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フォーラム記事

マダラマゼラン一号
2024年4月20日
In デジモン創作サロン
風吹の自動車はなめらかに塔京を走り抜ける。僕の体は足の先まできしんでしまっていて、わずかな揺れにも傷みでうめき声を上げる始末だったが、彼女の運転はその苦痛をぎりぎりまで軽減してくれていた。 「本当に病院まで行かなくて大丈夫?」 「行ってどうするんだ。”カンパニー”の監視網は病院だって逃がしちゃくれない。そのまま捕まるのが関の山だよ」 「裏社会の人間向けの病院につれていけるわ。身元不明のまま治療をしてもらえる」 「無駄だ。そういうところをこそ”カンパニー”は監視の的にしているはずだよ」  そう言ってから、僕は彼女の方を見た。その拍子にに肩から激痛と共にぎりり、という音がした。 「ちょっと、あまり動かない方が良いんじゃない」 「そうだよ。でも意外だったんだ。君がまるで、僕に法を犯すよう勧めているみたいだったから」 「冗談言わないで」  風吹は心底あきれたようにため息をつきながら、注意深く車窓から見える景色を見渡した。 「別に、あなたに死んで欲しくないってだけよ」 「君を裏切った」 「うそをついてるのなんて、分かりきってたわ」  僕はそれには返答せずに、鞄から拳銃を取り出した。ジャケットの内ポケットに入れてあるつばめの羽を一枚装填する。光の粒子となって銃身に吸い込まれていくそれを、風吹はあっけにとられたように見ていた。 「よそ見するなよ」 「驚いた。普通の銃じゃ無いとは思ってたけれど、その羽何?」 「話すと長いんだ。それに、僕にも全部は分かっていないし」 「でも、話してくれて良いはず。私にだって」  そこまで言って風吹は口をつぐんだ。自分にも知る権利はある、と言いかけてためらったのだ。正しい判断だった。彼女にそんな権利はない。僕たちの誰にもその権利がないように。 「そういう奥ゆかしさは心配になるよ。風吹。警察でうまくやれているかい?」 「余計なお世話。誰よりうまくやってるわ。少なくとも人間の中ではね」  そうしてしたたかな笑みを浮かべる風吹の横で、僕は銃口を自分の腹にあてがい、引き金を引いた。驚いた彼女が小さく悲鳴を上げ、その拍子に車体が大きく揺れる。 「ちょっと、何してるの!」 「大丈夫だよ」  僕はそう言いながら、淡い桃色の光に包まれた自分の体を示してみせた。冬の朝に温めた牛乳を飲んだときのように、腹の底からぽかぽかとした感覚が湧きあがり、痛みが和らいでいく。 「”セイント・エア”だ。傷を治す効果がある。一時しのぎではあるけどね」  正確に言えば、回復できるのは”ランダマイザ”手術によってデータと置き換えられた部分だけだ。それ以外の、僕が生まれ持った肉は回復しないし、そんな中でごまかしごまかし体を動かしていては後でどんなひどいことになるか分かったものではない。けれど、そんなことまで風吹に話す必要はなかった。彼女の顔は既に真っ青だったし、僕も自分の中の肉がどうなろうと知ったことではなかった。 「・・・・・・私に隠し事をする気は無くなったってわけ」 「そうだ」 「でも、事情を話してくれる気は無いのね」 「大事な人が関わってるんだ。それだけだよ」  風吹は僕を見た。彼女の運転はほとんどゆらがなかったから、きっと周囲に意識を配るついでにちらりと流し見ただけだっただろう。けれど、僕にはずいぶん長い間その視線で射すくめられた様な感覚がした。 「その人は、生きてるの? 死んだの?」  ──サイハラツバメの死についてなんて、何も知りたかないはずだ。あんたはまだサイハラツバメを殺せてない。あんたは、アタシたちが最初に観測した9年前から何も変わっていない。  ナノモンの言葉が脳内でこだまして、僕は目をつむった。彼女のあざけるような声の残響が完全にかき消えるまで待って、あんなの気にすることないんだと無理矢理思った。 「死んだよ」僕は答えた。  赤信号で車が止まって、風吹はたっぷり1分間、僕の横顔を見詰めてきた。僕は1分間、しらんふりをした。 「染野くん、あなた」 「やめてくれ、最近そればかり言われるんだ。僕が彼女の死を受け入れられてないって」  そう一息で言った僕の口調は、自分で意図していたよりも遙かに強いものだったらしい。彼女はものわかりの悪い子供にそうするように、大きく首を振った。 「そんなこと言わないわよ」 「でも、何か言おうとしているだろう」 「どうしてそう思うの」 「みんなそうだからさ」 「女の子なんだ」 「なに?」 「その人は女の子なんだって。私が思ったのはそれだけ」  僕は驚いて風吹の顔を見た。彼女は目を合わせてはくれなかった。 「どうやって、死んだの」 「話すと長い」 「だから聞いてるの」  その言外の意味が、僕には痛いほどに分かった。僕と彼女に、もうこんな長い時間は巡ってこない。たとえ一生掛けても。それが分かっているから、つばめもうるさくわめき立てたりしないのだ。 「僕は彼女を救うつもりだった」だから僕は話し始めた。それが過去の告白のように聞こえないように祈った。 「僕も彼女も、世界が終わると思っていた」 「あのころは、みんなそうよ」 「君も?」 「私も」 「意外だな。リアリストのくせに」 「リアルに世界は終わりかけたのよ」  風吹はそれだけ言って、僕に話の続きを促した。彼女は僕やあの自殺志願者たちのように、世界の終わりを一夏の夢にできなかったのだ、と思った。ヒウラフブキのなかでは、世界の終わりはきっと続いているんだと分かった。 「僕と彼女は一緒に逃げ出した。走って、走って、だけど彼女は死んだ。天使の羽になった」 「羽に?」  僕が”天使殺し”にこだわる理由に思い当たったのだろう、彼女は軽くうなずいた。 「どの駅で降りたかも、どこに向かって走ったかも覚えていない。暗くて、雪まで降ってた。寂しくて静かな路地だったよ」 「それは」風吹は少しためらって、それでもその問いを投げた。 「世界の終わりよりも?」 「ああ」僕はうなずいた。「世界の終わりよりも」  彼女が自動車のブレーキを踏む。車体が緩やかに減速し、やがて完全に停止した。窓の外に目を向けると、近代的な建築の社屋が見えた。白い壁に這うようにして、よく手入れされた植物のツタが植えられている、きっと建築家の意向という名前の植物だ。ソフィスティケートされた花を咲かせ、センスのいい実を付け、種からは何も生えてはこない。 「ついたわよ。”ヴァリス製薬”。一応聞くけど、本気で行くの?」 「そうしないと。連中はうその真相で事件に幕を引く気だ」 「そんな使命感や正義感で行くんじゃないでしょう」  そのとおりだった。僕は扉を開け、体中が痛みに悲鳴を上げるのをなるべく顔に出さないようにしながら降りた。礼を言うために振り返ると、風吹はダッシュボードを開き、そこから袋に包まれたマスクを出して、僕に手渡した。 「そのままの顔で行ったらきっと受付で通報されて終わりよ。私が花粉症でよかったわね」 「たしかにね。ありがとう」 「ねえ」  不意に、風吹が思い切ったように尋ねた。 「その女の子とは、最後に何か話せたの? つまり、彼女が死んじゃう前に、ってことだけど」 「話したよ」  そうだ。「もう一度」とつばめに請われ、彼女を抱きしめながら、熱を持ったひどく不安定な温もりを感じながら、言ったのだ。 「どこまでも一緒に行こうって、僕は言った」 「それなら、全部そのせいね。きっと」  きっとそのせいだと、僕も思った。 「ねえ、染野君」彼女は肩をこわばらせながらハンドルを握って、車を発進させる代わりに僕に話し掛けた。 「なに」 「今こんなの言うのどうかしてると思われても仕方ないけれど。たぶん最後のチャンスだから言うけれど」 「回りくどいな。君らしくもない」 「どこまでも、一緒に行けるわ」 「風吹?」 「あなたと、そうすることができる。今ならね」  僕はわずかに眉を上げた。彼女は僕に目を合わせなかった。車の進行方向ばかりを見ながら、時折意味も無くバックミラーやガソリンの残量に目をやっていた。顔は真っ青なままで、唇は硬く引き結ばれていた。 「ごめん」  僕はそれだけ言って、車のドアをなるべく残酷に聞こえないように閉めた。ドアはおおきな、どん、という音を立てて閉まった。  自動車はなめらかに発車し、僕から遠ざかっていく。  風吹はきっと本気だったんだろう。一緒に逃避行、なんて物語を好むタイプじゃない。僕を助けて共に無実を証明しようとするか、そうでなくとも捕まった僕の側にいてくれる気だったんだろう。僕が共に死のうと言ったら、彼女は驚いて、焦りながら止めてくれるだろう。 「どんなに黙ってても変わらないよ」  僕は車が去った後の灰色の道路に向けて、少し大きな声で言った。 「君は死んでない。僕にはまだ君の声が聞こえる」  ──あの子と一緒に行くべきだったよ。  つばめの声が聞こえた。それは僕の心に残された良識とかいうものの声なのかもしれなかった。つばめももしかしたら、そんなことを言うのかもしれないが、僕にはそれを想像することしかできなかった。 「かもね。でも、約束したから」  ──死んだ人と一緒にいることなんてできないよ。ハルキが一緒にいるつもりになれるだけ。 「それでもだ」    僕は声を上げた。通行人が何人か僕のことを振り返って、それから見ないふりをした。 「それでも、僕は君をひとりぼっちにしない。あんな暗くて静かな場所で、君が一人で死んでるなんて、耐えられない」  そう言いながら、僕はゆっくりと歩き出す。もう、と誰かがため息をついた。 夕日に照らされた塔京の街、そこには無数のコンビニエンスストアが立ち並んでいて、どこにもほとんど同じ商品が並んでいる。”天使の日”以降、コンビニエンスストアはいっそう熱心にその触手を全国の隅々にまで伸ばしていた。  誰も口にしないだけで、人間はみんな、風情のある個人商店よりもコンビニの方がずっと安心するのかもしれない。画一的な商品を欲する人類が自分の他にも大勢いるという事実に、滅びに直面し続けている心が慰められるのかもしれない。棚に並ぶ商品の数々は、世界が終わっていなかったあの夏から続く、変わりの無い日常なのだ。  人で賑わう通り沿いにあるセブンイレブンでもそれは同じ。夕暮れ時と言うこともあり、定時で首尾良く仕事を終えた人間たちが大勢詰め掛けている。  と、その中から、ダークブルーのコートに身を包んだ男が、ビニール袋を片手に提げて出てきた。ありふれた光景にも見えるが、その男の背は、周囲の人間と比べても倍以上に高かった。  周囲からの奇異の視線をものともせず、男は車道のすれすれに立ち、目のすれすれまでを隠したニット帽の下で大あくびをした。  やがて、通りに一台の車が滑り込んでくる。長い車体に艶めいたぴかぴかの黒。リムジンというものが既に過去の遺物になったと信じて疑っていなかった市民たちは、皆一様に口をあんぐりと開けて、その車がコートの男の前で止まるのを見詰めていた。  男は運転手が出てきてドアを開けるのも待たずに、乱暴にドアを開き、頭をかがめて乗り込むと、股を大きく開いて座席にどっかと座り、奥の座席に腰掛けている人影に向けて口を開いた。   「ナノモンがソメノ・ハルキに接触したぜ」  男は人影を見詰める。同じ車内で、しかしその影の座る場所だけは深い闇に包まれているように、光というものがその影の側から逃げ出してしまったかのように暗かった。 「結論から入るな。親友。優雅じゃないし、その情報なら私は既に知っている。ワインはどうだね?」  愉快そうに語り掛けてくる人影に、コートの男は誰が聞いても機嫌が損ねたと分かるほどに声をゆがめた。 「第一に、ワインは飲まない。第二に、こいつは俺が足を使って集めた採れたての情報だ。クレームは受け付けない。第三に、俺とアンタは親友じゃないよ。ヴァンデモン」  そう言いながら、男はニット帽を外して横に放る。その男の顔には包帯がぐるぐるに巻き付けられていて、ぎらぎらとした緑色の目がのぞいている。 「つまらない男だな。マミーモン」 「あんたに面白いと思われる男は不幸だ。ソメノハルキはとびきりの不幸らしい」  そう言いながら、マミーモンと呼ばれたそのデジモンは、コンビニの袋から中華饅を取り出し、大きく口を開けてかぶりついた。高級な革の座席に散らばる食べかすを不快そうに眺め、ヴァンデモンは血のように赤いワインで満たされたグラスを揺らす。 「アンタほど変化を嫌う男がリムジンなんて。いつもの棺桶はどうした?」 「眠る暇のない案件なんだ。それに今日は、運転手の方から転がり込んできてくれたものでね」 「おたくら、ずいぶん悠長にしてますけどね」  と、ヴァンデモンの反対側、座席の向こうの運転席から、間延びした声がする。 「おれはこの胴長の不細工な車を運転すれば旦那を助けてもらえるって聞いてるんですよ。警察のネエちゃんだけじゃどうにも心許ないから、おっかねえ”コレクティブ”の幹部のとこに駆け込んだってのに。こんな窮屈な運転を押しつけられたんじゃやってらんねえや」 「おい、その声、聞いたことあるぞ」マミーモンが頭の後ろで手を組む。 「ソメノハルキの回りを死霊に探らせてたときに聞いた。奴に使われてるブギーモンだな。じゃあアンタの情報源もそれか」  マミーモンに水を向けられ、ヴァンデモンは軽くうなずく。 「ハルキ君から私のことを聞いていたらしい。彼が”カンパニー”に連れ去られる事態に、勇敢にも”闇貴族の館”の扉を叩いたというわけだ」 「おまえなあ。ウチは観光客が駆け込める大使館じゃねんだぞ。”コレクティブ”に尽くしているわけでもないおまえが駆け込んだって、助ける義理はねえよ」 「別に義理なんかアテにしてねえですけど」  ブギーモンはぶっきらぼうに続ける。 「おれはただ、いつ死んでもおかしくないような旦那を、誰かが助けてくれれば良いなって思ってるだけですよ。てめえの力でそれをしないのが甘っちょろいって言われたら、まあ、そうですけど」  ヴァンデモンは、その言葉にあきれたように苦笑した。 「安心しろ。小さな悪魔。おまえがこうして我々を運んでいる時点で、契約は履行されているとも。信頼のおける戦力をソメノ君の救助に向かわせている」 「へえ、そりゃあ、どうも」  必死で頼んだ割には、大して嬉しくもなさそうな礼を漏らすブギーモンを見て、ヴァンデモンはどこか満足そうに笑った。自分を恐れない相手との会話が心地良いのだとマミーモンは思う。最もブギーモンのそれは、どうにでもなれと腹をくくったところから出てくるから元気のようなものだろうけれど。  そうはいっても、今の会話はいささかフェアでない。マミーモンは顔をゆがめ、運転席に聞こえないよう声を潜めてヴァンデモンに話し掛けた。 「おい、戦力って”選ばれし子どもたちの会”か」 「ご明察。連中がソメノハルキに張り付いていることは知っていたからな。動きやすいように奴らの回りの”選友会”幹部の気を引いてやったんだ」 「アンタは”コレクティブ”の幹部だ。電話一本でも受ければ、教団のおえらがたはあらゆる予定をキャンセルしてアンタに従うだろうよ。いいや、電話もかけてないな?」 「ダイレクトメッセージというのは便利だ。文面はしもべたちに考えさせれば良いしな」 「じゃあ、アンタは何もしてない。ソメノハルキを助けられるかもしれない奴らが、動くかもしれない状況を作っただけだ」 「彼は助かるさ」  確信が籠もった口調で語るヴァンデモンに、マミーモンは身を乗り出した。 「なあ、そろそろ聞かせろ。ソメノハルキがなんだっていうんだ? どうして俺に奴を探らせたり、変な銃を作ってやったり、命を助けてやったりする?」 「何を今更。彼が関わった事件の重大さは知っているだろう」 「ああ。報告書を何度も読んださ。重要だったのはどう考えてもサイハラツバメだ。ソメノハルキはサイハラツバメと親密だったから、アンドロモンに利用された」 「あのレプリカントとは戦ったことがあるだろう。そこまで器用じゃない」 「そうだとしてもだ。ソメノハルキはたまたまそこにいただけ。それ以上でもそれ以下でもない」  たまたまそこにいただけ、その言葉が愉快で仕方ないとでも言うように、ヴァンデモンは唇を引きあげる。 「君の言うとおりだ。親友。彼はたまたまそこにいただけ。それだけで彼は、出会って半年そこそこの少女のために住んでいた場所も家族も全部放り投げた。そして今、彼はその少女のために、10年近い時間を棒に振ろうとしている」 「まるで不死者の道楽だ」  マミーモンは中華饅の包み紙を丁寧に広げて、それからまたくしゃくしゃに丸め、シートに放った。 「そうだ。彼は短い人間の生の、さらに短い少年期をそれに費やした」 「それが、アンタが奴を気に入った理由?」  木乃伊男はあきれたように首を振った。 「アンタ、デジモンを何体も不死にしてもできなかったことを、あのガキにやろうってのか」 「君は察しが良くて困る。長生きできないぞ」 「死なねえよ。アンタがそうしたんだ」 「そうだったな」  けらけらと笑うヴァンデモンをマミーモンが睨んだところで、リムジンがゆっくりと停止した。 「つきましたよ」  運転席からブギーモンが不機嫌そうに言う。外の風景に目を向け、マミーモンは露骨に顔をしかめた。 「おいおい、なんだってこんなところに来たんだよ」 「私は”コレクティブ”の幹部だよ。親友。所属組織の本部に顔を出しても不思議はないだろうが」  笑みを崩さないヴァンデモンに、マミーモンは大きくため息をつき、頭の後ろを乱暴に掻いた。 「ああそう、頭目に呼び出されたって訳かよ。不死者の王も、すっかり悪魔の軍団長の使い走りって訳だ」 「政治は私の得意じゃないんだ。何かのリーダーという立場もね」 「だとしてもだ。ノスフェラトゥ、あんたは一番古くから生きている不死者なんだぜ。それが今じゃ自分の工房に籠もって仕事もしない。いや、何もしてないだろ。アンタがその気になりゃ不死者たちの半分と引き替えにアイツの首を・・・・・・」 「滅多なことを言うな。マミーモン」  ヴァンデモンはひどく不愉快だとでも言いたげに唇をゆがめた。 「彼もまた、私の親友だぞ。最も古い親友だ」 「そうかよ。だったら仲良くハグでもしてくればいいさ」 「ついてこないのか」 「やだね。あんなのにすすんで会おうってやつはいない。だからアンタも呼び出されるまで来なかったんだろ?」  その問いに緩いほほえみだけを返し、ヴァンデモンは車のドアを閉めた。それを見送ったあと、マミーモンは運転席に向けて語り掛ける。 「大した度胸だ。不死者の王に自分でドアを開け閉めさせたのはおまえが初めてだろうよ」 「おれは運転手として雇われたんです。ドアマンはどこかよそを探して下さいよ。それより、もういっていいですかね」 「なんだ。ずいぶん急かすな。”コレクティブ”の本部だぞ。お前なんか普段は近づけないだろう。目に付いた悪魔にでも取り入れば、出世だってできる」  からかうような口調のマミーモンに、ブギーモンは肩をすくめる。 「おれはいいですよ。そういうの。それに、気味が悪いんです。だって”コレクティブ”のリーダーは、身体の半分が──」 「おい」  と、不意にマミーモンがぞっとするほど低い声で、その言葉を遮った。 「やめとけ。ここの長は地獄耳で有名だからよ」 「・・・・・・はいはい」  ブギーモンも少し目を見開き、背中に一筋の汗を流しながら。再びハンドルで手を掛けた。 「それじゃあ、出しますよ。どこで降ろしましょう」 「どこでもいい。ここから一番近くのコンビニで止めてくれ」 「さっきも行ってたでしょう」 「好きなんだよ、コンビニが」  そうつぶやきながら、マミーモンは窓の外に広がる灰色の景色を眺めた。 「好きなんだ。俺らじゃああいうものを思いつけない」  ”ヴァリス製薬”の受付に立つ女性は、僕の顔を見ても何も言わなかった。まだ指名手配のニュースは届いていないのか、あるいは、風吹のくれたマスクに想像以上の効果があったのかもしれない。所々に汚れやほつれの目立つ服にはどうしても視線を向けられてしまったけれど。 「どなたに御用ですか」 「タチバナ・コウ」  それが、キタミアカネが写真と共にホームレスに言い残した名前だった。僕はタチバナの肩書きも立場も知らなかったけれど、女性は戸惑ったような表情を見れば、彼が多くの人と話をする人間で、しょっちゅう会社に客を招いているというわけではないことは分かった。 「ええと、タチバナ先生ですね。事前になにか、面会の予約などは」 「特に取っていません」 「なるほど」  女性は少し顔を青くして、そこにマニュアルがあるとでもいうように自分の手元に何度も目を落とした。 「ただいま、確認して参りますね」  彼女はこういう会社で受付をやるには愛想が良すぎるのだ、突然現れた無礼な来訪者にサービスをしてしまっている。1度確認してきたところで、タチバナは多忙だろう。僕をなんとかして追い返さないと行けなくなり、一層顔を青くして帰ってくるに違いない。  ──無理もないよ。予定も無しにぼろぼろで受付に来るのなんて、ハルキが初めてだろうし。  つばめが言った。そう言われればたしかに、当然僕がズレているのだ。 「申し訳ありませんが、重要な話なんです。キタミ・アカネに関する話だと伝えて下さい。写真を持ってきたと」  僕がなるべく丁寧にそう言えば、彼女はいくらか体面を取り戻したようだった。内線電話をかけに行った彼女を、  僕は口の中で時間を数えつつ待った。1分が過ぎたところで辺りを見回し、手近なところに監視カメラを見つけると、マスクを外してそのレンズに顔を向けてやった。  そんな風に過ごして3分と39秒が経ったころ、女性は小さなメモを片手に戻ってきて、いささか困惑した様子で言った。 「お会いになるそうです。非常階段の鍵を開けておくので、4階まで歩いて上ってきてほしいと」 「わかった」 「あの」 「何も聞かない方が良い」僕は冗談めかして言った。「知られてしまったら、君を殺さないといけない」  そのわざとらしさにかえって安心したのか、女性は僕に非常階段への道を示した。 「お時間取らせてすみません。こんなこと、初めてだったので」 「そうだろうね」  もしかしたら、彼女にとってこういう経験は一生に1度のことかもしれない。あるいはこれを機に、些細だがドラマチックな出来事に次々巻き込まれてしまうかもしれない。それは僕にはどうしようもないことだった。エンドロールの後のことまで、ドラマは面倒を見てくれない。ドラマは終わって、ドラマチックな出演者だけがそこに残るのだ。  タチバナコウも、ドラマの空気に取り残された人間のようだった。白衣の下によれよれのボタンダウンがそれを証明していた。ほほはこけて、眼鏡をかけた悪鬼とでも呼ぶべき風貌だった。こうならざるをえなかった、というよりは、人生のある時点でひどい嵐に巻き込まれてしまったような痩せ方だった。 「ようこそ」  彼はまだ30半ばに見えたが、その声はひどく疲れ、しゃがれていた。面と向かっていなければ、きっと老人の声だと思ってしまったに違いない。  彼はガラス張りの応接室を通り過ぎ、少し歩いた場所にある部屋に僕を案内した。彼のオフィスなのだろうか、モニターが並ぶ先進的な研究室に、サンプル・ケースに詰められた大量の植物が目立つ。紋切り型のSF映画のような後継だったが、電子的な薬品開発の現場というのはこうなるのだと言われれば納得せざるを得なかった。  勧められるがままに研究室奥のソファに腰掛けると、彼も向かい側に座り、背もたれに体重を預けて、まるで水中から引き揚げられた直後かのように深呼吸をした。実際彼にとって、立って歩いている時間は、水中を泳いでいるのと同じなのかもしれない。 「突然お邪魔して申し訳ありません。僕は──」 「ソメノ・ハルキさん」 「僕の名前を?」 「ええ、ちょうど今ね」  そう言って彼は背後のテレビ画面を指指す。公共放送の画面に、僕の顔と『緊急速報』の文字が交互に躍っていた。カンパニーの仕事は早い。 「慌てないで下さい。別にあなたを警察に突き出したりしない。さっきの監視映像は消しましたし、非常階段はもとより監視が手薄だ」 「受付の子に見られている」 「あの子はニュースなんて見ませんよ」 「それでも、カンパニーはすぐに僕の行き先を割り出す」 「なら、急いでアカネのことを話しましょう」  彼の態度は明確だった。キタミアカネは彼にとってそれほどの人間で、僕が彼女の話をしないのであれば、これ以上匿う意味も無い、ということだ。 「キタミさんはあなたに何か言づてを?」 「何かあれば俺を頼る、と昔言っていました。そして彼女は死んだ」 「あなたは彼女の元同僚?」 「親友でした」  彼がなんの迷いも無く言うので、僕は眉を上げた。 「それは、職場が離れた後も?」 「もちろん。定期的に連絡はしていましたが、お互い忙しいですしね。”カンパニー”の研究所で機密を扱っていると、私信も検閲の対象になるとかで、ゆっくりと話をすることは減っていました」 「それでも、親友だった」 「俺を試しているんですか? アカネが俺を指名したんでしょう?」  僕はそれには返事をせずに、懐から彼女がホームレスに預けていた封筒を取り出し、手渡した。タチバナは表情を変えずにそれを受け取り、中の写真を引き出し、一枚ずつ見ていく。 「アカネがあなたを雇った?」  視線を写真に落としたまま、彼は僕に問いかける。 「雇おうとした。一度事務所に来たがその場では用件を話さずに、僕と会う約束を取り付けた、そして二度目の会合の前に死にました」 「『オレンジの種五つ』みたいな話だ」 「どうでしょう。少なくとも僕は、ホームズのように犯人への怒りに燃えてはいない」 「ただ働きで、警察に追われながら手がかりを追っているのに?」 「そういう人間だというだけです」  僕の言葉に彼は曖昧に笑い、やがて一枚の写真を僕に突き返した。見てみれば、何かの数字が書き連ねられた資料の写真だ。 「アカネが伝えたかったのは、おそらくこれです」 「説明を?」 「簡単なものにはなりますが」  彼は立ち上がり、デスクに向かうと、モニターの一つを僕に指し示した。それに接続したPCに目を向けると、そこからさらに何本かの太いケーブルが、植物の並ぶテーブルの方に置かれた大きなガラス管に伸びていた。 「先ほどの写真に載っているのは、何かの成分表に見えました。正確には、構成データの一覧ですが」 「今の世界じゃ、その二つに大きな違いはない」  僕の言葉に、タチバナは大きく頷いた。 「そうです。だからヴァリスみたいな商売が成り立つ。電子的なアプローチで肉体に直接的な変化を及ぼすことができる、ということです」 「あなたとキタミさんの専門もそれ?」 「ええ。彼女があの施設にいたなら、”塔”のデータ組成を調べていたはずだ」 「”塔”の根本を削って調べてるって言うのか」 「”カンパニー”ならそれくらいするでしょう」  ナノモンの顔を思い浮かべて、僕は彼の言うとおりだと思った。 「それで、これの意味するところは?」 「研究者として興味深いところはいくつもありますが、今はこれです。機密資料なんですが、あなたをここに招いてる時点で何をしても同じだ」  彼がキーボードを叩き、あるデータを表示する。それもまた何かの組成のようで、数字の並びは写真の中の資料とほぼ同じようだった。 「うちでは警察からデータ組成の鑑定も頼まれています、これも現場に残された資料です」  その先を促すように見詰めれば、彼は頷いて結論を口にした。 「”天使殺し”ですよ。人が失踪した現場で見つかった天使の羽と、”塔”の組成は、ほぼ一致します」  タチバナの言葉をうまく飲み込むことはできなかった。けれど身体の方が先に動いて、服の内ポケットに止めたつばめの羽を引き抜く。 「これを」僕は言った。「これを調べてくれ」    彼は驚いたようにこちらを見たが、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、黙って羽を受け取り、PCに接続されたガラス管の中に入れた。 「待って下さいね・・・・・・。ああ、早かったな。さっきの羽と同じ組成ですよ。”天使殺し”の現場からくすねたんですか?」  視界がぐらぐらと揺れていた。訳が分からなかった。つばめの羽があの、世界に終わりをもたらした塔と同じ。それが意味することはまるで分からなかったが、それでも、その事実に思いを巡らせるとなぜだか吐き気がした。 「ソメノさん? 大丈夫ですか?」 「他に、他に、何か」 「ええ。気になるところとしては、この二つは”ほぼ”同じであって、完全に一致はしないところです。どうも天使の羽の方には、人為的な・・・・・・」  がちゃり。タチバナの言葉を遮るように扉が開く音がした。  振り返れば、「彼」が頭を低くしてドアをくぐっている。そうだ。彼は背が高すぎるから、小さな扉はそうしないとくぐることができなくて、だからあの日の新幹線でも、僕とつばめは彼から逃げ出すことができたのだ。  「先生」がそこに立っていた。シュワルツェネッガーがマグリットの絵画に出演したら、きっとこんな感じだと、僕は思った。  ──立って、ハルキ!  頭の裏側で鳴り響いたつばめの声に、僕はとっさに立ち上がった。「先生」は大牛のような俊敏さで、こちらに向かってくる。  ──違うよ。視線をよく見て。狙ってるのは・・・・・・。      僕はタチバナの方へ向かう「先生」の前に躍り出る。彼は意外そうに僕の顔を見て、それからその顔を怒りに醜く歪めた。当然だ。彼からすれば、僕のせいでつばめは無駄に死んだのだ。  ──でもそれがラッキー。先生のパンチはきっと一度食らえば死んじゃうけど、怒ってる今なら。  大ぶりな「先生」のこぶしをかわし、僕は彼の懐に飛び込む。  ──そして、あんどろさんと何万回も練習した柔道のあれ!  彼に組み付いて、足を取ろうとするが、巨大な身体はそのバランスを微塵も失ってはいなかった。  ──あ、やば。  つばめがそう言うと同時に、先生の巨大な両手が僕の首をつかむ。それだけで、空気の通り道がぎゅうっとつぶれるのが分かった。逃れようとするが、僕の足はむなしく中を掻く。体ごと持ち上げられたのだと気付くと同時に、急速に意識が遠のいていく。  ──しっかりして、ハルキ! しっかり!  そう叫ぶつばめの声も、段々遠くなっていく。  ──ハ×キ! し××り! ××キ!   全てが間違いだったのだ、ぼやけていく風景の中でそんなことを考える。  9年前にこうして死ぬはずだった男が、ただ無駄に生きて、そのつけを払うだけじゃないか。  とにかく、こうすれば、もう、つばめをひとりぼっちにはしなくてすむ。そう考えて、僕は──。  ──ばか!  間違ったのは向こうだ、と気付いた。瞬間、思考が巡り出す。もしかしたらナマの脳細胞葉とっくに死滅しているのかもしれない。けれどそれなら、頭の中に埋め込んだ電子の回路を全力で回すだけだ。  足をどれだけ振り回しても、胴体を蹴り飛ばしても「先生」の身体はびくともしない。でも、手は自由だ。  左手を懐に突っ込み、乱暴につばめの羽をつかみ引き抜く。何枚もの天使の羽が、僕と彼の間に舞う。  「先生」はそれに目に見えて動揺したようだったが、直ぐに憎しみのしわを一段と深くして、首を絞める手に力を込める。  彼はこの羽がつばめだったと知っているということだ。それはなぜか。僕はそれを知らなければいけない。  右手が拳銃をつかむ。舞い散る羽が次々と光の束になって装填されていく。銃を持つ自分の手も見えないが、それでも引き金を引いた。  胴に一発、手応えがある。  胴に一発。「先生」の身体が大きく揺れる。  胸に一発。まだこいつは僕のことを話さない。  胸に一発。手が緩んだ。無我夢中で銃を持つ手を上に向ける。  頭に一発。  頭に一発。  頭に一発。  頭に一発。  頭に一発。  頭に一発。  あのとき、つばめが言って欲しかった言葉は、「どこまでも一緒に行こう」なんかじゃなかったのかもな、と、思った。 「・・・・・・さん、染野さん!」  タチバナの声に僕は意識を取り戻した。どれだけの時間が経ったのか分からないが、気がつけば僕は銃を握ったまま床にへたり込んでいた。  顔を上げれば、目の前に倒れた大男がいる。その上半身に思い切って目を向けたが、そこには血の一滴も滴っていなかった。彼の身体は出来の悪いキュビズムのようにぐちゃぐちゃになり、ところどころに電気的なノイズが走っている。 「”ランダマイザ”です」背後でタチバナが震える声で言った。 「は?」 「身体の大半を電子化した人間は、ひどい外傷を受けるとこうなります」 「『先生』が・・・・・・」   僕は荒く息をしたまま、彼の方を向いた。 「彼は死んだ?」 「信じられないですが、生きてます。さすがに外部からの治療が必要ですが。逆に言えば、専門の治療さえ受ければ、元通りになる」  ──うわあ。  僕の反応も大体つばめと一緒だった。”ホーリー・アロー”を何発も頭に打ち込んで生きられていては何を信じれば良いのか分からない。先ほどの光景を見ていたタチバナも同意見らしく、恐ろしさより興味が勝るといった様子で「先生」の身体を遠巻きに眺めている。 「タチバナさん。行きましょう」  僕は銃の調子を確かめ、もう一度肺を新鮮な空気で満たしてから、立ち上がった。 「え?」 「この男はあなたを狙っていた。僕に巻き込まれたのか何か知らないが、あなたの命も危ない」 「・・・・・・だから、あなたと一緒に逃げろと?」  僕は黙って頷いた。彼はしばらく自分の研究室と倒れた「先生」を見比べていたが、やがて、大きく息をつく。 「・・・・・・分かりました。他に選択肢もなさそうだし、何よりあなたはアカネの恩人ですしね」 「恩人?」  僕は驚いて首を振った。 「むしろその逆だ。僕がもう少し義理堅かったら、彼女は生きていたかもしれない」 「ええ、でも。あなたのおかげで、彼女の死はまるっきりの無駄にはならなかった」  僕は不意に思いついて、彼の顔を見た。 「キタミさんに、恋をしていた?」 「ええ」タチバナは頷く。 「ずっと昔から」  ──なに、そのやり取り。  つばめには返事をしないで、僕はタチバナを促し、部屋を出て行く。頭の奥がじんじんと熱を持っていた。  僕は、僕に残された時間のことを考えて、つばめに、こら、と怒られた。
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マダラマゼラン一号
2024年3月26日
In デジモン創作サロン
どこかの高層ビルの屋上。うさぎはフェンスの外に腰掛け、足をぶらつかせながら夕暮れの街を見ていた。その黒いガラス玉のような瞳に沈む太陽が映り、きらきらときらめく。けれどその夕日は、空に突き刺さるように先端の見えない塔の、黒くのっぺりとしたシルエットによって、真っ二つに切り分けられていた。かつて日本で最も高いとうたわれた電波塔たちも、どこか肩身が狭そうに、その不完全な橙色の光を浴びていた。  ”塔京”は10年前とずいぶん変わった、と人はいう。建物自体にはそこまで変化はないが、”塔”に最も近い新宿付近から人は離れていったし、地下鉄も”カンパニー”が導入したトレイル・ラインに取って代わられた。  うさぎは泥を浴びる豚のことを考える。東京という名前の大きな泥沼に彼らは集まって、めいめい勝手に泥をすくい上げて、これ俺んだ、と言う。つっかえずに、これは私のだ、と言えた賢い豚にみんなうなずいて、その沼は賢い豚のものだ、ということになる。それが続いているだけなのだ、とうさぎは思った。 「それが、続いているだけなんだ」  凛とした少女の声が夕暮れの空に落とされる。ちっとも気分は晴れなかった。  うさぎの後ろで、かさり、とビニール袋の音が鳴る。それに続いて、彼女の隣のフェンスの手すりに人影が降り立った。 「もしかして、センチメンタルかい、ヒナノ」 「そんなの、わたし全部捨てちゃった」 「まったく。ボクに買いだしさせておいて暇つぶしとはネ」 「ちゃんとうどん買ってきてくれた?」 「ハイハイ」  トラファマドールと名乗る道化師は、テイクアウトしたうどんと天ぷらの弁当の入った箱を三つ重ね、”少女”に手渡す。彼女はそれをもぎ取るように受け取ると、ずるずると音を立ててすすりだした。 「まったく、ボクを使い走りにして、ひどいものだよ」 「ふぉんなふぉほいっふぁっふぇ……」  ものをほおばりながら話す少女をトラファマドールが見下ろせば、彼女はもう一つ目の箱を空にして、二つ目に取り掛かろうとしていた。彼の視線に含まれた非難を感じたのか、ごくん、と口の中の物を飲み込む。 「そんなこと言ったって、しょうがないでしょ。わたしがお店に行ったら大騒ぎだし。一度うどんの味を覚えたわたしに、またごみ漁り生活をしろなんてひどいこと。トラさんは言わないよね?」 「だったらもうすこーし、感謝をしたまエ」 「ありがとう。あしたはココイチのカレーがいいな」  淡泊な礼だけ言ってうどんとの格闘に戻った少女にため息をついて、トラファマドールは夕日を見つめ、それからまた──幾分か声を鋭くして──口を開いた。 「ソメノ・ハルキに接触したね?」   少女はうどんをたぐっていた箸を止め、唇をとがらせる。 「だからなに。トラさんには関係ないでしょ」 「いいや、困るネ。ボクは彼のことを出来るだけ自然な環境で観測していたいんだ」 「わたしに彼を助けさせたじゃない」 「出来るだけ自然な環境においた上で、生きててはもらいたいんだ。それに、彼の動きが鈍っていたからネ。”うさぎ”は彼の新たな目標にはちょうど良かった。君が姿を見せて、物事が全部動き出した。でもそれ以上の干渉は困る。君を巡るレースは公平でなくちゃ面白くない」 「何それ」  少女は眩しい夕日に不快そうに目を細め、視線を真下にそらす。高層ビルの屋上からは、人はひどく小さい胞子の群れに、デジモンはそれより少し大きい塵に見えた。 「わたしを巡るレース?」 「そうだヨ。ヒナノ。或る一日を経験した人にとって、君は全てだ。そしてこの街では、誰もがその日を通過してここに居る。人も、デジモンもネ」 「だからみんながわたしを探す?」 「そうだ。だからボクもここにいる。ここが一番の特等席だからネ」 「ばっかみたい」  ”うさぎ”は首を振って、3箱目の弁当に意識を向けようとして、ぽつりと呟いた。 「無理だと思うよ」 「なんだい?」 「ハルキくん。きっとわたしにたどり着けないよ。何にもたどり着けない」 「そうかイ?」 「普通に考えて無理でしょ。よわっちい人間のくせに、誰の手も借りずに何が出来るわけ? 助けてくれる人がいるのに、彼はそれを知らないフリしてる。バカなんだよ。おかしくなっちゃってるの」 「案外、君の方から会いに行ったりなんかするかもヨ?」 「ありえない」 「どうして? 事実君は一度彼に会いに行っている」 「見てみたかったからだよ。あの人が好きだったひとが、どんな人か」 「ソレダ」トラファマドールは右手に掛けた傘をくるりと回して、笑った。 「彼は唯一君を理解できる人間かも知れない。同じ孤独を共有できるかもしれない。だからキミは──」  ぶん、と音がして、トラファマドールの派手な帽子が宙に舞った。道化師の頭をかすめた腕を今度は彼の眼前に突き付け、うさぎは首を振る。 「そんなこと、二度と言うな。彼にわたしのことが分かるわけないし、半分こできる孤独なんてわたしは要らない」 「バカだネ。ヒナノ。そんなことをして、誰がキミを褒めてくれる? 人もデジモンもキミをよそ者だと断じる。それがしようがなかったとしても、キミがそんな態度じゃあ、救ってはくれないよ」 「わたしが救われるかなんてどうでもいいくせに」 「そう思っているのはキミだヨ。ヒナノ」  返事をするのもばからしい、といわんばかりにそっぽを向いたうさぎに、トラファマドールは苦笑して、それじゃあまたね、と言って、消えた。 「そうだよ、どうでもいい」  うさぎはまた、ビルの谷間に沈むオレンジを眺める。 「世界には、研ぎ澄ました孤独でしか殺せない生き物もいるってだけ」  それだけ、とうさぎは呟いた。 ***** 「あんたには、サイハラヒナノを探してもらう」  ナノモンの言葉は素晴らしく簡潔だった。僕はサイハラヒナノを探せばいい。それだけで、罪が許され、夜は明け、小鳥は歌い、象たちがダンスを踊る。そんな調子だった。  僕は壁に映されたうさぎの写真をたっぷり60秒見詰めてから。ナノモンの小さな体の向こうを見た。薄暗がりの部屋で、巨大なモナリザが「どうして?」と言っていた。 「やめろ」  不意にナノモンが鋭い声で言ったので、僕は驚いた。 「何をだい」 「今考えていた全てをだ。質問を吟味するのをやめろ。アタシから何かを引き出そうとするのをやめろ。自分を利口だと思うのをやめろ。自分らしい態度を探すのをやめろ」  僕は言うとおりにした。モナリザの方を見たが、彼女はもう何も語らなかった。 「あんたが言うべき言葉はもう決まっている。アタシをがっかりさせるのをやめろ」  僕は黙っていた。 「おい、沈黙も禁止だ。探偵ってのはべらべらしゃべるものだろう」 「さっき、”サイハラ”って言ったかい?」  僕が声を裏返らせて、なるべく間が抜けて聞こえるように言うと、ナノモンは満足そうに指をくるくる回した。 「アタシを馬鹿にしているね。でもいいだろう。あんたは自分を実際より利口だと思っているが、人間はみんなそうだ。そしてあんたは実際、多少利口だよ」 「評価をお願いしたつもりはない。僕はただ”サイハラ?”って聞き返したんだ。ここのところその名前を聞きすぎる」 「アタシもだ」  そう言いながら、彼女は手元で何かを操作した。壁に映れたうさぎの写真が消え、代わりに動画に切り替わる。ニュース番組の録画だ。画面の中はどこかの病院、作務衣のような格好に身を包んだ細身の男が、入院患者と笑顔で話している。患者は老いた女性だが、男の方がずっと痩せていて小柄なものだから、どちらが病気なのか分かったものではなかった。短く刈り上げた髪も相まって、男の姿はどこかひどく寒い国で、終わりのない刑に服しているように見えた。 「サイハラ・ゼンキ」僕は呟いた。 「”選友会”の会長にしては平均的な顔だ」ナノモンは呟いた。「そして平凡な顔にしては、幅を利かせすぎている」  ナノモンの評価を聞き流し、僕は画面を注視し続ける。やせっぽちの教祖と、その施しを受ける入院患者。テレビの画面の中でその両者以上に目立っているのが、教祖の傍らで報道陣ににらみを利かせている黒めがねの巨漢だった。 「その男が気になるのはあんただけじゃない」ナノモンが言う。 「誰もがそうだ。ネットのニュースでは誰もが彼の話をしている。教祖より目立つ謎の側近。名前も経歴も公開されず、一体どういう肩書きで教祖の隣にいるのかまるで判然としない」 「”先生”だ」僕は言った。 「そいつは先生をしていた」  ナノモンは何も言わなかった。僕の知っていることなんか何でも知っているのだ。 「あのうさぎもサイハラなのか。”選友会”の会員?」 「分からない」 「分からないはずがない。きみはこの街に張り巡らされた監視の網の真ん中に座っていて、あのうさぎは、街を堂々と跳び回ってるんだぞ」  僕が三度ブランデーに口を付けるまでまって、ナノモンはやっと沈黙を破った。 「アタシたちが最初にあのうさぎを観測したのは、半年前だった」  彼女は一定のペースで指をくるくると回す、その律儀な仕草はアンドロモンにも見受けられたが、彼女の癖はただ僕を苛立たせるだけだった。 「デジモンについて調べている奇矯な生物学者が、”カンパニー”にも”コレクティブ”にも属さない特徴を備えたデジモンを見つけたと言ったんだ。おそらくもっと前から街に居たはずだ。分かるだろう。デジモンだけで構築された監視網には、サイハラヒナノは引っ掛からない」 「やっぱりそうなんだな」僕は呟いた。 「人にはデジモンに、デジモンには人に見える。それがあのうさぎ、ってわけだ」 「骨が折れたよ。訳が分からない。光学迷彩か、それとも認知をゆがめるデジモンの技か。人間、、ランダマイザ手術を受けた人間、”カンパニー”のデジモン、”コレクティブ”のデジモン。多くのサンプルに何に見えるか聴取したいのに。肝心のうさぎが見つからない。そもそもの潜伏能力も高いうえ、デジモンが探している限りはただの人間に見える。ただのデジモンと仮定したとしても、白銀のアンティらモンなんて誰も知らない。この調査のためだけに多くの人間を用意して、金を無駄にしたが成果は薄かった」 「骨折り損なんて、カンパニーらしくもない」 「成果がなかったとは言ってないよ」ナノモンがとげのある声で返す。 「アタシたちはうさぎを収めた写真を入手した。今あんたがコピーを持ってる奴だ。それを使って検証を重ね、そのうさぎがおそらく”サイハラヒナノ”だと断定した」 「それは誰だ」  ナノモンは答えなかった。僕が知るのはきっと禁止されているのだろう。 「それで? ”カンパニー”の予算をさらに食いつぶしてまで、僕を使おうという理由は?」 「それだな」  ナノモンは強い口調で言った。そんなに声を張ったら回路がはじけて寿命が縮んでしまいそうだと思った。 「あんたが現れたのは僥倖だった。ソメノハルキ。あんたがここに来てくれたおかげで、アタシは水っぽい脳の役立たずどもをまとめて解雇できる」 「僕が僥倖?」 「そうだ」  ナノモンはなおも指を回す。機嫌がいいのだ、とその時初めて気付いた。ビッグ・ブラザーさえも”気分”から逃れられないという事実は僕を少なからず絶望させた。 「あんたは例の殺人事件に関わったね。ウチの”塔”を研究している研究者の人間が死んだ奴だ」 「依頼人候補だった」僕は言った。 「僕に何かを頼みたかったらしいが、その前に死んだ」 「嘘をつくなよ。探偵」ナノモンが指の先同士を打ち合わせる。かちかちという金属音がひどく耳障りだった。 「あんただって隠せると思っていたわけじゃないだろう。あんたがあそこでソウルモンを殺したことは分かっているんだ。銃は今も持っているのか?」 「あるよ」 「出せ」 「いやだ」僕は言った。「僕はあんたたちの腹の中まで来てやったんだ。これ以上自分の立場を追い込む気は無いね」 「勘違いするな。いつでも撃てるように出しておけっていったのさ」 「なぜ」 「銃が好きでね」  僕は鞄に手を突っ込んだ。その中で、手の中にしのばせていたつばめの羽を一枚装填し、机の上に銃を置いた。 「いい銃だ」ナノモンは呟いた。 「既存の銃じゃない。でも、かなりシグのP230に寄せて造っているね。あんたが警察の訓練を受けたと知っている誰かによるオーダーメイドだ」 「由縁は聞くなよ。僕もよく知らないんだ」  彼女は愉快そうに喉の奥で電子音を鳴らしたが、それはすぐに引っ込んだ。 「その場の様子は見たよ。射撃の腕前も見事なものだった。しかし油断はダメだ。背後を取られてうさぎに助けられる羽目になる」  そう言いながら、ナノモンはぎょろりとそのレンズがむき出しになった目を剥いた。 「そうだ。あんたはうさぎに助けられた。サイハラヒナノはあんたを助けたんだ。アタシたちの記録の中で、あんたはサイハラヒナノが自発的に接触した唯一の人間だ」 「だから、僕を雇えば、自然にサイハラヒナノに近付くと」 「単純な話だ」  僕は背もたれに身体を預けて、深く息をついた。 「報酬は?」 「金なら──」 「不要だよ」 「馬鹿だね。だが賢明でもある。アタシたちだって、あんたを金で雇えるとは思っていない」  ナノモンはブランデーのグラスを引き寄せ、その琥珀色ごしに僕の顔を見据えた。 「アンタには、サイハラツバメがどうして死ななければいけなかったか、それを教えてあげる」 ***** 「断る」 ──え、そうなの?  僕の脳の裏側で、つばめが素っ頓狂な声を上げた。間髪入れずに僕が発した返答に驚いたのはナノモンも同じだったらしい。指を回す仕草を止め 「あんたは一も二もなくこの条件をのむと思っていたけどね」 「買いかぶりだ。僕はそんなに情熱的じゃないよ」 「それでもだ。どうせ放っといたってあんたはサイハラヒナノを追うだろう。それなら、そのついでにアタシたちと協力して何の不都合がある。”カンパニー”の後ろ盾と、あんたには知り得ない情報は魅力的だろう。なのに、なぜ?」 「そこだよ」僕は彼女の前をして指を絡ませた。 「どっちを選んでもやることは変わらない。それなら、どんなおまけが付いたって、僕はあんたたちに口出しされるなんてごめんなんだ」 「意地かい? 自分らしく在ろうとする無駄な試み?」 「冷静な判断だよ。あんたはなぜ”カンパニー”がサイハラヒナノを探すのか話さなかった。そもそも彼女が何者かもね。そんな相手と協力関係は結べない」 「間違っている」 「何を言われようと──」 「ちがう。今のは馬鹿だったな。探偵。『協力関係』ってのだよ。ここまでは上手くやってたが、あんたはセリフを間違った」  その言葉と同時に、僕の背後で扉が開き、複数の飛行音が近付いてくる。テーブルの上の銃のことを考えるまでもなく、僕はあっという間に4、5体のホバーエスピモンに囲まれた。 「あんたはあの路地で得体の知れない銃を使った。そしてソウルモンを殺した。理由が例え正当でも、警察に嘘の証言をしたのは事実だ。アタシはここで、完璧に合法的にあんたを捕縛できる。そら、リテイクのチャンスをあげる」  僕はオリジナルの悪口を言った。おれのけつをなめろ、を機械の身体にに当てはめて表現を変えたのだ。なかなかの完成度だったが、誰も笑わなかった。ホバーエスピモンのアームがしたたかに僕の肩を殴りつけて、ばきり、という音がした。 「そうか」ナノモンが言った。 「なあ探偵。頭を使えよ。アタシたちが穏当にあんたを抱き込もうとしたことに感謝をしろ。いいか? うさぎは前、あんたの命の危機に現れた。アタシたちは今からそうする」 「……」  僕は何かを言おうとしたが、隣の機械が僕の腕をねじり上げる。今し方殴られた肩が不自然に曲がるのが分かる。  そのまま僕は巨大なガラステーブルに押しつけられた。ナノモンが身動きの取れない僕の顔のそばまで歩いてくる。 「愚かだったのはあんただ。不可解だったのもあんただ。こうなることは分かっていただろう? なぜむざむざサイハラツバメの手掛かりにそっぽを向いて、死ぬことを選ぶ?」  そう言いながら、彼女は僕の目をのぞき込んだ。きっと息づかいや瞬き、瞳孔の収縮から、僕をプロファイリングしているのだろう、と思った。 「ああ」 果たしてナノモンはあざけるように息をついた。「そうか、あんた、そうか」 「……僕の何が分かったって言うんだ」 「それを教える義理はないよ。やれ」  その言葉とほぼ同時に、風を切る警棒が、僕の頭目掛けて振り下ろされた。 *****  ばりり、世界が終わるような音がして、一面の窓ガラスが割れた。  僕のすぐ頭上で、警棒よりもずっとずっと重い物が空を切る音がして、居並ぶホバーエスピモンが塵になって吹き飛ぶ。  それの正体を確認するより先に、僕はテーブルの上の銃に飛びついた。痛みにうめきながら立ち上がり、一発だケ装填された弾丸を前方に撃つ。  手応えがあった。ぱりん、という音がして、ナノモンの巨大な頭部の一部が削れたのが目に入る。 「……舐めたまねをするね」  ぞっとするほど冷たい声、しかし彼女の意識は次の瞬間には、僕の背後に居た”それ”に向けられた。 「おまけにハズレときた。ああ、腹が立つ」 『ソメノハルキ! いいからさっさと退避しなさい! 状況は少しも変わってないわ!』  その声と、ホバーエスピモンとは違う浮遊音が、僕にその名前を思い起こさせた。 「才原あひる、だね。助かった」 『はぁ!? 別にソメノハルキを助けたつもりなんて無いんだけど!』  そうドローンに話し掛ける僕の横を、巨大な影が通り過ぎる。仮面の悪魔──ネオデビモンが想像を絶する素早さで、ナノモンにつかみかかったのだ。 「共同研究の成果物が、こんなところで何をしている」  ナノモンが指を鳴らすと。彼女の椅子からアームが飛び出し、悪魔のかぎ爪を受け止めた。一瞬動きが封じられたところに、彼女がどこからか取り出した爆弾を、いくつも悪魔の胴体にたたき込む。 『深追いの必要は無いぞ。ネオデビモン』  そんな風にドローンから聞こえた声に、僕は眉を上げた。  「……夜鷹?」 「春樹さん、貴方はつばめの友人なんです。どれだけ死にたがろうが、俺たちには助ける理由がある」  その言葉と共に、ごつりとした巨大な手が僕の胴体を摑み上げた。ネオデビモンに手加減が出来たことに僕は感謝したが、いささか加減の程が足りなかった。腕に痛みが走り、僕はまたうめく。悪魔は僕を摑んだまま窓辺へ歩み寄り、僕は眼下に広がる光景から溜まらず目をそらした。 「優しく頼むよ」 『保証はできかねます』 「なあ、おい、逃げられないぜ」  と、ナノモンの声が僕の混乱する思考に割って入った。 「あんたは指名手配される。女研究者殺害の真犯人としてだ。”カンパニー”と警察が、総力を挙げてあんたを追う。──よかったじゃないか。まだ冒険が出来て」  その言葉に、僕はわずかに身をよじり、彼女を振り返った。 「そりゃあ、サイハラツバメの死についてなんて、何も知りたかないはずだ。あんたはまだサイハラツバメを殺せてない。あんたは、アタシたちが最初に観測した9年前から何も変わっていない」 「つばめは死んだ」 「捜査員に通達しておくよ、容疑者は気が触れている、注意されたし、ってな」  そう言いながらナノモンが再び爆弾を放つと同時に、ネオデビモンが割れた窓から”塔京”の空へと飛び立った。 *****  次に気が付いたとき、僕はどこかの路上に転がっていた。体中が痛む。思えばナノモンに会う前から傷だらけだったのだ。死んでいないのが奇跡だった。  あたりには誰も居ないネオデビモンは僕を放り出し、”選ばれし子どもたちの会”は一言も残さずに引き上げたらしい。  空にパトカーのサイレンが響いた。一台や二台ではない。僕を追っているのだと思った。警察に捕まれば、ナノモンの部屋よりは人道的な扱いを受けられるだろうか。目がかすんでいる今の僕なら、指で2と2を足したら5になりそうだな、と思った。  と、自動車の走行音がこちらに迫る。パトカーが迎えに来たのかと思う。でもサイレンが鳴らないのが妙だ。それなら秘密警察に違いない。僕は黒服に捕まって、大陸へと移送されるのだ。そして──。 「染野くん! 大丈夫!?」  僕の目の前に止まったのは、白い軽自動車だった。運転席から飛び出した日浦風吹が、僕を助け起こした。 「風吹? どうしてここに……」 「君の運転手君が教えてくれたの」 「ブギーモンが?」 「ええ。それよりどうしたの、これ、ひどいじゃない。すぐに病院に」 「構うな!」  ぼくは喉を振り絞って声を上げた。黒い血が地面にしたたり落ちた。 「僕は指名手配犯だ。君は僕を捕まえなくちゃ。キャリアを棒に振ることはない」 「……大丈夫よ」 「何が」 「警察はここには来ない。しばらくはね」  風吹が道路の先を指さす。おりしも、角を曲がったパトカーとエスピモンがこちらに迫ってきている。  けれど、僕の意識を引き付けたのは、それらから僕たちをかばうように立った、どこか寂しげなアンドロイドの後ろ姿だった。 「あんどろさん……」 「アンドロモンの命令を彼らは無視できない。私のことも大丈夫。だから、まずは治療を……」 「いや、いらない」 「染野君! 意地を張る必要ないわ!」 「張ってないよ」僕はよろよろと、彼女の自動車の助手席に乗り込んだ。 「ただ、行き先が別だ。”ヴァリス製薬”へ」 「それって、あの研究者の」 「そうだ。さあ、早く!」  幾つもの言葉を飲み込んで、運転席に乗り込んだ風吹がエンジンを掛けた。
White Rabbit No.9 塔-4 "スケープ・ゴート" content media
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マダラマゼラン一号
2024年2月13日
In デジモン創作サロン
作者を3か月にわたって苦しめた一話はこちら(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/zabike-xuan-baretanohaayatakadesita-yi-kou-mu) 「溺死だった」  ぴかぴかのセダンのエンジンを駆けながら、野間哲也は言った。私は助手席にいるのが落ち着かず、シートベルトをおっかなびっくりに締めた。 「数日前、海水浴場でね。岩場を隔てた人気のないビーチに倒れていたらしい。近くを通りすがったカップルが異変に気づいて、救急車も呼ばれたんだけど、ダメだった」 「海水浴?」  自分が狙われているとメッセージを残すほどに危機感を抱いている状況で、そんな場所に行くものだろうか。あるいは、逃れられない死を覚悟していたのか。 「泳いでいた?」 「そうらしい。でも水着にはなってなくて、体も濡れていなかった」 「一人だったんですか」 「俺もそれが変だと思ったんだ。連れはいなかった。少なくとも、誰も名乗り出なかった」 「……」  私は駄菓子屋で一週間分を買い占めたソフトマドロスをくわえて、窓の外を流れていく景色を眺めた。口の中に広がる甘ったるい味わいは、当時の家の人達には少し不評だったっけ。名探偵アヤタカのキャラ付けに使われていたから、昼夜を問わず食べていても許されていたのだ。 「警察の話では、最寄りの駅で一人でいる太陽を見かけた人がいたらしい。誰かと待ち合わせていたのかもしれない、って言ってた」 「警察ですか?」私は眉をあげる。 「事故って話でしたよね」 「それでも、俺が変だっていったら、小庄司警部が調べてくれたんだ。警察にとっても君たちの代の『選ばれし子ども』は特別だからって」 「“小庄司警部”? ドクターペッパーが、警部?」 「うん。アヤタカのイメージ工作が露呈して、しばらく苦労はしたらしいんだけど、あのひと、もともとエリートだからね。今は捜査一課で活躍してるらしいんだ」  小庄司博士(こしょうじ・ひろし)。コショウのハカセだからドクターペッパー。虚構の探偵・アヤタカを作り上げる計画には警察も全面的に協力しており、当時警部補だった小庄司が私たちと直に接するメッセンジャーだった。彼は私たちに接する大人の中でも若く、みんなから──丁度若い教育実習の先生がそうやって迎えられるように──からかわれていたっけ。今思えば、若くしてあんな機密計画の一端にいたんだから相当のエリートに決まっているのだ。 「ダイイングメッセージのことは?」 「まだ言っていない。告別式前に見つけて、そのまま君のところまで来たから。話した方がいいと思う?」 「あとあと隠してたことがバレる方が面倒。告別式に来るんなら、私から話します」 「ありがとう。もう向かうかい? 流石に兄の僕が告別式に遅れるのは……」 「逆。お兄さんが来ないうちは式も始められない。それならその間は待たせられるってことです。」  それはそうなんだけど、と哲也は気まずそうにごにょごにょと呟く。 「大丈夫です。そんなに時間はかけない。告別式で皆に会う前に、どうしても判断しておきたい問題があるんですよ」 「それは──」  こちらを見てくる哲也の視線を感じて、私は口から駄菓子を離し、ちゃんと前見て、と言った。 「私と太陽を除いた3人の元『選ばれし子ども』、そしてその関係者。皆を疑う必要があるか、です」 「そもそも、暗号の答えなんて、いくらでもこじつけられます。過不足のないフェアな過程を経て“しっくりくる”答えを出せたとしたら、それは暗号じゃなくてなぞなぞです」  そう呟きながら太陽の部屋の椅子のキャスターを転がした。 「でも、太陽は私に当ててメッセージを残した。だとしたら、私なら、私だから解けるようになっているはず」 「あの、悠鷹ちゃん。そろそろ式が……」 「太陽は、大学に?」  哲也の言葉を遮り尋ねる。先ほどから彼のスマホが何度も鳴っているのには気づいていたが、私だっていい気分で捜査をしているわけではない。スマホの通知きるか部屋から出ていてもらえますかと言えば、彼は汗をかきながらも、マナーモードを入れてくれた。 「ああ、スポーツ系の推薦で大学に進学して、将来はインストラクターになるって言ってた」 「昔は、教師になりたいって言ってた。やっぱり、アヤタカの件で信用がなくなったから?」 「単に子どものころから夢が変わっただけだよ」  哲也はそう言ってくれたけれど、テレビの取材に、選ばれし子どもとしての経験を活かして未来の子どもたちの手本になりたい、と答えていた太陽を思い出し、私の心は暗くなった。すぐに首をふって思考を謎解きに集中させる。 「……ゴミ箱は机の横、暗号は机に向かって考えたはず」  そう言いながら、私は彼の机を見回す。一番目立つのはデスクトップパソコン。大きなキーボードは使い込まれていたが、ほこりなどもなく綺麗に手入れされている。それに大学のレジュメが丁寧に綴じられたファイルが数冊に、細かく取られたノート。品行方正で真面目なところは昔から少しも変わっていなかった、ということだ。 それから何冊かのスポーツ雑誌、それ以外の本は、と部屋の反対、ベッド近くの本棚に目を向けて、私は口元を緩めた。 「クリスティ全集、今でも読んでたんですね」 「ああ、僕は全然だったから、太陽が親父の本棚からいつのまにか自分の部屋に移してたんだ」  名探偵アヤタカは明らかにシャーロック・ホームズをモチーフにしていたが、私と太陽は親の影響でどちらも筋金入りのポアロ派だった。ポアロかポワロどちらの書き方が正しいかで、お互い大泣きするまでけんかしたこともある。  そんな私たちの魂をかけたおおげんかの原因にもなったポアロのことを、アガサ・クリスティーはずっと嫌いだったそうで、もっと早く捨てておけばよかった、とぐちぐち言っていたそうだ。  思えばコナン・ドイルもそうだ。ホームズを滝に突き落として殺した。そうならなかっただけ、名探偵アヤタカは幸福だったのかもしれない。  時々、自分がずっと名探偵アヤタカだったら、と考える。私は鼻持ちならないイタい女の子のまま大人になって、ある朝、自分を助けてくれていたみんなから捨てられるのだ。代わりに事件を解いてくれる先輩も警察ももういない。私は泣くだろうか、もしかしたら自殺するかもしれない。どっちでもいい、そんな女の子を、今の私は好きになってあげられそうもない。あわれんでやるのだってごめんだ。  そんなことを考えながら、不機嫌な推理小説書きの女の足跡とにらめっこをする。本棚を見つめていると、段々それが千々にちぎれて、蛹の中身みたいにぐちゃぐちゃになっていく気がした。 「悠鷹ちゃん、そろそろ」 「静かに!」  ぱん、と手を叩いて哲也の言葉を止め、私は本棚を見つめ続ける。そうしていると、そこにあったぐずぐずが、やがて一つの形になった。手が勝手にスマートフォンをポケットから取り出し、いくつかのキーワードを検索する。海外の通販サイト、ナントカペディア、電卓、それに普通の検索。 「……悠鷹ちゃん?」 「行きましょう」 「え?」 「もう大丈夫です。行きましょう」 「それは、つまり、暗号が」 「昔出たテレビのプロデューサーに言われたんですけど」  私はソフトマドロスをくわえて言った。 「探偵って、思い付いた推理をすぐに話しちゃいけないそうですよ」 「……それでも、思わせぶりにヒントをつぶやいたりするものだ」  もう、とうんざりしたことを隠さずに声を出し、私は振り返った。 「35リットルのクーラー・ボックス」 「え?」 「35リットルのクーラー・ボックスですよ。それがヒントです」 告別式は最悪だった。太陽の遺体はきれいで、顔は安らかに整えられていて、私にはそれがとても太陽だとは思えなかった。あんなものはただの死体だった。みんなが彼の“選ばれし子ども”としての経歴を離すたびに、奥歯に何かが引っ掛かったような物言いをしていた。誰かのすすり泣きが聞こえるたびに、私はそいつを殴りつけてやりたくなった。  私にはすっかり太陽を殺した犯人が、少なくとも、あの暗号の指す人名が分かってしまっていた。暗号ってものの最低なところは、それがただ名前だけを指して、ほかの「どうして」には何も答えてくれないところだ。おまけに告別式で駄菓子をくわえるわけにもいかず、思考力も大いに制限された。私が覚えているのは、かつては大事な人たちだった容疑者との、対話の一部分だけだった。ここに、それを残しておこうと思う。 警視庁捜査一課警部 小庄司博士(こしょうじ・ひろし) 「悠鷹くん、お久しぶりです」 「ドクターペッパー、それ、あいさつのつもり?」  ここが告別式の席であることも、向こうが刑事であることも分かっていたはずなのに、私の口は、驚くほど自然に舐めた口を利いた。私もびっくりしたが、相手はもっとびっくりしていた。当然だ。彼は「名探偵アヤタカ」のプロジェクトにかかわったおとなの一人だ。優しい顔をして私たちやその親と関わり、そのせいで私たちの人生はめちゃくちゃになった。負い目、というのはいささか控えめな表現だろう。事実、周囲は皆彼に白い目を向けていて、彼もそれをわかった上で、肩身が狭そうにしていた。 それでも彼は太陽の棺の前で、たっぷり数分間、深い礼をして微動だにしなかった。 「……驚いたよ。他の子どもたちは口もきいてくれなかった。君はそれ以上にわたしを……」 「恨んでいる? そう考えるのももっともだけど、私はそもそもここに、太陽とのお別れのために来たんじゃない」  私がそういえば、彼は表情を変え、声を低くした。 「それじゃあ、太陽くんから話を? 警察がでも出来る限りの調査をしたが、まさか君を頼るとは」 「ええ、こんな偽物の探偵を頼るなんてね」 「それは……」 「謝罪はもういいです。これを見てください」  私は太陽の遺書を彼に見せる。彼は目を細めてその遺書を三度繰り返して読むと、眉間を抑えて首をふった。 「どういうことだ。さっぱり分からない」 「でも、何の意味もなく残される文章じゃない。太陽の死に、本当に不可解な点はなかったんですか?」  そう言ってじっと見つめれば、彼は首をふった。昔から変わらない。こうやって頼まれると、ドクターペッパーは断れない。 「……不可解な点はないよ。事故だ。誰かに押さえつけられたり、抵抗してもがいたりしたような跡もない。僕が子供の頃のドラマだったら、これで十分不可能犯罪のプロットになった」 「でも?」 「これを見てくれ」  そう言って彼が渡してきたファイルに目を通し、私は眉をあげる。 「類似の事故が?」 「ああ、市民プールや海水浴場での溺死。オマケに周期的だ」 「偶然でしょ。悲劇だけど珍しくない。ただ意味ありげに並べただけ」 「被害者の名前を見るといい」 私は興味なさげにその名前を上から順番に読んで、固まった。 「……先輩たち?」 「そうだ。君たちの先代、先々代の“選ばれし子ども”が、ここ最近、多く死んでいる。同じ死因。似た状況で」 「でも、どれも事故なんでしょ? 殺人だと示す証拠はなかった」 「ああ、不可能だと言えたらいいんだが。デジモンが絡んでからこっち、犯罪に不可能は無くなったからな」 「そんなこと」私は混乱して声をあげた。 「そんなこと、20年前から分かっていた話。だから私たちは、ゲートを閉じたの」  私たちが冒険の最後に戦った“大天使”の目的は、デジタルワールドと人間界の間のゲートを大きく開くことだった。開かれた交流の先に彼がどんな理想郷を見ていたのか、私には分からない。  ただ、いくらあの天使が人間に好意的でも、あの時点でのゲートの開通は人類にとっては存亡にかかわる問題だった。人間はあまりにもろく、デジモンたちは私たちに、文字通りどんなことでもできてしまう。不可能犯罪の多発、軍事利用、デジモンによる一方的な虐殺。それを予見して、世界の安定を望む意志は“選ばれし子ども”システムを発動したのだ。  そして私たちはその意思の通り、ゲートを閉じて世界を救った。そもそもの始まりから、私たちは理想を殺して現実を取るためにいたのだった。 「そして、後処理はあなたたちがした。今人間界にいるデジモンたちも、 “選ばれし子ども”が司法の側で監視している、とアピールするキャンペーン。それが“名探偵アヤタカ”だった」 「そうだ。警察はもっと誠実な手段を使うべきだった。しかし時間がなかった」 「私には言い訳しなくていいですよ」 「すまない」  私は息をついて立ち上がった。その背中に声がかかる。 「悠鷹くん、君はさっきの暗号を」 「解けると思う? 私はさ、あなたたちのついた嘘なんだよ」 「いいや」ドクターペッパーは首をふる。 「私は何度も君が謎を解くのを見た。君の推理が我々の書いた台本を越えるのは、決して時々の偶然じゃなかった。探偵としての君は決して、操り人形じゃなかった」 「そんなの、全部嘘」 「いいや」ドクターペッパーは立ち上がった。 「アヤタカは、確かに名探偵だったよ」  私は返事をしないで、彼のもとを去った。葬儀屋の床は、うんざりするほどに真っ白だった。 元“選ばれし子ども” 赤牛つばさ(あかうし・つばさ)  つばさは私の同期の子どもたちの一人だった。太っちょのおどけた男の子だった記憶が強かったから、すらりとした長身の青年が目の前に立った時、私はそれが彼だとすぐには分からなかった。 「悠鷹」 「……うそ、つばさくん?」 「うそ、はひどいな」  彼はくすり、と笑った。その目元は赤い。泣き虫なところは変わっていないのだ。 「……ドクネモンは?」 「デジタマのまま。ツカイモンもそうでしょ?」 「ああ、五年前からな」  五年前、私たちのパートナーは急にデジタマになった。いや、急に、じゃない。そのまえからあの子たちには異常が生じていた。  昔は当たり前のようにしていた進化がうまくできなかったり、昨日したばかりの話をところどころ忘れていたり。 「何があったのか、なんであんなことになったのか、今でも分からない。おれたち誰も、調べようともしなかった」  彼がぽつりとつぶやく。 「いいや、ちがうな。調べようともしなかったのは俺だ。太陽は、調べようとしてた」 「太陽が?」私は驚いて目を開く。 「5年前、ツカイモンたちがデジタマになってすぐ、太陽からメールが来たんだよ。原因を探ろうって、あの頃みたいに、自分達ならできるって」 「そんなの、知らない」 「あのころは中学生だ。ユタカのまわり、まだ酷かったろ。おれたちのメールにだって、一つも返信なかった。太陽も気を使ったんだ」 「言われてみれば」 あのころ、私がどんなだったか、正直覚えていない。でもメールなんか、取材依頼やら中傷やらで見る気もしなかったし、他の選ばれし子どもとも縁が切れたと思っていた。だから見逃してしまったのだろう。 「俺は断った。正直、ツカイモンがそばにいなくて、何かができる気なんてしなかったんだ」 「わかるよ、それ」私は適当に言った。わかる、の言葉に嘘はなかったが、彼の無念に同調できる気はしなかった。 「太陽、他の子どもには連絡してた?」 「知らない。でも、メールの文面からして、チャオやイミズのとこには連絡いってたかもな」 「そっか。ありがとう」 「なあユタカ」  椅子に腰かけたまま、つばさはどこかを見ていた。 「俺たち、なんでいつまでもああやって冒険してられなかったんだろうな」  私は返事をしなかった。その答えは彼が一番知っているのだ。 元“選ばれし子ども” 直石いみず(なおいし・いみず) 「待って、悠鷹ちゃん」  いみずに声をかけられて、私は少し顔をしかめた。もちろん彼女にも聞き取りをする予定だったが、それは彼女の母親がいないところでしたかったのだ。  いみずはバレエ教室に通う内気な女の子だった。でも私たち“選ばれし子どもたち”の中でも一番の美人で、おどおどしたところも、彼女にかかると美少女の儚さという美徳になった。  彼女は綺麗だったから、私たちがデジタルワールドから帰ってくると、メディアは彼女を真ん中にした写真を取りたがった。単独の取材が多いのも彼女だった。  それが彼女の母親をおかしくした。もとより多分にステージ・ママの気はあったけれど、いやがるいみずをあちこちの取材に連れ回して、自慢げにしていた。だから、名探偵に選ばれたのが私だった時、彼女は勝手にわたしを目の敵にして、いみずと会わせなくなった。 私も子ども心にそういう嫌な人間関係は感じ取っていて、いみずが私と友達のままでいたいと思っていてくれているのも分かっていた。でも、私は何もしなかった。 嫌味の一つや二つは覚悟していたのに、彼女の母親の対応は驚くほどにあっさりしていた。自分の子どもが、私によって滅茶苦茶にされた人生を今まさに歩んでいるというのに、この人の中では私への「いい気味」が勝ってしまうのかもしれない。私は吐きそうになるのを抑えながら、社交辞令の社の字だけを適当にこなした。 「それじゃ、お母さんは、先行ってて」  いみずが言う。母は少し心配そうに、彼女の腕をつかむ。 「いいから、あっち行ってて」    いみずがそう言って母の手を振り払ったものだから、私は驚いてしまった。母親はそれ以上にショックを受けたようで、色のない目で彼女を睨むと、足早に駐車場へ向かっていった。 「ごめんね、あの人、ずっとああなの」 「……」 「えっと、ひさしぶり、だね、悠鷹ちゃん」 「久しぶり」 「……元気にしてた?」 「全然」 「そう、だよね。こんな日、だもんね」  選ばれし子どもたちと連絡を絶って7年、いみずの母が私を娘から遠ざけて、もう10年はたつ。面と向かって話すのが余りに久しぶり過ぎて、私は、彼女にどう話せばいいのかまるで分からなかった。 「調べてるんでしょ、太陽くんのこと」 「……どうして、そう思うわけ?」 「太陽くんなら、悠鷹ちゃんに頼むし、悠鷹ちゃんなら、頼まれれば断らないかなって」 「なにそれ」 私は呆れて息をついた。どうも私のそういうところは、昔かららしい。 「じゃあ聞くけど、ここ最近太陽と会った?」  いみずは首をふった。 「5年前に連絡は? 私たちの、パートナーがデジタマになった時」 「あった。調べようって。私たちがもう一度力を合わせれば、またみんなに会えるって」 「なんて返したの?」 「ごめん、って。わたしはゴツモンがいなくなって、立ち直れてなかったし、その、アヤタカのこともうまくいかなかったでしょ? もう、わたしたちに何かができるなんて、信じられなくなってたの」  そしていまも。あの日から、私たちはずっとそうだ。 「ありがとう。何かあったらまた連絡するから」 「あ、あのね、悠鷹ちゃん」  話を切り上げて立ち上がる私の袖を、彼女がつかんだ。 「何?」 「もう一つあるの。太陽くんの死に何かあると思った理由」 「……どういうこと?」  彼女はびくびくと、あたりを見回し、それから、もともと小さい声をさらに潜めた。 「式に“アリナミン”が来てた」 「アリナミン・チオビターニ? 国際電子生物対策機構の?」  予想外の名前に、私は素っ頓狂な声をあげる。アリナミン・チオビターニ。数を増やすデジモンへの対応を任された国連の組織のエージェントで、デジタルワールドから帰還したわたしたちに聴取を行った男だ。黒服に身を包んだ、表情と隙の無いその佇まいが、子ども心に不気味だったのを覚えている。 「どうして」 「わからない。でも、あの人がいるってことはただ事じゃない、よね」  少なくとも、追悼に来るほどに私たちへの思い入れはないはずだ。 「聞かせてくれてありがとう。もしかしたら大きな事件かもしれない。いみずも気を付けて」 「う、うん。……悠鷹ちゃん。よければまた、会いたいな」  私はそれに曖昧な返事を返し、彼女の元から逃げるように去った。 元“選ばれし子ども” 大井ちゃお(おおい・ちゃお) 「あら、ユタカ、あなたも来たのね」 「げ……大井」  大井ちゃお、このバカみたいな名前の女は、元“選ばれし子ども”のなかで、私が唯一苗字で呼ぶ相手だ。別に何かがあったわけじゃない。初めてファイル島で出会った時から気は合わなかったが、向こうがやたらと私を目の敵にしてきたのだ。  それでも冒険の間は、いみずが仲を取り持ってくれたりしてそれなりにうまくやっていた。ひどいのは帰ってから、私が特に太陽と仲が良かったのが気に入らなかったのだろう。会うたびに対抗心を隠しもせず、名探偵アヤタカに呼応して、自分もあとから探偵を名乗った。  決め台詞は「困ったときの合言葉! お~い! チャオ!」 ダサすぎる。 そういうわけで、7年ぶりに会った彼女は、相変わらず腹の立つドヤ顔で、私の前で仁王立ちをしてきた。私とは対照的に、背が低く、いまでも中学生と間違えそうだ。さすがに今は長い髪をおろしているが、前に見た探偵社の宣材写真では昔から変わらぬツインテールだった。見苦しいにもほどがある。 そこは私が休憩のために逃れてきた葬儀場の裏の第二駐車場だったから、どう考えてもわたしの後を追ってきたのだ。私がソフトマドロスをくわえているのを見ると、彼女もこれ見よがしにポケットからココアシガレットを取りだした。言うまでもなく、アヤタカの二番煎じのキャラ付けだ。 「来るよ。昔の仲間の告別式だからね」 「嘘。あんた、式なんてどうでもいいと思ってる」 「なんでそう、決めつけるように話すわけ」 「私がいうことは100%正しいからよ」 「馬鹿みたい」私は駄菓子を口から話した。 「私は太陽の思い出を話したいだけ。5年前に来たメール、覚えてる?」 「え? ああ、あのメール……」  分かりやすすぎるくらいのカマかけだったが、ちゃおは故人を思い出して泣きそうな顔になる。そう、この女、ちょろくてバカで熱血なのだ 「あのときはあんたも大変だったもんね……」  見ている間にも、当時の私に感情移入して泣きそうになっている。頼むから質問に答えてくれ。 「それで、メールは」 「ええ。きたわ! ルナモン達がデジタマに戻った理由を探るために、この名探偵チャオさまの力が必要って話だったわね」 「じゃあ、話に乗ったの?」 「ええ、つい数か月前も、調査報告のために会ったばかりだったわ」  私は驚いて声も出せなかった。 「え、まだ調べてたの? あなたも太陽も?」 「そりゃあ、まだ答えが出ていないから」 「5年だよ?」 「な、なによ! 時間がかかっているのは認めるけれど、前進はしてるんだから!」  ……ああ、この女が苦手な理由、やっと分かったかも。私はため息をついた。 「最後にあった時、太陽に変わった様子は?」 「ほら、やっぱり調べてるんじゃない」 「それで? 変わった様子は?」  彼女は少し表情を暗くした。 「落ち込んでたわ。でも、不思議なことじゃなかった。あの時に出た調査結果を思えばね」 「どういうこと?」 「本当に聞きたい? きっとショックだと……」 「教えて」 「……相変わらずね、それじゃあ言うけど。私たち、デジタマの件であちこちの研究機関に調査を依頼してたの、そして分かったんだけど」  彼女は、ひどく絶望したように言った。 「あの子たちが、ルナモン達がデジタマ化したのは、ゲートが閉じたことによって、デジタルワールドからのデータ流入が少なくなったせい。あの子たちの力は強いけど、それはデジタルワールドの安定を望む者とのつながりによるものだった。そのつながりが断たれれば、体を維持するだけのデータを保持できない」 「……じゃあ、私たちのせいってこと?」 「そう。私たちは対処法を探したわ。でも、人間界のデータは代替物にならない。唯一、あの子たちを戻す術があるとしたら──」  彼女は深く息を吐いた。 「他のデジモンを殺して、そのデータを与えること」 読者への挑戦  事件の関係者の供述は以上となります。以下が回答編となりますので、もし自力で暗号を解きたい時は、ここで一度立ち止まることをおすすめします。でもぶっちゃけ、一話の暗号に答えをこじつけただけのグロテスクな謎解きになっていますので、怒りたくない方、がっかりしたくない方はそのまま読み進めちゃってください。  フェアであるために付け加えると、暗号の回答は、犯人の名前を導けるもの、になっています。連想できるもの、とかではなく割とストレートです。アヤタカちゃんと同じ過程を踏むことで、皆さんも答えに辿り着くことが可能です。  そして犯人は、明確に描写されたドクターペッパー、レッドブル、おいしい水、お~いお茶の四人のうち一人になっています。  少しスクロールしたところに、ヒント(というか暗号の前段階の解読)を載せています。 「これ」  わたしはチャオに、太陽の暗号を突きつけた。単に反応を見たかったし、彼女の探偵としての実力も知りたかったのだ。 「な、なによ唐突に」 「これ、見覚えある?」 「ない。……もしかして、太陽の?」 「そう。選ばれたのは私、ってわけ」 う、「なによう、それ。……で、あなたは解けたの?」 「うん」 「だったら私にも解けるはずね! 見てなさい」  そうして彼女はしばらく暗号とにらめっこをして、それからスマホを取りだした。 「検索に頼るわけ?」 「悪い? 自分の知識だけで解こうとするほうが浅はかよ」  なんだ、結構わかってる。  さらにしばらく、彼女が口にくわえたココア・シガレットを、ばきり、とかみ砕いた。 「キーボード暗号ね。キーボードのかな入力とアルファベットを対応させるやつ。かな入力で『あやたか』を入れると、その位置にある文字は……「37QT」になるわ」 「意味のない文字列に思える」 「私にもそう思えたから検索したのよ。これ、QTは海外でつかわれてる単位の「クォート」ね。37QTはおよそ35リットル、クーラー・ボックスの規格としてメジャーみたいね。検索するだけでいっぱい出てくるわ」 「それで?」 「……まだあるの?」 「私はそう考えてる」  彼女は汗がにじむほど考えた後に、首をふった。降参、らしい。 「まあ、そうだよね。あとは私じゃないと思いつけない」 「きーーー! なによそれ」 「そんな顔しないで。思いついたって、大してうれしくないから」    真実って、そんなもんだよと、私は言った。 以下解答編  『アヤタカ』はキーボード暗号で『37QT』を示す。QTはヤード・ポンド法で体積を示す単位。  調べてみると、どうやら1QTは0.946352946Lらしい。あとは電卓の仕事。 1QT=0.946352946L なら 37QT=35.015059002L になる  35.015059002という数の列を見ると、0がまるで数字と数字を区切るみたいに間に挟まっている。 そう考えれば 35 15 59 02 これでどうににも解読出来そうなくらいには整理できた。あとはどの鍵でこの扉を開けるか。 太陽は私に暗号を残した。私と太陽の共通点。クリスティ好きだ。あの性悪ミステリ女は60をゆうに超える著作数を誇っている。長編に限って刊行順に並べてみよう。ネットの百科事典を(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%81%AE%E8%91%97%E4%BD%9C%E4%B8%80%E8%A6%A7)参考にするならば。 第35作「死が最後にやってくる」 第15作「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」 第59作「親指の疼き」 第 2作「秘密機関」 平仮名にして並べれば。 しがさいごにやってくる なぜ、えゔぁんずにたのまなかったのか おやゆびのうずき ひみつきかん  頭文字をとると「し な お ひ」。意味が通らない? いや、タイトルをよく見ればわかる。 「『し』が最後にやってくる」のだ。 「『し』を最後にしてならべかえると、「なおひし」……なおいし。あなたの苗字だよ。いみず」  葬儀場の駐車場。私は直石いみずに言った。彼女は黙ってうつむいたままだ。 「海の事故、でしょ。太陽くん。わたしにそんなこと」 「ゴツモンにならできる。あの子が進化する。あのデジモンになら」 「……! ひどいよ。ゴツモンはもうデジタマに……」 「孵したんでしょ? 他のデジモンを殺して。それしか手がないって、太陽から聞いたんでしょ?」 「……」 「選ばれし子どもが死ねば、そのパートナーもデータになって消える。デジモンは殺せないけど、人は殺せる。最初の一回はあなたがやった。それからはゴツモンが」 「……たのに」  彼女がぽつりと話し出す。 「わたしたち、世界を救ったのに! みんな、わたしたちの敵になった。悠鷹ちゃんならわかるでしょ? どいつも、こいつも、利用するだけして、持ち上げるだけ持ち上げて、簡単に捨てた! そんな中、ゴツモンまでいなくなって、わたしが泣いてたら、お母さんなんて言ったと思う? 『いい機会よ、いい加減大人になりなさい』って! わたしたち、もうこれから一生どこにいっても、何をしても、選ばれし“子ども”なのに!」  それで分かった。彼女はそれで、最初の一線を越えたのだ。 「いみず、あんた」  私の声を、足音が遮る。現れたのは彼女の母だ。いや、違った。もう彼女の母はいないのだ。いみずに殺された。だから嫌味も言わない、探偵を前にしたいみずを心配する。何もないところで、標的を溺れさせることができる。 「あの冒険で、ゴツモンは完全体まで進化した。アイスモンになって、それから──」  瞬間、ばしゃり、と音がして、いみずの母が溶けた。夏空の下にぶちまけられた液体から、新たに大きな人影が立ちあがる。 「──スプラッシュモン」 「先輩たちが死んだのを知ってすぐ、太陽くん、気づいたみたい。わたしを海に呼び出して、自首するように説得してきた。ほら、わたしたち、冒険の最初、砂浜に流れ着いたでしょ」 「思い出の場所」 「馬鹿だよ。そんなの何の意味もない。わたしはゴツモンとの思い出を守るためにやったんだもの。あなたも馬鹿だよ。悠鷹ちゃん。わたしがもう人殺しだって分かってるのに、こんな人気のないところに来るなんて」  その言葉と同時に、いみずが目くばせをする。スプラッシュモンが、私に向けて手を伸ばした。 「やめて、いみず!」 「ごめんね。悠鷹ちゃん。もう手遅れなの。わたしたち、みんな」 「悠鷹ちゃん!」  声がする。見れば哲也が、ドクネモン──私のパートナーのデジタマを抱えてこちらに走ってきていた。 「さがしたよ! 車に置いていた君のデジタマが、急に熱くなって、もしかして何かしちゃったのかって」 「来ちゃダメ!」  わたしが叫んでももう遅い、スプラッシュモンが私に伸ばしたのとは逆の手で哲也をはたき、彼はそのまま気絶した。倒れた彼の手から、デジタマがころころと転がる。 「殺さないよ。理由がないもの。でも、デジタマのデータは、貰っていこうかな。」 「いみず、あんた」 「そうだよ。一緒に冒険したドクネモンにも、わたしはそれができる。コロナモンも、もう、わたしたちの餌にしちゃったもの」  意外だ。私は怒っている。目の前にいるのがもう昔のいみずではないと、分かっている。でもなぜだろう。こんなにも悲しいのは。 「いみず」 「──感心しないわね、自分に嘘をつくのは」  今度は、逆の方向から声がした。見れば、大井ちゃおが腕を組んで仁王立ちをしていた。横では大荷物を抱えた赤牛つばさが肩で息をしている。  35リットルの、クーラー・ボックス。 「いみず、あんた、コロナモンのこと、吸収させてない。友達をそうするのはやっぱり嫌だった? データになって消えていく卵を見て、昔沢山見た、デジモンたちの死を思い出した?」 「……そんなこと!」 「だからあなたは、デジタマの分解を止めた。アイスモンの力を使って。ほんとうに……バカ」  つばさがクーラーボックスを開き、中のものを掲げる。それは、消えかけで氷漬けにされた、コロナモンのデジタマだった。  けれど不思議だ。今、分厚い氷の中で、それは燃えている。氷が急速に溶けていくのは、決して夏の暑さのせいだけではない。  ばきり、氷が割れ、デジタマが燃える。その炎からデータの粒子が飛び、それは天に昇って消える代わりに、ドクネモンのデジタマを取り巻いた。  ぱきりと、デジタマが割れて、光に包まれる。気がつけばそこには幼年期をすっ飛ばして、ドクネモンがいた。 「ドクネモン……」  彼は私の方を見て、頷いた。  私のポケットで、何かが熱を持つ。いや、何かなんてわかっている。  私はデジヴァイスを取りだし、天に掲げた。言うべき言葉は、自然と頭に浮かんでくる。 「ドクネモン────超進化!」  それは、かつての彼の進化とは違う姿。  古代日本で、“太陽”の化身とされた、漆黒の烏。 「────ヤタガラモン!」 「……なによ、なんなのよ、それ!」  いみずがヒステリックに叫ぶ。 「なんで、そんな、まるでヒーローみたいな、なんで、いつも、悠鷹ちゃんばっかり!!!」  その声が、不意に、ぞっとするほど、低くなる。 「いいよ、殺して、スプラッシュモン」  けれど、スプラッシュモンはそれに、ただ首をふっただけだった。 「え……?」 呆然とするいみず。スプラッシュモンはこちらをみて、ゆっくりと頷いた。ヤタガラモンも頷き返し、彼の爪に黒いオーラが集まっていく。 「どうして、よけて! スプラッシュモン!」 「いみず」 「うるさい! 悠鷹ちゃんは、悠鷹ちゃんばっかり! なんでいっつも、選ばれるのよ!」 「なんでだろう」 ────ミカフツノカミ  ヤタガラモンの爪から放たれたエネルギーが、スプラッシュモンを貫く。その不定形の身体は衝撃を受けても水に戻るだけで、本来物理攻撃は通じない。けれど、その黒いエネルギーは、彼の身体を、水の分子よりも細かな、0と1へと分解していく。 「私たち、みんな選ばれた、主人公だったはずなのにね」  崩れ落ちるいみずをまえに、わたしは呟いた。  つばさたちが小庄司警部を呼んで、いみずは逮捕された。彼女はもう何の抵抗もしなかった。  つばさは泣かなかった。ただ茫然としていた。ちゃおはいみずの頬を一発はたいて、ぐちゃぐちゃに泣いた。  私は、何も言えなかった。  ただ、パトカーに乗せられる直前、いみずは私の方を向いた。 「ねえ、悠鷹ちゃん」 「やめて、何も聞きたくない」 「……ちがう。聞いて“アヤタカ”」  私は顔をあげた。 「太陽くんから話聞いて、私、最初、アプモンを殺したの。デジモンと似ているなら、データを取れるんじゃないかって、でも、ダメだった。アプモンのデータは、ゴツモンの身体には受け付けなかった」 「それが?」 「ちゃんと聞いて! わたし、調べたの。アプモンのデータ組成はデジモンと一緒。でも、そこには細かく、『人工のコードが刻まれていた』」 「……っ! それって……!」  すぐにその意味を察した私に、いみずは頷く。 「アプモンは自然発生したんじゃないの。人工のもの。だれか人間が、デジモンを改造して、自分たちに便利なように無理やり作り替えたもの」 「そんなのって……!」 「もしそんなことが行われているとしたら、デジモンと人の間には、深い溝が生まれちゃう。わたしたちが冒険の最後に一緒に見た、人とデジモンが深くつながれる社会も、無くなっちゃう。それどころか、人とデジモンの戦争だって起こり……」 「マチナサイ」  片言の日本語が響いた。見れば、黒服にサングラスの男たちの一団がやってきて、パトカーを囲むように立つ。そいつらの先頭に立つ男を、わたしたちは知っていた。 「アリナミン……!」 「ソノ犯罪者ノ身柄ハ、コチラで預カロウ」 「はぁ? 何言ってるんだ、そんなバカなことが」  声を荒げる小庄司警部に、アリナミン・チオビターニは一枚の書類を突きつける。それを見て、小庄司は絶句した。 「分カッタカ。コレは国家間の協定に基づく命令だ。君たちの国の警視総監も承認シテイル」 「最悪」いみずが小さく呟いた。 「国連が、デジモンの改造を進めてるんだ」 「……だとしても」小庄司警部はチオビターニを睨む。 「何の説明もなしに、いみずちゃんを渡すなんて真似はできない」 「実力行使はシタクナイ」 「脅しか、やれるものならやってみろ。俺が相手になる」 「ドクターペッパー……」  私たちを庇うように立つ小庄司に、思わず声が漏れる。けれど、その背中に、いみずが声をかけた。 「大丈夫。ドクターペッパー、わたし、平気だから」 「いみずちゃん! でも……!」 「大丈夫」 一歩前に出たいみずの腕を、チオビターニが強引につかむ。彼女の唇は青く染まり、震えている。 「大丈夫。名探偵アヤタカが、なんとかしてくれる、でしょ?」 「……! あんた……!」 「わたしとゴツモンも、出来るだけのことはする」  そう言いながら、彼女は黒い高級車へのせられる。 「だからお願い! もう一度、世界を救って!」  いみずのその声が、いつまでも耳の奥で反響していた。 「実家から連絡がきた。ツカイモン、デジタマから孵ったって」 「ルナモンも、あの子ったら、相変わらずマイペースで、もう寝ちゃったわ」  つばさとちゃおが、そう言って、私の横に座った。 「……ゴツモンが、データをくれたのね」 「ああ、きっとそうだ」 「国連が、陰でデジモンにひどいことしてるなんて、見過ごせないわ」 「ああ、そうだ。でも、俺たちに何ができる」 「何かはできるでしょう!」 「でも、警察のお偉いさんだって敵なんだぜ? 下手に動いたら握りつぶされるだけだ」 「だからって……!」  ぱん、私は手を叩いて、加速する二人の口論を止めると、立ち上がった。 「ユタカ……」 「私だって、正直知らないフリしたいよ。でも、もう選ばれちゃったから」 「やるのね?」ちゃおがにやりと唇を吊り上げる。へたくそな笑顔だ。悲しみの中で、彼女なりに無理をしているのだ。 「うん。やる」 「できるのか?」不安な顔で、つばさが尋ねる。  こういうときに、根拠もないのに確信をもってできる、と言うのが私は嫌いだ。でも、太陽ならきっとそうしただろうな、とも思う。深呼吸して口を開く。 「できるよ。でも、二人が必要、もちろんルナモンに、ツカイモンも」  私は夕日に向かって数歩歩き、ポケットから出したソフトマドロスを加えると、振り返った。 「私たちは、世界を救った子どもたち、なんだから」 (とりあえず、おわり)
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マダラマゼラン一号
2024年2月03日
In デジモン創作サロン
一話はこちら(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/zabike-sositezui-hou-niha-you-nidang-tare-di-1hua)  メーデー、メーデー。そらいろの瞳が見た、最後の夢。  どうか、わたしを──。  彼女は神さまでした。そうあれかし、と天使たちに望まれて生まれてきました。  神さまに似た者は、このデジタルワールドには大勢います。けれど、本当に神さまと呼ぶべきひとは、とっくのとうに、もう理由すらもわからないほど昔に、千々にちぎれて死んでしまいました。  その欠片を宿して生まれたのが、今の天使たちです。彼らは皆、自らの肌の下に流れる神さまのこころを感じ、それを誇りに戦っていました。  いつだったでしょうか。ある天使が、神さまをもう一度迎えよう、と考えました。他のどの天使にも、それはいい考えのように思えました。  彼らは自分の中にある神さまのかけらを少しづつ集め、一つの大きな卵を作りました。神さまを集めてできた卵からは、きっと小さな神さまが生まれるはずだ。彼らはそう信じていました。  けれど、そこからは何も生まれません。結局のところ天使たちが集めたのはただの神さまのかけらで、こころでもからだでもなかったのです。  天使たちは悩みました。  最も位の高い天使のデータを流し込みましたが、うまくはいきませんでした。その次に賢い天使、優しい天使、強い天使、どれもだめで、結局彼らは、誰が優れたものを持っているかを巡って少し仲が悪くなっただけでした。  昔の書物からかき集めた、神さまが何を考えて何をした、という情報を与えてみましたが、やはりうまくはいきません。実際その神さまは、何かを考えられたわけでも、何か意義のあることができるわけでもなかったようなのです。  だから天使たちは、禁忌を犯しました。自分たちだけが知る、世界の秘密に触れました。  この世界には、空を果て対称軸にして、反対側にもう一つ世界があります。そこには天使たちとよく似た姿の、デジコアがないかわりに、はらわたのある生き物がいました。彼らは殆どの場合天使たちよりも遥かに愚かでしたが、デジタルワールドに生きるどの種族よりも栄え、デジタルワールドに生きるどの種族よりもはっきりと音を立てる「生命」を持っていました。  天使たちは反対側の世界の生き物を丁寧に調べました。触れてはいけない知識に触れても。彼らはなんとも思っていませんでした。だって神さまはこれから生まれて、神さまのために自分たちがしたことはなんでも許してくれるのですから。  そして、その生命の情報を胚に流し込まれたとき、卵の内側から、何かが世界をノックする音がしました。彼らはやり遂げたのです。天使たちは歓喜し、神さまの誕生を心待ちにしながら眠りにつきました。  けれど、彼らのうちの一人。鍵を手にした天使だけは喜んでいませんでした。境界を侵すことの意味を誰よりも知る彼は、仲間たちが禁忌に触れるのを最後まで止めていましたが、仲間が聞く耳を持たないとわかると素直に沈黙し、機を待ちました。そして、ある夜そっと卵を持ち出したのです。  卵を抱え、鍵の天使はどこまでも飛びました。  森林地帯に差し掛かった頃、彼の行いに気づいた他の天使たちが、背後から追いついてきました。自らの命運を悟った鍵の天使は、生まれる寸前の卵、天使たちの神性のこもったものと、もう一つの世界の命「人間」の情報ががこもったものに分けると、神のかけらの方に加護を与え、森へと落としました。その力を天使たちが持つ限り、何度だって同じ事をするだろうと考えたからです。  そうして森に落とされた卵から生まれたデジモンは、鍵の天使の加護によって、森に馴染む犬や猫(のように見える鼠)の姿に成長していきました。しかしその強い力を何時までもは隠せず、彼女は天女のような、美しいエンジェウーモンの姿に変わりました。  彼女の命がたどったお話は、皆さんが知っているとおりです。ここでは、仲間だった背中を射抜かれた鍵の天使の手から神の座に引き戻された、もう一つの卵の話をしましょう。  天使たちが己のすみかに卵を持ち帰ってすぐ、天空につきぬけるように立つ水晶の塔の天辺。天使たちに見守られて、彼女は生まれました。  世界の果てまで見通せそうな、きりりと澄んだ冷たい空気が、彼女の知った初めての世界でした。  彼女は生まれたばかりの柔らかな手で枕元を探り、彼女の顔を見ようと集まった天使の羽に触れると。生まれたばかりの力でぎゅうと握りしめました。  光に満ちた空に、天使の悲鳴が響き渡ります。  彼らは自分の過ちに気づきました。鍵の天使に出し抜かれたと気づきました。星の波間の向こうに生きる、自分たちに似た、はらわたを持った生き物が、そばで見るとどうしようもないほどに醜いと知りました。  その日の太陽がしずまないうちに、天使たちは彼女を放り出しました。結局のところ、かれらは自分たちをより良くしようとする試みにしくじっただけで、何かが悪くなったわけではないのでした。  それで、彼女は一人ぼっちになりました。神さまの力も、助けてくれる人も、何もなく、彼女はぼんやりと、こっちだ、と思った方に、四つん這いで歩き始めました。  旅の中で、彼女は成長しましたが、彼女はそれでも一人ぼっちでした。気のいいデジモンがこわごわ彼女の面倒を見てくれることはありましたが、彼女のはらわたと、胸のあたりから聞こえるどくどくとした音をしんから理解してくれるデジモンは一人もいませんでした。  旅の中で、彼女は森にいる魔女の話を知ります。それが自分の片割れだと気づいた頃には、魔女は、天使と森の民を余さず殺し尽くしていました。天使が大事に抱えていた「神さまのちから」は、結局そういうものだったのです。  いいえ、話を聞けば、森の民にはわずかな生き残りがいたというではありませんか。彼女は気になっていても立ってもいられなくなりました。  人らしさを自分にあずけ、異国の地に立った一人で放り込まれた片割れは、  切り離された力、すべてを消去するシステムに過ぎなかっただけの片割れは、  どうして誰かを生かしたりしたのでしょう。  気になって気になって、そして気がつけば、彼女は禁域と化した森へと歩みを進めていたのでした。 『そういうこと、だそうだ』 「その話を真に受けたのか、ザミエールモン」  夕暮れ時、バリケードの前に佇む少女を見下ろしながら、ギリードゥモンはため息を付きました。 『彼女の身体が特殊なのは事実だ』  それだけいうと、無線機からは沈黙だけが流れます。ザミエールモンはいつもこうやって、尻切れの蜂の踊りのように話します。肝心なことを言葉の外で察してもらわなければ気がすまないのか、自分の意志が他のすべての意思であることに慣れすぎてしまっているのかもしれません。 「それで?」  明確な司令を好む性格のギリードゥモンは、たまらず尋ねました。 「それがなんで、デクスモンを殺せるって話になるんだ」 『知らんな。彼女がそういったんだ』 「わからない?」  刹那、背後で聞こえた声にギリードゥモンのコアが飛び上がりました。とっさに背後をみると、先程まで下にいたはずの少女が膝を抱えて、もう彼の後ろにいるのです。鋭敏な彼の感覚をもってしても、荒唐無稽に思える話を聞きながらでは、デジコアを持たない相手の気配を捉えるのは難しかったのでしょう。 「もう、登ってきたのか」  ギリードゥモンはゆっくりと言葉を刻みながら尋ねます。髪の色も瞳の色もエンジェウーモンとまるで同じで、どう接したらいいのか、彼にはまるでわかりませんでした。 「そう」  そう素っ気なく答えた声まで、エンジェウーモンとまるで同じもので、ギリードゥモンは胸を内側からかきむしられるような気分になりました。 「バリケードは」 「ザミエールモンが一時的に解除してくれた。当然の判断。デジコアを持たない私が近づいても、デクスモンは反応しない」  彼女は無機質にそう告げます。しかし話す内容とは裏腹に、口調はがさがさと有機的で、その乱雑な話し方がエンジェウーモンとかけ離れていることに、ギリードゥモンはどこか安心するのでした。  少女はといえば、そんなギリードゥモンの気持ちを知ってか知らずか、たっぷりの余白をあけてから立ち上がり、彼に向かい合いました。 「あなたが、ギリードゥモン」 「そうだ。お前さんは?」 「名前はない。呼び方がないと不便なときはサンプリング元の人間の個体名を名乗っているけれど」 「それでいい、教えてくれ」 「ヤガミ」 「ヤガミ、か」  ギリードゥモンはまた一つ安堵します。これで、少なくともエンジェウーモンとは別の名前で彼女を識別できるのですから。 「それで、デクスモンはこの下」 「そうだ」 「それじゃあ、この森には今、デジコアは一つもない」 「そうだ」 「あなたを除いて」 「そうだ」 「ふうん」  ヤガミと名乗った少女はそういいながら、大股で塔の外周を歩き回り、あと一歩で落ちる、というところで立ち止まりました。危なっかしい足取りに、ギリードゥモンが止めたものかと迷っていると、彼女は美しい森を見渡し、ふむと息をつきます。 「本当にぜんぶ、殺されてる」 「そうだと言っただろう」 「デクスモンが、殺したんだ」 「そうだ。デクスモンの事は知ってるんだろう。だったらここで大勢殺されたことも……」 「ううん」  彼女は否定するように首を大きく横に振りました。 「違う」 「なにがだ」  苛立ちを隠しながら尋ねるギリードゥモンを見返すかわりに、彼女は夕映えの地平線に目を向けます。 「デクスモンはデジモンじゃない。ただのシステム。消去のためのプロセスをただ繰り返すだけの、原始的で暴力的な構造体なの」  そんなことは分かっていると鼻を鳴らす彼を、ヤガミは心底驚いたような表情で振り返ります。 「でも、ここにいた命はみんな”殺されてる”。明確な意志を持って。あなたとザミエールモンは、意思を持って生かされた。システムのエラーで見逃されたわけじゃない」 「そんなことは」  気がつけば、ギリードゥモンは声を張り上げていました。無線でザミエールモンと話すばかりだったせいで、久しぶりに出した大声は、がらがらでところどころひっくり返っていました。 「そんなことは、言われなくても分かっている。彼女が戦争を終わらせたくてすべてを殺したことも、おれたちを生かしてくれたことも」 「ちがうでしょ」  不意にヤガミがギリードゥモンに近づき、その目を覗き込みます。森の狙撃手であるギリードゥモンは自分が狙われることはまずありません。ごくまれにそんな機会があっても、デジコアまで見透かされるほどに命の危険を感じたことはありません。けれどこの時、彼は初めて、自分に狙いを定められた獲物の感覚を理解しました。 「あの子はつかれたんだ。そして憎かったんだ。自分を受け入れてくれない連中が、美しくない世界が。だから殺した。あなたは憎まれてなかったから、殺されなかった。そうでしょ?」  目を真っ直ぐに見据えながらそう言われ、ぎりぎりと心臓を締め上げられる心地がします。けれどギリードゥモンは、ゆっくりと言葉を刻みます。 「お前さんは、彼女の片割れだったのかもしれないが、分かってない。少なくとも、彼女の全ては」 「そう?」 「そうだ」  ギリードゥモンはヤガミから目を外し、橙色に染まる森を見回します。自分にとってはじめはただ生まれただけの場所だった森。エンジェウーモンとともに守った森。 「彼女は、この森を、愛していた。彼女は、平和を願っていた。確かに」 「……」  しかめっ面でその言葉を聞いたあと、ヤガミはにへら、と笑いました。 「ギリードゥモン、無理だよ」 「何がだ」 「あなたに、デクスモンは殺せない」 「──!」  不意に告げられたその言葉に、ギリードゥモンは彼女に詰め寄ります。 「どういう意味だ。お前さん、なにか知っているのか」 「知ってる、でも、教える気がなくなった。あなたはデクスモンを殺せない。そして、もう誰もあの子を殺せない」 「……」  沈黙、それに先に耐えかねたのはヤガミの方でした。またくすくすとわらうと、軽い足取りで塔の縁に腰掛けます。 「そんな顔しないでよ。そうだなあ、それじゃ──」  その瞬間、ギリードゥモンのコアが危機を告げます。禁域に近づくものの気配。手が勝手に、どんぐりという名の銃を手に取ります。 「今から来るやつら、うまく殺せたら、考えてあげる」  ギリードゥモンはスコープを覗き込み、意外そうな声を上げました。 「……ユニモンにメイルドラモン、複数体。このあたりじゃ見ない種だ」 「神さまの右半身と左半身が出会ったんだよ? 天使はもういないけど、そのそばのデジモンたちは気配を察してやってくる、きっと夜通しの戦いになるよ」 「……そうか」 「朝になって、私が満足したら、教えてあげるね。あの子の殺し方」 「おれは、嘘は嫌いだぞ」 「はいはい、約束」  じゃあ私、ここで見てるから、といって足をぶらつかせるヤガミの横で、ギリードゥモンが狙撃の準備を整え、警報がなります。 「ところで」 「なんだ」 「こんな塔の天辺でそんなカッコ、逆に目立たない?」 「……」  ギリードゥモンは黙って鼻を鳴らすと、スコープを覗き込みました。少女はけらけらと笑い、頬杖をついて、響き渡るであろう銃声を、その余韻に至るまで聞き逃すまいとするように、目を閉じました。 「ねえ。あの子の愛しい世界、あなたは、上手に殺せるかしら? あなたの、愛しい世界を」
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マダラマゼラン一号
2024年1月18日
In デジモン創作サロン
White Rabbit No.9 作:マダラマゼラン1号  2018年、“天使の日”と呼ばれる事件をきっかけに突如デジタル・ワールドにつながるゲートが開通した世界。リアル・ワールドは機械デジモンたちの企業“スクルド・カンパニー”と悪魔デジモンたちの共同体“ウルド・コレクティブ”の侵攻を受ける。  圧倒的な力の差を前に、人類は地球の支配種の座をデジタル・モンスターに譲り、緩やかな滅びへと移行した。  そんな夏のある日、染野春樹は不思議な少女・つばめと出会う。 庭 “ため息くらいつくよ。世界の終わりなんだ” 庭‐Ⅰ ”スーサイド・ファンクラブ” 庭‐Ⅱ ”サイファイ・カルト” 庭‐Ⅲ ”The End of the World” 塔 “我々は皆、求めているんだ。自分の世界を貫いてくれる乱数を” 塔‐Ⅰ ”赤の錠剤”  塔‐Ⅱ/ ”選ばれし子どもたちの会” 塔-Ⅲ/ ”デイ・ドリーム・ビリーバー” 登場人物紹介&用語集 (随時更新 ”塔”編までのネタバレを含みます) 染野春樹 主人公。警察学校を出たのち、”塔京”で探偵を営んでいる。 才原つばめ 春樹のかつての恋人。”選友会”のコロニーで暮らしていた。春樹に連れ出され逃亡するが、その途中何者かに撃たれ、白い羽となって死亡する。 アンドロモン ”カンパニー”に所属する完全体のデジタルモンスター。人の助けとなるために”カンパニー”に加わり人間界にやって来た。かつて春樹の前に現れ、つばめの救出を持ち掛けた。現在は”塔京”で刑事として活動している。 ヴァンデモン ”コレクティブ”に所属する完全体のデジタルモンスター。デジタル・ワールドの”神代”から生きていたとされ、強力な力を持つ。かつて、つばめを逃がそうとする春樹達の前に立ちはだかった。 「先生」 ”選友会”のコロニーでつばめたちの教育係をしていた大柄な男性。かつて逃亡したつばめを追い、春樹の前に現れた。 ブギーモン 春樹に雇われて運転手をしている成熟期のデジタルモンスター。 日浦風吹 刑事。春樹と警察学校で同期だった。アンドロモンを慕っている。 才原善鬼 ”選友会”の会長。 クララ・マツモト ”塔京”で「国のない男」というバーを営む女性。かつては反デジモン主義者達と共に活動していた。 クラモン クララと共に暮らす幼年期のデジタルモンスター 才原夜鷹 ”選ばれし子ども達の会”のリーダー。かつてつばめと共に”選友会”のコロニーで暮らしていた。現在は”選友会”の排出した国会議員の秘書を務めている。 才原からす ”選ばれし子ども達の会”のメンバー。かつてつばめと共に”選友会”のコロニーで暮らしていた。 才原あひる 同上。ドローンを操作する技術があり、遠隔で夜鷹のサポートをしている。 ネオデビモン ”コレクティブ”のモンスターに”カンパニー”が改造を施すことで生まれた完全体のデジタルモンスター。意志はなく、主人としての権限を保持する者の命令に従順。現在は主に夜鷹に使われている。 ナノモン 完全体のデジタルモンスター。現実世界で”カンパニー”のモンスター達を束ねている。 サイハラヒナノ 春樹の前に現れる謎の少女。見る者によって人間の少女に見えたり白銀のアンティラモンに見えたりする。 Dr.トラファマドール 道化師の姿をした人物。デジタルモンスター達からは”メフィスト”と呼ばれていた。かつて春樹たちのいた町に現れ、現在は“塔京”でヒナノと共に行動している。 用語集 ”天使の日” 2017年初頭に起きた事件。東京を含む世界7カ所の都市に巨大な塔が現れ、デジタル・ワールドとの間にゲートが開いた。 デジタルモンスター 人間界とは別の世界”デジタル・ワールド”に住む知的生命体。 主に6段階の進化を行い姿を変えるが、6段階目”究極体”は神話で語られるのみで現在は存在せず、”完全体”が実質的な最終段階である。 ”16番目の戦争” 人間に対し不平等な形での交流を持ち掛けたデジタルモンスターに対する大規模な抵抗戦争の最後の一戦。この戦争での敗北をもって人類はほぼ完全に屈服。デジタルモンスター優位の新たな世界秩序が築かれ始めた。 ”塔京” 塔の出現により様相を変えたかつての東京都の通称 ”スクルド・カンパニー” 機械系デジタルモンスター達の企業。人間界へとやって来た二つのグループの中の一つ。”塔京”ではその圧倒的な技術力を武器に司法や医療の分野において影響力を強めている。作中ではただ”カンパニー”と呼ばれることも多い。 ”ウルド・コレクティブ” 悪魔・堕天使・不死者系デジタルモンスター達の共同体。人間界へとやって来た二つのグループの中の一つ。”塔京”ではその神秘性を武器にカルト宗教と結託。徐々に力を強め、その影響力は政界にまで及んでいる。作中ではただ”コレクティブ”と呼ばれることも多い。 ”天使” かつてデジタルワールドに存在したというデジタルモンスターの一団。”ウィルス・バスターズ”を率いて”コレクティブ”と戦ったが、一部の天使の堕天や、”コレクティブ”が不死者と同盟を結んだことにより敗北、完全に滅亡したとされている。 ”ウィルス・バスターズ” デジタルワールドに存在する組織。かつては”天使”達に率いられ、デジタルワールドを守っていた。”天使”の滅亡後は、人造神とも呼ばれる巨大なコンピュータを代わりに戴き、その指示で活動している。”天使の日”及び機械と悪魔の人間界侵攻には静観を選んだ。 ”選友会” カルト的宗教団体。”コレクティブ”と結託し、現在では政界進出を果たすなど強い力を持っている。 ”選ばれし子ども達の会” ”選友会”の二世信者の一部が秘密裏に結成した反抗派閥。 ”ランダマイザ” ”カンパニー”による手術によって体の一部をデータ化された人間。データ化によって脳の一部を暗号機として使用できるほか、デジタルモンスターを進化させるための乱数をはじき出す可能性が期待されている。 ”天使殺し” ”塔京”で発生している行方不明事件。人がこつ然と姿を消し、最後に目撃された場所付近で白い羽が見つかることから『天使になって飛び立った』『天使が殺された』などと噂されている。
White Rabbit No.9 目次&用語集 content media
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マダラマゼラン一号
2024年1月14日
In デジモン創作サロン
これまで 庭‐Ⅰ ”スーサイド・ファンクラブ”(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ting-i-susaidohuankurabu) 庭‐Ⅱ ”サイファイ・カルト”(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ting-ii-saihuaikaruto) 庭‐Ⅲ ”The End of the World”(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ting-3-the-end-of-the-world) 塔‐Ⅰ ”赤の錠剤” (https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ta-i-chi-noding-ji/edit) 塔‐Ⅱ/ ”選ばれし子どもたちの会”(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ta-ii-xuan-baresizi-domotatinohui)  ひゅう。はじめに聞こえたのはそんな風の音だった。  それが何かが風を切る落下音だと分かるまえに、耳をつんざく程の轟音が続いた。  思わず目をつむって、そして開く。土煙が晴れるのと同時に、それは折りたたんだ羽根を広げ、ゆらりと立ち上がった。  一足先に我に返ったのだろう。ケンキモンがそのショベルアームを模した巨大な腕を振り上げ、そこにいる何かに向けて振り下ろす。重量も何もかも、人間の考える重機のそれと変わらない。そんなものをたたきつけられたら、デジモンでもただではすまないはずだ。しかし。 「片手で……?」  僕は呟く。そいつは、アンバランスな程に長い腕を伸ばしただけだった。力を込めた様子すらなかった。ただそれだけで、ケンキモンのアームは受け止められてしまった。  次いで響くのは轟音。ケンキモンの周りに立ち上る砂ぼこりで、僕は彼がキャタピラを全速で動かしていることが分かった。彼は逃げようとしていて、それなのに逃げられないのだ。ケンキモンのアームを受け止めた腕の一本で、そいつは、逆にその動きを止めてしまっていた。 「何を遊んでる」  僕の隣で、静かに夜鷹が言う。 「さっさと決めろ。ネオデビモン」  その言葉に、そいつは、金色の仮面をかぶせられた悪魔は顔をあげた。  ケンキモンは自分をつかむ手から逃れるのを諦めたように、もう片方のアームをネオデビモンめがけ振る。しかし、その腕は空を切った。  いつの間に移動したのか、ケンキモンの背後に立ったネオデビモンが、かぎ爪でその体を貫く。 〈ギルティ・クロウ〉  機械音の混じった慟哭が、ネオン街に響いた。 「ネオデビモン。鉄仮面の悪意。”完全体”のデジタル・モンスター」  僕がぽつりと呟く横で、夜鷹は手元のスマートフォンを操作する。するとネオデビモンの体は何かの信号を受け取ったかのように振動し、大きく翼を広げると、強い風を巻き起こしながら羽ばたいた。まさしく空に落下するようなスピードで夜空に消えていくそれを見送り、僕は夜鷹の方を向く。 「あんなデジモンが、どうして人間の指示に従う?」 「人間の指示に従うわけじゃない。誰の指示にも従う」  夜鷹は元々細い目をさらに細めて笑った。 「あれの出自はちょっと特殊なんです。”コレクティブ”のデビモンを素体としてはいるが、体に施された改造には”カンパニー”の技術が用いられています」 「サイボーグの悪魔ってわけ?」 「どちらかといえば、悪魔をパーツに使ったロボットです。素体の意識は残されていない。電子的な権限を付与されたものの指示に従って戦う、それだけが彼の役目です」  同族を相手にあまりに非人道的じゃないか。そう考えてから僕は笑いを漏らす。我ながらバカなことを考えるものだ。彼らは悪魔だというのに。 「それで、今はその権限を君が?」 「正確には、俺が秘書を務める議員が。ボディーガード用に”コレクティブ”から貸し出されているんですが、不気味がって使いたがらないので、たまにこうして借りているんです」  と、彼のスマートフォンから声が聞こえる。 『兄さん、誰かが通報したみたいだ。早くそこから離れた方がいい』 「ああ、ありがとう、からす、あひるも、よくやってくれたね」 『ふふー。それよりにいさま、大丈夫? ソメノハルキになにもされてないよね』 「大丈夫だよ」  緩い笑みを唇に浮かべて話した後、彼は僕の視線に気付き。少し恥ずかしそうに肩をすくめた。 「才原からす、あひる。”選ばれし子ども達の会”の一員で、俺の仕事を手伝ってくれる弟と妹です。どっちも、つばめのいたコミューン時代からの仲ですよ」 「スナイパーの子がいるなんて、随分層の厚い教団だ」 『それ、褒めてないでしょ! ソメノハルキの意地悪なんて効かないんだから! 何にも知らないくせに!』  スマートフォンからあひるのとげとげしい声がする。夜鷹は苦笑して、通りの真反対にあるビルの屋上を指さした。そちらをよく見てみれば、赤と緑の小さな光が宙に浮かんで瞬いている 「ドローン?」  僕の言葉に夜鷹は頷いた。 「二人はまだ25歳に達していません。無許可で外には出られない。だから今は都内にある教団の寮から遠隔でサポートをしてくれてます」 「麻酔銃付きのドローンなんて、違法に決まってる」 「何のことだか」  くすくす笑う夜鷹を僕はにらみ付ける。  「君は僕との何らかの協力関係を結びにここまで来た。その夜にちょうど暴漢がクララの店に来て、君たちは自分の力を示した。こんなことがあるか?」 「俺が全部仕組んだと考える方が、世の中が堕落したと考えるより楽でしょうね」 「だとしたらバカだ。クララやクラモンに何かあったら、この場で僕が君たちを許さなかった」  僕の言葉をひらりと交わすように、彼は肩をすくめる。 「そうかもしれません。でも、とにかく、俺達のデモンストレーションは成功です。あなたの目的に必要なものを、俺たちは差し出せる。それが証明できたんですから。組織力、調査力、武力……」 「武力は不用だよ」僕は口を挟む。 「そうでしょうか? この世界で、人間が一人で銃を振り回すだけでは何もかもが足りないはずだ」 「それが通じなくなったら、そこが僕の限界なんだ」 「それでいいんですか? 仮に真実が分かったとして、つばめをあんなにした犯人になすすべもなかったら? それでも、あなたは自分を慰められると?」 「君は、少し勘違いしてる」  僕は街の灯りで照らされた夜空を見上げた。 「僕は、別に復讐がしたいわけじゃない。何かがしたいわけじゃないんだ」  夜鷹は一瞬、僕が何を言ったか分からない、というふうに眉を寄せ、それから、薄く目を開いた。 「それなら、ずっとそうしているといい」 「ご忠告ありがとう。そうだ。僕はずっとそうするよ」 「でも、覚えていてください、”選ばれし子ども達の会”は、いつでもあなたに協力する準備ができています」  乾いた声で笑う僕に、夜鷹は真剣な口調で続ける。 「俺は本気で言ってます。俺たちと組むべきだ。さもないと、誰かがあなたを傷つける。あなたに何を傷つけるつもりもなくたって」 「どうして?」 「どうして、って」  夜鷹はあきれ顔をうかべ、至極当然のことのように言った。 「あなたの周りにいる連中は、どいつもこいつも信用ならないじゃないですか」  それじゃ。そう言って夜鷹はチェスターコートのポケットに手を差し込み、雑踏の仲に消えていく。やがてパトカ―のサイレンの音が聞こえるまで、僕はネオデビモンがアスファルトにあけた穴を、じっと眺めていた。   目を開けると、太陽は橙色のぼやけた球だった。それはゆらゆらと左右に動き、世界には小刻みに昼と夜が訪れた。  濁流のような音がする、それは、鼓膜の内側を流れる血液の音だった。どくどくどく、という音の刻むリズムは、太陽の揺れるリズムと微妙に異なっていて、それが僕をひどく不快な気分にさせた。  いい加減にしろ、足並みをそろえるか、そうじゃなきゃいっそ止まってしまえ。そう叫ぼうとして、喉からはがらがらのうめき声が漏れる。思わず手を首元に伸ばすと、視界がぐるりと一回転して、直後に鈍い痛みが半身に走った。 「ン、目が覚めたか。ハルキ」  聞き慣れたレプリカントの声がした。 「……アンドロモン」 「昨晩どうやって帰ってきたか、覚えているか」 「クララに礼に一杯おごるって言われて、それから……」  そこで僕は、ここが自分の探偵事務所だということに気が付いた。僕が横になっているのは来客用のソファで、ゆらゆら揺れる太陽は古びたつり下げ式の電灯だ。とすれば、耳元でするどくどくという音と、言いようのない不快感が何か、考えるまでもなかった。 「ン、死体を見たことには同情するが、意識が飛ぶほどの飲酒は褒められたものじゃないな」  明確な非難のニュアンスが込められたレプリカントの言葉に声にならない声を漏らしながら、僕はこめかみを押さえて起き上がる。 「あなたにいつ合鍵を渡したかな、アンドロモン」 「君がこの事務所を初めてすぐに、だ。この問答をするのは三回目だぞ。ハルキ」 「死体のことは、吹雪から聞いたのかい」 「都内で起こる事件にはすべて目を通している。二日酔いの程度は?」 「世界の終わりくらい」 「笑えないな」  そう言いながら、彼は本当に表情一つ変えずに僕のいるソファへ寄ってくる。と、やわらかなにおいが鼻をついた。彼が先ほどまでいたのが、事務所の小さなキッチンであることもそれで分かった。僕はコーヒーの湯を沸かすのにしか使わない場所だ。 「朝食を?」 「ン、ほとんど昼食だ。ハルキ」  そう言われて時計を見てみれば、時刻は昼の11時30分過ぎだった。 「そんなこと。わざわざよかったのに」 「だが食べるべきだ。そうでない場合は私が食べることになる。私にはその手の栄養は不要だ。これを無駄ととるかは君しだいだが」 「わかったわかった、食べるよ」  僕はそう言って、ローテーブルに置かれた盆に目をやる。豆腐とわかめの味噌汁とふわりとした白飯。ミョウガの入った卵焼きが几帳面に並べられている。胃酸がせりあがてくるような感覚は不思議と引っ込み、僕は代わりに、昨晩からろくにものを食べていなかったことを思い出した。 「トマト・ジュースは君の好みのメーカーのものだ。飲めば味覚がリセットされる。他の食材と併せて冷蔵庫に入れているから、悪くなる前に食べるように」 「分かった。分かったよ。いただきます」  僕はそう言いながら、塩気のあるトマト・ジュースを一息に飲み干すと、箸を手に取り、卵焼きを口に放り込んだ。こうしてアンドロモンが食事を作ってくれる機会は年に何回もなかったが、それでもすっかり慣れ親しんだ味だ。 ──いいな、わたしもあんどろさんのごはん、食べてみたかった。  脳みその裏側でつばめが言う。僕の心の一側面に過ぎないくせに、彼女はたまに僕が悲しくなるようなことを言う。 「で、本庁の警視正がこんな時間に探偵事務所にいていいのかい?」 「そのあたりは融通が利くんだ。立場があると言っても、私の場合は特殊でね」  そう言ってアンドロモンは申し訳なさそうに顔をゆがめた。9年前のつばめの一件の後、失意に打ちひしがれながら東京に戻ったアンドロモンを待っていたのは、新体制の警察における重要なポストだった。彼はつばめがコレクティブに渡るのを“殺してでも”止めてみせた。カンパニーはその働きに報いたのだ。警視正の肩書きは、アンドロモンが固辞に固辞をかさねた後に残った、望みうる最低の立場だった。 「まだまだ現場を退く気は無い、と」 「今のこの国では、人間の刑事はそれだけで命の危険と隣り合わせだ。私がそばにいたほうが、助かる命は多い」 「警察学校の教官は?」 「“天使殺し”が起きてからは昔のように付きっ切りで見ることはしていない。週に一回か二回授業を持つ程度だ。みんな真面目にやっているよ。君たちのころは問題児だらけだった」 「あのころ警官になろうってやつらはみんな、“天使の日”の混乱で自分の無力をいやというほど味わった連中だ。僕も含めてね」 「ン、だからみんな野心的で、それを十分に結果につなげてくれている。同期の皆と連絡は取っているのか?」 「まさか。吹雪がたまに向こうからちょっかいをかけてくるくらいだ。みんな僕のことを軽蔑してる」  アンドロモンは悲しそうな顔をした。デジモンでも人間でも、僕は彼以上に感情豊かな人物に会ったことが無かった。  僕は味噌汁を飲みほし、ごちそうさま、と言う。それからスマートフォンを操作し、ニュースサイトを開いた。 「昨日の件、ニュースには?」 「なっている。とはいえ、犯人は例の吐かせ屋ではっきりしているし、事を荒立てないのがカンパニーの信条だ。どのニュースも、被害者の名前を報じるだけにとどまっている」  それでも、探偵相手に必死に匿名を貫いていた彼女には不本意だろう。そう思いながら、僕はその事件を報じたと思われるニュースを開く。 「被害者の名前は北見茜(キタミ・アカネ)。32歳。カンパニーで“塔”の観測所に務めていた、と」 「想像通り、といった口ぶりだな。ハルキ」 「まあ、それくらいはね。それ以前の経歴が知りたいな」 「ン、既に調べた」 「教えてくれるの?」 「ここで私が秘密にしても、どうせネットに出ている」  そう言いながら、アンドロモンが自分の端末を見せる。それはとある週刊誌の電子版で、よく言えば他より少し踏み込んだ、悪く言えば節操のない記事を書くことで有名だった。 「『元製薬会社エリート研究員が抱えた”裏社会とのつながり”』だって?」  僕は舌打ちをする。殺したのがそこらのチンピラだというだけで随分大げさな物言いをするものだ。 「内容は、今回の事件を入り口にいつもの陰謀論を述べただけの愚にもつかないものだ。だが、被害者の経歴はそこそこよく調べられている」 「”ヴァリス製薬”」 「ン、2年前まで彼女はそこのラボで働いていた」  それはここ数年でよく耳にするようになった名前だった。もとは9年前、人間の敗北からほどなく設立された、デジモン向けのさまざまなサービスを行う会社だった。やがてランダマイザ手術が一般化されると、ターゲットをデータ化した人間達に切り替え、事業を製薬部門に一本化。カンパニーと提携し、従来の病気から精神疾患、恐怖症にまで効果のある薬を次々と発表している。 ──どうかな。あそこの薬飲んだら、わたしもハルキの頭から消えると思う?  意地悪な声音でたずねるつばめを僕は無視した。その微妙な表情の変化を読み取ったのか、アンドロモンは息をついて僕の向かいの椅子に座る。 「まだ、つばめの声が聞こえるのか」 「あなたはいつも鋭い」  冗談めかした僕の返答に、彼は首を振る。 「ハルキ、君の供述は見た。あそこで本当は何があったにせよ。キタミアカネは君の依頼人ですらなかった。この事件にまで首を──」 「あんどろさん」  僕は少しだけ語気を強めて彼の言葉を遮った。 「僕だって手当たり次第に事件に首を突っ込んでるわけじゃない。自暴自棄になって無軌道な行いをしてるのでもないし、仕事をしていないと余計なことを考えてしまうわけでもないよ。それでも、昨日の事件は”天使殺しに”関係してる」    疑わしげにこちらを見るアンドロモンに。僕はなるべく丁寧に、昨日あったことを彼に話した。その間に、二人合わせて四杯のコーヒーがからになった。僕が語り終えると、たっぷりコーヒー一杯分の沈黙をはさんで、アンドロモンが口を開いた。 「警察で供述したよりも、随分長い一日だったらしいな」 「酔いつぶれるのも無理はないだろ?」  僕の冗談に、彼は律儀に首を横に振った。 「”天使殺し”に関係のある殺人、謎のうさぎ、つばめの兄、か」 「あんどろさんはどれから掘り下げたい?」 「私の見解は昔から変わらないよ」 「全部を忘れて、普通に生きろって?」 「そうだ」  僕は喉の奥で笑った。アンドロモンは悲しい表情を浮かべる。何を言っても届かないと分かっていて、それでも彼は僕と会う度にそれを言う。 「復讐ならまだよかった。でもハルキ、君は……。君はつばめの死の真相を知ったとして、満足するのか? 君の人生は、それで変わるのか?」 「きっと変わらない」 「それなら君は」 「わからないんです。でも、まだだと思う」  僕はゆっくりと言った。煙草でもあればこの間をもっとスマートに埋めることができたのだろうけれど、税金の味がする煙を吸う趣味は僕にはなかった。 「まだ、僕は”これ”から目をそらしちゃいけないと思うんです」 「……」  アンドロモンは無言のまま立ち上がり、コートを羽織った。つばめの死はお前のせいだ、と僕が一回でも言えば、彼は少しは救われるのかも知れない。けれど僕には思ってもいないことを言うことはできなかったし、彼も嘘と分かりきった嘘を信じることはできなかった。 「それならせめて、例の銃を使うのはよしたらどうだ」 「他により有用な武器があるわけじゃない。ソウルモンも”ホーリー・アロー”でなくちゃ仕留められなかった。それに、あれをくれたのは……」 「そうだ。君にあれを渡した奴は、つばめの死について深く知っている。そしてそれを黙っているんだ」 「僕だって彼を信用しちゃいない。でも──」  僕は鞄からずっしりと重い拳銃を取り出した。 「だからこそ、真実を話してくれるまでは、彼──ヴァンデモンとの縁も絶ちきれません。それが銃でも何でもね」  沈黙。コンピューターで計ったような永遠が過ぎて、アンドロモンはまたため息を一つついた。   「ン。降参だ。思えば君に勝てたことがないな」  アンドロモンがコートのポケットから封筒を取り出し、僕に差し出した。 「これは……」 「君が寝ている間にブギーモンが来てね。それをおいていった。さっきの話に出てきた写真だろう?」 「警察で押収しなくていいんですか?」 「警察は例の事件をたたんだよ。殺した実行犯は分かっている。吹雪くんは疑問を呈しているが、遠からず解決、ということになりそうだ」 「カンパニーの圧力ですか」 「ン、だから、君が持っていろ」 「あなたも中は見た?」 「当然」 「所感は?」 「ほとんどはラボの中を写したなんてことのない写真だった。もちろん機密ではあるんだろうが、人を殺す理由にはならない」  僕は眉を上げる。 「それはおかしいでしょう。現にこの写真を巡って彼女は殺されているのに」 「ああ。だがこの写真から私はそういう印象を抱いた。おそらくなんだが、何枚もある写真の重要ではない一部なんじゃないか。ラボ内の監視体制は分からないが、カンパニーのことだ。おおっぴらに写真を撮って回ることはできないだろう。手当たり次第にとって、重要な部分はどこかに隠した」 「自分の死を悟って?」 「そうだ。重要でない写真をまだ持っていたことからして、君との待ち合わせ直前、吐かせ屋の尾行に気付いたんだろう。まだあの近辺にあるんじゃないか」 「それならどこに隠したかは」  分からない、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。頭の裏側を、すうっと何かが通り過ぎた。 「どうした、ハルキ。心当たりが?」 「ええ。キタミアカネは頭の良い女性だった。いざというときの備えはもうできていたんだ。その手掛かりを、僕に残してくれていた。あんどろさんも一緒に来る?」 「いや、君と共に昨日の現場に入るのを見られるのはまずい。止しておこう。また来るよ」 「ええ、いつでも来て」  僕は心の底からそう言って、それから封筒に手をつっこみ、一番上の写真を引き抜いた。うさぎの写真、少女の写真。 「ねえあんどろさん、これはどう見えました?」 「ン、セーラー服の少女、だ。ちょうどあの日の君たちくらいだな」 ──人間みたいなこと言うね。あんどろさん。  人間みたいなことを言うレプリカントだ。と僕は思った。 「それで? 旦那。どういうつもりなんです」 「なんだ、ブギーモン」 「なんだじゃねえですよ。昨日ここで殺しがあって、旦那が警察に引っ張られたばかりだってのに、俺にまたあそこに行けだなんて、ぞっとしねえ」 「別に現場のすぐそばまでは行かないよ。ただその”方面”に行けっていったんだ」 「そうはいってもよお、検問が合ったらその場で引き返しますからね」 「何もやましいことはないだろう」 「ありますよ。コートの襟を立てておれの車の後部座席に乗ってます」  僕はくつくつと笑った。タクシー車両の後部座席。ブギーモンは珍しくカー・ステレオでラジオをかけていた。この街に価値はないよ。命に用があるの。どこかのバンドがそう叫んでいた。  ひんやりした車窓に額を押しつけ、音楽が止まるまで待って、僕は口を開く。 「ブギーモン、昨日ここに来たとき、僕はセブン・イレブンの話をしたよね」 「しましたっけ」 「脳神経の一本一本までデータなんだ。物忘れなんかするんじゃない」 「へいへい……たしか、道案内の時でしたっけ。依頼人が旦那の脳に間違った目印をいれてたとか」 「そうだ。本当はセブンなんかなくて、古いビルだった。でも調べてみたら、あの場所には7年前まで、ほんとうにあのビルの一階にはセブン・イレブンがあった」 「昔の記憶のまま道案内しちゃったとか?」 「依頼人がこの辺りに通い始めたのは2年前からだ。当時にはもうセブンなんて影も形もなかった」 「前に通ったのを覚えてたとか」 「そうじゃなきゃ、わざとだ。そこだよ。止まって」  ブギーモンがタクシーを止め、僕は、かつてセブン・イレブンだった建物の前に降りた。随分古びたビルで、セブンがなくなった後、長く入ったテナントはなかったらしく、今ではほとんど廃虚のようだった。  止まった自動扉を無理矢理こじ開け、中に入る。外から見てた時には何もなかったが、中に入って、あちこち探してみてもそれは変わらなかった。割れたガラスで手を切って、僕は大きく舌打ちをした。  十分ほどあちこちを見て、空振りだったかと思ったとき、上から、どしん、と言う物音が響いた。  僕ははじかれたように立ち上がり外に出る。鞄から銃を出すと、ビルの二階へと駆け上がった。  二階も一階と同じで廃虚同然だったが、僕が扉を押し開いて部屋に飛び込めば、そこには二つの影があった。 「おい!」  その光景に僕はとっさに叫ぶ。二人の人物が同時にこちらに意識を向けた。  一人は初老の男性。見るからにホームレスで、周囲には彼の衣服や段ボール、買い物カゴに似たカートに詰められた彼の荷物がある。ここを根城にしているようだったが、僕が入った時、彼は腰が抜けたようにへたり込んで、目の前に立った、もう一人の人物を見上げていた。 「動くな」  僕は拳銃をそのもう一人の人物──白銀のアンティラモンに向けた。表情のない一対の瞳が、まっすぐに僕を見返した。
White Rabbit No.9 塔-Ⅲ/ ”デイ・ドリーム・ビリーバー” content media
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マダラマゼラン一号
2024年1月02日
In デジモン創作サロン
木乃伊は甘い珈琲がお好き(2017~2019) ───トレンチコートのあいつの隣、出口などない夜を行く。  探偵に憧れる少年・春川早苗は、デジタル・モンスターのマミーモンに憑依されたことで、街の裏側でうごめく陰謀に立ち向かっていく。 プロローグ~第一話(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/mu-nai-yi-hagan-ijia-bei-gaohao-ki-purorogu) 第二話(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/mu-nai-yi-hagan-ijia-bei-gaohao-ki-di-er-hua) 第三話(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/mu-nai-yi-hagan-ijia-bei-gaohao-ki-di-san-hua) 第四話(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/mu-nai-yi-hagan-ijia-bei-gaohao-ki-di-si-hua) 第五話(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/mu-nai-yi-hagan-ijia-bei-gaohao-ki-di-wu-hua) 第六話(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/mu-nai-yi-hagan-ijia-bei-gaohao-ki-di-liu-hua) 第七話(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/mu-nai-yi-hagan-ijia-bei-gaohao-ki-di-qi-hua) 最終話(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/mu-nai-yi-hagan-ijia-bei-gaohao-ki-zui-zhong-hua)
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マダラマゼラン一号
2023年11月30日
In デジモン創作サロン
#ザビケ  幼い頃、毎晩死ぬ夢を見た。    そんなふうに話すと、だいたいみんな笑う。そうして、あるよな、だとか、わかる、だとか、俺もこの前さ、とか話し始める。    でも、僕にとっての死の夢は、そんなものではなかったらしい。    らしい、というのは、今の僕はもう死の夢を見ても、朝には忘れてしまっているから。そして、幼い時分の記憶はは、あまりにショッキングな死の夢のせいで、現実も夢もひっくるめてほとんど忘れてしまっているからだ。嘘じゃない、医師の診断書だって、立派なのがうちにある。記憶を失っていることを証明しなければいけない場面は日常生活に案外多く、うちの引き出しには診断書のコピーが一束常備されているのだ。    僕は時たま、そのコピーを引っ張り出してまじまじと見る。自分が自分であることにおざなりな病名がついていることで、僕は酷く安心したり、反対に恐ろしいほど心細くなったりする。   ──    僕が一体いつから死の夢を見ているのか、定かではない。夜泣きが酷い赤ん坊だったのよ、と母が前に言っていたから、もしかしたら、生まれたその晩からかもしれない。  僕は今14歳と85日。生まれてから今までに4回の閏年を経験しているから、5199回死の夢を見ている計算になる。いや、越えた夜の数だから5188だろうか。どちらにせよ、なんだか思ったより大したことのない数だ。だけど別になんだっていい。今の僕はもう死の夢とはなんの関係もない。    死の夢を見ていた頃のことは忘れてしまったけど、死の夢と縁を切った日のことははっきりと覚えている。僕は6歳で、そして、オレンジ・ジュースを飲んでいた。   ──   「オレンジ・ジュースは好き?」    目の前の若い男はそう聞いてきたから、僕は両手でコップを握りしめたまま、こくり、とうなずいた。身を預けているのは年季の入った赤い革張りのソファーで、座面に敷かれたごわごわのタオルが僕を不愉快な気分にさせた。   「ドーナツもあるよ、食べるといい」    僕はうなずいて、男が差し出した鉢の中に入っている小袋入りのドーナツを手に取った。   「あの」    隣に座る僕の母が、少し苛立ったような口調で男に話しかけた。僕は幼かったけれど、彼女の気持ちは痛いほどよくわかった。僕も母も、オレンジ・ジュースやドーナツにはほとほとうんざりしてしまっていたのだ。これまで母が僕の手を引いて訪れたありとあらゆる医師やカウンセラーが、そうやって猫なで声で僕をもてなし、そして最後には白旗を上げてきたのだ。  その日僕たちが訪ねた男は、医師でも学者でもなかった。先進的な医療機器を開発しているというとあるベンチャー企業の技術者で、万策尽きた母の最後の切り札だったのだ。CTスキャンやその他諸々の訳の分からない近未来的装置を期待していたら出てきたのがいつものドーナツでは、母が文句の一つもいいたくなるのも無理はなかった。   「結城(ユウキ)先生。事情は既にメールでお話したかと思いますが」    棘と、何より焦りを含んだ母の口調に、結城と呼ばれた男は少しも動じる様子は無かった。   「ええ、同封していただいたN大病院での検査結果も拝見させていただきました。感心しましたよ。さすが脳科学では本邦一の大学だ」 「別にあなたを感心させるために送ったんじゃありません」 「失礼、お子さんの容態についてもしっかり把握させていただいていますよ。蓮上調(ハスガミ・シラベ)くん、6歳。はっきり確認できた時点で3歳の頃から自分が死亡する内容の鮮明な夢を見続けている。そのことが脳や心に与えているダメージは計りしれない。と、確かに今も、夢でも見ているみたいだ」    そう言って結城は僕の目を覗き込む。彼の言葉は正しい。そのときの僕は、もうぎりぎりの状態にいたらしい。夢と現実の境が曖昧になっていて、最後に死んで、それが夢だったと気づく有様だった。    ぎりぎりの状態なのは、母も同じだった。当時の写真を見ると、母は僕を抱きながら、いつも酷くやつれていた。相手に怒鳴り散らすこともしばしばだったというから、結城ののんびりした態度に苛立ちを示すだけで耐えているのはかなり頑張っていたほうだったのだろう。 「私達が知っていることを、そう丁寧に教えてくださらなくても結構です。対処法はあるんですか」 「ふむ、それは難しい質問です」結城はゆっくりと椅子に腰掛け直した。 「たしかに、不眠対策は私達”梵天テクノロジー”の専門分野です。しかし、夢を見ないようにする、というのは難しい、人がなぜ夢を見るか、なんてのは、今でも解けない謎のひとつなんですから」 「打つ手がないなら、そう言ってください」 「ああ、いや、失礼」    結城は爆発寸前の母を押し止めるようにして、両手を前に出し、声のトーンを上げた。   「解決策ならあります。この上ないものが」 「本当に?」 「ええ、要はシラベくんが悪夢にも、睡眠自体にも怯えることなく、スッキリした頭で日常生活が遅れるようになればいいんですよね。可能ですよ」 「……」    母が言葉に詰まったのも無理はない。この無理難題に、ここまではっきり「できる」と返したものは、これまでどこを探してもいなかったのだ。    その場の二人のオーディエンスが静かに話を聞く気になったのを確認して、結城はゆっくりと話し出す。   「シラベくんが抱えている問題は2つなんです。毎晩死ぬ夢を見る、これはさっきもいった通り、どうしようもない。でも、些細な問題です」 「些細って……」 「些細ですよ。だってそうでしょう、人はたくさん夢を見る。お母さんも例外じゃない。でも、お母さんは、その内容を全部、翌朝になっても覚えていますか?」 「……」 「要はそこなんです。夢を見ることは止められない。脳の営みの一つを止めてしまうことによるリスクもはかりしれない。でもその内容を綺麗さっぱり忘れて目覚めることができれば、悪夢はなかったのと同じ、そうじゃないですか?」 「そんなことが……」 「できます」    結城はきっぱりと言った。   「ですが、最初に言っておきます。先程申し上げた通り、それは対症療法で、治療と呼べるものではありません。おまけにそれは、当社の機密中の機密に関わっている。国から打診されて取り組んでいるプロジェクトでして、ぺら紙一枚の機密保持契約書でお渡しできるようなものではないんです」 「できることなら、なんでもします」    母より先に、僕が言った。   「もう夢は、いやなんです」    僕の言葉に胸を打たれたように、母も何度もうなずく。結城は少し黙って、それから立ち上がった。   「……わかった。それならこっちへ。彼との暮らしについて説明します。それから、顔合わせだ」 「彼?」 「安心してください。噛んだりしないから」 「何を……」 「いや、実際子どもの関係者ができてくれるのはありがたいです。あれを発見したときの会議では、ゲームにすればいいんじゃないか、なんて話もありましたから」 「ゲーム?」    あっけにとられて結城の背中を追いながら、ごくり、僕はオレンジ・ジュースを飲み干した。   ──   「田中ー、寝るな。6限ももう後5分で終わるから、頑張れ」    晩夏の風が吹き込む第一理科室に、教師の仁科(ニシナ)の声が響き渡る。名前を呼ばれた生徒はその声にも反応せず、隣席の女子に背中を叩かれて始めて、びくり、という方の震えとともに目を覚ました。くすくす笑いがささやかに広がっていく。    後5分で授業は終わるところ、授業内容自体も公共放送の実験番組を見るだけの退屈なもので、今は余った時間を潰す雑談の時間だった。無理に起こさなくてもいいのに、意地悪だなあ、と僕は思う。   「ちゃんと夜寝てるか? ほら、アレやればいいんじゃないか。最近流行りの」 「”デジスリ”?」誰かが言う。 「そうそう、”デジモンスリープ”」 「やってたらこないだ怒ったじゃん」 「あれはHR中にスマホを出して写真の見せあいをしてたからだ。やる分には問題ない。あれのお陰で10代の睡眠の質が上がった、なんて統計もあるしな」 「先生、くわしいね」 「やってるんじゃないの」 「おう、やってるぞ」    仁科の発言に、クラス全体がざわわ、とどよめいた。    『デジモンスリープ』──脳科学分野で先駆的な研究を続けるベンチャー企業・梵天テクノロジーが1年前にリリースしたスマートフォン向けゲームだ。  舞台はデジモンという架空のモンスターと人が共生する世界。プレイヤーは国際デジモン研究所の所長・ネムリー倉田の依頼を受け、キュートなスヤスヤ系デジモン、ベルフェモン(同作のマスコットでもある)を育てながら、ベルフェモンとともに眠る様々なデジモンの寝顔を撮影していく。スマートフォンを枕元に置くことでプレイヤーの睡眠を計測し、眠りの質が高ければ高いほどベルフェモンも成長していく。  基本料金無料で、コンセプト的にゲームに厳しい家庭でも受け入れられやすいこと。健康促進に効果があると厚生労働省が認定したこともあって、爆発的にダウンロード数を伸ばしている。   「先生デジスリやってんの! レベルは?」 「一応最大にしている。あとこないだ、ゴツモンの色違いも撮ったぞ」 「マジ! 赤いの!?」 「いや、青かったな」 「……先生、青いのはゴツモンじゃなくてアイスモン。色違いじゃないですよ」 「いや、色違いだろ、色変わってる以外は同じなんだし」 「そうだけど、そうじゃないんです」    クラス中の失笑を受け、仁科は何を間違ったかわからないといったふうにおろおろしている。   「正直見分けつかないよな、あれ」  頬杖をつきながらその光景を眺める僕に、同じ班の友人──木村義人(キムラ‐ヨシト)が声をかけてくる。 「ヨシトもやってるんだ。あのゲーム」 「おう、シラベはやってないんだっけ。ソシャゲ厳しい家?」 「別に。でも今からやって追いつけるかわかんなくって」 「全然間に合うって! というか間に合うとか間に合わないとかないんだよな。基本は寝るだけだし」 「寝るだけで、そんなに楽しいわけ?」 「いやあ寝るのは寝るだけだけどさ。寝てる時間って基本的に虚無なわけで、もったいないじゃん」 「思ったことないかも」 「でも、デジスリやってると、そういう睡眠時間が話のタネになるって言うかさ、なんかいいんだよな。モンスターのデザインも尖ってるし」  そういってヨシトは仁科に見えないように、机の下からスマートフォンを見せてくる。そこには様々な姿かたちのモンスターが写されていた。   「これ、全部ヨシトが?」 「いーや! なんだかんだ言って俺夜更かししちゃうし、こんないいのは取れねえよ。これは全部ネットで拾ったんだ。デジッターにスクショあげてるガチ勢の人がいてさ」 「ガチ勢ってなんのだよ」 「そりゃ睡眠だろ」    大真面目な顔で言うヨシトに、僕は思わず苦笑を浮かべる。   「ヨシトくん、スマホ、だめだよ」   と、班のテーブルの反対側から女生徒の声がかかる。   「なんだよー、ユキナ、固いこと言うなって」 「もう」   そう言って真藤幸奈(シンドウ・ユキナ)は困ったように眉を下げる。分厚い眼鏡におさげ髪、一日の終わりだというのにブラウスには少しもくたびれたところはなく、ぴしりと音がしそうだ。そんなお堅い雰囲気とは対照的に声が纏う空気は柔らかく、僕たちの非行をこれ以上たしなめるつもりもないようだった。   「ユキナだってやってるだろ。デジスリ」 「え、そうなの?」    顔をあげる僕に、ユキナは頷く。   「やってるだけ、って感じだけどね。ヨシトくんがみせてるの、“Fudie16”さんの写真?」 「そうそう」 「フーディエ・シックスティーン?」   疑問符を飛ばす僕に、ヨシトとユキナが同時にこちらを見てくる。   「さっき言ったデジスリのガチ勢だよ。この一年、毎朝のように激レア写真をデジッターに上げてんだ。写真以外の投稿はナシの謎の人物」 「チートとかなんじゃないの?」 「睡眠のチートってなんだよ」 「そりゃあそうだけど」 「少なくとも、何か不正していたら一年ももたずにBANされてると思うの」    ユキナも熱心にうなずく。   「それに投稿時間がガチで健康な睡眠取ってるっぽいんだよな。写真への発言はないかわりに、返信には律儀にいいねつけてくれるんだけど、毎日9時過ぎると一個もいいねつけないんだよ。で、毎朝6時ごろに写真をあげてんの」 「“睡眠に命を懸けている”とか“むしろ寝てる時が活動時間”とか“世界一ベルフェモンの覚醒に近い人物”とか、“もうお前がネムリ―倉田”とか、言われてる」 「それは褒めてるの?」 「少なくともネムリ―倉田は褒めてないね」  大真面目な顔で言うユキナに、僕は思わず苦笑する。 「ユキナさんも、その人のことフォローしてるわけ?」 「うん」 「あれ、ユキナ、デジッターやってんの? おれ知らないんだけど!」 「あっ、えと、その」 「いや、クラスのみんなフォローしてないなら、別に教えろとかって言わないって」 「よ、良かった……」 「そんなに安心されると逆に気になるな」 「え、あ」 「冗談だってば。でもシラベも気になるよな?」 「し、シラベ君も気になるの……?」    ユキナがあまりにも不安そうな口調で聞いてくるものだから、ヨシトは慌てたような顔を僕に向けてきた。フォローを任されても困るんだけどな。   「僕、デジッターやってないから」 「よ、よかったあ」 「にしても、そんなすごいんだ。その、フーディエなんとか」 「うん。アプリの内部データとか調べてる人たちが逆算してみたんだけど、ほとんど夢も見ていないレベルで熟睡してるって」 「夢も見ていないレベル、かあ」 「シラベも興味出てきたか?」 「いーや、別に」    僕がそう呟いたと同時に、チャイムが鳴り響く。運動部の数人の生徒が、待ってましたと言わんばかりに立ち上がった。数人の女子生徒はカラオケに行く話を始める。お前ら、夜遊びはするなよ。最近物騒なんだから、と仁科が声をあげた。   ──   「と、のことらしいよ」 「言えばよかったのに。自分が”フーディエ16”だって」 「言えないでしょ。それこそ、チートなんだしさ」 「ボクのことをチートって言うなよ」    そう言って、僕は自室の椅子に思いきり体重をかけた。キャスターがころころ転がり、窓辺で止まる。暖かな春の夜、二階の窓から見下ろす町は静かでありながら、体の奥底の人ではない部分が長い眠りから覚めたようなざわめきが、そこら中に満ちていた。   「それに、本当はダメだろ。僕も梵天に研究協力してるって意味では開発側なわけだし。こうやってSNSにあげてるのだって、結城さんにバレたら怒られる」 「シラベはただ寝てるだけだろ。胸を張れって」    ベッドの上から返事をしてくるその声は、からかうように笑った。僕は椅子から立ち上がり、その声の主のそばに横たわる。   「なんだよ。もう寝るの? はやいね」 「寝ないよ。デジッター見るだけ」 「それもまた珍しい」    そう言って、声の主は僕とスマートフォンの間にするりと潜り込んでくる。茶色と蒼銀の毛から石鹸の香りがして、僕は唇の端を吊り上げた。   「風呂入ったんだ。母さんに洗われた?」 「言うなよ。ママさん乱暴に洗うから酷かったんだぜ」 「ねこみたいな臭いしてるバクモンが悪い」 「なんだと」    金属の兜をかぶった獣がムッとした顔を向けてくる。ピカピカにされたその体をみていけば、それには後ろ足がなく、かわりに煙のようになっていた。   「んー」 「どしたの、シラベ?」 「いや、みんなどんな顔するだろうなって。デジスリの人気キャラクターのデジモンは本当にいる、って知ったらさ」 「ボクを見ても、シラベは大丈夫だったろ?」 「あの頃は小さかったから」 「ママさんも許してくれた」 「僕のためだったから」 「なんだよーーー。俺たちはどうせネットでポップした起源も分からない電子生命体ですよーだ。よーーーーーだ」 「そういうなよ。頼りにしてるったら」    バクモン──梵天テクノロジーの結城が僕に示した悪夢への対抗策は、ネットから生まれたという国家機密のモンスター。僕の悪夢をくらうという電子のモンスターだった。  頬を膨らませたバクモンの声に、スマートフォンに視線を注いだまま、僕は笑みを浮かべる。   「なんだよ、今日はスマホに熱心だな」 「”フーディエ16”のアカウントだよ。いいね欄見てる」 「千も二千も来てるだろ。スパムだらけだし。とっくに見るのやめたと思ってた」 「クラスメイトがフォローしてるって言ってるから。探してるんだ」 「ほほう?」    その言葉に、彼は僕の腕の中からするりと抜け出して、さぞ面白そうに僕の顔を覗き込んだ。   「女の子か」 「違う」 「女の子だ―――!」 「ちがうったら」 「誰だ誰だ。まった、言うな。当てるから。あれだろ。同じ班のおさげ髪の子」 「ユキナさんの髪型なんて、僕教えたか?」 「相棒のクラスメートのことくらい把握してるさ。で? 普通は全世界22万人のフォロワーの中から、クラスメイトを探したりしない。好きなの?」 「好きじゃなくたって、ちょっと気になるくらい、あるだろ」 「ふーーーーーーん」    バクモンは笑みを浮かべて僕の顔の傍までフワフワと寄ってくると、一緒に画面をのぞき込む。それを無視して、僕はスマートフォンの画面をスクロールする。   「見つけられるか? SNSでなんて名前変えてるだろ」 「そんなに本気で探してないし」 「ふーーーん、あ、今のじゃない? ”雪那‐SETSUNA‐”ってやつ」    バクモンのその声に、僕は指を止める。彼が指示したアカウントは、人気男性声優による歌手グループのイラストをアイコンにしている。   「セツナ、だけど、ユキナとも読めるだろ、それ」 「まさか、ユキナさんがやるにしてももっと……」    そう言ってアカウントを開いた僕の目に、”雪那‐SETSUNA‐”の最新の呟きが飛び込んでくる。    ”学校ででじったしてることがバレて終了した件”  ”垢まではバレてない。生還です”  ”いやでも完全に気つかわれた。死かもしれない”  ”人間界での見た目完全に両おさげ地雷オタクモンスターだから、オタクっぽい絵とかあげてるんだろうなと気を使われた説。そのとおりだが?”   「……ユキナさんかも」 「ほぼ本名でデジッターやんなよな……っ、おい」    息をついてさらに画面をスクロールする僕に、バクモンが咎めるような声を出す。   「まだ見るわけ」 「え、うん」 「やめとけよ。煽っといてなんだけど。感心しないぞ。好きな子ならなおさら嫌なことまで知っちゃうかもだし」 「だから、好きじゃないったら」    そう言いながら見てみれば、ユキナは主に声優やVtuberのイラストをアップしいるようだった。決して下手ではないが、とびぬけてうまいわけでもなく、フォロワー数もさほど多くない。主なつぶやきも”○○尊い”だとか、”△△の配信さいこうだった。酸素”といったもので、日常生活の愚痴は”今朝も学校だる”くらいのものだ。ユキナの普段のイメージとはギャップがあったが、健全なオタ活垢、と言うべきだろう。そう思うと、急に彼女のプライバシーを侵害しているという罪悪感が沸き上がってきた。   「な、やめたほうがよかったろ」 「たしかに、夢見が悪くなりそうだ」 「ならないよ。ボクが食うし」 「それもそうかな」    バクモンの言葉に微笑み、サイバー覗きはこれっきりにしようとスマートフォンを閉じようとした瞬間、青い通知が画面の上に出てくる。見ているアカウントに更新があったとき特有の通知だ。   「あ、ユキナさんの」 「最新の呟き? じゃ、それさいごにしろよ」    バクモンの言葉にうなずいて、僕は画面を更新した。    ”てか、改めて死にたくなってきたな”  ”Sくんにもオタ活裏垢女だと思われたじゃん。いやオタ活裏垢女だけど”   「……Sって、シラベか?」 「かも、見ない方が、いや、見る」 「判断が速すぎるぜ、シラベ」    ”理科室向かいの席でずっと顔見てられる至福の時間だったのに”  ”イケメン、だったなー、なー。まじすき”   「おいおいシラベ、こいつは”ある”よ」 「……”ある”かな」 「ああ、ある。今夜は宴じゃないか」 「……宴、かな」 「ああ、宴だ」 「……いよおおっし! 宴にしよう!」 「それでこそボクのパートナーだ! シラベ!」    と、一階のリビングから、静かにしなさい、という母の声が聞こえ、僕たちは同時に口を抑えた。そうしている間にも、新たなつぶやきが更新されていく。   「し、シラベ、はやく更新しろよ」 「あんま感心しないって言ったの、バクモンだろ」 「知らない、そんな夢は喰った」    ”えーん、今日も不眠確定だわ。ベルフェモンごめん”  ”最近こんなことばっかでウチのデジモンたちが全体的にしなしなしている”  ”なんか今日の帰りも誰かの視線感じたんだよなー”  ”自意識過剰かな。最近学校でもの盗まれてるのも陽のモノたちだけだし”   「……」    僕とバクモンは沈黙し、互いに顔を見合わせた。   「もの盗られるって、シラベの学校でか?」 「……うん、半年くらい前に話したろ。上履き盗み事件」 「全校集会にまでなったってやつか」 「それからも、2か月に一回くらいのペースで、体操服とか、櫛とか」 「犯人は?」 「全然名乗り出ない」    教師は集会の場では口に出さないが、被害に遭っているのはいずれも容姿の整った女子生徒だ。倒錯した欲求をもった男子生徒の犯行であろうというのが大方の見解だった。そばでこういう事件が起こってみると、あまりに生々しすぎて嫌なもので、これまで男子の間で飛び交っていたその手の冗談は鳴りを潜めてしまった。女子も女子で。男性教師に対して”変態”だとか”絶対ムッツリだよ”といった影口を叩くこともなくなったという。本気でそういう色眼鏡で見るには、教師というのは怖すぎる距離感にいるのだ。   「……ついててやったら?」 「え」 「だから、ユキナって子に」 「なにいってるんだ、バクモン」 「いや、だから、この子怖がってるだろ。ついててやれって。一緒に帰ったりとかさ」 「そそ、そんなこと、急に!」 「ま、好きにすればいーけどさー。ボク、シラベの親じゃないし」 「待てバクモン、こんな気持ちの僕を置いていくなよ」 「いーや、この話は終わり!寝て起きたら気持ちもはっきりするって、ほらほら、夢は喰ってやるから。明日はボクも早いんだから、宴もやっぱりなしだ。早く寝ようぜ」    バクモンはそういって、彼を捕まえようとする僕の手からするりと逃げ、シーツを整え始める。   「そういえば明日だっけ。結城さんのチェックの日」    バクモンは時々、彼の本来の住処である梵天テクノロジーの研究所に行き、メディカルチェックを受けている。もともとはデジモンとしてもかなり不安定な部類だったらしいが、僕の悪夢を山盛り食べて元気になったのか、どんどん存在が安定しているらしく、今やチェックは年に一度程度で済んでいる。   「そうそう。夜にはかえるけど、それまでは呼ばれても駆けつけられないから、昼寝とかするなよ」 「しないって。いつもおかげさまでぐっすりなんだ。昼寝なんて必要ない」 「それなら、いいけどさ。ほら。ちゃんと布団入れよ、風邪ひくぞ」 「うん」    そう返事をして、僕はスマートフォンを充電器に差し、ベッドにもぐりこんだ。   「おやすみ、シラベ、いい夢をな」 「冗談じゃない」 「悪い悪い。じゃ……”いただきます”」 「”召し上がれ”」    そこまで言って、僕は目を閉じた。   ────   「……あ、シラベ君」 「こんにちは。きょう、当番だったんだ」    放課後の図書室。僕はなるべく白々しくならないように、カウンターのユキナに挨拶をした。でも、やっぱり白々しくなった。僕は彼女が図書委員会の業務で夕方まで帰れないことなんて知っていたのだ。余計なことは初めから言わなければ良かった。   「珍しいね。自習?」 「ううん、えっと、好きな小説が入ったっていうから」    口から出まかせである。どうせ口から出まかせなら簡単に”うん、自習だよ”といえばいいのに、追い込まれた人間というのは何をするか分からないものだ。   「え、今週入った本って言うと……」    ユキナはカウンターの新しい本が置かれるコーナーに目をやる。そこに並んでいたのは、いかにもな美少女のイラストが並ぶライトノベルタッチだった。   「これの、最新24巻だけど……」 「あ……」    完全にやってしまった、と思った。その、瞬間である。   「シラベくんもこれ好きなの!?!?」    ユキナがものすごい速さで僕の手を掴んだ。   「え、あ」 「わたしがリクエストしたんだ。小5の頃に読みはじめて、最近連載再開して」 「あ、うん。それくらいに、僕も読んでて、好きだったんだけどさすがに内容も飛んでるから、折角だから最初から読み直そうかなって」    僕の14年の人生の中で一番上手な嘘だった。   「あ、あの、ユキナさん」 「なに?」 「手、手」 「あ、ご、ごめん!」    そう言ってユキナは握っていた僕の手を離し、顔を赤くして俯く。   「ごめんね、つい」 「だ、大丈夫。過去の刊って」 「あ、うん。あっちにラノベの棚あるから」 「ありがとう」 「そ、それじゃ、最新刊まで来たら、感想教えてね」    そうしてうつむいたまま棚を指さすユキナにぺこりとお辞儀をして、僕は小説を取り、席に着いた。    参った。とりあえず取り繕えたはいいものの、こうなったらこの作品を読まなければいけない。僕は表紙の中の、パーカーのフードを被った少年と目を合わせる。小雨とか降ってるのかな。そうじゃないなら、それ脱いだ方がいいんじゃない?    僕は小説というのが苦手だった。というか活字が苦手だ。読むと眠くなり、そして眠くなると悪夢を見る。幼い頃に植え付けられたそういう苦手意識を引きずっているうちにこの年になり、ほとんど本は読めないまま。中学に入学してから居眠りなんかしたことの無い僕だったけれど、国語の時間は唯一気を張っていないと意識が遠のきそうになった。    席について振り返ると、目を輝かせてこちらを見ていたユキナと目が合う。彼女は目を逸らす代わりに、はにかむようににこりと笑った。やばい、今から席を移って、彼女の視界の外で自習もできそうにない。    僕は観念して、椅子に深く座り直し、小説を開いた。   ────    汗と煙草の嫌な臭いが、僕が最初に覚えた感覚だった。  次に右肩を強く押されるような感覚。これはマズい、と思って左手を伸ばし、とっさにそこにあったものを掴む。    それはスーツの男の肩だった。    それで、自分が、スーツの男ともみ合っているのだと気づいた。  なぜか、と考える前に、左頬に鈍い痛みが走る。殴られた。普段の僕だったら伸びてしまいそうな一撃だったが、僕はくらくらする頭ですぐに目の前の男に向き直り、拳をふるった。    それは空を切って、バランスを崩した僕の身体を、男が思い切り蹴った。    そのまま勢いで僕は後退する、そして、何かにぶつかって止まって。    ──みしり、という音がして、止まったはずの体がさらに傾いた。    まて、という男の声が耳に届く、それがどんどん、遠ざかって、僕は宙に放り出された。    男ともみ合っていたのが学校の屋上で、突き飛ばされたはずみで、老朽化していた柵が折れてしまったのだと分かった。    落下していくなか、僕は嫌に冷静に自分の身体を見る。僕の学校の学ランだ。当たり前か。僕はいつもそれを着ているんだから。    でも、僕、こんなふうに胸元のボタンを開けた入りしないんだけどな。その思考と、どさ、という音が、同時に耳に届いた。   ────   「────くん、シラベくん!」  その言葉と共に肩を揺り動かされて、僕ははっと目を覚ました。嫌な汗をたっぷり吸った肌着の感触が、いやに冷たい。   「だ、大丈夫? いやな夢でも、見た?」    夕暮れの教室、荒い息を吐く僕の顔を、ユキナが覗き込んだ。   ────   「……そっか、ヤな夢、よく見るんだね」 「うん、最近はめっきりなかったんだけど」    決まって死ぬ夢なんだ。とは言えなかった。  どうも下校時間スレスレまで寝ていたようで、ユキナは図書館の施錠をする寸前まで待って僕を起してくれたという。僕は流れのまま、ユキナが職員室に鍵を返すのを待って、彼女と一緒に昇降口で靴を履き替えていた。   「やっぱり、慣れないよ」 「そっか」    ユキナは僕の話に安い同情を示すことも、笑い飛ばすこともしなかった。真摯に耳を傾け、時々的外れなところで頷いてくれた。   「ユキナさんも」 「え?」 「いや、なんか、最近不安そうだから。僕の話も聞いてくれたし、僕でよければ」    その言葉を聞きながら、救いの神でも得たかのようにだんだんと明るくなっていくユキナの顔を、僕は見ていることができなかった。こんなことがズルなのは分かっていた。でも、それ以上に、彼女の笑顔が直視できないほどに眩しいのも事実だった。   「そ、そうなんだ。まさかバレてたなんて」 「聞くよ」 「その、自意識過剰かもしれないんだけど、あのね──」      どさ。      校門を出た瞬間に、そんな音と共に、目の前に何かが降ってきた。   「え」    真っ白になった脳とは反対に、体はすぐには止まれず、僕たちは数歩歩き、結果として、その顔を覗き込んだ。   「うそ、だろ」    目を大きく開いた木村ヨシトが、そこにあおむけに倒れていた。    地面に接した後頭部から、赤い何かがゆっくりと広がっていく。    彼はいつものように、胸元のボタンを二つあけて、運動部で作ったという赤いシャツをのぞかせていた。   ────    警察署に迎えに来てくれた母さんの車に乗って、家に着いたのにはもういつもなら眠っている時間だった。なにかたべるかしら、と静かに聞いてくる母さんに、いらない、と答えて、まっすぐ二階の自室に向かった。   「あ、シラベ……」    扉を開けると、バクモンがゆっくりと寄ってくる。浮遊できるくせにいつも何かに寄っかかったり寝そべっていることの多い彼だが、今はずっと僕のことを浮いて待っていたような雰囲気だった。   「シラベ、だいじょうぶだった? 友達が屋上から、落ちたって……」 「バクモン、知ってたのか」 「何をだよ、シラベ」 「僕の夢のこと」 「! じゃあ……」 「男ともみ合って、自分の学校の屋上から落ちる夢だった。今ならわかる。あれは、あれは」 「シラベ……」    僕を気遣うようにバクモンが寄ってくる。僕は手に持っていたノートを彼に投げつけた。   「寄るな!」 「シラベ、それは……」 「そのノートはさ、僕が小さいころ持ってたものだよ。母さんが僕の治療のために、僕の見た夢を記録してたんだ」 「……」 「帰り道に、スマホで検索してみた。誰かに殺されたり、おおきな家事に巻き込まれる夢を見たりした日を。その日に、日本のどこかで、誰かがそうやって死んでいた」 「……」 「知ってたんだな、バクモン。これまでもそうなのか、ずっとずっと、そうだったのか」 「……」 「嘘はつかないでくれ」 「……そうだよ」    呼吸も忘れるような沈黙の果てに、バクモンはぽつりとつぶやいた。   「シラベが見てるのは、予知夢だ。誰かの死を、その人の視点で、君は見る」    すっぱいものが胃の底からのぼってきた。 「それ、それをいつから……」 「最初から。同じだよ。ママさんの送ってくれた夢の記憶を見て、結城が気づいたんだ。二人で相談して、黙っておくことにした。君にも、ママさんにも」 「なんで……」 「君のためだ」 「冗談じゃない!」    僕はバクモンに掴みかかった。彼はするりと僕の手を抜けて、ふかふかのべっとが、ばさ、と僕を受け止めた。   「ヨシトは屋上でふざけていて落下したって、みんなそう思ってる! そういうところがある子だったって。そうじゃない。アイツは、アイツは」 「シラベ」 「あの夢が、あの夢がそうだと、あの時知ってたら! まだ、まだ」 「まにあった、止められた?」    驚くほど冷静な目で、バクモンは僕の目を見据えた。   「そうだね。そうかもしれない」 「だったら!」 「でもさ、シラベ、予知夢も夢なんだ。コントロールはできない。今回はたまたまそばにいる人の死を見た。でも、それまではそうじゃなかったろ? これまでシラベが死を見た人たちは、色んな所の人達だった。みんな日本人ではあったけど、それがなぜかは分からない。夢のことは何も分からない」 「……」 「助けられたって、君は言う。でも、君はどこまで助けるつもりなんだよ。空を飛べるマントがあるわけじゃない。どこで起きる出来事か分からないことの方がずっと多い」 「……家族や、友達、だけでも……」 「じゃあ、その予知夢に当たるまで、毎晩、助けられない死を見るのかい。そうやって心を擦り減らして、自分にはどうしようもできなかった死まで、”自分が何もしなかった死”として受け止めるのかい」 「……」 「できないよ、シラベ。そんなことに耐えられる人はいない。人はみんな死ぬんだ。そういうものなんだよ。その責任は運命だけが負うべきで、横からかっさらうことは、できないんだ」    いつのまにか、バクモンの口調は、ひどく、ひどく優しいものに変わっていた。僕はベッドに腰掛け、嗚咽を漏らす。大粒の涙がぽたぽたと、膝の上で握りしめたこぶしに落ちていく。    しばらくして、僕は、泣くのをやめた。   「……バクモン」 「なんだい」 「今晩は、食べないでくれるかな、夢」 「シラベ! そんなことしても」 「何の意味もない。そうかな?」 「シラベ?」 「そりゃあ、普通は意味ない。日本のどこかで、誰かが死ぬ。分かるのはその状況だけ、一億2760万の国民の中から、それを見つけるなんて」 「だったら」 「でも、それを発信することはできるかも」 「え」 「アカウントの”Fudie16”には22万人のフォロワーがいる。スパムも国外のアカウントも多いけど、日本在住の人だけでも相当な数だ。そこで僕がその状況を発信して、注意を呼びかけたら」 「それでも……」 「それでもきっと、何も変わらないことがおおいだろう。でも、変わることもあるかもしれない」 「ねえ、何を言ってるんだ?」 「むしろ22万人には、最初の話題作りをしてもらえればいいんだ。どうせ僕はよく眠れなくなって、ゲームの写真は撮れなくなる。でも、話題のアカウントが急に不可解な発言をして、それが死を予言だって広まれば……」 「シラベ!」    バクモンが怒鳴った。   「ゲームでバズっただけのガキが調子乗るなよ! それは君がやるべきことじゃない! 人がしていいことじゃない!」 「バクモン」 「なんて顔してるんだ。友達が死んだ夜だ。彼のことを悼めよ!」    それからのことはよく覚えていない。バクモンとひどい喧嘩をして、もう知らない、といって、彼が部屋を出て言った気がする。    僕は、もう、悪い夢は、いやなんだと、言った、ことだけ、覚えていた。   ────    僕はよく見知った女子中学生用の制服を着ていた。ずっと使っているにもかかわらず、ぱりっと音がしそうな制服だった。視界の端では、これもよく見たおさげ髪が揺れている。    その制服を着て、僕はおぼつかない足取りで後ずさる。周囲は良く知った中学校の理科準備室だった。   「だめだよ。逃げちゃダメだ」    男の声がする。いや、と声をあげようとするが、恐怖でひゅうひゅうという息しか出ない。   「そんなかおしないで、聞いて、仕方なかったんだよ。もう、ずっと、悪い夢を見てたんだ。赤いレインコートの女のせいなんだ。  半年前に、夜遊びしている女の子補導してさ。雨も降ってないのに、真っ赤なレインコートを着てた。  その時は逃げられちゃったんだけど、それから、いっぱい夢を見るようになった。教え子の女の子に暴力やもっとひどいことをするゆめなんだ。いやなゆめだった。そんなのありえないとおもった。娘でもおかしくない年齢の、まだ幼い子たちにそんなの、気持ち悪くて、毎朝吐いて、あさのHRでみんなの顔見てまた吐いた。  そうしているうちに夢と現実がごっちゃになりそうになった。このままだとヤバいって思った。このままだと夢で済まないって、本当にやるって。  上履きを盗った。体操着も、櫛も、気づかれてないこまごまとしたものはもっとたくさん。そしたら大問題になってさ。  最初に気づいたのが木村だったんだ。屋上に俺のこと呼び出して、なんでこんなことしたんだって。先生最近変だから、病院とか行った方がいいって。  無性に腹が立ったよ。こっちは必死で取り返しのつかないことをしそうなのを止めてるっていうのに、病院なんて簡単に言うけどさ、教師なんですが、毎晩生徒をレイプする夢を見ますっていえばいいのか。そんなの、そんなの  気がついたら彼を殴ってた。彼はびっくりしたけど、ほんとに犯罪者を見るみたいな目でこっちを見てきたから、それから……  そうなんだ、俺がしたんだ。彼を突き落としちゃったんだ。いよいよ人殺しだ。自首しようと思った。    で、どうせ殺しで自首するなら、そのまえになにしてもいっしょかなって」   「俺は最後の夜だと思ってきたんだ。君なら全部わかってくれるかもともおもった。でも、真藤さん、昨日蓮上と一緒に帰ってたんだって? 君は男とそういうのないって信じてたんだけど、俺、残念だな」    月明かりが男の──仁科の顔を照らす。彼が僕に手を伸ばして────。        首が、飛んだ。     ────     「──間に、合った。ダメだよ、先生」   「……シラベくん!」 「……蓮上?」    眩しい朝日に満たされた理科準備室の扉を蹴破り、僕は荒い息をついた。怯えるユキナに迫る仁科を、まっすぐに見据える。  まさか朝一番に仁科が行動を起こすとは思えなかったが、予知夢の中の日差しの様子から、万が一を想定した行動を取って正解だった。   「なんで、朝からこんなところに、先生に用か?」 「シラベくん、そいつなの、そいつが」 「分かってる。もう、大丈夫だから」   「そうか、蓮上、お前も、俺をそういう目で見るんだな」  ゆらりと、仁科がこちらを振り返る。 「それなら、お前から──」          首が、飛んだ。     ────   「……え?」    目の前ぼとりとおちる仁科の生首を見て、僕の脳は再び動く。  そうだ、夢は首が飛ぶところで、終わった。おぼろげな中だけど、それを覚えている。  でも、首を切られた当人が、首が飛んだなんて、すぐに分かるものだろうか。    僕がそれをはっきりと覚えているということは、より明確な形で、そう、ユキナの目の前で、仁科の首が、飛ばされたのだ。    仁科の手が、ぽとりとスマートフォンを落とす。開かれていたのは”デジモンスリープ”の画面だった。そこには、真っ二つに割れたデジモンの卵────デジタマが写されている。    刹那、そのスマートフォンを、おおきな甲冑の足が、ばきり、と踏みつぶした。       「おいおい、ムシャモンかよ。こんな学校になあ」 「──っ! バクモン!?」    背後で聞こえた耳慣れた声に、僕の心臓が飛びあがった。   「まさか、2日連続で身近な人の死を夢に見るなんてな。そしてまさか、本当に助ける、なんてな」  バクモンはその小さな体で、血にまみれた刀を持つ目の前のそれ──デジタルモンスター・ムシャモンから僕を庇うように向かい合う。   「おい、シラベ、その子大丈夫か?」 「え、えっと」  僕はユキナに駆け寄る。彼女は恐怖のあまり気絶してしまっていたが、しっかりと息はしているようだった。   「大丈夫だ」 「おうし。それじゃあ、シラベはその子守ってろ」 「え?」 「こいつはボクが引き受ける」 「そんな、バクモン!」    僕がそう叫ぶと同時に、ムシャモンが再び刀を大上段に構える。まず最初に目の前の小さな獣を狩ることに決めたのだ。  しかし、バクモンに動じる様子はなかった。   「なあに、心配いらないさ。ボクは君に代わって、何人もの死を喰らってきたんだぜ?」    そう言って、バクモンは口を大きく開く。   「そうかい、落下に、首斬りか────ボクの友達に、なんてもの見せてくれたんだ」  その、怒りを含んだ言葉と同時に、彼を、紫色の霧が取り囲む。   「いいかい、シラベ、デジモンは”進化”する。そういう生き物だ。」    バクモンは、ぽつりぽつりと語り始める。   「でも、ボクにはそれができない。バクモンがほんとは持ってるはずの聖なる輪っかを、ボクは持ってないんだ。────だから代わりに、夢を見る。進化の夢を。」    その言葉と共に、紫の霧が、ふっと黒く染まった   「夢幻進化症候群(ナイトメア・シンドローム)────”落下死の悪夢:シェイドモン”────フリー・フォール・デス」    同時に、黒い霧がムシャモンを包み、刀を振り下ろそうとした彼の手が止まる。次の瞬間には彼は刀を取り落とし、声にならないうめき声をあげて、その場にうずくまった。    黒い霧はそんなムシャモンの頭上で渦を巻き、そこからバクモンが顔を出す。同時に、彼の姿が桜色の鎌鼬へと変貌していく。   「狂ったかい? 介錯してやるよ。夢幻進化症候群(ナイトメア・シンドローム)────”首切りの悪夢:キュウキモン”────ブレイド・ツイスター」    風の刃が、鋼鉄の鎧を切り刻んだ。   ────   「あり、がとう、バクモン」 「これまでただ飯食わせてもらってたんだ。これくらいはしないと」 「今のは───」 「俺が強いんじゃないよ。シラベが今まで見てきた夢が、あれくらいひどかっったんだ。俺は強い夢を喰えば、それだけ強くなれるからさ」 「……ユキナさんは」 「それはお前の仕事だ。きっと、ひどいトラウマになる。そばにいてやれ」 「なんて言えばいいんだよ」 「そうだな、嘘でも、こう言ってやればどうだ」     ────     「シラベ……くん、私」 「ユキナさん、大丈夫だよ」 「私、私」 「大丈夫だ。ぜんぶ」      全部、悪い夢だったんだ。       ────       「君は……」    その夜は酷い雨だった、傘を差した男は立ち止まり、不意に背後に現れた気配の方を振り返る。赤いレインコートを着た少女が、そこに立っていた。   「初めまして。梵天テクノロジーの結城さん。私、”悪夢屋”っていいます」 「はじめまして。そういう名前のネットロアを、聞いたことがある。赤いレインコートの女の子と会うと、悪い夢を見て、夢と現実の境がつかなくなって死んでしまう、だっけ」 「あら、よくご存じね」 「君は、興味深い調査対象だから」 「それなら大方、私を取り巻く噂の真相も分かっているわね」 「仮説はある。方法は不明だが、君は悪夢を見続けさせることで、対象の夢と現実の境を破壊するんだな? ────胡蝶の夢、だ」    結城の言葉に、少女はフードに隠れてわずかにしか見えない口を吊り上げる。   「そうよ。個人の認識のレベルでなら、夢と現実の境界は簡単に破れる。そこでは、幻想が現実になる」 「デジタル・モンスターがリアライズし、ユーザーを殺す。”デジモンスリープ”ユーザー失踪事件の元凶は、君か」 「あら、知ってて隠してるなんて、皆が聞いたらどう思うかしら」 「その心配はない。何の用かは知らないが、事件の元凶は僕がここで殺すからだ」 「あら、できる?」 「夢を現実にしたのは、君だけじゃないんだぜ」    その言葉と共に、結城の背後に巨大な気配があらわれる。少女はフードの下からでも暗闇を見通すことができるかのように、それを見上げ、心底楽しそうに笑った。   「メタルグレイモンね! すごいわ」    しかし、彼女の声はすぐに暗くなる。   「でも、残念ね。私たちには勝てない────デジタマモン」 「────!」    その種族名を聞いた結城の顔が大きく歪む。   「なんだって、その種族はバクモンと───」 「そう、おなじ、というかこっちがオリジナル。もっとも未完成で、最も完成されたデジモン。始まりで終わり、この世界(ストーリー)とおなじ。だから、あなたは勝てない」              卵、夢、悪意。(ナイトメア・シンドローム)              暗闇に、わずかな音と気配がしただけだった。それだけで結城の後ろで、巨大な竜が悲痛な叫びをあげて倒れる。   「なっ……!」 「でも、完成されているっていうのは、どこにも行けないってこと。それはいやなの、私も、この子も寂しいの。このまま続きが無くて、こーんな悪いことしてる私が、好き放題して終わりなんて」    だから、物語を動かすことにしました。彼女が笑う。   「あの子たちは、どうなるかな、私たちのところまで来てくれるかな。そのためには、物わかりのよくて頭の切れる保護者には、今のうちに死んでもらわなくっちゃ────だから、さよなら」      ぱん、結城の身体が弾け、路地裏に血しぶきが散る。   「ふふふ。たのしみ。いい夢を見ましょう? バクモン、シラベくん」    稲光、雷鳴、真っ白に照らされた路地。血まみれのフードの下で、おさげ髪が揺れた。       ────
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マダラマゼラン一号
2023年11月12日
In デジモン創作サロン
#ザビケ  夏は生き物なのよ。小さなころ、母さんにそう言われたことがある。    詩的な、少し陳腐な、文芸部の中学生でも描けそうなくらいに詩的に過ぎる言葉だ。けれど、そのころわたしはよっぽど幼かったから、母のその言葉を額面通りに受け取った。    母も母で、ポエティックな感性とは全く別のところで、その考えに至ったのだと思う。故郷の田舎町から出たことのない、頭もあまりいいとは言えない人だったけれど、自分の言葉を虚しく飾り立てることはしなかった。だからあの人はきっと、しんからこの夏を生き物だと思っていたのだ。    蝉の鳴き声やら、水田の上を駆けるターコイズ・ブルーの蜻蛉やら、アフリカゾウのような入道雲やら、プールの塩素のにおいやら、アスファルトの照り返しやら、そんな一つ一つが毛細血管、或いは細胞で、それらを合わせて、夏というのはすべてが一個の生き物なのだ。と、母は言った。そうして、そんな夏の粒子をいっぱいに肺にため込んで、私たちも夏の一部になるのだ、と    それ以来、わたしの中で、夏というのは一個の怪獣になった。それは毎年やってきて、街を踏みつぶしていく。そして、夏らしいもの、眩しくて懐かしいなんだかよく分からないものをいっぱいいっぱいに詰め込んだ巨大な左腕で私をつまみ上げ、ぽとりとその大きな口の中に落とすのだ。そして、わたしも夏の一部になる。街を踏みつぶし、人をくらう、なんだか眩しくて懐かしいものの一部になる。    それは、幼いわたしにとっては、少し怖いことだった。いや、今もそうだ。夏というのは、いつだって少し怖いものなのだ。    いま、こうして大人になって、改めて思う。あの頃の私の感性は正しかった。夏は怪獣だ。オマケに、ちょっと性格が悪い。    だって、ちょっと、暑すぎるじゃないか。     「いや、だって、ちょっと、あつすぎるじゃない!」    わたしはそう叫んで、目の前の春川遊馬(ハルカワ・ユウマ)に、水羊羹の入った紙袋を突き出した。玄関先で私を迎えた幼馴染の青年は、そんなわたしを唖然として眺める。アンマリにもそうしている時間が長かったものだから、彼が右手に持っていたアイス・キャンデーが、ぼたりと石畳に溶け落ちた。かつてのぷっくりとした間抜け面からはいくらか甘えがそぎ落とされ、夏の日差しがよく似合う精悍な顔立ちになっていたが、この様子を見るに中身までは変わっていないらしい。   「……えーと、おかえり?」    永遠にも思える時間を蝉しぐれが流しきってから、ユウマはぽつりとそう言った。   「なにそれ、皮肉?」    彼の言葉が頭にきて、わたしは彼にお土産の紙袋をおしつけて、どしどしどしと玄関に上がり込んだ。   「あ、ちょっと!」 「幼馴染が中学ぶりに帰ってきたってのに、そのテキトーな”おかえり”はないでしょうが!」    そう言いながら歩く遊馬の家は、7年前と何一つ変わらない田舎建築で、わたしはそれがなおのこと頭にきた。   「じゃあなんていえばよかったのさ。歓迎しようと思えばできたよ。町の大人総出で!」 「それはそれでありえないでしょ! こちとら夢破れて飛び出した故郷の田舎町にすごすごかえってきたんだっつの!」    あのレコード・プレーヤーのある部屋だって、昔のまま。あそこから流れる音楽に合わせて廊下の床板を踏み鳴らし、ユウマのかあさんに怒られたのを思い出す。ウィ・ウィル・ウィ・ウィル・ロック・ユー。   「だいたいあんたにも腹立つけど、ジジイはどうしたのよ! いよいよ博物館に根を張って出てこなくなったわけ?」 「おい、ちょっと──」    そうだ、わたしが何より腹が立ったのは、彼がわたしを出迎えなかったことだった。いつも、機嫌がいい日も悪い日も、わたしがこの家の玄関を跨げば、しゃがれた怒鳴り声で迎えてくれたのに。   「おい、ジジイ! アンタの宿敵が帰ってきたよ! 花森千里(ハナモリ・チサト)が、夢破れてしっぽまいて帰ってきましたよ! ほら、わらいなよ! それとももう笑い死んだ!?」    そう言いながらスパンと開けたジジイの部屋は、恐ろしいほどがらんとしていた。窓辺にかかった風鈴はそのままだったけれど、それが風になびいていないのをわたしは初めて見た。ジジイは、冬でも窓を開け話しているのが好きだったのに。   「……去年、死んだよ。じいちゃん」    ぜえぜえと息をつきながら、ユウマが言った。     「……伝えてくれても、よかったのに」 「連絡先の一つも教えなかったのはチサトの方だ」    ぐうの音も出ないのが悔しくて、わたしはむりやり、ぐう、と言った。   「それにチサトとじいちゃん、ひどい喧嘩別れだったろ。今さら伝えていいかどうかも分からなくて」 「そりゃ、そう、なんだけど」 「ほんと、ひどかったよな、あの最後の喧嘩」    人様の子の上京のことであんなに怒ってたんじゃ、実の孫の立場が無かったよ、と遊馬がからからと笑う。その笑い方があまりにやさしくて、本当にジジイの死があったことも、それがもうこの町にとって過去になってしまったことも、わたしには痛いほど分かった。  仏壇の蝋燭に、ユウマが火をともす。あれ、と何回もマッチを擦るのを失敗するのを見て、わたしはくすくすと笑った。そういうそそっかしいところは、大人になっても変わらない。   「はい、じいちゃんにカンカンしたげて」 「カンカンって」    子どもじゃあるまいし、と呟いて、子どもじゃないんだなあ、と思った。    鈴を鳴らし、手を合わせる。会ったこともないユウマのひいじいちゃんやひいばあちゃんを想いながらこうするときだけは、騒がしい子供だったわたしでもいくらか厳粛な気持ちになったものだった。でも、ジジイに手を合わせていると思うと、わたしはばかばかしくてやってられなくなって、やがて仕様のない子供のように、くすくすと笑いだしてしまった。   「ありがとう」    ひとしきり笑ったわたしに、ゆうまははにかむように笑った。  彼はわたしが土産に持ってきた水羊羹の箱を仏壇に供え、さっと手を合わせると、そこから二つ、自分とわたしの分を取りだした。   「飲み物は麦茶? アイスコーヒー?」 「コーヒー」 「飲めるようになったんだ」 「カッコつけないと、東京じゃやってられんのよ」    呆れたように笑って、ユウマは紙パックのアイスコーヒーを注いだコップをわたしに差し出し、そしてわたしのすわった座布団の、テーブルをはさんだ向かいに腰掛けた。背の高くなったわたしとユウマがそこにいるのは、それだけでなんだかヘンな気分だった。   「……」 「……」    しばしの沈黙、わたしは幼馴染を前に、何かを離さなければいけないと慌てていた。見ればユウマにはそんな様子はなく、手元のコップについた水滴が垂れるのをこれ以上面白いものがないとでも言いたげに見つめている。馬鹿馬鹿しい。都会に出て、少しは話すのが得意になったと思っていたのはただの勘違いだった。わたしはあの灰色の街で、沈黙への恐怖を植え付けられただけだったらしい。   「……今は何してるの」    そんなわけで、わたしが「気の置けない幼馴染」に切り出した話題は、ひどく不格好で悲惨なものだった。   「郵便局員」 「郵便局って、駅前の? 配達とかしてるわけ?」 「たまにはね。でも基本的には、局にやってくるじいちゃんばあちゃんの対応だよ。都会に出た子供への郵便とか、あとはATMの操作の相談に乗ったりね」    考えただけで気が遠くなりそうな仕事だったが、ユウマはとても楽しそうにそれを離していた。彼にとっては何でもそうなのだ。昔から、わたしがうんざりしてゲーゲー吐いてしまいそうなことを、こいつはどこまでも楽しそうにやっていた。   「チサトは?」 「わたし?」 「漫画家になるって東京にまで行ったんだろ」 「さっき挫折したって言ってたの、聞こえなかったか」 「聞こえたから聞いてるんだよ。田舎で時間がボケてるだけかもしれないけど、22なんてまだまだ若いだろ。何をするにしたって、諦めるには早すぎる」 「それ、皆に言われたわー」    わたしはへらりと笑って、コーヒーをぐびと飲み干す。   「……その、ナントカ先生には会えたの。チサトの上京のきっかけ。憧れの漫画家」 「ああ、会えたよ」 「会えたの!?」 「そう、会えた」    一丁前に漫画家なんて志した人間が、東京に出て、自分が井の中の蛙だと思い知る、なんて、ありがちな話だ。余りにもありがち過ぎて、わたしは実際にその壁を見せつけられても、別にショックも受けなかった。都会で、読みたいものは何でも読めて、学校でもなんでも専門のところに行ける奴らをずるい、と思いはしたけど、そのギャップをなるべく広げないために、中学卒業後即上京、なんて暴挙に踏み切ったのだ。それくらいはどうってことなかった。   「わたし、先生に会うために、追いつくために必死で努力したんだ。周りの子の倍は描いたし、読んだ。ネームを持ち込んだ出版社の人にも、厳しいことは言われたけど、諦めろ、とは言われなかった。だから諦めなかった」 「じゃあ、なんで……」 「わたしを特に見込んでくれた出版社の人がいてね。わたしが先生の大ファンなの知って、取り次いでくれたんだ。絵はずば抜けてうまいし、アシスタントにどうかって。こういうのもなんだけど、世間的にすごく売れてる人ではないし、そういう話も通りやすかったのかもね」 「それで?」 「会って、話して、気に入ってもらえて、アシスタントになった」 「え、すごいじゃん!」    ユウマはぱっと顔を輝かせて、それからすぐに顔を曇らせる。   「じゃあなんで……」 「わたし、そりゃ頑張って仕事したの。先生の仕事場すごくってね。私が好きな漫画や小説、映画が全部あって、ほんとに泣きそうだった。先生もわたしを気に入ってくれて、わたしの原稿、見てくれることになったんだ」 「……それで?」    悲劇的な破局を予期したように、ユウマは声を落とした。それが癪で、わたしはなるべくおどけて、先生の野太い声をマネして見せた。   「『チサトくん、○○とか、××とか好きなんだよねえ、いいよね』って、ぱらぱら原稿読みながら、先生は言った。作品からルーツが伝わったと思って、すごくうれしかった」 「だけど?」 「そのあと『じゃあそういうふうに描けばいいのに』だって」 「きっつ」 「やめてよ。今となっちゃ笑い話だって」    ユウマが怒りさえ含んだ声で呟くものだから、わたしはかえっておかしくなってしまった。   「実際、そうなんだよ。わたしは色々、こう、ディープでサブカル? なものが好きで、いくらでも語れるけど、そういうふうには描けないんだよね。インディーズのバンドとか色々大好きだったけど、その曲名とかタイトルにした、いかにもな青春バンドものとか」 「とか?」 「殺したくなる」 「大きく出たな」 「でも、そうやって馬鹿にしてたやつらが、いつの間にか認められて、本物になっちゃってるんだよね。それなら、わたしはいいかなって」 「それで、東京ごと捨てたと」 「はい、傷心なんです、わたくし」    そうおどけてけらけらわらう。けらけら、けらけら、その笑い声ばかりは、自分でも泣きたくなるくらいに惨めだった。   「で、物は相談なんだが、ユウマくん」 「はい、なんでしょう、チサトさま」 「仕事紹介してくれない?」 「そんなことだろうと思った」 「町唯一と言っていい若者なんだから、就職の時は引く手あまただったでしょ。そのコネを一つわたしにね? 農業と縁がなくて、あんまり歩かなくて良くて、ジジババの相手しなくて済むやつをね?」 「田舎をなめるなよ、ぶっとばすぞ」    半分くらい本気の交じった口調でそう言った後。彼は何かに思い当たったように、ため息をついた。   「……癪なんだけど、ちょうど、一個ある」     「……メイド募集?」  ユウマがわたしに差し出してきたのは、一枚のチラシだった。   「”不死川家”、メイド募集、家事全般、幼い娘の相手をしてくれる方。給料は……え!?」    そこに並んでいた日給は、東京でバイト暮らしをしていた時にも考えられなったもので、わたしは目を丸くする。   「町内会のご婦人方に回してくれって預かってたんだ。都合で放置してたからまだチサトしか見てない。今なら一等賞だよ」 「いや、それはいいんだけど。どこの誰さ。不死川って、聞いたことないよ」 「こんど、山の上の家に引っ越してくるんだ。ほら、あの博物館の近くにある」 「”幽霊屋敷”に!? あそこに住むバカがいるわけ? 博物館にあるどの展示品より古い家よ」    その建物は、元は養蚕で財を成したさる実業家の家だったと聞く。確かに昔は瀟洒な洋館だったのだろうが、窓は割れ、建物の中にまで周囲の木々の枝が入り込んでいる。”幽霊屋敷”の名は伊達ではなく、わたしとユウマはなんどもあそこに肝試しに立ち入ろうとして、二階に上がる階段に差し掛かるか差し掛からないかのところで恐怖で引き返している。   「半年前から、少しづつ建築業者の人が来ててね、リフォームが終わって、今では立派なものらしいよ。外観は相変わらずのお化け屋敷だけどね」 「何の用があってこの片田舎に来るのよ。ほんとにお化け屋敷でもやる気?」 「いや、考古学者らしい」 「考古学者」    わたしはぽかんと口を開ける。   「それって、ジジイと同じ?」 「まあ、そうなる。じいちゃんは学界からはほとんど追放されたとか何とか言ってたけど」 「あんな人種が世に二人とねえ……」    世界は広いものだ。と一人ごちたあと、そういえば、とわたしは顔をあげた。   「まった、チラシを預かったってことは、ユウマ会ったの? この”不死川”さんに」 「うん、一度一家で郵便局にいらしたよ」 「参考までに、どんな感じ?」 「どんな感じ、と言われても……」    ユウマは記憶の皿の底をさらうようにうーん、と首をひねる。   「その学者さん、なのかな、背の高いスーツの男の人。ちょっと顔色が悪くて一瞬ぎょっとするけど、めちゃくちゃ美形で、おまけに感じもよかった。あと、その娘さんが2人。奥さんはいないって言ってたな」 「”幼い娘の相手”とかってチラシに会ったわね」 「うん、歳の離れた姉妹で、お姉さんは……俺やチサトと同じか少し下くらい。態度は悪い、というかこっちを歯牙にもかけてない感じで、怖かったな。妹さんは小学生くらい? こっちは年相応に無邪気な女の子だったよ。どっちも人形みたいに綺麗な顔してた。あとは……」 「あとは?」 「うん、服なんだけど、姉はやたらに黒くて、妹は異様に白かった」 「はあ……」 「参考になった?」 「いや、あんまり、でも、なんにせよ、お給金は破格なわけで」    コーヒーありがとう、と言ってわたしは座布団から立ち上がり、そのチラシを手に取った。   「一度行ってみるわよ。田舎のくせに、ちょっと面白いじゃない」     「そういえば、どうだったの」    玄関で、ヒールに足を通しながら、わたしは見送りに出てきてくれたユウマに話しかけた。   「どうだった、って」 「ジジイよ。ぽっくり大往生したとか、管まみれになって苦しんで死んだとか、あるでしょ」 「ああ」    それね、と、まるで昨日の夕食を聞かれた時のような気軽さでユウマは言った。   「元気だったよ。最後の最後までね。心臓の薬は貰ってたし、物忘れも激しくなってたけど、ご飯はもりもり食べてたし、医者に行くのも嫌がってさ」 「ジジイらしいね」 「結局病気が悪くなって、入院が決まったんだ。病院に入って、きっとそのまま出てこられない、ってはなしになってさ」 「……」 「入院したときもしっかり僕の手を握ってくれて、ああ、老い先短いとはいえ、このまま病院暮らしを1、2年するのかな、って思ってたら、入院したその晩に死んじゃった」 「迷惑かけたくなかったんじゃない?」 「それなら入院の手続きの前に逝くさ。単に病院にうんざりしたんだ」 「一晩で?」 「一晩で」    ユウマが大真面目に言うものだから、わたしはくすくす笑った。と、彼の顔が少しだけ曇る。   「……じいちゃん、最後まで後悔してたよ。チサトのこと」 「あんなに怒鳴って上京に反対しなきゃよかった、って?」 「いいや、それじゃなく」    歯の奥に何かが引っ掛かったかのような顔で、ユウマはわたしの方を見た。   「チサトが出ていったの、本当は ”あの日、裏山で” 見たもののせいじゃないかって。じいちゃん、ずっと思ってた。あの日に、僕たちを裏山の発掘に連れてくべきじゃなかったって」   「……バカ」 「実際、どうなんだよ」 「バカみたい。 ”あの日、裏山で” わたしたちが見たものはそりゃ酷かった。でも、わたしはそれで生きる道を変えたわけじゃない」 「僕は、変えたかも」    その言葉と同時に、中学校の頃の記憶がよみがえる。そうだ。あの頃はユウマもずっと、この田舎町から出たがっていたはずだ。   「じゃあ、あんた」 「うん、高校も行ってない。町から出てない」 「そんな……っ!」    勢いよくあげた視線がユウマのそれと重なる。彼がひどく悲しい顔をしているものだから、わたしはそれをかき消すように、大きく声を張り上げなくてはいけなかった。   「バカ、バカ。あんた、そんなことで、 ”あの日、裏山で” 見たものが、あんたにそんな……」 「いいんだ。この町はもともと好きだったしね」 「でも」 「チサト」    有無を言わせぬユウマの調子に、わたしは思わず口をつぐむ。   「もし、君が不死川さんちのメイドになることがあったら。不死川さんは考古学者だし、きっと裏山に興味を持つと思う。もしかしたら、あそこの発掘が目的ってこともあるかもしれない」 「ユウマ?」 「その時は、止めてあげて。それでだめなら、僕に知らせて」 「ねえ、ユウマ、大丈夫?」       「あの場所は、隠さなきゃだめだ」        じりり、蝉時雨が、わたしと彼の間の永遠を埋めた。      裏山。当然裏山という名の山はないから、きっとなにかちゃんとした名称があるのだろうが、この町の人々にとって、その山はただ裏山だった。  小学校の裏手にあり、中ほどには小さな神社があったり、ところどころに子どもの遊ぶのに適した空き地があったりする。わたしとユウマは、放課後になるとそこで昼も夜もなく遊んだものだ。  それは小学校のある側から登った時のことで、反対側には山頂近くまで細い道路が伸びている。道中には横道があり、まっすぐ進むと、この町唯一の、小さな博物館に出る。横道に進むと例の幽霊屋敷だ。   「ほう、この町から東京に」 「はい、そして今年帰ってきたんです」 「博物館の故春川博士とはお知り合いだと?」 「はい、ジジ……えっと、良くしてもらってました」 「素晴らしい。春川博士の実績は私も見た。清新で独創的な研究だ」    わたしは今、その幽霊屋敷にいた。玄関を跨いですぐの応接間。新品のソファーは座るだけで体全部が呑み込まれてしまいそうなほどにふかふかだ。最初こそ、あの頃の幽霊屋敷と何も変わらない外装に狼狽えはしたが、中はすっかり快適に整えられている。アレだ。あまり外見や他人からの評価にこだわらない人なのかもしれない。   「家事などは?」 「一通り、出来ると思います」 「ちなみに料理は?」 「できはする、くらいだと思います。町の出前やってる美味しい店なら大体知ってます」 「それでいい。日頃の料理はわたしが作っていますから。あなたは私や娘たちが夜食や間食を求めた時に対応する程度でしょう」    目の前にいる館の主人──不死川奏(フシカワ‐カナデ)というらしい──は、わたしに簡潔な質問を飛ばしながら、にこにこと微笑んでいる。その顔は、ユウマの言う通り病的なまでに青白く、夏だというのにスーツにワイン・レッドのネクタイを結んですましている。まさしく貴族、といった佇まいだった。ただ、厳粛な雰囲気はなく、値踏みするように履歴書を見ながら、長い指で頬をとんとんと叩く姿は、一種の気安さすら感じさせる。  まあそれでも、生まれてこのかた経験したことのない「面接」という場の持つ空気感は、わたしを震え上がらせるには十分だったわけだけれど。   「……あのう」 「はい、なんでしょう」 「いや、次の質問とか、あるのかな、って、はは」    わたしのその言葉が意外だったとでも言いたげに、カナデはわたしに視線を向けた。いざ視線でとらえられると、あまりに均整の取れた顔立ちに呼吸を忘れそうになる。   「いや、ないね。ないよ。質問は以上だ」 「それ、じゃあ、わたしは、これで」 「いいや、それも違う」 「ひぇ? と、いいますと?」    場の空気に気圧されそうになりながら素っ頓狂な返事を返すわたしに、カナデは立ち上げり、手を差し出した。   「採用だ。たった今から君はうちのメイドになった。よろしく、花森くん」    その吸い込まれそうな瞳に、ほお、とみとれて、すぐにわたしは目をそらした。だめなやつだ、これ。と思ったのだ。     「で、制服が、これ、ですか」 「そうだ。前時代的に思えるかもしれないが、まあルールだと思ってくれたまえ」    とんとん拍子に話は進んで、気が付いた時には、わたしは履きなれないロングスカートをくるくる揺らしながら、鏡の前で息をついた。  メイド服だ。どう見たってクラシックなメイド服だ。東京にいた時に見たそういうカフェの従業員が来ていたものとも違う。本格的な、屋敷に仕える女性のユニフォームだ。   「変じゃないです?」 「とてもよく似合っているとも」 「そうですか……」    先ほどからカナデは妙にご満悦だ。困惑しないわけではなかったが、このあまりに妙な状況の中で、わたしは異様なほどにリラックスしていた。メイドの衣装も、この格式ばった屋敷の中で、わたしがまっすぐ立てるようにするためのサポーターのように思えて、頼もしかった。   「……なら、よかったです」    わたしがそう言って微笑むのを満足げに見つめ、カナデは席を立った。   「それなら今度は屋敷を案内しよう。とはいえ、君は間取りを理解しているようだったが。昔、ここに来たことが?」 「え、あ、はい、子どもの頃に……」    肝試しで、とはとても言えなかったが、そのあたりは言外に理解されてしまったのだろう。気にしていないよとでも言いたげに、カナデはチャーミングなウィンクをした。   「ええと、呼び方は? 旦那様、とか言った方が」 「不要だ。敬称は自由にするといいが、君は常識もあるようだし、その範囲で好きに読んでくれ」 「それなら、カナデ様、で」    誰かを様付けで呼ぶことなんて、生まれてこのかたなかったから、その響きは妙にくすぐったかった。  そのとき、つかつかつかとせっかちな足音がして、ホールの扉が開いた。   「お父様、何の騒ぎ?」    ほお、と私は声に出してしまいそうになるのを必死にこらえる。それほどに、そこに立つ女性は美しかった。年のころは20歳前後だろうか。黒を基調とした身軽なドレスに身を包み、髪を後ろで器用に結わえている。ただでさえ切れ長の眉は手でも切れそうに鋭く整えられ、その目はカナデと同じで、吸い込まれそうな黒をしていた。ユウマの話からして、彼女がこの一家の姉だなのだろう。   「おや、乃愛、挨拶をしなさい、彼女が……」 「あら、それが新しいメイド?」    それ、とは失礼な。カナデの言葉を遮って彼女が言った言葉に、わたしは眉をあげる。カナデも困ったように眉を下げ、わたしの方を向き直った。   「失礼、娘は難しい年ごろでね。私が紹介しよう。長女の乃愛だ」 「不死川乃愛(フシカワ‐ノア)様、ですね。ええっと、わたし、花森千里っていいます」    たどたどしく頭を下げるわたしに、ノアと呼ばれた女性は、あざけるような笑いを返す。   「こんな田舎町で、お節介おばさんが来なかっただけ感謝すべき? お父様、本気でこれをうちに迎え入れるつもり?」 「そうだとも、娘よ。先ほど決まったことでね。その時にはお前はいなかったから」 「はん、花森、だっけ? 言っておくけど、わたしに構う必要はありません。だからあなたもわたしに構わないで、田舎娘がいると空気まで土臭くなるわ」    随分なご挨拶だ。ふつうならここでヒールでもなんでも投げつけて出ていくところだが、幸い今のわたしは奥ゆかしいメイド服に身を包み、心に大きな余裕がある。箱庭育ちのご令嬢の貧困な想像力から出てくる罵倒など、痛くも痒くもない。  他にも、ぶっ飛ばしたくなるような悪口をいくらか言ってから、ノアは部屋を後にしていった。カナデは困ったように眉を顰め、わたしに軽く頭を下げる。   「すまないね。ノアは昔からああなんだ。どこで育て方を間違えたのか」 「大丈夫です。えっと、ノア様はかまうな、って言ってましたけど」 「悪いが、良くしてやってくれないか。ああは言うが、一人ではきっと部屋の掃除もできまい」    はーん、いいこと聞いた。こんどあの高飛車お嬢様にあったら言ってやろうと考え、わたしは思わずにまりと笑った。      不死川のお屋敷に務めだして、1か月が経った。  初めて見れば楽なものだ。わたし自身、あまり掃除や片付けが得意な方ではないのもあって不安はあったが、もともと綺麗なものをきれいに保つ仕事で、それに法外な給料が発生するのだから嫌がる理由もない。もらうものをもらって怠けられるほど面の皮も厚くはない  洗濯の方はいくらか大変だった。屋敷の皆の着る服は上等で、特に主人のカナデは、この田舎町で来客もないのに、何着も持っている上等なスーツを着回している。上等な生地の洗い方は分からないことも多く、わたしは地元の老舗クリーニング屋のおばあさんに方法を聞かなければいけなかった。久しぶりに帰ってきた家出娘にそんなことを聞かれ驚く彼女の顔は忘れられない。    カナデは、日中は毎日のように博物館に通っているようだった。あの小さな博物館のどこにそんなに何日もかけてみるほどのものがあるか分からなかったが、彼は朝になるとスーツを着込んで博物館に行き、夕方ごろに、子どものように顔をほころばせて帰ってくる。 そうして私に買いに活かせた食材で手際よく夕食を作り(彼の作る料理は控えめに言って、すごく、すごくおいしかった)、ディナーを囲む家族に今日の博物館での新たな発見を語って聞かせるのだ。  専門は考古学だとユウマが言っていたが、彼の知識は広く、そこから語られる話は、いささか衒学趣味に走りすぎることはあったけれど、わたしにはいつもおもしろかった。長女のノアは父の話に興味を見せることなく途中で席を立ってしまうし、次女のランは目を輝かせ父の話に聞き入るものの、大抵は途中で眠ってしまうので、彼の話を聞くのはいつもわたしの役目だった。    そう、次女のラン。真白いドレスに身を包んだ、不死川家の末娘の不死川蘭(フシカワ‐ラン)である。小学3年生になったばかりの彼女の相手も、わたしの主な仕事の一つだった。 とはいえ、ランは日中は小学校に行くため、主に彼女と話すのは夕食時と休日だったが。   「チサト、やっぱり絵、上手だね」 「そうですか? ありがとうございます」 「ね、ね、こんどはおねえちゃんのこと描いて」 「はい、はい。ノアさまですね」    ランは姉とは正反対の無邪気な少女だった。絵を描くのが好きで、わたしが一度彼女の似顔絵を描いてやったらあっという間に懐いてきて、あれを描いてこれを描いてとねだってきた。   「ランさま、小学校で友達はできましたか?」 「うん、ひとり! 4年生の人。あと先生とも仲良くなったよ!」 「よかったですね」    友達は上の学年に一人、きっと、学校にランとその子の二人しかいない、というなのだろう。わたしとユウマの通ったあの小学校がいまだに閉校になっていないことは驚きだったが、こうしてランが後輩となったからには、このお屋敷にいては絶対学べないであろうド田舎小学校での身の振り方を教えてやらねばという使命感も湧いた。  と、いうか、単純に人形のように美しい顔の幼女に懐かれるのは悪い気がしない。というか、めっちゃ可愛い。お勤め中でいけないと思いながらも、勝手に頬が緩んでいくのが分かる。   「ラン、また花森とはなしているの」    背後からそんな声が聞こえて、わたしの笑顔はさあっと引いてしまった。  そう、そうなのだ。平日の昼間はカナデもランも家を開けている。ということは、つまり、この屋敷には、わたしと、性悪美形箱入りニートこと、ノアだけになってしまうのだ。   「あ、おねーちゃん! みてみて! チサトが、おねーちゃんのこと描いてくれたの!」    ぴこん! と何かのセンサーで姉の到来を感じ取ったようにランは立ち上がり、わたしが今しがた描き終えた絵をもって、ノアに駆け寄っていく。   「花森が、わたしを? はん、よかったわね。でもラン、花森と話しちゃいけないって前に教えなかったかしら?」 「でも。パパはチサトと遊んでなさいって」 「遊びなら一人でもできるでしょう。とにかく、だめよ。部屋に戻ってなさい」 「えー!」 「えー、じゃないの。おやすみ。ラン」    穏やかに言い含めるように、けれど確かに強い口調で、おやすみ、と言われ、ランはスケッチブックを抱えてすごすごと部屋に戻っていった。  ランががいったのを見届けると、ノアはわたしの描いた似顔絵をくしゃくしゃに丸め、ぽい、と床に放った。   「掃除しなさい。あと、もう私のことは描くな。不愉快です」 「申し訳ありません。ノア様。ラン様にお願いされたもので」 「そもそもあの子に関わらなければいいだけの話でしょう」 「わたしは、仕事を、している、だけですので」    この1か月、わたしとノアは二人きりになるといつもこの調子だった。わたしも口だけはノア様、と言ってはいるが、口喧嘩で負ける気は毛頭なく、ぴりぴりとした空気が流れてしまっている。   「とにかく、もうランにかまうな。わたしにも、父にも」 「ノア様はわたしに、仕事をするなと?」 「そうよ。さっさと出てけって言ってるの」    ノアはいつも屋敷にいる。最初の1週間は町に降りることもあったが、あれがないこれがない田舎臭いと散々に愚痴を垂れた挙句、いまではほとんどこもりっきり。大体蔵書室で本を読んでいるか、ホールでピアノを弾いているかだ。完全に深窓ニートである。   「それに、今日また私の部屋に勝手に入ったでしょう。やめてと何度言ったら分かるの」 「シーツの取り換えと掃除のためでした。仕事ですので」 「もうするな。一人でする」 「できるんですか?」    わたしのちょっとメイドの敬語の範疇を越えた物言いに、ノアは顔を真っ赤にして怒りをあらわにした。愉快愉快。大体もういい大人なんだから、家の場所や召使に不満があるなら一人でどうとでも暮らせばいいのだ。就労も学業もせずに漫然とえらそうにしているだけの女相手に、そこまでかしこまっていられるほどわたしは奥ゆかしくない。   「もういい、さっさとどこかにいきなさい」 「かしこまりました」    今日はわたしの一勝ね。ノアの眼にそう語りかけると、わたしはくるりと踵を返す。一緒にスカートの裾もくるりと揺れるのが、最近は好きになってきた。トラブルこそあれど、メイドという生き方は案外向いているのかもしれない。   「……そうだ。花森」    と、ノアがわたしの背中に声を投げかけた。捨て台詞でも思いついたか、とわたしはまた振り返る・   「なんでしょう」 「今週の休日なのだけれど、ランに紅茶の淹れ方を教えるの。朝は来なくていいようにお父様に言っておくから、ケーキかなにか見繕って買ってきなさい。間違ってもここいらの田舎菓子なんて持ってこないようにね」    一言多いが、まあお嬢様からメイドへの頼みとしては至極真っ当だ。駅前に昔ながらのケーキ店が一軒ある。店主のおじさまは気難しいところがあるから、この高飛車お嬢様よりは顔見知りのわたしが行くのがいいだろう。  わたしが驚いたのは、こんなふうにノアからわたしに何かを言いつけるのが、初めてだったということだ。   「かし、こまりました」 「何間抜けな顔しているのよ。さ、用はすんだわ。さっさと行きなさい。いい、買ってから来ること。前日に買うなんて論外よ。おたくの所帯じみた冷蔵庫で寝かせた菓子なんか食べられるものですか」    わたしがぼおっとしているのをいいことに、ノアはさらに二言三言罵倒を言い添えて行ってしまった。なんだかズルで勝ち逃げされた気がして、ちくしょう、とわたしは呟いた。     ──チサトちゃんが帰ってきたって聞いてねえ! おばさんもう張り切っちゃって! 早起きしてケーキ焼いちゃったの! くるみケーキ! 今日もお仕事なんでしょ? 是非職場の方々にもたべてもらって~!!!  ノアからお使いを言い使った朝、わたしはいつもの出勤時間に、タエコおばさんからもらったくるみケーキをもって、裏山の坂を上っていた。  ノアの言いつけ通りケーキ屋の開店を待っていたらきっと出勤は10時ごろになるだろうから、それよりも3時間ばかり早いことになる。きっとまたぐちゃぐちゃ文句は言われるだろうが、望むところだった。このくるみケーキはこの山奥の町よりももっともっと山奥で、都会人ならだれもが夢見る人生の楽園的スローライフを送るタエコおばさんが多分朝の4時くらいから焼き上げたものだ。あげつらう欠点なんてないくらい美味しいし、これならあの性悪ニートもぎゃふんというだろう。あとランちゃんにもこれ食べてもらいたいし。  出し抜かれ目を丸くしたノアの顔を思い浮かべ、わたしはふんすふんすと鼻息荒く山道を登る。今は暑さも気にならない。まっていろ高飛車ニート、いまにそのちっちゃな口に無添加無着色のオーガニックケーキを詰め込んでやる。    そんな風に道路沿いの山道を登る私の足が、途中で止まった。   「え……」    息が止まる。どさり、とケーキの箱が地面に落ちる。    何の変哲もないガードレール、だけど、その向こうの茂みに、人が分け入って入ったような跡があった。    見ればわかる、 ”あの日、裏山で” わたしとユウマ、そしてジジイはこの道を通った。    落ちたケーキを顧みずそこに駆け寄る。枝の折れた後は新しかった。    ──不死川さんは考古学者だし、きっと裏山に興味を持つと思う。もしかしたら、あそこの発掘が目的ってこともあるかもしれない。    ユウマの言葉が脳裏でこだまする。   「そんな……ダメ!」    気がつけば、わたしはガードレールを飛び越え、その道に勢いよく踏み込んでいた。   「そこに、そこに埋まってるのは──!」      裏山の、その場所は、あの日から何も変わってはいなかった。最悪なことに。    風もないのに、草木がいやに有機的にゆらめく。音もないのに、何かがそこら中にいると分かる。  そうだ、あの日もわたしたちはこれを感じて、なのに引き返さなかった。    ジジイは革命的な発見だといって目をぎらぎらさせていたし、怖がるユウマのことを、わたしは引き返したら弱虫だなんてからかった。    そのせいでわたしたちはそれを見て、ユウマは、この町に縛り付けられる羽目になった。      ──チサトが出ていったの、本当は ”あの日、裏山で” 見たもののせいじゃないかって。じいちゃん、ずっと思ってた。      そうだった。わたしはやっぱりそうだった。漫画家の夢はホントだった。でもあそこまで無理をして町を出て行ったのは、やっぱり、あの日見たものが、怖かったからだ。どうしようもなく、恐ろしかったからだ。    あの日、あのひ、あの……。       「────あ」      今、”それ”はまた、わたしの目の前にいた。  姿は見えない。でも気配で分かるのだ。茂みの向こうに、あの日と同じ、それがいる。涎を垂らして、かぎづめを鳴らし、わたしのことを見ている。   「や、や」    泣いたら殺される。本能がそう叫んでいた。わたしの心が折れた瞬間に、それは飛び掛かってくる。    でも、でも、無理なのだ。わたしには、それが、どうしても────。         「なんでいるのよ」          刹那、銃声が山の中に響いた。その轟音に、わたしの意識は現実に引き戻される。わたしの前にいるそれも、獲物に襲い掛かる構えを解いたようだった。  でも、まだいる。  わたしが逃げ出そうとした瞬間、がさり、と音がして、わたしの隣に、何かが降り立った。   「私は、なんでいるの、と聞いたのだけど、花森。ケーキはどうしたのかしら?」 「……ノア様!?」    間違いない、わたしの前にいるのは不死川ノアだった。  ただ、その格好は、わたしの知っている彼女とはずいぶん違う。黒が基調、ではあるのだが、スカートは大幅に短くなっており、頭にはベール。そしてそのてっぺんからは、獣のものとしか思えないもふもふの耳が、飛び出している。    そう、言うなれば、ケモシスター。   「ノア様、それは……」 「恰好をどうこう言ったら撃ち殺すわよ」    そういう彼女の両手には、確かに、十字架を模した拳銃が握られている。   「ったく、どうしてそう間が悪いのよ。花森、あなたを引き離そうとしたのに大失敗じゃない。パパに見つかったら面倒なことに……」 「カナデ様がここに!?」    その言葉に、わたしは事態の深刻さを思い出す。そうだ、この恥知らずのコンコンチキとしか思えないノアの恰好を置いておくとしても、彼女とカナデはここにきてしまっている。”あの日”と同じ”この場所”に。   「ノア様! 逃げてください! それと、カナデ様も!」 「うっさいわね……事情は何となく……」 「逃げないとダメなんです。あそこに──」           「───あそこにいるのは、”恐竜”なんかじゃないんです!」             「……驚いた、あんたそこまで知ってるんだ」    ぽつり、ノアがそう呟いて、参りましたと言いたげに手をあげた。   「町の人間だから何か探れるかもとは思ったけど、あんた、その死んだ学者からよっぽど色々聞いてるわね。参った、パパにあんたを渡せなくなった」 「の、ノア様?」 「あー、でももう手遅れかな、もうパパに視られちゃってるもんね、花森。ほいほいメイド服とか着てたし」 「ノア様、逃げないと」 「ごちゃごちゃうるさいわね、黙ってなさい、花森」    そう言うと、彼女は目の前の恐ろしい気配へと、一歩、一歩と踏み出していく。   「死ぬほど癪なんだけど、私、あんたを守らなきゃいけないみたい」 「はい!?」 「命は守るけど、腕の一本二本は保証しないから、そこは自分で何とかしなさい」 「ひぇ」 「メイドでしょう、返事は!」 「は、はい、お嬢様!」    混乱した頭からわたしがとっさにひねり出した「お嬢様」が面白かったのか、彼女は唇の端を吊り上げてきひりと笑う。       「よろしい。それじゃあ────────────シスタモン・ノワール、参る」           SUMMER TIME SERVICE 第一話「猫と恐竜の夏休み」   次回に続く……
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マダラマゼラン一号
2023年11月02日
In デジモン創作サロン
これまで 庭‐Ⅰ ”スーサイド・ファンクラブ”(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ting-i-susaidohuankurabu/edit) 庭‐Ⅱ ”サイファイ・カルト”(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ting-ii-saihuaikaruto) 庭‐Ⅲ ”The End of the World”(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ting-3-the-end-of-the-world) 塔‐Ⅰ ”(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ta-i-chi-noding-ji/edit)赤の錠剤” (https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ta-i-chi-noding-ji/edit)(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ta-i-chi-noding-ji/edit) 「ただいま、トラさん」 「“トラファマドール”と呼びたまえ。“ドクター”でも“ドクトル”でもいいよ」 「トラさん」 「まったく、君に衣食住を提供しているボクに、もう少し敬意を持ってくれてもいいと思うんだがねェ」 「わたしが頼んだわけじゃない。それに、こうしてトラさんの頼み聞いてるんだから貸し借りはナシのはず。ハルキくんのこと、助けてきたよ」 「ご苦労だったね」 「もうひどくってさ、背中がらあきで拷問してるの。見てられなかった。なんだってあの人を助けなくちゃいけないわけ?」 「重要なんだ。説明は難しいけどね。6次元領域の生物の繁殖活動が密接に関わっている」 「テキトー言うな」 「おや、お見通しか」 「ふん、言っておくけど、これからもわたしの力をこんな風に都合よく使えるとは思わないで。わたしが殺すのは、わたしが狙う相手だけ」 「分かっているとも……おや、何をするんだい」 「制服、さっきビルのフェンスでひっかけちゃったから、直すの」 「食事はいいのかい、ヒナノ」 「わたし、殺しの仕事の直後なんですけど」 「殺したと言っても、もともと死んでいたようなゴーストだろう?」 「……」 「おや、気を悪くしたかい?」 「……たしかに。どうせもともとユーレイか。トラさん、わたしマルカメのぶっかけうどんがいい」 「やれやれ、もう少し欲を出してもいいのに」 「じゃあほかのどこにあのうどんとトリ天ぷらがあるのさ。行こう」 「ああ、いいとも」 「──といいな」 「何か言ったかい?」 「え、ああ、独り言」 明日は、殺せるといいな、天使。  ”塔”のほど近くの道路は、そこまで車通りが多くなかった。時折”カンパニー”の研究所に何かを運ぶデジモンが通るくらいで、それもガードロモン程度の大きさで事足りてしまう。道は元々あったビルと新しく建てられたビルが奇妙に混在していて、その隙間を縫うように道路があった。道路が先にあって、それに沿って建物が建てられたのだとはとても思えなかった。道路の方でもそう思っているようで、信号機から縁石の一つに至るまで、どこか肩身が狭そうだった。  そんな道路をこちらに走ってくるタクシー車両は、まるでだまし絵のパーツのようによく目立った。車体は緑に白のストライプ。持ち主はいい加減塗り替えたいと言っているのだが、僕が説得してそのままにさせている。町中を調査するのにタクシーは目立たなくていい。  僕はジャケットのポケットに入れていた右手をタクシーに向けてあげる。車は僕の目の前で停まり、運転席の窓がゆっくりと開いて、真っ赤な悪魔の顔をさらに赤くしたブギーモンが顔を出した。彼はいつもそうだ。飛ばしているのは車のスピードだけなのに、まるで自分が200メートルを走った後のように顔を真赤にする。 「どうだった?」 「どうだった、も何もありませんや。旦那。こういうのはもうナシにしろってまさに今日……」 「で、どうだった」  有無を言わさぬ僕の問いかけにため息をつくと、ブギーモンは首を振った。 「どうもこうも、ダメでしたよ。無理もねえ。向こうはビルの上から上へぴょんぴょん飛び移ってやがる。建物を無視して斜めに走れば最短距離、っていうのを地でいってんだから、こっちがどんなにぶっ飛ばしたって無駄なことです」 「君には立派な翼があるじゃないか。悪魔としての矜持はどうした」 「おれは文明的に生きるって決めたのさ。不満があるならお給金を今の5倍にしてください。バット・モービルを買いますから」  相当頭にきている様子のブギーモンに捲し立てられ、僕はため息を付いた。とはいえ、彼は数秒でも”あれ”を目視したのだ。それならば──。 「何度見ても、少女だった? アンティラモンではなく?」 「いくらおれの目が節穴だからって、その2つを見間違ったりしませんよ。どう見たって人間に見えました。セーラー服着た、女の子ですよ。きっちり後方にも注意を払ってましたけど、後からうさぎが飛び出してきたなんてこともありませんや。」 「ふむ……」  僕は顎に手を当ててうなった。 「そもそも、アンティラモンは機械でも悪魔でもない。そんな完全体がこっちの世界に来たなら、少なからず噂になってそうなもんだ」 「もっともだ。と、すると、単に僕が白昼夢でも見ただけかな」  冗談めかしてそう言っては見たが、その言葉は空虚に秋の空に浮かんでいくだけだった。あれは幻覚でもなんでもない。僕自信が一番、それを分かっている。 「そうだ」僕はジャケットから1枚の写真を取り出した。女の死体が持っていた写真。ビル群に浮かぶぼやけたうさぎのシルエット。 「ブギーモン、これはどう。今日君が見たものと、同じだったりしないか?」  ブギーモンは窓から首を伸ばし、目をこすりながら何度もその写真をまじまじと見た後、いった。 「ええ、これです。おれが追った女の子も、こんな感じでした」 「なんだって?」 「えーと、旦那、これがうさぎに見えるんですかい?」  疑いの言葉を差し挟む間もなく、ブギーモンが怪訝そうな顔で見てくるものだから、僕は思わず口をつぐんでしまった。  その時、僕のスマートフォンのアラームが鳴る。あ、悪い、そう言ってそのぴりりりという音の連なりを止める僕に、ブギーモンは首を傾げた。 「なんの時間です?」 「死体発見から30分、そろそろ通報しないとまずい」 「死体!」ブギーモンが素っ頓狂な声を上げた。 「聞いてませんよ、旦那」 「僕だって死体を拾いに行くつもりで君に仕事を頼んだんじゃない。依頼人に会いに行ったんだ。そして、依頼人ってやつは、普通の人よりも死体になる確率が全員少しばかり高いんだな。それだけだよ」 「冗談にもならねえよ。おまけに旦那、『通報する』ですって?」  信じられない、という言葉が、その口ぶりに十分すぎるほどに込められていた。 「旦那、悪いことは言わねえ。やめておいたほうがいいですよ。逃げましょう」 「僕は国民の義務を果たそうていうんだぞ」 「もう一回いいますよ。冗談じゃないんです」  ブギーモンが真剣な口ぶりで言った。その目に嘘はなく、僕の身を本気で案じていることが伝わってくる。 「旦那が警察のあしらいがうまいのは知ってる。取調室に入れられても顔色ひとつ変えないくらいタフなのも知ってるよ。でも、悪いがここら一帯はほとんど日本じゃねえ。”カンパニー”の膝下なんだ。来るのは旦那の馴染みの警官じゃない。”カンパニー”のオイルまみれの金を握らされた連中だ」 「そうして僕は101号室に入れられる。ってわけだ」僕はへらりと笑った。 「大丈夫。覚悟はしてる。”カンパニー”の影響下の警官たちが、この事件をどう扱うのかが知りたいのさ。それに、逃げたってどうせ無駄だ。往来にはカメラもあるしね」  そういいながら、僕はポケットから分厚い封筒を取り出し、うさぎの写真を入れると、タクシーの後部座席に放り込んだ。 「なんですか、今の」 「被害者が持っていた写真だ。哀れな吐かせ屋くんが彼女の遺体から持ち去ったおかげで扱いは遺失物になっている。僕が拾い、交番に届けようとしたはいいが、明日の髭剃りのことを考えていた間にタクシーに置き忘れてしまったんだ」 「国民の義務が聞いて呆れるってもんだ」ブギーモンが笑った。 「警察に捕まったら今の口上をそっくり話して、そのまま渡しちまいますよ。おれは機械どものリンチなんかごめんなんでね」 「そうするといいさ」 「警察署に迎えはいりますか」 「いらない、トレイル・ラインを使うか、留置所で一泊してくるよ」  ブギーモンはもう一度笑って、軽くクラクションを鳴らして走り去った。  駆け足で路地裏に戻ってみれば、既にそこには警告用のテープが張られていた。なんのことはない、黄色いホログラムで、僕はそれを飛び越える。おそらく現場の責任者に警報がいくだろうが、僕としてはそのほうが話が早かった。  現場では大勢のエスピモンが捜査に当たっている。青く透明なカプセルに玩具の戦闘機の翼と熊の顔をあてがったようなモンスターで、どう見たって殺人現場よりも、となかいの夢を見る少年の枕元の方が似合っている。それでも彼ら一体一体が、熟練の刑事を凌ぐほどの捜査力と分析力の持ち主なのだ。 「そこでとまれ」  ごみ箱の中の遺体を見ていたエスピモンの一体が機械的な音声が僕に警告する。すぐに、冗談のような甲高い浮遊音とともに、おそらく彼らの上司なのだろう、ホバーエスピモンが飛んでくる。 「そこで止まれ、何者だ」 「ブルース・ウェイン」  僕は両手を頭の上に上げて言った。  取り調べでは殴られることは無かった。どこまでも穏当な取り調べで、僕はどこまでも穏当な嘘をついてそれを切り抜けた。ただ、取り調べという呪術的な儀礼が持つ性質そのもののせいで、調書を確認して電子署名を記す頃には、時刻はすっかり夜で、僕もくたびれきっていた。  警察の受付で解放され、僕は腕をぐるぐると回す。固い椅子に背を預けていたせいか、小宇宙が破裂するようなぱきぱきという音がした。 「あら、お疲れ?」  ロビーを出たところで、聞き覚えのある声をかけられ、僕は肩を落とす。振り返れば、そこにはタイトなスーツに身を包み、濡れ羽色の髪を伸ばした眼鏡の女性が立っていた。 「今日はどの刑事とも話す気になれないんだけど」 「あら、ブルース・ウェインにしては随分気弱じゃない。エピスモンにふざけた名前を名乗った人がいると思って来てみたら、やっぱりあなたね、染野君。」 「耳が速いね。もうそんなに偉くなったのか、日浦?」  僕の問いに日浦風吹(ヒウラ・フブキ)は皮肉気に唇を吊り上げた。昔以上に鋭い雰囲気を纏っている。そんな雰囲気のために美人だが誰も寄り付かないことを昔は愚痴っぽく嘆いていたものだが、今の彼女はその鋭さを誇りにしているようだった。昔は徹夜で勉強を続け、その疲れが格好にも出ていたものだが、今の服装には一分の隙もない。とはいえ彼女が疲れを隠す術を身につけただけで、眠りを削ることをやめたわけではないということは、顔のそこかしこに小さく刻まれていた それでもその皮肉っぽい話し方は変わらず、僕は喉の奥で笑いを漏らす。 「何がおかしいの」 「いいや、何も。ただ僕は、あの場所で起きる事件に関わる奴らは皆汚職警官だって聞いてたものだから」 ──そんなに話さなくていいんじゃない。その子、昔からハルキのこと好きだよ。  耳元で声が響く。風吹が僕に好意を抱いていたのは確かだろうけど、頭の中のつばめにこんなことを言わせる僕の方が何倍も気持ちが悪い。 「誰が言ったかしらないけど、あの土地と”カンパニー”にまつわる陰謀論に踊らされるなんて、バカね。染野君は、私のこともそんなふうに思っているのかしら」  余裕ぶった言葉と裏腹に、風吹の声は驚くほどに不安そうで、僕は思わずため息をつく。昔からそういうことが気になってしまうやつなのだ。清廉潔白で厳格なやつだけれど、彼女の周囲からの評価を気にしすぎる。本人がそれを悪徳だと認識しているからこそ、余計そういう面が目立つ。時代が変わっても警察組織の中での女性の立場は厳しいもので、そんな環境での気負いもあるだろう。完璧でありたがっているしその素質はあるが、完璧の基準を己の中に持てるほどには強くないのだ。  だから、彼女が完璧の基準を、私腹を肥やす警察のおえらいさんからの評価にでもおいてしまったら、言われるがまま”カンパニー”に便宜を図ることもあり得るだろう、と僕は思った。 「まさか、僕だって人でなしじゃないんだ。警察学校時代からの友人を疑ったりしない」  僕のその言葉に、彼女は自信を取り戻したようで、目の前にいるのが現場に無許可で踏み入った参考人であることを思い出したようだった 「あら、そう。ま、私の方では疑わせてもらうけどね。殺人現場に立ち入るなんて、どんなつもりよ。いつもいつも警察をバカにしてくるけど、今回のはちょっと論外だわ」 「なぜ殺人現場にって、殺人現場だからに決まっているだろ。あそこが下着泥棒の現場だったら僕だってわざわざ戻ったりしない」 「それじゃあ、染野君は、全てさっきの供述どおりだと言い張るわけね」 「取調室で嘘をつくかよ」と僕は嘘をついて、それから眉をひそめた。 「取り調べを聞いてた?」 「当然、あんな面白いもの見逃がせるわけないでしょ」 「言ってくれよ。そうしたら、タキシードを着て、髪をセットして取り調べに応じてた」 ──気のあるふりをしないで! がるる。 「あら、素敵。そうして同じ嘘を吐く、と」 彼女はポケットからメモを出すと、朗々と読み上げる。 「依頼人に指定された場所に行ってみたところ依頼人はおらず、不審に思ってあたりを調べたところ、死体を二つ発見した。誰かが立ち去る気配がして追いかけたが見失い、通報のため現場に戻った。それだけ? 男の方に心当たりはないと?」 「ないよ。でもそばに麻薬煙草が落ちてたし目は血走ってたから、ジャンキーだ。ラリって彼女を殺したってとこだろ」 「ただのジャンキーじゃない」そんなこと知っているでしょうとでもいいたげに、日浦はメモを叩いた。 「しっかり警察のファイルに載ってる吐かせ屋よ。人を痛めつけるのは好きだけど人殺しになる勇気はない、クズね」 「人を痛めつけるのが好きだと思い込まないと、生きていけなかったんだろう」 「”悪いのは社会”? まあいいわ。とにかくあなたの依頼人は何かを握ってた。そして、それを得るためには拷問も人殺しもするやつがいるの。知ってることがあるなら、今言うのがあなたの身のためにもなるわ」 「本当に知らない。彼女が何を知っていたにしろ、僕はそれをまだ聞いてなかったんだ。厳密には彼女は僕の依頼人ですらなかった」 「知らないならなおさら、知ろうとしたはず」日浦は粘った。 「あなたはそういう人よ、染野君」 「君が僕の何を知ってる」 「警察学校を優等で卒業した後、雲隠れしてフィリップ・マーロウのまねごとを始めたバカ野郎。探れるものは、たとえそれが下水の底だろうと探らずにはいられない。何か間違ってる?」  図星も図星だったが、彼女の口ぶりが気に入らなかった。 「もういいかい。僕は取り調べに真摯に答えた。調書にサインもした。引き止めておくことはできないはずだ」 「まだよ、これ」  そう言って彼女は僕に鞄を投げ渡す。署に来た時に持っていたもので、重みからして銃も取り上げられてはいない。 「銃なんてふりまわすの、やめたら」 「2023年の銃刀法の改正内容を読み上げてやろうか」 「別にいちゃもんで逮捕するつもりはないったら」 「でも、銃を調べただろう」 「調べたに決まってるでしょ。でも発砲の形跡はなかったし、事件には銃は絡んでいない」 「じゃあ問題ないだろ」 「形跡がないのはあくまで実弾の発砲の痕跡」  僕は息をつく。彼女は相変わらず優秀だ。ちょっとばかり優秀過ぎる。 「デジモンたちのように、データを弾のように射出したと? そんな技術はない。少なくとも、銃に装填できるような高濃度のデータ結晶は作れない。不可能だよ」 「あら、そうだったかな。私、デジモン共が跋扈するこの塔京で刑事をするにあたって、“不可能”なんて言葉は捨ててきたのよ」 「もういいだろう、帰る」 「アンドロモンが悲しむわよ、染野君」  背中にそんな声をかけられて、僕は思わず立ち止まった。 「あんどろさんはいつだって悲しそうだよ」 「それを分かってるなら、こんなことやめたら」 「やめるさ。そもそも僕にとって、この事件は事件ですらない。僕が依頼を受ける前にことは全部終わったんだ」 「それじゃない。“天使殺し”のことよ。まだ躍起になって調べてるんでしょ」  僕はわざとらしく大きなあくびを返した。 「警察の見解じゃ、そんな事件はないんじゃなかったかい」 「殺人だと断定していないだけ。人が行方不明になって、最後に目撃された場所の付近に、決まって白い羽がある。流行りのカルトのどこかが絡んだ儀式の可能性だってある」 「僕は断定してる」 「アンドロモンの見解は違ったわ」 「あのひとだって、内心は殺しだと思ってるさ」  風吹の表情が凍る。その言葉が彼女を怒らせると分かって、僕は敢えてそれを口にしたのだ。 「染野君、あの人は私の師匠でもあるの。これ以上あの人に──」  彼女は張り合っているだけなのだ。自分が尊敬するアンドロモンが、警察としてのキャリアからドロップ・アウトした僕に今でもかまっているのが気に食わないのだ。彼女からすれば敬愛する師が問題児ばかりを構うことに嫉妬する優等生の気分なのだろうが、アンドロモンが僕を気にかける理由はそこにはない。自分の知らない過去があると分かるからこそ、彼女はみっともなく僕を目の敵にしているのだ。 ──それはハルキもだよ。好きなひと2人が、知らない秘密を一緒に話してるのが気にくわないの。だから、ね。 「話はそれだけか。帰るよ」 ──よろしい。  怒りの言葉を気のない返事で遮られ、彼女は大きくため息をついた。幾度となくしてきたレプリカントをめぐる僕との痴話喧嘩を、今さら繰り返しても仕方ないということに思い当たったらしい。 「もう遅いでしょ。帰りは?」 「トレイル・ラインだよ。免許は2年前に失効した」 「バカね。……私も上がったとこなの。送ってくわよ」 「僕の家、知らないだろ」 「令状を取って乗り込むわ」 ──ふしゃー! 「悪いけど遠慮しておくよ。来てくれてももてなせるものがない」 「あら、もてなしてくれる気はあるのね」  僕は肩をすくめるが、風吹は真剣な顔のまま続けた。 「染野君、気を付けることね」 「何に、ビッグ・ブラザー?」 「冗談じゃなくて」  そういう彼女は確かに、冗談を言っているようには見えなかった。もっとも、彼女はいつでもそうだったけれど。 「“選友会”も前の選挙で大躍進して、各業界へのパイプを一層太くしてる。教組の才原善鬼(サイハラ・ゼンキ)がいる会本部の建物も、近々より大きく、都心に近い建物に移転するそうよ。警察にも会員らしき人間が増えてきたわ。染野君、ずっとあそこのこと気にしてたでしょう」 「“コレクティブ”の後ろ盾頼りの成長だろう」 「バカにしたように言うけれど、それはこの国で最強の後ろ盾よ」  僕は肩をすくめたが、風吹の言葉は胸に突き刺さった。頭のどこかであの田舎カルトがまさか、と考えている。それでも今、彼らはきっとやろうと思えば何でもできるだけの力を持っているのだ。 「だから、警察の方では“カンパニー”に便宜を図る。バランス・ゲームは苦手だ」 「必要悪よ」 「それは彼らにとっての君たちのことだろう」 「だから、警察を目指すのをやめたの?」 「違うよ。僕にはこれしかなかったんだ」  風吹があまりに悲しげな顔をしたので、僕は息をついて踵を返した。 「ねえ、私たちに任せなさい。染野君。あなたは一度、東京を離れたほうがいい。家族のところにでも帰ったら?」 「うさぎだよ」 「なに?」 「うさぎなんだ」  僕はもう歩みを止めなかった。気が狂ったと思われるのなら、それはそれでよかった。  通りに出ると、秋だというのに生ぬるい夜風が肌を撫でた。街の灯りと賑わいはとうに夜を征服し尽くし、その猥雑さは九年前に僕がこの都市にやってきたよりも、きっとひどくなっていた。何もかもを奪われて、人にはもう夜くらいしか犯せるものがなかったのだ。空には三日月が、宮廷を追われた第三王子のように所在なげに、淡い光の孤を描いていた。実際、それだけがこの景色の中で、しんに光と呼びうるものだった。  しかし、驚くべきことに、未だに夜は誰のものでもなかった。暴かれきったその暗闇は、あのソーネチカのように汚れていて、そして高潔だった。 「それなのに」僕は呟いた。「誰も彼女に罪を明かさない」  家に帰りたい気分ではなかった。時刻は10時を過ぎている。トレイル・ラインは日付が変わる頃まで運行しているし、帰ろうと思えば1時間もかからない。けれど、今夜はそれが、とても間違ったことのように思えた。隊列をなす喧騒に混ざり、夜を犯す精液の一滴になるのが嫌だったのだ。  ひどい気分だった。何よりひどいのは、死んだ女の依頼を、僕がすっかり受けた気になっていることだった。 「あれは天使殺しとは関係ないでしょう。きっとカンパニーの機密を漏洩しようとして殺されただけ、彼女が死んで世界は変わらないし、多分事件を解決しても、何も変わらない。。あなたにはこれ以上面倒ごとを背負い込む余裕はない」  僕は脳の中のつばめのまねをして言ってみた。数人の通行人が怪訝そうにこちらを振り返った。 いつのまにか彼女の声は聞こえなくなっていた。彼女は気まぐれで、ほんとうにつばめが口をはさんできそうな時にしか声を聞かせてくれない。彼女の声が聞こえないなら、つばめは僕のこの愚かな行いを、ひとまずは黙認してくれるのだろう。  なら、僕はあの依頼を受けたのだ。死人がカードを混ぜ、僕がエースを引いたのだ。昔からこんな賭けばかりをしている。掛け金はいつでも、どんな額でも、どれだけ負け続けても。夜がツケにしてくれる。いつかそのツケを払えなくなった時、僕は夜から帰れなくなるのだろう。  そう考えると、いくらか胸がすっとした。とにかく仕事なのだ。いつもと何も変わらない。道行く人もデジモンも片っ端から捕まえて、あのうさぎの写真を見せてやろうかと思った。ポケットに手を入れて、他の写真と一緒にブギーモンに預けてしまったことを思い出した。  僕はやり場を失った手をポケットに突っ込んだまま、一つのビルの前で止まった。一階にはシーシャバーがあり、そろって柄物のシャツを着た大学生らしい若者たちが、コンテンポラリー・ジャズのミュージシャンの話をしていた。  僕が店の中に入れば、彼らはちらりと僕のことを見た。どんな印象を抱いたのかは判別できない。ここ数年。僕は自分が人からどんなふうに見えるのか、まるで分からなくなってしまっていた。  僕は彼らの頭を飛び越え、カウンターでグラスを拭いている店員に目をやった。会うたびに髪の色が変わるのが特徴で、今日は短髪を淡いブルーに染めて逆立てている。 「下の店だ。通るよ」  僕の言葉はきっと店内の喧騒で聞こえなかっただろうが、彼の方でも僕の顔を覚えてくれていたのか、笑って会釈を返してくれた。その拍子に、唇と耳につけたピアスがきらりと光った。  店を通り抜け、奥にひっそりとある階段を降りる。一段一段降りるごとに、上階の喧騒が消えていくようだった。  足元にある古ぼけた看板には「国のない男」という店名が書かれ、淡い電飾がついたり消えたりを繰り返し、昔ながらの押し戸にはプレートがかけられている。 「For Human」 と印刷されたプレートには大きなバツ印が書かれ、その脇に 「扉さえぶち破らなきゃ誰でも入りな」 と乱暴な字で書かれていた。  扉を押し開ければ、からからとウェルカムベルの澄んだ音がする。煙草臭い店内では昔ながらのステレオが「カウガール・イン・ザ・サンド」を流していた。 テーブル席に客が数人。カウンターには、ぱりっとしたジャケットを着た品の良い男が座って、ちびちびとウィスキーのオン・ザ・ロックをやっていた。 「よう、染野」カウンターからハスキーな女性の声が響く。 「日が沈んでから来るなんて珍しいね。酒は飲むと決めた日に一日かけて飲むもの、とか前言ってなかったかい?」 「人は変わるものだよ。クララ」僕は肩をすくめて返した。 「今日は実にいろんなことが会った日で、一日の締めくくりに全部を飲んで忘れたくなったんだ」  でっぷり太ったその女は、げらげらとわらった。うるさく大笑いしたわけではない。彼女のかすれた笑い声は、げらげら、としか表現のしようがないのだ。どんなに控えめに笑うときでも、彼女はそうだった。 「そういう台詞は、もっとまともに働いているやつが言うもんさ。注文は」 「ウィスキー・アンド・ソーダ」 「ウィスキーはどれにするんだい」 「一番安いやつ」  はいはい。そういってクララは棚の瓶に手をかけた。  クララ・マツモト、というのが本名かどうか僕は知らない。客の誰も知らないが、皆彼女をクララと呼んでいる。  塔京が東京だった頃から彼女はこのバーの店主で、さる警察の重鎮の愛人だったらしい。その人物は、対デジタル・モンスター強硬派の筆頭で、”カンパニー”による警察への人材・技術供与に強く反対し、デジモンへの差別的な言動を繰り返していた。彼女もそれに同調し、いつの間にかこの店は、対デジモン抵抗運動の拠点の一つになった。「For Human」のプレートがかけられ、終末を認められず、差別主義と排他的な人類愛にかられた若い警察官が集まったという。  クララは彼らに対して、実際以上に年が離れているように振る舞った。老女のような態度で予言者めいた言動を繰り返していたらしい。 「昔のアイツを知るやつは、ついにクララがおかしくなった、って言ってたけどさ」当時を知る常連客から聞いたことがある「あいつは単に『マトリックス』のオラクルの役をやりたかったんだ。ただのごっこ遊びだよ」  それでよかった。彼女の言葉を聞いた若い警官は、自分がネオだと思うことができた。あのスーサイド・ファンクラブと同じ。すべてはごっこ遊びだったのだ。  けれど、ごっこ遊びではすまない者もいた。やがて怪しげな人物が出入りするようになり、若者たちは店を使って公然と武器の売買やテロの計画をするようになっていた。汝は救世主なり、では満足できなかったのだ。  若者たちの方も、クララから離れていった。彼女が仕事中に飲む酒の量は加速度的に増えていた。社会にとってなにか意味のあることをしているという高揚感と、その裏のごくごく小市民的な不安が理由だった。オラクルのふりをするだけなら適当にあしらっておけば済む話だったが、酒に酔った彼女は、若者たちのトリニティの役もやりたがった。  そんな中で、特に急進的な若者たちが結託して警察署への立てこもりを計画し、それは過激な計画に足踏みをした味方の密告によって実行前に失敗に終わった。重火器を用いた彼らの最後の抵抗も、デジタル・モンスターの警官の活躍によって、敵味方に一人の死者も出さずに終わり、彼らは全員収監された。  尋問において、彼らはクララを巻き込むような証言はしなかったらしい。過激な馬鹿ほど義理堅いものさ、と彼女は言った。  トップにいた警察の重鎮はと言えば、デジタル・モンスターに対する強硬な発言で世間の注目を集めた挙句、クララ以外にも多くの愛人がいたのを週刊誌に書き立てられて、ひっそり立場を追われたという。  そしてクララはといえば──。 「クラモンは元気にしてるかい」  僕が尋ねれば、クララはよく聞いてくれたわねと言わんばかりにだらしなく顔をほころばせた。 「ええ、そりゃもうかわいくてかわいくてねえ。もう寝ちゃったけど……」  彼女がそう呟くのと同時に、ぷよ、という音がして、僕の手元に一つ目のクラゲのようなデジタル・モンスターがあらわれる。 「あら、あんたに挨拶したくて起きてきたってよ? おはようクラちゃん。染野のクソガキが生意気にもお疲れだっていうのよ~。あいさつしたげて!」  でれでれとした声で話す彼女に、僕は苦笑して、クラモンを撫でる。ひんやりとした軟体動物のような感触は、イカでも触っているみたいで正直あまり好きではなかったが、きゅう、と鳴いて気持ちよさそうに目を閉じるクラモンは確かにかわいらしかった。  たまたま出会ったデジモンが連れてきたもののやり場に困っていたというこの幼年期デジモンに出会ってからというもの、クララは反デジモン思想を完全にどこかに放り出してしまったようだった。もとより借り物の思想だったから、捨て去る時もきれいなものだったのだろう。幼いデジモンをペット扱いする人間は問題になっているが、少なくとも蔵らにはそういうところは無く、この店でもクラモンは自由に振る舞っていた。。 「女っ気がないのはあきらめたとして、あんたも誰かと住めばいいのにね。人間との共同生活を望んでるデジタル・モンスターは大勢いる」 「“ランダマイザ”との交流を通しての進化を求めて、だろ。僕には操作できない見返りを求めて同居されてもね」  そういう形でのパートナーシップは、近頃急速に増えているようだった。人間はデジモンとの同居による安全を、デジモンは人間との共生による進化の可能性を得られる、という触れ込みらしい。 デジタル・モンスターの“進化”と言うのがどういうものなのか、僕は実際に見たことがないから分からないが、アンドロモンの話を聞いたところによれば、僕たちの言う“進化”とは在り方からしてまったく違うらしい。 「ン、今ではもうめったに見られない光景だがね。我々の望みだ。渇望と言ってもいい。我々は皆、求めているんだ。自分の世界を貫いてくれる乱数を」 人間に対するランダマイザ手術の名目は、デジモンにはない複雑な情緒のデータ化による高精度の暗号化技術の実現とかそのあたりだったろうか。当然嘘だ。彼らが期待したのは、自分を次のステージに持ち上げるキーだった。人間は皆、そのための資源でしかなかった。人類はそのことに気づきながら、それを受け入れたのだ。 「“あなたたちは全てにおいて我々に劣るが、その豊かな感情だけは我々にないものだ”」  ほい、と目の前に置かれたグラスを一息に空にして、僕は呟いた。 「きっとそれは、全ての尊厳を奪われた人間が、一番欲しかった言葉だろう。見事だね。力も文明も人に勝るデジタル・モンスターは、そのどれでもなく、言葉で人類を終わらせてみせた」 「ベイリかい? 私も数年前までは熱心に読んでたものだけどね。ただの泣き言だよ」 「泣き言以外に、僕たちに何が許されてる?」 「愛さ」 「泣けるね」 「本気だよ」  臆面もなくそう言い切って、クララはクラモンを撫でた。 「“天使の日”が来た時、この店でさ、世界の終わりのパーティをしたんだ」 「センチメンタルだね」  茶化すなよ、と彼女は唇を尖らせる。 「とにかく、あの時はそれがいいと思ったのさ。とにかく、いつ死ぬか分かるって言うのは、なによりいいことだと思ったんだ」 「わかるよ」 「あのころ、あんたはまだがきんちょだったろ」 「でも、わかるんだ」 「……とにかく、私たちはパーティをした。酒場三日三晩ぶっ続けで開けて、誰でも入って、誰かに別れを言うことができた、誰かに愛しているということができた。てめえだけじゃそれができない奴らがみんなで集まって、考えられることは何でもした」 「楽しかった?」 「ぜんぜん」  クララはげらげらとわらった。 「最悪だったよ。おまけに私たちは一人も死ななかった。みんなからっぽになって、それを埋める者をさがして、随分バカなことに首を突っ込んだ。結局私たちは、好きでもない奴と愛してるを言い合っただけ」  でもね、と彼女は言いながら、新しいグラスを僕に差し出した。 「愛してる、ってのはやっぱり、いいもんだ」  だからねー、愛してるよーと言いながら、彼女はクラモンを抱き上げて、そのつるりとした表皮に頬ずりをした。特に気分が晴れたわけではなかったが、僕も自然と笑った。 「その子、ここに住んでるんですか? かわいいですね」  と、カウンターにいたもう一人の男が、そう言ってこちらに笑いかけてくる。黒髪短髪に細い目の美男子で、人好きのする笑みをたたえているが、それよりも何よりも頬についた一筋の傷跡が目を引いた。そうなのよ、とクラモンへの愛を語るクララと二言三言交わし、彼はグラスを持ち上げて立ち上がった。 「隣、いいですか? “染野さん”」 「……!」 「あら、知り合い?」 「……どうだったかな」  首をかしげるクララに、僕は表情のない声で返す。 「忘れるなんてひどいな。まあ昔の知り合いだから、無理ないけれど。俺ですよ。──市ではお世話になったでしょう」  それはどこか異国の言語のように聞こえたが、確かに僕が生まれ育った街の名前だった。僕は視線をその男に向けたまま、ゆっくりと頷く。 「そうだったね。クララ」  そう言って彼女を呼べば。あい、といい加減な返事が返ってくる。何か知らんが、面倒ごとはよしてくれと言いたげなその温度が、かえって僕を安心させた。 「悪いんだけど、僕たちはテーブルに移って話そうと思う。彼にいま飲んでいるのをもう一杯作ってやってくれ。僕にも同じものを」  そうしてテーブル席に移ると、男はにこやかに笑いかけた。彼の笑顔は頬の筋肉を大きく動かすもので、それに伴って頬の傷跡が歪むのが、妙なアンバランスさを感じさせた。 「初めまして。染野春樹さん」 「どうして僕の名前を知ってる。出身地まで」 「聞いたからですよ」  そうして彼はケースから取り出した一枚の名刺を、ゆっくりとテーブルの上には知らせた。 「俺は才原夜鷹(サイハラ・ヨダカ)。その節は、妹が──つばめがお世話になりました」  目を大きく見開いたぼくの前で、彼は仰々しく頭を下げて見せた。 ──もちろんわたしは兄さんなんて知らないよ。わたしはハルキが知ってるつばめだけでできたわたしだから。  脳の裏側で聞こえる声に、そんな事は知ってるよ、と返す。  夜鷹、と名乗った目の前の男はあいも変わらずにこやかな笑みを浮かべ、僕のことをまっすぐに見ていた。 「一応、言っておきますが、血縁はありませんよ。つばめと俺のことです」 「知ってる。”選友会”のコロニーで生まれた人間はみんな教祖の姓を名乗る」 「俺たちの会について詳しいのは聞いていますよ」 「君たちの教義にも詳しいよ。飲酒は禁止されているはずだ」 「こんなに美味しいのに?」  夜鷹はいたずらっぽく笑い、グラスにわずかに残ったウィスキーを一息に流し込むと、いかにもうまそうに息をついた。 「ここに通っているのは知っていました。警察署で相当絞られたようでしたから、酒でも飲みたくなるだろうと、ここで待っていたんです」 「僕を尾けてた?」  不謹慎で面白くない冗談を聞いたときのように、夜鷹は首をふるふると振った。 「まさか、そんなことをしたら、あなたを尾行している他の勢力に気づかれてしまう」 「他の勢力だって?」  アンドロモンの教えのお陰で、大抵の尾行は見破れるつもりだった僕には、それはいささかショックな言葉だった。 「失言でした。とはいえ、あなたの生活習慣さえ押さえておけば、来る場所を予測して待つことは可能です。簡単でしたよ。あなたはもう少し生活に彩りと新鮮さをもったほうがいい」 「山奥のコロニーで『ソラリス』を回し読みする日曜学校が、君の言うところの”彩り”なのかな」 「皮肉屋だ」彼は嬉しそうな表情を浮かべる。それはメジャーリーガーと握手した子どもを僕に想起させた 「つばめが言っていたとおりです。『わたしは世界を知らないけれど、世界じゅう探したってきっと、あんなひねくれ屋さんはいないと思うな』と、俺に話してくれていました」 ──言いそう。  言いそう、と僕は思った。 「それで? まさかつばめの思い出話に来たわけじゃないだろう。僕を殺せと命じられて、”塔京”を9年さまよい歩いてたのか?」 「まさか。あなたを殺そうなんて、誰も考えてません」 「なぜ? 僕が彼女を連れて逃げたことは”先生”が見ている。そのあと、彼女の死だって知ったはずだ。”塔京”の霊園に墓なんか立てて」 「知っていたんですね。そこでも待っていました。あなたが来るかと思っていましたが」 「教団の私有地に立ち入るほど馬鹿じゃないよ。それに、そんなところにつばめはいない」 ──もうどこにもわたしはいない。 「考え方、ですね」 「僕はつばめを君たちから奪った。君たちの会の教義に殉じて幸せに眠るはずだったつばめを連れ出して、おまけに彼女を死なせた」 「宗教の本質は赦しですよ」 「カルトは違うだろう。少なくとも、あそこまで追ってきていた”先生”があれ以降追っ手の一つも差し向けてこないのはどういうわけだ」  その問いにすぐに返事をせずに、夜鷹は琥珀色の液体をゆっくりと舐めた。 「”先生”は烈火のごとく怒っていた、それを父が諌めたんですよ」 「君たちの父」 「才原善鬼会長です」  才原善鬼、選友会の教祖。つばめや夜鷹の苗字は、もともとみんな彼のものだった。 「自分を神とも神の子とも呼んでいないが、会の中での彼の言葉はそれに等しい。あの時も彼の言いつけは厳格に守られました。この9年間、あなたに”選友会”からの接触がありましたか?」  僕は椅子に深く腰掛け、ゆっくりと息をつく。僕もアンドロモンもずっと警戒してきたが、そんなことは一度もありはしなかった。教祖の鶴の一声で、僕がしたことは不問になったというのだ。痛い腹を探られるよりは握りつぶした方がマシだと思ったのか。それとも、あそこでつばめが死んだことで、”選友会”としての目的は果たされたのか。 「そもそも会員の多くは、つばめが死んだことすら知らされていません。”先生”があのコロニーにいた幹部に話し、会本部の”父”にお伺いを立て、”父”は放置することを臨んだ。つばめは”父”の考えにより施設を移動したことになりました。施設替えはよくあることだったので、皆驚きはしたが疑いもしなかった」 「君を、除いて」  僕の言葉に、彼は胸の前でぱちぱちと拍手をした。 「素晴らしい。頭がいい、と言うのは本当でしたね」 「無駄口はよせよ」  僕がそう口を挟めば、彼はぱちぱちと動かしていた手を止め、そのまま右手と左手の指を絡ませた。 「つばめを妹だ、と言ったでしょう。あれは比喩じゃない。あの教団の庭にいた人たちはみな家族でしたが、彼女は特別だった。年も近くて、わずかに俺の方が先に生まれていたので、何かと気に掛けていました」 「そんな特別な存在が居たなんて、知らなかった」  僕は慎重に言葉を選びながら口を開く。この9年間で、誰かがつばめについて僕の知らないことを語るのは、初めてのことだった。 「庭の皆が好き、とは話していたけれど、特別な家族が居たんだったら、その人のことをつばめは言ったはずだ」  代わりに彼女が心残りとして話したのは、夜更けに自分の部屋に現れるという、誰にも見えない少女のことだった。 「傷つきますね。でも、つばめらしい」  夜鷹は肩をすくめた。 「誰かを愛するよりも、誰かに愛される方がずっと得意な子だった。つばめは俺たちみんなのことを本心から好きだと言ってくれていました。でもきっと、あの子に”特別”はなかった。いいや、あそこで暮らしていた俺たちみんなに、”特別”はなかった。そんなもの、教えて貰っていなかった。仮にあったとしても、気付いていなかったんです」 「カルトの洗脳」 「先ほどから、わざと俺を怒らせようとして言葉を選んでいますね」 「分かっているなら怒ってくれ。何で君が僕を前にそうにこやかに話を進めたがるのか、さっきから考えてもまるで分からないんだ」 「事実を聞いても、人は怒りませんよ。あなたの言うとおり、あれはまさしくカルトの洗脳だった。ありふれていて、陳腐で、でも効果はてきめん。この世に特別はない、あるとすれば教えと救いだけ」 「クソだ」 「ええ」 「その自覚があるとすると、君は背教者なのか?既に教団を辞めたとか」 「いいえ」  それ以上の質問を避けるように、彼はまたグラスに口を付け、うまそうに喉を鳴らした。 「きっとつばめに”特別”を教えたのは、あなたなんでしょう。春樹さん。そしてつばめが、自分の不在、と言う形で俺たちにそれを教えてくれた。あの子のいなくなった庭の寂しいことといったら、俺たちみんな、気が狂いそうだった」  つばめが楽園のように語った”庭”の景色の話を、僕は思い出す。つばめは美しい世界を見て、それをたどたどしくもまっすぐに伝えていた。でも他の人間にはきっと、世界は彼女が見るほどに美しくはなかったのだ。 「だから、教えに背いて真相を探った?」 「そこまでドラマチックじゃない。つばめが居なくなって数日して、弟の一人が大人たちの会話を聞いてしまった、そこで彼女に起きたことを知ったんです。外の人間に連れ出され、そして死んでしまった、と」 「……」 「つばめはよくあなたのことを話してくれていました。最初は染野くん、と語っていたのが春樹君、になり、ハルキになった。だから彼女がでていったと知って、連れ出したのはあなただと、みんなすぐに気付きました」 「なら、なおさら分からない。なぜ僕を放っておく?」  それには返事をせずに、夜鷹は指でグラスの縁をなぞった。 「その弟はつばめの話にショックを受けながらも聞き耳を立て続けました。そしたら一人が言ったそうです。『なににせよ、対応を変える必要が無いのは良かった。いきさつこそ悲劇だけれど、つばめがいなくなるのは決まっていたことだ』と」  ぴりり、と、背中に電気が走った気がした。 「それを聞いて俺たちは調べました。たしかに全てがおかしかった。クリスマスの夜につばめが帰ってこなかった。俺たちが彼女が施設を移った知らされたのは夕食の席です。大した時間は無かったはずなのに、大人たちの対応は妙にすらすらとしていました。彼女が消えたのは大人にも予想外だったはずなのに。一週間前から作っていたはずの家事や作業の当番表からも、つばめの名前は消えていた」  夜鷹の口調がだんだんと怒りを含む。それで僕は、彼のにこやかな表情が虚飾だと知った。僕と同じで、彼にはそれは過去のことではないのだ。 「それで俺たちは知った。俺たちが今こんな悲しみを抱えているのは、染野なにがしのせいじゃない。会の大人たちのせいだ。それにどんな意味があることであっても、彼らは俺たちからつばめを奪おうとしていた。この喪失を、予定通りだと言い切った」 「そうして、教義に平気で背く今の君が出来上がったと」  僕の言葉に、自分が熱くなっていることに気付いたのか、夜鷹は少し恥ずかしそうに咳払いをした。 「今の話の結果が、ささやかな飲酒だと思われるのはいささか心外ですが、まあ、その通りです。大体”選友会”は分かっていないんだ。自分たちが大人になってからスピって象徴に祭り上げる分にはサイエンス・フィクションはいいかもしれないが、それを子どもに与えるのは問題だ。俺たちは他に何もなかったけれど、聖典のSFだけはいくらでも読めた。自由と反抗を、僕たちは知っていた」 「それでも、カルトに生まれた子どもは、カルトしか知らないだろう」 「ひどい話だが、その通りです。俺たちにできる復讐は、つばめの死の真相を知る方法は、俺たちのカルトを作ることだった」 「コロニーで生まれ、”選友会”のために育てられた子ども達の、小さなカルト」  そのとおり、と彼は頷く。 「”選ばれし子ども達の会”です。皮肉が効いているでしょう」  少し自虐を含んだ笑みを浮かべる彼を見て、僕はあきれたように首を振った。 「俺たちは会内のエリートです。みな若いながら会の中で重要な役割を果たしている。俺は25歳になると同時に、会の出した国会議員の秘書を任された。おかげで比較的自由が利く。あなたに会いに来ることができる」 「僕にたどり着くのが、そんなに難しかったかい?」 「冗談じゃないんだ、染野さん。教団だってあなたを完全に忘れたわけじゃない。彼らはあなたが住んでいる場所も、今何をしているかも知っています。警察へのレールを降りて探偵を始めたことで、彼らのあなたへ警戒度はいささか上がった。だれもあなたが我々のことを忘れたとは思っていません。その中で、彼らの目を盗んであなたに会うのは至難の業だった。結局この歳を待たなければいけなかった」 「君の話は雲をつかむみたいだ」僕はため息をついた。 「君には聞きたいことがあるはずだ。僕に会って、どうしても知りたかったことが、それをおいて、どうして身の上話なんか長々と話す?」 「あなたと、長い付き合いがしたいからですよ。染野さん。あなたに俺たちが敵じゃないと知って貰う必要があった。今日はいわばデモンストレーションです。用件を急ぐつもりはない」 「とにかく、それは終わってしまったことなのだから」  僕がそう引き継ぐと、夜鷹の目は糸よりも細くなった。 「でも、人の心は違うだろう」 「俺の心が、なんです?」 「つばめは殺された。彼女の体は白い羽になって消えた」  店の中、僕は声を潜めて早口でそれを告げた。けれど、夜の空気はその密やかな悲しみを見逃したりはしてくれなかった。僕たちのテーブルに思い沈黙が降りた。  夜鷹は、その細い目を半月くらいに開いていた。それが彼にできる最大の驚きの表現なのは、見れば明らかだった。 「……なぜです?」  なぜ死んだのか、ではない、なぜ自分にそれを話すのか、彼は問う。 「僕の視点なら簡単な理屈だ。君たち教団がつばめの死に関与しているなら、それを隠す意味は無いし、本当に死の真相を求めているなら。僕の見たことの一部を話しても大勢に影響はない。それに──」  僕は肩の力を抜いて、氷が溶けてすっかり薄くなった酒を飲み干した。 「心の問題だよ。どんな意図があろうと、君は僕の凍った時計を動かしてくれた。なら、僕もそうしようと思ったんだ」  彼は少しあっけにとられたように沈黙した後、やがて笑った。 「本当に、つばめの言うとおりだ。『理屈っぽいくせに理屈なんてどうでも良いと思っている人』と、言っていましたよ」 「つばめって、普段からそうだったのか?」 ──”そう”って、どういうこと?  頭の中で聞こえる不満気な声に、おもわず笑みをこぼしそうになり、僕は表情を取り繕って、カウンターでクラモンをなでているクララの方を向いた。 「クララ、追加だ。僕と彼に──」  どん、と大きな音がして、バーの扉がはじけ飛んだ。 「よう、じゃまするぜ」  そう言って入ってきたのは、黒いシャツの上から、同じく黒いジャケットを着た筋骨隆々の男だった。髪を短く刈り上げており、右から手には冗談みたいに巨大な銃を持っている。 「対デジモングレネード・ランチャー、軍のものは入念に処分されたはずだけど、払い下げ品は裏社会にあふれてる」  僕はつぶやいた。 「当然、違法ですよね」 「代議士の秘書だろ。わかりきったことを確認するなよ」 「わかりきったことを確認すると喜ぶんですよ、彼らは」  夜鷹の言葉に喉の奥で笑いを漏らしながら、僕はその男を注意深く観察する。肉体労働に従事しているようだけど、それだけでつけた筋肉ではない。手の甲にはえぐったような傷の痕がある。日用品を加工してつくった武器で付くような傷だ。極めつけはその短い髪に入った十字のそり込み。 「反デジモン思想を掲げる刑務所マフィアのトレードマークだ。でも刑務所で守ってもらえるために入ったわけじゃないな。刑務所でも鍛え続けていたんだから。外に出たときに人でもデジモンでも、半殺しにしたい相手がいたんだろう」  そして、そういう人物がクララの店に来る、ということは──。 「よう、久々だな、クララ」 「……あんた、刑務所は出たんだね」  男は無遠慮にカウンターに手を付くと、クララに向けてその歯を見せながら笑いかけた。 「当たり前さ。理由もなしにぶちこまれたんだから、長すぎるくらいだ。酒をくれよ、いつものやつだ」 「……」  クララは黙ったまま、後ろの棚からラムの瓶をとり、グラスに注いで、乱暴に差し出す。男はグラスを丸ごと包めそうな手でそれをつかみ、一息にあおると、不快な音と共に息をついた。 「にしたって、9年ってのがこんなに長いとは思わなかったぜ。街も人もすっかり様変わりじゃねえか。どこを見たってクソみたいなバケモンが歩いてやがる。それに比べて、ここは変わんねえな。ああ、だがよ──」  そう言いながら、男は左手に持っていたプレートを床に投げ捨てた。大きなバツ印のついた「For Human」のプレートが、真っ二つに割られている。。 「いたずらがき、されてたぜ。おい。誰かしらねえが、クソな野郎だ」 「……それで、なんの用だい」 「何の用も何も、俺は行きつけの店に帰ってきただけだぜ! そこは長い務めをねぎらうところだろうがよ。おかえりなさいの一言もねえってのは、どういうことだ。……おい、いまクソの声が聞こえたな」  きゅう、と言う声は僕の耳にも聞こえた。クララが必死に背中に隠していたクラモンが、恐怖から声を上げたのだ。 「おい、クララ、何隠してやがる。どけ!」  そう言いながら、男はクララの襟首をつかみ、その上体をカウンターに引き倒した。瓶と瓶の間でおびえたように震えているクラモンの姿があらわになる。 「おい、こいつはどういうことだ。何でこの店に、しかもカウンターのそっち側にクソがいやがる、おい!」 「……してやる」 「あん?」 「その子に指一本でも触れたら、殺してやる」 「……っていうと、やっぱ、俺たちを売ったのはお前か。刑務所の中でどいつもこいつもクララのせいだって言いやがる中でよ、俺はお前を信じて、そういう連中の口をふさいでやったってのによ!」  男がばん、とカウンターを叩けば、店全体が揺れるような気がした。クラモンがまたきゅう、と声を上げる。 「指一本でも触れたら殺してやる、だあ? じゃあやってみろよ、今から先に殺してやるから、でも先にこのクソだ。クララ、お前もむかしこいつらを一緒になってクソって呼んでたろ。俺は一言一句覚えてるぜ。その時の言葉を思い出させてやる。それを聞かせながら、これを握りつぶすから、そこで見とけ」 「やめ……」  叫ぶクララの顔をカウンターに押しつけ、男はクラモンに手を伸ばした。 「やめとけよ」  僕がそう言って、背後から床に転がったプレートを男の頭にたたきつけた。そこそこの重量のある木のプレートに、しかし男はびくともせず、びりびりとしびれが走ったのは僕の腕の方だった。筋肉ダルマはこういうところが嫌いなんだ。僕は舌打ちをする。 「なんだ、てめえ」 「ここの常連だよ」 「しゃしゃんじゃねえ」 「こっちのセリフだ。動くな」  男が上体を完全にこっちに向けたタイミングで、僕は鞄から取り出した拳銃を向けた。人に撃てる銃弾は入っていない、はったりだが、それでも男はほう、と喉を鳴らす。僕の視線の先では、男の視線がそれた隙をついて、クラモンを店の奥へ逃がしている。 「お前みたいなモヤシがチャカかよ。ここも良い世界になったモンだな。やんのか?」 「打ち合いならいくらでも相手になるさ。でも君のそれ、ここで撃ったら君も死ぬだろ」  僕はあごで男の持つランチャーをしゃくる。 「だから、あー、なんだ、表に出ろ」  僕のセリフに、男はくっくとわらい、それからやがて大笑いした。 「おいおい! 良かったなクララ! お前、どこぞのタフガイがお前を助けてくれるってよ! 今のうちに逃げとくことをおすすめするぜ。まあ、逃がしゃしねえけどよ」  クララの体をカウンターの向こうに放り捨てて、男は高笑いしながら店の外へと上がっていく。その後に続いていこうとする僕を、夜鷹が呼び止めた。 「待ってください。染野さん、あれ相手にその銃で、ですか?」 「弾は入ってない。昔習ったスパイラル・アンドロイド・ケンポーで戦うさ」  そう言う僕に夜鷹はため息をついた。 「いいです。俺が引き受けます」 「君が?」 「見ててください。言ったでしょう?」  夜鷹は感情の読めない糸目のまま、にっと笑った。 「これはデモンストレーションだって」 「それで、表に出てはみたけど」  僕は息をついて、ぐしゃぐしゃになったシーシャバーの店先を見回した。男によほど怖い目に遭わされたのか、青髪の店員はカウンターの下で身をかがめてぶるぶると震えている。 「お前、デジモンが嫌いなんじゃなかったかよ」 「嫌いさ、だが、あれだろ? 家に出るきもちわりぃ蜘蛛だって、ゴキブリやら蚊やらを喰ってくれるって言うだろうよ」  僕と夜鷹を迎えたのは、巨大な建築重機の姿をしたデジタル・モンスターだった。 「ケンキモン、多少戦闘用のカスタムがされてるね、はぐれものだ」 「そのままの名前ですね」 「おいおいおいおい、余裕ぶってんじゃねえぞ! 命乞いするなら今のうちだろ! そっちのモヤシは殺すが、なんか出てきたそっちの糸目だけは生かしといてやる」 「で、デモンストレーション、なんだろ?」 「ええ」  夜鷹は、殺気を放つ巨大なデジモンにも平然として、スマートフォンを操作する。 「あひる、からす、周囲の様子は?」  と、スマートフォンから、慌てた様子の声が聞こえる。 『にいさま! だいじょうぶなの! ソメノハルキに殺されてない!?』 「この状況は彼のせいじゃないよ。あひる。からすは?」 『あひるの耳をつかんで引き留めたまま、状況を注視してる。テロリスト崩れが三人とケンキモン。ぼくらには無関係だし。兄さん、巻き込まれる前に逃げた方が……』 「そうもいかない。これは染野くんへのデモンストレーション、ということになった。あれを使う」 『本気なの? 一度使うごとにどれだけごまかさなきゃいけない書類が増えるか……』 「良いだろう。議員の方々のボディーガード用に”コレクティブ”が貸してくれてるのに、先生方は怖がって使おうとしないんだ」 『にいさま! 誰を撃てば良いの? 筋肉盛り盛りマッチョマンの変態?』 「そうだ。ただし、くれぐれも眠らせるだけにするように」 『おっけー。あひる、撃ちまーす!』 『待って、あひる、まだ合図が……』  刹那、ぱん、と音がして、僕たちの目の前で男が崩れ落ちた。 「……」 「大丈夫です。微弱な麻酔ですよ」 「……ああ、そうだね」 「そうですか、つばめは、銃で」 「そうは言ってない」 「そういう顔をしていました。我々を疑うのも良いが、それより、今は見ていてください」  そう言うと、夜鷹はスマートフォンを手早く操作する。 「からす、落ち着いて、オペレートを頼むよ」 『……はい、わかりました。トラブルはいつものこと、トラブルはいつものこと』  僕よりも先に状況を理解したのか、ケンキモンがその腕を振り上げる。それに真正面から向かい合い、夜鷹はスマートフォンを掲げた。 「ではご覧あれ、俺たち、”選ばれし子ども達の会”の力を──────来い、ネオデビモン」  闇が、目の前ではじけた。
White Rabbit No.9 塔‐Ⅱ/ ”選ばれし子どもたちの会” content media
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マダラマゼラン一号
2023年10月04日
In デジモン創作サロン
これまで 庭‐Ⅰ ”スーサイド・ファンクラブ” 庭‐Ⅱ ”サイファイ・カルト” 庭‐Ⅲ ”The End of the World” 「我々が忘れてはいけないのは、ランダマイザ理論を提唱したのは彼らの方であるということです。あの論文は、新たな地球の支配種族たる彼らが、自分たちに何一つとして勝るところのない、哀れな原形質の塊に向けた、嘲りを含んだ慰めでしかなかったはずなのです。これが喜劇でなく悲劇であるとすれば、そのお慰みの紙切れは、それを受け取った下等種族にとっては、自分たちの時代の終焉を前に、唯一それだけは自分たち固有のものだと思っていたかった点を、完全に肯定しきっていた、その一点によるところなのでしょう。我々は既に、自分たちの有り様を自分たちで定義し、美しく静かに人類史を終わらせる機会を失いました。残っているのは、優位者が時折投げるパンくずを、地に這いつくばって舐め取るだけの余生でしょう。そしてそのパンくずこそが、我々が遥か昔から、あのバカ女のパンドラの時代から後生大事に抱きしめている『希望』というものの正体なのです」 ──ヨシャファト・ベイリ「もろびとほろびて」より 「──ん、染野サン。ねえ、旦那、旦那ったら!」 騒がしい声に呼ばれ、僕は車の後部座席で目を覚ました。古いビニールの香りが鼻をつく。昔から使われているタクシーの匂いだった。今しがた僕を起こした”彼”が元はタクシーだったこの車を買い取って2年になるが、未だにこの匂いは取れてくれないのだ。 「ねえ、もうすぐ新宿ですよ。最初に細かく目的地を教えてくれたらギリギリまで寝かせてあげられたんですがね。旦那ったら、おれが『目的地は?』って聞いたら『新宿』とだけ答えて眠っちまうんだもんなあ。昨夜も徹夜ですか」 「旦那って呼ぶな」 僕の抗議に対して、運転席の”彼”は悪びれもせずに答える。 「そうは言ってもねえ。染野サン、じゃあどうにもしまんねえや。旦那は旦那ですよ。おれの雇い主なんだから、間違っちゃいないでしょう」 「人間はもうそんな言葉を使わないよ」 「あんたがたの世界と出会う前に、おれたちがどうやって話してたと思うんです? 言葉はこの国に合わせてるけど、おれはむかしからずうっと持ってる、おれらしい喋り方で話してるだけですよ」 「君を解雇したら、旦那呼びをやめて、そのよく回る口も閉じてくれるかい、ブギーモン」 僕の言葉に、運転席の彼が振り返る。くすんだグリーンの帽子を被り、同じ色のスーツで12歳の子どもほどの大きさしかない小柄な体を包んでいる。それとは対象的に、帽子の下の顔は毒々しいほどの赤。尖った鷲鼻と、耳まで裂けた口から覗く牙は、正しく悪魔そのものだった。 「そしたら旦那はどうするんですか。たすきでもかけて、誰かと一緒にこの”塔京”を交代ばんこに走り回るとか?」 「ヒッチハイクでもするさ」 「ヒッチハイクじゃ、探偵は務まりませんよ」 「君には関係ない。クビになるんだから」 「ひどいな、旦那」 ──そうだそうだ。いじめちゃかわいそうだよ。ハルキ。  不意にそんな声が聞こえた気がして、僕はうんざりとしたように身を倒し、窓に頭を付けた。ひんやりとしたガラスの温度が伝わってくる。また寝ないでくださいよ、旦那、と、どこか遠くでブギーモンが言った。 9年だ。9回目の冬だ。僕とつばめが交際して、もうそれほど長い間、僕は彼女の声を聞いている。きっとそれはもう、本当の彼女の声ではないのだろう。彼女の体温を、声を、匂いを、もう僕は思い出すことができない。思い出すことができたとして、つばめはどこにもいない。 ──だから、あなたはわたしを見ても、ただ過去を忘れられない自分を惨めに感じるだけ。  それなら、さっさと消えてくれればいいのに。 ──それなら、さっさと消してくれればいいのにね。  僕の舌打ちに、彼女は、もう、と言った。 「失礼、揺れましたかね」 「君にも、君の運転にも不満はないよ。ブギーモン」 「それなら」ブギーモンがまた軽くこちらを振り返った。小狡いことで有名な魔人型のくせに、彼の目には穏やかで、小市民的な親しみだけがあった。ブギーモンという種全体のことは知らないが、僕の運転手をしてくれている彼に関しては「小狡さ」というのは、スーパーマーケットで醤油の小袋を余分に取っていくような、そういう態度のことを指しているのかもしれない。 「さ、旦那、このままだと“カンパニー”の輸送用デジモンの波にのまれちまいますよ。さっさとどこで世界大戦をおっぱじめるつもりなのか教えてくれなけりゃあ」 「大げさだね」 「冗談じゃない、おれは経験から言ってるんですよ。はっきり言っときますけどね、おれは銀行強盗のピックトラック係に志願した覚えはねえんだ。前みたいなのは無しで頼みますよ」 「あのときは助かったよ。今回はなんてことない仕事だから大丈夫だ」  そう言いながらも、僕は少しだけ居住まいを正す。何かが起きる心づもりくらいはしておいた方がいいかもしれない、と僕の第六感は言っていた。それを臆病なブギーモンに話すつもりはなかったけれど。 「どうだか。で、どこに行きゃいいんですか」 「待ってくれ」  交差点に差し掛かり、しびれを切らしたように聞いてくるブギーモンに息をついて、僕は後部座席から身を乗り出した。 「待つも何も、別に逐一案内しろとは言ってねえや。おれはドライバーですよ。“塔京”の地図は頭に入ってる。どこそこに行きたいってはっきり言ってくれりゃ、手間を取らせずに済むんですけどね」 「だから、待ってくれよ。僕も分かってないんだ。  そう言って僕は少し目を細め、ぐっと眉間に力を入れて交差点を見つめた。そのままこめかみ、耳の下にひとさし指をあて、くるくると回すようになでる。右のこめかみは時計回り、左のこめかみは反時計回り。  そうしてしばらくすると、僕の口が勝手に言葉を紡いだ。 「右」 「へいへい」 「返事は一回でいい」 「へーい」 「セブンイレブンのある角を左、それからしばらく直進だ」 「どこにもセブンなんてありませんが」 「依頼人の情報が古いな。えーと、そこ、そこの角だ」  僕のたどたどしい案内に従ってハンドルを切りながら、ブギーモンが口をへの字に曲げて呟く。 「乱数器《ランダマイザ》ですか。人間をデータ化して、暗号器代わりにして、情報を詰め込むなんて、ぞっとしない。もしもおれが、体を人間の、えっと、タンパク質とやらに変えてやるって言われても、絶対断りますけどね」 「それを言えるのは、君たちが勝った側だからだ」 「嫌なこと言うなあ。別におれは“コレクティブ”とは関係がねえ。ただ向こうじゃうだつが上がらねえから、景気がいいっていうこっちに来ただけの野良ブギーモンですよ」 「じゃあ口出しするなよ」 「へいへい、でも気持ち悪くないですか。自分でも分からない情報が、自分の中に入れられているって」 「この世界で探偵をやるには必要だよ」 「人を雇えばいい。そういう専門職のランダマイザもいるでしょう」 「価値基準の問題だ。どこかの探偵は人に重要情報を任せて自分で運転する。僕は重要情報は自分の中に入れて、君に運転させる」 「へいへい、それでおまんまが食えてるんですから文句は言いませんよ。突き当りだ、どっちです」 「左」 「へい。って、これ、“塔”の方面じゃないですか」 「そうなるな」 「勘弁してくださいよ。おれ、あそこ嫌なんですよ。世界を開いた槍なんて、気持ち悪い。見上げても見上げても先っちょ見えねえし」 「じゃあなんで“塔京”に住んでるんだよ」  9年前の“天使の日”に空から降りそそいだ黒い7本の槍の一本が突き刺さって以来、東京は“塔京”になった。胡蝶抜きで雲を貫く高さのその塔は、この区域のどこから見ても見えるが、決して先は見えない。 「僕だってあれは怖い。誰だって怖いよ」 「まったくでさ。デジモン側がやったわけでも、人間が呼び込んだわけでもない、とにかく、あれで二つの世界の境界は貫かれちまった」 「そして君たちがやってきた」 「で、タクシードライバーになったと、いうわけだ。つきましたよ。“カンパニー”の所有地の近くだ。うっかり警備兵に撃ち殺されないでくださいね、旦那。」 「その時は、代わりに逃げる犯人を追ってくれ」  そう言いながら、僕はコートのボタンを閉め、簡素な肩掛け鞄を持って、車の外に出た。 「やめてくださいよ。そんな物騒な事件なんですかい?」 「いいや、でも、“天使の日”からこっち、この国は壊れた。何が起こってもおかしくないよ」  ふん、とブギーモンが同調する。 「そりゃあそうだ。ねえ、聞きましたか、旦那」 「なに」 「最近この町じゃ、人が“天使”になって死んじまうらしいですよ」  それは恐ろしいね、そう言って僕はブギーモンに背を向けた。  僕の中に隠された地図が示したのは、古びた4階建ての商業ビルだった。  カンパニー系列の商社の後ろに隠れるように建っていて、地下に音楽スタジオ、1階には整骨院、2階には喫茶店、3階には消費者金融があった。今でもやっているのはスタジオと喫茶店だけだ。階段のわきにある郵便受けには、かすれた字で、おそらく30年くらい前にここにあったであろう何かの店の名前が書かれていた。  こういう時代に取り残されたようなビルは”塔京”のあちこちにある(僕の事務所があるビルだってそうだ)けれど、塔のほど近くにはとりわけ多い。当たり前だ。人間の時代を終わらせた神の槍を見ながら仕事をしたがる奴なんていない。”カンパニー”以外は。  塔の周囲の土地を全て買い上げることが、人間社会で公的にビジネスができるようになって最初に”カンパニー”が行ったことだった。いや、実際のところ、公的なビジネスの許可など待たずに彼らは動いていた。なにせ空から槍が突き刺さった災害現場なのだ。そこに見たこともない化け物の一段が退去して現れれば、できることは何もかも捨てて逃げることくらいだ。もとより特別何かがあった場所というわけでもないから、”カンパニー”はいかなる拒否も抵抗も受けず、首尾良くその土地を手に入れることができたらしい。  次いで機械たちがしたのは、塔を取り巻くように研究施設を建設することだった。そこまでものものしくないこじんまりとした施設だったが、周囲には電気柵が張り巡らされ、警備のシールズドラモンがいつでも立っていた。二つの世界をつなげた槍の研究という題目が唱えられ、人間、デジモン問わず多くの優秀で奇特な研究者たちがそこで勤務を始めたらしい。  当然の帰結として、施設は多くの陰謀論の的にされた。”カンパニー”が何を企んでいるか、インターネットでは今でも多くの憶測が飛び交っている。しかし結局の所、彼らが何を考えていたにしろ、人間にできることはなかった。これまで多くの憶測が政府や銀行を前にして味わった無力感を、新たな時代の支配種を前に、生物種レベルで味わうだけだった。  そうして、一帯に寄りつく人は居なくなった。今この地域に来るのは、”カンパニー”との取引がある人物か、ただ人目に付きたくない人物、あるいは人目に付きたくない人物に雇われた哀れで無力な探偵だけだ。  ふと、耳に幾つかの足音が飛び込んできて、僕はとっさに身構える。すると地下からの階段を上って現れたのは、バンドマンの一団だった。財布を開きながら料金を分け合うやりとりをしていて意識が向いていなかったのか、先頭を歩いていた青年が僕にぶつかった。 「あ、す、すいません」  こんなところで人に会うことがこれまでなかったのか、青年たちは驚いたように頭を下げた。全員示し合わせたように黒いスキニー・ジーンズとTシャツを着ており、年は僕より少し下に見えた。 「えっと、次の予約ですか」  ドラムのペダルをバッグに入れた青年が言った。 「いいや、違う」  あ、それじゃ。そう言って帰りたがる彼らのために、僕は道をあけた。こんな場所に用もなくやってくるバンドマン以外の人間は、皆ヤクザか何かだと思っているのだ。 「あ、ねえ、君たち」  かわいそうに思いながらも、僕は彼らの背中に話しかけた。 「な、なんすか」 「このビルで妙なことなかった? 僕このビルの管理業者から頼まれて、電気系統の修理に来てるんだけど」  僕の自己紹介に彼らは少し安心したように胸をなで下ろし、首を振った。 「いや、特になかったですよ」 「ほんとに? 細かいとこでもいいんだ。楽器のアンプとかって、電気周りデリケートだろう? 変なことがないようにしときたいんだよね」 「そういわれてもな」 「あ、ほら、あったじゃん。あれ」  と、ドラムのペダルが入っているとおぼしき鞄を提げた、周りより少しだけ背の高い青年が言った。 「ん、なに?」 「いや、練習終わって、片付けてるときなんですけど、ヤバい音したんですよね」 「ヤバい音?」 「なんか、ばん、みたいな」 「片付けてるとき、ってことは、ついさっきだよね」 「そうです」 「ありがとう。ギターアンプが変な音拾ったりとかは?」  具体的な指摘に、一人が声を上げる。 「あ! それ、ありまし。おれのエフェクター、あ、ギターの音変える……」 「大丈夫、知ってる」 「っす。それ、ゲルマニウムとか使ってて、時々変な音拾うんすよね」 「韓国語のラジオとかな」 「そうそう」  隣の青年が茶々を入れて、彼らは笑い合う。僕も曖昧な笑みを浮かべた。 「それで、それが今日はえらい機嫌悪くて、ざーーーとか、がーーーみたいな」 「施設の方でなんかあったのかもな」 「なるほどね。ありがとう。助かった」 「っす」  バンドマンたちは人の好い笑みを浮かべ、手を振って去っていく。僕は不意に、あの夏の自殺同好会に集まっていたバンドマンたちを思い出した。彼らはみなティーン・エイジャーだったはずなのに、みんな彼らほどには若くはなかったように思えた。  バンドマンたちが小さな粒になって見えなくなったのを確認して、僕は雑居ビルのと雑居ビルの間の路地に足を踏み入れた。吐瀉物の臭いのする薄暗がりは、エアコンの室外機の音が規則的にいつまでもなり続けていて、また、そこから出る熱のせいか、日の当たる表通り以上に暑かった。巨大な青いごみ箱が、僕に手招きをしていた。  煙草の吸殻の化石が、そこかしこに落ちていた。建物の入り口に灰皿もあるというのに、こんなところで煙草を吸いたがる人間がいるとは思えなかったが、きっと石器時代あたりにそういう変わり者もいたのだ。  吐瀉物の臭いに猫の古い糞尿が加わる。不思議なことに、どこの路地裏にでもある腐敗したモラルの臭いはここではしなかった。 「石器時代よりも昔かもしれないな」  僕は声に出して呟いてみた。それは今日言ったり聞いたりしたどんな言葉よりも真実らしく聞こえた。あれは石器時代よりも昔の吸い殻なのだ。きっとハイヒールを履いて官能的な口紅をさしたメスのヴェロキラプトルが、オスのヴェロキラプトルを撃ち殺して、物憂げに一服したのだろう。そんなことが、ジュラ紀から白亜紀にかけて何度もあって、でもある日突然空から隕石と隣人愛が降ってきて、ここには物憂げな殺人者も冷血のとかげもいなくなったのだろう。  そのなかで一つだけ、新しい吸殻を拾い上げて、僕はため息を付いた。乱数器〈ランダマイザ〉手術を受けた人間向けの電脳煙草だ。通常のニコチンと何ら変わりはないが、依存性を高める改造も容易いという代物だ。僕は吸口に鼻を近づけて、顔をしかめる。相当強烈なたぐいの改造だ。頭の中の乱数機を、常にスリーセブンが出るいかさまスロットに変えてしまう。どこの誰かは知らないが、高くついたデータ化の費用をまるっきり無駄にしたものだ。  僕は立ち上がり、先程から空気を揺らめかせるほどの熱を放っている室外機に目を向けた。縦長だったり横長だったりするそれらは、海底神殿の構造物のように、雑多かつ荘厳に並んでいる。  見れば、その中の一つに、無惨に上部が凹んでいるものがあった。近づけば、まるで何かが凄まじい勢いで落下したかのような有様だ。見上げれば、ちょうど大きな窓が各階に開かれているのが見える。幼い頃に読んだ恐竜図鑑のロジックだった。恐竜の糞の化石があって、恐竜の足跡の化石があったなら、そこには恐竜がいるのだ。  僕は立ち上がり、巨大な青いゴミ箱に近づき、その蓋をひと思いに持ち上げた。 死体の女と目があった。女の方では、合わせてくれたのは右目の方だけだった。額がぱっくりと割れて、目はそれぞれ反対の方を向いていた。  女は仕立てのいいブラウスにトレンチ・コートを羽織り、首には赤いペイズリーのスカーフを巻いていた。脇には無惨に割れたサングラスが転がっている。  服はところどころ乱れていて、顔にひとつ見事なみみずばれがある。それでも彼女は美しかったし、整った鼻筋もあいまって、ハリウッド女優のお忍びもかくやといった格好だった。 「けれど、彼女専属のスタントマンはどこにもいなかったのだ」  そう声に出して呟いた。この路地裏で、それは再び紛れもない真実だった。  彼女は僕の依頼人だった。彼女は不安げに僕の事務所にやってきて、分厚い紙幣の入った封筒を差し出して、仕事上知った秘密について調査を頼みたいことがあると言った。身の危険を感じてもいたようで、何を調べるのかわからないと受けようがないと僕が言ってもだんまりだった。  ランダマイザ技術を使い暗号化した情報は乱数器本人にもわからないと言っても、彼女はその情報を自分の手元意外のどこにも置く気は無かった。今は時間がない、今度また会って話す。そう言って、彼女は僕の頭に、この待ち合わせ場所だけを残して去ったのだった。  葬儀なら、はじめからそう言ってくれれば、こっちもそれなりの格好をしていったのに、僕はそう呟いて、その悪趣味さに自分で顔をしかめた。でも、これで殺人者に対して義憤を抱けというのが無理はある。彼女は5つのオレンジの種を受け取って探偵を訪ねたかもしれないが、何も話さなかったのだ。  それでも、僕は彼女の身体を探る。彼女は僕に依頼をするつもりだった。僕に渡す情報を何かにまとめていたはずなのだ。  情報端末もUSBメモリの一つも出てこなかったが、コートの内ポケットに、写真が1枚だけ入っていた。どこか都会の街並みを間を写した写真で、ビルとビルの間に曇り空が覗いている。  しかしよく見てみれば、その写真には黒い何かの影が映っていた。一方のビルから一方のビルに飛び移っているようで、あまりの速さにカメラのレンズもそのシルエットをとらえきれていない。でも、このシルエットは。 「兎……?」 「そこでなにしてんだよ」  僕が呟くのと同時に、路地の入口から声がかかった。 「やめてくれよ、せっかく俺が死体の始末をして、血までふいたってのに、あっさり見つけられたらいみねーじゃん」  僕と同じくらいの歳の男だった。派手なシャツを着て、目は血走っている。あの麻薬タバコは十中八九彼のものだろう。 「隠すのが下手なのが悪い」 「んな理屈、ここじゃ通んねーよ。見つけに来るのが悪いに決まってんだろ。じゃ、殺すから」  男が懐に手を入れ、銃を構えるのと同時に、僕も鞄から取り出した拳銃を彼に向けた。男が良そうにひゅう、と口笛を吹く。 「へえ、ナヨってんなとおもったけど、イカすの持ってんじゃん」 「動くな」 「おいおい、銃を突き付けてんのはこっちもだぜ。お前はアレだろ、探偵だろ」 「だったらなんだ」 「あっちもこっちも化け物だらけのこのご時世に、人間の探偵ねえ、身が持たないだろ」 「人間の吐かせ屋はどうなんだよ」  僕がうんざりしたように言った言葉に、男はぴくりと眉をあげる。 「吐かせ屋、俺は殺し屋だっての」 「いいや、吐かせ屋、拷問士、それも三流のやつだ。プロの殺し屋にしちゃお粗末すぎる。彼女に情報を吐かせる仕事にありついて喫茶店にいるところを襲ったが、思わぬ抵抗にあい、何も情報を聞き出せないまま窓から突き落としてしまった、ってとこか」 「語って聞かせるじゃねえか。続けろよ」 「そういうセリフはマフィアの大物が言うものだよ。さっきも言った通り、君は標的に一言もしゃべらせず殺してしまった驚異の吐かせ屋だ。せめてもと思ってあさましく彼女の服から漁ったものがあるだろう、渡せよ」 「てめえ、さっきから黙って聞いてりゃ……」  そう言って引き金に指をかけた男の身体が、宙に浮いた。 「え?」  その顔が段々と赤くなるのを見ながら、僕は銃を構えなおす。かたん、男の銃が地面に落ちる音がした。 こんなご時世でも、人間の殺し屋も吐かせ屋も多い。デジタル・モンスターたちの方がずっと殺しはうまいのにだ。プロの腕で雇われて続けている者もいるだろうが、今人間を雇う理由の大半は──。 「あ、あ」  男の顔が赤黒く染まり、そのまま、口を開けると、けたけたと、笑いだした。 「そうよ、この子分かってなさすぎなの」 「自分が使い捨てられてるだけだって!」 「そういうのが可愛くて使ってたんだけどお」 「吐かせ屋のくせに、何も言ってない探偵さん殺すのはダメ」  機械の手口じゃない。“コレクティブ”の悪魔たちなら、たのしい拷問を人に任せたりはしないだろう。 「悪趣味だ。さっさと出て来いよ。ソウルモン」 「あら、なーにぃ──知ってたんだ」  男の体がどさりと落ちて、どこからか、帽子をかぶった布切れがあらわれる。その見た目は恐ろしいゴーストそのもので、その見た目にアンバランスなつやつやした黒い帽子が妙に滑稽だ。あれがある方が魔力は増すというのだから、世界とはままならない。 「悪魔の側のデジモンたちで、このあたりで幅を利かせている一派は君たちだけからな」 「それじゃあ、ウチらの恐さは知ってるんだ。探偵」 「随分あくどくやってるようだね。まさしくおばけみたいにあちこちに逃げるから、“カンパニー”のお膝元でも好き勝手やれるって話だ」 「そうそう、そーなのよぉ」 「で、これは誰の下請け仕事だ」  得意げに笑っていたソウルモンの声が凍り付く。 「下請け? そんなんないよお。完全ウチらのオリジナル仕事」  返事をする代わりに僕は肩をすくめた。 「嘘つけ。そこで死んでる僕の依頼人は仕事がらみで知った秘密のせいで身の危険を感じてたんだ。それで面会に指定したのがここなら、それは“カンパニー”絡みの案件に決まってる。そんな案件に君たちが首を突っ込めるもんか。そうだろう」 「はん、かわいくない探偵ね」  ソウルモンは肯定の代わりにそう言って、今までよりも一段、ふわりと浮かび上がった。 「でも、だから何さ。あんたはここで死ぬ」 「さっきは殺そうとした男を止めたじゃないか」 「あら、全部言わなきゃダメ? あんたは頭にウチの手を突っ込まれて、知ってること全部ゲロって、それから死ぬんだ」 「この件について、僕は何も知らない」 「この件じゃない。あんた、“天使殺し”の事件に随分深く食い込んでるそうじゃないか。それを聞きだして来いってお達しさ」  ぴりり、と、背中に電気が走るような気がした。 「そうか」  目を細めて、鞄に手を入れる。 「それなら、僕からも話を聞かないとな」 「あんたに何ができんのさ。銃を振り回したって、ウチには痛くもかゆくもないよ」 「そうだ、僕には何もできない」  僕は息をついて、それを取りだして、指に挟んだ。 「は、なにさ、それ」 「君には教えない。教えたくない」  それは一枚の白い、天使の羽。  あの夜、僕がむせび泣きながらかき集めた、つばめだったものの一枚。 「ごめん」  そう呟きながら僕はその羽を放る。それは宙で輝く塵になって、銃に吸い込まれていく。 「何を」 「避けろよ。避けなきゃ死ぬぞ」 「はん、ウチは、こうするだけでいいの」  その言葉と同時に、ソウルモンは体を半透明にする。 「こうなったウチはあんたたち人間の言うユーレイと同じ! 人の武器は全部すり抜けてくだけ!」  そうして、ソウルモンはこちらに向かって突進してくる。布の下から、おぞましい手がのぞく。 「そうか、避けないなら」  僕は引き金に指をかける。 ──そうやって、きみはまた、わたしを少し殺すんだね。  耳元で懐かしい声が響く。 「それは違うよ」  引き金を引く。銃口から放たれるのは、眩しい光の束、弾丸と言うより、矢に近いそれが、ソウルモンを貫いた。 「だって、君はもう死んでる」 ──あれ、そうだっけ。  愛しい笑い声と、ソウルモンの絶叫が、同時に路地に響いた。 「ひ、う、ぐ」 「暴れるのはよせよ。痛むだけだ」  僕は光の矢で壁に縫い留められたソウルモンに近寄った。 「あ、あんた、なにを……」 「ちょっと静かにしろ」  矢に触れ、それをぐりぐりと動かせば、ソウルモンは先ほどよりも大きく叫んだ。 「ぎゃあああああああああああああ!」 「わかったかい。静かにしてくれ」  無言という形で負けを認めたソウルモンに、僕は顔を近づける。 「この矢は《ホーリー・アロー》。そっちの神話に出てくる天使と同質の力が宿ってる、らしい。君にはこうかばつぐん、ってやつだ。一度刺さっただけで、光が体中に回って死ぬ」 「……」 「一瞬で殺すこともできたけど、今は出力を抑えて、殺さず君を拘束するだけに留めた。焼いた鉄のとげで体を貫かれたみたいなものだ。痛いだろう」  ソウルモンは震えながら歯をかちかちと鳴らしている。きっと想像を絶する痛みが走っているのだろう。 「いいか、君はどうせ死ぬ。これから僕が聞くことに素直に応えれば、この矢を抜いてやる。もし口答えや嘘を言えば、さらに押し込む。おばけも死ぬなら楽な方がいいってこと、僕に教えてくれ」 「……」 「それじゃあ、始めるよ。まずは──」 「──テメェのいうことなんか、きくかっての! 死ね!」  負け惜しみじゃない。そう思った時には、背後にいくつもの気配があらわれていた。しまった、と思うよりも早く、手は銃を取る。 「遅ェよ! バーカ! バケモンども! ウチはもうだめだから、こいつやっちまえ!」  振り返った僕の目に、無数のゴーストが、恐ろしい悪魔の手を構えているのが見えた。  一瞬だった。  僕の鼻先に死の手が触れるその刹那に、ゴーストたちは消えた。 「な……」 「──おい、なんだよそりゃ! バケモン共が……一瞬で?」  怒気を含んで発せられたソウルモンの言葉は、事態を呑み込むと同時にしぼんでいく。 「おい、探偵! ありゃ、テメエの仲間か?」 「……あいつ?」 「あの女のガキだ! いま、どんなイカサマか知らねえが、ウチの舎弟をひとまとめに殺しやがった! さっきのテメエと同じ手品かよ!?」 「女の……」  僕は、目の前に立つ“それ”に目を向けた。 「君には、あれが女の子に見えるのかい?」 「どっからどう見ても人間のガキだろうが!?」  ソウルモンの言葉に、僕は首を振った。 「違う、僕には、僕にはあれは──」  おとなの背丈二つ分もある、二足歩行の、獣の化け物。純白の中華服に身を包んだ、一匹の──。 「──うさぎだ。白兎に見える」  僕がそう呟くのと同時に、兎は、その膝を曲げ、次の瞬間、高く空に飛んだ。 ──さあ、9年越しの“白兎”だよ。ハルキ。ぼおっとしてちゃダメ。 「──待て!」  脳の裏側で聞こえたその声に背中を押されたように、僕は走り出す。 ──さあ、追って、白兎を。 「ブギーモン!」  ポケットから取り出したスマートフォンに叫べば、僕の運転手へと電話をかかり、気の抜けた声が聞こえる。 「へい、旦那、遅いっすね。依頼人とどっかにしけこむっていうなら、おれは──」 「いまからそっちに一体デジタル・モンスターが行く。追ってくれ」 「はあ? そういうのはしないって、さっきも」 ──さあ、急いで、追って、追って! 「種族はアンティラモン、僕は図鑑でしか見たことの無い種だけど、その時の写真と違って体中真っ白だ。ビルの高さに届く跳躍ができるようだから、上に注意を払え」 「白いアンティラモン? そんなの聞いたこと……なんだありゃ?」 ──追って! 追って! 追って! 「旦那、アンティラモンはいませんが。女の子が空飛んでます」 「っ! それなら、その子を追うんだ!」 「旦那、時間外勤務手当とか──」 「後で何でも聞く。だから、いまは!」 ──Follow the white Rabbit!!! オリジナルデジモンストーリー 「White Rabbit No.9」
White Rabbit No.9  塔‐Ⅰ/ 赤の錠剤 content media
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マダラマゼラン一号
2023年10月04日
In デジモン創作サロン
これまで 庭‐Ⅰ ”スーサイド・ファンクラブ”(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ting-i-susaidohuankurabu/edit) 庭‐Ⅱ ”サイファイ・カルト”(https://www.digimonsalon.com/top/dezimonchuang-zuo-saron/white-rabbit-no-9-ting-ii-saihuaikaruto)  がちゃり。  そっと閉めようとしたはずのドアは、思ったよりも大きな音を立てた。肩がびくりと跳ねる。  本当だったら心配することなんて無いはずなのだ。“天使の日”が起きてそろそろ一年、父さんが死んで9カ月。あの人は、僕がもっと大きな音を立てても、ぴくりともしなかった。いつだって僕は何も気にせず、何時かも気にせず、外に出て、帰ってきたはずだ。  けれど、旅支度を済ませて、部屋の外に出て、ふわりと香ってきたのは、柔らかなバターの匂いだった。 「春樹」  ずいぶん久しぶりに聞こえたその声に、僕は喉の奥に何か詰まって、息が出来なくなった。 「ね、ねえ、春樹」 「……まだ、喋れたんだ」  口を突いて出るのはそんな皮肉だった。そんな皮肉でさえ、声に出して後悔した。きっと何も言わずに外に出てしまうべきだったのだ。暗い廊下で、居間から出てきた母の顔は見えなかった。 「今日も出掛けるの? あの、ね、ちょっとがんばって料理してみたの、今日、クリスマスでしょう? だから……」 「昨日だったら」  僕はほとんど叫ぶようにして、母の言葉を遮った。彼女が一歩一歩近付いて、その顔がだんだんはっきりしていくる。 「昨日までだったら、よかったのに」 「春樹、ごめんなさい、私、ずっと」 「もういい、何も聞きたくないんだ」 「ねえ、どこに行くの」 「……」 「帰って、くるのよね?」 「母さんには関係ない」  母さんには関係ない。  ドアが閉まった。  母さんには関係がない。 「しっかり別れは済ませられたのか」 「あなたには関係が無いよ。アンドロモン」 「ン、その通りだ」  アンドロモンはただうなずいて、そして沈黙した。黒いハットに、しんしんと雪が降り積もっていた。  街は僕が想像していたよりもずっと、ずっと賑わっていた。なんといってもクリスマスなのだ。僕は頭の中で「世界の終わり」と「クリスマス」を交互に唱えた。何度やってみても、クリスマスの方が重要に感じられた。僕でさえそうなのだから、きっとみんなそうなのだろう。  僕とアンドロモンは、古いデパートの北口にある古い路地で、白い車に二人で並んで寄り掛かって、つばめを待っていた。車をどこで調達したのかという問いには「ン、私の良心が痛まないルートだ」という答えが返ってきた。アンドロモンの良心が僕のものよりの高潔なのは疑いようもないが、わざわざ口に出して言うには及ばない場所、ということなのだろう。    そのデパートは随分古い建物だった。  何度かの改築を経ており、東と西にある入口、それとアーケードに面した南口はそれなりに綺麗な見た目をしていたが、その虚飾は裏路地に通じる北口には及んでいなかった。無数の錆ついたダクトと、排気口があちこちにのぞいていて、まるで現代に置き忘れられた恐竜のようだった。むかしはこんな風には生き物は滅びなかったものさ、隕石で潔く、一度に滅びたんだと、ブリキの恐竜が言った。白亜紀生まれの老人は頭が固くて困る。僕は思った。  北口は通常は職員しか使わないような、ほとんど裏口で、薄汚れた自販機と灰皿、ペットボトルと缶でぱんぱんになったゴミ箱が置いてある。道をまっすぐ行くとパチンコ屋の裏口、さらに行くと風俗店の入り口があって、そこに用があると思しき人が時たま通る程度だった。世界の終わりの、それもクリスマスにも、そういう人はいるのだ。それは不気味なレプリカントと共に女の子をカルトから救出するのと比べて、どちらが非現実的だろうか、僕は考えてみたが、一向に答えは出なかった。 「つばめは大丈夫だろうか」 「ちゃんとあなたが言ったとおりにしましたよ。この間の終わりに、“先生”に見られるようなタイミングで僕とつばめで言い争いをした。ちゃんとつばめにひっぱたいてもらって、そして別れた。このデパートはつばめも教団の社会科見学で訪れたことがあるらしいし、僕と喧嘩をして、他に外で知っている場所に行こうとしたように見えるはずだ」 「ン、暴力までは勧めていない」 「僕もね。彼女、意外と芸達者なんです」  平手打ちをくらった時は僕も面食らったが、それは僕の頬でぺちん、と音を立てただけで何も痛くなかったし、その後「もう、知らない!」と言いながら僕にだけ見えるように満面の笑みを浮かべて去って行く姿があまりに可憐すぎて、頬の僅かな感触も何も気にならなかった。 「ン、いついかなる時も芸達者だと願おう。結局、彼女が怪しまれてしまっては私たちにはどうすることもできないからな」  そういってアンドロモンは左の手首を見る。そこには時計なんてついていないが、彼曰く、人間社会に適応するため、人と同じ仕草をコマンドとして登録している、らしい。今のは体内時計をを確かめるコマンドなのだろう。律儀なレプリカントだ。 「ン、少し遅いか」 「あなたの気が急いているだけですよ。らしくない」  そういってから、僕は無意識にスマートフォンを開き、時刻を確認している自分に気づいた。 「そういえば、聞いていなかった」 「どうした」  スマートフォンをしまい、少し薄暗くなり始めた空を眺めながら僕は冷え切った手と手を擦り合わせた。こんなことなら手袋をしてくればよかった。つばめは手袋やマフラーをしてきているだろうか。 「つばめはもう外に連れ出されて、自由時間にはいってるはずだ。それなのにどうして彼女との合流を遅めに指定したんです? 彼女がどれだけ上手に誤魔化せる、としても。怪しむ余裕を与えるのは危険です」  アンドロモンが作戦の決行時刻──つまり、つばめが“先生”の目を盗んで僕たちに合流する時刻に設定したのは16時だった。彼女のいつもの門限は17時、山の上の“選友会”のコロニーまで30分と少しかかると考えると、彼女が町にいられるぎりぎりの時間だ。 「つばめを芸達者、と呼んだのは君だぞ、ハルキ」 「冗談ですよ。彼女、どっちかというと分かりやすいタイプだ。そわそわして、百面相をしていないか気が気じゃないよ」 「彼女がそのように素直に内面をさらけ出す相手が、世界に自分一人かもしれないとは考えないのか?」  僕はため息を付いた。 「あなたは僕たちのキューピッドじゃないでしょう」 「その通り、ただのハネムーンのガイド役だ」 「それなら、その役をしっかり果たせばいい。彼女が挙動不審なことをして、お目付け役の”先生”に怪しまれるリスクをとる必要はなんですか」 「落ち着け」  少し強めの口調で僕が投げかけた問いに、アンドロモンはあいも変わらず平坦な口調で答える。けれどその表情はどことなく辛そうだった。別に罪の意識でも自分がこれから背負う責任の重みのためでもないだろう。彼は英国紳士風の帽子とコートとマフラーに身を包み、おまけにアンドロイドだったが、それでも、いや、機械の体だからこそ、この寒さはこたえるようだった。 「大丈夫ですか」 「ン、心配無用だ。ここで風邪を引いてみせたところで、先程の問いから開放してくれるわけでもないだろう」  少し自嘲の色を含んだ声でそう呟いて、アンドロモンは僕の方を見た。 「ハルキ、君の疑問はもっともだ。本来なら、一刻も早く、つばめを連れ去るべきところを、私はそうしていない。その理由は2つの悪いニュースにある」 「いいニュースはないんですか」 「残念だが、悪いニュース以外に、君たちに対し誠実である術がない」  実に彼らしい答えだった 「それなら、せめて上手に聞かせてください」 「それなら、比較的マシなニュースから」 彼は言った。彼の電子頭脳は、それが上手な語り方だとはじき出したのだ。これからは僕もそんなふうに、2つの悪いニュースを語ろうと思った。 「”コレクティブ”はやはり、戦力をこの街に回してきている。今日という日に、つばめを誰にも渡すつもりはないらしい」 「誰から聞いたんです。公安の刑事? あなたの機械仲間?」 「それよりは少し悪い」 「敵自身の口から?」 「いや、もう少しマシだ」 「なんなんです」 「観客だよ」 「観客?」僕は素っ頓狂な声を上げた。 「そういうのがいるんだ。手品師の格好をしてはいるが、自分では手品はしない。人の芸を見て笑っているだけのやつが」 「それで、僕たちを笑いに来て、そのついでにあなたに”コレクティブ”に関する情報をくれたと。チケット代は徴収しましたか?」 「ン、ユーモアは君の強い武器だ」 「自分で笑えてないんだから話になりませんよ」  僕は首を振った。このアンドロイドのジョークには時々ついていけなくなる。ともあれ、そういう世界に僕たちは足を踏み入れたのだ。観客がいると彼が言うのなら、きっといるのだろう。僕はそう思うことにした。 「その手品師とやらの情報は、どれくらい信用できるんです。それに彼が、”選民会”や”コレクティブ”に情報を流す可能性は?」 「どちらの可能性もあるな。だが私は、彼を信用することにした」 「どうして」 「言っただろう。彼は観客なんだ。観客は面白い見世物を望む。既に絶望的な挑戦を余儀なくされている我々に、さらに鞭打つような真似はしないはずだ」 僕としては匿名の害意をそこまで信用する気にはなれなかった。その手品師とやらはとびきりセンスのない悪役で、僕たちに希望を与えて、それが絶望に変わる瞬間を見たいのかもしれない。けれど、それを口に出すのはやめておいた。アンドロモンの顔を見れば、彼がその可能性を念頭に置いているのは分かったし、それに──。 「もし我々の計画が知られていたら、つばめは施設の外にも連れ出されないはずだ。ここに彼女は来ない。そもそもの計画が破綻して、我々は寒空のもとに離散することになる」 ──その通り、だから、考える意味のある可能性だけを考えようというわけだ。素晴らしい、惚れ惚れとするほど理知的だ。 「そうしたら、つばめはどうなるんですか」 「なに、私一人でもプランBを実行するさ」 「プランB?」 「第三次世界大戦だ」 「見苦しいよ、アンドロモン」 「見苦しいくらいがちょうどいいだろう。ハネムーンのガイドは引き立て役だ」 僕は緊張にこわばった喉の奥で、それでもくつくつと笑った。 「それで? 2つめの悪いニュースは? 今のよりひどいんでしょう。どんな地獄の釜の蓋が開くんです」  僕が精いっぱいの思いで吐き出した冗談に、アンドロモンは、冗談どころではない悲壮な顔しか返してはくれなかった。 「ン、君の言うとおりだ。ハルキ。本当にひどい話だ。なによりひどいのは、これから起こることに対して私がたてたプランでね」 「何が来るって言うんです。それに、あなたは何をするっているんです」 「せめて夏であれば、他の策もたてられたんだが。冬の日没は早い。この天気を考慮するなら、闇の到来はもっと早い」 「もったいぶるな、日没がなんなんですか」 「ン、それは──すまない、中断らしいな」  僕の問いにアンドロモンが渋々と言った雰囲気で答えようとしたその時、デパートの裏口の扉がきい、と開いた。 「おまたせ」  そんな簡潔な言葉と共にあらわれたつばめは、簡素ないつものシャツの上に、同じく生成色のコートを着ていた。頬を真っ赤に染め、同じく真っ赤になった手に白い息を吹きかけている。浮き足だった騒がしさと、きらきらとした白に染まった町並みの中で、彼女は相対的に落ち着いているように見えた。幻想よりも現実に、非日常よりも日常に近いところで彼女を認識したのは初めてで、僕はなんだか気恥ずかしいような、いてもたってもいられないような気分になった。 「つばめ」  僕は思わず彼女に何かを言おうとしたが、思いつく気の利いた言葉は冬の空気に凍り付いた喉につかえてしまい、結局ただ名前を呼んだ。  それはつばめも同様らしかった。僕の目の前にぱたぱた駆けてくると、いつも通りころころ表情を変えて頭を巡らせながら、僕とアンドロモンを交互に見た。 「ハルキ、それに、あなたが、あんどろさん?」 「アンドロモンだ」 「あんどろさんでいいよ」 「そ、そうなんだ」  彼女はアンドロモンの見た目に狼狽えたようだったが、悲鳴は上げなかった。アンドロモンのことは僕が話していたし、様々なデジタル・モンスターの姿は日々メディアで報じられていた。それにしたって立派な対応だ。 「え、あ、あの、わたし、つばめっていいます。よろしくお願いします。えっと、先生は表の入口の方の喫茶店にいて、自由にはさせてもらってるけど、あんまり時間たつと気づかれるかもしれなくて、えっと」 「つばめ」  あたふたとぐちゃぐちゃになったシナプスの接続を始めたつばめの肩に、僕は手を置く。 「逃げるんだ」  その言葉に、落ち着かなさげだったつばめも僕の目をまっすぐ見て、ゆっくりと呼吸を落ち着けた。 「逃げるんだね?」  僕はこくりと頷く。 「逃げるんだ」  そうだ。逃げるのだ。今までの全てを捨てて、彼女とどこかへ行く。どこか、違う空の下に行くのだ。 「……一応、2人に聞いておくが」  アンドロモンが帽子の雪を払って、僕たち二人に向き直った。 「ここから先は命懸けになる。私は君たちを守るために全力を尽くすと誓うが、守れる、という確証はどこにもない」 「随分弱気なんだね」 「先ほど君に言ったとおりだ。ハルキ。絶望的観測を語るより他に、君たちに誠実である手段がない」 「それはつまり、わたしが生きるのは、絶望的ってこと?」 「ン、ある意味では、そうだ」 「アンドロモン、そんな言い方……」 「ううん、いいの」  アンドロモンを睨む僕を制止して、つばめは緊張のために早くなった呼吸を抑えるように、胸元に手を当てて、数度深呼吸をした。彼女の小さな肩が大きく上下する。 「あの、わたし、ずっと考えてたの、ハルキが話した、わたしがこのままだと、死ぬって話。正直、ずっと、半信半疑だったけどさっき、先生はわたしをここに連れてきて『今日は何でも頼んでいいですよ』って言った『特別な日ですから』って」  彼女は胸に当てた手をぎゅっと強く握りこむ。 「なんとなくわかった、わたし、死ぬんだね」 「つばめ」 「正直なところね、あんまりイヤじゃなかった。それが、みんなや先生のためなら、最初に死ぬって言われてても、死ねたと思う。それに、世界はもう、一度終わったんでしょ。この半年、みんなずっとその話をしてた。終わることと、死ぬこと、そればっかり。だから、死ぬのは嫌だけど、今さら怖くない。私の命は、もう落っこちたの」  つばめの肩は震えていたが、それが恐怖のためだと思うほど、僕は彼女を知らないわけではなかった。大好きな女の子の勇気を認められないほど、僕は愚かではないらしかった。 「だから、あとはわたしの命がどこに落ちるってことだよね。わたしの家族や、先生や、信じてきた預言のためか、ハルキと一緒に逃げるためかってこと」 「……」 「だから、えっと、あんどろさん、少し待ってくれますか」 「少しなら」アンドロモンは簡潔に即答した。 「ありがとう」  アンドロモンに仰々しく頭を下げ、つばめはまた僕の方に向き直る。先ほどまでの気丈な表情はそのままで、彼女はいつもの、何か言葉をひねり出そうとする時の百面相を浮かべていた。 「あ、あの、えっと、ね、ハルキ?」 「何?」 「その、きょう、ここに来るまでずっと考えてたんだけど」 「うん」 「えーっと」 「うん」 「うー、ぐるぐるしちゃってる」 「ゆっくりでいい」 「ン、あまり時間は無いぞ」 「ゆっくりでいいから」  背後で口を挟んでくるアンドロモンを遮って、僕は彼女に言葉を促す。 「えっと、いってもらってない」 「え?」 「わたし、ハルキから言ってもらってない」 「それは……」  もう、とつぶやいて、つばめは困ったような顔を僕に向けた。 「ハルキは、なんでもない女の子と一緒に、世界の果てまで行くの?」  彼女がそう言い終わらないうちに僕は、彼女の腕をつかんで、ぐいと自分の胸に引き寄せた。倒れこんできたあたたかいそれを、両の腕でつつみ、ぐうと力を込める。 それはひどくへたくそな抱擁だった。する方もされる方も、母に抱かれた記憶などとうに忘れたかのように、変なところにばかり力がこもっていた。でも、とにかく抱擁だ。自分にそんなことができるなんて驚きだったけれど、ともかくできたのだ。こういうことをしないのが僕の信条だった気がしないでもなかったけれど、それはきっとすでに滅びた世界での話だったのだ。ここしばらく雪の日続きなのに、彼女の首元は太陽のにおいがした。 「好きだよ。つばめ」  つばめは脳天から針金を通されたように固まってしまっていて、それが僕の身体全体を通して伝わってきた。それでもやがて、彼女はおずおずと腕を僕の背中に回してくれた。彼女の体温は、いつもそうなのだけれど、僕よりも少し高かった。 「ン、そろそろ、いい、だろうか」  後ろで無粋なアンドロイドの声がした。まあでも、彼はこの状況で自分に出せる慎み深さの全てを身にまとい、心底申し訳なさそうな顔をしていたので、僕もさすがに責めることはできなかった。 「大丈夫です。つばめ」 「うん」  つばめは頬を真っ赤に上気させながら頷く。 「いける」  そう短くきっぱりと言って、つばめはその小さな手を僕の手に滑り込ませる。僕はそれを強く握り返した。手をつなぐっていうのは、こんな感じだったっけ。と思った。  アンドロモンは僕たちをもう一度交互に見つめ、深くうなずいた。 「なら、やるぞ、どうせ見られている。こちらから勝負の時間だということを知らせてやろう」 「見られている、だって?」  驚いた声をあげる僕の前で、アンドロモンはその腕を、丁度つばめの頭上に向けた。  と、その腕からライムグリーンの針のような光線が放たれる。ぼくとつばめが思わず目でその光を追うと、ぷすん、という間抜けな音と共に、レーザー針は“それ”に突き刺さった。 「──コウモリ?」 「ン、そう見えるが、違う」  そのアンドロモンの言葉の通りだった。それは、コウモリと呼ぶには、一個の原形質と呼ぶには、あまりにも“黒かった”。  その黒は、夜闇の黒は、僕たちの頭上で、だんだんと膨らんでいった、やがて、路地いっぱいにその夜闇が広がって、僕たちがすっぽりと影に覆われたころ。  それは、咆哮をあげた。闇に、二対の真っ赤な切れ込みが走る。それが目だった。  僕も、つばめも、悲鳴さえ上げられず、その場に立ち尽くすだけだった。きっとこれが、世界の終わりなのだと思った。 「“スパイラル・ソード”」  刹那、グリーンの光が、再び閃いた。  そして咆哮、しかし今度は、僕たちを恐怖させるためのものではない。それは、痛みのためか、熱さのためか。  いや、僕たちの真上で、それはきっと、痛みも熱も感じることなく、一瞬で両断されたのだ。  どさり、僕たちの前にアンドロモンは軽やかに着地して、それで僕たちははじめて彼が、その腕に光の刃を宿して地面を蹴ったのだと分かった。その動きがあまり速いものだから、彼の帽子とマフラーは、未だにふわりと宙を舞ったままだった。 「せかいのおわり、死んじゃった……」  ぽつりとつばめが呟いた。  アンドロモンは落下してくるマフラーと帽子をで受け止め、右手でつばめにマフラーをまき、そして、左手で僕に帽子をかぶせた。 「ン、行くぞ。恋人たち。クリスマスの冒険だ。心が躍るな」  僕とつばめ、交際一日目の午後のことだった。   「この車、あんどろさんの?」 「ン、違う」 「じゃあどこから……」 「僕もさっきから聞いてるんだけど、教えてくれないんだ」 「ン、私の良心は痛んでいない」 「つばめはあなたの良心のことまで知らないよ。アンドロモン」 「それもそうだな。なら、ただノーコメントと言うのが誠実なのか。それよりつばめ、身をかがめていたまえ」 「う、うん」 「無理するなよ。後部座席に隠れてろなんて言ったって、この運転じゃ無理だ。アンドロイドの、しかも警察官が運転が下手ってどういうことだよ」 「ン、完璧な存在などいない。法定速度を大幅に超過しながら、ワクチン種としての良心プログラムと戦っているのだ」  わけの分からないことを言うアンドロイドへの返事の代わりに、僕は舌打ちをした。アンドロモンの運転は土曜日の朝のむくどりの合唱のようだった。がさつで、お粗末で、あらゆる気分を台無しにしてくる災害だ。それが雪の詰まった路面と織り成す和音は悲劇としか形容の使用がなく。身を隠すために後部座席に上体を横たえたつばめは、車体と一緒にぐわぐわと上下に跳ねて、この狂気のオーケストラのパーカッションを務める羽目になっていた。 「ハルキ、後ろはどうなっている?」  その言葉に僕は窓を開け、車の後ろに目を向ける。危険運転にクラクションを鳴らす車も多かったが、それ以上に僕の目を引いたのは、その上空にあるものだ。  それは巨大な蚊柱に見えた。けれど、蚊柱にしてはいやに黒く、それでいて、薄暗い空のもとでもはっきりと見える。 「コウモリの群れだ」 「それって、全部、さっきの……?」つばめがさっと顔を青ざめさせる。 「ン、“コレクティブ”も衆目の中で下手なことはできないだろうと市街地を選択したが、ああ追ってくるとは予想外だった」 「早速トラブル? 冗談はよしてほしいな」 「ン、このくらいはトラブルに入らない。想定の範囲内だ」 「この運転も?」  つばめが後ろから心底つらそうな声を投げかける。 「がんばってくれ、つばめ、殺される前に死ぬなよ」 「む、むりかも」 「そう言うな。じき駅だ」 「駅?」 僕は弾かれたように身を起す。その瞬間、アンドロモンがハンドルを切って、僕は頭を窓にぶつける羽目になった。 「大丈夫か」 「大丈夫か、じゃない。駅ってどういうことです。このまま逃げるんじゃ」 「そうは言っていない」 「今から駅を降りて、切符を買って、電車を待って、乗り込むんですか? 追っ手が許してくれるとは思えません」 「人数分のパスを購入済みだ。切符を買わずとも改札は通り抜けられる」 「そういう問題じゃない」 「無茶なのは承知の上だが、それ以外にやりようはないんだ。このまま車で逃げ続けられるわけでもないしな」 「今は逃げられてる」 「いつまでもノンストップで走れるわけでもない。それに、この状況を持たせられるのも日が暮れるまでだ」 「また日没、ですか? 日が暮れたら一体なんだっていうんです」 「吸血鬼が来るんだ」 「何を……」 「ン、言葉通りだ」  車内に沈黙が下りる。何とか起き上がったつばめが、重い空気を打ち破るために声をあげる。 「ねえ、これが、ハルキが言ってた、外の世──」 「違う、こういうのを言ったんじゃない」 「あれ、そうなの?」  きょとんとしたかわいらしい声にため息を返し、僕は隣のアンドロモンに目を向ける。 「聞いてないですよ、そんなの。ドラゴンに吸血鬼、なんて」 「言ったら面白くないだろう」 「それ、本気で言ってないですよね」 「ン、当然冗談だ」  僕が特大の舌打ちをすると、カーブミラーの中のつばめが驚いたように眉を顰める。 「どうしたの、ハルキ、怒った?」 「何でもないよ。冒険が楽しみで仕方がないんだ」 「ン、そうだ、心が躍るな」  僕はもう一度舌打ちをした。もう、とつばめが言った。  夕方の駅前、人はまばらで、あたりには闇が落ちようとしている。  そんな駅前のタクシー乗り場に、一台の乗用車が飛び込んできた。駅舎に突っ込むのではないかという勢いで突き刺さった。居並ぶタクシーがクラクションを鳴らし、乗り場に並んでいた人々はぽかんとして見つめる中、車から三人の影がとびだした。運転席から出てきた長身の男は、周囲の目などどうでもいいとでも言いたげに上空を見上げる。助手席の少年が、後部座席の少女の手を取って、2人は駅舎の中に飛び込んだ。 それを見届けると、彼は上空に目を向ける、そこには黒い霧──無数のコウモリの群れがあった。男が腕を掲げると、そこから光が照射され、焼けるような煙と共にコウモリは地面に落ちていく。。  周囲の人々はクラクションを鳴らしたり、呆気にとられて目の前の状況にスマートフォンのカメラを向けたり、通報でもするのか電話を耳に当てた。 しかし、そうしているうち、スマートフォンを構えた一人がぱたりと倒れた。それからクラクションが鳴らなくなり、ベンチに座っていたものも身を倒す。波が引くように、彼らはみなばたばたと倒れていく。  倒れる人々を見た長身の男は首を振り、なおもコウモリを打ち落としながら、ゆっくりと駅舎に向けて後退を始めた。そうして、時計を確認するように左腕を見て、やがてコウモリたちに見切りをつけたように背を向けて、駅舎に歩き出した。  それから少しして、そこに一台の車が着く。しかし、それは自動車ではなく、黒い何かに引かれた、巨大な棺だった。  点滅、暗転、三度の暗闇。駅前のきらびやかな街灯がかい消える。  ごとり、と、何かが開く音がした。 「こっちだ、つばめ!」 「う、うん!」  僕はつばめの手を引いて、人でごった返した駅の構内を駆け抜けていく、気は誰よりも急いていたが、それに反して思うほど速くは走れなかった。人々の足から溶け落ちた雪で構内の床はうっかり足を滑らせてしまいそうなほどぬれていたし、何より僕の手の先で、つばめが現れる一つ一つの物事に対して目を輝かせていたからだ。 「すごい、こんなに人がたくさんで、川の流れみたい」 「それなら上手に泳ぐんだ、つばめ」 「ご、ごめん。わかった!」  僕は彼女の向こうに目を向ける。あのコウモリたちも、後から追いつくと言ったアンドロモンも、どちらも見えなかった。  おぼつかない四本の足で、僕たちは改札にさしかかる。ここばかりは周囲の流れを無視するわけにもいかず、僕はゆっくりとパスを改札にかざした。次いでつばめの方を振り返れば、彼女はおっかなびっくり僕のまねをする。耳鳴りがして、周囲の景色が全てゆっくりに流れていくように思えた。何も緊張することはない。何も難しいことはないのだが、彼女が何か手順と違うことをしても、準備の段階でアンドロモンがなにか手違いをしていても、きっと改札は止まって僕たちは終わってしまうのだ。  軽い電子音がして、改札機が彼女のパスを認証し、僕は彼女をこちらに引っ張った。 「今ので通って良いの?」 「そうだよ」 「なんか、あっさり」 「コウモリの手続きはもっとあっさりだ。急いで」 「う、うん」  僕とつばめはアンドロモンと示し合わせたとおりのホームへ向かって走る。時計を見た。当然計画の電車に乗り込んでゆっくりするつもりはない。アンドロモンの計算は完璧で、すぐに電車が発車するように計画は組み立てられていた。 「あんどろさん、大丈夫かな」 「ぎりぎりまで引き付けてくれてるんだ。そういう手はずだ」 「でも」 「さっきも見ただろ、あのドラゴンを簡単に倒してた」 「そ、そうだね」  口ではそう言ったが、僕も内心では焦っていた。アンドロモンは強い。僕が思っていたよりもずっとずっと強い。でも、今度は、そのアンドロモンが最強と称した相手なのだ。  ホームへの連絡通路にあいた小さな窓から外の様子を見る。もうかなり薄暗い。これでまだ夜ではないとは、きっとそのヴァンでモンというのは相当な几帳面か、かなりの怠け者なんだろう。  エスカレーターを駆け上がり、目当ての車両に飛び込む。扉が閉まると、つばめは体から力が抜けたように僕の腕の中に倒れ込んできた。先ほどと同じで人に抱きしめられるのに慣れていない、全体重と心と尊厳の全てを委ねてくるような身の任せ方で、熱い体温があまりにも無防備に僕に伝わってくる。当然、ただのハグと言うにはあまりにも不審な姿勢になり、側を通った乗客は僕に白い目を向けた。 「つ、つばめ!」 「ごめん、でも大変で。これで大丈夫なの?」 「どうだろう」  僕たちがこうして車両に逃げ込んだくらいで、先ほどのドラゴン、そしてアンドロモンの言っていた吸血鬼の追跡を振り切れるとは思えなかった。 「でも、これで計画通りだ」 「そっか」 「大丈夫?」 「うん。でも、あっつい。心臓すごくはやくなってる」 「あれだけ走ったんだし。当然だ。コート持つよ」 「ありがとう」  そう言って彼女はコートを脱いで、そのままシャツの首元のボタンを外した。彼女がそうするのを見るのは初めてのことだったから、僕は驚いて声を上げた。 「それ、いいの?」 「ん?」 「いや、いつもボタン閉めてたから」  僕の言葉に、つばめは、ああ、と得心した表情を浮かべた。 「あんまり肌を見せちゃいけないって決まりでね、人前ではずっと閉めてなきゃいけなかったんだけど、もう関係ないし」 「そ、そう」 「だから、はい、もう一回」  そう言ってつばめはまた腕を広げて、僕に抱きついた。 「あ、おい!」 「ふふふー」  声では元気そうにしているが、体はまだ震えている。不安なのだ。僕はゆっくりと彼女のことを抱きしめ返して、車両の外に注意を向けた。ホームでは発車を告げる音楽が流れているが、追手の現れる気配はなかった。  ふと、僕は彼女のあらわになった首筋に目を向けて、眉をひそめた。 「ねえ、つばめ」 「ん?」 「首のそれ、なに?」 「え?」  そういって彼女が手を回す、そのうなじに、ほそくかすかな緑色の線で、それは刻まれていた。 「天使の羽の、タトゥー、なのかな」 「羽? そんなのあるの?」 「知らなかった? 誰かに言われたりは?」 「うん。お風呂もみんなと別々だったし。羽っておっきいの? 広げてる感じ?」 「いや、一枚だけだよ。よくある羽だ」 「一枚だけ」  その言葉に、つばめは首を傾げた。 「ねえ、ハルキ」 「うん」 「一枚だけなら、どうしてそれが、“天使の羽“だと思ったの?」  注意を呼び掛ける扉が閉まる寸前に、アンドロモンはその電車に飛び込んだ。飛び込みとしては手遅れで、ほとんど扉に足を挟まれていたが、鋼鉄の身体には少しの痛みも走らなかった。  ホームから怒声と笛の音が聞こえる。乗客たちも、ものすごい足音と共に駆け込み乗車をしてきた不審な長身の男を呆気にとられて見つめていた。 「ン、失礼した。急いでいたもので」  車内全体に聞こえる声で彼は言って、律儀に一礼をしたが、周囲に用心深く注意を払っていたままだったので、彼にしてはおざなりなお辞儀だった。  やがて車内アナウンスが響き、電車がゆっくりと動き出す。追手を振り切ったはずにもかかわらず、アンドロモンに安心した様子は少しも見えない。むしろ先ほど以上に落ち着かなさげに周囲にその眼のレンズを向けて──何より妙なのは、彼の眼は、染野春樹も才原つばめも探していないことだった。 「どうしたんだ。レプリカント、何を恐れている?」  どこからか聞こえたその声に彼ははっとしたように身体を固くする。構えを取り、その腕からはライムグリーンの光の刃が飛び出す。  その姿に驚きの声をあげる乗客が一人くらいいてもいいはずだったが、何も聞こえなかった。  来たれ。  ふいに声が聞こえる。アンドロモンは今度は慌ただしく周囲を見回したりはしなかった。その声は人間のものだ。乗客たちのものだ。彼らは霧のかかったように虚ろな目で、それをひたすらに呟いているのだ。  来たれ、来たれ、来たれ。  刹那、彼らの眼に浮かんだぼんやりとした霧が、現実のものとしてふきだした。人々が皆、その眼と耳と鼻から吐き出される白くどろりとした霧が、車内を満たしていく。それでも口だけはなおも渇望の言葉を唱え続けていた。 来たれ! 来たれ! 来たれ! 「もういい」アンドロモンは刃を構え、淡々と言った。「さっさと出てこい」 「もういい、なんてことがあるものか。形式、儀式というのは重要だ」 「ここは闇貴族の館じゃない。こんなことに何の意味がある。ノスフェラトゥ」 「悪い癖だよ。レプリカント」  霧の向こうから、靴音が響く。薄靄のかかった人型の輪郭が浮かぶ。 「君たち機械の、昔からの悪い癖だ。意味なんてものを問うのは」  やがてそこに姿を現したのは、夜闇の色の貴族衣装に身を包み、血で染め抜いたように紅い仮面で蒼白な顔を隠した、長身の麗人だった。 「──意味なんて。そんなもの、最初からないのだからね」 「ン、つまりただの雰囲気づくりか。私が怯えるわけもなし、お前の言う通り無意味だな」 「そう言うな! 不感症の機械人形め! “ウィルス・バスターズ”の尖兵として、私のかわいい不死者たちを一騎で平らげた時から何も変わらないな、君は」 「殺せてはいないだろう」 「その通りだ。なんといっても、不死なのが取り柄の軍団だからね。それ以外には愛嬌くらいしかないのだから、困ったものだよ」  気安くも聞こえるやり取りをしながらも、アンドロモンは右手の刃をしまうことはない。不死者王、夜を歩く者、始まりの獣、“闇貴族の館”に据えられた空の棺の主たるヴァンデモン。間違いなく、今人間界に降りてきているデジタル・モンスターの中でも最強格だ。どれだけ用心をしても足りず、結果としてどんな用心も無意味な相手だ。  しかし、目の前に立つ“想定通りの最悪”を前に、アンドロモンは内心で舌打ちをした。或いは、染野春樹ならきっと舌打ちをしたくなるような気分だと、電子頭脳で思考した。 「どうした。前の小競り合いからずいぶん経つ。久しぶりの再会に涙を流してくれてもいいんだ。アンドロイドが泣くというシチュエーションは陳腐だが、劇的だからな」  アンドロモンは内心にとどめていた舌打ちを実際にやってみた。初めてだったがそこそこいい音が鳴る。次があれば、もっと内心のいら立ちを伝えられるようにハルキにレクチャーしてもらおう。 「おお、機械には珍しい形での感情表現だ。涙には及ばないが、感動的だな」 「トラファマドールといい、どうしてお前たち“コレクティブ”はそう人の神経をさかなでするのがうまいんだ」 「トラファマドール? ああ、メフィストがまた改名したんだったな。悪魔のくせに、名を軽んじる愚か者め。奴はとうに“コレクティブ”とは縁が切れている。一緒にするな」 「ン、お前だってそうだろう。神代に天使を滅ぼした獣だか知らないが、今では組織の運営からは引き離された“コレクティブ”の一分派の首魁に過ぎない。北国の風は死体にはさぞ冷えるだろう。悪魔どもの使い走り、ご苦労だな」 「老人に向けて昔のことを知ったように話すのは愚かというものだ。ともあれ、使い走りと言われては、その通りとしか返せないが。しかも、私は無能な使い走りらしい」  そう呟いてヴァンデモンは愉快そうに窓の外に目を向ける。夜闇の中を走る電車は既にいくつかの駅を通過していた。 「あの少女をどこにやった?」 「ここ以外のどこかだ」 「別の車両にでも乗ったか。私が君の機械油のにおいを追ってくると分かっていて、あえて自分と彼女を引き離したな?」  アンドロモンは無言の肯定を返す。 「ン、お前が来ることはわかっていた。厄介な相手だ。夜が来る前に逃げきれればなんということはないが、つばめを連れ去ることができるチャンスは夜の間近、彼女がそばにいる時にお前に見つかっては守り切れない」 「だから、君は日が落ちる寸前に行動した」 「そうだ。お前の怠けぶりは有名だからな。日が落ちなくとも十分に強いが、完全に夜が来るまでは仕事は手下にさせるだろうと思った。まもなく夜が訪れる前の追跡程度の仕事なら、特に」 「デビドラモンたちなど君には物の数ではない。結果として君は彼女を安全に送りきったというわけだ」 「ン、教団の追手が駅で張っている可能性は十分にあったが、それもお前が眠らせてくれた。礼を言うよ」  淡々とお前を利用したと言ってのけるアンドロモンに、ヴァンデモンは腹を立てるでもなく笑う。 「それで? 今は夜だ。たとえ何に乗って去ったとしても、わたしは彼女を追えるぞ。駅を発った電車は何本だ? それとも駅舎に隠れているだろうか。市内では教団の人間が血眼で捜索に当たっているし、小細工を弄したところで無駄なことだ」 「ン、問題ない。コウモリどもに割くリソースを、お前は今から戦いに使うことになる」  戦闘の構えを取り続けながらアンドロモンが放った台詞に、ヴァンデモンは三日月のような笑みを浮かべる。 「私と闘おうというのか。勝敗は知れていよう」 「するのは時間稼ぎだ」 「少しの時間も稼げやしないさ」 「そうか、ならこれならどうだ?」  その言葉とともに、車内の空気がふっと変わった。車体がスピードを上げ、同時にどこからか無数の気配がヴァンデモンを取り囲む。 「……誰を呼んだ」 「シールズドラモンの分隊だ」 「 “カンパニー”に協力を要請したか。肩書上の所属と言うだけで、君の魂は“バスターズ”にあると思っていたが」 「その通りだ。しかし、闇貴族を相手にするわけだからな。使える戦力は使わなければ」 「おまけにこの電車はトレイルモンの偽装か? してやられたものだ。田舎町の可憐な少女一匹に、いささか全力を尽くし過ぎではないかね」 「ノー、だ。理由は二つ。第一に、最初にお前というたった一人の軍団を寄こしたのは“コレクティブ”だ。第二に、つばめには死力を尽くす価値がある」 「それは、全ての人間がそうであるのと同じように?」 「ン、そうだ。それに、私以外にも彼女の自由を願う人間がいる」  その言葉に、ヴァンデモンはぱちぱちと気のない拍手をする。 「王子様がいる、というわけだ。君は損な騎士の役割を買って出たと?」 「世界にひとりだけの役回りだ。損とは思わないさ。」  ヴァンデモンは肩をすくめ、値踏みをするように問い続ける 「あの機械どもが、君のプランにただ賛同したとも思えない、“カンパニー”は半端は許さない。“コレクティブ”の手に渡らなければそれでいい、なんて甘いことがあるものか。──君に下った指令はそうじゃないだろう」  アンドロモンは息をついて、頷いた 「『確保してカンパニーに連れ帰るか、それが叶わないなら殺せ』それが私の本来の仕事だ」 「ナノモン女史の考えそうなことだな。それで、君は、サイハラツバメがなぜ重要なのか、その理由も知らずに彼女を二大勢力から逃がそうとした。ここで運よく私から逃れても、”カンパニー” から殺されるな」 「分からないぞ。希望は美徳だ。目の前に不死者の王がいるときは特に」  アンドロモンの言葉に、その場に沈黙が下りる。ユーモアをはき違えたか、と彼が訂正を出そうとしたときになって、ヴァンデモンがその口から、く、と音を立てた。 「く、ははははははは!」  おかしくてたまらないといったふうに、顔に手を当てて背中を丸めながら彼は笑う。 「前に会った時よりも語るようになったじゃないか。レプリカント。しかし、こちらの世界でも変わらずの正義感だ。敬服するよ」 「お前の敬服に用はない」 「いやはや、けれどわかるよ。実際、私もサイハラツバメの確保には反対だった。進化の光、など、くだらない。完全体はそのままでパーフェクトだから完全体と呼ばれるんだ。“究極”の力など、聞こえはいいが理性を失った獣そのものだ。経験者が言うのだから間違いない」  ぴくり、とアンドロモンが動いた。 「進化の光、だと? お前、つばめが何か知っているのか」 「知らないのは貴様だけだよ。哀れなレプリカント。 “カンパニー”も彼女が邪魔なはずだ。これから人間を資源に、進化へつながるかもしれない不完全な乱数器で一儲けしようというところなのに、」 「それはつまり──」  ヴァンデモンは笑い声をおさめる。けれど笑顔はそのままで、さらに唇を引き上げた。。 「その先が知りたければ、私を倒してみろ。ちょうどいい、貴様と考えが一致しているものだから、拳のやり場に困っていたんだ」 「二大勢力の、望まない仕事をさせられている下請け同士だ。それが分かったのなら、戦う理由がどこにある」 「おいおい、アンドロモン。私は神代から生きる不死の獣だぞ」  軽い調子のその言葉、けれど、アンドロモンは周囲の温度が数度下がったような感覚に襲われた。周囲のシールズドラモンの気配も騒がしく動く。彼らも皆、戦いの時が来たと悟ったのだ。 「戦いの中、仲良くなれそうな天使も、“バスターズ”も多くいたさ。ひどく気に入ったものもいた」 「殺したか」 「ああ、殺して、丁寧に埋葬してやった。そうしてから、墓を暴いて、私の部下にしてやった。構えろ、レプリカント。一瞬で終わるぞ。墓に刻む言葉を急いで考えるといい」  その言葉と同時に、ヴァンデモンは両手を前に突き出し、真紅のマントを広げる。  闇が溢れた。 「この新幹線って、どこまでいくの?」 「栃木だよ。つばめ。昔の将軍を祀った神社とか、人が何人も飛び込んだ滝がある。そこでアンドロモンと落ち合うことになってる」  僕は隣に座るつばめにそう返し、彼から渡された紙に書かれたホテルの住所に目を落とす。いきなり東京にいっては駅前で捕まる可能性もあるだろうと、彼が手配したとりあえずの隠れ家だった。 「ふうん。トチギ。ハルキは行ったことあるの?」 「ない」 「ないんだ。ハルキは何でも、見たことあるみたいに喋るよね。わたしと同じで何も知らないくせに」 「君よりはものを知ってる」 「そう?」 「現に今、教えてるのは僕の方だ」 「むむ」  つばめは口をへの字に曲げて、それから、心配そうに頭を僕の方にたおしてくる。 「あんどろさん、大丈夫かな」 「大丈夫でいてもらわないと困る」 「わたしのために、すごい危ないことをしてる。今日初めましてだったのに」 「それが彼なんだ。たぶんね」 「なんで、わたしなんだろ」  それは僕も気になるところだった。これから世界を牛耳ろうという怪物たちが、わざわざ北国の地方都市までやってきて、そこに住むたった一人の少女のために、謀略と大怪獣のスペクタクルをしているのだ。つばめ当人がどう感じているにしろ、ひどい負担なのは間違いない。 「気にしたってしょうがないよ」  僕に言えるのは、結局それくらいのことだった。 「うん……」  そうして、つばめは窓の外に目を向ける。代わり映えしない寒々とした景色。田畑、中古車ディーラー、田畑、田畑、ラブホテル、田畑、田畑、田畑、そしてまた中古車ディーラー。 彼女はそんな景色を見ながら、沈みがちだった顔をころころと輝かせた。僕にはなんて事のない景色のすべてが珍しいのだ。 「ほんとうにずっと、教団の施設にいたんだ」  僕は、ぽつりと問いかけた。 「うん、社会科見学とか、あとは小さい頃、ひどい腫れ物ができた時は、街の病院に連れて行ってもらったらしいけど」  僕はアンドロモンが見せてくれつばめの経歴書を思い出す。皮膚科への通院の話がたしかにあった。 「それ以外はずうっと、あの場所」 「窮屈には思わなかった?」 「全然、楽しかったよ。出たがってる子もいたし、何となく、わたしたち、この庭に閉じ込められてるんだなあ、みたいなのはあったけど」 「庭?」 僕は首を傾げた。 「あ、うん。家の前にちょっとした庭があってね。夕方までなら、そこで遊べたんだ。まわりに柵があって、外の畑や牧場にも、子どもだけじゃ外に出ちゃいけなかったの」  彼女の声のトーンが少し落ち、僕は思わず後部座席を振り返った。彼女は窓の外の夕闇を見ながら、何も見ていないようにも見えた。 「広くって、先生の作ってくれたブランコやベンチがあって、そこで本を読んだり、春になるとスイートピーが咲いてね、すっごく綺麗だった」  僕はその光景を思い浮かべてみた。牧歌的な光景の中で、閉じ込められた、選ばれた子どもたち。つばめたちはそこで太陽を浴び、スイートピーの香りをかぎ、ベンチに寄り掛かって、アーサー・C・クラークを読んでいたのだ。そこでは沢山の子どもたちが、まだ、サイエンスフィクションとスイートピーと一緒に閉じ込められているのだ。僕はそこから、太陽のような一人の少女を連れ去ったのだ。 「その庭は好きだった?」 「うん、大好きだった」 「それなら、出ていきたいと思ったのはどうして」 「ハルキが『どこまでも一緒に行こう』って言ってくれたから」  つばめの不意打ちに、僕の頬は紅潮する。 「あれはほとんど誘導尋問だったじゃないか」 「なに、ハルキ、本気じゃないであんなこと言ったの?」 「い、いや、その、本気、だけど」 「それならよし」  くすくすと笑うつばめに僕は深く息をついた。これでは逃避行と言うより、ただの旅行だ。 「そういえば、例のウサギ人形は渡せたの?」  夜につばめの部屋に来るという少女にまつわる不可思議な話と、その子のために彼女が買っていた小さな白兎のマスコットを思い出して僕は言った。 「あー、それなんだけどね」  つばめはふたたび顔を曇らせて、ポケットをごそごそと漁り、件のマスコットを取りだした。 「あれから一週間、あの子来てくれなかったの。結局渡せなかった」 「そう」 「ううむ、どうしたのかな。ちょっと心配」 「きっと忙しかったんだよ」  さっきから気のない返事しかできない自分に嫌気がさすが、僕だって緊張しているのだ。あの化け物たちが今にも新幹線ごと引き倒しはしないか、不安で仕方ないのだ。  と、つばめが不意に手を伸ばし、僕の頭の上に置いた。 「な、なに」 「ん? よしよし、えらいぞって」 「……僕は子どもじゃないよ」 「別に子どもだと思って褒めてないよ。ハルキだと思って褒めてるの」  よしよし、よしよし、とつばめに撫でられていると、恥ずかしい話だが、泣きたくなるほどにしあわせな気分になる。僕は恋人を連れて、誰も知らない町に行くのだ、という、忘れていた高揚感が戻ってくるのも感じられた。 「ありがとう」 「ふふふ。あ、ハルキ」 「何?」 「トイレ行きたい」 「ついてくよ」  僕は立ち上がって、つばめに手を差し出す。彼女もその手を取って立ち上がり、大きく一つ伸びをして、ちょっと体固くなっちゃった、と、笑った。 「ハルキ、いる?」 「いるったら」  新幹線の車両と車両の間、乗降口や自動販売機のあるスペースで、僕はつばめの入っているトイレのドアににもたれてスマートフォンを触り、熱い缶のココアを飲んでいた。張りつめていた緊張がほどけたのか、彼女のトイレは長く、時折くぐもった声で僕に話しかけてくる。折しも新幹線は数分後にどこかの駅にとまるようで、荷物を抱えた人が乗降口に集まってきている。つばめがそれに気づかず僕に話しかけてくるものだから、僕は先ほどから顔を赤くして周囲に頭を下げていた。  と、不意にスマートフォンをいじる僕の手元に影がかかった。なんだろう、と顔をあげる。 「奇遇ですね、染野くんさん、こんなところで会うとは」  小さな黒メガネをかけたシュワルツェネッガー並の大男が、表情一つ変えずにそう言った。 「どうしたの、ハル──」  背中のドアにこぶしを叩きつけて、僕はつばめの声を遮る。 「つ、つばめさんの、先生でしたっけ」  そう、少し大きな声で言えば、トイレの中で大きく息を吸い込む音が聞こえた。 「はい、以前に一度会いましたね」 「え、ええ」  口がからからに乾いている。僕たちと彼のスタート地点は同じだった。僕らがつばめを連れ去ったことに彼が気づくまで、多少は時間があったはずだ。僕たちは駅まで車をぶっ飛ばし、わき目もふらず新幹線に乗り込んだのだ。彼がここに居るのは、どう考えてもおかしいことだった。 「ところで、染野くんさん」 「そ、染野だけで、いいです」 「ふむ、では、染野」  そういう彼の受け答えはどこまでも非人間的で、息遣いが聞こえてくるのが妙に感じるほどだった。 「つばめを知りませんか。はぐれてしまったのです」 「は、はぐれたって、どこで」 「町です。ライブハウスから少し離れたデパートで」 「そ、それなら」僕は必死に言葉を紡ぐ。 「ここに居るはずはないです。ここはもうあの町から100キロは離れてる。近くを探さなかったんですか」 「そうでしたか。ありがとう」  まるでもとより答えを聞くつもりはないとでも言いたげな反応だった。こっちだってそれは御同様だ。どうやってこの新幹線に乗り込んだのかは全く分からないが、ここに彼がいるからには、僕がつばめを連れ去ったと知っているに決まっているのだ。 「ところで、染野」  その手が僕の肩に置かれた。掌だけで僕の顔をすっぽりとつつめそうだ。彼の手で口と鼻をふさがれて窒息する様を思い描いてみたが、その前に僕の顔の皮が剥がされそうだった。 「なんでしょう」 「そこはトイレでしょう。寄り掛かっていては迷惑だ。マナーに反しますよ」  そう言って先生は僕の後ろのドアを指さした。 「す、すいません、順番を待っていたもので」 「それならなおさらです。中の人が出られないではないですか」 「知人なんです」 「ほう、染野の、知人」  彼はのそりと腰を落とし、顔を僕に寄せた。 「それは是非挨拶をしなくては。私もここで待っていていいですか」 「あなたには関係がない。旅行の途中で、次の駅で急いで降りるんだ。迷惑なんです」  急いで降りるんだ、を大きな声で言ったのはつばめに聞かせるためで、迷惑なんです、を少し大きな声で言ったのは、乗降口に集まりだした他の乗客のためだった。彼らは一斉にこちらを向いて、その異様さに気づいたらしい。 「そういわずに」 「いいえ、やめてください」  僕がいくらかヒステリックな響きを添えてそう言えば、一人の男性が、こちらにやってきて、声をかけた。 「あの、何をしてるんですか」  先生が大柄な体をターンさせてそちらを向いたのと、新幹線がゆっくりと停車したのと、ほぼ同時だった。 右手に持っていた熱いココアを、思い切り先生の顔にぶちまける。巨体はほとんどどうじた様子もなかったが、それでも僕の肩に添えられた手の力は緩んだ。 「行こう!」  それと同時に僕の背後のドアが開き、つばめが飛び出す。 「待ちなさい」  恐るべき俊敏さで動いた筋肉の塊を、周囲の乗客が止めてくれる。先生に振り払われた大人の男性が、驚くほど簡単に宙に舞い、壁にたたきつけられるのが見えた。でも驚いている暇はない。つばめの手を取って、僕はホームに飛び出す。 「助けてください! 男に襲われた!」  そう何度も叫びながら、僕たちはエスカレーターを駆け上り、人ごみを掻き分けて、背後に怒号を浴びながら、改札を思いきり駆け抜けた。 「ふん、他愛もないな」  地べたに這いつくばったアンドロモンの耳に、最後のシールズドラモンのヘルメットが床に落ちる音が、からんと響いた。 「……ン、泣けるな、手を抜かれてなお、この体たらくか」 「泣けもしないのにそんなことを言うのは、モラルに反さないのか。レプリカント」  ヴァンデモンはかつかつと歩みを進め、アンドロモンの傍に立つ。鋼鉄の表皮はあちこち剥がれ、電子部品は火花を吐く、無残な有様だった。その口から弱弱しく、電子音声交じりの声が漏れる 「どうせ死ぬ、教えてくれはしないか。つばめはいったい何なんだ」 「冗談はよせ。死に際に助けようと思った相手が何者かなんて考えるほど君の正義は弱くはないだろう。この期に及んで一分一秒でも稼ぐ気だな」  アンドロモンは、笑い声を漏らした。顔が動かないため、それアガ笑いであるとはすぐには分からないような、そんな笑いだった 「お前には敵わないな。しかし私は時間を無駄にはしない。時間稼ぎついでに得た情報を”王子様”に送る気でもあったよ」 「アンドロイドが形見など、似合わない」  ヴァンデモンは、ゆっくりと屈み、手刀を構え、──それを床に突き刺した。  悲鳴のような声が漏れ、電車がきしみながら停止する。この電車に擬態していたトレイルモンが死んだのだ。と、アンドロモンはこの上なくはっきりと理解した。 「これで私はこの場にいるマシーンどもを皆殺しにした。目撃者はいない、君が姿を消しても、“カンパニー”には私との戦いで死んだとしか映らないだろうな、もしかしたら、死に際に“コレクティブ”の手の届かないところにサイハラツバメを逃がしたか、あるいは始末したと取ってくれるかもしれない」 「……お前、何のつもりだ」 「言ったろう、元より気の進まない任務だ。それに金属交じりは、私の不死者兵団にはふさわしくない。そこで眠っている人間どもと、偽とはいえ電車が一本立ち往生したことの始末は任せるぞ」  そう言ってヴァンデモンは闇の中に歩いていく。ぎしり、と嫌な金属音をたてて、アンドロモンは立ち上がった。 「おい、待て」 「待つとしたら、気が変わって君を殺すときだけだ」 「どうしてだ」 「説明させるな。私は気まぐれで、おまけに浪漫が好きなんだ。勇敢な騎士が王妃を助けるような、そんな奴がな」  そんな言葉を吐きながら、彼は溶けるように姿を消す。  アンドロモンは注意深く周囲を見ていたが、やがて車内の緊迫感が完全に引いて行ったことを確認して、そばに綺麗に畳んでおいていたコートのポケットからスマートフォンを取りだした。それを手慣れた様子で操作し、耳に当てる 「ああ、ハルキ、こちらは終わった。信じられないが、無事だ。それで今は……おい、ハルキ、どうした。何をしてる、どこにいる!」 「どこにいるかは、僕が聞きたいですよ。ここはどこなんだ? ……ああ、そうです。スマートフォンのGPSから調べて、こっちに来てくれればそれでいい。それまでは隠れてます」  電話を切って、僕は息をつく。先生から逃れて辿り着いたそこはどこかの町の路地裏だった。表通りはまだ賑やかな時間だったが、ここは静かなものだ。そばではつばめがおろおろしながら、電話を切った僕の顔を覗き込む。 「だ、大丈夫?」 「アンドロモン、生きてた」 「よかったあ……」  数時間前に会ったばかりの化け物の安全を知って、つばめは笑えてしまうほどに分かりやすく胸をなでおろした。実際、僕も泣けそうなくらいに安心していた。彼に友情を感じていたのは確かだったし、聖ターミネーターとでも呼ぶべき先生から逃れてきた後だと、人間離れした力のアンドロモンが合流してくれることはこの上なく心強かった。 「当面追ってはきそうにないけれど、今晩はこうやって隠れながら過ごすことになりそうだ。大丈夫」 「うん、ハルキとなら楽しいよ」 「楽しんでるの? これを?」 「うん、ちょっとだけね。ひどい話だけど。ほら」  つばめが腕を広げて僕のことを見上げるから、僕も力が抜けたように彼女のことを抱きしめてしまった。 「つばめ」 「ん、なーに?」 「ずっと一緒だから。なにがあっても、僕が君を守るから」 「うん、どこまでも?」 「どこまでも、は無理だから、一緒にいたいんだ」  それは奇妙な、諦観でラッピングされた約束で、およそ恋人にはふさわしくないものだったけれど、知ったことか、今は世界の終わりで、僕は一人の、僕よりも少しだけ熱い体温を抱きしめているのだ。それがこんなに幸せなこととは、僕は知らなかった。    その時だった。ふっとつばめの手から力が抜けた。気になって体を離して見てみれば、彼女はぼおっとした瞳で僕の背中の向こう、路地の奥を見つめていた。 「どうしたんだ、つばめ?」 「あれ、あの子……」 「つばめ?」 「なんで、ここに? ごめん、ハルキ」 「誰が、って、おい、つばめ!」  僕の体を解いて、つばめは路地の奥へと走り出した。 「つばめ! おい、つばめ!」  一緒に逃げている最中は気づけなかったが、追う側に回ってみると、つばめの足はかなり速かった。おまけに始めての入り組んだ夜の道をどんどん走っていくものだから、僕が一つ角を曲がると、その道の先の角を曲がるつばめの背中が見えるという具合で、彼女を見失わないようにするのが精いっぱいだった。  それでも、だんだんとつばめのペースは落ちていって、僕の目はまたどこかの路地で彼女を捉えた。彼女は立ち止まっていて、その眼をぼんやりと、路地の先に向けていた。 「もう、なんなんだよ! つばめ!」  その言葉に彼女ははっとしたように振り返る。顔には罪悪感が浮かんでいて、自分がまずいことをしたという自覚はあるようだった。 「う、ご、ごめん」 「もう、なんだよ、急に走りだしたりして」 「だって、あの子が」 「あの子って」 「わたしの部屋に来てた、女の子」  そう言ってつばめはにっこりと笑った。 「つばめ?」 「でも、よかった。しろうさぎさん、渡せたもの」  よかったよかったと頷くつばめは、相も変わらず僕の知っている可憐な少女で、それが妙に恐ろしく思えてしまった。 「つばめ、そんなわけないだろ。ここはもう──」  ぱん、と、乾いた音が路地に響いた。 「なに、今の音?」  怪訝そうにつばめが眉を顰める。ひそめて、それから。 「え」  そんな声を出して、そのまま、前のめりに倒れた。 「つばめ!」  僕は半ば叫びながら飛び出し、彼女の身体を受け止める。彼女の胸に触れた手が、ぬるりとした生暖かい感触を覚えて、全身が粟だった。 「つばめ、おい、しっかりしろ!」 「あれ、変だな、わたし」  僕に抱きしめられた姿勢のまま、つばめはぽつりとつぶやく。その体は相も変わらず、僕より幾分熱かった。 「つばめ、大丈夫だ。大丈夫だから、しっかりしてくれ」 「ごめんね、ハルキ、ちょっと、くたってしちゃった」 「おい、つばめ!」 「ね、ね、もっと、ぎゅってして」  その言葉に頷きつつ、僕は手で必死に彼女の胸を抑える。 「やだな。わたし、もう足りなくなってる。まだちょっとしかぎゅってできてないのに」 「いくらでもできるから、できるからさ」 「キスもしたいな、それに色々。一緒に住んで、家も建てて、おっきな庭も──」  そこでひゅう、と、彼女が一息に息を吸い込んだ。 「庭、なんで、みんな、いるの」  その瞬間、僕に寄り掛かったその重みが消えた。彼女は今でもそこにいるのに。 「おい」  傷口を抑える手に思わず力を込める。  その手は、彼女を突き破って、向こう側に飛び出した。 「え」 手を見れば、彼女の肌を抑えたはずのその手に会ったのは、無数の白い、天使の羽だった。ほかにも、今の勢いで飛び散った羽が、美しく冬の路地に舞い散る。 「なに、これ」 「ハルキ」  つばめの声は、なおも軽やかに僕の耳元で響く。 「ぎゅってして、もう一回、あれ、言って」 「ダメだ」 「ダメじゃないの、聞きたいの」 「……」 「ごめんね。でも、わたしを、ここで、さよならに、しな──」 「どこまでも行こう、つばめ」  そうやって、僕は彼女を強く強く、抱きしめた。 「ね、つれだしてくれて、ありがと、ね」  満足気な声と共に、彼女の身体が無数の羽になって崩れていく。 「だいす──」  力を込めた手は空を切って、ただ、白い羽だけを、掴んだ。
White Rabbit No.9 庭-Ⅲ/ ”The End of the World” content media
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マダラマゼラン一号
2023年8月08日
In デジモン創作サロン
「……」 「物珍しいのはわかるが、そうじろじろ見るのは少し失礼だぞ」  その声を聞いて、僕の心ははっと現実に引き戻された。ここは駅のほど近くの商店街、そのどん詰まりにあるドトール・コーヒーだった。世界の終わりとその前で唯一変わりのない、僕のお気に入りの場所だった。二つ隣の席では見慣れた顔の老婆が、今日もお冷の入ったグラスにはずした入れ歯を突っ込んで、読書に耽っていた。 「すみません」 「いや、いいんだ。不作法でいえば、カフェで帽子の一つも外していない私も大概だしな。それに、君の言いたいことも分かる」  そういって、目の前のくすんだ銀色の鉄人──アンドロモンは自分のもとに置かれたコーヒーカップを持ち上げた。 「我々もこの世界では人間と同じものを食べ、飲む。私はこのコーヒー、というのが舌に合う。いや、実際向こうではラーメンばかりで辟易していたんだ」 「ラーメン」 「たまたま近くに湧いていたものでね」 「デジタル・ワールドって、そうなんですか」 「まあ、そんなところだ」 「それであなたは、この世界に来た。それで」 「警視庁に配属された。“スクルド・カンパニー”は自分たちの技術を積極的に政府に売り込んでいる。彼らの目的はこの世界での営利追及だからね」 「そして人間は何人も解雇され、路頭に迷ったり、首を括ったりする」 「ン……、その通りだな」 そういう彼の眼はどろりと虚ろなままだったが、声は本当に心を痛めているように感じさせた。この奇妙なアンドロイドの前で既に警戒を緩め始めている自分に気づき、僕は頬の裏側を噛む。相手は未知からの侵略者だ、いくらフォークト・カンプフ法も必要がないくらいわかりやすい機械の見た目をしているからって、相手がウソをつかないとは限らない。 「他人事みたいに言うんですね。あなただって“カンパニー”の一員のはずだ。正直、まだ混乱してるんです。“カンパニー”だの、“コレクティブ”だの。機械だの悪魔だの、あと、なんでしたっけ? さっきあなたの言ってた……」 「“ウィルス・バスターズ”だ。デジタルワールドの均衡を保つ組織」  アンドロモンは息をついて、コーヒーを啜る。彼は指の先でちょこんとカップをつまんでいた。人間離れした手の大きさもあって、エスプレッソでも飲んでいるみたいだった。 「私もそこにいた」 「そんな名前は聞いたことがない。それにあなたは機械だ。“カンパニー”の一員であることをさっきも否定しなかった」 「そうだ」彼は頷く。 「繰り返すが、 “バスターズ”はデジタルワールドの均衡を保っている。元々は“天使”の組織だったんだが……」 「“天使”?」僕は言った。「“天使”のデジタル・モンスターはいない。そう聞きました」 「そうだ。いない」 「どうして?」 「その問いは、今日の君の質問の中で一番簡単だ」彼はカップを置いた。かちゃり、という音がいやに大きく響いた。 「死んだんだよ。一人のこらず、根絶やしにされた。“コレクティブ”にね」  アンドロモンの話では、何百年も前に、“ウィルス・バスターズ”と“ウルド・コレクティブ”──天使と悪魔は大きな戦争をしたのだという。そして、一部の天使が堕ちて寝返ったのをきっかけに、悪魔が勝った。神々の軍勢は、その純白の羽の一枚に至るまで焼き尽くされた。 「そのときに“コレクティブ”は、悪魔と堕ちた天使以外にも、自分たちと同じ闇に生きる者を組織に取り込んだ。たとえば、不死者であるとか、魔人であるとか、幽霊であるとかな」 「節操がないな」 「まあ、今となっては皆まとめて“悪魔”だ。ともかく、そうして軍勢を集め、相手の裏切りも手伝って、悪魔は勝った。完膚なきまでに。」 「神も負けた?」 「“神”なんてものはいない。神のごとき力を持つ存在の話は、デジタル・ワールドにはいくつも伝わっているが、少なくとも天使たちの上にはいなかった。彼らは、いないものに仕えることを目的として組織された軍隊だった」 「珍しいですか? 人間はみなそうですよ」 「ン、そうだ、ある意味では、“天使”たちは最も人間らしい存在だった、らしい」  僕は肩をすくめた。その仕草に眉を上げ、アンドロモンは話を続ける。 「天使はいなくなったが、“バスターズ”の活動は続いた。世界には正しいものも、正しい行いもあると信じるデジモンたちの手によって。とはいえ彼らにはリーダーはいなかった。天使はどこにもいない、権威を持って彼らを導く存在がいなかった」 「人間もみなそうですよ」 「君の言葉は正しいが、現実感に欠けている」 「世間知らずの高校生ですから」  今度はアンドロモンが肩をすくめた。 「ン、とにかく彼らには指導者が必要だった。だから、どでかいコンピューターを頭目に置いたんだ。常にこの世界の為になる最適な答えをはじき出す、弩級のコンピューターを」 「……」 「それは実際うまく機能した。デジタル・ワールドの均衡は“カンパニー”や“コレクティブ”が混沌を望もうと、根本では揺らがなかった。だが、この世界へのゲートが開き、機械と悪魔が侵攻を宣言した時──」  彼は苦々しげに息をついた。 「我らがコンピューターは“静観”を出力した。あの人造神の計算には、他の世界と、そこに住む者が抜けていた。厄介な二大勢力がよそに行ってくれて、嬉しそうでもあったよ」 「それで、あなたは“バスターズ”を抜けた。この世界の、人間を守るために?」 「ああ。私の身体は見ての通りだからな。“カンパニー”に加わってこの世界に来た。そして、この世界の治安維持機関への配備を志願した。私一人で何ができるわけでもないかもしれないが、少なくとも私にはここに来ることが可能だったわけだからね」  そう言う彼の眼は死んだ魚のように濁っているなりにまっすぐで、言葉には確かな信念が宿っているように感じられた。 「それで、警察、警視庁ですか」 「そうだ」  僕は自分のコーヒーをぐいと飲みほし、首を振った。 「それで? そんなあなたが、なぜこんな田舎町に来てるんです。なんでつばめに関心があるんです」 「ン、本題、だな」アンドロモンは深く息をついた。 「ハルキくん、『選友会』という名前を知っているか」 「いいえ、なんですか」 「宗教団体だ。正式名称は『選ばれし者たちの友の会』。とはいっても法人化はされていないし、広く知られてもいない」  宗教団体、その言葉を聞くと、奥歯にセロリの葉が挟まったような感じがした。 「歴史は古い。始まりは30年以上前に東京で発足した小規模なヨガの同好会だったらしいが、だんだんとスピリチュアルな面が強調されていってね。やがて東京に事務所を残したまま、東北の田舎町に土地を購入。一部がそこに移住して小規模なコミューンを形成した。名称を今のものに改めたのもその頃だ」  つばめの言葉が脳裏をよぎる。畑もあって、皆で自給自足の生活をしている。大きな、赤い屋根の家。 「それだけなら、歪ではあるが、無害なカルトだ。だが、デジタル・モンスターの侵攻をきっかけに大きく規模を拡大した」 「どうやって」  自分でそう聞いてから僕は苦笑した。おい、世界の終末なんだぞ。きみ。その表情の変化を鋭敏に読み取ったかのように、アンドロモンも頷く。 「我々は、人間が恐れる者の姿を取って、この世界に来訪した。“カンパニー”の面々は高性能な機械だが、見た目は決して美しくはない。カルトの文明批判を加速させるにはうってつけだっただろう。“コレクティブ”の方は、もっとわかりやすい。昔から語られる悪魔の姿そのままを取っていて、おまけに天使の席は、救いの席は空席だ」 「自分たちの教えを証明して、おいしいところは残しておいてくれた。『私たちの言っていることは本当だったでしょう、救いも本当なんですよ』って言ったもの勝ちってことですか」 「そうだ。宗教じゃないよ。ビジネスの問題だ。ここに来る前に東京を一通り見たが、どこもカルトの勧誘まみれだったよ。日本はまだいい方で、世界中の都市がそうなってる」 「みんな暇なんだ」 「そう思うのは君が若いからだ」 そこまで言ってから、アンドロモンは、今の言葉が不用意に僕のプライドを刺激していないか気にするように、軽く咳払いした。そのあまりに人間臭い仕草は、かえって僕を落ち着かなくさせた。 「ン、とにかく、そんな中で『選友会』も勧誘の手を広げた。とはいえ、サイエンス・フィクションを扱う作家を預言者として扱う教えは有象無象のカルトにはない特異なものだったがね。20年前のコミューン形成時には、もうその教えは固まっていたそうだ」  20年前、1998年。僕は思いを巡らせる。サイエンス・フィクションというものは、今よりもいかがわしかっただろうか。SFの歴史の中で最も洗練された作品たちの大半は既に世に出ていただろうし、一年後には『マトリックス』なのだ。きっと今よりSFのイメージはイカしたものだっただろう。 「今回の災害──あなたたちとの遭遇を、SF作家たちは予言していたといっているわけですか」 「ン、そうだ。馬鹿げた話ではない。チャールズ・マンソンはハインラインの『異性の客』の影響を受けていたという話もある」 「詳しいんですね」 「ン、半年あった。人類史に残る著名な犯罪者の逸話は大体覚えたよ」 「それでも『幼年期の終わり』が今回のことの予言だって言うなら、『遊星からの物体X』は神の声を記録したフィルムだ」 「ン、後で見ておこう」  アンドロモンは自分のこめかみを叩いた。きっと脳内のスーパー・コンピューターがメモパッドを開き、そこにいまの内容を記録したのだろう。律儀なアンドロイドだ。 「それに、彼らには強力な後ろ盾があった」 「後ろ盾?」 「“コレクティブ”だよ」 「なんでデジタル・モンスターがカルトの味方をするんです」 「悪魔たちが宗教の言い分を証明したのと同じだ。悪魔たちにとっては、宗教者はデジタル・モンスターの存在を、人間向けにかみ砕いて広めてくれる、権威と金を持った友人だったんだ」 「ニュースで見ました。機械たち、カンパニー”は圧倒的な技術力と実際的な知性があって、それでも人間たちの企業を駆逐することはなかった。あくまで技術供与と取引を申し出た。あなたたちは最初こそ人間たちの抵抗を受けて、仕方なく武器を取ったけれど、目的はあくまで自分たちを人間の社会に認めさせ、組み込んでもらうことだったと」 「欺瞞に聞こえるが、まあそうだ。“カンパニー”がシステムを利用して人類社会にしみ込もうとしているのと同じように、“コレクティブ”は信仰を利用しているんだよ」  システムと信仰。僕は胸の内で繰り返した。クズのSFみたいな現実が、理屈だけは難しいものを使っているクズのSFに進化したような気がした。 「でも、まだ分からないです。最近力を伸ばしたカルトがそんなにあるっていうなら、なんで『選友会』なんです? なんでつばめなんです?」  アンドロモンは言葉では応えず、横に置いていた鞄をがさがさと漁り、ホッチキスで留められた資料を取りだし、2人の間に置かれた低いテーブルに放った。 「夏ごろに警視庁への配備が決まってこのかた、私は公安部の仕事をしていた。まだ民間人と多く顔を合わせる職務に就くべきではないとの判断で、ほとんどはデスクワークとオフィスでの情報分析だ」 「適材適所とは言えそうにないですね」人間離れした速さで僕を追い越したアンドロモンの健脚は、現場でも大いに活躍するはずだ。 「ン、まあ、一時的な措置だからな。それに、この電子頭脳は情報収集、記録にも役立つ」彼はまた自分のこめかみをとんとんと叩いた。 「だから私は捜査員が持ち帰ったり、警察に寄せられる情報を収集、記録し、分析していたわけだ。そうしたら、それがきた」  その言葉を受けて、僕は机の上の資料を手に取る。それは、A3の薄い用紙で、一般的に良くある履歴書の体裁を取っているように見えた。左半分に写真とプロフィール、経歴が書いてあり、右半分には資格や備考が入る。そういうよくあるやつだった。  僕の視線は、その写真と名前に吸い込まれた。もうすっかり見慣れた顔のはずなのに、個性を取り払う装置を通して記録されたその目や口や耳や鼻は、それが連動して動く有機体として一つの眩しい笑顔をつくるとはとても想像できなかった。そしてそれ以上に、彼女の名前には聞きなれない付属物がくっついていた。 「……『才原』つばめ。つばめの苗字ですか?」 「そうでもあるし、そうともいえない。サイハラは『選民会』の教祖のラスト・ネームだ。教団のコミューンで生まれた子どもは実の親とは切り離され、教組の子どもとして育てられる。戸籍の登録はされない。教育はすべて教団内で完結している」  僕は首を振った。よくわからないが、そういうすべてとサイエンス・フィクションは両立するのだ。 「下を見てみろ。彼女とコミューンの外の世界の接触記録だ。まあ、一部はな」  言われた通り、僕はつばめの写真の下を見た。たしかに一部、どこそこに行った、という記載が細かく日付と共に記されている。社会科見学、とつばめが言っていたのを思い出した。みれば5年前には酷い皮膚炎で施設外の病院を受診している。完璧に外界と隔絶されているわけではないらしい。  けれど、それよりなにより目を引くのは、一つの未来の日付だった。 「2018年、12月25日、クリスマスですか。予定は……『導き手』?」  簡潔で予言めいた、他の記録とは一線を画すその言葉に、僕は首を傾げた。 「ああ、そうだ。もっとも、クリスマスは彼らにとって意味の或る日ではないが」  アンドロモンは淡々と話し続ける。 「そこで私は初めて、この奇妙なカルトの存在を知った。どうにも気がかりでね。“カンパニー”に情報を求めたんだ」 「あなたの所属元に? なぜ?」 「言ったろう。カルトは“コレクティブ”と結びついている。“カンパニー”も、競合勢力の取引相手に関する情報は集めているだろうからな」  いちいち理にかなったことを言うアンドロイドだ。僕はため息をつく。 「私は名前を伏せた上で、このファイルを“カンパニー”の上司にあげた。私が“カンパニー”の一員としてこの世界に来た経緯は彼らにも知られている。正直お互いに仲は良くないしんだが、この時ばかりは妙に返事が早かった。それも、命令付きだ」 「返事は、なんて?」 「『このファイルが示す人物を、12月25日までに確保しろ。警察でもなんでも、保護していればいい。絶対に“コレクティブ”には渡すな』と」 「……」  僕は黙ったまま、その言葉を何度も頭の中でかみ砕いた。頭痛が舌だけだった。田舎町の、ちょっとヘンな家庭環境の、僕の好きな女の子に、ニュースの向こうの機会や悪魔の化け物が強い関心を寄せている、なんて。 「このファイルを持ってきた同僚はもともと国内のカルトの監視が担当でね。東京にいる教団内の情報源が、決められた手順を踏まないと危険を冒して、大急ぎで送ってきたと言っていた。そしてそれ以降、連絡が途絶えた、ともな」 「……」 「同僚は情報源の関係者を装って教団に接触した。私も同行したよ。身を隠して、後ろに立っているだけだったがね」 「ええと、そちらの方は?」  柔和な笑顔を張り付けた男が、汗をぬぐいながら刑事に向かって問う。無理もない、刑事の後ろにいたアンドロモンは、顔を隠した大男の恰好をしていて、目立たずにはいられないはずだった。  刑事は苦笑いをしながら、それでもスムーズに筋書き通りに話を進める。 「ああ、いや、──さんの親族ですよ。私はその弁護士。遺産に関わる話ですからどうしても同席したいと」 「はあ、なるほど」男はまた汗をぬぐった。 「ええと、──の遠縁の親戚の方が亡くなられて、──が遺産を一部相続することになったと。ほう。これはお悔やみを」 「いえ。それで、──さんは」 「ああ、いえ、会えないんです。彼女はもう『導き手』になりましたから」 「というと」 「あー、いえ、こちらの言葉でしてね。特別な祝福を受けて、現世とは離れた場所で、心の平穏を手にすることを言います。導かれる側から、我々を導く側になるんです。名誉なことなんですよ」 「あ、ええと。しかし金銭に関することですので、本人の署名がですね」 「いえ、彼女は教団の教えで個人の資産の所有は禁じられていますから」 「その言葉を、本人の口から聞ければ、我々も引き下がれるのですが」 「無理ですね。もう導かれていますから。それでも、というのでしたら、教団への寄付の案内をさせていただきます。同じことですよ」  男はそう言ってにっこりと笑い、とめどなく流れる汗を拭きながら、刑事とアンドロモンを交互に見た。 「導き」 「そうだ。まあ、粛清のことだろうな」  そしてアンドロモンはファイルを軽くたたいた。 「彼女にもそれが迫っている」  口の中が乾くのを感じた。コーヒーカップを口に運んだが、既に中身は空っぽだった。 「つばめは、死ぬかもしれないんですか」 「殺される、だ。この2つの違いは大きい」 「そして、そこにはデジタル・モンスターが関わっていると」 「ン、正確には”コレクティブ”の連中だ」 「そしてその理由は、あなたにはわからない」 「君の言うとおりだ。完膚なきまでに」  アンドロモンはゆっくりと顔を上げ、僕の方をまっすぐに見た。その目に宿った光は、濁ったオートマタのものにしては真摯にも思えたが、その真摯さが僕にむけられたものかは分からなかった。 「それで」僕はなんとか言葉を紡いだ。喋ることだけが、この馬鹿げた現実に自分を何とかつなぎとめてくれているような、そんな感覚だった。 「あなたは僕に何を頼みたいんですか」 「分かるだろう」 「言外に察するような話題じゃない。直接言ってください」 「ン、そのとおりだな」  そういって彼はきっかり3秒、口をつぐんだ。体内時計のねじを巻くのを怠りがちな僕にも、それが正確だと確信できるくらいに、完璧な3秒だった。 「つばめの説得、及び救出だ」  完璧な前置きの割りに、その言葉は妙に安っぽかった。英国のスパイ小説のへたな翻訳みたいだ。コールサイン・ゼロゼロワン、君の新しい任務はつばめの説得、及び救出だ。それから必ずホテルのバーでドライ・マティーニを頼むように。読者が一番見たいのはそこなんだ。 「説得、って、何をですか」 「当然、彼女の身に危険が迫っていることを伝えて、警察に身を委ねることだ」 「無理ですよ。彼女は外の世界に好奇心こそ抱いているけれど、別に今の場所を去りたいわけじゃない」 「無理を通すために語りかけることを、説得と呼ぶんだ」 「無理を通すなら」僕は顔を上げて、その穴のような目をにらみ付けた。 「あなたが強硬手段に出ればそれでいいはずだ。あなたは風より速いし、きっと力も強い。つばめは何も座敷牢に入れられているわけじゃない。休日になるとライブを聴きに外に出てくるんだ。さらうチャンスはいくらでもあります」 「ン、その通りだ」彼はうなずく。 「しかし、それでは彼女は恐怖を感じ、抵抗するだろう。それに、”コレクティブ”が動いている。私が彼女を保護するのに、どんな妨害をされないとも限らない。私と同じデジタルモンスタ―が相手では、妨害への対処に精一杯になって、彼女の安全確保に気が回らないこともあるだろう。そういうときのため、彼女には保護を受け入れ、協力的であって欲しいんだ」  アンドロモンの言うことは、リアルなようでめちゃくちゃだった。彼はめちゃくちゃな世界から、つばめの日常をめちゃくちゃにするためにやってきた、めちゃくちゃなレプリカントなのだ。そして彼は今、そのついでに僕の日常もめちゃくちゃにしようとしている。特に憤りを覚えることもなかったのは、そんなものはとっくの昔に壊れていたからだろうか。 「それでも、なぜ僕が」 「君以外にできる人物がいないからだ」 「そんなわけがない」 「いいか」アンドロモンは少しだけ語気を強めた。 「私は東京で洗脳を受けた”選友会”元信者への聞き取りに立ち会った事がある。カルトの洗脳は強固だよ。彼らは決して自分の正しさをしつこく売り込まない、周りの世界が間違っていると語る。その認識の方を徹底的にすり込むんだ。ましてつばめは選友会のコミューンで生まれた2世だ。生まれてこのかた教団の洗脳教育を受けて育っている”選ばれし子ども”なんだ。周囲の世界に好奇心を抱くことはあるかも知れないが、心を許すことは難しいだろう。そういうものなんだ。まっさら画用紙に、猜疑心だけぐるぐると厚塗りしたようなものだ」  けれど、彼はまっすぐに僕の方を見た。 「そんな彼女が、ハルキ、君には心を開いている。驚くべきことだよ」 「私は確信している。彼女を救えるのは君だけだ」  感動的だった。涙を流しても良いくらいだった。 「今のが決めぜりふですか」僕は首を振った。 「世間知らずの16歳の子どもの英雄願望につけ込もうとしているように聞こえます」 「ン、私も話しながらそう思った」  慣れないことをする物じゃないな。アンドロモンはくたびれたように背もたれに身を預けた。金属の身体の重さで、椅子がみしりと音を立てた。 「君は賢いな。ハルキ」 「そう言うあなたは融通が利かない。アンドロモン。僕を利用したいなら、自分で言ったカルトのやり口を使えば良いのに」 「デジタル・モンスターも抵抗感を覚えることはある」 「それでも、そうすべきなんだ。あなたは正直なのかも知れないけれど。何から何までカルトの逆をやられたら、かえって信用しづらいよ」  僕はそこで初めて、緊張にこわばった体を緩め、背もたれに身を預けた。まったく信用ならないにも関わらず、僕は目の前の不器用なアンドロイドに好感を抱き始めていた。 「おまけに、あなたは“カンパニー”の一員だ。そうではないように話すけれど、やっぱりそうなんだ。つばめがもしも、あなたたちの競争相手の“コレクティブ”にとって重要な存在だというのなら、あなたたちにとってもそうかもしれない」 「つまり?」 「あなたは正義の味方なんかじゃないかもしれない。僕を利用して、つばめを手中に収めようとしている、張本人かもしれない」  アンドロモンはゆっくりと、相も変わらず表情のない目で僕を見た。 「仮にそうだとして、彼女を守るために君には何ができる? さっき言ったとおりだ。君の協力がないのなら、私は無理やりにでも、コミューンから彼女を攫うしかない。ここで私を、力づくにでも止められるか?」 「できないでしょうね」 「それなら、やはり、君は彼女についているべきだ。それが、君が彼女にできる最善のことだろう」 「それなんですよ」僕は鋭く言った。 「あなたの計画には、僕があなたに同行することが織り込まれているように聞こえる」 「彼女を連れ出せたとして、私に預けてしまっていいのか? それでは──」 「付き合いが半年の友人ですよ。そのためにただの子どもが、何もかもなげうって、命を懸けると思いますか」 「それは、君なら──」 「そう、僕なら、だ」僕は深々と息をついた。 「僕の家のことを調べましたね? 父と、母のことを」  アンドロモンはまた、困ったように頭を書いた。 「ああ、調べたよ。保護対象の周辺人物に、下調べなしで接触するわけにはいかない」 「それを隠して、あなたは僕に、母を捨てるような決断を迫った」 「そうだ。気に障ったのなら謝罪する」 「いいえ、ちっとも」  僕は立ち上がって、自分のコーヒーの代金を机に置いた。それから少し口の中で何かをかみ砕くようにして、やっと言葉を吐きだす。 「他に刑事を呼べばいいでしょう」 「彼らは人員を割いてくれなかった。というか、私の出動も許可されなかった。首都はあちこちで暴動がおきていてね、地獄の様相なんだ。私はいま、ここに無断で来ている」 「それなら“カンパニー”に頼めばいい。この件を重要視しているんでしょう」 「こう言っては何だが、彼らは信用ならない」 「僕と同意見です」  僕は彼に目を合わせないまま、その横を通り過ぎた。彼への好感はそのままだったが、それでも、彼の手を取るには、僕はあまりにも混乱していた。 「君にしかできない」 アンドロモンは繰り返し言った。  交際14日前の午後、もう季節はすっかり冬で、街から見上げる山はすでに白雪の冠を被っていた。つばめは少しサイズの大きいブラウンのセーターに身を包みながら、それでもなお寒そうだったので、僕にコートを羽織らされていた。それだけ寒くても、僕もつばめもライブハウスの中に入ろうとも、どこか暖かいところに行こうとも言わなかった。 ライブハウスに通うバンドマンたちの狂熱は、少しづつ冷め始めていた。きっと僕らにとって、あの夏は、少しだけ暑すぎたのだ。忍び寄る冬の空気は、静かで、きりりと冷えていて、僕たちが見ようとしていなかった現実を教えてくれた。  ニュースでは日々彼らが作り出す新しい社会の青写真が語られ、そしてその一部は、恐ろしいスピードでもって実現していた。その社会は、どこをとっても、僕たちが知るどの時代より優れたものだった。もしかしたら、人間が作ったものではない、という点が一番優れているのかもしれなかった。  結局のところ、彼らは、そして僕らは、気づいてしまったのだ。世界は終わりなんてしない。全ては作り変えられ、そして人類はより良いとされる方向に進んでいく。僕たちは滅びることなんてできない。僕たちは終わることなんてできない。 死ぬこともできないまま、僕たちはただ大人になって、この夏のことをちょっとした武勇伝として語ることができしまうのだ。あるものはこの夏を上手に切り売りして、中身のない気の利いたことを喋るだけの悪臭になるだろうし。あるものは酒場でこの夏のことを何百回と語るだけの布切れになるのだ。そして彼らは、自分が悪臭になる方なのか、それとも布切れになる方なのか、はっきり分かってしまったのだ。そして、自分と同じ道を行くものと話すのも、そうでないものと話すのも、どちらも苦痛なのだった。  僕はまだ、自分がどっちになるのかも分からなかった。そしてそれがなぜかも分からなかった。彼らより一年か二年ばかり生きている時間が不足しているというのは理由にならなかった。  あのアンドロイドの言うとおりにしようか。僕はその可能性を何度も考えた。それはとても心躍ることだった。好きな女の子の手を引いて、非日常への逃避行を始めるのだ。幸い、僕には置いていくような日常ももうない。悪臭にも布切れにもならず、物語の主人公になる。  けれど、つばめはどうなのだろうか。  このままだと彼女は教団に殺される、とアンドロモンは言う。それは間違っていると、僕も思う。けれど僕が手を引いて、彼女をそこから連れ出したからといってなんだというのだろう。彼女は信仰に殉じる機会を失い、奇妙なモンスターの思惑が重なった命がけの道に放り出されるのだ。それを僕が決めるのは、まったくもって身勝手なことに思えた。 「ねえ、ね、ハルキ? はーるーきー」 「何」 「私の隣でぼおっとしてるから話しかけたんだよ。考え事してたの?」 「そう。考え事をしてた」 「それって、週に3時間だけの、私と二人きりの時間でしないといけないこと?」 「そう」 「そうなのか。ふうん。へー」 「悪いとは思うよ」 「へー、そうですか」 「本読めばいいだろ。それだって今しか読めないわけだし」 「まあ、そうですけど?」  彼女はそう言って、そのままその頭を僕の方に預けた。冬の寒さの中、吹きさらしの階段に座っているせいだろうか、小さな耳は真っ赤に染まっている。入浴は毎夜みなでするだけだといっていたのに、この時間になっても、彼女はつんと甘い石鹸のにおいをさせていた。  そして彼女は僕の貸した本をまた1ページ、ぱらりとめくる。『先生』から与えられる本しか読んだことがない彼女に、僕が何冊か貸しているのだ。意外なことに彼女は読むスピードがとても速かった。教団ではトマス・ピンチョンを読みこなしているというのだから、さもありなんといったところか。「よくわかんないところは、よく分かんないまま読み進めるのがコツだよ」と、前に自信満々で行ってくれた。自信満々で言われても困る。  今、彼女が読んでいるのは「銀河鉄道の夜」だった。僕に寄り掛かったままだと読みにくいと思うのだけど、彼女は頑なにその姿勢を崩さなかった。 「その姿勢だと読みにくいだろ」 「読みにくいよ」 「じゃあやめればいいのに」 「やめてもいいの?」 「いや、やめればいいだろ」 「ふうん」  彼女は一度ぐりぐりと自分の頭を僕の方に擦り付けて、そして姿勢を変えることなく読書を再開した。話が違う、と思った。  つばめは最近こういうことをする。僕への好意を明確に態度で示した後、僕の顔を見て、いつもの百面相をするのだ。  彼女に自分の想いを伝えることを、僕はいつでもできるはずだった。なぜって、僕は彼女のことをこんなに好きなのだ。そして彼女は、きっとその気持ちを受け入れてくれるのだ。  けれどそのたびに、アンドロモンの言葉が頭を過って、僕の言葉は喉元でつかえる。彼女を愛する人間として、その件にどんなふうに向き合えばいいか、僕にはさっぱりわからなかった。思い浮かぶどんな愛の言葉も、彼女を自分の思い通りに引っ張っていくための駆け引きの道具に思えてならなかった。  つまるところ、僕はあのアンドロイドに腹を立てていたのだ。僕がしたかったのは非日常への冒険ではなく、ただのおっかなびっくりの恋愛だった。その、おっかなびっくりの恋の、とても繊細な局面に水を差されたような気がしていたのだ。 「あ、ため息。どーしたのー?」 「ため息くらいつくよ。世界の終わりなんだ」 「ふうん」 「銀河鉄道は、今どのあたり?」 「じき、サウザンクロス」 「そう」 「悲しい、ううん、寂しい、いや、分かんないな。泣きたくなるはなし」  とん、とん、とん。彼女が自分の言葉に打つ読点は、有機的な音を僕の耳に響かせる。それは、雄弁なピアニストが休符すら音の連なりに組み込むような心地よさがあった。 「ねえ、ね、ハルキ」 「うん」 「私は世界の終わりでもこんなに幸せだよ?」 「……」  きっと死ぬんだ、と僕は思った。そうだ、未来に自分がどうなるのかわからないなら、きっと未来が来る前に死ぬのだ。単純な話だ。  それは、なんだかとてもいい気分だった。僕は悪臭にも、布切れにもならない。そうなる前に死ぬからだ。そう口に出すとまるでステージで喝采を浴びるような気分だった。街を流れるすべての音は僕を祝福する音楽で、世界のすべての花のにおいが僕の鼻腔をかすめた。誰かが僕の蛹をぐしゃりと踏み潰し、中のどろどろがなにかの形を取る前に、過酷な陽光の下に解き放つ。ファンファーレ、幕切れ、そしてしばしのカーテンコール。  いっしょに死のう、と、つばめに言ってみようか。僕はうきうきと考えた。それは少なくとも、君を救って見せる、という言葉よりはずっと自然に聞こえた。僕らはこの半年、ずっと歪んだ自殺同好会で過ごしたのだ。世界が終わらないなら、僕は一緒に世界を終わらせるのだ。そうしたら、僕はきっと彼女に、何の裏腹もなく、愛の言葉を言える。そんな気がした。 「ねえ、つばめ──」 「どこまでも、どこまでも、いっしょにいこう」  僕が口を開いた途端に、彼女が本を持った手をいっぱいに伸ばして、その一節を読み上げた。目の前で光がはじけたような、そんな感じがした。 「ね、ハルキ」 「……」 「私たち。どこまでも、一緒にいられるかな」 「む、無理だよ」何かに怖気づいたかのように、僕の声は震えていた。 「君と僕とは、住むところからして全然違うんだ。今を続けることだって難しいかも知れないのに、永遠なんて──」 「永遠?」つばめはくすりと笑った。 「どこまでも、ってことばだけで、随分大げさ。そんなに一緒にいたかった?」 「そりゃあ、そうだ」 「……」  つばめは僕の肩から頭を起して、こちらを見た。寒すぎるのか、マフラーで口元まで隠した顔は真っ赤に染まっている。 「どこまでもは、いっしょにいられない」  僕は声を絞り出す。 「それこそ、いっしょに死ぬくらいしか──」 「いいよ」 「……よくないだろ」 「言ったのはハルキの方」 「そうだけど」 「もう、なにが、言いたいの?」  僕は陸地に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくさせた。 「ど」 「ど?」  やっと僕は大きく息を吸った。 「どこまでも、いっしょにいこう、つばめ」  彼女は、首を振った。 「無理だよ。どこまでもは、無理」  そして、にっこりと笑う。 「でも、だから一緒にいたいって思うの」  もう、続きはいいや。そう言って彼女は「銀河鉄道の夜」をぱたりと閉じて、今度は、思い切り、僕の方に倒れこんだ。そして、唇を僕の耳に近づけて、囁いた。 「ねえ、どこへでも、私を連れてって。ハルキ」 「決断してくれてうれしいよ、ハルキ」 「別にあなたを信用したわけじゃない、アンドロモン」  アンドロモンは、目の前の少年の言葉に、当然だ、とでも言いたげにうなずいた。 「それでいい、君は、彼女のためになると君が判断したことを、なんでもすればいい。私が、君たちを守る」 「言葉だけ、ありがたくもらっておく」 「ン、今はそれでいい。一応聞いておくが、お母さまには?」 「手紙か何か置いていくよ。もとより、あの人の世界にもう僕はいない」  悲しいことを言う。口の中でそう呟き、アンドロモンは染野春樹のことを見る。冬の6時すぎ、あたりは既に暗く、その表情は見えない。 「で、僕たちはどうすればいいんですか」 「ン、彼女が次に外出するのは?」 「12月24日、クリスマス・イブ」 「ン、彼女が『導き手』になる前日か」 「教団側からしたら、最後の情けってとこなんじゃないですか」 「ふむ、まあ、そういうこともあるだろう。その日になったら──」  アンドロモンはそうして、計画を染野春樹に説明した。彼は納得したようにも見えなかったが、暗闇の中でとりあえず頷く。 「それじゃあ、次に会うときは当日ですか。落ち着かないな」 「半年前から計画を立てていたって、こうなる」 「そういうものですか」 「そういうものだよ」 「……ねえ、アンドロモン」 「なんだね、ハルキ」 「つばめと僕を、よろしくおねがいします」  彼はそう言って不意に頭を深々とさげ、踵を返して暗闇の中に駆けていった。アンドロモンはその背中を見送り、ゆっくりと、自分の機械の手を、その、一部むき出しになった汚らしい色の肌の部分を見つめた。 「──いいねえ、健気なものじゃないか」 「──ッ!」  不意に聞こえたその声に振り返るよりも早く、アンドロモンの手が、がしゃ、という音共に形を変える。次の瞬間、そこにあったのは、闇夜に浮かぶ白熱した刃で。彼はそれを越えのした暗闇へと振るう。……ふるおうとして、止めた。 「おいおい、危ないじゃないか。死んだらどうする」  刃の光が照らしだしたのは、青白い肌の瘦身の男だった。赤、白、青のラインでカラフルに彩られた山高帽を被り、服装もそのカラーの華美なもの、手にはこの闇夜には不釣り合いな、これまた派手な傘を提げている。一見して、大道芸人か、服装にばかり気を使う奇術師、と言ったところだ。  目の前の相手が人の姿かたちをしていても、アンドロモンはそのさっきを納めることはなかった。 「ここに何の用だ、メフィスト」 「よくわかったねえ、でも、今はその名前で呼ぶなよ、機械人形クン」 「そこまで精巧に人に化けられる悪魔を、お前意外に知らないからな。もう一度聞くぞ、何の用だ、メフィスト」 「その名前で、呼ぶなったら」  そう言って山高帽の男は、指を自分に向けられた刃の刃先に当てる。そうして彼がその薄い唇を開いた──その瞬間、アンドロモンは大きく飛びのいた。自分から3メートルも離れたところに着地し、再び臨戦態勢を取るアンドロイドを、山高帽の男は笑って振り返る。 「大丈夫だよ、ここで君を殺しはしない。そんなことをしたら、何もかも台無しだろう?」 「……“コレクティブ”の手先としてきたわけではなさそうだな」 「ボクとあいつらはとっくの昔に縁が切れてるんだ。知ってのとおりね。だから今はもう“メフィスト”じゃない」  彼は芝居がかったしぐさで傘をくるりと回す。 「この世界では“Dr,トラファマドール”と名乗っている。気軽に“ドクトル”とでも呼んでくれ給え」 「お前が──」 「つれないな」 「お前が“コレクティブ”の代表者じゃないというのなら、それを喜ぶべきなんだろうな。お前に邪魔されては、人間を二人救うどころじゃない」 「そうだねェ、もしそうなら今、君は死んでいた。とはいえ、喜ぶのは早いと思うよ」 「……」  続けろ、とでもいうように、アンドロモンは刃をおろす。トラファマドールと名乗った男は、ゆっくりと勿体ぶるしぐさを見せた後、その事実を宣告した。 「──“ノスフェラトゥ”が来てる」 「ッ!」  アンドロモンは、目の前の男を前にした時よりも酷く、顔を歪ませた。 「何の冗談だ」 「冗談じゃないよ。ボクはそんなこと言わない。神代を生きた不死の獣が、この町に来ている」 「“コレクティブ”で幅を利かせているのは、悪魔や堕天使どものはず、奴らの命令で、“彼”が動くか?」 「“彼”の都合まではボクは知らないよ。ボクはただ、忠告に来ただけ」 「……」 「聞いた話では、あの少女が町に降りて、君たちが逃亡を始められるのはせいぜいが午後の2時や3時からだろう? この季節のこの国では、日が落ちるまでにそう時間はない。2時間、或いは3時間、天気によってはもっと早く暗闇は訪れる」 「……」 「急いで走らなくてはねェ。レプリカント。そうしないと──」  彼はさもおかしそうにくすくすと笑う。 「──ばん。“ナイトレイド”で、全部台無しだ。全ての物語が血みどろだ。最悪だねェ」 「……なぜ、それを私に話す」 「そちらのほうが面白いからさ。そうだろう? 運命の少女をめぐる、悪魔と機械の戦いだ。こんなに面白いものはない」 「……」 「──アァ、その様子だと、君は知らないのか」  トラファマドールはくるくると傘を回しながら、重力を無視したようにふわりと飛びあがり、近くの電線に、ゆっくりと降り立った。 「お前は、それを見に来たというわけか、ドクトル」 「そういうコト。面白いじゃないか、ネ」 「……」 「“カンパニー”も、“コレクティブ”も、人間を滅ぼそうとはしなかった。自分を上位存在として定義させながらも、あくまで共存を目指している」 「……」 「分かるだろう、友人。彼らは人間を一種のランダマイザとして見ている。完全でありながら、“完全”で止まってしまっている僕らに、新たな乱数をたたき出してくれると期待している」  アンドロモンは息をつく。“カンパニー”の思惑は彼も知っていた。既に失われ、伝説となった力。 「……そうだな、彼らは人間を資源にするつもりだ。“究極”に至るための、可能性という名の資源にね」 「それなら、君は?」 「私は……」  アンドロモンは唇を噛み、ゆっくりと、頭上の男を見上げた。 「彼らを守りたい、と思う。彼らの可能性は美しい。消費するには、あまりにもね」  その言葉に、トラファマドールは高い声でけらけらと笑い、傘を広げた。 「ボクも同感だ。彼らの可能性はすばらしい! 物語として楽しまなくては、あまりにもったいないよ。……いいや、君やノスフェラトゥを含めてかな。期待してるよ。君たちの、物語に、ネ」  その言葉と共に彼はふわりと電線から飛び、そのまま、姿を消した。 「今の場所に、名残惜しいとか、そういうのはないわけ?」 「あるよ、あるからここに連れてきてもらったの」  交際七日前の午後、僕たちは初めて、ライブハウスではないところに来ていた。そこは近くの商店街にある雑貨屋で、地元名産の工芸品や、工芸品とも呼べない数々の品々を取り扱っている。竹で編んだ籠や野暮ったい手芸のぬいぐるみを、それでもつばめは目をきらきらさせて見ていた。 「先生も、皆も大好きだけど、それは大丈夫なんだ。みんな、私が幸せになるのを喜んでくれる、と思う。正直、ハルキの話してくれた話? わたしが死んじゃうって言うのも、いまいち信じられない」 「話を信じるかどうかは任せるけどさ、ちゃんと計画のこと、秘密にしてるんだよな」 「ばっちり、わたし、こう見えてうそは得意だから」  彼女はピースサインをつくり僕に向けて見せた。正直、彼女はもう何を言っても何をしてもかわいらしかった。 「ハルキこそ、大丈夫なの? その、あんどろさん」 「アンドロモン」 「うん。あんどろさん、連絡とれたの?」 「言ったろ。待ち合わせの日を設定されてるだけなんだ。以降は安全のため、接触は避ける、らしいよ」 「ふあんだなー」 「悪いけど、それにかけるしかない。それに」 「ん?」 「アンドロモンが嘘をついていたとしても、僕がなんとか君を連れていくよ」 「へー。ふうん」 「な、なんだよ」 「大好き」  つばめが僕の腕に抱き着いてくる。顔が真っ赤に染まる。そういえば、僕からはまだはっきり好きだとは言ってないな。とすると、まだ、彼女は交際相手ではないのか。早いところ言わなくっちゃな、僕は思った。 「話を逸らすなよな。友達も先生も名残惜しくないって言うなら、今日買いに来たのは誰への別れの品なんだよ」  それが僕が彼女をここに案内した理由だった。別れの品なんて、誰に渡しても危険だし、そもそも外のものをコミューンに持ち帰るのは“先生”に禁止されているらしかった。それがバレてしまっては、来週の決行日の外出許可すら怪しくなってしまう。アンドロモンがいたらきっと反対しただろうが、僕には去り行く場所の思い出を大切にするつばめを止めることはできなった。僕でさえ。母さんへの手紙を書いたのだ。 「うーん、えっとね。女の子。小さな女の子」 「それは、教団の?」 「うーん」つばめは片眉をあげた 「あの子、お祈りの時間にも見たことないんだ。みんなに話したけど、そんな子知らないって」  僕は黙って、彼女の方を見た。 「話すのはいつも夜。わたしの部屋に来るんだ」 「それって、随分変だな」 「そう? あの子だけは、私以外と一緒にいるとこ見たことないし。んと、心配で。何か、残して行ってあげたいんだ」  その内容に眉を顰める僕を前に、彼女は小さなぬいぐるみのかごをごそごそと漁り、やがてぱっと顔を明るくした。 「ね、これとか、どーかな。かわいいんじゃない?」  白いウサギのマスコットを手に、彼女は眩しい笑みを浮かべた。
White Rabbit No.9  庭‐Ⅱ”サイファイ・カルト” content media
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マダラマゼラン一号
2023年7月25日
In デジモン創作サロン
もし光が闇で  闇が光なら、  月は黒い穴だろう、  夜のきらめきの中で。  烏のつばさが  錫のように白いなら  こいびとよ、あなたは  罪よりも汚れているだろう ──ロス・マクドナルド「さむけ」  その墓所は、国道沿いのライブハウスのそばにあった。  あるいは、そのライブハウスは、国道沿いの墓地のそばにあった。  その国道は地方都市にならおよそどこにでもある、軽い上り坂になった道で、往来はそこまで激しくないが、近所では一番の危険地帯だった。歩道を上っていると、向こうから自転車に乗った学校帰りの中学生や高校生が9ミリパラベラム弾のように降ってくるのだ。  重い自転車のペダルを押して、ちょうどその坂を上り切りると、今度は自分が弾丸になる。断層に弾を込め、装填して、引き金を引こうか、というころになって、そのライブハウスは見えてくる。  古い三階建ての建物で、一階がガラス張りになっている。その一階は貸し物件になっていて、毎年秋くらいになると、スケートボードの専門店やら西海岸のファッションが売りの服屋やら、ブラジリアン柔術の教室やらが入っては、半年程度で消えていくのだ。  肝心のライブハウスは建物の端にある階段を昇っていくとある。二階は事務所と楽屋になっていて、三階がステージだ。ぎゅうぎゅう詰めにしてなんとか100人程度が収まるような小さなライブハウスで、それでも町にただ一つのライブハウスだった。ツアーバンドが来ることなんてなかったけれど、月に3度か4度、地元のバンドによるライブがあった。  今思うと、あれは正規のイベントではなかったのだろう。年の初めに「天使の日」が起きて、すぐの夏だった。高校はずっと休みで、テレビをつけてもACジャパンのコマーシャルばかりが流れていた。コンビニエンスストアでは平時の10倍以上の値段に跳ね上がったペットボトル飲料の棚が、それでもいつもからっぽだった。首都から遠く、遠く離れた東北の田舎町では、それがリアルな「世界の終わり」の限界だった。 空から東京をはじめとした全世界の主要都市に降り注いだという七本の槍の映像は、僕にはできの悪いコンピューター・グラフィクスにしか見えなかったし。それと同時にやってきた異世界からの移民を名乗るモンスター達についてのニュースは、まる二日泥水に浸した上でテナガザルに書き写させたアーサー・C・クラークの小説の筋のようだった。  ともあれそれは現実だった。不思議なほどに現実だった。サイファイ小説未満の現実の中で、彼らと人類は16の戦争をし、そしてすべて彼らが勝った。  だからそんな中で、ライブハウスだけが当たり前に営業できるわけもない。やはり勝手に行われていたフリー・ライブだったのだ。だって僕は受付でチケット代の一つも求められたことはなかったし、PAの小太りの女の子は惨めなほどに段取りが悪く、それでも異様なまでの熱量を持って仕事に当たっていた。  そんなわけで、やることもやりたいこともないティーン・エイジャーの僕は、あの夏じゅうライブハウスに通い詰めていた。 今思いだしても、そこは奇妙な空間だった。バンドマンたちは皆ラディカルで、何らかの主義や主張をもってステージに上がっていた。演奏がうまいバンドは一組もいなかった。  あるバンドは、人類の誇りのため、武器を持って彼らと戦え、と言っていた。 あるバンドは、彼らこそ完璧な存在だ、人類は終わった、と吐き捨てた。  あるバンドは、審判の時が来たから、ナントカ様の教えの下でともにハッピーになろう、と歌っていた。  彼らは皆バラバラのことを言って、それでもステージを降りると仲がよさそうだった。自分たちの主義とは真逆のことを言う相手の音楽に首を振り、ライブが終わると一缶2000円するビールを皆で分け合い、同じ女の子とかわるがわるホテルに入った。 そして不思議なことに、彼らはみんないつだって自殺の話をしていた。  でもそれだって、考えてみれば不思議でもなんでもないのだ。。スマートフォンを開いて、インターネットを覗いてみれば、そこは進行中の世界の終わりについてのニュースや言説で溢れていた。そこには、なにがしかの思想のために人を殺してもいいくらいの勢いの人間か、そんな人間に冷や水をかけて遊んでいる人間しかいなかった。自分で何かを考えてみようとしても、僕らが思いつくことは、どこかの歳を取った誰かが、はるかに気の利いた言い方で表明していた。 だから、僕らに残されていた気の利いた選択は、誰かの言葉を自分の言葉だと思いこんでいい気分になるか、7月の夕暮れ時にひぐらしの声を聞きながら首を括るかのどちらかだった。そして、どちらを選んでも大差はなかった。それが、僕らの世代だった。  そして、そんな名前のつけようもない世代の澱が生んだ奇妙な自殺同好会の中に、16歳の僕はいた。 僕は16歳で、ライブハウスに集まった皆よりも2つか3つ幼くて、それだけで、皆からほとんど無視に近い扱いを受けていた。時々、つまらない思想を年下の少年に語って聞かせて気持ち良くなりたい誰かが近寄ってくることはあったが、それもすぐに他の誰かに止められた。 「やめろよ、老害っぽいぞ。そういうの」  僕への話が説教臭さを帯びてくると、すぐにそうやって制止が入るのだ、興をそがれた語り手は赤面して、もごもごと詫びを言って去っていく。たしなめたほうも僕に一言謝って、シャーリー・テンプルをおごってくれるのだった。「老害っぽくなりたくない」ただその一点に関して、彼らは夜明けの国境線を吹き抜ける風のように高潔だった。  そんな彼らの高潔さのおかげで、僕はいつも一人だった。そして、それを大して寂しくも思っていなかった。もとより誰かと話しに来たわけでもないのだ。かといって音楽を聞きに来たわけでもない。世界の終わりに際するインターネットの狂熱に疲れて、誰かが自分の顔で物事を語っている場所が恋しかっただけだったのだ。  それに一人も悪くなかった。変なしがらみがない、ステージの上の誰かのゴキゲンをうかがう必要もない。バンドの演奏や曲が気に入らなければ、人目をはばからずに演奏の途中で出ていける。いつでも抜け出して、ライブハウスの外の階段に腰掛けることができるのだ。そうして夏の暑さに汗を垂らしながら、スマートフォンを開いて人々の声を覗き、死にたいな、と思うことができるのだ。  16歳の7月のある日もそうだった。シンガーは「No Woman No Cry」を歌っていた。ギターはうまかったが、歌は絶望的にヘタクソで、僕は撤退を余儀なくされたのだ。  階段に腰掛けて、しばらくぼうっとして、いつものようにスマートフォンを開きかけた僕の首に、不意に冷たい何かが振れた。びくりと体を震わせて、振り返る。 「ねえ、きみ」  そうだ。彼女はそうやって、背後から僕に話しかけたのだ。チャコール・グレイのタートルネックを着ていて、切りそろえた前髪は、汗を含んで彼女の額に貼りついていた。 「えーと、そのね、さっきの人、歌った後、皆にドリンクくれた、っていうか、その、おごってくれたんだ。だから」  そうして、彼女は表情をころころ変えて言葉を吟味しながら、僕に向かってシャーリー・テンプルの入ったプラスチックのカップをぼくに差し出した。 「2人分貰ってきたの。でね……」  時々、あの日に彼女と出会わなかったら自分がどうなっていたかを考える。そういう時に思い浮かぶのは、決まって深夜三時の寝室だ。その日の僕は何かとても憂鬱なことがあって、気分を晴らすためにいつもの倍くらいの金をかけて夕食を食べ、熱い湯を張った湯船に浸かったのだ。けれど全然気分は変わらず、僕は腕を顔の上に乗せて寝そべっている。  そろそろ窓の外で、汽笛が鳴るはずだ。僕は思う。近くに線路なんかない。でも僕は信じている。どこか遠くで汽笛が鳴って、僕の心も、地球の裏側の戦争も、世界の果ての涙の一滴に至るまで、皆をたすけてくれるのだ。  僕はそれを寝そべって待っている。でも汽笛は鳴らない。僕は信じている。それでも汽笛は鳴らない。ただ、魂の暗闇があるだけだ。 「いつもここでなにしてるのか、聞いてもいい?」 「……」 「あれ、微妙? えーっと、あ、順序違ったかな」  くるくると表情を考えながらしばらく考えて、、彼女は全てを仕切りなおすように顔を再び明るくした。 「そうだ、きみ、名前は?」 「……ハルキ。染野春樹」 「ふうん。じゃ、なくて、いい名前だね」 「……」 「あ、えっと!」  そう声を張り上げて、彼女は僕の顔を覗き込んだ。 「わたしは、つばめ。よろしくね」  彼女はそう言って、にこりと笑った。  16歳の7月、僕とつばめの、交際143日前の午後だった。  つばめは僕と同じ16歳だった。そして、少なくとも僕にとっては、ものすごい美人だった。あどけなさをほとんど捨て去ることのないままにのびのびと弧を描く眉を筆頭に、顔を構成するすべてのパーツが丸みを帯びているように見えた。背たけは同じ歳の大抵の女の子よりもずっと高かったが、その顔のおかげでずっと幼く見えた。  彼女は大体いつもチャコール・グレイのタートルネックを着ていた。ときどきはそれ以外のもの──麻をくすんだグリーンに染めたシャツを着てくることもあったが、その時もボタンを首元まで止めていた。真夏の、熱気に包まれたライブハウスではそれはきっと暑かったろう。じっさい、彼女は音に合わせて頭を振ったりするときはいかにもやりづらそうにしていたし、一つのバンドのショウが終わるたび外に出て、汗をだらだら流しながら、それを見かねたスタッフに渡された氷水を飲んでいた。  そして、彼女はあまり頭の良くない女の子だった。正確に言うと、頭の回転の遅い女の子だった。  何かをしながら何かを考えるというのがほとんどできないのだ。電話をしながら予定について話し、その予定をカレンダーに書き込む、ということができない。電話を終えて一息つき、それからカレンダーを取りだしてそこに刻まれた未来の日々に1日1日思いを馳せ、そしてようやっと日程を書き込む。2つか3つ記憶違いや書き忘れをしてもよさそうなところを、彼女は持ち前の清教徒的な律義さで補っていた。  彼女は頭が良くない女の子で、それ故にバンドマンたちの歌うことを誰よりも真剣に聞いて、考えていた。いつも最前列で、ステージとの間に渡された黒いバーに寄り掛かって、まっすぐにボーカリストの口の動きを追っていた。  そうして、演奏が終わって、バンドマンが楽屋から出てくると、彼女は彼らに駆け寄っていって、一生懸命に感想を語るのだ。思考を巡らせて表情をころころさせながら、一つ言葉を吐きだした後、すぐにまたそれを引っ込めて、表情をころころさせはじめる。  彼女のそういうところは、多くの場合、相手をいらいらさせた。16歳の女の子は彼女の他にいなかったし、もっとちやほやされていてもおかしくなかったが、彼女のそういうところのせいで、いやらしい目線で見られることはあまりなかったし、そういうことに関する知識もほとんど無いようだった。バンドマンたちはみんな演奏を終えて、これから女の子をひっかけてようというところなのだ。そんな時に自分の楽曲のメッセージに関するおよそ的外れな考察をじっくりゆっくり聞かされては、うんざりするのも無理はなかった。  だけど、そんな百面相を伴った思考の果てにつばめが吐き出す言葉は、彼女の言葉はそのすべてを補って余りあるくらいに素敵だった。それはあるいは、彼女が何も知らなかったからかもしれないけど。 それでも僕は、まず最初に彼女の言葉に恋をしたのだ。 「デジタル・モンスター」  交際85日前の午後。僕が呟いたその言葉に、つばめは顔をあげた。彼女は階段に腰掛けた僕の一段上で、自分の膝を抱きしめてしゃがみこんでいた。こうするとぼくたちの目線はちょうど同じ高さになるのだ。 「なに?」 「デジタル・モンスター、略してデジモン。向こう側からやってきたやつらが名乗ってた名前だよ。16番目の戦争が正式に終わって、国連と彼らの間でいろんな取り決めがされた。それにあわせて、彼らの使ってる名称を正式に使うことになったんだってさ」  そう言って僕はスマートフォンに表示されたニュースサイトを示した。つばめはスマートフォンを持っていなかった。というより、何も持っていなかった。彼女が自分で金を出して何かを買うのを、僕は一度も見たことがなかった。いつも手ぶらで、財布の一つも持っていないのだ。 「でじたるもんすたあ、かあ」つばめは僕の示した記事を興味深げにゆっくりと呼んで、最後にそう呟いた。でじたるもんすたあ、ひらがなでゆっくりと一文字ずつ区切ったようにそう言われると、それはなんだか異国のバザールで売られている、奇妙な形の玩具の名前のように聞こえた。 「えーっと、その人たちは、機械、なんだっけ」 「曰く、電子生命体、らしいよ」 「それって、なに」 「知らない」 「そっかあ」  息をするのも暑い夏だった。陽の光が肺に入り込んで、空気のやりとりをする細胞の一つ一つをじりじりと焼いているような、そんな暑さだった。 「その人たち、みんな姿はばらばらなんだよね?」 「そう。でも二種類に大きく分けられる」 「二種類?」 「悪魔と、機械」  それが彼らの姿だった。悪魔の集団と、機械の集団。彼らはそれぞれ派閥が違うらしく、大して仲もよくないようだった。 「他にもいろんな姿のモンスターがいるが」 ニュースの中で、記者団に対して真っ赤な顔に黒いラインが入った悪魔が言っていた。 「この世界に興味があったのも、そしてその興味を行動に移す力があったのも、我々《ウルド・コレクティブ》と、かのマシーン達《スクルド・カンパニー》だけです」 「アクマと、キカイ」燕は口の中でそれをゆっくりとかみ砕いていたようだった。 「どっちも怖いもの」 「え?」 「どっちも、怖いものだよ」つばめはなんだかすごいことを思いついたかのように僕の方を見た。 「別にすごくないよ」僕は肩をすくめた。「機械も悪魔もそりゃある意味では怖いけど、別にそれだけが特別ってわけじゃない。機械なんて、便利なもののイメージが強いし」 「でも、えーっと」つばめはさらに頭をひねる。何としてでも自分のアイデアをぼくに認目させないと気が済まなくなったようだった。そうして、しばらく、長い時間のあとに、彼女はぱっと顔を輝かせた。 「過去と未来だよ」 「今度は何」 「だから、悪魔と機械のこと」彼女は指を二本立てた。 「過去のことを考えるとき、私たちは悪魔に怯える。未来のことを考えるとき、私たちは機械に怯える」 「飛躍しすぎだよ」僕は言った。「それに、だから何って話だし」 「うーん、うーん」 頭を抱えはしたが、今度は彼女はそこまで悩まなかった。 「だからさ、人って怖いものを無視しようとするじゃない? 見たいものだけを見て、見たくないものは無かったことにする」 「ふむ」 「そうして私たちは怖いものを隠し続けた。なんていうか、世界の盲点みたいなところに」 「世界の盲点、ときたか」 「でもそこにもきっと限りがあったんだよ。人があんまりにも色んなものに怯えて、怖いものをぎゅうぎゅうにつめこんだから、ぱん、って弾けちゃったの」 「その結果が、今であると」 「そう、私たちは私たちが忘れようとしたものによって、終わりを迎えるのだ」  勿体ぶった口調で話を結ぶと、つばめは得意げに鼻を鳴らして僕を見た。 「やっぱりさっきの話の解決にはなってないよ」僕は言った。「悪魔と機械である必要はない。機械が未来的であるというのは百歩譲って分かるにしても、過去への恐怖は悪魔に限定できないんじゃないかな」  つばめはわかりやすくむっとした。 「じゃあ、他にあるの? 怖いもの、言ってみてよ。だいたいさっきから、私ばっかり考えてるし」  その問いに僕は空を見上げた。世界が終ろうとしているというのに、入道雲はどこまでものんきに、その巨大な首をもたげていた。 「天使、とか」  僕はぽつりとつぶやいた 「天使?」つばめは目を丸くした。 「天使が怖いの?」 「怖いだろう。人に羽が生えてるんだよ」 「綺麗だと思うけどな」 「実際に見たことないからそんなこと言えるんだ」 「染野くんは見たことあるの?」 「ない」  僕が憮然とした顔でそう言うと、つばめはけらけらと笑った。 「でも実際、いるのかな、天使のデジモン」 「ああ、それは──」僕はさっきの悪魔の記者会見を思い出した。  アメリカの大新聞の記者が質問に立ち上がる。彼は演台に立つ赤い悪魔にかわいそうなほどに怯えていたが、それでもジャーナリズムか何かに突き動かされて、目にはらんらんとした光を浮かべていた。 「ええと、フェレスモン、さん。あなたたちの世界──」 「“デジタル・ワールド”」 「失礼、デジタル・ワールドには、あなたたちや機械達以外にも、様々な見た目の種がいると仰いましたね」 「ええ、色々います」悪魔は頷く。「恐竜とか、巨大な獣とか、深海魚とか」 「なるほど」記者はジャーナリズムではなく、単純な知的好奇心から来る吐息を漏らした。 「その、ではあなたたちは、見た目通りの存在なのでしょうか。悪魔というのが我々にとってどんな存在かは、ご存知かと思いますが」 「ある程度までは、そうです」  フェレスモンは重々しくうなずいた。 「とはいえ、それはある程度までです。私たちは悪魔の姿をしているが、それ以前にデジタル・モンスターだ。あなた方の魂を奪ったり、堕落させるようなことはない。あなたたちの知っている悪魔とは切り離して考えていただきたい」 「なる、ほど」 「我々はあくまで友好を望みます。見た目は関係がありませんよ。個人として我々一人一人を見ていただきたい。あなたたち人類が同族に対してそうあろうとしているように」 「では、きれいな見た目で腹黒い天使もいるかもしれない、ということですか。我々も気をつけなくてはいけませんね」 記者はとしては精一杯の冗談を絞り出したつもりだったのだろう。 けれど、それに返ってきたのは。あまりに冷たい沈黙だった。 「いませんよ」画面の向こうの温度が3度も下がったように感じたあたりで、フェレスモンがぽつりと言った。 「え?」 「ない、と言ったのです」 フェレスモンと呼ばれたその悪魔は、光のない目で記者を凝視していた。 「と、いうと、天使の姿のデジタル・モンスターはやはり内面も、すばらしいとか」 「いいえ。いません」 「あの──」 「天使はいません」 フェレスモンはゆっくりと言った。 「もう、天使は一人もいません。わかりますか?」 「……」 「天使は、いないんです」  つばめは自分のことをほとんど話さなかった。話さなかった、とはいうけど、隠してた、というほどじゃない。僕が聞けば彼女はなんでもすぐに教えてくれたはずだし、実際に尋ねてみたこともあった。 「そういえば、つばめって、高校はどこなんだ?」 「高校は行ってないよ」 「中学でて、そのまま?」 「中学も行かせてもらってない」  実際に彼女はあっさりそう答えてくれたものだから。それきり僕は彼女にプライベートなことを聞くのはやめてしまった。 そんなわけで、僕は彼女のことをほとんど知らなかった。別に悲しむことじゃない。彼女だって僕のことはまったくといっていいほど知らなかった。 それでも、無粋に推し量ろうとするのなら、それはある程度までは可能だった。そして交際56日前の午後、僕は無粋な人間になろうとしていた。なぜかは覚えていない。彼女のことを想う気持ちが自覚していたよりも大きかったのかもしれないし、ただ前の晩に「シャーロックホームズの冒険」を読んだのかもしれない。 つばめはいつも、ライブを早く切り上げて帰っていた。だいたい4時半ごろ。不良少女にしてはあまりにも早い時間だった。 「いつも思うけど」 「ん?」  その日、僕は思い切って口を開いた。もうすでに夏と呼べる季節は終わっていて、彼女のチャコール・グレイのタートルネックは気温に似合いの服装になっていた。 「異様に門限が早いんだね」 「あー、うん。ごめんね?」 「あ、いや、いいんだけど。随分厳しい家なんだなと思って」 「うん」 「あ、ご、ごめん。気を悪くしたなら謝るよ」  僕はしどろもどろでそう言った。つばめに門限のことなんか聞いたのをもうすでに後悔し始めていた。いつもこうだ。地に足の着いた、並一通りの会話をしようとすると顔が赤くなって、上手く言葉を紡げない。 つばめは不躾な質問に不快感を覚えたようにも見えず、ただただ自分の帰りの早さを申し訳なさそうにしていた。こんな話はするべきではなかった。僕たちはいつまでも入道雲を見あげて、天使の話をしているべきだったのだ。 「私も残念には思ってるの。いつもライブのトリは見れないし。それに」  えっと、と言って、彼女はいつものようにたっぷり時間を置いた。ただそれは、いつものような百面相を伴っておらず、言葉に悩むというよりは、わかり切ったことを口に出すのに躊躇しているような、そんな感じだった。 「その、もっと、染野くんと話してたいし、」  最終的に彼女は、赤面しながら、そんな言葉を出力した。 「え、ああ、うん」  僕はしどろもどろになって、そんな言葉ともいえないような音の羅列を返した。自分の顔が紅潮しているのが分かって、それがたまらなく恥ずかしかった。  僕のそんな思考をよそに、彼女はなおもゆっくりと話を進めていた。僕たちの関係は、すでに見たことの無い場所まで進んでいた。後ろを振り返ると、遥か後ろに入道雲と天使が見えた。 「私ね、丘の上の家に住んでるの。大きな、赤い屋根の家。畑があって、少しは動物もいる。そこに、みんなと住んでるの」 「みんな」 「うん、あのね」そう言って、つばめは一層大きく息を吸い込んだ。 「私、選ばれたんだって」  つばめは自分の住んでいる場所のことを、慎重に言葉を選びながら、事細かに教えてくれた。 それはあまりに僕の知っている世界とはかけ離れていて、僕には上手くイメージができなかったが、彼女が、何らかの団体のコミューンのような施設で、共同生活を送っているということは分かった。 曰く、小学校にも中学校にも行ったことがないらしい。施設には「先生」がいて、必要なことはみんな教えてくれるというのだ。 曰く、毎朝5時に起床し、皆で本を読んだり、ヨガをしたり、畑仕事をして、自給自足の生活を送っているという。 曰く、子どもは特別な例を除いて、25歳になるまで施設の外に出てはいけないらしい。 曰く、彼女は選ばれたらしい。 「私は“選ばれた”から、こうして時々は外に出られる。みんなは今施設で読書の時間だと思う。それが終わるのが5時。それまでには戻らなきゃなんだ」 「本」 「うん、預言書。地球にやってきた宇宙人の話。私はよく分からないんだけどね。カレルレン、オーバーロード、ジャン」 「『幼年期の終わり』」僕は言った。「それは『幼年期の終わり』の用語だよ。預言書じゃない。アーサー・C・クラークのSF小説だ」 「染野くん、預言者アーサーをしってるの?」  頭痛がした。僕の腰かけているライブハウスの階段を視点に、世界がぐるりと一回転した。  曰く、その団体はSF作家を預言者として崇めている、らしい。善悪二元論的な世界観を採用しているらしく、預言者にも善き者と悪しき者がいるようだった。聞いた限りだとフィリップ・K・ディックとカート・ヴォネガットは「悪しき預言者」らしい。到底趣味は合わなそうだった。 「カルトにしたって妙だ」僕は率直な感想を口にした。 「嫌になることってないの?」 「どうだろ。分かんない」つばめは無感情に首を振った。 「どうだろ、って。そんな静かな環境が好きで好きで仕方ないなら、わざわざこんなところに来ないだろう。そもそも君はどうやってこんな辺鄙なライブハウスのことを知ったの?」 「社会科見学の時に見たんだ。外からでもわかるすごい音で、地響きがしてて、なにがあるんだろうって」 「それで来てみたら、ハマってしまった、と」 「だってみんな、聞いたことないことばかり言ってるんだもん。聞いたことないくらい音も大きいし」  そういってにこにこと笑うつばめに、僕は内心頭を抱えた。こういう時、どうすればいいのかまるで分からなかった。君のいる場所はおかしい、と否定するべきなのか、それが彼女の為になるかもわからなかった。 「だから、ごめんね」つばめは少し寂しそうに言った。 「ごめんって」 「変でしょ。こういうの」 「……」 「外を少し歩いてたら私でも分かるよ。これは変なんだなあって。施設の中にもそういうことをこっそり教えてくれる子もいるし、やっぱり、変なんだろうなあって」 「……」 「ご、ごめんね。やっぱり、私、もう──」 「別に」僕は急いでいった。焦っていたのが口調にあらわれていないといいと思った。 「悪魔がやってきて、世界が終ろうって時だよ。何が普通とか、変とか、そういうのって無意味だ」 「でも、やっぱり」 「──僕は、家に帰りたくない」  咄嗟に僕は喋り出していた。何か伝えたいことがあったわけじゃない。ただ、つばめにこのまま話を続けさせてはいけない、そんなエゴイスティックな感情が、僕の口を動かしていた。 「父さんは春に死んだ、電力会社の職員で、『天使の日』の後の激務と周囲からのプレッシャーに耐えられなかったんだ。薬で綺麗に死んで、遺書は後悔の言葉でいっぱいだった」  なんでこんなことを話しているのかわからなかった。 「『どうせ世界が終わると分かっていたら、一人でもっと好きなことをして生きればよかった』って、書いてた。母さんはそれから僕と一言も口を利かない。家には帰りたくない。あそこは世界の終わりよりも静かだ」  そこまで一息に言って、僕は一度口をつぐんだ。つばめは呆気にとられたように、僕の眼を見つめて硬直していた。 「今言ったことに別に意味なんかない。君が話してくれたから、僕も話そうと思っただけ。 とにかく、僕は家に帰りたくないし。どうせかえれなくてここにいるなら、君にここに居てほしいし。それっていうのは、つまり」  その、つまり。 「つばめ、君のことが──」 「なにをしているんですか。つばめ」 不意にそんな声が響いた。男の、良く響く胴間声だった。 僕は、咄嗟に階段の下に目を向けて、そしてぎょっとした。 そこにいたのは身長2mはあろうかという大男だった。がっしりとした筋肉質の体に、びっしりとしたスーツを着ていて、小さな黒メガネをかけ、夜の闇より黒い帽子をかぶっている。もしもマグリットの「人の子」のモデルがアーノルド・シュワルツェネッガーだったら、きっとこんな感じだろうとぼくは思った。 「いつもの集合時間になっても来ないので、迎えに来たんですよ」 「あ、ご、ごめんなさい、先生」  つばめが弾かれたように返事をする。とすると、僕たちは話に夢中でいつもの別れの時間を問うに通り過ぎていたらしい。今が一体何時か確認したかったが、スマートフォンを開いて時計を見ることはできなかった。本当に学校でこわい先生に睨まれた時のように、僕もつばめも固まっていた。 「なにもないならいいんです。帰りましょう。つばめ。ただでさえ特別扱いなのです。遅れてしまっては皆に悪い」 「は、はい。えっと、染野くん、それじゃ、私──」 「染野くん、ですか」  つばめの声を、先生と呼ばれた男は太い声で遮った。それと同時にどしどしと階段を上ってきて、座っている僕の前に立つ。 「こちらが、染野くん、ですか、つばめ」 「あ、その、はい。ここで知り合った人で──」  不思議なことに、しどろもどろになりながらも、つばめはいつものように時間をかけて言葉を吟味しなかった。「先生」との問答に使う辞書だけは、特別にインストールしているような感じだった。 「なるほど、ここで知り合った」  そう言って、「先生」は身をかがめて、僕に顔を近づけた。武骨で無表情な顔が、鼻と鼻がくっつきそうになるほど目の前にある。僕は息を止めていた。無理やり合わせられた視線を逸らすことすらできなかった。  そうして、どれくらい時間が経っただろうか。ふいに「先生」が口角を吊り上げた。 「それはよかった。これからも、つばめをよろしくお願いします。染野くんさん」  つばめの前でなかったら、きっと悲鳴を上げていただろう。ぞっとするほどに醜い笑みだった。  「先生」に手を引かれ、つばめはライブハウスを後にする。彼女は何度か振り返って口を開きかけたが、結局何も言わなかった。  「先生」との邂逅があって、もうつばめがライブハウスに来ることがなくなるのではないかという不安は杞憂だった。次のライブの時には、つばめはいつものようにそこにいて、ちょっと気まずそうに僕に笑いかけてくれた。 「その、この間はゴメンね」 「いや、時間に気づかなかった僕も悪いよ。あの後は、大丈夫だった?」 「うん、帰りの車でお説教はされたけど、結局門限には間に合ったし。先生、こわいけど優しい人なんだ」 「そう」  それで、その話は終わりになってしまった。僕も彼女も、あの時の会話の続きを望まなかった。いつも関係が戻ってきた。入道雲はもう見えなかったが、天使の話をするのは、やはり心地がよかった。  その頃からだろうか、僕は周囲でだれかの影を目にするようになった。  ライブハウスの帰りの夜道や、母がなにもしそうにない時にいくスーパー・マーケット。個人的な買い物で行く商店街にで、僕はそれをみた。  気のせいじゃない、それは大きな男の影だった、いつでも茶色いコートを着ていて、帽子を被っている。そんな人物が、僕に付きまとっているのだ。  頭を過るのは、あの日につばめを迎えに来た「先生」という大男のことだ。あの男のコートを茶色に変えたらあんな感じになるだろうか。そうなると、僕はつばめの所属する、珍妙なカルトに目をつけられたということになる。彼らの目的は何だろう。僕の家の本棚にある「追憶売ります」や「スローターハウス5」を焼き払うことだろうか。  警察に相談しようにも、そんなことにかかずらっている暇はどこの交番にもなかった。交通は恒常的にマヒしていて、いつでもどこかの大きな交差点に交通整理の警官が立っていた。 交通整理をしない警官は皆やめてしまったか、抗議運動をしているのだ。デジタル・モンスターと協力した人間社会の再編成が発表され、警察も例外ではなかった。    その日も、僕はコートの影を感じていた。いや、感じていた、どころではない。それはいつもより近くにいた。  それを感じ取ると同時に、僕は弾かれたように走り出した。迷いはなかった。今日こそはそうしようと、前々から決めていたのだ。毎晩チャンドラーを読んで頭の中で予行練習もしたのだ。  そこは駅前だった。世界の終わりでも、どこかにいかなければいけない人というのはいるらしい。ほとんど通常通りにそこは賑わっていた。ここなら匿名の追跡者も下手なことはできないはずだ。そんな場所を全力で走っている僕に注がれる視線も決して穏やかなものではなかったけれど、それどころではなかった。  人ごみを3つ、駅構内の商店を5つ通り抜け、気づくとぼくは地下道にいた。ぜえぜえと肩で息をする。この地下道では呼吸音も、いやに良く響いた。これなら静かに僕を尾行することはできない。あの影が本当に僕を追ってきているか音でわかる。本当に追ってきていたら──。こんな人気のない地下道で、僕は逃げ切れるか分からなかった。  別に死んだって苦じゃないな、と思った。それから、こら、と、つばめに言われた気がした。  かつん。革靴の音が響いて、僕の心臓は飛び跳ねた。追跡者だという確証はない。それなら。  僕は棒のようになった足に鞭打って走り出した。なるべく大きく足音を響かせながら。  するとすぐに、テンポの速くなった革靴の音が僕の耳に届いた。それはやがて走る足音になる。それは僕の予想よりも幾分速くて。  ちょっと速すぎる。そう思った時には、僕はコートの陰に追い越されていた。バカな。そこまで離れていたとは言えないが、距離はあったはずだ。こんな一瞬で追い越されるはずがない。  そんなことを考えている間にも、帽子をかぶったコートの男は僕の前に立ちはだかる。身長はかなり高いが、想像していたよりも随分と華奢だった。「先生」はもっと大柄だったはずだ。  僕は立ち止まり、ゆっくり後ずさりを始めた。 「あ、あんた誰」  男は黙っている。俯いているせいで顔は見えない。 「僕に何の用があるんですか」  男は黙ったまま、腕を帽子に伸ばす。どこからか機械の駆動音のような、きしきしという音がした。 「つばめのことなら、彼女と僕は本当にただの友人だ。つばめは責められるようなことは……」  そう言い終わる前に、男が帽子を脱ぎ、僕は言葉を失った。  そこにあったのは、確かに人型の頭部だった。けれど決して、人の頭ではなかった。  その顔の大半はぶこつな金属製のヘルメットで覆われていた。そうでないところからは血色の悪い肌がのぞいている。ヘルメットの鼻や目の部分には穴があけられていたが、呼吸音は聞こえない。そのうつろな目は視線こそこちらに向けているが、何も見ていない。まるで儀礼的に意味があるから穴をあけているだけ、といった感じだった。  つまりそれは、くずのようなサイファイ漫画に出てくる、アンドロイドそのものだった。  恐怖のままに僕はその場にへたりこむ。それを見て、アンドロイドはコートの胸に手を入れた。拳銃だ。僕は思った。きっとセンスのない光線銃が出てきて、僕はセンスのない焼死体になるのだ。  けれど見ていれば、アンドロイドが取りだしたのは、黒い何か──手帳だった。 「驚かせてすまなかった」  つづけて、びっくりするほど優しいこえがその喉から洩れる。そうして彼が開いた手帳には、ドラマや映画で見慣れた、桜の代紋があった。 「私はアンドロモン。警視庁に配備されたデジタル・モンスターだ」 「警察?」僕は唖然として、それ以上のことは何も言えなかった。 「そうだ、まだ試験的、だがね。君はソメノ・ハルキだな」  黙ってうなずくと、アンドロモンはこちらに近づき、腰を抜かした僕に視線を合わせるようにしゃがみ込む。そうして、その口を開いた。近くで見ると、その口は人間のものとなんら変わりがなかった。 「おねがいだ。つばめを助けるために力を貸してほしい。」  ぼくとつばめ、交際40日前の午後のことだった。
White Rabbit No.9 庭 - Ⅰ/スーサイド・ファンクラブ content media
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マダラマゼラン一号
2023年1月10日
In デジモン創作サロン
in Rainbows─或いは、漂流大陸五番地の風は如何にして彼女の内側を通り抜けたか─   一番地の地下の下水道には、真っ白い蛇がいるんだって。 表通り近くの路地裏、ほら、さとう病院の裏のあそこだよ。路地の入口から数えて三番目のマンホール。夜になるとあそこから顔を出して、近くにいる子どもを食べちゃうんだ。  蛇と出会って、助かった子どもなんて、一人もいないよ。  気を抜いちゃいけないよ。隙を見せたらいけないよ。気を付けてないと、見事にからっぽなんだから、わたしも、あなたも。    あの人はそうもいってたっけ。 「そんなに固まらなくて大丈夫だよ」  ごく新しく見える小学校の廊下。わたしの隣をあるくおじさん先生が、やさしい声をかけてくる。いや、固まってないです。 「ここは新しい街の新しい学校だ。クラスも小さくて、ほとんどが外の街から転校してきた子だから、打ち解けるのにもそう時間はかからない。フブルさんと同じで頭が良い子も多いし、きっとすぐに友達ができるよ」  それはどうかな。わたしは少しだけいじわるに唇の端を吊り上げる。先生──確か名前はゴトウ・ハルキだったはずだ──は悪い人じゃなさそうだったけど、わたしの境遇やら何やらを見るからに持て余しているようだった。これまでもそういう人の方がずっと多かったし、今さら何というわけではないのだけれど、あと、固まってないです。  そんなことをおもっていれば、気づけば私は教室の前に立っていた。真新しい教室で、中からは賑やかなざわめきが聞こえる。ゴトウ先生が言っていたとおりそこまでの人数はいないらしいが、それでも小学生は小学生だ。あまり頭がいいとは思えない。 「さ、私が入るから、呼ばれたら入ってきてね」 「だから、固まってないです」 「ん、どうかした?」 「あ、いや、なんでもないです」  顔を赤くして俯いたわたしをもう一度何事か励まし、先生は教室に入っていく。今日は新しく転校してきた子がいます。ざわめき。ハイ、静かに。それじゃあ、入ってきて。  わたしはおそるおそる扉を開けた。視線が私の頬に突き刺さるのを肌で感じる。肩をこわばらせながらみんなの方に一瞥もくれずに黒板に向き直ると、自分の名前をいくぶん小さく書く。 「ヒラノ・フブルです。よろしくお願いします」  その後に何か付け加えることを求めるような数秒の沈黙を耐えきれば、再びささめきが教室中に広がっていく。それを制して、ゴトウ先生は教室の後ろを指さした。 「あそこ、秋波くんの隣の席があいてるから、フブルさんはとりあえずそこの席に座って」  それにはさすがにわたしも声をあげた。 「シューハ? サギサカ・シューハ?」 「あれ、知り合いだったかい?」  ゴトウ先生の素っ頓狂な声を浴びながら、わたしは自分のものだといわれた窓際後ろの席に目を向ける。彼と目があえば、前に一度記憶したわたしよりも長いおかっぱ頭の黒髪が、小さく手を挙げて応えて見せた。 「ああ、はい。前に会いました」 「それなら丁度いいね。秋波くんも色々教えてあげなさい」  その言葉を背に受けながら、わたしは教室を横切り、サギサカ・シューハの隣に座った。すぐに彼が身を乗り出して、ささやき声を投げてくる。 「やあ、昨日ぶりだね」 「この学校にいるってのは知ってたけど、クラスまで一緒だとは聞いてない」 「ぼくも転校生がいるって聞いてびっくりしたんだけど、同い年だったんだね。歳は聞いてなかったっけ?」 「聞いてたら覚えてる」 「はいはい」 「なに、はいはいって……」 「仲良しみたいでよかった。でもおしゃべりはまた後でね」  ゴトウ先生のその声にわたしとシューハが顔を前に向ければ、小規模なクラスの全視線がわたしたちに向けられている。身を縮こまらせたわたしに、先生が声をかけた。 「ところで平野さん、今日はこれから授業だけど、教科書は?」 「あ……」先生が気に留めるのも無理はない。わたしは見るからに手ぶらだ。 「もしかして、忘れちゃった?」  忘れた、というか、えっと。 「それじゃあ、とりあえず今日のところは秋波くんに見せてもらって。次からは気を付けてね。秋波くん、いいかな」 「はい」  わたしの無言の反論を遮った先生の言葉に、シューハは頷いて、机を引きずって私の席に寄せてくる。わたしも諦めたようにため息をついて、椅子に深く座りなおした。 「ねえ、もしかしてフブル」 「うん、昨夜全部覚えた」 「はあ、なんていうか、うん、そっか」  ため息をつくシューハに、わたしは大げさに肩をすくめてみせた。 ------------------------------------  するぎスマートシティ推進特区。。 平浜県の山地にあるなんということもない寂れた町だった駿木町が、構造改革特区制度によってそんな別名を得たのは2033年のことだった。地元の大学であり、もともとスマートシティの構想及び日常生活に応用できるデジタル技術の開発を推進していた平浜大学がキャンパスを一つ開いたのを皮切りに、様々な研究施設が行政の支援を受けつくられた。 ──それでも、町の見た目は私の地元とさして変わらないな。  そんなするぎの玄関口である駅──町らしい町と隣接せず、田畑と山によって外界と隔絶されたこの町では、駅が文字通りの玄関口だった──その改札口を出たスーツ姿の男が一人、額に浮き出る汗をぬぐって、そんなふうに呟いた。 駿木市の開発が決まった時、行政及び平浜大学が直面したのが、もともと住んでいた住民たちによる反対だった。地元の老人たちが中心となって、昔ながらの街を守るために運動を起こしたのだ。平浜大学の近辺には他に町もある中で、開発地域に駿木が選ばれたことに行政が明確な根拠を示さなかったことが、かれらをヒートアップさせていた。  とはいえ、開発に際してのそのような反対運動はつきものだし、この手の対応に慣れているのは行政の方だ。手厚い保証、そして昔ながらの街並みをできる限り保全するということを条件に、かれらはさして時間をかけず開発を受け入れた。結局のところ、そのままの駿木市に未来が無いことは、長くそこに住んでいた彼らが誰より知っていたのだろう。  結果としてするぎの街並みは最先端の技術とどこか懐かしい空気が同居した奇妙なものに仕上がった。町には研究者や新興IT企業、その家族が流れ込み、商店や行政施設も新たにつくられた。当初は新住民との間に隔たりをつくっていた旧住民たちも、いまでは最先端の便利な暮らしと経済効果を享受している。『ひととまちがリンクする』をキャッチコピーに平浜大学が開発したウェアラブル端末“VITAL-BRACELET”の住民への普及率が98%を超えたことがその何よりの証左だろう。  男はもう一度するぎの街並みを見回し、唇をかみしめる。見た目は四十代ほどだが、生気に満ちた表情と整った眉のおかげで、十歳下と言っても通りそうだ。けれど今、彼はその眉を顰め、険しい表情を浮かべていた。  昔は自分も行政側の代表として反対する住民の家に頭を下げて回り、早急に話を進めたがる大学側に、街並み保全の条項を飲むように説得をしたものだ。彼は思う。でもそれは、決してノスタルジーと共に思いだしていい話ではない。自分がそこまで躍起になって事に当たったのは、駿木市を特区指定する本当の理由を住民たちに隠さなければいけない罪悪感からだったからのだから 「白鳥監査官、ですか?」  そのように呼びかけられ、スーツの男は思考の海から浮上した。振り返り見てみれば、三十代ほどの男が自分に向けて一つお辞儀をした。清潔なブルーのシャツに、音が立ちそうなくらいぱりっとした白いズボンが眩しい。ここは研究者とIT企業の町だ。フォーマルな場でもスーツを着ることはめったにない。それを加味して考えると、目の前の男の出で立ちはこの町ではかなり生真面目な方に分類されるのだろう。 「はじめまして。平浜大学スルギ総合研究センターの鷺坂雪彦(サギサカ ユキヒコ)と申します」  男が名刺を差し出してくる。改めて見てみれば、丸みを帯びたその顔にはしっかりとした格好とは不釣り合いなほどにあどけなさが残っていて、まるで余分な部位をそぎ落とす最後の工程をすっ飛ばして出荷されてしまった出来損ないの工業部品のようだった。研究者の顔だ。白鳥と呼ばれた男は思った。それも一流の研究者だ。 「ありがとう。白鳥正人(シラトリ マサト)だ。国立情報処理局情報通信戦略課長。今回は監査官としての立場だが、センターで起きた事態に対する対処も任されている。 「ええ、把握しています。“怪物屋”ですね」 「好きに言えばいい。迎えには倉科が来るものと思っていたんだが」 「倉科センター長は今回の事態の対処に追われていまして」  その返答に白鳥は大きくため息を吐いた。そのまま大股で歩き出せば、慌てたように鷺坂もついてくる。 「何かに追いたてられるような男じゃないよ。私に顔を合わせたくないんだな」 「センター長とはお知り合いでしたね」 「昔のな」 「センターに務めるものは皆知っていますよ。白鳥さん。十年前、センター長と共同で“デジメンタル”理論を提唱した。人間の感情の動きの分類をインプットした電脳を人間のバイタルとリンクさせ、簡易的・疑似的に電脳化したといえる人間同士の社会を作り上げることで、社会生活の中で起こる一部感情の高まりに対応した電脳体“デジメンタル”を採取することが──」 「君がいった通り、それを考えたのは私たちだ。講義は不要だよ」  うんざりした顔で白鳥は鷺坂の言葉を遮る。研究者の悪癖はどこも変わらないな。 失礼しました、といって、鷺坂が一台の車に彼を案内する。シートに深々と腰掛けながら、白鳥は懸案に関する問いを投げた。 「それで、サンプル第Ⅴ号の脱走については?」  それを聞かれたとたんに鷺坂は苦虫を嚙み潰したような顔で、手首のバイタルブレスを操作した。同時に白鳥の端末が震える。それを開けばごく簡易的な資料が目の前に展開された。 「ことが起こったのは昨日の午後17時23分のこと。第Ⅴ号にモニターした特区全体の情報を与える実験の最中でした。 “古代種”として分類されている第Ⅴ号が興味を示す特定のバイタルを探すため、一日に一度行っていた実験でした」 「実験の最中?」白鳥は眉をあげる。 「複数人の研究員がそれを見ている中での脱走劇だったというわけか」 「ええ。当然第Ⅴ号は閉じた電脳の中に閉じ込めていたんですが」鷺坂は首を振る。 「一昨日のデータを与えたとたんにⅤ号の活動が活発化しまして。自分のいる電脳から出たがるような反応を見せたんです。その直後に電脳が何者かによってネットにつながれて──」 「問題はそこだ。第Ⅴ号が異常な反応を示し、それに呼応するかのように研究所内の何者かがⅤ号を外に出した。私が監査官として来たのもそのためだ」 「わかっています」心底うんざりしたように鷺坂は頷いた。 「現状全ての研究が一時停止、研究員も皆連絡の取れる状態で待機を命じられています。内部の人間がⅤ号を外に出したなら大ごとだ。実験中だったとはいえ、Ⅴ号のいた電脳のセキュリティは厳重でした。ネットさせるには高位のライセンスが複数必要です。ひとつはセンター長が持っているけれど、同様の権限を持っている人はあの街に他にいませんでした。センター内の人間が外部の協力なしに開けるのは不可能です」 「ハッキングは?」 「極めて困難です」 「不可能ではない、ということだな」 「一般論を言えば、どんなシステムだってそうですよ」 セキュリティの内側にいる場合は特に。白鳥は口の中で呟く。 「第Ⅴ号の追跡は?」 「ある程度までは追えました。特区内の回線を行き来しているようでしたが、脱走から27秒後に完全にネットから気配が消えて──」  その言葉に、白鳥は深くため息をついて、眉間を抑えた。 「 “リアライズ”か」 「おそらく」 「由々しき事態だ。平浜基地に連絡は? こういう時のために自衛隊基地がほど近い駿木に特区を建設したはずだ」 「すでにセンター長が連絡済みです。有事の際にはすぐに動けるように待機してもらっています」 「住民に避難勧告は?」 「いいえ。機密保持の観点と、Ⅴ号自体にリアライズしてもそこまでの危険性が無いことから、センター長の判断で出していません」 「悠長だな。連中は一度“リアライズ”すると完全に現実の生き物と同じ原形質を得る。下手をすると町から出られる可能性もある。そうなったらもうみつけることは難しいぞ」 「分かっています。 “リアライズ“する際にデジタル・モンスターの発する微弱な電磁波を手掛かりに捜索を試みてこそいますが、正直望み薄です。連中、人の背丈よりずっとでかいのもいるくせして、ほんの少しの電波異常だけで実体化しやがる」 「災害級のはまた別さ」 「例外中の例外の話じゃないですか」  そこまで吐き出してから、鷺坂は首を振る。 「すいません、愚痴っぽくなってしまって」 「いいや、無理もない。連中との戦いは壁に頭を打ち付ける作業に近いからな」  そういって白鳥は資料を映した手元の端末をスクロールする。 「Ⅴ号が異常反応を示した日のデータの解析は?」 「始めていますが、多くの職員が潔白の証明を待機して待っている状態で、おまけに住民全員の膨大なバイタル・データですので。解析には時間がかかります。ですが」  その言葉と共に鷺坂は端末を指さす。 「一昨日、新たにバイタルブレスを登録した二名。トオヤマ・ケンジにヒラノ・フブルか」 「特にヒラノの方ですね。まだ11歳の女の子なんですが、バイタル値が──」  その言葉を聞きながら資料に目を通した白鳥が不意に眉をあげた。 「心拍の急激な変化にブレスレットが反応。 “デジメンタル”か?」 「おそらくは。確認のため、センター長が直接出向いてます」 「倉科がか」 彼は大きくひとつため息を吐く。 「アイツは変人だ。何もないといいんだが」 「そうですね。小学生との接触ですし」  そう言って鷺坂も特大のため息を返した。白鳥はちらりと隣に目を向ける。 「気がかりなことが?」 「いえ、すみません。ただ」 「構わない。言ってくれ」  その問いに、彼は黙って視線を窓の外に泳がせた。それにならって白鳥も町を見つめる。昔の街並みを残した誇りのようなこの町は、しかし今見ると、脱色され、代わりに鮮やかな薬品を流し込まれたプリザーブドフラワーの集まりのようにも見えた。 「この町に、子どもがいるもので」  鷺坂が、何か恥ずかしいことでも言うかのように、小さな声でそう呟いた。 「あの、ほんとに見なくていいの?」 「37ページ。少数と少数の割り算。でしょ? いまやってる題問2のカッコ1の問題は──」 「はいはいはいはい、わかったよ」  うんざりしたようにそっぽを向くシューハに、わたしはちょっと得意げに鼻を鳴らす。今は算数の時間中、後ろでのこそこそ話にゴトウ先生は比較的寛容なようで、わたしたちは快適にサボることができていた。  いいや、別にわたしは話がしたいわけでもサボりたいわけでもないんだけどな。話しかけてくるのはずっとシューハの方だ。驚いたことに五時間目まで喋り通しだ。合間の休み時間にはクラスの他の子から囲まれ質問攻めにあってるのに、これでは気の休まる暇がない。 そう思った次の瞬間にはもうシューハがまたわたしの方を振り返ってくる。ザシキワラシさながらのおかっぱ頭を構成するさらさらとしたその髪は少しの光も通さないほどに黒く、肌は夏の最中だというのに真っ白だ。その肌の上に轢かれた線の細い眉と目と鼻と口の配置は改めて見てみると、おそらく、かなりきれいなのだと思う。見ていると腹が立つ。 「それで、フブルのその記憶力なんだけど」 「うん」 「どの程度なんだい?」 「この町の地図は全部覚えたって話はしたよね」 「それは流石にもう嘘だとは思わないよ」 「今年の教科書も全教科分覚えた」 「とんでもないってことはもうわかるからさ、こう、範囲とか、限界とかってないの」 「うーん」  わたしは首をひねる。自分の物覚えの程度が人とは違うことは昔から嫌というほど思い知らされてきたけれど、それをわざわざ人に説明しようとしたことはなかった。おにいちゃんはなんとなくで分かってくれてるし。 「そうだな、覚えられるのは、見たもの、聞いたこと、嗅いだにおい」 「だれでもそうじゃない?」 「一瞬でも見たもの、聞いたこと、嗅いだにおい、全部。覚えてられる? わたしがしてるのはそれ。……何その顔」 「いや、実際に見てるからもう疑わないけど。なんていうか、とんでもないなって。いつまでも覚えてられるもの?」 「さすがに赤ん坊のころのこととかは覚えてないよ。それに、低学年のころはまだちゃんと曜日とか時間とか分かってなかったから。例えばどんなご飯たべたかは全部覚えてるけど、それが何月何日の何曜日かとかは、正直ぼんやりとしか覚えてない」 「映像は覚えられるけど、それを系統だてて覚えることはフブル自身の頭が追いつかない、って感じ?」 「ムカつく言い方だけど、そう。系統? っていうのも、言葉と意味は分かるけどすぐにはよくわかんないし。だから──」 「はい、それじゃあフブルさん、ちょっと応用の文章題だけど、カッコ3の問題わかるかな」  ふいに自分に向けられた先生の声にわたしは弾かれたように立ち上がる。37ページの題問2のカッコ3、問題は一言一句覚えている。いるのだが。 「……わかりません」 「はい、それじゃあ隣の秋波くんは?」  隣でそう指されて立ち上がるシューハと引き換えに私は大人しく座った。そう、わたしが覚えられるのは文字や風景だけ。でも、それは瞼が全ての瞬間にシャッターを切っているようなもので、何かの意味に結びついた記憶じゃはない。だから、それが示す意味は分からない。当然、問題の答えも分からない。これはわたしが子どもであるせいなのか。わたしがわたしであるせいなのか、それも分からなかった。  わたしの隣でシューハはすらすらと先ほどまで見てもいなかった問題の答えを導いている。その正解までの筋道を頭に刻みながら、わたしはため息をついた。若干の手続き上のミス──おじさんは先生たちにも一度も顔を見せなかったらしかった──のせいでわたしがやってきたのは三時間目。それからずっと喋り通しのくせして、シューハは自分が質mんをするばかりで、肝心なことを何もしゃべらなかった。そう、例えば──。  どたん。教室の後ろで響いた音にわたしを含めクラスの全員が振り返った。見れば教室の後ろにあるロッカーから、一つのオレンジ色のランドセルが転がり落ちたようだった。 「オレンジ色! シューハのだろ!」クラスの男の子の誰かが言った。 「あ、ほ、ほんとだ、ご、ごめんなさい」  クラスに笑いが広がる。先生に戻してくるように言われ、シューハはぺこりと頭を下げてランドセルに駆け寄った。  そのランドセルをロッカーに戻す時に、彼がランドセルの中を軽く伺って何かをささやきかけたのを見て、わたしの頬からさあっと血の気が引いた。  いや、まさか、そんなわけないと思う。けれどわたしのその希望は、隣に戻ってきたシューハの蒼くなった顔と、その後の算数の問題の解き方を述べる、さっきまでとは比べ物にならないほどにたどたどしい口調に打ち砕かれた。  問題を解き終わり、冷や汗を垂らしながら崩れるように腰かけたシューハにわたしは詰め寄る。 「え、ちょっと、ねえ」 「うん、ごめん」 「え、うそ」 「ううん、嘘じゃない」 「連れて来ちゃったの? あの子のこと!」 ------------------------------------  昨日の夕方。巨大な白蛇に襲われたわたしたちの命を救った仮面の鬼人、そしてその鬼人が光とともに消えた後に残されていた小さな青い“恐竜”。 夕陽が照らす小路ですうすうと寝息を立てるそれを挟んで、わたしとシューハは途方に暮れていた。 「え、 “恐竜”?」 「そうじゃないの、見るからに。ちっこいし、青いし」 「……」  シューハはそれを見下ろし、口をつぐんだ。 「ちょっとシューハ? 訳が分からないのはそうだけど、とりあえず助かったんだし、元気を──」 「すごい! すごいよ!!!」 「は?」 「 “恐竜”だ、ホントにいたんだ! 大きさからして子どもかな。でも体の色もカタチも、図鑑で見る恐竜とは全然違う。学説を覆すような新種なのか、そもそもほんとうに“恐竜”なのかな……」  突然の大声に唖然とするわたしをよそに、シューハはぶつぶつと何事かを喋りながらその竜をためつすがめつ見たり触ったりている。とてもさっきまで死を目前にして涙を流していたようには見えない。わたしはため息をついた。おたくくん、ってやつだな。 「ちょっと、あんまり揺すっちゃかわいそうでしょ」  わたしがそう声をかければ、はっと我に返ったようにシューハはこちらを向く。 「そ、そうだね。ごめん。ね、あの蛇はどこに行ったんだい? それにこの“恐竜”はどこから?」 「蛇は逃げた。大きなひとが助けてくれたの」  そう言ってわたしが仮面に木刀の鬼人と、彼がわたしたちを助けてくれたこと、そしてその後に恐竜がいたことを語れば、シューハは考え込むように顎に手を当てた。 「ふむ、つまり、その仮面のひとが、そこの恐竜に変わっちゃったのかな?」 「そんなことって」  あるわけない。そこまで言いかけてわたしは口をつぐんだ。あんな大きな蛇だっているわけがなかった。そんでもってその蛇が飛ぶわけがなかった。 「まあ、そういうこともあるのかもね」 「それって、どういうことなんだろう。ねえフブル、これはもしかしたら大発見かもしれないよ! あ、ところで」彼はそう言ってわたしの方に目を向ける。 「あれ、どうなったの? きみの“おまじない”」 「そういえば……」  お母さんが教えてくれたおまじないと一緒に、地面に手を突っ込んで取りだしたあの卵のようなオブジェは、あの鬼人のしゅつげんと入れ違いに消えてしまい、今も行方は知れなかった。  どこかにいった、そうシューハに応えようとしたとき、わたしの手元で小さな電子音がした。見ればそこで、バイタルブレスが画面を光らせ振動している。 「あ、これ……」  わたしがそう言って左手首を差し出せばシューハも同じように画面をのぞき込む。そこにはグリーンの、つぼみのような卵のような、あのオブジェのドット絵が映し出されていた。 「ここに入っちゃったの?」 「かもね、それにこれ」  そういってシューハがわたしのブレスレットの縦長の液晶画面の上を指さす。そこには先ほどまではなかった、何かのエンブレムが刻まれていた。 「これ、V? アルファベットの」 「そう見えるね。Vと言えば」  そう言って彼は背後で眠る恐竜の額を示す。その竜の青い額には、黄色く、アルファベットのVが刻まれていた。 「わ、ほんとだ」  そう言ってわたしもシューハにならい、指先でその竜に触れる。思いの外つるっとしたその肌を撫でると、またバイタルブレスが振動した。画面を見れば、何かの文字列が得意げに点滅を繰り返している。 「“Ⅴ‐mon”。ブイモン? それがこの子の、名前?」 「驚いた。まさかバイタルブレスにこんな隠し機能が──」  そう言ってシューハが言葉をつづけようとしたとき、わたしのブレスレットから今度はけたたましい電子音が鳴り響いた。 「ひゃあ!なに、なに?」 「ああ、通話機能だよ。えっと」  シューハがわたしの手首に手を伸ばしてボタンを押せば、うんざりするほど聞きなれたうるさい声が鳴り響いた。 『おいフブル! どこでなにしてるんだよ!』 「あ、おにいちゃん」 『ちゃんと帰るって言ってただろ! さすがの天才少女も迷ったか? だったら迎えに行くけど、寄り道してたんなら許さないからな!』 「寄り道してた」 『よーーーし、おにいちゃんもう許さないぞ。帰りにコンビニで買ったチキンカツ弁当、もう食べ始めるぞ。自分の分食べ終わったらフブルのにも手出すぞ!』 「デザートは?」 『奮発してティラミスだぞ』 「そっちにまで手出したらもう二度と口きかないから」 『わかったわかった。って、なんで俺が条件飲まされてるんだよ! いいから早く帰って来いよ! 暗くなっても帰ってきてなかったらまたかけるからな!』  がちゃり、なんて音はしないはずなのに、音が出るほどの勢いで通話は切れて、わたしはほっと息をつく。まったくもっていつものおにいちゃんだが、おそろしい大蛇に殺されかけたあとだといつものおにいちゃんでも案外安心できるものだ。 「なんだか、すごい勢いだったね」 「今のが、わたしのおにいちゃん。そうは思えないけど高校生。ついでにいうとわたしの実のおにいちゃんじゃない」 「はあ」 「そう、わたしは家に帰るとおにいちゃんがいる。だから──」  わたしはこの期に及んで眠り続けている蒼い竜──ブイモンに目を向けた。 「その子は連れて帰れないよ。どうする? ほっとけないでしょ」 「僕が連れて帰るよ!」わたしの問いに半ばかぶせるようにしてシューハが言う。 「即答だけど、ホントに大丈夫なんでしょうね。家の人に見つかったりしない?」 「大丈夫! ママはいないし、パパは研究者で滅多に帰ってこないからね」  わたしはちょっと眉をあげる。何か言った方がいいかな。いや、わたしはそうされてもいい気分にはならないし、大人しくしておこう。ブイモンのこと連れて帰ってくれるのは助かるし。 「ならいいけど。あんまり撫で繰り回さないでよ。気を付けて。起きたらちゃんとご飯あげてね」 「賛成だけど、さっきから随分“恐竜”の心配するよね」 「小さい動物は心配だよ。それに」  わたしは竜のすうすうという寝息に耳を傾け、くすりと笑う。 「ちょっと、かわいいじゃん」 ------------------------------------ 「で、なんであの子──ブイモンのこと、学校にまで連れてきてるの!」  授業中に許される最大限のボリュームのささやき声に、これまた最大限の怒りを込めて、わたしはシューハに詰め寄った。 「ほんとにごめん、でも、昨夜は急にパパが帰ってきて」 「研究者で忙しいんじゃなかったの?」 「だから急だって言ったじゃないか。おまけに朝になってもなんでかお仕事にいかないし、困ったみたいにずっと誰かと電話してたし。家にはおいてられなかったんだよ」 「だからって、ランドセルに閉じ込めてちゃかわいそうでしょ!」 「どうしようもないだろ。それに、昨日からずっと寝てて起きないんだ。今も寝返りうっただけみたいだし」 「だからって……」  わたしがなおも彼を非難しようした時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。五分の休憩の後に帰りの会。そしたら後は放課後だ。休憩時間の様子からして、放課後もわたしは質問攻めにあうであろうことは確実だったが、今は正直謎の竜と未解明の白蛇の謎の方が大事だった。そうじゃなくてももう転校生に向けられる奇異の目にはうんざりだし。 「シューハ、帰りの会終わったらわたしは走って逃げるから」  そうして始まった帰りの会、先生が退屈な注意を述べるのを聞きながら、わたしはシューハに一方的にそう宣言する。 「校舎の裏の方、ヘチマの鉢植えが並んでるとこ、あるでしょ? そこで待ってるから、ブイモン連れてきて。そこでこれからの話しよう?」 「転校初日なのに、学校の見取り図ももうインプット済み?」 「ざっつらいと。それじゃ、ほら、もう終わるよ」  きりつ、きをつけ、れい、さようなら。の、れい、のあたりでわたしは身をかがめて教室の後ろを走り抜け、後ろの扉から廊下にとびだした。そのことに気がついたのか後ろの方の席の子たちから声がかかる。まずは早く逃げなくちゃ。昇降口に行くにはそこの廊下を──。 「ひゃ!」 「わ、こら。廊下は走っちゃダメだよ」  角の向こうをきた誰かにぶつかった、そう思った瞬間に。わたしの体はそのまま抱き留められた。見上げれば、女の先生が、咎めるような眼でわたしを見下ろしている。若くてかわいい先生だ。茶色がかった髪を横にまとめていて、胸にはなにかピンバッジのようなものが輝いている。 「初めまして、かな。もしかして転校生の子?」 「あ、えっと、その」  参った。このままここで先生と自己紹介なんかしていては他の子が追いついてきてしまう。 「ね、ちょっと、ヒラノさーん!」  ああ、もう追いついてきちゃった。わたしは心底恨めしげな顔をその先生に向け、心底絶望した顔で振り返る。そこに居たのは今日私に話しかけてきた子の中でもひと際声の大きい女の子たちの集団だった。色々聞いてきたし、一緒に帰ろうとも誘われたが、彼女たちの言いたいことを一言で要約するのなら、自分たちの友達になるか、それともクラスでのすべてを失うか選べ、といったところだろう。わたしとしてはゆっくり時間をもらったうえで、回答はうやむやにしてしまいたかったのだけど、これでもうおしまいだ。  しどろもどろになるわたしの後ろで、女の先生がその子たちに声をかける。 「美奈絵さんに裕子さん、柑奈さんもこんにちは。平野さんにおはなし?」 「スズちゃん先生! そうなの。転校してきた子なんだ」 「ヒラノさん、急いで帰っちゃうんだもの」 「ね、うちどこか教えてったら!」  ああ、はい、ごめんなさい。わたしの頭の中は昔おにいちゃんと見たジャングルの映画の映像でいっぱいだった。主人公の男の子が、ジャングルの住民に仲間と認めてもらうために、真っ赤に燃える焚火の上を歩かされるのだ。  が、しかし、女の先生はそうやって絶望したわたしの肩に手を置いた。 「ごめんね、私、平野さんに用があるの。わるいけど、今日は私が独り占めで、いい?」 「えー」 「しかたないなー」 「ごめんごめん。ほら、みんなランドセルも置きっぱなしで来ちゃったんでしょ。もどったもどった」 「はーい」 「また明日ね。ヒラノさん、スズちゃん先生!」 「はいはい、また明日―」 スズちゃん先生、そう呼ばれた先生が手を振れば、女の子たちは大人しく教室に戻っていった。わたしはおそるおそる振り返り、先生を見上げる。 「あの、用って」 「あー、うん。別にないよ」 「へ?」 「別にないけど、今日は早く帰りたそうだったからね。ヒラノ・フブルさん」 「え、あ、ありがとうございます……」 わたしがしどろもどろでお辞儀をすれば、先生はくすくすと笑った。 「いいっていいって。色々聞かれるの、疲れるもんね」 「えっと、えっと?」それは先生としてはぶっちゃけ過ぎじゃないか。そんな私の言外の言葉を感じ取ったのか、先生は肩をすくめた。 「まあ、今日のところは助けてあげたけど、あんまりみんなのこと避けてもいいことないと思うし、美奈絵さんたちもそう悪い子じゃないよ。よければ明日は少し話してみて」 「……はい、で、その」 「ん?」 「先生、名前は?」 「あ、そうだった」  そういって、その先生はぺこりと頭を下げて見せた。 「鈴代円香(スズシロ・マドカ)っていいます。音楽の先生で、あなたのクラスの副担任。後藤先生がお休みの時とか、あとは音楽の授業の時しか会わないと思うけど、良ければよろしくね、フブルさん」 「あ、ヒラノ・フブルです。よろしくお願いします」 「よろしい。それじゃ、さようなら。用事、あるんでしょ?」 「はい、さようなら」  お辞儀を返したわたしの背中を軽くたたいて、スズシロ先生はそう言った。もう一度お礼を言って、わたしは彼女のすれ違う。その時に、彼女の胸のピンバッジが何かわかった。 「ヒヨコ?」  鳥、好きなのかな。廊下を早足で歩きながら、わたしは口の中で呟いた。 ------------------------------------ 「──それで、スズちゃん先生に助けてもらったんだ。幸運だったね」 「シューハまでそのあだ名で呼んでるの?」 「みんなそうだよ」 「人気者なんだ。かわいいもんね」 「か、関係ないだろ」 「テキトーなこといっただけなのにしどろもどろにならないでよ」  放課後、スズシロ先生の助けもあって無事教室から抜け出したわたしは、夏の日差しが眩しい校舎裏の、みごとなヘチマ達のそばでシューハを迎えた。そばに据え付けられた最新式の巨大なディスプレイは、ヘチマ畑にはいかにも不釣り合いだ。 四年生が育てているらしいヘチマの鉢植えは私が通っていた学校の古びたものとは違う最新のもので、バイタルブレスとリンクし、脇の大きなディスプレイによって世話の記録や成長の度合いなどが分かるようになっているらしい。つまりは世話を怠るとすぐにバレるということだ。わたしが四年生の時にこの学校の生徒じゃなくて良かったな。去年見事に枯らしたヘチマの茶色くひょろ長い姿の記憶と共に、わたしはそう思った。 「それで、その子、まだ起きないわけ?」 「うん」  そういってシューハは、鮮やかなオレンジ色のランドセルに綺麗に収まった青い竜の頭を撫でる。こうしてみると体に比べて頭がとても大きい。 「赤ん坊なのかな」 「それならこれくらい寝るのも分かるけど。ご飯だって食べてないんだよ」 「お腹減ったらそのうち起きるんじゃない?」 「そうだとして、この恐竜が何を食べるのかもわからない」 「肉じゃないの?」 「まあ、どれかと言われれば肉だろうけどさ……」  シューハは首をかしげて、それから何かを思い出したように顔をあげる。 「そうだ。分からないことがもう一つあったね。最近この町ではやりだした 一番地の“恐竜”の噂を、この町に引っ越してきたばかりの君が知っていたのはなんでだろう?」 「授業中にも散々聞いてきたくせに! 言ったでしょ。お母さんに聞いたの」 「いつ?」 「自分がそれを覚えてたことすら忘れてたくらいに昔だよ」 “覚えてない”なんてことを言うのはずいぶん久しぶりだった。 「わたしのお母さん、わたしが物心つく前にいなくなっちゃったし」  シューハが一瞬微妙な表情をして、それをすぐにほどいた。きっと授業中の私とおんなじことを考えたのだ。母親がいない者同士、これはとても楽だ。 「でもやっぱり、それだけ昔に君のママがその噂を知ってるのは、やっぱりヘンだよ」 「そっくり同じな話じゃなかったんだし、偶然じゃ──」  そこまで言ってわたしは自分で口をつぐんだ。わたしがシューハの話で母さんの記憶を思いだしたのは、シューハの話が聞いた話がある程度までわたしが聞いた話とそっくりそのまま同じだったからだ。 「まあ、ちょっとヘンだね」 「ちょっとどころじゃないよ」 「でも今考えたってわかんないことだし。それよりも、ふしぎなことは他にもあるよ」 「何?」 「わたしたちが蛇に会ったあの路地のこと」  そう、そもそもわたしがあの裏路地に踏み込んだのは、あんな道が地図に書いていなかったからだ。街を歩く中で、たった一つ開いた、正体不明の道を放っておく頃ができなかったからだ。 「……」 「シューハ。なにかいいたいわけ」 「いや、それってただの記憶ちが──」 「わたしが覚え間違えることなんてないし。帰ってちゃんと確認したもの!」  そう言ってわたしはバイタルブレスを操作し、昨晩調べたスルギの一番地の地図を彼に送信する。 「他の場所も確認したけど、わたしの記憶といっしょだった。わたしは間違ってない。地図が間違えてるの!」 「少しちがうね。正確には間違えさせたんだよ」  突如背後で、そんな声が聞こえた。  慌てて振り返りみてみれば、笑顔を浮かべた男がそこに立っていた。薄汚れた半袖のポロシャツにボロボロのジーンズという格好は、とても学校の先生や用務員さんには見えない。足に履いているのだってサンダルだ。そう年がいっているようにも見えないのに、だらしなく伸ばされた髪には白髪が混ざっていて、額を見れば生え際もだいぶ後ろに寄っている。思わず顔をしかめたくなるような老いの気配に満ちたその顔の中で、大きく高い鷲鼻とぎらぎらと輝いている一対の目が印象的だった。 「え、だ、だれですか」  シューハのその問いには答えず、男は言葉を続ける。 「この特区の開発段階で僕が町のあちこちにそういう地点を仕込んだんだ。研究所でも使う地図のデータから排除することで、上に感知されずデジタル・モンスター絡みの実験ができるようにね。まあ、野良のリアライズ・ポイントにされるのは想定外だったけどね。あれだけのデータ質量のなデジモンが出るのは初めてだし、ありえないことだ、いったい……」  喋ってる内容の意味はまるで分からないが。変な人で、おまけにヤバい人だというのは確かだ。わたしの隣でシューハがバイタルブレスに手を伸ばす。そう言えば、防犯ブザーとしての機能もついてるって帰りの会で先生が言ってたっけ。  けれど、彼がその警報音を鳴らす前に、唸り声が男の長広舌を遮った。 「……ブイモン?」  隣に目を向ければ、いつ目を覚ましたのだろう。シューハのランドセルから飛び出した小さな竜が、目を剝いて唸り声をあげながら、その男を睨みつけていた。その様は先ほどまでのかわいらしい寝顔とは打って変わって恐ろしいもので、わたしの足は思わずすくんでしまった。 「ねえ──」  わたしが怯えた声をかけるよりも先に、ブイモンはひときわ大きなうなりをあげて男に向けて駆け出した。同時にその大きな頭が白熱した光を帯び、そのまま、勢いよく男の体の中心を──。 「おっと、いけないよ」  あぶない、そう言って目を向けたわたしの目に映ったのは、どこから取り出したのだろう。白い卵のようなオブジェを片手に乗せた男の姿だった。わたしが昨日手に入れたものと丁度同じくらいの大きさで、羽に身をくるんだ鳥のヒナのようにも見える。  刹那、そのオブジェが強い光を放つ、男の体に飛び込んだブイモンがその光の中に飛び込めば、その光の中から、ずるり、と、細長い手足が伸びた。 「ど、どういうこと、ちょっと、なあ、ブイモン!」  シューハの声に呼応するように光は晴れ、そこからわたしたちの二倍ほどにも大きな四つ足の竜が姿を現す。その背中に生えた白い翼には一つの汚れもなく、小学一年生が描く天使の羽そのままの形をしているのに、それでその竜がどこかに飛んでいくことが出来るようにはとても見えない。なぜって、その竜の目は、腕は、足は、金属の拘束具で覆われていたからだ。 「ふむ、長い間自身を閉じ込めた我々を敵と認識している。人間の識別も可能か、面白い。それにしても我々の長い実験の中で偶然採取できたたった一つの“デジメンタル”が、ブイモン種には拘束具として働く“光のデジメンタル”だったのは幸運だったなぁ。Ⅴ号、君には残念な話だろうけど」 そんなことをぶつぶつと呟く男の前で、ブイモンが姿を変えた白い竜は羽をはばたかせようと動かすが、それも叶わず、やがてどさりと大きな音を立てて倒れた。地面と共にヘチマの鉢植えが揺れる。 「ちょっと、やめて!」 「そうだよ、やめてください!」  わたしとシューハ同時には声をあげた。というか声が出たのだ。あのままだったら目の前の男がやられていたのは事実だろう。だがそれ以上に、明らかにその体に対して小さな拘束具で締め付けられ、苦痛ににうめきを漏らすブイモンだった竜を放っておくことはできなかった。 「悪いが無理なんだ」しかし、男が初めてわたしたちの方を向いて言ったのはそんなあっさりとした拒絶の言葉だった。 「Ⅴ号は回収する。君たちにはこのことは忘れてもらうことになるね。ああ、でもその前に」  そう言って男はその鷲鼻の目立つ顔をわたしにむけた。 「ヒラノ・フブル、君には用があるんだ」 「わたし? え……」  近づいてくるその男にわたしは後ずさる。と、それを止めようとでもするかのようにシューハがわたしの前に立った。 「シューハ」 「よ、よくわかんないけど」彼が震える声で言う。 「こ、こっちに来るな!」 「参ったな。君には用はないんだけど」  そう軽い調子で頭をぽりぽり書きながら、男は歩みを止める気配はない。 「く、来るなって!!!」 「手荒なことはしちゃいけないことになってる。さあ、こっちに」  恐怖にわたしは思わず目を瞑った。  ずるずる、空気の上を這うあの特有の音に、わたしは目を開けた。 「うそ……」わたしの口から洩れるのはそんな言葉だけだ。 「嘘じゃなさそうだよ」シューハが応えた。  男がいた場所──つまりはわたしとシューハの目の前──に、昨日のあの白蛇がいた。横を見ればあの男は校舎裏の壁に叩きつけられたのか、無様な格好で倒れている。巨大な白蛇に鼻先で突っつかれたのだ。目の前の化け物はそれだけで人をあんなふうにしちゃうのだ。  今度こそ逃げ場はない。白蛇がわたしたちの方に向かってくる。その頭の羽は途中で痛々しく切り落とされていて、その青い目には怒りが浮かんでいる。当然だ。同じことをされたらわたしだって怒る。 けれどわたしたちが死を覚悟してうずくまる前に、その動きは途中で止まる。 その理由は、わたしたちにもすぐにわかった。 「ブイモン!」  縛り付けられた白い竜の腕が、白蛇の尾を掴んでいた。白蛇の尾についた刃を、そのままつかんでいるのだ。白い拘束具に、真っ赤な血がにじむ。 痛いのに、それでもブイモンはそうしてくれたのだ。見えない目で、思うように動かない手。 「なんで……」 「面白い、拘束状態でも君たちを守ることを優先するか」 「ぎゃ!」  シューハが冗談みたいな悲鳴を上げるのも無理はない。先ほど白蛇に壁にたたきつけられたあの怪しい男が、気がつけばわたしと彼の隣で何事かをつぶやいていたのだ。服はボロボロになって、鷲鼻からは鼻血を流しているが、声にもぎらぎらした目にも陰りはない。 「あ、あっち行けって!」 「まあおちついてくれ、君たち。一時停戦だ」 「そんな……」抗議の声をあげようとするシューハの肩にわたしは手を置いた・ 「待って、シューハ。聞こう」 「でも」 「わかるよ」わたしだって、ブイモンに酷いことをして、こちらにもロクでもない用がありそうなこの怪しい男を信じたくはない。でも。 「少なくともこの人は、“あれ”が何か知ってる」  それ以上のことを話す必要はなくて、シューハは頷いて口を閉じてくれた。 「助かるよ。いや、それにしても驚いた。まさか二番地の方までやってくるとはね。自分と同じ“鎧”の気配を感じ取ったか。興味深い事象だ」 「ちょっと!」 「ああ、わるいね」男は子どものような屈託のない笑みで頭を掻く。 「Ⅴ号は──」 「ブイモンのこと?」 「どこでその仮称を知ったのか……まさかバイタルブレスの変質の影響か? いやしかし……」 「ねえ!」 「わかったわかった。あのモンスター、ブイモンはなぜか、きみ達を守りたいらしい。ここはその可能性に欠けようじゃないか。さっき僕のしたことを見たね」 「白い卵で、ブイモンを縛った」 「そうだ。正確には鎧をまとわせたわけだな。君にも同じことができる」  そういって彼がわたしの方を見れば、さすがにその意味は分かる。自分のバイタルブレスを操作し、あの緑のつぼみのような物体の画面を彼に見せる。 「これ?」 「満点だ。それは“デジメンタル”。あの怪物──デジタル・モンスターと呼ばれているが、長いから僕は“デジモン”でいいと思ってる。とにかく、それにとっての鎧のようなものだね」 「じゃあ、あのひとは……」 「どうやらもう見たこともあるね。それなら話は早い。急いでやろう。もう彼も限界のようだしね」  男がそういった瞬間、白蛇がその身を大きくしならせ、尾を掴んでいた竜を投げ飛ばす。その手は既にぼろぼろだ。 「ブイモン!」シューハが叫ぶ。 「さあ、僕が彼の拘束を解いたら、ブレスをつけた腕を彼に向けて、こういうんだ──」  その言葉にわたしはがむしゃらに腕を突き出す。意味わからないけど、でも、とにかく、ブイモンはわたしたちを助けてくれている。それなら、わたしがかけられる言葉は一つだ。 「がんばれ、ブイモン! ──“デジメンタル・アップ”!」 「あれが……」 「そうだよ、シューハ。わたしたちを助けてくれた。やっぱり、ブイモンだったんだ」 「“純真のデジメンタル”、そうか、ヤシャモンか」  緑の光と風を纏ったブイモン──木刀二刀流の鬼人は、しかし、そこに姿を現すと同時に左手に持った剣を取り落とした。 さっき白蛇を止めていた傷が、まだ治ってないんだ。そう思ったのはわたしだけではないらしかった。白蛇は昨日敗走した相手にも臆することはなく、けがをした左手側を狙って尾の刃をふるう。  がきり、とっさに鬼人は左腕につけた木の籠手でそれを受け止める。鋼の刃は深々とそれに突き刺さり、白蛇が刃を抜いて尾を自分の方に引き戻すのに苦心している間に、鬼人はもう片方の手でその尾を掴み、巨大な白蛇の体をそのまま地面にたたきつけた。 「すごい……」 「彼らは“デジタル・モンスター”。通常はネット空間に住む生物だ」 「ネット空間に、生物が?」シューハが男の方を見上げ、素っ頓狂な声をあげる。 「ああ、ネットの奥には別世界があって、そこにずっと昔から奴らはいるのさ」  なんとも信じがたい話だが、それを言いだしたら目の前の光景の方がよっぽど信じがたい。鬼人は右手の木刀を白蛇の胴に振り下ろす。それは大きな傷跡をその鎧につけたが、けれど羽のように簡単に切り落とすことはできないらしく、白蛇が身をくねらせる動きをすれば彼も一旦飛びのいて、二体がの怪物は改めてにらみ合った。 「だが、こちらの世界にやって来るものはめったにいない。いたとして、ほとんどがデータ質量の小さなものなんだが、あの蛇はどうにも大きすぎる。なぜだ?」  男の呟きに、そんなことは知らないと返そうとしたわたしの言葉を、シューハが遮った。 「都市伝説だ」 「え?」わたしと男が、同時に彼の方を見る。 「あの生き物たちは、ネットに住んでるんでしょ? だったら、ネットの書き込みから広がる都市伝説と、なにか関係があるんじゃないかって」  そうしてシューハは白い恐竜の噂を語る。何度聞いても荒唐無稽なその話に、しかしその男は酷く興味をひかれたようで、口元に手を当てて何事かをぶつぶつと呟き始める。 「そうか。都市伝説、噂か。“デジメンタル”の発生原理と同じだ。場所に関わる一つの統一された噂によって、特定の箇所で同じ方向性の恐怖や緊張を感じる人間が増加する。その際の心拍数の増加をはじめとした反応が“バイタルブレス”によって、ネットに蓄積されることで、それがモンスターにとっての鎧を形作る。一人の人間の感情の動きから作られる“デジメンタル”よりも純度は低く、”恐竜”になるには不完全だった──」  その男の言葉を遮る音はその場にはもう一つもなかった。鬼人と白蛇は尾と刀で幾度か切り結んだあと、向かい合ってお互いに動きを止めた。沈黙があたりを支配し、そこに男のぶつぶつという志向の流れのみが響き渡る。空気が張り詰める。わたしにもわかる。隣で息をのんだシューハにも分かっているはずだ。次の一撃ですべてが決まるのだ。 「──でもその鎧は、一匹の小さなワームが現実世界に這い出るには十分だった。一番地“下水道の白蛇”──クアトルモン、お前は、伝説を纏ったんだ!」  男のその叫びを合図にするように、一陣の風が吹く。その強さに、わたしは思わず目を瞑る。  目を開けたわたしが最初に見たのは、木刀を一振りし、わたしたちの方を振り返った鬼人の姿だった。そしてすぐあとに白蛇が地面に落ちる大きな音がする。 勝負に敗れた白蛇はよろよろと地面をはいずり、そして、一度体を大きく波打たせると、ヘチマ畑の脇のディスプレイに飛び込んだ。あ、と声をあげる間に、その長い体はずるずると、白い光と共にディスプレイに吞み込まれた。 「……いなくなっちゃった」 「また来るかな」  シューハの言葉に男は曖昧に首を振る。 「あれだけのダメージを与えたんだ。すぐにははリアライズはできない。だが」 「だが?」 「もしさっきの考えがあっているなら、あのデジモンの原動力は噂話だ。ネットでその“一番地の恐竜”とやらの噂が盛り上がれば、また力をつけて帰ってくるだろうね」 「そこまでしてこっちに来るのって、なんのためなんですか」シューハが男を見上げて問いかける。 「人を食べるため?」  その言葉に、男はきっぱりと首を振った。 「目的なんてないよ」 「え?」 「たまたまあのモンスターはネット空間の噂を浴びた。それが形作る鎧で体がつつまれた時点で、もうモンスター自身に自由はない。あれはもう下水道をはいずる化け物として定義されたんだ。噂が持ち上がる限り、何度だってあらわれるさ。だからこの件のことはすっぱり忘れて僕らに──」 「ひどい」 「ん?」わたしの言葉に、男は首をかしげる。 「そんなの、かわいそう」  それはほとんど勝手に喉からあふれ出した言葉だった。けれど、だってそうじゃないか。その怪物のことは知らないけれど、ブイモンと同じような生き物が、誰かをかばって戦うことができる生き物が、わたしたちの噂話に縛られて、一生薄暗い場所を這いずるなんて。 「なんとかして、助けられないの?」わたしは男を見上げる。 「おいおい、さすが“純真”を発現させるだけのことはあるけれど、でもそんなことはできないよ。そもそも奴の巣くうネット空間まで干渉できる手段なんて……おい、君」  男が小ばかにしたような言葉を途中で止めた。その隣で、シューハも目を丸くしている。 「なに?」 「いや、フブル、それ……」  そうして彼が指差したのは、わたしのバイタルブレスだった。目を落とせば、その液晶画面が眩しいイエローに輝いている。その手を持ち上げれば、近くの校舎の壁も同じ色に輝いた。 「あ、まただ」 「まさか、“デジメンタル”はその容量の大きさと、人の感情の一元化という性質から、まだ空白の部分の多く純粋な子どものみにしか発現しかしない。でも、その子どもにしたって、一人に一個の発現が限界のはずだ。これは──」 「ちょっと、フブル! なんか緊急事態みたいだよ。やめといたほうが──」 「──“ポマード・ポマード・ポマード”」 「やめたほうがって言ったよね! 昨日一度やったってだけで、そんなに簡単に壁に手突っ込まないでくれるかな!」  そんなシューハの抗議をよそに、母さんの“おまじない”を唱えたわたしの手は校舎の壁に呑み込まれ、その奥で、一つの感触を手繰り寄せた。ぐっとつかんで引きずり出せば、それは黄土色の卵のような、いや、天頂部から突起の突き出したこの形はまるで──。 「球根?」  そう呟いたわたしの傍らに鬼人が立つ。 「ブイモン」  彼が、その球根型のオブジェを見おろす。 「わたしのワガママ、付き合ってくれる?」 彼がこくりと頷くと、同時にオブジェは黄色い光の粒子となり、わたしのブレスレットに吸い込まれていく。 「ありがとう、ブイモン、いくよ」  二回目だ。もう何も迷うことはない。 「──“デジメンタル・アップ”!」  そこにあらわれた影は、風の鬼人とはうってかわって、ごくごく小さなシルエットだった。  ぶー、という音が耳を満たす。その音、そしてその姿はまるで──。 「蜂?」  そんなシューハの言葉に応えるように、そのつぶらな瞳の蜂はわたしたちに向けて一つ頷き、ヘチマ栽培用のディスプレイに近づく。すると、先ほどの白蛇の時と同じ光と共に、そのディスプレイが、その体を呑み込んだ。男が感心したような声を漏らす。 「素晴らしい。“知識のデジメンタル”。ハニービーモンか。知識の飛行者となればたしかに、情報の飛び交うネット空間の航行も自在だ。だが、ナビゲートは必要だね」 「ナビゲート?」 「おそらくあの蛇──クアトルモンは、自分を形作る噂の集まるになった場所に向かうはずだ。そういうサイトは──」 「あ、僕、調べてたから全部わかるよ」シューハが手を挙げる。 「よろしい。ならフブル君、ブレスをこのディスプレイに接続するんだ」 「接続?」 「腕をかざして近づけるだけでいいんだよ」  シューハの言葉にわたしが手をかざせば、ブレスレットが一度電信を鳴らし、ディスプレイの画面が、ヘチマの成長記録から、どこか真っ白な空間を映した。 一面の白、ところどころにカラフルな幾何学模様。雑多な文字がそこら中に浮かぶ。 「それが可視化されたネット空間だ。これは“知識のデジメンタル”を通じてバイタルブレスが受信したブイモンの視点だ。浮かんでる文字はサイト内のワードやら何やらだね」  そういって、男はシューハに目を向ける。 「おかっぱの君、君はこの文字を追うんだ。例の都市伝説を構成する単語を探せ。それがクアトルモンにつながる道になるそしてフブル君」  そういって男は鞄からタブレット端末を取りだし、わたしに見せる。一見して、ゲームの攻略サイトのコマンド表のように見えた。 「君はこのコマンドを使って、ブイモンに進むべき方向を指示するんだ。デジタル・モンスターの実験用に開発されたコマンドで、ブイモンはこれを知っている。ちょっとややこしいけど」 「覚えた」 「なに?」 「もう覚えたっていったの。ブイモン、いける?」  そう言いながらわたしはブレスレットにコマンドを入力する。こくりと、視点の持ち主がうなずくようにディスプレイの映す景色が動く。 「シューハ」 わたしはディスプレイに目を向けたまま、隣の彼に声をかける。 「何?」 「なんか変なことになっちゃったけど、わたしのワガママに、付き合ってくれる?」 「……えーと、その」  おかっぱ頭の綺麗な顔が、困ったように頬を掻くのが頭に浮かんだ。 「ちょっと聞くの遅くない?」 「たしかに。じゃあ、道間違わないでよ」 「……大丈夫だよ」少しだけ震えた声が帰ってくる。 「しゃにむな純真に広大な記憶という名の知識、なるほどね、すばらしい、面白い。これは最高だぞ」  男がそんなことをつぶやいたのも、ほとんど聞こえなかった。 「それじゃあ、いくよ」  “Go”、わたしがそのコマンドを入力すると同時に、ブイモンはネットの海にはばたいた。
in Rainbows 第二話「”覚えた”」 content media
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マダラマゼラン一号
2022年12月31日
In デジモン創作サロン
はじめに  本作は2018年に、サロンの前身であるオリジナルデジモンストーリー掲示板NEXTでへりこにあん先生が主催していた企画「Human metamorphoses into a digimon」への参加作品です。卯年を迎えたということでこちらに再投稿させていただきます。テーマは企画名そのまんま「人間がデジモンになる」小説でした。そのあたりも踏まえてお楽しみいただけると幸いです。    卒業証書をもらった帰りみちのことを、あなたは覚えているでしょうか。  少女にとっては、それは桜のみちでした。しずかなしずかなみちでした。  卒業式でどれだけ別れのなみだを流しても、その帰りみちは案外と孤独なものです。むせかえるようなももいろの連なりに誘われて、少女の足が自然と桜並木に向いたとしても、それは決しておかしいことではありませんでした。  そのみちは、川沿いにあるらしいアスファルトの道路らしく、彼女の向かって左側には、土手に沿っていくつもの桜が並んでいました。  右側はというと、歩いても歩いても灰色の塀があらわれるだけでしたが、その塀の向こうはやっぱり桜で、派手に着飾った枝を自慢げに少女の前に垂らしていました。そしてその花の奥には、見たこともないような大きな家の瓦屋根が覗いているのでした。  桜並木は、いつもその外側に何かがいるような感覚をわたしたちに与えます。少女もそんな感覚に、心地よく身を預けていました。  ぎらぎらとした刃物を持った男がふいに飛び出してきて首を掻き切られても、あるいはかつて教科書で見たようなとうの昔に死んだ誰かが立派な青毛の馬に乗って目の前を通り過ぎていっても、彼女はきっと驚きの声一つ上げなかったでしょう。だってそこは彼女の知らないどこかと、薄いはなびらの簾一枚でへだたれた場所なのですから。  だから、気が付いたときには周りをだれも歩いていなくても、そこが今まで通ったこともないみちでも、少女は気にも留めませんでした。長い学生生活を過ごした街で、あっさりとみちを見失ってしまったのが、彼女にはこの上なく愉快なことに思えたのです。  それにそのときの少女はできることなら一人で歩きたい気分でしたから、かえって好都合とばかりに鼻歌などうたってみるのでした。  どれだけ前に進んでも、目の前にはももいろの雨と、見慣れない家々がつづくだけでした。  ほんとうなら、少女はそこで泣き出すべきだったのでしょう。卒業式の後の校舎裏で、彼女とあの艶めいた黒の学生服を着た少年との間に起った恋愛にまつわる一幕は、彼女がその黒い瞳から涙を流すのにふさわしいもので、終わらない桜並木のまんなかは、制服の袖を濡らすのにはうってつけの舞台でした。  でも、少女は泣きませんでした。泣けませんでした。  だから、彼女は気づけたのでしょう。  突然右手にあらわれた小さな公園と、そこで遊びまわる小さなこどもたち。  そして、彼らの中に立つ、大きな、背の高いうさぎに。  卒業証書をもらった帰りみち、少女はうさぎに会いました。  肩に桜のはなびらが厚く積もっても、うさぎはぼおっと立っていました。  少女がいくらじいっと見つめても、うさぎはぴくりとも動きませんでした。。  足元で遊んでいるこどもたちにも、うさぎは気にも留めない様子です。  彼らの一人など、それがまるで遊び道具の一つであるかのように、うさぎの長く大きいうでにぶらさがって笑い声をあげていたのですが、うさぎはやはり動かないままでした。  それでも、うさぎは少女の視線に気づいているようでした。彼女にはそれがわかりました。  うさぎはなにも見ていないような小さな赤い瞳で、それでもちゃんと少女に気づいているのです。そのうるんだ瞳の輝きに、彼女は思わず肩にさげたスクール・バッグの持ち手をぎゅっと握りしめました。  やがて、うさぎの足元で走りまわっていたこどもたちの内のひとり、幾分時代遅れなシャツに袴、学生帽という服装の男の子が少女に気が付いてふっと立ち止まりました。  彼が隣にいたセーラー服の女の子の耳に口を近づけ、ひそひそと何かを話すと、その子も目を少女に向けました。  そんなことをくりかえすうちに、きがつけば、色々な時代のかっこうをした幼いこどもたちの目は、すべて少女に注がれていました。彼らの目はどれも大きく真っ黒で、いかなる表情も浮かんではいませんでした。  そんなふうにただただじいっと見つめられることに耐えきれず、少女はそっと公園の中に足を踏み入れました。  アスファルトの道から一歩をふみだして公園の土を踏んだ瞬間、こどもたちはその口を大きくひらいて真っ赤な笑みをうかべると、またぴたりと動きを止めました。  少女が次の一歩を踏み出したときには、こどもたちはもう音もなくどこかにいなくなっていました。そうして、公園には少女とうさぎだけが残されました。  少女はもう、うさぎに近づくことをためらいませんでした。うさぎの足元まで近づくと、彼女にはうさぎが中華風の、上等な服を身につけていることがわかりました。  彼女は手をのばし、その茶色い毛におおわれた腕にそっと触れました。うさぎの毛並みは滑らかで美しく、それでいてたまらなくなるほどにやわらかいものでした。  少女はうさぎのその腕の毛にそっと顔を埋めました。あたたかい感触が優しく少女の心を満たします。彼女の目に、今になってようやく涙があふれました。  涙が出た、そう思った瞬間に、もう少女はうさぎでした!    ふいに自分の身体を襲った新鮮な感触に、少女はぶるりと身震いをします。厚く積もっていた桜のはなびらが、ひらりひらりと自分の肩から舞い落ちていくのを見て、少女は自分があのうさぎになったことを理解しました。  うさぎになるのは思っていたよりも悪くない気分でしたが、少女はうさぎになった自分が何をすればいいのかわかりませんでした。  それでも少し考えて、少女は跳ぶことにしました。彼女がちいさな頃読まされた絵本の中では、うさぎはぴょんぴょんと跳び跳ねるものだったからです。  少女は、うさぎは、その身をかがめ、力強く地面を蹴りました。  次の瞬間、少女は空高く舞っていました。春がすみでぼやけた自分の住む街を、彼女はうさぎの赤くうるんだ瞳でゆっくりと見渡しました。  見慣れているはずのその街は、桜に彩られた今はどこか新しく見えました。それは少女には、自分の流した涙の一滴が桜のはなびらとなって、ももいろの波紋を起こして街を飲み込んだように思えました。    すべてが新しく、美しい街。濃ゆい香りの春風の吹く、桜の街。その景色の前で、少女はこの上なく幸せでした。  そんなももいろの街では、黒い一点はとてもよく目立ちます。地上で動くその点を目にとめた少女は、不快そうに顔をしかめるとその身をひるがえして黒点のもとに降り立ちました。  果たしてその黒は、あの艶めいた学生服の黒でした。少女が彼への恋のために流した涙にのみ込まれた街で、その少年はどこか居心地が悪そうに頬をかいていました。  そしてもうひとつ、少年の隣に、うさぎになる前の少女とおんなじ制服を着た女学生が、ぴったりと寄り添っていました。  そんなもののすべてを赤い瞳で見て、最後に少女は自分のうでに目を落としました。先ほどまでは影も形もなかった、扇の形の刃が、その手にしっかりと握られて、ぎらぎらと光っていました。  それから少女のしたことに取り立てて意味はありません。刃についた朱色を拭いながら、こっちの色のほうが黒よりもずっと桜に似合うと彼女は思いました。  そして彼女は背の高いその身をかがめ、みちにへたり込んで震える女学生の顔、その目に浮かぶ涙を覗き込みました。  涙は、桜の色、もらっていきましょう。彼女はそう呟くと、女学生の首だけをそっと、優しく切り取りました。  それからも少女は街を跳び回り、桜に合わないすべての色彩を、ひとつ、またひとつと取り去っていきました。刃を持った右手を振るそのたびに、左手で抱える首の数も、また増えていきました。  そうして気がつくと、少女は最初の公園の、あのうさぎが立っていたのとちょうどおんなじ場所に立っていました。  彼女の街はすっかり桜にのみ込まれて、その儚いももいろにそぐわないものは何一つ残っていません。  少女の目の前には、いくつもの生首が転がっています。  彼女がそれをじっと眺めていると、それらはやがてふわりとうかびあがり、小さなこどもくらいの身体を何処からか手に入れて走り回り始めました。そのどの首にも、いかにも楽しそうな笑みが浮かんでいます。  その中のひとつの首、あの学生服の少年の首が、よそ見をしながら走っていたせいで勢いよく少女の体にぶつかりました。しかし彼は少女には見向きもせずに、また遊びに戻っていきます。ほかのどの首も同じように、彼女のことを気にも留めていません。  少女は声をあげようとしました。でも、なぜだかどんな声も出ませんでした。  少女は手を振ろうとしました。でも、なぜだかぴくりとも動けませんでした。  なにかをしようとすると、その瞬間にすることがたまらなく億劫になってしまうような、そんな感じでした。  こういうわけで、少女は、誰かに自分を気づいてもらおうとすることができなくなってしまったのです。おまけに、他の人たちは誰一人彼女に気づこうとすらしません。  でも実際のところ、少女はそのことをそんなに悲しんではいないのです。  だって彼女は知っています。いつか誰かが彼女に気づくということを。  桜並木に迷い込んで、流すべき涙を流し忘れた誰かが、いつか、この公園と、無邪気に遊びまわるこどもたちと、そして背の高いうさぎを、見つけ出すだろうということを。  卒業証書をもらった帰りみち、少女はうさぎになりました。  うさぎは今でも、肩に桜のはなびらが厚く積もっても、ぼおっと、立っています。  そうやって卒業証書をもらった帰りの、だれかを待っているのです。    おしまい
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マダラマゼラン一号
2022年12月31日
In デジモン創作サロン
はじめに この作品は作者・マダラマゼラン一号の過去作品、「冬の或る日のブラック・バード」、「千年くじらと嵐の季節」に連なる作品となっています。そちらの二作品を読まなくても十分に楽しむことができるかと思いますが、ご興味のある方は下記のリンクからどうぞ。 │─201X:千年くじらと嵐の季節 │ │ │ │ │ │ │ │─202X:冬の或る日のブラック・バード │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │─203X:??? │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ in Rainbows─或いは、漂流大陸五番地の風は如何にして彼女の内側を通り抜けたか─   一番地の地下の下水道には、真っ白い恐竜がいるんだって。 表通り近くの路地裏、ほら、さとう病院の裏のあそこだよ。路地の入口から数えて三番目のマンホール。夕方になるとあそこから顔を出して、近くにいる子どもを食べちゃうんだ。 小さな勇気が欲しいのだ。 そういって、あの人は、わたしの前から消えてしまった。  がたがた、ごとごと。電車は揺れる。  デネブ発・アルビレオ行き、なんてことはまったくなくて、普通の鈍行列車。座席も車内もきれいなもので、わたしが育った街を走っていた古びたワンマン電車とは大違い。車内には大仰なデジタル・サイネージまでついていて、新しいクルマやら野菜ジュースやらの宣伝に余念がない。私はそのディスプレイに目を向ける。自分が何よりも新しくてキレイだということに、少しの疑いも抱いていない佇まいだ。コマーシャルの中の人気女優も、それとまったくおんなじことを考えているように見えた。  でも、がたがた、ごとごと、は、がたがた、ごとごと、なんだな。   「それにしても、おじさんも急だよな」  この車内で唯一馴染める物音に耳を傾け、膝に広げた道路地図を読み進めようとしたわたしの試みは、隣のおにいちゃんのその言葉にあえなく失敗した。 「……なにが?」 「いや、なにがとかじゃなくて、急だろ。いきなり手紙送ってきてさ、施設からこっちに引っ越してこい、なんて。おまけに、いった先におじさんがいるってわけじゃないんだぜ」 「……べつに、ずっとお金送ってくれてるおじさんのいうこと、断る必要ないし」  私がそう言っても、おにいちゃんは唇を尖らせたままだ。 「いや、俺だって別に不満があるわけじゃないよ。たださ、ちょっと勝手じゃん」 「そうだね」 適当に相槌を返し、わたしは地図に意識を戻す。ぺらり、ぺらり。ここに来るまでに本屋で買ったばかりの新しい地図帳のページは手が切れそうなほどに鋭い。開き癖もついていなくて、広げたままにするのも至難の業だ。 「露骨に興味なさそうなのやめてもらえますかー。ていうかなんだよそれ、地図なんか読んで楽しい?」 「おにいちゃんには多分楽しくない」 「へーへー、そうですか」  いけたか、と思ったけれど。この程度つめたくしたところで大人しくなるおにいちゃんではない。不機嫌そうな声でなおも話しかけてくる。 「なんでフブルはそんなドライなんだよー。俺たちおじさんの顔だって見たことないんだぜ。何でお金送ってくれるのかもわかんないし。そのへん、フブルは気にならないのかよ」  この話するの何回目? わたしは思わず首を振った。わたしより五歳も年上のくせに、同じ話を何回もするところは施設で一緒だった同い年の男の子たちと変わらない。 「気になるよ。でも、おじさんにはお世話になってるし、いまさら色々知って、嫌いになるリスクを冒したくないの」 「く、小学生のくせにかわいくない言葉ばっか使いやがって」そういっておにいちゃんがわたしの短く切りそろえた頭をわしわしと撫でてくる。 「ちょっと、やめてよ」 「そりゃお前はいいだろうけどさー。お前の保護者役やらされてる俺の身にもなれって」 「おにいちゃん、高校生でしょ」 「高校生だからなんだってんだよー!」  わたしの頭から手を離し、今度は自分の頭をぐしゃぐしゃとかきむしっておにいちゃんが言う。他にお客さんいなくて良かったな、とわたしは切実に思った。そんなわたしの視線の温度を感じ取ったのか、おにいちゃんはわたしに目線を合わせて、同じくらいじっとりとした目を返してくる。 「言っとくけどな、フブル、駅ついたらまず区役所行くからな。これだけはお前も来ないといけないんだぞ」 「その後おにいちゃんはさらに色々手続きがあるんでしょ」 「おっしゃる! 通り! です! くそが!」 「くそが、ときたか」 「なんなんだよー、デジタルがどうとか言っても実際に役所出向かなきゃいけないんじゃ意味ないだろ! 街の名前も無駄に長くて覚えらんないし……」 「平浜県駿木市“するぎスマートシティ推進特区”。ついでに言うと区役所の住所は三丁目一番地の一号。わたしたちが住む家は……」 「はいはい、さすがの天才少女ですよ。ってか、覚えてるんならフブルが書けよ!」 「わたしは文字を覚えてるだけだもん。意味も分かんないし、使い方もよく知らない。第一小学生に手続きとか無理だよ」 「んあーーーーー!!!」  いつもの叫びまで五分弱。おにいちゃんも少しは手ごわくなったな。わたしは息をついて、ふと、窓の外に目を向けた。  そこに広がっていた街に、わたしは目を奪われた。周囲に比べ、少し高い小山の斜面のようなところに町が広がっている。真新しい白い建物が並ぶ場所のみが目を引くが、よくよく見てみれば、古い建物の黒っぽい屋根が目立つ区画もある。 「大学のそばの計画都市とかっていろいろ言ってるけどさ、ちょっと殺風景だよな」 「うん」 町の周囲はほとんどが夏の田畑の風景で、そんな中いっとう高いところにでんと構えたその町は、誇らしげな佇まいとは裏腹に、ほのかな寂しさを私に感じさせた。  まるで、空の人たちが住む町が、大嵐に流されて、何もないこの地に突然落ちてきてしまったかのような。 『つぎは、平浜大学駿木キャンパス・するぎスマートシティ駅前です。降車される方は──』 「いや、駅名なっが」  おにいちゃんと同時にそんなことを言ってしまい、わたしは赤くなった顔を両手で覆った。 ------------------------------------ 「先生、これを」 「ん、なんですか?」 「今度5年生のクラスに転校してくる子についてですよ。担任にはもう渡してるので、副担任の鈴代先生にもと」 「ああ、聞いてます。平野さん、でしたっけ」 「はい。地方の孤児院から支援者都合での引っ越しらしくて」 「この町に引っ越しなんて、お仕事しか考えられないけれど、全て書面のやりとりだけで保護者さんとの面談の機会を一度もつくれなかったって後藤先生愚痴ってたっけ」 「デリケートな事情がありそうですね」 「……まあ、どの子もそうですから。大なり小なり」 ------------------------------------ 「はい、遠山ケンジさんと、その妹さんの……」 「平野フブルです。このおにいちゃんとは保護者が一緒ってだけで、本当のおにいちゃんじゃありません」 「おいおい。まあ、でも、そんな感じです」  諸々の手続きが終わり、わたしとおにいちゃんは区役所に設けられた窓口の一つで所員のお姉さんから案内を受けていた。このするぎスマートシティは構造改革特区制度をもとに、長い歴史を誇る平浜大学と行政が共同で計画することによって実現した、国内でも最先端のスマートシティであり……、といった感じ。タブレット端末で様々な資料を見せながら一生懸命説明してくれていはいるが、内容自体はここに来るまでにパンフレットで読んで覚えたことだし、聞いたからって改めて意味が分かるわけじゃない。  永遠にも似た説明が終わると、その女性は脇に置いていた紙袋から二つの小さな箱を取り出し、わたしとおにいちゃんに一つずつ手渡した。 「この区で生活していただくにあたり、区民の皆様にはこちらの着用をお願いしています」  デジタル表示の腕時計。箱を開けた私の最初の感想はそれだった。実際腕時計としか思えない形をしていて、縦長の液晶が画面が大部分を占めるデヴァイスを、幅広の柔らかなプラスチック製のベルトで腕に留めるようにできているらしい。 「平浜大学総合デジタル研究所で開発された試験用ウェアラブル端末“バイタルブレス”です。これを介することで行政施設や一部の商業施設での手続きを大幅に簡略化できる他、学校などの授業でも使われています。健康管理に使える歩数、心拍の測定機能ですとか、ショートメール機能などもついていますよ」 「ちっちゃいスマホみたいなもんってことですか?」  おにいちゃんが歓声を上げて自身のブレスレットを腕に巻こうとするのを、女性は手で制した。 「バイタルブレスが収集するデータの一部は平浜大学での研究に利用されます。とうぜんメールの内容などの情報に触れることはありませんが……」  そう言って彼女がまたタブレット端末をスワイプすれば、今度はえらく細かい文字でびっしりと埋め尽くされた画面が表示された。 「プライバシー保護に関する条項と、バイタルブレスの研究利用に関する同意書です」 「同意書って」おにいちゃんが頭を掻く。 「俺たち未成年ですよ」 「ええ。ですので……」  その言葉に女性は頷いて、一枚の紙を取り出した。タブレットに写されたそれと同じ文章のその下に、流麗な字で、何やら難しい感じばっかり使った名前が書かれている。間違いなく、同じような書類で何度か目にしたおじさんの字と名前だ。 「お二人の保護者さまからは既に、署名付きの同意書をいただいております。あとはお二人の同意が必要ですね。もちろん、強制ではありませんが……」  学校の授業などでも使われてるってさっき言いましたよね、わかりますよね。そんな女性の言外の圧にわたしとおにいちゃんは顔を見合わせる。既にこの町の住民は皆この端末を大いに役立てているようだし、わたしたちが拒否することできっと余計に仕事が増える人が大勢いるのだろう。 「おじさんがいいっていうなら、いやでも一応……」  そう言って、おにいちゃんはタブレットに並べられた長い長い文章に目を通そうとして──。 「あー、大丈夫です」  二秒くらいでタッチペンを手に取りタブレットにサインをした。超情報化社会の一員としてのおにいちゃんの使命感は二秒が限界らしい。わたしもこればかりはおにいちゃんを責める気にはなれなかった。 ------------------------------------ ──先に帰るんなら寄り道するなよ。道に迷うのとかは心配してないけど、なんかあったら怒られるの俺なんだからな!  そんなおにいちゃんの言葉を背中で聞き流し、新しい居場所になる街に踏み出したのは、午後の四時過ぎだった。 区役所のある通りは三丁目一番地。役所近くの銀杏並木の通りは緑が眩しく、夏のさんさんとした日差しを受ければ、首筋から汗がふきだすのを感じる。 すれ違う人はみな腕におもいおもいのカラーのベルトで腕にバイタルブレスをとめている。わたしが選んだ明るめの緑色は、そんな色とりどりの軌道の中で少しだけ控えめに見えた。  なんだか不思議な街。わたしは口の中で呟いた。バス停ひとつとってもピカピカの電光掲示板が設置され、人々は自身のバイタルブレスをそれに接続して目当てのバスの運行状況を見ているようだ。やってくる近代的なフォルムのバスは自動運転車なんだっけ。  けれど、そんな近代的な設備と裏腹に、並ぶ建物はどこか古めかしい。わたしが今出てきた役所も、その近くに並ぶ行政施設も、どれも私がいた地方の町とそう変わらない。特に目を引くのはレンガ造りの美しい建物だ。近づけばどうやらそこは銀行のようで、玄関先にはめ込まれた銅製のプレートによれば、有名な建築家の誰それによる設計らしい。腕を見れば、バイタルブレスの観光案内もおんなじことを言っていた。  バイタルブレスはちらちらともの言いたげにその画面を点滅させてくる。スイッチを押してみれば、どうやらわたしから目的地を聞き、最適ルートの提案をしたいらしい。 「そんなことじゃわたしの片腕は無理だよ」  そうやって呟き返せば、ブレスレットは拗ねたように画面を暗くした。 ------------------------------------  その道は、三丁目一番地の端の方にあった。 堂々とコンビニエンスストアを謡う古びた個人商店で買ったメロン味の飴玉を口の中で転がしながら、わたしは人気の少ないその道を歩いていたのだ。 「“さとう耳鼻咽喉科医院”、“ひまわり薬局”、間に道が一本。隣に何かの建物──居酒屋さん? その隣にもう一軒、こっちは服屋さんね。で、また隣に……」 頭の中の記憶と実際の景色を照らし合わせながら歩いていたわたしの足が止まる。 「隣にすぐまた一見おうちがあるはず、なんだけど」  少し先に目を向ければ、わたしが覚えている通りの大きさの家が一件、立っている。記憶違いじゃない。それなのに。 「……こんなところに道はないはず、なんで?」  わたしの目の前で、その薄暗い路地は、ぱかりと大きな口を開いていた。  ふらりと私は足を踏み出す。茹るような夏の空気とは裏腹な、涼しい風がひやりと肌を撫ぜる。  一歩、足をその日陰に置いたとたんに、わたしの手元でバイタルブレスが耳障りな電子音を立てた。画面を見れば液晶は何も映さないまま、真っ青に染まって、ぴー、ぴーとなおも電子音を立てている。 「なに、故障?」 自信満々で渡しておいてそんなのないってじゃないの。けれどしばらく見ていれば電子音は収まり、画面は通常通り現在時刻を映し始めた。 「あ、なおった」  人騒がせだなあ、きみは。そうやって息ををついて、気がつけば私は数歩進んで、すっかり薄暗い路地に踏み込んでいた。なんとはなしに振り返る。夏の蜃気楼に空気は揺らぎ、まるで今までわたしがいたあの場所の方が、不安定な間違った世界のように感じられた。 ------------------------------------ 「なにしてるの?」 「わ、わあ!」  わたしの言葉に、ビルの裏口近くに置かれた大きな室外機に身を潜めていたその男の子は声をあげて大きく飛びあがった。あ、男の子だったんだ。わたしは思う。真夏だというのに肌は首まで驚くほど白い。おまけにおかっぱを首元で綺麗に切りそろえていて、わたしよりも髪が長いものだから、わたしはその後姿をてっきり女の子かと思っていたのだ。 「な、なに、きみ?」 「なにしてるの、ってきいたのはわたしなんだけど。こんなとこで、なにしてるの?」  わたしの言葉に彼は姿勢を直すと、ふんと息をついて、小ばかにしたような顔でこちらを見た。弱気そうな声と一昔前の儚げな見た目をしておいて、かわいげのない性格をしているらしい。 「なにって、調査だよ。邪魔だから静かにしてくれるかい?」 「調査? よくわからないけど、わたしはこんな路地裏でどこにも隠れられてない姿勢でこそこそしてる変な男の子がいたから話しかけたんだよ」 「なっ……! きみは失礼な奴だな!」 「いきなり邪魔とか言っちゃうあなたは?」  目の前の男の子の態度に、わたしはいらだちを声に出さないようにするあらゆる努力を放り投げた。そうして放った言葉に対する彼の反応を見るに、相手も同じ腹積もりらしい。  いやに冷たい空気がわたしたちの間を吹き抜ける。にらみ合いの空気の間で、室外機のごうんごうんとした音が響いていた。    その静寂を破ったのは、目の前の男の子のバイタルブレスの音だった。 「……! きた!」 「え。なにが?」 「いいから、隠れて!」  そう言って、男の子は白い腕でわたしの腕を引っ張り、室外機にのかげにかがませる。 「ちょっと、やめてよ!」 「しーっ。静かに」 「なんなの?」 腹を立てながらも、わたしが息をひそめて彼に尋ねれば、彼は自分のバイタルブレスの画面を見せる。なにかアンテナのようなものが写されており、それが動いて、何かしらの変化を伝えようとしているようだった。 「その画面じゃ何もわかんないよ、なんなの?」 「微弱な電波の乱れをバイタルブレスが完治したんだ。なにがあったのかは分からないけど、もしかしたら“一番地の恐竜”が来るのかも!」 「……は?」  その言葉を、わたしは初めて聞いたはずだった。“恐竜”なんて、いかにも荒唐無稽で、鼻で笑ってもいい話なのに、なのに。 「ね、今なんていった!?」 「わ、静かにしてって! 急にどうしたんだよ」 「いいから! ねえ、今、“一番地の恐竜”って言った?」 「そうだよ、でも君には関係……、ねえ、どうしたの?」 「わたし、わたし……」  記憶が駆け巡る。ひろいひろい地平の彼方に、濃い赤を含んだ闇に満たされた部屋がうつる。   ──“一番地の恐竜”。そうだ、わたしは。 「……その話、知ってる」 ------------------------------------ 「ねえ、知ってる? フブル。あの街の一番地には、恐竜がいるんだよ」  わたしの記憶の中で、真っ黒な顔のお母さんが、私の頬を撫でる。いつもそうだ。この人は、わたしに顔を見せてはくれない。 「一番地の地下の下水道には、真っ白い恐竜がいるんだって」  その言葉と一緒に、濃い、濃い鉄のにおいがわたしの鼻を突く。 「表通り近くの路地裏、ほら、さとう病院の裏のあそこだよ。路地の入口から数えて三番目のマンホール。夕方になるとあそこから顔を出して、近くにいる子どもを食べちゃうんだ」  その話を聞きながら、わたしは泣いていたっけ。そうだ、小さなわたしは泣いていた。だから、記憶にこんなノイズがかかるのだ。  涙を浮かべてしゃくりあげるわたしを、真っ黒な顔がのぞき込む。そこから聞こえるお母さんの声は、怖くなるほどに楽しそうだった。 「でも恐竜と出会って、助かった子どももいたらしいよ。なんでもその子は……」 ------------------------------------ 「ねえ、君、君! 大丈夫?」  男の子のそんな言葉が、わたしを現実に引き戻した。まぶたの裏に、まだあの赤が染みついている。 「……わたし」  空気がうまく肺に入らない。ひゅうひゅうと喉が音を鳴らし、ずきずきと頭が痛む。今のはなに? あんなのは初めてだ。自分の中にあんな記憶があったなんて、知らなかった。 わたしは何を覚えていたの? お母さんのこと、恐竜のこと、鉄のにおいのこと。でも、なんで、なんで。 「ほら、しゃんとしなって。ところで驚いたよ。きみ、誰からその話を聞いたんだい? 僕のまとめた都市伝説の大まかな輪郭とまるで同じじゃないか? 全体像をつかむにはこの僕でさえ、なかなか苦労したのに。それに恐竜と会って助かった子供がいたというのは僕は聞いたことがないな。是非とも内容が気になる! 続きを──」 「……教えて」 「え?」 「教えて! その、“恐竜”のこと!」 「ちょ、わかった! 話すから! 静かにしてって!」  わたしに肩を揺さぶられて、男の子は目を白黒させる。それでもわたしが真剣な顔で黙ったのを見れば、少し得意げに話し始めてくれた。 「なにって、この町で最近流れてる噂だよ」 「最近?」わたしのあの記憶は多分ずっと前のことのはずだ。 「そうさ。この路地裏の、そこにあるマンホールから恐竜が出てくるっていう。きみが話したままの噂だよ。ぼくはその噂に痛く興味を惹かれてね。下水道の白いワニの話は有名だけど。あの都市伝説の出どころはアメリカだ。日本ではマンガや小説のモチーフになることはあるけれど子どもたちの間でこんなふうに広まるのは少し変だ」  鼻持ちならない喋り方だけど、その目の熱意と、わかりやすく説明しようとする意図は明白だった。ひょっとしたらおにいちゃんより頭いいかも。 「それに“恐竜”っていう改変点も気になる。都市伝説って言うのは荒唐無稽に見えて、それが身近に感じられるものだから怖がられて広まるんだ。なんで“恐竜”、なんで下水道? とっても興味深いよ!」 「で、それを見張ってたの?」 「そう、バイタルブレスを裏ワザでちょちょいといじって、周囲の環境の変化に反応するようにしてね」  そうして彼が再び液晶の画面を見せる。思ったより時間がかかっていたのか今はもう五時手前だ。 「時間的にも夕方と言って差し支えないし。もしかしたら──」  ばちり  そんな音に、わたしと彼の息が止まる。  ばちり、ばち、ばち。  機械がショートした時のような音、何かが焦げた臭い。  ──そしてそこに感じる、何かの確かな気配。  わたしたちはゆっくりと、恐る恐る振り返って、それを見た。  恐竜などではない。少なくとも、わたしたちのイメージするそれとはまるで違う。  そこに居たのは巨大な白い蛇だった。いや、本当に白いのかは分からない。その長い体を覆う金属質の鎧が美しく眩しい白だったというだけだ。鎧に覆われていないのは頭部から生える深い緑の羽毛だけで、そのそばからは蛇らしからぬ大きな金属質の羽を伸ばしている。  いいや、鎧に覆われていないものがもう一つ。白銀の隙間から覗く青い瞳が一対。 「……お母さんの噓つき」  恐竜じゃないじゃん、わたしがそこまで呟く前に、その瞳がぎょろりと動いて、わたしたちの方を捉えた。 ------------------------------------ 「……こっち!」  わたしは咄嗟に彼の手を取って走り出した。薄暗い路地裏はそこまで長くなかったはずなのに、まるで空気の上を這うように浮遊して迫ってくる化け物の存在を背後に感じながらでは、あまりに長く感じられた。  陽炎が揺らぐ道路を目指して路地裏を飛び出せば、わずかに橙色を含んだ西からの日差しがわたしたちを照らす。別世界に来たような感覚に、先ほどまでの全てがゆっめだったような感覚に襲われるけど──。 「まだ来る!」  男の子の声が本当かどうか振り返る余裕なんてなくて、わたしは再び走り出した。涼しい路地裏からの温度差にまだくらくらする頭を鞭打って記憶の地平を探る。  ここから二つ先の十字路を右、その後突き当りを左に曲がって、そうすると古い焼き肉屋さんがあるはずだから──。 「……もう潰れてるじゃん。覚え直さないと」 「ね、ねえ! どこに連れて気だよ!」 「いいから黙ってついてきて!」  そこから先はまっすぐ走るだけ。荒い息をついている男の子の様子が気になって一瞬振り返れば、その巨大な体で器用に曲がり角をこちらに向かってくる白蛇の姿も見えた。夏の暑さの中ではそれも悪い夢に見える。けれど、遠目にもわかる。白蛇の尾の先にある炎にも似た刃が曲がった際に道の端の電柱をかすったときにつけた傷。コンクリートをえぐったような跡が、それが悪夢よりも悪い現実だと教えてくれた。 「がんばって、ついてきて!」  男の子にそう声をかけてわたしも自分の心臓に鞭を撃つ。もうすこし、もうすこしだ。この先の曲がり角を曲がれば──。 覚えてた通り。その角を曲がってすぐ、右手に民家と民家の隙間のような小道がある。わたしは半ば飛び込むようにその道に入り、一拍遅れてきた男の子の手を掴んで無理やり同じ道に引きずり込んだ。 「わ! ちょっと……」  何かを言おうとする彼の口と、ひゅうひゅういう自分の口を抑えて、わたしはぴったり建物の壁に体を押し付けた。息を殺していれば少しして、がりがりとコンクリートを引っ掻く音と共に蛇が表の通りを通り過ぎて行った。 「……いったみたいね」 「え、あ、ほ、ほんとかい?」  へたへたと座り込む彼のことをからかう気にはなれなかった。わたしも滝のように流れる汗を手で拭い、壁に背中を預ける。 「感謝してね。わたしが道覚えてなかったら」 「……わかってるよ。ありがとう。道、詳しいんだね。このあたり、長いこと住んでるの?」 「今日来たばかり」 「え、でも……」 「来る時に地図を覚えてた。わたし、物覚えがいいの」 「はあ? でもさすがに──」 「フブル」 「え?」 「平野フブルだよ。あなたは?」  有無を言わさないわたしの自己紹介に男の子は首を振る。へんに見えるのは分かるけど、今はとても自分の人とは少し違うところを詳しく語る気にはなれなかった。 「……秋に波って書いて秋波(シュウハ)。鷺坂シュウハだよ」 「ヘンな名前」 「そっちもだろ!」 「……まあね」わたしは唇を尖らせた。 「それで、全然恐竜じゃなかったじゃん。なにアレ」 「僕だって知らないよ。でも」少し余裕を取り戻したのか、彼の瞳に熱っぽい光が灯る。 「これは大発見だよ! 下水道に住む浮遊する白い蛇!」 「恐竜じゃなかった」 「些細な問題だろう? 噂なんて変化するものだし……」  そう言いながら、彼は身を乗り出してわたしに詰め寄る。 「ところで! きみの覚えてた話だよ! たしかまだ続きがあったよね。恐竜に出会っても助かった子どもは、なにをしたの?」 「え? ああ……」  わたしは再びあの赤黒い記憶の地平に意識を巡らせた。 「おまじない」 「え?」 ──恐竜と出会って、助かった子どももいたらしいよ。なんでもその子は地面に手を当てておまじないをいったんだって。“ポマード、ポマード、ポマード”。フブルもよく覚えておいて。 「……おまじないをいうの。ねえ“ポマード”って何?」 「“ポマード”? それってたしか口裂け女に会った時に逃げるための呪文だろう? 白いワニに似てるとこといい、なんだかしっちゃかめっちゃかな話だね」 「そう言われてもな……」そう言って、わたしは左手を地面に当てる。 「ちょっと、今やるのかい? あまりみだりにそういう呪文を唱えるとかえって……」 「“ポマード、ポマード、ポマード”」  シュウハの言葉を聞き流して、わたしがその呪文を唱えた時だった。 「……わ」 「え、おい、なんだい、それ」  アスファルトに触れた指先が眩しいグリーンに光る。そしてそれと同時に、わたしの指が感じていたざらざらとした地面の感覚がなくなる。恐る恐るさらに地面に手を付ければ、接地面を緑に輝かせながら、わたしの手はどんどんと地面に沈み込んでいった。 「ちょっと、それ、大丈夫かい」 「……うん」  その言葉に嘘はない。緑の光はあまりに異様だったけど何故だか怖くなかった。わたしはさらに手を地面に突っ込む。やがて手首にはめていたバイタルブレスも完全に沈み込んだところで、わたしの指先が、球体のような何かに触れた。 「……? なんかある」  それを手に掴んで引っ張り出せば、さらに眩しい光がその小道を満たした。 「なんだろ、これ。ねえ、シュウハ……」  そう言いながら顔をあげたわたしの目に映ったのは、恐怖に怯えて小道の入り口を見るシュウハの顔だった。 「え」  まさか、と目を横に向ければ、白蛇の青い瞳と目が合った。その頭をもたげ、小道を覗き込んでいる。 「あ、やば……」  息をのんでももう遅くて、蛇はずるずると空気の上を這い、わたしたちの目と鼻の先まで近づいてくる。  こんなとこで死ぬのはごめんだ。心はそう言っている。頭もいろいろなことを考えている。でも目からは勝手に涙が溢れる。これまでにわたしの瞳が記録したすべてがフィルムを早回しするようにまぶたの裏を流れていく。  最後に映ったのは、手元に握っていた緑に輝く球体だった。黄色の卵のような形をしていてるが、底から四方向に三角形が飛び出しており、さながら花開く前のつぼみのようだ。  これが、こんなものが、“恐竜”からわたしを助けてくれるのかな。虚しくなる。哀しくなる。  でもなにより虚しくて、哀しいのは、こんなものが、母さんがわたしにくれたただひとつのもの、馬鹿げた呪文の結果だったという事実で。  それは、やだな、すごく。 「こんなの、じゃなくて、もっと、もっと」    わたしはぐちゃぐちゃになった心のままに、それをほうりなげて、のどが裂けるほどの叫び声をあげた。 「──もっとちゃんと、わたしのことをたすけてよ!」  左手のブレスレットが眩しく光る。この光は、何色だろう?  赤か。 橙か。 黄かも。 緑じゃないか? いや、青だ。 藍にも見える。 紫だろうか。 その答えを出す前に、私の視界はすっかり塗りつぶされた。 ------------------------------------ 「わ」 「ん、どうしたんですか、鈴代先生」 「す。すいません。急な風で、しょ、書類が」 「あ、手伝いますよ」 「ありがとうございます……。ところで、いま、何か声しませんでしたか」 「いや? 聞こえませんでしたけど」 「……そうですか。何かの鳴き声みたいだったんだけど」 ------------------------------------ 「……白鳥だ」 「白鳥管理官! よかった、つながった!」 「落ち着け、どうしたんだ?」 「緊急事態です。スルギの研究所で保管していたデータが……」 「何かあったのか? 閉じた回線のなかに閉じ込めていたはずだろう」 「それが、何者かによってネットに接続されていて……」 「おい、それじゃ」 「……はい、だから緊急事態なんです」 ------------------------------------ 「デジタル・モンスター、サンプル第Ⅴ号。仮称“ブイモン”が、脱走しました」 ------------------------------------  鬼のような、人のような、それが、わたしを振り返り見た。 「……あなたは?」  わたしの背丈の二倍ほどもあるその鬼人を見上げ、そう呟けば、彼は何かの反応を返すこともなく、前に目を向けて、両手に握った木刀を構えた。  白蛇はその鎧をきしきしとすり合わせてうなりをあげる、そしてその体をくねらせて、先ほどわたしたちを追いかけていた時よりもずっと素早く、その体を鬼人に巻き付ける。  この蛇、さっきわたしたちのことを追いかけていた時は、全然本気じゃなかったんだ。  そんな絶望に声が漏れるが、鬼人はまるで動じる様子はなく、木刀を携えた手を持ち上げ、振り下ろした。  ただの木の棒だ。なにが切れるわけでもない。そんな思いは、白蛇の金属質の翼が地面に落ちるがちゃり、という音に覆された。  白蛇が痛みにうめくように咆哮する。それに追い打ちをかけるように、武人は木刀を、今度は二本同時に構えて──。  けれどその前に、白蛇は小道に設置されたマンホールに飛び込んだ。その長い体ががちゃがちゃと金属質の音を立ててマンホールに吸い込まれていく。ふたを開けたわけでもないのに、蛇がいなくなった後、その地面には傷ひとつなかった。  それを見送って、鬼人はわたしの方を振り返った。 「……あなたは」  わたしが口を開こうとすれば、彼がその大きな手を伸ばしてくる。おそろしさに目をつむれば、ぐしゃぐしゃと、その手がわたしの頭を撫でた。 「え」  顔をあげて口を開こうとしたとき、その体が緑色の光を放つ。わたしの視界は再び眩しい光に包まれた。 ------------------------------------ 「ねえ、ねえ、シュウハ、シュウハ!」  わたしが肩を揺すれば、うずくまって震えていたシュウハは顔をあげた。 「え、あれ、フブル、大丈夫なの? 僕たちあの蛇に……」 「うん、大丈夫だった」 「でも……」 「話はあと、それより、ほら──」  そう言ってわたしが示した指の先を見て、彼は声をあげた。 「え、あれ」 「うん、わたしも信じられないけど……」  わたしたちの視線の先で、その青が呼吸をするように上下する。 「……いたね、“恐竜”」 「うん、白くないけど」  小さな青い竜。そうとしか言いようのないものが、そこで眠っていた。
in Rainbows 第一話「漂流特区⇔恐竜特区」
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マダラマゼラン一号
2022年12月25日
In デジモン創作サロン
はじめに 本作は2018年8月26日に開催されたDiGiコレ7で頒布された七大魔王小説アンソロジー「魔王狂典」に寄稿した作品です(主催様によりネット公開解禁済み)。マダラマゼラン一号が担当したのは嫉妬の魔王リヴァイアモン。作品のお題は「これで終わり」というセリフでした。そのあたりも踏まえて楽しんでくれると幸いです。 --------------------------  こういう夜は夢を見るのだ。それも、いつもおんなじ夢だ。  眠る前に窓の近くに寄って外の様子を見るだけで、私にはそれが分かる。それがどんな夜だと聞かれたら、眠る前に窓の近くに寄って外の様子を見たくなるような夜だというのが一番冴えた回答だろう。それには天気はあまり関係ない、晴れていようが曇っていようが、或いはそこにあるのが腐った卵のような緑色の空だろうが、私にはその夜の訪れがちゃんと分かる。そして私はいつも眉をひそめてごちゃごちゃと散らかった寝室に戻り、ベッドスタンドに置かれたコーヒーのマグカップを取ると、そっとため息をついてこう呟くのだ。  嵐の季節が、またやってきた、と。        むかーし、むかしのおはなしです。深い深い海の底に、千年もの時を生きるという大きなくじらが住んでいました。  その大きさといったら、彼がわずかに寝息を立てるだけで(もっとも、彼が一度息を吸って吐くまでの間に大抵の生き物たちはその一生を終えてしまうのですが)普段は威張り散らしているほおじろ鮫も震え上がり、彼が気まぐれに大海原の上に浮かべた尾っぽの先で百人の旅人と千羽のかささぎが眠ることが出来るほどでした。 生き物たちはくじらのことを怖がりましたが、同時に彼のことを慕っていました。彼らはくじらに贈り物をしたいと思いました。人間たちがとびきりの輝く石を持ってきたのをきっかけとして、陸の生き物たちはありったけの果実を、海の生き物たちは飛び切りの魚を、そして哀れなあほうどりは自ら灰色の岸壁に頭を打ち付けてその身を差し出しました。  しかしそんな生き物たちの心づくしは、くじらにとっては頭の上のちっぽけな砂粒に過ぎませんでした。生き物たちはどうすればくじらに彼らのあたたかな気持ちを伝えられるか始めは一生懸命考えていましたが、やがてそれを忘れ他のやらなければいけないことを始めました。そして彼らの息子や娘たちはくじらへの恐れと愛を確かめ合うことを忘れ、その孫の代になると、自分たちの思いに応えないくじらの悪口を口にするようになりました。  そういった全てのことが、くじらがわずかなうたたねを楽しんでいる間に起ったのです。彼が目を覚ました時、生き物たちは一様に恐怖を浮かべて彼を見つめ、逃げまどいました。誰もくじらのことを知らなかったのです。くじらの身震いが引き起こす地震に人々は怯え、くじらが悲しんで流す涙が起こす波を恐れて石を投げつけました。  何よりもくじらを傷つけたのは、彼がひとりぼっちだったことです。彼を恐れる小さな生き物たちには、皆仲間がいました。彼らは寄り添いあって励ましあって、みんなでくじらに立ち向かいました。くじらはそれを、たったひとりで受け止めなければいけなかったのです  くじらは彼らの絆に嫉妬しました。けれど、自分も彼らのようになりたいとくじらが思うにはあまりにも乱暴に、あまりにも醜い心で、彼らはくじらを傷つけました。  だからくじらは、彼らにも一人になってもらうことにしたのです。  目を瞑り、その口を大きく開いて、そして勢いよく、がぶりと閉じたのです。  すべてが終わり、満足げにくじらは目を開きました。けれど、そこでひとりなのはやっぱりくじらだけでした。後はみんな、彼の見えない場所に消え去ってしまったのです。くじらは大きく口を動かした後の違和感を歯に感じながら、哀し気に目を閉じました。  そのおとぎ話の最後の最後、がぶり、というところでいつも私は目を覚ます。それはいつだって空が白みだしたばかりの、ベッドを這い出すには少し早い時間だ。  夢はいつも私の幼いころの記憶そのままだ。物語は私の祖母が枕元で私に語ったものと寸分違わず同じ内容で、それを語る声も祖母のものだった。当時の私はこの救いのない物語を語る祖母のことが大好きだった。  今思うと、私は死んだ祖母が私に対して抱いていたよりも幾分多く彼女に愛情を向けていたのだと思う。誰がそんな私を責められるだろう? 私は父と母を失って一人ぼっちの五歳の少女で、祖母が唯一の肉親だったのだ。そんなわけで、彼女は非常に手際よく、私の心のひだの最も小さな隙間にまで、この悪趣味なおとぎ話を沁み込ませてしまった。  その夢は私の心にそんな虚しい思いを残すだけでなく、もう一つだけ、もっとリアルな足跡を一つ残していく。それは大抵の場合地震の形をとる。小さいとは言えないが取り立てて騒ぎになることもない地震。時折小さな津波を伴って早朝のテレビを騒がせる地震。私がおとぎ話の夢を見た朝には、決まってそういうことが起こる。  くじらの身震いが引き起こす地震に人々は怯え、くじらが悲しんで流す涙が起こす波を恐れて、石を投げつけました。  私は自分の夢の成果を確認するために、少し伸びをして起き上がった。床に惨めに放り出された衣類の山の中からデニムの短パンとオーバーサイズの長袖のシャツをつまみ上げて身に着けると、あくびをしながらテレビをつけた。  そして、言葉を失った。 モニターにひっきりなしに流れる文字に、いつもより化粧っ気のないアナウンサーが慌てて飛ばす言葉。私はそれらの断片しか捉えることが出来なかった。「ユカタン半島」だの「津波」だの「首相官邸」だの、そのどれもが私には精彩を欠いた文字列にしか思えなかった。それでも、私の夢の結果がいつもの小さな地震ではないことだけは辛うじて理解できた。  くじらは、彼らにも一人になってもらうことにしたのです。  そのとき、玄関のチャイムが無遠慮に鳴らされた。私は呪いの言葉を再度呟いて玄関に向かう。こんな時間に私の家にやってくる奴は一人しかいない。 「何の用?」 ドアの外に立っていた白鳥正人(シラトリ・マサト)の顔を見もしないで私は言った。 「やあ、朝早くごめん、えっと…」  彼は端正な顔を歪め、気まずそうに私から目を逸らした。眉を顰めて自分の身体を見ると、丈の長いシャツで短いパンツが隠され、不健康な色の足だけが剥き出しになっている。 「どこ見てんの、ちゃんと履いてるわよ、マサ。それより用件は?」 ぶっきらぼうな私の指摘に、彼は恥ずかしそうにはにかんだ。彼とは同年齢の幼馴染で、十六歳の時までは確かに親友だったし、彼のほうでは今でもそのつもりでいるらしい。私は私で「マサ」という忌々しい愛称を未だに捨てきれていなかった。 「蜜花、テレビは見た?」マサが突然に切り出した。  私は黙って頷く。 「…夢は?」  また、黙って頷いた。 「やっぱりか」 「何がやっぱりなのよ」したり顔のマサに私は噛みついた。 「え、分かるだろ? 大災害が起こった。災害の原因は奴にあるとみた当局が、俺を蜜花の家によこした。果たして蜜花は例の夢を見ていた。君は、奴の活性化の前兆として特定の夢を見る。つまり…」 「もういいわ。それより私の質問に答えて。私は『何の用?』って聞いたの」  マサは少し黙って生唾を飲み込むと、意を決したように口を開いた。 「明朝四時、奴──デジタルモンスター・リヴァイアモンが本格的に活性状態に入った。詳しくは分かってないけれど、奴の〈ロストルム〉は一噛みでアメリカのユカタン半島を地図から消した。半島を丸ごとかみ砕いたんだ」  彼は目を瞑り、その口を大きく開いて、そして勢いよく、がぶりと閉じたのです。 「死者、行方不明者の数は数えきれない」マサが続けた。 「俺たち国立情報処理局も黙って見ちゃいられない。一日以内に各国の情報機関との共同作戦が発動される。計画の前段階として、リヴァイアモンの生体データを摂取してアイツと俺たちとの間を媒介する『選ばれし子ども』にも召集がかかっている」  私は肩をすくめた。『選ばれし子ども』、二十二歳になったって『子ども』。私を縛り付ける鎖の名前は変わることはない。 「つまり私はこれから哀れな『子ども』達と一緒に世界を救うのね。嬉しくてたまらないわ」 「いや、その…」 「何よ!」私の皮肉に妙に歯切れの悪い様子で返すマサに声を荒げる。 「実はさ、作戦が立案されてから二十年間で、リヴァイアモンの生体データに適合する人間は一人しか見つからなかったんだ。それが柏木蜜花(カシワギ・ミツカ)、君だよ」  マサは心底、心底申し訳なさそうに、それを告げた。 「蜜花、君にはたった一人で、世界を救ってもらわなくちゃいけない」      *****  十六歳の春、暖かな日差しが差し込む病室のベッドの上で、死の間際の祖母は私にもう年にそぐわないような子供向けのおもちゃをいくつか与え、それからいろいろなことを語った。爽やかな春風が紺色のカーテンを揺らしていたのを覚えている。  彼女は国の情報機関の研究員であること。  彼女のおとぎ話に出てくる「千年くじら」は実在すること。  くじら──リヴァイアモンによる災害を止めるための計画を彼女が主導していたこと。  計画のために「くじら」のデータを摂取した者は、私の両親含め皆死んだこと。  その中で、なぜか私だけが生き残ったこと。  必然的に、私が命を懸けて世界を救う使命を背負ったこと。  マサは祖母の部下の息子で、私の負担を軽減する「仕事」のために、私のそばにいたこと。  祖母は頭のいい女性だったが、死の床にあっては自分の聞かせていたおとぎ話が私に「くじら」の存在と恐ろしさを刷り込むための体のいい創作に過ぎなかったという告白が、一人残された孫娘をどう傷つけるかということまで想像できなかったのだろう。  いや、そもそも彼女は、私の気持ちのことなど一度も考えなかったのかもしれない。      *****  早朝の薄明りに満たされた街、寝ぼけ眼で自堕落な点滅を繰り返す信号機の下を、私とマサを乗せた黒い車が有無を言わさぬ猛スピードで走り抜けた。私はかつて座ったどれよりも柔らかいシートに身を預け、表情のない黒服の運転手が渡してくれたエスプレッソ・コーヒーを啜った。至れり尽くせりだが、髪を整えてまともな服に着替える時間は貰えなかった。 「お腹空いたんだけど、コーヒーだけ?」私は空腹を抱えて言った。。 「サンドウィッチがある」 「最高、どこの三ツ星レストランのかしらね」 「駅前のコンビニだよ」 「さすが、分かってる」 「親友だからな」そう言うマサに私は笑った。それはどうかしら。  私のそんな思いなどつゆ知らず、マサは気をよくした様子で語りだした。 「作戦の前に、基本的な事項を確認しておこうか」 「この期に及んでいつもの講義? 私、そういうのが嫌で大学行かなかったんだけど」 「俺が何度説明しても、デジタルモンスターについて君が半分も理解しないからだろ」  まるで高校の教師のような言い方をする彼に、私は渋面を向けた 「しょうがないでしょ。ネット空間に巣くう怪物の身体組織なんて知らないわよ。大事なのは歴史じゃない? 政府や国連が稀に現実にやってきて暴れる怪物を持て余してること。怪物の存在やその被害を、自分たちの無能っぷりと一緒に三十年近く隠してること」 「蜜花!」マサが鋭い言葉で私を刺した。 「なあに、職場と親に忠義立て? ねえマサ、私は何であなたがあの人たちをそんなに尊敬できるのか本当に分からないわ。私なんか高一の春以来おばあちゃんのことを…」 「柏木博士は立派な研究者だった」 「立派ですって!」私はそう吐き捨てると身を起こし、勢いよく左の袖を捲った。青白い腕に沿って、深く細い溝がはっきりと刻まれている。 「聞いてマサ、研究者でも何でも、立派って言われるような人はね、絶対に自分の孫娘を怪物を操るための道具になんてしないし、『カードリーダー』なんてふざけたことを言って、その子の腕にスーパーのレジスターにあるみたいな溝を彫ったりしないわ。絶対にね」 「…悪かったよ」 「言い返さないの? 喧嘩したっていいのよ。それともやっぱり護衛対象と喧嘩するのはまずいのかしら。そうだよね、仕事中だもんね。喧嘩したら減給とかあるの?」 「やめてくれ、ミツカ」マサは苦しそうな顔を私に向けた。  今度は私が謝る番だった。それは分かっていたが、私はむっつりと唇を尖らせてシートにもたれただけだった。沈黙の中で、車の静かなエンジン音だけが唸りをあげていた。  高校一年の春に祖母の告白を聞いて自暴自棄になり、祖母の貯金を生活の当てにして大学にもいかず就職もしなかった私に対して、マサは名門大学に進学し、私の祖母や彼の親がいた情報機関・国立情報処理局に入った。コネと実力でどんな部署でも選び放題だった彼が選んだのは、子どもの頃と同じ私の護衛とサポートだった。泣かせる話だ。映画にしたらきっと売れるだろう。私もポップコーンくらいなら買ってやってもいい。  分かっている。彼も私と同じ、親に、国に、デジタル・モンスターに人生を捻じ曲げられた被害者だと。そんな境遇の中でも私の傍にいてくれる無二の友人だと。そう頭で分かっていても、彼の前に開けた洋々たる未来を、ずるい、と思ってしまう。  嫉妬が、私から親友を奪ってしまった。      ***** 「遅いぞ白鳥、二分三十四秒の遅刻だ」  連れてこられたのは空港だった。朝の五時にもなっていないというのに、辺りには未曽有の大災害にたたき起こされた情報処理局職員たちの声が響いている。どの職員も、まだ眠たいような目の潤みと寝癖で乱れた髪を携えていたが、目の前でマサに声をかけた銀縁眼鏡の男だけは完璧に身だしなみを整えていた。 「秒刻みで遅刻ですって。マサの職場、こんなこと本当に言う人いるんだ」 「おい、蜜花」私の言葉に、マサが不安げに顔をしかめる。どうやら直属の上司らしい。男は私に体を向け、ぶっきらぼうな調子で言った。 「いつもは数分の遅刻くらいでとやかく言わないが今は別だ。一秒遅れるごとに百人が死ぬと考えたほうがいい。」 「私たちが遅刻した時間で何人死んだか計算して、たっぷりと懺悔したほうがいい?」 男は私をじろりと睨んだ。 「挨拶がまだだったな。局長の小林だ。そのような不謹慎なジョークを言う人が『選ばれし子ども』であることを残念に思うよ、柏木蜜花さん。我々は本当に残念に思っているんだ」 「局長」マサが小林と私の間に立った。 「いいのよ、マサ。時間の無駄でしょ」  私を庇おうとするマサを遮って放った言葉に、小林は苦々しげに顔を歪めた。 「確かに、時間の無駄だった。謝罪しよう」 「謝罪ついでに、寝起きの女の子を拉致してどこにいく気か教えてくれないかしら?」  小林はマサのほうを見た。それを合図にマサが話し始める。立派な子分といったところだ。 「俺たちはアメリカに飛ぶんだ。奴を真っ向から叩く。そしてみんなで帰るんだ」  私は小林を盗み見た。目には彼なりの真摯な光が浮かんでいる。「みんなで帰る」は嘘ではないということか。或いは私は初めから「みんな」に含まれていないのかもしれない。       *****  飛行機には私とマサと小林しか乗っていなかった。滑走路で見たときには少人数で乗るには大きいように見えたが、中は案外窮屈だ。 「燃料を多めに積んでるんだ。どこの空港なら安全に着陸できるかもわからないからな」 パソコンの画面を見たままそう言うと、小林は鞄から十数枚のカードを取り出した。表面には意味の良くわからない記号と文字、裏面には緑の模様が印刷されている。 「これ、何?」 「カードだ」代わりに説明をするよう小林から顎で促され、マサが口を開いた。 「見ればわかるわよ。何のカードかって聞いてんの。着陸までゲームでもするわけ?」 「落ち着けよ。もちろんただのカードじゃない。デジタルモンスターに対抗するためのアイテムデータを組み込んだマイクロチップ付きの『デジタル・カード』だよ」 「柏木博士──君のおばあ様の発明品の中でも最も偉大なものだ。柏木博士は、幼い君がそれを使うことを想定していたから、ゲームに使うようなカードの形を選んだんだ」 「私が?」自分で飛ばした疑問符の答えを、私はすぐに自分の腕に見つけた。袖を捲り先ほどマサにも見せた溝、『カードリーダー』をむき出しにする。 「これ?」私の問いに小林が頷く。 「そういうことだ。リヴァイアモンの生体データを摂取している君は奴の変化を敏感に感じ取ると同時に、奴に向けて働きかけるためのデヴァイスにもなることができる」 「この溝にカードを通すわけ? ぞっとしないわね」  幼いころ、祖母に連れられて行った病院で腕に溝を彫りこまれた時の痛みが蘇ってきた。 「今のところリヴァイアモンに直接干渉できる手段はそれだけだ。何とか耐えてほしい」 「殊勝なお願いね。でも、このカードを使ってどうやってあの化け物を倒すのよ? 半島を一つぱっくりやれるくらい大きいのに」 「それは…」 小林は再びマサに目を向けた。余程言いにくい話なのか、今度は彼も顔を歪めている。 「最終的な手段としては、核を想定している。米軍の持ってる中でも飛び切りのやつだ」  私も思わず生唾を飲んだ。ごくり、という音が自分の予想よりも大きく耳に響く。 「そんなことしたら、世界は化け物なんかに頼らなくてもあっという間に滅びそうね」 「ああ、そこで君の力が必要なんだ」  マサは床に広げられたカードの中から一枚を選び取り、私に手渡した。 「…『白い羽』?」 一対の純白の羽の絵と共にカードに記された文字を私は読み上げる。 「そうだ」マサが頷く。 「柏木博士はリヴァイアモンに干渉するためのカードとデヴァイスを作り出した。しかし、それを使ってどのように奴を止めるかは、何一つ言い残さないまま死んでしまったんだ。彼女の死後、研究者達の議論の末、最も見込みがある鍵として選んだのがその『白い羽』だ」 「ええと、このカードはあの化け物に羽をはやすことができるってこと? そんなことして大丈夫なわけ?」私の問いにマサが頷いた。 「心配いらないよ。奴に翼を与えるのは単に標的を地上から引き離すためだ。地上の安全が十分確保される高度に奴が達し次第、核ミサイルが奴を塵一つ残さないまでに粉砕する」 「ずいぶん幼稚な作戦だと思うだろうな?」小林が不意に口を挟んだ。 「まあ、頭がいい人たちが一生懸命考えたにしてはね。羽をはやすことが出来るんだったらもっと色々できてもよさそうなものだけど。体内から爆発させる、とか」 「カードの効果で? いい考えかもしれないな。そうしたら君の体内にある奴の生体データもドカンだ。そんな顔をするな。君のおばあ様はそういうカードは作っていない」  黙りこくった私に小林が無機質な調子で言葉をかけた。 「君の役目はシンプルだ。最初に、『白い羽』を使ってリヴァイアモンに翼を与えること。一枚じゃ奴は持ち上がらないだろうから、数千枚の複製カードを用意している」 「さっきの爆弾の理屈で行くと、私にも羽が生えるの?」 「かもな、でも怖がらなくていい。そしてもう一つ。君には翼を得たアイツの移動を制御してほしい。地面に再着陸したり、陸地のほうに向かったりするのを止めてほしいんだ」  私は絶句した。 「ちょっと、無茶言わないでよ」 「そんなに無茶な話でもない」小林が言った。 「君の体の中にはリヴァイアモンのデータが流れている。それは君の身体だけではなく、心にも影響を与えているはずだ。君は奴の活動に伴って夢を見るんだろう? あれは奴の精神が君の心に干渉しているんだ。それが出来るなら逆だってできないわけはない。仮に奴の精神を操れなくても、作戦の遂行には君の力が不可欠だ。奴の感情を一番理解しているのは君だよ。夢を思い出してみろ。そこにはどんな感情が表れていた?」 「感情? くじらの? そんなのわかるわけ…」 そこまで言って私は口をつぐんだ。わかるわけがないと言ったとしたら。それはきっと嘘になる。子どもの頃から何度も同じ物語を聞かされて私にとっては「くじら」は他人でも、素性の知れない化け物でもなくなっていた。 「…羨ましい」 「え?」私がぽつりと口にした言葉に、マサが面食らったような顔を向ける。 「羨ましいどうして私だけが不幸なのか分からない。どうして皆は誰かと笑いあえるのかわからない。殺してしまいたいほどに妬ましい」 「…蜜花?」 「それが、今の奴の感情の全てよ。ほかには何もない」 「嫉妬の化け物、というわけか」意外にも小林は私の言葉に深くうなずいた。 「…柏木博士の作り話に引き摺られただけじゃないかな。あんな化け物が嫉妬だなんて」 マサが妙に怯えた調子で言った。どうして私のことをそんな目で見るのよ? 「その可能性もあるが、検証する時間はない。我々は柏木さんの考えに基づいて行動する」  小林がそう言い切った瞬間、機体が大きく揺れた。沢山のカードと共に反対の壁に転がり落ちた私をマサが受け止める。 「なんだ?」壁に背中をしたたかに打ち付けた小林は呻きながらも素早く無線機に手を伸ばした。そこから漏れ出る英語の声に耳を傾け、彼は深く重いため息をついた。 「二回目の〈ロストルム〉だ。米軍様が奴を不用意に刺激したらしい」  そしてパイロットにも聞こえるように、声を張り上げた。 「この状況ではどの空港も無理だ。コースを変更する。空から直接奴の近くにいくぞ!」  マサがぐっと唇を引き締め、私の手を握った。      *****  最初は島だと思った。土気色に濁った海の中に浮かぶ、やけに大きく、赤茶けた島。周囲を飛び交う戦闘機が、なぜ島に向けて爆弾を落としているのかわからなかった。と、島が大きく動いた。高い波の紋が浮かび、車や建物だったものの群れを押し流していく。その時飛行機が急激に高度を上げたので、私にもその「島」の全体像が見えた。 「くじらというより鰐ね。おばあちゃんの嘘つき」 私の声は震えていた。私の手を握ったままの隣のマサの顔も、心なしか青ざめている。 「仕方がないさ。博士だってアイツを見たことはなかったんだ。蜜花に投与する生体データを採取した時も、非活性状態のアイツの背中に小さな傷をつけただけだ」 「ずるいわね。なにも見ないで好き勝手なことをして、何も見ないで死んだんだもの」 「…そうだな、ずるいな」マサはそう言って、静かに頷いた。  私たち二人の後ろで通信をしていた小林がこちらに声をかけた。 「今の活動は二回目の〈ロストルム〉から三時間ぶりの活性化だそうだ。理由は不明だ」 「私たちが来たからでしょ」 「我々が?」あっさりとした私の言葉に、小林が驚いて目を向ける。 「というより、私とマサが」 「また、嫉妬か?」マサが少し怯えたように言った。「無理があるよ」 「そう? 自分は一人ぼっちで沢山の人間たちに虐められているのに、その真上で血を分けた同法である私が、男の子と手をつないでるんだもの。あの子の嫉妬は最高潮ね」  ごくりと唾を飲み込むとマサが私の手を離した。 「それなら」苦々しげに小林が言った。「次の〈ロストルム〉は近いかもな」 「それはないわ。次があるとしても、相当先よ」 「どうしてそう言える?」 「あの子、噛み合わせを気にしてるもの」  小林は呆れた様子だった。「冗談を言っている場合じゃないぞ」 「あら、本気よ。あんな大きな口を開いて勢いよく閉じるんだもの。口の中に違和感が残るに決まってるわ。それにあの子の時間の感じ方は人間とは随分…」 「もう沢山だ」不意にマサが言った。 「君に奴の気持ちが分かるのも、その力がどうしても必要なのもわかったよ。でも頼むからあの化け物のことを自分のことみたいに話したり「あの子」なんて呼ぶのはやめてくれ。君が化け物のほうに近づいてるみたいで、たまらない気持ちになるんだ」  こちらを真っ直ぐに見つめて、マサはそう言った。私も彼の目を見て、口を開く。 「やだ」 「え?」 「マサ、私のことバカにしてるわけ? 私がこんな目に遭いたかったとでも思ってるの?」 「そんな、まさか」 「そうよ。私だって、こんな風になりたくなかった! 『選ばれし子ども』の役目だけじゃないわ。こんな可愛げのない女にもなりたくなかったし、嫉妬のせいでマサのことを嫌いにもなりたくなかった! 大切な、たった一人の友達だったのに!」  溢れる感情を言葉にするうち、ずっと隠していた気持ちもマサに言ってしまった。目をあげて、彼の顔を見ることもできない。 「マサには本当に感謝してるの。こんな私の傍にずっといてくれたんだもの。私あなたに沢山酷いこと言って、謝りもしなかったのに!」  だから、だからさ。 「お願い。もう私のことを何一つ否定しないで。私がなりたくなかった私の傍にいてちょうだい。こんな無理なお願い、マサ以外の誰にしろっていうのよ!」  いつの間にか、とめどなく涙が流れていた。その涙を、マサのごつごつとした手が拭う。 「ごめん、蜜花。そして大丈夫だ。何を言われたって、俺はずっと、君のことが好きだよ」 「…ありがとう」  マサが私の手を握る。横でそれを眺めていた小林が静かに言った。 「準備はできたみたいだな。リヴァイアモンがまた活性化した。君たちの繋がりが強くなるのを見て嫉妬で相当ご立腹らしいな。個人的には、ざまあみろと言ってやりたいね」  そして彼は、私に深々と頭を下げた。 「もう一度言おう。柏木蜜花さん。君に頼るしか手がないことを残念に思う。すまない。我々はそれ以外に、道を見つけられなかった」  私はマサの手を握ったまま、もう片方の手を小林に差し出した。 「カードをちょうだい。時間の無駄は嫌いでしょう?」  少々面食らった、しかし明るい顔の小林によって、『白い羽』が私の手に載せられる。 「飛行機のドアを開けて」  頷くと、彼はドアを開いた。冷たい風が、嵐の季節に吹く風が私の頬を打つ。 「はじめるわ」  私はマサの手をそっと外し、腕の溝に沿ってカードを走らせた。  途端に鋭い痛みが体全体に走り、私は声にならない叫びをあげてうずくまる。背中のじくじくとした気持ちの悪い感触に、息を吸うこともままならない。と、私の手を温かい何かが包み込んだ。それが何かは考えるまでもない。その温もりは決して痛みを和らげてはくれなかった。でも、思い切り叫んでいい、泣いてもいいんだと思えた。  気が付くと、痛みは嘘のようにひいていた。私の背中に生えた純白の羽を撫で、マサが耳元でささやきかける。 「とってもキレイだよ、蜜花。本物の天使みたいだ」 私は思わず、くすりと笑った。天使だなんて、私には名乗る資格もないのに。 「二枚目、いけるか?」気遣わしげに尋ねる小林に、私は首を振る。 「いいえ、一枚で十分よ。世界を救うにはね」  私はそう言うと、おもむろに首を曲げ、マサにキスをした。 「マサ、ありがとうね。そして、さよなら」 彼が驚きに目を見開いている隙にその手をそっと振りほどき、床を蹴ると、開いた飛行機のドアから身を投げる。体を上に向けるとマサと小林の叫び声が聞こえた。私の顔が幸福で輝いていたことは、二人にちゃんと見えていただろうか。  『デジタル・カード』の効果は相当なものだ。得たばかりの翼の使い方も、自然に頭に流れ込んでくる。「くじら」の前に舞い降りるのも容易かった。 私に気づいたのだろう。リヴァイアモンはゆっくり口を開け、怒りの声をあげた。 「私のことが憎い?」私はリヴァイアモンに語り掛ける。 「そうだよね。私はあなたが欲しいものを全部持ってるもの。かわいそうなくじらさん」 リヴァイアモンは口を閉じ、鼻を鳴らして見せた。 「でもさ、やっぱり無理だよ。私たちにとっては、あなたは化け物でしかないんだもの」  彼の目に再び怒りの火が灯る。私は大きく息を吸い込んだ。正直、世界を救うことは忘れていた。この子を救えるのは私だけなのだ。私を救えたのがマサだけだったように。だから、言葉を止めてはいけない。 「ねえ、くじらさん。怒らないで。あなたががぶりと私を食べちゃう前に、わたしが一つ、おとぎ話を聞かせてあげるわ」  むかーし、むかし、というわけでもない、最近の話です。みんなに憎まれ、嫉妬に狂った巨大なくじらと、そのくじらの血を飲んだそれはそれはかわいい女の子がいました。  女の子は小さい頃、くじらをやっつける戦士になるために無理やり血を飲まされました。女の子はその使命の為に沢山辛い思いをし、くじらと同じように嫉妬に心をのまれ、やがてずっと好きだった男の子すら憎むようになってしまいました。  でも男の子は、決して女の子から離れようとしませんでした。どんなに酷いことを言われても。それは世を拗ねた女の子にとって、うざったく、でも不思議と心地よいものでした。そして、女の子が今までで一番悩んで一番苦しんだ時も、男の子はそこにいました。  女の子はもう嫉妬に狂ってはいません、世界を憎んではいません。くじらの、自分からすべてを奪った嫉妬そのもののようなくじらでさえ、彼女は救うつもりでいるのです。  かつてくじらは、独りぼっちの自分を嫌い、周りのみんなも同じ独りぼっちにしようとしました。彼の並外れた巨体では、他に手はなかったのでしょう。でも女の子は違います。  女の子は、くじらと一緒にいることを選んだのです。彼を孤独から救うために。 私はポケットから、一枚のカードを取り出した。死の床のおばあちゃんが私にくれた「年にそぐわないような子供向けのおもちゃ」。今は、それが何かわかる。 「あのクソババア、全部作ってたのね。せめてもの形見だと思って持ち歩いてた自分がバカみたいじゃないの」  リヴァイアモンの咆哮に、私はまた前を向く。 「おばあちゃん、あなたに押し付けられた役目、ちゃんと果たすわ。嵐の季節は終わって、もう二度と来ることはない。これで終わりにしよう? 私は許してあげるから」  私はそのカード──爆弾の絵のついた『デジタル・カード』を前に掲げると、静かに、静かに腕に走らせた。体の奥から湧き上がる熱が私を貫くと同時に、くじらが、千年いきる巨大なくじらが、ここではないどこかへと消え去るのが見えた。                                     〈おしまい〉
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マダラマゼラン一号
2022年12月25日
In デジモン創作サロン
前編はこちら 12月22日 鈴代円香 「…ホークモン、ひょっとして、チェスのルール昔から知ってた?」 「いいや、今週お前から教えてもらったばかりだ」 「ねえねえマドカ、今はどっちが勝ってるの?」 「ピヨモン、私が勝ってるんだよ」 「嘘は見苦しいぞ」  私はピヨモンに向けた引きつった笑顔をなんとか保ったまま、チェス盤に再び向かい合った。ホークモンのビショップによって追い込まれるところまで追い込まれた私の黒い兵隊達の慟哭が耳元で聞こえるような気がする。  ホークモンは渋い顔でルークを進めた私を嘲るように見つめ、ルークが退いたお陰で私の陣の奥まで開通した斜めの道にクイーンを走らせた。私は頭を抱えて叫ぶ。 「あー! ちょっと、今のナシ!」 「待ったはナシってお前に教えてもらったのも、今週のことなんだがな」 「チェスすると性格の悪さが出るって言うよね。そう思わない、ピヨモン?」 「え? そ、そうかもね」 「性格の悪さがバレてるのはお前の方だろ。さっきの『クソ鳥』ってのは俺のことか?」 「あら、私がそんなこと言ったんですか? 気のせいじゃない?」  言い争う私とホークモンを止めたのは、ピヨモンのくすくす笑いだった。 「どうしたの? ピヨモン」 「いや、二人とも仲良いなーと思って」 「良くない!」  同時に叫んだ私達を見て、ピヨモンはさらに笑った。私も少し息を落ち着けて、日の光に照らされたピヨモンを眺める。東北にある私の街でいうと秋頃にあたる気候が年中続くこの村にしては、今日は暖かい日だった。私もいつもの冬物のセーターを脱いで、かつて村に住んでいた人の持ち物だったという赤い男物のネルシャツを着ていた。  デジタルワールドに来て二週間、そろそろ半月だ。村の全員と打ち解けられたわけではないが、手伝いを率先して引き受けたり、家に招待したりして、多少は村に馴染めた気がする。特にピヨモンやホークモンとは、最初に装っていた大人しい少女の皮を脱いで、素の私で接することができるようになった。こんなにみんなと仲良くなったニンゲンはマドカが初めてですよと村長のアウルモンも言ってくれている。  もっとも、油断は禁物だ。私の中の弱さは、決まって私が楽しさの絶頂にいるときに忍び寄って来る。奴は私がみんなを裏切るように仕向けようとしているのだ。  それだけじゃない。私は視線を部屋の隅の小箱に向けた。その中には先週に何者かによって引き裂かれた私のコートが入っている。それと似た嫌がらせは、この二週間で三回行われた。家に傷をつけられたり、藁のベッドに少し尖った木の枝を仕込んだり。特に死んだ虫の塊を窓から投げ込まれたときには心臓が止まりそうになった。  私はそのことを村長のアウルモンや他のデジモン達には相談していない。相談するだけ無駄だと知っているからだ。中学二年生のあの合唱コンクールの後も似たような嫌がらせは幾つかあったが、大ごとにして碌なことはなかった。  しかし、これ以上虫を投げ込まれ続けることを甘んじて受け入れたわけではない。こういうことを先延ばしにすることの積み重ねで、元の世界の私は駄目になったのだ。私はこの村で信頼を掴み取ると決めたのだ。いずれは立ち向かわなくてはいけないだろう。  思えば元の世界にいた頃の私は、逃げてばかりだった。家と学校以外にも、嫌な場所は街にたくさんあった。昔他の生徒と喧嘩して辞めた古い雑居ビルの二階にある塾、昔通っていた面倒くさい体育会系の空気が支配するスイミング・スクール、よく話しかけてくる鬱陶しい知り合いの親がやっているパン屋。そんなもの全てから、私は逃げていた。それを通して見える弱い自分を見つめることから、逃げていた。  そして、こっちの世界でも、私が向き合わなくてはいけないことは山ほどあった。今度は逃げない。チェスを口実に二人に自宅に来てもらったのも、その為なのだ。 「あのさ」ネルシャツの長い袖をぎゅっと握りしめ、私は口を開いた。 「どうした、もう一戦負けたいのか?」そう茶化してすぐに、私の口調が真剣なことに気づいたのだろう。ホークモンは口を噤んだ。 「どうしたんだ、マドカ?」  私は棚に置かれたデジヴァイスを手に取った。 「ヒョコモンのこと、教えて欲しいの」 「…わたし、予定思い出しちゃった」  ピヨモンは私の言葉に無表情になったかと思うと、不意にそんなことを言い出した。ホークモンが彼女に鋭い目を向ける。 「ピヨモン」 「それじゃあ行くね。今度わたしにも、それ、チェス、教えて」  そう言ってピヨモンは翼を広げ、ホークモンと私の制止を振り切り、窓から飛び出していった。やれやれと言ったようにホークモンが私の方を見る。 「お前の言い方が急だったから、驚いたんだろう」 「ヒョコモンのこと、やっぱり何かあったの?」 「まあな。事情があるんだ。余りピヨモンを責めないでやってくれ。いや、俺にもそんなことを言う資格はないな」  ホークモンは落ち着かなさげにチェス盤に乗った白いナイトを掴み、その翼の上で転がした。 「マドカ。お前は薄情だと思うか? これまでの二週間、俺たちがヒョコモンのことを話題にも出さなかったことを」 「…どうかな」  私は口ごもる。確かにデジモン達がヒョコモンの話をするのは聞いたことがなかったが、私はこの近辺で子どもの誘拐が起きているということにもアウルモンの話があるまで一週間気づかなかったような鈍感だ。それに。 「…人間界でも引きこもりはそういう扱いだから、薄情だとは思わないかな。あまりにも話題に出ないから、違和感は感じたけどね」 「そうか」ホークモンはもう片方の手で今度は黒のナイトを掴んだ。両手で象牙の駒を転がしながら、遠くを見るようにして話を続ける。 「俺たちは、みんなあいつに負い目があるんだ。それなのに、それから逃げてるんだよ」 「昔な、タチの悪い盗賊がこの村を襲ったことがあった」 「…子攫いといい、ここ、そんなに治安が悪いの? 今もみんな呑気にしてるけど」 「仕方ないさ。村の雰囲気ってもんがあるからな。でも俺も、皆そろそろ真剣に防衛を考えなければいけないと思ってるんだ。俺たちの“止まり木の村”は戦えたとしても非力な成長期か成熟期、村長のアウルモンも成熟期だしな」 「どうにかならないものなの、それ?」 「どうにかしようとしてるんだ。俺たちの鍛錬は見てるだろ」  私はホークモンとピヨモンが毎朝やっている空を飛びながらの組手を思い出した。なるほど、戦いの訓練なんてしてたのはそういうことか。 「偉いね」 「偉かないさ。俺たちが戦おうという気持ちになったのは、あるデジモンに出会ってからなんだ。そいつはさっき話した盗賊に村が襲われてる時に通りかかって、盗賊達を倒しちまった」 「強かったんだ」 「強かったよ。でも、そいつ一人じゃ多勢に無勢だった。この村のデジモンが手助けすればあるいはもっと楽だったかもしれないが、みんな怯えてしまって、隠れて見てるだけだったんだ。結果として、そのデジモンは盗賊達を倒すのと引き換えに命を落とした」  ホークモンはそこで一呼吸置いた。どんな映像が彼の中に浮かんでいるのだろう。血の赤に染まった光景を知らない私には、到底想像できなかった。 「そのデジモンはディノヒューモン。旅の途中で拾った鳥デジモンの子どもをこの村に託す為に偶々やってきていたんだ」  ピンときた。「もしかして、その子どもが…」  ホークモンが頷く。 「そう、ヒョコモンだよ。俺たちは、あいつの親代わりだったディノヒューモンを見殺しにしたんだ」 「最初に言っとくが、俺は村の皆がヒョコモンに負い目があるとは言ったが、あいつ自身に気を使う必要があったとは言ってない。ヒョコモンは掛け値無しのクソ野郎だった」  ホークモンは鋭い目つきのまま語った。 「それで、強く当たったんだ」 「初めて会った時から、あいつの事は嫌いだったよ。だから、今も後悔はしてない。ディノヒューモンに憧れてた。刀をいつも持ち歩いて、これで人を助けるんだなんてことを言ってたな。それなのに、肝心の修行はなんやかんやといってサボるんだ」 「彼が引きこもった直接の原因は、私よね」 「お前というか、デジヴァイスだな。デジヴァイスがヒョコモンの元に来た時、村の連中は馬鹿みたいに、これまで鼻つまみ者にしていたあいつに期待を寄せた。ヒョコモンも最初はいい気になって、村を救ってやるとか意気込んでたんだが、意気込みだけで強くなるわけでもないしな。これまでもサボりがちだった鍛錬についても、変わる事はなかった」  私はため息をついた。どこかで聞いた話だ。  「ヒョコモンの所にデジヴァイスが来た時、あなたはどんなふうに思った?」  ホークモンは肩をすくめた。 「特に何も思わなかったな。あいつが頼りにならない事は分かりきっていたし、俺が村を守るつもりでいた」 「ピヨモンは?」 「あいつがヒョコモンをどう思っていたかは俺にもよく分からない。ただ、俺がヒョコモンを責める時、ピヨモンはあいつの肩を持つことが多かったな」 「でも、あんな風に出て行ったってことは、何かあるのよね」 「かもな」 「…ヒョコモンは、どうやったらデジヴァイスから出てくると思う?」 「興味ない。アウルモンは色々と調べてるみたいだが、デジヴァイスの中にこっちから干渉することは不可能だ。でも、あいつは何もかも中途半端だからな、いずれ出てくるさ。村の幼年期が一体残らず攫われた頃にさ」  ホークモンの素っ気ない態度に、私はまたため息をついた。ヒョコモンの辛い立場はよく分かる。よく分かるからこそ庇ってやりたくなるのと同時に、そんな奴に優しくしてやる必要はないと思う。自分と悪い部分が似た者について判断を下すのは難しいことだ。 「ヒョコモンのことはこの際どうでもいいんだ」ホークモンは、とどめを刺すようにそう宣言した。 「俺の気にしてるのは、マドカ、お前のことだ」 「私?」 「そうだ。お前がこの村で暮らしていく腹を決めたのは、何となくわかった。一週間前までのムカつく猫っかぶりも減ったし、村の連中も歓迎してくれるだろう」 「そ、そう。ありがと」 「だけどな。お前がどんなに村の一員として普通に暮らしたいと言っても、どだい無理な話なんだ」 「…やっぱり、これ?」私は手にしたデジヴァイスを振ってみせた。 「そうだ。お前は村の窮地にやってきた英雄なんだ。賭けてもいいが、村の連中はお前を見捨てるぞ。ディノヒューモンにしたことを、ヒョコモンにしようとしたことを、お前にする」 「…そうかな」  ホークモンの話す偽善的な村の雰囲気と、私が二週間暮らした村の雰囲気とは、中々イメージが噛み合わなかった。二週間前に私と約束をしたスワンモンの笑顔が脳裏に浮かぶ。 「ありがとね。ホークモン」 「礼はいらな…」 「でも、私。もう少し皆を信じてみることにするよ。ホークモンのこともね」  彼は目を開いて私を見つめ、呆れたように翼を広げた。 「忠告はしたぞ。勝手にしてくれ。…お前、人間界でも、そうやって素直にしてればよかったんじゃないか?」  私は俯く。人間界で私に何かあったって、何で分かるのよ。 「…ホークモンこそ、少しはヒョコモンにこういう風に素直に話してやれば良かったんじゃないの。なんだかんだいって、友達だったんでしょ?」  鷹は何も言わずに、窓から飛び立っていった。 「あんたも色々あったのね」  夜、私は目の前に置いたデジヴァイスに向けて話しかけていた。ヒョコモンに聞こえているかどうか分からないが、何となくそういう気分になったのだ。 「あんたの育ての親、ディノヒューモン、だっけ?」  沈黙。 「カッコいいデジモンだったの? あんまり立派で、押しつぶされるような気分になるくらいに?」  沈黙。 「私も、そのくらいカッコいい親が欲しかったな」  私はこの二週間、ビックリするほど親のことを気にしていなかった。二人が私のことを心配しているかどうかも気にならなかった。 「私ね。お父さんもお母さんも大嫌いなんだ。お父さんは幼稚で気分屋で、私のことをおだてたかと思えばすぐに突き落とすようなことを言う。そのどっちの台詞も安っぽくて、大嫌い」  誰も聞いていないのは分かりきっているのに、言葉は勝手に溢れ出した。 「お母さんは割とマシな方なんだけど、とにかくアタマが悪いのね。私のこと碌に知ろうともしないのに、勝手に無理な期待をかけられて、うんざりしちゃう」  久し振りに高校受験に関わるエトセトラが頭をよぎり、私はため息をついた。  私は頭は悪くない。これまでは大した努力をしなくてもそれなりの成績を取ることができた。親の勧めるままにとある大学に付属した中学校を受験し、苦もなく合格を収めた。両親は優秀な娘を持ったと満足そうだったが、私は何の感慨も抱かなかった。部屋に飾ってある、入学式の日に校舎をバックに撮った写真の私は嘘っぽい笑顔を浮かべている。  そして現在、親からおだてられ私が目指している高校は、先生曰く私の学力では『努力次第』ということだった。春にもそう言われた。夏にもそう言われた。  そう言われて私が何をしたかは分かるだろう。何もしなかったのである。  私が渋々と提出する成績が段々と下がっているのに親もいい加減気づいたのだろう。最近になって妙な焦りとともに私を叱り始めた。そのどれもが安っぽくて、私はうんざりだった。 「何より悪いのはね。それが全部、私のせいだってこと。お父さんやお母さんが嫌いなのも、元を正せば私が悪いんだよ」  金持ちとは言えなくても、両親は私に不自由のない生活を送らせてくれている。高い金を払って塾にも通わせてくれている。感謝しなければいけない。  それなのに、父に塾の授業料を引き合いに出されて努力を促される度に、私は父が嫌いになるのだ。そんなことでケチケチするなよ。安っぽい。我ながらとんでもない娘だと思う。 「刀で人助けをしたい、だっけ?」  私はホークモンから聞いたヒョコモンの台詞を思い出した。彼の掲げたご大層な目標、それを周りに言いふらしながら、達成の為のなんの努力もしなかった目標。 「でも分かるよ。あんたは本気でそうしたいと思ってたんだよね」  そう、合唱コンクールのピアノ伴奏を申し出た時も、三者面談で父の視線を感じながら身の程似合わない志望校を口にした時も、私はいつだって“本気”だった。  分かるよ。分かる。私もあなたと同じ、逃げ出したクズだから。  でもさ。 「刀は好きだったんでしょ? そんな風にいつも持ち歩いて」   その気持ちもヒョコモンにとってきっと“本気”のものであったはずだ。 「あんたがもし、アウルモンとか村のみんな、それにあのクソ鳥に叱られたせいで刀を見るのも嫌になってたら、それは悲しいことだと思うな」  私はあの合唱コンクールの件のあと、ピアノに近寄るだけで胸に何か重いものがこみ上げるような感情を抱くようになってしまっていた。ピアノは嫌いになったと、もう二度と弾くことはないだろうと思っていた。  それでも、この村で、もう一度ピアノを弾くことができた。下手くそではあったけど、ピアノを弾くことを、何よりも幸せで楽しいことだと思えた。 「色んなしがらみは置いといてさ。スキなものはスキでいいんだよ、きっと」  出てきなよ。あんたを分かってやれる可愛い女の子が、ここに一人いるよ。  デジヴァイスの方をちらりと見る。なんの反応もない。一人で恥ずかしいことを口走ってしまったような気がして、私は慌てて目を瞑り、デヴァイスに背を向けて寝転んだ。  それでもなお、夜の静寂の中で私は語り続けた。気の置けない友人に話すように。 「…さっきはああ言ったけど、私の父さんと母さんも昔はカッコよかったんだよ。いや、写真で見ただけなんだけどね」  その写真は、家のリビングに置いてある。若い二人のオーストリア旅行での写真だ。当時の母はまだ第一線で活躍するファッション・モデルで、父親も平凡な地方公務員ながら弁護士になるという夢を抱いて輝いていた。その年のオーストリアは記録的な寒波に襲われたらしく、真紅のノースリーブの服と紫の手袋に身を包んだ母はサングラス越しにそうと分かるほど凍えている。紺の外套に顔を埋め、大きな帽子を被った父が、そんな母の肩を温めるようにそっと抱いていた。笑顔の二人は現在そのリビングに座っている平凡な優しさとひらめきのない趣味の良さだけが取り柄の女と、夢破れて娘に安っぽい言葉を吐き出すだけの男とはかけ離れて見えた。 「私は昔から今の父さんと母さんにウンザリしててね。写真の中の二人をヒーローに見立てたりしたの。あのカッコいい夫婦がある日やってきて、私を連れ去ってくれるんじゃないかってね」  写真の中の二人の顔は寒さの為に顔を隠しており、幼い私にはそれが正体を隠したヒーローのように見えたのだった。私の想像の物語の中で、あの二人はいつも主役だった。 「赤い服の“謎の女”と、青い服の“謎の男”。馬鹿みたいだよね」  そう言ってけらけらと笑うと、私は眠りについた。  翌朝、デジヴァイスが消えたことに気づくのに、そう時間はかからなかった。 12月22日 ヒョコモン  あのピアノを破壊した二人組を目撃したあと、ボクは再び刀を背負うようになった。  実際に連中に出くわしたら、尻尾を巻いて逃げるしかないだろう。それでも、これを持っているだけで幾らかでも勇気が湧いてくるような気がした。  この世界に来て三週間目の最初の朝も、ボクはそんな風に刀を背負った。 「ディノヒューモン…」  みなしごだったボクを救い、村まで届けてくれた彼の名を呟く。勇敢な剣士で、ボクの憧れだった。  この刀は彼に連れられて旅をしていた時に貰ったものだ。彼は、ボクに自分と同じような剣士になってもらいたかったのだろう。  なりたい、と思う。  なってやる、と思う。  それなのに、ボクは今日に至るまで訓練らしい訓練をロクにしてこなかった。いろんな理由をつけて。この村は平和だから。もっと強いホークモンがいるから。ディノヒューモンは、もう、いないから。  日々の鍛錬でどんどん強くなっているホークモンとピヨモンには、ボクのハッタリはとっくにバレてしまっているだろう。声高にボクをなじるホークモンも、ボクの駄目さ加減をよく知った上でなおも庇うピヨモンも、嫌で仕方なかった。  それでこんなところまで逃げて来たのに、また自分の意思で刀を持つことになるとは。  部屋で刀を抜き、試しに一度振ってみる。太刀筋には少しの勢いもなかった。これではポヨモンみたいなゼラチン質のデジモンだって斬れないだろう。  むきになって、無茶苦茶に刀を振り回す。切っ先が箪笥にあたり、木製のその箱に傷がついた。息を吐きながら手を止め、箪笥の上の写真を見上げる。  嘘っぽい笑顔の少女。そして、たまに語りかけてくる声の主。この二人が同一人物であるということに、ボクはもう殆ど疑いを抱いていなかった。 「君のために、こんな惨めな気分になってるんだぞ」  写真に向けて呼びかける。それも自分の無力から逃げるためにでっち上げた無茶苦茶な言葉であることは分かっていた。 「大体さ。こうして刀を持って外に行こうとしてるのも、君のことを知りたいからなんだぜ」  この少女が何者か知ることに、ボクは躍起になっていた。そうはいっても手がかりとなるのは“彼女”がボクに託す好悪二つの感情のみ。この場所は安心できる。その場所は憂鬱になる。それだけだった。  調べ始めてすぐに、この街には“彼女”を安心させる場所よりも、憂鬱にさせる場所の方が圧倒的に多いことに気づいた。色々な店が集まっているらしい高い建物、パンをたくさんおいた店。理由は知らないが、“彼女”は街の至る所で心にのしかかる重石を増やしているらしかった。 「そんなに窮屈なら、ボクみたいに逃げてしまえばいいのに」  そこまで言って、“彼女”はもう逃げることはないのだと気づいた。一週間前に、これまででもトップクラスに濃い憂鬱を纏ったピアノの前で起きた不思議な出来事。そこでボクは、“彼女”がその憂鬱に立ち向かい、克服するのを目にした。そんな風にして、“彼女”は今までのさまざまな憂鬱を振り払っていくに違いない。  ボクをおいて、また誰かが飛び立つのか。  そんな感情が頭をよぎり、ボクは思わず頭を振った。“彼女”はボクと似ている。その前向きな変化を、ボクが応援しなくて誰がするだろう?  それに、ボクが足を引っ張んなくたって“彼女”を邪魔する奴はいる。青いコートの“謎の男”に、赤いコートの“謎の女”。あの二人が、彼女の変化の象徴とも言えるピアノを破壊した時に感じた言い知れぬ怒りは忘れられない。  あんな奴らに負けるなよ。頑張れ。  そう心で呟くと、ボクはドアを開ける。頬に吹き付ける冷たい風にも、もうすっかり慣れてしまっている自分がいた。  街の変化に気づくのにそう時間はかからなかった。  見慣れたアスファルトの道に昨日までは無かった傷を見つけ、覗き込む。それが何によってついたものか知るのには、周りを少し見回すだけで良かった。傷から離れた場所に転がった、先の尖った円筒型の物体を手に取る。 ディノヒューモンと物騒な地域を旅をしていた頃には度々見た形だが、長い平和な村の暮らしの中では見る機会が無かった為に、それが何かを思い出すのには時間がかかった。 「…銃弾?」  ごくり、と喉がなるのが分かった。あの二人組も銃を使っていた。やはり、奴らがこの街をうろついているのだ。  しかし、一体なんで銃なんか撃ったんだ? 周りを見回す。血痕のようなものはなく、戦闘の跡といったものも確認できなかった。  しかし、ふと上を見上げると銃の向けられた先が分かった。  背の高い建物、その中腹、おそらく二階にあたるであろう場所が、滅茶苦茶に破壊されていた。窓ガラスは砕かれていて、ぼろぼろになった壁紙や砕かれて床に転がる机が見えた。  その有様に驚く前に別のことに思い当たった。自分の息が荒くなるのを感じる。    これはあの建物じゃないか。ボクのリストの中にあった場所。  “彼女”の嫌いな場所だ。  肌が逆立つ。背負った刀に手をやり、握りしめた。  落ち着け、考えろ。これは一体どういう意味だ?  連中が一週間前にピアノを破壊したことは気まぐれじゃない。絶対に意図があってやったことだ。  今まではそれを変わろうとする“彼女”を邪魔しようとするための事だと思っていた。でも、そうじゃない。  あの二人組は、“彼女”の嫌がる場所を破壊しているんじゃないのか?  そうだ。あのピアノは今でこそ、“彼女”の前向きな変化の象徴だが、あの二人組が来る直前まで、“彼女”にとって最も忌まわしいものの一つだったじゃないか。あいつらがピアノを破壊したのは、わずかな時間差が招いた不幸な誤解の結果だったと考えられないか?  銃弾を手で転がしながら、もう一度滅茶苦茶にされた建物を見上げる。仮にそれが“彼女”を想ってのことだったとしても、彼らがあのピアノにしたことを許す気にはならなかった。  “彼女”は変わろうとしている。自分の避けていたものと向き合い、克服しようとしている。それを破壊するのは、彼女をいつまでも鳥籠に閉じ込めるようなものだ。  そこまで考えて、ボクは自嘲気味に唇を歪める。自分の嫌なものから逃げて来た奴が、他人のこととなると随分と偉そうなことをぬかすじゃないか。  それでもいい、そう嘴の中で呟いて立ち上がる。  ボクとそっくりの怠け者で、多分ボクとそっくりのクズで、ボクと同じように自分の事が嫌いで嫌いで仕方なくて、それなのに、変わろうとしている少女。  “彼女”は、ボクの希望なんだ。  これまであちこち歩き回って調べたおかげで、あの二人組が現れそうなところについて大体の検討をつけることができた。  あの二人組に会うのか? 本気で?  ああ、本気さ。  そう心で呟いた瞬間に、脳裏で一週間前に棚の中に隠れて目にした光景が蘇った。乱射される銃弾の音が耳元で響く。震える翼で背中の刀を握りしめた。  しっかりしろ。状況はこちらに向いている。あの二人組も“彼女”の味方なら、説得すれば分かってもらえるかもしれない。  分かってもらえなかったら?  その時はその時で構わないさ。止まり木から飛び立てない小鳥は死に、勇気を手に入れたもう一羽が飛び立つ。それだけのことだ。  その後もボクは、“彼女”が嫌がる場所をまとめて脳内に作り上げたリストを上から順番に潰していった。そのどれもが、悉く破壊されていた。  ことが起こったのはリストの一番下、パン屋でのことだった。 「なんだ、お前?」  道の真ん中に震える足で立つボクに気づき、青い服の男が声を上げた。その手にはボクの背丈を二つ縦に重ねたよりも大きな木と鉄の塊を持っている。彼はそこから放たれる鉛玉で、今まさにパン屋を破壊しようとしていたのだ。 「ボ、ボクは…」 「あら、何? 可愛いじゃないの」  震えるボクの声を遮り、赤い服の女がボクの頭を掴んで持ち上げた。紫の手袋をはめたその手から逃れようともがくボクを気にも留めずに、女は男の方を向く。 「こないだからあった何者かの気配は、この子だったのね」 「ったく! 人騒がせな野郎だ」  男が手を伸ばし、ボクの眉間を指で弾いた。痛みよりも先に、胸が屈辱に沸き立った。 「放せ!」 「おうおう、元気がいいな」 「ボウヤ、そんなに暴れないでよ。こんな寂しい世界で会えたんじゃないの。話の一つや二つ、聞かせてくれたっていいじゃない」  子ども扱いするんじゃないと叫びたかったが、女の言葉にボクは落ち着きを取り戻した。そうだ、ボクの目的はこの二人との対話じゃないか。喧嘩なんかしたところで、何にもならない。 「ボクは、話があって、あなた達にお願いがあって来たんです」  ボクが女の手の中で語った“彼女”の為にもう何も破壊しないでほしいという願いを、二人は黙って聞いていた。やがて、女が口を開く。 「…ボウヤはあの子の声を聞くことができて、あの子に何かがあったのを知ったのね」 「は、はい」  この女は“彼女”のことを、『あの子』と呼んだ。ボクらが別々の名で呼ぶ女の子が同一人物であることはもはや疑いようがない。やはりこの二人は、“彼女”の味方なのだ。不気味な男の方も、腕組みをして下を向いている。  説得に希望を見出し、ボクは早口でまくし立てる。 「“彼女”は変わろうとしています。あのピアノのことも、もう怖がっていません」 「だから、これ以上あの子の怖がるものを撤去するのは、あの子の成長を邪魔するだけだって言いたいの?」 「そう! そういうことなんです!」 「ダメね」 「じゃあ…え?」  とんとん拍子に進んでいると思えた会話に突如挟まれた拒絶の言葉に、ボクは声を失う。ボクの開かれた目に顔を近づけ、女は笑った。 「だって私達、あの子が願ったから壊してあげてるのよ。あなたが声を聞いたのが誰か知らないけれど。きっと別人だわ」 「そんなことあるわけない!」ボクは叫んだ。 「あなた達だってわかってるでしょう? ボクの聞いたのは間違いなく…」 「仮にそうだったとしてだ」青い服の男が不意に口を挟んだ。その声は深みのあるテノールだったが、下卑た喋り方が全てを台無しにしていた。 「なんであの子が変わる必要がある?」 「そうよ。せっかく私達が、あの子が今のままでも気持ちよく暮らせる世界を作ってるのに」  二人の言葉は“彼女”を思う深い優しさに溢れていたが、その内容ときたら真反対だ。気づけばボクは、躍起になって二人に訴えかけていた。恐怖はもうほとんど無かった。 「そんなことはどうでもいいでしょう? “彼女”自身が変わりたいと思ってるんです」 「本当かよ?」 「疑わしいわ。ボウヤ、本気でそう言うなら、あなたに話しかけてくるその声とやらに聞いてみなさいよ。私たちのことをどう思うか。私たちがやっていることをどう思うか」  お安い御用だ。“彼女”はいつも引っ切り無しに自分の感情を訴えかけてくる。ボクはそれにすっかり慣れっこになっていて、最近ではそれを聞き流すことさえ覚えていた。今だって彼女はうるさく何事か喚いているに違いない。意識を声に向ける。  ところが。 「…あれ?」  そこには、冷たい沈黙だけがあった。 「おい、どうした? さっさと言ってみろよ」男が馬鹿にするように声をかけてくる。 どうしたんだよ。いつもみたいになんか言えよ。  そう語りかけても、ボクの声は自分の意識の中を木霊するだけ、なんの返事も返ってこない。なんの感情も湧いてこない。 「おいおい、黙っちゃったぜ」 「あまり虐めないであげてよ。よくある子どものインチキでしょ」  女の言葉に湧いた怒りが、ボクを現実に引き戻した。ボクを捕らえている紫の手袋に、思い切り嘴を突き刺す。 「痛っ! なにすんのよこのガキ!」  先程までの優しげな声とは似ても似つかない女のドスの聞いた声を背に、ボクは逃げ出そうとした。  ところが、ボクの走りは不意に胴体に巻きついた何かによって止められる。それを意識する頃には、体はもう頭を下に宙に浮いていた。 「よくもやってくれたわね」  見れば、女の手から放たれた白い糸のようなものが、ボクに巻きついている。糸はどこか粘ついた感触だった。まるで、蜘蛛の糸のような。 「この手袋、高かったんだから!」  女が糸を操る手を振り、ボクを地面に叩きつけた。頭ががんがんとなり、全身に痛みが走る。  女はその後も、何度も何度もボクを地面に叩きつけた。 「お、おい。やり過ぎじゃねえか?」 「いいのよ。こういう生意気なガキには、よく思い知らせてやらなくちゃ。こんな! 風にね!」 「やめろ。死んじまう」  女の勢いに怯えながらも、彼女を制止する男の声を、ボクは妙に冷静に聞いていた。魂なんて信じていないけれど、それに似た何かが痛みに苦しむボクの肉体を離れたのかもしれない。  いつの間にか地面に放り出されていたボクの体が浮き上がった。今度は男がボクの体を掴んでいる。 「おいガキ、これで分かったろ? もう痛い目に遭いたくなかったら、俺たちに関わるんじゃねえ。お前がこの世界で暮らしてくくらいなら見逃してやるが。もしまた俺たちに余計な口出しをしたら、命はねえ」  男が銃をボクの頭に向けた。 「それと、あの子のことなら安心しときな。俺たちはな、あの子のヒーローなんだ。あの子も、どこの誰かも分からねえヒヨコよりは俺たちを信用するさ」  それからの記憶は曖昧だ。二人がパン屋を蹂躙する音を聞きながら、背中の刀に手を伸ばそうとしたことだけ、覚えている。  目が覚めたとき、ボクは夕焼けの中で一人だった。喉がひどく乾いている。それなのに、涙が地面に落ちた。  己の不甲斐なさと同じくらい、“彼女”の声が聞こえなくなったことが悲しかった。  いつものようにボクの足を導く声はもういなかった。どこで眠っても構わないはずなのに、それでもボクは傷ついた体を引きずってあの家、ボクと“彼女”の家に帰った。  家に入っても、いつものような憂鬱は襲ってこなかった。試しに居間に近づいてみる。いつもなら鉄の鎖をつけられたように重くなる足が、すんなりと動いた。嫌だ嫌だと喚く声も、どこにもいなかった。  居間に入る。今までなら見るのも嫌だった部屋の風景をじっくりと眺め回した。  壁にかかった写真に、目が止まった。痛む体で、なんとか壁に近づく。  赤と青の二人組のシルエットに、体が凍りついた。 「…あの二人が、なんでここに?」  青い男の言葉が、頭を木霊する。 --俺たちはな、あの子のヒーローなんだ。  居間をもう一度見渡す。丸テーブルを囲むように、椅子は全部で三つだった。最初の日に、椅子の一つに座ることを拒否した“彼女”がボクに託した感情を思い出す。体はボロボロなのに、記憶も想像力も、いつになく冴えきっていた。 「“彼女”、そして、お父さんに、お母さん?」  多分そうだろう。“彼女”が何よりも嫌っていたものは、その両親だったのだ。  あの二人組が、彼女の両親なのか? そうであって、そうじゃないんだ。ボクは思う。あの二人の写った写真はかなり古いものだ。あの二人は多分『過去』そのもの。“彼女”の変化を認めようともしないのも、きっとそうだ。  だとしたら。ボクは息を飲む。  あの二人が最後に来るのは、ここだ。  ボクと“彼女”の、この家を壊しにやってくるんだ。  逃げた方がいい。いつになく良く回る頭がそう告げていた。ボクの作ったリストの建物はほとんど壊されていた。仮にリストに穴があったにしても、そこまで沢山ではないだろう。“彼女”の憂鬱を破壊し尽くした二人が此処を嗅ぎつけるのも時間の問題だ。  逃げろ。勝てるわけないだろう。分かってるはずだ。  ああ、分かってるさ。  ボクは背中の刀を取り、黙って素振りを始めた。どこかに行ってしまった少女にむけて、それでもなお語りかけながら。  君を襲った憂鬱は、両親への憎しみのためのものか? 違うだろう。  君は、両親を通して見える自分が嫌いだったんだ。両親を愛さなくちゃいけないと思うのに、憎んでしまう自分が嫌いだったんだ。  バカなやつ。キライなものはキライ、それでいいじゃないか。  君を分かってやれる奴が、ここにいる。青い服の男がなんと言おうと、ボクにはその気持ちが分かる。ボク達はよく似ているんだ。    口の中で、あの日ピアノから流れてきたメロディを口ずさむ。 ブラックバードは歌う 夜の死の中で 傷ついた翼で それでも飛ぼうとしている 君はずっと ずっと待ち続けてきたんだ 自分が自由になる瞬間を  だからさ。飛ばせてやるよ。そう呟いたのは、果たしてボクだっただろうか。 12月29日 鈴代円香とヒョコモン 「マドカ、どうかしたのか? こんな時間に」  スワンモンの長い首が窓から私の部屋を覗き込んだ。 「ちょっとスワンモン、レディの部屋に首を突っ込んじゃダメだよ」 「そりゃ失礼。日の出もまだだっていうのにマドカの部屋から悲鳴が聞こえたんでな。確かにこの村にはニワトリのデジモンはいないけど、わざわざ朝の掛け声の役目を買って出る必要はないよ」 「あ、え。私の声、そんなに大きかった?」 「かなり」 「…ごめん」私は恥ずかしさに俯いたが、すぐに顔を上げた。 「ところでスワンモン、今そこの通りで他に誰か見なかった?」 「いや、見てないけど。どうかしたのかい?」 「ううん、なんでもないの」  私は目を部屋の隅に向けた。虫の死骸をまとめてソフトボール大にしたものが転がっている。この二週間私に嫌がらせをしていた何者かは、遂に私を驚かせるのには虫が一番効果的だということに気づいてしまったらしい。 これからの生活を思うと気が重かった。  最近の私は、この匿名の敵の正体を炙り出す事に躍起になっていた。憎しみの為ではない。 「ところでマドカ、デジヴァイスは見つかったのか?」  白鳥の問いに私は首を振った。私が敵を探す理由もまさにそこにある。  一週間前の朝、目が覚めた時にデジヴァイスが昨日までの場所に無かった時には、心臓が止まりそうになった。手のひらにくるまってしまうほど小さなものだし、どこかになくしてしまったのだろうかと焦ってアウルモンの住む教会まで走った。 「安心してください、マドカ。デジヴァイスはそう簡単に無くなったりするものではありませんよ」  泣きそうな顔で自分の失態を訴える私を落ち付けようと例のチョコレート味の飲み物を出し、アウルモンはデジヴァイスについて色々なことを教えてくれた。書物でかじっただけで本当のところは私もよくは知らないのですが、と前置きして。 「デジヴァイスは、その持ち主である人間の心を反映するものです」 「鏡みたいなものってこと?」 「というより、鏡に映る像といった方がいいかもしれませんね。鏡を見れば、そこには必ずもう一人の自分がいるでしょう? 持ち主の方で鏡を見ることを拒絶しない限り、つまりはデジヴァイスの持ち主であることを拒絶しない限り、デジヴァイスはあなたの知覚できない場所に行くことはありません」  ううむ、と私は唸る。分かるような分からないような話だ。それに何より。 「実際、デジヴァイスは消えちゃったじゃない。私はデジヴァイスの持ち主であることを拒絶したりしてないわよ」それにヒョコモンのパートナーであることも、最初は仕方なしに、今では積極的に受け入れられている。 「ええ。つまり、あなたの知覚できる範囲にデジヴァイスはある。心当たり、あるんでしょう?」  私はうつむき、度々自分に対して行われた嫌がらせの事を打ち明けた。アウルモンは目を瞑ってそれを聞いていたが、やがてため息をつく。 「村長としてお詫び…はお客さんに対する振る舞いですね。かわりに私はあなたを叱ります。マドカ、どうしてもっと早く相談してくれなかったんです?」 「…ごめんなさい」親に叱られるように私は首をすくめた。親に叱られるように、とは妙な表現だ。私はもう長いこと、両親にこんな風に慈愛に満ちた目で叱られていない。 「村の誰かがデジヴァイスを盗んだと考えれば、納得がいきます」心底悲しそうな目でアウルモンが首を回した。 「あの、アウルモン?」 「なんです?」 「私、あまり大ごとにはしたくないの、この事」  梟は首を傾げて私を見つめた。 「デジヴァイスの事は私だけの問題じゃない。中にはヒョコモンがいるんだものね。だからその事はみんなに相談しなくちゃいけないと思ってる。でも他のことについては…」  私は喧嘩がしたいのだ。私にあんな事をした奴が何を考えているか聞いて、それに対して言い返してやりたいのだ。みんなの前ではやりづらい。勿論そんな事はアウルモンには言わない。単にウインクだけを彼に投げた。 「…仕方ないですね。マドカ自身も気に病んでないみたいだし、気がすむまでやればいいでしょう」 「ありがと! アウルモン大好き!」 「余計なお世辞は要りませんよ」 「つまんない。ところで…」  その動体に抱きついてみせても動じない長老に、私は尋ねた。 「さっきのデジヴァイスの話、最初に聞かせてくれても良かったんじゃないの?」 「…自分の心を映す鏡なんて言われて渡されたデジヴァイスを、あなたは受け取りましたか?」 「…」 「この村に来た時のマドカは、そういう人には見えなかったので」  今と違ってね、と梟は微笑む。  私の最初の猫っかぶりは、この長老にはお見通しだったわけだ。私は赤くなる顔を持ち上げたカップで隠した。 「しかしあれだなあ。マドカもそろそろここに来て一ヶ月か」  スワンモンの声が、私を一週間前の記憶から呼び戻した。白鳥はその美しく長い首を空に向けて持ち上げる。 「もうすぐ、満月がやってくる」 「…不安なわけ? 私が帰るかもしれないって」 「マドカが俺たちとの関係を蔑ろにする奴じゃないのはよく分かってるよ。でも…」  彼はその首で今度は私の顔を覗き込んだ。寝起きなんだからやめてよ、とその目をかわす私に、彼の問いが突き刺さる。 「だからこそ心配なんだ。あっちの世界に置いてきたものが、沢山あるんじゃないか?」  その通りだった。  最初は逃げるつもりだった。帰りたくなんてなかった。  でもこの村で、立ち向かう事を覚えた。心を開く事を覚えた。笑顔でいられることが増えた。  でも、最近よく両親の夢を見るのだ。あの二人も私のことを心配しているだろう。一週間前には想像もできなかったことだけど、今は自然とそう思えた。  私は、色々なものを放り投げてここにいる。ここでどんなに笑えても、正しく生きることができても、そうすればするほど、満月の向こうの世界に残してきた沢山の心残りが頭をかすめる。 「…私もそう思う」    でもね 「今は目の前のことから逃げたくない」  目の前のこと、村のみんなとの絆、無くなったデジヴァイス、嫌がらせしてくるクソ野郎。それに、ヒョコモン。 「それについて、私の中で決着が着くまでは、帰らないよ。それが三分後でも、一年後でもね」 「そうか…」  微笑むスワンモンの頭に手をやる。撫でてみると、その羽は絹のような手触りだった。 「そうだスワンモン、あなたもヒョコモンについて教えてくれない?」 「俺かい? ヒョコモンとはあまり親しくなかったがな…」  ヒョコモンは村の鼻つまみ者だったという話は散々聞かされた。温和で優しいスワンモンも、彼と仲良くすることはなかったのだろう。それを薄情だとは思わない。無理もないことだ。むしろいきなりこんなことを尋ねて、悪いことをしたという気持ちがあった。 「それなら…ピヨモンのことは? ピヨモンが、ヒョコモンをどう思ってたか、分からない?」  ピヨモンは一週間前、私の質問から逃げ出してからもいつも通りだったが、ヒョコモンについての話は巧みに避けていたし、私も無理に聞こうとはしなかった。 「ああ、それなら」私の問いに、スワンモンはあっさりと答えた。 「好きだったと思うよ」 「は?」  一瞬、何を言っているのか分からなかった。 「え、好きって、その、人としてって事?」 「違うだろうな。人じゃないし」 「あ、いや、ゴメン。そういうことじゃなくて…」  好きという言葉にこんなに狼狽えるとは、これじゃあまるっきり恋愛経験のない女子中学生か何かじゃないか。まあ、恋愛経験のない女子中学生なんだけど。 「ええと、つまりピヨモンは、ヒョコモンに惚れてるってこと?」 「そうだよ」白鳥は何を分かりきったことをとでもいいたげだ。 「え、あの、それって」 「別に珍しい話じゃないさ」 「そ、そう」  デジモンには性別の概念がない、というような事を聞いたことがあったような無かったような。まあ、彼らは彼らのやり方で愛を交わすのだろう。 「ええっと、スワンモンはどこでそれを知ったわけ?」 「どこって、みんな知ってるよ。ヒョコモンを庇う時のあの様子を見ればね。知らないのは当のヒョコモンにホークモン、それにマドカくらいじゃないか?」  その二体と鈍感トリオに数えられるのはごめんだ。第一、私はここに来たばかりで、ピヨモンからヒョコモンの話を聞いた事だってほとんどないのに。  そうだ。ピヨモンがヒョコモンについて話したがらなかった理由はこれでほぼ分かった。好きな人について、あまり多くは語りたくないだろう。特に、みんながその人に批判的であるような時には。  そこで、何かが心に引っかかった。 「ねえ、スワンモン」 「ん? どうした」 「ヒョコモンって、デジヴァイスを貰った重責のせいで引きこもったんだよね」 「ああ。そう聞いてる」 「つまりは、私が来たから、ヒョコモンは引きこもったって、ことだよね」 「おい、そんな風に思う必要は…」 「うん、分かってる」  でも、そんな風に思った奴もいたのだ。 「心配してくれてありがとね、スワンモン。もうそろそろ夜も明けるし、私、行かなきゃならないとこが…」  その時、アウルモンの教会の鐘が音高く鳴った。私は驚いてベッドから飛び上がる。この村の時計の時間に縛られない生活の中では、時を告げる鐘も鳴らす必要がなく、教会の上についたその鐘は単なるお飾りだとばかり思っていたのだ。  スワンモンの反応は私と対照的だった。落ち着いた様子で翼を広げると、寝間着(村に残されていた服の一つで、色褪せているけど肌触りのいい綿のシャツとズボン)のままの私を嘴でくわえ窓から引っ張り出した。 「ちょっ、やめてよ。エッチ!」 「悪いね。でもこの鐘はヤバい、外敵の襲来の知らせだ。噂の子攫いかもしれない」  彼の言葉に、私の顔から色が引いた。大人しくその背中につかまり、通りに目を向ける。先程までの静けさは跡形も無く、あちこちの家から慌ただしい音がした。  と、はるか前方から吹いてきたつむじ風が、私とスワンモンの前で止まった。 「ホークモン!」 「急げ、教会に避難だ」 「今晩の寝ずの番はお前だったか」スワンモンが安心したように口にする。「猶予はどのくらいだ?」 「かなり遠方にいる時点で捉えられたはいいが、敵も相当なスピードだ。猶予はないよ。全力で飛んでくれ」 「オーケー」スワンモンが翼を広げ、ふわりと浮く。背を向けて立ち去ろうとするホークモンに、私は声をかけた。 「ホークモンは? 逃げないの?」 「俺は全員の安全を確認してからだよ」 「そんな…」 「偶々俺が当番だっただけだよ。心配ない。それに、デジヴァイスもパートナーもいないんじゃ人間は足手まといだ。さっさと逃げて俺の不安の種を一つ消してくれ」 「…うん」私は少し俯いたが、すぐに顔を上げる。 「そうだ、ピヨモンは?」 「ピヨモンか? まだ安全は確認してないが、逃げてるだろう。アイツはトロくないし…」  彼がそう言った途端に、私たちの横を再びつむじ風が通り抜けた。ホークモンじゃないとしたら、あんな風に飛べるのは…  スワンモンの首から飛び降り、私は走り出す。 「おい、待てよ!」 「追いかけてこないで!」  後ろで聴こえる二人の声にそう返すと、私は大きく深呼吸をした。  すう、はあ。  朝の新鮮な空気をいっぱいに詰め込んだ胸を抱えて、薄暗い村を村はずれの家に向けて走る。目の前に見える炎の赤は、見間違えようも無かった。  片端から家を燃やしてるのか。舌打ちする。だとしたら、一番最初に燃やされるのは--。  真っ赤に燃えるヒョコモンの家の前で立ち止まり、肩で息をする私を、ピヨモンが驚いたように見つめた。 「マドカ、何してるの! 逃げてよ!」 「デジヴァイスは…ヒョコモンは…」  ぜえぜえと息を吐きながら私が放った言葉に、彼女の顔が凍りついた。 「マドカ…」 「教えて、ヒョコモンは、この中にいるの?」  彼女が力なく頷くのを見て、私は燃え盛る家の中に踏み込もうとした。私の服の裾をピヨモンが掴む。 「ダメ!」 「ダメじゃない!」  自分でも、何を言っているのか、何をしようとしているのか、よく分からなかった。耳の裏側で血の流れるどくどくという音がする。その音が繰り返し呼びかけるのだ。ダメじゃない。ダメでいいわけがない、と。  と、目の前からピヨモンが消えた。何が起きたか理解する前に頭に鈍い衝撃が走り、私は意識を失った。    あの二人組は、ボクが予期していたよりもこちらに時間をくれた。しかしながら銃を乱射する男と手から糸を出す女を前にできることなど、与えられた時間が三分でも一週間でも変わらない。  それでも時間を無駄にはできなかった。廊下に陣取り、刀を振る。隣には赤く重い円筒が置かれていた。あちこちにあったこの物体の脇には、ご丁寧に使い方が図解してあり、ニンゲンの文字が読めないボクでもその物体から勢いよく白い粉を噴射することができた。  火を噴く箱や粉を出す円筒に目をやって、それからまた刀を握りしめると、呟いた。 「安心しろ、お前を信用してないわけじゃないさ」  連中に一太刀浴びせるのはボクのプライドの問題だ。でも今日はそれだけじゃない。この家を、ボクの家を、“彼女”の家を守らなくてはいけないのだ。手段を選ぶ余裕はない。  “彼女”の気配はこの一週間すっかり消えてしまっていた。生まれて初めてボクは誰からもうるさく指図されなくなったということだ。そんなボクが、毎日のように刀を振るっている。不思議な話だった。  どこか遠くで物音がした。銃声、男の叫び声。結局のところ、奴らがボクにくれた猶予は一週間だったということだ。  この後に及んでも、手は震えている。ボクの中の臆病な誰かが頭をもたげる。  逃げちまえよ。誰も何も言わない。だって、誰もお前に期待なんかしてないんだから。 「うるさい!」  こんなところで頑張ってなんになるんだよ? 誰も見ていてくれないし、誰も褒めてくれないんだぞ? 「だから、だよ。だから意味があるんだ」  おいおい、綺麗事はよせよ。一週間前はびくびくしてたじゃねえか。たったの一週間で、自分が変われると思ってるのか? 「彼女は変わった」  仮に、そいつがお前のいう通りの奴だとしてだ。お前は勝手にその女に自分を重ねてるだけだろ? その女は「変われる奴」だったってだけのことさ。お前と違ってな。 「うるさい!」  なあ、逃げちまえよ。お前はダメな奴なんだ。こんなとこでお前が死んだって、誰も気にしない。 「ダメじゃ…」 --ダメじゃない!  心の中で、あの声が響いた。今までのどの時よりも、大きくはっきりとした声。“彼女”はどこで何をしているのか、ダメじゃない、ダメでいいわけない、と何度も繰り返し叫んでいる。  それはボクに向けて言っているのだろうか、はたまた、単にボクの勘違いだろうか。  どっちでもよかった。  声はすぐに消えてしまったが、それは決して幻聴ではない、ボクの耳が、確かにそれを聞いたのだ。心の底から勇気が湧き上がってくるような気がした。 「君のいう通りだ。ボクはダメじゃないよ」  刀に手をかける。男の声はもうドアのすぐ外まで来ていた。  背中に感じたざらざらとした感触で。私は目を覚ました。気を失う前はまだ夜明け前だったのに、もう日が高く上がっている。 「マドカ! 大丈夫?」  ピヨモンの声が聞こえる。最初にデジタルワールドに来たときみたいだな、という暢気な考えは、頭に走るずきりとした痛みでかき消された。 「今のとこね。私達、盗賊にぶん殴られたの?」 「うん。それで、捕まったみたい」  どうも私は手と足をロープで縛られ、その上で木に縛り付けられているみたいだった。背中に感じたざらつきは木の幹の感触だったというわけだ。あたりには林が広がっており、似たような木々が等間隔で並んでいた。 「ここがどの辺か分かる?」 「ううん。でもあまり村から離れてはいないと思う」声の近さからして、彼女も私と同じ木に縛り付けられているらしい。 「盗賊達は?」 「太陽の反対側を見て」  ピヨモンに言われた通りに、私は首をひねって視線を変えた。胸がむかつくほど青い空に、一筋の煙が立ち上っている。 「休憩してるみたい。昼ごはんかな」 「私達がメインディッシュ、ってことないわよね」 「安心しな。それはねえよ」  私の問いに後ろから野太い声が返答した。驚いて目を向けると、背の高い影が私のすぐそばに立っていた。思わずかすれた悲鳴が口から漏れる。  ゴツゴツとした緑色の肌、その体を覆う鋼のような筋肉はところどころひくひくと引きつっている。それに、手に握られた私の背丈ほどもある棍棒。私たちを殴ったのとは別のものだろう。あれではどう手加減しても私の頭のほうがもたない。  そして何より、その大きな顔。長い牙に角は、鬼としか呼びようがなかった。  体ががたがたと震えている。こういうデジモンの存在はアウルモンから聞いてはいたが、それと実際に間近に見るのはまた別だ。おまけに、私は両手両足を縛られているときている。 「あんたオーガモンね。わたし達のことどうするつもりよ!」隣で、ピヨモンが果敢にさえずった。 「聞きたいか?」緑色の鬼はさも楽しそうに目を細め。その太い腕でピヨモンの額を指差した。 「お前は他に攫ったガキどもと同じだ。ここからは遠いが、砂漠地帯に幼年期や成長期を売り飛ばすのにうってつけの街がある。売られた奴がどうなるのかは知らないが、安心しろよ。焼き鳥にはされねえ」  そして、とその目をこちらに向けて、オーガモンと呼ばれた鬼は今度はその口を開いて笑ってみせた。茶色い歯と悪臭を放つ唾液が顔のすぐ目の前に現れる。私が思わず伏せた顔は、鬼の太い指で元の向きに戻された。 「ニンゲン、今回の仕事じゃお前さんが一番の収穫だよ。さっき調べたら、お前、雌みたいだな」  調べるって、一体何したのよ。背筋がぞわぞわと騒ぎ、嫌悪感に顔をしかめる。そんな顔を見て、オーガモンはさらに嬉しそうな顔をした。 「雌のニンゲンにはそれ用のマーケットがある。教えてやろうか。お前さんを買うのは別のニンゲンだよ。俺たちにゃ分からねえが、この世界じゃかなり貴重らしい。とくに、若い雌はな」  その手の事に疎い私でも、鬼の言わんとすることはなんとなく分かった。それでも私がこれからどんな仕打ちをされるのかははっきりとは分からない。分からなくて幸いだった。 「ちょっと! マドカに何かしたら…」  さえずるピヨモンの頭を、オーガモンが指で弾いた。ぐえっ、という音がして、声が止まる。 「ピヨモン!」私は一生懸命に首を回して、彼女の顔を見ようとした、ピンクの羽毛を朱に染めてはいるものの、命は無事みたいだ。 「売り物は殺せねえがな、しばらく動けなくすることくらいはできるんだ。分かったらじっとしてろ。逃げようとしても無駄だぜ。俺の他にも仲間がいる」  オーガモンはそう言うと、また顔を私に向けた。 「俺はよく知らねえけどよ、この世界に来たニンゲンは、みんなデジヴァイスっつーのを持ってるんだろ? なんでも、それを使うとデジモンを強くできるって言うじゃねえか?」  高く売れそうだ、と鬼は笑う。 「さっき体を調べたが、それらしいもんは持ってなかったな。何処かに隠してるのか?」  鬼は棍棒をちらつかせる。なるほど、拷問も辞さないってわけ。 「どこにもないわ。失くしたの」 「おい、下手な嘘をつくと、為にならないぜ」 「本当だよ!」隣でピヨモンが叫ぶ。 「嘘はついてないわ。本当に失くしたのよ」  鬼はその指を私に向けた。それをまっすぐ見据える。 「言っとくけど、私のこの可愛い顔と綺麗な体に傷の一つでもつけたら、買い手は喜ばないと思うわよ」  鬼はしばし私を見つめ、それから手を下ろした。 「本当に、持っていないんだな?」 「嘘をつく余裕はないわ」  ふん、と鼻を鳴らすと、鬼は私の胸のあたりに唾を吐き、立ち去った。粘っこい感触と鼻の曲がりそうな悪臭、最悪だ。 「マドカ、大丈夫?」 「大丈夫よ。臭くて気持ち悪くて、最悪の気分なだけ」私は吐き捨てるように答えた。 「ピヨモンこそ、血が出てるじゃない」 「このくらい、大したことないよ。これからどうしよう」 「どうしようもないわね。あのクソ鳥が助けに来てくれるといいんだけど。それか…」  私はしばらく逡巡して、口を開いた。 「ピヨモン、もしかしてデジヴァイス…」 「ごめん」ピヨモンが暗い声で私を遮った。 「持ってない。ヒョコモンの家の中に置いたまま。隠してたから、あいつらには見つかりっこない」  私は俯いた。この荒んだ気分と最悪な状況の中でデジヴァイスの話を持ち出すことは良策とは言い難い。でも、このままお互いに心に暗い影を抱えたままでいることには耐えられない。下手をしたら、これを最後に離れ離れになってしまうかもしれないのだ。 「デジヴァイス隠したの、やっぱりピヨモンだったんだ」 「…」 「他の、コート裂いたり、虫投げたりも、ピヨモン?」 「…」 「私が嫌になって元の世界に帰れば、ヒョコモンが帰ってくると思ったの?」 「…」  ピヨモンはいつまでもだんまりのまま。これでは私が悪者みたいだ。  このままそれぞれ知らない街で奴隷として生きていくのかと思ったとき、側ですすり泣きが聞こえた。 「ピヨモン、泣いてるの?」  ここで態度を軟化させるのも違うと思いながらも、私は柔らかい口調で尋ねた。 「…のに」 「え?」 「謝りたくなんて、無かったのに!」  突然ピヨモンの嘴から漏れた激しい言葉に、私は思わず飛び上がりそうになる。 「ピヨモン…」 「だってそうじゃない? なんで突然やってきたマドカのせいで、ヒョコモンが辛い思いをしなくちゃいけないの? マドカは、自分が立ってる場所が本当はヒョコモンの場所だって気づいてる? どうしてそこに立って、なんでもなく笑ってられるのよ!」  ムカつくやつだと思った。だから追い出してやろうと思ったのだ。それなのに。 「マドカはとってもいい人で、わたしも貴女の前で、ついつい笑顔になっちゃう」  そんな自分に腹が立って、嫌がらせはますますエスカレートした。そして次の朝になると、今度は昨夜の自分の行いに腹が立ち、笑顔を作ってしまう。 「わたしも、自分がどうしてこうなのか、分からないの…」  声を上げて泣き出したピヨモンをすぐ傍に感じながら、私は俯いた。彼女は明るくて朗らかで、自分とは遠い存在だと思っていた。あのうんざりする学校の教室でいつもみんなに囲まれるタイプだと。  でも、そんな彼女も私と同じだったのだ。自分のやることなすこと全てが嫌で、それなのにそんな自分を変えられない。ちっぽけな悩みを、それすら支えられない小さな体に押し込んだ哀れな生き物。  そんな生き物にかける言葉を、私は知らない。でも、言葉をかけなければいけないと思ったのなら、止まってはいけないのだ。 「ピヨモン」  私は口を開いた。 「私は、あなたを許すよ」  私の中にいるかもしれない、ほんの時たま顔を出す強い私、その、私が一番誇りに思う部分であなたを許すから。 「だから、あなたも、私を許して」  あなたの中にきっといる、あなたが一番好きなあなたで、私を許して。  ピヨモンの泣き声が止まる。しばらくして、囁くように小さな声が聞こえた。 「何よ、それ…」  なんでマドカが謝るのと、ピヨモンはまた嗚咽を漏らす。 「最近みんなからヒョコモンの話を聞いてたんだ。そうしたら、どうしても他人とは思えなくなってきてさ」  本心だった。最初はあれほど邪魔に思っていたパートナーという存在を、私は近くに感じていた。一度だって話したことがないのに。 「それに、自分の場所をこんな陰気な女に乗っ取られたら、誰でも怒るだろうし」 「陰気なんかじゃないよ」  ピヨモンがはっきりと言った。ああ、この子は、どんなに追い詰められても、人の為に言葉を口に出せる子なんだ。眩しいな、と思う。 「ねえ、マドカ?」 「何?」 「もしかしたら、私たちこれで離れ離れなのかな?」 「もう少しは一緒に居られるだろうけど、オーガモンは私たちを別に売るって言ってたわね」 「うん…」 「ピヨモン?」 「それは、やだな」 「そうだね。やだね」  なぜか私たちは、同時に笑いだした。 「私、ヒョコモンにだってまだ会ってないし。ピヨモンもまだ告白してないんでしょ?」 「それよ! なんでわたしがヒョコモンを、その、好きってことがバレてるの?」 「スワンモンから聞いたわ。みんな知ってるって」 「ちょっと、それホント?」 「本当だよ」 「うそ、わたし次にみんなに会う時どんな顔すれば…」  これまでになくくだけた雰囲気の中で自分が自然に漏らした言葉に気づき、ピヨモンは嘴を噤んだ。やがて、さっきより強い調子で言う。 「やっぱり、これでおしまいなんて、やだ」  私は頷き、その仕草がピヨモンには見えないことに気づいて口を開いた。 「うん。まだなにか、出来ることがあるよ」 「そういうことだ」  ふいに、自分を木に縛り付けていた縄の締め付けが緩んだ。驚いて声を上げようとする私の口を、柔らかい羽がおさえる。その濃い赤と白には見覚えがあった。 「静かにな。バレたらおしまいだ」 「ホークモン…!」  隣でピヨモンが、泣きそうな声で言った。ホークモンは肩をすくめる。 「まったくお前らは、余計な手間をかけさせやがって。林の中だから空からじゃ場所が…」  そう言いながら彼は私たちに交互に目をやる。血を流し、涙に目を腫らしたピヨモンの顔をしばし見つめ、彼はため息をついた。 「まあ、なんだ。元気そうでよかった」  私とピヨモンは顔を見合わせ、小さく吹き出した。  どこかから地面に落ちた枝を踏みしだく足音が聞こえた。オーガモンがこちらに向かってくるのかもしれない。 「さっさと逃げるぞ」  ホークモンが翼を広げた。私は頷き、口を開く。 「二人は先に逃げて」 「何言ってるの!」 「飛べない私が足手まといになっちゃ、悪いからさ」 「バカなことを言うんじゃない」  ホークモンが翼で私の顔を指す。 「手間をかけたと言ったろ。それは、俺だけの話じゃないぜ」  彼がそう言った瞬間、近くで大声がした。敵が攻めてきたとか何かそう言うことを、野太い声が喚いている。 「村の皆もきてる。言われたよ。ディノヒューモンのことを後悔して鍛えてるのは、何も俺たちだけじゃないってな」  さあ走れ! というホークモンの声に従い、私は足を踏み出した。  躓いた。そのことが、妙にはっきりと分かった。後ろを振り返る。  緑の鬼が、すぐそこに来ていた。すっかり頭に血が上っているらしい。私の商品価値を説く余裕はなさそうだった。  ここまでか。私は思う。村にも、元の世界にも、言い残したことややり残したことが、沢山あるのにな。  ヒョコモンにも、会ってないのにな。  鬼が棍棒を振りかぶる。それが、やけにゆっくりと感じられた。  今の私にはいろんなものがはっきりと感じられる。鬼のしてやったりと言わんばかりの薄笑いも、ピヨモンの悲痛な叫び声も。  ホークモンが、何か光るモノを投げたのも。    ドアが開かれた瞬間に、二人組の顔に向けて白い粉を浴びせた。 「きゃあ! なによこれ!」 「こないだのガキか!」  そう喚く二人の足元に滑り込む。まず目指したのは男の銃だ。その銃口に、手に握っていた石を詰める。そして刀を抜くと、彼の足を思い切り切りつけた。 「いってえ! 何しやがる!」  男が足を振り回し、ボクは廊下の端まで吹き飛ばされた。それでいい。 「やっぱりあのガキね!」女がヒステリックな金切り声を上げた。 「そんなに死にてえか!」男が叫び、銃を構えた。頭に血が上っていて、銃口に異物が詰まっていることになど気づきそうにもない。  破裂音、予期はしていたものの、思わず目を瞑る。ディノヒューモンが教えてくれた知識だ。二人がこれで大怪我でもしてくれれば--。  ところが、開けた目が捉えた光景は、予想とはまったく違っていた。  女の赤い服も、男の青い服も、破れてしまっている。その下から覗く体は、どう見ても人間のソレではなかった。  ミイラ男にクモ女、そうとしか形容できない。二人は、明らかにデジモンだった。 「どういうことだよ…!」 「まったく、この姿は好きじゃないのよ!」  その真っ赤な口を開き、クモ女が言った。ミイラ男も平然と立ち上がり、女に話しかける。 「アルケニモン、悪い。銃が壊されちまった。こないだの要領で、このガキ、殺してくれねえか?」 「言われなくても…」  女の言葉を聞き終わる前に、ボクは刀を構えて駆け出した。自分でも訳のわからないことを叫びながら、刀をめちゃくちゃに振り回して走る。  こんなおぞましい奴らが、彼女のヒーローであるはずがない。やはりこいつらは、彼女の、ボク達の敵だ。  蜘蛛の糸を斬った手応えがあった。  第二撃が来る頃には、ボクは床を蹴っていた。  聞いてるか! ボクは“彼女”に呼びかける。  君が嫌いで嫌いで仕方なくて、それでも目を逸らせないほど愛しく思っているモノ、それを、ボクが守ってやる。  君を、ボクが守ってやる。  女の頭めがけて、刀を振りかぶった。  予期していた衝撃はこなかった。手で頭をさわる。どうやら、頭蓋骨を砕かれてはいないらしい。  大きな地響きがする。前に目をやると、オーガモンが仰向けに倒れていた。 「離れろ!」  後ろから聞こえるホークモンの声に従い立ち上がると、オーガモンから離れる。うめいている緑の鬼に目を向けたまま、ホークモンに話しかけた。 「さっき、何投げたの?」 「デジヴァイスだ」 「え?」 「このタイミングでも出てこなかったら、あとで殺してやったところだ」  ホークモンの言葉に、私は初めて足元に目を向けた。  刀を構えたヒヨコが、そこに立っていた。状況がうまく飲み込めないかのように、その小さな目をキョロキョロと動かしている。  そして彼が、私を見上げた。 「君か」 「え?」 「なんというか、写真うつりだけは良いんだね」 「は?」  思ってたより可愛くないよとほざくそのヒヨコを、私は睨みつける。 「あんたヒョコモンでしょ。あんたこそ、思ってたよりもだいぶ不細工ね」 「なんだって!」 「二人とも、前! 前!」  出会い頭に言い争いを始めた私達に、呆れたようにピヨモンが声をかける。同時に前に目を向けた私達の目に、怒りに燃えて立ち上がるオーガモンがうつった。 「今の、てめえか?」オーガモンがヒョコモンを見下ろす。 「そうみたいだ」憮然としてそう返すヒョコモンの足が、しかし小刻みに震えているのに私は気づいた。 「ガキのくせに舐めやがって!」  オーガモンが棍棒を振り上げる。その動きは改めて見ると単純で、私もヒョコモンも後ろに飛びのいて簡単にかわすことができた。鬼はますます怒り狂って声を上げる。 「ねえ」  ヒョコモンが先ほどの光る物体を私に放った。受け取ると、確かに私のデジヴァイスだ。でもそれはこれまでと違って、どこか輝いているように見えた。 「ソレの使い方、分かる?」  私は頷く。デジヴァイスはしっくりと手に馴染み、使い慣れた自転車がそうであるように、深く使い方を考えなくても操ることができると思えた。 「じゃあ、使ってくれ」 「戦える?」 「戦えるよ。怖いけど、君がいれば平気な気がするんだ」  私ははっとした。ヒョコモンが何を根拠にそう言うのか知らないが、彼には彼の物語があったのだ。刀を構えて立つその小さな姿は、話に聞いた村の鼻つまみ者とはまるで違った。 「私も」口を開いた私をヒョコモンが見上げる。 「あんたとなら、やれる気がする」  黄色い顔と頷きあうと、私はデジヴァイスを胸の前で構えた。その液晶の画面が輝きだす。 「行くよ、クソ鳥二号!」 「ちょっと待って! その呼び方は…」  ヒョコモンを光が包んだ。  オーガモンは思っていたよりも強敵だった。  攻撃は簡単にかわせるものの、その動きは意外にも素早く、進化したばかりの背の高い使い慣れない体では、なかなかボクも刀を浴びせられない。 「ヒョコモン!」  背後から聞こえたその声とともに、両脇を二つの風が吹き抜けた。  前を見れば、ホークモンとピヨモンだ。その俊敏な動きでオーガモンの周りを飛び回り、翻弄している。みるみるうちに緑色の巨体にいくつもの切り傷がついた。  二人はやっぱりすごいな。ボクは刀を握りしめる。  でも、ボクだって。やるときはやるんだぜ。  今だというホークモンの叫び声に応え、オーガモンに刀を突き立てた。 12月31日 ヒョコモンと鈴代円香 「ふう、今日は疲れたよ」  村はずれの空き地での鍛錬からの帰り道、ボクがそう漏らした。隣を歩くホークモンがそれに目を釣り上げる。進化して背が高くなった(この姿はブライモンというらしい)せいで、ボクは常にホークモンを見下ろす形になった。 「あの程度でそんなことを言ってるのか。進化したっていうのに、変わらないな」 「しょうがないだろ。進化したと言ったって、力が強くなっただけで、戦いは下手なままだ」 「第一お前、なんで飛べないんだ。そんなに大層な羽があるのに」 「ボクに聞くなよ!」 「まあいいさ。飛び方もおいおい教えてやる」 「…随分優しいな」  ホークモンのことだけじゃない。村のみんなもだ。 「村のみんな、帰ってきたボクに最初にすることが謝罪だなんて」 「アウルモンが言ってくれたんだよ。お前に余計な重荷を背負わせて、自分達は平和を装っていていいのかって」  みんな強かったぜ、とホークモンは笑う。聞いた話では、アウルモンはあのオーガモンの一味を三体一度に片付けたらしい。 「ホークモンもそれ、言われたのか?」 「いや、俺の場合は、マドカだ」 「彼女が?」 「お前ともっと、腹を割って話せってさ」 「そんなこと、言ったのか」 「マドカとは話したか?」 「うん。アウルモンも交えて、あったことの説明をね」  あのデジヴァイスの中の風景は、やはりマドカの街のもので、ボクが住んでいた家も、やはりマドカの家だったらしい。冷蔵庫の中のチョコレートのことまで話が一致したのだから間違いない。  アウルモンが言うには、デジヴァイスは持ち主の人間の心を映る鏡のようなものだという。それならば、ボクは鏡に映った彼女の心の中で勝手にうろついていたということになるのだろう。  赤と青の二人組との戦いのことは最後まで言わなかった。あの二人がマドカの両親の姿を歪んだ形で映したものであることは分かったし、彼女もそんなことに触れられたくはないだろう。デジヴァイスが持ち主の心に干渉したという記録はないということで、あの二人組から彼女を守るためにしていたことも、特に何の意味もなかったことになる。でも、それで構わないと思った。 「ねえ」ボクはホークモンに話しかける。 「どうした?」 「ボクは、今回のことで、結局何かできたのかな?」 「オーガモンを倒したろ」 「そうだけど、それはマドカに力をもらって、しかもホークモンとピヨモンの…」 「いいんだよ」ホークモンがボクの言葉を遮った。 「大体お前とマドカは、初めて出会って進化して、敵を倒すのに一ヶ月もかけてるんだ。大抵の物語なら、最初の一日で終わってしまうような程度の内容だ」  それでもボクとマドカはそれを成し遂げたのだ。だとしたら、それがボク達の歩む速度なのだろうと彼は言う。 「なんにせよ、お前が逃げなかったことが、俺は嬉しいんだ」 「ホークモン…」 「俺も、歩み出さなくちゃいけないな」彼は突然呟いた、 「どういうこと?」 「しばらくしたら俺は旅に出ようと思う。武者修行の旅だ。もっと強く、速くなって、大切なものに何かがあった時に、すぐに助けに行けるようになりたいんだ」  ボクの顔を見上げ、真剣な目で言うホークモン。その顔を見つめるボクの口から、言葉は勝手に溢れていた。 「ホークモン、飛び方教えてくれ。明日からだ」 「どうした、慌てて。そんなにすぐに出て行くわけじゃないぞ」 「でも、旅の相棒が飛べなかったら不便だろ?」  ホークモンは面食らったように目を見開き、今度は珍しく微笑んだ。  村の中心部に差し掛かったとき、ボクの耳があのメロディを捉えた。隣のホークモンも、目を閉じて耳を澄ましている 「ホークモン! これは」 「ああ。マドカのピアノだ」  ボク達は顔を見合わせ、走り出した。  一月ぶりに見るこの村の夕焼けが、何故だか前よりも眩しく思えた。  私とピヨモンは、アウルモンの教会でチョコレート味の飲み物を啜った。並んで椅子に腰掛ける私たちの前では、止まり木の上に立った村長が一昨日の事件の顛末を語っている。 「…というわけで、近くの村との協力で無事子攫い達のアジトは占拠され、子どもたちは解放されました。連中の犯した失敗は二つあります。一つは手当たり次第に子どもを連れ去って“おもちゃの町”のもんざえモンを怒らせたこと、そして--」  アウルモンは私たちに交互に目を向けて、微笑んだ。 「私の村の自慢の仲間に手を出したことですね」  私とピヨモンは顔を見合わせて、笑った。そこにおずおずとアウルモンが口を挟む。 「それで、デジヴァイスのことなんですが…」 「ああ」私はあっさりと言った。 「あのことはもう別にいいの」 「そうですか…」 「ピヨモンとも、こうして仲直りしたし」  少し驚いたように目を開いた後、それならいいでしょうと、村長はまた微笑んでみせた。 「本当に今日で帰っちゃうの?」  教会からの帰り道、私の脇を飛ぶピヨモンが尋ねてきた。 「うん。私もずっとここにいたいけど…」  私は自分に言い聞かせるように何度も頷いた。 「あっちの世界に残してきた宿題が、多すぎるからさ」 「宿題?」ピヨモンは首をかしげたが、やがて頷く。 「なんか、分かるような気がするよ」 「ありがと。ピヨモンも、ヒョコモンのこと頑張って」 「ちょっと、やめてったら!」ピヨモンがバタバタと羽ばたき、ピンクの羽が散る。 「マドカだって女の子なんだし、あっちの世界に好きな人とかいないの?」 「私はそういうの、あんまり興味ないし」 「そんなこと言って、恋は不可抗力なの。突然に落ちるものなのよ」  ピヨモンの自信たっぷりの言葉に私は肩をすくめた。  村の中央の通りに差し掛かると、寂しさを含んだ沈黙が流れた。目頭が熱くなるのを感じた。私はバカだ。こんなに仲良くなれたのに、別れることを選ぶなんて。 「ねえ」ピヨモンが前を見たまま呟く。 「なあに?」 「また、会えるよね」 「もちろん」  強く頷いた私の手を、ピヨモンがとった。 「わたし、決めたの。もっと強くなるって。今よりもっと強くて優しいデジモンになって、この村を守るって。そしたら、いつマドカが来ても安心でしょ?」  呆気にとられたままの私の腕を、彼女が引いた。 「え、どうしたの?」 「こっちきて!」  ピヨモンに引きずられてやってきた村の真ん中で、私は息を飲んだ。 「これ…」  煤まみれのピアノの前で、私は立ち尽くした。 「あの倉庫は焼けちゃったんだけど、村のみんながね、これだけは守ったんだって」  弾いて弾いてとねだるピヨモンの頭を撫でていると、村のみんながどこからかやってきて、ピアノを囲んだ。そのどの顔にも、笑顔が浮かんでいる。  彼らを見回す私の視線が、一つの頭で止まった。 「スワンモン!」 「よお、元気そうでなによりだ」  あの朝以降、彼とゆっくり話す時間は無かった。 「ごめんね。勝手に走り出したりして」 「本当だよ」  でも、と彼は笑う。 「あまり心配はしてなかったよ。マドカが決めたことを信じるって、約束したからな。そんなことより、今日はマドカのリサイタルだよ。みんな楽しみにしてたんだぜ」  頷くと、私はピアノの前の椅子に腰掛けた。この一ヶ月の記憶が、次々と瞼の裏に蘇ってくる。  一ヶ月程度の時間で人がそう簡単に変われるとは思わない。でも、私はもう弱い自分に怯えることはない。私はいつだってそいつを怒鳴りつけることができる。自分の強さを信じることができる。そんな私を信じてくれる友達を得ることができたから。  すう、はあ。  一度の深呼吸。冷たい鍵盤に触れる指。暖かくて美しい、甲虫の歌。  私はブラック・バードだ。私は自由になって飛び立つ日を、今日までずっと待っていたのだ。 一月一日 私と、多分あなた。  目を開いた瞬間に、白い光が目に飛び込んできた。 「円香!」  私の胸に、暖かい何かがすがりつく。視界の霧が晴れると、私はその顔を見つめた。 「お母さん…」  私は病院のベッドに横たわっているらしい。目を覚ました私にすがりつく母さんと、その後ろで涙を流す父さんが目に映った。 「円香、大丈夫なの? 私のこと、分かる?」 「ちゃんと分かってるよ。今日は一月一日?」  私が正確に日にちを言い当てたことに母さん怪訝そうな顔をした。  私は一ヶ月のデジタルワールド生活を終え、ホークモンやピヨモン、アウルモンにスワンモン、そしてヒョコモンもといブライモンと別れの挨拶をした。そして、十二月三十一日に月の光をいっぱいに満たした藁のベッドの上で眠りについたのだ。つぎはぎだらけのコートを着て、ポケットにデジヴァイスを入れて。ズタズタに裂かれた私のコートはアウルモンとピヨモンが一生懸命治してくれたのだ。 「私、ひょっとして一ヶ月眠ってたの?」 「家の近くの山で気を失ってたんだ。ガードレールの外側の崖の下に落ちたんだよ」  父さんが涙ながらに言った。 「本当にごめんな、お前が散歩に行くって言った時、俺がしっかり気にかけていれば…」 「いいんだよ、そんなこと」私は苦笑する。今思えばあれは完全に私の勝手な行動だ。  それと同時に、私は眉をひそめる。デジタルワールドでの一ヶ月の生活は、もしかして夢だったのだろうか? そうは思えない。それは、あまりにも鮮明だった。 「あのさ、私が着てた服ってどうなった?」  今の私は完璧な入院着だ。どこかにあのコートがあるはずだった。 「ああ、そのことなんだが…」  私が妙にしっかりしていることに変な顔をしながら父さんは答える。 「落ちた時にダメになったんだろう。コートはズタズタに破けていたよ。そこの箱に入れてある」  お前を繋ぎ止めるものは大切にしたかったんだと父さんが指差した箱に私は手を伸ばした。それを慌てて母さんが抑える。 「一ヶ月点滴で暮らしてたんだから体が思うように動かなくて当然でしょう。私が開けるから」  いや、私昨夜もピンピンして動いてたんだけどな、と心で呟きながら私は箱に目をやった。 「ねえ、それって…」目を輝かせる私と反対に、二人は眉をひそめている。 「直されてるわね。下手くそだけど、どうしたのかしら?」 「看護師が誰か勝手にやったのか?」 「ねえ、ポケットの中、見てよ」 「え? ええ」母さんがコートのポケットに手を突っ込む。 「あら? ここに入ってたのね」  母さんの手には、私のスマートフォンが握られていた。そういえば、デジタルワールドに来た時、持ち物からスマートフォンだけが消えていた。 「貸して」 「充電切れてると思うぞ」 「いいの」私はスマートフォンを受け取ると、電源ボタンをゆっくりと押し続けた。  と、スマートフォンのスピーカーから、美しいギターの旋律が溢れ出た。 「『ブラック・バード』?」母さんが首をひねる。父さんも不思議そうな様子だ。 「円香、お前ビートルズなんか好きだったか?」 「うん」私は涙を流しながら笑った。 「大好きだよ」  病院の検査で医者も呆れるほどに健康体だったこと。これ以上点滴なんか打ったらそれこそ死んでしまうと私が強硬に主張したことにより、私は病院の食堂にいた。お粥にインスタントの味噌汁、生気のない茹でた野菜に豆腐ハンバーグ。正直食べる気はしなかったが、箸は勝手に進み、結局完食してしまった。なんだかんだ身体は疲れているのだろうか。 「ところで、受験は?」私は目の前で私の食べっぷりに目を丸くしている両親に話しかけた。 「そんなことは気にしなくていいんだ」父さんがわざと厳しい顔を作って言う。 「行けるところに行けばいいし、来年まで待ってもいい。どっちにしろ、今決めることじゃない」 「いやあでも、あと三ヶ月あるわけだし、なんとかなるよ」 「でも、第一志望にしてたとこは厳しいんじゃないかしら」母さんが言った。  その通りだ。敵前逃亡のようで悔しいが、こればかりはしょうがないだろう。見栄を張らず弱い自分を認めることは、ホークモンから学んだことだ。 「うん、そうだね…」  一つ下のレベルの高校にするよと言いかけたその時、隣のテーブルから声が聞こえた。 「身体は大丈夫か?」 「うん。受験には間に合うよ」 「第一高校は余裕で入れるって判定を貰ってるんだ。身体にだけは気をつけてくれよ」  第一高校は私が第一志望に掲げていた高校だ。思わずそちらのテーブルに目をやった。私はと同じ入院着で父親とおぼしき男と明るく話すその少年、その少年を見た途端、私の思考は凍りついた。 「円香?」 「第一高校にする」 「は?」 「私、第一高校に行く」 「いやでも、今それは厳しいって…」 「死ぬ気で勉強すればなんとかなるよ。見てみて! 私、こんだけやっても死んでないし!」  元気でしょ? と笑ってみせる私を呆気にとられたように両親は見つめ、頷いた。 「分かったよ。やれるだけやってみろ」 「ありがとう!」  私は二人に抱きついた。  恋は不可抗力。こっちはピヨモンから学んだことだ。  夕方、私は病室の窓から夕日に照らされる街を見渡した。  ここと同じ場所を、彼は一月冒険したのだ。そこには誰もいなかったと言うけれど、私の生活の跡はあったかもしれない。  彼はこの街をどう思っただろう?  私はこの街をどう思っているだろう? 「いつかまた、会えるよ。ヒョコモン」  新年の街を流れる雲に向けて、私は呟いた。 〈おしまい〉
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マダラマゼラン一号
2022年12月25日
In デジモン創作サロン
はじめに 本作は作者が2017年ごろに書いた作品となっています。 当時の僕は浪人生。センター試験を控えた12月に、模試と模試の合間に入ったドトールコーヒーでこれを書いていました。 東北の寒さにかじかんだ手に鞭打ってスマホのフリック入力で小説を書いていたせいで、第一志望校の二次試験の一週間前という大事な時期に腱鞘炎一歩手前まで行ったことをよく覚えています。 再投稿に当たり改稿も考えましたが、結局当時のまま投稿することにしました。粗も多い作品ですが、けっこうお気に入りです。よければどうぞ。 12月1日 鈴代円香  昔から、寒がりな子どもだった気がする。  冬場に外に出ると、妙に長い首が寒さの為に真っ赤になった。幼い頃、小学校の帰り道に空を見かねた何処かのお婆さんが首にタオルを巻いてくれたことがある。薄汚れたタオルを首に巻いて帰った私を唖然としながら迎えた家族の顔が、いまも心に残っている。  そんな私が、十二月の寒風吹き荒ぶ夜に突然散歩に出ると言い出したのだ。何かしらの心配の言葉が投げられてもいいはずだった。弱くてズルい私は、それを期待していたのかもしれない。 「そんなことでいいのか? 受験まであと──」  居間から返ってきた男の安っぽい言葉をみなまで聞くことなく、私はドアを開けた。  アパートの近くにある高台まで自転車で駆け上がる。坂を登りきれず、途中で降りて自転車を引きずった。荒い息が白い粒子の塊となって口から漏れ出る、耳元で血管の中を血が駆け抜けるどくどくという音がする、少し走っただけなのに足は棒のようだ。私は冬の頬を切りつけるような寒さの中で自転車で走る時、他のどんな時よりも生きていることを実感するのだ。他の子に話したら笑われそうな話だ。  辿り着いたのは私のお気に入りの場所だった。木々の生い茂る道を抜けた場所で、空がよく見える。道の脇のガードレールに腰掛け、呼吸を整えた。  きりりと冷たい空気、その澄んだ空気の向こうに、淡い色に輝く月がくっきりと見える。大きく深呼吸をした。月の光が冷えた空気と共に私の血管の隅々まで行き渡るのを感じる。私と月との間には何もないと思えるその感覚が好きだった。  私が生まれるずっと前から空に浮かんでいて、私が死んだその後も満ち欠けを続ける黄金色の浮遊物。そんな奇妙で神々しい物体が、こんなにも側にいるのだ。それが目の前に迫った高校受験に向き合えず、両親ともうまくいっていない十五歳の女子中学生の現実逃避に過ぎないと分かっていても、こんなにも救われる気分になることは他になかった。  その日の月は見事な満月だった。なんの名前のつけようもない半端な形だったら、私はもっと月に親近感を覚えられたのかもしれないが、空に浮かんだ大先輩にそんなことを望むのは失礼というものだろう。  それにしても、今日の月は少し大きすぎないかしら?  実際、月はだんだんとこちらに迫ってくるように見えた。淡い黄金色の光が視界を覆い尽くすような感覚に襲われる。  私、いよいよおかしくなったのかな。月から目をそらし足元に目を向ける。ガードレールの外側は崖のようになっていて、バランスを崩したら真っ逆さまだ。ここで私はよく自殺することについて考える。受験を控えた女子中学生が自殺。クラスのみんなは驚いてくれるだろうか? きっと驚くだろう。成績はそれなりだけど不真面目で、授業も大抵寝ていて、学級活動にも殆ど参加せずのほほんとしている私。ノリは悪いけど決して無愛想ではなく、友人も程々にいた私。何かに必死になる姿を見せたことのない私。そんな私に、自殺するような複雑な事情があったのか。家庭環境か? 受験の悩みか? ところがびっくり、私にはなにもないのだ。  もっとも、自殺なんて本気で考えたことは一度もない。そこまで思い詰めることができる物があったら良かったと思う。私は軽薄な人間で、何かに必死になるのを馬鹿らしいと思ってしまうのだ。どうしようもない。  そんな自己嫌悪をひとしきり終えて、私は再び空を見上げた。  目と鼻の先に月があった。 驚いて声をあげようとしたが、口が思うように動かせない。月の光が質量を持つ粒子となって私の口をふさいでしまったような気分だ。  呼吸もままならないまま、私はすうっと意識を失った。  瞼を開いた途端に目に飛び込んだ太陽の光に、私は思わず呻き声をあげた。視界が白く包まれる。ぼやけた景色の中で、五、六歳くらいの子どもほどの背丈の小さな影が二つ動くのが見えた。 「あっ、起きたみたいだよ!」 「だからほっといても平気だって言ったのに」 「そんな風に言わなくたっていいでしょ。それより、村長に知らせなくちゃ」  視界を覆っていた靄が晴れ、私は自分が横たわっていた藁のベッドから身を起こした。自分の体を見る。月を見に行った時と同じコート姿だ。ポケットを探るとスマートフォンは消えていた。ポケットに手を突っ込む仕草に目の前の影が驚いたように身を引く。  それは、大きな鳥だった。一方は紅と白、もう一方はピンクとブルーの鮮やかな羽毛で覆われている。私の知っている鳥達と違うのは、その頭と足が妙に大きく、人間のような直立の姿勢を保っていることだった。 「ニンゲン、遅いお目覚めだな」  紅と白の方の鳥が私の顔を見てそう言った。よく見るとその頭に革製のバンドを巻いている。 「…喋れるの?」 「お前は喋れないのか?」  革バンドは小馬鹿にするように肩をすくめる。それでもその体は私から一定の距離を保ったままだ。 「ちょっとホークモン、わざわざそんなこと言わなくていいでしょ!」  革バンドの隣のピンク鳥がたしなめるように言った。そして、私の方を向くと微笑んで見せる。鳥の嘴でどう微笑むのかと聞かれると私も困るのだけれど、その鳥は確かに微笑んでいた。 「ニンゲンさん、ようこそ。わたしはピヨモン。あなたの名前は?」  訳の分からない場所で、訳の分からない生き物と突然の自己紹介タイムか。私は思わず頭を抱えた。すると、先程ホークモンと呼ばれていた革バンドを巻いた方の鳥が鋭い言葉を飛ばす。 「おい、ピヨモンは自己紹介したじゃないか? 礼儀ってもんがあるだろ。それとも、自分とは違う姿のモノとは話もしたくないか?」  そりゃあ、小学生くらいの背丈の喋る鳥と進んで仲良くしようとは思わないでしょうよ。そんな心の声になんとかセーブをかける。嫌われない程度に愛想の良さを保たなければいけない。大丈夫、いつもやってることだ。相手が何を考えているのか分からず恐ろしいと言う点では、クラスの子達と大して変わりはない。  私は口角を上げて笑顔を作った。少し引きつって見えたかもしれないが、まあこれくらいで勘弁してもらおう。 「私はマドカ、鈴代円香(スズシロ マドカ)です」  慇懃にそう名乗って、ホークモンの方をじっと見つめた。彼はふんと鼻を鳴らす。 「俺はホークモン。あんた、作り笑顔が下手だな」 「そんなこと…」 「俺たちもあんたみたいなニンゲンの相手をしたことは何回かある。いきなり別の世界に連れてこられて、笑顔でいられる奴がいるかよ。下手な嘘はかえってムカつく」  何よそれ、ちょっと酷くない? こっちは必死で愛想よくしてるのに、というか…。 「今、“別の世界”って言った?」 「その辺りの説明は、村長がしてくれるわ」私とホークモンとの言い争いの中で窮屈そうにしていたピヨモンがここぞとばかりに口を、いや嘴を挟んだ。 「ついてきて、マドカさん」 「あなたみたいな人はたまにやってくるんですよ、マドカさん」  ピヨモンに半ば引きずられるようにして連れてこられた教会のような建物で、私は目の前に置かれた止まり木に向き合っていた。ここがどこか知らないが、少なくとも気温は私のいた十二月の東北の町のそれではない。コートはとっくに脱いで手に抱えて膝に乗せていた。 「自己紹介が遅れましたね。私はアウルモン、この“止まり木の村”の村長です」  鳥類が止まりやすいように立てられたその湾曲した木材の上に止まった大きな梟も、例に漏れず言葉を話すらしい。目から後頭部にかけてを覆うつるつるとした質感の金属を除けば見た目はいたって普通の梟に見えたが、その分その口からヒトの言葉が放たれるのを聞いた時の薄気味悪さはピヨモンやホークモンの時よりも大きかった。 「どうぞ、召し上がってください」  アウルモンは私の前のテーブルに置かれた木製のカップを嘴で指した。目をその中を満たす赤い液体に向ける。のぼりたつ湯気とともに酸っぱい匂いが鼻をついた。 「この村の近くで取れた果実で作った飲み物です。美味しいですよ」  自分の味覚と猛禽類の味覚がどの程度共通しているのか私には分からなかった。目の前で私の顔をじっと見つめてくるアウルモンの『美味しい』はネズミやらミミズやらの事かもしれない。  ひょっとして、自分は何か試されているんじゃないだろうか。私はアウルモンの顔を盗み見る。もしここで覚悟を決めて飲んでしまえば、賢治の童話「雪わたり」の要領でハッピーエンドになだれこめるかもしれない。  自分の思考が程よく壊れてきたのに気づき、今が頃合いだとカップを手に取った。唇に触れたその液体はどろりとしていて、胸から込み上がってくる何かに思わずえずく。しかし構わず口の中にそれを流し込んだ。 「…美味しい」  口の中を満たしたのは、チョコレートの甘い風味だった。家の冷蔵庫に常備しているほど大好きな味は、私に落ち着きを与えてくれた。  アウルモンが先ほどのピヨモンと同じように、私には分からないやり方で微笑んで見せる。 「美味しいでしょう? 我々の村の名産です。ニンゲンの中には中々飲んでくださらない方もいるんですが」  やっぱり試されていたという不快感は心地よい甘さの中に消えていった。それに、彼の言葉にはもっと大事なことがある。 「他にも人間が、いるんですか?」 「そう滅多には来ませんがね。今日はそのことも話そうと思って来てもらったんです。順を追って話していきましょう」  そうして始まったアウルモンの話は、それが巨大な喋る梟の口から語られたのでなければきっと馬鹿な作り話に聞こえたろう。  私達の住む世界の隣にあるもう一つの世界、デジタルワールド。  そしてそこに住む多種多様な知的生命体--デジタルモンスター。 「…理解していただけましたか? 理解していただけないと、こちらとしては困るんですが」 「…まあ、それなりに」本当なら今にも叫び出したいところだったが、私は慇懃な態度をとることにした。こういうのは慣れている。みんなが私を、表情豊かだがしおらしくて大人しい少女だと思うだろう。  アウルモンはまた微笑んだ。「良かった。なかなか信じてくれない人も多いんですよ」 「信じたくはないですけど、信じるのが一番楽そうだったから」  ふいに私は、小学校の通知表の一番下の欄に書かれた担任のコメントを思い出した。  スズシロ・マドカ、明るくて、誰とでもすぐ仲良くなれる子です。  そう、マドカは誰とでもすぐ仲良くなれる。簡単だ。相手の一切を否定せず、自分からは一切の肯定を求めない。それが一番楽だということに私は他より早く気づいただけのことだ。この道では私はちょっとしたプロ、喋る鳥だって、チョコレートの味のする木の実だって、肯定して見せるわ。  今のところアウルモンは穏やかな態度を見せているが、これがいつまで続くか分からない。なるべく相手の機嫌を損ねたくなかった。 「その通り、信じてしまうのが一番楽だ」 「私は、どうやってここにやって来たんですか?」 「そうですね、満月を一人で見たりしてませんでした?」  驚いた、当たり。 「…見てました」 「それですね。月は、この世界とあなたたちの世界を繋いでいると言われています。仕組みはわかりませんが、実際ニンゲンはみなさん満月の夜にやってきます」  なるほどね。私は眉を寄せる。次はなんと言えばいいのだろう? 元の世界に返してと言うのは怖かった。歓迎してくれているアウルモンに対してそんなことを言ったら、彼は激怒して私の目をつつき、腹を裂いて臓物をついばむかもしれない。 「その、ここにやってきた他の人間達は、どこに行ったの?」私はおずおずと尋ねた。そんな顔しないでくださいと笑いながら前置きして、アウルモンは話し始める。 「彼等は手始めに、この村で一ヶ月間暮らします。それからの選択は二通りあります。次の満月で元の世界に帰るか、或いは--」  私たちが人差し指を立てる時のような仕草なのだろうか、彼は右の翼を顔の前に出した。 「この世界で生きることを選びます。大抵はこの村を出て、旅に出ますね。どうしますか?」  アウルモンは顔を突き出し、私の目をじっと見つめた。 「それは、勿論…」  元の世界に帰るに決まっている、そう言おうとして私は口を噤んだ。脳裏に様々な像が浮かぶ。友人達の、両親の言葉。 ──マドカは良いよね。そうやってのほほんとしてても受かるんだからさ。 ──何かに真剣になったことある?余計なお世話かもしれないけど、そんなんじゃいつか後悔すると思うよ。 ──甘えたことを言うな。お前の人生なんだぞ。 ──マドカ、あなたはできる子よ。私は知ってる。 「まあ、少なくともあと一月は帰れないわけですから、決断はそれからで…」 「残ります」 「え?」自分を遮って私が言った言葉に、彼は素っ頓狂な声を上げた。 「元の世界には帰らないって言ったんです。ここで暮らしていくわ」  元の世界に帰っても、私を待っているのは高校受験へのカウントダウンとお節介でうざったい友人とも呼べないような友人達、そして安っぽい言葉しか吐けない男と、私のことを何もわかってくれない女だ。必死になって帰りたいと願うような場所ではなかった。 「ほう、それはそれは…」アウルモンは目を細めて私を見つめた。 「ここに来たばかりで、そんなことを言ったのはあなたが初めてだ。マドカさんは面白いお客さんですね」  いや、あなたは最早お客さんじゃないな、と彼は呟いて自分で何回も頷く。 「どちらにしろ、一月はここで暮らしてもらいます。歓迎しますよ。そして--」  彼は翼をはためかせた。 「ついてきてください。あなたに会って貰いたい奴がいるんです」  すう、はあ。アウルモンの背中を見ながら、私は呼吸を整え、動揺を抑えた。  アウルモンに連れられて、私は村外れにある一軒の家に向かっていた。その道中も、多くの視線が私に向けられた。意外にも奇異の感情を向けられることはない。アウルモンの言う通り、人間はここではそれなりにありふれた来訪者なのかもしれない。 「ここです」アウルモンが小さな茅葺屋根の家を指し示す。 「実は我々は、あなたの来訪を前から知っていました。あなたというか、誰かニンゲンがここにやってくるということをね」 「どういうことですか?」 「ニンゲンがこの世界にやってくるとき、そのニンゲンと共に生きるよう定められるデジモンがいます。我々は、パートナーと呼んでいますがね」  うへえ、何それ。私は眉をひそめた。面倒臭い色んな関係性を放り出したい一心の私に、また何か押し付けようというのか。大体そのデジモンも気の毒じゃないか。私みたいなただでさえ暗い外面の裏に性格の悪さを隠した女と無理矢理に組まされるなんて。 「ニンゲンの来訪が迫ると、パートナーに選ばれたデジモンの元にあるデヴァイスがどこからか届きます。ニンゲンとデジモンの絆の象徴、我々はデジヴァイスと呼んでいます」  デジヴァイス、デジヴァイスね。私はそれを渡され次第枕の下にでも放り込めば良いんだわ。 「それで、ここがその、私のパートナーの家なんですか?」 「そうなんですけどね…」アウルモンはむにゃむにゃと要領を得ないことを呟いた。 「会わせてくれるんじゃないんですか?」 「いえ、その」 「どうしたんですか?」  ひたすら恥じるように、アウルモンは口にした。 「その、あなたのパートナー、ヒョコモンは引きこもってしまったんです。デジヴァイスの中に。そして、当分出てこないつもりみたいだ」  あら、好都合。そんな表情を私は必死で押し隠した。 12月1日 ヒョコモン  ボクは体に不釣り合いなほど大きなベッドで目を覚ました。窓から差し込む光で、もう日が高く昇っていることに気づく。しまった。修行に遅刻だ。村長にこっぴどく叱られるに違ない。ホークモンにとびきりの嫌味も飛ばされるだろう。  慌てて目をこすり、脇に置いた刀を手に取る。それからしばらくして、もう慌てる必要はないことに気づいた。ボクは“デジヴァイス”の中に閉じこもったのだ。刀の修行なんかもうどうでもいいと、決めたのだった。  起き上がる。デジヴァイスの中がこんなふうになっているとは、これなら当分籠城できそうだ。  そこは、ボクの見たこともない部屋だった。いつものようなわらを敷き詰めたベッドや壁の隙間から差し込んでくる風はない。部屋中が人工物で満たされていた。デジタルワールドにもデータにより形成された人工物は少なくないし、デジモン達はその利用法も分からないまま、それらをなんとか生活に組み込んでいるのだが、ここまで沢山の人工物の詰め込まれた部屋を見るのは初めてだった。これまで何枚かのパズルのピースしか見たことがなかったのが、急に完成したパズルを見せられたような感じだ。  ベッドから降りて、部屋を歩きまわる。その調度品はどれも、ボクよりずっと背の高い誰かの為に作られたような感じだった。  ここは一体、どういう空間なのだろう。ここで暮らしていく為に、それくらいは把握して置かなければいけない。  部屋に置かれたいくつもの引き出しのついた木の箱から手をつけることにした。引き出しを開けると、その中には何枚もの布が収められていた。黒やピンクといった色が目立つ。レースのついたものもある。  引き出しをいくつか引き開けていき、開けられた引き出しが階段状になるようにする。僕はまだピヨモンやホークモンのように飛べないから、こうするしかないのだ。即席の階段をのぼり、箪笥の上に立った。  そこには様々な物が置かれていた。それを見るに、この部屋の主が飾った物のようだ。鮮やかな紙がはめ込まれた板に目が止まった。  写真、というものが何か、昔村に来たニンゲンから聞いたことがある。景色を鮮明に残しておける紙という彼の説明が正しいのなら、目の前の紙はまさにそれだった。  アウルモンのいる教会よりももっと大きな建物、それをバックに一人のニンゲンの女の子が無理矢理に作ったような笑顔で立っている。真っ黒い髪を肩まで伸ばしたその少女は、ボクにはなんとなく陰気に思えた。  不意に部屋に光が差し込み、目を細めた。レースのカーテンがひかれた窓に駆け寄る。窓を開いたボクの頬に、冷たい風が吹き付けた。  アウルモンの村とは比べ物にならないほどに大きい、そして、とても静かな街。  その街が、なぜか見慣れた物のように感じられて、ボクは首を振る。立ち並ぶ背の高い灰色の建物達を、ボクは生まれて初めて見た筈だ。デジャヴだって起こりようがない。こんな景色が存在しうる事すら、ボクはたった今知ったのだから。 「とにかく…」誰に言うともなくボクは呟く。 「…お腹が空いたな  何か食べ物を探そうと考える前に、足は勝手に部屋を出ていた。ボクにとってはいささか長い廊下を迷いを抱く事なくあるく。助走をつけたジャンプでドアノブに飛び付いて扉を開け、先程よりも大きな部屋に入った。  その部屋に入った途端、何か重いものが心にのしかかった。この憂鬱には覚えがある。やりたくもない剣の修行をアウルモンに言われてする時、組み手でホークモンに手も足も出なかった時、だらけている所をピヨモンに見咎められた時、そんな時と同じ憂鬱だ。部屋を見回すが、そこには誰もいない。自分をそんな気持ちにさせる原因も、いなかった。  ここに本当に食べ物があるのだろうか? ここでも足は勝手に動いた。気がつけばボクは部屋の隅に立っていて、これまた背の高い白い箱が目の前にあった。 「…この中に、食べ物があるのかな?」  なぜか、そうに違いないと思った。  しかし、ボクの背丈ではその箱につけられた戸を開けることができない。振り返る。円形のテーブルを取り囲むように置かれたいくつかの椅子に目が止まった。あれを台にすれば取っ手に手が届くだろう。  手近な椅子に近づこうとして、足が止まった。胸を圧迫している憂鬱が、さらに強くなる。  あの椅子は駄目だ。あの席には、一歩だって近づきたくない。  ボクは後ずさりし、他の椅子に向かった。それを白い箱の前まで引きずり、その上に飛び乗る。  扉を開けると、這い出してきた冷気がボクの顔を冷やした。思わず声を上げたが、そこまで驚いたわけじゃない。誰かが耳元でその結果をあらかじめ教えてくれていたような気がした。  中に並ぶモノはどれも食べ物らしい。何に手を伸ばすかについても、ボクは迷わなかった。慣れた手つきで、赤い紙箱をとる。  扉を閉める。紙箱の中からは、茶色く硬い板が出てきた。 「コレ、食べれるのかよ…」  大丈夫、ソレは食べることができる。何も心配いらない。  頭をかすめた思考に従い、恐々ソレを口に運んだ。 「…美味しい」  ソレはボクの住んでいた村で取れる木の実とそっくりな味がした。甘くて、いつまでも舌に残るような風味。胸を締め付ける憂鬱が、少しだけ軽くなったように感じた。  この家を探索したいという気持ちはあったが、足は外へと繋がるドアに向いた。この家にいるだけで、どことなく居心地の悪さを感じるのだ。空気に小さな棘が混ざっていて、それが肺に突き刺さるような感覚。それから逃げ出すように、ボクはドアノブに飛び付いた。出かける際はいつも背負うことにしていた刀を寝室に置いたままであることを思い出したが、首を振ってそのことを頭から振り払った。  ここはどうも高い建物の一室らしい。地面に降りるだけでも一苦労だろうな、とため息をついた。  ピヨモンなら、ホークモンなら、建物の高さなんて気にしないだろう。彼等は軽やかに飛ぶことができるのだから。同じ成長期のはずなのに、ボクだけが未だに卵の殻を抱きしめたヒヨコのままだ。  まったく、どうしようもないな。自分自身の考えに苦笑を浮かべる。ここはデジヴァイスの中、誰もボクのことを気にするやつはいない。ボクだけの場所だ。翼のことで悩む必要なんかないのだ。  でも、とボクは思う。なぜボクはここがデジヴァイスの中だと分かるのだろう?  前の晩の記憶ははっきりとしている。ボクが自らあのちっこいデヴァイスに話しかけたのだ。今でもその一言一句をはっきりと思い出せる。  お節介なデジヴァイス。お前がどういうわけでボクの元に来たのかは知らないけどさ、残念ながらボクはお前の期待に沿うような奴じゃない。突然枕元にやってきて、誰かもわからないニンゲンと一緒に戦えだって? ニンゲンと一緒って言ったって、戦うのは結局ボク一人ってことじゃないか。ただでさえお前が来たおかげで、村のみんなから妙な期待をされて迷惑だってのに。  お節介なデジヴァイス、もしお前が本当にボクのことを思うなら。ボクをここから連れ去ってくれ。色んな面倒ごとが届かない場所に、アウルモンの説教も、ホークモンの叱責も、ボクを庇う鬱陶しいピヨモンの声も、届かない場所に連れてってくれよ。  それから…それからのことはよく覚えていない。一つ確かなのは、ボクが願いを口にした途端にデジヴァイスに付けられた小さな窓のような部分が迫ってきたということだ。そしてボクは意識を失い。この場所にいる。デジヴァイスの中に吸い込まれたと考えるのが妥当だろう。それに、そんな記憶よりもずっと確かな直感が、この場所に関する自分の予想を裏付けてくれている。  何回も息をつきながらやっとの思いで階段を降りきって外に出る頃には、そんなふうに多少状況の整理がついていた。それをきっかけにして色んな疑問がボクの中に流れ込んでくる。  最初に頭に浮かんだのは、自分がここから出る方法を知らないということだった。それは大した問題じゃない。あの村に帰る気なんて毛頭ない。そう腹を決めた途端に、頭の中のひと塊りの疑問は消えた。面倒な関係を捨てるというのはこんなに楽なことだったかと驚く。  しかし同時に実際的な、差し迫った疑問が降り注いできた。ここで暮らしていくにあたって、知らなくてはいけないことは山ほどあった。  とりあえずは、そう心で呟いてボクは見たこともないほど幅広く、そして不気味なほどに静かな道に立った。 「ここがどんなところなのか、知らなくちゃな」  自分の出て来た建物を背にして右には山があり、木々の葉が落ちてしまっているのが目についた。怪訝そうに眉をひそめて、しばらくしてキセツとかいうモノのせいかなと思いつく。ボクの村では一年を通して気温が大きく上下することはないけれど、世界には暑くなったり寒くなったりする忙しい場所もあり、そこの木々はその変化に気疲れして緑の衣を落としてしまうのだと聞いたことがある。裸の木々に興味はあったが、山への道は急な上り坂となっており階段を降りるだけで疲れていたボクは登る気にもならなかった。  とすると左に進む事になる。此方には背の高い家々がいくつも立ち並んでいた。その更に向こうにはもっと背の高い灰色の建物が見える。  これだけの建物があるのだ。相当な数のデジモンやニンゲンが住んでいるに違いないのに、街は不気味なほど静かだった。もうとっくに日は登っている。誰かしらの声が聞こえてもいいはずだけれど。  そんな疑問を抱きながら、ボクは歩き出した。灰色の地面は硬く、一歩踏み出すごとに足に力が跳ね返ってくるような不思議な感覚だった。  夕陽が街を腐ったトマトみたいな色に染め上げる頃には、ボクは一つの結論を得ていた。 「…ここには、ボク以外には誰もいない」  胸を満たそうとする寂寥感を誤魔化そうとボクはわざと声に出して言った。  一日かけて、大した範囲ではないにせよ街を歩き回ったが、他者の気配は全く感じられなかった。規則正しく赤と緑に色を変える何本もの塔はどうも生物ではないらしいし、この夕暮れになって街中で光を放ち始めた物体に話しかけても応答はない。何度かは戸の開いている家に勝手に入ることまでしたが、そこにも誰もいなかった。  その静寂の持つ違和感にも、すぐに気づいた。街にあったパン屋のオーブンの前には、まだ暖かなパンがあったし、民家の中には水を流したままの蛇口も多くあった。沢山の人がたった今まで生活していたかのような痕跡がいくつも残されていたのだ。  それなのに、ここには誰もいない。悪寒が背中に這い寄るのを感じた。  なに、はじめから分かっていたことじゃないか。引きこもるってことはそういうことだ。望んで孤独になることだ。逆に何でお前は、デジヴァイスの中に自分以外の誰かがいるなんて期待したんだ? いる筈がないじゃないか。  それでも、こんなに大きな街に独りぼっちだと思い知るのは辛いことだった。帰る術を知らないという事実が、重く心にのしかかってくるような気がした。  しっかりしろ。ボクは自分に言い聞かせる。お前は村でも好き勝手をやってみんなに迷惑をかけていた。見てみろ。ここでは何をしても誰にも迷惑をかけることはない。悲嘆にくれることなんて何もないだろ? ここで自由を謳歌したらいい。それとも、村に帰ってみんなの小言を聞きたいか?  ボクは首を振って歩き出した。足は目覚めたあの部屋に向いている。 「…嫌だな。帰りたくないな」   無意識に溢れ出た言葉にボクは目を丸くする。今のはボクの声か?  目覚めたあの家に帰りたくないのなら、帰らなければいい。この広い街に他に誰もいないのだ。どこでも手近なところに入り込んで泊まればいいじゃないか。 「でも、帰らないと」   また声が出た。だから、帰らなくてもいいんだってば!  先程よりもはっきりとした不気味さを肌に覚える。誰かがボクに勝手に別の感情を流し込んでいるような、この体がボクだけのものではなくなったような、そんな感覚。  君は誰だ?  階段をなんとか上りきり、肩で息をしながらドアを開けると、途端にあの憂鬱が心にのしかかってきた。  勘弁してくれ。ボクは自分のそばにいる誰かに話しかけるように呟く。こんな気分になるためにボクは帰ってきたっていうのか?  寝室に入る。起きた時と同じ風景。ここは誰かの部屋だったのだろうか?  ベッドに寝転がり、あの写真の少女にもう一度目を向けた。真っ黒に見えた髪は、暗い部屋の中では青みがかって見えた。  ここは、君の部屋なの?  めでたい写真みたいなのに、ちっとも楽しそうじゃないね。そう呟いてボクは目を閉じた。 12月8日 鈴代円香  マズったな。  デジタルワールドにやってきて一週間、アウルモンにあてがわれた教会近くの家に置かれた藁のベッドに横たわり、私はそんなことを考えていた。住まいは予想よりも快適で、開け放した窓から吹き込む明け方の風が心地よい。ここの気温は年中日本でいう秋頃ぐらいの冷え込みらしく、セーターを着た私にはちょうど良かった。それでも今は心にのしかかる憂鬱の方が大きい。  一番最初の対面の日に、得体の知れない生き物達への恐怖から必要以上に慇懃に振る舞ったのがいけなかったらしい。私は「昨今珍しい礼儀正しいニンゲン」として認識された。それに加えて、デジタルワールドに住むと即断してしまったこともあり、村のデジモン達(ここは鳥の姿のデジモンの住む村らしい。多様な大きさの鳥がいた。そして、全員が喋ることができるらしい。やれやれ)の歓待を受ける羽目になってしまったのだ。やってきた最初の日に歓迎の宴が行われた。  道を歩くたびに多種多様な翼と嘴を持ったデジモン達が声をかけてくれる。子ども達(単に無邪気で小さいデジモンを指してそう呼んでいるだけだ。彼等に子供とか大人があるかは分からない)は私に木の実やら何やらのささやかなプレゼントをくれた。  私はその一つ一つににこやかに対応した。よくない兆候だと思う。彼らの好意は物珍しさによるものに過ぎないと分かっているのに、おだてられ笑顔を向けられると、心の底から舞い上がって必要以上の笑顔を返してしまうのだ。問題は、私に彼らの期待と笑顔に応え続けるだけの中身がないことだった。  ああ、マドカ。お前はまたこんな風に、誰かを裏切るんだな。  苦い記憶が幾つか脳裏を掠め、私はベッドから起き上がって体育座りになり、膝頭に額をつけた。  その時、窓の外でごそごそと音がした。  誰か来たのだろうか、鳥の姿のデジモン達の朝が早いことはここ数日ですぐに分かったが、そうは言ってもまだ外は薄暗く夜といってもいい時間だ。  最初に頭をかすめたのは、遂にデジモン達が怪物の本性を現したのではないかということだった。これまでの美味しい食事は私を肥え太らせる為の下拵えで、私が眠っていると踏んだ料理人が塩と胡椒、そして鋭利な嘴を携えて窓から飛び込んでくるのかもしれない。  もしそうだったら? 私は荒い息遣いで考える。鳥に生きたままついばまれるなんてごめんだ。ズボンでもなんでもいい、それで首を吊ってやる。  しかし、とりあえず私は窓から顔を出すことにした。ここで目覚めた私と鉢合わせすれば、いくら腹を空かせた怪鳥といえどにこやかに挨拶してこんばんは撤退するしかないだろう。そしたら私にも、逃げるチャンスが生まれる。ついでに、私が食べがいのある程には太ってないことも教えてやる。ほんとに、太ってなんかないわ。  すう、はあ。一度呼吸を整える。それは私のおまじないだ。何かが始まろうという時、私は緊張の度合いに関わらず一度深呼吸をする。それは私が頭でした決意を、体全体に知らしめるための呪文だ。唇が震えないように、足が止まらないように。  決死の覚悟で窓から頭を出した私の目に、鮮やかな赤い羽根とヘッドバンドが映った。 「なんだ? 随分と早いお目覚めだな」 「…あなたが料理人?」 「なんのことだよ?」  窓の下からこちらを見上げると、ホークモンは呆れたように肩をすくめた。村で唯一、この無愛想な鷹だけが私に冷たい態度を取っている。彼の意に反して、それは私には心地よいことだった。剥き出しにされる悪意には、何も応える必要はない。 「少し早く目が覚めちゃったの。あなたは? 夜の散歩?」  私の問いに、全くこれだからとでも言いたげに彼はため息をついた。 「そんなわけあるか。鍛錬だよ、鍛錬」 「鍛錬?」  彼は少し迷うように首を傾げ、やがて言った。 「お前も来るか? もしお前が本気でここに住むつもりなら、そろそろ知っといた方がいいだろ」 「いいの?」 「安心しろ。ピヨモンもアウルモンも来る。村はずれの広場に来い」  彼はそう言い残して立ち去ろうとしたが、一度振り返って言った。 「そういえば、デジヴァイスあるか?」 「え? あるけど」村に来た初日に渡されたその子どもの玩具くらいの大きさのデヴァイスを、私は心に誓った通りすぐに枕の下に放り込んで無視していた。  私の“パートナー”だとかいうデジモン(ヒョコモン、だっけ? ダサい名前だ)は、慢性的な五月病か何かの為にこのデジヴァイスに引きこもっているらしい。何度か他のデジモン達の前で彼の話題を出した時に、何か諦めたような、呆れたような気まずい空気が流れたことを覚えている。  枕の下からデジヴァイスを引っ張り出す。明け方の薄明かりの中で、その小さな箱は鈍く光った。子ども向けのオモチャみたいな安っぽい液晶に何かが映っているのか、この薄闇の中では判然としない。  ああ、ヒョコモン、何があったか知らないけど、あなたの気持ちはよく分かる気がするわ。同志である私のことを思って、どうかそのまま出てこないでね。  コートの前を開いたまま羽織り、ホークモンの言っていた広場についた私をアウルモンが出迎えた。広場の端に立てられた止まり木は彼専用のものらしく、他のデジモンが止まっているところを見たことがない。 「ああ、マドカ。ホークモンから話は聞いています。彼らの鍛錬を見て言ってください」 「鍛錬って…」  私の目に見えるのは、二つの小さな竜巻だけだった。木の葉を舞い上げ恐ろしい速さで動くそれは、時にぶつかり合い、時に距離を置く。私とアウルモンのいる場所と竜巻とはかなり離れていたが、その凄まじい風圧を私は頬で感じることができた。  その時、風とともに頬に何かがぶつかる。風圧のために張り付いたままのそれを私は手に取った。 「ピンクの羽根…」 「あれはピヨモンとホークモンですよ。今は組手の真っ最中です」 「組手?」なんでそんなことを、と言おうとした時、竜巻がやみ、ホークモンと先ほどのピンクの羽根の持ち主であるピヨモンがこちらに駆け寄って来た。 「マドカ! 見ててくれたのね」ピヨモンが目を輝かせて私を見上げる。彼女は私が最初にここで目を覚ました時から一貫して私に優しくしてくれている。勿論それが重荷に感じられるのは確かだったが、まっすぐに向けられる好意はやはり嬉しいものだ。 「見てたよ。二人とも凄いんだね。全然姿を追えなかったよ」 「凄い? この程度じゃ駄目さ」ホークモンが肩をすくめる。 「俺は切り返しを何回もミスしたし、ピヨモンは攻撃を外しまくってる。そもそも、二人とも速度が全然足りない」 「立派な先生が居てくれて助かるわあ」ピヨモンが不満げに嘴を尖らせた。アウルモンが二人を見て微笑む。 「自分達の戦いの振り返りにしては悪くない考察ですね、ホークモン。でもあまり自分と他人に求め過ぎてはいけない。二人の速度は、成長期が出せる最高にまで達しているよ」 「そうそう! ホークモンは厳し過ぎるんだよ」追い風に翼をはためかせるように、ここぞとばかりにピヨモンが言った。 「それに、言い方がキツ過ぎるって。そんな風な言い方をしてなければ、ヒョコモンだって…」  そこで彼女は口ごもり、私の方を見上げた。ホークモンも私の方を向く。 「そうだ。ヒョコモンだ。俺がお前を暇つぶしの為に呼んだと思ったか?」 「ホークモン…」口を挟むアウルモンを、鷹は遮る。 「村長、こいつはこの村に住むつもりだって言ってるんだ。さっさと話してやった方がいいさ。こいつ、村の奴らが優しいのは自分の人望の為だと思ってるぜ。それか、自分を取って食うつもりだとでも思ってるのかな」 「そんなこと、思ってないよ」このクソ鳥、なんで分かるのよ。 「ちょっと、ホークモン。そんな言い方ってないじゃないの。マドカは優しいんだから、そんなこと思うわけないじゃない」ピヨモンがその場で羽ばたいて抗議の意を示してみせる。 「こいつは嘘つきだよ。ピヨモン、お前と一緒でな」 「もう一度言ってみなさいよ!」 「静粛に!」  アウルモンの一喝でその場は静寂に包まれた。 「ホークモン、今のは君が悪い。言葉がすぎるよ。謝りなさい」  威厳のある低温で迫られ、ホークモンは渋々と言ったようにピヨモンに頭を下げた。 「これでいいか?」 「…マドカにも」ピヨモンはそっぽを向いたまま言う。 「私は別に良いよ。怒ってないし」私は優しく言った。ホークモンが私にだけ見えるように怒りの目を向けてくる。単に頭を下げるより、私のいい子ぶりっ子のおかげで謝罪を逃れる方がこのクソ鳥にはよっぽど効くだろう。 「ふう、まあ良いでしょう」アウルモンがまたいつもの落ち着いた声に戻って言った。 「ホークモンの言うことにも一理あります。マドカ、あなたには話さなければいけないと思っていました。村の置かれた状況をね」  そんな風に前置きして、アウルモンは語り出した。 「…盗賊?」 「子攫いといった方がいいかもしれない。幼年期や成長期のデジモン達をさらっていくんです」 「事の起こりは一月ほど前かな」ホークモンが嘴を挟んだ。 「俺たちデジモンにはニンゲンみたいに親子の関係はない。卵はどこからかやってくるんだ」  その時点でちょっと意味わかんないんだけど、そう口を挟みたくなるのを必死で我慢し、説明を引き継いだピヨモンの言葉に耳を傾ける。 「その卵から生まれた子どもは村のみんなで育てることになるんだけど、近くの村でその子どもが攫われたのよ、一月に三体も」 「村が三つやられた。この辺じゃ、残ってるのはこの“止まり木の村”だけだな」 「そんな大変なことが起きてるなんて」私は呆然として呟く。 「全然気づかなかった、か? 安心しろ。あんたが間抜けなわけじゃない。まあ、それもあるかもしれないけどな」ホークモンが皮肉っぽく言った。釘をさすように彼をじろりと睨みつけてから、アウルモンは私に目を向けた。 「今のところ、この村には被害が出ていません。我々は、なるべく普段通りの生活をしてるんです。そっちの方が、心が安まります」 「それにしたって、私の歓迎会なんてしてる場合じゃ…」 「みんなあんたに期待してるんだ。正確には、あんたとヒョコモンに」 「どういうこと?」なんだか急にきなくさくなってきたわね、そう心の中で呟きながら私は首をかしげた。 「ニンゲンは、我々にとっては単に事故でこの世界にやってきた来客ではないんですよ。マドカ」アウルモンが何かを教え諭そうとするように羽を広げる。 「ニンゲンは我々デジモンにとってはその力を高めてくれる触媒になるんです。もっとも、パートナーに選ばれたデジモンに限って、ですが」  あ、なんとなく読めてきた。 「つまり、村がに危機が迫ってる時にやってきた私はみんなから、ヒョコモンの力を高めてあげて彼と一緒に子攫いをやっつけることを期待されてるってこと?」 「分かってくれるのが早くて助かります」アウルモンが微笑んだ。  うげえ、最悪だ。つまり彼等からしたら、私は村の窮地にやってきたヒーローというわけだ。どうせ心の声は誰にも聞こえないのだから、もう一度言おう。うげえ、最悪だ。 「で、でも。当のヒョコモンは…」私はコートのポケットからデジヴァイスを取り出した。アウルモンが頷く。 「ええ、天から彼の元にデジヴァイスが届いた時、ヒョコモンもあなたと同じ期待を背負いました。彼は元々…その、戦闘においては優秀とは言えなくてですね」 「ホークモンからしょっちゅう怒鳴られてたわ。トロいだの弱いだの、なんで飛べないんだ、とか」ピヨモンが嘴を挟んだ。 「それなのに彼は急に村を守る役目を負わされた」  そこから先は話を聞かなくてもわかる。ヒョコモンにデジヴァイスが届いた時、村の反応は二通りだったろう。  今度こそ、良いところ見せてくれよ。期待してる。  なんでよりによってお前なんだ。最悪だよ。  なるほどね。私は頷いでデジヴァイスに目を向ける。気の毒なヒョコモン、事情を知ったばかりの私から、安っぽい同情をあなたにあげるわ。 「なんとなく、分かりました」私は、師としての立場からヒョコモンの気持ちを想うアウルモンの言葉を遮った。 「それで、結局私は何をすれば良いんですか?」 「ヒョコモンが出てこない以上、あなたにも盗賊に気をつけて、としか言えません。とにかく、この村での生活に慣れていただければ」 「そうそう、とにかく村に慣れてもらわなくちゃ。ねえマドカ。この村に来たニンゲンにいつもやってもらってる仕事があるんだけど、お願いしていい?」ピヨモンが明るく言った。 「…そうね。教えてくれる?」私は頷いた。仕事なんか嫌でしょうがないが、ここで生活させてもらっていて、なんの恩返しもできていない立場はもっと嫌だった。変なヒーローの役割を押し付けられそうになった時に、ちゃんと胸を張ってデジモン達とは貸し借りなしだと言えるようでなくてはいけない。 「それじゃあ朝ごはんの後、ここにまた集合ね。ホークモンも」 「なんで俺まで…」 「いいから」ホークモンの異議を黙殺すると、ピヨモンは私の方を向いた。 「マドカ、一緒に朝ごはん食べよう? ずっと木の実ばっか食べてるでしょ」 「良いの?」少し迷ったが、私はその好意を受け取ることにした。チョコレートは元の世界にいた頃から大好物だったが、三日三晩チョコレート味の木の実で、流石にうんざりしていたのだ。  それにしても、と私は思う。ヒョコモンについての話はずいぶんあっさりと終わってしまった。私にしてみればその方がありがたいけれど、友達の一人に対する態度としてはあまりに冷たいのではないかとも思う。もともと村の鼻つまみものだったみたいだし、しょうがないことなのだろうか。  気の毒なヒョコモン。私はまた心の中で呼びかける。  ねえ、ひょっとして、私達、似てるのかもね。  畑の肉、大豆の事ではない。この世界では、肉は畑から取れるのだ。しかもそれは単なる肉ではない、アニメやマンガではよく見る、というよりもアニメやマンガでしかお目にかかれない、一本の白く太い骨を取り巻くように不自然なほど分厚い肉がついた所謂「あの肉」だ。  ここの肉は最初から焼かれた、食べることが可能な状態で収穫される。仕組みは分からないが、食べるためだけに育てられる肉に生肉の段階は不要ということだろう。  想像してほしい。デジタルワールドに来て初めて、肉の収穫風景を見た私の気持ちを。遠目に見てもそれが肉だとわかるような主張の激しいシルエットのそれが、黒々と湿った土から掘り起こされたところを見た私の気持ちを。肉には土がこびりついている。その土がはたき落とされた時、一緒に何か細長いものが地面に落ちた。ミミズだった。  ミミズは昔から大の苦手だ。小学校の頃にやったサツマイモ掘りの時にミミズが手に引っ付き、目を回して倒れたこともある。  殺すと言われたってあれは食べたくない。いつも食べてきた野菜も似たようなものだと言われても、肉で同じことをやられて、しかも収穫の現場を見せられても平気というわけじゃないんだ。私はそう心に固く誓い、歓迎の宴の時も肉だけはさりげなく避けてきたのだった。  その誓いにもかかわらず、ピヨモンの家の食卓で、私はなるべく収穫の際の光景を思い浮かべないようにしながら肉を口に運んでいた。私を追い詰めるのには脅しよりも無邪気な好意が効果的らしい。 「沢山食べてね。マドカ」  笑顔で新しい肉の皿を持ってきたピヨモンに、私は引きつった笑顔で応える。気持ちはありがたいけど、私の好き嫌いを抜きにしても、朝からこんなに沢山の肉は重いんじゃないの? 味は確かに絶品だけど。 「それで、私が今日する仕事ってどういうものなの?」箸休めの為に私は話を切り出した。ピヨモンは頷いて私の向かいの席に腰掛ける。 「村の真ん中の、アウルモンのいる教会近くに空き家があるじゃない?」  私は頷く。村の中心部の往来が盛んな場所にあるその空き家の存在については、かねてから不自然に思っていたのだ。 「あそこには色んなニンゲンの作ったものが集めてあるんだ。…なんだろ、ちょっと説明しづらいんだけど」ピヨモンは首をかしげる。細やかな仕草の一つ一つが可愛らしい子だ。私とは大違い。 「この世界にはね。ニンゲンの作ったものが、というかそのカタチをコピーしたものが沢山転がってるの。例えば、そのフォークだってそうよ」  私は自分が使っていたフォークに目を向ける。お前、拾い物なのかよ。 「私達は自分じゃそういうものを作れないから、色々なものを拾ってきて使ってる。でも、ニンゲンの作るものはどれも不思議で、使い方が分からないものもあるんだ」 「それを、私が説明すればいいのね?」 「そういうこと。あの空き家に、使い方の分からないモノを手当たり次第に詰め込んでるんだ」  なるほどね、私は頷く。まあ、ミミズと友情を育みながらの肉の収穫よりは余程いい。 「それじゃあ、そろそろ行く?」私はいそいそと言った。 「えー、もうちょっと食べてってよ。ホークモンは待たせるくらいが丁度いいんだって」  もう胸がいっぱいの状態で肉をさらに口に運ぶことと、あのクソ鳥を冷えた朝霧の中立ちっぱなしで待たせることを天秤にかけ、私は再びフォークを手に取った。 「おい、遅いぞ! …どうした、ぐったりして」  文句も程々にホークモンが口にした心配の言葉に私は面食らった。まさかお前の「遅いぞ」の一言を聞く為に脂と格闘し、胸焼けで死にそうなのだとも言えない。 「何でもないよ。さ、何を説明すればいいの?」  ホークモンは肩をすくめる。 「言っとくけど、ここに来たニンゲンはお前が初めてじゃない。此処にあるのは、そいつらがこれまで使い方を説明できなかったモノだ。お前が果たして役にたつかな?」 「ホークモン、ついさっき怒られたばっかりでしょ!」ピヨモンがバタバタと翼をはためかせて嗜める。 「いいの」私はそう言って空き家に歩を進めた。何があるか知らないけど、やってやるわよ。 「これは?」ホークモンが埃をかぶった機械を指差す。 「…コンバイン、農作業に使う機械で」 「お前、使えるか?」 「…ううん」 「じゃ、意味無いな。次は…」  先ほど意気込んだにもかかわらず、私は思ったよりも役立たずだった。バックギャモンのルールだの脱穀機の有効利用の方法だのを急に聞かれても、分かるわけがない。 「なんだ、一階は全滅じゃないか。思った以上に使えないな」ホークモンがどこか満足そうに言って私の顔を覗き込む。 「…二階に行こ」私は頬を膨らませて言った。こいつの魂胆は分かってる。今の所村でにこやかに振舞っている私の底意地の悪さを露呈させようと言うのだ。私の性格はそこまで悪くないことを、このクソ鳥に優しく思い知らせてやれればいいのだけれど。  二階は一階以上に埃がひどかった。咳き込みながら雑多な物で満たされた部屋を見回す。  その一番奥に、見慣れた巨大なシルエットがあった。 「…あれ」私の指の先を見て、ピヨモンが目を見開く。 「あれはなんだっけ? 昔来たニンゲンが言ってだけど…」 「『ピアノ』じゃないか? 綺麗な音を出して楽しむ為のモノ」ホークモンが私を見た。 「使えるのか?」  私はこくんと頷いた。我が家には無かったが、母の実家にはピアノがあり、私は幼い頃から祖母にその弾き方を教えて貰ったものだった。 「やってみろ」  ホークモンに促されるままに、私はそのピアノの前に腰掛けた。埃が積もった蓋をあけると、白と黒の美しい配列が目の前に現れる。手を鍵盤の上に下ろすまでの間に、指が勝手にCのコードの形を作っていた。  ド・ミ・ソ、美しい音の並びが空き家に響き渡る。こんなに乱暴に保管されていたのに、音は全然狂っていなかった。ピヨモンとホークモンが驚きの声をあげる。コードだけでも新鮮なのだろう。  何か曲を演奏しようと思って、私は両手を鍵盤の上に置く。と、その途端に、苦い記憶が蘇ってきた。  中学校の教室には、どこにも必ず電気ピアノが置いてあった。祖母が教えてくれたピアノが大好きだった私は朝早く学校にやってきては誰もいない教室でそれを弾いていたものだ。  それがある女子、クラスの中心的な存在である女子に見つかったのは、中学二年生の合唱コンクールを控えた夏のことだ。  私のピアノの腕は褒められたものではない。そんなことは誰でも聞けば分かる。それなのに、そのバカな女はクラス中に聞こえる。大きな声で私のことを褒めちぎった。そして--何よりも嫌なことに--私もその賛辞に満更でもない顔をして照れていたのだ。 「ねえ、合唱コンクールの伴奏、やってよ」  断るべきだった。今になってそう思うのではない。そのバカ女の持ってきた楽譜は、いくつかのコードと単純な曲で満足していた私にとっては複雑すぎることは最初から分かりきっていた。家にはピアノもなく、練習できる環境も満足にない。最初から無理な話だった。  それなのに、どうしようもなく愚かな私は、はにかみながらそれを快諾してしまったのだ。なんの決心もせずに、あの深呼吸のおまじないもせずに。  練習しなくちゃ、勿論私もそう思った。家にピアノが無くたって学校で練習すればいい。たとえ下手くそだったとしても、頑張って練習している様子を見ていれば、クラスのみんなも許してくれるはずだ。  それなのに、私はそうしなかった。  平気なふりをして、みんなと笑っていた。  理由? そんなものはない。強いて言うなら、面倒くさかったのだ。頑張るのが、馬鹿みたいに思えたのだ。  コンクールの二週間前、初めてクラス全体で歌を合わせる日の朝、私はトイレで三度吐いた。今からでも白状してしまおうかと思った。少しも練習していないと、楽譜に目を通しすらしなかったと。  ピアノの椅子に腰かけた私に伴奏の開始を促す指揮者の男子の厳しい声、クラスのみんなからの冷たい視線、白い鍵盤の上に落ちた、誰かの涙。  それからのことはよく覚えていない。急遽曲目を変更し、クラスのみんなは--私以外のクラスのみんなは一致団結して何とか本番に間に合わせたはずだ。  本番当日、私は学校を休んだ。吐き気、寒気、喉の痛み、証拠のいらないエトセトラ。聞いた話では、コンクールの結果は惨憺たるものだったらしい。  私に伴奏することを進めたバカ女とその取り巻きの女子達、合唱コンクールに本気になって取り組んでいた女子達は声高に私を非難したが、それもやがておさまった。学校行事なんてものは青春の中の僅かな通過点に過ぎず、やがてはみんな忘れてしまうものなのだ。男子達は合唱のことなんか始めから気にもかけていなかったし、何人かの友人は私と引き続き親しくしてくれた。  それでも、一度失った信頼を私が取り戻すことは遂になかった。  調子に乗って無理な願いを聞き入れ、大した理由もなく努力を放棄し、信頼を裏切る。  高校受験で、私は両親に対して同じ過ちを犯そうとしていた。どんなに彼らのことを嫌っていようが、私を気遣ってくれる親に対してだ。全てがバレる前にデジタルワールドに来れて良かったと、心底思う。 「…マドカ?」  ピヨモンの声が、私を現実に引き戻した。顔を上げる。私はどんな顔をしていたのだろう。彼女は少し怯えるようにたじろいだ。慌てていつも通りの笑顔を作る。 「何でもないよ。少し昔のことを思い出してたんだ」 「そ、そうなんだ」彼女も笑顔を取り戻し、明るく言う。「もっと弾いてよ、ピアノ」  ピアノ、ピアノか。中学二年のあの事件から、ピアノには指も触れていなかった。もともと下手な上に一年のブランクがあるのだ。弾ける曲は限られてくるだろう。  そう、弾ける曲は限られている。おばあちゃんが教えてくれた、いくつかの曲。 私を心から救ってくれる、甲虫の歌。  すう、はあ。  私は鍵盤に指を下ろし、そして同時に歌い出した。ビートルズの「ブラックバード」だ。 ブラックバードは歌う 夜の死の中で 傷ついた翼で それでも飛ぼうとしている 君はずっと 待っていただけだったね 自分が自由になる瞬間をさ  ポール・マッカートニーは、黒人女性解放の思いを込めてこの歌を作ったらしい。知ったことか、これは私の歌だ。飛び立てるようになるのをただ待っているだけの、私の歌だ。 何年も前に死んだ作詞者(あれ、ポールは死んでないっけ? どっちでもいいや)の思いなんか、私には関係ない。  だから、飛べ、ブラックバード。どうしようもない私のことなんか置いて、どこかへ飛んで行ってしまえ。  最後の一音を弾き終わると同時に、ピヨモンが目を輝かせて翼を打ち合わせた。 「凄い、凄いよ。マドカ」 「そ、そうかな」 「アタシ、感動しちゃった。ホークモンは?」 「…そうだな」  腕組みをするように翼を合わせたまま、彼も言った。ふふふ、ザマアミロ。  それから私は、ビートルズのナンバーをいくつか弾き語った。「イン・マイ・ライフ」に「ヘイ・ジュード」それから「ノルウェイの森」。ピヨモンもホークモンも、黙ってそれに聞き入っていた。 「…今日のところは、こんな感じでどう?」  やがて私が言った。ピヨモンは頷く。 「今度、みんなにも聞かせてあげなくちゃ。ねえ、アタシにもその歌教えてよ!」 「いいよ」 「…それから、マドカ」 「なに?」 「ヒョコモンがもし帰って来たら、一緒に、私達のこと、助けてくれる?」  私の顔から笑顔がすうっと消えた。あまりにも切り出し方が急すぎるのではないかと思ったが、仕方のないことだ。村の子ども達が攫われている。その中には、ピヨモンの友達だっていただろう。私が知らないだけで、それは彼女の、いや、村のみんなの心の中にいつまでもわだかまっているのだ。多分、何かをきっかけに彼女の思いが溢れてしまったのだろう?  きっかけ? それはお前の歌だ。  そうかもね。  それで? お前はどう答えるんだ、マドカ?    お前はまたそのピアノで、誰かを裏切るのか?  そんな心の声に、しばし俯く。そして、口を開いた。   「私は…」 「やめてやれ、ピヨモン」私の言葉を遮り、ホークモンが言った。 「ホークモン?」 「こいつはまだここに来たばかりだ。それに、子ども攫いの話を聞いたのだって今朝のことじゃないか。ヒョコモンのこともどうにか出来るか分からないのに、今決断を迫るのは酷ってものさ」  ピヨモンは彼の言葉にしばし目を見開き、そしてどこか寂しそうな顔で私の方を向いた。 「う、うん。そうだね。ゴメン、マドカ」 「気にしないで」 「アタシ、先に帰ってるね」  ピヨモンはいそいそと家を出て行った。扉が閉まる音を聞くと、ホークモンがこちらを睨む。 「お前が誰かを裏切る分には構わないさ。俺や他の村の連中になら、いくらやっても構わない」  でも、という声が目の前で響いて私は驚きに仰け反った。いつの間にか、ホークモンが目の前のピアノの上に乗っている。 「ピヨモンはやめろ。あいつを裏切ったら、俺もみんなもタダじゃおかないからな」  首に押し当てられた彼の羽先は柔らかかったが、背中からは汗が噴き出した。 「私がなんて答えようとしたか、分かるの?」 「さあな。でも、過去のニンゲン達を見てる」  眉をひそめた私の首から羽を離し、ホークモンは肩をすくめた。 「ニンゲンってのはズルいもんさ。そりゃあ、始めは良い奴も多いだろう。今のお前みたいに村のみんなと仲良く暮らす奴も少なくない」  だけどさ、とホークモンは語る。 「一ヶ月に一度やってくる満月が、奴等を嫌なやつにする。一月に一度帰るチャンスがあるんだ。そりゃあ誰だって思うだろうよ」 --飽きたら、帰ればいいや。  そんなこと、思ってないわ。自分の中の偽善者が叫ぶ。 嘘をつくな、私はそいつをを一喝した。私が自分の中で一番嫌いな部分であるそいつは、村の皆との楽しい一週間の中で気づかないうちに大きくなっていたようだ。  私はこの村を、元の世界の生活から逃げる為の場所として使っていた。そして今、この世界でも厄介な繋がりを作ろうとしている。私は一度逃げてこの村にいるんだ。この村からは逃げないと、どうして言い切れる? 「ありがとう、ホークモン」  彼のお陰で自分の嫌いな自分を目にしないで済んだ。 「礼を言われる筋合いはないね。俺も帰るよ」  そう言い残して、ホークモンはゆっくりと一階へと降りる階段へと飛び立つ。そして途中で、少し振り返って言った。 「さっきの歌、良かったぞ」  部屋に一人残された私は、驚きに声を失いながら、もう一度だけ鍵盤を叩いた。  もう一日を終えたというような気分だったが、時刻はまだ昼過ぎで、空には太陽が高く輝いていた。 「これ、貰っていいのかな…」  私はあの小屋にあった衣類を抱えていた。男物、女物、それぞれ数着ずつ。どれも色あせてはいるが、生地はしっかりしていたし、ボタンを付け替えれば着られるだろう。昔ここに来た人間が残していったものらしい。そんなものを着るのは御免被るというのが正直なところだったが、時たま下着を洗濯するだけで、上にはデジタルワールドに来た時のセーターとジーンズを着続けているという今の状況よりはよほど清潔だろう。  他にも使えそうなものは好きに持って帰っても良いとピヨモンが言っていたので、私は大きなチェス盤を選んだ。黒と白が規則正しく並んだチェス盤と精巧な細工の施された象牙の駒はこの世界でも変わらないらしい。もっとも、それは大量の衣類とともに運ぶにはあまりにも重く、私は何度も立ち止まって息を突かなければいけなかった。 「ニンゲンさん」  話しかける村のデジモンの声に、私は我に帰った。 「そんなに大荷物を抱えて、大変だろう。持ってあげるよ」  返事を待たずにその鳥(スワンモンといっただろうか)はチェス盤を抱え、私の横を歩き出した。大きな翼の持ち主なのに、わざわざその足で私とともに歩いてくれている。 「ありがとう…ございます」 「いいんだ。お礼なんか」  私は何故か申し訳ないような気持ちになって俯く。自分が先ほどピヨモンに言うかもしれなかった嘘が、あたまをぐるぐると回った。 「ごめんなさい…」 「ん? 何か言った?」 「あ、いいえ。なんでもないんです。ただ…」  私はかつてないほど純粋な気持ちになっていた。こんなにも優しくしてくれる村のみんなの力になりたいと、本気で思った。 「こんなにみんな良くしてくれるのに、なんの恩返しもできないのが申し訳なくて」  私の言葉に、その鳥デジモンは彼等特有のあのよく分からない方法で嘴に笑みを浮かべた。 「子攫いのこと、聞いたのかい」  なんで私はよく話したこともないデジモンにこんなにも心を開いているのだろう。そう思いながらも、こくりと頷く。 「気にしなさんな。俺たちだって自分達のことは自分達でなんとかできる。勘違いしちゃいけないぜ、俺はあんたがニンゲンだからこうして荷物を持ってやってるわけじゃない。村の仲間だからだよ」  ハッとして彼の顔をまじまじと見た。 「村の…仲間?」 「そうさ、ここに住むって、あんたが言ったんじゃないか」 「そっか、私が言ったんですよね」  二人でそうやってひとしきり笑った。  私はスワンモンの持つチェス盤に目を向ける。チェスのルールを知っているデジモンはいないということだったが、デジモン達にもルールを教えれば、今度は私がピヨモンや他のデジモン、それに、ホークモンを自宅に招けるかもしれない。  こんな考え、らしくないのは分かっている。元の世界の面倒で細やかな関係性から逃げ出すという目的と矛盾しているのも分かっている。でも、私は、やり直そうと思ったのだ。  誰にも嘘をつかず、立ち向かうべき場所で立ち向かうことのできる人になる。ここでの生活は、そのチャンスだと思う。 「あ、あの」私はスワンモンに話しかけた。 「どうした?」 「その、突然のことで申し訳ないんですけど、お願いがあるんです」 「いいとも。けれど、あまり無理を言っちゃいけないよ」  口を開く。自分の言葉が頭の中でこだました。    ああ、マドカ。お前はまたこんな風に、誰かを裏切るんだな。  いいえ、違うわ。私は心で唱える。そして、深呼吸をした。  すう、はあ。 「私のことを、信じてくれませんか?」 「はぁ?」 「き、急にわけわかんないお願いしてごめんなさい。でも、本当にそうして欲しいんです」  スワンモンは、肩をすくめるようなポーズをした。 「俺はバカだからな、分かりやすい頼みしか聞けねえよ」 「それなら! ええと」  あたふたとする私の顔を、彼は面白そうに見ている。 「そ、それじゃあ、こうしましょう。あなたが今の私みたいに大荷物を抱えて困っていたら、私に、それを持たせてもらえませんか?」  スワンモンはにっこりと笑った。 「それなら、勿論オーケーだよ」 「ふう、ここで良いかい?」  スワンモンはそう言ってチェス盤を優しく私の家の扉に立て掛けた。 「は、はい! ありがとうございました」  こんな時、私はいつも相手が気分を害するくらいまで沢山頭を下げる。でもその時は、何故か軽い会釈と笑顔だけが溢れた。それで良いと思えた。 「おうよ、それじゃあな」  飛び去っていくスワンモンの背中を見送り、私は扉を開けた。妙な早起きの後に色々なことがあって、昼過ぎにもかかわらず眠ってしまいたい気分だった。  軽やかな足取りで寝室に向かった私の足は、藁のベッドの前で止まった。 「なに…これ」  この世界に来るときに来ていたコートを、私は布団がわりに使っていた。畳んで藁のベッドの上に置いていた筈のそれは千々に割かれ、部屋中を綿が待っていた。  しゃがみ込み、今では何の用も為さなくなった布切れを覗き込む。ずたずたに切り裂かれたそれの切り口に目を向けた。 「これは…嘴?」  地面がぐらつくような感覚を覚える。中学二年のあの日、ピアノの前に座って受けた視線と囁きが再び私を捉えようとする。私は自分の頬を叩き、それを振り払った。  しっかりしろ、マドカ。分かっていたことじゃないか。どこにだって無言の悪意はある。お前はさっき決意したんじゃないか。新しい信頼を築き、ピヨモンやホークモンとチェスをするんじゃないのか。この程度で揺らぐ決意があるものか。  私はコートだったものを横に放り、ベッドに飛び込んだ。今はとにかく眠りたいような気分だった。  その夜、私は自分が黒い鳥になる夢を見た。私は死んだように静かな夜に向けて必死で叫んでいた。飛び立つ準備はできてるんだ。ただ、足に蔦が絡まって動けないの。自由になるのを待たなくちゃ。  次の瞬間、私は空気銃を持った若い男で、目に映った黒い鳥に照準を向け、何のためらいもなく引き金を引いた。ちっとも逃げないとは、バカな鳥もいたものだ。 12月8日 ヒョコモン  ここで暮らし始めて一週間が経つ。  生活には何の不自由もなかった。厄介だった階段の上り下りも、階段の隣に据え付けられた動く部屋の使い方を覚えてからは何の苦もなくできるようになった。ボタンを押すと体を運んでくれる箱とは、不思議なものがあったものだ。一人きりの生活に孤独を感じないと言ったら嘘になるが、村で向けられる冷たい視線のことを思えばどうということもない。  その一方で、この空間についての疑問は増していくばかりだった。最初にここに来た日に感じた、自分のものではない何かが耳元で語りかけてくるような感覚は、この一週間で消えるどころかかえってその頻度を増していた。最初に目覚めたあの家に帰ろうとする度に、帰りたくないという憂鬱に襲われ、それなのに足は勝手に家に向く。  街を散策している時も似たような感覚に襲われることがあった。ここは好き、ここは嫌い。そんな声が語りかけてくる。新しい場所を歩いている時には、ここから先の道はよく知らないと言ってくる時もあって、そんな時ボクはおとなしく引き返すのだった。  お節介とも思えるその声だったが、ボクに対する敵意を感じたことはない。声のおかげで孤独がいくぶん紛れていることも確かだった。それでも、正体不明の何者かの声が聞こえるというのは不気味でしょうがない。  そんなわけで、ボクはこの声について調べることに決めた。街のあちこちをめぐり、その何者かがボクにどんな感情を託すかを並べ上げていく。どんな場所に彼(或いは彼女)は好感を覚え、どんな場所に嫌悪を抱くのか。それをまとめれば、彼(或いは彼女)がどんな嗜好の持ち主かくらいは分かるかもしれない。  そんなことを考え、張り切ってドアを開ける。外に出た途端に、朝の光が目を刺し、いつものように心から憂鬱がすっと抜けるのを感じた。  もし仮にこの家がボクに語りかけてくる声の主の住まいだったとして、自分の住んでいる場所が嫌なところというのは変わってるな。  そこまで考えて、ボク自身も自分の住む村が嫌でここに逃げて来たのだと思いあたり、ため息をついた。  なあ、ひょっとして、ボク達、似てるのかもな。  最初は、声に従うことから始めた。声が右と言ったら右、左と言ったら左に向かい、どこに行き着くのかを確かめる。  そうやって足の向くままに歩いていると、心がまた憂鬱を感じ始めた。この感情は、朝眠い目をこすって渋々とホークモン達との鍛錬に行く時のものに似ている。  行きたくないな。行かなくちゃ。  またかよ。ボクはため息をつく。憂鬱な家をやっと出たのに、また憂鬱な場所に向かうのか。君も物好きなやつだな、と声の主に向けて心の中で呟く。  やがて見えて来た建物は、周りの家々に輪をかけて巨大だった。その白壁と大きな門には見覚えがある。 「…あの写真だ」  それは、ボクの部屋、そして多分ボクに語りかける何者かの部屋に飾ってある少女の写真の背景となっている建物だった。  その建物の巨大な庭を突っ切り、玄関口に立ちながらボクは自問する。  やっぱり、あの少女が声の主なのだろうか?  全く最低なことに、その高さにも関わらず、その建物にはあのボクを乗せて上下動する箱が取り付けられていなかった。  階段をやっとの思いで上ると、ある階で心にのしかかる憂鬱の色が一段と濃くなった。声がやだ、やだと子どものように喚き、胸に重い感触を覚える。 「…ここに、何かあるのかな?」  ここで引き返す手はない。ボクは吐き気と戦いながら、憂鬱の濃くなる方、声が駄々をこねる喚き声が大きくなる方へ進んだ。  とある一室の前で、ボクは床に手をついてはついに嘔吐した。硬く冷たい床にこぼれ落ちた食物だったものをしばらく見つめ、ボクは再び立ち上がる。  この部屋なんだな。ボクはまだ大丈夫だ。吐いたおかげでかえってスッキリした。教室に足を踏み入れる。大きな部屋だ。ボクの住む家のあの居間よりももっと大きい。たくさん並べられた椅子を見る限り、よほどの大人数、ボクの村の住人を全部合わせたよりも多いくらいの人数を入れる空間なのだろう。  重くのしかかる空気の中でも、どこに向かえばいいかははっきりと分かった。  部屋の前に置かれた黒い台、そこに向けて足を踏み出す。鉄の輪でも括り付けられたかのように足は重かったが、ゆっくりとそれを持ち上げ、前に出した。声はもう抵抗する気力すらないのか、だんまりを決め込んでいる。 「これは…村で見たことある」  その台に敷き詰められた黒と白の棒には見覚えがあった。村外れにある倉庫、ニンゲンのモノの中でボク達デジモンには使い道が分からないものをまとめて放り込んでいるその場所に、これと似たものがあった。 「確か…ピアノ、だっけ?」  そう言ってピアノの前に置かれた椅子に飛び乗った瞬間に、体が凍りついたような感覚に襲われた。かなり無理な体勢で椅子の上にいるにもかかわらず、一歩も動ける気がしない。  それだけではなかった。  体にまとわりつくように感じるいくつもの視線の感覚、ここには誰もいないのに、四方八方から感じる、冷たい、軽蔑するような視線。  なあ、アイツ、何してんの?  おい、さっさと弾けよ! 声が大きいって? 別に良いじゃん。アイツのことよく知らねえけど。  やだ、嘘、泣いてる?  意味わかんないんだけど、調子乗ってやるって言ったの、アイツじゃん。 「やめろ…!」  ボクを村からこの場所に追い立てたのと同じ感触に、必死で重い嘴を動かして、声を上げる。それでも視線は消えず、体は動かないままだった。  おい、頼む! 助けてくれよ。  隣で沈黙している声の主に向けて心でそう叫ぶ。この感覚がどういうものかははもう嫌という程思い知ってる。お前も、変われない自分のダメさ加減のせいでこんなところに落ち込んだんだろ? わかったから! なんとかしてくれ!  体中を不躾に突き刺すような視線にがんじがらめにされ、ボクはまた胸に酸っぱいものがこみ上げるのを感じた。  ちくしょう、なんで逃げてきてまでこんな目に遭わなきゃいけないんだ!  ぽーん、という美しい音で、ボクは我にかえった。いつのまにかボクは自由に動けるようになっていた。  きょろきょろと周りを見回す。今の音は?  だーん、また音がした。今度はいくつかの音が重なり合ったような感じ。見れば、目の前のピアノの白と黒の棒が勝手にへこんでいる。  普通なら、声を上げて逃げ出すところだ。でもボクは、その見えない奏者が奏でる音の連なりに心を奪われていた。  その歌はーーボクはなんでこれが“歌”だと分かるんだろう? そうか、ボクは頷く。あの声、ボクのすぐ側にいるあの何者かがピアノに合わせて歌っているのだーーその歌はシンプルな音のつながりに過ぎないのに、とても美しく、力強く、そして、とても悲しかった。  これはボクの歌だ。声が歌い上げる言葉の意味はよく分からない、けれど分かる。これはボクの歌。チャンスを単に待っているだけの、いつまでも飛び立てないボクの歌だ。  やがて歌が終わり、ピアノがその沈黙を取り戻した頃、ボクの瞳には、なぜだか涙が溢れていた。 「これは、君の歌でもあるんだな」  声の主にそう話しかける。隣にいる彼(または彼女)が自分と似たような境遇だと知って、ぐっと気分が楽になった。この世界にきて、初めて救われたような気分だった。 「でも、君は変わった。少なくとも、変わろうとし始めた。たった今、ボクの前で」  声の主はその歌で、ボクと同じ止まり木から飛び立っていってしまった。 「なあ、教えてくれよ。ボクも、君みたいに…」  変わることができるかなと口に出そうとしたボクの顔は、近くで聞こえた大きな音に凍りついた。  足音だ。  その後に今度は粗暴な声がついてきたのを聞き、肌が逆立った。  まさか、ここには他に誰もいないはずじゃ。  いや、そんな事を言ってる場合じゃない。相手が何者かも分からないんだぞ。とにかくどこかに隠れるんだ。  ボクはその部屋を見回す。後ろの方の荷物をしまうための棚に目が止まり、そこに向けて走り込んだ。引き戸を開け、中に閉じこもる。  部屋のすぐ外で声が聞こえた。間一髪だったみたいだ。 「うわ、なんだよこれ!」  最初は先程と同じ粗暴な男の声。それに答えるように、今度は落ち着き払った女の声がした。 「…吐瀉物みたいね」 「はあ!? ざけんなよ。ここには俺たちの他に誰もいないんじゃねえのか?」 「その筈なんだけど、妙ね」 「うわ、よく触るな。きったねえ」 「…まだ乾ききってない、ついさっきまでここにいたのよ」 「ここの中か?」  部屋に入ってくる二つの足音が聞こえる。ボクは恐怖に震える足を抑え、息を殺した。 「誰もいねえな」 「ほっときましょうよ。私達の邪魔をしない限りは無視すればいいじゃない」 「それはそうだけどよ、誰かわからない奴にうろつかれるのも気味が悪いぜ」  それはこっちのセリフだ、心で呟く。二人の言い争いが女の勝利で終わる事を祈った。二人がボクのことを手始めにこの部屋から探すなんてことになったらアウトだ。 「とにかく、今はやるべきことをしましょう。この部屋であってるみたいだわ」 「ま、そうだな」  二人がうなずきあう声が聞こえたと思うと、大きな音が部屋中に響き渡った。  何発もの銃声、木が砕ける音、そして、ピアノの奏でる不協和音。  ピアノを壊しているのだ。原型を留めないほどに、バラバラにしようとしているのだ。息を飲む。情けなく棚に隠れながらも、怒りのために手が震えた。  何をやってるんだ! そのピアノは、ボク達の歌を奏でる為のものなんだぞ!  背中に手をやり、すぐに刀を家に置きっぱなしにしてきたことに気づいた。いや、仮に刀があっても、ボクには何もできなかったろう。ボクは弱虫で、どんなに怒っていても、刀を抜いて立ち向かって行く勇気はない。  やがて音はやんだ。二つの足音が部屋を出て行く音がする。僅かに扉を開け、その後ろ姿を目に収めた。  赤いコートの女、紺色のコートの男、女はサングラスで、男はコートに顔を深く埋めることで人相を隠している。  足音が去るのを確かめ、扉を開けた。ピアノの残骸に駆け寄る。飛び散った木片の一つを手に握りしめると、怒りがまたこみ上げてきた。 「…許さない」  ボクは何もできない、でも、正義感だけは人並みにあるのだ。特に、自分と似たような人が変わろうとする瞬間に水を差されたような時には。                                                    後編に続く
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マダラマゼラン一号

その他
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