に座る十六歳の彼女が何を想っていたのかは分からない。だが、見張りの兵士が、 「最後に何か言いたいことはありますか?」と問うた後、 「あの子達に会わせてください……」 と彼女は涙声で呟いた。  真夜中、彼女は兵士に連れられ、庭園の奥にある小さな塔へと案内された。手には弱々しい光を出すカンテラを携えて。彼女の左手の薬指には、混じり気のない銀で出来た結婚指輪がはまっていて、暗闇の中で鈍く光っていた。毒の花の名をつけられた、幼い双子の兄は痩せた躰を母親に見せながら布団も掛けずに眠っていた。弟の方は兵士が最後に目撃した時、既に事切れていて、それを彼から聞かされるや否や、彼女は泣き崩れた。空に三日月が昇り、雲の切れ間から星々が見える、そんな夜だった。元々、この双子は目が見えず明日をも知れぬ命だったのだ。一歳と十ヶ月の命を、弟は冷たい塔の床の上で、誰にも看取られることなく終えた。  二ヶ月後、双子の兄は一つ歳を取り、二歳になった。塔の外には細い葉を持つ大きな六花弁の白い花が沢山植わっていたが、彼がソレを目にすることは決してない。侍女はいつも通りにミルクとパン、ソレと濁った野菜スープだけを持ってきて、スプーンでひと匙だけ掬うと、幼い少年の口に優しく含ませてやった。何も知らない彼は、小鳥の囀りだけを聞き、無心に与えられた食事を口にする。  その裏では今まさに若い母親の処刑が行われようとしていた。中年の、猫背で顔には髭が生えている処刑執行人が、彼女の手を麻縄できつく縛り、白い包帯のような布で目隠しをした。領主は彼に命じて、大きな斧で元妻の首を刎ねさせるが、中々上手くいかない。床には黒い布が敷かれ、その上には藁が撒いてあるものの、彼女の首から滴り落ちる血のせいで、それだけでは間に合わなかったのだ。躊躇いが執行人の中にあったのか、それとも単に腕が未熟なだけだったのか。知るものはない。処刑は夕刻になるまで行われ、漸く首を刎ね終えた時、若き母親が着ていた服に飛び散った紅は銅色に乾いていた。二人の侍女のうち一人は泣き崩れ、一人は失神さえしていた。その数日後、双子の兄は母親の後を追うようにして亡くなったという。冷たい床の上で。眠るようにして。  話は一八七〇年代に戻る。アマリリスと名付けられた彼女は、左眼は完全に失明し、僅かに見える右眼でさえも視界がぼやけ、完全にモノを見ることは難しかった。髪は内巻きだが、男の子のように短く切り揃えられ、曲がりなりにも貴族の娘であるにも拘らず、まるで修道女のように質素な、藍色の服を着せられていた。靴下の類は履いておらず、焦茶色の、飾りひとつない踵の低い革の靴を履いているのみだった。やはり、彼女もまたミルクと白パン、そして濁った野菜スープを一日に二食与えられるだけで、床には僅かなおもちゃが散乱していた。金髪と茶髪の、それぞれ青灰色の眼をした人形が二つだけ。埃を被った棚の中には二、三体の磁器人形(ビスクドール)があり、こちらで遊ぼうとはしない。まだ背が低過ぎるので、窓から身を乗り出すことは出来なかった。この時、彼女は六歳になっていた。六歳といえど、彼女は誰からも言葉を教わったことがない。名前を呼ばれたら反応はするものの、それだけ。意思を伝える手段を一つとして持っていないのだ。彼女には何も求められていなかったし、彼女が求めることもなかった。  変わり映えも何もなく、これから先も、それこそ死ぬまでこの塔で過ごすのだろう、と思われた矢先のこと。一人の若い旅人が、一晩だけ泊めて欲しい、と城を訪れたのだ。それだけならば大した問題にはならなかったが、彼は庭園の奥にひっそりと建っている塔の存在が気になったのだ。あの塔の真実を知る城の者達は、使用人でさえも必死に止めたが、彼は興味の方が勝ったのか、夜中にこっそり行くことにした。枯れた草を掻き分けて辿り着いたその小さな古い塔は三階建てで、アマリリスは二階で眠っていた。旅人は彼女の小さな頭を撫でてやり、その日はお世辞にも寝心地がいいとは言えない簡素なベッドの上で眠ってしまった。  朝になり、硝子が一片たりともはまっていない塔の窓にも陽の光が差し込んできた。黒く塗られた格子がはまっている窓際には雀が二、三話やってきては時を告げている。部屋の中は静寂に包まれていて、時計一つない。だが、清潔ではあったのか溝鼠や害虫の類は一匹もいなかった。普段から世話をしている乳母が食事と着替えを持ってきた時、彼女は驚き、 「旅の方、ですよね……?何故ここにいらっしゃるのですか?」 「この塔が気になってしまいまして」 「……そう、だったんですね。今すぐこの子の側から離れられた方がいいですよ。その子は、アマリリス様は、この地に厄災を齎すのです。目は見えず、口は利けずとも確かに。だから我々が死ぬまでここに閉じ込めるしかないのです」 「そんな話、信じられる筈がないでしょう。確かに、薄水色の髪に真紅の眼をしていて、この世のものとは思えない程白いですが。ただの子供じゃないですか」 旅人は笑い飛ばし、彼女を抱き寄せ、頬にキスを贈った。そこには憐れみでもあったのか、彼の眼からは涙が一筋頬を伝って冷たい床に落ちていった。何も知らず、自我さえ持たない彼女は、虚な眼でその様子をじっと見ているだけだった。  事件はその日の夜に起きた。旅人が外に出られないアマリリスを憐れむあまり、禁忌を犯したのだ。夜中に城の図書室から古びた魔術の本を持ち出し、幼い少女の世話係を務めていた乳母を生贄に捧げ、僕の隣人でもある悪魔を喚び出した。異形の彼は、旅人の願いを聞き入れこそしたが、その代償はあまりにも大きいものだった。使用人諸共一族の人間を喰らったのだ。城は騒然となり、叫び声や喚き声が城を埋め尽くした。塔の中にいた少女には聞こえなかったようだが。数時間経ってからそれらは消え、物言わぬ汚らしい骸ばかりの城には旅人とアマリリスの二人だけが残された。明け方、外に出た二人が最初に見たのは、未だ微睡んだままの世界に降り積もる雪。森の中に、包み込むようにして降る粉雪にはしゃぐことも、初めて見る雪景色に心を動かすことも、この小さな少女にはなかった。澄んだ紅玉の瞳で、ただじっと目の前を見つめる。それだけだ。  大きな街のすぐ近くまで、旅人は己の足を引きずりながらやってきた。小さな彼女は、悴む腕に抱えられているが、旅人の青年は限界を迎え、倒れてしまった。無理もない、二人とも寝間着のまま逃げてきたのだから。残された少女も力尽きたのか、冷たい石畳の上に倒れてしまった。    「ここまでが、六歳の時までのお話だよぉ」 王は話を一旦区切り、気色悪い声でそう告げた。あれほど他人の死に心を動かすことのなかった俺でさえ、聞いているだけで涙が自然と溢れ落ち、頬を濡らすとともに胸の中からは怒りが込み上げてくる。たった六歳の、何も分からぬ少女にここまで出来てしまう、自分以上に歪んだ一族に。もうこの世から不本意な形で去ったとはいえ、煮えたぎる程の怒りが、悲しみが、次から次へと湧いてくるのだ。 「何でそんなっ……、レナータがクソくだらねえことに巻き込まれなきゃなんねぇんだよ‼︎コイツはクロや俺がいなきゃ何も出来ねえのに!俺と同じ紅い眼のガキが産まれてくる度にそうしてきただあ⁈ソイツら頭湧いてんのか‼︎生まれてきただけで罪だって誰が決めたんだよォ‼︎」 いつの間にか俺は叫んでいた。隣で啜り泣き、仔兎に慰められている彼女の為だけに。本当なら今すぐにでもキツく抱きしめてやりたい。どれだけ拒絶されたって構わない。ほんの一欠片でもこの想いが届くなら。 「仕方なかったんだよぉ。皆が皆くだらない宗教を盲信してたから無知でもねぇ。医学も科学も何もかも、全てが止まっていたんだよぉ。漸く歯車が回り出したばっかりだったんだぁ。百年の時を経た暁には月に到達していたり、僕らのいる量子の世界に干渉できるようになる、なぁんて。きっと、考えられなかっただろうし。そのお陰で世界から悦びという概念が消えつつあることも、境界が無くなりつつあることで、自分達が如何なる存在か理解出来なくなることも。智を持つ者は総じて愚かしいのさぁ。上から抑えつけることしか出来ない奴らから文明や文化は生まれない。停滞から脱する為に戦争という営みを始めたのだとして、そこから生み出されるモノが有益とは限らない。生み出した風習が、犠牲を生まないともね。それでも、弱者であるレナータちゃんが生まれてきたことに、意味がないとは言い切れないんだぁ」 「てめぇ、レナータの前でよくそんなこと言えたな‼︎このクソ王‼︎」 「僕をゴミクズ呼ばわりするのはいいけど、コレは本当のことだよぉ?僕は真実を述べているだけだからねぇ」    嫌な空気が流れていき、小さな少女の啜り泣く声が聞こえてくるからか、俺達は目の前に何が置かれたのか気づかなかった。目の前の皿には焼きたての丸くて小さなフランスパンが一つ、銀紙に包まれたバターと一緒に置かれ、隣のワイングラスには白ワインが注がれている。菫色の少女がブランにパンを千切って与えているが、クロはそのままいつものように齧りついていた。触れてみると普通のロールパンより少し硬い。薄水色の少女も、気が進まないという顔をしつつ、小さな手でパンを少しずつ千切って口にし始めた。 「ここからだよぉ?この子の闇はまだまだ、十五歳の今まで続くからねぇ。君に光が当たることなんて、決してないのさぁ」  会食の最中だというのに、不気味な橙色の光に包まれた豪華な食堂は、王の嫌らしい声と小さな少女が啜り泣く声だけで満たされていく。長方形の食卓の上には、ほんの数分のうちに沢山の料理が並べられていくが、そのうち一つが見たこともない、手の込んだ料理だった。フランス料理ともイタリア料理とも違う。サラダやパンは見覚えのあるものだが、唯一メインディッシュと思しき肉料理だけは我でさえ目にしたことのないモノだった。隣にいるレナータは銀のナイフを手に取り、僅かな音さえ立てずに、肉にナイフを入れていく。形からして辛うじて鳥の類であることだけは理解できる。が、それが何なのかまでは分からなかった。黒胡椒をはじめとした様々なスパイスがかかり、赤茶色のソースの海に横たわっているそれを、彼女はフォークで勢いよく刺し、躊躇いなく口にした。何も言わないが、表情が少しだけ和らいでいる。濃い赤身の肉は何となく牛肉を連想させるが、 「……懐かしい」 「どうした?レナータ」 「これ、鳩の……」 どうも違うようだった。その消え入りそうな声は王の耳にも入ったらしく、 「そうだよぉ。それは君が一度だけ口にした鳩のお肉さあ。どうかなぁ?君なら喜ぶと思ったんだけどぉ」 「……おいしい、ね」 そう口にしながら、彼女はちびちびと一口大に切った肉を黙々と食べ続けていた。傍にあるシーザーサラダは半分程減っているし、水が入っていたグラスは脂がうっすら浮いているとはいえ、もう二回程注ぎ足されている。水滴はグラスにびっしりと付いている訳ではなく、零れ落ち、食卓の上に小さな水たまりを作っていた。  王の趣味は全般的に悪いとはいえ、カトラリーをはじめとした食器だけは違うらしい。明らかに他所とは違う、煌びやかだが趣のあるものばかりなのだ。ただのシーザーサラダでさえ、持ち上げたら即座に割れてしまいそうな薄さの器に入っているし、パン皿一つとっても正円形である以上に、上から見ると溝が三つか四つ、刻まれるようにして皿の中心を縁取っているのだ。真っ白なそれには絵の一つでも描かれていそうなものだが、何も描かれてはいない。鳩の肉が入った皿は白く、上から覗いて見ると花のようにも見える。沢山の花弁から成る名も知れぬ花だ。我がフォークで試しにソースを退かしてみても、絵や模様は見当たらない。本当にただの『食器としての価値しかない』皿だ。我は自分の分の水が入ったグラスに少しだけ口をつけた。氷の所為だろうか、冷たくて美味しいということしか分からない。舌が氷の所為である程度麻痺しているとも云えるだろう。少なくとも薬品の臭いがしないことからして、水道水ではないことだけは確かだった。  各々が鳩の肉を食べ終えた頃、デザートだろうか。エメラルドグリーンの四角いシャーベットが運ばれてきた。シンプルな切子細工を思わせる硝子の器に入り、そのうちの二、三個には天辺の方にピックが刺さっている。安っぽいプラスチック製の、子供の弁当箱にでも使われていそうなそれは、先端に星やハートといったマーク以外にもまち針のように球があしらわれている。ピック自体は透明で、ピンクや緑、檸檬色といった鮮やかさを感じる色ばかりで、青や紫、赤といった色は見当たらない。我は自分の器から一つのシャーベットを取り、口に入れた。噛み砕いてみると、本物には遠く及ばずとも、舌先では甘いと確かに感じている。例えこれが砂糖と別の何かだけで占められていたとしても、食べる価値はあるのだ。隣に座っている少女も口元を緩めながら食べている。口にせずとも分かるが、我は敢えて 「美味いか?」 と問うた。レナータは頷くのみだった。  皆が丁度食事を終えた頃、僕は開けたばかりの赤ワインを口にしつつ、 「始めようかぁ。レナータちゃんの、人生で一番幸せだった時の話をねぇ」 目の前で泣いている少女の過去話の再開を宣言した。    倒れたアマリリスは、偶然にも通りがかった男の手によって救われた。気づいた時には大きな街屋敷の、豪華な造りの寝台の上に横たわっていたからだ。そのまま目を覚ますことはないだろうと思われた彼女は、拾われてから五日目の朝に漸く起きた。ふかふかの布団から出た時に初めて見た光景は、見知らぬ人々が彼女のことを覗き込むというものだった。そんな異様な光景にも拘らず、彼女は虚ろな目で辺りを見回すばかり。怯えさえも見せないアマリリスを見て、屋敷の主である男が口元を僅かに歪めたのを彼女は気づいていない。当然ながら、彼が新進気鋭の銃器メーカーの社長であることにも気づいてはいなかった。  その日から再びアマリリスと呼ばれるようになった少女は彼の屋敷で暮らすことになった。目が見えていないことを程なくして知った義父が手配した専属のメイドに身の回りの世話をして貰い、金持ちの世界では安物とはいえ、綺麗な服も沢山買ってもらった。小さな胃は当初、柔らかい白パンと野菜スープ、そしてミルク以外は受け付けず、それ以外のモノを口しても吐いてしまった。満足に動き回ることも出来ず、次の誕生日まではベッドの上にいることが多かった彼女にも、義父は家庭教師を付けた。元々、他人の目を介してモノを見ることが出来るこの少女が、アルファベットの読み書きを、少なくとも母国語だけでも修めるには数ヶ月を要した。それ以外にも、ピアノやヴァイオリン、絵画や古今東西の詩といった教養を、アマリリス自身は常人を上回る速度で覚えていった。特にピアノは、多忙で滅多に屋敷には戻らない父親でさえ彼女の小さな指先が奏でる旋律には必ずと言っていい程聴き入ったという。    アマリリスが七歳の誕生日を迎えたその日、義父が熊のぬいぐるみを彼女に手渡した。耳にはタグが、首元には藍色のリボンが付いているそれを、彼女はぎゅっと抱きしめた。亜麻色の、優しい眼差しで見つめるぬいぐるみを、彼女はどんなご馳走よりも喜んだ。口数が普段から少なく、表情にも殆ど変化が見られない彼女が、この時初めてはっきり笑顔を見せたのだ。それを見た義父も微笑み、彼女の頭を撫でた。食卓の上には普段口に出来ないような鳩の肉や、デザートには見たこともないような南国の果物、そうでなくてもバターをたっぷり使い、色とりどりのベリーやオレンジが乗った華やかなケーキは小さな少女の胸をときめかせたことだろう。まだ無理は出来ない彼女であっても、この日ばかりは切り分けられたケーキをゆっくりと口へ運んでいく。グラスに注がれたジュースを除けば殆どそれ以外に手をつけてはいないのだとしても、この日だけは大人達も大目に見てくれた。  その年のクリスマスプレゼントは高価な万年筆。軸の色は紺色、クリップやペン先はメッキでもしてあるのか本物さながらの金だった。幼子には似つかわしくないモノだが、それでもアマリリスは大事そうに抱え、義父に感謝を述べ、次の授業から使い始めた。遊ぶ時、眠る時は熊のぬいぐるみといつも一緒。変わらず身体が弱いので外にはあまり出なかったが。一つ一つの言葉の意味を理解出来るようになったこともあり、お付きのメイドが語って聞かせる話でさえも、彼女は理解し、噛み締められるようになった。音楽以外には数学に興味を持ち、高度な数式を一晩で理解した時には家庭教師に驚かれたこともある。反面、絵画はあまり得意ではない。というよりも他人の目を介してモノを見ているのと、元から盲目ということもあり、形を捉えての表現が苦手というのが正しい。が、その教養の高さは、裏世界に身を置いている義父のみならず、彼を通じて裏の有力者達でさえ一目置く程だったと言われている。彼女と会ったある者は、数日前の新聞記事の話や文学の話をし、またある者は七歳にして難しい諺を交えての会話が出来ることに舌を巻いた。義父自身も、アマリリスのことは誇りに思っていた。  人と接する機会があまりにも限られている彼女は、友達一人おらず孤独だった。体調がいい時には庭で遊ぶこともあったが、そんな日は年に十日あればいい方だ。色とりどりの花達で彩られた庭にある、丸太のベンチブランコが彼女のお気に入りだった。二人座れるその遊具には、いつもメイドと彼女が座っていて、メイドの目を通して季節の花を見るのが楽しみの一つだった。その中でも好きだったのは白い薔薇と、鮮やかな桃色をしたガーベラの花だった。      秋も深まった頃のこと。その日は休日でたまたま義父が屋敷へ帰ってきているようだった。アマリリスの小さな、 「友達が欲しい」という呟きを彼は聞き逃すことはなく、その証拠に後日仔犬を部下から貰って来た。十二月十日、つまりは彼女の誕生日の夜、屋敷にやってきた雌の仔犬は、アマリリスの手で覚えたばかりのフランス語から取って『シエル』と名付けられ、遊び相手がいなかった彼女の良き友人となった。小さな少女は人生で初めて友達が出来たことを心から喜び、床の上を転げ回った。何度も義父にとびっきりの笑顔で感謝を述べ、翌日からお気に入りだった筈のぬいぐるみそっちのけで、仔犬にピアノを聴かせてやったり、一緒に昼寝をするようになった。年に十日あればいい筈の、体調のいい日も、咳が止まらない夜も、ベッドから動けない雨の日も。シエルは片時も離れることなく、小さな少女の傍にいた。 そんな日が七年近く続き、シエルは犬というよりは狼にさえ見えるような精悍な体つきに成長していた。目つきはまるで、獲物を狩ろうとする獅子のようにさえ見えるが、アマリリスは変わらず可愛がり続けていた。義父が帰って来た時には写真屋を呼び、三人揃って写真を撮って貰ったこともある。春の穏やかな日差しの中、蒲公英の綿毛が空に舞い、小鳥の囀りが聞こえてくるような日々だった。しかし、そんな穏やかな日々は何者かの手によって突如壊されることになる。  一八八四年十二月二十五日の深夜。外では粉雪が降り積もる中、屋敷の窓硝子が割れたのだ。絨毯の上に散らばった硝子の破片と銃声は、招かれざる客が銃の使い手であることを 示唆していた。この音は余りにも大きかったのか、当然アマリリスの耳にも入り、先程まで眠っていた寝台から立ち上がると、恐る恐る扉を開けて冷たい廊下に出た。父親と愛犬を探す為に。この日は彼女にしか懐いていない筈のシエルが父親の傍から離れなかった、珍しい日だった。何故アマリリスの傍にいないのか、彼女はこの時まだ理解出来ていなかったのだ。部屋に向かう途中、銃声と、父親の悲鳴と愛犬の悲しい断末魔が聞こえてくる。彼女が扉の目の前に着く頃には、二人とも最期の言葉さえ言うことなくこと切れていた。部屋の中に入った時、二人は冷たくなり、義父は瞳孔を見開きながら、額や口を紅く染めていた。下ろした長い黒髪は紅く濡れ、シーツの上には紅い水溜りが出来ている。地面に横たわる犬は苦しそうな表情を浮かべながら口を紅く染めている。彼女は気づいていなかったが、義父の額と愛犬の腹の辺りには弾痕があった。部屋の中には屈強な体格をした、アマリリスより一、二歳年上と見受けられる、ガスマスク姿にボロボロの黒いコートを纏った少年の姿が見える。彼は黒光りしている狙撃銃を抱え、怯える少女の方を一瞥すると、 「……お前は、殺さない。生きるか死ぬかはお前次第だ」とだけ告げた。彼女はぶつけられた言葉に応えることはなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。  少年の姿はいつの間にかなく、後には少女の姿だけが残された。まるで呪いにも似た彼の言葉を噛み砕き、飲み込むには数分かかった。意味を知った時には時既に遅く、彼女は叫び、号泣し、暫くしてから部屋の壁に掛けられている楕円形の鏡の側に歩み寄る。そこからは白く強い光が放たれ、次の瞬間、彼女は吸い込まれるようにして消えてしまった。少女が来たのは沢山の鏡が浮かぶ摩訶不思議な空間。床を歩くとペタペタ音がするものの、床そのものは大理石で出来ているという訳ではない。ぼんやりとしたまま銀色の、飾り一つない長方形の大きな鏡に触れると、そのまま意識を失ってしまった。小さな胸の中に、愛されなかった記憶と愛した者達を奪ったあの銃声を刻みながら。 「で、気づいたら君は本来の名前も記憶も失っていたんでしょう?ねぇ、レナータちゃん」  語り終えた王は、やはりねっとりとした若い男の声で少女に問いかける。彼の席の丁度対岸にいて、兎に慰められ続ける小さな少女は声をあげて泣き出してしまった。クロをぎゅっと抱きしめ、さっきよりも大きな声で。同時に、俺の胸が張り裂けそうなくらいに皮肉めいた真実が頭の中を駆け巡る。俺は知らぬ間にレナータのトラウマを抉っていたのだろうか。だとすれば彼女があの夜に、ああ言ったことにも少しだけ合点がいく。只、身体が大きいだけではなく、こんな銃(モノ)の所為で俺は怖がられていたのだと。受け入れ始めた矢先に目頭が熱くなり、俺はいつの間にか叫んでいた。空になり、底に僅かな量の赤ワインが残ったグラスが震え、水色髪の少女を除いたチビ達は耳を塞いでいる。いつだって悪いのは俺の方なのだろう。それでも、どれだけ拒まれようと、俺はレナータもアマリリスも同じくらい想い続けているのに。今だってその気持ちは少しも変わらない。あの小さな少女には俺がこれからも必要だろうし、何より半ば仕組まれたものだろうと、彼女との紲はそう簡単に断てるものか。発狂しつつある俺に、 「レナータちゃんはもう僕のお姫様になっても可笑しくないんだよぉ。大丈夫、悪いようにはしないからさぁ」 心底愉しそうに囁き、彼は呆然としている少女を魔法か何かで浮かせてから抱えて出て行った。すぐ後にクロも耳で飛びながら追いつこうとする。その場に残った俺達はただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。 #bloody_camellia
bloody_camellia17  特別編集版 鴉 content media
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縁田華
2023年7月23日
In デジモン創作サロン
えー、サロンから完全に去る前にやりたいことが出来たので企画をやります わたし史上最初で最後の企画です 【企画概要】 デジモンサヴァイブのハル、ミユキみたいにパソコンも携帯電話も普及していない時代の人がデジタルワールドに迷い込んだら……というのを書く企画です(参加がいつになるかは分かりませんが、わたしも参加はします) 【応募要項】 ①必ず一人称で書くこと(視点はデジモン、人間どちらからでも構わない) もし、デジモンが名乗らないかニックネームが付いている場合は必ず最後の後書きに明記するか、#○○モンと書くこと ②「パソコン」「スマホ」「音楽プレーヤー」といったデジタルなモノは出さない 無論、デジヴァイスも出さない 時代設定は(日本でいう)幕末から昭和40年代までなら可 海外出身のキャラクターも可 レコードプレーヤーなどは◯ ③実在の歴史上の人物をモデルにした人物の登場は◯ ④参加には#演葬をつけること ⑤舞台はデジタルワールドだけでなく、夢の世界や現実世界も可だが、その場合も①から④は必ず守ること 皆様からの忘れえぬ物語をお待ちしてます #演葬
【常設企画】忘れえぬ演葬 content media
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縁田華
2023年6月23日
In デジモン創作サロン
誠にご勝手ながら、今週は休載させていただきます! いつもお読みくださり誠にありがとうっス! 今回はちょっとだけレナータちゃんの裏側を紹介するッス Q.レナータちゃんの生年月日を教えてください A.1869年12月10日っス!  デジタルとは程遠い時代っス! Q.レナータちゃんの名前の由来は何ですか? A.ばあちゃんちにあったお人形さんから付けたっス。ちなみにそのお人形さんはドイツのお土産なんスよ。名前の意味?確か、「再生」だったような…… Q.レナータちゃんの身長と体重を教えてください A.身長142センチの体重34キロっス リカちゃんボデーっス Q.レナータちゃんは何故目が見えないのですか? A.生まれつきっス Q.レナータちゃんは何故ズボンを穿かないのですか? A.ベルちゃんの可愛がり方が異常なのと、19世紀の人間だからっス 来週こそは「鴉」投稿するのでよろしくお願いします #bloody_camellia
休載告知&一問一答(レナータちゃん編) content media
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縁田華
2023年6月18日
In デジモン創作サロン
前の話↓ https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/bloody-camellia-15-just-one-night?origin=member_posts_page 次の話 https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/bloody-camellia17-te-bie-bian-ji-ban-ya?origin=member_posts_page(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/bloody-camellia17-te-bie-bian-ji-ban-ya?origin=member_posts_page) タイトルのイメージ https://m.youtube.com/watch?v=AkV--Zbwx9U(https://m.youtube.com/watch?v=AkV--Zbwx9U) この小屋の近くの楓の木も、少しずつ赤や黄色、橙色といった温かい色が付いていき、小さな茸達が切り株の隙間や、雑草の群の中からひょっこりと顔を出す今日この頃。僕は風に吹かれながら切り株の上に座っていた。木枯らしという程でもないが、少し肌寒く感じられる。風で舞う落ち葉を少しの間だけ見つめた後、傍にある籠の中から僕は弁当と箸入れ、それと鈍色の長い水筒を取り出した。ふと空を見上げると、雲間から青空が覗いている。陽は陰ってしまっているが、この様子なら今日一日雨が降る心配はないだろう。 檜葉の、曲げわっぱとでもいうのだろうか、楕円形の弁当箱のフタを開けると、その中にはマヨネーズが既にかかっている茹でブロッコリー、三、四個のミニトマト、ほぐした塩焼きの鯖。これで漸く弁当箱の四割を占める。仕切られた残りの反対側は、ブナシメジや人参、細く切った蒟蒻に筍といった野菜類がごろごろと入った炊き込みご飯だが、それなりに冷めてしまっている。それでも構わず、滑りの良い黒い箸で一本のシメジを掴み取り、口にすると、茸の出汁が効いているからか、歯切れのいい食感だからかは分からないが、口の中にはシャキシャキとした歯応えに、柔らかな味が広がる。ずっと噛んでいたいレベルの歯応えだが、噛み砕かれつつあるのだ、そんな我儘は許されないだろう。次に箸を伸ばしたのは、よく茹でられた三、四個のブロッコリー。てっぺんには既にマヨネーズがかかっていて、そこだけあからさまに空気も匂いも違う。口に入れた瞬間、仄かな酸味が気付かないうちに舌を刺し、同時に玉子のコクとまろやかさが全てを包み込んでくれる。それらを全て食べ終えた後、僕は少し苦戦しながらもミニトマトを掴んだ。瑞々しくスーパーボールのように弾みそうな艶を持つそれは、口に入れると甘酸っぱい。割合は酸っぱさが六割、三割は甘さ、あとの一割は苦さといったところだろうか。ドレッシングをかけずとも、この美味しさ。何度でも食べたくなってしまう。それらを全て食べ終えた後、鯖の塩焼きを口にした。小骨はほぐした時に大分取り除いたので、口の中で刺さる、喉に引っかかるという心配はしなくていいだろう。皮は剥いてあるので、白い身とチョコレートアイスのような色合いの血合肉しか見えない。僕が口にしたのは後者だが、程よく脂が乗っていて、柔らかいからか舌で弄んでいるうちに溶けていく。こんな調子で弁当の中身を平らげた後、僕は水筒の中の緑茶に口をつけた。少しずつ、ちびちびと飲む訳ではない。一気に半分くらいは飲み干した後にフタを閉めた。そこまで苦くはない。かといって、渋くもない、マイルドな味だった。 仕事に戻ろうとした僕の長い耳が、ガツガツという咀嚼音を捉えている。僕は食事を終わらせたというのに、何故かこの雑音は続いたままだ。畑に近づく程大きくなっていくソレは、硬い何かを鋭い歯で噛み砕いている音でもあるのだろう。嫌な予感がする。自分が育てていた作物が荒らされていなければ良いのだが。畑に足を踏み入れた時、その予感はものの見事に的中してしまった。 禍々しい、鮮血或いは赤ワインのように紅い眼をした黒龍(デビドラモン)が、僕の大事なサツマイモ畑を荒らしていたのだ。茎も葉も、更には地中に埋まっていた大きな芋のみならず、育ちかけの小さな芋まで掘り返され、無惨な姿になっている。芋そのものは、龍が手にしている食べかけのものも含めて、最低でも四割は汚らしく食べられていた。赤紫色の皮が付いたクリーム色の破片ばかりが地面に散らばっている光景を見た僕は、その場に頽れるしかなかった。 正午も終わりに差し掛かり、我々の食事が終わった後のこと。私の黒く、光に翳すと妙に傷が見えやすくなる携帯電話が鳴った。急いで電話を取ると、そこからは聞き覚えのある声が聞こえてくる。 「も、もしもし……?レオモンか?」 「ああ、ジンバーアンゴラモンか?久しぶりだな。どうした?珍しいじゃないか」 「僕の、僕の畑が……龍に荒らされたんだ!!」 「何⁈すぐ向かう!」 私は急いで電話を切り、 「マリー、私はこれから旧友の許へ向かう。留守番を頼んだぞ」 「嫌だ、私も行く!罠くらいなら作れるから、私も連れて行け!そっちが断ってもついてくからな!」 「仕方のない奴だ」 私は溜息を吐きつつ、少女の我儘を苦笑いで返してから、彼女を肩に乗せた。 森の中はすっかり秋模様になっていて、見渡す限り赤や橙色の葉が舞い落ち、獣道を埋め尽くしている。よく見ると、色づいている葉の殆どは楓の一種で、ソレ以外の緑色の葉は普通の木の葉だった。一部『普通』と呼べるかわからないようなものも紛れ込んでいるが。私達二人は森を抜け、丘の方へ向かう。小高い丘の上には古びてはいるが、小さな洋館が見える。見たところ二階建てで、自動車かバイクを収納する為のガレージがある。桃色のコスモスの花が一列に並んで咲いた細長いプランターが置かれたテラスは、白く曲がりくねった階段を使えば庭に降りられるようになっていた。だが、目的地はもう少し歩いたところにある。美しい建築に見惚れて歩みを止める訳にもいかなかった。   獣道の痕跡すら見えなくなった頃、私達は漸く小さな小屋に辿り着いた。そのすぐ近くには木の柵で囲われた、サッカー場くらいの広さの畑がある。門を開けると、そこには引きちぎられた蔓、食い散らかされたと思しき小さなクリーム色の破片。龍の大きな足跡と、尻尾を叩きつけた跡がよく耕された土の上に刻まれている。切り株の脇に立てかけられた鍬は土だらけだ。恐らくはたった一人でこの広い畑を耕したのだろう。彼にとっては大事な収入源であると同時に、森の向こうにある街の人からの評判もいい。老若男女が口を揃えて『美味しい』と言うのだ、待っている人達も多いだろうに。さぞかし無念だったことだろう。マリーは、畑の惨状を見るなり、 「うーん、コイツあ派手にやられちまってる。だが、龍だって動物の一種なんだ。なあに、私に任せな!こう見えて私の家はキャベツ農家だったんだからな!害獣退治くらい安いもんさ」そう言って小さな拳を握りしめた。 マリーの何処かズレた決意の中には、『絶対にアイツを捕えてみせる』という眼差しが見え、口元は余裕そうな笑みを作っていた。生前、本当に幾度も害獣を駆逐してきた経験があるのだろう。目の前の耳長兎は、 「本当か⁈こんな小さいのに、心強い!なら任せてもいいかい?」 「任せておきな!っつー訳で、この家に龍(アイツ)が喜びそうな餌と丈夫な網、それと太い縄はあるかい?」 私達は彼の案内に従い、納屋の中で作業をすることになった。網はないものの、太い縄は幾らかあったので、それを組み合わせて網を作ることになった。 「罠本体が出来上がったら、僕を呼んでくれ。干し肉があるところを教えてあげるよ」 そう言って彼は納屋の扉を閉めて出て行った。残された我々二人は、小さな少女が言う、単純な仕組みの罠作りに励むが、 「なあレオモン。最近樽の中の魚の減りがどうも早い気がするんだ」 「……少なくとも二つ壊れていたし、中身も全て無くなっていたな。もしかしてそれも件の奴の仕業だと言うのか?」 「……だと思う。ああいうのは餌を探している作物や家畜を襲い出すからな。何度か見てるから分かるんだよ」 「だが、あの龍は本来なら幽世にいる筈だ。何故地上に?」 「知るかよ、兎に角罠作んねーと終わんねえぞ」 罠そのものは二時間程で作り終えてしまった。木の上でなければ上手く作動しない、鼠取りのようなモノだが無いよりはマシだろう。貯蔵庫に案内された我々が、幾つかの干し肉の塊を畑の主から貰うと、私達は手頃な木を探すべく森の入り口へ向かった。中に入ると、遠目に黒い龍の姿が見える。彼は私の家の敷地に侵入し、樽を爪で切り裂いては中の魚を貪り食っているではないか。 「やっぱりアイツだったのか!けど、罠の存在に気づかれなきゃコッチのもんだぜ!」 少女は小さな手でガッツポーズをしてみせた。案外気づかれやすいとも思うが。罠に引っ掛からなければ意味はないのだが?龍が干し肉の存在に気づいたのか、彼はそれを汚らしくガツガツと食べ始めた。一つ二つと食べ始め、骨が徐々に見えていく。時には筋の部分を引っ張りながら、肉片を散らしつつ平らげていた。彼が三つ目を口にした時、 「今だ!」 マリーが罠を作動させ、我々は遂に龍を捕らえた。派手なアスレチックの遊具を思わせる太い網の中で彼はもがいている。袋状になったソレに対して、爪で引っ掻くという動作を何度も繰り返しているからか、もう網が千切れてしまいそうだ。我々が見守る中遂に網が千切れてしまい、龍は勢いよく飛び立った。 「あ、ああ……」 「仕方ないさ、マリー。我々が甘かった。毒を盛って弱らせたり、もう少し準備をしておけば良かったんだ」 ブランとこゆき、背の高い男の人バージルは重たい荷物を持ちながら歩いていた。決して丈夫とはいえない紙袋一つの中には、リンゴが六つにジャガイモが四つ。ニンジンとタマネギがそれぞれ三つずつ入っている。ブランは何も持っていないが、こゆきが抱えているそれらはなんだか重たそうに見える。バージルはお肉の塊二つと、カレー粉の缶が入った松葉色のエコバッグを持っているが、二人の間に会話はなかった。怖そうなバージルよりも、こゆきはブランとお話する方が好きなのかもしれない。今だって、 「今日はカレーかあ、ブラン、楽しみだね!」 「ブラン、辛いの苦手クル……」 「大丈夫だよ、ブランとクロのはユゥリさんに頼んで甘口にして貰うから。私は中辛でも大丈夫だけど」 たわいもない話をしながら、森の中を通り抜けようとしたその時だった。こちらに向かって黒い龍が飛んできたのだ。ゆっくりではない、少し速く。すかさずブラン達を護ろうと、バージルは腰に差している刀を抜いた。でも斬ろうとはしていない。刃のない部分を強く当てて、叩いているようにさえ見える。龍も負けじと、爪を立てて戦う。硬い爪と剣がぶつかり合い、乾いた金属音が森の中に響いていく。龍の爪に押され気味だったバージルが空高くジャンプした後、彼はもう一度龍に一撃を叩き込み、目の前の龍は倒れてしまった。ブランが恐る恐る彼の腕に触れてみると、どうやら気絶しているだけのようだ。ちょっと安心した。遠くから沢山の足音が聞こえてくる。一人ではない。二、三人は最低でもいておかしくないだろう。ブランの耳は、妙に一人だけテンポが速い足音も一緒に捉えている。その足音の正体は、見覚えのある、以前お世話になったひと達だった。 「マリー!レオモン、ジンバーアンゴラモン!久しぶりでクル!」 「よう、ブランもこゆきも元気にしてたか?私はこの通りだぜ」 相変わらず、マリーは歯を見せながら笑っている。歩くたびにふわっと翻る白いフリルもそのままだ。そよ風で小さな細い二つ結びが揺れている一方、リボンの飾りがついた黒い革靴は土で茶色く汚れていた。 「誰だ、お前たちは……」 「バージルさんは初めまして、でしたね。このひとたちは私とブランの知り合いです」 「初めまして!バージルのあんちゃん!私はマリーだ!こっちはレオモン、こっちはレオモンの友達の……」 マリーは小さな手で二人を指差しながら紹介しているが、バージルのしかめ面はそのままだ。 「それより、この龍はどうするつもりだ」 彼が冷たい口調でブラン達に尋ねる。目を回しながら気絶している黒い龍には、少しだけ見覚えがあった。 「……レヴィ?大丈夫?」 「グルル……、グル……」 龍は少し辛そうにしている。バージルは彼を見るなり、 「……本当ならお前はここで死んでいても可笑しくはない筈だがな、この二人には一応借りがあるからな。少しの間だけだがコイツの世話をしよう、異論はないな?」 「こんな暴れ馬の世話しようってのかい?まあいいや、あんちゃん良ければウチに来ないかい?どうせ家なんかないんだろ?ちょいと狭いが、対して変わらんよ」 「……ああ、あの丘の上の屋敷には『怪我が治るまで』としか伝えてはいなかったからな。こゆき、ブラン、お前達とはここでお別れだ」 「今までありがとうございました!」 「クリュ!ユゥリ、助かってたって!ユゥリ残念がるでクル!」 「……誰が何と言おうが、俺はここでレオモン達と暮らす。さらばだ」 そう言って、彼はレヴィを連れ、振り向くことなく小屋の中へ去っていってしまった。龍自身は彼の後ろについていきながらも、キョロキョロと辺りを見回している。物置のようなもう一つの小屋の屋根に降り立った後、大きなあくびを一つした。地面にはお肉とカレー粉の缶が入ったエコバッグが残されている。ブランはそれを手に取り、 「行こう、ブラン」 「クリュ」 風鳴りの丘の上の屋敷へ戻り、玄関の扉を開けようとした時、こゆきもブランも重い荷物のせいで既にへとへとに疲れ果てていた。あまりに重いので、玄関のすぐ側に荷物を置いた後、 「お届けものでーす」 という元気いっぱいの声と一緒に、肩から郵便鞄を提げたホークモンが軒先に大きな小包を置いていった。綺麗な包装(ラッピング)がされたそれには、バーコード付きのラベルが貼られていて、こゆきによるとどうも送り主は『ノエル』というひとらしい。中身が気になったが、ブラン達は気にしないことにした。 ドアを開けて、 「ただいまでクル!」 「ただいまー」 と言いながら中へ入ると、ルナが珍しくブラン達を出迎えてくれた。そして小包が届いているのを見るなり、 「何だ、コレは」 「何って、ノエルってひとからのお届けものでーすよ」 「あの野郎‼︎」 その声はなんだか嘆いているようにも聞こえる。結局、ブラン達がその日のうちに小包の中身を知ることはないのだった。 #bloody_camellia
16  人恋し、秋恋し content media
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縁田華
2023年6月10日
In デジモン創作サロン
前の話 次の話 まだ タイトルのイメージ  誰だって不幸にはなりたくないだろう。世間から不幸を押し付けられたいとも思わないだろう。最初から親のいない私達はそれでも幸せに暮らしていた、と今ならいえると思う。赤ん坊の頃からずっと一緒で同じような境遇だった親友が、遠いところへ行ってしまってからというもの、私の心には大きな穴が開き、見る景色全てが灰色になってしまった。今でもたまに夢を見る。金持ちの家に引き取られた親友が、鏡の向こう側でにっこり笑って手を振る、そんな夢を。 昭和三十九年、八月も終わりに差し掛かってきた頃のこと。園の庭にある長方形の植木鉢(プランター)には沢山の朝顔の花が咲いている。子供達が一生懸命に育てたそれは、見事な円で赤紫色をしていた。その他にも木槿や白い芙蓉の花が私達の目を楽しませてくれる他、座面がベンチのようになった二人がけのブランコや、沢山の木が植った日陰には小さな池がある。池には黒い鯉が二、三匹泳いでいて、水面には浮草や未草、河骨といった植物が顔を出している。それ以外にはこれといって特徴のない庭だが、昼になると子供達が外へ出るのでとても賑やかになる。ある子は四、五人でサッカーなどのボール遊びを、ある子は木登りや大縄跳びを。勿論、寮の中で遊ぶ子もいる。大人しい子や大きい子は特にそうだ。 小学校の校庭のように、サッカーゴールも鉄棒もない園庭を箒で掃いていると、一台の赤い車が門の前に停まっているのが見えた。この街でも何処でも、自家用車は高級品で滅多に通りかかることはない。オート三輪も、自転車も自動車程ではないが、通りかかる頻度は少ない。そもそもの話、子供用の自転車であっても大人用の自転車であっても通る頻度は少ないし、道路で遊ぶ子も多い。道端の花を手折って遊ぶ子だっている。だが今は午後一時。大半の子供達が、比較的涼しい寮の中で夏休みの宿題をしたり、室内で大人しく遊んでいる時間帯だ。まだ学校に上がっていない年齢の幼児達は昼寝をしているし、今は園長先生と私しかいない。他の二、三人の先生は買い出しや用事で忙しいからだ。それなのに、あの車は何の用で来たのだろうか。養子にしたい子でもいるのだろうか。疑問を巡らせていると、中から若い男が一人現れた。歳の頃は二十代前半から中盤くらいだろうか。男性にしては少し長い髪を後ろで纏め、光届かぬ深海の底か蒼玉(サファイア)のような美しい藍色の瞳をしている。黒い開襟シャツにドッグタグのネックレスでお洒落に決めた彼はこちらに向かって、 「少し、よろしいでしょうか?」 と尋ねてきた。その声は人間離れしていて、例えるなら宗教画の中の天使のようだ。映画の中の俳優でもここまで美しい声の持ち主はいないだろう。だからだろうか、私は、 「は、はい‼︎」 緊張のあまり、声が裏返るだけではなく、躰さえも強張ってしまった。どうしよう、目の前の彼に心を奪われてしまいそうだ。私は、理性を総動員させてギリギリのところで正気を保ちつつ、 「ど、どんなご用でしょうか?」と彼に訊く。声が高くなっているが、相手は気にしていないようだ。その証拠に穏やかな笑みを崩していない。 「この孤児院に、銀色の髪にオリーブ色の眼をした子がいると聞いたのです。その子をずっと探し回っておりまして。申し遅れました、私は……」 彼は懐から名刺を取り出した。それを見た限りだと、どうも彼はアメリカにある大きな会社の社長らしい。何をしているのかは分からないが、私は取り敢えず応接間に彼を通すことにした。 応接間に通された彼は、私と園長先生と向かい合うようにして黒い革張りのソファーに座る。出された紅茶には砂糖もミルクも入れずに、外国の王侯貴族を思わせる優雅な所作で数口飲んだ後、こちらに向き直った。 「私はこの十四年間ずっと件の子を探し回っていたのです。私自身、ここ十年で金回りも良くなりましたし、生活が安定したので良い暮らしをさせてやりたいと思ったのです。それに、部下との約束でもありますから」 私がその言葉に頷こうとした時、 「それはその子自身が決めることです。貴方様と暮らしたいかどうかは、その子の意志が伴わないと」 園長先生が割って入った。 「では、その子の顔を一目で構いません、見せていただけませんか?」 私と園長先生は、彼を寮の遊戯室へと連れて行った。銀色の髪にオリーブ色の目といえばこゆきくらいしかいない。今なら彼女もこの部屋にいる筈だ。そう思っていたが、今日はいない。いつもなら仲良しの子と一緒に、床に画用紙を広げてお絵描きをしていたり、読書をしていたり、おはじきで遊んでいる筈なのだが。他の小さな子供達は床に車のおもちゃを走らせたり、熊のぬいぐるみとおままごとをしていたり、中にはけん玉を一生懸命練習している子や、千代紙で鶴を折っている子もいた。年長の、小学五年生から中学二年生くらいの子達は個室で勉強をしている。この部屋にはカラーテレビが置かれているが、今の時間帯は誰も見ていない。一応、いつでもつけていいことにはなっているが、子供達にとって魅力的な番組がないからか、他の楽しいことに夢中だからなのか、彼らは今の時間テレビに興味を示そうとしない。少なくとも、この園の子供達にとって『テレビの時間』とは夕方の五時から七時半までのこと。この時は夕食の時間とも重なるので、必然的に注意する回数が増えると同時に、お喋りの回数も増える。だからだろうか、私も子供達も基本的に『テレビは夕食時に見るもの』と認識していた。 どうもこの男は他の子供達には興味がないようで、彼らの方を一度たりとも見ようとはしなかった。その上、革ベルトの、右腕に巻かれている高級そうな腕時計をチラチラと見ている。何か用事でもあるのだろうか。 「あの……」 「この後、商談がありまして。本日はこの辺でお暇させていただきます。ありがとうございました」 そう言って彼は颯爽と園を去っていった。あの赤い車に乗り、後にはエンジンの音だけを残して。私は焦がれるようなあの感覚を思い出していた。それはこれまでの人生で一度も味わったことのないもの。遠い昔、それもまだ私が学校に上がってさえいない頃。朧げながら覚えている、数少ない思い出の一つである、両親に連れられて行ったレストランの食事ともまた違う。きっと、今鏡を差し出されたらとても困る。私は、『してはいけない顔』をしているだろうから。 商談というのは嘘だった。本当はあの孤児院から早いとこ立ち去りたいだけだったのだ。院に入った時、真っ先に視界に入ったのは燻んだ白の十字架だった。その次に目に入ったのが『聖カタリナ園』という文字列で、ご丁寧によく磨かれた黒い大理石のプレートに彫られている。それ以外は、特に変わったところなどない。元気にはしゃぎ、遊び回る子供達の中に件の子供はいなかった。それだけだった。 部下(マタドゥルモン)が運転する車に急いで乗り込み、趣があるとは言いがたい街の中を走る。商店街の中に、床屋や本屋、駄菓子屋といった小さくみすぼらしい店が立ち並んでいて、本屋にはカストリ雑誌なんて下品なモノは見当たらず、駄菓子屋には大勢の子供達が群がっていた。一つ十円程度の安い駄菓子を買う子、お世辞にも造りが豪華とはいえない、それでいて目玉として扱われている玩具を狙ってくじを一枚だけ引く子、何を買おうか迷った末に、店先にあるガチャガチャの重いハンドルを回す子。誰も彼もが小学生くらいの子供で、皆が黒いランドセルを背負っていた。大半の子が穿いている半ズボンからは、健康的な足が見えていて、中には陽の光で光った膝小僧を意図せず見せている子もいる。暑いのによくもまあ元気に動き回れるな、と思いながら私はその光景を横目で見ていた。もう少し前、それこそそれこそ十年くらい前までは米兵がガムやチョコレートといった菓子を、子供達に振舞っていたのだが。この時代の子供達は十四年前と違い、小綺麗な服を着ている。それどころかこの国も随分と豊かになりつつある。転がる紙クズは何処までもこの国の暗部を見せつけようとしていた。 車は駅の方へ向かっているようだった。窓から見えた電柱には、『科学世紀の子供達』という大仰な赤い文字とともに、古臭い未来的なイメージの服を着た五人の少年少女のイラストが描かれている。マンガ調ではなく、劇画や教科書の絵を思わせる写実的なものだが。恐らくは映画の広告だろうか。『八月三十日公開!』の文字とともに、『少年たちよ、これが科学世紀だ!』というキャッチコピーが記されていた。 「……何が科学世紀だ。我々に対して能動的に触れようとしない限り、真の科学世紀など訪れまい。永久に、な」 消え入りそうな声で、呪言を。誰に届ける訳でもない。強いて言えば、この時代の住人達全てだろうか。まだ宇宙にさえ進めていない癖に、何が『科学世紀』だ。人類がそんな大言壮語を嘯けるようになるのはあと十年以上先になるだろう。 昔、それこそ私とこゆきが五歳になるかならないかの時から、園の中には妙な噂があった。開かずの間と呼ばれる物置部屋には『黒い鏡』があり、それを四秒以上覗き込むと鏡の中に吸い込まれて二度と出られなくなってしまう、という噂。物置といっても、使われなくなったモノを一時的に保管しておく為の部屋だが。そんなに怖がらなくてもいい筈なのに、この話を年上の子から聞かされたこゆきは怯えて、ついには泣き出してしまった。私は優しく彼女の手を握り、慰めた。それに応えるようにして、こゆきは優しく私の手を握り返してくれた。その時から、こゆきは私について回るようになった。寮の部屋が一緒なのはまだ良いとして、食事の時はいつも隣だし、外で遊ぶ時もずっと一緒。小学校に上がった時はクラスこそ違えど、登下校の時だけは必ず一緒だ。昼休み、たまたま図書室でこゆきを見かけた時は、嬉しさのあまり抱きついてしまったこともある。その時の彼女は少し迷惑そうな顔をしていて、読もうとしていた怪談の本を落としてしまっていた。まだ私達が小学五年生の時のことだ。 私とこゆきは、先生達がお客様の対応に追われているのをいいことに、先生の部屋から物置部屋の鍵を持ち出した。目的は一つ、あの時の噂の真相を確かめる為だ。銀髪の少女は私の手をぎゅっと掴んでいるが、私は怖くなかった。というのも、私自身はあの噂を信じていない。お化けなんて存在(もの)は、大人が子供を躾ける為に生み出したのだから。お化けを未だに怖がるこゆきとは違って、私は冷めている。本当の意味で怖いモノなどこの世には一つもないからだ。でも、一度も入ったことのない部屋に入るというのはわくわくする。なるべく音を立てないように、私とこゆきは件の物置部屋へと向かった。 開かずの間と呼ばれているだけあって、そこの扉の建て付けは悪く、更には陽当たりの悪いところにあり、いつもは鍵がかかっていた。御伽話にでも出てきそうな単純な形(デザイン)の鍵を開け中に入ると、六畳程の部屋の中には使われなくなったモノや、壊れたモノが沢山積み上げられていた。ボロボロになった布の人形や、色褪せた絵本。もう誰も遊ばなくなったブリキのロボット。錆びついて鳴らなくなってしまった、バレリーナの人形がついたオルゴール。古びたアップライトピアノに手を伸ばし、試しに木目が剥き出しになった白鍵を叩いてみると、きちんと音が出た。他にもピアノの上にはネジを巻いてもあまり意味がないメトロノームや、ところどころほつれた亜麻色のテディベアといったものがある。埃まみれの本棚には、古い子供向けの雑誌が数冊と、沢山の図鑑、童話の本がぎっしりと詰まっていた。ピアノの近くにある、ボロボロの木箱の中には、まるでアメリカ人を思わせるような、青灰色の目をした小さな女の子の人形が入っていて、彼女は私達とは違って金色の髪をしている。着ている水色のエプロンドレスは薄汚れてこそいるものの、上も下もフリルがやり過ぎなくらい散りばめられている。胸までかかる髪は、触れるとサラサラしていて気持ちいい。頭のてっぺんには少し濃い水色のリボンが、まるでカチューシャのように結ばれていた。足にはフリルの白い三つ折りソックスと黒いストラップシューズを履いている。まるで、昔、院長先生に読み聞かせて貰った童話に出てきた女の子みたいだ。寝かせると、瞼を閉じはするが「ママ」とは言わない。そういう風に出来ているのだ。人形を仕舞い、私とこゆきはさして広くもない部屋の中の探索を続ける。さっきの人形と同じで、長いこと忘れ去られていた姿見を部屋の窓際で見つけた。埃を被っている一方で、趣のあるそのデザインは、いかにも貴婦人の寝室にありそうなモノだった。 「これじゃない?黒い鏡って」 「この部屋が暗いだけよ。カーテンだってずっと閉まったままだし、電気だって点いてないし……って、こゆき聞いてるの⁈」 「なんだろう、この鏡。なんだか吸い込まれそうな……?きゃっ!」 こゆきが小さな悲鳴をあげた次の瞬間、鏡の中から小さな白い人形が現れた。変にギザギザした耳に、丸っこい体。額には大きな赤い三角形を中心に、三つの黒い三角形がソレを取り囲んでいるという、奇妙な図形が刻まれている。目は緑色だが、こゆきより少し澄んでいて濃い色をしている。 「クル〜?」 不思議なことに、人形が突然喋り出した。その上、首を自然な動作で傾げている。 「この人形、生きてる⁈」 「かわい〜い!見て、玲子ちゃん、この子かわいいよ」 そう言って隣にいる少女は人形を抱き上げ、頬擦りをする。白い人形は困惑していたものの、少し経つとこゆきと一緒になってはしゃぎ始めた。 「そうだ、名前がないなら付けてあげるね!」 「クルモンはクルモンです!キミは、なんていうで〜すか?」 「私はこゆき。こっちの黒髪の子が玲子ちゃん。そしてあなたはブラン!よろしくね、ブラン!」 「クルモンは、今日からブランで〜すか?」 「そうよ、ブラン」 「クル!」 ブランと呼ばれた白い人形は、にこやかな笑顔で元気に返事をした。 結局のところ吸い込まれるという噂自体はデマだったといっていいだろう。だが、今後はこう改めようか。『黒い鏡の中からは白い妖精の人形が現れる』と。扉を開けて、私達は廊下に出た。入っていたのはたったの十数分だけの筈なのに、何故か安心するのだ。明かりが点いている。聞き慣れた声がする。それだけで。暫く廊下を歩いていると、小百合先生が駆け寄ってきて、 「こゆきちゃん、こゆきちゃん」 何やらこゆきに用があるようだ。 「どうしたんですか?小百合先生」 「さっきのお客様ね、あなたを一目見たいって。それでね、あなたに良い暮らしをさせてあげたいんですって!」 「えっ……⁈私が、ですか……?」 彼女は驚き戸惑っている。 「そうよ、また来ると仰っていたわ」 「……こんな私が、お金持ちの人のところに⁈」 空が朱色に染まりつつある頃のことだった。私は部下と一緒に目黒の旅館にいて、ベランダで煙草をふかしていた。柵の下わ、見下ろしてみると、自転車を漕いでいる中年男性や一人で石蹴りをしている小学生くらいの少年の姿が見える。その他にも、花柄のフリルのワンピースを着た若い婦人と、娘と思しき幼い少女。彼女も白くゆったりとしたワンピースを着ている。この二人は他所行きを着ているが、百貨店にでも向かっているのだろうか。少しだけこの母娘の足取りが気になりつつ、橙色にも黄色にも見える光の中へ戻った。客室の中は畳で、ベランダの近くには一対の一人がけのソファーと、低い円形のテーブルがある。それ以外には、部屋の端に押し入れがあり、角の方に収まるようにして四つ足のカラーテレビが置かれていた。ベッドという親切なモノはなく、押し入れの中にある褥を引っ張り出さなくては眠れないようだ。面倒事は全て奴に任せるとして、退屈な時間を潰す為、私は外へ行こうと部屋の扉を開けた。廊下に出ようとすると、部下の声が私を引き止め、 「どちらへ向かわれるのですか?」 「少し、風に当たりに行くだけだ」 「一時間後に階下の食堂で食事が振舞われるというのに、ですか?」 「……分かった。部屋で待つから」 結局、私は部屋でテレビを観ることになった。いくつかチャンネルを回してみたものの、時間が時間だからだろうか、子供向けのアニメが目立つ。ニュース番組などが観たかった私は肩透かしを食らった。教育番組などもあったが、大人が観るものではないと感じる。仕方なく、私は公共放送の番組を観ることにした。邪魔なコマーシャルが入らないのはいいが、鮮やかな色彩で映し出されるアニメーションは明らかに小さな子供に向けたモノだったし、歌詞も綺麗事ばかり。丸みのあるフォントのテロップにはルビなどないものの、メインターゲットの子供達はそれでいいのかもしれない。 五分。丁度とはいえないが、柱時計を見ると文字盤の「1」に長針が止まっている。コチコチと小さな音がして、嫌でも静寂を感じさせられている。私の目には、確かに鮮やかな『もう一つの世界』が見えるのに。私はテレビのスイッチを切り、部屋を出ようとした。行き先は化粧室。この旅館には一つひとつの客室に付いているわけではないからだ。廊下を早歩きで通り抜けると、やがて、「W.C」という表記のプレートに辿り着いた。特徴的なあのシンプルなマークはない。どうやら男女共用のようだ。淡い水色のタイルの壁をチラッと見遣ってみると、長方形の鏡があり、その下にはさして変わり映えのしない形の洗面器に、消波ブロック(テトラポット)を平面にしたような形のハンドルの蛇口が付いている。壁に沿って、ソレは三つ四つと続いているようだった。どの洗面器にも石鹸が付いているようだが、中には小さくなり、碌に使えなさそうなものもあった。全てが清潔感がありつつ面白みのない白だが、香りだけは良かった。所謂、「オーソドックスな石鹸の香り」というやつではあるが、日本人らしい奥ゆかしさが溢れている。我々が以前使っていたやつとは違う。 思った以上に胃の調子が悪かったので、私は少し長く用を足してしまった。部屋へ戻ると、部下が布団を敷いて待っていた。 「この際ですから、語りませんか?」 「……あのなあ」 ソレ以前に、何故そこまでして寛げるのだ?恐らく手にしているのはゴシップ誌。娯楽に飢えている私にもソレを貸して欲しい。が、 「何故、今になって養子を取ろうと思ったのですか?」 私はその一言で我に返った。 「十四年振りの約束を果たす為だ」 「約束とは?」 「かつての部下が遺した忘れ形見をよろしく頼む、と」 私は、懐から一枚の写真を取り出し、目の前の男に見せた。白黒でこそあるが、髪の色は銀。眼の色がオリーブ色であることは私自身がよく覚えている。 「彼と同じ、銀の髪にオリーブ色の目をした子供がいると聞いてな」 「……その子を引き取りたい、と?」 「そうだ」 それを聞いた部下は苦笑いを返した。 一階にある食堂に二人で向かうと、そこはある種の別世界だった。だが、そこに向けられた感情はどちらかといえば、「実家のような安心感」だろう。見渡す限りの蜜柑色。室内こそ和の一文字で表せるくらい趣ある内装だが、そこに分かりやすい華やかさはない。「慎ましやかな美」という概念(モノ)が、この空間を支配していた。私達二人は後ろで黒い髪を一つの団子に纏めた中年の女中に案内され、障子が目の前にある席に座る事になった。その席は、座卓のすぐ下に青紫色の座布団が四つ用意され、卓の上には「お品書き」と筆で書かれたと思しき表紙のメニュー表らしきモノがある。 「何を頼むんだ?私はコレに決めている」 「ええと、私はコレとコレで」 先程とは違う女中がやってきて、盆に載せた淹れたての緑茶を卓の上に優しい手つきで置いた。私達が二人が注文を伝えると、彼女は伝票らしき小さなバインダーにそれを記していく。そして、ぺこりと礼をして去っていった。彼女が去っていった、私達二人だけが部屋の中に残された。「さて……」「まだ夜には早いですが……」『かんぱーい!』私達は湯呑みを軽くぶつけ合った。 この部屋はどうも高い身分の者を持て成す為にあるらしく、床の間には掛け軸が、違い棚には鶯が描かれた絵皿と、花器には小ぶりな花が生けてある。黄色いが、何の花なのかはわからない。野原に咲く花のようだが、道端で見かけた蒲公英よりも慎ましやかだ。それ以外に変わったところは特にない。私達は料理が運ばれてくるまで茶を飲みつつ、部下と談笑することにした。 「件の子供の捜索を部下達にさせたが、まさか未だにあの孤児院にいたとはな。もう少し遅くなると思っていた。それこそ、一年か二年くらいは致し方ないとも」 「……そうでしたか。して、その子はどういった目的で引き取るんですか?」 「……利用する為さ。表向きは部下との約束を果たしつつ、裏では餌にするんだ」 「ふふ……、あなたらしい……」 目の前で向かい合っている彼の笑顔は不気味な程穏やかなものだった。私は岩のような色の湯呑みに再び手を伸ばす。喉を通った緑茶は冷めてこそいたが、なんとなく優しい味がした。 #undead_syndrome
undead  syndrome  01
black mirror on the wall(前編) content media
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縁田華
2023年6月03日
In デジモン創作サロン
タイトルのイメージ 前の話https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/bloody-camellia-mu-jian-5-chang-kimeng-noguo-teii 次の話  https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/16-ren-lian-si-qiu-lian-si この館の事実上の主であるお嬢、レナータはとても優しい子だった。こゆきもルナの旦那も優しいが、その中でも一等優しいのは彼女だった。何もかもを無くした俺に寝床を与えてくれただけではない。毎日小さな声で口にする、 「ありがとう」「これ、美味しいね……」「お疲れ様……」は、俺の心を確かに溶かしていく。背後に控えている人物のせいで心酔とまではいかないが、この小さな少女は俺の恩人といえる。大きな掌の中のものを見る。包帯に包まれたソレは、一つの飴玉だった。包み紙からは、透き通っていて茶色の丸いものが見える。カサカサ、という音とともに包み紙を外し、俺は飴玉を口の中に放り込んだ。この飴は、優しい「いつもありがとう」の言葉とともに、お嬢がくれたものだ。舌先で転がすと、茶色のソレは優しい味がした。醤油と砂糖が混ざったような、その独特な味はどことなく癖になりそうだ。 「お嬢……」 ガリガリと飴を噛み砕きながら、俺はあの茶色い兎を抱いた盲目の少女のことを思い出していた。 無理矢理契約書にサインをさせられたあの日、俺はまた以前のような目に遭わされるのかと怯えていた。忘れもしない、土下座をしてまで旦那達が住む館に身一つで押しかけた朝のこと。最早彼に縋って生きるしかないと、頭の中がそれだけで染まってしまったあの時。目の前の相手は冷酷な魔王なのだ、玄関で土下座をして追い返されるだけならマシだろう。命だけは助かるのだから。ソレに、裏の世界で危ない橋を渡る手段ならいくらでもあるのだ、此処に拘る必要はない筈だ。本来ならば。そう、あの少女が俺に対して『家の家事全てをやって貰いたい』という、俺が驚くほど穏便な条件を提示してきたのだ。あの方に拾われる前、生きる為ならば溝浚いでも、強盗でも殺人でも何でもしてきた俺に対して、そんなことを言うのだから、最初は耳を疑った。だが、彼女達も楽になりたいという理由があって俺を雇うことにしたらしい。俺も、お嬢に拾って貰った恩を返す為、館で働くことになった。 彼女の計らいで、俺は契約書を書かされることになった。裏切り防止らしいが、ソレ以前に雇い主に逆らえないようにするという意図もあるらしい。通された部屋は応接間で、天井には電球のシャンデリア、一対の二人掛けの黒い革張りのソファー、それとローテーブルがある。天板が硝子張りのソレの上には、ティーカップと万年筆、一枚の紙切れが置かれていた。中華趣味(シノワズリ)というやつだろうか、見事な桃色の蓮の絵が描かれたティーカップからはもくもくと白い湯気が出ている。黒い軸の万年筆は然程使い込まれていないようで、傷もあまりついていない。塗装は剥げていないどころか、ほぼ新品同様で輝きを失ってはいなかった。金のクリップ付きのキャップを外すと、中から黄金のペン先が現れた。豪華な模様などはついていないが、まるで鏡のように輝いているソレを紙の上に走らせると、サラサラと、ゲルインクボールペンと見紛うような、滑らかな黒インクが出てくる。一気に吹き出してくる訳ではないが。にょろっとした細い線は、書き心地も相まって書類の上に自分の名前を構成していき、俺は書類をよく読まないうちにいつの間にか契約を終えたことにされていた。 「これで契約は完了(オシマイ)だ。今日からしっかり働いて貰うからな?」 三つの紅い眼がにんまりと笑うようにしてこちらを見つめている。この時、俺はこの館で働く選択をしたことを死ぬ程後悔した。筈だった。 しかし、日が経つにつれてそうは思わなくなった。館の一員として馴染んできた、というのもあるだろう。誰かの為に身を粉にして働く必要こそあれ、侵入者が来たからといって戦うことがないのだ。そもそも、小高い丘に建っているこの館に侵入者など滅多に来ない。俺が作った料理を、館の皆が笑顔で食べてくれるという理由もあった。料理は昔から得意だからコレ程嬉しいことはない。誰も残さないし、仮に残ったとしても翌日の朝までには消えている。失ったものも多いとはいえ、俺自身は確実に幸福への一歩を踏み出した。あんな天使のように優しくて可愛い子に仕えられるし、あの屈託のない笑顔は思い出すだけで癒される。本当に人間なのか、と思えるくらい人間離れした美しさだが、彼女は自分の容姿に自信がないようだった。こゆきもそうだが、この二人は何故だか大人しすぎる。女の子同士で遊んでいる時は楽しそうなのに。 俺が知っている女という生き物は、もう少し我儘で生意気な筈だった。だからこそ可愛げもあったのだが。でも、彼女とは心の何処かで通じ合っていたし、俺の料理を最初に「美味しい」と言ってくれたのは水色に近い銀の髪をした彼女、ポリーナだった。まだあの方がいて、こゆきとブランがいて、執事もいたあの頃のこと。城の料理人としては、二、三人の部下を指導する立場になったばかりでミスも多かったのに。あの三人の笑顔に励まされていたのは確かだった。そう、あの日が来るまでは。 思い出したくもない日がとうとうやってきてしまった。広大なホールには断頭台(ギロチン)が置かれ、傍には背中に斧を背負った処刑人の青年と、城の主であるあの方が控えていた。心無しか今にも泣きそうな顔をしている。大勢の見物人達が石造りの床に置かれた木製の断頭台に目を向けていた。かけられているのは長い銀の髪をした、下半身が不気味な蜘蛛そのものの女だ。つまり、俺は恋人を目の前で殺されるのを見せつけられているということになる。彼女の頭上には鈍色に輝く、まるで肉切り包丁のようにも鉈のようにも見える刃があり、処刑人が紐から手を離せば即座に彼女の首を刎ねてしまえるのだ。あの彼女が、こんな理不尽な死を簡単に受け入れる筈はないのに。彼女は、 「お慈悲を……」と呟きながら、力無くされるがままになっている。ソレを見ているだけの自分は涙が止まらなくて。堪えようとしても、自分を包んでいる柔らかな白が濡れていくばかりで。もし代わってやれるのなら代わってやりたかった。俺は大勢の見物人達の前で、人目も憚らずに泣き叫んだ。力一杯涙とともに叫んだ後に啜り泣く。眼前にいるあの方が、心底不愉快そうな目でこちらを見つめている。そうして処刑が執り行われようとしていたその時、 「兄さま!その人が一体何をしたって言うんですか!」 白い妖精を胸に抱いた小さな少女が、勢いよく扉を開けて駆けてきた。白いラインが入った黒い膝丈のスカートに、少し薄めの墨色をしたフリルの長袖ブラウス。薄手の黒いストッキングを飾りのついていないシンプルなガーターベルトで吊り、黒いストラップシューズを履いている。服だけではなく髪のリボンまで真っ黒だ。偶然とはいえ、こんな嫌な偶然があるだろうか。 「兄さま、お願いです!その人は私にとてもよくして下さった方なんです」 「そうでクル……。その人がいなきゃ、ブランもこゆきもお菓子作れなかったでクル……」 「それは出来ん。もうコイツは用済みだからな。課された使 命一つ遂げられぬ部下など必要ない」 「兄さま、兄さま……!」 こゆきは彼の足元に泣きながらしがみついている。 だが、 「彼女の処刑は決まったことだ。今更取りやめることは出来ん」 彼は妹の必死の訴えも聞き入れず、ポリーナの首を刎ねた。目の前にボトリと首が落ち、そのまま彼女は粒子となって消えていった。俺が直前に、 「見るな、隠れろ!」と言ったので、こゆきとブランの二人はこの瞬間を見てはいないだろう。ソレが不幸中の幸いだった。 重い足取りで自分の部屋に戻る途中、庭で白い妖精と一緒に花を摘む少女を見つけた。冷たい夜風に当たりながら、死者への餞にするのか、ブランの小さな白い手の中には、四、五本の、桃色のスターチスの花が確かにあった。 「……ポリーナさんの為にって思ったんです」 その時に見せた悲しそうな顔が焼き付いて、俺は今でも忘れられない。澄んだオリーブ色の瞳からは一筋の涙が頬を伝ってつうっと零れていく。 「どうして、どうして兄さまは……」 「……仕方ないんだ」 「ひどいでクル……」 その数日後にあの方は謀殺され、何者かの手で放火されたせいで城は焼け落ちていった。俺はこれで良かったのだ、と思いつつその場を後にした。暫くの間、沢山の思い出と少しのトラウマが遺されたあの城が燃えていく様子を見つめながら、逃げるように。それからの日々は王様に拾われたまでは良かったが、彼に経歴を聞かれるやいなや、俺は地下牢の看守として働くことになった。三交代制で、前と同じく俺には少ないながらも部下がいた。それでも淡々とした日々は俺の心に何も残さず、虚という言葉が似合うものになっていく。旦那達が王様の城に来るまでは。だからだろうか、こゆきとブランが生きていると知った時は心底嬉しかったのだ。 今日も今日とて彼女はブランと一緒に、居間でテレビを見ている。外では楽しそうにお嬢とクロがはしゃぎ回っていて、彼女自身は黒く細いリボンで髪を二つに結え、水色のリボンで飾られた黒いベレー帽に、あちこちがフリルで飾られた膝丈の紺色のドレスを着ている。白いフリルのハイソックスに黒い編み上げのブーツ。秋の野花を摘みながら遊んでいる彼女は、自分の目の代わりを務めている兎にそれら全てを贈っていた。その中には鮮やかな黄色の蒲公英が時折混じっているのだが、この兎は特に気にしてはいないようだ。居間の壁に掛かっている柱時計を見ると、もう少しで三時に差し掛かろうとしていた。 振り子時計の鐘(チャイム)が三回鳴った後のこと。まだ、外は明るく、青空には雲ひとつない。俺はふと気になったことがあるので、こゆきの部屋に掃除をするフリをして忍び込むことにした。扉を開けると、やけにこざっぱりとしてはいるが、それなりに豪華な部屋が現れた。焦茶色の、艶(つや)やかな木の箪笥と、白く少し古めかしい鏡台。ソレの目の前には揃いのオットマンがある。小さな机にも高級そうな白木の肘掛け椅子がついている。座面には座り心地を良くする為か、黄緑色の座布団があった。だが、数日前に掃除をしに入った時と違い、枕元にはぬいぐるみが一つ増えている。羊の隣に寄り添うようにして、薄緑色の小鳥が置かれているからか、この二体は仲睦まじく見える。その光景を目にした俺は思わず笑みが溢れてしまいそうになった。だが、今はこんなことをしている場合ではない。俺にとっての目当ては、彼女が日頃から描き溜めていた机の上に置いてあるスケッチブックだ。表紙を見た限りは普通だが、端の方に少しだけ焦げ目が付いている。城が放火されたあの日の夜に持ち出したのだろうか。隣には三十六色のクレヨンが置かれているものの、中身はそこまで使われていないようで、精々一部の色の角が丸くなっていたり、別の色が付いているだけだ。整然と並べられているソレの中で、二つだけ半分以上すり減った色がある。黒と藍色だ。この時点で何を描いているのかは既に想像がつく。もしかしたら俺は想像以上に恐ろしい領域に足を踏み入れているのかもしれない。スケッチブックの表紙を開けると、中身は俺の予想を裏切っているとはいえ、子供らしさが滲み出ていて、思わずクスッときてしまった。まるでぬいぐるみのような羊や兎、熊といった動物達が野原でピクニックをしている絵。地面は緑色に塗られ、その上にはぽつぽつと黄色い花が描かれている。二ページ目は銀髪の少女と白い小さな動物が楽しそうに遊んでいる絵だが、空が暗い。その上何処かに違和感を覚える。その謎は次の絵で察しがついてしまい、俺は青ざめた。ずっとずっと恐れていたあの方の笑顔と共に、楽しそうなこゆきとブランが描かれていたのだから。絵の中にはレモン色の三日月が浮かんでいて、深緑色の地面の上で三人仲良く楽しそうに遊んでいる。俺が知っているあの方は、そんな顔を部下達(俺ら)に見せたことは一度もなかったのに。何故こんなに楽しそうなんだ。あの小さな少女には、彼が優しい兄にでも見えていたとでもいうのだろうか。その次のページには、ヒトの顔に大きな異形の躰をした怪物の絵がある。下の方とはいえ、その上にはブランとこゆきが確かにいて、しかも二人は仲良くドーナツを食べている。どうしてそんなに優しそうな顔をするんだ。その姿を嫌っている筈なのに、何故楽しそうなんだ。怯えながら次のページをめくると、そこに描かれていたのは。忘れもしない、今はもういない恋人(ポリーナ)と、俺、こゆきとブランの姿だった。 「こんなこともあったっけな……」 四人とも楽しそうな笑みを浮かべながら、まるで写真撮影でもするかのように並んでいるところがシュールではあったが。それでも、拙い手つきとはいえあの少女が思い出を描いてくれたのは嬉しいことだった。 その後もページをめくっていったが、どうも兄とブランとこゆきが一緒にいて、楽しそうにしている絵が多い。一、二枚は普通の、それこそ昔城にあったステンドグラスの絵や、ホールにあった飾り時計の絵といったものだが。何故ただの色ガラスの組み合わせが気に入ったのかはわからない。 その時、不意にガチャリと扉が開き、 「ユゥリ、何をしている……?」 「何してるでーすか?」 部屋の主である年頃の少女と、白い妖精が入ってきた。やけに落ち着きのある低い声。別にそれだけなら良かったのだが、この口調は聞き覚えがある。恐る恐る振り返ってみると、目の前には白いブラウスに黒い膝丈のコルセットスカートを穿いた小さな少女が確かにいた。胸には白い妖精がぬいぐるみのように抱かれている。しかし、銀髪の少女の前髪から覗く眼の色は、どことなく冷たい海かサファイアを思わせる。まるで、彼女の兄のような。 「こゆき……?その眼、どうしたんだ?」 「クリュ……」 「ブラン、何か知ってるのか⁈」 「知ってるも何も、彼女は私がどうなったのかを妹と共に見届けたのだからな」 「………」 ブランは悲しそうな顔をしている。 「おい、どういうことだ!こゆき!」 俺は思わず彼女の胸ぐらを掴んで問い詰めるが、彼女から返ってきた言葉は、 「どうしたもこうしたもない。私はこれでも相当不自由してるんだ。自由になるのは右眼だけ。妹(こゆき)が余計なことをしてくれたせいで、出ることも叶わん」 もう彼女は以前のこゆきではなくなっていた。あれ程慕っていた兄が死んだからだろう。だが、俺が憎んでやまない彼は、この小さな少女の躰の中にいるのだ。蘇ったなら今すぐにでも殺してやりたかった。 「卑怯だぜ、アンタ!こんな小さい子を苦しめて!」 「……ユゥリ、お前一つ勘違いしてるな?これは彼女が望んだことだ。私とて、そのまま逝けたらどんなに良かったことか」 「……アンタは地獄行きだ。天国になんか行けると思わない方がいい」 彼女はにっこりと笑って、 「そのつもりさ。こゆきもその時は道連れだ」 余裕を崩さずにそう答えた。彼女の心を覗き見ることは出来ないが、この小さな少女は死後も血の繋がりなどない兄を慕っている。俺は拳を握りしめ、彼女の部屋を出た。 「どうしたんだよ、こゆき……」 俺の嘆きは誰にも届かない。ただ隙間風だけが耳を撫でていった。 #bloody_camellia
bloody_camellia  15  
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縁田華
2023年5月27日
In デジモン創作サロン
前の話→https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/mu-jian-4-chang-kimeng-noguo-tei 次の話 https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/bloody-camellia-15-just-one-night 囁くように小さな、若い男の声は不気味な言葉を紡いでいく。一見暴力的なようでいて、その実は愛を孕んだ甘ったるい言葉だ。痛みを我々に齎す彼岸花(リコリス)の毒にも似たようなソレに、正の意味が含まれているとは言い難い。彼はベッドに座り、少女の小さな背を摩る。腕に抱いていた闇色の、西洋人形か貴族の女が着るような華やかなドレスを傍に置いた。彼女の躰を片手で持ち上げるも、小さなその身が目覚めるにはもう少しだけ時間が必要な筈だ。まだそなたのことを拒んでいるのに。容赦というものがないのか、小さな唇に接吻を贈る。少女の名を呼び、まるでぬいぐるみか磁器人形(ビスクドール)のように膝へ乗せた後、彼は大きく無骨な掌で頭を撫でた。横から覗いて見ると、普段の彼からは考えられない程穏やかな笑みを浮かべている。真紅のスピネルの瞳が不気味な程優しいのだ。殆ど表情を動かすことのない死神が小さな少女に見せつける笑みは、とても残酷なものだった。 少女の眼がゆっくりと開かれ、もう一つの紅い眼と目が合うなり、 「……どうして、あなたがここに?」 涙混じりの声で呟いた。彼は何も答えようとはしない。ただ、穏やかな笑みを崩さずに彼女の髪を撫で続けているだけだ。灯りも点けずに、静寂が支配する暗闇の中で。彼女は怖いのだろう、寄りかかったまま動こうとはしない。まるで糸が切れた人形のように、両手をぶらんと力無く下げたまま、賢者の胸に顔を沈めている。 「あなたが悪いのよ……」 「何故だ?」 「……とても痛かった!怖かった!どうしてあんなことしたの⁉︎」 「……そうか、すまない。俺は…………」 彼は珍しくしょんぼりしている。声の調子こそ優しいままだが、心なしか前髪で隠れていない方の眼は今にも泣きそうな顔をしている。言い淀んでいるものの、恐らくその後の言葉は僅かに予想がついてしまう。きっと、彼のことだから、はにかみながらも『お前が好きなだけなんだ』と耳元で囁くのだろう。余りにも無口で、ほぼ全ての感情を我の前では滅多に出さない割に、人形のように愛して止まない少女に対しては、氷のように冷たい眼差しが引っ込んでしまう。何故、アマリリスを愛しているのかは分からない。ただ一つ分かるのは、ありのままの彼女を求めている、ということだけだった。 目の前の彼女にとっての生とは、痛みを伴う残酷なものだった。暗闇の中で独り痛みに耐えていた方が良かった、とは言うものの、ソレが最良の選択だとは思えない。それに、お前が独りになったままだと、いずれ身も心も壊れてしまうだろう?冷たい暗闇の中に沈んだら、確かに心地良いのかもしれない。だが、そんなことをしてもお前の痛みは消せないのだ。血を流し、痛みに泣き叫び続けるよりは、俺がいた方がずっと良いだろうに。何故拒もうとするんだ。お前を得体の知れない闇の中でも捕まえられるよう、黒いドレスを用意したのに。捕らえられたお前は俺に抱かれるだけ。目が見えないという事実はお前をほんの少しだけ心強くするだろう。ある意味、何も怖くはないのだろうから。藻掻くことさえ出来ずに壊れてしまったお前を誰が掬いあげるんだ。俺がお前に首輪を与えたのは、可愛いお人形(おまえ)を生かす以外に、お前と俺達を繋ぎ止める為でもある。お前の紅い眼は魔性の美しさがあるし、薄水色の長い髪も清らかで可愛らしい。自分自身が無理をしようとする辺り、本来はとても優しい子だったのだろう。俺とは違う、限りのある絆を大事にしようとする、心の綺麗な子。小さな掌さえ今はもう愛おしいと感じる。この愛が狂気を孕んだとしても、俺はお前を必ず見つけ、その涙を舐めとってやる。あの燈台にある沢山の壊れた人形がお前そのものだったなら、その中から独りで泣いているお前だけをこの白で包み込んでやろうか。 マトモな服を着てはいるが、物足りない。似合ってはいるが、華やかさには欠ける。淑やかではあるが、愛らしさには欠ける。普通の、ありふれた服が似合う筈はないのに。 「お人形(ドール)?お前に似合いそうなモノを持ってきたのだが?」 「………ソレは、何?」 アマリリスは目の前にある黒いドレスが気になり始めたようだ。別にお前の為に作った訳じゃない。気づいたら目の前に現れたのだ。コレがお前の願いなのか?それとも、俺の望みだろうか? 「さあ、良い子だから起きてくれ」 「………ん」 俺の手を借りながら、彼女は小さな躰を起こし、ドレスの襟を掴んだ。暗闇の中だから分かりづらいが、いつも以上に可愛らしいドレスを持ってきたつもりだ。細いリボンが胸元につき、パフスリーブの長い袖は先の方がふわりと広がっている。黒く艶のあるフリルは袖だけではなく、足首の辺りまでスカートを彩り、まるで彼女を黒百合のように妖しく輝かせてくれる。スパンコールも何もついてはいないが、スカートの腰の辺りにはギャザーが寄り、背中は少し開いていて、まるでコルセットのような編み上げになっている。今は解けているが、俺が何とかして細い腰紐を結んでやれば、彼女は前も後ろも美しくなれる筈だ。傷ついたお前を癒すことは叶わずとも、俺がいる限りお前はずっと美しいまま。可愛いお人形のままだ。 少女の服を優しく脱がせてやると、中から白い包帯で包まれた肌が見えてきた。血が滲んでいる箇所もあるにはあるが、そこまででもないようだ。相変わらずアマリリスは怯えたまま。俺の隣にいるクロは困ったような顔をしている。長い髪を撫でつつ、彼女の躰につるりとした黒いドレスを着せてやると、彼女はすぐさま長い袖で包帯を隠した。どうだ?フリルで縁取られた、ゆったりとした袖は。俺に抱きつくとき、その袖から覗く白い手に触れて貰いたいんだ。その時はひとつ、小さなキスを贈ってやろう。 彼女に黒いドレスを着せ、姿見の前に立たせると、ぼんやりとしてはいるものの、困ったような顔が見える。別にコレは礼装でもなければ死装束でもない。ただ、彼女を本来在るべき姿にしただけだ。俺はじっとベッドの上に座っていて、暗闇の中、アマリリスの艶姿を見つめている。 「………どうして、私に?こんなの、似合わないのに」 「お前だから着せる価値があった」 幼い声は啜り泣いている。全て、理解出来てはいないのだろう。何故俺がお前を無理に襲って穢したのか。何故黒いドレスを着せて悦に浸れるのか。何故ずっとお前の傍にいられるのか。全て『愛しているから』という理由だった。それでもアマリリス、お前は、 「何一つ見えてはいないのか?」 小さな問いは闇の中。結局、俺達はひとりになることが出来ないのだ。欲したからには末期(まつご)まで。今は覗いているだけの、地の闇黒に堕ちるというのなら。絆というのはそういうものだ。今は俺だけじゃない、クロもいる。だから、どうか、どうか。 「アマリリス、俺を、求めてくれ。泣きながらでもいい、俺の名前を呼んでくれ。今は、今だけは。悪い子になって欲しい……」 「良いの…………?」 「お前だけだ。俺がここまで愛せるのはお前しかいないんだ」 少女はぴょん、と小さな足でベッドに飛び込んだ。そのまま護符まみれの、薄汚れた白いマントを小さな手でぎゅっと掴むと、俺の腰に抱きついた。ソレを見た俺は優しく抱きしめ返す。小さな唇にキスを落としてやり、頭を撫でた。一見いやらしいその光景を知っているのは、傍に転がっている、可愛らしいトリケラトプスのぬいぐるみだけだろう。今、この時間を形容するならば、幸せな時間。例えたったの数分だとしても。俺はお前にこうして触れていたい。それがただ一つの願いなのだから。可愛いお人形に縋り付いて何が悪いというのだ。 喪うのが怖い。たったひとつの不安に集約された切なる思いは、彼女の身を傷つける刃にさえなってしまった。お前だって本来ならそうだったんだろう?ソレが偽りの想い(モノ)だとしてもお前はきっと気づけない。見えない分、自分に嘘を吐いても真実であると受け入れてしまっただろうから。大事にしていた存在(モノ)さえ、零れ落ちたことに気づくのは、最期の音を聞いてからなのだとしたら。そうしてお前は壊れそうになっている。今度は自分なのだ、と怯えながら繭の中で待っている。飢えも渇きも抱えつつ、それでいてお前が事切れることはない。自我を引きちぎり、壊れることさえ出来ない。この臆病者め。 一度壊れてしまえば、痛みという軛から脱することは出来るだろう。だが、お前はただの人形になる。その身には温もりしか感じられなくなるのだ。楽にはなれる。その代償はお前にとってはあまりにも重過ぎるから。途切れ途切れの掠れた声も、その虚な眼差しも全て拾い上げてお前を生かしてやる。その黒いドレスはお前を生まれ変わらせる為のモノだというのに。怖くはない筈だが、少女は相変わらず怯えている。俺の身体に抱きついたまま震え続けているという、奇妙な光景が今ここにある。やはり、 「変わらないのか、お前は」 それでも愛しい彼女の涙を拭ってやると、彼女は少しだけ口元を緩めた。 「……ルナ?」 「ふふ……、アマリリス……」  アマリリスは俺に抱えられて居間に戻ってきた。彼女を人形のようにソファに座らせた後、水が注がれたグラスを渡してやる。ソイツに取手などという優しいモノはついていないが、少しだけところどころくぼみがある。良くも悪くも手に馴染むデザインのようだった。無色透明なソレの中に尖った氷も、氷ブロックも入ってはいない。汲んできたばかりの水道水だけが入っていた。 「ん………」 「美味いか?」 彼女は少しだが、こくんと頷く。ほんの数口だけ口を付けただけのグラスを白木のテーブルに戻し、あれ程怖がっていた俺に寄りかかった。小さな手で俺の大きな手を握り、 「もう、大丈夫だから……」 「……そうか、無理はするなよ?」 「……ありがとう」 消えかかっている眼の中の光がそう言った、気がした。 思った通り、彼女は俺から逃げることが出来ない。俺に縋り続けるしかない盲目の少女は、この後あの病室に連れ戻す。本来なら、狭いベッドの上で大きなぬいぐるみを抱きしめながら怯えるだけだっただろう。だが、クロと一緒に連れ戻せれば、おそらくは。ほんの少しだけでも、彼女の笑顔が見たい。ソレが俺に向けられていないのだとしても。 アマリリスは嫌われてはいけない少女(ひと)だと俺は思う。少なくともここにいる二人は好いている。なのに、彼女は俺からの愛を拒む。それどころか、『理想の自分』を愛して欲しいと泣き出すことさえある。理解が及ばない。美しいと思った者を愛して何がいけないんだ。「アマリリス……」「?」少女はきょとんとした顔で俺を見つめている。無邪気で愛らしいその眼だ。俺はその眼と共にいつまでも在れることを願っている。「怖くないからな。此処にお前を嫌う者は一人もいないんだ。だからお前は安心して眠るといい」 #bloody_camellia #チョコモン #バアルモン
bloody_camellia  幕間5  長き夢の果てⅡ content media
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縁田華
2023年5月20日
In デジモン創作サロン
https://m.youtube.com/watch?v=OG6u8CDvpI4 ↑ タイトルのイメージ 彼女はドレスの上からエプロンを着けると、すぐ作業に取り掛かる。ただの土塊が燃え盛る焔の中に優しく投げ込まれていった。時計は深夜の十二時を差しているが、部屋の中は黄昏時のような温かな光で満ちている。作業台らしき机の上には、人形のドレスや下着、靴、髪などが置かれていた。 「もう少しで出来上がりそうね、良かった」 女は安堵の笑みをこちらに向けた後、また人形作りに戻る。その様子を僕は夜が更けるまで見守り続けていた。 目が覚めた時、城の中には誰もいなかった。眠い目を擦りながら布団から出ると、窓の向こうは白い光で満ちていた。小鳥の囀りが嫌でも耳に入ってくる。いつもならメイドのエミーリアが、 「おはようございます」と言って入ってくる筈だが、今日は姿さえ見せない。たまにはこんなこともあるか、と思い、もう一度布団に入ろうとした時、私はあることに気づいた。部屋の壁にかけられている鏡から光が溢れていたのだ。かつて見たどんな光よりも眩く、美しく感じられるソレは、私が近づくにつれてより一層大きくなっていく。余りの眩さに思わず目を瞑った次の瞬間、両手に何かが乗るような感触がした。目を開けると、私の両手には鶏の卵よりも大きな卵が乗っていた。見たこともない模様のソレは、触れると生暖かく、時折揺れ動いていた。まるで震えているかのように。 ほんの少しだけ思い出したことがある。もう巣立ってしまったあの子が産まれた日のこと。私の胎から産まれ落ちた双子の男の子。片方は産まれることなく天へと還ってしまったけれど、その少し後に出てきた男の子は元気な産声をあげていた。夫も召使い達も口々に、 「おめでとうございます」「やった、跡継ぎが産まれたぞ!」 と言うが、私からしてみれば二人一緒に産んであげられなかったことへの後悔の方が優っていた。皆に祝いの言葉をかけられる中、私はただ一人、 「産んであげられなくて、ごめんね……」 涙交じりに呟いた。そのあとも、私の胎からは一人、またひとりと産み落とされていく。最後の子は生まれてくることなく、天へ旅立ってしまった。その時どんなに苦しかったか。夫は余りにも無理解過ぎたのだ。私が妻としての役割を果たしてくれれば、それで良かったのだろう。 黄色い帯模様の卵を撫でると、すぐに罅が入った。少しずつ時間をかけて殻が割れていき、中から透明な生き物が現れた。どんな動物よりも単純な姿に、つるりとした躰。海月でもこんなのはきっといないのではないだろうか。彼は、少年のような甲高い声で、 「僕はポヨモン、君は?」 「ポヨモン?ソレが貴方の名前なの?でも、変ね……。そんな名前の動物知らないわ。そうだ、名前がないなら付けてあげる」 彼は首を傾げる。そんな彼をよそに私は、 「貴方の名前はソエルよ!初めまして、ソエル。私はジギタリス!よろしくね」 目の前の動物に新しい名と、私の名を告げた。一瞬きょとんとした顔を見せた後、 「うん!」 ソエルと名づけられたその生き物は、笑顔で返事をした。 その日から僕はソエルと呼ばれるようになった。ジギタリスは外に出る準備をする為に着替えを始めている。なんでも、近所の人に僕のことを報告したいらしい。『新しい家族が出来た』と。彼女はタンスの中からフリルの着いた下着や、黒いストッキングを引っ張り出し、クローゼットの中から黒いパンプスと綿の白いブラウス、紺色のスカートを出し、ベッドの上に放り投げた。ベッドには支柱と屋根が付いていて、四方を包み込むようにしてカーテンが垂れ下がっている。カーテンは最大限に開かれ、嫌でも何が置かれているのかが分かってしまった。女はそれまで着ていた、ゆったりとした白い服を脱ぎ、一旦裸になった。白く波打った美しい髪は胸の辺りまで伸び、ソレが陽光でキラキラと輝いている。肌は白く、眼は薔薇色をしていたが、奥底には黒く蠢く何かを秘めていた。豊満な肉体は、少女のようなあどけなさを残しながらも、その実、宗教画に出てくるような聖母のような美しさだ。その姿に見惚れていると、段々ベッドの上の衣類が無くなっていることに気づいた。そして、女がストッキングとパンプスを履き終えた頃のこと。 「お待たせ、ソエル」 スカートの中からチラリと見える、ペチコートのフリルをひらひらと揺らしながら、彼女はベッドの上で待っていた僕を抱き上げた。 つばの広い帽子を被り、財布が入った小さな革の鞄を手に、彼女は部屋の外へ出た。勿論、僕も一緒だ。広い城の中はがらんどうで、蜘蛛の巣があったり、朽ちたブランコや風化した石像、水を出さない噴水のある庭には沢山の雑草が生えていたり、と荒れ放題だった。彼女はそんな光景に目もくれず、小さな森を進んでいく。小さな動物達の鳴き声や、鳥達の囀りが耳に入り、天から降り注ぐ白い光が僕の目に入る。全てが全て、初めて目にするものばかりだった。美味しそうに見える、朽ちた大樹に生えた茶色いきのこ、踏んでしまいそうなくらい小さくて可愛らしい白い花は、思わず話しかけてしまいそうになった。やがて森を抜けると、明るく開けた場所に出た。 そこには、大きな斑模様を持ち、一対の角が生えた大きな動物が柵に囲われながら暮らしていた。二頭、三頭、小さいのを合わせるともっといるだろうか。彼らは草をのんびりと食んでいる。小さいのは、肌色とも桃色ともつかぬ色の、大きな動物の下から生えている突起を吸っていた。その向こうには、藍色のズボンを穿いた恰幅のいい中年の男が見える。彼はジギタリスに手を振りながら、 「おうい、領主様‼︎」 「あら、マイヤーさん‼︎」 「知り合いなの?」 僕が尋ねると、女は、 「ふふふ」と笑いかけた。 おじさんは、 「領主様、その妙ちきりんな生き物は何ですだ?」 「新しい家族よ。この子はウチで飼うことにしたの。ね、ソエル?」 「初めまして!マイヤーさん、僕、ソエル!」 「ソエルちゃんだべか、ちょっと待ってな……」 そう言うと、おじさんはどこかへ行ってしまった。入れ替わりに小さな二人の子供が、然程大きくない家の中から出てきた。二人とも目を輝かせながら僕を見ている。一人は男の子で、もう一人は女の子。男の子は継ぎ接ぎだらけのシャツに薄汚れた茶色いズボンを穿いていて、髪は短い。女の子はレモン色のエプロンドレスを着ていて、男の子より少し髪が長い。彼女は両サイドを橙色のリボンで留めていて、活発そうな印象を受ける。二人とも亜麻色の髪に、水の底を思わせるような青い目をしていた。 「キミだれー?」 「だれー?」 「僕はソエルだよ」 二人はきょとんとした顔をしている。人間の言葉を話す動物が余程珍しいのだろうか。と、そこにさっきのおじさんが幾つかの小さな瓶と、クリーム色の丸いものを一つ持ってやってきた。 「これを持って行ってくだせえ。ソエルちゃんはまだ小せえですから、栄養のあるものを食べさせてやって欲しいんです。しかし、ウチには今あまりそうしたものが無くて……。これでどうか……」 「ありがとう、そんなに頭を下げなくてもいいのよ。お顔を上げて?」 おじさんは頭を下げたまま、 「ありがとうごぜえます!ありがとうごぜえます!」 と感謝の言葉を口にした。  去り際、小さな二人の兄弟が手を振って見送ってくれた。 「ソエルちゃーん、今度来たら一緒に遊ぼうね!」 「遊ぼうね!」 二人の大きな声が空高くこだました。 女はチーズと、牛乳が入った瓶を重そうに抱えながら歩いていた。 「手伝おうか?」 と、無理を承知で僕が言っても聞き入れない。それどころか、 「大丈夫よ」 と笑顔を作り、平気なフリをしている。そのまま暫く歩いていくと、自転車を押して歩いている若い女を見つけた。後ろには大きな台車のようなものを取り付けていて、その中には大きな木箱が二つ三つと、カラフルで小さな缶が十数個入っている。彼女は、僕達を見るなりこちらを向いて、 「ジギタリス様!」 と大きな声で女の名を呼んだ。 「あら、エミーリア!どうしたの?」 「買い出しから今戻ってきたんです。宜しければ、その牛乳とチーズ、後ろのリヤカーに載せましょうか?」 「良いの?重くなるわよ?」 ジギタリスは、エミーリアに抱えていた全てのものを、鞄と僕を除いて渡し、再び僕を抱きかかえた。やはり、彼女の手は温かくて白くて美しい。何より心地良い。そんな優しい掌に僕は包み込まれ、気づいたら眠ってしまっていた。 目が覚めると、いつの間にか周りには美味しそうな匂いが漂っていた。僕の目の前にはベージュのスープカップと、丸くて茶色いパンが一つだけ入った白い皿がある。スープカップからは柔らかで優しく、まろやかな香りがする。その横には、水が半分くらいまで入ったグラスが見える。カップを覗くと、肌色ともベージュともつかない塊や、朱色の塊、黄色い塊がぷかぷかと浮いた白く熱い液体が入っている。 「ソエルちゃん、食べたいの?ちょっと待っててね」 若い女の声が聞こえた。ふと見上げると、黒いワンピースに白いフリルのエプロンを着けた女がこちらを見ている。ジギタリスと違い、声は明るく、肌の色が僅かに濃い。焦茶色の髪に浅葱色の目をした彼女は、スプーンをカップの中に入れて浅いところを掬った。その上には黄色と朱色の塊が乗り、底には白くとろりとした液体があり、ほんの僅かだがカップの中に滴り落ちた。彼女が僕の口の中に優しくスプーンを入れると、口の中には柔らかで優しい味が広がった。 「おいしいね!」 「そう、良かった‼︎」 エミーリアはとても嬉しそうな顔をしている。隣に座っているジギタリスも穏やかな笑みを見せた。舌はもっと心地良いと感じている。僕は、 「もっと、もっと」 と彼女にせがんだ。そうしたことを繰り返すうちに、いつの間にか皿もカップも空になっていた。 「まあまあだったわね、中の上くらいかしら」 ジギタリスが高慢な口調でそう告げた。 私とソエルは食事を終えると、彼を抱き上げて地下室へと向かった。石造りの螺旋階段を下り切ると、錆びついた鉄の扉に差し掛かった。軋むそれを開き、明かりを点けると、入り口では少女の人形が私達を出迎えてくれた。どれも私が丹精込めて作り上げたもので、いつ見ても美しい。本物の人形のようにリアルな彼女達には一人ひとり名前が付いているし、それぞれが違うドレスを着ている。中には何も着ていない子もいた。 「君は、寒くないの?」 「ソエル、その子は喋らないのよ」 彼は不思議そうな顔をしている。 「どうして?ジギタリスはちゃんとお喋りするのに」 「その子と私達は違うのよ」 ソエルは、私から人形達の名前を訊くや否や、順番に話しかけていった。時には無邪気な笑みを見せながら。小さな手をぱくりと食べようとしたり、スカートの中に潜り込んだり。見えるもの全てが新鮮に映るからだろうか。それを見ていた私は、まだ城に小さな息子達がいた時のことを思い出していた。乳母はやんちゃな息子に手を焼いていて、娘達は逆に大人しかったこと。特に長男は勉強嫌いで、木登りばかりしていたし、三女は人形遊びよりも本を読むのが好きだったこと。他の五人は歳を重ねるにつれて、結婚なども考えられるようになったが、三女だけは本が好きで夢見がちなままだった。彼女も、結局は家を出ることになるのだが。かつて愛した者達が次々と離れていくのは耐えられないことだった。だから、私は人形作りに精を出すようになったのだ。 数日経ってから、僕は一回り大きくなった。手足も生えたし、口の中には牙がびっしり生えている。エミーリアに噛みつこうとした時は、ジギタリスに止められたこともある。彼女の手は、こちらが心配になるくらい白かったけど、変わらず優しい手をしていた。また二、三日経つと、僕は大きくなった。丸っこかった身体はオレンジ色になり、耳は翼のようになっている。鏡で見ると、目の色は露草色であることが分かるし、前足は何かを掴めるくらいには複雑になっていた。もう、今は空を飛ぶことも出来る。遅いし、そこまでではないけれど。あれほど手に取りたかった白い花もきのこも、今はもう簡単に手に入れてしまえるのだ。僕にとってこれ程嬉しいことはなかった。ジギタリスに隠れて蔦が絡まるブランコに座ったこともある。エミーリアにすぐ連れ戻されたとはいえ、ブランコにいる時間は落ち着いていられた。あの人形達は人間とは違って喋らないし、何より外で蝶々や小鳥達と戯れていた方が楽しいのだ。埃っぽい図書室にある本は読めなかったし、城の中は広いだけでつまらないのだ。たまに、使われていない子ども部屋に行くこともあるが、埃っぽいベッドと木馬、薇を巻くと喋る人形や、大きな熊のぬいぐるみに、虫が食って読めなくなった絵本があるだけだった。試しに一度、女の子の人形の背中にある螺子を巻いたけれど、 「ママ、ママ」と言うだけで、それ以上は何も言わない。寝かせれば目を閉じはするけれど。こんなのが小さい女の子のお友達だったのだろうかと思うと、なんだか寂しくも虚しくもあった。けれど、彼女の声は友達がいない僕を優しく満たしてくれたから。そのうち、子ども部屋に行くのが面倒くさくなって、僕は人形を持って行くようになった。それを見たジギタリスは、 「あら、懐かしいモノを持ってきたわね」 と、にこやかに話しかけてきた。 「なつか、しい……?」 「そう、ちょっとだけ前に、目が見えないあの子の為に買ったのだけど……。もう、この城にあの子はいないから……」 「あの子って、誰?」 「アマリリス。この城に昔、いたのよ。まだたったの六歳だった……」 「その子は、どうなったの?」 「多分、死んでしまったんだと思う……。この城では、4年前に城主も、その家族も含めて皆殺しにされる事件があったから……。アマリリスだけ、今も行方知れずなの。遺体も見つからなかったって……」 ジギタリスは珍しく悲しそうに俯いている。僕は明るい彼女しか知らなかったから、却ってソレが新鮮だった。けれど、悲しそうなジギタリスは見たくない。にっこり笑っている彼女が見たい。 僕がいつも一緒に遊んでいる人形の名前が「クララ」だということを知ったのは、ソイツを子ども部屋から見つけ出してから丁度一週間後のことだった。クララは亜麻色の髪をしていて、青が灰色か分からないような曖昧な色の眼を持っていた。胸にかかるくらいの髪を、くるくると巻いていて、深緑色の、白いフリルや黒いリボンで彩られた可愛らしいドレスを着ていて、白いタイツに黒い靴を履いたおしゃれさん。背は小さくて、僕が手を繋いで歩けそうなくらいの大きさだ。あの日以来、ジギタリスも彼女用の服を作るようになった。 「今日は何着る?クララ」 クララは何も答えない。背中の螺子をまた巻いてみても、だ。けれど、彼女は桜色のドレスを着たがっているように見えたので、僕は桜色のドレスを着せた。 「似合ってるよ」 僕はブラシで彼女の髪を梳かしながら、鏡越しににっこり笑ってみせた。それを見たエミーリアも、ジギタリスもにこやかに僕を見つめていた。 平和な日々は続かないものだと、長い時間生きているのにも関わらず、私は忘れていたようだった。今朝届いた新聞によると、家畜や農作物に対する被害が相次いでいる、とのことだった。見なかったことには出来ない、というのも、モノクロの写真が写していたのは、 「こ、コレ……!ウチの近くじゃない⁈」 見知った牧場や畑も含まれていたのだ。今の私にはどうすることも出来ない。『領主様』と呼ばれてはいるが、実態はメイドを一人しか雇えない、ただの没落貴族だから。民の為に何をすれば良いのか分からず、私は寝間着のままベッドの上で泣き崩れた。外は青空だというのに、私は引き篭もることしか出来ないのだ。悔しくて遣る瀬無くて、枯れた筈の涙がもう一度出てきた。 「ジギタリス様」 その時、後ろから声が聞こえてきた。若い男の、けれど、低い声が。この城に若い男など一人もいない、筈なのに。振り返ってみると、目の前にはまるで宗教画の天使、或いは水鳥のような羽根を背中に生やし、兜を被ったオレンジ色に近い色をした長髪の青年がいた。手には杖とも棍ともつかない、黄金色の棒を持っている。 「何故、私の名前を呼ぶの?あなたは……?ソエルは何処?」 「私(ソエル)なら目の前にいますよ。何かあった時は、命に代えてもあなた様をお守りします」 彼は私に跪く。 「行かないで、ソエル!私に、これ以上何を失えって言うの⁈」 「……ジギタリス様、私は必ずあなた様の許に還ります。これだけは約束させてください」 私は、窓から飛び去っていくソエルを見送るしかなかった。まるで幼子のように泣きじゃくる私の姿を、彼は見ていない。 森を出て数十分後、僕は最初にチーズを貰った酪農家の家に降り立った。まだ手足も何もなかった頃、人形達のことさえ知らなかったあの頃。とても美味しいチーズだったことを思い出す。牛達が沢山いて、賑やかだった筈の牧場は、不気味な程に静まり返っていたのだ。本来なら生きている筈の牛達は皆、息絶えていて、中には骨だけのものもいた。空を見ると、灰色の雲が重なり、雨雲になりつつあった。僕は雨宿りも兼ねて入ろうと思ったので、ノックをしつつ、 「……ごめんください」 ドアを開けると、窶れた坊主頭の中年男性と、小さな子どもが二人。二人とも、何かに怯えているようで、木の床には大事にしているであろう人形が落ちている。 「……マイヤーさん、お久しぶりです」 「……お前さんは、誰だ?」 「ソエルです。あの時、チーズを頂いた」 「ソエルちゃんか!こんなに大きくなって、立派なモンだべ。この前牛達が誰かに殺されてからは、二人とも怖がっちまってな……。オラも……。アレは龍の仕業だべ。昔から、この地方には龍がいて、たまに眠りから覚めては人や家畜を襲っていくんだべ」 「龍、ですか……。なるほど、それなら私に任せてください」 しかし、この家族は口を揃えて、 「やめてよ!」 「ソエルちゃんと遊べなくなるのは嫌!」 「考え直してくんろ、ソエルちゃん!龍退治は危険でさあ!今まで何人もの男が龍に襲われたんだべ」 と宣うのだ。だが、龍退治が出来るのは僕一人しかいない。 「いいえ、私は行きます。必ず帰ってきますから」 泣きじゃくる二人の子どもをよそに、僕は出されたミルクにさえ手をつけることなく、ドアを閉めて出て行った。外は昼だというのに、雷が鳴り、雨が降りつつあった。 龍の巣は岩山の麓の洞穴にあるようだった。大きな、それこそ追い剥ぎか盗賊の一人か二人は住んでいそうな場所だが、そんな気配は一切ないし、生活感もない。ただ、一匹の大きな紅い龍がまるで子猫のように身体を丸めて眠っているだけだった。いや、よく見ると龍の傍には一人の幼い少女がいる。短めの、焦茶色の髪をした、この辺一帯に住んでいてもおかしくはないような、有り体に言ってしまえば、村娘に相応しい格好をしているのだ。編み上げのジャンパースカートに白いブラウスという組み合わせだが、飾り気はない。やはり、フリルというのは金持ちだけの特権なのだろうか。履いている茶色の靴には穴が開きかけている。もしかしたら、この龍は貧しい家の彼女の数少ない友達なのかもしれない。 僕には見覚えがない筈なのに、この龍の名前が何なのか、自然と分かってしまうようだった。 「グラウモン」 「……んあー?」 「お前が村の作物や家畜を荒らしているのは知っている!私はお前を討ちに来た‼︎」 「ぼく、おなか空いてただけなのに〜」 「『だけ』で済むか‼︎お前のせいで村のみんなが迷惑してるんだ!村の人だけじゃない、この国のみんなが、だ!死んで償え‼︎」 紅い龍は、僕に向かって口から炎を吐き出した。僕は、直線的な火炎を飛びながら避ける。何度も何度も彼は炎をぶつけて来ようとするが、手にしているロッドを盾にして、その都度防ぐ。炎が効かないと分かると、今度は大きな爪を振り下ろし、こちらへ向かってくる。今のところ、防戦一方で勝機が見えない。ロッドも、龍の強い力で遂に折れてしまった。もう、僕は死ぬのか。雨の中、誰にも看取られることなく。倒れ伏す僕の躰を喰らおうとする龍は、なんの躊躇いもないようだった。最後に、ジギタリスにもう一度だけ会いたかった。それだけを呟いて、目を瞑ろうとすると、小さな子ども達の声が聞こえてくる。 「ソエルちゃん!」 「わたし達は何も出来ないけど、龍退治頑張って!」 「……すまない、二人とも。私の死を、ジギタリス様に伝えておくれ……」 「ソエルちゃん、ソエルちゃん‼︎」 「この龍を倒せるのはソエルちゃんだけなのに!もう、どうすることも出来ないの⁈ねえ!」 そうだ、もう、どうすることも出来ない。そう思った時、僕の躰に光が降り注ぎ……。次の瞬間、僕は『蘇って』いた。正確には違うのだろう。その手に剣を携え、翼の数も増えている。僕は迷うことなく、頸にその刃を振り下ろす。すると、龍は苦しそうな呻き声を上げながら地面に倒れた。その身からは紅い血が流れ出ていて、それに気づいた少女は、龍が消えつつあることにも構わず、泣いてその死を悼んでいた。完全に龍が消えた後、僕は後ろから、 「この、人殺し!」 罵声とともに背中に小さく、尖った石を投げつけられた。 夜になると、既にもう雨は止んでいて、空は黒く澄んでいた。星々が輝く夜空に、ソエルも逝ってしまったのだろうか。もう二度と会えないのだろうか。彼が大好きな人形を撫でながら、私はそんなことを考えていたが、 「ただいま戻りました、ジギタリス様」 後ろから若い男の声がした。振り向くと、そこには、八枚の翼と剣を、返り血で紅く染めた天使の姿があった。 「おかえりなさい、ソエル」 私は涙を流しつつも笑顔で彼を迎え、 「お腹が空いたでしょう?さあ、ご飯にしましょうね。今日はあなたが大好きなトマトのスープよ?エミーリアも待っているわ」 エミーリアが待つ食堂へ案内した。 あれから僕は、元の、鼠のような姿に戻り、変わらずクララと遊んでいる。ジギタリスにことの次第を伝えたら、彼女は優しく、泣きじゃくる僕を抱きしめてくれた。あの時龍を退治したのが間違いだとは思わない。かといって、あの子を傷つけてしまったことの後悔は、消えることがなかった。それ以上に、僕はあの二人が心配だった。きっと、僕も龍と同じで化け物だと思われただろう。涙が溢れて止まらない。 「ねえ、ジギタリス……。僕も、あの龍と同じなのかな……?」 「ソエルとあの龍は違うわ。だって、こんなに可愛い、いい子なんですもの」 ジギタリスはそう言って僕の頭を撫でた。その白い手はいつでも温かくて、僕の心をそっと溶かしてくれる。もう、離れたくない。君を失わないためにも。僕は、彼女の腕をぎゅっと握りしめた。
storia(完全版) content media
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縁田華
2023年5月13日
In デジモン創作サロン
タイトルのイメージhttps://m.youtube.com/watch?v=0yoI-PPPPfE  藍色の心地良い闇の中、橙色とも蜂蜜色ともつかぬ小さな光が点いている。ランプの光に群がる鬱陶しい蟲などおらず、この場には私一人しかいない。机に向かって一枚一枚書類に判子を押したり、サインをしているだけだ。ふと壁にかけられた振り子時計に目を遣ると、時計の針は深夜の二時を指している。私は机に万年筆を置き、小さな溜め息を一つついた。 椅子に凭れかかりながらティーカップの取手に手をかける。口にしたセイロンティーは渋いものではあるが、かといって砂糖やミルクを入れようとは思わない。それでも私にとっては温かいもので、無くてはならないモノの一つだった。  この暗闇が恐ろしいのかというとそんなことはない。窓から覗く月は美しかったし、陽の光を気にして歩く必要もないので宵闇は好きだった。鍵を開けて部屋の外へ出ると、少し冷たい風が身に沁みる。誰かが窓を開けているのだろうか。それとも単に閉め忘れているだけなのか。どちらでも良い、心地良い風を浴びるのは嫌いじゃないから。長い廊下を歩き続けているが、灯りひとつなく淋しい宵闇は私の心をどこまでも癒してくれた。私自身が闇に棲まう者だからというのもあるが、元々、メタデータなどという複雑怪奇な代物がなくとも光と闇は同じような存在だった。それが正か負のどちらかにどれ程傾いているかの違いでしかない。世間では光が持て囃されているようだが、誰が幾度私を光の側に呼び戻そうと、私はこの中に居続けるのだろう。それが、陽の光に疎まれた者達の宿命なのだから。 金色の丸いドアノブを回し、寝室の扉を開けると物哀しいメロディが耳の中に飛び込んできた。聴いたところ楽器ではない優しい音色が聴こえてくる。オルゴールだろうか。 「誰かいるのか……?」 ソファーには一人と一匹の小さな動物がいた。少女は薄紫色のシンプルな寝間着(ネグリジェ)だけを着ている。スリッパは履いておらず、白い足が見えている。長袖とはいえ寒くはないのだろうか。短くも生糸のように輝いているその薄灰色の髪は、まるで仔犬か仔猫のように両サイドが跳ねている。前髪は右眼が隠れる程に長く、左眼はオリーブのような濁った黄緑色をしていた。彼女は私を見るなり、 「兄さま‼︎」 と叫び、私に駆け寄ってきた。手にしていたオルゴールの箱はクルモンがいる方向に投げられ、ソイツはソレを見事に受け止めた。バランスを崩しつつも、程なくして行儀良く座っているのを見るに怪我はしていないのだろう。 「兄さま、兄さま‼︎」 少女は私の腕にしがみつき、猫のように擦り寄ってきた。 「……何度も言うが、私はお前の兄ではない。それに、私は……」 「兄さま、私あなたのことが大好きです‼︎血の繋がりなんてどうでもいい、兄さまが私をここに連れてきてくれたから意味があるんです。大好きだから、一緒に添い寝してください‼︎勿論、ブランも一緒に!」 「ブランも、一緒でクル!」 私は苦笑いをしつつ、 「仕方ないな、ほら……」 電灯のスイッチを切り、二人を広々としたベッドへ連れて行った。普段は柩の中で眠るのだが、今回ばかりは仕方がない。二人ははしゃぎつつベッドにダイブをし、私はその後へ続く。私は布団の中に入り、目が冴えたまま二人のおしゃべりを聞く羽目になってしまったのだった。  少しして、二人とも寝静まった頃、彼女が私の腕を掴んでいることに気づいた。暗がりの中でもよく分かる、細く白い腕。彼女の口元は嬉しそうに緩んでいる。 「こゆき……」 消え入りそうな、闇の中に溶けてしまいそうな小さな声で、彼女の名前を呟いた。 フリルの襟から覗く白い頸に舌を這わせ、牙を立てる。彼女は少しだけ痛がる様子を見せながら尚も眠っていた。 「……ご馳走様」  少女の腕は昔のことを嫌でも思い出させてくれる。生まれて間もない彼女を抱きしめ、小さな指が私の指を掴んだあの時のこと。 「怖くないか……?痛くないか……?」 私の口は今のこゆきに向かって、異国の唄を口遊み出した。口から出たものは私の願いでもある。ソレが叶ってしまえば彼女はそう遠くないうちに私のことを忘れてしまうだろう。だが、それでいい。  今日は彼女の枕元に羊のぬいぐるみがない。ある意味当たり前と言えば当たり前ではあるのだが。彼女はこのぬいぐるみをとても気に入っているようだった。何故だろうか、リボンで閉じられた袋に入ったソレを、彼女は喜んで受け取り、中身を知るなりとても嬉しそうにしていた。無くさないようにとぎゅっと抱きしめ、部屋にいる時はいつも一緒。尤も、このぬいぐるみを与えた理由はとても褒められたものではないのだが。単純な褒美ならばもう少し豪華なものを与えるし、別に一人の少女を喜ばせる為に買った訳ではない。羊という生き物が持つ意味を知らぬ程、こゆきは莫迦ではない。寧ろ、ああいうところに嫌でもいれば自然と意味を知るだろうに。いつでもその気になれば捨てられるのに、彼女はまるで友達のようにソイツを大事にしている。彼女は表向きメイドとして雇われている筈なのに、恨み言は愚か嫌な顔一つしない。即座に離れることも出来るだろうに、彼女は私に着いていく道を選んだ。何故知らないフリをしている?お前の母親を殺したのは私だというのに。何故お前は私の腕を掴む? アイツは、私の部下であるアッシュは莫迦な男だと思った。まだ若い新兵で、娘であるこゆきと同じオリーブ色の眼に、銀色の髪をしている。お調子者で女好きという絵に描いたような下品な男だった。何不自由なく育ち、明るい笑顔を振りまくような齢十九歳の、まだ幼さが抜け切っていないやつだった。私自身、その時は人間に紛れて暮らしていたのだが、どうも人間の世界には割と下品なことが多いらしい。裸の女が描かれた雑誌を、部下から見せられたことが何度もあるし、人間の女を抱いたことも一度や二度ではない。そしてそこから抜け出すことは意外と難しいようだった。だからこそお前が産み落とされたのだろう。望まれぬ忌み子として。他にもそうした子は沢山いたらしいが、母親自身の貧困と差別で、物心つく前に捨てられるケースが殆どだった。まだアメリカ側が敗戦国である日本を支配していた時代のこと。あの世界大戦が終わって五年。夕闇に包まれつつ、赤羽の街は柔らかな光で満たされようとしていた。吊るされた朱色の提灯の群れ、駆け回り、ランドセルを空き地に置き、ゴム毬で遊びまわる半ズボンの幼い少年たち。車道にいる母親は乳母車のなかで泣きじゃくる赤ん坊をあやしている。まだ車は少ないようで、面倒な白線の羅列もない。朱色の空には鴉が鳴いている。駄菓子屋の老婆はにこにこと幼いおかっぱで吊りスカートの少女達からなけなしの金を受け取り、商品の小さな飴を渡していた。別の店では、雑誌らしきものを手に取る中年の男がいる。その店にはブラウン管のテレビがあり、数人の子ども達が群がっていた。映される映像はモノクロでも、小さな目には目新しく映ったのだろう。彼らの目は一様に輝いている。私はその光景に嫌な懐かしさと吐き気を覚え、溝鼠が這い回る路地裏へ足を運んだ。 薄暗い路地裏は騒がしい声も忌々しい光も届かない。だが、如何わしいポスターが軒先に何枚も貼られた店(パブ)が一軒二軒と立ち並び、見るだけでも気まずいそれらを素通りした後に、私は見覚えのある顔を見つけた。しかし、どこか様子がおかしい。何かを抱いているように見えるのだ。そして若い女性がこちらを向いた途端、その正体が理解できてしまった。流れるような黒髪を短く切り、先端を柔らかくカールさせているが、顔には真っ赤な口紅を塗り、派手な色の涼しげなワンピースを着ている。黒いハイヒールを履きながら、その実、細い腕の中には生まれたばかりの赤ん坊が、粗末なおくるみに包まれていた。よく見ると、母親には似ていない。寧ろ、彼(アッシュ)のような銀色の髪が見える。つまり彼女は彼と一夜を共にしたのだ。私も彼女と過ごしたことはあるが、あの新兵の子を身籠るとは。近々結婚する、と言いふらしてはいたが、あの調子だと真に愛しているかは怪しいところがある。 それよりも、私は彼女の首筋の方が気になり始めていた。白い首筋はなぞるだけではいけない。噛み付かなければならないのだ。他に誰もいない今だからこそ、する価値がある。私は女の首筋に牙を立て、そこから流れ出る紅を貪るように味わった。舌先を駆け巡る甘美な味は私の喉を潤していき、その奥に苦々しい毒が潜んでいることを忘れさせてしまう。終わりがあることさえ、気づいていなかった。女は赤ん坊を抱いたまま倒れてしまったのだ。寸でのところで取り上げたので、嬰児は助かったものの、彼女自身は既に事切れていた。もう、ただの骸に用はない。私は泣き始めた赤ん坊を抱いたまま路地裏を後にした。 耳を劈くような泣き声で元気に泣きじゃくる赤ん坊をあやす為に、私は子守唄には程遠い歌を歌った。遠い、遠い昔に妖精の住まう地で謳われたバラッドを。長い長い時を超えて、忘れ去られてしまったその詩に、私は呪いにも近い意味を込めた。私と幼子を引き裂く呪いだ。もう空は藍色の闇で染まろうとしている。私はこの哀れな幼子を、拾って貰えるようにと住宅街の近くにある教会のような建物の裏口に、そっと捨て置いた。静かになったとはいえ、よく見ると小さな手で私の指を握っている。この時に、彼によく似たオリーブ色の目が見えた。懐いているのだろうか、いや懐かれては困るのだが。私が手を離した瞬間、赤ん坊は再び泣いてしまった。その場から離れようとしても未だに泣いている。裏口の扉を勢いよく開けた若いシスターが泣き声に驚き、見つけるまで、煩く泣いていた。 ソレを見届けてから数週間後、あんなに明るくてうるさかったアッシュが死んだという知らせが私の耳に届いた。あの赤ん坊を抱いた女、紗代子が死んだことを知り、後を追うようにして断崖絶壁に身投げをしたらしい。残された遺書にはこう書いてあったという。 『残された俺の子をどうか頼みます、先輩』 そのすぐ後には、滑らかな筆記体の、お世辞にも綺麗とは言えないアルファベットで『アッシュ』と署名があった。 「………最後まで真相を知らぬとは、な。お前は莫迦な奴だったよ、アッシュ」 読み終えたあと、不思議なことに私の胸が少しだけきゅぅっと締め付けられた。たったの数ヶ月過ごしただけの部下だというのに。何故だろう、私の目からはいつの間にか涙が一筋こぼれていた。いつもはこんな風にはならないのに。使い物にならない部下は容赦なく切り捨てていたのに。思い返せば、あの煩わしい明るさが私の中で少しだけ心地よいものになっていたのだろう。いつの間にか私も自然と笑顔になっていた。だが、私が殺めてしまった。 昭和二十五年、八月も中頃のことだった。そして、十四年の月日が経ち……。 #undead_syndrome
undead_syndrome  プロローグ
廃獄のロア content media
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縁田華
2023年5月07日
In デジモン創作サロン
来週、先の話が分かりにくくなるという理由で、undead_syndromeをプロローグのみ公開するッス bloody_camellia本編とは違ってクロスオーバーはないし、謎の数も少ないッス よろしくッス! 追記したッス! 天本恋雪(イメージCV:花澤香菜) bloody_camelliaのメインヒロイン(二人目) (この話が連載することになったらの話ではあるが)今作では、彼女の生い立ちや『兄さま』の正体、ブランとの出会いなどが描かれる ちなみに「こゆき」と読む ブラン(クルモン) こゆきの友達みたいなデジモン 『兄さま』のところにいた時から、二人はずっと一緒 こゆきのことが大好きでいつもくっついている (イメージCVは原作通り) 兄さま(⁇⁇⁇) こゆきとブランを引き取って傍に置いている 物語は主に彼の視点で描かれる (イメージCV:森川智之) アッシュ(イメージCV:斉藤壮馬) こゆきの父親 若くして亡くなった ……兄さまの所為で シスター(イメージCV:能登麻美子) こゆきがいる孤児院「聖カタリナ園」のシスターであり、先生 こゆきのことを気にかけている  玲子(イメージCV:加隈亜衣) こゆきと赤ん坊の頃から一緒の親友にしてルームメイト こゆきが「貰われる」ことになった際には人一倍動揺していた 執事/料理長(マタドゥルモン) 「兄さま」の部下 外の世界では車の運転をしている (イメージCV:堀秀行) ジギタリス(イメージCV:早見沙織) こゆきがやって来る前に「兄さま」のところにいた少女(?) 外見は17歳くらい 薬毒に詳しく、調合も得意 また、人形作りも好き いつもノースリーブのドレスの上から白衣を着ているが、本人曰く「裸みたいなカッコ」らしい ちなみにジギタリスは偽名 実は「兄さま」より年上の400歳 ソエル(パタモン) ジギタリスのパートナーデジモン 彼女が作る人形によく話しかけている 進化するとべったりする時の絵面が一気に危なくなってしまう (イメージCV:大本眞基子) ガタリ(ポロモン) ジギタリスの側にいるデジモンその1 自分の声を気にしてあまり喋らない 喋ったとしても、「ピヨ」という鳴き声だけ 進化すると、自信が出るのかよく喋る (イメージCV:小西克幸) ギィ(ウィザーモン) ジギタリスの側にいるデジモンその2 こゆきのことを気にかけており、彼女を助ける為に錆びついた宝剣(ファルシオンみたいなやつ)を冶金している 持っている杖は何故かケリュケイオンに似ていて、様々な魔法を使うことができる 但し、力は弱く、どちらかというとサポートがメインで、両手で大剣を振るうのがやっと 錬金術や禁呪にも詳しい (イメージCV:石田彰) ユゥリ(マミーモン) 「兄さま」の部下 この話では、まだ恋人(イメージCV:山崎和佳奈)がいた為に、結構楽しい日々を送っていた こゆきのことを意外と心配しているのか、何かと絡んでくる (イメージCV:森川智之) 無事、1から6話までゆっくりだけど連載が決まったッス!よろしくッス #undead_syndrome #bloody_camellia
undead_syndromeキャラ紹介
(プロローグ〜6話まで) content media
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縁田華
2023年5月06日
In デジモン創作サロン
タイトルのイメージ https://m.youtube.com/watch?v=prEQA5BK47g 前の話 https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/14-fly-far-bounce 次の話 https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/bloody-camellia-mu-jian-5-chang-kimeng-noguo-teii 誰の望みか分からぬ悪夢(ゆめ)の中は、まるで箱庭のように閉じていながら、その実何かが毎日のように流れ着いていた。たわいもないガラクタが殆どだったが、今日はその中に一つだけ新品のバターナイフが紛れ込んでいる。今の我では掴むことさえ叶わないが、その刃の輝きは鈍く、刺すことさえ出来ぬ程柔らかだ。汚水と、その他の古い巻き鍵や、錆びた鈴、千切れた紅い石の付いた腕輪と共に岸へと流れ着き、今にも再び暗渠へと沈み込もうとしているソレは、誰かが手に取るのを待っているようだった。 冷たい風さえ吹かず、ただ虚無が広がる巨大な洞の中にぺたぺたぺた、と弱々しい足音がこちらに近づいてくる。我の小さな耳でも聞き取れてしまう程、徐々に大きくなっていくソレは、突然止まってしまった。振り向いてみると、目の前には小さな少女がいる。本来左眼がある筈のところには、真っ白な包帯が巻かれていて、右眼は不気味な程紅い。だが、その不気味さは目に入った瞬間、手に取りたくなる類の妖しさでもある。余程の偏屈者でさえなければ一度は憧れるであろう紅玉(ルビー)の輝き。それも流れ出る血のような生々しさと来た。そんな美しくも沈むような色の眼は一筋の涙をこぼした。 「痛い、痛い……!」 譫言のように、或いは呪詛のように呟いている。黒い襤褸を纏い、その下には包まれた細い脚が見えるが、足の裏は汚れていた。その上、彼女を包む柔らかな白はところどころ破れている。首には鎖のついた首輪がはめられ、まだ比較的新しいソレそのものは細い。後ろ髪は相当長いことが伺い知れるが、正面からはどうなっているのか分からない。少なくとも腰の辺りはゆうに超えている。目の前の少女は我の姿が見えてないのだろうか。そのまま地面にぺたん、と座り込んでしまった。その小さな手は鈍らの短刀を捉えながら。 あのバターナイフが彼女の小さな掌の中に入ったかと思えば、ほんの少し口元が緩み、またも独り言のように、 「よかった……。これで、やっと……」 と小さな唇で呟く。紅い眼は不気味な笑みを浮かべ、我などお構いなしに進んでいく、その筈だった。 「……見えなくても分かるわ。貴女、とても可愛いもの。怖がらないで?『クロ』……」 「……そなたは誰だ?確かに我の名はクロだが」 「……私の名前なんて訊いてどうするの?私、この名前を捨て去りたいのに。もう『私』は『私』で在りたくないの。代わりは幾らでもいる筈なのに、離してはくれない。『私』を愛してくれるひとはもう、この世にはいないのに……」 「己の破滅だとしても、そなたはソレを望むのか。繭を突き破ることなく、此処で果てるつもりか。終わりの終わりを望むのか。もしそうするつもりなら、そなたの名前を訊かせて欲しい。我だけでも憶えておいて損はないだろう」 少女は一瞬だけ考え込む様子を見せ、 「……私は『アリス』。よろしくね」 名乗った彼女は笑顔をこちらに作って見せた。我には少しだが解る。彼女はほぼ確実に嘘をついている。もし、偽りの名を名乗った上で我に懐こうとしたのであれば、ソレは逆効果になるだろう。本来ならば。まあいい、ほんの少しだけそなたの遊びに付き合ってやろう。 岩壁の中の空洞は不思議と明るく、進むべき道が見えないということは全くなかった。元々此処が何だったのかは分からぬが、地面には錆びついた線路が敷かれていて、ソレが何処まで続いているのかは全く見当がつかない。途中、ポスターやら貼り紙が貼ってある古い木枠の掲示板を見つけたが、古い写真や掠れた文字ばかりで我には読むことさえままならない。人間の文字をほぼ知らないというのもあるが。色褪せたモノクロの写真の中にある人間達は、皆、ショーウィンドウの中にある人形にさえ見える。表情というものをまるで感じられない一方で、見てくれだけは煌びやかなのだ。一つとして色味が感じられず、何も分からないモノクロの世界においても、外の世界の貴族の女が着ているようなドレスだけは、変わらず華やかなのだ。貴婦人が着ている絹のドレスには沢山の飾りボタンが付き、裾と、ほんの少しだけめくれた長いスカートの中は、目が痛くなりそうな量のフリルで埋め尽くされている。色付きのフリルで彩られた肩を出しつつ、沢山の宝飾品で飾られた帽子を被った若い女。どうせ模造品(レプリカ)だろうに、と我は冷ややかな目で見ていた。帽子についているのは真珠以外、色が分からないものの、透明で鮮やかな色をしていることは辛うじて解る。幼い少女の、僅かながら見える方の目がほんの少し輝いたかと思うと、程なくしてすぐに沈んでしまった。 岩壁の天井から吊り下げられたランタンと錆びた茶色い線路は、まるで人形の家を思わせる小さな家の前で途切れていた。屋根の色はくすんだ赤紫。平屋建てだが、何処か懐かしさを感じられそうな、温もりあるログハウスのような洋風の家。小さな外灯が我々二人を温かく迎え入れるかのように橙色の光を柔らかく放っている。凝った装飾のドアレバーを少女はひねり、鍵穴一つない扉をいとも容易く開けてしまった。 扉の中はすぐ居間と繋がっているようで、靴脱ぎ石の一つもない。現に少女は半分裸足とはいえ、そのまま上がっている。そのせいか、フローリングにぺたぺたと小さな足跡が付いていた。壁などに目を向けると、古いデザインのテレビがある。脚が四つの、妙な形をしたアンテナがあり、ツマミでチャンネルを切り替えるやつだ。その隣には黒電話が置かれた台がある。しかしよく見ると電話線は切られていて、外部との連絡は取れない。こんな閉じた世界で外との連絡を取る、というのもおかしな話ではあるが。床には長めの、白木でできたシンプルなデザインのテーブル、合皮製で薄いアイボリーの、三人が丁度座れる大きさのソファがある。テレビから少し離れたところには、衣装箪笥(クローゼット)がある。真新しく、柔らかな木材で出来たソレの扉を開けると、中からハンガーにかけられた、飾り気のない白いブラウスと、裏地のある藍色のスカートが現れた。大きさからして、我の隣にいる彼女のモノだろうか。柔らかな印象さえ与える丸襟の白いブラウスだが、袖の一部を構成しているふんわりとした幅広の大きなフリルのせいか、ゆったりとして見える。コレで黒タイツと革靴でも履けば清楚なお嬢様に見えなくもないのだが。彼女はソレに早速着替えようとしたが、 「……見えないの、手伝って」 「我には両足はおろか両手すらない。無理だ。それに何らかの理由で左眼と視神経のリンクが切れておる。そなた、左眼に何をした?」 「……だいぶ前にね、潰したの。私、死のうとして死ねなかった。渡された鋏使ったのに、出来なかった。大きな人にいつもお世話されて、怖かったの。だから、死にたくて死にたくて何度も逃げた。でも、その度に見つかって……。逃げるのさえやっとだった。殆ど目が見えないし、躰中が痛いし。早く、楽になりたかった……」 「すまない……。もう手遅れだったか……。我がもう少し前に悪夢(ここ)にいれば……」 「大丈夫、少しだけなら出来る……。時間はかかるけど」 そう言って彼女はぎこちない手つきでブラウスのボタンを留め始めた。見ているこちらが心配になり、思わず手伝ってやりたくなるような拙さは、目が見えないというハンディキャップ以上の何かを内包している。コレはあくまでも推測に過ぎないが、彼女は元々金持ちの家に生まれ育ち、髪のセットはおろか着替えすらも侍女(メイド)にさせていたのではないか。生まれてこの方そんな生活だったのなら、ここまで下手なのも合点がいかない訳ではない。ボタンの位置がところどころズレている。その上、折角の綺麗な服だというのにくしゃくしゃになってしまっている。我は、彼女にボタンを正しい位置に留めるよう、一つずつあるべき位置を伝えた。ゆっくりではあるが、輝きを帯びた白いボタン達は本来在るべきところへと留められていく。最後の一つを留めた後、少女の細い腕は暗い色のスカートに伸びていた。短くも長くもない、膝丈のソレには何も装飾が付いていなかった。意味のないボタンも腰紐も、ひらひらとしたリボンもベルトも何も付いていない。ついでに、フリルもついていない。縫い目は丁度真後ろにある。脚の包帯さえ無ければ完璧だろうに。彼女は我のことなど目もくれず、隣の部屋へと行ってしまった。ゆっくりとドアを開けると、その中には暗闇が広がっていて、吸い寄せられるように、よろよろと部屋の中に入っていってしまった。 完全にはドアが閉まっていなかったのか、我の躰はすんなり隙間へと入ってしまえた。その部屋の中に入った途端、暗闇の中で目が慣れたからか、急に柔らかそうな物体が目の中に飛び込んできた。丁度二人が眠れるサイズの、大きな簀ベッドにトリケラトプスの大きなぬいぐるみ。その隣には彼女がこちらを向いて座っている。よく見ると、薄水色の髪は暗い夜色のリボンで結ばれているのが分かる。誰が結んだのだろうか。リボンそのものはキツく結ばれているが、ふんわりと先端だけが一つに纏められていて、結ばれたその先が絵筆か狐のしっぽに見える。布団を被りながら俯いているせいもあり、表情は伺い知れない。何の模様も描かれていない、白い布団をぎゅっと掴みながら、何かに怯えている。 「……教えてくれ、そなたは何に怯えているのだ。何から逃げてきたのだ?」 我の問いかけに、彼女は、 「私を生かそうとしているひと……。それも、そのままの私を……」 とだけ答える。とても小さな声で。 「痛いのに、辛いのに……。苦しいのに……。もう私を受け容れてくれる人はこの世にはいないのに……。飼い犬のシエルも、お父様も、もうあの夜に……」 少女の唇が続ける。 「まだお父様が生きてた頃も、憧れは膨らんでいくばかり。私もお人形さんみたいに美しく生まれてみたかった」 「……この箱庭の中でそんな莫迦げた願いが叶うのなら、そなたはどうするつもりだ?どんな願いでも全て叶ってしまうのだぞ?この繭はそなたのモノだからな。『ないものなど此処には無い』のだ」 我はほんの少し目を細め、口元を歪めた。戻ることさえ出来ぬ暗闇に抱かれて、くすんだ想いを胸に留めつつたった一人で眠りたいという願いだけはどう転んでも叶うことはないが。彼(ルナ)を、我を望んでしまった以上、絶対に逃れることは出来ないからだ。百合擬(アマリリス)の名を付けられた少女よ、さあどうする? 医務室からは微かな息や声さえも聞こえなくなっていた。つまりはまた逃げられたということだ。コレで何度目だろう。否、今回は起こるべくして起こったのだ。もはやこの想いは抑えきれなくなっていた。元々美しく、可愛らしい容姿の彼女には惚れていた。そう言っていいだろう。だが、とても臆病で大人しい上に、何かに囚われた彼女の心を溶かすのは容易ではない。彼女に拒まれ、逃げられる度に狂気にも近いような悍ましい愛が内側から湧き上がり、この身を支配していたのは、いつからだろう。彼女の躰を遂に手に入れた筈なのに、心まで手に入れることは未だ出来ていない。物言わぬ人形ではないことくらい解っている。彼女にも、弱くとも意思は確かにあるのだ。ならば、今この手の中にあるモノは何だ?何も与えられず、暗闇の中に取り残されることを望むくらいなら、俺が望むモノをいくらでも与えてやろう。そう思った俺は医務室の外へ出た。重い鉄の扉を開け、まるで工場のような場所へ向かうと、その手前には昇降機がある。この建物のことは知り尽くしたつもりだが、この先へ行ったことはない。だが、もしアマリリスがこの先にいるのなら?いないとしても向かうだけの価値はあるだろう。俺は重い音を立てる昇降機へ足を踏み入れた。 暗い岩場の近くには使い物にならないような、古いガラクタの数々が打ち上げられていた。立派な鋏の刃は錆びつき、ビンは割れ、美しかったであろう宝石はただの石ころになっている。何かが描かれていたであろう缶バッジは塗装が剥がれていたし、インクが入っていないどころか詰まってつかえなくなった、元は高級品だったであろう万年筆。黒いビンドウにも何か引っかかっているようだが、その中身は濁った水のような緑と澄んだ水面のような青のビー玉数個だった。俺はビンドウの中身を戻し、錆びついた路へと戻る。くだらないモノを見てしまったからだろうか?それとも彼女が傍にいないからか。俺の心はもう何も見ようとはしなくなっていた。手の中にある黒いドレスを見遣り、一時の陶酔を味わう。ソレがたった数秒だったのだとしても、いつの間にか俺の目は細められていくのだ。もうすぐ、もうすぐだ。漸く、愛おしいお人形(アマリリス)に逢えるのだ。辛く、苦しかったのだろう?闇の中に沈む時は俺も一緒だ。だから、泣かないでくれ、可愛いアマリリス。 横たわり、寝息を立てている少女に何一つ話しかけることなく、我が部屋の外へ出ると、居間の外にもう一つドアがあることに気がついた。やはりというかこちらのドアも開いている。見てほしい何かがあるのだろうか。中に入るとやはり暗闇。だが、さっきとは毛色が違うし、何より先客がいる。目の前にいる彼は、我の力ではとても敵いそうにない。仮に体当たりをしたとして、護符の力で弾かれるのが関の山だ。暗いせいで分かりにくいが、どうも目の前の彼は、自分の正面を向いている何かに向かって語りかけているようだった。ソイツは何も答えない。悲鳴すらあげない。声の一つも出さない理由は分かりきっている。賢者の目の前にいるのは人形だ。ソレも、髪こそ短いがあの少女によく似た、不気味な目をした人形。眼は少なくとも紅ではない。美しい金糸の髪をぐいっと引っ張られ、ソイツの躰が少しだけ持ち上げられる。死神の口から、 「……虚しい妄想に未だ縋っていたとはな、莫迦な奴だ」 紺色の闇の中、それだけが紡がれた。呆れにも哀れみにも似たような声だった。 白い塗装が施されたロッキングチェアの上に座る人形を、俺はじっと見つめていた。御伽話の中にいそうな金の短髪、くすみ、灰色がかった空色の眼。そんな彼女にはどこを怪我している訳でもないのに、何故だか全身を包帯で包まれていた。首から上は、右眼だけが包帯で包まれている。暗く、四畳半くらい狭いこの部屋には他に何もない。電灯のスイッチはあっても、天井の電球は点かなかった。壊れているのだろうか、それとも中の電球が切れているのだろうか。人形は瞼を半分だけ開きつつ、こちらを見ている。そんな眼をしても無駄だろうに。きっと未だに彼女はコイツに憧れを抱いているのだ。何故、気づこうとしないんだ。もしもまた、彼女が逃げてしまうのなら、鍵よりも鎖よりも、枷よりも更に確実なモノがある。ソイツで包み込んでしまえたら。狂気にも近く、重苦しいソレで彼女を離せなくなればどんなにいいか。 きっと彼女にとっては悍ましい形で願いが叶っているのだろう。望みが簡単に叶うこの世界に、正しさという言葉はない。全てが全て、一つとして少女の望みは思うような形で叶ってはいない。望む容姿を手に入れられていないことからも、俺がここにいることからも。 「諦めてくれ、もうお前は逃げられない……」 お前は悲しいのだろう?辛いのだろう?苦しいのだろう?お前の中にある記憶(モノ)が、お前を此処へ留めているのだろう。お前の望みは新たな名前を手に入れることなのか?お前がお前でなくなることなのか?お前自身が消え失せることなのか? 「……問うだけ無駄だ」 お前が何をしようが、きっと完全な形で消すことは出来ない。傷だらけの心をいくら閉ざそうと、遠い世界が来ようと。きっと俺達二人にはお前がいた、という事実だけは残される。剥がせない瘡蓋のように。 もう一つの部屋のドアを開けると、愛してやまない彼女はそこにいた。人形ではない。あれ程忌み嫌っている、紅い眼に、長い薄水色の髪をした彼女が。ベッドの隣には細長い木枠の姿見がある。アマリリスは恐竜のぬいぐるみを抱いたまま、胎児のように眠っていた。小さな躰の上に薄手の毛布だけをかけて。脚の包帯をよく見ると、茶色く乾いた血が股の付け根についている。これで思い知っただろう?お前をどんな形であれ、求めている者がすぐ近くにいるということを。 「……いい加減、眠りから覚めたらどうだ?」 #bloody_camellia #バアルモン #チョコモン
幕間4  長き夢の果てⅠ content media
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縁田華
2023年5月02日
In デジモン創作サロン
この度、bloody_camelliaの前日譚にあたるundead_syndromeの連載が決定しました!bloody_camelliaが完結したら連載します!どうぞよろしくお願いします! いつになるかは分かりませんが。 今回は連載決定記念として、オイラが一問一答をするっス! Q.何故曲イメージしようと思ったんですか? A.曲イメージ小説というモノをpixivで見つけたからッス。そのあと試行錯誤して、今に至るッス 本当はそれだけじゃないンスけどね Q.メインヒロイン2人の視点が一切解禁されてないのですが? A.とある理由でわざと解禁してないッス  そもそも2人とも特殊ッスから  レナータちゃんは視界ジャックでロップちゃんの視界見てることが殆どだし、こゆきちゃんの右目は彼女のモノじゃないし Q.小説を書く上で心がけていることはありますか? A.周り(部屋やモノなど)の描写を詳しく書いたり、キャラ一人ひとりの内面をきちんと書くことッス コレやらないと師匠に怒られるッスから…… ある意味(?)群像劇ッスから、主人公の暗い面とか、次編になるッスけど、パワハラやモラハラを「する側」の心理描写もやる予定ッス(サトリ編から顕著になるッス) あとは、実はキャラによって少しだけ表現変えてんスよ Q.曲イメージに対するこだわりはありますか? A.今回は毛色が違うんスけど、東方の曲を多く入れてるッス(東方は大体みんな知ってるから) それと、実は音ゲーの曲はレベル31までならフルコンした曲のみ、それ以外はBランククリアで入れるッス(毎週ランダムで一日だけゲーセンにポップンしに行ってる) Q.イメージが難しい曲はありますか? A.量子の海のリントヴルムッスね  どこで使えばいいかわからないッス Q.「幕間」はいつの話ですか? A.プロローグも含めて、実は三人が睡眠時に見ている明晰夢の話ッス ちなみに、プロローグは第一話から二、三日後の話ッス Q.知ってるデジモンシリーズは? A.マトモに知ってるのはテイマとゴスゲくらいしかないッス ロスエボもやってはいたけど…… 間違えて売っちゃったッス Q.推しデジモンは誰ですか? A.ロップちゃんとクルモンちゃんッス Q.ロップモンが暗黒進化しないのですが? A.しないけど、次の話である意味それっぽい曲イメージにはするつもりッス いつもリンクに曲貼ってンスけど、大体歌詞が分かるようにしてるッス 2番冒頭を見れば辛うじて納得できるようにするッス ついでに、進化前の口調も今のロップちゃんと同じッス Q.ヒロインの共通点は? A.詳しくは今言えないけど、両方とも迫害される側だったッス この話は、世界から迫害された女の子達とデジモン達の(暗い)愛の物語でもあるッス Q.全体のテーマ曲は? A.東方の霊夢ちゃんの曲ッス! https://m.youtube.com/watch?v=reYfY1Lufe0 Q.両方とも終わった後にやりたいことはありますか? A.難しいと思うッスけど、ニコ動で紙芝居動画やりたいッス 東方手描き劇場みたいなやつ Q.この小説のテーマは? A.実はオイラもよく分かってないッス  少なくとも、謎解きと、ちょっと変わった女の子達の「忘れ去られた物語」だとは思ってるッス Q.謎解きの難易度が難しいのですが? A.オイラ怖がりッスから、そう簡単に真意を悟らせたくないッス マジっす   Q.最後に一言お願いします A.一悶着起こしてしまい、申し訳ありませんでした!反省はしてます!厚かましいけどよろしくお願いします! ただ、今後も投稿は続けていく予定ですのでよろしくお願いします! #bloody_camellia #お知らせ
お知らせ
undead_syndrome連載決定!
決定記念一問一答(答えられる分だけ) content media
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縁田華
2023年4月30日
In デジモン創作サロン
タイトルのイメージ ←前の話 https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/13-sasaguuta-higanrutourusinhuoni?origin=member_posts_page  お世辞にも金持ちが寝そうにないような、それこそきちんとした家具屋であればどこにでも売っている、作りこそ簡素だが、一流の材木で作られたベッドの上にも朝が来た。山吹色の、白熱電球とは似て非なる柔らかな光が、我と水色の少女の上に降り注ぐ。とはいえ、天蓋という名の蚊帳が僅かだが、陽光を閉じ込めているからか、そこまで眩しくはないだろう。これが普通の人間であればの話だが。この部屋の主である彼女は、いつものように海洋生物のぬいぐるみを抱きしめたまま眩しそうに目を細めている。毎回彼女は違うぬいぐるみを抱きながら眠っているが、今日はどうやら鮫のぬいぐるみを抱きしめているようだ。大人しくいつも一緒に遊んでいる露草色の甚兵衛鮫ではなく、気性が荒く時には人間さえも襲ってしまうというあの灰色の頬白鮫。そんな恐ろしい魚でさえぬいぐるみとしてデザイン出来てしまう外の人間達には恐れ入る。頭の中に蛆でも湧いているような輩が作っているのか、風の噂によれば、鮫や恐竜といった通常なら男の子が好みそうなモノ以外にも、古代魚や得体のしれない古代生物でさえ、外の世界ではぬいぐるみになるのだという。幸福を呼ぶ魚(シーラカンス)くらいならばまだしも、そこまで来ると我の頭が混乱する。眠っているこの変わり者の少女、レナータは喜んで飛びつくのだろうが。  この部屋の中にはどう考えても女の子には相応しいとは思えないような、海洋生物や恐竜のぬいぐるみばかりがある。その一方で、テディベアやらうさぎのぬいぐるみは一つもない。部屋の主は年頃の少女であり、我々の目から見ても十二分に美しいが、何故だかお洒落に気を遣うことはない。どうも動きやすく、飾り気のない服を好んでいるらしい。その割にはスカートの裾にフリルが付いていたり、膝下まであるワンピースやドレスばかり着ているが。本人曰く、これでも動き易いモノばかりを選んでいるつもりのようで、膝丈のスカートを好んで穿いていることも多い。だが、数日前にルナから買ってもらったという、黒に近い紺色のドレスを見た時には目玉が飛び出るかと思った。というのも、そのドレスはどう見てもお嬢様が着るようなモノだったからだ。まず、肩から胸元まで白いフリルで縁取られている。腰のあたりはリボンで飾られ、ドレスと同じ色のフリルがまるでフレームのように裾を縁取っていた。彼女曰く、カジュアルな服らしいが、他所行きか茶会の時に着るような服にしか見えない。スカートが膝丈だからという理由で、彼女は割と気に入っているようだが。その上、下着には常にズロースとスリップを着ていて、長いドレスを着る時などには、ペチコートにシュミーズという組み合わせになる。だからだろうか、色気や動き易さとは無縁だった。レナータからすればコレが普通、とのことだが、我々にとってはこの時点で何処が普通なのかが理解出来ない。ベッドの隣、部屋の隅にある素朴な木の衣装箪笥(ワードローブ)の中はそんな風に、清楚にしか見えないモノばかりで埋め尽くされていた。ハンガーに掛かった服ばかりではない、靴までも。横に長い箪笥の中にも、普段着という名の大量の他所行きが詰め込まれているが。当然、彼女自身がこんな感覚だからか、下着も靴下もその他の小物も全て清楚なデザインのものばかりだった。下着の中にはコルセットやガーターベルトも紛れ込んでいる辺り、彼女の服装はある意味で恐ろしく感じられる。服の色合いを気にしなければ。或いは少女らしくないその口調さえ無ければ。人形のように見えるのだが。一応、風でスカートがめくれた時にはしっかり恥じらう辺り、曲がりなりにも少女ではあるのだろう。恥じらう箇所はズレているが。    いつものように彼女は、ドアノブカバーにもよく似たナイトキャップを目深に被り、水色のネグリジェを着ている。布団の中からもぞもぞと起き上がると、寝ぼけているのか、我に抱きつきそのまま眠ってしまった。横目でクラシカルなデザインの淡い水色をした目覚まし時計を見遣ると、もう少しで七時を差そうとしている。秒針の音がこちらに向かってやってくる。ソレが十二を差した瞬間、けたたましい電話のベルにも似たような音が部屋中に鳴り響いた。後ろを見ると薇が解けつつある。同時にベッドの中から小さな少女がむくりと起き上がり、長い髪をさらりと揺らしながら目をこすった。 「ボク眠いよぅ……、クロ……」 「もう朝だ、起きろレナータ」 「やだよう……」 毎度のやり取りが今日もまた始まった。彼女は日光に弱いこともあり、朝が苦手だった。無理矢理ぐいぐいと引っ張って着替えを手伝うことさえある。今日もほぼ同じようにして一日が始まる。  我はベッドの上に普段着という名の外出着を用意すると、彼女の頭から急いでナイトキャップを外す。すると、中からするりと長い髪が出てきた。まるで海坊主のようにも見えるが、前が見えないこともあり早く髪を整えてやらねばならない。フリルが三段重ねになった藍色のスカートに、シンプルな白い丸襟のブラウス。彼女に青系統の色がよく似合うのは、髪色のせいだろうか。白いフリルのスリップを身につけているからか、ペチコートは要らない。スカート自体が膝丈というのもあるが。黒いフリルのタイツをガーターリングで留め、ベッドの下に揃えられている黒いストラップシューズを履き、レナータの一日が始まった。不機嫌そうに見えるがいつものことだ。  カーテン越しの陽光は、優しくブラン達を包み込み、こゆきの上に降り注いでいく。変わらず髪の両端は跳ねていて、ひょっとしたらブランみたいにぴょこぴょこと動かせそうだ。下の辺りはさらさらと流れるように、ふんわりと広がっている。羊のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら、楽しい夢を見ているのだろう。そんな笑顔だ。時折優しく羊さんを撫でているが、もう楽しい夜は終わっているのだ。そのうち前髪で隠れた、夜空のような藍色の眼がゆっくりと開き、布団の中に顔を埋めてしまった。ブランは力一杯、彼女に掛かっている羽毛布団を剥がそうとするが、それ以上の力で布団がくっついて離れない。まるで鴉が鳴き始める公園から家に帰るのを渋る子供のように。 「早く起きるでクル!ユゥリが朝ご飯作って待ってるでクル」 「……あと三時間寝かせてくれ」 「お昼になっちゃうでクル!」 「………」 物凄く嫌そうな顔をしながら起き上がった彼女は、溜息を吐きながら、 「邪魔しないで欲しかったな……」 オリーブ色の眼が半開きでそう訴えている。対して、藍色の眼は少しだけ目を瞑っていた。不思議な現象のように見えるが、こゆきにとってはコレが普通のこと、らしい。  薄い藤色のネグリジェをふわりと翻しながら、彼女は箪笥の中から白いブラウスと黒いサロペットを引っ張り出す。ブラウスには黒く、細いリボンが付いている以外は飾りが付いていない。でも、今まで着ていたものよりも柔らかそうな素材で出来ている。黒い、穴のないボタンを一番上まで閉めた後、サロペットを穿いた彼女は眠そうな目をして、今度は一番下の抽斗から黒いストッキングを手に取った。温かいかどうかは分からないが、気に入っているのは確かなようだ。ソレを履くと、黒い革の編み上げブーツではなく、紺色の、紐が交差したストラップシューズで部屋の外に出た。髪はまだ結んではいない。いつもはリボンでもみあげと後ろを結えるのに。今日はまだのようだ。  前を閉めてはいないものの、こゆきはブランが持ってきた薄い墨色のカーディガンを羽織っている。椅子の上にかかっていたのを持ってきたが、特に何も言わない。確かに廊下は隙間風のせいで少し寒い。 「ありがとう、ブラン」 藍色の眼がこちらに向かって微笑んだ。穏やかな笑みを見せるのはいつも左眼だけだから珍しい。この後槍でも降るのだろうか。それとも……。    使用人(ユゥリ)も含めての朝食が終わった後、俺はこっそりと愛車(ベヒーモス)を走らせる。レナータはまたクロやこゆき達と遊んでいるだろうし、バージルは怪我がある程度回復したからか、ユゥリに言いつけられた雑事を嫌そうな顔でこなしている。俺以外は各々居場所があるようで心底羨ましいし、妬ましかった。だが、楽しそうな少女達の邪魔はしたくない。おはじきの遊び方を目隠れの少女から教わっているところを少しだけ垣間見たが、水色の少女は初めて見る形の硝子玉に興味津々だった。ベッドの上に、飴玉にさえ見える色とりどりのおはじきを散らしつつ、きちんとルールを教わりながら遊んでいる。耳打ちという形でだが、クロが通訳をしているからだ。だからだろうか、レナータもこゆきも互いの言葉が分からないなりに楽しそうな笑顔を見せていた。ベッドの上には相変わらず、海洋生物やら恐竜のぬいぐるみが転がり、水色の長く美しい髪と藍色のフリルがふわりと広がっている。長い髪は王(ノエル)の許へ赴いた時とほぼ同じような髪型になっていた。これでフリルやリボンで埋め尽くされたドレスでも着て、ボンネットかヘッドドレスでも被せればますます只の人形にしか見えなくなりそうだが、本人は首を横に振るばかりだ。興味はあるようだが、自分には似合わないから、と諦めているようだった。それでも、彼女には可愛い服だけを着て貰いたい。だから、いずれは二つ結びが似合うような髪留めやらヘッドドレスを買ってやるつもりだ。生きているかどうか分からない程白く、とても大人しい少女には、頭の天辺から足のつま先まで、それこそ下着に至るまで可愛らしく在って欲しい。だからこそ上に着る服は勿論のこと、下着も可愛らしくフリルやリボンで飾られた、淡い色合いのものばかりを買い与えるのだ。本人もソレを半ば当然のこととして受け入れている。目が見えないから、というのもあるかもしれないが、日に日に可愛らしくなっていく彼女の姿を見るのは俺の楽しみの一つでもある。例えその笑顔がクロやこゆき達にしか向けられなくても、悲しくはない。お人形さんは硝子越しに眺めるだけで充分だから。      近くの街の広場までバイクを走らせ、開店したばかりの手芸屋の横にある狭いスペースにソイツを停める。ドアを乱暴に蹴り開け、先ずはリボンのコーナーへ向かう。どのリボンもテープ状になっていて、ソイツを好きなだけ切って買う方式のようだ。絹のように輝く白いやつ、生成色の麻でできていて一見すると紐にさえ見えるやつ、黒くて太い無難なやつ、水色やピンクのフリルがついたやつなどなど。沢山の種類がある。もう少し奥にあるミシン糸と同じかそれ以上にあるのではないだろうか。女の子の服に似合いそうなモノが殆どだが、彼女が喜ぶかどうかは分からない。俺は黒いリボンを選び、籠に入れた。太さは中くらい。フリルなどは付いていない分、どんなモノにも使える優れものだ。ドレスやブラウスは勿論のこと、ぬいぐるみの飾りやポーチなどにも使えるのは嬉しい。  リボンの次はボタン。細長い抽斗の中にそれぞれ、二つ穴、四つ穴、足付きのボタンが入っている。足付きは自由が利くだけあってか、子供用の服にも使える星型やカットされたダイヤなどに見えるやつなど、バリエーションが豊かだった。反面、二つ穴や四つ穴は材質や色、大きさくらいしか違いがない。それでも俺は四つ穴の黒いボタンを選ぶ。今、掌の中には予備も含めて八つある。隣にある足付きの抽斗からも、白い薔薇のボタンを四つ手に取った。真珠のように光るソイツは使い所が難しそうだが、何に使うのかは決めてある。ボタンもリボンも籠に放り込んだので、次は布地のコーナーへ向かおうか。  レナータという盲目の少女は、日頃からルナに可愛がられていた。そのやり方は傍目から見れば歪んでいるが、彼は全く気づいていない。ソレが正しいと思い込んでいるなら尚のこと。我の目から見たその光景はある種の狂気を孕んでいて、一言で言い表わすならば『キモい』。彼女は意に介していないどころか、割と満更でもないようだが。もしかしたら、彼の愛情には気づいているのかもしれない。そんなことを考えながら耳でおはじきを弾くと、 「ふっ……、後一歩のところだったな、惜しいぞ。まあ、次は取れるかもな。運に見放されていなければ、だが」 少女の声と共に、藍色の瞳が黒い笑みをこちらに向けた。ソレを見た水色の少女は、 「ボクは……、こゆきには負けない……!絶対に……」 「受けて立とうじゃないか!負けるつもりはない、精々全力を出すんだな」 年頃の少女二人が見得を切る。全く、童遊び如きに真剣になりおって。我は溜息を吐きながら、耳で菓子鉢の中にある、円い醤油煎餅を摘まみ取った。  こゆきの手元にもブランの手元にも沢山のおはじき玉があって、その全てがカーテンの向こうから柔らかく降り注いでくる陽の光で宝石のように輝いていた。ふとオリーブ色の眼の方を見遣ると、とても真剣な表情でおはじきを選ぼうとしている。一方で藍色の眼は少し苦しそうだ。前髪の僅かな隙間からでさえそう見えてしまう。元々、彼女の前髪は右眼を隠す程に長かったが、それでも少し前までは時々隙間からオリーブ色の眼が覗くことが多々あった。今はまるで兄さまとお揃いの色の眼を守ろうとしている。ソレが彼のモノではないのだと、後から解ってもこゆきは変わらず守り続けるのだろう。兄さまみたいだ、ときっと喜ぶから。  銀色の少女のか細い指が赤い硝子玉を勢いよく弾く。方向からしてクロの陣地だろうか。乾いた音を立てて、ぶつかった黄色いおはじきを手に取った。兎の顔を見ると、悔しそうな顔をしている。こゆきは何食わぬ顔でシンプルな、つるりとしたグラスに注がれたぶどうジュースを一口飲んだ。クロは涙を耳で拭いながら、もう一戦勝負しろと訴える。だが、 「諦めろ、お前達の負けは既に決まっている。我々の勝ちだ」 「ブラン達の勝ちでクル!」 「くっ……」 歯を食い縛るクロは拗ねてしまい、レナータの胸の中へと飛び込んでいった。ソレを見た彼女は、何も言わずに優しく白い手で抱きしめ、そのまま頭を撫でる。 「泣かないで、クロ……」 「ううっ……、うっ……。あんな小童共に、何故……」 少女の手は壊れそうなくらいか細いのに、温かくクロの頭を撫で続けていた。    俺が街から帰ってきた時、いつも通りに少女達は仲良くお茶会をしていた。茶色いチョコカップケーキや、砂糖をまぶしたワッフルといった菓子以外にも、テーブルには苺ジャムのビンと、二、三種類、蜂蜜のビンが置かれている。こゆきはカップケーキを美味しそうに摘まみつつ、ジャムのビンに手を伸ばした。そのままスプーンにソイツを一塊乗せ、小皿に置くと、今度は配られたティースプーンで柔らかく赤い塊を舐めとる。全て舐め終えた後に紅茶を口にすると、 「今回は少し甘味が強いな。別に苺ジャムが嫌いな訳じゃないんだが、たまにはママレードとやらを味わってみたいものだ」 「わーったよ、今度街で買ってきますよっと」 ユゥリはその後に、 「折角苺ジャム作ったのに……。自信作だったのになあ、泣けるぜ」 と独りごちた。隣にいるブランは両手でワッフルを美味しそうに食べている。四角いところを一つまた一つと小さな口で噛み、時折食べかすをこぼしながらにこにこと無邪気な笑顔を見せていた。陽はまだ高く、空には雲が一つもない。水色の少女は穏やかな笑みを浮かべながら、一口紅茶を飲んだ。茶色い兎の耳をその小さな手で撫でながら。 #bloody_camellia  
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縁田華
2023年4月22日
In デジモン創作サロン
タイトルのイメージ ←前の話 https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/mu-jian-3-zi-shi?origin=member_posts_page 次の話→ https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/14-fly-far-bounce?origin=member_posts_page  晴れ渡る空が森の外ではどこまでも続いているのだろう。この森の中に、木漏れ日は届きこそすれ、青空も雲も、見ることは出来ない。我々が住まう番屋から程近い川のほとりには、血のように紅い彼岸花の絨毯が広がっていた。とても美しい光景であると同時に、何処か恐ろしくも感じられるが。傍にいる小さな少女マリーは花畑の中で歌い、踊りながら遊んでいる。細く短い二つ結びを揺らしながら、いつも通りに頭巾(フード)を被り、作務衣(エプロンドレス)のフリルを靡かせるその様は、普段全く子供らしいところを見せない彼女が見せる、数少ない子供らしさでもあった。  私は足元にある魚籠を持ち上げ、水面のすぐ近くに移動させた。少しだけ深い水の中に活き餌を付けた釣り針を投げ入れ、魚が来るのを待つ。この釣竿にはリールなどという便利なモノは付いていない。簡単に釣れる反面、射程は短い。その上、一度に一匹しか釣れないこともあり、効率は悪い。補助としてマリーがビンドウを数箇所に仕掛けているものの、獲れる魚の数は然程多い訳では無かった。早朝から夕方まで続けてもノルマに届かないこともあるにはある。それでも、食用になり得る魚が捨てる程いるこの川は、我々にとって無くてはならない場所だ。  陽の光が真っ直ぐ、木々の間に差し込みつつある頃、マリーと私は持ってきた鞄を開けた。中にあるのは二人分の水筒と、四つの握り飯。私の水筒は焦茶色で、マリーの水筒は桜色でフタの部分がコップになっている。彼女のソレは肩からかけられるように太い紐が付いていた。この握り飯は料理が不得手な彼女が初めて成功させた、今のところ唯一のモノ。少し前に無茶をしてまで買った、塩と紫蘇だけの少し高い梅干しを鰹の削り節と混ぜて潰したモノの味がする。当然、真ん中に丸くて大きな梅干しが丸々一つ入っているということはない。飯の隅々まで梅干しの酸っぱい味がするのだから。漬け込む時、紫蘇の量が少なかったのか、色は赤茶色をしているが、塩辛い味よりも酸っぱい味の方が優っている。こんなに美味いのに、この小さな少女は梅干しの存在を、ここに来るまで知らなかったようだが、味見はしたのだろうか。 「マリー、コレを作る時、味見はしたのか?」 「ああ、したさ。今まで食ったことない味だったぜ?ビネガーより酸っぱい気もする。でも悪くなかった。たまになら食っていいタイプの味だな」 そう言って彼女は歯を見せてニヒヒヒと笑った。 「なら良いんだが……」  彼女の言う通り、ラップで包まれた握り飯を一口食べてみたが、飯の僅かな甘み以外は殆ど梅干しそのものの味だった。鰹節の味と食感はあまりしない。彼女自身は海苔の存在を知らないのか、海苔を巻いてはいないので、半分くらいまではラップの助けが必要となる。形そのものはマリー自身が不器用なのか、それとも何かおかしな勘違いでもしたのか、私がよく知る三角の握り飯ではなく、最早ただのボールにしか見えない。野球のボール大という大きさもあってか、少し食べづらい。  少し強い風が葦原を靡かせ、私達が座っている茣蓙を飛ばそうとしている。だが、錘(おもり)の代わりにこそならないが、こちらには釣りの道具が入った箱や魚籠、ステンレス製の水筒などといった強力な味方がいるのだ。ただの風如きで飛ばされる程ヤワではない。風の所為か、少女のスカートも捲れてしまっている。胡座をかいている上、下にズロースを如何なる時でも穿いているからか、そこまで恥じらってはいないようだが。スカートから見えるスリップの白いフリルも相まって本来なら可愛いと言うべきところではあるのだろう。しかし、本人の性格もあってか、可愛さよりも豪快さの方に軍配が上がってしまう。せめてもう少し女の子らしく座って欲しいと思う。 「なあ、レオモン」 私の心配をよそに少女が問うてくる。 「ここへ来る度に思い出すことがあるんだ」 「何をだ?」 「私達が初めて会った時のことだよ」  見渡す限り真っ暗な空、氷のような冷たい色をした岩ばかりの川辺に私は立っていた。いや、その時の私は立っていたと云えるかも怪しい。その時の私には形がなかった。つまり、私は一度死んで魂だけの状態になっているのだ。どうやってモノを見ることが出来ているのかは分からない。どうして冷たい風の音が聞こえてくるのかは分からない。何より、私はここに独りきりだ。何一つ分からないまま、私は彷徨い続けていた。自分の名前は呼ばれてこそいないが朧げに分かる。年齢も分かる。故郷の村の名前も。何一つとして持たない魂(モノ)でも、泣くことだけは出来たのだ。冷たく寂しい風だけを浴び続けるうちに、私は一つの何かを見つけた。 近づいてみると、先端が削れた石柱のすぐ傍には仕立ての良さそうな白い服を着た少女が倒れている。しかし、彼女の髪はボサボサで、松葉色の目は透き通った硝子のようだ。触れることさえ出来ない、フリルの膝丈のワンピースは薄らと透けている。艶やかな花の色をした唇と頬。私は確信した。コイツは只の人形なのだ、と。まるで引き寄せられるように、私はソイツの唇に触れる。すると、次の瞬間、私の視界は人形のものになっていた。視界だけではない、手も足も動かせる。意図しない形とはいえ、私は自分の躰を再び手に入れたのだ。ソレも、生前はどんなに欲しいと思っても叶わなかった、美しい躰を。早速、覚束ない足取りで歩いてみる。千鳥足とさえ呼ぶのが憚られる程無様な形で歩くが、裸足だからか、足元の尖った小石の所為でバランスが崩れそうになる。立ち止まったその時、水面を覗き見ると、そこには小さな少女がいた。目の中にはぼんやりとだが、露草色の花が浮かんでいる。底は黒いが、ゆっくり手を浸してみると水そのものは澄んでいることが分かる。生きているものは岸辺にも、川の中にもいない。只、静かに底なしの闇だけが広がっていた。私は呆っとしつつ、その中に足を踏み入れた。嫌な声が聞こえてくる。悍ましく、地の底から獣が唸るような声。恨み辛み。他にも良くないものが声に乗せられ、聞こえてくる。それでも良かった。ここに独りでいるのは辛かったから。不思議なことに、その闇の中にはするりと入り込めてしまう。左手以外の全てが沈み込み、改めて目の前を見ると、見えにくいものの、黒くて細い人間の手が私を取り囲むようにして蠢いていた。逃げることなど出来ないし、そもそも逃げようとも思わない。そのまま意識をコイツらに委ねようとした時、私の左手は誰かに引っ張られていた。私がそのまま目を閉じた時、 「呑まれるな!まだその時ではない‼︎」 いつの間にか私の躰は岸辺に戻されていた。目の前には生前、一度だけ動物園で目にした、大きな獅子の顔に、筋骨隆々な人間の男の躰をくっつけたような奴がいる。私はソイツをぼんやりと見つめていたが、彼は何をするでもなく私の手を取って歩き出した。片手には短めの剣を持っているが、脅そうとはして来ない。ただ、静かに、私の目に語りかけてくるのみだった。 「危ないところだった……。もう少しで君は呑み込まれるところだったんだ……」 「あン中に呑み込まれるとどうなるんだ?」 「……二度と戻ることは愚か、再び生まれ変わることが出来なくなる。例え、人間だったとしても、な」 「別に、私は焔に灼かれて死んだんだ。それに生きててもしょうがなかったんだし、二度目の生なんて今更……」 「……私も一度死んだ身だ。何故ここにいるのかは思い出せない。ここに来る前、紅い光を浴びたことだけは唯一思い出せるのだが」 「……紅い、光?」 「私にも詳しいことは分からないが、アレは良くないモノかも知れん。不用意に触れない方がいいだろう。風の噂では、外の世界から流れ着いた紅い石が発しているとも、魂に直接語りかけてくるとも言われているが。しかし、君も……。灼かれて死んだ、と言ったな?遠ざかる術もあったろうに」 「あんたこそ……。私の生まれ育った村が奴らに灼かれて何処にも逃げ場が無かったんだよ‼︎教会から飛び降りて逃げようとしたけど、無理だった……!」 「逃げ場などなかった、か……。私も同じだ。人形のように力という名の糸で踊らされていた彼の手で、な。死など一瞬だ。哀れな奴だったよ、アイツは」 「……そっか、そうなのか。あははははは‼︎あはははは‼︎あんた、ソイツに関わらなきゃ良かったんじゃねえの?私だったら逃げるけどな?」 「……お節介になろうが、反駁されようが、何だろうが、彼には悔い改めて欲しかったのだ。それに、動き始めた歯車は、錆びつくか歯が折れるか、擦り切れなければ止まらない。お互い、歯車がそこで錆びついただけの話だ」  尖った小石が転がっているだけの、何もない殺風景な岸辺を歩いていくと、少し大きな岩の上で眠っている黒い仔猫を見つけた。ソイツは欠伸をしながら、二股に分かれた長いしっぽを振った。私達と目が合うなり岩の上から降りて行ってしまったが、同時にどこかへ去ろうともしている。仔猫を追いかけたその先には、山吹色の、どこか懐かしく感じられる、温かな光が満ちていた。仔猫はその中に飛び込み、それっきり行方が分からなくなってしまった。私達も光の中へ飛び込み、次の瞬間、目の前には緑の草原と青空が広がっていた。 「で、あんたが森に住もうって言ったんだよ、レオモン。目的が何なのかは分かんねえけどさ」 「……目的は、紅い光の中で知ったことと少しだけ関わっている。ソレはな……」 彼は私にそっと耳打ちした。余りにスケールが大き過ぎて変な声が出てしまったが。 「……紅い光は、人も我々も狂わせてしまう。だからこそ彼が必要なんだ。無論、私も出来る限りの力添えはする」  のんびりと昼食を食べている我々の元に足音が近づいてくる。片方は小さく、もう片方は大きな靴音だ。名もなき草たちを掻き分け、時には踏み潰しつつ近づくその音は、私よりも大きな何かの存在を感じさせた。懐かしいような、そうでもないような。けれども少し優しい音だった。やがて、音が止まり振り向くと、五つの紅い眼と、二つの黒い眼がこちらを見つめていた。黒ずくめの懐かしい顔の傍らには、高い位置で、長い髪を黒いリボンで二つに結んだ薄水色の髪の少女と、彼女の腕の中にはぬいぐるみのような茶色い兎がいる。彼女は黒い帽子を被っていて、着ているワンピースは紺色のフリルで裾が縁取られている上、スカートからは白いフリルがチラリと見える。黒いニーハイソックスには薔薇のレースがあしらわれていて、ソレを同じ色のガーターベルトで吊っていた。それも素っ気ない代物ではなく、派手な装飾が施されており、見た目が幼い彼女には勿体無い位大人の色気が滲み出ている。彼女は黒く大きな腕をぎゅっと掴み、怯えた目でこちらを見ていた。彼女よりも大きな三つの眼は怯え、涙さえも流しかけている。正気に戻ったのだろうか。 「ルナ……、どうしたの?」 「レオモン……!何で、何でお前が生きてるんだよ⁈俺がこの手で一度は殺した筈なのに……!」 「……久しいな、ベルゼブモン」 名を呼ぶと、彼はその場に頽れ、泣き出してしまった。紅い眼の少女の声さえも届かず、その叫びは森の外まで響き渡っていた。 「私はお前を責めるつもりはない。死んで償えと言うつもりもない。ただ、一つだけ頼みたいことがある」 彼は顔を上げ、慈悲を乞うようにして、 「恨み言の一つも言わねえのかよ……。アンタは優し過ぎる……」 「勘違いするな、私はお前を赦すとは言っていない。だからこそ、その力を利用させて貰う。それで手を打とう」 彼にとっては余りに不利な内容かも知れない。だが、傍にいる小さな少女と仔兎の存在は、彼が以前よりもずっと優しくなったことを示していた。 「頼む、コイツら二人には手を出さないでくれ……!特にコイツは、レナータは目が見えねえんだ……。それに、クロだって弱い。俺はどうなってもいい、けど、二人には……」 「ルナ……、駄目……。あなたは、ボクの……」 目の前の彼は大粒の涙を流しながら、優しく少女の髪を撫でている。恐らくは、彼女の服や靴も彼が用意したのだろう。真っ当な方法で金を稼いでいる可能性は限りなく低いが、彼女を大事に思っていることは伝わってくる。 「ルナ、怖くない、よね……?」 「俺がいるんだ、怖がらなくていいぜ……?お前を苛めるやつは皆、皆……」 特有の危うさこそ残してはいるが、これでかつての悪魔が心優しき戦士として生まれ変わったことは証明された。今の彼ならば喜んで力を貸してくれるだろう。 腐れ縁の獣人から聞かされたのは耳を疑うような内容だった。量子の世界の各地で紅い光の存在が見られること。それが幽世でも、地上でも。同時に、世界各地で紅い宝玉が発見され、その光を浴びた後は、一時的な奇跡の後に、必ずそれを上回る破滅が訪れるという。 「紅い宝玉のせいで滅んだ国もあるそうだ」 「……んなことが⁈嘘だろ⁈」 「私にも原因は分からない。ただ、少なくともお前は影響を受けていないからな。それに、あの紅い光は特定の者達には効果がないそうだ」 「俺を利用して、毒を以て毒を制すって魂胆が見え見えだぜ?まあ、あのクソ王に近々聞いてみるさ」 「……本当か?」 「アンタの頼みだ、断る訳にもいかねえからな……」 少し呆れ気味に、俺は渋々協力を申し出た。この談義が終わったところを見計らったかのように仔猫の鳴き声が聞こえ、同時に草同士が擦れる音がした。ソイツの群青色の眼と一瞬だけ目が合った気がしたが、気の所為だろうか。 #bloody_camellia    
13  ささぐうた〜ヒガン・ルトゥール・シンフォニー〜 content media
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縁田華
2023年4月16日
In デジモン創作サロン
タイトルのイメージ ←前の話https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/13-rainy-rainy-daysiii?origin=member_posts_page 次の話→https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/13-sasaguuta-higanrutourusinhuoni?origin=member_posts_page まるで沈み込むようにして、使い古された簡素なベッドの上で眠る少女の許に俺は今日もやってきた。いや、厳密には、毎日会っているというよりも、住み込みで世話をしていると云った方が正しいかもしれない。もう彼女は、自分がいる限り逃げられないと理解してしまったからか、俺の命令を素直に聞くようになった。その代わり、血のように紅い眼の光は、以前よりも鈍くなりつつある。口数も少なく、大人しいので何を考えているのかは分からない。傷は治りつつある筈なのに、治そうとは考えないのか、包帯がほぼ完全に解ける日は遠いようだ。クッションにも使えそうな大きさの、つぶらな瞳をした白いアザラシのぬいぐるみを小さな手で抱きしめながら、彼女はすやすやと眠り続けていた。俺が地下のクローゼットの中から選んできた服を着たまま。肌着(スリップ)をつけることはなく、スカートの中からは柔らかな木綿のズロースのフリルが見えている。脚にも包帯を巻いてはいるが、ほんの少しほつれかけている箇所や、血が滲んで乾いた茶色に染まりつつある箇所がある。カフスの隙間からは点滴のチューブが繋がっているのが見えた。  本来なら怖いのだろう。現に、彼女の目からは一筋の涙が溢れている。暗くてよくは見えないが、ワンピースの袖は薄い水色ながらも透けていて、中からは白い包帯が巻いてあることがよく分かる。リボンは解いてしまったから、少女の髪は結ばれていない。ただ、彼女の首には黒い革の首輪がついている。ソイツに付いた輪っか状の金具から伸びた鎖は、シーツの上に垂れ下がっていた。一メートルはあるだろうか。 俺は小さくジャラジャラと音を立てるソレを優しく掴むと、彼女の髪を撫でた。大きな掌には細過ぎる、絹のような美しい髪。肩から胸の下までをアーチのように縁取る銀鼠色のフリル。薄紅に染まった頬。何より、小さくて可愛らしい躰。全てが全て愛おしい。  傷が治らない限り、俺の望みは決して叶うことがない。冷たくなった彼女の躰を人形のように抱きしめることなど出来ないし、声さえ聴けなくなるのは辛い。彼女が本当に自殺をしたら、俺は骨を拾って弔えるだろうか。その場に立ち尽くすだけだろうか。そのどちらでもないのだろうか。少女が目を覚まさないうちに、俺は彼女の小さな躰を抱きかかえ、病室を後にした。冷たい廊下に出て少し後に彼女が目を覚ました。お気に入りの、白いアザラシのぬいぐるみを強く抱きしめたまま。灯で照らされてはいないから、眩しさに目を細める必要はない。小さく呻き声をあげながら、彼女はこちらを見ている。 「……おはよう、お人形(ドール)。さあ、ポッドへ向かおうか」 「………どうして?」 「悪く思うな。お前の傷を治す為なんだ……」 「ん……」 俺は彼女を治療用ポッドがある部屋まで連れて行こうと、首輪から伸びた鎖を掴んだ。彼女は腕の中からゆっくり降りると、陸亀のような速度で歩き始め、やがて俺達は一枚の扉の前に辿り着いた。この向こうに、目的のモノがある。  この燈台の中には三つのポッドが存在するようだが、うち二つは使い物にならない。だから少女はそのうち真ん中に入ることになった。初めてこの部屋を訪れた時と変わらず、ソレは柔らかな緑の光を発し続けている。薬液で満たされた培養槽の中では、栄養や空気を送り込む為のチューブが揺れていた。暗いこの部屋の中に照明はなく、ポッドが照らす光だけが光源となって部屋の一部を照らしている。他にも、部屋の中には一人掛けで背凭れのない椅子が二脚と、端の方には簡素な、だがフレームの底部分が簀子になっている木のベッドが一つ置かれている。その上には、彼女が日頃から大事にしているぬいぐるみと、箪笥の中から引っ張り出してきた着替え、水のペットボトルと、缶詰や保存食といった食糧がそれぞれ二人分。俺の分と少女の分とで缶詰のラインナップは違う。目的の違いもあるかもしれないが、彼女が食べる為の缶詰には一つだけ小さなフルーツ缶詰が混ざっているのだ。その他にも、彼女が沢山食べられるようにと白米の粥も用意してある。缶の上には木のスプーンがあり、いつでも少女に食べさせる準備は整っていた。それ以外にも新しい包帯に、薄いベージュの毛布。決して治ることのない怪我を治す為に、彼女には二、三時間だけこの中に入って貰うのだ。  彼女は俺の介助を受けて、着ていたワンピースと下着を脱ぐと、その下に包帯で包まれた白い肌が見えてきた。首輪は既に外し、ベッドの上に置いてある。彼女は何も言わないが、緑色の光の所為だろうか。いつもはあんなに美しく見える筈なのに、今は病的にも不気味にも映る。巻きつけていた包帯も全て解くと、少女は俺の手を取って目の前のポッドへと入っていった。薬液の中にその身をゆっくり浸し、全身にチューブを繋げると、薄水色の長い髪を揺らしながら再び眠りへと入っていった。薬液の中で揺蕩い、目を瞑る彼女は妖精か女神を思わせる程に美しい。心無しか、いつもより嬉しそうに見える。口の中から時折吐き出す小さな泡も、とても可愛らしい。  ベッドの端から缶詰を二、三個持ってきて、椅子に座って食べようとすると、缶にプルタブが付いていないことに気がついた。どうも缶切りが必要なタイプだったようで、俺は急いで缶切りを持ってくるべく、一階の倉庫へと向かった。重い鉄の扉を開けると、六畳くらいのスペースに沢山のモノが棚の上に整然と並べられている。大半は缶詰や瓶詰め、漬物や干し肉、レトルトといった保存食で、後は金属製の調理器具がちらほら見える程度だ。俺はその中から缶切りを引っ張り出し、急いでポッドがある部屋へと戻った。  暗い中、缶をどうにか開け、左手で割り箸を持ちながら中の煮物に手を付ける。本来なら茶色や朱色、灰色といった無難な色ばかりで埋め尽くされている筈だが、ポッドが放つ緑色の光の所為で、不気味な色にしか見えなくなっている。蒟蒻一つとっても不気味な色をしている所為か、食べる気にはならない。目の前の少女がここまで酷い怪我さえしなければ、二人で感想を言い合ったり、食べ物を半分こにしたりと、少しは美味しく食べられたのだろうか。それでも俺は、水と一緒に無理矢理煮物を流し込むと、次の缶に手を伸ばした。本来ならば隣にある筈の温もりは感じられない。漸く粥以外の普通の食べ物が、少しだけ食べられるようになったというのに。俺は少しずつ瞼から零れてくる涙を堪えながら、中の炊き込みご飯を少しずつ口にした。米の粘りはおろか、味の染み込んだ筍や小さな茸さえ味わう気にはなれない。思い返せば、彼女に飯を食わせている時間は少しだけ楽しかったし、殆ど成り立たない会話でさえ俺にとっては甘い時間となり得た。結局のところ、俺自身も彼女のことを望んでいるのだろうか。  食べ終わった後に残ったのは幾つかのゴミだけだった。食器を洗う必要がないのはいいが、風情がない。部屋の隅に置かれた灰色のペールの中に全て投げるように捨てた後、俺は力無く椅子の上に座り込んだ。本当ならば今すぐにでもあの小さな躰を抱きしめてやりたいが、ソレが出来ない。怖い夢を見ていないだろうか。寂しくはないだろうか。眠る彼女を硝子越しに見ていると、様々な感情が湧き上がってきてしまう。きっと俺の中はどうしようもない寂しさで満たされているからこそ、彼女に望まれたいと思っているのかもしれない。怖くて心細いのは俺自身も同じなのだろうか。  椿柄の蝋燭が差し込まれた一対の灯台が周りを弱々しく照らす和室には、真っ白な褥と椿柄の衾が敷かれている。二十畳程もあるその部屋に、たった一人しかいない。齢十から十二歳位に見える少女が寝かされていて、枕元には一つだけぬいぐるみがあった。白いアザラシのぬいぐるみだ。部屋の調度品は桐の箪笥に、漆で黒く塗られた鏡台があるのみ。眠っている彼女は薄水色の髪を左右に広げているが、寝間着を着ている訳ではなさそうだ。着物を着ているように見えるが、パフスリーブや襟元を飾る白く小さなフリルからしてどうも違うらしい。そのうち、彼女は褥の中から起き上がり、ぬいぐるみを抱えて鏡台へと向かっていった。  鏡台の目の前に敷かれている赤紫色の座布団に座った彼女は、僕の顔を見るなり小さな悲鳴をあげた。左目は包帯で隠れていて見えないが、右目は僕らが好む血の色をしたルビーそのものの色をしていた。成る程、こんな色の瞳なら只の人間は好まないし、ソレどころか、恐怖や畏怖、下手をすれば迫害の対象にすらなり得る色だ。その上、人間とは思えない程に白い。そんな彼女がヒトの胎から生まれ出てきたのだ。コレを奇跡と呼ばずにはいられないだろう。座っているのでよくは分からないが、やはり彼女が着ている服は寝間着ではなかったようだ。帯は薄く太く、リボンのように結ばれていて、前髪には藍色の花飾りが結えられている。正座をしている所為で分かりづらいが、下はスカートのようで、裾には紺色の透けたフリルがあしらわれていた。部屋着にしては勿体無いくらいの豪華さからして、このドレスはどうやら他所行きのようだ。  僕は鏡の外にいる少女に向かって、 「やあ、こんばんは」と挨拶をしたが、僕を見るなり彼女は怯え、遂には涙目になってしまった。彼女は声を出すまいと必死に堪えているが、ぬいぐるみを抱える腕の力はどんどん強くなっていくばかり。僕には何が怖いのかは分からなかった。 「君は、アマリリスちゃんだよね?こうして逢うのは初めてかな?僕はノエル。幽世の王達でさえ手が出せないと表では噂されている、夜を統べる者達の王だよ」 「……私は貴方のことを知らない。どうして、私に?」 「僕はね、こうして二人っきりでお話したかったんだよ。けれども、君の傍には如何なる時でも護ってくれる魔王サマがいるからね。こういう形でしか話が出来なくて残念だよ」 「……ルナのこと?」 「そうだよ、ルナくんだよ。いつも君をお人形さんみたいに可愛がってくれている、あの口の悪いお兄さん」 「どうして、ルナが……、私のところにいるの?」  僕達の声以外は何も聞こえない。怖いくらいに。鼠が天井裏で這い回る音も、窓にひっつこうとしている虫の羽音も。風の音さえも。静寂の中、僕は目の前の少女が望む答えを与えた。 「望んだのは君でしょう?」 「……独りでも良かったのに。あんなことされるくらいなら、私……」 「でも、ルナくんを選んだ君は正しかった。ずっと独りで寂しい思いをしていたなら尚のこと。彼は誰よりも孤独の辛さを知ってるからね。僕はどうして君に選ばれなかったんだろうって思っているから、正直言ってルナくんには妬いてるけどね」 「そんなこと……」 「君は気づいてないみたいだから教えたげるけど、君は僕達がずっと待ち焦がれてた存在なんだよ。その赤い目が何よりの証拠だ。双子として産み落とされ、塔の中に幽閉されて育った君を、ね。過去を隠そうとしても無駄だよ。全て解ってしまうんだ。君の目を見てしまえばね」 「……やめて、やめて!怖い、よ……」 「僕を選べば良かったのに。そうすれば君に惜しみなく愛を注いであげられたのに。そのままの君を幸せに出来たのに。君の傷を癒してあげられたかもしれないのに。君に仇なす全ての者達を皆殺しに出来たのに。君に沢山のお友達を作ってやれたかもしれないのに。それでも君はルナくんを望み続けるのかい?」 「……怖い、けど優しいから。私を、ずっと好きでいてくれるから……。あったかい、から……」 「君の気持ちは変わらないのかぁ……、悲しいなぁ……。でも、僕のところに行きたくなったらいつでもおいでよ。お友達も連れて、ね。焦がれてやまない君が来るのを、僕は楽しみにしてるんだ。そうだ、今度いいこと教えてあげようか。何、そんなに身構えなくていいんだよ。僕は君を失いたくないからね。君がいないと困るんだ」 「……怖く、ない?」 「大丈夫だよ。君さえ良ければ。そろそろおはようの時間だ、ルナくんによろしくね」 ポッドの中から出てきた少女に、白いバスタオルを巻き付けてやり、俺は傷がほぼ無くなり、磁器のように美しくなった躰を拭いた。彼女の眼からは涙が僅かに零れている。 「どうした、アマリリス?怖い夢でも見たのか?」 「ルナ、怖かったよう……」 「そうか、傍にいてやれなくてすまない……。俺がいるからお前は怖がらなくていい」 言い終わった俺は彼女に着替えを渡した。フリルがたっぷりついた白い下着からドレスに至るまで、変わらず介助を受けながら着替えているが、やはり俺の目に狂いはなかった。リボンで髪の先端を結んだら、いつも通りの可愛らしい少女が目の前にいた。別に激しく動く訳でもないのだから、これ位で良いだろう。少女をベッドに座らせ、優しく髪を撫でてやる。着物のような華やかなドレスを着た彼女は一言、 「甘いもの、食べたい……」 とだけ呟いた。俺は沢山の果物が詰められた缶詰を開け、木のスプーンで一口ずつ掬ってやる。ソレを口にした彼女は美味しそうに口元を緩ませた。ほんの少しだけだが、紅い眼も笑っている。 「ルナ、ありがとう……」 小さな感謝の言葉が、暗い部屋の中で弾けて消えた。 #bloody_camellia #バアルモン
幕間3  自室 content media
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縁田華
2023年4月08日
In デジモン創作サロン
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「ソレは問題ではない。お主のような者が此処にいるのは危険だと申しておるのじゃ。某(それがし)の部屋を貸してやろう、着いて参れ」 俺はサイバードラモンを麾き、ウパモンを両手で抱えて歩く少女に着いていくことになった。俺よりも少し年上のような、同い年にも見える見た目だが、随分と古風な日本語を使いこなしている。腕にはデジヴァイスらしきものを巻いていることから、彼女もテイマーなのだろうか。  悪臭が漂う闇市を抜け、比較的整った大通りに出ると、顔に冷たい雫が当たった。空を見ると、今にも雨が降りそうな濃い灰色の雲が街全体を覆っている。同時に少しだが肌寒くもなってきた。彼女が言うにはもう少しで着くらしいが、家らしき建物は一向に見えて来ない。歓楽街らしき区域(エリア)に入り、漸く目的の建物が見えてきたようだ。少女が指差した方向にあるのは、派手で悪趣味な雰囲気を出している、貴族の館か城を思わせる建物だった。  扉の向こうにあるのはエントランスホールかフロントだろうか。天井からは豪奢なシャンデリアが吊り下げられ、そこからは白熱電球か何かの温かな光が放たれている。カウンターには髪を綺麗なサイドテールに纏めた、金髪に琥珀色の目をした少女がいる。ラウンジのような一角には、革張りで二人掛けの赤いソファーが一対と、その間にはロココ調の装飾が施された長いテーブル。上に載っている硝子の器には、ほんの少しだけ白と黒の灰が積もっていた。それよりも驚いたのは、先導している少女よりも更に幼い子達が館の中に数人はいること。そして、彼女達が自分よりずっと大きなデジモンに侍っているのだ。ソイツは見た目だけなら人間に近く、顔立ちは外国の俳優を思わせる美しさだが、よく見ると頭の辺りに一対の羽根が生えている。本来ならばこの街にいてはいけない筈の彼のグラスに酒を注ぎ、菓子やつまみといった食べ物を持ってくるのは勿論のこと、話相手までしている。彼が連れてきたであろう、桜色の長い髪をした、人形のように美しく幼い少女に、優しい手つきで触れつつ、啄むようなキスを頬や唇に躊躇うことなく行うその様は、見ようによっては変態的とも官能的ともいえた。その上、少女達を愛でるのに夢中なのか、こちらには気づいていない。俺は目の前の彼が一体何者なのか、少しだが知っている。彼とは一瞬だけ目が合ってしまうも、すぐに少女達との談笑に戻った。俺の足は見なかったことにしようと、自然と早歩きになっていた。一番後ろにいるサイバードラモンは首を傾げている。冷や汗をかきながらも、俺は廊下へと繋がる扉の中へと入った。 廊下に出ると、扉が向こうに三つか四つ見える。少女はそのうち一つを開け、俺達も後に続いた。全ての扉は木製で、白く塗られている一方でドアノブには金メッキが施され、それは少しだが剥がれていた。ギィーっと音がして中に入ると、其処にいたのは思わず叫びたくなるような容貌のデジモンだった。何故目の前の彼女は叫び声一つあげないのか。抱えられているウパモンは何も知らないのか、辺りをキョロキョロと見回している。恐ろしさのあまり、俺はとうとう叫んでしまった。 「なんでアンタが‼︎なんで、アンタがこんな所に……‼︎」 「何じゃお主?何かあったのか?」 「ビーチェ、その少年は?」 「……街中で拾ったんじゃよ」 「話して差し上げなさい、ビーチェ……。彼に、全て……」 情け無く喚く俺と、慌てふためく竜人を他所に、ビーチェと呼ばれた少女は話始めた。 ビーチェ曰く、この館は人間・デジモン問わずにやってくる娼館、つまり売春宿なのだそうだ。経営者は目の前にいる道化師と、彼女。単なる身体目的の娼館とは違い、館にいる少女達は客を楽しませる為にある程度の教養を身につけている。読み書き算盤といった基礎的な学問から、古典や音楽まで幅広く。それこそ、ラウンジで痴態を晒していた、傲慢の魔王のような客の相手さえも彼女達の役目だから。しかも、これでもまだこの街の住人としては恵まれている方で、この街の、普通の人達は使い捨てられていく為の労働力として、或いは生活の為に仕方なく身体を売る街娼の女性も多いという。 「お主も見たじゃろう?虚な目をした連中を」 「……デジモンもいたね。誰が、あんな酷いことを」 「さあな。ドゥーレンじゃ日常茶飯事じゃよ。寧ろこっちの方が安全じゃし、大多数の者達より遥かに幸せな生活が送れる。だから某は此処にいるのじゃ」 「少年、この街では余計な正義感を捨てなければ長く生きることは出来ませんよ?」 二人は冷たく言い放ち、少し乱暴に扉を閉めて出て行った。後には、俺と黒い竜人、そしてベッドで転寝をしているクリーム色のチビだけが残された。 何をするでもなく、ただベッドの上に座りながらボーっとしていると、扉をノックする音が聞こえてきた。誰か来たのかと思いドアノブを回すと、目の前には空色の短髪をした少女がいた。ビーチェとは違い、右腕には包帯を巻いていて、頭の上には雪兎や団子、饅頭を思わせる白くて小さなデジモンを乗せている。その様はぱっと見微笑ましいと思えるが、にこりと笑い返してくれるのはデジモンの方だけだった。彼女自身は、淡い水色の、ベビードールやスリップを思わせるようなふわふわのドレスを着ていて、白いストッキングを、短いスカートから覗くガーターベルトで吊っていた。首には白いリボンチョーカーを巻いているが、本人の目つきも相まって枷にさえ見えてしまう。見たところ、歳はかつての戦友達と変わらないか、一つ二つ上くらいだろうか。本来ならば子供が持ち合わせている筈の無邪気さではなく、その眼の中には諦観が宿っている。 「失礼致します、お客様。私、本日から三日間お客様のお世話をさせて頂く、レオニーと申します。何なりとお申し付け下さいませ」 「此処に泊まるなんて聞いてないよ⁈」 「姐さんから、あなた方を三日だけ泊めるよう仰せつかりました。お食事の際はお呼び致しますので、それまでごゆっくりお寛ぎ下さい」 「聞きたいことが沢山あるんだけど……」 部屋に入ってきた彼女は、俺と向かい合うようにしてベッドに座り込んだ。クマ耳のようなお団子頭が目に入るも、明るさは微塵も感じられない。淀んだ藍色の眼に全てを奪われているような気さえする。底の方に宿る鈍い光は、僅かに残された執念だろうか。 「何を聞きたいの?」 彼女はある種の狂気を秘めた瞳でこちらを見つめている。ぼんやりしているようにも見えるが、こちらのことはちゃんと見えているようだ。 「この街のこととか、俺はどうして三日も此処にいなきゃいけない、とか……」 「そうだね、順を追って話すね」 彼女が口を開くと同時に、頭の上に乗っていた白饅頭はクリーム色のチビの傍へと降りていった。 レオニーの口から出てきたのは、この街がどれ程汚れたところなのか、ということだった。曰く、彼女がこの店にやってくるずっと前からドゥーレンは治安が悪く、テロリストのアジトがあったり、盗みや殺人、恐喝などといった犯罪が絶えないのだという。当然、警察は充分に機能してはおらず、それどころかギャングや麻薬密売組織から賄賂を受け取り、犯罪の揉み消しさえ行っている。市政を牛耳る上層部は綺麗なところで悠々自適に暮らしているというのだから救えない。デジモンも人間も、生きるのに精一杯で、食うか食われるかの闘いが日夜行われている。尤も、どんなに優れた能力を持っていたとしても人間の方が立場は弱いので、結果として人間は奴隷にされたり、酷い時には家畜として飼われたり、力あるデジモンの玩具やペットにされるといった末路を辿る。見世物にされる人間もたまにいる、と彼女は言う。また、街のはずれにはゴミ山があり、粗末なバラックにすら住めない浮浪者は其処で屯するか、廃墟と化したタワーマンションに住み着くのだそうだ。話を聞いている間、俺の脳は理解を拒んでいた。余りにも違い過ぎるのだ。自分が元いたところと。 「食うにも事欠くどころか尊厳を踏み躙られるなんて、あんまりじゃないか!」 「この街はそういうところなの。まともに学校に通えない子も少なくないから、字の読み書きが出来ない子も大勢いるわ。私はひと月前に此処へ来たけど、勉強が出来るって幸せなことよ。知らなかったことを知れるって楽しいし、今は小さい子向けの本なら読めるの。スノウもいるし、私、今が一番幸せよ」 レオニーはそう言って力無く笑顔を浮かべた。無理して見せるその笑顔は、不幸のどん底にいる者が己を強く見せようと気張っているようでもあった。 「どうして……、そこまで……」 「さっきも言ったよね?それに、此処より酷いところ、私知ってるから」 ウパモンとユキミボタモンは仲良くベッドの上で遊んでいるようだった。マットレスの上でトランポリンのように跳ねたり、竜人に体当たりしたり、壁にぶつかるまで転がったり。体当たりされた本人からしてみれば大して痛くはないのか、然程気にしてはいないようだ。何も知らずに遊んでいる小さなデジモン達を、俺は心底羨ましいと思った。 「そういえば、なんで俺はここから出ちゃいけないの?」 「これから三日間は天気予報で豪雨が降るって言ってたから。この店に限れば自由に動けるわ。でも絶対にこの店から出ては駄目。最後の日になったら、私がこの街から出ていけるだけのお金を渡すから、そのお金を使って駅で切符を買って。そして、この街には二度と来ないで」 「宿泊費は?」 「姐さんのツケだから心配しないで」 そう言ってレオニーは、白饅頭を頭に乗せて出て行った。 壁にかけられた丸太の時計を見ると、あと一分で七時になるようで、秒針が小さな音を心電図のように刻みながら前へと進んでいる。部屋の主である赤髪の少女は未だに戻って来ない。暇だからと、リモコンを手に取りテレビを点けると、ニュース番組が放送されている。やれ小学校がテロリストの手で爆破されただの、麻薬組織がどうのこうのといった暗いニュースばかりで、明るいニュースは一つもない。災害のニュースこそ一つもないものの、どう考えてもこの街は人間が住むところではないと思える。気が滅入った俺はリモコンをテレビに向け、チャンネルを回した。普通の教育番組や、昔の白黒アニメの再放送をしているチャンネルもあるが、視聴する気にはなれなかった。レオニーのことを想うと胸が締め付けられるのだ。助け出すことは愚か、この店から引き離すことさえ出来ない。彼女だけではない。彼女よりも年下の少女達やビーチェも。道化師の言葉が頭の中でこだまする。苦しい、とても苦しい。だが、彼女達のことは、そういう世界に生きている連中なんだ、と割り切らなければいけない。 「リョウ、どうしたんだ?」 「何でもない……」 長いこと連れ添った相棒にさえ、そう答えるのが精一杯だった。  俺を持てなそうとする気持ちは本物らしく、レオニーに呼ばれて案内された食堂には綺麗な食器が並べられていた。一つの欠けもなく、細かな花の模様が描かれた楕円形のパン皿。ワイングラスと見紛う形のウォーターグラス。皿の側には沢山のフォークやスプーン、ナイフが規則正しく並べられている。右隣には竜人が、左隣には白饅頭を連れた青髪の少女が座り、向かい合った視線の先には、クリーム色のチビを連れた赤髪の少女がいた。誰一人として『いただきます』とは言わない。最初の料理が運ばれてきても、だ。 最初に運ばれてきたスープはポトフだろうか。カップの中からは湯気がもくもくと出ている。よく刻まれた玉葱や人参の他に、大きなじゃが芋やセロリも入っていて美味しそうだ。試しに俺は先が円くて広めのスプーンでスープを一掬い。口の中に入れると、温かな汁と、ほくほくとしたじゃがいもの食感、玉葱の甘みが口の中を支配する。舌を少し火傷してしまったものの、水を飲みさえすれば問題ない。次にワゴンで運ばれてきたのは籠一杯のパンだった。中に入っているのはどれも一口サイズのパンで、ロールパンにクロワッサン、フォカッチャ、中にはライ麦パンもあった。俺はその中から普通の丸いロールパンを選ぶが、ほんの少しだけそれは熱を帯びている。見たところ皆手掴みで、トングが用意されてはいないようだ。選んだパンはバターをつけずに千切って食べた。砂糖は入っていないようだがほんのりと甘みが口の中に広がると同時に、柔らかな食感で俺の舌を楽しませてくれる。ふと竜人の席を見ると、汚らしくスープをパン皿の上にこぼし、獣のようにパンに齧り付いている。バターもつけずに。俺は彼の皿からバターをこっそり奪い、自分の皿に置いた。確かに、バターがなくてもイケる美味しさではある。三つ程食べたところで、竜人が、自分の皿にバターがないことに気が付いて、 「あ、俺のバターがない!あとで試そうと思ってたのに。リョウ……」 「……ごめん、使わないと思ったから」 俺は即座に謝り、彼の皿にバターを戻した。隣で誰かが見ている以上、悪いことは出来ない。 三つ星レストランや格調高いホテルを思わせる豪華な食事と、沢山の自分より幼い少女達に囲まれ、俺達は退屈な三日間を過ごした。三日目の七時に俺達は目を覚まし、のんびり紅茶を飲んでいると、レオニーがやってきて、 「おはようございます、お客様。お食事の準備が整っております。こちらへどうぞ」 俺達はまた、豪華な食事ばかりが並べられている従業員用の食堂に案内された。相変わらずスノウを頭の上に乗せながら歩いている。廊下の窓を見ると、すっかり日差しが強くなっていて、低木の上にはカタツムリがいる。そいつが葉の上を歩いた瞬間、濡れた木の葉から朝露が滴り落ちた。 ビーチェから二人分の切符代を渡された後、俺は、 「お世話になりました」 「もう二度と来るなよ。お主のような者を匿うだけでも精一杯だったのじゃから」 「いえ、とても良くして頂き、何とお礼を申していいか」 「ははは、それは良かった」 俺達は近くの駅まで走っていった。振り向くと、小さくだがウパモンを抱えながら手を振っているビーチェとピエモンの姿が見える。 「お気をつけて!あなた方の旅に幸在らんことを!」 そんな声が聞こえた気がした。 急いでトレイルモンに乗り込むと、乗客の姿はまばらで、立っている客は一人も見かけなかった。人間は俺一人だけだ。空は雲こそあれど、どこまでも晴れ渡っているというのに、未だ窓の外では小雨が続いている。俺達はボックス席に向かい合って座りながら、何をするでもなくこの眩しくも穏やかな景色を見ていた。 「なあ、リョウ」 「何だ?サイバードラモン?」 「外で雨が降っているのを見るのってさ、不思議な感じがするんだ。何だか世界を綺麗に洗い流してくれているような」 「そうかもな」 庭のブランコに乗ってはしゃぐ白いチビ達二人を尻目に、俺は一人で買い出しに行く準備を進めていた。沢山の小銭と僅かな札が入った黒の長財布と、エナメルの青磁色をしたがま口、銀色の携帯電話、三つ程のティッシュに灰色のタオルハンカチを詰め込んだ松葉色の鞄を肩から提げ、俺はフィニアの街の市場へと向かう。 「お前らちゃんと留守番してろよなー」 「はーい、ユゥリさんいってらっしゃい!」 「はいでクル!」 元気な声が聞こえてくると同時に、俺は早歩きで森の中へ入る。森を抜けた時、真っ先に目がいったのは広場に停まっている移動販売車だった。近づいてみるとどうもクレープを売っているようだ。俺は鞄の中からがま口を取り出し、バナナにチョコソースがかかったクレープを注文した。 出来上がったクレープはピンク色のポップな包み紙に包まれていた。俺は代金を払って品物を受け取ると、三人掛けのベンチに向かった。少年と黒い竜人が座っているが、ベンチ自体は肘掛けで隔てられているので問題はない。ふと少年の方を見遣ると、何故だか怯えている。変な奴だな、と思いながら正面に向き直ると、俺はクレープの皮を噛みちぎった。 食べ終えた後、少年はベンチからいなくなり、俺の隣には誰もいなくなっていた。代わりに、肘掛けを隔てた端の席には美味しそうにクレープを食べる幼い少女が座っている。亜麻色の長い髪に深緑の眼。白い薄手のブラウスに淡い桜色のスカート。魚を売っていたあの少女だった。俺は、車に備え付けられたゴミ箱に紙のゴミを捨てて、時計台を見た。急いで食べたのが良かったのだろうか、ほんの十分しか経っていない。少しでも高い確率で頼まれたものを買う為、俺は急いで市場に向かった。 #bloody_camellia
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縁田華
2023年4月01日
In デジモン創作サロン
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ベッドから起き上がり、布団から飛び出すと少し肌寒い。カーテンが閉じられた窓の外は雨で、然程激しくないとはいえ、硝子には水滴がポタポタと落ちてきている。落ち具合からして落書きなど出来そうもなく、かといって今窓を開けてしまったら雨がこっちにやってくる。空は暗いまま、黒い目覚まし時計は四時を指していた。部屋の中にあるモノは必要最低限しかなく、二人がギリギリ寝られるサイズのシックな木製のベッドと、シンプルだが木製の趣きあるデザインの書棚。中には手芸や料理の本、バイクの雑誌などが詰まっている。詩集などもあるが、埃を被ったまま上の段に追いやったままだ。元々難しい内容の本は好まない上に、理解が追いつかないのだ。レナータなら分かるかもしれないが、取るのが面倒な位置にあるので、手に取る気さえ起きない。結局、俺が手に取るのは中段から下段の本や雑誌だけになる。壁には長方形で枠のない鏡が、ベッドの左隣には充電コードが繋がれた小さなチェストがある。入り口付近にはジャケットを掛ける為のハンガーが、書棚の隣には大きな横長の黒い箪笥があるものの、やはり入っているモノは少ない。何から何まであの少女とは大違いだった。コレで十二畳という広さなのだから恐れ入る。もう少し狭くてもいい気はするが。二つの書棚の内一つには鍵穴があり、そこからは隠し部屋に入ることが出来る。その中には数体の人形と、部屋を埋め尽くさんばかりの布地やリボン、ボタンといった服飾の材料以外に、ミシンや裁縫箱といったものがあった。作業台らしき机には、白熱電球の少し古いデザインの電気スタンドと、作りかけの布地、それと巻尺(メジャー)や針山、飾りボタンや色とりどりの手縫い糸といった、一見俺とは関係ないモノが置いてある。入口付近には少女の体型をした裸のマネキンが置かれている一方、天井からは裸電球がぶら下がり、壁際には蜘蛛の巣がある。窓はなく、うっかり劇薬でも使おうものなら大惨事になるだろう。キルト製で紫色の水玉模様をした針山に刺さっている縫い針には黒い糸が通され、その隣には赤紫の柄をした裁ち鋏や、ピンクと水色のチャコペン、繻子織の白いテープ状のリボン、金メッキのチェーン、透けた黒いフリルといったものがある。散らかった机の真ん中には洋裁の教本が陣取り、その中には美しいドレスの写真が載っていた。 膝丈であることを除けば、写真の中のマネキンが着ているドレスは夜空のような紺色で、それなりの数のフリルで彩られている。これでもまだシンプルな部類に入るらしいが、袖を華やかに飾るフリルの重なり具合は、どう見ても英国貴族の女達が着飾る時のソレだった。或いは童話の中のお姫様。ドレスの裾にもフリルが付いている一方で、リボンが付いている箇所は、パフスリーブを絞っているであろう袖の一部以外どこにもない。なんならフリルそのものは種類こそ違えど腰にも胸元にも付いている。ドレスそのもののサイズは人間で云うところのSサイズで、ウエストは割と細い。場合によってはコルセットをつけなければいけないくらいに細いが、少食で子供のような身体つきの彼女なら、貴族のお嬢様を思わせるこのドレスを難なく着こなすことが出来るだろう。床にある箱の中には、ドレスに似合う靴やアクセサリー、ヴェールといった小物が入っている。つまり、アマリリスとレナータが同一人物であるという推測が当たった場合、俺は現でも少女を人形にしようとしていることになる。あれだけ病的で退廃的な美しさの持ち主なら仕方のないことだ、と己に言い聞かせながら、俺は作業台から巻尺を手に取ると、作業部屋を後にした。 向かう先は、未だすやすやと眠っているであろう少女の部屋。冷たく薄暗い廊下を歩いていくと、一枚のドアの前にたどり着いた。真鍮の楕円形のドアプレートにはアルファベットで『レナータ』と彫られている。二、三部屋先にあるとはいえ、本音を言うなら自室の外に出たい訳ではなかった。ノックもせずにドアを開けると、案の定そこには天蓋付きのベッドやソファー、更には床にもぬいぐるみが散らかっていた。レナータ自身は桜色のマカロンのぬいぐるみを抱いて眠っている。クッションとしても使えそうなソレは、触るともちもちとして肌触りがいい上にデザインも可愛らしい。飾り気のない白い枕にはクロが乗っていて、この水色の少女は枕を必要としていないようだった。強いて言えば、青い海月のぬいぐるみが枕の役目を果たしている。相変わらず枕元には変わり種だが可愛らしいぬいぐるみが沢山並べられている。パステルピンクのフタバスズキリュウに、何かとぞんざいに扱われている水色のモササウルス、大きくて白いせいで一瞬餅と間違えそうになるメンダコに、最近入った獺なんかも混ざっている。比較的小さめの、マリンブルーの企鵝と青い鯨は仲良く寄り添うようにして置かれていた。白い布団をめくってみると、いつもと変わらない格好で眠っている少女がいる。リボン付きのナイトキャップに、星が散りばめられたフリルのネグリジェ。太腿には濃い水色のリボンを結んでいるその姿は、良家の令嬢のように見えた。少なくとも、口を開けば少年のような口調で話す少女には見えない。髪は長く、腰か、下手をすれば膝までかかりそうなものだが、本人が言うには邪魔で早く切りたいらしい。だが、長い方がアレンジ出来る髪型のバリエーションは増えるし、何より流れる絹糸のように美しいということもあり、俺はとても気に入っている。 寝返りを打とうとしてもぞもぞと動く少女に巻尺を巻き付けてやる。目盛を見ると結構細いことが分かるが、危惧するような数値という訳でもない。小さな胸を見る限りはスタイルも良く、もう少し背が高ければランウェイの上を歩けたかもしれない。完成したドレスを着せたら最早本物の人形にしか見えなくなるだろう。俺は急いで作業部屋に戻り、紺色のモスリン生地に鋏を入れていく。ドレス用の型紙に沿って切るものの、構造が少し複雑なせいか、袖の部分は二、三センチ長くなってしまった。スカートはふんわり仕上げ、ペチコートを一枚しか穿かなかったとしても不自然にはならないようにする。これはスカートに態と裏地を作らない理由付けにもなっている。めくれた時に見えるフリルやレースがあまりにもお洒落で可愛いから。俺自身、人形のような彼女の美しさに囚われているのかもしれない。 裁つことは辛うじて上手く出来たが、目の前には大きな試練が待ち構えていた。少なくとも、今の段階では胴体ではなく、袖を二つ作るのだが、目の前にある古い足踏みミシンの針には糸が通されていないのだ。下糸は出ているのだが、上糸に当たる糸は何故か通されていない。針の穴はこれでもかという程細く、俺の大き過ぎる手では通すことさえままならない。藍色のミシン糸をどうにか通そうとすれば、今度は糸の先がほつれてしまう。何度も糸切り鋏でほつれた糸の先を切り、漸く俺はミシンの針に糸を通すことが出来たのだった。自分でも分かる。どう考えても自分にとって不釣り合いなことをしている。それだけレナータの美貌は凄まじいのだ。護りたい、と思わせるだけならまだしも、魔王である俺をも虜にし、ここまでさせる少女など滅多にいるものではない。 それからも俺は昼間に作業部屋へ赴き、ドレス作りに励んだ。ある時はミシンの針をうっかり自分の指に刺してしまったり、またある時は糸切り鋏と裁ち鋏を間違えてしまったり。作業に充てられる時間は二、三時間が精々で、進みはかなり遅かった。  ここまで縫い上げるのにもう三日はかかっている。最初はミシンでペダルを踏みながら。細い糸が上質な紺色の布地の上を駆け抜けていき、夜空に規則正しく線を描いていく。目立たない色だけで縫っているつもりだが、そうでもないのだろうか。少しだけ目立っている部分があるのだ。違和感を僅かに覚えつつ、俺は縫製を続けた。裁縫など俺とは本来なら無縁なものだったからか、指のあちこちから血が出てきて、その度に絆創膏の数が増える。今日は二箇所。これ位で済むならマシな方だ。 比較的細長い筒状のパーツは袖になる。自分の手でドレスの生地より透き通った黒いフリルを縫いつけてやる。フリルそのものはリボンと同じくテープ状のロールから必要な分を取り出して使う方式で、俺は袖に使う分だけを裁ち鋏で切った。糸切り鋏で切ると裁ち鋏程綺麗には仕上がらず、寧ろギザギザになってしまう。一回で切れるということもあり、コイツは割と重宝している。  ドレスの袖にはフリルを縫い付けるだけではなく、膨らませたパフスリーブにはサテンのリボンをベルトのように縫い付けるという作業が残っている。見えるところには飾りボタンをキツく。完成した暁には彼女がもっと美しくなるだろうことを想像し、俺は急いでソイツに取り掛かった。  作業を始めてから二時間程経ち、休憩をしようと自室に戻った時のこと。カーテンの隙間から橙色の陽光が差し込んできた。窓を見るとからっと晴れていて、雲が一つも見えない。 「もうそんな時間だったのか」 俗に言うところの『おやつの時間』に差し掛かったのだ。  少女達は俺がおらずとも、紅茶と茶菓子を美味しそうに食べながら談笑していた。白いチビはクッキーをテーブルの上にある籠の中から一つ取ると、両手でソレを掴み、口の中へ放り込む。そのまま咀嚼すると、とても美味しそうに目を輝かせた。ソイツがあまりにも美味しかったのだろうか、彼女は同じところから、今度はチョコレートのクッキーを取り出して、噛み砕く。先程とは違い、ソレは全体が焦茶色をしている。砂糖がどれくらい入っているかも分からずに、彼女は再び咀嚼を始めた。  相変わらず水色髪の少女は、紅茶の中に砂糖を大量に入れている。山盛り二杯、三杯と続け、それらの塊を混ぜてから漸く口にした。傍らには食べかけのクッキーがあり、よく見るとそのクッキーには、まるで宝石の鉱脈のようにドライフルーツが散りばめられている。分かる範囲でもパパイヤやベリーなどが入っていて、甘さの他にまろやかな酸味も味わえる。三分の一しか食べていないようだが、飽きてしまったのだろうか。 「ん……」 飲み終えたらまたちびちびと食べる作業を再開しているので、どうやら思い違いだったようだ。普段、彼女はぼんやりしていて口数も少ないが、たまに笑顔を見せる時がある。今もそうだ。甘いものが好きな彼女にとってここは天国なのだろう。その笑顔は決して俺には向けられない。寂しくも嬉しい事実がそこにある。 陽がすっかり落ち、こゆきとブランは部屋でテレビを見ていた。映し出されているのはお笑い番組だろうか、テレビの中には申し訳程度の小部屋のセットが用意され、セットの中にある机には一つだけ電話機(プッシュホン)が置かれている。男の人が二人座って、それぞれ違うところから電話が掛かってきた、という内容のコントのようだった。電話を持っていない一人は、懐から黒い携帯電話を出して電話を受けている。その内容はすれ違いつつもどこか噛み合っていて、ブランもこゆきもゲラゲラと笑い転げていた。時計を見ると、もう少しで晩ご飯の時間だが、ルナはいない。ブランは彼を探しに部屋の外に出ようとしたが、同時にこゆきも立ち上がり、 「私も行く。ルナ、様子がこの頃変だからな」 彼女も部屋から出て、二人でルナの部屋に向かった。菫色のワンピースについている黒いフリルと紫のリボンをはためかせながら、それでいて足速に。 ドアをノックしても返事がない。ならばとドアを開けると彼の姿はなかった。飾り気のない部屋の奥には、二つの本棚があり、左の本棚には鍵穴がある。耳を当てると中で小さな物音がした。隠し部屋があるのだろうか。よく見ると本棚には隙間がある。そこを動かせば部屋の中に入れるだろうか。しかし、右から引いてもびくともしない。こゆきはそんなブランを見るなり、 「こう、じゃないのか?」 そう言って左から本棚を押すと、温かな灯の点いた部屋が現れた。 「お前ら、なんで此処に……」 ルナは驚き焦った様子でこちらを見ている。 「ルナ、ご飯でクル」 「だから呼びに来たのだ……。あー、成程な」 部屋の様子を見るなり、こゆきがニヤリと笑う。 「絶対に言うなよ⁈レナータには特に‼︎」 「貴様の頼みだ、聞き入れない訳がないだろう。しかし、腕っぷしが強そうな貴様が手芸とはなあ……」 少女は笑いをこらえている。ルナは頬を赤らめていて恥ずかしそうにしている。その様子を見たブランは思わず笑ってしまった。 「笑わないでくれよぉ……」 顔を押さえながらルナはそう呟いた。窓の外には小さな星が瞬いている。もうすぐ晩ご飯だ。 #bloody_camellia
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縁田華
2023年3月25日
In デジモン創作サロン
タイトルのイメージ ←前の話 https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/10-rainy-rainy-daysi?origin=member_posts_page 次の話→ https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/11-rainy-rainy-daysii?origin=member_posts_page  また、相変わらずだ。俺は地下室のベッドの上で寝転がっていた。悪夢を擁する繭の中ではいつも同じ場所にいる。薄暗く、殺風景な部屋。目で見るだけでは何もないようにさえ見える部屋だ。冷たく、古ぼけたそこにあるモノといえば。本棚の中には埃を被った本と、一つの硝子瓶しかない。傷一つない真新しいソレに、ラベルなど貼られてはいない。俺はキャニスターにもよく似た硝子瓶の中にある紅眼を見つめていた。まるで慈しむかのように瓶を見遣ると、中にある潰れた目玉が少しだけ嬉しそうに見つめ返してくれる。言葉の無い部屋には沈黙が続いているが、それでいい。  薄暗く、広いだけの燈台に来てからどれくらい経っただろうか。少女の傷は一向に癒える気配がなく、それどころか自ずから傷を増やしているようにさえ見える。白いアザラシのぬいぐるみを弱々しくか細い手で抱きしめ、腕には点滴の針が通されていた。胃腸が弱っているのもあるのだろう、たまに俺が用意した粥やすりおろした林檎を食べる時もあるが、彼女自身は目が殆ど見えないということもあり、俺の介助を受けない限りは食べることさえままならない。それでも、自殺を試みることはなくなったし、逃げ出す頻度もずっと少なくなった。このまま平穏な日々がずっと続けば良いのだが。幼く傷だらけの彼女の叫びを受け止めてやること、ソレが今の俺に出来るだろう唯一のことだった。 昇降機(エレベーター)の扉が開き、俺はその中に入る。まるでフェンスのようにも見えるそれは、ところどころ錆びついて螺子が緩んでいる箇所さえあった。ともすれば、使い古されたパイプ椅子のように、事故が起こりかねない。ソレでさえマシな方ではあるのだろうが。床も木で出来ているせいか、コイツはいつ床が抜けてもおかしくないのだ。向かう先は三階。つまりは最上階である。少しずつ上へ上へと引っ張られていき、俺は目的の階へ赴いた。冷たくも薄暗く、頼りない緑色の光が足元を照らしている。不思議と不気味さは感じないが、安らぎを感じるという訳ではない。辺りにある物々しい機械の数々は、此処が只の燈台ではないことを示していた。試験管のようなチューブだかポッドには、昔誰かが入っていた形跡があり、今は只ラバランプのように柔らかく朧な光を出しつつ、液体の中に細い管が揺蕩っているだけだ。用途は少しだけ想像がつくものの、コレはこの繭の主に必要なモノなのだろうか、と俺は首を傾げた。もしかしたら、この液体の中身は薬液で、このポッドは彼女の傷を癒す為に作られたのかもしれないからだ。もう随分と放置されているソレは、変わらずに緑色の光を発し続けていた。  硝子越しに見た自分の見た自分の顔はなんと酷いものだろうか。別に、片腕に抱えている女物のワンピースとリボンはまだいい。これは彼女へのプレゼントだから。それよりも問題なのは自分の顔、就中眼の辺りが酷いと感じた。紅い眼はまるで、身を切った時の鮮血のようで、美しさよりも不気味さの方が優っている。これから見舞いに行く少女の眼には、不気味さの中に愛らしさや妖しさがあったというのに。白き死神と呼ばれることには納得出来るし、俺自身ソレを受け入れている。慣れていた筈なのに、自分の顔を鏡で長いこと見ていなかったツケだろうか。紅い眼は年端もいかない少女にさえ恐怖を与えるには充分過ぎたのだ。  彼女、アマリリスの白く美しい肌は、数十箇所にも亘る刺し傷のせいでボロボロになってしまった。それも木乃伊のように見えるくらいに酷く、ついこの間までは痛みの余り起き上がることさえままならなかったのだ。今でもゆっくり歩くのがやっとで、その度に肩で息をしている。俺はもう何回も世話や見舞い、治療の為に彼女のもとへ赴いているが、怪我をしているという事実は変わることがない。腕の中にある、畳まれた服を見遣りながら、俺は薄暗い病室に向かった。 「もう少し、か……」 木組みの燈台らしく、小窓が開いた一枚の木製のドアの前に辿り着いた。ノックもせずにドアノブを回そうとすれば、鍵が開いているせいか簡単に開いてしまう。つまり、この先に当人がいない可能性もあることが理解できてしまった。六畳くらいの狭い病室を見回し、誰もいないことを確認する。無理矢理点滴を外し、少し前に贈った二つのぬいぐるみはベッドの上に置かれたままだ。アザラシのぬいぐるみには撫でられた跡が少しだけ見受けられ、恐竜のぬいぐるみは強い力で握られたのか、おなかの辺りが少し凹んでいる。序でに薄い毛布と掛け布団はめくれていて、シーツに触れるとほんの少し温かかった。この部屋にも、仕組みから用途まで何も分からない機械が沢山ある。ベッド自体は普通の、どの家庭にもありそうなパイプベッドだが、柵などは付いておらず、万が一寝返りを打とうものなら転落することもあるような代物だ。怪我人に相応しいものではない。 「また逃げたのか……」 到底動けそうもない躰で、彼女は俺を嫌い、逃げ続けている。何の為に身を隠そうとしているのかは分からない。何も言わない日も少なくないから、彼女のことは分からないことばかりだ。見えない方の眼から流れる涙は、時に血のようにさえ見えた。傷口が何度開き、出口がないであろう暗闇の中に閉じ込められたのだとしても、俺が少女を逃すことはない。  彼女がいる部屋を見つけるのに、然程時間は掛からなかった。なんて事はない、廊下の奥の突き当たりの部屋にいたのだ。二階の数部屋ある中から虱潰しに探すつもりだったが、こんなに呆気なく見つかるとは。燈台のドアは普段からきちんと閉めてあるのもあって、逆にこうした時にすぐ分かってしまう。彼女からすれば迷惑な話だろうが。ドアを開けると、少女はカウチの上で震えながら横たわっていた。肘掛けが一つしかなく、背凭れも斜めになっている。色は青で、高級そうな革か何かで出来ていた。変わらず包帯に包まれているだけで、他のものは何も身につけてはいない。美しい水色の髪も、ベージュの毛布のせいで殆ど見えなくなっている。何故だか木のチェストの上には小さなランプが置かれ、そこだけが明るくなっていた。白熱電球だろうか、温かみのある山吹色の光を放っている。他に燭台もシャンデリアも見えない。この部屋唯一の光源だ。  ふと壁を見ると、壊れた幼い少女の人形が錆びた釘で打ち付けられている。ソレも全身全てではなく、脚だけ、胴体だけ、頭だけという時もあり、全てが全てマトモに服を着せられていない。革靴だけが履かされている小さな両足が、チェストの隙間から出ていると知った時は、危うく踏みそうになってしまった。床には裸の人形数体が無造作に捨てられ、中には手足が捥げていたり頭が外れかけているものもあった。ランプの光のせいで分かりにくいが、人形の眼は蒼灰色か灰緑に限られ、髪の色は茶色の系統か見事なまでの金だけだった。髪の長さや髪型はまちまちだが、少なくとも坊主頭にされた奴はいないようだった。壁と床だけでなく、天井からも壊れた人形が吊るされていた。二、三体、もしくはそれ以上か。無茶苦茶なポーズのまま裸で吊るされているモノが殆どだが、その姿は官能的にさえ見える。澄んだ硝子の目玉はまるで、眼前の少女を責め、嗤うようにして見つめていた。俺には虚な硝子玉がこちらを見つめているようにしか見えないが。彼女が怯えている理由は未だに分からない。部屋の奥にあるベッドには、沢山の壊れた人形が並んでいる。中には丸坊主にされている人形がいたり、髪や首にリボンを巻いただけの人形もある。皆、『ありふれた』少女の外見を模していているだけだった。そのうち一体だけはシーツの上に横たわっていて、麦の穂を思わせる金の髪は短く切り揃えられ、蒼灰色の眼でこちらを見つめていた。この部屋にある他の人形達の例に漏れず、裸で、関節が剥き出しになっているとはいえ、小さいながらも胸がある。触れようとも思わないが。首には紅い縄がかけられ、腹や臍の辺りまでソレが伸びていた。年齢は見たところ五、六歳くらいだろうか。まだまだ幼く、性差を感じにくい躰は、赤ん坊だった頃の名残を残すかのようにぷっくりとしている。人間とは思えないくらいに、恐ろしささえ感じる程美しいところは、カウチに横たわっている彼女によく似ていて、もしかしたらこの人形はあの少女の本来生まれてくる筈の姿だったのではないだろうか。しかし、枕も布団も何もないベッドの上で横たわるソレは、何かを訴えているようで、その実何も問いかけては来ない。撫でる気にも愛でる気にもならないその躰の中には、何処までも虚無が広がっている。だからこそ怖くはない。 逃げ場さえ奪えば、きっと彼女は生きてくれるだろうと俺は考えていた。結果としてその通りにはなったが、彼女は拒み、また逃げるだけで、その場凌ぎが精々だった。袋小路に追い詰めたところで彼女はまた「殺して」と呟くだけだろう。その果てが『人形になる』こと、或いは『人形である』と思い込むことなのだとすれば。彼女はこの繭の中で幸せな夢を見続けたいのだろうか。首を縄で縛られ、天井を虚な眼で見つめ続ける幼子の人形のように。ソレは、自分の不幸に酔いしれているだけではないのか。なら、その歪んだ夢に終止符(ピリオド)を打ってやるのも俺の役目ではないのか。 俺は持ってきた服をベッドの端に置き、懐から鉄鞭を取り出すと、そのまま人形に叩きつけた。陶器か何かだろうか。割れた箇所を覗くと厚みがあることが分かる。四肢、顔、胴体、と何回も叩きつけてやり、部屋の中には乾いた音だけが響く。金の髪は全て毟り取り、あれ程美しく愛らしかった幼子はすっかり醜いだけのモノに成り果てていた。 「虚なまま愛されるとでも思っていたのか?」 人形は哀しそうな顔をしながらこちらを見つめるだけだ。何をするでもないし、呪詛を紡ぐ訳でもない。硝子の目玉にはどんどん罅が入っていき、手足も胴体も潰れて使い物にならなくなっている。 「潰れろ、潰れろ、潰れてしまえ‼︎お前なんか、潰れろォ!」最後に鉄鞭を振り上げた時、ソレは、 「ママ……」とか細い声で哭いた。  いつの間にか俺の眼からは涙が溢れている。目の前の人形は形さえ残さずに、残骸となった破片を散らしていた。何故だろうか、俺自身の呼吸が荒くなっている。涙が止まらない。耳を塞ぎながらカウチの上で横たわっていた少女が、泣きながら問うてくる。 「どうして、壊したの……?せめて、幸せな夢くらい、見せて……」 「中身のない幸せを得ることが、お前の幸せだったのか?違うと、言ってくれ……」 「私の理想……、憧れを返して……。生まれてくる筈だった私の姿を……」 気づいた時にはお互いに泣き崩れていた。俺は、彼女の髪を撫で、優しく抱き寄せる。彼女の紅い眼は、今やどの人形の虚な眼よりも輝いていて美しい。俺の心の内は、ドス黒く濁っているから、彼女の、水晶のように美しい心とは違うのだ。だから、冷たい言葉で己の心を守ろうとする。弱り切った少女の心に、その真意は届かない。 「仕舞いにしよう、アマリリス」  俺はベッドの端に追いやっていた、水色のフリルのワンピースを少女に着せてやる。黒いボタンを三つ外し、袖を通してやったら完成、という訳でもない。繻子のような薄水色の髪の先を梳かした後、紺色のリボンで結んでやり、彼女を金縁の姿見の前まで連れて行く。鏡の中には御伽噺の世界の少女(アリス)のようにも、荊の城で眠る姫君のようにも見える美しい少女がいる。 「……見えるか?」 「ううん……。分からない、あなたは何がしたいの?」 「……俺は、この一時を大切にしたいだけだ」  俺と少女はカウチに座り、そのうち彼女は俺の躰に凭れかかるようにして眠ってしまった。二人を優しく電球の光が照らし出し、動物の尻尾か何かのようにして、リボンで結ばれた髪がほんの少し揺れた。元々治りつつあるが深い怪我ばかりをしていて、やっとのことでこの部屋まで辿り着いたのだろう。左眼の包帯はそのままに、無邪気な右眼を閉じた彼女は、優しく俺の大きな手を握っていた。 「……して」 「どうした?」 「……赦して」 「誰も、お前を罰することはない。俺が、いるから」 薄紅色の唇に接吻キスを贈り、こちら側に抱き寄せてやる。髪を撫でれば僅かに口元が緩み、穏やかな寝顔を見せてくれる。冷たく虚な人形達とはまた違う、優しい顔。 「アマリリス……、俺の可愛いお人形さん(マイ・ドール)……」 #bloody_camellia #バアルモン
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