フォーラム記事

マダラマゼラン一号
2020年3月02日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 はじめに 本作「聖夜の迷い猫のブルース」は、マダラマゼラン一号の作品の中で特に「鰆町」という架空の街を舞台にした作品群である「鰆町奇譚」のうちの一作です そしてまた同時に、高校生探偵:春川早苗とその相棒のデジタル・モンスター:マミーモンを主人公とし、「奇譚」の中核をなす一連の物語「#CoffeeTownTrilogy」の番外編でもあります 舞台となる鰆町の季節は「木乃伊は甘い珈琲がお好き」と「ブルー・ジーンズの花嫁」のちょうど真ん中。12月の末、「木乃伊」の二ヶ月後です。 本作は一つの独立した短編になっておりますが、シリーズものであるために作中でのキャラクターの説明に不親切な部分が多々あります。また、登場人物を同じくし、時系列的にも後に位置する関係で「木乃伊」の重大なネタバレが含まれます。そのため、本作は「木乃伊は甘い珈琲がお好き」の後に読んでいただくことを強く推奨しております。 それでは、聖夜の鰆街に起きた小さな奇跡の物語を、お楽しみください。  東北の学校は休みが短いなんて話をよく聞く。それが単によく聞くだけの噂話ならまあまだ許せるのだけれど、少なくとも僕たちの住む町に置いて、残念ながらそれは完璧な、100メートル先だって見通せそうなほどに透き通った真実だった。  僕──つまりは春川早苗。やあ、また会ったね──の過ごしてきた学校では夏休みは八月の半ばを待たずに終わり、冬休みも年末年始の一週間ほどに小さくまとまっている。  北東北の学生たちは、関東を舞台とした──あるいは、関東から出たことがないにもかかわらず自分の想像力は無知を補うに足ると勘違いしている作家が地方を舞台にして書いた──作品で、あたかも八月の三十一日が夏休みの最終日であるかのように語られるたびに、小さく舌打ちをしながら現実を飲み下し、盆と正月の親戚の集まりが数少ない余暇を削っていくのを厭世的な笑みと共に眺めるのだ。  その後少年少女たちは、生まれた地で朽ちたり、或いはネオンと摩天楼を夢見て旅立つ。しかし、子ども時代に授かったその笑みの一そろいは誰の口の上でも緩い弧を描いている。そう簡単に隠せるものではないのだ。  僕は生まれ持ったその笑みを誰よりも生産的に使っている。事件を終えた探偵のお決まりの表情として、それはうってつけなのだ。シカゴやLAで育った探偵たちよりも、僕が唯一勝っている点だ。  ところで、そんな僕が、そのとっておきの笑みを出血大サービスで常時浮かべる時期がある。雪が降り、街がざわつく時期──クリスマスだ。  この時期は本当は学校も休みの筈なのだが、まったく残念なことにこの国には大学受験という、ブードゥー教の生贄の儀式にとても良く似た風習があって、そのために僕らは冬の東北の寒い朝に白い息を吐きながら集まり、冬期講習という名の呪術的手法でパパ・レグバへの祈りをささげるのだ。  実際、冬の朝に頬を赤くしながら集まった学生たちがホールに集められ、古文の動詞の活用やあの吐き気を催す三角関数についての話に熱心に耳を傾ける様子は、どこかキリスト教のミサのような厳粛さがあって、そんな雰囲気を僕はそこまで嫌ってはいなかった。いやまあ、大体寝てるんだけど。 「どうしたんだ? 考え事?」 「いや、トーキ・コーシューってなんか妙な儀式の名前みたいだよなって」  僕の言葉に、聞いて損したという言いたげな表情を浮かべて、青年──富田昴は手元の資料に視線を戻した。僕も関わった二か月前のあの事件で父親が不名誉極まる罪状で逮捕されたことが、月末の彼の生徒会長選にどう響くか僕には不安だったのだが、結局のところ、生徒会長になるために学園内の有力者がしのぎを削るというのは少年誌の漫画の中だけの話で、その肩書は現実においては単なる貧乏くじの変名なのだ。  化け物憑きがうようよしているこの学校でも、それは変わらなかったらしく、昴は順当に生徒会長の座に収まった。そして、彼の友人である僕はそのおかげで、冬期講習の終わった午後を、金がかからず、暖房器具と電気ケトルがある生徒会室で過ごすことができるというわけなのだ。 「コーヒーが切れた。お湯、まだ残ってる?」 「ああ」 「コーヒー作るなら、俺の分も頼むぜ」  グレーのマグカップを持って立ち上がる僕の向かいの席からとんでもなく長い腕が伸びて、僕に黒いカップを差し出してくる。深々と息を吐いて、僕は彼の方を向いた。相棒の木乃伊男──マミーモンだ。彼についての説明も省こう、どこかの誰かが、或いはいつかの僕がやってくれてるはずだ。 「マミーモン、お前人が勉強してる時に散々茶々入れてきて、まだこき使う気かよ」 「あれが勉強なら、レイモンドの小説の題も『大いなる勉強』に変えるべきだな」 「……一本取られたね」 「おいおい、推理小説の名前なんて。マミーモンまで春川に毒されたのか?」  呆れた口調の富田の隣で、僕はインスタント・コーヒーの粉を二つのカップに振り入れ、湯を注ぎ入れた。彼の後ろ側にある窓からは普段なら並び立つ家と、その背景の山々が見えるが、今日の窓は一面に結露していて、何も見えはしない。仕方なく僕は昴の机の方に視線を向けた。 「それ、生徒総会の資料? ごくろうなこったね」 「俺たちは皆の見えないところでいつも働いてるのさ。そんな俺の横で、お前は何を?」 「あ……」  僕が制止する暇もなく、彼が身を乗り出して、僕の使っていた机を覗き込んだ。そこに置かれた何枚かの写真に、彼の顔が見る見るうちに歪んだ。マミーモンのため息を皮切りに始まった沈黙を破るべく、僕はおずおずと口を出す。 「一応言っとくけど、誤解だぞ。事件の……」 「春川がエロ写真専門の探偵だったとはね。それも今度は同年代だ」  そこに置かれていたのは制服の少女のあられもない写真だった。僕は首を振って、早口で言葉を重ねる。 「未成年であることに変わりはないさ。ホントに違うぞ。頭の中がどうしようもなくピンク色なのは僕じゃない。世の中の男子高校生ども、この場合は西高三年のミウラ・トモキだ。奴は西高の体育倉庫とか空いた部室を使って……」 「もし今度俺を体育倉庫にけしかけるときは、最初にそう言ってくれよ」 「水を差すな。とにかく、奴はある一人の女の子をかかえこんで、ポン引きをしてるってわけだ」 「なんだって? ポン……」 「売春の斡旋だよ」  僕は不機嫌な声で昴の疑問を遮る。“あばずれ”だの“ポン引き”だの“売女”という言葉は翻訳物以外では、いや、翻訳物の中でも絶滅してしまって久しい。“売春の斡旋”、大仰な言葉だと思うけれど、多分僕はそう思った自分を恥じるべきなのだろう。ミウラ・トモキの罪にそれ以下の名前は付けられない。昴が僕の言葉を大げさだと茶化さなかったことは、僕には嬉しかった。 「欲求不満なクソッタレ男子どもは更衣室の硬いベンチの上でその子と寝て、なぜかミウラに金を払って帰る。僕は依頼を受けて、奴を潰すべく調査中ってわけ」  今回の件の問題は──そしてそれは同時にこの手の事件が抱える一般的な問題でもあるのだけれど──当事者であるその少女が自ら進んで身体を売っていることだった。複雑な家庭環境で育った彼女にとって、それは反抗のつもりなのか、他に何もできることがないと思っているのか。  とにかく彼女のことを心配した友人がアルバイト先でパートをしている年長の女性に相談し、たまたまその女性──坂本弥生が同居人の警察官である伊藤に相談し(坂本トキオが死んでまだ日が浅い。今の二人の同居関係は生活に困る弥生に伊藤が手を差し伸べたというだけのことであり、二人が深い仲になるには早すぎる。まあ、そうなるのも時間の問題だろうけど)、彼がまるで便利に使える子どもの使いっぱしりを呼ぶシャーロック・ホームズのように僕を呼び出したというわけだ。確かに僕は非正規の私立探偵(プライベート・アイ)だけれど、誰かの非正規隊(イレギュラーズ)では断じてないというのに。  伊藤がどう考えているのか知らないが、僕が同じ学生としてクラスメートや他校の高校生たちから自然に話を聞けると思っているのだとしたらそれは大きな間違いだ。だがそこで引き下がるのは探偵としての名折れだと、僕は皆から大いに怪しまれながら情報を仕入れ、最終的にはミウラ・トモキに接触できた。僕の自信も女性経験もない男子高校生の必死な演技に(演技だよ、演技だってば)にミウラは完璧に騙され、僕に三十分一万円で彼女をあてがうことに同意したというわけだ。まったく、あの時の奴ときたら、まるで世界の飢餓でも救っている気でいるような顔だった。  とにかく、ミウラからの電話で日時を聞いたらあとは伊藤の仕事だ。僕が駆けずり回っている間に、彼も性搾取の被害者に真摯な態度で接する器量のあるカウンセラーの一人くらいは見繕っているはずだ。 「……」  僕の話に、昴は足を机の上に跳ね上げて座っているマミーモンに目を向けた。彼は息を吐いて肩をすくめていみせる。 「全部本当だよ」 「分かった」 「昴が僕のことを深く信じてくれてて嬉しいよ」  僕が激しい口調で放った皮肉に、彼は目を伏せる。僕が渡したマグカップにぞっとするような量の砂糖を振り入れながら、マミーモンが僕と昴に交互に鋭い目をやるのが分かった。富田は息をついて、最近ではめったにお目にかからないくらいに綺麗に頭を下げた。 「悪かったよ。こういう話題に敏感になる俺の気持ちも分かってくれ。こんな風に気を使われなくちゃいけない人間にはならないように気をつけてはいるんだが、その……」 「いいよ。僕も無神経だった。話題を変えよう」 「そんな堂々とした話題の変え方があるかよ」 「マミーモンは黙ってろ。こういうのは苦手なんだ」 「知ってる」 「即答かよ」 「まあ、春川にそういう面があるのは確かかもしれないけど、俺としてはそれも……」 「富田も気を使うんじゃない。いいからさっさと話題を変えてくれ」  その言葉に昴はコーヒーを啜りながら、小首をかしげ、やがて口を開いた。 「春川、クリスマスは予定あるのか?」  その言葉に僕は盛大にコーヒーを噴き出した。マミーモンが悪態を吐いて、伸ばした包帯で掴んだ雑巾で机を拭きとる。僕はハンカチで口を拭きながら、焦りの余り裏返った声で率直な非難を口に出した。 「正気か? 口喧嘩の代わりに戦争始める気かよ?」 「なんでそうなるんだよ。別に俺は……」 「なんだ。別に探偵にはクリスマスを一緒に過ごす相手なんかいなくていいんだよ。えーと、えーと」 「一生懸命探しても、役に立ちそうな引用元はないだろ」 愉快そうに茶々を入れるマミーモンを睨みつけて、僕は舌打ちをする。 「とにかく、僕には彼女もいないし、予定も何もないよ。悪いか? 悪いのか?」 「俺は何も言ってないぞ。クリスマスだからって恋人と一緒じゃなきゃいけないわけもないじゃないか」 「正論だな」 「正論だね。でも僕は正論聞きたくて探偵やってるんじゃないんだ」 「別にいいだろ」昴は困ったように頭を掻く。 「俺だって彼女とかいないし」  その言葉に僕は大げさにひゅっと息を吸い込み、空の上で見ている聖霊か何かに裁判の閉廷を告げるように大きく手をふった。話は終わり。クリスマス・キャロルは中止だ。 「言ったな。もう戦争だぞ」 「ええ……別にいいけど」 「なんだよ。すぐにでもカタは作ってか?」 「その通りだろうが」 「マミーモンは黙っててくれ。とにかく喧嘩だぞ喧嘩」  そう言いながら僕は椅子の背に掛けた藍色のフリース・ジャケットを羽織る。少し早いクリスマス・プレゼントとして実家から送られてきた、いわくもスタイルもおよそハードボイルドとは言えない代物だが、そんなことは言わなければバレないし、これまで年がら年中着ていたウィンド・ブレーカーがこれより探偵らしく、また厳しい冬を越すのに向いているというわけでもないのも確かだった。学ランの上から茶色のトレンチ・コートを着た時のみっともなさを考えるとマスターからコートを借りるのもどうにもいけない(なんで分かるかって? うちには据えつけの無駄に立派な姿見がある。それだけで説明には十分だ。軽く試しただけなのに、マミーモンの奴、一晩中笑い転げてやがった)。 「いや、なんで喧嘩するのに上着羽織るんだよ」 「羽織った上着の前を引っ張るポーズをしたいだけだから気にするな」 マミーモンの台詞に、僕はまさに今行おうとしていた仕草を取り消して、代わりに軽く咳払いをした。 「とにかくこうなれば戦争だね」 「考え直さないか?」 「いいや。どうせ暇だったし」合気道の名人にひっくり返されるのも、このぬるい空気がこもった部屋の中でなら、いい気分転換になりそうだった。 呆れた様子で深々と息を吐いた富田に僕が飛び掛かろうとした瞬間、生徒会室の扉が勢いよく開いた。  その瞬間に僕の目に映ったモノは三つだった。一つ目はぽかんとした顔で部屋の中を見渡す初瀬奈由、二つ目は突然の侵入者に咄嗟に霊体となって浮かび上がったマミーモン、そして気を利かせた彼が掴んだ少女の写真。マミーモンが身に着けたコートなどの現実の物品は、どういう仕組みかマミーモンと共に霊体になることができるが、ただ持っただけのものは不可視になるのに時間がかかるらしい。何も知らない少女の目の前で写真がみるみるうちに宙に消えていくのはマズいと、彼は結局は、写真を掴んだ手を放すことを選んだようだった。  そんなわけで、僕が見た三つ目の事象は、初瀬奈由の目の前でぱらぱらと舞い散る、社会的にマズい少女の写真の数々だった。自分の社会性と少女の名誉の為にそれに飛びついて、風の速さで背中にそれを隠す僕に、奈由は何か言おうと口を開きかけて、また閉じた。 「ああ、えーと、どうかした?」  冷や汗をかきながらそう言った僕の頭の裏で、かすかにマミーモンの申し訳なさそうな声が響く。 ──いや、悪かった。悪かったとは思ってるが、事実は事実だ。あの女が全部見たのは間違いないし、このままだとあの女、見なかったふりするぞ、そりゃあ至極まっとうな対応だが、お前は一生釈明の機会を失うことになる。できる言い訳はできるうちにしとけ。 「……」  僕は深々とため息をついた。まったく頼りになる木乃伊だ。ちらりと背後の昴を目の端で見ると、彼も少し顔を蒼くしながらも、名誉を守るためなら火の輪だってくぐりそうほど悲壮な決意に満ちた顔で唇を噛んで見せた。 「あー、えっと、これには訳があって……」  意を決して話し始めた僕の後ろで、マミーモンが大きく一つ息を吐いた。それがくすくす笑いを誤魔化すためなのは分かりきっていた。  エロ写真の釈明だけで済む話ではない。その件の詳細を話すということは、僕の探偵としての活動を彼女に明かすことだったのだ。 ***** 「それで、早苗くんがその件を解決したってこと?」 「そういうことだ」 「待てよ富田。本当に必要なことをするのは警察だし、ミウラを捕まえただけじゃ解決なんて言えない」  昴の言葉を鋭く否定したすぐ後で、保つべきはそんな謙虚さではないことに気づき、僕は奈由の方を向いた。ココアで満たされた暖かなマグカップを持つ彼女の両手の大部分は、制服の下から覗くえんじ色のカーディガンのいささか長めの袖で覆われている。彼女の座る椅子の横にはギターのケースが置かれていて、彼女が冬期講習後の部活を抜けてここに来たことが察せた。軽音部はかなり緩い部活だと聞いてはいるが、それでも予定を返上してわざわざ部室棟から遠く離れた本校舎四階の生徒会室に来るにはそれなりの理由があるに違いない。 「……というか、驚かないんだ」 「え?」  小首をかしげてこちらを見てくる奈由から目を逸らし、僕は頬を掻く 「あ、いや、だって普通は引くでしょ。探偵って」 ──わざわざ反応に困る質問をするなよ。  一体全体どこから湧く自信がマミーモンに恋愛問題に関してこんなに知った口を利かせるのかは分からなかったが、それでも今の僕の質問が悪手なのは確かだった。奈由があの困ったような笑みを浮かべて僕の言葉を優し気に否定などしたりしたら、僕は二度と立ち直れないだろう。 「ああ、それはもう昴くんから聞いてたから」  しかし、彼女の口から放たれたのは予想のどれとも違う言葉で、僕は裏切られたことを訴えるような鋭い視線を背後の昴に送った。彼はと言えばにぱにぱとあの人好きのする笑みを浮かべたままで、自分の行いにマズいところがあったとは微塵も思っていないらしい。 「昴くんのことがあったときも、すごく力になったって聞いたの。すごいと思う」  その言葉に、僕は昴への視線をいくらか和らげる。よくやったぞ。いやでも“探偵”ってとこまで言わなくていいだろ。 ──まあ別に、今更落ちるようなイメージも元々ないだろうし、セーフだろ。  僕がマミーモンののっぽの身体でクリスマス・ツリーを作ることを考え始めた時、奈由がおずおずと口を開いた。 「とにかく、そういうことを聞いてたから、今日は早苗君に相談があって……講習の後昴くんと一緒だったし、いるならここかなって」 「え?」  僕は素っ頓狂な声をあげる。てっきり用がある相手は昴だとばかり思っていたのだ。確かに冬期講習にて行われる成績のレベルに応じた無慈悲なクラス分けに置いて、僕と昴と奈由は同じクラスだった──自慢じゃないけど一応文系のクラスじゃいちばん上だ──けれど、わざわざ僕のことを目で追うほどの理由が普段の彼女にあるとは思えなかった。でも先ほどまでの話を合わせて考えると、僕の中の何が彼女に例外を強いたのかもおのずと見えてくる。つまるところ彼女は──。 「依頼人ってこと?」    そう言ったのは僕ではなく昴だ。こんちくしょうめ、誰にでもそうやって僕の活動とか日ごろの言動を吹聴して回ってるんじゃないだろうな。  それでも、僕のいささか常軌を逸した活動と、その使命に僕自らつけたいささか常軌を逸した名前を聞いた彼女が、件の困ったような笑みを浮かべて僕と距離を取る代わりに、困りごとを相談しに来てくれたというのは、純粋にうれしかった。 「別にお金儲けでやってるわけじゃないし、“相談”でいいよ」 ──「友人として」って言え。「友人として」って言って距離を詰めるんだよ! おい! 「ほんとにいいの?」 「もちろん」 ──ったく。ま、ライブハウスに払う金で毎月かつかつの女にコーヒー奢らせるわけにもいかないしな。  仮に奢らせたとしてもお前の分はないよ。そんなことを口の中で呟く僕の前で、奈由の顔がぱあっと明るくなった。そりゃあまあ、“探偵”なんて名乗る方も名乗る方だけど“依頼”をする方もする方だ。マミーモンの助言に従うようで腹が立つけど。とりあえずそういう面倒な言葉を取り払って「友人に相談」という形になれば彼女も話しやすいだろう。 「それで事情を聞かせてもらうことになるんだけど……」 「ひょっとして、俺はいなくなった方がいいかな」 「ううん、大丈夫」 「居てくれ」  内密な話かもしれないと、気を利かせた昴の言葉に、僕と奈由の返事が重なる。富田は怪訝そうに僕の方を見て、マミーモンも茶々を入れる気も失せたとでも言いたげに深々とため息を吐いた。いや、だって無理だろ。二人きりとか、いやマジで。  とにかく、僕のそんな葛藤をよそに、奈由は胸に手を置いて、口を開いた 「そ、それじゃあ……変な話なんだけどね」  彼女のその前置きに嘘はなかった。トゥー・マッチ。奇妙に過ぎるケース。話が終わるころには、何かに物怖じする気も余裕も僕の中から消え失せていた。彼女に必要なのは、確かに探偵だった。物わかりのいい友人などでは、決してなく。 *****  初瀬奈由が住んでいるのは鰆町から少し離れた地区で、冬の期間には、普段は自転車 を使うところをバスを使って登校する。どんなに雪が積もっていようと地面が凍っていようと自転車を飛ばして登校をする思慮の浅い学生はこの高校にも多いが、奈由は違ったということだ。彼女はいつも、家近くのバス・ターミナルから学校前行のバスに乗るのだという。  そのターミナルに並ぶベンチには、毎朝早い時間に決まった顔ぶれがどんなサラリーマンたちよりも勤勉に集まることで有名だ。彼らはバスを待っているわけではないし、やってきたバスに乗って行きたいところなんてない。ただ人生という糸をつむぐ中で、不本意に特大の結び目を作ってしまい、それがたまたまそのターミナルにあったというだけのことなのだ。  明らかにその骨ばった腕には重く大きい傘をどんな天気の時も携え、ベンチに並んで夫の病気の話に興じる老いた女たち。その横でバスを待つ人々に不機嫌な顔でぶつぶつと不明瞭な言葉をまき散らす中年の男。みょうちきりんな服を着て、カゴに二つの旭日旗と大音量のラジオをつけた自転車で走り回るあたまのおかしい男──彼には広い世代に親しまれるあだ名がある。“トランジスタ・オジサン”だ。僕も彼についてはこの名前を採用しようと思う。  そんな人々のことを、奈由はそれなりに愉快そうに語った。ひとりひとりを取り出して真昼の太陽に照らして見てみたら狂人コレクションのような有様に見えるのかもしれないが、それでも皆学生たちの朝を彩る愛すべき仲間たちだ。人々がブーツに雪をつけてバスに乗り込む時期になると、人でぎゅうぎゅうになったバスの車内は解けた雪と過剰な暖房、そして学生たちが無意味にべたべたと塗りたくった制汗剤の臭いのせいで人知を超えた不快指数を示す。そんな地獄のただなかに突き進んでいくことを思えば、きりりと冷えた空気に満たされたバス停はまさに天国だろう。自転車男がカゴに括りつけたトランジスタ・ラジオの大音響も天使の歌声に聞こえるかもしれない。 「そんな人達の中に一人、綺麗なおばあちゃんがいてね」  そんなバス停お決まりのメンバーの一人でありながら、その老婦人は他の連中とは一線を画した雰囲気を持っていた。少なくとも、奈由にはそう思えたのだという。  豊かな銀色の髪に、紫がかったやさしげな瞳。どう若く見積もっても70半ばは過ぎているということだったが。体つきは見事に均衡がとれていて、老いた女性の常として身体についた肉もだらしなさや堕落の象徴ではなく、品の良い絹の衣のように見えた。着ているものはいつも上等で趣味のいいもので、そんな服と周囲の雰囲気との強烈なミス・マッチが、かえって彼女もあのバス停の一員であるという事実に説得力を持たせているのだった。  そしてそんな老婦人の常として、彼女は話し上手で、話し上手な老人の常として、彼女は道行く若者と話すのが好きだった。彼女のことを他のバス停の連中と同列に考えている学生は、いつもベンチににこにこと座っている彼女のことを気にも留めなかったが、奈由や他数人の学生は彼女との会話を楽しみにしていたのだという。 「素敵な人だよ」奈由はにこにことその思い出を語った。 「いつも笑顔だし、着ている者もすっきりしてて、いやなご老人って感じは全然ないの。髪はすっかり白くなってるけど雰囲気はものすごく若くて、でも死ぬことも全然怖がってない感じ。よく、お迎えがくるとかそんな話を笑い話にしてた。こういう人が天国に行くんだろうなって、私良く思ってたんだ」  マミーモンは首をひねっているが、僕と昴はその言葉だけでその老婦人のイメージをかなり正確なところまで脳内で結ぶことができた。奈由の語るように完璧なものは珍しいとはいえ、そのような老婦人を形成するピースは誰の周囲にも転がっているものだ。 「おばあさんの名前は?」 「わかんない」  僕の問いに奈由はあっさりと首を振った。まあそれも頷ける。そのごく小さいコミュニティにおいて、老婦人自身にとっても奈由たちに取っても、名前はきっと不必要だったろう。何せ彼女たちは平日は毎朝のように顔を合わせているのだ。 ──ちょっと危険じゃないか?  マミーモンがそんなことを言うなんて意外だ。毎朝顔を合わせる人と親しくなったって、別に大したことじゃないだろうに。 ──お前が考えてることはなんとなくわかるぞ。だが、二か月前にこの女が誰かのせいでヤバい組織に目をつけられたことを、もう忘れたらしいな。  忘れられるもんか。心の中でマミーモンに言い返しながら僕は頬の内側を強く噛む。こうやって彼女の悩みを聞く資格だって本当は僕にはないのだ。けれど、それ以上に、他の人間に憑いたのデジタル・モンスターを見ることができるのは知る限り僕だけという事実の方が重要だった。守りたい人がいるのなら出来る限り傍にいるべきだ。ま、まあ。できる、限りね。 「おばあさんはいつからそこに?」 「わたしもはっきりとは覚えてないけど、割と最近だと思う。そのせいか、他のおばあさん達とはそりが合わなかったみたい。まあ、好きな話題も全然違ったしね」  その言葉には俗っぽい話題を好む他の老人たちへの軽蔑が感じ取れた。奈由も誰かを軽蔑したりするらしい。 ──安心しろ、お前の脳内の皮肉大辞典に比べれば誰だってかわいいもんだ。 「どんな話をしてたの?」  マミーモンの言葉を聞き流し、僕はなおも質問を重ねる。さっさと核心を聞くべきではとでも言いたげにこちらを見てくる昴に、僕はしたり顔で首を振った。『それより早く要点を』は、マーロウやアーチャーも事件の冒頭でしょっちゅう使う決め台詞だが、それは相手が大体腹に一物を抱え、下手な作り話で探偵を歩えこめると思っている信用ならない連中だからだ。奈由相手には不要な台詞だろう。相手が信頼できるときには、相手の好きなように語らせた方が入る情報は多かったりするのだ。 ──お前がこの女のことをそこまで知ってるかは大いに疑問だけどな。  マミーモンの言葉を無視し、僕は奈由の言葉に耳を傾けた。 「話はちょっとしたことだよ。大体は私たちが話す側で、おばあさんは聞いてばっかり。学校のこととか、友達のこととか」  彼女は無意識にだろうか、楽しそうな表情を浮かべている。それだけその朝の時間は愉快なものだったのだろう。 「おばあさんの方から話すことは?」 「たまに。でも大体は昔のこと。家は鰆町の呉服屋さんだったこととか、ターミナルのあたりの昔の街並みの話。最近のことは全然話さなかった。昔のことばっかり。娘さんの名前と、飼ってた猫の名前しか話さなかった。その猫は昔に死んじゃったんだって」  その歳の婦人にとっての“昔”が果たして何年前のことなのか、僕には測りかねたし、それは奈由にとっても同じことらしかった。 「自分の名前は名乗らないのにそういう話はするのか?」富田が眉をあげる。 「うん、お年寄りってそういうものでしょ」  奈由はこともなげにそう答えて、ふっと顔を暗くした。その表情に僕は眉をあげ、背後のマミーモンも僕に茶々を入れるのをやめる。大切なことを語り始める人物の顔。人間はそんな顔を毎日のように、笑えるくらいわかりやすい形で見せている。人々は皆暢気なもので、毎日親しく話す相手の顔のソレだけを辛うじて読み取って、それが親密さや愛の証だと勘違いをする。頭の回らない高校生の僕と銃を振り回す半生を送ってきたマミーモンが、本格的な探偵として過ごした僅かな二か月だけで、もう簡単に見分けられるようになった程度の代物だというのに。  とにもかくにも、そんな表情を見せて、奈由は話を続けた。 「今回の件にも、その娘さんと猫が関係してるの……関係してるんだと、思う」 『ジョナちゃんが、最近、うちに帰ってきたの』 二週間前あたりから、婦人はそんなことを口走るようになったという。 「ジョナっていうのが、猫の名前か」昴は眉をあげる 「俺の聞き間違いじゃないよな。その猫は……」 「うん、死んだはず。私も気になって聞いた。やっぱりジョナちゃんはおばあさんが飼ってて、昔に死んだ猫で間違いないって」 「おばあさんは“死んだ”って言ったんだね? どこかにいったとか、いなくなったとかじゃなく?」 僕の問いに、彼女は真っ直ぐこちらの目を見て頷いた。 「間違いない。私も同じことを聞いたから。ジョナちゃんは昔に病気にかかって、おばあちゃんたちに看取られて死んだ。火葬にも立ち会って、骨も拾ったって」 ──なあ、それってつまり……。  マミーモンの言いたいことは分かっていたが、僕は軽く首を横に振ってその言葉を止めると、奈由に話の続きを促した。 「それから?」 「『アカネもよく話しかけてくるようになった』って」 「それは……」 「娘さんの名前」 「娘が話しかけてきたっておかしいことはないんじゃないか?」 「うん、そうなんだけど」奈由は少し口ごもって、逡巡するように部屋をぐるりと見回すと、また口を開いた。 「アカネさんは、“若かった”って。そんなはずない。おかしいって」  もし奈由の推測通りの年頃なら、娘も“若い”と言うには無理のある年齢に達しているはずだ。 「つまり、娘さんが若返って、よく話しかけてくるようになったと?」 「うん、二週間前あたりからそんなことを言い出すようになって、妙にそわそわしてた。普段は全然そんなことないのに」 ──なあ、言わせろよ。  僕の背後で、マミーモンがじれったそうに頭を掻いた。まあ、彼の言いたいことは分かりきっている。つまり──。 ──ばあさん、ボケちまったんじゃねえの?  その言葉に目を伏せた僕と、そして多分昴の眼にも同じ表情が浮かんでいたのだろう。奈由はかすかな失望を滲ませて息を吐いた。 「考えてることは分かるよ。でも、おばあちゃんほんとにしっかりした人で、その時までは……」 「その時まではしっかりしてた。つまりその時から始まった可能性だってあるわけだ。つまり、その……」 「認知の歪みが」富田の言葉を僕は継いだ。 「もしかしたらもっと前から始まってたのかもしれない。奈由さんが判断材料を持っていなかっただけでね。その“ジョナ”はどこかの猫──家で新しく飼い始めた猫かも、それで、最近若返って、よく喋るようになった娘の“アカネ”は──」 「私や、他の学生?」奈由は首を振る。 「二人も、そう思う? おばあちゃんがボケただけだって」  やめてくれ、そんな目で僕を見ないでくれよ。 「私もそう考えるのが自然なのは分かってる。でも……」 「ま、待って。奈由さんは変だと思ったことがあるから僕のとこに来た。話はそれで終わりじゃないね?」  僕の言葉に、彼女はこくりと頷いて、落ち着きを取り戻すために深く深呼吸をした。 「一週間前のことなの」  その日、冬休みのはじまりを前にした登校日の朝のことだった。奈由はいつものように──公正さを重視するのなら、この表現は問題ありだ。僕は彼女の“いつも”を知らないのだから。けれど彼女のことだ。期末だからって変に浮き足立ったり、それを表に出すような真似はしないだろう──バス停に立っていた。  バス停には例によって例のはみだし者クラブが集まっていて、彼女の記憶によれば誰かが欠けているということはなかったらしい、彼女が出くわす時間に通りかかるかどうかはいつもは五分五分と言ったところのトランジスタ・オジサンもその日はちゃんと通りかかったほどだ。    それとは対照的に、謎の老婦人を囲む学生はその日は奈由しかいなかった。もっとも、学生たちの集まりは普段からまちまちと言ったところだったらしい。婦人とゆっくりと話し込むには、始業時間に間に合うためにぎりぎりのバスの時間よりも大分早くにターミナルにいなければならない。彼らが冬の朝に素性も知らない人物への忠誠よりも、暖かな布団の中で過ごす時間の僅かな延長を取ったとしても、責めるわけにはいかないだろう。  とにかくそんなわけで、その朝、奈由は老婦人と二人で話していたのだという。 「その日はおばあちゃん、最初から様子がおかしかった」  彼女はその日は特にそわそわと落ち着きがなく、ベンチの前に立った奈由の持った紺色のスクールバッグがゆらゆらと揺れる些細な動きさえ、どこか目障りそうに見ていたらしい。 と、次の瞬間、彼女の眼が奈由の背後に注がれた。  驚いたような、それを通り越して恐怖するようなその瞳に、奈由は思わず振り返ったが、そこには何もなく、ただバス停沿いの道路があるだけだった。 「おばあさんは何か言った?」 「いいや、なにも、ただ何か呻いて、声が声にならない感じだった」  すうっと僕は息を吸い込んだ。「それから?」 「それから、おばあさん、急に立ち上がって、バス停に並んでた人達を押しのけて、その時来てたバスに乗り込んじゃったの。何かから逃げるみたいに」 「どこ行きのバス?」  そのすぐあとに、その質問に意味は殆どないことに気が付いて、僕は言葉を変えた。 「えっと、彼女は、そのバスの行き先に注目してた? 君の印象で良い」  僕の質問に、何故だか面食らったような表情を浮かべながらも、奈由は首を振る。 「そんなことはなかったと思う。小さいターミナルだし、どこに留まるバスがどこに行くかくらいはおばあちゃんにも分かったと思うけど、行き先はどうでもいい感じだった。その場所から離れたいだけって感じ」 「君には何か言った?」  その質問にも、彼女は首を振った。 「バスに乗ってから、後ろめたそうな感じでこっちを見てきたけど、それだけ」 「それで、その日以降──」 「うん、おばあちゃんはバス停に来てない」 ──早苗、勝手に話の先を読んだ気になって、依頼人の語りを歪めるのはご法度だ。少しテンション抑えろ。  マミーモンの言葉に、僕は少し息を吐いて落ち着きながらも、彼女の話の続きに耳を傾けた。まだだ。まだただのボケ老人の話に過ぎないかもしれない。でも、彼女の眼の奥にはまだ何かある。まだ何かある。 「それから、何が起こったんだ?」 「あ、えっと、えっとね。ここからがすごい変な話なんだけど……」  その朝に起こった突然で劇的な出来事に、奈由はしかし、そこまで困惑はしていなかった。確かに妙な話ではあったが、しかしそれでもそれは朝の数十分の中だけの話なのだ。彼女にも、他の学生にも、その後に長い一日が待っている。老婦人との会話は愉快な非日常ではあるが、非日常とは彼女にとって常にレーンの外にあるものなのだ。たまにレーンを外れることは楽しいもので、けれどいずれはレーンに戻る。  とにかく、そんなわけで、彼女はちょっとした疑念を抱きながらも、その朝のことは思考の外に追いやってしまったし、そんなわけだから、僕も特別彼女のことを非情だなんて思わない。。まあ、どんなに素敵な服を着ていてもその老婦人が掛け値なしに妙な人物であることは周囲の感想を聞かずとも彼女は理解していたし、そんな人物の周りでは妙な出来事だって起こるだろうと考えたのかもしれない。  けれど、“妙な出来事”は、老婦人の周りだけにとどまらなかった。 「その日から、私の周りで変なことが起こり始めたの」  その言葉に僕は身を乗り出した。 「例えば?」 「いろんなこと。通学路を歩いてると、木や建築現場のパイプが落ちてくるようになった。私のすぐ近くに、当たったことはないけれど」  それは不可思議ではあるがあまりにも月並みで、この件について何も示唆してはくれない。僕はため息を吐きそうになったが、背後の昴が奈由に心配の言葉をかけるのを聞いてそれを引っ込めた。 「他には、果物とか魚とかそういうものが置かれてたりするの。自転車のかごとか、家の前とか、他にも私の目につくところ」  なるほどね。それはかなり特殊だ。 「それに……猫の死骸も」  その言葉に、僕は眉をあげる。 「写真は撮った?」 「え?」 「猫の死骸だよ。知りたいんだ。どんなふうに死んでたのか。そこらにある死骸を持ってきたのか、それともわざわざ殺して君のとこに……」 「撮ってないよ、近くの林に埋めて、それで終わり。ねえ……」 「じゃあ思い出せる? どんなふうに死んでた? 思い出せるはずだ」 「春川!」  昴の鋭い声に、僕は思わず口の動きを止めた。その隙を見計らって、マミーモンが話しかけてくる。 ──早苗、落ち着けよ。昴の親父を問い詰めた時と同じ顔になってるぜ。その顔は誰にでも見せるもんじゃない。レベル5の事件に取っときな。  この依頼はレベル2か3程度だって? まあ、話だけ聞く限りじゃそうだけど、展開によっては……。 ──お前が何を考えてるかは分かるから言うがな。そういう話じゃねえ。それは惚れてる女に向ける顔じゃないってことだ。 「え……」  マミーモンの言葉に僕は奈由を見る。彼女が向けてくる怯えた視線(相手にドン引きしても目は逸らさない器量の持ち主らしい)に、体中の血の温度が五度も下がった気がした。慌てて彼女から目を逸らし、冷めたコーヒーを一気に喉に流し込む。 「ご、ごめん。熱くなっちゃって」 「ううん、いいの。大丈夫」 ──ったく、お前、自分で思ってるよりもずっと探偵向きのアタマしてるぜ。  マミーモンの言う通りだ。どうも僕は面白そうな事件のこととなると周りが見えなくなるところが多分にあるらしい。前の事件の時は主な話し相手がちょっとアレな喫茶店店主とかちょっとアレな不良警官とか、或いは数多のアレなデジタル・モンスターだったからそれでもよかったが、学校で同級生の依頼を受けていくにあたって、そういう所は改めないといつか何かやらかしかねない。というか今のがそのやらかしなんじゃないのか、およそ一番やっちゃいけない相手にやらかしてしまったんじゃないか?  “失敗するのは人の常だが、失敗を悟りて挽回できる者が偉大なのだ”とかなんとか、あのクソッタレのシャーロックは言ってたけど(彼の言葉としてはあまりに月並みに過ぎて、僕は嫌いだ)失敗から学ぶにはもうだいぶ遅いんじゃないのか。ホームズか、或いはピーター・ウィムジイ卿ならもっと女性のこともやさしく、丁重に扱うに違いない。まったく、自分にあきれてものも言えない。 「……ほんとにごめん」 「大丈夫だったら」  僕の必死の謝罪に苦笑して首を振りながらも、奈由はどこか怯えた表情のまま言葉を重ねる。 「早苗くんの言う通り。覚えてるよ。忘れられないもん。あれは──」 ***** 「──大きな爪で引き裂かれたみたいだった。ねえ」  帰り道、背後で息を吐くマミーモンのことを、僕は非難がましい目で見上げる。もう奈由や昴とも別れ、僕はトレンチ・コートを着て実体化したマミーモンと共に、すっかり暗くなった学生マンション近くの道を、近くの学生向けの安食堂に向けててくてくと歩いていた。食事は自宅でなるべく簡素に済ませ、浮いた食費を喫茶店での珈琲代に当てるのが常だったが、無数の考え事と共に街灯がおとすミルク色の光が形作る、僕と相棒の影を見ているうちに、僕の貧相な脳みその中から料理に必要な空きスペースはきれいさっぱり消え去ってしまっていた。 「おい、さっきからそうやってため息ついてばっかりだ。どうしたんだよ?」 「いや、なんでもないが、あの女の話は何ともなぁ……」  僕は立ち止まってマミーモンを見上げる。彼はとても背が高く、その顔を見上げるためには、僕は顔を目いっぱい上に向けなければいけなかった。 「生徒会室では彼女を擁護してたじゃないか」 「どっかの強引な探偵の強引な聞き込みから少女を守っただけだよ。話自体は妙だ」 「僕の個人的な感情を抜きにしても、奈由さんは事件の語り手として上の上だったろ」  僕の言葉に、マミーモンは渋い顔で首をひねる。 「そうか? はっきりしない言葉が多くて、俺にはどうも、詩でも聞かされてるみたいだった。大体そのばあさんの件と、あの女に起きてるっていう妙なあれこれに関係があるなんて証拠は……」 「でも彼女はそう思った。それが大事なんだよ。確かにシャーロック・ホームズならそういう話は嫌がるだろうけど。あ、ホームズって言っても原典じゃない。“SHERLOCK”の……」 「あー、わかったわかった。依頼人の好きに話させるのは構わないが、自分まで長話する必要はねえだろ。さっさと本題に入れ」  その言葉に、僕は得意げに指を一本立てた。 「とにかく、僕にとっては彼女の“詩”こそが事件への招待状なんだ」  先の事件は僕に多くの喪失感を残していったが、それだけでなく、多くのものを与えてくれた。僕の捜査手法の確立というのも、その一つだ。先人に例えるならロジャー・シェリンガム。マーロウのようによく動く足を持ったロジャーだ。  人々に語りたいように語らせ、その言葉選びや息遣い、表情から隠された真実を読み取る。そんなアンチ・ホームズ的手法の一点において、ロジャーは僕の大好きな探偵だ。もっとも、彼が事件を奥の奥まで解決できることは少なくて、大抵は意地悪な作者であるバークリーによってずっこけ探偵に仕立て上げられてしまうのだけれど。幸いなことに僕にはそういう悪趣味な大いなる存在の影響はない(ないよね?)。 「とにかく、僕にとっては彼女の話の主観的な部分こそが大事なんだ。おばあさんの失踪と妙な事件の数々の二つを彼女は結び付けて考えた。彼女がそう考えたことこそが、いちばん大切なことだ」  熱っぽく語る僕に、マミーモンは肩をすくめて、再び歩を進めはじめた。その大きな背中に、僕は声をかける。 「とにかく。今回の依頼人は僕の知人だ」 「ポイントを稼ぎたくて仕方のない知人、だな」 「うるさい。もちろん事実確認をする必要はあるけど、当分は彼女の話が真実で、所感が当たっているという前提で調査にあたる」 「オーライ。元々そっちの方はお前の担当だ。お前が方針を決めているなら文句はねえよ」 「なら、話は決まりだね」 「ああ」 「……」  いつまでも歩き出さない僕に、マミーモンは首をかしげる。 「まだ何かあるのか?」 「いや、なんというか……」  僕はジャケットのポケットに手を突っ込んで真白い息を吐いた。 「今日みたいに僕が、奈由さんになにかダメなことをやらかしそうになったら、ぶん殴ってでも止めてくれ。頼む」 「……」  呆れたような顔でこちらを見て、マミーモンはにい、と唇を引き上げた。 「なら代わりに、今晩の夕食、俺の分も頼むぜ」 「……はあ?」  それだけ言って振り返り、大股でつかつかと歩み始める彼を、僕は慌てて追いかける。 「おい、決めただろ。お前の食事は週に一回。食わなくてもいい霊体の為に毎日のメシ代は費やせない」 「例外を認めるからボーナスになるんじゃねえか」 「だからって食堂を使う時じゃなくても……そもそもこういう外食の時はいつもお前にも分けてるだろ」 「カラアゲは食べたし、ギョーザってのも食べたから、今日は……“レバニラ”だ」 「なんで木乃伊がそう肉を食うんだよ。日本の即身仏かなにか見習って、漆でも飲んでたらどうだ?」 「とにかく今日はそれで決まりだ。いいな?」 「ああ、もう、分かったよ……」  自分の分はメニューの中で一番安いラーメンか何かにしようと、食事計画を大幅に練り直し始めた僕のポケットの中で、スマートフォンがメッセージの通知を告げるバイブ音と共に振動した。その音を耳ざとく聞き取り、マミーモンが振り返る。 「メッセージの着信をオンにしたか。ハルカワ・サナエには大きな一歩だな」 「いちいちうるさいよ。……奈由さんからだ」  そう言いながらSNSアプリを起動し、彼女から届いたメッセージを開いた瞬間、僕は大きく息を吐いて目を画面からそらした。そして、歩いてきた道を早足で引き返し始めた僕を、マミーモンは驚いて声をあげた。 「どうしたんだよ? メシ行くんじゃねえのか」 「食欲が失せた。気になるんなら、大喰いの木乃伊にもおすそ分けだよ」  僕の示した画面をまじまじと見つめ、彼は息を吐いた。 「なるほど、ばあさんの話と関係あるかどうかにしろ、あの女に起きてることはただ事じゃないってわけか」  僕の後に続いて、マミーモンが踵を返してついてくる、その足音を聞きながら、僕はもう一度、奈由の送ってきた写真に目を落とした。 無残に切り刻まれた、大きな猫の死骸、それが二匹分。赤い血と臓物から、それが最近殺されたものだと容易に推察できた。 「なあ、本当は死体をそのままにさせとくべきなんだろうが……」 「分かってる」  マミーモンの言葉を背中で聞きながら、写真を送ってくれた感謝と、死体を処分しても構わないという旨をテキストにして彼女に送り返す。画面の向こうで、奈由も同じようにげんなりした顔を浮かべているのだろうか。できることなら、傍にいてやりたかった。彼女にとってそれが意味あることかは分からないが、そう思った。  けれど、今は僕には何もできない。探偵の僕が彼女の助けになれるのは、明日の朝、捜査に取り掛かってからだ。  だから僕は、せめて死骸の写真を撮るように詰め寄った僕に写真を送り付けて食欲を奪うことがで、彼女の気分がいくらか晴れていることを祈った。  何もできない探偵が、代わりになれるものが一つだけある。ヨーロッパの逸話の中で、ぼろをまとって、自己犠牲に死んでいく聖人だ。まったく、この季節にぴったりじゃないか。そんな考えと共に僕はもう一度、冬の夜に白い息を吐き出した。
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マダラマゼラン一号
2019年12月28日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy  三月九日 宇佐美司 「──っ!」  何者かが彼女と僕の結婚について調べているというニュースを聞いたのち、落ち着けずに詩集のページを手で弄んでいたぼくの隣で不意に二匹の蜂が、声にならない声を上げて飛び上がった。ぼくは肩をびくりと震わせ、サヌキとイナニワに目を向ける。 「どうしたんだ?」 「“88コール”です。ゴトウから」 「ほんとに久しぶり。ヤバいんじゃないの」 「なんだいその、はちはち……」 「わたし達の間で使われてる連絡手段よ。いくつかのサインを働き蜂みんなで共有するの触角の色といくつかの数字の組み合わせ。中でも“赤の88”は敵対意思との緊急性の高い接触──要するに、戦闘」  その言葉に、ぼくは眉をひそめる。戦闘、現代日本で生きていたらおよそ聞くことのない言葉だ。ただ、ぼく自身の曖昧な実感以上に、突然鋭くなった二対の目が、事態の切迫を告げていた 「ただの尾行の筈だろう。なんでそんなことに……」 「はっきりとは分からないわ。でも、ゴトウの報告によれば、相手に撒かれて、その上で尾け返された」 「人が? 君たちを尾ける?」  イナニワの言葉にぼくは素っ頓狂な声を上げる。サヌキたち働き蜂は空も飛べるし針もある。その気になれば人間に見えないように姿を消すことだってできる。かく言うぼくも彼女たちによってあっという間にここに拉致されてしまったのだ。そんな彼女たちがただの人間に気づかれるわけもないし、追い掛け回されてメーデーを発する必要に迫られるなんて夢にも思えなかった。  そんなぼくの疑問に、サヌキが重々しく首を振る。彼女たち働き蜂は性格は各々違うのに、こんな風に問答をすると、みんなで一つの意思を共有しているかのように振る舞う。イナニワも、サヌキの答えが自分の答えだと言わんばかりに黙っていた。 「ゴトウの報告では……相手も、わたし達と同郷の者だということでした」 「……つまりは、怪物?」  漏れ出る言葉が、死体のように冷えているのが自分でもわかった。サヌキの話では、彼女のようなモンスターは人間世界の外からの来訪者らしく、彼女たち以外にも色んな姿の者たちがこの世界に忍び込んでいて、それと同じ数だけ、ぼくのようにモンスターに取り憑かれた人間がいるらしい。そう、つまりはぼくと同じような──。 「君らが尾行してた奴も“雄蜂”ってことかい?」 「つまりは、そういうことになります」 ぼくは深くため息を吐く。 「……それで、君の仲間たちは、そいつと戦うのか。危ないだろう。やめてくれ」 「なんか勘違いしてるみたいね。事の発端はあなたの頼みだけど、戦闘命令はあなたのものじゃない。女王のもの、わたしのもの、わたしたちのもの」  イナニワが冷たい声を出す。背筋を冷たい汗が伝った。 「じゃあ、どうあっても戦う?」 「そうなります。制圧するとまではいきませんが、とにかく尾行を中断させなければいけません。この場所が知られてはいけませんから」 「……君たちに言うことに意味があるのか分からないけれど、気をつけて、」  ぼくの言葉に、サヌキは心底不思議そうな、何を言っているのかわからないと言いたげな調子で首をかしげた。その調子に、ぼくは突然、この場から逃げ出したくなった。恐ろしさに体が震える。  彼女たちはぼくとおんなじ言葉を話す。けれど、それでも彼女たちは蜂なのだ。群れる生き物で、自分たちの命に興味はない。必要なのは巣の維持、巣を統べる女王の目的。 蜜蜂がどんなふうに外敵を倒すのか、その知識を、ぼくは頭から追い払った。      *****  三月九日 マミーモン 「……おいおい、こりゃあどういうことだよ」  追跡者を撒いたうえで尾け返したその道、路地につながる角を曲がったその先で、マミーモンは深々と息を吐いた。その角の先は昼間でも薄暗い、人気のない路地で、彼と春川も町の小悪党と話す時に足を踏み入れたことがある。あそこなら騒ぎになることを気にせず、少々手荒な方法に訴え出て追跡者を捕らえることができる。そう思っていたのに──。 「ファンビーモンが一体、二体、三体……何体だ?」  路地をびっしりと埋め尽くしていたのは、巨大な蜂の群れだった。その小さな羽ばたきの音が集まり、空気を、地面を、マミーモンの心臓を酷く震わせている。ファンビーモンは成長期、マミーモンにとっては取るに足りない相手だ。 「本気でやりあおうってのか?」  彼の言葉に、蜂の群れは無言で羽を震わせる。威圧の構え。立ち去れと言うシンプルなメッセージ、そういう野生の掟に従ったやり方は、マミーモンにとっても久しぶりで、おまけに懐かしいものだった。  まあ、俺にとっては昔の話だ。 「なあ、俺だってことを荒立てたいわけじゃない。ちょっと話をしたいだけだ。そうすれば、あんた達だって傷つかなくて済む。穏便に行こうじゃ……うおっと」  マミーモンは言葉をきり、咄嗟に飛びのく。足元のアスファルトに食い込んだ針を一瞥し、彼は舌打ちをした。 「分かった、分かった。分かったよ。そっちが先に撃った。その意味は、分かってるよな?」  彼は腕をだらりと下げ、その鉤爪に紫の稲妻を走らせると、地面を蹴った。     *****  マミーモンは“死霊使い”の種族だ。  この世界において、死んだデジタル・モンスターたちの残存データは、多くの場合そのほとんどがどこかに流れ込み、新たなモンスターの構成データになる。  しかしその中の一部は行き場を失い、大気に混じって残存することになる。そのエネルギーを集め、エネルギーに変えるのが彼らの死霊術──〈ネクロフォビア〉だ。死霊から取り出したエネルギーの表出の仕方は、“死霊使い”の個体のイメージそれぞれに依存している。自分の辿り着く進化の袋小路を見据え、毒の霧を選んだり、蝙蝠の群れを選んだり、或いは単なる黒いオーラの形をとることもある。  そんな中で、マミーモンが選んだ力が雷だった。元より彼は同種の仲間に比べて“死霊使い”としてのポテンシャルにかけていて、霧を撒いたり闇の手を伸ばしたりすることはできない。それをカバーするための近距離戦闘を主体とした戦闘スタイルをカバーするためのものとして、紫電はうってつけだ。才能の欠如を誤魔化していると周りの仲間から揶揄されることはあったが、その電撃は彼の誇りだった。 「(そんな俺が、この力を選んだことを後悔する日が来るなんてな)」  彼は自嘲気味に唇を歪め、背後から迫るファンビーモンに回し蹴りを浴びせる。その足にはきっちりと紫の電撃を走らせていて、一撃に乗る威力は凄まじい。彼はこれで何体もの強力なデジタル・モンスターを──時には格上の相手さえも──屠ってきたのだ。  この世界に来て、春川と共に探偵をするようになってからは、この力は攻撃の手段としてだけではなく弱い電圧で相手を拘束するのにも役に立った。彼は今回もその要領でファンビーモンを一網打尽にして、自分たちを尾行した事情を吐かせようとしていたのだ。  しかし今、蹴りを受けたファンビーモンは、地面にたたきつけられはしたものの、打撃そのもののダメージしか受けていないようだった。ファンビーモンは雷の力を利用するデジモンの系譜にいる種族。稲妻に多少の耐性があるらしい。 「(電圧を上げたら加減を間違っちまいそうだし、そもそもこの数に格闘は無理があるか……成長期を殺すのは気が引けるが、このままじゃ俺が危ないな)」  ファンビーモンは次々とマミーモンに群がり、しがみついてくる。数でこちらを押さえつけようという魂胆らしい。こちらの世界に来てからの彼は、春川の相棒として無用な殺しは避けるようになっていたが、もとより決死の覚悟を決めた相手だ。いくら大きな力量差があるとはいえ、こちらが手加減をしたらすぐに手詰まりになりそうだった。 「悪く思うなよ」  彼は手を一振りして、マシンガン“オベリスク”を呼び出す。五カ月前の戦いでスクラップと化したこの武器もどうにか直り(普通物は勝手に修復されないって早苗はしつこく言ってくるけど、んなこと俺だって知らねえよ)、問題なく扱えるようになっている。街中での乱射は早苗に怒られそうだが、他に手があるわけでもない。 ──ねえ、ちょっと待って。  不意に頭の裏側で声が響き、彼は目を見開いた。その一瞬のすきに群がってくれうファンビーモンをマシンガンを振り回して払いのけながら、彼は叫ぶ。 「サイバードラモンか? わりいが今手が放せな──」  サイバードラモン、五カ月前の事件でマミーモンが戦い、殺したデジモンの一体だ。マミーモンにとっては厄介なことに、現実世界で殺したデジモン達のデータはその全てが大気中に霧散したままらしく、“死霊使い”相手にかなり流ちょうに喋ったりするのだ。強い因縁──例えば殺したり殺されたりとか──を持つ相手の声なら、彼のように才能の無いネクロマンサーにも聞こえてしまうらしい。 ──まあ聞いてよ。 「うるせえな。人が忙しい時に後ろからぐちゃぐちゃ喋ってくるってのはどういう料簡だよ」  既に彼の腕には何本かの針が撃ち込まれている。咄嗟に体を覆う包帯を硬質化させることで皮膚を突き通すことは避けられたものの、そのぎざぎざとしたかえしのついた刃が体に食い込むことを考えるだけで、思わず目を瞑りたくなる。 「で、なんだ? 頼むから俺が体中刺される前に言えよ」 ──彼ら、キミに纏わりついてるファンビーモンのことだけど。あ、いや、彼女ら、かな? 「どっちでもいい! さっさとしろ!」 ──じゃあ彼女らで。彼女らはウィルス種だ。で、キミは彼女らを効率的に鎮圧しつつ、かつ殺したくない。 「……分かってきたぞ」 ──そう、じゃあボクを……。 「ああ、やり方は知ってるさ」  彼はにひりと笑い、右手を持ち上げると、指を鳴らす。その腕を紫電が駆け抜け、次の瞬間、その手には、黒く輝くリボルヴァ―が握られていた。 「さあ、いこうぜ。撃たれる覚悟はできたかよ?」      三月九日 春川早苗  マミーモンと別れた後、僕は人の多い商店街の方面に向けて歩を進めた。結婚式場の辺りの地理には明るくないが、追跡者を振り切るための策はいくらでも思いついた。 早足で角を曲がると、県道沿いの道に出る。ここは鰆町商店街からは大きく離れた、駅に至るまでの道で、インスタントな色調の道路を、インスタントな色調の鉄の塊が、サバンナを走るヌーの群れのように走っている。  申し訳程度に植えられた街路樹から垂れ下がる枝をよけながら、僕は歩調を早める。この道は見通しがいいから、何度か振り返ってやれば、追跡者も距離を取らざるを得ないだろう。そんな風な期待と共に、僕は視線の照準を道路沿いに並ぶ建物に合わせる。マクドナルド、焼き肉屋、ファストファッションの店、ドン・キホーテ、家具店、そしてまたマクドナルド。それを見届ける終わるころには、足は交差点前の横断歩道に差し掛かっていた。後ろに注意を向けつつ、スマートフォンをいじるふりをしながらも、僕は十メートル先の歩行者信号をじっと見つめる。まったく、自分にこんなマルチタスクができるなんて一年前は知りもしなかった。  歩行者信号が青に変わっても、最近の若者である僕はすぐには気づかない。ほら、こうしてスマートフォンをいじっているうちに、信号は点滅し始める。 スリー、ツー、ワン。小さな声でカウントをとり、僕は歩き出す。うまくいけば、僕が横断歩道を半分渡りきるくらいのところで信号が赤になるはずだ。背後で距離を置いていた男が慌てて走り出すのが、スマートフォンの内カメラ越しに見える。しかしながら、僕が渡りきるころには信号はすっかり変わっていて、僕と追跡者の間には、無数の金属製のヌーの群れが横たわっていた。  さあ、走れ。僕は厚手の靴で地面を蹴る。交差点の先にはスーパーマーケットがあって、追っ手を撒くのにはうってつけだ。信号が次青になるころには、追跡者の目を振り切れるだろう。  やたらと広い駐車場に飛び込み、家族連れの奇異の視線を一身に集めながら、立ち並ぶ車の屋根に隠れるように身をかがめる。  僕の目の前に、ワゴン車の助手席で退屈そうに外を眺めていたトイ・プードルが顔を出し、愉快そうに前足で窓を小突いてきた。僕は苦笑して、唇に指を当てて見せる。君はバニー、僕はラッフルズ。頼むから静かにしててくれよ。  車の窓を通して、僕の目が追跡者を捉えた。マスクをしたその男は、きょろきょろとあたりを見回し、その広大な駐車場に早々に諦めたらしかった。スマートフォンのカメラで遠目からながら彼を撮り、僕は唇を引き上げる。元来た道を引き返していく彼の背中も写真に収め、僕はトイ・プードルにウィンクした。 「よし、それじゃ尾行し返すとしようか。バニー、良ければまた会おうよ」      三月九日 マミーモン ──────────────────  五カ月前、彼はその拳銃を手に入れた。  スミス・アンド・ウェッソン M36 “チーフ・スペシャル”。  紫電に次ぐ新たな〈ネクロフォビア〉のかたちとして、彼が手に入れた力だ。 「なんで、俺の銃がこの形になったんだ?」  人間の使う銃のことなんか知らねえのに。五カ月前の事件の後、閉店後の〈ダネイ・アンド・リー〉のカウンターで銃をいじりながら、マミーモンはふとそう呟く。それを危なっかしそうに眺めながら、マスターが笑う。 「有名な銃だ。沢山のドラマを持ってる。君のそれは改良後の銃身が長いタイプだね。V.I.ウォーショースキーも使ってる」 「そしてもちろん、フィリップ・マーロウも」  マミーモンの隣で、気のない調子で早苗が言う。その様子にマスターは眉を上げた。 「おや、銃は嫌いかい?」 「まあ、あんまり。拳銃は、ハード・ボイルドの象徴ではあるけど、本質じゃありません。それにその銃を見ると、ハーヴェイを思い出します」 「誰?」 「マスター、『深夜プラス1』は読んでないんですか?」  首を振る彼と怪訝そうに話の続きを促すマミーモンに、早苗は微笑む。 「ハーヴェイ・ロヴェル、ヨーロッパで三本の指に入る凄腕のガンマン」 「最高じゃねえか」 「グリップを改造しただけのm36を使ってた」  ハーヴェイは孤独で儚げな男で、ごてごてと改造の施された旧時代の銃を使いハード・ボイルドな雰囲気を漂わせる主人公とは、コンビを組みながらも終始対比的に描かれる。 「酒におぼれがちで、破滅的な男だった」 作品の結末を想い、僕は息を吐く。 「ちょっと、不安だよ」 彼の言葉に、マミーモンはからからと笑う。 「大丈夫さ。それに、どっちにしたって、今、こいつは撃てない」 手の中で銃をくるくると回し、収めながら彼は言う。 「どういうことだい?」 「こいつも結局は〈ネクロフォビア〉の産物さ。撃つのは世界に漂う死霊だ。だからこの弾丸は。不死者にも届く。ネオヴァンデモンにだって傷をつけられる」 けれど。彼は続ける。 「今のとこ、こいつの弾倉は空っぽだ。五発全部な」 彼が親指を滑らせると、その円柱状の弾倉は小気味よく、しかし軽い調子で回って見せた。 「でも、ネオヴァンデモン相手に撃ったんだろ?」 「まあな。でもこいつは探偵の銃として生まれた。最後に誰かの話を聞く者の銃だ。結果として、どこかの誰かと同じで無駄にこだわりが強くて融通が利かない」 「聞こえないね」 「面倒くさく仕上がったこいつは、しっかりと対話をして、協力をしてくれる気になってくれた死霊の力しか使えないんだ」 「撃つのに弾丸の許可がいる銃?」  顔を見合わせて呆れたように笑う早苗とマスターに、マミーモンは肩をすくめた。全く厄介極まりないが、そういう仕組みだから、落ちこぼれの“死霊使い”でも強力な弾丸を撃てるのだ。 「あの時はネオヴァンデモンという共通の敵がいたから、三体とも力を貸してくれたが……」 「何もなくちゃ、ブラックラピッドモンやデスメラモンが力を貸してくれるはずもないか」 事件の中で二人にと殺意むき出しで襲い掛かったでしたル・モンスターたちの名前を挙げながら、早苗が息を吐く。 「今後対話をする予定は?」  マミーモンは息を吐いた。 「どうにかやってみるさ。まずは、どうにか話が通じそうなやつからな」 ────────────────── 「あの頃は簡単に協力してくれると思ってたが、お前も案外強情だったな」 ──ボクを見くびられても困るなあ。サイバードラモンはウィルス種と分かり合えない。そういう風にできてるんだよ。  拳銃を手に、虚空に声を放るマミーモンに、頭の裏からサイバードラモンが声を返す。 その声に向けて、彼はうんざりしたように息を吐いた。 「強がりはよせよ。俺相手に本気の一つも出せなかったくせに」 ──君にはボクの機構に引っ掛かるような悪虐さがなかったんだ。この世界に来るデジモンはみんなその種に本来あるべき何かが欠けた“落ちこぼれ”。キミもそうだっただけの話さ。 「死に際の独白は忘れてないぜ。お前の機構がまともに動いてないだけだろ」 ──かもね。結局ボクらはこの世界に逃げてきた落伍者なのさ。 「俺はそうは思わないね」 ──え?  マミーモンはにやりと笑う。 「俺は自分の意思でここにきて、ここで自分の意思で探偵をやってる。お前も今、自分の意思でこうして、この虫どもの命を救おうとしてる。俺たちはこの世界に逃げてきたんじゃない。羽ばたいてきたんだ。俺にいわせりゃ、お前は周りの奴より少し優しかった。それだけさ」 ──へえ、なかなかロマンチストなんだ。 「うるせえ」 肩をすくめるマミーモンの前で、ファンビーモンたちが威嚇するように羽を震わせる。 「さあ、奴さん達も待ちくたびれたらしいぜ。いくぞ」 ──オーケー。キミの五つの弾倉の一つ、埋めさせてもらうよ。  その言葉と共に、マミーモンのチーフ・スペシャルがずっしりと重くなる。彼は唇を引き上げ、銃を構えた。 「──さあ、力を貸せよ」 ──オーライ。  ウィルスを殲滅できない出来損ないのサイバードラモン。でも、彼は少し優しかっただけだ。マミーモンはそう考え、そうして、彼の言葉に、想いに応えた。それが彼が相棒から学んだ探偵の流儀だ。  飛び掛かってくる蜂を見据え、彼は引き金を引く。その銃弾は本来そうあるべきであるようにまっすぐ進むことなく、一筋の閃光となって、ぐにぐにとした軌道を描きながら蜂の群れの中を突き進んでいく。  第一の弾丸──救済の鉤爪(イレイズ・クロー)。  次の瞬間、無数の蜂たちは、光の糸によってみなじめじめとしたアスファルトに縫い付けられていた。ぶるぶると無様に羽を震わせる蜂たちで埋まった路地を見渡し、マミーモンは満足そうに息を吐く。 「ウィルス種に対して滅茶苦茶に効くけど、殺しはしない弾丸か。便利なもんだな」 ──ボクもこううまくいくとは思ってなかったよ。 「とにかく、こいつらに話聞かないとな。これだけ数がいたら手がかかる……」 彼がそう言った瞬間だった。じたばたと身動きをしていた蜂たちが皆、観念したように動きを止めたかと思うと、身をよじりながら──。 ──周りの仲間に、自らの針を突き刺した。 「──ッ! おい!」 ──もう一度! 撃って!  一つの機械のように統率された動きで仲間を殺していく蜂たちを呆然と眺めるマミーモンの頭の裏で、サイバードラモンが叫ぶ。その声に弾かれたように彼がとっさに腕を持ち上げ引き金を引くと、銃口から伸びた光の糸が一匹のファンビーモンを救い上げた。同胞の針を逃れたその蜂が彼の手元に戻ってくるときには、目の前にいた蜂の群れはみな塵となって消えていた。マミーモンは呆然と、再び静寂に包まれた路地を見つめる。 ──一体しか救えなかった。 「……上出来だよ」 ──だといいんだけど……。  その言葉を残して、サイバードラモンの声は冬の空に消えていく。息を吐いて、彼は手元でじたばたと暴れるファンビーモンに目を向けた。その蜂はくりくりとした目を彼に向け、甲高い声でわめく。 「放してよ! わたし、ここで死なないとえらい目にあわされるんだから!」 「だれにだ? その辺を場所を変えてじっくり聞きたいな」 「いいから! 放して! 死なせてよ!」 「こいつら、一体何なんだよ……」  マミーモンはため息をつき、トレンチコートの襟を立てる。それを見て、ファンビーモンはまたわめきたてた。 「何よカッコつけちゃって! 私を引っ張ってくだけでしょ!」 「分かってねえなあ。探偵が襟を立てるのは、ことが終わった後なんだぜ」  彼はそう言って、死に満たされた路地を一瞥し、踵を返すと、息を吐いて立ち去った。  三月九日 春川早苗  尾行することと尾行されること、果たしてどちらが楽なのか、実経験をもとに比べてみることができる人はほとんどいないだろう。そんな貴重な比較をできる機会を与えられた僕だが、結局のところ、答えは一つだ。背後にいてあちこちに目を光らせてくれる不可視の木乃伊がいない限り、ただの男子高校生にはどっちもキツい。  向こうも僕の顔を知ってる状態でつけ返すなんてそもそもが到底無理な話なのだ。自分が結局は一般的な男子高校生を少し下回る注意力しかもっていないという現実と向き合っているうちに、男は路線バスに乗ってしまった。一緒に乗り込めば確実にばれてしまう。彼の乗った路線を控え、タクシーか何かで追いかけたいと思った矢先、僕は自分がただの男子高校生ではなく、金欠の男子高校生だという事実と直面することになった。無様な話だ。「エーミールと探偵たち」に出てくる幼い少年たちだって同じことをもっとまともにこなしていたのに。  僕は息を吐いて、男を含めた皆を飲み込んだバスが走り去った後のバス停を見渡し、ベンチに腰掛けるると、近くの自動販売機で買った缶のブラック・コーヒーを啜った。とにもかくにも僕は探偵だ。J.J.マローンだってタクシー代のやりくりに困るようなときにもバーで酒を飲むことだけは欠かさなかった。僕だってコーヒーでおんなじことをしたって許されるはずだ。  もっとも、マローンにはいつも酒代をつけにしてくれる馴染のバーテンダー、天使のジョーがいた。我らがマスターだって人の好さではアジアで五本の指に入るレベルだけれど、天使のジョーのそれには負ける。今後の調査を続けるうえで、僕にもスポンサーが必要だ。  思考をそこで取りやめ、僕は冬の東北の寒さに異常なほど充電の減りが早くなっているスマートフォンで、時浦彩芽に電話をかけ、簡潔に要件を伝えた。依頼を受けること、依頼料は取らないが、必要経費は負担してもらうことと、金欠の探偵を支えるための一万円を最初に持たせてくれること。彼女はその全てに僕に負けない簡潔さで了承し、〈ダネイ・アンド・リー〉で会う約束を取り交わすと、電話を切り、それと同時にスマートフォンの画面もブラック・アウトした。  僕は小さく微笑みを浮かべ、きりりと冷えた冬の空気を思い切り肺に取り込む。残された電力を振り絞って上手に金策をできたという事実は、尾行に失敗した僕を慰めてくれた。脳をスペース・シャトルの速度で走り抜けていた血液も今は落ち着きを取り戻したようで、僕はそんな頭で、男の乗っていったバス路線を見直した。小学校前、なんとか二丁目、なんとか坂、市民ホール、神社前、なんとか一丁目。  市民ホール?  その文字列に、僕の血液はまた大気圏を突き抜ける速さで巡りだす。最初に彩芽に見せられた写真、あれは売れない役者であった宇佐美司を、市民ホールの楽屋で写したものだった。 「劇団絡みで誘拐された?」  声に出してみて、僕は首を振る。誘拐、売れない役者、悲劇の花嫁。まったく、荒唐無稽が過ぎる。自分がこの物語を小説で読んでいたとしたなら。もうとっくに部屋の反対側に本を投げつけているところだ。  でも、だからこそ。 ──面白い、だろ?  その言葉と共に、僕の背後にマミーモンが現れる。僕は息を吐いて、彼に必要以上に非難がましい声を向けた。 「来るのが遅い」 ──うるせえ。こっちも大変だったんだ。それともあれか? 俺がいないと尾行もできないかよ。 「頼むから黙ってくれ。もう十分自分を責めたよ。そっちの成果は?」  僕の問いかけに、彼は右手を突き出して見せる。その手の中でぎゃあぎゃあとわめく巨大な蜂のようなモンスターを、僕は呆然として見つめた。 ──ちょっと、ねえ! さっさと放してよ! それとも一生こうやって私のこと掴んでるわけ? そんなことできっこないわよね! みてなさい!? 隙を見て逃げてやるんだから! 「こいつが手掛かり?」 ──言いたいことは分かる。分かるけどな……。 ──ねえ、私をほったらかして話さないでよ! 大体あんたたち何者? なんで私たちと戦うのよ! ──うるせえ! 痛い目見たくなかったら黙ってろ! 「二人とも、頼むから静かにしてくれ」  頭の裏でガンガンと鳴り響く二体の声に、僕は息を吐く。まったく、面白そうな事件だ。 「とにかく、次の行動の指針は立った。今日のところは引き上げよう」 ──〈ダネイ・アンド・リー〉か? 「うん」 ──それじゃ、俺は先に行ってるな。 「え、置いてくなよ」僕は慌てて声を上げる。 ──霊体でも寒い日は寒いんだよ。それに、抜け駆けして珈琲飲んだのはそっちじゃねえか。 「いや、これは……」 ──それに、この虫もどうにかしないとな。ワイズモンの本にでも放り込んどきゃいいだろ。 「それは同感だ」 ──え、何!? 私に何する気よ? ──それじゃお先に。 ──ちょっと、ねえ! 私どこにつれてかれるわけ? ねえってば! 「あ、おい、待てよ!」  霊体特有の身軽さで飛び去るマミーモンを睨みつけ、僕はバス停に向かい合う。次のバスは二分後。しかし悲しいかな、財布には二十円しか入っていない。僕は息を吐いて、思い切り珈琲を飲み干すと、冬の大通りをとぼとぼと歩き出した。
ブルー・ジーンズの花嫁 第二話 content media
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マダラマゼラン一号
2019年11月29日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 はじめに  本作は2018年にオリジナルデジモンストーリー掲示板という所でへりこにあんさんという方が主催していた企画「Human metamorphoses into a digimon.」(通称HMD)への参加作品を同掲示板の閉鎖に伴いこちらに再投稿させていただいたものです。テーマは企画名そのまんま「人間がデジモンになる」小説。そのあたりも踏まえてお楽しみいただけると幸いです。  また本作は作者が連載中の長編「木乃伊は甘い珈琲がお好き」と世界観を同じくしており、同作のキャラクターも登場します。「木乃伊」を読んでない方にも楽しんでもらえるようにしてありますが、要領を得ない点があるかもしれません。 「木乃伊」を読んでいる方には、本作をより楽しんでもらえると思います。これは「木乃伊」の主人公たちが立ち向かう街の裏側の、さらに裏側、不思議な世界の話です。 三十六度のれ・も・ね・え・ど 「ねえキジマ、私レモネードが飲みたいわ」  店の奥の薄暗いカウンターに突っ伏して、魔女がぼくを見上げた。 「レモネード?」 「こんな暑い日は、どうしても、ね」  魔女がその真っ黒い厚手の手袋(暑いなら取ればいいのに)の外からでも分かる長い指で店の外を指さした。まだ7月の半ばだというのに北東北のこの街は空前絶後の猛暑に襲われており、ぼくと魔女の住む古道具屋〈アエロジーヌ〉から見える鰆町商店街の景色も、熱でゆらゆらと揺らめいている。あの中に飛び出していくことを考えるだけで、めまいで地球が三回転した。 「なんでまたレモネードなのさ」 「別にいいじゃないの。あ、そこらのスーパーに売ってる粉で作るような奴じゃだめよ。カリフォルニアで、ちいさな子どもたちがお小遣い稼ぎに屋台で売ってるようなやつ」  なんだよそれ。夢見るような口調の魔女の言葉に、思わずぼくは肩をすくめる。どうせ何か本に影響されたのだろう。彼女の命じるいつもの「お使い」だ。 「〈ダネイ・アンド・リー〉でアイスコーヒー飲むんじゃだめなのかよ」 「私はレモネードが飲みたいって言ってるの。それにあそこは変にごみごみしてていや。いいから行ってきなさいよ。私今日は忙しいの」  魔女がその白い首をなまめかしく曲げると、それに合わせてそのブロンドの髪も揺れた。雑多なものがあふれかえった店内の薄明りの中見ると、本当に真っ白な肌、輝くような髪だ。 「その肌、少しくらい太陽で焼いた方が健康的なんじゃないの?」 「あんた正気? 私が肌を焼かないためにあんたがいるんでしょう? 私の代わりに表の仕事はぜーんぶやってもらうんだからね」  相変わらずの憎まれ口である。どう見ても地毛にしか見えないブロンドの髪と蒼い目の持ち主のくせに、やたら日本語の語彙が豊富だ。 「そんなにでかい帽子被っといて……」  ぼくがそう言った途端、魔女がその人差し指をぼくに向けて振る。とたんにぼくの口は何かで縫い留められたように開かなくなり、その後の言葉を続けることは断念せざるを得なかった。 「口答えはよしてくれるかしら? それにこの帽子はそんな実用の為のブツじゃないわ。魔女のイコンよ。イコン」  魔女が再び指を振り、唇が再び自由に動くようになったと同時に、ぼくは大げさにため息をついて見せた。 「そんな店番がしたいわけ?」 「あんたのお父様のお店が今もこうして成り立ってるのは、私がこうして店を切り盛りしてるからでしょうが。いいから行ってきなさいよ。どうせ最初から行くつもりなんでしょ?」  ぼくはふんと鼻を鳴らし、帽子掛けにかかった売り物のキャップの、比較的安いのを選んで被る。 「あ、ダメダメ、せっかくなんだから、もっといいのを被っていって。〈アエロジーヌ〉の若旦那が安物の帽子なんか被って歩いてるなんて噂が広まったらことよ」 「はあ? いつもは高い商品には手を付けるなって、……はいはい、分かったよ」  魔女が再び人差し指を立てて見せたので、ぼくは慌てて口を閉ざした。  ぼくはまた聞こえよがしにため息を吐いて、一番いい値段のするアメリカン・ヴィンテージの帽子をひっつかむと、日差しの中に踏み出した。 魔女の言う通り、彼女の白い肌を無粋な太陽の光に晒すくらいならば、ぼくは火の海に飛び込んだ方がマシだ。 でも、ぼくがそう思っていることは、魔女に知られてはいけないのだ。      *****  三年前、父が死んだ。 母は元からいなかった。商店街の古株によると、それまで女っ気などなかったように見えた父が、ある日突然どこかの女に産ませた子供を連れてきたらしい。それが他ならぬぼくだ。 ぼくに遺されたのは古道具屋〈アエロジーヌ〉と、そこに残された雑多な道具たちだけだった。  ぼくの後見人には、仲の良かった叔父がなった。彼は裏表のない人で、『こゝろ』の要領でぼくの遺産を誤魔化したりはしなかったらしい。もっとも、誤魔化すだけのお金もなかったらしいが。  しかしその叔父は東京で働いており、彼には彼で子どもがいた。古道具屋を売り払って東京に来ればいいという叔父の申し出を僕は断固断り、地元で中学二年生まで過ごしてきた。もっとも、この後どうするかの見通しは立っておらず、漠然と、しかし頑固に父の古道具屋を継ぐのだと思い続けてきた。  そして一年前、ぼくは魔女と出会った。      *****  商店街を日陰から次の日蔭へと跳び回るぼくの頬から、汗が一筋垂れ落ちた。それはコンクリートに黒い染みを一瞬だけ作り、すぐに消えてしまう。 「あっつい……」  思わず独り言が漏れる。何か実りのあることをしに行くのであれば焼け付くアスファルトに踏み込んでいく気にもなろうというものだが、魔女のお使いのためとなると気も滅入ってくる。 「レモネードって言っても……」  魔女に曰く『カリフォルニアで、ちいさな子どもたちがお小遣い稼ぎに屋台で売ってるようなやつ』ということだ。これは今までの魔女のお使いの中でも指折りの、『ベルリンの下町の下宿で太ったハウス・キーパーが作る肉入りうどん』、『小型飛行機だけが行くことができる北欧の森の真ん中の湖で釣れる鱒』並みの難題だ。いったいどこでそんなものが買えるのやら、さっぱりわからなかった。 「そういうのに詳しいとしたら、やっぱり〈ダネイ・アンド・リー〉のマスターかな」  近所の古書店の店主の老人に店の外から会釈をして、ぼくは呟いた。あの髭面の喫茶店店主は東京住まいが長く、インターネットが普及し東京と地方の情報格差は無くなったと言ってもいいこのご時世にあっても、商店街の老人たちの間では小粋な通人として通っていた。 ぼくは自分の思い付きに心底満足してうんうんと独りで頷いた。『ルート66のガソリンスタンドでトラックの運転手が齧っているコンビーフ』を持ってくるよう頼まれた時は、マスターに輸入品を主に扱う食品店でそれらしいパッケージのモノを用意してもらい、魔女をそれなりに満足させることができた。彼ならレモネードのことも何かわかるかもしれない。それに何よりも、このうだるような暑さから逃れたかった。自然、足は勝手にくすんだ屋根の喫茶店に向くことになる。  喫茶店〈ダネイ・アンド・リー〉のドアを開けると、70年代イギリスのロック・ミュージックが耳に流れ込んできた。悪くない雰囲気だが、我らが古道具屋のレコード・コレクションが奏でる店内音楽に比べればちゃんちゃらおかしいといったところだ。 マスターは高校生らしき青年と話し込んでいたが、店に入ってきたぼくに気づくとこちらを向き微笑んだ。 「キジマくん。また芳子ちゃんのお使いかい?」  芳子、一年前に商店街の組合に乗り込んだ魔女は組合員たちにそう名乗り、ぼくの保護者兼〈アエロジーヌ〉の新店主の地位に納まった。どう考えても見た目にそぐわない純和風の名前とはっきりしない出自から最初こそ怪しまれたものの、年齢不詳の美貌と商売の手腕、そして組合の懇親会における見事な酒の飲みっぷりは商店街の老人たちに高く評価され、彼女は敬意と親しみを込めて「芳子ちゃん」と呼ばれるようになった。それ以来、酔った爺さん連中が魔女に向けるいやらしい視線が気にかかり、ぼくは夜遅くまで組合の酒盛りに付き合う羽目になっている。 「芳子サマのお使いのさぼりってとこ」  ぼくはそう言いながらカウンターの先程までマスターと話していた青年の隣の席に腰かけ、帽子を膝の上に置いた。青年は一瞬ぎょっとしたような目でこちらを見つめたが、やがて手元の文庫本を開いて読書を始めた。彼の前にはブラック・コーヒーが置かれている。それは芳子のお気に入りでもあったが、ぼくにはまだ飲めなかった。 「ご注文は? おすすめはカフェラテ……」 「ジンジャーエールで」 「値段の心配はしなくていい。いつも通り組合員サービスで」 「ジンジャーエール」 「ま、まあ、暑いしね」  ぼくの有無を言わせぬ調子に、マスターは肩を落として氷の入ったグラスと自家製のシロップ、そして炭酸水を取り出した。マスターがシロップと炭酸水をかき混ぜるさまを、隣の青年が目を丸くして眺めているのを見て、ぼくは愉快な気分になる。マスターが夏に自分で飲むために少量作るジンジャー・シロップを使った絶品のジンジャー・エールは商店街の中でもごく一部しか知らない裏メニューなのだ。 「それで、芳子ちゃんは今回どんな我儘を君に課したんだい?」  レモンのハチミツ漬けを添えたジンジャーエールのグラスをぼくの前に置き、マスターが尋ねた。ぼくはその甘酸っぱいレモンをつまみ上げ。口にくわえて言う。 「ふぇふぉふぇえふぉ」 「口からものを離して喋りたまえ」 「れもねえど、じゃないですか?」  不意にぼくの隣の青年が言った。ぼくが彼のほうを向いてレモンをくわえたまま頷いて見せると、彼はくすくすと笑った。 「正解ですって」 「さすがは探偵クンだね」  探偵? マスターの言葉にぼくはもう一度青年を眺める。彼は顔を赤くしながら、ぼそぼそと言った 「そう、探偵。キジマくんだっけ? 何か困ったことがあったら、この喫茶店に来れば僕が話を聞くよ」  なるほど、要するにちょっとアレな人というわけだ。 「探偵なら、レモネードがどこで飲めるか知りませんかね?」 「そんなの、そこのデパートで」 「ああ、ダメダメ。芳子ちゃんのことだから、また面倒なことを言ってるんだろ?」  探偵を遮ってマスターが言った言葉に、ぼくは頷いた。 「カリフォルニアでちいさな子どもたちがお小遣い稼ぎに屋台で売ってるようなやつ、とのお達しだよ」 「ああ、なるほど」  言いたいことは万事承知したという調子で探偵がうなった。ちょっとアレな人のみに伝わる符号のようなものがあるのかもしれない。 「手作りのレモネードなら、私が簡単に作ってあげれるけど」 「多分その人が求めてるのは、それとはまた別の、なんかこう、浪漫でしょうね」 「なんだろう? 概念としての夏、みたいな?」 「ああ、分かります。分かります」  マスターと探偵はなにか理解したらしく二人で盛り上がっているが、正直ぼくにはさっぱり分からない。魔女や彼らの言う「レモネード」はぼくの知っているそれとは違う、何かぼんやりとした夢そのもののような液体のようだった。 「で、結局ぼくはどうすればいいのさ?」 「今時、それも日本で屋台のレモネードねえ」 「マスターが作ってあげればいいじゃないですか、いい感じのエピソードをでっちあげて一緒に出せばそれでいいでしょ」 「そ、それは無理」  探偵の発言にぼくは首をぶんぶんと振った。 「あの女、ぼくがなにか誤魔化すと一瞬で見抜きやがるんだ。それで、その後には恐ろしい罰が待ってる」  ぼくの魔女への好意、その白いうなじや、たまに手袋を取ったときの長い指先に抱いている感情を考慮に入れても、彼女の罰は震え上がるほどに恐ろしいものだった。 「そんなに?」 「まあ、なんとなく嘘が通じなさそうな雰囲気だよねえ」  探偵の半信半疑の言葉に、マスターものんきに頷く。このままではぼくは手ぶらで〈アエロジーヌ〉に帰らなくてはいけない。 「ほんとに、なんとかならないかな」 「あ、そういえば」  探偵が不意に顔を上げた。 「今日、赤十字病院の前の公園でバザーやってましたよね」 「そうなのかい?」 「そういえば」 ぼくは呟く。父が生きていたころは毎年この季節にバザーに行っていた。幼いぼくは父の車がバザー会場までたどった道は良く見ていなかったが、あれは赤十字病院だったらしい。 「レモネードがあるとは考えにくいけど、今日屋台が出てる可能性が一番高い場所はあそこだろうね」 「へえ、やるじゃん、探偵」 「え、そ、そう?」  得意げな探偵を放っておいて、ぼくはジンジャーエールを飲み干すと帽子をかぶった。 「もういくのかい?」マスターが眉をあげる。 「うん、希望があるなら行ってみないと。お代は店につけといて」 「あ、ねえ、ちょっと」  立ち去ろうとしたぼくを、探偵が呼び止めた。振り返ったぼくの顔を、彼は目を細めてじろじろと眺める。 「ぼくの顔になんかついてる?」 「ん、いや、なんでもないよ」  それでも彼は、どこか怪訝そうな顔のままだった。      *****  一年前、ぼくは魔女に出会った。  最初は驚いた。逃げようとした。それがいけなかったのかもしれない。しかし、今思い出すと、魔女はあの時ぼくが逃げ出すことを選んだことを喜んでいたように見えた。  とにかく、魔女はぼくが逃げられないように、ぼくに呪いをかけた。言葉も、身体も、彼女の思い通りになる呪い。 ──呪いを解いてほしかったら、私の言うことを聞くことね。  そんなわけで、ぼくは魔女の為に炎天下を走り回っている。  でも、彼女がぼくをつなぎとめるためには呪いなんか必要ないことは、魔女に知られてはいけないのだ。      *****  いささか冷房の効きすぎたバスから降りると、うんざりするほどの熱と共に病院の真白い建築が視界に飛び込んできた。その前の駐車場に、熱気でゆらゆらと揺らめく多くの人々の影が見えた。 沢山の人々がそれぞれに広げたブルーシートの上で食器や洋服、黄ばんだ箱に入った古い玩具がきらきらと輝いていた。人々は和やかな雰囲気ながらそれぞれ違う種類の熱をもって商品に向かっており、独特の活気が場を満たしている。  バザーのことなど探偵に言われるまではほとんど忘れていたけれど、その景色を見た瞬間に様々な記憶が鮮明によみがえってきた。死んだ父は、このバザーの出店者であり客でもあったはずだ。店の中からいくつかの商品を運び出して自動車に運び込んだ父が、その天辺に幼いぼくを乗せたのを覚えている。 バザー会場では父はぼくと古道具を商店街の知り合いに任せて、仕事仲間と思しき人々と忙しく歩き回っていた気がする。そうしていつも沢山の「掘り出し物」を持って上機嫌で帰ってくるのだが、炎天下の下で知らない人とともに置いてきぼりを食らったぼくは上機嫌どころの騒ぎではなかった。 記憶の中でむくれて頬をふくらませて見せる幼いぼくに、父は必死で謝りながら紙コップを渡す。そこに満たされた、透き通った、甘く冷たい液体──。 「レモネード…」  そうだ、ぼくはここでレモネードを飲んだことがある。紙コップに入ってきたということは、屋台か露店で売っているもののはずだ。 その記憶が何年前のものなのかすら判然としなかったが、魔女の求めているレモネードがあるとしたらそれはここだ。記憶の中のレモネードのぼんやりとしたイメージ──少年の夢をそのまま氷と一緒にグラス閉じ込めたような甘い液体──は、魔女の求める液体のイメージにぴったり当てはまるように思えた。  ぼくは歩を速めて人混みの中に入っていく。屋台を探してあちこちを眺めるぼくに、横から声がかかった。 「おい、もしかしてキジマのとこの坊主か?」  声の方に目を向けると、麦わら帽子を被った痩せ型の中年の男が、様々な食器を並べたブルーシートに座っていた。蘇った記憶の奔流の中のどこかにそんな顔がいた気がしないでもないが、はっきりとは分からない。 「父を知ってるんですか?」 ぼくの言葉に、男はああやっぱりかと満足げに頷く。 「奴とは仕事仲間だったよ。商売敵だったけど、この日だけは親友だった」  まあ座りな、と彼がブルーシートの脇のスペースを開けた。軽く会釈をしてそこに座り、店主の視点から食器類を眺める。銀食器や陶器の類の中には、中々に良質なものもあるようだった。 「バザーにも、こんな高価なものを並べるんですね」  ぼくの問いに彼はけらけらと笑いながら、煙草に火をつけた。 「審美眼は父親譲り、ってか。ムカつくねえ。その辺の商品はうちでも持て余してるのさ、見る目のある人か、同業者にそれなりの値段で売り付けられればって思ってな」  審美眼は父親譲り、その言葉が妙に暖かく心に残った。ぼくにとっての父親とはいつも襟のついたシャツを着た青白い優男であり、古道具屋としての父は良く知らなかった。商店街の人々もおおむね同じ認識だったようである 「父は、どんな古道具屋だったんですか?」 「誰よりも目が良い奴だったよ。でも、商売は下手だったね。息子の前でこんなことを言うのもあれだが、俺も奴の人の好さにつけこんだことがなかったわけじゃない」  男はそう言って少し上を向き、煙を吐いた。 「そんで、今日は何しに来たんだ? 父親に代わって俺の市場を荒らしに来たか?」  いずれはね。口が勝手にそう言おうとするのを慌てて飲み込んだ。これまで古道具屋としての自分を明確に意識したことなどなかったのに。 「そんなつもりはないです」 「なんだ、残念。ま、あの店はもう閉まったって聞いてたしな」 「やってますよ、というより、またやり始めました」 男はしばらく黙って、煙草の火がゆっくり、ゆっくりと自分の手元に近づいてくるのを見つめていた。 「やってるって、お前が?」 「いえ、別の人が」  彼はすうっと目を細めた。 「乗っ取られたか?」 「そういうわけじゃないんですけど」  まあ確かに今の〈アエロジーヌ〉は魔女に乗っ取られたと言えないわけではない。でも、魔女のことをそんな風に思ったことはなかった。 「新店主の元で、それなりに繁盛してますよ」 「どういうやつだ」 「え、ええと」まさか、魔女なんて答えるわけにもいかない。 「芳子っていう、若い女の人です」  若い女、という言葉に彼は少し眉をあげた。 「あの男の後妻か何かか?」 「どう思ってくれてもいいです」  父や魔女の名誉とぼくの気持ちの為に、この無粋な予想は是非とも否定してやりたいところだったけれど、じゃあなんなんだと返されたらぼくとしても困る。この男には好きに想像させておくことにした。 「ま、いいんだけどよ。大事なのはここだ」  男はそう言って自分の目を指さす。 「ああ、そこは大したことないですよ。あの人の場合はむしろ、こっちじゃないかな」  ぼくは苦笑して自分の口を指さした。魔女は趣味こそいいものの、その審美眼は門前の小僧程度の知識しか持たないぼくから見ても大したことはない。店に転がり込んでくる品物の中から高価なものを見分けることは彼女にはできない芸当だった。こじんまりとしていた父の時代とは対照的に、今の〈アエロジーヌ〉は彼女が二束三文の品を大量に仕入れてきて、そのよく回る口で大量に売りさばくという強引なやり方で回っている。 「はは、そんなら当分は心配いらないな。で、今日はその新店主のお使いってとこか[京平1] ?」 「ま、そんなとこです」 「そうか、じゃあその辺の家具やらなにやら、買ってってくれ。特別に安くしてやる」  ぼくは彼が指さした方に目をやって、うへえと息をついた。 「どれも高そうだけど、ウチには置きませんよ。あんな悪趣味なの」  ぼくの忌憚のない意見にも気を悪くすることなく男はからからと笑う。 「俺もそうやってお高くとまってたいもんだね。だが実際、ああいうのは置いとくだけで風向きが悪くなるうえ、大して売れやしねえからな。いつだか鰆町で古本屋をやってるっていう爺さんが来て、金にあかせて成金趣味の時計やらなにやら買っていったのが最後だ。まったく、どっかれあんな金を稼いできたんだか」  ぼくは彼の話に適当な相槌を打って、それから本題を切り出した。 「お使いって言っても、今日のぼくは仕入れできたんじゃありません。今日は、レモネードを探しに来たんですよ」  ぼくの言葉に、男はしばし口をぽかんと開けてこちらを見つめていた。当然だろう。商売敵かと思っていた相手の用事が、こんなに子どもじみた、くだらないものだなんて。恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じる。 ところが、ぼくが思わず前言を撤回しようとした瞬間に、彼はくすりと笑った。その笑いはやがてはっきりと聞こえるようになり、やがてはブルーシートの前を通る客が怪訝そうにこちらを見てくるほどの爆笑になった。 「ど、どうしたんですか」 「いや、さっきは妙な勘繰りをして悪かったよ。お前のとこの新店主は、間違いなくやり手みたいだ」 「は、はあ」  レモネードのお使いが、どうして魔女の技量の証明になるのか、ぼくが首をかしげている間にも彼はレモネード、レモネードねえと繰り返しながら目の前で笑っている 「そうか、そうなったらこっちも教えてやらないといけないだろうな」 「レモネードが飲める場所? 知ってるんですか?」 「ああ、知ってる。知ってるとも」  そう言って、彼はまじまじとぼくの頭を見つめた。 「ときに、そのキャップは結構なヴィンテージ物に見えるが、ひょっとしておたくの商品か?」 「あ、はい」ぼくはそう答えて頭に手をやる。 「なかなかいいものだ。それだけあれば十分だろう」 「十分って?」 「まあ、ついてきな」  そういうと、男は自分の前の品々から上等そうな香水瓶を取って立ち上がる。そして隣のブルーシートの主に目配せをして、自分はそのままサンダルを履いてつかつかと歩き出す。 「え、あ、どこいくんですか?」 「いいから黙ってついて来いよ。レモネード、欲しいんだろ?」  ぼくはため息を吐き、靴に足を通すと、男の後を追った。      *****  このバザー会場は、こんなにも広かっただろうか?  飄々とした調子で歩く男の麦わら帽子を、ぼくはくらくらとする目で何とか追っていた。砂埃が混じった熱い空気が口に入り、思わずせき込む。 「どこまで行くんですか?」  ぼくの問いに、男は笑ってこちらを振り返る。 「どこ、って、坊主、ここがどこか分かってんのか?」  彼の言葉に、ぼくは反射的に顔をあげ、辺りを見回した。 「えっ」  そこには、一面の深い緑が広がっていた。アスファルトはいつの間にやら途切れており、先ほどぼくが吸い込んだ砂ぼこりは地面から巻き上がったものだ。どれだけ目を凝らしても、緑が途切れる場所は見えない。 「ここは……」 「トウモロコシ畑だ。広さの単位はエーカーだな。いや、ヘクタールか?」 「いや、そうじゃなくて!」  ぼくは思わず声を荒げて振り返る。そこには先ほどまでぼくがいたはずのバザー会場にはどこにもなかった。 「おいおい、そんなにビビるなよ。レモネードを飲ませてやるって言ってんだ」 「いや、そんな落ち着いていられないでしょう!」  ぼくの必死の訴えを男は鼻で笑う。 「まあいいじゃんかよ。別に鰆町からそう離れたわけじゃない」 「嘘だ」 「嘘じゃねえよ。俺たちの生きてる街からカーテンを一枚めくれば、こういう場所がある。そしてここは、俺たち古道具屋の仕事場の一つなんだよ」  男の平然な調子は、ぼくを落ち着かせるには十分だった。ただ、自分をわけのわからないところに連れ込んだ男に敬語で話す余裕はもはやなかったが。 「“俺たち”って言うけど、あんた達結構ここに来てるの?」 「年に一回、バザーの日にな。どういうわけでここまでの道が開くのかは知らねえが、今んとこ俺たちが知ってるここに行く手立てはこれだけだ。バザーの日に“対価”を持って、特別な方向にまっすぐ歩き続ける」 「“対価”?」 「そうだ。坊主、自分の頭のことをもっと気に掛けろよ」 「え?」思わず自分の頭に手をやると、先程迄かぶっていたはずのキャップが消えている。 「あ、あれ」 「そういうこと」 男も笑って手をひらひらと振った。ここに来るときにその手に握っていたはずの香水瓶も消えている。 「あれ、商品なのに」 「諦めろよ。お前んとこの店主も、多分それを知っててあれをお前に持たせたんだろうさ」  男の言葉に、〈アエロジーヌ〉を出る前に魔女がぼくに強引にあの帽子を押し付けてきたことが脳裏をよぎった。 「彼女は、ここのことを知ってたの?」 「多分な。驚いてる場合じゃねえよ。言っとくが、お前の親父もここの常連だった」 「父さんも?」  その驚きと共に、父がバザーの間どこを見てもいなかった記憶がよみがえってきた。 「こんなとこにいたら、そりゃ、見つからないわけだ」 「そういうこと。ほら。そこだ」  彼の言葉に再び前に目を向けると、先程まで何もなかった道の端に、小さな黄色の屋台があった。 「あれは?」 「お求めの場所だよ。レモネード・スタンドさ」  男は慣れた調子でつかつかと歩いていき、その屋台を覗き込む。ぼくもうろたえながらもあわてて彼を追いかけた。  屋台の低い屋根の下には長机が置かれ、その上に大量の丸いレモンが積み上げられていた。眩しいイエローの山を見ていると、自然と唾が口の中にわいてくる。 「よう、一年ぶりだな」  そういう男の声に応え、レモンの山から赤い矢印がぴょこんと飛び出す。次に緑の矢印、そして次の瞬間には二人の子どもの頭がこっちを見ていた。二人の子どもは丸っこくつるりとした真白い肌で身をつつみ、頭にはそれぞれ赤と緑の矢印のような二本の触角をはやしている。そんな二人の内、赤いほうが明るい声をあげた。 「あ、おじさん。こんにちは。外ではもう一年も経っちゃったの?」 「ああ、赤いのも緑のも元気にしてるか?」 「ザクロとミドリ、だ。ちゃんと名前覚えてくれよ。なあ?」 「うん」赤色の問いに緑色の方が幾分おどおどとした声でそう答え、目をこちらに向けた。 「そ、そっちは、新しいヒト?」 「ああ、そうだ。……って、坊主、大丈夫か?」  そういう男の声は呆然としているぼくの耳には良く届かなかった。 「あちゃあ、こりゃ完全にいっちゃってるな」 「おじさんも俺らを始めてみた時はこんな感じだったよね」 「まあ、しょうがないさ。おい坊主、気持ちは分かるが目の前の現実を大人しく受け入れちまう方が楽だぜ。こいつらはプッチ―モン、着ぐるみでも幻覚でもねえ」 「……られますか」 「は?」 「これが落ち着いてられますか!」  なるほど普通なら彼らを見て着ぐるみだろうかと思うところなのかもしれないが、ぼくはそれどころではなかった。怒りに震える両手で、机の向こう側のプッチ―モンと呼ばれた子ども、その緑色の方の肩を掴む。 「お、おにいさん、なにするの⁉」 「君も呪いにかかったんだね、大丈夫かい? ちくしょう、あの魔女。こんな小さな子どもまで手に掛けるなんて!」 「え、え、ま、魔女とか、ボク知らないよ。ザクロ、助けて!」 「おい! ミドリをいじめる奴は許さないぞ!」  そういって掴みかかってくるザクロと呼ばれた赤の妖精の頭をぼくは抑え、慈しみを込めて撫でまわす。 「君も、もう大丈夫だよ。ぼくもあの女の被害者なんだ。呪いにかかった君たちがどんな気持ちか、わかるよ」  涙ながらにザクロを抱きしめようとしたぼくの後頭部を、男がはたいた。 「いて」 「ちょっと落ち着けって。呪いって何の話だよ? こいつら元からこの姿だぜ」 「え」ぼくはもう一度二人の子どもに目を向ける。怯えるミドリを背後に隠しながら、ザクロが言った。 「そうだよ、俺とミドリはもともとこうさ。お兄さんこそ、なんでそんなに慌ててんのさ」 「だって……」  ぼくがそう言いかけた瞬間、地面が大きく揺れた。ミドリが驚いて飛びあげる。 「あ、アイツが来るよ」 「ああ、思ってたより早いな」ザクロも舌打ちをしたて、男の方に目を向けた。 「悪いな、おじさん。今日はもう終わり。おじさんたちも早く逃げたほうがいい」 「マジか」男はこちらを見て肩をすくめた。 「なんでもここでこうやって地震が起きると、ヤバいバケモノが来るらしいんだ。プッチ―モンたちは店じまいをして、俺たちも帰る。そういうルールさ」 「そう、なんですか」  何も飲み込めないままに撤退とは、納得のいかない話だが、変にルールを破ってここから帰れなくなったらことだ。 「さ、早く逃げるぞ」 「ええ、ところでこの地響き、だんだん大きくなってません?」 「は?」 「というより、これ、足音っぽくないですか?」 「何言ってんだ」  容量を得ない会話を交わすぼくたちに、ミドリの切迫した調子の声がかかった。 「二人とも、上!」  その言葉にぼくと男は頭上を見上げる。 巨大な恐竜の巨大なあごが、そこにあった。 ブルーで彩られ、その顔はどこで覚えたのかエスニックな飾りがつけられている。あれは結構な値段がしそうだ。そんなことを思うぼくの横に、恐竜のよだれがぼたぼたと落ちる。  そんな奇妙にゆっくりと静かな時間が続くはずもなく、やがて隣の男が裏返った悲鳴をあげた。 「ひ、ひいっ」  その声に応えるかのように、恐竜がぼくたちをなぎ倒そうと大きくその尾を振る。それは、とても、避けられそうには見えなかった。  妙に時間がゆっくりと流れる。 砂埃交じりの風を、トウモロコシの葉のざわめきが、はっきりと感じられる。 ザクロが、何かを叫んだ気がした。  恐竜が、不思議そうにこちらを振り返る。 「どうしたんだい?」  君の自慢の尾っぽが、ちっぽけな人間に受け止められたことが、そんなに不思議かい? 「ぼ、ぼうず、お前それ……」 「ああ、大丈夫ですよ」  ぼくがそう言って恐竜の尾を押さえていた片腕に力を込めると、恐竜の体は大きくトウモロコシ畑に倒れ込んだ。 「おにいさん、何それ!?」 「だからこれが、“呪い”さ。ぼくはこの呪いは単に人をバケモノに変えるだけだと思ってて。君たちみたいなやつらがいることを知らなかったんだ」  でも、それはつまり。 「この力も、無駄じゃないってことだ」  ぼくの身体を、炎が包んだ。      ***** 「なあ、マミーモン」 ──なんだ、探偵サンよ? 「今日会った、あの男の子だけど」 ──ああ、あの妙にすかしたガキか。それがどうした? 「なにか、感じなかった?」 ──どうだろうな、大して気にしてねえよ。 「そっか」 ──なんだ? デジタル・モンスターは憑いてなかっただろ? 「うん。そういう感じはしなかったんだけど」 ──じゃあなんだよ。 「人とデジタル・モンスターと、混ざってる。そんな感じだった」      ***** 「あの子に呪い、って、そんなの聞いてないわよ。ウィッチモン!」 ──なに、あの子を一人前にするためよ。 「約束が違うわ。私の息子に何かしたら……」 ──それ、自分の間違いで生んだ子どもを父親一人に押し付けて、父が死んだら今度は自分に憑いてるモンスターに面倒を見させてる女の台詞? 笑えるわね。 「う……」 ──そんな顔しないでよ。あんたの家柄と、それをあんたがどんな風に思ってるか、私は良く知ってるから。でもこれに懲りたら、母親面はしないこと。 「ウィッチモン、あの子は……」 ──親がなくとも子は育つ。あの子は立派に育ってるわよ。今日もお使いに行ってくれてるわ。 「……そう、これからも、よろしくね」 ──勘違いするんじゃないわ。私があの子を気に入っただけ。 「うん、そうだね。ウィッチモン」 ──ええ、そうよ。今は私があなたの代わり。忘れないでね? “芳子”。      *****  体中の血液が沸騰したように沸き立つ。でもそれは、そう悪い気分じゃない。少なくとも、炎天下の商店街を歩くよりは辛くない。血液全部が何かふわふわとした、それこそレモネードのような何かになったような、そんな気分だ。  周りではあの男やザクロ、ミドリが何か言っているが、ぼくにはもう答えられない。唇は糸で、人形のように縫い留められているから。  そして最後に、ぼくは自分の頭にいつの間にか乗っている帽子を押さえた。魔女の帽子のように、これもぼくのイコンなのだろうか。炎の魔導士──フレイウィザーモンのイコン。  そう思うと、不思議と悪い気はしなかった。      *****  手に持ったマッチ棒で恐竜をボコボコにするのに、そう長い時間はかからなかった。  逃げ去る恐竜を見送って人間の姿に戻り、プッチ―モンの屋台に戻ると、先程まではなかった折り畳み椅子に、見慣れた顔が座っている。 「ああ、キジマ、終わった?」 「……店番してるんじゃなかったのかよ」 「日焼け止めは塗ったわ」 「そんなこと心配してない!」  まさに魔女の白い柔肌を心配していたのを見抜かれ、ぼくは真っ赤になって叫んだ。 「おう、坊主。お前さんすげえな」  先ほどまでビビっていたことなど忘れたように、麦わら帽子の男も声をかけてくる。 「ほんと、メチャクチャ強かったじゃん。アロモンを追い払ってくれてありがと。ほら、ミドリも」  そうやってザクロに促され、ミドリもこわごわとこちらに頭を下げた。 「あ、ありがと……」 「いや、いいよ」  久しぶりに賞賛の集中砲火を浴び、ぼくは熱くなった顔を押さえる。 「今日はサービスさ。ほら」  ザクロがぼくに小さな紙のコップを手渡した。透明の液体が、その中を満たしている。 「これが……レモネード?」 「そうだよ。俺とミドリのお手製さ」 「そっか、ありがとね」  ぼくは笑顔でそれを受け取り、そのまま魔女に向き直った。 「ほら、お使いの品」 「いや、私もう飲んでるわよ。それはあんたの」 「はあ? それじゃあ何のためにここまで来たのか……」 「飲んどけ、坊主」  隣から男が声をかけた。 「この街の古道具屋に伝わるジンクスでな。ここのレモネードを飲むと、掘り出し物に恵まれるって話がある。俺たち古道具屋はみんな、一年に一度ここに来て、レモネードを飲むんだよ」 「はあ?」ぼくは絶句した。 「そんな迷信の為に……」  ほとんど怒ったような調子のぼくに、男は吹き出す。 「いやあでも、この話言い出したの、お前の親父だぜ」 「はあ!?」 「そうだよ。あのおじさんが最初に俺たちのとこに来て、その時に素敵なフルドウグ? を見つけたんだってさ」  父にそんな茶目っ気があったなんて、今まで考えてみたこともなかった。衝撃の事実を一度に告げられたせいで二の句も告げないぼくに、魔女が笑う。 「にしても、キジマがちゃんとあのバザーを見つけられるくらい成長してて、安心したわ」 「え?」 「これできっと、立派な店主になれるわよ」  今まで見たことのない魔女の笑顔に、勝手に目頭が熱くなる。もしかして、これまで魔女が無理難題を押し付けてきたのも、ぼくを〈アエロジーヌ〉の店主として育てるため──。 「いや、ありえないな」 「あ、バレた?」  魔女が手に口を当ててしとやかに笑う。それに思わず見とれるぼくの服の裾を誰かが引いた。下を見ると、ミドリがこちらを見上げている。 「の、飲まないの」 「えっ、あ」 「坊主、いつまでも飲まないと失礼だぞ!」 「そうよキジマ、ほら、さっさと」 「二人ともせかすなって、おにいさん、ゆっくり飲んでよ」  そんな言葉と共に、沢山の目がこちらを見つめてくる。  ぼくはため息を吐いた。とんでもない話だけど、どうもこれがこれからぼくが生きていく世界らしい。  ほんとにコレ効くんだろうね、父さん?  ぼくはそんな風に呟いて、コップを口に当て、その中を満たしている夢そのもののような液体を、勢いよく──。 〈おしまい〉
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マダラマゼラン一号
2019年11月28日
In デジモン創作サロン
    ≪≪≪前の話 #鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy  三月九日 春川早苗  五か月前の事件を終えて、僕とマミーモンは本格的に探偵として出発した。しかしながら、人知れず解決した事件によって急に依頼が舞い込んでくるわけもない。フィリップ・マーロウやリュウ・アーチャーはみんな元警察官で、元上司のつてや知り合いの弁護士の紹介で上等の依頼を受けていた。彼らは依頼を選り好みできるし、どんな高名の依頼人が相手でも気に入らないときは突っ張る。  けれど、まったくの無名から旗揚げしようという時には、どうしたってプロモーションが必要だ。「高い窓」に出てくる二流探偵のように、下手な文句のプロモーションを地方新聞の広告欄に載せなければいけない。そしてマーロウ相手にヘタクソな尾行を仕掛け、ヤバい事件に首を突っ込んで、最後には事態の全容もつかめないうちに安アパートの浴室で立派な死体になるのだ。僕としてはそのどれもごめんこうむりたいところだった。マーロウに死体を見つけてもらうのはまあそんなに悪い気分はしないだろうけれど。  僕の場合は、まったく屈辱的なことに、素人探偵として死体置き場の殿堂に加わることさえも困難を極めそうだった。警察には伊藤という友人がいて、時には僕の手掛けた事件の後始末をしてくれるが、残念なことに彼も警察の事件のことを僕に漏らさないだけの常識はあるらしい。世の人々は仮に警察を頼れないような問題を抱えていたとしても、くたびれた学ランを着た高校生を頼りはしないだろう。それに、大人に頼れないような問題を抱えた(そう、それはもう誰もが抱えている)学生たちにとって、僕は決して悩みを相談したくなるような相手ではない。まったく、探偵業を生涯の使命と決めてから、これまでの世捨て人じみた学校生活を後悔しない日はない。  そんな状況でもっとスマートなやり方を模索する中で、僕は二人の人物の協力を仰いだ。一人目は昴だ。彼は優等生であると同時に人当たりのいい社交家だ。その上件の事件からは日陰の方面からのうわさも集まるようになったらしい(彼は当然それを喜んではいないけれど)。彼を通じて紹介してもらうことで、僕は若き青春の空に狂った多くの少年少女の悲劇をこの何か月かで目にすることができた。  そしてもう一人は我らがミセス・ハドスン(彼はこう呼ばれるのを嫌がる。まあ、当然か)。〈ダネイ・アンド・リー〉のマスターだ。鰆町商店街には様々な奇妙な悩みを抱えた人々がいる。鰆町商店街なんかに通っていると大体そんな風になってしまうのだ。彼らは行き場を失くして商店街を彷徨し、閉店した遠野古書店の店先でぼおっとたたずみ、美人の女店主目当てに古道具屋の〈アエロジーヌ〉を冷かして若店主に叩き出され、最終的に〈ダネイ・アンド・リー〉にやってくることになる。  マスターはそんな連中を見分けることに長けていて、コーヒーのサービスを注ぎながら話を聞き、彼らの抱える問題の解決に協力できるかもしれないと申し出る。そこで初めて僕の登場だ。マスターから事件の重大さ、面白さを5段階のレベルで示したメールが届き、僕は依頼人に会うことになる。依頼人の選定や最初の値踏みを人任せにするのは僕の美学には反するが、まあ仕方のないことだ。  そんなふうにして七十過ぎの夫婦の離婚相談や、路線バスの運転手の怠慢を調査しているうちに、僕の名前──というより相談所としての〈ダネイ・アンド・リー〉の名前は広まっていった。そのうちに、先述の〈アエロジーヌ〉の若店主の一風変わった頼みを聞く機会があり(それも語ろうとしたら時間がいくらあっても足りない)、それを機に珍妙な依頼──つまりはデジタル・モンスターにまつわる依頼が少しづつ舞い込むようになった。  けれど、僕がこの五か月間で受けた大小さまざまな依頼の中で、マスターがレベルファイブだと判断した依頼はこれが初めてだ。楽しみなのと同時に、少し背筋が伸びる気分で、僕はまだきりりと冷えた冬と春の境目の空気を吸い込んで、喫茶店の扉を開いた。  からりとベルの音がして、カーディガンズの軽快なメロディがが耳に流れ込む。カウンターに立つマスターが僕に髭面を向け、笑顔を浮かべた。 「やあ、早いね。学校は?」 「春休みですよ。そちらが依頼人?」  僕の言葉に、マスターの向かいに座った女性が僕に目を向けた。すらりとした背の高い、鼻筋の通った女性で、ブルー・ジーンズと、それによく似合う深いグリーンのタートルネックを着ている。彼女を見て、僕はV.I.ウォーショースキーを真っ先に思い出した。細身で男勝りでハード・ボイルドで、同時にお洒落とオペラが好きな女性。いつも一人で大企業を取り巻く陰謀に挑み、家を待ち伏せられて殺されかけた次の朝でも日課のジョギングは欠かさないような、そんなシカゴの私立探偵だ。  こちらのそんな思考をよそに、彼女は僕をじろじろと見て、眉をひそめると、マスターに非難がましい目を向けた。 「えっと、彼が“探偵”? あなたが紹介してくれるっていう」 「そうですよ」 「でも、まだほんのこどもじゃないの」  まあ常識的な反応だ。自分の問題解決を担うのがこんな冴えない高校生だと知って不安や疑問を抱かない方がおかしい。それでも一応の礼儀として、僕はむっとしたように唇を曲げて見せた。 「その辺は心配しなくてもいいですよ。大体、そちらも普通じゃない事情があるからここに相談に来てる、そうでしょう?」 「……まあ、そうね。ごめんなさい。自己紹介もまだのうちから失礼なことを言ったわね」  そう言って彼女は息を吐き、改めて僕に向かい合うと、立派な加工のされた白い名刺を差し出してきた。それを見つめ、僕は目を丸くする。 「時浦彩芽(トキウラ アヤメ)さん。……地方芸能事務所のマネージャー?」 「そう、テレビは見る? 平日の夕方五時や、休日の朝十時からやってるようなローカル番組、そこに出るような人たちは、うちの事務所のタレントなわけ」 「あなたがタレントになるべきだって賛辞なら、もう私が先にしておいたよ」  口を挟むマスターににこりと笑みを向け、彩芽はカフェオレのカップに口をつけた。 ──早苗、お前が無駄に美人に弱いのは知ってるけど、しっかりしろ。  マミーモンの声で僕ははっと我に返る。完全に相手の雰囲気にのまれぼおっとしてしまっていたらしい。それを慌てて取り繕うように、僕は口を開いた。 「えっと、それで、この喫茶店に僕が来るのは、依頼を受けるためです」 「暇なときも入り浸ってるけどね」 「マスターは黙っててくださいよ。とにかく、相談があるから僕が呼び出される。なんなんです?」  僕の言葉に、彩芽は一つ息を吐いて、口を開いた。 「人を探してほしいの。その、つまり、私の恋人を」      ***** 「宇佐美司(ウサミ ツカサ)、私とは二年前から付き合ってる。一ヵ月前に突然連絡がつかなくなって、家にもどこにもいない。そしてその後は、誰も彼を見てない」  そう言って彩芽はスマートフォンの画面を僕にしめす。そこに映っていたのは、色白でやせ型の、整った顔立ちをした青年だった。カメラに笑顔を向けてはいるが、その顔はどこか緊張しているようだ。それに、背景となっている妙に白い、調度品の少ない部屋も僕の気をひいた。壁には横長に鏡が取り付けられ、それに寄り添うように長机が置かれ、丸椅子が並んでいる。 「何かの楽屋ですか」 「あら、探偵っていうだけはあるわね。そう、市民ホールの楽屋、彼、鰆町の劇団に入ってる俳優なの」  オーケー、それですべて理解した。地元劇団所属の売れない俳優の失踪。この世界では実にありふれた話だ。どのくらいありふれてるって、売れない画家の失踪くらいありふれている。 まあでも、そのどちらにしても小説の中以外で直面する機会はこれまでの僕にはなかったわけで──。 「失踪に至るまでの事情を教えてもらえますか?」  詳しく話を聞こうとした僕の視線に、彩芽はしかめっ面で応えた。 「事情なんてないわ。彼、本当に突然消えちゃったの」 「彼にとって特別な出来事とかはなかった?」 「それはあったわ」  そう言って、彼女は先ほどよりも一回り大きいため息をついた。 「私達、結婚するはずだったの。彼が消えた日は、結婚式の前日だった」  僕がちらりとマスターに目を向けると、彼も彩芽に見えないように小さく首を振った。僕らにはそれは立派な“事情”に思える。クッキーの上の砂糖粒のようにちっぽけな人類史において、幾度となく繰り返されてきた営み。要するに、彼女は捨てられたのだ。  そんな僕の考えに気づいたのか、彩芽は眼を鋭くした。 「司が私から逃げたと思ってるんでしょう?」 「分かりませんよ。僕は、あなたがここに来るまでの一ヵ月、いったいどんなところに同じ問題を持ち込んだんだろうかと思っているんです」 「警察に相談したかって意味なら、した。司は俳優を目指すために、田舎の実家からほとんど勘当されるみたいにしてこっちに出てきてる。だからこの街では、私が一番家族に近かった。もちろん相談したわ。でも……」  彼女の自信なさげな様子で僕もぴんときた。 「彼が音信不通になるのは、これが初めてじゃない?」 「ええ、まあ、そういうことね」  諦めたように彼女は息を吐いた。 「昔から司には放浪癖があったみたい。実家を出て、それがさらに酷くなったのね、何も言わずに家を出て、電話にも出ず一週間たってひょっこり帰ってくるみたいなことも何度もある。主演をもらった芝居をすっぽかすこともしょっちゅうよ。折角俳優としての才能はあるのに、そのせいで全然伸びないの。劇団長の桐野さんはそれでも目をかけてくれてるけど……」 「話がそれていますよ。まあでも残りは僕が言いましょう。何度も警察に相談して、今じゃ相手にしてくれないと、そういうわけなんですね」 「付き合い始めのころの何度かで、私が大騒ぎしすぎたのもある。とにかく、警察は頼れないし、友達とか興信所とかにも相談してみたんだけど、みんな例の放浪癖が出ただけだって、形ばかりの捜索しかしてくれなかった」 ──おいおい、なんか話が違うじゃねえか。これ、探偵と言うよりもカウンセラーの出番なんじゃないのか?  わかるよマミーモン、僕もそう思い始めてたところだ。呆れかえった僕の視界の隅で、マスターは申し訳なさそうに縮こまっている。“レベルファイブ”は、どうやら彼女の切れ長の眼と悩まし気な長い睫毛への評価だったらしい。  しかし実際、恋に盲目的になっているきらいがあるにしても、彩芽は周囲のこの出来事と自分に対する評価を理解していているように見えるし、気まぐれにヒステリーを起こす女性とは思えない。まあ、マスターに免じて一応話は聞こうか。 「正直なところ、話を聞く限りでは僕も警察と同意見です。でも、あなたがどうして今回の失踪はこれまでと違うと思うのか、興味はあります」  その言葉に、ここからが本当に重要な箇所だとでも言いたげに彩芽も頷く。 「彼は、あることを調べてたの……その、つまり、何かを調べてた。何かを探してた、って言った方がいいかもね」  歯切れの悪い彼女の口調に、僕は思わず眉を上げる。 「当然その問題も教えていただけると思っていいんですよね?」 「知ってたら教える。でも、知らなかった。彼は私にも教えてくれなかったけど、その問題に首ったけだったわ。しょっちゅう誰かからの連絡を待って、話し込んでた。仕事の話かもしれないし、私も深くは聞かなかったわ」 ──嘘だな。この女、事情に心当たりがあるって顔だ。  マミーモンの洞察を信じるにしても信じないにしても、彼女の言葉が露骨に怪しいのは確かだ。その脚本がどこまで通用するか、見てやろうじゃないか。 「それで?」 「失踪する前日、私達は結婚式の準備で忙しくしてたわ。そんなときに彼に電話がかかってきた。彼は真剣な顔で二言三言話して、それから少し空けるって言って、出ていった」  そしてどうだろう、青年宇佐美司はそのまま帰ってこなかったのである。本朝はじまって以来の大事件、太平洋は大騒ぎだ。僕は心で勝手に彼女の言葉を締めくくる。なんにせよ、確かに謎の多い消え方だ。 「あなたの話について、こちらでも裏を取っていいですか? それから、依頼を受けるかどうか決めます」 「ええ、分かった。聞きたいことがあったら名刺のアドレスに連絡して。コーヒー、美味しかったわ。ここのお会計は私が……」  財布を出した彩芽の言葉を僕は遮った。 「正式に依頼を受けるまではお金は受け取りません。それに……マスターがあなたにサービスしたくて仕方ないみたいだ」  彼女のコートを持って、緊張した面持ちで頷くマスターに目を向けて、彩芽はにこりと微笑んだ。 「そう、それならありがとう。依頼を受けてくれる気になったら、連絡してね」  そう言ってコートを羽織り、出ていった彩芽を見送り、僕と、その横で実体化したマミーモンはマスターに冷ややかな視線を送った。 「な、なんだい。美人にサービスしていけないことはないだろう。それに、依頼もなかなか興味深いものだったろう?」 「調べてみないとわかりませんよ。それに……」 「この依頼には何か裏がある。か? 言いたいだけだろ」  僕の科白に口を挟み、肩をすくめるマミーモンに、僕は唇を尖らせる。 「そんなこと言わない」 「嘘つけ」 「言わないったら」  僕は乱暴に椅子に座り直し、すっかり冷めた珈琲を勢いよく喉に流し込んだ。やさしい苦み、耳に流れ込むカーディガンズ、マイ・フェイバリット・ゲーム。とにもかくにも、この世界のどこかに、消えた花婿がいるわけだ。      *****  三月の始め、この国のどこかにはもうすっかり春めいている場所もあるらしいが、ここは北東北だ。商店街の近くにある公園の木陰には溶け残った雪がかなりの量あって、僕は雪のないベンチを選ばなければいけなかった。毎年この時期からも一度か二度ひどい雪の日があって、それを乗り越えて、ようやく鰆町に春がやってくる。もうしばらく誰もがコートの襟を立てないといけないだろうし、街をいく人々の顔からもあおぐろい影が消えることはないのだろう。  そうは言っても、公園に集まる少年少女たちはそんなことはお構いなしだ。小学校は春休みで、雪解けでぐちゃぐちゃになった地面を駆け回ってオーバーを汚している。そんな彼らを眺めながら、僕はスマートフォンを耳に当て、向こう側にいる男に声をかけた。 「ねえ、お願いしますよ、伊藤さん」 「あのね、君は僕の情報屋じゃないんだ。警察官なんだよ」  彼は伊藤刑事、僕とマミーモンの最初の事件を担当していた警察官の一人で、僕たちとは信じあったり、そして多くの場合疑いあったりした。とはいえ、事件自体が彼の過去と関係していたことや、彼自身の奔放な性格もあって、結局彼とはデジタル・モンスターの存在に関する知識の共有を含めた友好的な関係を築き、今でも僕自身の手で解決できない事象が起こったときなどは相談に乗ってくれている。  まあ、そうはいっても、国家権力を便利に使えるというわけでもないんだけれど。 「貸しがあるでしょう。僕がいなかったら、鰆町のクソガキどもはこの半年で三回はウエスト・サイド・ストーリーを実演してたんですよ」 「大げさな物言いはやめなって。君のいち早い通報が役立ったことは認めるけど、君がいなくたって最悪の悲劇は回避してたよ。なんてったって俺たちは……」 「“俺たちは警察だ”。まあそれでいいでしょう。警察に関する警句を一そろい持ち出してもいいですけど、今は宇佐美の話がしたい。別に個人情報を教えろって言ってるんじゃないんです。時浦彩芽は、本当に彼女が言っていた通り警察に相談していたのか」  その言葉に、受話器の向こうで伊藤のやれやれといったため息と紙をめくる音が聞こえた。 「時浦彩芽……ああ、そうだよ。何度も恋人の失踪のことで警察に訴え出てる。それで、どの場合も勝手に恋人が戻ってきて解決してるね。これが何度も続いたら、俺だって相手にしない」  その言葉に僕は息を吐く。とにかくこれで、彼女の話の一部は真実だと分かったわけだ。まだ信用しきることはできないとはいえ、ひとまず安心といったところだろう。 「もし機会があったら、担当の警官に話を聞いとくよ。っと、そろそろ戻らないと、金沢さんにどやされる」 「ありがとうございます。弥生さんは元気にしてますか?」 「ああ、元気だよ。定期的なカウンセリングも続けてる。仕事探しなんかで苦労してはいるけど、確実に回復してるみたいだ」  少し明るい声でそう告げる伊藤に僕も微笑む。彼は頑なに言おうとしないが、五か月前の事件の最大の被害者の一人ともいえる坂本弥生が、今は伊藤と共に暮らしているのを僕は知っているのだ。  電話を切った僕に、マミーモンが話しかけてくる。 ──どうだった? 「ああ、彼女の話は本当だったよ。宇佐美司は何度も失踪してた」 ──ああ、だが、あの女が何か隠してるのは確かだ。 「その通り、だからこれから、二人が式を挙げるはずだったブライダル・ホールに話を聞きに行くのさ」 ──こういう聞き込みにもいい加減慣れてきたな。でも、結婚式場の職員が、突然来たガキに客のことをしゃべるかね。 「ま、うまくいかないことも多いけど、それでもやらないよりはましだ。それに、結婚式場に行ったって、後をつけられたり、後ろから殴られることはないだろ」 ──お前にとっちゃ残念なことにな。  その見通しは甘かったことを、僕らはすぐに知ることになる。      *****  三月九日 宇佐美司  ぼくが閉じ込められているこの部屋にも、本棚はある。これまで碌に文学には親しまずに生きてきたけれど、昼間は本を読んで過ごすことが多い。パラフィン紙につつまれた本の多くは詩集だ。壁全体を覆う本棚に置かれた詩の数々はキーツやワーズワースといった古い英国の堅苦しいもので、いくつか好きなものもあったが、僕にはいまいち合わない。  それよりもぼくは、テーブルの上にこじんまりと置かれているいくつかのアメリカ詩人の詩集の方が好きだった。この部屋の以前の持ち主──いるはずだろう? 誰の手も入らずにこんな部屋はできない──にとってもそうだったらしい。それらの本は本棚の者に比べてはるかに愛読されたらしい形跡があった。  ぼくはそんな詩集の中の一つを開き、サヌキの作ってくれたハニーミルクを飲みながら、ディキンスンの詩を謡うように読み上げた。 「名声は蜂である  歌がある  針がある  あぁ、それに羽もある ──いい詩だね」  ぼくの引用に、サヌキの纏う慇懃な雰囲気が僅かながら明るくなるのが感じられた。 「エミリーは蜂についての詩を多く書いています。陛下も、“働き蜂に求められる最低限で唯一の文化的素養”とおっしゃっておりました。わたしも気に入っております」 「へえ、それじゃあこれは?“蜂から盗ったの──」 「だめ!」  急に強い口調で言葉を遮ってくる彼女に、ぼくは目を丸くする。 「その詩はだめです。だめ」 「そ、そう……」  苦笑しながらぼくは話を元に戻す。 「女王はディキンスンが唯一だって言うのかい? ほかの詩は読んじゃダメ?」 「働き蜂には必要のないことですわ。仕事は沢山ありますので」 「ふうん、君たちの女王様は、随分つまらないことを言うね」 「……わたしはこれで」  部屋を出ていこうとするサヌキをぼくは呼び止めた。 「待てよ。君の仕事はぼくの世話だろう? それ以外にはないはずだ」 「まだ、なにかあるのですか?」 「おいでよ」  そう言って、机の空いたスペースを叩いたぼくに、サヌキは不思議そうに首をかしげながら、羽を細かく羽ばたかせてくる。 「君の女王様は働き蜂が詩なんて読む必要ないっていうけれど、ぼくの世話係は別だ。折角ここには沢山詩集があるんだ。一緒に読んでくれよ」 「……」 「とりあえず、ディキンスンから始めよう。君の好きな詩を教えてくれよ」  無言で踵を返し──いや、彼女には地についた足はないから、これはもちろん単なる比喩表現なんだけど──出ていこうとするサヌキに、ぼくはがっかりしたように声をかける。 「おい、ダメなのかい?」 「……いいえ」 「それじゃあ──」 「ウィスキーを持ってきます。レモンに蜂蜜に、それからいっぱいのお湯の入ったポットも。なぜかは分かりませんが、ゆっくりと詩の話をするのには、ホットウィスキーが一番いいと思うのです」  唖然とするぼくを、彼女は少し振り返った。その顔がどこか微笑んでいるような気がしたのは、ぼくの気のせいかもしれない。 「草原をつくるには  クローバーと蜜蜂がいる  クローバーが一つ 蜜蜂が一匹  それに想像力  想像力だけでもいい  蜜蜂がいなければ」 「……」 「わたしの好きな一遍です。あなたにも夢があれば、わたしたちは必要ないのでしょうか? ──だとしたら、それはさみしいことですね。あなたが今も夢見ている人を、妬ましく思うくらいには」 そう言って彼女は部屋を出ていく。取り残され、ぼくはぼおっとして再び詩集を開いた。      ***** 「ちょっと、大変よ! ……って、何してるのあなた達、仲良さそうね」 「そう?」 「気のせいですよ。イナニワ。何かあったんですか?」  部屋に飛び込んできたイナニワに、ぼくとサヌキは驚きを浮かべて詩集から顔を上げる。ぼく達を交互に見比べた後、彼女は空咳をして話を続けた。 「ゴトウに見張らせてた式場に、雄の人間が来た。男女のつがいじゃないし、妙に若いから怪しいと思って聞き耳を立てたのね。そしたら……」 「そしたら?」 「あんたと例の雌についていろいろと聞いていったそうよ」  背筋が粟立つのを感じて、ぼくは思わず声を上げる。 「何を」 「あなた達が計画していたセレモニーについて、式場の人間に色々聞いていった……式場の人間が答えられることだけ」  その意味はぼくにもわかる。式場を訪れたミスターXは、何を訊くべきかを知っていた。ぼくと彼女のことに、かなり深くまで食い込んでいるということだ。もしかしたら彼女の頼みに応えて色々調べているのかもしれない。でも、もしそうでなかったら──? 「そいつに尾行をつけてくれ」 「もうゴトウが尾けてるわ」 「よし、気を付けてくれ。逐一報告してくれ」  ぼくは深く息を吐く。こんな状況になっても、ぼくにできることは何もない。酒を飲むのは気が咎めるが、それしかなさそうだ。 「サヌキ──」 「キャプテン・モルガンですね。かしこまりました」 「ねえ、あんた達やっぱり……」 「仲良くなってはおりませんよ、イナニワ」 「イナニワ、君も一緒に休んでくれ。一緒に詩でも読もう」 「女王様が良く言うエミリー? あの方は大好きだけど、わたしはお断り。退屈でしょうがないわ。それよりゴトウの様子を見に行く」 「……そうかい」  部屋を出ていくイナニワを見送った後、ぼくはぼおっと詩集の古びた紙を眺め、目を伏せた。      *****  三月九日 春川早苗 ──おい、早苗、尾けられてるぞ。 「うええっ!? い、いや、もちろん気がついてるさ」 ──強がるなよ。  そう言われても、隣を歩く奴が「尾けられてるぞ」と言ってきたときの語彙を、僕はそれ以外に知らない。 「で? どんな奴だ」 ──最初から素直にそう聞けよ。一人の男と、一体のデジタル・モンスターだ。  その言葉に、僕は思わず眉を上げる。 「デジタル・モンスター? 尾けてる奴も“狐憑き”ってこと?」 ──いや、どうかな……。 「どうした?」 ──モンスターの方の気配はずいぶん弱い。単独でこっちの世界にやってきて人間に憑けるほどの力があるとは思えねえんだ。  デジタル・モンスターがこちらの世界に来るにはある程度の力がいる。モンスターたちの成長段階のことはよく覚えていないが、マミーモンと同じ“完全体”程度の力が必要なはずだ。 ──で、どうする? 「少し待ってろ」  僕はそう言ってポケットからスマートフォンを取り出し、何度かそれをいじるそぶりを見せてから、それを持った手をだらりと下げた。指の間から、レンズをのぞかせ、背後の写真を何枚か撮る。 ──うまいもんだな。よし、見せてみろ……よし、その黒いジャンパーで、パーマのかかった髪の奴だ。 「よし」  多少ぶれてはいたが、マミーモンのおかげで服装の区別はつきそうだ。 「次の曲がり角で奴らを撒いて、尾行し返す。僕が男で、お前がモンスターだ」 ──オーライ。撒けるか? 「何とかやるさ。探偵始めてから、少しは鍛えた」 ──期待してるぜ。そら、そこの角でどうだ。 「いいね」 ──それじゃ。 「行こうか、相棒」  曲がり角をまがった瞬間、隣で風が吹き、トレンチを着た木乃伊男が現れる。その心地よい風を感じながら、僕は地面を蹴った。      *****  三月八日 佐谷雪子  街はずれにある洋館には、小さな庭がある。冬の終わらないこの季節に庭で過ごすのはどうかしていると言われそうだけど、とにかく私は車いすを転がして、その庭でのんびりと昼下がりの時間を過ごしていた。 「あまり外にいると、お体に障りますよ」 「……涼香(スズカ)」  足音と共に、初老の女性が私に声をかけてくる。もちろん彼女の言うことは分かっている。でも、私の身体はもう十分治っているのだ。まだ車いすから立つことはできないけれど、それでもすっかり良くなっている。 「大丈夫なのよ。それに、すぐに部屋に戻るつもり。それで、何か用かしら?」 「手紙が届いていますよ」  その言葉に、自分の頬が勝手に緩むのに気づく。自分でもびっくりするほど早く彼女に手を伸ばす。そう、今のところ、どこからか定期的に届くこの消印の無い手紙だけが、私の唯一の楽しみだった。 「すぐに読むわ。その間は……」 「ええ、紅茶を淹れて待っていますわ」 「ありがとう、涼香」  私は微笑んで彼女を見送り、それから手紙の封を切った。  その内容はいつも同じ、愛の言葉と大きな謎……他の誰かに向けた。  誰なのだろう。なんで私のところに来るのだろう。いつもそんな風に思う。でも、それを知ることはできない。一度涼香に郵便受けを見てもらったこともあるが、彼女が目を離したすきに置かれていたらしい。  この手紙を真に受け取るべきひとのことを思うと、私の胸はいつも痛む。  それでも、彼の言葉は、今の私にとって、救いだ。たとえそれが過ちだとしても。  私は冬のどこまでも済んだ青空を見上げる。どこからか、季節外れの虫の羽音が聞こえた気がした。
ブルー・ジーンズの花嫁 第一話 content media
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マダラマゼラン一号
2019年11月16日
In デジモン創作サロン
 #鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy  はじめに  本作『ブルー・ジーンズの花嫁』は筆者の前作『木乃伊は甘い珈琲がお好き』の続編となります。春川早苗とマミーモンやその周辺の人々の物語を今後書いていくにあたって、鰆町を物語にした一連の物語を「鰆町奇譚」と名付け、特に春川たちを主人公とする三つの物語を「コーヒー・タウン・トリロジー」として軸に置くことにしました。 「トリロジー」の一作目は『木乃伊は甘い珈琲がお好き』、そして二作目が本作『ブルー・ジーンズの花嫁』です。  そのため本作は前作「木乃伊」を前提とした内容となっております。本作からでも楽しめるようにはなっておりますが、多少不親切な部分が出てくることはご容赦ください。  また今後鰆町や春川たちに関する小説を投稿する際はこれらのシリーズ名をつけさせていただきます。  それでは、どこかが外れた不思議な街と、そこで絡まる幾つもの線を結びなおすために走る少年と木乃伊の物語をお楽しみください。      *****  プロローグ 三月八日 宇佐美司  筆記用具と便箋を求めたのは、たしか一時間くらい前だったろうか。 セピア色の部屋に取り残され、ぼくの望みを吟味しているかのように無遠慮な沈黙と二人きりで長いこと向き合う。そんな苦痛に満ちた時間の末に、ついに目の前に差し出されたのは、古い紙と羽ペン、そしてインク壺だった。  なんて時代錯誤なことだと思うかもしれないが、事実なのだから仕方がない。それに、今ぼくがいるこの部屋に、それらのオブジェクトは恐ろしいほどよく噛みあった。築何年かは知らないが、古い洋館の一室で、足が埋まるほどにふかふかの深紅の絨毯がひかれている。窓には目張りがされていて、そこに漂っている空気も年代物だ。そんな空気の中で、羽ペンと真夜中のような青のインクは、なによりも最適の筆記具に思えた。そうは言っても最初は面食らったが、何度か使ううちに違和感は消えた。。 「ありがとう、サヌキ」  ぼくはそう言って、銀の皿の上に乗せて差し出された羽ペンとインク壺を取ると、二つの前足で器用にそれを運んできた巨大な蜜蜂に軽く頭をさげた。ぼくは彼女をサヌキと呼んでいる。特に意味はない。“働き蜂”は沢山いるから、その中でぼくにこまごまとした日用品を運んでくれる彼女を区別するための名だ。 「二時間たったら、ミズサワを呼んでくれないか。手紙を運んでほしいんだ」  手紙を書いて、推敲するまでの時間を頭で計算しながらぼくは言う。内容には困らないだろう。朝から晩まで始終手紙に何を描くかだけ考えているのだから。けれど、書いてから初めて粗がいくつも見つかるのが手紙というものだ。どう少なく見積もったって二時間は要るだろう。それから、ミズサワ(ぼくの代わりに外に出る用を足してくれる)に運んでもらえばいい。  が、いつもは無言で頷くだけのサヌキが、今日はその羽を振るわせて首を振った。 「ミズサワは死にました」 「え」 「先日手紙を持って行ったっきり、帰ってきませんでした」 「……そう」  悲しむべきなのだろうか、死んだ理由を気にするべきか分からず、ぼくはただそう漏らす。サヌキには仲間の死に動じる様子はない。働き蜂とはきっとそういうモノなのだろう。それは巣という一つの機構の部品に過ぎない。しかも(多分彼らにとっては幸いなことに)それは生まれつきのことだ。銀河の果てに連れていかれた挙句にネジにされたわけではない。葛藤も悲しみもないのだろう。  彼女らがそうなら、ぼくもそうすべきだ。いまやぼくと彼女らには一つの違いもないのだから。 「それなら、イナニワに頼もう。二時間経ったら来てくれ」 「かしこまりました。……でも」 「でも?」 「手紙は一時間だけ。そう言う決まりだと、前にも申し上げました」  ぼくは曖昧に頷き、羽音だけを響かせて去るサヌキを見送ると、念入りにドアが施錠される音に息を吐いた。ぼくは首を振って、羽ペンをまじまじと眺め、その先をインク壺に突っ込むと、便箋に向かった。      *****  ハロー。  ぼくがここにきてからどれくらいが経つだろう。正直なところ、よくわからない。 外を見ることは一切できないし、ここの空気はヴィクトリア朝時代の骨董品なみだ。一週間しか経っていないと言われればきっとその通りなのだろうし、五年経っていると言われても信じるだろう。  分からないことは他にもある。ここはどこ──彼女たちに言わせれば、高度数千メートルの場所に浮かぶ要塞らしいけれど──なのか、君は元気にしているのか、そもそもこの手紙はちゃんと届いているのか。  でも幸い、自分にとって大事なことは、ぼくはちゃんとわかっている。  ぼくはもう、君のところに戻ることはできない。  このことに君がショックを受けてくれると考えているぼくを、どうか軽蔑しないでほしい。何と言ったってぼくたちは婚約していたんだし、ぼくが君の前からいなくなったのは、結婚式の前日だったわけだから。  戻れないぼくがこんな手紙を出すことは、きっとよくないことなのだと思う。ぼくは今も君を愛しているし、君の元に戻れないことにぼくの感情は一切関係ないけれど、君には僕のことを忘れて幸せになって欲しいから。  それでもぼくがよく手紙を出すのは、未練からじゃない(それも少しはあるのかもしれないけれど)。義務感からだ。ぼくは君に約束をして、それを果たせないままこの場所にとらわれてしまった。けれどあの問題が君の心に引っ掛かり続けていることは誰よりも理解しているつもりだし、この部屋から出られなくなってしまった今も、あの約束を果たすことを諦めてはいない。そう、調査は続けている。ぼくは身動きは取れないけれど、彼女たちはぼくの言うことを聞いてくれる蜜蜂を数匹つけてくれた。彼らはぼくの頼んだとおりに調べ物をしてくれるし、言えばこうやって手紙も運んでくれる。  そんな風に大上段に構えた後で恥ずかしい話なのだけれど、前に手紙を出した時から、まだ新しい事実をつかめてはいない。あの問題と、それに絡む人物について、ぼくはかなりいいところまで近づいていたんだけど、そこでこの場所に連れてこられてしまって、色々なことが始めからになってしまった。こまごまとしたことを伝えて成果を取り繕うことはできるけれど、デリケートなこの問題においてあまり君をぬか喜びはさせたくないという僕の気持ちも理解してほしい。とにかく、今後も報告は続けていく。  最後に、このことは毎回手紙の結びに書いているんだけど、ぼくを探さないでほしい。もし他の人だったらこんなにしつこく念は押さないのだろうけど、なんと言ったって君だ。誰よりも諦めが悪くて、誰よりも行動力がある。そんな君をこの場所にまつわるエトセトラに巻き込んでしまうことが、ぼくはとても怖いんだ。  ああ、だめだ。どうも今日はもう時間切れらしい。  此処は蜂の巣だ。そしてぼくはこの場所で、どうも雄蜂であることを期待されいるらしい。今はそれなりに丁重な扱いを受けているけれど、それはいつまでもは続かないだろう。  ぼくはもう死んで、手紙の中だけにいる亡霊だ。そう思ってあきらめて欲しい。  役目を終えた雄蜂がどうなるか、知っているだろう? 追伸 もし返事を書いたなら、封をして、早朝の時刻に君の家の前に置いておいてくれ。     *****  背後でノックの音ともに、イナニワが静かな羽音を響かせて入ってきた。彼女は比較的気さくな働き蜂で、ぼくは好きだ。ぼくが身の回りの蜂達につけた勝手につけた愛称も気に入って使ってくれていて、会話もしやすい。 「サヌキが呼んでたって言ってたから来たんだけど」 「ああ、手紙を運んでほしくてね」 「……ミズサワが死んだことは?」 「知ってる」 「知ってて私を行かせるんだ。ふうん」 「ぼくにとって大事なことなんだ。どうせ行くんだろ?」 「雄蜂らしくなってきたわね。女王様の見る目は正しかったってことかしら」 「会ったこともない女王の話をされてもね」 「あら、素敵な方よ。いつか会えるわ」 「そうだね、いつか会うんだ」  そうしてそれが、多分ぼくの最期の日だ。 「とにかく、手紙、頼むよ。ぼくは君たちを信じるしかないんだから。それと、あとで例の調査のことでも話がある」 「蜂使いが荒いこと。他に何かあるかしら」 「そうだな……サヌキを──」 「ここにいます」  その言葉と共に、サヌキが音もなくイナニワの隣に現れた。彼女が常に持っている銀の皿の上に、キャプテン・モルガンの瓶とグラスが載っているのをみて、ぼくは顔をほころばせた。 「そうそう、それを頼もうと思っていたんだ」 「何よサヌキ、ツカサのこと案外好きなのね」 「手紙を書いた後には、いつもこれ頼むものですから」 「うん、ありがとう、サヌキ。暖炉に火を入れてくれるかい。ぼくがここに来たのは確か一月だったね。どれくらい経ったか知らないけど、少なくともまだ冷える季節みたいだ」 「……かしこまりました」  慇懃に頭をさげるサヌキを見てくすくすと笑いながら、イナニワはぼくが封をした手紙を受け取って出ていった。あとはイナニワがどうにかして彼女の下に手紙を届けてくれる。彼女はきっとそれを読んで、返事はきっと今回も帰ってこない。  結局のところ、諦めた方がいいのかも入れない。あの場所に置いてきたすべてのものを捨てて、ここで雄蜂として、約束された死までの期間を享楽にふけるべきなのかもしれない。イナニワは良くそう言ってくる。  そんなことは、多分できないと思う。ぼくは突然ここに連れてこられたのだし、結局のところ、ここに閉じ込められているのだ。  けれど、ぼくは机の上の鏡に映った自分の顔を見つめる。ふと気づくと、立派に雄蜂を演じている自分がいる。サヌキやイナニワを躊躇なくこき使い、ここで一人ラム酒を飲み下す自分がいる。そんなことを考えるだけでも嫌になる。  でも、今日は仕方がないか。ぼくはそう呟いて、グラスの中の金色に唇をつけながら、暖炉に火がともる心地の良い音に耳を傾けた。返事を待つ身は辛いものなのだ。      *****  三月九日 春川早苗  僕の通う学校は、四階が他の階に比べて狭い。一階から三階までは各学年の教室が並んでおり、四階には吹奏楽部室、理科室といくつかの部室、そして生徒会室があるのみだ。  その生徒会室の窓からの眺めが、僕は好きだった。自分にしてはロマンチックが過ぎる考えだと思う。けれど、そこから見える校庭や街の景色、遠めに見える県のシンボルである山──日本国における他のあらゆる例に漏れず、この山も富士山にたとえられている。日本各地にあるそういうタイプの山を思い浮かべてもらえれば大丈夫だ──それらの全てが空と同じ色に染まる。そんな瞬間が好きだった。  入学した最初の年、僕──春川早苗が他の部活を尻目に生徒会に入ったのも、その景色の為だったのかもしれない。いや、まあ、それだけじゃないんだけど。入学したての頃は僕にも一応高校デビューというかなんというか、社交的に生きようという気概があったのだ。生徒会に入っていれば否が応でも人前に立たなければいけないし、その人前に立つ数回だけで周囲に「生徒会に青春をかけている奴」という印象を与えることができる。その実仕事のほとんどは地味で人目につかなくて済む裏方仕事というわけだ。吹奏楽部の練習が聞こえる以外は殆ど人気のない四階の生徒会室を自由に利用できるというのも魅力だった。  しかしながら、僕のその世の中をなめ切った目論見は最初の生徒会に入った最初の日に砕け散ることになった。初めて生徒会室を訪れた日、怖気づいてドアを開けられず部屋の前でうろうろとしていた僕に声をかけた人物の手によって──。 「……どうしたんだ? 春川」 「ん? ああ、なんでもないよ」  僕の右手側、部屋の中央に置かれたテーブルの議長席に座る少年──富田昴の問いに、僕は文庫本から顔を上げ、シャット・アウトしていた聴覚を再び動かして応えた。昴が頷いて再び資料に目を落とすのを見届け、僕は生徒会室の外から聞こえるディープ・パープルの趣味の悪い吹奏楽アレンジを頭から締め出しなおす作業に取り掛かる。  その通り。あの日の僕に「君も生徒会入る? 一緒にいこうぜ」と声をかけたのは誰あろう、議員一家の御曹司にして、歩く眉目秀麗、呼吸する才色兼備、富田昴その人だったのだ。彼が生徒会に入って以来、生徒会室は毎日アイドルの握手会のような有様だった。僕の望んだ静かな生活は手に入れられず、そもそも仕事も僕の思っていたよりも大分きつかった。  そんなわけで僕は最初の一年で生徒会を去り、〈ダネイ・アンド・リー〉が放課後を過ごす場所になった。ハードボイルド・ミステリの中にいるような憧れの探偵になるために、依頼を受け始めたのだ。その経緯に関しては既に別の場所で語っているから、僕の活動の異常さを笑いたい人は是非ともそっちを見て、僕の居ないところで声を上げて笑ってほしい。 「ところで、いつもの喫茶店はどうしたんだ?」 「……最近財布が苦しくて」 「なるほどな」  当然の結果というかなんというか、〈ダネイ・アンド・リー〉における新たな課外活動で僕の交友関係が広がることはなかった(悲しくはない。探偵というのは本質的に孤独なものなのだ。だから悲しくはない)。その一方で、昴は生徒会を辞めた僕にもこれまでと変わりなく接してくれ、僕らの友好関係はなんとなく今に至るまで続いてきた。  そして、一年前の秋にとある事件があった。彼の父親がとある罪で逮捕され、その結末には僕も少なからず関わっていた。それ以来、生徒会室に彼を訪れる取り巻きは減り(罪人の子だと彼を見捨てるほど皆が薄情だとは思わない。単純に話しかけにくいのだろう)、相対的に僕らの仲はより親密になった。そんなわけで、卒業式を終えた春休みで生徒会室に人気がないこの時期、僕は喫茶店に払う金がないときは放課後をこの場所で昴と共に過ごしているのだ。取り立てて何をすることもなく、彼は勉強をしたり会長の仕事をし、僕は本を読んでいる。そしてもう一人──。 「よう、片づけてきたぜ」  窓を閉めた部屋の中に一陣の風が吹き、次の瞬間には、トレンチコート姿の大男が僕の向かいの席に足をテーブルの上にはね上げながら座っていた。室内だというのに中折れ帽を深くかぶっていて、顔を隠している。こんな男が学校に入ってきたら、四階の生徒会室に辿り着く前に十回は通報されそうだ。  しかし、ありがたいことにその心配はない。彼はデジタル・モンスター、異世界からやってきたもの言う怪物で、普段は誰かに取り憑いて、幽霊のように人には見えない姿で依り代にぴったりくっついている。この世界には彼以外にも異世界からの不可視の来訪者が山ほどいて、取り憑いた人間と共に生きているのだ。そうして、マミーモンの依り代はほかならぬ僕、春川早苗だというわけ。  マミーモンのことを知るのは僕を含めてほんの数人だ。富田は先述の事件のことで彼の存在を知り──彼もデジタル・モンスターの依り代だったことがあったのだけれど、それはまあ別の話だ──以降は僕と彼に協力してくれている。  そんな昴は、机の上に跳ね上げられたマミーモンの足を見て眉をひそめると、僕の方に疑問符を飛ばした。 「片付けてきたって、また何か事件か?」 「ああ、うん。こないだお前が相談してくれたアレだよ」  彼はさらに顔を険しくした。 「北高校の木村のことか」 「そう、あの暴力教師。お前の教えてくれた、数人の生徒を先導して一部の生徒をいびってるらしいって噂は本当だったよ。いかにも弱々しい学生ばかり狙ってた。僕も北高の学生だったら危なかったろうな。被害者の名前はいえないけど、別にいいだろ?」 「ああ、もちろん、それで?」 「詳しくはいえないけど、今度の朝刊に木村の名前が載る」 「明日って……ああ」  答えに思い当たったのだろう、この季節の恒例行事、離任する教師のリストだ。 「辞めるのか」 「辞めさせるんだ。本人に証拠を色々突きつけて、北高を去らないと全部ぶちまけるって脅したんだよ。……不満そうだね」  僕の言葉に富田は息を吐く。 「まあ、実際不満だな。俺が聞いた話だと、殴られた奴の一人はコンクリートの壁に頭をぶつけて縫う羽目になったのに、事故だって言って泣き寝入りしたそうじゃないか。警察沙汰で当然だろう。それを、本人と取引してだんまりなんて」 「んなこたこっちも分かってたさ。でも……」  同じく不満そうなマミーモンの言葉を僕は引き継ぐ。 「被害者、その頭を縫った本人たっての希望だ。報復が怖いんだろ。実際木村と一緒に彼に暴力を振るってた生徒は数人だけど、黙認してた連中は大勢いる。木村や取り巻きが制裁を受けた時に、周りがどうするかが怖いんだ」 「それはそうだけど……」  なおも釈然としない様子の昴に、僕は唇の端を吊り上げて見せる。 「安心しろよ。これは本当に手詰まりになったときにせめて木村を彼から引き離すための策だ。それで終わらせるつもりはないさ。被害者の彼も言ってた。身の安全が確保されるなら、加害者たちの逮捕がベストだと思うって」 「それで俺たちが、加害者やその取り巻き一人一人に手を打ったってわけだ。一人だけ“狐憑き”がいるにはいたが、それも今片付けてきた。そう言うわけで、早苗」 「ああ」  僕は頷いて、スマートフォンを手に取る。 「何をするんだ?」 「警察に電話。木村や加害者の学生のやったことの証拠を伊藤さんに全部渡すよ。取り巻きも怯えて何もして来やしないだろ。そもそも大体は被害者の杞憂だよ。残った連中で、警察を敵に回してまで報復しようと思う奴はいないさ」 「なるほどな、でも、木村と取引して黙ってると約束したんじゃ……」 「弱い奴を狙ってをボコボコにするような教師を騙すことができて、俺は今いい気分だ。どうだ、早苗?」 「同感だね」  そう言ってスマートフォンを耳に当て、向こうにいる警官の伊藤──彼もマミーモンのことを知っている。僕たちには大切な協力者だ──に簡潔に成り行きを話し、メールで証拠の写真を送る旨を伝えた。 そうして電話を切った直後、手の中で再びスマートフォンが震えた。SNSアプリへのメッセージ。怪訝な顔でそれを開いた僕の目の前で、五つのクエスチョンマークが映し出された。差出人は行きつけの喫茶店〈ダネイ・アンド・リー〉のマスターだ。僕の最大の協力者であるところの彼が送るそのマークの意味は一つ。 「……マミーモン、依頼みたいだ」 「マジかよ。少しは休みたいぜ」 「クエスチョンマークが五つ。僕らの間の暗号については話しただろ? レベルファイブの依頼だ。逃す手はないよ」 「その痛々しい暗号、お前はともかくマスターはいいのかよ。まあこの際、猫探しじゃないなら何でもいいぜ」 「二人とももう行くのか。ワトソン役が必要ならついていくけど?」  昴の軽口に、僕は椅子を立ってコートを羽織りながら肩をすくめる。 「秘密のある依頼人もいる。僕らだけの方がいいよ。それに伝記作家は必要ない。自分でやるからさ」 「ホームズにしてワトソンってことか。敵わないね」 「言ってろ。木村についてはほぼ解決だけど、ことが完全に落ち着くまでは報告を続けるよ」  マミーモンと共に教室を出る間際、僕は昴を振り返った。 「そうだ、昴」 「なんだ?」 「さっき言ってた、木村達に暴力を受けてた学生だけど、木村達が逮捕されても不安だろう。心にも体にも、もう治らない傷を負ってしまってる」 「……俺にできることが?」 「僕が必要だと判断して、さらに彼がオーケーしたら、相談相手として紹介してもいいか?」  「俺からも頼む。早苗と俺じゃ、どうもそういうのは無理そうだ」 「……ああ、もちろん」  昴は少し目を丸くした後、頷いて、それから笑った。 「なんだよ」 「いや、でもお前ら、自分で思ってるよりも、そういう相談事向いてると思うぞ」  その言葉に、僕とマミーモンはしばし顔を見合わせ、それからそろって肩をすくめた。 「だとしても、僕らは探偵だ」 「そうだったな。行ってこい」 「言われなくても」  そう言うと同時にぼくはその場で思い切り地面を蹴り、背の高いマミーモンの被った中折れ帽をかすめ取り、自分の頭に乗せた。マミーモンが何か言う前に、僕はそのまま階下に降りる階段に走り出す。 「あ、おい、返せよ!」 「いいだろ、たまには僕が気分出したって」 「似合ってないぞ」 「うるさい。依頼の前なんだ。これくらいさせろ」 「いや返せって、なあ、マジで」 「ほら、誰か来た。早く隠れて」 ──その手には乗らねえぞ。早く返せよ。 「きっちり隠れておいて何言ってるんだよ。久しぶりの〈ダネイ・アンド・リー〉だ。レベルファイブとなればマスターもノリノリでおごってくれる。何頼むか決めとけよ」 ──いっても珈琲のサービスくらいだろ。 「たっぷりのミルクに砂糖は五つ。そろそろお前を齧ったらコーヒーシュガーの味がしそうだよな」 ──好きにさせろ。俺は甘いのが好きなんだよ。  彼の言葉に笑うと、僕は帽子を被ったまま階段を駆け下り──そして、下の階で、同じく走ってきた背の低い女子生徒とぶつかった。 「あ、す、すいません!」 「ううん、こちらこそ……。って、早苗くん。その帽子どうしたの。お洒落さんじゃん」 「あ……奈由さん」  周りに聞こえないのをいいことに背後で大笑いしている木乃伊に心の中で小さく舌打ちしながら、僕は頬を紅潮させて初瀬奈由から目を逸らし、とりあえず、何はなくとも、とにもかくにも、忌々しい中折れ帽を頭から外した。気になる女子の前では、ハード・ボイルドでいるのは難しいことなのだ。              次の話≫≫≫
ブルー・ジーンズの花嫁 プロローグ content media
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マダラマゼラン一号
2019年11月05日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy         ≪≪≪前の話 終-1 放課後/最後の仕掛人/残された語り手のこと 「あ、早苗くん、やっほ」  翌日、業間の休み時間に学校の廊下をぶらぶらと歩いていた僕に、前から歩いてきた少女が声をかけた。 「……奈由さん」  初瀬奈由、その姿は二日前に見ているはずなのに、なぜだかその澄んだ声を聞いた途端に、僕は力が抜けてその場にへたり込みそうになった。なんでこんなことをしているんだ。さっさと全部放り出して、普通に彼女にみっともない方恋慕をすればいいじゃないか。そんな思いが脳裏でこだまする。平穏を取ったところで別に彼女との恋路を遂げられるわけではないのは我ながら情けの無い話だ。 「その痣、どうしたの?」 「なんでもないよ、ちょっと転んでさ」  僕はなるべくそっけなく聞こえるように、そう答えた。 「奈由さんは、移動教室?」 「そうそう、体育ね」  彼女は手に持った体操着の袋を持ち上げて、にこりと笑った。 「そう、それじゃあ」 「え、あ、うん。それじゃ」  不愛想にそれだけ言って立ち去ろうとする僕に、奈由は何か言いかけて俯く。 ──普段ならぶん殴ってやるところだが、今はそれで正解だ。あんまデレデレするんじゃねえぞ。  分かってるって。マミーモンの声に舌打ちしながら、僕は話を続けようとする彼女を振り切って歩き出す。 「ちょっと、早苗くん!」  と、奈由が僕を呼び止める。僕が振り返るよりも前に、普段マミーモンの声が聞こえるような位置から、彼女の声が聞こえた。 「週末のこと、よろしくね」  僕が驚いて振り返ると、もう彼女はぱたぱたと走り去っていた。彼女の走る後ろ姿から、左右に揺れるポニー・テールが消えてしまったことに一抹の寂しさを覚えながら、僕は呆然とそれを見送った。 「……え? え!? なに今の、なんか割と近かったよな。マミーモン!」 ──癪だから教えてやんねえ。  いつもの無機質な廊下が極彩色の音楽で溢れ、わくわくと胸が高鳴るのを感じる。さながら「プレイバック」の最後の場面のマーロウのような気分だ。 ──おい、早苗。 「うん? なんだ?」 ──後ろだ。  マミーモンのその言葉と共に不意に音楽が止み、僕は人気の無い廊下に引き戻された。そして僕の背後、人が出払ったはずの奈由のクラスの教室から、数人の男子生徒が出てくる。そのうちの一人は、蒼く燃え立つような毛を身に纏った、獣人の姿をしたデジタル・モンスターを背後に従えていた。 「いいよ、やってくれ」 ──はいよっと。  その瞬間に、僕の背後でマミーモンが動く。最初に彼の足が蹴り飛ばしたのは、獣人を連れた生徒だった。いかにデジタル・モンスターを連れているといっても、実体化させる前に宿主の狐憑きから意識を奪ってしまえばいいだけの話だ。やはり他の人間の連れているモンスターを霊体の内に見ることができる〈死霊使い〉の力は僕にとって大きなアドバンテージだ。  予想のできていたことだが、今朝目を覚まして学校に辿り着いてから、僕はカシマと同じような組織の回し者から尾行を受けていた。向こうとしても襲うタイミングには迷うようだったが、組織は思ったよりもこの学校に深く根を張っているらしく、人気の少ない場所に行くとすぐに誰かが襲い掛かってくる。そんなわけで、今日の僕はトイレに行くにも人が多い時間帯を選ばなければいけなかったのだ。  僕がそんなことを考えている間に、マミーモンはあっという間に襲撃者たちを平らげてしまっていた。 「よし、一丁上がりっと。あの女の方は大丈夫か?」 「追われてはいないね。さっきそっけなくしたのが効いたみたいだ。それに、もうここまで来たら、奈由さんを襲ったところで向こうにもメリットはないだろ。彼女は、いつも友達と一緒にいるし大丈夫さ」 「誰かさんと違って、な」 「うるさいな。この期に及んでなんだよ」  睨みつける僕の視線を交わしながら、マミーモンは気を失った生徒たちを三人まとめて担ぎ上げた。予め、気を失った追っ手のことは、校庭の隅の体育倉庫に並べて寝かせておくことに決めていた。この時期には授業で使われることはない。放課後、部活で校庭を使う連中がそこを開ける段になって、はじめて発見されるという仕組みだ。沢山の学生が気を失った状態で体育倉庫から発見され、そして彼らに皆裏社会との接点があったということが明らかになるという怪事件は、既に伊藤刑事相手に“予言”済みだ。僕の言葉を聞く伊藤のげんなりとした顔を想像するだけで、いくらか愉快な気分になった。  廊下に注意深く気を配りつつ学生たちを運びながら、マミーモンは少し厳しい調子で言葉を続ける。 「分かってるのか? 今日の放課後までに追手の連中どうにかしないと、お前の言ってた計画はどうしたって実行できないだろ。モンスターを連れた連中に尾けられてるお前を放っといて、探りに行くことは出来ない」 「分かってるって、何とかするよ」  僕はため息を吐いた。昨夜相棒に明かした僕の推理と、それを証明するための方法は、この上なく悪趣味で、卑劣なものだ。それでも、それに力を貸してくれると言ってくれた相棒の思いを無駄にはしたくなかった。 「それなら、お前も少しは明るく振舞え。第一、今日の計画のためには、アイツと連れ立って帰んなくちゃダメなんだろ」 「別に復唱してくれなくていいよ」 「言っちゃ悪いけど、できんのか? アイツが女どもに囲まれてる中、「一緒に帰ろう」って、早苗、ほんとに言えるか……?」 「う」  僕は思わず言葉に詰まる。その時が来ればできるだろうと軽く考えていたものの、いざそれを目の前にしたときに、果たして勇気を出せるかは怪しかった。 「な、何とかなるよ」  僕はたじたじとなりながら言う。そう、なんとしても、僕は今日の放課後、彼を誘って帰らなければいけないのだった。      ***** 「なんかさっき、校庭にパトカーが来てたな」 「ホントか?」  帰り道、他にも幾人かの生徒がいる路地を歩きながら、僕は富田昴に白々しく聞き返した。  彼と連れ立って帰るのは、思っていたほど難しい話ではなかった。結局のところ、僕のいるのは現実の田舎町で、コーデリア・グレイの訪れたケンブリッジでも、V.I.ウォーショースキーが立ったシカゴの大学でもないのだ。容姿の整った感じのいい青年の隣には常にブロンドの頭の巡りの悪そうな美人がいるというのは、僕の妄想に過ぎなかったらしい。  もっとも、彼の隣を歩くのは中々に辛いものがあった。決して僕が自分と富田と比較される周囲の視線を意識してしまうほどに自意識過剰なわけではない。僕がこれからしようと考えていることは、富田に僕がほんのわずかでも友情を感じているのなら、すぐにでも取りやめるべきことなのだ。 「どうした、春川、変だぞ」  それはそうだろうさ。顔にできた痣から始まり、一緒に帰ることを持ちかけられたことまで、彼にとっては今日の僕はおかしなことだらけなはずだ。 ──おい、この期に及んで悩んでるのかよ。この時の為に組織の回し者もあらかた始末したってのに。  分かってるよ。僕は深々と息を吐く。  探偵というのは本質的に孤独なものだ。誰が言ったのかもう思い出す気にもなれない文句が、これほどひしひしと身に染みることになるとは。多くの物語で、探偵は外からやってくる介入者だ。事件にかかわるすべての人間を疑う代償として、すべての人間から、真の意味での信頼を得ることができない。知らない人々の物語の中で事件に挑むなら、それはまだいいだろう。しかし、それが親しい人々の近くで起きた事件だったら? 一人の学生でなく、探偵として初瀬奈由や富田昴に向き合うことは、思ったよりもつらいことだった。僕のしようとしていることは、目の前の青年を、幸福で誰からも愛されている青年の、僕のような人間相手にも友人と呼ぶべき人間でいてくれる青年の人生に、暗い影を落とすことになるのだ。 「春川」 「ん、なに?」  互いに無言のまま、ぽつぽつと歩く中で、不意に昴が話しかけてくる。誘った身で何一つ気の利いた話題を出せずにいた僕にとって、それはありがたいことだった。 「春川はさ、この街が好きか?」 「この街って……」 「そのまんまの意味だよ。この市、いや、鰆町だけでいいな。春川は他所から来たんだろ? この街をどう思ってるのか、気になってさ」  僕は肩をすくめる。そうだ。こいつはこういう話題を真っ直ぐな表情で持ち出せる奴だった。 「そういう聞き方するってことは、富田はここが好きなんだな」 「ああ。好きだよ」  僕の問いに、彼は迷いなく答える。 「俺は生まれも育ちもこの辺りでさ。昔から、地域の行事にも参加したりしてさ。いろんなことをこの街から教わったよ」 「お父さんも、ああいう仕事をしてるし、か?」 「やめてくれよ。親父の仕事は関係ない……とは言い切れないな。親父も、親父の仕事も好きだよ。でも、大人に言い聞かされてそう思ってるわけじゃない。この街が好きだから、この街の為になる親父の仕事が好きなんだ」 「そう。僕は──」  僕は彼から目を逸らし、自分の足元を見る。老人の殺しを探り、未来のない夫婦の像を見せられ、少女のエロ写真を売りさばく連中に関わって自宅に押し入られ、救急救命士に殺されかけた一人の無力な男子高校生が、彼に皮肉な笑み以外の何を返せるだろう。  けれど。僕は微笑む。僕は男子高校生である前に、今は一人の探偵だ。決して住む街を愛するタイプの探偵ではないけれど、リュウ・アーチャーがそうであったように、この街のねじまがった神経のつながりを見つけ出し、繋ぎなおすのが今の僕の役目だ。  僕はこの一週間足らずで、沢山のつながりに出会った。その多くは失われてしまっていたけれど、僕が(そう、なんとこの僕が!)結ぶことができたものもいくつかある。坂本弥生のことを想う伊藤の言葉や、マスターとワイズモンの和気藹々とした会話を思い出すならば──。 「……うん。そうだな。僕も好きだよ。この街」 「……そうか」  昴はそう呟くと、すっかり薄暗くなった路地に輝く街燈を見上げる。いつの間にか周りから人はいなくなっていた。目の前に現れたT字路を前に、昴が口を開く。 「あ、俺、ここ右だ」 「僕は左」  僕と彼はお互いに顔を見合わせる。 「じゃ、また明日な」 「うん、また、明日」  小さく手を上げ去っていく昴の背中を見送りながら、僕は深く、深くため息をついて、小さく口を開いた。 「オーケーだ。マミーモン、行ってくれ」 ──おうよ。  僕の隣でつむじ風が巻き起こり、マミーモンがふわりと地面に降り立つ。。 「霊体のままなら、尾行に困ることもないんだがな」 「でも、そうしないと“コレ”を運べないだろ」  僕はポケットから一枚の紙を取り出し、マミーモンの背中に向けて差し出す。 「知りもしない人の顔を、覚えていられるわけでもなし、持っとけよ」 「ま、それもそうか──」  その紙を受け取ろうと振り返ったマミーモンの顔が、薄暗がりの中でもそうと分かるほどに歪んだ。 「──早苗、伏せろ!」  その言葉と共に彼が僕の腕を引っ張り、地面に引き倒す。何かがぶうんと音を立てて僕の頭を掠め、その風圧に、マミーモンに渡そうとした紙片が手を離れ、宙を舞った。 「あっ」  慌てて手を伸ばすも、紙片はひらりと僕の手をすり抜ける。ソレを追って顔を上げた僕の視線が、その先で、険しい顔を浮かべた人物──富田昴を捉えた。 「富田……」 「なんだ、これは?」  彼は掴んだ紙片に目を落とす。その途端、彼の顔がひどく歪んだ、すぐに、怒りの表情が、僕に向けられる。 「春川、お前か、お前だったのか」  僕は肩をがっくりと落とした。僕がマミーモンに渡そうとした紙片──遠野古書店で入手した、あの幼い少女の写真を見れば、大抵の人はぎょっとして顔を歪めるだろう。けれど、怒りに震える昴の顔は、真っ当な道義心から生まれる怒りだけによるものとは思えなかった。 「やっぱり、そうだったか」 僕はそう呟き、その口調の冷静さに自分でぞっとした。昴の反応は僕の推理の正しさを裏付けていて、けれど、それはちっとも嬉しいことではなかった。 「その写真の女の子、やっぱり」 「ああ、そうだよ」  昴は一度頷き、今度は前よりもっと鋭い、殺意さえ帯びた瞳で僕を見つめた。 「セナ。俺の、妹だ」  僕は深く、深くため息を吐いた。 「春川、お前が!」 「昴、話を聞く頭は残ってるよな。僕はその写真を撮っても売ってもいない」  今にも殴り掛からんとする昴に向け、なるべく早口で言う。しかし、僕のその言葉を遮るように、背後で聞き覚えのある声がして、僕の背筋は粟立った。 「スバル、騙されてはいけないよ。目の前のその少年こそが、我々の探していた敵だ」 「おいおいおいおい、勘弁してくれ!」  僕は思わず、薄暗い夜に向けて大きな声を上げた。僕の背後にいる“彼”に目を向けながら、隣でマミーモンが声を絞り出す。 「どういうつもりだ……ネオヴァンデモン!」      ***** 「リアライズして人間を襲うなんてちょっとした賭けだったが、おかげで証拠の写真を奪うことができた。スバル、我々の勝利だ」 「ああ、喜ぶ気にはなれないけどな」  仲の良い友人に語り掛けるような調子で、ネオヴァンデモンは昴に話しかける。それに対する彼の返事から見ても、ネオヴァンデモンが憑いていたのは彼で間違いがないらしい。 「気色悪い声出しやがって」  隣でマミーモンが小さく呟く。僕も目を昴に向け、声をかけた。 「富田、ネオヴァンデモンに何を吹き込まれたかは知らないけどな。こいつはお前を騙してる」 「騙してる、だって? それはお前じゃないか! お前、あのカシマってやつに俺を仕向けたろ。あの時アイツと一緒にいた奴を後で問い詰めたら、全部教えてくれた。連中は違法な写真の撮影や売買をする組織に関わってて、カシマはその仕事をしくじったって」  僕は顔をしかめる。その通りだ。富田はがカシマの取り巻きと話をする可能性を考えておくべきだった。 「お前に言われてカシマを懲らしめた次の日には、アイツは学校に来なくなった。お前、組織の為にアイツに何かしたんだろう!」 「馬鹿なことを……」 「それだけじゃないな」 背後でネオヴァンデモンが口を挟み、昴もそれに応えて頷く。 「この間の土曜日もだ。あの時のお前、約束の時間をすっぽかしたり、その後、変なとこ歩いてたりしてたよな?」 「それは……」 「あの晩、ちょうどあの辺りで、人殺しがあったそうじゃないか。この場合、もっとも疑われるべき人物は誰か、はっきりしていないかね。理由もなく、あの時間、あの場所にいた人物」 「おい、冗談はよせ!」 満足げに話す吸血鬼に向け、マミーモンが叫んだ。 「俺たちにあの場所を、あそこに坂本がいることを教えたのは、ネオヴァンデモン、お前だろうが!」 「なんのことだい?」  吸血鬼は白々しくそう言って、けらけらと笑った。 「クソが……何がしたい!」 「私がしたいことは、最初からずっと変わっていないよ」 「……ああ、そういうことか」  僕は背後のネオヴァンデモンの言葉に、顔を歪めて息をついた。隣に立つマミーモンが不思議そうに、それでも視線を吸血鬼に向けたまま尋ねてくる。 「どういうことだ、早苗?」 「ネオヴァンデモンの目的は、最初に僕らがアイツと出くわしたあの夜から変わっちゃいないんだ。マミーモン、お前を自分の下に連れ戻すことだよ。それ以外のことは、全部嘘だ」  僕のことを気に入ったとか、仕事を代わりに僕たちにやってもらうとか、あんなのはただの方便に過ぎない。 「アイツは初めから気づいてたんだよ。お前を連れ戻すために僕を殺すっていうやり方は、立場を考えてもマズいし、お前の心が決定的に自分から離れてしまうことにもなりかねない。だから、僕たちをわざと泳がせて、疑われる理由をでっちあげ、人間の世界のやり方で始末しようとしたんだ」  僕の言葉に、マミーモンは軽く頷く。 「なるほどな。牢屋に閉じ込められたら、俺が早苗についていく理由もなくなるってか」  彼はははっと乾いた笑いを上げ、いつの間にか手に持っていたマシンガンを、目の前の吸血鬼に向けた。 「舐められたもんだぜ」 「マミーモン、本気で私にたてつこうというのかい?」 「ああ、本気さ」  僕はその会話を聞いて、ほっと息をつくと目を前に向けた。マミーモンの声の調子には、前のような恐怖は感じられない。依然状況は絶望的だが、僕は僕にできることをやるべきだ。 「富田、本気で僕を疑ってるのか」 「話を聞かなければいけない、と思うだけだ。その理由は、さっき聞かせたろ」  ああそうさ。僕は頬の裏を噛む。まったく、完璧な推理だ。レストレード警部とおんなじくらいに完璧な推理だ。でも、僕の用意した趣味が悪いジョークに比べれば、ずっとずっとマシだ。  でも、僕は唇を噛む。「あの写真の少女は富田セナ」、それを証拠に、僕の推理は全て裏付けられた。本当はマミーモンに彼の後をつけさせ、誰にも気づかれずに確かめたかったが、富田を傷つけたくないがための全ての配慮も、これで全ておじゃんだ。 「……いいよ、話を聞かせてやる」クソッタレな、真実を。 「ここじゃないどこかでな!」  僕の言葉に重ねるようにマミーモンが叫び、宙に飛び上がる。彼がはくるりと一回転してマシンガンを昴の足元に打ち込むと同時に、僕は真っ直ぐに走り出した。 「ぐっ……おい、待て!」  後ろで富田の声が聞こえる。振り返る時間はなかった。その必要も、感じなかった。      ***** 「いまの、止められたろ」  二人が走り去った後に、マミーモンは再びネオヴァンデモンに相対した。 「別に、勝手にやればいいのさ。博打みたいなものだよ。我々の行く末は、あの二人の少年の喧嘩に託されたというわけだ」 「我々? 俺の行く末の間違いだろ」  彼は大きく息をつく。ネオヴァンデモンはずっと気やすい口調になって、かつての部下に話しかけた。 「マミーモン、私がどれほどお前を連れ戻したいと思っているか、これで分かったろう? こんな状況に持ち込んでおいてから言うのもなんだが、本当に、戻ってくる気はないのかね?」 「ねえよ。どうせ、人間界に来た時にたまたま俺がいたから、玩具にしただけだろ」  マミーモンはそう答え、マシンガンを持ち上げて相手の顔に向ける。ネオヴァンデモンはその長い指を顎に当て、小首を傾げた。 「どうした? 我々には戦う必要はないだろう? 賽は投げられた。決着はいずれ勝手につく。お前もわざわざ、勝ち目のない戦いをする必要はないはずだ」 「……なかった」 「なんだ?」 「早苗とあのガキ、アイツらにも、戦う必要なんてなかった!」  マミーモンの叫びに、ネオヴァンデモンは苦笑を浮かべる。 「おいおい、本当にあの人間に入れ込んでしまったようだな。探偵だか何だか知らないが、自分の牙に名前を付けても、それを振るうのにためらいが生まれるだけだよ」 「かもな、でも、理由もなく牙を振るったやつがどうなるか、最近散々見せられたもんでな。流儀を持つのも、悪くないと思うのさ」  ネオヴァンデモンは嘲るように笑う。 「流儀? 人間の受け売りの流儀か?」 「受け売りでも、俺の相棒はそれなりによくやってるぜ」  マミーモンは肩をすくめ、背後で迷いなく変えだしていった相棒のことを思う。最初と同じ、背中合わせで逆方向に走っていく仲間。そうだ、俺の“欲しいもの”は、もう手に入ってたんだ。 「フィリップ・マーロウ曰く“撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ”。手慰み程度の気分で人を散々駆けずり回らせたからには、その胸に一発ぶち込まれても文句は言えねえよな」 「……それなら構わないさ、お前には私の翼に傷の一つもつけられない。かかってきたまえ」  木乃伊は大きな笑みを浮かべ、アスファルトを蹴った。     *****  不意を突いて駆けだしたとはいえ、こちらは日ごろから運動不足な中にここのところ無茶を重ねていた身だ。運動神経抜群で万全のコンディションを保った昴に追いつかれるのは時間の問題だった。しかし、いつまでも逃げる気はこちらにもない。  とうとう追いつかれ、襟首を強い力でぐいと引っ張られた瞬間に僕は鞄に手を突っ込んだ。昴がものすごい勢いで僕を塀に押し付ける。 「捕まえたぞ」 「本当にそう思う?」  僕のその言葉に視線を下に向けた彼の顔が大きく歪む。その喉元には、僕の手に握られた長いナイフ──僕の部屋を荒らした組織の人間が残して言ったやつだ。  彼が怯んだ瞬間に、僕は膝を彼の腹にいれる。うめき声と共にうずくまる彼を、僕はナイフを突きつけたまま壁に押し付け返した。 「少しは冷静になったかよ」  こんな状況でも昴は怯むことなく僕を睨みつけてくる 「春川、こんなことして、楽しいか?」 「こんなこと、だって?」 「大人の世界に首突っ込んだ気になって、人の生活を引っ掻き回すのが、そんなに楽しいかって言ってるんだよ!」  僕のことを犯罪者だと思っての発言だろうが、その言葉は別の方向から、僕に突き刺さった。 「僕は何もしちゃいないよ。ある人の為に、真相を探ってただけだ」 「そのために、セナの写真を持ってたっていうのか! あの写真が、どれだけあの子を貶めると……」 「だから、なるべく彼女を傷つけずに今回の事件を……」 「誰がそんなこと頼んだ? 頼まれたとして、お前にそんなことをする権利があるのか? ただの部外者の、お前が!」 「分かってるさ。だけど、こっちにも意地がある。だからこうしてるんだ」  僕は彼の目を真っ直ぐと見据え、口を開いた。 「話を聞かせてくれ。富田。真実を求める、この僕に」  彼の言う通り、ぼくは部外者だ。けれど、人々が探偵を求めるのは、彼が部外者だからこそなのだ。事件の当事者たちは、皆一様に話を聞く余裕なんて持っていない。だから探偵がいるのだ。悲しい物語の中で、唯一誰かの為に話を聞ける人物、誰かの思いを背負うことのできる人物。  昴こそ、この事件の中で探偵に向けて最後に語る人物だった。そうしたら、僕の番がやってくる、今まで話を聞くだけだった探偵が、最後に語る時間がやってくる。  僕の目を真っ直ぐに見つめ、富田は立ち上がり、厳しい顔のまま、一つ頷いた。 終-2 最後のステップ/哲学と拳銃/残された聞き手のこと  警察署を訪れるのには、僕もこの一週間でもうすっかり慣れっこになっていたが、夜の八時を回った警察署を訪れるのはまだ緊張していた。何と言ったって今週まだ二回目なのだ。 東警察署はこの小さな街の官庁が集まった通りにある。緑の木々に囲まれた中央通りの中で、署の建物は古くからある裁判所や市役所、県庁の大きな建物達の端の方にすっくと立っている。建物は小さく見えたが、白井が一人、それに準ずる人間が数人あの中にいると思うだけでその埋め合わせには十分に思えた。それよりなにより、この時間になっても光がともっているのは、ここと、少し先の新聞社程度のものだ  僕は少し息をして、隣の昴に目をやる。建物から漏れる光を受けて、彼の肩は大きく上下しており、緊張が伝わってくる。かく言う僕自身の心臓の鼓動(ブルー・ハンマー)も、その持ち手をブランコから落ちたばっかりのピエロに預けてしまったかのようにめちゃくちゃな代物だった。僕も、そして多分昴も、こういう場面で後ろに自分だけに見えるおしゃべりなデジタル・モンスターがいることが普通になってしまっていて、自分の身一つで緊張に立ち向かうことがどんなにキツいことだったか忘れてしまっていたようだ。 「富田、大丈夫か?」 「……ああ」 「段取り通りやればいい。話すべきことを、話すべき相手に話すだけだ」  僕の問いかけにも、彼は軽くうなずくばかりだ。しかし贅沢は言っていられない、もし再びネオヴァンデモンが彼の背後に戻ってきたら、すべてが台無しになってしまう。マミーモンが彼と戦っている間にすべてのカタをつける必要があった。昴なら、彼の話を聞いて僕が即席で立てた段取りにもうまく乗ってくれるはずだ。そう願いながら、僕はスマートフォンをポケットから取り出し、伊藤を呼び出す。 「……ああ伊藤さん、僕です。春川です。警察の皆さんはお元気にしてますか? 情報提供者を一人引っ張ってきましたよ。ええ、そうです、学校帰りにです。そういう部活やってるもんで。情報提供者引っ張り部。分かったらさっさと出てきてください」  そうまくしたて電話を切ると、僕は再び昴の方に顔を向けた。 「よし、警察がきたら、何を話せばいいかはわかってるよな? 大丈夫だ。伊藤は話の分かる警官だから」  彼は無言でこくりと頷き、大きく深呼吸をすると、僕と共に自動ドアの開閉音の中に踏み出す。そして広間の奥のエレベーターが開き、伊藤が僕に向けて手をあげて挨拶をした瞬間に──。 「──ッ!」  昴が、僕のみぞおちに手刀を叩きこんだ。 「お。おい、何するんだ!」  うずくまってせき込む僕の頭上で、伊藤の声が響く。肩にかけた鞄の紐を昴が引っ張るのに気づき、必死にそれを握り締めたが、その瞬間に、二度目の衝撃が、今度は腹にきた。357マグナムでもくらったみたいな感覚だ。しかし少なくともそれは拳銃じゃない、結果として僕はまだ生きている。雨ざらしのボール紙に火をつけたみたいにくすぶった息をしながら、僕は目に浮かぶ涙の向こうに、自分の鞄が取り上げられるのを見た。 「おい、彼から離れろ!」 「離れますよ。でも俺は脅されてたんだ。この中身を見てくれ!」  昴の声に続いて、がさがさと鞄の中身を探る音がする。結果は見なくとも分かっている。いくら天下の不良警官と言えども、第三者の前で明らかに法に触れる刃渡りのナイフを見逃す度胸はないはずだ 「早苗君。これは……」 「言わなくてもいいです」  呆気にとられた様子の彼の前で、僕は立ち上がり、制服についた土を払う。大丈夫。どんな探偵たちだって一発くらってうずくまるくらいはしている。そう自分に言い聞かせて顔をあげると、視線の先に、昴の鋭い眼があった。そこに浮かんだ普段の彼からは想像もつかない怒りに、背筋が粟だつのを感じる。 「……二人とも、とにかく署の中にくるんだ。手錠は掛けないでおこう」  そう言って伊藤は僕たちの視線の間に割って入ると、半ば強引に背中を押して、僕の体を警察署の方に向けた。 「そんなに押さなくても、自分で行きますよ」 そう言って、僕は小さく短く口笛を吹く、信じがたいという目を向けてくる伊藤と昴に見えないように、僕は唇の端を大きく引き上げた。 全てが思い通りに行かないのは初めから分かっている。もとより切札ジョーカー不在、負けの込む中で僕が始めたテキサス・ホールデムだ。笑顔でショウダウンを迎えるには、鉄板の上で踊る奴隷さながらに、必死のステップで道化ジョーカーを演じ切るしかない。 みぞおちはまだずきずきと痛み、息をするのも苦しい。それでも、しっかり立ち上がって澄ましていられたのなら、立派にマーロウ映画の代役をこなせる。一番はボギー、二番は僕。合言葉は決まっている。 “タフでなければ生きていけない”。  鞭を取るのは僕。席に着くのは君。さあ、哲学(ハード・ボイルド)の時間だ。      ***** 「……まったく、よくやるものだね」  目の前に現れたマミーモンの蹴りを、手のひらに作った紫の逆巻く渦で軽くいなしながら、ネオヴァンデモンはくすくすと笑う。少しも指を触れていないのに大きく地面にたたきつけられた体をアスファルトから起こしながら、マミーモンは土気交じりのつばを吐き、悪態を突いた。 「ったく、俺よかずっと死霊の扱いがうまいんじゃねえのか」 「当たり前だろう。体が腐り落ちたとて、私は“月光将軍”だ。いや、腐り落ちたが故に“月光将軍”なのかもな」 「へっ、勝手なこと言ってやがる」 「そう言えば君は決して腐らない男だったね。私の最高の木乃伊。そういうところが、私は好きだったのかもしれないな。誰しも、自分とは違うものを欲するものだ」 「俺はモノじゃない。ましてやテメェのモンじゃねえ!」  そう叫んで彼は手の中に生成した鉄の塊を放る。それ──銃口の口をふさがれ、ただの鉄の棒になった“オベリスク”──を軽く受け止めると、ネオヴァンデモンは呆れたように軽く笑う。 「しかしどうだ? 腐り落ちた私と、決して腐らぬ君との戦いは、ここまでお粗末じゃないか。使えなくなった銃を私に投げつけて、それが奥の手か?」 「勝手に言ってやがれ。その気ならすぐにでも俺を狂わせられるくせに、放っておいて弄んでるつもりなんだろ」 「違うね。元より今の君は私には理解できない。狂わせたところで、面白みはないさ」 「自分に分かんないことを言う奴はみんな狂ってる、ってか」  肩で息をしながら、マミーモンは鋭い目で相手を見据える。 「忘れんなよ。あんたと俺は真反対さ。でも、一つだけおんなじことがある」  そう言って、彼は再びネオヴァンデモンにとびかかる。紫色に輝く渦の向こう側のネオヴァンデモンを見据えながら、彼はにやりと笑みを浮かべた。 「──あんたも俺も“不死身”なのさ。でも俺のは、あんたのとはわけが違う」 「ほう? どう違うんだい?」 「魂が、さ」  彼の言葉に、ネオヴァンデモンはけらけらと笑う。 「そんな風に青臭いことを口にするようになるとはね。バカげている。私のお気に入りの木乃伊は、どこかに行ってしまったようだ。そういう君には、もう興味はない」  そう言って彼は、だらりと下げた腕を持ち上げた。その手に、何かを握りつぶすように力がこもる。その瞬間に、マミーモンは悲痛な叫び声をあげた。掌の中の容積が小さくなるに連れて、その声が大きくなっていく。 「お望み通り、これで終わりだ」  ネオヴァンデモンが手にぐっと力を籠めようとした瞬間、彼の手の中に感覚がなくなった。ふっと彼が眉を上げた瞬間に、その懐の中、彼の顎の下で、マミーモンが鉤爪を振り上げた。その手の軌道に走る紫電を目で追いながら、ネオヴァンデモンの瞳に初めて屈辱の色が浮かぶ。 「……なんだい、今の動きは」 「さァな、俺も知らねえ。……とにかく、テメェに一発入れてやった。一発入れてやったぞ!」  ネオヴァンデモンから距離を置いて着地しながら高笑いをあげるマミーモンの耳元で、一陣の風が吹いた。 ──ははは、ぼくのおかげでお前は奴に一撃決められたってわけだ。 「……おい、待てよ。まさかブラックラピッドモンか? 勘弁してくれ」 ──死霊の声を聞けるってことは、当然ぼくの声も聞けるってことだ。考え付かなかったかい? 「こんな風に話しかけられるとはな。確かに早苗に同情したくなってきたぜ。……おい、なんで手を貸した。このクソ野郎」 ──ぼくをあんな風に殺した奴に意趣返しがしたかった。ってとこかな。本当は直接文句を言えればよかったんだけど、ネオヴァンデモンの奴は死霊の力を使うばっかりで、ぼくらの声なんか聞けないらしいぜ。 「おいおいマジか。そいつは……とんだお笑い種だな」  そう言いながら笑い続けるマミーモンを、ネオヴァンデモンは怪訝そうに見下ろす。 「何がそんなに可笑しい?」 「アンタにもできないことがあると知って嬉しいのさ。これは早苗の受け売りなんだが──」  その言葉と共に、彼は鉤爪を天に掲げる。 「“悲しい物語の中で、唯一誰かの為に話を聞ける人物、誰かの思いを背負うことのできる人物“。どうやら、それが俺の、探偵の役目らしいぜ。聞こえたか! 死霊ども!」  彼の言葉に呼応するように、その手の先の鉤爪に紫の雷撃が集まり始める。 「よお、サイバードラモン、元気してたか」 ──気にしてないよ。キミが怒りに任せてボクを殺したことについてはね。実のところ、他の誰より、キミの味方をしたい気分なんだ。 「それは嬉しいね。デスメラモン。テメェはどうだ?」 ──ヤヨイはどうしている? 「ま。それだよな。ネオヴァンデモンたちに任せるより、俺たちに任せる方がマシだ。ま、そこんとこ分かれよ」 ──今のヤヨイはそれなりに笑っている。それを信じよう。 「みんな物分かりが良くて何よりだ。」  そう言いながら死霊との会話を続けるうち、マミーモンの手に紫電が走り、やがてそれが一つの形を成す。次の瞬間には一丁のリボルバー──死霊たちの思いを託した銀の弾丸を込めた銃口が、ネオヴァンデモンを向いていた。 「……ほう、予想外の展開だ」 「それはもっと後に、こいつを喰らってから言うセリフだぜ。ネオヴァンデモン。こいつはテメエへの憎しみ、或いは俺への想いで作られた拳銃だ。死霊の話を聞かずに、ただ利用するだけのお前には一生作れない、“探偵”の俺だからこそ作れた拳銃だ」  そう宣言し、彼は今だ笑ったままの敵に拳銃を構える。 「──さあ、行くぜ、ネオヴァンデモン。拳銃(ハード・ボイルド)の時間だ」 終-3 桃色の虫/示された真実/灰色の部屋のこと 「しかるべき人に話をさせてください。どういうことなのか、説明します」 「当然だ。でもその前に、ぜひ君から説明を聞きたいね」  もう来るのは何度目かの取調室。先日の白井との話の時のような余裕はもうない。目の前の伊藤の質問をいなすので精いっぱいだ。 「富田はどこです?」 「今の君と彼を引き合わせられると思うのかい? 被害者と加害者だよ。彼とは金沢警部が話をしてる」 「……僕の家族には連絡しましたか?」  こればっかりは僕にはコントロールができない事柄であり、探偵が高校二年生に向かない職業である理由の一つだ。声に滲んでしまった不安を感じたのか、伊藤は皮肉気な笑いを浮かべた。 「僕の仕事になってるが、今はこっちが先だ。天下の春川君と言っても、パパママは怖いのか」 「しょうがないでしょう。実家の母を鰆町行のワンマン電車に乗っけるのは忍びないですからね」  ふんと笑いながら、伊藤は椅子の背もたれに体を預けた。 「正直、君に説明の時間を与えたいのはやまやまだ。俺たちには説明できない事情がごまんとあって、こうなったんだろうからな。俺個人の感情としては、守ってやりたいのも確かだよ。けれどさ、こうなったからにはどうしようもない。」  さて。そう言って伊藤は机に肘をつく。 「まもなく富田源治議員がやってくる。単に被害者の保護者としてだが、我々も代議士には弱いんだよ。加害者には厳しい処置をということになるかもしれない」 「分かりますよ」 その通り、警察がいかに無力か、僕は十人の探偵の十通りの言葉で説明できる。折角だから十一個目も加えるとしよう。十戒を書き換えるわけじゃなし、ノックスも許してくれるだろう。春川早苗曰く、このクソッタレ、だ。 「君は富田昴くんとそのお父さんの前で、状況の弁明をすることになる。もちろんその前に、君のご両親に連絡したうえ、立ち合いを求めたり弁護士を雇ったりすることが……」 「その必要はありませんよ。やってもいいけど、多分後悔するのはあなたたちだ」 「……随分余裕みたいだ。いいのかい? 強がったって誰にも届きやしない。今は、より良い手を考えるべきだと思うけれど」 「分かってないなあ。伊藤さん」  僕は目の前で呆気にとられた顔をしている伊藤の顔を見上げると、唇の端を引き上げた。 「最後の手は、もうすでに打ってるんです。僕が目下考えているのは、次のデートのことですよ」 「……そううまくいくといいんだけど」  彼が息を吐くのとほぼ同時に、短いノックが静寂を破った。やってきた警官を何やら話をして、彼は僕の方を向く。 「そら、議員がやってきたよ」  僕は頷いて椅子を立つと、大きく息を吸う。このトラブルともそろそろお別れだ。せいぜい立派に踊るとしよう。 「ところで、伊藤さん」 「……なんだい?」  ドアの光の一歩手前で立ち止まり、僕は唇を引き上げると、小さく口を開いた。 「僕の桃色の虫は、この部屋まで上がってきましたか?」  伊藤が何か言おうとする前に、僕は灰色の光の中に飛び出した。      ***** 「……何の話をしているのかな」  真っ白い面会室、僕の真向かいに座った富田源治議員はゆっくりと息を吐きながら、怒気を含んだ声を発した。その隣で頬杖をついている昴も、緊張を隠してはいるようだが、その肩はこわばって震えている。僕の背後の伊藤はきっと訳が分からなくて頭を抱えたくなっているだろう。ほんとの話、この警官をさんざんに振り回すことのできる喜びを原動力に僕は前に進んでいるのだ。 「私はてっきり、息子への謝罪を聞けるものだと思っていたんだがね」 「やめろよ親父、今日はもう一つ、話があるんだ」 「そう。略式法廷で僕を死刑にするなら、悪いけどまた今度ってことで」 「口を慎みたまえ。謝罪をしないのは自由だが、高校生にもなって、しかもこういう場で滑稽な夢物語を語りだすのは恥ずかしいと思わないのか。人間に取り憑く怪物で、それが人を殺して回っているって? そんな話を聞きに来たんじゃない」 「……本当なんだよ、親父」  唐突に昴がぽつりとつぶやいた言葉に、源治は驚きを隠す暇もなく振り返る。 「昴、お前まで何を言ってるんだ。彼に何を吹き込まれた? 交友関係には気を使っているものと思っていたがな」 「春川はまともだよ」 「夜中に人気のない通りをうろついて、一日二日で顔に痣を作ってくるような人間がか?」 「ちょっとちょっと、親子喧嘩はやめてくださいよ。とにかく今は僕が完璧に正気だって仮定の下に話を進めましょうよ」 「君の方に話をする気がまるでないのに?」 「話をする気がないのは貴方の方でしょう? 富田源治さん。あなたはもっと前にここに座って。もっと別の話をしているべきなんだ」 「何の話だ」  鋭い目で僕を見据える彼を睨み返す気にもなれず、僕は息を吐く。小さいころからあこがれていた科白がある。何度も自分がそれを言うシーンを夢に見たものだ。でも、実際にこの場にあるのは、その科白を言うのが嫌で嫌で、無駄話で本題をなるべく先送りにしようとするガキの姿だ。  でも、言わなきゃいけない。 「富田源治さん。──あなたが、坂本を殺したんですね」  ああ、まったく、最悪の気分だ。       ***** 「この数日間、色々なことを考えてみました」  何を言う、そもそも坂本なんて奴のことは知らない。大声でそんなことを言おうとした富田源治をきっぱりとした口調で遮り、僕はすぐに話を続ける。小説の探偵なら、犯人を名指しした後たっぷりと余韻を持たせるのだろうが、僕にはとてもそんな真似はできない。隙間なく語れ。余計なことまで詰め込んでとにかく語れ。散々人の話を聞いたこれまでの分語りまくれ。そうすることでしかハイに慣れないクソッタレのジャンキーに、エドガー・アラン・ポーが探偵と名を付け、アーサー・コナン・ドイルがヒーローに仕立てやがったんだ。二人とも死んでなかったら僕が殺してるとこだ。 「事件に関係する人物の中で、非合法の写真を売る組織とコネクションを持てたのは誰か。ただのコネクションじゃない。特別で上等でないといけない。遠野さんは貧乏人相手の稼ぎでロレックスを買ったんじゃない」 『良くわかんねえけど、これ、そんなに儲かるのか?』 『さあね。小説では、こういうのは議員や医者によく売れるけど』  パンドーラ・ダイアログの中で初めて例の写真を見たときに僕が何気なく言った科白。そこが鍵の隠し場所だった。戯言まみれの妄想から出発した探偵にとって必要なものは、妄想の末にうそぶく戯言の中に初めからそろっていたのだ。  リズムはもう決まった。マーロウにもアーチャーにもなれない、いつだってワン・ツー・スリーで躓く格好のつかないミステリ・オタク。でもそれが僕の在り方だ。そんな僕自身としてなら、フレディにも負けない無様な足踏みをきめられる。ウィ・ウィル・ウィ・ウィル・ロック・ユーといこう。 「セオリーを重視するんだったらここに“作家”も加えたいところだけど、生憎今回の登場人物に作家はいません。なんにせよ、その人物はかなりの有力者だった。」 「おい君、このバカ話を終わらせろ! それが君の仕事だろう!」  僕の話を遮り、富田源治は僕の背後にいる伊藤に声をかける。正直、振り返るのが怖かった。伊藤に話を止められ、部屋を叩きだされて家庭裁判所に送られる可能性について、僕はこれっぽっちの対策も練っていない。伊藤の好奇心と、ここ数日で彼との間に生まれた奇妙な親近感だけを信じるしかなかった。  背後で音はしない、伊藤はいつものように壁にもたれて、あの憎たらしい顔で憮然としているようだった。 「まあまあ議員。最後まで話を聞いてみましょうよ。どうせ穏やかに話をまとめて彼を帰すつもりはもうないはずだ。法廷に備えて彼の異常行動を集めておくのは、そう悪くない選択だと思いますね」  その言葉に、こっそりと不安そうな目を向けてきた昴を、僕は小さく首を振って安心させる。確信できる、伊藤はもうすっかり、このパーティの踊り娘だ。でも奴はせいぜいバックダンサー、メインは僕だ。奴には僕がロシアの外交官を誘惑し、その首に誰にも気づかれず蛇毒を注射するのを傍観することしかできない。ああ、少しだけ気分が晴れた。 「弁護士ならもう間に合っている。君は警官だぞ。こんなことが許されると……」 「ほら、もういいでしょう。貴方は貴方の科白をしっかり喋るべきだ。僕の推測に対する答えは“なんでそんなことが言える?”の一択です。そこで僕が再び語りだす」  伊藤をなおも攻めようとする源治を制し、僕は言葉を続ける。 「なぜ僕たちの話題の中心にいるミスターXが有力者だと言えるのか? 彼は盤石で大きい組織を“急かすことができる”からです」 『こっちからの異常事態の説明に、向こうは焦っていたようだった。そうだな……。外部の誰かに、せっつかれているような感じだった。ぼく達に、本来やるべきでない仕事をさせようとしたりね』  坂本の失踪を知ったときの組織の上役の反応を、白井はそう表現していた。 「組織の部外者でありながら、組織を焦らせ、おまけに金を払って急ぎの殺しまでやらせようとした。誰のことか分かりますか。僕ですよ。自分に二千万の賞金首だった瞬間があったことを、僕は一生忘れないでしょうね」  僕の科白に、昴が具合が悪そうな顔を僕に向け、何事か言おうとして口を開く。彼には最小限のことしか話せていない。父親が犯人である事件の全貌は、他の聞き手と同じくこの場で知るのだ。酷い顔なのは無理もなかった。そんな中で、僕に対する心配を表そうとしてくれるとは、まったく奇跡みたいな青年だ。 ──でも、うるさいな。少し黙れよ。語り手は僕だ。 僕がぶつけた鋭い視線に、昴は驚きと、少しの恐怖を目に浮かべ、やがて諦めたように肩を落とした。 「……それで? 春川、長々喋ってるだけで、まだミスターXは“組織につながりのある金持ちの有力者”ってことしか俺には分からない」  それでいい。百点満点だ。僕は語り続ける。 「良い指摘だよ。富田。ここからは駆け足で行こう。この事件を複雑にした二つの要素。一つはみなさんご存じ“デジタル・モンスター”」 「まだそんな妄想を……」  僕は首を振って富田源治の抗議を無視する。もとより彼に納得してもらおうとは思わない。嘘をついているだけでモンスターのことはしっかり知っているはずだし、ここで言う“みなさん”に含まれるのは、僕と昴、即ち、ホームズ気どりとハリボテのワトスンの二人だけだ。 「──そして、もう一つの要素は“複数の犯人”です」  背後の伊藤の視線が突き刺さってくるのを感じる。分かってるじゃないか。ここからが見せ場なんだ。 「組織の存在に気づいたときから、僕はずっと敵は一つだと思っていた」  いや、正確には、ビルの上で遠野老人を見下ろすデスメラモンを見た時からだ。まあ、それは必要のない話だ。 「でも、調べるにつれ、不可解なことが増えてきた。犯人像がまるで焦点を結ばないんです。当然ですね。焦点は幾つもあったんですから。いや、具体的な数で行きましょうか。三つ、焦点は三つです」  ふう。ちいさく息をついて、僕は指を一本立てる。 「一つ目の焦点は社会の裏で暗躍し、利益を追求する組織。彼らは何をするにも細心の注意を払い、尻尾を掴ませない。救急救命士を殺し屋に仕立て、不本意にも急がなくてはいけない殺しにも、決して捕まらない暗殺者──デジタル・モンスターを使う」  サイバードラモン、そしてブラックラピッドモン。彼らは組織のとっておきの殺し屋として、見事に仕事をこなしてきたのだろう。 「二つ目は恋に焦がれた男。彼は今回の事件のしがらみにはほとんど関係ありません。けれど、彼の狂愛からくる行為は、結果的には事件を、他の全ての人物の思惑から大幅に逸れた場所に運んでいきました。彼については多くを語る必要はないでしょう。彼はデジタル・モンスターで、既に死んでいます。実際のところ、彼は三つの焦点の中で僕が最も同情を寄せる男です」  デスメラモン。二つの世界を渡り、どちらでもはみ出してしまった男。彼の最期については詳しく聞いていない。彼がどこかに居場所を見つけることを祈るばかりだ。  そして僕は唇を噛んで今なお毅然とした表情で座っている富田源治に目を向ける 「そして三つ目──われらがミスターXですよ。彼はずっと焦っていました。実際のところ、今も焦っています。彼は持ち前の権力で組織の尻を蹴飛ばし、連中の窓口である遠野さん、ひいては逃げた坂本を殺させようとしました。でも結局、彼は、自分の手で坂本を見つけ出し殺した。出会い頭にナイフで胸を三回。あまりに衝動的だ。坂本はミスターXの逆鱗に触れてしまったんだ。なぜなら彼は坂本に──」  そう言って、僕は胸ポケットに右手を差し込み、白い四角形の紙片を取り出す。 「自分の大事な人を……」 「……その写真を出すんじゃない!」  紙片を机に置こうとした僕の目の前で、富田源治が声にならない叫びをあげ、動いた。僕の手から紙片を奪おうと拳を向けてくる彼の隣の昴、そして僕の背後から飛び出した伊藤に押さえつけられながら、彼は大声で叫んだ。 「やめろ、何の為に、これ以上セナを汚す必要がある!」  涙を流しながら、彼は子どもの様に続ける。 「学校帰りに、奴はあの子を攫った。あの子は、何かを注射されたそうだ。殆ど覚えちゃいない。だが、これがどういうことか分かるか? あの子はな、あんなに小さい歳で、自分が女だということを思い知らされたんだ。最悪の形でな!」 「あなたが組織の客として消費してきた、他の多くの女の子と同じように、ね。あなたと組織の繋がりはそれだ。あなたは、客だったんですね。それも、上得意の」  僕はそう言って、手の中の紙片──何も映されていない只の真っ白な写真紙を彼に見せる。それをぽかんとした顔で見つめ、彼は力なく椅子に腰を下ろした。 「どうやら、部屋を変えた方がよさそうですね。……春川くん、あとで話がある」  そう言って伊藤が肩に手を置いても、源治は力なく従うばかりだ。ただ、部屋を出る直前に、彼は振り返り、きっと議会でも振りまいていたであろう強い視線で僕を射抜いた。 「……楽しかったか? “登場人物”に“科白”、そして推理ショーだ。物語の主人公になるのは、さぞいい気分だったろうな。我々の人生をお遊び気分でひっかきまわすのは、楽しかったのか?」   フィリップ・マーロウなら黙って見送るところかもしれない。けれど僕は、そこまで上等な主人公ではいられなかった。 「実際のとこ、あなたの質問に答える気にはとてもなれません。同じ質問を、少し前に友人から受けましたよ。僕は答えて、彼は受け入れてくれた。立派な奴です。忘れませんよ。そんな立派な奴の前で、あなたが同じ問いを憎まれ口に使ったことはね。奴の父親の、あなたがです」  その瞬間になって初めて、彼は椅子の上でこぶしを握り締めて、虚空を凝視しながら座っている昴に気づいたようだった。そんな顔だった。 「待て、昴。私は──」  その言葉が届く前に、ばたり、と音を立てて、灰色のドアが閉まった。僕は、ぴくりとも動こうとしない昴に何か声をかけようとして、思いとどまり、ポケットに手を突っ込んで、壁にもたれると、変わりばえのしない灰色との、永遠にも似たにらめっこを始めた。      ***** 「よお、いい傷こさえたじゃねえか」 「ふん……」  そう言って、ネオヴァンデモンは胸から流れる黒い液体を拭う。 「私の体に傷をつけるとはね。まったく、大したものだ」  そう言っている間にも、彼の胸の穴は少しづつ埋まっていく。 「……ったく、憎たらしいったらねえぜ」 ──同感だね。さあ、もう一発と行こうじゃないか。 ──とはいえ、このままじゃいくらも持たないだろう。 ──ヤヨイを守ってもらうために、生きて帰ってもらわないと困るんだが。 「全員黙ってろ。てめえらの誰とも相棒になったつもりはねえ」 「新しい得物にはまだ慣れないかい? まあ、なんにせよ……」  勝負は変わらない、そう言ってネオヴァンデモンが伸ばした手の先に、一匹の蝙蝠が降り立った。小首をかしげ、彼はもう片方の手の指で蝙蝠の喉を撫でる。 「うん、おかえり。どうしたんだい? ……そうか」  何かを語り終えた蝙蝠の体が崩れ、どろどろの液体になって自分の手の中に吸い込まれていくのを見届けると、彼はマミーモンの方を向いた。 「少年たちの方だが、決着がついたらしいよ」 「おう、どっちも生きてるか?」 「ああ、おまけに二人は協調路線を取り、事件を見事に解決したという。……つまらないね」  彼の言葉に、マミーモンは大きな笑い声を夜に響かせる。 「早苗、やったか。じゃあ俺たちも……っておい!」  マミーモンがリボルバーを向けると、そこには既に誰もいなかった。夜の風に乗せて、彼の耳に声が吹き込む。 「今日はこれで終わりにしよう。なんだか興をそがれてしまったよ」 「おい、ふざけんなよ! 続けてたら負けるかもしれないから逃げたのか?」 「面白い冗談だね。しかし確かに、君がそんな無粋な銃を手にしたとなると、部下への勧誘も考え直さないといけないな」 「はっ、よく言うぜ。また何か思いついたら来るんだろ?」 「私に執着されていると思いこめるとは、君もまた幸せ者だね。それでは、私はこれで」  その挨拶と同時に吹き去ろうとする風に向けて、マミーモンはにやりと唇を引き上げると、声をかけた。 「おい、ネオヴァンデモン、楽しめたかよ?」  「ああ、もちろん楽しんだよ」  そうして、ワンテンポ置いて、夜風が悔しそうに付け足した。 「……君たちほどではなかったけどね」
木乃伊は甘い珈琲がお好き 最終話 content media
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マダラマゼラン一号
2019年11月05日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy         ≪≪前の話 後の話≫≫        『結局私は、この街の破壊された偉大な肉体を横切って移動を続け、その肉体の何百万という細胞と細胞のつながりをみつけようと、同じような夜を幾晩も過ごしてきたのだ。死ぬ前に、いつか神経と神経の繋がりをすべて正しく接続させさえすれば、この死んだ街が生き返るかもしれないという、気ちがいじみた願いと妄想を、私はもっていた。フランケンシュタインの花嫁のように』 ──リュウ・アーチャー(ロス・マクドナルド『一瞬の敵』より) 7-1 痣/本番台本/閉じたドアのこと  僕を襲った白井の殺人術がどこまで確実で、どこまで被害者に傷を残すものかは知りようもなかったが、そう大したものではなかったのだろう。その証拠に、襲われた翌日の日曜日の朝、僕はもう退院の準備を終えて病院の廊下を歩いていた。  退院の許可を出した医者はデスメラモンの鎖が僕の頬に遺した痣(それは一晩を経て青みを帯び、僕の顔に要らぬ凄みを与えていた)にも興味を持ったようだったが、その由来を説明するわけにもいかない。不安げに首をかしげる医者を残して、僕は病院の裏口からゆうゆうと退出し、朝の眩しい光の粒子が指先まで巡るように大きく息を吸い込んだ。  正門側ほどではなかったが、裏口前にも何人かの新聞記者や、腕章をつけてカメラを首からかけた男達が待機していた。当然と言えば当然だろう。テレビのニュースはまだ見ていないが、救急救命士が犯罪組織の手先として人を殺していたのだ。全国規模のニュースになっているはずだった。 「あの、ちょっといいですか?」  その声に振り返ると、実家でも取っている地方新聞の腕章をつけた男がこちらに寄ってきた。 「なんですか?」僕は少したじろいでそう答える。 「いや、この病院の事件はご存知ですよね。今回殺されそうになったのは、高校生くらいの少年だと聞いて」  なんてこった。金沢警部の頑張りも及ばず、情報はある程度は漏れているらしい。これは早く退散するに越したことはないだろう。 「僕は──」僕は咄嗟に自分の頬を指さした。 「これですよ。この痣。酷いもんでしょう? 昨日塾の帰りに階段から落っこちたんですよ。あんまり痛いもんだから、夜中の内にここに来て、今帰るとこなんです」 「あ、そうなんですか」記者の顔には露骨な失望の色が浮かんだ。 「それじゃ教えてほしいんですけど、病院の中の様子とか、警察官とか、被害者っぽい人とか……」 「いやほんと、あんな夜中に病院に駆け込んで申し訳ない限りでしたけど、ほんと良くしてもらえましたよ。なんで顔を打ったすぐ後に来なかったんだってお医者さんには叱られましたけどね」 「その……」 「看護士さんもいい人でしたよ。夜通し痛みで起きてたから、病室で少し休んでいったらどうかって。そりゃ眠くて仕方がないですけれど、お断りしましたよ。申し出はありがたいけれど、帰って寝る方がいい」僕はこれ見よがしに大きくあくびをして見せた。 「えっと……」 「まだなにか?」 「……いえ、お大事に」 「ええ、おやすみなさい」  僕は明るくそう言って、木漏れ日が形作る不思議な模様でめかしこんだ道の中に踏み出していった。と、後ろに何者かのあらわれる気配がして、脳の裏側で声が響く。 ──まったく、ここ一週間で大分嘘が上手くなったんじゃないか? 早苗。 「お、マミーモン、おはよ。そっちはうまくいった?」 ──おうよ、あのヤヨイって女はそこまで好きにはなれねえが、一人でかわいそうなくらい沈んでやがった。俺が来て多少ビビってたみたいだったけど、結局は安心してくれたな。最後には一晩中話し相手にさせられたよ。 「隔離病棟からも出してもらえたんだね」 ──ああ、さっき本人の希望で伊藤と面会してたぞ。 「そりゃあよかった」そうじゃないと困る。僕は口の中で呟いた。 「もう余計なことは言わなさそう?」 ──ああ、大分持ち直したようだったぜ。治療が必要だってことは最後まで分かってくれなかったがな。 「そう」  僕はため息をついた。搬送されたのち、誰彼構わずデジタル・モンスターのことを喋り散らして隔離病棟に放り込まれた坂本弥生。彼女がもう不当な扱いをされないようマミーモンは昨晩、“狐憑き”なりの振るまい方を彼女に滾々と教え込んだらしかった。それでも彼女がノイローゼになっていたのは間違いなかったし、僕としては、彼女がしっかりと現実を受け止められるようになるまで病院で治療を受けてほしかった。 「大丈夫かな」  少しばかり暗い声の僕の呟きに被せるように、マミーモンが明るい声を出した。 ──気にしすぎても無駄さ。俺たちにできることは全部しただろ。後はあの女次第だ。 「ま、そりゃそうなんだけど」 ──あと、伊藤もついてる。 「お前、昨日の今日でよくそんなこと言えるよな……」  昨夜僕のもとを訪れた伊藤の行動や言動は、秋の朝の心地よい風を浴びて冴えわたった頭でも到底理解できないものだった。今朝病室を去る間際に忙しそうに看護士に聞き込みをしていた金沢に一言挨拶をしたときには緊張で再び倒れるかとも思ったが、特段何も言われなかった。伊藤は確かに、僕が坂本殺害の現場に居合わせたという事実をひた隠しにしているらしい。 「あいつ、『俺は、君とおんなじさ』とかわけわかんないこと言いやがって、どういうことだよ」 ──自分も“狐憑き”だってことじゃねえか? 昨日の騒ぎでお前に俺が憑いてることに気づいたのかもしれねえ。 「ぼくだってそう思ってたさ」  昨日までは伊藤がデジタル・モンスターと通じているということを信じて疑っていなかった。デスメラモンに追われながら助けを求めて伊藤に電話をかけた際には、焦っていたのもあるが、殆どモンスターの存在を前提にした調子で話をした。しかし、である。 「なんかいまいちしっくりこないんだよな……」  伊藤が遠野老人殺しの犯人であるという説を今までかたくなに信じ続けていたからだろうか、その前提が崩れ去った今、僕は彼に関して何一つ自信を持って語ることは出来なかった。 「奴がどういうつもりで行動しているかとなると、サッパリだ」 ──じゃあ、メチャクチャな理由で動いてるやつ、ってことなんだろうよ。ところで、俺はそういうやつをもう一人知ってるぜ。  木乃伊の言葉に、一昨日に僕の体を掴んだ手のぞっとするような感触が体を駆け巡った。 「ネオヴァンデモン、って言いたいのか?」 ──ま、今回のアイツの動きにはそれなりのタテマエがあるみたいだがな。でもそれは所詮タテマエだよ。アイツに取っちゃ、この世の全てが自分が楽しむためのタテマエなんだ。  マミーモンが苦々しげに言う。その“タテマエ”の為に、あの黒紅色の吸血鬼はどれほどの殺しを命じ、そしてマミーモンはその中の一体いくつを自らの手でこなしたのだろうか。 「ネオヴァンデモンにも、憑いてる人間はいるんだよな」 ──ああ、アイツと俺の話、聞いてたんだろ?  僕は頷く。自分がこの世界に来た“タテマエ”を説明するネオヴァンデモンに、マミーモンが震える声で飛ばした皮肉と、それに対する吸血鬼の返答。 『じゃあ今のあんたは、この世界で好き勝手してる同族を殺すためにやってきたダーク・ヒーローってわけだ。カッコいいね』 『だろう? 私の憑いた人間もそう言ってくれたよ。あの人間は馬鹿だが。私は馬鹿が好きだしね』 「そりゃまあ、確かに伊藤は馬鹿だけど……」 ──なんかこないだより伊藤に当たりが強くなってるな。 「そんなことないよ」からかうような木乃伊の調子に、思わず口からはムッとしたような声が漏れる。 ──名探偵はアイツが何者なのか分かんなくてご立腹ってとこか? 「そういうんじゃないけど……」  からかうようなマミーモンの調子に、思わず眉間にしわが寄る。 ──なんだよ、そんな顔すんなって。昨日よりシケてねえか? 「いや、これは」  僕は思わず言葉を濁した。思わず先程から痛んでいたふくらはぎに手をやる。 「筋肉痛が……」 ──はあ? 「だ、だってしょうがないだろ。ここ数日ずうっと歩き通しだったし、昨日なんか弥生さん抱えて走ってたんだぞ」  僕の身体の節々から、昨日までは聞こえなかった悲鳴が聞こえる。あまりの耐え難い痛みに朝方湿布を貼ってもらったが(窒息しかけて運ばれたはずじゃないのか、と看護士は訝しげに眉をひそめていた)それでも痛みはおさまる気配がなかった。 ──人間サマってのは難儀なもんだな。 「逆に、お前は何で平気なんだよ」  昨晩、マミーモンはここ数日ですっかり見慣れたトレンチコートも着ないで、真っ白な包帯に身を包んで僕の前に現れた。彼曰く、コートも今までの包帯も燃えたらしい。どんな無茶をしたらそんなことになるのかはわからなかったが、とにかくキツい戦いをしたことだけは確からしかった。 ──霊体の時は平気さ。ただ、少しの間戦闘は勘弁してくれ。  なるほど、身体の方は大丈夫というわけにはいかないらしい。 「無茶すんなよな」 ──そうも言ってらんないだろ。まだネオヴァンデモンのお望みも叶えちゃいない。  僕はさらに眉をしかめた。ネオヴァンデモンのために僕達が用意すると誓った、人間界で悪さをしているデジモンに関する情報は殆ど集まっていない。彼が課した『私が月に飽きるまで』というデッド・ラインがいつかは分からないが、少なくとも、昨日よりもそれに近づいていることだけは間違いなかった。あれからずっと、ふとした瞬間に目の前にあのシルエットがあらわれる錯覚に付きまとわれている。 「でも、糸口はあるよ」  昨夜は完全に希望が立たれたつもりでいたが、考えてみれば何ということはない。手がかりのある場所ははっきりしている。 ──心あたりでもあるのか? 「もちろん。でも、それにはあの人の協力がいる」  痛む膝を引きずってすでに歩き慣れた通りに歩を向けながら、僕はポケットから取り出したスマートフォンに耳を当てた。 「……もしもし、伊藤さん、弥生さんと面会はできました? それは良かった。『弥生さんは一晩で面会可能になるまで回復する』って、僕の言った通りになったでしょう? それじゃ、約束通り、僕のお願いを……」  なおも伊藤と会話を続ける僕の背中を、唖然として口を開けた木乃伊が見つめていた。      ***** 「それで……」  さすがにこの短期間で訪れるのが三回目ともなれば、警察署の受付の女性も僕の顔を覚えたのだろう。困惑した顔で僕の差し出した生徒手帳をまじまじと眺めていた。 「春川早苗さん、木曜日は殺人事件の目撃者、金曜日は事件の情報提供者。それで、一日置いて今日は……」 「殺人未遂の被害者です」 「えっと、それは、大変、です、ね?」  女性は引きつるような笑みを浮かべ、ふさわしい言葉を探すように途切れ途切れに僕の言葉への感想を述べた。彼女は手元のノートをぱらぱらと音を立ててめくり、首をかしげる。 「今日は特に前もって連絡は貰ってないけど」 「ああ、それなら……」 「おおい、早苗君」  僕達の間に流れた気まずい沈黙を破るように背後で音を立てて自動ドアが開き、伊藤の間延びした声が僕を呼んだ。 「伊藤さん、彼は」女性が咎めるようにすうっと目を細めて彼を見つめた。 「ああ、俺の客だ。面会したい人物がいるそうでね」 「それってまさか……」 「そういうこと」  絶句する女性に伊藤はにひりと笑いかける。 「金沢警部に話は通してます?」 「え? ああ、そこはもちろん、いつも通りにね」  女性は深く長いため息を吐いた。伊藤の“いつも”がどのようなものか、推して知るべしというところだろう。 「殺されかけた子が、まだ一日も経ってないうちにその犯人と会うなんて。皆さんがマスコミにせっつかれて事件解決を急いでるのは知ってますけど、正気の沙汰じゃないわ」  女性が心底同情するといった目で僕を見たので、伊藤は吹き出す。 「それに関しては大丈夫。この面会は彼の希望だ」 「……は?」 「なあ、早苗君」  伊藤の心底面白そうな問いかけに、僕はにっこり笑った。 「ええ。心配いりませんよ。僕、あの人とは友達なんです」      ***** 「まったく、俺が思ってた以上に元気いっぱいな奴だな。君は」  伊藤の陽気な声が静まり返った署内に響く。警察の廊下は相変わらず灰色だったが、前に来た時ほど無機質には思えなかった。 「無駄口を叩いてていいんですか? 伊藤刑事」 「冷たいな。もう他人でもないだろう」 「友達でもありませんよ」  僕はあくまでそっけなく答えた。この風変わりな不良刑事に僕が親しみを覚えるようになっていたのは確かだったが、たったの一晩でそれまでの疑いを全てなかったことにするのはあまりに危険に思えた。  肩をすくめながら伊藤は白井がいる取調室の前に立ち、ポケットから鍵を取り出す。と、彼が一度、真剣な顔で僕の方を振り返った。 「本当に大丈夫なんだね?」 「あの人とは友達って言ったでしょう? 大丈夫ですよ」  軽い調子で答える僕に伊藤は眉をひそめる。 「なあ、ここからは……」 「大丈夫ですよ。それより伊藤さんも、お願いしますよ。この部屋で聞いたどんなことも。あなたには関係のない、街の噂話です」 「分かってるよ。君が弥生の件で賭けをしようって言ってきたときには、いよいよおかしくなったのかと思ったけどね」  僕は苦笑する。坂本弥生が一晩で真に自分の症状に見合った扱いを受けられるようになったなら、警察の力で自分の為に何か一つ融通してくれ。伊藤にそういう賭けを持ちかけること自体が、既に一つの賭けだった。だが、今のところはうまくいっている。 「僕が弥生さんを自分の目的のために利用したなんて、思わないでくださいよ。あの人のことは本当に心配だし、今も良心はチクチク傷んでるんです」 「気にしなくてもいい。弥生も君に感謝していた。今度会いに行ってあげてくれ」  僕は曖昧に頷く。彼女にまた会えるとしたら、それはすべてが終わった時であるような、そんな気がした。      ***** 「やあ、白井さん、元気ですか?」 「君の方が元気みたいだ。まったく、忌々しい」  椅子に手錠でつながれた白井とそんな風に和やかな挨拶を交わし、僕は席についた。伊藤は白井の背後に回って壁にもたれかかり、格子付きの窓から外に目を向けている。 「聞きたいことがあるんです」 「ぼくの方じゃ、話したいことなんて何一つないけどな」 白井はすげなく返す。 「そんな台詞、台本にないでしょ。そうじゃないっけ?」  僕はわざと彼の右後ろの空間を見つめながら、くだけた口調でそう言った。白井の顔に縦線が走り、深いため息がその口から漏れた。僕の台詞に違和感を感じたのだろう、伊藤はちらりとこちらを見たが、すぐに視線を窓の外に戻す。 ──そういうこと、ちゃんと筋書き通りやってもらわないと困るぜ。なあ、監督?  白井の背後、僕の視線の先に立ったマミーモンがおもしろくて仕方がないといった調子で僕にそう言った。そう、あらかじめ決めた段取り通りだ。マミーモンが僕の面会に先んじて白井のいる留置所に霊体として潜入して、白井の前で実体化。俺はずっとお前の後ろにいる、これからの取り調べで正直に事実を話さなければあっという間に殺してしまうぞと脅すという寸法。 「こんなことをして、いいと思っているのか?」  やがて白井の口から漏れたのはそんな台詞だった。彼の視線は自分の背後、伊藤に向く。 「あんたもだ。警官が一般人を取調室に連れ込んで尋問させるなんて。それも、こんな乱暴な方法でだ」 「これは面会だよ」伊藤はすげなく返す。 「いいのか? ぼくがこのことを裁判で洗いざらい……」 「裁判まで生きていたかったら、ちゃんと台本を読むことです」  彼の言葉を遮って、僕は声を張り上げる。こういう形での取り調べはもちろん気の進むことではなかったが。自分を窒息死させようとした男が相手だと思えば、無理をしなくても声は凄みを帯びるというものだ。 「……何が聞きたいんだ」 「警察が聞いたこととほとんど同じですよ。あなたが所属していた組織のことだ」 「組織なんてないさ」 「おい」僕は彼の声に言葉をかぶせる。 「警察にはそれで通用したと思うよ。でも、僕は無理だ。僕はその組織が遠野古書店を窓口に行っていた取引のことも、組織と古書店がもめた末に坂本が遠野さんを殺して逃げたことも知ってる。組織が坂本を殺そうとしていたことも知っているんだ」  僕は目を丸くしてこちらを見てくる伊藤に目を向け付け足す。「ま、全部街の噂ですけど」 「……ぼくが聞いたこともないことをそんなに並べられてもな」  強情な白井を、僕は強く睨みつける。 「あの女の子の写真のことも、知ってるよ」  これはひどく効いたようだった。白井はしばらくの間天を仰ぐようにしたかと思うと、こちらに視線を戻し、苦々しげに笑った。 「なるほど。そうなるとこちらも適当なことは言えないな。嘘なんか吐いたらあっという間に殺されそうだ。いいよ。俺のわかる範囲で教えてあげよう」 ──随分手がかかったな。あんまり俺にビビってないってことかよ。  少しだけ悔しそうに言うマミーモンに向けて僕は肩をすくめ、視線を白井に戻した。 「そう怖がらないでくださいよ。僕は、“愚かな質問をして賢い答えを聞こうとしてるだけです”」ジョン・J・マローンがそう言ってたようにね、僕は心で付け足す。 「早くしてくれ」 「それじゃ一つ目。組織に入った経緯は?」  彼は少し首をひねって、答える。 「数年前だね。連中はぼくの乗っていた救急車をまるごと買収した。応じなかった救命士が、ぼくの最初の獲物になった」  背筋が粟だつのを感じる。この男は、先日脅かしたカシマや坂本といった子悪党とはわけが違う。本物なのだ。 「……二つ目です。あなたの組織での立ち位置は?」  白井は少しだけ考え事をするように眉間にしわを寄せた。見たところ、うまいウソを考えているようには見えない。 「……分からない、と言うのが正しいかな。ぼくは組織の末端に居座っているだけだからね。自分の上にどれくらいの人がいるのか想像できないし、するだけ無駄なことさ」 「じゃあ、下には? 下にはどれだけの人がいるんです?」  僕の言葉に白井は少しだけ笑った。 「組織の関係者でぼくが知っていたのは、同じ救急車の乗員を除けば、あの古本屋の爺さんと坂本だけさ。あの二人に組織の伝言──全部メールで送られてくるんだ──を伝えるのもぼくがやってた。別にぼくの立場が上ってわけでもないけど、その役割のせいかな、あの二人はやけにぼくにビビってたね。特に爺さんの方は」  彼の唇が吊り上がる。遠野老人が白井の担架で運ばれていく時の光景がフラッシュ・バックして、僕は乾いた唇をなめた。あの時点で遠野老人は白井が組織の人間だと知っていたのだ。あの時の取り乱した様子は、今思えば死刑台を無理に一歩ずつ登らされる恐怖からだったに違いない。その後やけに静かになったのは、諦めか、はたまた度を越した恐怖の為か。 ──早苗、落ち着けよ。いくら相手がサイコ野郎だろうが、ビビッてんのがバレれば終わりだ。  分かってるったら、マミーモンの言葉に僕は口の中で呟く。 「──伊藤さん、メモは禁止です!」  動揺を誤魔化すために、僕は窓際で何やらごそごそとしていた伊藤に鋭く目をやってわざと大きな声をあげた。 「だってこれは殆ど自白じゃあないか、それに……」 「最後には警察に全部任せますから! 約束でしょう?」 「……分かったよ」  僕は頷き、白井に向けて再び質問を放る。 「メッセンジャーをしてる限りは、それがどのくらいの規模の、どんなことをしてる組織か見当がつくはずだ。教えてくれませんか?」 「どんなことをしてるか、はぼくにもよく分からないさ。でも、あの写真だけに限っても、扱ってる下請けがあの古本屋だけじゃないことは確かだ」  僕にも何となくその意味は分かった。 「下請けが違えば、客層も違う?」 「そういうこと、お偉いさんたちがあんな辺鄙な本屋に出入りしたら目立つからね」 「お偉いさん? 具体的には?」 「さあね。知らないに決まってるだろ? まあでも、あの本屋は特別だった」 「あの二人は撮影もやってたんですよね、あの小屋で」 「小屋?」  白井は眉を吊り上げる。となると、少なくとも白井は坂本の居たあの小屋のことは知らなかったのだ。これだけで組織が坂本殺害に関与していないと断ずることは出来なかったが、手掛かりにはなる。 「あなたが遠野さんを殺したのは、組織の命令? それとも勝手にやったこと?」 「言われてやったことだ。ぼくたちが人を殺すやり口はいつも一緒なんだよ。組織からメールでターゲットの写真が送られてくる。その次の日に、もうその人の家に向けて救急車の出動命令が出るんだ。組織から命じられた誰かが何かするんだろうな。基本的には一酸化炭素中毒とか、その手のが多い」 「でも、その日はいつもより早く救急車が呼ばれた?」  僕の言葉に彼はこくりと頷く。 「組織からあの古本屋を殺せと命令があった五分後には、もう119番があった。組織の人間の自作自演の通報にしては、妙に焦っていた」  マスターの連絡だ。僕は口の中で呟く。 「そうして行ってみたら、爺さんが頭を殴られてぶっ倒れてる。いつもよりずっと乱暴だし、ターゲットも片方いなかった。正直困惑したけど……」 「あなたはそこでできる限りのベストを尽くした」 「君がユーモアを解する人間で嬉しいよ。もう少し笑顔で言ってたら満点だ」 「ふざけるなよ」僕は舌打ちをして白井を睨み据える。「そのあと、組織に連絡を取ったんでしょ?」 「ああ、当然ね」 「そのときの答えは?」 「こっちからの異常事態の説明に、向こうは焦っていたようだった。そうだな……。外部の誰かに、せっつかれているような感じだった。ぼく達に、本来やるべきでない仕事をさせようとしたりね」 「例えば?」 そう尋ねながらも、僕には何となくその答えは分かっていた。 「端的に言えば、古書店の家捜しだね」 「そういう仕事は、普通はありえない話なんでしょうね?」 「勿論さ、きみ。ぼくらの組織が優秀で尻尾を出さなかったのは、それがマフィアじゃなくて工場だったからだ。仕事がレーンごとに細かく分けられていて、それぞれの構成員が自分の仕事しか知らない。隣のレーンで働いている人の名前なんか知らないし、自分の仕事の結果できる商品がどんなものかも分からない」 でも、それも過去の話だ。僕は口の中で呟く。 「利口なあなたは家捜しには同意しなかった。とある女の子のヌード写真のことを説明されて、それと引き換えに法外な報酬を払うといわれても」 「よくご存じで」 「その時に、その女の子の素性について説明されましたか?」 「いいや、なんにも。かえって、きつく口止めされた。仕事を断るのは勝手だが、写真のことは忘れろとね」  白井の言葉にううむと唸る僕の視線の先で、伊藤がさりげなく腕時計を突っついた。タイムリミットが近い、金沢警部が帰ってくるのだろう。でも、まだ粘らないと。 「次は、昨日の話です。僕を殺そうとしたときのことについてだ」 「へえ、やっとか。てっきりそっちが本題かと思ってたよ」 「黙れ。あなたがさっき言った殺害のプロセスと、僕を殺そうとしたやり方は随分かけ離れていますね。ガサツで、不完全だ」 「不完全、は取り消してくれよ。君は間抜けにもぼくに騙されて、そこの刑事さんがいなけりゃ間違いなく死んでいたんだからさ」  僕は肩をすくめる。 「僕の馬鹿さ加減についてはおいておくとしても、乱暴なやりくちであることには変わらないでしょう。また組織から無茶を言われたんですか?」 「ま、そんなとこだね。最初は組織とは関係ない仕事で、単に人命救助のためにいったのさ。ほら、君が心配してたなんとかっていう女性についての通報さ」 「サカモト・ヤヨイ」 「そう、それそれ」  白井の背後で伊藤が顔に縦線を走らせる。間違いなく、その救急車は僕に頼まれた伊藤が呼んだものだ。弥生が組織のターゲットではなかったとはいえ、危うく殺し屋の乗った救急車に彼女を乗せることになったかもしれないと考えると、僕も手に妙な汗が染みだすのを感じた。 「それで、それが何で急に僕の暗殺計画に変わったんです?」 「ようやくその質問をしたか」  白井は心底楽しそうに顔を歪め、手錠をじゃらじゃら言わせて精一杯僕の方へ身を乗り出す。 「組織から携帯に電話が来たのさ。お前が今助けに行こうとしてる女性には何もない。その代わり、どこそこで待っていろ。ボロボロになった少年が来るはずだから、“救助”していつも通り殺せ、ってね。ま、実際に来た君はずっと元気いっぱいだけど」 ──おいおい、なんだそりゃ。  息をのむ僕の代わりに、木乃伊が僕と全く同じ感想を述べる。 「さてさて、素人探偵クンはこのことをどう推理するだろうか? これは君や、その周りの人間のその日の動きを監視していた人間じゃないと知らないことなんじゃないかな。そうだな、例えば」  彼は椅子にもたれると、視線を後ろに向ける。 「そこの刑事さんとか」  伊藤は黙って肩をすくめるが、その顔には険しい表情が浮かんでいる。その彼の気持ちを代弁してやるとでもいうように、白井が言葉を続ける。 「もしかしたら、古書店の事件の時君と一緒にいたあのおじさんかもね。いや、それよりも君が助けようとしていた女の線の方が濃いな。名字から察するに、彼女、坂本トキオの奥さんなんだろう?」  その口調や言葉選びはテレビや映画の探偵そっくりで、こちらのやり方に合わせてやるとでも言いたげだ。  でも、彼のいうことも一理ある。白井に指示を出した組織の人間は僕が“ボロボロになった少年”として登場すると言っていたらしい。それは、その時の僕を襲っていた者──デスメラモンの存在を知っていないとできない芸当だ。 「随分勝手なことを──」 「伊藤さん!」  白井に向けて踏み出そうとする伊藤を制止し、僕は淡々と言葉をつづける。 「こっちの質問にだけ答えてください」 ──その通り、探偵は一人で十分だっての。いや、俺も入れると二人か? マミーモンはそれを白井の耳元で、良く聞こえるように囁いたらしかった。彼の顔が青ざめ、張り付けたような笑いが崩れる。僕はそこに、勢いよく質問を叩きつけた。 「あなたに僕の殺害を指示した電話の相手の様子は? 遠野さんの時と同じく、焦っていた?」 「……ああ」白井は渋々といった感じで答えた。 「焦って、あなたに急な仕事を頼んだんですね。しかも今度は夜にこそこそとしながら行う家捜しじゃない、白昼の殺しだ。前よりもずっと危険だったはずです。それなのに、あなたはそれを受けた。自分の領分をわきまえていると自認していたあなたが、だ」 「……」 「よっぽど実入りが良かったんですか?」 「……二千万だよ」白井がぽつりと言ったその言葉は、僕には一瞬異国の言語に聞こえた。 「ドルで?」 「円に決まってるだろ」 ──おい早苗、頼むから今は推理小説脳は勘弁してくれ。  僕は咄嗟に出たその馬鹿な質問を空咳で誤魔化す。でも許してほしい、いつの間にか自分が二千万円の賞金首になっていたと知らされたのだ。冷静でいられるわけがない。 「その金額を出すとき、電話の相手の様子は? ……おい、本当のことを言えよ」  きつい調子で尋ねる僕に、白井は観念したというようにため息を吐いた。 「こともなげに言ったよ。焦ってて、仕方なしに提示したって感じじゃなかった」  いくらその組織が大きいといっても、所詮は田舎町の商店街を窓口にエロ写真をばらまいている連中だ。いくらでも安く上げられる少年の暗殺に、そこまで太っ腹になれるとは思えない。 「……クライアント、僕を殺せと依頼した人間がいるんだ。二千万はそいつから出た金だ」  僕は伊藤の方を向いて頷く。坂本弥生にもマスターにも、そこまでの金はない。 「ありがとう、白井さん」僕は立ち上がった。「くだらない揺さぶりで僕の疑いを身内にもっていこうとしたんだろうけど、無駄ですよ」 「……どうやら、君の方が一枚も二枚も上手だったみたいだ」 「そういうこと」  伊藤と共に部屋を後にする僕に、マミーモンもついてくる。部屋を出るとき、白井の背後の何もいない空間に向けて、僕は大げさに「頼んだよ」と声をかけ、わざと音を立てて扉を閉めた。 7-2 鹿打ち帽/最後のヒント/古臭いジョークのこと 「なるほど、話は大体分かった」  僕とマミーモンの目の前に珈琲で満たされたカップを置き、マスターは何度も頷いた。 「つまり探偵クンは心配していた我々に連絡も入れずに、病院から警察に直行し、自分を殺そうとした犯人にインタビューを敢行したと」 「そう言わないでくださいよ」  どこか拗ねたような調子のマスターに苦笑して僕は珈琲をすする。くろぐろとしたその液体の香りが口の中で広がり、頭の中の靄が一気に晴れる。今の今まで自分が半分眠っていたような、今になって初めて完全に目覚めを迎えることができたような気分だった。 「笑い事ではないですよ」  手元の文庫本がからワイズモンが小さく言う。白井に襲われた時に僕の手から滑り落ちたその本は、どんな経緯を経てかは知らないが無事に回収され、戻るべきところへ戻ってきていたようだった。 「また目の前で友人が殺されていたかもしれないと思うと、ぞっとします」 「まあ、助かったんだからさ。それよりマスター、このコート……」  マミーモンがそう言った瞬間、僕はたまらず噴き出した。前までのトレンチを先の戦闘で失ったことをおずおずと話した木乃伊にマスターが眉一つひそめずに出してきたのは、ブラウンのインバネス・コートと鹿撃ち帽だった。もうどこからどう見てもシャーロック・ホームズのコスプレである。先ほどから他の客も珍しがってその視線を彼に注いでいる。 「おい早苗! 笑うな!」 「だ、だって、似合って、ない……」 「うーん、やっぱり無理があったかな」 「マスター! さっさと何か別の……」 「黒のコートとシルクハットないですか? グラナダTV版にしましょう」 「早苗!」 「ああ、持ってくるよ」 「あるのかよ!」 「ワタクシも見たいんですけど」 「今度こそ燃やすぞエロガッパ」  そんな喧騒の中で、マスターが再びマミーモンを店の奥に引きずり込む、やがて出てきたのは、グラナダTVの名作ドラマシリーズ「シャーロック・ホームズの冒険」風の服に身を包んだ木乃伊だった。先ほどよりはコスプレをしているという雰囲気は薄まっているものの、やはり時代錯誤な感じは否めない。 「……マスター、俺これからずっとこれなのか」 「あとで別のトレンチコートを持ってきてあげるよ」 「コート、一体何着持ってるんですか?」 「さあね? 若い頃の道楽の名残さ」  そう言って笑うと、マスターは再び話を事件の方に振った。 「それはそうと、さっきの白井の話はいかにも興味深いね」 「いかにも興味深くて、食いつきやすい話です。推理小説の後半になって出てくるあからさまな手掛かりみたいだ」 僕の皮肉な物言いに、マスターは少し首をひねる。 「というと、君はそこまで本気にしていない?」  僕は肩をすくめる。僕の行動をすぐそばで見ることができる人物が犯人だという彼の言には説得力があり、そのことを考えれば考えるほど気は重くなった。目の前のマスターでさえも、白井に言わせれば犯人の条件に当てはまるという。しかしどんなに筋が通った話でも、白井の話し方には僕を混乱させようという意図が見え透いていた。 「疑う理由は無いですよ。でも、あまりそれに踊らされてもいけない気がします」 「実際に話した君がそう言うなら、まあ間違いないだろう。“唯一の、真実の手がかりは心理的なものである”からね」 「ファイロ・ヴァンス」 僕はそう言って深くため息を吐いた。 「あまり好きではなかったかな?」 「まあ、好みじゃありませんね。その言葉自体はそれなりに共感できますけど。それにヴァンスはその言葉を、容疑者の話から見える心理に対してというより、現場に残された痕跡から犯人の心理状態を分析するという意味で使っていましたよ。意味合いとしては今のプロファイリングに……」  話を続ける僕に、マスターが苦笑いを浮かべ、マミーモンが僕の後頭部をはたいた。 「講釈はそこまでだ、ワトソン君」  しかし、彼の言葉は耳に入ってこなかった。僕は勢いよく彼の手を頭から払いのける。 「なにすんだ!」 「そうだ、現場だ。坂本が殺された現場だよ!」 「あそこにはもう行けないだろ。警察が捜査してるはずだ」 「そうじゃない。坂本が殺された場所、それに時間だ。二日前のあの家だよ。手がかりは全部あそこにあるんじゃないか? あの晩も、その後もいろんなことがありすぎて、僕たちはあの時のことをよく考えるのを忘れてたんだよ」  これにはマミーモンもマスターも、本の中のワイズモンも興味を持ったらしかった。 「……どういう意味だ?」  僕はコーヒーを啜って息を落ち着け、指を一本立てる。 「マミーモン、あの晩に君が戦ったブラックラピッドモンは、組織の回し者だったと考えていいんだよな?」 「ああ、間違いない」 「狙いは奈由さんを殺すことだった?」 「そうだったんだろうな」 「おい、しっかり思い出してくれ。せっかくだからホームズを使うぞ。“明白な事実ほど誤解を招きやすいものはない”。お前は何かを誤解して記憶してるんじゃないか」 僕はマミーモンの肩を掴み、彼の顔を覗き込んだ。マミーモンは困惑を顔に浮かべ、その手を振り払う。 「しっかりって、何を……」 「そいつは何て言ってた? 思い出せ。『初瀬奈由』って名前を、一言でも口にしたか?」  マミーモンはしばし顔をしかめていた。無理もない。あの時のブラックラピッドモンとの会話は、彼にとっては忘れ去ってしまいたいものだろう。でも、何が何でも思い出してもらわないといけない。僕の真剣な調子を読み取ったのか、マミーモンは表情を変えて記憶の海にその身を浸し、やがて眼を見開く。 「……言ってなかったな。憑いた人間に指定された人を『殺しに来た』とだけ、言ってた」 「殺しに? そう言ったんだな?」 「ああ、それは間違いねえよ。お前、ブラックラピッドモンの狙いはあの女じゃなかったって言いたいのか? 写真付きでご丁寧に予告までされてたのに」 僕は頷く。 「よく考えてもみろよ。あの晩、僕の部屋に組織があんなメッセージを残したのはなんでだ? 事件から手を引かせるためだろ。『余計な探りを入れるのをやめないと、初瀬奈由がどうなっても知らないぞ』っていうわけだ」 「なるほど」得心したようにマスターが言った。 「彼女は探偵クンを黙らせるための材料だった。それを脅しをかけた直後に殺そうとするのはおかしいね。もし見せしめだったとしても、効果は望めない」 「じゃあアイツは一体誰を……」 「さあ?」 「おい!」  マミーモンの抗議に僕はにっこり笑う。どっちがワトソンか、どうやらこれではっきりしたようだ。 「結論に飛びついちゃいけないよ。それに、僕の話はまだ終わってない。次はその後、坂本が殺された時刻だ」 「今度はなにがあるんだ」 「白井の話を聞いたとき、変だと思わなかったか? その前日の夜に僕たちの捜査をやめさせようと警告なんて手の込んだことをした組織が、急に強引な方法で僕を殺しにかかるなんて」 「それは……」マミーモンはしばらく俯きながら、その指先で小さなミルクポットに入った残りの牛乳を全て自分の珈琲に注いだ。 「白井が言ってたろ。外部の誰かから、金と引き換えにせっつかれたんだ」 「それは答えになってないよ。」僕は首を振る。 「少し質問を変えようか、僕を殺そうと依頼をした人物は、そんな大金を提示するくらいだったから、よほど焦っていたんだ。前の晩の脅しに僕が屈するかどうか判断するゆとりもなかった。それは何故だと思う?」 「そりゃあ、お前が嗅ぎまわってるのが邪魔だったんだろ」 「なんで邪魔だった?」  僕のしつこい質問に、マミーモンの顔がだんだん険を帯びてくる。もし苛立った彼に殴られて僕が死んだら、現代のソクラテスとして永遠に語り継いでもらうこととしよう。 「しつこいな……そりゃあもし自分たちの犯罪の証拠を掴まれたら……」  そう言いかけたマミーモンの目が、途中で見ひらかれる。 「……そうか。“もし”じゃない。そいつが焦ってたのは、自分にとってマズい何かを早苗が“もう”掴んだと思ったからだ」 「そう、脅しがあってから翌日までの間に僕が見たもので、誰かをそこまで怯えさせられることと言ったら、一つしかないだろ?」 「……坂本の殺害。じゃあ早苗を殺すように依頼したのが……」  僕は頷く。 「坂本を殺した犯人だよ」 「それはおかしくないですか?」  黙って話を聞いていたワイズモンが、不意に口を挟んだ。 「犯人は、なんで坂本さんの殺害現場に早苗さんがいるって知ってたんですか? もしその場で気づいていたなら、坂本さんと一緒に襲っていたはずでしょう?」  僕は頷く。「そこなんだよ。でも、だからこそそこに手がかりが……」  僕はそこで言葉を止めた。言葉の熱量の為に立ち上がらんばかりになっていた腰を落とし、ゆっくりと手をコーヒーカップに伸ばす。目の前がぐわんぐわんと揺れ、自分が果たしてまともにコーヒーを啜れたのかもわからなかった。 「早苗さん?」 「分からないな」やっとのことで、僕は一言呟いた。マミーモンが肩を落とす。 「なんだそりゃ、あんだけ勿体ぶっておいて」 「探偵は答えを言うのを勿体ぶるものなんだよ。それというのも、謙虚だからさ。はっきりわかっていることしか話さないんだ」 「お前のどこが謙虚だよ」 「なんだと、おんなじことはギディオン・フェルがちゃんと言ってるんだぞ」 「まあまあ、ふたりとも」  睨みあう僕とマミーモンの間に入って、マスターは苦笑して、僕の前に水の入ったグラスを差し出す。それを受け取るなり一息に飲み干すと、幾分気分は晴れた。 「探偵クンも、推理するにはまだ疲れてるんだろう。いったん根を詰めるのはやめて、他の話をしたらどうだい?」  マミーモンが僕の手を付けていないミルクポットを奪い、自分のカップに注ぎながらけらけらと笑った。 「マスター、こいつはこの数日でもう四、五回殺されかけてまだぴんぴんしてるんだぜ。今更になって……」 「いや、確かにそうかもしれません。部屋で頭をひねるには不向きな議題ですし」  大人しい調子でマスターに同意した僕にマミーモンがぎょっとした目を向ける。その視線を受け流しながら、僕は無理やりに話題を変えた。 「それより、来週の話をしましょう。初瀬さんとのデートの話」 「おお、忘れてなかったね。立派だ立派」 「何言ってるんですかマスター。鰆町の人口の半分が死体になっても、僕はデートに行きますよ。なにがなんでも。なにがなんでも!」 「うるせえな」  マスターは僕のグラスに水を注ぎながら、こちらの顔をまじまじと見つめてきた。 「それには、その痣が少し残念だね。かわいそうに」  僕はため息を吐いて。未だに少し熱を帯びているそれに持ち上げたグラスを押し当てた。気を取り直したのか、隣のマミーモンも僕をからかう。 「早苗、こないだ、なんとかっていう探偵みたいな痣が欲しいって言ってたよな。やったじゃないか」 「明日学校行くのが気が重いよ。何かと思われる」 「まあまあ、あまり気にするもんじゃないよ。もしも本当に脈があるなら、その子も痣なんて気にしないはずさ」  慰めるような口調で語るマスターに僕は頷き、席を立ちあがる。 「じゃあ、僕はこれで失礼しますよ」 「家は大丈夫なのかい?」 「マミーモンもいますし、相手がデジタル・モンスターならどこにいたっておんなじことですよ。マスターこそ、気をつけてくださいね。ワイズモン、頼んでもいいかな?」  僕の頼みに、文庫本からはつらつとした返事が返ってくる。 「ええ、もちろんですとも。マスターさん、枕元に本棚はありますか?」 「え? ああ、まあ、一応」 「それなら完璧です。マスターさんの身の安全は、ワタクシが保証しましょう」 「そ、そうかい? なら頼んだよ」  ぎこちなく言葉を交わす二人を見て微笑み、僕は代金を置いて店を出た。      *****  前を開けた僕のウインド・ブレーカーの裾が風になびく。寒さに震えて、そのファスナーを上まで引っ張り上げようとした瞬間に、脳の裏で声が響いた。 ──おう、待ってたのか。 「そりゃあ待つさ。なんでこんなに時間食ってたんだよ」 ──マスターに普通のトレンチコートを頼んだら、長いこと着せ替えごっこに付き合わされた。 「お気の毒」  くすりと笑って振り返ると、確かにマミーモンはいつものトレンチコートに戻っている。マスターは一体どれだけのコートを持っているのだろうか。 ──で?  けれど、僕の苦笑いは、マミーモンのその問いにかき消されてしまった。 「で? って、なんのことさ?」 ──しらばっくれるんじゃねえ。あの時、ヘタクソな嘘までついて、何を誤魔化したのか、ってことだよ。 「……」  僕はしばらく黙り込んだ後、口を開く。 「マミーモン、お前、霊体でなら、あちこちに忍び込めるよな」 ──あ? まあ、そうだけど。 「でも、僕はその力を今まで一度も、悪用しようとはしなかった、そうだよな」 ──ま、そうだけど。どうしたんだよ。急に?  僕はそこで振り返り、背後で不安げな声を出すマミーモンの、その包帯の奥の目を見つめる。 「……だから、今回も、信じてくれるか?」 ──信じるって……。 「僕のやろうとしてることは、多分誰かを傷つけることだ。探偵ってのは、いつもそんなもんだよ」  僕は自嘲気味に笑う。そう、今この場所において、僕は探偵なのだ。それは嬉しいことだったけれど、同時に、自分が誰かに呼び込む不幸を認めなければいけない、ということでもあった。 「でも、それでも、マミーモン。お前が僕を信じてくれるなら、吐き気のする真実に突っ込んでいく僕と、一緒にいてくれるなら。頼みたいことがある」  僕の言葉に、やがて木乃伊はゆっくりと頷いた。 ──いいぜ、言ってみろよ。相棒。  僕はくすりと笑って、夜も更けた街の冴えた空気に向けて、この世で最も使い古された、悪趣味なジョークを放り出した。僕たちが真実と呼ぶ、あの下らないジョークを。
木乃伊は甘い珈琲がお好き 第七話 content media
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マダラマゼラン一号
2019年11月04日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy         ≪≪前の話 後の話≫≫        6-1 逃走/ライター/欠けたピースのこと  家々に囲まれた狭い路地で、逃げ道を選ぶことは出来なかった。それは追う側にとってもご同様のはずで、マミーモンが少しでも隙を見せたなら、デスメラモンは僕と坂本弥生に向けて真っ直ぐに鎖を伸ばしてくるだろう。 つまりどういうことかというと、僕は後ろを振り返らないまま、かなり焦っていた。弥生はハイヒールを履いている上に涙を流しながら茫然自失としており、僕が強くその華奢な手首を引いても応える様子がない。 「ちょっと、急いでください! そんな靴脱いで!」 「トキオ、ほんとにそうだったの? ねえ、トキオったら……」  ぶつぶつと同じ言葉を吐き続ける弥生の目は、僕が初めて彼女の家を訪れた時と同じ目立った。僕の知らない、過去の幸せな時代の一点を見つめる目。彼女は何度も何度も、その光景を繰り返し瞼の裏で再生してきたのだ。多分、幸せだったのは最初の一回くらいだろう。 「ああもう、くそったれ!」  僕はそう叫ぶと、弥生を背におぶる。箸より重いモノは出来る限り持たないことを信条に生きている僕であったが、火事場の馬鹿力とでも言おうか、彼女のことは案外あっさりとおぶることができた。 ところどころに枝毛の見える彼女の長い髪の毛が頬にかかり、そこからふわりと香ってくる煙草の匂いが鼻を突いた。あいにく女性を抱えたりおぶったりした経験はなかったが、それでも彼女が平均以上にほっそりとしていて軽いのは分かる。  前のめりになりながら全速力で走る僕の背で、彼女はずっと坂本トキオの名を呼んでいる。こんなに細くなるまでに慎ましやかな生活をしながら、彼女はずっと坂本のことを思っているのだ。あのクソ野郎がなんでこんなに想ってもらえるのだか、僕にはさっぱり分からない。  その瞬間、僕の頬を鎖の冷たい感触が掠めた。頬がひりひりと熱を持つのを感じると同時に、視界が開ける。狭い通りを脱し、鰆町商店街に差し掛かったのだ。 「坂本、ずりいぞ!」  僕はそう声を限りに叫んで、横跳びに跳んだ。      ***** 「……同感だ。坂本トキオがあんな風にヤヨイに思われているのは気に食わん。ずるい」 「いや、知ったこっちゃねえよ」  遠くで聞こえた春川の叫びに対するデスメラモンの共感を、マミーモンは呆れた顔で切り捨てた。大体早苗もなに叫んでるんだ。  それにしても、と彼は口の中で呟く。今のは危なかったな。もしも彼が木乃伊でなければ、冷や汗がつっと頬を伝っていたところだろう。彼の〈オベリスク〉の弾丸がデスメラモンの鎖の攻撃を弾いて僅かに逸らしたおかげで二人への直撃は免れたが、春川の体には少しくらい当たったかもしれない。  マミーモンは春川達が走り去った方に目を向ける。既に二人の姿は消えていた。とにかく姿を隠すまでの時間は稼げた、ということだ。デスメラモンも同じことを思っていたのだろうか、マミーモンをそのマスクの向こうの暗闇で睨みつけた。 「戦うのは二度目だな」 「前のはノーカンにしてくれねえか? 忘れたいんだ」 「お前のことは調べたぞ、〈死霊使い〉。月光軍団の下っ端がこんなところで人助けか?」 「その名前は捨てたんだ。よければ、探偵って呼んでくれよ」  そう云うなり、マミーモンはマシンガンを頭上に放るとアスファルトを蹴り、鉄仮面ににじり寄った。 木乃伊が自分の懐で無数の打撃をたたき込んでくるのをデスメラモンは動じるでもなく見下ろしていたが、マミーモンが右手に紫電を走らせるのを見ると咄嗟に腹部に向けられたその手を掴む。そしてもう一方の手で相手の顔を殴ろうとした瞬間、マミーモンの手が宙から落ちてきたマシンガンを掴み、銃口をデスメラモンの喉元に突き付けた。 「撃ってもいいぞ。どうせ俺の皮膚は突き通せない」 「その割には、ビビッて手を止めたじゃねえか」 「続きをしてもいいんだぞ? どうせ死ぬのはお前なんだ」  そう言ってデスメラモンが大きく腕を振る。木乃伊の軽い体は簡単に吹き飛ばされてしまったが、彼はすぐに立ち上がり再び相手に殴りかかった。 「前と同じだな。お前の軽い攻撃は俺には効かない」 「そうかよ」  にやりと笑ったマミーモンはその場で地面を蹴り、大きく一回転したかと思うと、前もって紫電を走らせていた右足でデスメラモンの顎を蹴り上げた。バランスを崩した大男が後ろに倒れると、大きな地響きが辺りの電線を揺らす。その音に耳をふさぐような身振りをしながら、マミーモンは鉄仮面の顔に語り掛ける。 「おい、そろそろ場所変えようぜ? あんまり人間の目についちゃお互いに困るだろ」 「……何を困ることがある? 俺は“坂本トキオ”なんだ。恥ずかしがることなんて何もないさ」 「おいおい、思った以上に重傷だな。やっぱあれか? 前に〈ネクロフォビア〉をもろに頭に食らったせいか?」  あきらめろよ、とマミーモンは続ける。 「この世界じゃどこに行ったって、俺たちはバケモノなんだ。それでもそれを受け入れて、俺たちは何とかやってくしかねえんだよ」  考えてみれば良くできたものだ。マミーモンは思う。たとえどんなに落ちこぼれて逃げてきたとしても、殆どのデジタル・モンスターは人間よりも圧倒的に力がある。それでも、モンスター達は人間とうまく折り合いをつけなければいけない。人間に受け入れられなければ、彼らはこの世界に留まることは出来ないからだ。 「お前さんがどういうつもりでやってることにせよ、あのヤヨイって女はそのせいで苦しんでる。それを認められないのかよ。それはルール違反ってもんだぜ」 「黙れ!」デスメラモンは勢い良く立ち上がる。 「お前のご立派な説教を聞く気はない。お前の連れの人間、ヤヨイを連れ去ってどうするつもりだ?」 「どうもしねえよ。どっかの誰かさんから保護するだけさ」 「信じられないな。やはり放っておけない」  そう吐き捨てると、デスメラモンはコンクリートに大きな凹みをつけて宙に跳びあがった。マミーモンはやれやれとため息をついてその巨体を目で追う。 「物分かりが良くて何よりだよ」  うまくやれよ、早苗。彼はそう口の中で呟くと、勢い良く地面を蹴った。      *****  周囲の怪訝そうな視線を一身に受けながら僕は全速力で足を前に運んでいた。休日の昼間はさすがの鰆町商店街もそれなりの人で賑わっている。そんな中を泣きじゃくる女性を背負いながら走っているのだ。人目につくに決まっていた。 とっさに商店街に出たはいいが、デスメラモンに見つかったときに沢山の人に被害が及ぶことを考えるといつまでもここにはいられない。〈ダネイ・アンド・リー〉に逃げ込むという案も同様の理由で却下だった。  悔しいが、一人ではどうすることもできないのは分かり切っている。マスターが頼れないとなると、どうすればいい? 僕はひゅうひゅういう喉の奥から呟く。そんな僕の耳に、背中でぶつぶつ呟いている弥生の声が耳に入った。 「トキオ……伊藤君……」  伊藤、そうだ。あの警察官がいる。財布には、彼が「またカツアゲに遭いたくなった時の為に」僕に渡してきた名刺が入っているはずだ。 僕が遠野老人の殺害犯人としてもっとも疑っていた相手。捜査を始めた僕の前に幾度も現れ、謎めいた言葉で挑発を繰り返し的たそんな彼も、一応は警察だ。昨日から様々な怪しい連中の相手をしすぎたせいで、昨日警察署で彼に怒りと疑いをぶつけたことも遠い昔のことのように思える。  彼の遠野老人殺害の疑いは晴れたわけではないが、少なくともデスメラモンと結託していることはなさそうだ。事の中心にいるらしいあのエロ写真の組織と彼に繋がりがあったとしても、彼らは坂本と敵対していたはずだ。それに何より、三日前に盗み聞いた彼と弥生の会話。そこでの彼の調子には弥生に危害を加えようとする様子はなかった。 一番信用ならない相手である以上に、一番話が早い相手でもある。形だけ迷ってみたところで、選択の余地が残されているわけではないことは分かり切っていた。  商店街を抜け、雑居ビルの軒下に駆け込んだ。財布から伊藤の名刺を取り出し、震える指でそこに記された電話番号をスマートフォンに打ち込む。三回のコールが、永遠よりも長く感じられた。 「もしもし──」 「もしもし? 僕です! 早苗! 春川早苗!」  電話の向こうに現れた伊藤に僕はまくしたてる。 「早苗君? いったい何を……」 「ちょっとカツアゲに遭ってて」  荒い息を吐きながらも、口からはくだらない冗談があふれてくる。こればっかりは持病みたいなもので、もうどうにもならないのだ. 「ちょろちょろしてるうちに、いよいよ何かやらかしたのかい?」  この野郎、冗談言ってる場合かよ。 「ヤバい人に追われてるんです」 「ヤバい人?」  伊藤の声が少し低くなった。あの目がすうっと細くなるのが目に浮かぶ。 「人間離れしてるくらいにヤバい人です」  伊藤がもしデジタル・モンスターのことを知っているのならこれで通じるだろうと思ったが、相手の声の調子には大して変わった様子もない。 「それで、俺にどうしろと?」 「僕は大丈夫なんですけど、伊藤さんに助けてもらいたい人がいまして」  僕のその言葉に、背中の弥生がふっと顔を上げた。 「伊藤くん? 伊藤くんと話してるの?」  その声はスマートフォンの向こう側にも届いたようだ。伊藤の声が少しだけ上ずった。 「弥生がそこにいるのか?」 「ええ。追われてるのは弥生さんです。僕一人じゃちょっと逃がすのに限界があります」 「なんで君が弥生を」 「そんなこと言ってる場合じゃないんだ! 大事な友達なんでしょう?」  焦りから思わずそんな風に声を荒げたものの、正直自信はなかった。僕は弥生によって聞かされた美化された過去の像のせいで、伊藤の弥生への友情について過大な評価を下しているのかもしれない。彼にとって弥生が「大事な友達」だったのが過去の話だったとしても、いや、そんなことは一度もなかったとしてもおかしくはないのだ。 「オーケー。今パトカーと、念のため救急車を向かわせる。なんとか持ちこたえるんだよ」  しかし、伊藤はそれ以上深く詮索することはなく、僕を励ますような調子でそう言った。 「分かりました」 「俺も自分の車で向かう、鰆町だな?」 「……ええ」 「早苗君? どうしたんだ」 「いいえ、何でも。それじゃあよろしくお願いします」  僕はそう言うと通話を終了し、ゆっくりとスマートフォンをポケットに収めると、もう一度目を前に向けた。  対向車線に建つコンビニエンスストア、その上に立つ巨大な筋肉質の男。その鉄仮面の奥の暗闇が、ちょうど僕と奴が初めて出会った時のようにじっと僕を見下ろしていた。 「マミーモン、どうしたんだよ」  僕はそう呟く。視線の先のデスメラモンが、にやりと笑ったように感じられた。     *****  空高くからアスファルトに叩きつけられ、マミーモンはうめき声をあげた。デスメラモンと彼では単純に力の差がありすぎる。有効打を与えるためには常に相手との距離を詰めている必要があるマミーモンには辛いところだった。腹に一撃食らっただけでこんなに吹き飛ばされてしまうとはまったく情けない。 「正攻法じゃ勝てないってのかよ、クソが」  意味も分からない呻きをあげながら起き上がると、マミーモンは再び空を見上げた。  正攻法以外、ということは一つしかない。この世界に来てる以上デスメラモンにも、“足りないもの”があるはずだ。そこを突けば相手に物理的にも精神的にも揺さぶりをかけることができる。もとよりデスメラモンは心が強いタイプではなさそうだ。 「それがあることは確かだ。でも、それはなんだ?」  再び空に舞うために呼吸を整えながら、彼は考えを巡らせる。他のデスメラモンにできて、彼にできないこと。しかし、気の利いたアイデアは何一つ浮かばなかった。 「やっぱり、早苗じゃなきゃダメか……」  彼は舌打ちをして空に飛びあがる。不覚にもデスメラモンのことを見失ってしまった今、たいして良くも知らないムカつく相手を探すよりは、良く見知った相棒を探す方が容易い。  彼は空から鰆町商店街とそこから伸びる細い通り、そしてそこに立ち並ぶ古びた家々を見降ろした。  どこに行くにせよ、春川は周りの人間への被害を気にして人混みを避けるはずだ。そして、空中から見つかることを避けるために軒下を通ることを選ぶだろう。彼が通ったであろう道を目で辿るのは容易かった  だから彼の目は、コンビニエンスストアの上に立つ鉄仮面の男の巨体も、その男が何かを凝視していることも捉えることができた。そして、男が地面を蹴り、その視線の先に一瞬で迫ったのも。 「早苗!」     *****  目を閉じて、開いたときにはもうデスメラモンは目の前に立ちはだかっていた。獲物を追い詰めた猛獣を思わせるゆっくりとしたペースで、その足がゆっくりとこちらに近づいてくる。 「ヤヨイをかえしてもらうぞ」 「……やだね」  真っ白に塗りつぶされそうとされる頭の、その片隅が必死で何かを訴えていた。その答えが、ふっと鼻を掠める。僕はとっさに背中の弥生の体に手を這わせ、彼女のポケットに手を突っ込んだ。心のどこかで予期していた硬い感触をつかんで引き抜くと、その半透明のグリーンの中で、液体が小生意気にさらりと揺れた。 「ラ、ライター……?」  答えが出てみれば何ということはない。僕の頭をしきりに突っついていたのは弥生の服に染み付いた煙草の匂いで、僕が必死に探していたのは喫煙者の大半がもっているであろう、コンビニの使い捨てライターだったのだ。 溢れそうになる落胆のため息を、唇を噛んで抑えた。目の前の相手がカッターナイフとライターを危険な狂気だと思い込んでいるちょっとアレな中学二年生ならまだしも、怪物相手にこんなモノでどうしろというのだ。  馬鹿野郎、どうにかするしかないじゃないか。  顔を上げる。デスメラモンの脇の通り抜けられる隙間はもう僅かにしか残されていない。もう一瞬でも迷っている暇はない。  何事か自分でもよく分からない言葉を叫びながら地面にライターを叩きつける。こうすれば火花を散らしてライターが破裂することは知っていたが、思ったよりも破裂音はずっと小さく、失望が胸に湧き上がる。  しかし、意外にもデスメラモンは大きく怯み、その大きな手で顔を覆った。そのことに気づくか気づかないかのうちに足が勝手に前に出る。  その瞬間、足が再び勝手に止まった。鼻の先、数ミリの隙間を置いた場所で止められたデスメラモンの拳に、腰の力が抜ける。 「調子に乗るなよ」  へたり込んだ僕を見下ろしながら、鉄仮面がその手を広げる。その巨大な手のひらは、僕の頭ならゆうに五つは収まりそうだ。  迫ってくる暗闇に僕は思わず目を瞑る。どこかで僕の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。      *****  思わず目を瞑ったものの、予期していた痛みも、その後の終わらない静寂も訪れなかった。代わりに耳に飛び込んできた大きな地響きに目を開くと、デスメラモンが横倒しに地面に倒れている。  呆気にとられる僕の手に、どこかから飛んできた一冊の本が収まった。洒落たカバーがかけられていても、そのあせたページをぱらぱらとめくれば、そしてその本が流ちょうに甲高い言葉を垂れ流すのを聞けば、何が起こったのかは容易に想像できた。 「……ワイズモン」 「早苗さん、ご無事ですか?」  ワイズモンの言葉にこくりと頷くと、遠くから聞き覚えのあるバリトンの声が耳に入った。 「話は後だ、早くこっちに!」  その声に引きずられるように慌てて僕はマスターに駆け寄る。喫茶店主のエプロンをつけたままの彼がワイズモンを収めた文庫本をデスメラモンに投げつけた、ということは想像に難くなかった。 どうしてそんなものであの大男をひっくり返すことができたのか、そもそもどうやってここまで来たのか、疑問はあった。命を救われたことへの感謝の言葉もあった。でも、僕が震える唇から引っ張り出せたのは、罪悪感にまみれた言葉だけだった。 「なんで来ちゃったんですか!」 「なんでって」マスターは苦笑する。 「あんな風に店を出ていった無鉄砲な探偵クンを放っとけるわけないだろう?」 「そんな……」 「とにかく、彼女をこちらに」  彼の言葉にうなずくと、僕は負ぶっていた弥生をマスターの背中に預けた。 「彼女のことは良くは知らないが、狭い街だ、小さなころから顔は見知っている。確かに保護させてもらうよ」  マスターの有無を言わせない頼もしい言葉に僕は思わずこくりと頷く。と、耳にデスメラモンの苦しげな声が響いた。 「ま、待て、逃がすか」  その言葉を遮るように、背後で一陣の風が吹き、数回の殴打の音がそれに続く。僕は深いため息をついて振り返り、デスメラモンに馬乗りにまたがったトレンチ・コートを睨みつけた。 「マミーモン。おおおおお前、来るのちょっと遅いぞ!」 「わりい、今度は逃がさねえよ」  相棒に向けて非難の声をあげたものの、やはり体は安心したのか、背中には今まで溜め込んでいた汗が噴き出してくる。 「早苗、俺がこいつを抑える。その間にこいつの弱点を見つけてくれ」 「弱点?」 「詳しくはその変態から聞け。さあ!」  マミーモンの強い調子に、僕は弾かれたように走りだした。      ***** 「すぐに警察が来るので彼女を預けてください。話は通してあります」 「警察に行ったから安全という相手でもないだろう。私の店に……」 「駄目です! これ以上は巻き込めません!」 「いいや、今の彼女に必要なのはあたたかい飲み物だね。」  なにがなんでも店に連れていくという固い意志を見せつけ、マスターは商店街へと向かう角を曲がり、僕達と別れた。 「ワイズモン」 「はい、マスターさんのあれは不謹慎だと思いながらもちょっとうきうきしてる人の態度ですね」  多少落ち着きを取り戻した肺を鞭打って走りながら、僕はため息をついた。心配だが警察もいることだし、弥生のことは元気な人に任せるのが一番だろう。 「それで? どうやってデスメラモンをぶっ飛ばしたんだ?」  僕の問いに、少し自慢げに声の調子が上がる。 「〈パンドーラ・ダイアログ〉に記録された情報を、ワタクシは無限に再生することができるんですよ」 「再生?」 「有り体に言えば、一発殴られたらそれと同じだけの攻撃を何回でもやり返せるって感じですね」  分かったような分からないような話だ。僕の無言の疑問符を感じ取ったのだろうか、ワイズモンは我々モンスターはそういうものなのですよへらりと笑った。 「早苗さんたちが最初にワタクシの探求の聖林に乗り込んできたときに、マミーモンさんがワタクシの頬を二回殴りつけたでしょう?」 「そうだっけ?」 「特に一回目は相当必死だったみたいでして、中々痛かったですよ。まあおかげで、対して数を繰り返すこともなく、アイツを殴り倒せましたけどね」  確かに、あの時の僕達は突然に降りかかってきた無数の本から逃れるために必死だったし、〈パンドーラ・ダイアログ〉に踏み込んだマミーモンも、相手が誰かを確認しないままに本気の一撃をお見舞いしたはずだ。 「あとは喫茶店で靴屋の寺内さんにコーヒーをこぼされた分と橋本さんとこのお婆さんに栞代わりにページを折られた分と、あとそれと…」 「めちゃくちゃ根に持つじゃん」 「そうですよ、ワタクシは根に持つんです。そんなワタクシを差し置いて、勝手にお爺さんの仇討ちなんて許しませんよ」 「……ごめん」 「まあ、謝らなくてもいいですけど」  本の内側でワイズモンがふんと鼻を鳴らした気がした。 「それより、今はアイツの弱点探しです」 「それだよ、僕ちょっと未だによくわかってないんだけど」  そこまで言った僕の脳裏に、昨夜隠れ聞いたマミーモンとあの黒鉄の体を持ったデジタル・モンスター(ブラックラピッドモンと彼は呼んでいた)の会話が蘇る。〈死霊使い〉であるにもかかわらず碌に術のひとつも使えない、それがマミーモンが抱えていたコンプレックスで、そこを突かれた時の彼はひどく動揺した様子だった。 「おんなじモンスター達がみんな当たり前にできるのに、自分にだけできないこと」 「そういうことです。先日早苗さんのことを殺しかけたというネオヴァンデモンみたいな輩は例外と呼ぶべきで、この世界にわざわざやってくるモンスター達は普通そういうモノを抱えてますね」 「ワイズモンも?」思わずそう尋ねてから慌てて口を覆う。コンプレックスをそう気軽に尋ねる奴がいるものか。 「ワタクシの場合は単に周りと趣味が合わなかっただけのことで」  腕の中の文庫本は僕の失言にもそう答えてからからと笑った。そこには少しの公開もないように見える。彼は確かに、この世界で好きなことを調べながら幸せに暮らしているのだろう。 「とにかく、その弱点を見つけることが、アイツに勝つ近道でしょう」 「なんか気が引けるな」  マミーモンもワイズモンも、少なくとも僕にとってはいい仲間だ。そんな彼らが自分ではどうしようもない一点の短所の為に虐げられていたということには納得できなかったし、いくら敵とはいえデスメラモンの粗探しをしてそこに漬け込むのも気が進まなかった。 「大体それは弱点じゃない、個性だよ」 「早苗さんは、人間は優しいですね。でも、ワタクシ共の世界では、それは生きていくのに邪魔な足枷でしかないんです。それでも並一通りに生きていこうとすれば、色々と曲がったことをしなければいけませんでした」  ワイズモンの話は途中で一般論から彼自身の話になったようだった。僕は昨日聞いた話、マミーモンが彼の故郷でネオヴァンデモンに認められるために、誰よりも率先して殺しを行っていたという話を思い出した。彼らのようなモンスター達は、程度の差こそあれ皆そういう経験をしてきているのかもしれない。 「ワタクシはこの世界でお爺さんと出会って、それなりにうまくやっていました。マミーモンさんも、早苗さんと出会えて幸せみたいです」  彼は静かに続ける。その声の調子には、今まで感じなかった賢者の言葉の重みがあるように思えた。 「でもアイツは、デスメラモンはこっちの世界でもはみ出してしまった。ワタクシ共にはアイツに何かをしてやる理由もなく、また同時にその方法もないのですよ」 「……分かったよ。ここはハードボイルドにいこう」  僕は深々と息を吐いた。ワイズモンと話しているうちに僕はとうに大通りを通り過ぎ、大きな公園に差し掛かっていた。穏やかな秋晴れの下で、家族連れやカメラを首から下げた人々の声が聞こえる。ここには木々も多いし、上空から自分を探しているデスメラモンから身を隠すにはもってこいの場所だろう。頭上を多い隠す木の葉の冠がまだ茂っているベンチを選び、腰かけた。走っている間は感じなかった痺れがからだ中を駆け巡る。思い切り新鮮な空気を吸い込み、それから少しむせた。 「とにかく少し休むから、その間にデスメラモンという種について、君が知ってることを教えてくれ」 「ワタクシあまり詳しくはありませんが……」 「一般的なことでいいよ。というか、一般的なことじゃなきゃダメだ。その情報とあのデスメラモンとで食い違っているところが、僕らの探すべき弱点だ」 6-2 死の覚悟/二つの答え/最後の一撃のこと 「デスのつかない、メラモンってやつもいるのか」 「はい」 「えーっと、じゃあそのメラモンが死んだのがデスメラモン?」 「いや別にそういうことではなく……」 「でも、デスって名前に」 「早苗さん」 「うん」 「ちょっと無理がありますよ」 「……やっぱり?」  ワイズモンの言葉に僕はため息をついた。デスメラモンという種族についての知識をつらつらと聞いては見たが、そもそもデジタル・モンスターについて大した知識を持たない僕がそれを聞いてどうこうできるというわけでもない。  このまま何もせず、マミーモンの戦いに期待することしかできないのか。無念の気持ちに秋晴れの空を見上げた僕のポケットで、スマートフォンが着信を知らせて振動した。こんな時に、顔をしかめて画面を開き、通話に出る。 「もしもし?」 「探偵クン、無事かい?」 「マスター!」今のところ僕をそう呼ぶのは彼一人だけだ。 「僕は大丈夫です。そっちは?」 「ああ。うわごとばかり言っているが、とりあえず弥生くんも落ち着いたようだ。警察にも連絡して、迎えの先を店に変えてもらったよ」 「良かった」僕はとりあえずの安堵にそっと息をついた。 「それじゃあ、こっちも立て込んでるので」 「あ、待ってくれ」  電話を切り、あてどない推理に戻ろうとした僕を、マスターが引き留めた。 「どうしたんです?」 「あの、本の中の、ワイズモンといったかな? 彼は大丈夫かい?」 「え? ああ、はい、元気そうですけど」 「そうか、良かった」 「なんでまたそんなこと気にするんです?」  マスターの人が好いのは知っているし、二人の間に今朝若干の会話があったのも知っていたが、それでもワイズモンはマスターにとって出会ったばかりの得体のしれないモンスターのはずだ。それに本自体の無事は彼も自分の目で確認している。 「いや、お爺さんの仇を前にして、死ぬ覚悟を決めたようなことを言っていたから」 「死ぬ覚悟?」 思わず手の中の文庫本に目を落とす。 「あの大男から探偵クンを助けるために本を投げるよう私に言ったのは彼なんだ。その時の言葉が、まるで最期の言葉のようだったからね。無事ならいいんだ。くれぐれも気を付けて」  そう言ってマスターは電話を切った。ワイズモンがじれったそうに話しかけてくる 「時間がないのに妙に長電話でしたね。マスターさんでしたか」 「ああ、無事だそうだ。君のことを心配してたよ」 「私を?」ワイズモン自身にとってもやはりそれは不可解なことだったらしい。もともと甲高い声をさらに高くして疑問符を僕に飛ばしてきた。 「デスメラモンに投げつけられるときの君の言葉が、まるでこれから死ぬみたいな感じだったってさ」 「そりゃあ」ワイズモンが柔らかく笑う。 「あの時はお爺さんの仇の前で必死でしたからね。死んでもいいと思っていましたし、実際今でも生きてるのが不思議なくらいですよ」  その言葉に少しだけ違和感を感じた 「本当にそれだけ?」 「え?」 「君はその時、確かに死を意識したんだろ? そこにもしかしたら鍵があるかもしれない」 「よくわかりませんが……」 僕は頷いて、口を開く。それはもしかしたら何でもないことかもしれない。でも、誰もが当然のこととすることでも当然としてはいけない。探偵とはそういうものだ。 「君のその決死の覚悟に、何かしらの理由があるとしよう。そうだとすれば、それにもかかわらず今君が生きているということは、異常な事態だ」 「ふむ、だんだんわかってきましたよ」  僕はぶつぶつと言葉を続ける。確かに僕はデジタル・モンスターについて十分な知識を持たない。でも、知識を持っているワイズモンの行動から見える無意識を分析することならできる。例え無駄骨に見えても、これが僕にできる最善のことだ。 「デスメラモンといえば当然連想される物事の為に君は死を覚悟した。しかし、あのデスメラモンがその“当然”を持ち合わせていなかったために、君は今も生きてる。じゃあその“当然”はなんだ?」 「それは……」  文庫本が甲高い声でその答えを告げ、僕は大きく目を見開いた。     *****  デスメラモンを追って迷い込んだ小さな路地。巨大な拳で地面に突き倒され、マミーモンの前に今日何度目かの秋の青空が広がった。彼とデスメラモンとの力の差は明らかなもので、それを速さでカバーしようにも、人家に囲まれた狭い路地では到底無理な話だった。〈ネクロフォビア〉の応用で打撃の当たる場所に死霊の力を集めているために致命的なダメージこそ受けていないものの、このままでは勝機はない。 「どうした? 始めて戦った時のほうが骨があったぞ」 大の字でアスファルトに倒れている彼にゆっくりとした足取りで近づきながらデスメラモンが言った。 「俺が戦いにくい場所に誘導したのはお前じゃねえか」 「地形を言い訳にするとは、思ったよりも大した奴じゃないらしい」  そう言い放ち、デスメラモンは腕に巻き付いた鎖をマミーモンに叩きつける。しかし彼の鉄仮面には砕けたアスファルトの破片が当たっただけだった。 「舐めんじゃねえ」 いつの間にかその背後に立っていたマミーモンがマシンガンで思い切り彼の後頭部を殴りつける。よろめきながら振り返ったデスメラモンが大降りに振り回そうとした鎖の前に咄嗟にマミーモンが身体を投げ出す。鎖が木乃伊の体に巻き付いてその動きを封じたのを見て、鉄仮面の奥から満足げな唸りが漏れ出た。 「馬鹿なやつだ」 「危ねえじゃねえか。民家に当たったらどうする」  マミーモンの言葉にデスメラモンは声をあげて笑い、鎖を持った手を引いてぎりりと木乃伊の体を締め上げた。身動きの取れない敵の苦痛のうめきにますますその笑いは大きくなる。 「それは本当に、攻撃の機会をふいにして自分からわざわざ捕まるほどに重要なことか? 人間にかぶれすぎるのも考え物だな」  そう言いながら、デスメラモンは鎖をゆっくりと自分の下に引き寄せていく。少しづつ敵の手中に引き摺られながらも何とか踏ん張りつつ、マミーモンは不敵な笑みを浮かべて呻きの隙間から言葉を投げた。 「さっきさ、早苗を襲おうとして、お前さん本にぶっ倒されてたろ」 「忘れたな」不快そうにデスメラモンは短い言葉を返す。 「あれは無様だったな。笑えたよ」 「黙れ、もっと苦しみたいか」 「勘弁してくれ。で、その本のことなんだが」 ぶっきらぼうな言葉と共にさらに締め付けが強くなった鎖に思わず叫び声をあげながらも、マミーモンは笑みを崩さない。 「あれは中にデジタル・モンスターが入っててな、ワイズモン、お前さんが拷問したあの爺さんに憑いていたやつだよ」 「……それがどうした」 「変態同士趣味があったんだろうな、あいつは爺さんとは仲良しで、爺さんを襲ったやつを憎んでた。あの場でお前さんに一矢報いることができて、嬉しかったろうよ」 「『それがどうした』と俺は聞いているんだ!」 いつの間にか二者の距離は互いの手が届くほどに縮んでいた。鎖を持たないほうの手を伸ばしさえすれば、デスメラモンは簡単に相手の頭を握りつぶせるだろう。しかし、彼は何故かそうすることができなかった。 「お前は坂本の言うことを聞くフリをしていただけだった。あの爺さんを襲う理由は無かったはずだ」  でもお前はそうした、とマミーモンは続ける。 「本当に軽い気持ちだったんだろうさ。やり返せない相手の頭を指で少し弾くだけで十分だったろ」 「……」 「でもその事件がきっかけで俺と早苗は動き出した。ワイズモンも必死でお前にぶつかっていった。お前の計画は台無し、獲物ももう何度取り逃がした?」 「黙れ」 「やだね。お前、撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ。って知ってるか」 「知らんな、興味もない」 「俺もまた聞きなんだけどよ。つまりはそういうことさ。力をふるうには、それなりの覚悟が必要なんだよ。誰彼構わず傷つけていたら、いずれ自分が痛い目を見る羽目になる」 「きれいごとはもう沢山だ」 うんざりしたようにデスメラモンが手を持ち上げ、マミーモンの頭部をゆっくりと掴もうとする。それでも、マミーモンは言葉を止めなかった。 「確かにきれいごとかもな。でもそれが、俺とお前との違いだ。俺がこの世界で見つけた、俺だけの流儀ハード・ボイルドさ」  そう言うなり、マミーモンは大きく、言葉にならない雄たけびをあげた。〈ネクロフォビア〉の紫の電撃が彼の体を駆け巡り、それは鎖を伝ってデスメラモンの体に届く。鉄仮面が、苦しみにうめいた。 「さあ、いつだかの悪夢の続きだ」  マミーモンは顔を前に出し、鉄仮面の額に自らの額をぶつける。 「狂気のなかで洗いざらい喋っちまえよ。お前の怖れるものは、なんだ?」  全身に流れる狂気の奔流に、デスメラモンのその深淵のような目に、剥き出しの筋肉質の胸に、鉄に覆い隠された眉間に、様々な感情があらわれる。悲しみ、怖れ、怒り、恐れ。 「…あ……あつ……」  二体はどれだけの時間そうやって向かい合っていただろうか、デスメラモンの苦しみのうめきの中から、言葉がぽろりとこぼれた。 「なんだ!」 「あ……あつい……いたい……やめて……くれ……」  その言葉にマミーモンの目が見ひらかれる。彼は紫電を止め、すっかり締め付ける力のなくなった鎖をその拳で打ち砕くと、無防備なデスメラモンの腹を鉤爪で差し貫いた。 「終わりだぞ、さっさと目ェ覚ませ」 「お、俺は……」  狂気から解放されたデスメラモンは、しばらく呆然としていたが、自分の腹から滲む血を見ると、怒りに満ちた叫びと共に腕を大きく振った。軽やかなバックステップでそれをかわしたマミーモンを彼は睨みつける。腹の傷は大したダメージではない、ということらしい。 「何をした!」 「別に、ちょっと覗いただけさ」  マミーモンは自分が息をついているのを気取られまいと、そっけなく返した。先ほどの電撃、そして腹への一撃はかなり効いたはずだが、彼自身ももともと不得手な死霊による術式を長時間使った疲れで相当参っていた。 「けど、その値打ちはあったな」  ふらふらのデスメラモンをみながら彼はほくそ笑む。“あつい”と“いたい”、デスメラモンが怖れるものについて、二つのヒントを手に入れた。 「ヒントはそろった。これで後は推理するだけ……」 「ちょっと待った!」  マミーモンの呟きを、背後で聞き覚えのある声が遮った。彼は口の端にそっと笑みを浮かべる。そうだな、それはお前の役目だ。 「間に合った?」  春川が息を切らしながら、彼に尋ねた。      ***** 「ああ、ギリギリだが、間に合ってるぜ」  マミーモンが僕の方を振り返らないまま答えた。 「お前らがわかりにくいところでドンパチやってるから、見つけるの大変だったぞ。この上に推理までお前にやられちゃたまんないよ」 「いいからさっさとしろ」 マミーモンが厳しい声で僕を促した。彼も、彼の前のデスメラモンもかなり傷を負っている。なるほど、本当にギリギリだったらしい。 デスメラモンはといえば、ふらつきながらもその仮面を真っ直ぐに僕に向けている。何があってそんなに疲弊しているのかは知らないが、体勢を立て直し次第真っ直ぐに僕を攻撃してくることは容易に想像できた。マミーモンの言う通り、急ぐに越したことはなさそうだ。 「オーケー。まずはワイズモン、一般的なデスメラモンについて説明を頼む」 「承知しました」  僕は文庫本を掲げた、そこから甲高い、いつもより少し芝居がかった調子の声が響く。 「デスメラモン、高熱の青い炎に身を包んだメラモンの進化系デジモンです。噴き出る炎のために、その体は青く燃え盛っています。攻撃力・防御力共にメラモンよりも格段に高く、炎の威力も合わせてすさまじい破壊力の持ち主ですね。火炎型系デジモンは水系や氷雪系に弱いのが定番ですが。こいつの場合は焼け石に水です」 「サンキュー。それじゃ次に、僕の推理を補強する事実だ」  僕はぴんと指を立てる。 「一つ、本の中の賢者ワイズモンは、デスメラモンに触れることと死とを無意識に直結することとして考えていた。 二つ、僕の頬を掠めたデスメラモンの鎖の感触は、ひやりと冷たかった 三つ、デスメラモンは、僕の投げたライターの軽い破裂に、不自然なほど驚いた」 「それと、さっきこいつが悪夢の中で吐き出した二つの言葉がある。“あつい”と“いたい”だ。これが四つ目」  マミーモンがそう口をはさんで、僕の方を振り返った。僕は笑みを返し、推理の締めくくりに移る。 「これらの事実と、さっきのワイズモンの説明とで、符合しない点が一つある」  僕はあらかじめ調達してきていた手の中の物体をマミーモンに放った。 「答えは“火”だよ」 マミーモンはそれ──使い捨てのライター──を受け取り、にやりと笑う。 「火が苦手なメラモン種だって? 早苗、お前やっぱりサイコーだよ」  その言葉とほぼ同時に、デスメラモンがよろめきながらも動き出す。 「後は俺に任せとけ。さあ、行くんだ!」 彼の言葉にはじかれたように僕は急いでその場を去った。      ***** 「……行ったか」  春川がその場を去ったのを確認し、マミーモンは息をつき、マシンガンを持った手を自分の横の空間に差し出す。すぐにずぶりという音がして、デスメラモンの巨体が彼の足元に転がった。春川を追うために慌てて駆け出したものの、マミーモンに注意を払わなかったために自分の目の前に差し出されたマシンガンに気づかなかったらしい。傷ついていてもその速さは大したもので、マシンガンは勢いよく突っ込んできた彼の体の、先程の刺し傷の箇所に突き刺さったというわけだ。 「お前の相手は俺だよ」  彼はそう言い捨てて、デスメラモンの腹に深々と刺さったマシンガンを引き抜き、代わりと言わんばかりにその傷口を踏みつけた。うめき声が鉄仮面から漏れる。マミーモンは思わぬ使われ方をしたマシンガンを眺め、目を丸くした。  そのマシンガンの金属部は灼けて真っ赤に染まっており、一部は融解している。それを見たのだろうか、足元のデスメラモンが苦しげに言った。 「お前に分かるか、熱が苦手な体に生まれたにもかかわらず、身体の内側から常に灼かれ続ける、この痛みが」 「……これは少し同情するぜ」  と、マミーモンの体が突然に引き倒され、その上にデスメラモンの巨体が覆いかぶさる。 「でも、それとこれとは話が別だ!」 彼は咄嗟に〈スネーク・バンテージ〉を放ち、包帯でデスメラモンを覆うと、手の中のライターを着火した。燃えた包帯で体を包まれ、デスメラモンは声にならない叫びをあげる。木乃伊の体を覆う包帯は乾燥していて、良く燃える。しかし、それは彼自身の体についても同様だった。あっという間に二体は炎に包まれ、一つの火だるまと化す。 「これで最後だよ。どっちが先に死ぬかだ」  雄たけびを上げ、デスメラモンが拳をふるう。マミーモンも同じように叫びながら、その一打を紫電を走らせた両手で受け止める。 「……こちらの世界でも、火は熱くて、痛いんだな」 「ああ、お前さんにとっちゃ残念な話だ」  彼は鉤爪で相手を突き刺そうとする。それをデスメラモンは、己を覆う唯一の鎧、顔の鉄仮面で受け止めた。 「でも、ヤヨイは違った」 「何を言ってる?」  鉤爪を弾いた勢いで、デスメラモンは相手の頭に頭突きを食らわせる。木乃伊の視界はちかちかと点滅したが、彼も最後の魔力を振り絞った〈ネクロフォビア〉で電撃を相手の体に走らせた。 「初めてこの世界で出会った人間がヤヨイだった。その時、俺の体に、これまで感じたことのないほどのあつい熱が走った。でもな──」  痺れに震える大男の腕が、したたかに木乃伊を殴りつけた。 「その熱はいたくなかった! 俺を、傷つけようとはしなかった!」  次の瞬間、マミーモンが全力でデスメラモンの体をひっくり返し、彼に馬乗りになると、高らかに笑った。 「恋の炎、ってやつか? ロマンチックなのは嫌いじゃないぜ」  でもな 「もう、手遅れさ」  木乃伊の鉤爪が振り下ろされた。      *****  路地を抜け、鰆町商店街の入り口辺りに戻ってきたところで、僕の目に救急車が留まった。どうやら伊藤は間違いなく約束を果たしたらしい。 その後部座席から、一人の男が下りてくる。その顔に見覚えがあった。すべての始まりのあの午後に、遠野老人を搬送した救急隊員だ。その翌日に一度話をしたときには白井と名乗っていた。 「白井さん!」  僕はそう声をかけ、彼に駆け寄っていった。彼はその小じわの寄った目を細めながら僕を見ると、すぐにほほ笑んだ。 「ああ、春川君じゃないか」  彼のほうでも僕の名前を憶えていたのが、少し意外に感じられた。 「伊藤刑事に言われて来てくれたんですか?」 「ん? ああ、そうだよ」  僕はほっと息をついた。これで彼女も一安心だろう。 「それで、弥生さんは?」 「ああ、患者なら今救急車に運び込んだよ。もっとも、緊急性は全くないから、帰りもサイレンは点けないけどね」  そう言って彼は開け放たれたままの救急車の後ろの扉を指さす。 「君のことを心配していたよ、顔を見せてあげるといい」 「いいんですか?」 「もちろん」  それじゃあ失礼して、と言って僕は車両後部から薄暗い車内に乗り込んだ。確かに担架が置いてあり、その上の毛布にはふくらみがある。 「弥生さん?」  返事はない。眠ってしまったのだろうかとさらに担架に近づく。  担架の上には誰もいないと気づいた瞬間、背後で扉が閉まる音がした。  咄嗟に振りかえる間もなく、湿った手で口がふさがれ、僕は床に引き倒された。手からワイズモンの入った文庫本が滑り落ちる。 白井が僕の口と鼻を抑え、ゆっくりと体重をかけてくる。手足も既に手際よく押さえつけられており、抵抗しようにもどうにもならない。  ああ、僕はなんてバカだ。遠野老人は救急車に運び込まれるまでは元気だったのに、病院についたころにはもう瀕死だった。 デジタル・モンスターの力なんて関係ない。救急車の中で何かされたに決まっているじゃないか。  身体が手足の先のほうからゆっくりと痺れていき、視界がだんだんと白く染まる。  ああ、人っていうのはこんなに簡単に死ぬのか、そう思いながら、僕は意識を失った。 6-3 目覚め/仕掛けられた罠/包帯だらけの父親のこと  ゆっくりと目を開いた瞬間に、照明の無粋な白い光が目を刺し、僕は一気に覚醒した。横で、安堵したような男の声が聞こえる。 「ああ、起きたのか、良かった」  僕はゆっくりと目を声の方に向ける。見覚えのある額の痣が目についた。 「金沢……警部?」 「覚えてくれてるとは光栄だよ。昨晩話したときには、君をひどく怒らせたようだったから」  金沢は、そう言ってにっこりと笑った。 「……あんな聞き方されたら、誰だって怒りますよ」 「残念だが、そんなことはない。ああいう風にむきになるのは、後ろ暗いとこがある人だけだよ」  そう言われては黙るしかない。しかし金沢の声の調子はあくまで優しいもので、そのことで僕を追求する気はないみたいだった。 「それよりここはどこです? 今は何時? 何が起こったんです?」そしてマミーモンは一体どうしたのだ。頭がはっきりすると同時に疑問が一度に溢れてきたが、最後の質問は金沢にしたところで意味はないだろう。 「本当に元気みたいだな」僕の矢継ぎ早の質問に金沢は苦笑した。 「その元気に免じて答えてあげよう。ここは市の総合病院の病室、今は夜の九時。そして私は何が起こったかを逆に君に聴きたくてここにいるんだ」 「……救急隊員の白井に殺されかけたことまでしか覚えてないです」  金沢の目が鋭くなった。 「間違いないな」 「どう間違えろっていうんです? 知り合いが中にいるから入れって言われて、油断してついていったらドアを閉められて、覆いかぶさってきたんです。一体全体、僕はどうやって助かったんですか?」  僕の言葉を注意深くメモしていた金沢は、最後の質問に顔を上げ、少し笑った。 「伊藤だよ。あいつが救急車に踏み込んでいって、白井を殴りつけたんだ」 「伊藤さんが……」  金沢は少し伸びをすると、再び話し始めた。 「白井は、君が遠野古書店で見つけたあの写真を売りさばいていた組織の一員だったんだ。白井と、あと数人の救急隊員だな。遠野老人を殺したのも彼らだ。とんでもない不祥事だよ。今も病院はマスコミへの対応に追われてる。我々は我々で、連中がほかにも故殺した患者がいなかったか、必死で探っている」  ということは、完全に僕の見立て違いだったということだ。遠野老人とエロ写真の組織の関連まで見つけておきながら、犯行にデジタル・モンスターが関与しているというアイデア、伊藤を犯人だとするアイデアに固執し、簡単な事実を見逃してしまっていたのだ。フィリップ・マーロウ曰く、自分で自分に仕掛ける罠ほどたちの悪い罠はない。まったくよく言ったものだ。 「伊藤は君を助けた後、迅速に行動した。おかげで君のことはマスコミに一切知られちゃいない。バラしたいなら自分からバラせばいいし、そうでなければ問題なく日常に戻れる」  僕の思いを知ってか知らずか、金沢は少し厳しい声で続けた。 「アイツは仕事でやったんだから、今回の件で君は伊藤に感謝する必要はない。でも、謝る必要はあるかもな」 「……」 「君が伊藤をどう思っていたかは何となく感づいていた。どういう経緯でそう思ったのかは知らないが、アイツは頭も回るし行動力もある、将来きっといい警官になるんだ。昨夜君にああいう態度を取ったのは、疑いから伊藤を守るためでもあった」  僕は黙って俯くしかなかった。  その時、病室のドアをノックする音に続いて看護士が部屋に顔を突っ込んできた。 「あ、春川さん目が覚めたんですね、良かった。お父さんが来てますよ」 「お、そうか。ご実家への連絡はあの喫茶店の店主さんがどうしてもと言うからお任せしたが、間違いなくやってくれたようだな」  父親? 僕の背中に冷や汗が伝う。物腰穏やかで心配性だが怒ると妙に怖いあの父親が田舎から新幹線に乗って飛んできたとでもいうのだろうか。しかも、連絡したのがマスター? どういうことだ。 「それじゃあ私は退散するかな。春川君、人を疑うことには、それだけの責任が伴うってことを忘れないでくれ。もっとも、これは我々警察がしばしば忘れてしまうことなんだがな」  最後に柔らかい口調でそう言い残すと、彼は看護士と連れ立って部屋を出ていった。 「しかしあのお父さん、あんなに包帯ぐるぐる巻きで、自分が入院した方がいいんじゃないかしら」 扉の向こうで、そう言う看護士の声が聞こえた。     ***** 「お前かよ……」  ベッドの脇に立つコートにハットといういで立ちの木乃伊を見て、僕は呆れと安堵が混じったため息をついた。 「なんで父親なんて嘘ついたんだよ」 「親族でもなきゃ病室に入れなかったからさ。マスターも門前払い食らったんだぜ」 「霊体になれば良かったんじゃないの」 「ああ、確かに」 僕はもう一度ため息をついた。 「せめて顔隠せよ」 「包帯の上からこれ以上どう隠せっつーんだよ」 「そういえば、なんか包帯、新しくなってる? コートも」 「前のは燃えたからな」 「……そう」  いつも通りの軽口を一通り終えて、幾分マシな気分になったところで、マミーモンが口を開く。 「デスメラモンは死んだよ」 「うん」 「とりあえず、終わりか?」 「どうだろうね」  僕は思い切り伸びをした。 「まだ坂本殺しの犯人が不明のままだ。伊藤についての推理はまるっきり外れてたし、組織への糸口は完全に断たれた。ネオヴァンデモンがまた現れた時に差し出す情報もないよ」  心配の種を羅列する僕に、マミーモンがくすりと笑った。 「……なんだよ」 「いや、元気そうで何より」 「そんなに元気でもないよ、推理は外すし、ここ数日で何回も死にかけてるし」 「その通り。とりあえず問題は忘れて、今日こそはゆっくり休もうぜ。俺もそろそろやべえよ」 「まあ、そうだな」  そう言いあってお互いに肩をすくめた時、マミーモンの目が急に鋭くなった。 「足音だ、誰か来るぞ」 「病院の誰かだろ」 「俺、霊体になった方がいいよな?」 「別に必要なくないか? 僕のパパなんだろ?」  僕の冗談にも彼は不安そうな顔をして、結局は病室の扉が開けられる瞬間にふっと宙に浮かんで姿を消した。 「お邪魔するよ」  そう言って入ってきたのは、この数日で散々対峙したにきび面、伊藤だった。彼は警察の制服ではなく、ジーンズに黒のジャケットを着こんでいた。 「……伊藤さん」 「早苗君、今日は災難だったね」 「伊藤さんが助けてくれたんですよね。ありがとうございます」 ──早苗、油断するなよ。殺しの疑いが晴れても、こいつのここ数日の言動が怪しすぎることに変わりはないんだからな。  木乃伊の声に僕はかすかに頷く。伊藤は来客用の椅子に座ることはなく、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま立っていた。 「俺の方こそありがとうだよ。今日は弥生を助けてくれたんだよな」 「弥生さんは今、どうしてますか」  その質問に、伊藤の顔に影が走ったように見えた。 「この病院の精神科の、隔離病室だ。俺も会わせてもらえなかったよ。精神錯乱、幻覚、妄想と現実の区別がつかなくなってるらしい」 ──そんなに酷かったか? ああ、デジタル・モンスターのことを誰彼構わず喋っちまったのかもな。  なるほどね、マミーモンの言葉に僕の顔も暗くなる。 ──まあその点に関しちゃ、俺が病室に忍び込んで説明するより他ないだろうな。まあどっちにしろ、治療が必要なのは間違いないだろ。  僕はまた微かに頷く。弥生が錯乱していたのは事実だったし、あの腐った過去の吹き溜まりのような家よりは、病院のほうが今の彼女にはいいだろう。 「そういえば、トキオは死んだよ。殺されてた」 「……そうですか」 僕はなるべく初めてその事実を知ったような反応をするよう努めた。うまくいったかは知らない。 「それでさ、俺がトキオの死んだ家を最初に捜査したんだ。昔に弥生も合わせて三人でよく遊んだ家でさ、そこにトキオの死体が転がってるんだ。妙な気分だったよ」  その話になったとたん、ふっと、伊藤の纏う空気が変わった。昔馴染みの死、或いは精神錯乱を悲しんでいる雰囲気はそのままだが、今ではその上に悪戯っぽい、僕の良く知るムカつく伊藤の空気を纏っている。 ──なんか、イやな予感するな。 「そこで俺は、最初にこんなものを見つけた。いや、普通にドアノブに刺さってたんだけどさ」  そう言うと、彼は、ジャケットのポケットにずっと突っ込んでいた手を出した。その手に握られているものを見て、僕はまた気を失いそうになった。 「それ……」 ──おいおい、それまさか……。  伊藤の手に握られていたのは、僕が遠野古書店で入手した鍵をもとにマスターの友人の鍵屋で作ってもらい、坂本の隠れ家の扉を開けるために使った合い鍵だった。 ──ドアノブに刺さってたって? 冗談きついぜ。早苗も、俺も。 なんてバカだ。細かい証拠の隠滅ばかり気にして、こんな重大なものを忘れるなんて。  伊藤はいかにも面白そうに続ける。 「俺は当然、指紋鑑定に回したね。興味深いことに、遠野古書店からも同じ指紋が出た。もっと興味深いことに、早苗君が見つけてくれた証拠物品からもだ」  当然、僕の指紋だ。僕の顔は真っ蒼になっているはずだった。これで、僕が坂本の殺害に居合わせたことも、証拠の鍵を複製したこともバレてしまった。それがどういう罪になるのかは知らないが、重罪であることは容易に想像できる。鍵の複製に協力してくれたマスターや鍵屋の店主にも迷惑がかかる。無論、探偵なんて言っていられない。 「と、いうわけで」  いまにも気を失いそうな僕に、伊藤がその鍵をほうった。 「え?」  慌ててそれを受け止めるのと同時に、伊藤の行為への疑問符が声になって飛び出す。 「返すよ。警部には言わないでおく」 「は?」 ──はあ?  僕とマミーモンの声が、きれいに重なった。 「え、ちょっとちょっと」 「ん、どうしたんだい?」 「どうしたんだいじゃないですよ! こんなことしていいんですか!」 「え? そりゃあ」伊藤はへらりと笑う。 「駄目かもね」 「駄目に決まってるでしょう!」 「じゃあ警部にしっかりこの証拠を提出した方がいいかな?」 「う……」  半笑いでそう切り返してくる伊藤に、僕は口ごもるしかない。 「安心してくれよ、特に他意はない」 ──いや、怪しすぎるだろ。  マミーモンが気持ちを代弁してくれたおかげで、僕はその言葉を伊藤に面と向かって放たずに、代わりに幾分落ち着いた質問を飛ばすことができた。 「なんでこんなこと……」 「君がどういう経緯であの家にいたにせよ、現場を見れば犯人が君じゃないことは明らかだ。それに、君が、君の行動が弥生を助けてくれた。それは警察じゃできなかったことだよ」 「……」 「要するに、俺は君に好きにしてもらいたくなったのさ」  伊藤はそうへらりと笑って立ち上がると、別れの挨拶をして病室を出ていこうとした。 「待てよ」  僕は彼を呼び止める、口調を取り繕う余裕はなかった。伊藤はこちらを振り返らないまま、しかし立ちどまった。 「あんたのやってることも言ってることも、僕にはやたらムカつくし、意味わかんないですし、意味わかんないのがさらにムカつくし」  要するに。 「あんた、一体何者だ?」 「俺?」  伊藤は僕の方を振り返ると、にやりと笑った。 「俺は、君とおんなじさ」  彼はジャケットのポケットに手を突っ込むと、呆然とする僕と相棒を残して、軽やかに病室を後にした。
木乃伊は甘い珈琲がお好き 第六話 content media
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マダラマゼラン一号
2019年11月03日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy         ≪≪前の話 後の話≫≫ 5-1 選ばれた人々/三つの刺し傷/通りかかる車のこと  匿名の手によってなすすべなくログハウスの壁に叩きつけられる趣味はなかった。ただし、人間いつも自分の趣味に合うことが出来るというわけではない。そんなわけで、僕は自分の腕を掴むその手に気づいたときには既にログハウスの中に引きずり込まれ、なすすべなく壁に叩きつけられていた。ドアが閉まり、部屋を暗闇が満たす。汗ばんだ掌が、うめき声をあげようとする僕の口を勢いよく抑え付けた。後頭部を木造の壁に強打し、頭の裏側ががんがんと鳴る。  不意に眩しい光が僕の目を刺した。思わず目を瞑ると、今度は耳に耳障りな声が飛び込んでくる。 「なんだ、お前。よくジジイの本屋に来てたガキじゃねえか」  外の暗闇から不意に蛍光灯の光にさらされたせいで相手の顔はぼやけて見えなかったが、これで相手が誰か分からなかったとしたら、高級ホテルの御用探偵だってつとまりっこないだろう。 「(坂本か……!)」 じきに光に目が慣れ、やつれ果てた男の顔がはっきりとした輪郭を伴って目に飛び込んできた。油ぎった髪が光を反射しててらてらと光る。無理もない。僕の推理通り坂本が遠野老人の口を封じたうえで件のエロ写真を売りさばいている組織から隠れてこの家に閉じこもっているとしたら。この三日間ろくに風呂にも入れていないはずだ。 目に入ったのはそれだけではなかった。その坂本の頭を包み込むほどに大きい、骨ばった木乃伊の手のひら。僕が合図を出せばすぐにマミーモンは坂本を放り投げてしまうだろう。 と、そう思った瞬間に僕の眉間に重く冷たい金属があてられた。アドレナリンで沸騰した頭が一気に氷点下まで押し戻される。世間知らずなカシマに僕が押し当てたファイルの角とはわけが違う、リアルな銃口が目の前にあった。 「おっと、変なことを考えるなよ。俺が動けばすぐにこいつもおしまいだ。お前に言ってるんだ。このガキに取っ憑いてるバケモノさんよ」  彼はそういうと僕に目を戻す。 「おい、お前からも頼めよ。いるんだろ? 〈デジタル・モンスター〉が。最初にお前がこの家の前で俺のことについて一人でべらべら喋ってるのを聞いたときはワケが分かんなかったけどよ、デスメラモンの名前を出したときに分かったよ。なんとか言え! お前も『選ばれしもの』なんだろ? じゃないと俺がしたこと、全部分かるわけねえ」  そう言って坂本が僕の口に当てた手を外した。新鮮な空気を求めて荒く息をつく度に、目の前で銃口がゆらゆらと揺れる。 ──あっという間に自分の犯行を認める犯人は三流だと言ってやれよ。自分の推理を大声で言いふらして殺されかかっている探偵も、大概惨めだけどな。  マミーモンはこんな状況でも茶化してくる。それは逆に僕を安心させた。僕がネオヴァンデモンに捕まった時の彼は必死そのものだった。それに比べれば今の状況は大したことはないらしい。彼にしてみれば、坂本が引き金を引く前にその頭を握りつぶすくらいは簡単なことなのだろう。 ──落ち着けよ早苗、怖がる必要はないさ。今のうちに色々聞きだしとけ。ただし急いでな。デスメラモンが来ると厄介なことになる。  オーケー、マミーモン。僕は呼吸を落ち着ける。銃口が目の前にあってはいつも通りとはいかなかったが、声は何とかのどから這い出してきた。 「……『選ばれしもの』か」 「なんだ?」坂本が眉をひそめる。 「あんたは、自分のことをそう呼ぶんだね」 「そうさ」坂本はニヤリと笑った。 「デスメラモンは俺にそう言った。俺は選ばれた。お前もそうだろ? だからバケモノを従えられるんだ」 ──さっきのブラックラピッドモンの逆だな。こいつはデスメラモンの口車に乗せられて、調子に乗ってるってわけだ。  マミーモンが冷笑する。僕はそんなに笑えなかった。他の人にできないことが僕にはできることが分かったとき、僕にしか遠野老人殺害の犯人を突き止めることが出来ないと分かったとき、僕は確かに喜んでいた。伊藤を殺すことが頭をよぎったとき、僕は何を思った? 「僕には、それができる」と、僕はそう心で言ったんだ。 「選ばれしものだから、法に触れる写真を売りさばいてもいいし、昔世話になった老人を殺してもいいのか?」 坂本は露骨に顔を歪めた。 「うるせえ、アレは仕方なかったんだよ。意味わかんねえ。ジジイも急に俺を組織に突き出すとか言い出しやがって。自分も散々やってきたことじゃねえか」 「あんたが最後に撮ったあの小さな女の子の写真の、何がそんなにマズかったんだ?」  僕の言葉に、彼は驚いたように突然大声をあげた。 「なんであの写真のことを知ってる! アレはもう捨てたはずだ。ジジイが持ってたのか? あれだけ探して、デスメラモンに脅させても見つからなかったのに?」 ──なるほど、これがどういうことか分かるよな、早苗? デスメラモンは坂本に言われてあの爺さんを拷問してたんだ。アイツに殴られて爺さんが即死しなかったのはそういう理由だったんだな。  ご丁寧に解説されなくても、もちろん分かった。それでも坂本が件の写真をこの世から消せなかったのは、デスメラモンに坂本の命令を真面目に聞く気はなかったからか、あるいは遠野老人がワイズモンへの友情の為に彼の探求の聖林(パンドーラ・ダイアログ)のことを黙っていたからか。 ──どっちにしろ、坂本が消したくて消したくて仕方がなかった一枚は、早苗が持ってるってわけだ。…おいおい、そろそろ助けたほうがいいか?  動揺した坂本に銃口をぐりぐりと押し当てられ、僕はマミーモンの心配そうな声もろくに聞いてはいられなかった。 「お前が写真を持ってるのか? おい、さっさと出せ!」 「分かった、分かったよ! 胸ポケットの中だ」  坂本は銃を持っていないほうの手で僕の制服の胸ポケットを探り、写真を取り出すと満足げにうなった。その写真はコピーに過ぎず、原本はすでに警察の証拠品保管庫にあると教えてやる義理も勇気もなかった。 「その写真を奪ってどうする気だ?」 「お前には関係ねえよ。これから逃げるために必要なんだ」 「逃げられると本気で思ってるのか?」まさかその写真を売りさばいた金で一生ものの逃亡計画がもつと信じてるわけでもないだろうに。 「逃げられるさ。顔を変えて、遠くに、連中の手の届かないところへ行く」 「殺されるぞ」 「ンなことできるかよ。俺には化け物が憑いてるんだ」 ──もういいだろ。化け物が憑いてるやつを殺そうとするとどうなるか、こいつに分からせてやろうぜ。  マミーモンの言葉に僕はかすかに首を横に振る。どうしても坂本に聞いておかないといけないことが一つあった。 「……弥生さんはどうなるんだ?」 「はあ?」 「あんたの奥さんだよ。あんたに何度も騙されて、それでもあんたが人殺しなんかしないって信じてるサカモト・ヤヨイさんだ。彼女はどうなるんだよ?」 「それは……」坂本は急におろおろとした口調になった。 「そ、そりゃあ、まあアイツには悪いけど、もう会うことはねえよ」  彼の言葉に、僕は少し声を出して笑った。サカモト・ヤヨイにとってはこの結末が一番いい。罪を犯した夫は、愛するに値しない男だったという方が、他のどの結末よりずっといい。 「そう、仕方ないね。あんたは選ばれたんだもの。それなら…」 ──もうお前に用はねえよ。クソ野郎。      *****  どん、どん。  僕がマミーモンに合図を出そうとした瞬間、ログハウスのドアが二度強く叩かれた。坂本が驚いたように振り返る。  どん、どん。  なおも扉は叩かれる。しばしの逡巡の後、坂本は僕の顔に銃口を押し当てた。 「銃はずっとお前に向けてるぞ。妙なことを考えるな」  そう僕の耳元で囁くと、坂本は目を僕のほうに向けたままゆっくりと僕から離れ、扉を小さく開けた。  小さく扉を開けた坂本の身体が硬直したことに、最初は気づかなかった。その体が二回大きく揺れた時でさえ、僕は彼の手の銃しか見ていなかった。 ──早苗、なんか変だぞ。おい!  マミーモンがそう言った瞬間、坂本の身体が大きく後ろに倒れ込み、その胸に浮かび上がった三つの赤黒い点が目に飛び込んできた。      *****  マミーモンが動くほうが僕よりも幾分早かった、彼はすぐに霊体のまま外に飛び出し、僕にも聞こえる大声で叫んだ。 ──畜生、逃げられた! 相手は車だ。 「車種とかナンバーは?」  そう尋ねながら僕はあおむけに倒れた坂本に駆け寄り、首に手を当てる。 ──んなもんわかんねえよ。とにかく車だ。坂本は? 「駄目だよ。死んでる」 少しでも彼が生きているように見えたなら、駆け寄ってすぐに銃をその手からもぎ取ることを忘れはしなかっただろう。彼の脈は完全に止まっていた。胸の赤黒い三つのしみはナイフによるものだろう。何回目の攻撃が坂本の息の根を止めたのかは分からないが、彼を刺した人物が念には念を入れたのは間違いないだろう  体が小刻みに震えていた。こみ上げる吐き気を何とか抑える。ここまで近くで人の死を見せつけられたのは初めてだ。 ──早苗、しっかりしろ。あまり時間はない。お前の指紋やら痕跡やらを全部消すんだ。  分かっていた。今回の件に関しては僕は百パーセント被害者で、怯えて警察に保護を求めても何の問題もないはずだ。ただ、僕の行為はどの程度かは知らないが警察に知られてしまっている。坂本の死の瞬間に僕が彼の隣にいたという事実を金沢警部がどう捉えるか分かったものではなかった。 「そうは言っても、どこに触れたかなんて…」 ──俺が見てた。とにかくわかる範囲だけでも消すぞ。あと、坂本から写真を取り返しとくのを忘れるなよ。  それからは、マミーモンの指示でてきぱきと現場の片づけをした。隣にいる死体に動揺することもなかった。あまりにも簡単にこの状況に自分が適応してしまったことは、僕を暗い気分にさせた。 ──どうした。 「……別に、ただちょっと、慣れ始めてる自分が嫌になるってだけだよ」 ──それで良いんだよ。こういう血なまぐさいことは俺が助けてやる。お前は人が死ぬ度にいちいち落ち込んでればいい。そうじゃなきゃダメだ。  マミーモンがきっぱりとした調子で言った。 「そういうもんかな……」 ──そういうもんさ。さあそこの壁の隅で終わりだ。デスメラモンとは決着をつけたかったが、依り代の坂本が死んだ以上アイツもそのうち消えちまうだろ。真実を知る俺たちが警察に行かない以上、事件は迷宮入りだな。ついでにエロ写真の組織への手がかりも途絶えた。ネオヴァンデモンを満足させるために何か見つけなきゃいけないって言うのによ。  なあ? と木乃伊が僕の背後で言う。 「坂本を殺した奴を見つけなきゃいけないだろうな」 ──どうせあの組織の下っ端だろ。  僕はため息をつく。 「組織はカシマのサイバードラモンに坂本を狙わせてた。こんなこそこそした手段じゃなくてデジタル・モンスターを使うはずだよ。死体をあっさり残して帰ったのも気に食わない。組織も警察とのごたごたは避けたいだろうし、坂本の居場所が分かったなら連れ去ってどこかで人知れず消すはずだ」  マミーモンに背を向けてハンカチで指紋をふき取っていても、彼が笑みを浮かべているのは知っていた。 「捜査は続行される。坂本はクソ野郎だったけど、それでもこいつを愛する人はいたんだ」  坂本弥生にあったのは失敗だった。あの時背負った彼女の思いに応えるのは大変そうだ。 「だからマミーモン、安心していい。もうしばらくは、君を退屈させないさ。それに、僕も命を狙われっぱなしじゃいられないよ」 ──何の話だ?  マミーモンは素知らぬ素振りで言った。彼が不謹慎にもワクワクしていることは簡単に分かった。あるいは僕も心のどこかでそうだったのかもしれない      *****  住宅街の暗闇と静寂が満たす路地、突然現れた大型車がその二つを一度に破った。最初は唸りをあげる二つの小さな光源にしか見えなかった車は家々の間を通り抜け、僕の近くに来ると減速を始めた。 「……マミーモン、あの車ひょっとして」  坂本を殺した奴が乗り込んだ車ではないかという想像に緊張が走る。 ──だからさっきはよく見えなかったんだって。とにかく用心しろ。  僕は頷き、鞄の紐を握り締める。果たして車は僕の前で止まり、そろそろと開いた後部座席の窓から聞きなれた声が飛び出してきた。 「やっぱり春川だ。何してるんだよ、こんなとこで」 「……富田?」  車の中のその整った顔の主は確かに富田昴だった。暗い路地に一気に眩しい光が差したような感じがする。 「そうだ、俺だよ。酷いじゃないか、三十分でライブハウスまで来るって言ったのに。電話にも出ないでなんでこんなとこにいるんだ?」 ──おいおい探偵サンよ、何をやらかしたんだ? 「……あ」 僕は慌ててスマートフォンをポケットから取り出す。なるほど、画面にはずらりとSNSアプリを使った昴からの着信の通知が並んでいる。 ──なんで通知音切ってるんだよ。別に普段誰からも連絡ねえのに。 時刻は十一時になろうとしている。昴に命を狙われた初瀬奈由のことを見ていてくれと頼んだのは九時過ぎ。つまり僕は彼らに待っていろと言っておきながらを二時間以上ほったらかしにしていたことになる。もっとも、僕にしてみればわずかに時間で二回別々の人物に殺されかけたことのほうが驚きで、昴に罪悪感を抱く気にもなれなかった。 「ええと、色々あったんだ」 「早苗くん、どうかしたの?」  後部座席の奥のほうから聞こえた声に、今度は空気が一気に華やいだ。昴には感じなかった罪悪感が一気に胸に押し寄せる。 「奈由さん」  社内のオレンジ色のランプに照らされてふんわりと笑いながらこちらに小さく手を振った彼女を見て、僕は安堵のため息をついた。良かった。彼女は間違いなく生きて笑っている。なぜ彼女が昴の車に乗っているかもそこまで気にならなかった。そこまで。 「もう遅かったからさ、迎えに来た親父の車で初瀬を家まで送るところなんだ。あ、セナもいるぞ。紹介するよ、俺の妹の…」 「セナはもう寝たよ」  不意に運転席の窓が開き、がっしりした体格の還暦近くに見える男が顔を出した。深い皴が刻まれたその顔はテレビとか新聞で見たことがあるようなないような。とにかく彼が市議会の重鎮、富田源治(トミタ・ゲンジ)議員であることは間違いない。その奥の助手席には小さな少女の顔が見える。顔は見えなかったが、あれが昴の妹、セナなのだろう。 「早苗君だったか? 君も乗っていくといい。もう子どもの一人歩きは危ない時間だ」  富田議員が口を開いた。全くその通り。たった今僕は夜の危険さを身をもって味わってきたところだ。とはいえ、僕は今現在狙われている身であるし、坂本を殺した奴はまだそう遠くに行ったわけではない。奈由を巻き込んでしまった前科もある。 ──お言葉に甘えちゃってもいいんじゃないか? 俺たちの関係者ってだけでこいつらも狙われるかもしれないなら、俺たちがついていたほうがまだいくらか安全だ。…それに早苗、疲れてるだろ。ここだけの話、俺も疲れてるんだ。  確かに、今日一日だけで、学校でカシマを脅し、古書店でワイズモンと出会い、警察でマミーモンと喧嘩し、家が荒らされ、最後には二度殺されかけたのだ。マミーモンはマミーモンで、サイバードラモン、ブラックラピッドモンと二晩続けて戦い精神的に参る出来事もあった。二人とも帰って休む頃合いだ。 「…お願いします」  そう言って僕は車に乗り込み、外から見るよりずっと広い後部座席の、奈由の隣に座った。何やらいい香りがする奈由の隣で、本来保っていなければいけないはずの緊張がほどけたのだろう。一気に眠気が押し寄せてきた。眠ってはいけないと自分に言い聞かせても、頭には白いもやがかかる。 ──なあ早苗、そういえば今お前の部屋って…。  マミーモンの言葉とそれと同時に湧いた荒らされた部屋のイメージが、そんな僕の眠気を一気に吹き飛ばした。見れば、富田家の誇る大型車は僕の家を目指し進んでいる。 「あ、あの! えっと! ここでいいです。叔父の家に泊まるんで、ここでいいです!」  僕が不意に上げた大声に、眠っている昴の妹以外の全員が僕に顔を向けた。車はちょうど、鰆町商店街のあたりで止まった。 5-2 まどろみ/コンビーフサンド/決死の闘争 「おい、何かあったのかい?」  〈ダネイ・アンド・リー〉の扉を十数回強く叩いたあたりで、既に寝間着に着替えたマスターが扉を開けた。目には驚きと、若干の迷惑そうな顔が浮かんでいる。無理もない。彼は三,四時間前に家に帰ってよく眠り、明日マミーモンと仲直りするようにと言って僕を送り出したのだ。僕がこんな夜中に焦燥の色を深めて戻ってきたことに困惑するのも当然だ。 「しばらく泊めてもらえませんか。実は……」 「ちょっと落ち着いて。とりあえず入りたまえ。何か飲み物は?」 「……あたたかいもの」 「相当疲れてるみたいだね」 「あ、俺も頼む」  僕の横に不意にマミーモンが現れて言った。マスターは驚いて彼に目を向けたが、彼が寝ぼけ眼で倒れ掛かる僕の身体を慌てて支えるのを見て少し笑った。 「待っててくれ。今毛布をとってくる」 「あ、マスター。電話貸してくれませんか」 「ん、いいよ。好きに使ってくれ」彼は厨房に据え付けられた電話を指さした。  マスターが部屋から消えると、僕はマミーモンに目配せした。 「電話番号の頭に184をつけるんだよ」  マミーモンは頷くとすべるように厨房に入り、受話器を取った。それを見ながら、僕は店内の本棚の脇のソファにゆっくりと腰掛ける。と、甲高い声が背後で響いた。 「なんでマミーモンさんが電話をかけてるんですか?」 「ああワイズモン、そういえばここにいたんだったな」 「早苗さんがここに置いて行ったんじゃないですか! 酷いですよ。ここはご老人の話で騒がしくて……」 「僕の家にいたら、君の入ったその本も、裂かれてたかもな」 「ほえっ!? どういうことですか?」  慌てたように説明を求めるワイズモンをはぐらかしていると、電話を終えたマミーモンが戻ってきた。 「なんだ、あのエロガッパここにいるのか」 「マスターの秘密の護衛にね」 「あのマスターさんはいい人そうですが、置いてけぼりは気に入りませんよ。今の電話は何だったんです? なんで早苗さんがかけないんですか」  不服そうに本棚が揺れた。僕は笑って答える。 「電話に出たのが僕の声を知ってる金沢警部や伊藤じゃマズいからさ」 「……それって」 「坂本の名前を出したから警察はすぐに調べるだろうな。明日の朝のニュースになっていてもおかしくない」  マミーモンが言った。匿名の通報だけは、眠りに落ちる前に絶対に済まさなければいけないことだった。     ***** 「……君を危険にさらしてしまったようだね。すまない」 「マスターは悪くないですよ。僕たちが好きでやってるんです」  僕は肩まで毛布を掛けてカウンターに座り、ホットミルクを一口すするとそう言った。  最初は今晩の出来事を細大漏らさず話すつもりだったのだが、自宅に侵入者がいたことを話した時点でマスターがかわいそうなほどに委縮してしまったために、そのあと二回殺されかけたことはさすがに言えず、坂本の死と彼の今回の事件における行いについても間接的に知った情報として話すしかなかった。 「坂本のことは、奥さんには話すのかい?」  マスターが気づかわしげに言った。 「話さなきゃいけないとは思います。でも、彼女も警察から改めて取り調べを受けるでしょうし、その時にそのことを知っているのはきっとまずい。秘密を守ろうとしてかえって動揺してしまうでしょう」 「要するに、先送りってこった」  マミーモンの言葉に僕はため息をついた。坂本の本当の姿を、彼が弥生を見捨てようとしたことを話すことは、彼女があのみすぼらしい家に過去の思い出を使って築いたガラスの宮殿を決定的に──もしかしたら坂本の死の事実よりも決定的に──破壊してしまうだろう。そのほうが彼女のためだ、と僕の心は言っていたが、自分にそんなことをする勇気と資格があるか分からなかった。大体彼女は僕に、彼の無実を証明してくれと頼んだのだ。 「探偵って難しいですね」 「そうじゃないタイプの探偵を目指すことだってできたんだよ。事実を淡々と解き明かして、去るだけの探偵にね。でも君はそうしなかった」  マスターはにやりと笑った。 「君は君らしくやってればいいんだ。探偵が謎解きの合間にいちいち“探偵とはどうあるべきか”なんてうじうじ悩んでると嫌われるよ。後期のエラリィ・クイーンみたいだ」 「マスター、エラリィのファンじゃなかったですか?」 「そうだよ。だから誰よりもああいうのにうんざりしてるのさ。とにかく今日は眠りなさい。長い一日だったろう。」  その通り、長すぎる一日だった。マスターが自室に引っ込むと、僕はあっという間にソファに倒れ伏した。まどろみの中で、僕の家に押し入った人物はどこで僕が奈由を好きなことを知ったのだろう、という疑問が頭に浮かび、そして消えた。      ***** 「いやいや、犯人への重要な手掛かりを思いついといてそのまま寝てんじゃねえよ」  翌朝の喫茶店のカウンターで、マミーモンが呆れた声をあげた。コートを着込んで帽子をかぶったその姿は、相変わらずほかの客の目を引いている。 「問題ないよ。ちゃんと朝に思い出してして考えてみた」  僕は胸を張って答えた。 「それで?」  マスターも興味津々に身を乗り出す。 「僕、基本的に学校で奈由さん以外の女の子と話したことないし、ちょっと観察すれば誰にでもわかると思う」 「……」 「女子というか、そもそも一緒に話す人が限られてるから、僕の感情までは知らなくても脅しに使う友人は自然と限られてくると思うよ。例の組織が学校にパイプがあるのは分かってるし、これだけじゃ犯人を絞れない」 「……」  微妙な沈黙が席を支配した。  その日は土曜日だった。僕は開店直前の九時に目を覚まし、マミーモンと共に朝のコーヒーとコンビーフサンドをつまんでいた(かなり高くついた)。人が死ぬのを見た翌朝というのがどんなものか知らなかったが、案外普通なものだ。しかし「昨日人が死ぬのを見た」という事実はもうすっかり頭の裏側にこびりついてしまった。多分この感触だけはいつまでも消えることはないだろう。いつまでも消えずに、それでいて少しづつ増えていくのだ。言葉や態度にそれを表す必要なんてないのだろう。  それに、僕には目下別の問題があった。先ほどからの沈黙に耐えかねたマスターが、明るい声でカウンターに置かれた僕のスマートフォンを指さしその問題を蒸し返す。 「ほ、ほら、今はこの華やかな予定のことを考えようよ」 「華やかな予定ねえ…」マミーモンが呟いた。 「そのはずなんですけどね…」 僕もうなった。目の前のスマートフォンはSNSアプリの、昨夜遅くに送られた初瀬奈由からのメッセージを表示していた。キュートな絵柄の絵と共に送られる散文たち。 『チケット買ってくれてありがとう!』 『昨夜はすぐ寝ちゃってたね』 『あんまり話せなくて残念だった』 『もし良かったら、今度どこかで会わない?』 「……認めたくないよ。奈由さんが犯人だなんて」 「なんで気のある素振りを見せた女を即座に犯人認定するんだよ」  マミーモンが呆れて言った。 「探偵とそういう展開になる女性は大抵被害者か犯人だよ。こんなこと認めたくはないけれど、それでも僕は彼女に被害者になるよりは生きてて欲しいんだ。例え罪人としてでもね」 「探偵が幸せな恋をする小説もいっぱいあるよ。というか探偵クン、ひょっとして見た目よりも大分浮かれてるね?」  マスターの問いから僕は目を逸らし、そしてその目を厳しくして隣の木乃伊に向ける。 「それより、なんなんだよ、これは」 『昨日はライブいけなくてごめんね。僕も会いたいな。来週の日曜日なんてどう?』 「人のメールを勝手に返すなよ!」 「いや、あの女からメッセージが来てるって何度教えても早苗が起きねえからつい」  お前どうせ適当な理由つけて逃げようとしただろと悪びれもせずにマミーモンが言う。 「ライブに行けなかったことを謝ってたり、結構行き届いてるよね。さすがは探偵クンの相棒クンだ」 「マスター、そういうことじゃないんです。なんて返せばいいかなあとか、こんなこと言って引かれないかなあとか、僕はそういうことで悩みたかったの! 顔文字使うか使わないかで小一時間悩みたかったの! 僕は!」 「お、おう。悪かったよ。」  反省した様子のマミーモンから視線をスマートフォンに戻すと、今度はその脇に置かれた文庫本が騒ぎ出した。 「ワタクシはナマモノには興味ありませんが、早苗さんの役に立ちそうな参考文献ならいくつも用意できますよ。その初瀬さんという女性は『ラティラハスヤ』的な分類で言うとどうやら……」 「ワイズモン、コーヒーかけるぞ」 「あんなに美味なマスターのコーヒーを、もったいない」  マスターはワイズモンの言葉に笑っていつの間にやら洒落たブックカバーの掛けられた文庫本の背を撫でた。ひっそりとマスターを守ってもらうはずが、ワイズモンは僕が朝寝をしている間に本棚で騒ぎ出し、あっという間にマスターと意気投合してしまったらしい。  坂本やその奥さんのことが繰り返し脳裏に現れては消える。それでも同時に僕の心は悦びで輝いていた。世界はなんて現金で冷たい場所なのだろう。かくいう僕も、自宅が敵の監視下に置かれていることは変わらないのだ。 「マミーモン、僕のスマホを勝手にいじったのはともかく、来週なんて安請け合いしてよかったのかな」 「デートの相手は待たせるもんじゃないだろう」 「いや、マスター、そういうことじゃなくて」  僕はため息をついた。マミーモンが軽い調子で肩を叩いてくる。 「気にするな、昨日も言ったじゃねえか。あの女のことはもう敵に知られちまってるんだ。付きっ切りで守れるほうが都合がいい。本当は今日や明日だって良かったんだぜ」 「それならなんで明日にしなかったんだよ? 僕のメールを勝手に見たんだから、日付だって好き勝手に決められたはずだろ?」 「悪かったって。……なんか嫌な予感がしたんだ。昨日色々あったばかりだしな」 「木乃伊の呪いかよ。冗談でもやめてくれ」  僕はそう言って大きく伸びをした。マスターはいつの間にやら僕たちの前から離れ、ご老人のお客の対応をしている。店もだんだんと混雑してきていた。 「そろそろ席を開けたほうがいいだろうね」 「同感だな」 「ワタクシはまた留守番ですか?」 ワイズモンが不服そうに尋ねる。 「そういうこと」 「ふん。まあいいですけどね。おじいさんを殺したデジモンも、それを命じた男も死んだんでしょう?」 「ああ、デスメラモンも、多分…」  すべての始まりであるあの午後に僕を見下ろしたデスメラモンの虚ろで真っ黒な二つの目を思い出す。彼がどういう意図で坂本に『選ばれし子ども』なんていう嘘を吹き込んだのか知りたかったが、それもかなわないだろう。  僕はそう言ってマミーモンに目を向けたが、突如耳を刺した陶器の擦れる音に思わずその目を閉じてしまった。僕の隣で突如立ち上がったコート姿の背の高い男に店中が奇異の目を向ける。 「どうしたんだよ、マミーモン」 「それだ、デスメラモンだ。畜生、昨日からずっと引っかかってたんだ」  彼の慌てたような調子に僕も思わず声が上ずった。 「おい、もしかして…」 「ああ、俺だって腐っても〈死霊使い〉だ。死んだデジモンのデータの気配は分かる。それなのに昨日からデスメラモンのそれは全然感じなかった」 「アイツがまだ生きてるのか? 坂本は死んだのに?」 「……依り代の死亡から憑依したデジモンの消滅までは時間差があるのかもしれませんね」  文庫本の中からワイズモンがぽつりと言う。 「それだけの時間があったら、デスメラモンには何だってできるさ。早苗、女のことではしゃいでる場合じゃねえみたいだ」  僕は頷いて財布から出した二人分の代金を机に置いた。デスメラモンが何をするにしても、坂本の関係者の身に被害が及ぶのはまずい。坂本の交友関係は良くは知らなかったし、その中で守るべき人物となると一人しか思いつかなかった。 「急ぐよ。マミーモン、弥生さんの家だ」       ***** 「やめて! こっちにこないで!」  この路地に来るのは二度目だった。一度目は伊藤が坂本を殺そうとしているという仮定の下に大慌てで駆けつけたのだったが、通りに響いた女性の甲高い声を聞く限り二度目の危機は一度目の比ではないらしい。 曲がり角を一つ曲がると同時に僕の隣でマミーモンが跳んだ。次の瞬間には彼の蹴りを屈強で青白い肌の男の腕が受け止めていた。デスメラモンがマミーモンを振り払った隙に、僕は彼の前で座り込んだ女性のもとに滑り込んだ。こちらを向いた鉄仮面にさらにマミーモンが組み付く。 「弥生さん!」 「君は……前の…」  坂本弥生はひどく震えていたが、頭ははっきりしているようだった。彼女は僕の伸ばした手をきつく握りしめると言った。 「……嘘つき」 「え?」 「今朝警察から電話が来て、トキオが死んだって言われたわ。あなた、トキオのことを助けてくれるって言ったじゃないの!」 「それは……」 「それに今度はデスメラモンが私のところに戻ってきてわけのわからないことを言い出すし……なんなのよ!」  弥生は頭を抱えて叫んだ。デスメラモンの拳をかわしたマミーモンが彼女に向けて吠え立てる。 「おい、勝手なことぬかしてんじゃねえぞ! 早苗はな…お前、なんでデスメラモンの名前知ってるんだ?」 その疑問が生んだ一瞬の間に、巨大な拳がマミーモンを殴りとばした。彼は吹き飛ばされて僕の横に転がったかと思うとすぐに起き上がり、背負っていたマシンガンを構えて僕たちを庇うように立った。 「お節介焼きの少年とマミーモンか。会うのは二度目だな。そこをどけ。」 デスメラモンが重い口を開いた。もっとも、鉄仮面のせいでその唇の動きは見えなかったが。 「やだね。この女とお前がどういう知り合いか分かるまで、危害を加えさせるわけにはいかねえ」 マミーモンの言葉に、デスメラモンの鉄仮面の浮かべる笑みが、少しだけ大きくなった。 「安心しろ、危害なんて加えるはずがない、違うか? ヤヨイは私のパートナーなんだから」      ***** 「どういうことだ? おい?」  僕たちに背を向けたままマミーモンが言った。 「僕に聞かれても」 「早苗に聞いてるわけねえだろ。隣の女だ」  僕は弥生に目を向けた。相変わらず僕の腕に縋りついたまま、無言で何度も首を振っている。 「知らない、ってさ」 「信じるのかよ」 「こういう時に女性を信じて痛い目を見た探偵のことは何人も読んでるよ」 「それで、お前は?」 「信じる」 「バカかよ」  その通り。坂本の死にも関わらずデスメラモンがこうしてぴんぴんしていることから見ても、弥生が奴の依り代であるというのは間違いないのだろう。 「それでも、奴の悪事を彼女が知っていたとは思えない」  僕の腕を抑える弥生の力が、少し強くなった。 「オーケーだ、大馬鹿野郎」  そう言うとマミーモンは、マシンガンをバットのごとく振り回し、デスメラモンが僕に向けて伸ばした鎖を弾き飛ばした。 「なぜだ、ヤヨイ? なぜ俺のことを拒む?」  デスメラモンは抑揚のない口調で言った。 「お前は俺に願ったろう? そして俺はそれを叶えようとしている。俺を怖がることなんてないんだ」 「あの時は……」  僕の隣で弥生がかすかに言った。僕よりも幾分年上のはずなのに、その声は幼い少女のようだった。 「あの時は夢だと思ったの。それで、せっかく夢なんだから、本当のお願い事を言おうと思った」  眉唾の言い訳にも聞こえたが、僕はやはり信じた。僕がマミーモンと出会った時もやはり同じようだったからだ。夢だと思ったから「探偵になりたい』なんて言葉が口をついて出たのだ。 「それ以来デスメラモンは私の前には現れなかったし、やっぱりあれは夢なんだって、そう思ったの、それに……」  彼女の声が不意に大きくなった。 「私は『昔みたいな三人組で遊びたい』って言ったのよ! トキオと私と伊藤君で。絶対にトキオを殺してなんて頼んでない!」  僕たちに伸びる鎖が不意に止まった。 「誤解があるようだ。私はあの男を殺してはいないよ」 「似たようなもんだろ」  マミーモンの言う通り、パートナーの振りをして坂本に近づき『選ばれし者』なんていう馬鹿げた考えを吹き込んだのはデスメラモンだ。坂本に一線を越えさせて、あのような状況に追い込んだのも彼だ。結果として彼は警察の指定安置所で胸にできた血の染みを気にしながら冷たくなっている。大体、坂本が危機に置かれている中、彼は何をしていたというのだろう? 「どうして坂本が殺されるのを黙って見逃がしたんだ?」  僕の問いにデスメラモンは高らかに笑った。 「誤解があるようだな。“坂本トキオ”は死んではいない」 「え?」  上体を起こした弥生の方に僕は手をかける。 「耳を貸さないでください。彼は間違いなく死んだ。殺されたんだ。僕は見ました」  声の調子に真実を感じたのだろう。彼女はうなだれてまた僕に身をもたれかけた。デスメラモンが厳しい苦笑で僕に問いかける。 「そこの少年、お前はあの下品な男のことを言っているのか? あいつが本当にヤヨイの夢見る“坂本トキオ”だとでも?」 「……何が言いたいんだ」 「俺はそうは思わない。わずかな時間をあの男と過ごしただけで俺にはそう分かった。くだらない誘惑に耳を貸して舞い上がり、身近な者も簡単に捨てるような男だと。事実、あいつはヤヨイをも見捨てようとしていた!」  再び、弥生の期待に満ちた目が僕に向けられた。僕は目を閉じて首を振る。 「あれは嘘じゃない」  僕の見た坂本トキオはデスメラモンの言う通りの男だった。誰かの無心の愛を受けるに値しない男だった。 「だから決めたんだよ。ヤヨイの夢を叶えるために、俺自身が“トキオ”になることにしたんだよ」 「はあ?」  僕とマミーモンは思わず同時に声をあげた。 「あの男が死んで、好都合だったよ。ヤヨイ、安心しろ。“トキオ”はここにいる」 「な、何言ってるのよ」 「伊藤という男もこれから調べて、場合によっては取り換えよう。ヤヨイの思い描く昔を取り戻して見せる。ヤヨイ、なぜそんな目で俺を見る? 全部ヤヨイのためにやっているんだ」  不意に銃声が鳴り響いた。マミーモンがマシンガンの引き金を引いたのだ。デスメラモンの胸にいくつかの小さな穴が空いたが、彼は痛みも感じていないようだった。 「もう十分だ。お前、人間に恋したのか」 「そのとおりさ、何かおかしいことでも?」  マミーモンの問いに、デスメラモンは質問で返した。 「前にお前に会った時に質問をしたよな、包帯男」 『お前がここにいるのは、誰かに指図されたからか?』 「俺は違う。俺は俺がヤヨイを幸せにしたいと思うから動いているんだ」  自信たっぷりに言うデスメラモンに、マミーモンはため息をついた。 「お前、気持ち悪いな」 「マミーモン、あまりいじめないであげろよ。恋愛が下手な奴は他人とは思えないんだ」 「なんだよそれ。とにかく、早苗、その女のこと頼んだぞ」 「はいはい」  マミーモンが「頼んだ」という言葉に込めた二重の意味に気づき、僕は少し苦々しげに言った。デジモンのこともよく知らず僕の腕の中で震えている弥生には分からないだろうが、彼女は僕たちにとっては人質でもあるのだ。彼女を盾にされてはデスメラモンは手を出せないし、彼女が死ねばデスメラモンも──。 「でも、お前はそうしない。俺がそうさせねえよ」  僕の心を読んだかのように、マミーモンが言った。その言葉に自然と笑みがこぼれる。 「オーケー、相棒」  僕がそう言うと同時にマミーモンが伸ばした包帯がデスメラモンに巻き付いた。弥生の手を引き、デスメラモンの横を通り抜ける。振り返る必要は感じなかった。
木乃伊は甘い珈琲がお好き 第五話 content media
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マダラマゼラン一号
2019年11月01日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy         ≪≪前の話 後の話≫≫ 4-1 灰色の廊下/合い鍵/甘い珈琲のこと  最後に警察署の建物の前に立ったのは随分前のような気がした。頭で数えてみると、前に遠野老人殺害の目撃者として訪れてから二日も経っていなかった。しかし時間の問題ではないのだ。二日前の僕はあちこちの角に伊藤やその仲間が潜んで自分達を疑う探偵を消そうとしていないか気を配っていなかったし、バッグの中に変態の魔導師を封じ込めた文庫本を放り込んでもいなかった。変わらないのはそれがあの時と同じく夜だということだけだ。  受付の女性職員は前に来た時と同じ人で、その事務的な愛想の良さが僕の正気を証明してくれた。金沢警部の名前を出すと彼女はにっこりと微笑んだ。 「六階の刑事一課にいらっしゃると思うわ。この証明書を胸につけて」 ──俺もつけた方がいいかな、それ。  背後でマミーモンが発した言葉に、余計なことを言ってないで周囲に気を配れという意を込めて僕は舌打ちをした。受付の女性が怪訝そうな目をこちらに向けたので、慌ててエレベーターに駆け込む。分厚い扉が閉まると僕は息をついて非難がましく声を上げた。 「マミーモン! 僕が人と話してる時に口を挟むなって言ってるだろ」 ──なんだ、今更世間体なんか気にしてるのか? 「そりゃあ、気にするさ」僕は唇を尖らせる。 ──気にするだけ無駄だろ。ほら、お前の好きな探偵だっていっつも一人でぶつぶつ喋ってるじゃねえか。 「マーロウ? アーチャー?」 ──心当たりが沢山あるんじゃねえか。 「ハードボイルドの探偵なんて、そんなもんだよ。みんな意味もなく一人でべらべら喋るんだ」 ──そいつらにも実はデジタル・モンスターが憑いてたのかもな。一人で喋ってるように見えるだけで、そいつらと会話してたんだよ。  僕は肩をすくめた。 「それならお前も精々僕の一人芝居の相手をしてくれ。ただし、警察ではナシだ。目をつけられたくない」 ──はいはい。  マミーモンの気のない返事に続けて、エレベーターが開く。この世の中にキューブリックの映画より退屈なものがあるとしたら、それはこの廊下だろう。灰色の壁に貼られた指名手配犯達の写真、彼らそれぞれが多くの人の命をその手で奪ったという事実が、この廊下で唯一のユーモアだった。 「お前とキャパブランカ」僕は呟いた。 ──何か言ったか?  僕は首を振る。なるほど、見えないモンスターと会話していたと考えれば、マーロウが鏡相手にあんなことを言ったのも納得がいく。きっとそいつは無類のチェス好きで、洒落た、ムカつくやつだったのだろう。 ***** 「部下を現場に確認に行かせた。君の言う通りだったよ」  先程の廊下に負けじと退屈な灰色の部屋で、金沢警部がため息をついた。彼の向かいで僕は余裕ぶって足を組もうかとも思ったが、変に彼を苛立たせたくはなかったのでやめた。探偵的な振る舞いが時に人を不快にすることは、僕が今までの短い人生の中で身体を張って正しいと認めた鉄より硬い経験則だ。 「もう一度聞かせてくれ、店のどこであの写真を見つけたって?」 「床下です。妙にがたついてたんで、変だと思って調べてみたんですよ」  そう言う僕を金沢警部は探るように見つめてくる。その視線を僕は余裕そのものの態度で受けた。僕の証言と古書店の様子に矛盾がないか確認しているのだろうが、細工は入念にやっている。あの床下に元々は何もなかったことを警察が知っているかどうかが唯一の気がかりだったが、 ──油断するなよ。  分かっている。物事が見え過ぎるくらいに見えるのは危険な兆候だ。そう言ったのは、確かクラリス・スターリングだったろうか。警部は僕には想像もつかないほどの数の嘘吐きを相手にしているのだ。 しかしそれでも、ここは攻めるべきだ。 「遠野さんを殴った犯人は見つかりそうですか?」  警部は深くため息をついた。それは疲労のためのものというより、安堵のため息に聞こえた。 「これはここだけの話なんだが、検視の結果が出てね、遠野さんの死因だよ」  僕は目を細める。警部は全てを見透かすような目で僕達を見た。その時僕は、そう思ったのだ。彼は僕ではなく“僕達”を見ていると。 「窒息死だった」 ──思った通りだな。殴られて死んだんじゃない。  お前の言う通りだ、マミーモン。でも、そう思ってることを警部に知られるわけにはいかないんだよ。 「何故それを僕に話すんですか?」 「いや、なんでもないんだ。気にしないでくれ」 「意味もなく捜査の内容を漏らすわけがないでしょう。僕の何を見たいんです?」 「本当になんでもないんだ。ただ…」 「ただ?」  食い下がる僕を彼は真っ直ぐに見据えた。 「君はさっき、犯人のことを『遠野さんを殴った男』と言ったろう。『殺した男』じゃなくてだ。ひょっとして、遠野さんの死因が頭の傷じゃないことを知っているんじゃないかなと思ってね」 ──早苗、落ち着けよ。ハッタリだ。  警部の言葉に背中にひやりとした感触が走るのとほぼ同時に、マミーモンが耳元で囁いた。おかげで僕は表情を取り繕うだけの余裕を保つことができたが、一瞬間の表情の変化は相手に読まれたかもしれない。 「そういうことを考えていなかったといえば、嘘になります」  僕は慎重に言葉を選びながら口を開いた。 「警部さんも見たでしょう? 遠野さんは救急車で運ばれる時も元気そうだった。だから、頭の傷のせいで死んだと言われた時、信じられなかったんですよ」 「まあ、確かにね」  肩をすくめる警部に、僕は怒りの目を向ける。 「何が言いたいんです? 今日、僕は警察に協力しに自分の意思で来てるんです。そんな態度を問われるいわれはない筈だ」 「悪かったよ、でも」  警部は遠野老人のエロ写真集をパラパラとめくる。 「これらの写真、そしてあの鍵、君が見つけたものはこれで全部かな?」 「僕が証拠を勝手に持ち去ったとでもいうんですか?」僕は机を叩いた。  ──おい、落ち着け。これじゃ相手の思う壺だ。  マミーモンの言う通り、嘘を怒りで誤魔化すのはあまりうまい手段とは言えない。でも、構うもんか。 「そうは言ってないさ。でも、ここには自分が警察よりも賢いと思ってる連中が沢山来るんでね。それに、君は青少年だ。こういう写真には興味があるだろう──」  僕は立ち上がった。 「帰ります。止めることはできないですよね」 「ああ。夜も遅い、家まで送らせようか?」 「結構です」その手には乗りませんからね。 「それじゃあ、気をつけて帰るように。…結局は私の言う通りになったろう?」  ドアの前に立った僕は、彼の言葉に振り返った。 「なんの話です?」 「古書店の前で君に言ったろう。警察は悪役だ。君は私達への感謝と信頼を後悔することになるとね」 「その通りだ。警部さんも、あまり警察を信じない方がいいですよ」 ──いい加減にしろ。もう十分だ。  犯人はあなたの部下なんですから。そう言いかけた僕をマミーモンが止めた。僕はなんとか口をつぐみ、外に出ると荒々しく部屋のドアを閉めた。  そこに伊藤が立っていた。ニキビ面に嘘っぽい笑みを浮かべ、気安く話しかけて来る。 「やあ、最近よく会うね」 「ええ、まったくです。あの証拠、知ってて僕に見つけさせたんですか?」  口調に怒りがこもる。相手の罠かもと覚悟して古書店に向かったとはいえ、この男に踊らされたとなっては心穏やかではいられなかった。 「まさか、勘が当たっただけさ。まさか床下とはね。床下ねえ」 「言いたいことがあるならはっきり…」  声を荒げる僕を伊藤は鋭い目で見据えた。 「嘘だね。それも下手な嘘だ。床板ががたついてただって? 俺たちもそれに気づかないほど馬鹿じゃない。それに、仮にそれが本当だったとしてだ。古本を譲ってもらいに行っただけの 君が、どうしてそんなものを見つけられるんだ?」 「偶々です。ありえない話ではない筈だ。それに、伊藤さんが自分で思うよりも警察は無能かもしれませんよ?」  伊藤はけらけらと笑う。 「偶々、か。その脚本は下書きからやり直した方がいいな。君がどう言おうと、君の探偵ごっこは見え見えだ」  探偵“ごっこ”だって?  僕は伊藤に詰め寄る。こいつが犯人であることは間違いない。こいつが遠野老人にしたように、夜道でこいつを殺すのも悪くない。だって僕には、マミーモンにはそれができるのだから。 「そう怒らないでくれ。俺に止める気は無いよ、君が証拠を見つけたのは確かだしね。でも、警部はどうだろう?」 「疑うなら勝手にすればいいです。僕も、勝手に疑いますよ」  伊藤の笑い声を背に、僕は早足で歩き出した。 ***** ──早苗、おい、早苗! 「なんだよ!」  警察署の前の通りで、僕は人目も憚らずに声を上げた。僕が署にいた二時間ほどの間に、街は秋の夜の冷たい風で満たされていた。 ──なんだよ、じゃねえ! なんなんださっきのは。俺が何度も何度も落ち着くように呼びかけたのに、聞いちゃいねえんだな。 「話しかけるなって言ったろ」 ──そうか。俺が黙ってお前一人にやらせとけば、もっとマシだったか? おまえ、すっかり相手の手玉に取られてたじゃねえか。情けねえ。 「余計なお世話だ」 ──余計なお世話? お前、これからも俺の世話になる気だろ。俺を使って伊藤を殺そうとか、少しでも考えなかったか?  図星だ。 「そんなこと、考えてないね」 ──嘘が下手だよな。言っておくけど、俺はそんなことにいいように使われないからな。俺を利用してみっともない復讐をしようなんて… 「黙ってくれ」 ──悪いけどさ、俺はお前の好きな時に口を開いたり閉じたりできる便利な機械じゃないんだ。 「じゃあ消えろ。一人にしてくれ。しつこいんだよ」  しばしの沈黙の後、僕の背後から気配が消えた。振り返りたいという思いを抑え、まっすぐに早足で歩く。  伊藤の「探偵ごっこ」と言う言葉が頭の中でこだました。秋の夜の冷たい空気が体を斬りつける。  ウィリアム・アイリッシュ曰く、夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。  そんな引用はクソ喰らえだ。僕は地面を蹴飛ばす。頭の中に渦巻く小洒落た引用句がかつてないほどに鬱陶しく思えた。いつもそれをかき消す背後の声も、今はもういなかった。 *****  予め訪れることを告げておいた為に、閉店の時間を過ぎても〈ダネイ・アンド・リー〉には明かりが灯っていた。closedの札を無視し扉を開ける。 「いらっしゃい、警察はどうだった?」 「どうだったって聞かれてもなあ。ディズニーランドじゃないんですよ? 散々でした」  マスターが明るい声をかけてくる、それだけで幾分心が安らいだ。皮肉を言う元気も戻ってきたみたいだ。彼は魔法瓶を取り出す。珈琲を淹れておいてくれたらしい。 「ブラックでいいかな? 相棒の木乃伊くんは?」 「僕はブラックで。…マミーモンはいません」  マスターはしばし目を細めて僕を見ていたが、やがて黙って頷いた。 「何があったかは知らないけど、そういう時は甘い物が良い。ウィンナーコーヒーなんかどうかな?」 「…お願いします」  僕は軽く首を縦に振った。こういう時に余計な詮索をしないのも彼の良いところだ。  目の前に白い生クリームがのせられた珈琲が置かれる。スプーンでそれをかき回し、一口すすった。甘くて温かい液体が、まるでそれが僕の血管に流れる液体そのものであるかのように自然に身体に染み込んでいく。 「マスター、お願いしたこと、やってくれましたか?」  彼は頷くと、一枚の紙と鍵をカウンターに置いた。紙の方は遠野老人のアルバムの中で一番最後にとられた幼い女の子の裸体の写真、鍵の方はワイズモンが遠野老人から預かっていたという鍵、いくつものエロ写真が撮られおそらくは現在坂本が潜んでいると思われる家の合鍵だ。警察に持っていく前に、マスターの友人がやっている商店街の鍵屋で作ってもらったのだ。 「大急ぎで作ってもらった。なんの鍵かとも聞かれたけど、黙っていたら秘密の用だと察してくれたよ。あいつなら警察にも口を割らないだろう。まあなんにせよ、鍵屋の名前が警察にバレないよう慎重に扱ってくれ。ついでに私の名前もね」  僕は頷く。警察に提出する証拠をコピーしてくれというのは、共犯者になれということに等しい。無茶な願いだったが、マスターは快く引き受けてくれた。これで僕は警察とは別に坂本の居場所──少なくとも僕がそう考えている場所──に入る方法を手に入れたことになる。  もっとも、問題が一つあった。 「それで、その鍵のはまる家をどうやって探すんだい?」 「…それなんですよね」  僕はうなだれた。この街の鍵穴全てにこの鍵を差し込んでみるか。無茶な、そもそも目当ての家が市内にあるという確証も何もないのだ。 「鍵のタイプからある程度は絞れるって鍵屋のやつは言ってたけど、気休めにもならんよな」  僕は頷いた。 「坂本や遠野さんの行動から洗い出すしかないでしょうね。あと、この写真とか」  僕は件の写真のコピーを指でくるくると弄ぶ。 「おい、気をつけるんだよ。その写真を警察に見つかるだけでも一発でパクられる。提出すべき証拠から抜き取ったって事がバレたら重罪だ」  呆れたように声をかけるマスターに僕は軽く頷き、写真を裏向きに机に置いた。見えない警察の目を恐れたわけではなかったが、望まぬ形でその身体を晒されている少女に申し訳ない気がしたのだ。 「万一の時は大丈夫ですよ。全部僕が一人でやったことにしますから」 「そういう問題じゃないさ。…しかし、その写真を遠野さんがねえ。あの人とは長い付き合いだが、そんなことをする人だとは思わなかったよ。誰にでも裏の顔はあるってわけだ」 「誰にでも裏の顔がある」伊藤や金沢警部の顔を思い浮かべながら僕はマスターの言葉を復唱する。それから一呼吸おいて、復唱すべき箇所はそこではないと気づいた。 「マスター、遠野さんとは長い付き合いだったんですか?」  彼は頷く。 「そこまで親しくはなかったけれどね。あの人の店は商店街の古株だし、私もここで育った。顔は互いによく見知っていたよ」  僕は彼の言葉を咀嚼するように何度も首をひねった。 「マスター。今から十年前、いや、十五年前かな、そのくらいの頃の遠野さんのことを聞いていいですか?」 「なんだってそんな…」 「理由はいいんです」 「私はその頃まだこの店を始める前で、東京で会社勤めをしていたんだ。盆や正月の時しか帰省していなかったから、あまり詳しくは話せないよ」  僕の予想が正しければ、これは大きな手がかりになる。 「その頃、遠野さんの店によく遊びに来ていた子どもたちが居ませんでしたか? 多分三人組で、男二人に女一人」  僕の予想に反して、マスターはすぐに頷いた。 「いたよ。この近所の子ども達みたいでね。遠野さんも面倒見が良かったから、店にある絵本なんかを読んであげたり、駄菓子屋に連れて行ってあげたりしていた」 「よく覚えてますね」 「実は当時から商店街に店を出したいと思っていてね。暇さえあればこの辺りをうろついて、あちこち見てたのさ」マスターは少し恥ずかしそうにはにかむ。 「遠野さんと子ども達が行っていたのは駄菓子屋だけですか? 他には?」 「あちこち行っていたし、話も聞いたよ。でも正確には…」  僕はマスターから受け継いだ肩掛け鞄からこの付近を記した地図を取り出した。かつてのマスターはこの地図の中で様々な事件を夢想したのだろう。今ではもうない店の名前も多く載っていたが、当時のことを鮮明に思い出してもらうにはその方が好都合だ。 「彼らが行っていた場所の範囲を、この地図に書き込んでもらえませんか? 分かる範囲で構いませんが、なるべく細かい記憶までさらってくれると助かります」 「なあ、どうして…」 「いいから!」  有無を言わせぬ僕の口調にマスターが鉛筆を片手に地図に向かい合ったのを見て、僕は席を立ち、カフェの本棚の方に行った。そこには古い漫画雑誌や週刊誌が並んでいる。その殆どが客が勝手に持ち込んだものだ。マスターの目指すカフェの雰囲気とはおよそかけ離れていたが、彼もとうに諦めていて、この一角には手も触れようとしない。  僕はそこに鞄から取り出した「終着駅殺人事件」を忍ばせた。十津川警部シリーズの中でも人気の高いエピソードで、ドラマ化も数度されている。その色褪せた文庫本の背表紙は本棚の雰囲気にぴったりと合った。これを見ればマスターも十津川警部を放り出してジョン・グリシャムの小説を置けとは言えないだろう。完成された本棚というのは、何者にも侵すことのできない一つの生命であり、尊厳なのだ。  もっとも、この小説に限って言えば、比喩的表現を抜きにしても本当に一個の生命体を抱え込んでいる。それを主張するかのように本の背表紙が震えた。あの甲高い声が小さく聞こえる。 「ワタクシをこんなところに置いて、どうするつもりです?」 「ワイズモン、君はここに居て、マスターを守ってくれ」 「守るといっても、何からですか?」 「マスターに危害を加える全てのやつと、あと警察がマスターを捕まえようとした時だ。ここにある雑誌はどれも廃品回収でも二の足を踏むような奴だから、好きに放り投げていいぞ。昨日僕にそうしたみたいに、頭めがけて本をぶつけるんだ。いいか、角を使え」  抗議するように本棚が震える。 「それじゃあなんです? ワタクシはここで留守番? 置いてけぼりってことですか?」 「ちゃんと外に気を配ってさえくれれば、後は好きにしていいよ。その…なんだ、神秘の探求をしていればいい」 本棚が逡巡するように沈黙した。 「…ここ、居心地いいですか?」 「かなりね」十津川警部が雑誌にコーヒーをこぼすのが趣味の老人のお気に入りとならない限りは。  その時、背後でマスターの声がした。ワイズモンを本棚に取り残し、僕は慌ててカウンターに戻った。  彼の前には、商店街周辺の一帯をペンで囲んだ地図があった。 「かなり曖昧な記憶だけど、思いつく限りは書けたと思う」 「ありがとうございます」僕は改めて地図を覗き込む。マスターの記した範囲は狭いとは言えなかったが、その分布には偏りがある。鰆町商店街や大通りのある一帯からちょうど南東の方角だ。遠野老人と三人の子どもたちのお気に入りの場所、捜査の方針になるはずだ。 「なあ、教えてくれよ。これはなんなんだ? その三人の子どもと今回の事件、何か関係があるのか?」  焦ったそうに尋ねるマスターに、僕は頷いた。 「その三人の子どもは、坂本とその奥さん、そして遠野さん殺害事件を担当している伊藤巡査なんです。勿論、ただの偶然かもしれませんが…」 「いつだって探偵は、ただの偶然に見える事象から謎を解くんだ。そうだろ?」  そう言うとマスターはくつくつと笑った。 「どうしたんですか?」 「いや、なんでもないよ。ただ、君が私の思っていたよりもずっと立派に探偵の仕事をこなしているからさ」  僕は面食らった。「そう、ですかね?」 「ああ、探偵ってものは事件の渦に飛び込むのがとにかく上手なのさ。その渦、狂った渦は誰の近くにもある。でも大抵の人にはそんなものに気づかないし、気づいたところでそんな危なっかしいものに近づこうなんて考えない。ところがそこに自分から飛び込んで行く物好きな馬鹿がいる」 「それが、探偵ですか」 「気にしなくて良いよ。昔探偵を目指していたオジサンの持論だ。ただね」  マスターは僅かに言葉を切り、真剣な顔になる。 「その渦の中は危険な場所だ。物語の中の探偵ならまだしも、普通の人間なら粉々になってしまう。君は、とても危ない橋を渡っているんだよ」 「…犯人が僕を消そうとすると?」 「犯人とは限らない。君は頭の回転が結構早いみたいだから、遠野さんと坂本が二人だけであの仕事をしていたとは思わないだろう?」 「裏に、組織めいた連中がいるでしょうね」 「そうだ。君はこの鍵で入れる家を、遠野さんと坂本の両方の思い出の場所だと推理したみたいだけど、その組織が提供した場所だということも十分に考えられる。そうしたら、その場所を探すことはより困難に、より危険になるだろうね」 僕は頷く。今頃は留置所にいるであろうサッカー部の鹿島があれほど怯えていたもの、それはおそらく一人の人物ではない。集団だ。そして遠野古書店は、その末端に過ぎないということだろう。 「その組織が、鹿島を手なづけていたということは…」 マスターが頷く。 「奴等は学校にパイプがある。大方、不良の少年少女を多く抱え込んでいるんだろう。遠野さんのアルバムの中にあったという君の学校の女子生徒の写真を手に入れる為の窓口はおそらくそこだろうね」 そしてその生徒の中には、デジタル・モンスターを連れた“狐憑き”がいるかもしれない。鹿島とサイバードラモンに坂本を殺させようとしたということは、彼等もデジタル・モンスターの存在を把握して、意識的に使っているということだ。 「確かに、危険だ」 「だろう? 君一人で飛び込んでいける場所じゃないよ」  その言葉でぴんときた。 「これってひょっとしてカウンセリングですか? それとも仲直りの指南?」  マスターはにやりと笑う。 「そんなんじゃないよ。単なるお節介さ。私は素敵なコンビが出てくる探偵小説が特に好きなんだ」 「シャーロック・ホームズとジョン・ワトソン」僕は呟く。 「エルキュール・ポワロとヘイスティングス」 「ネロ・ウルフとアーチー・グッドウィン」 「そして君達だ。とにかく今日は帰って休みたまえ。明日になったらマミーモンと話をするといい」  僕は黙って頷き、すっかり冷めたウィンナー・コーヒーを飲み干した。甘い珈琲も、悪くないものだ。そう思った。 4-2 月/残された帽子/足音の大きな猟犬のこと  帰宅した時には既に夜の九時をまわっていた。空には満月が浮かび、白く冷たい光を街に投げかけている。いつもなら遅くに帰宅すると煩いことを言う管理人も今日はいない。結局初瀬奈由のライブには行けなかったな、そんなことを思いながら静かな廊下を静かに通り抜け、自室まで辿り着き、冷え切った体をベッドに横たえれば良いだけのはずだった。  しかし、その願いは怒りの表情を浮かべて廊下に立っていた隣人によって見事に遮られた。彼は僕と同学年で、ここからは少し遠い私立の高校に通っている。 「春川くん!」その声の調子から、怒りの矛先が僕である事が分かった。 「どうしたの?」 「どうしたのじゃないよ! このマンションが連れ込み禁止なの知ってるだろ? それなのにあんなに騒いで…」 「騒いで?」 「ドタドタって音がうるさいんだよ! こっちは明日の小テストに向けて勉強してるっていうのに。君、ただでさえ最近部屋で妙な独り言喋ってるだろ? 気味が悪いし、邪魔なんだ」 「それっていつの話?」 「白々しいな、二時間くらい前だよ、とにかくやめてくれ」 「ありがとう」僕は心から隣人に礼を述べた。 「次こういう事があったら大家さんに……え?」隣人がきょとんとした声を出す。 「ありがとうって言ったんだ。君は僕の命の恩人かもしれない」  呆気にとられた友人に部屋に戻るよう鋭く言うと、彼は案外大人しくそれに従った。ドアが閉まるのを確認すると、息を大きくつき、乾いた唇にゆっくりと舌を這わせる。通路を見回し、近くにあった消化器を取り外した。部屋の中にいるかもしれない侵入者のことを考えるとこのような上手に振り回せない鈍器では気安め程度にしかならなかったが、今の僕が求めているのはまさにその気安めだった。  ドアノブを静かに捻る。思った通りと言うべきか、鍵は開けられていた。勢いよくドアを開けると、部屋の中には既に誰もいなかった。周囲を見渡しながら、部屋の奥に足を踏み入れる。侵入者はもう去った後らしかった。ほっと息をついた。  僕の部屋は酷く荒らされていた。引き出しは全て開けられ、ベッドのマットはひっくり返されている。クリアファイルに 挟んだプリントの類まで一枚一枚調べられている。本棚もほとんどひっくり返されたような状態で、何か挟んでいないか乱暴にめくられた形跡のある推理小説達が床に転がっていた。  しかし、目に留まったのはそんなものではない。僕の机に突き刺された、明らかに法律に違反している刃渡りのナイフ。その刃先によって固定された一枚の写真。  初瀬奈由の笑顔が、そこには写されていた。  愛する人を盾に取った脅し、マフィアのやり口、僕は呟く。そういうことね。  とつぜん頬に吹き付けた風に顔を上げた。窓が開け放されている。犯人は僕の部屋を荒らすだけ荒らした後、窓から逃走したらしい。ここは四階、やはり人ならざるモノが絡んでいるに違いない。  背中から汗が噴き出していた。震える手でスマートフォンを手に取り、SNSアプリの無料通話機能で富田昴を呼び出す。スマートフォンの画面の向こうで彼が電話を取ったのとほぼ同時に僕は彼にまくしたてた。 「富田! 大丈夫か?」 「よお、春川、どうしたんだ? 結局ライブには来なかったんだな」 「そう、それ、ライブ! 奈由さんは大丈夫か?」 「もう演奏は終わったけどさ、今そこで他のバンドメンバーと元気そうに話してるよ。電話代わるか?」 「いい。いや待って! やっぱり頼む」  そこはライブハウスのすぐ外らしく、昴が電話を離した途端に喧騒が耳に流れ込んできた。まだそこには多くの人がいるらしい。流石に敵も衆人環視の中で人を狙おうとはしないだろう、と考えた瞬間に、遠野老人のことが頭によぎった。あの老人を殺した奴は僕や金沢警部が見ている中で、老人に手さえ触れずにそれをやってのけたのだ。 「早苗くん、どうしたの?」 「奈由さん! 大丈夫?」 「大丈夫ってなに?」おかしなこと聞くね、と彼女はからからと笑う。その笑い声を直接聞けたおかげで幾分心が落ち着いた。 「い、いや、なんでもないよ。今日は行けなくてごめん。もしまた機会があったら誘って」 「うん」  その時、彼女の背後で別の女子の呼ぶ声が微かに響いた。 「ごめん、メンバーに呼ばれた。ライブハウスの人にノルマ支払わないと。じゃ、また明日ね」 「うん、またね」  そして彼女は電話の向こうから消えた。彼女はバンドのメンバーと一緒に、名前の読み方もよくわからないバンドやライブハウスのノルマがぐるぐると回る正気な日常に戻っていくのだ。さっきの電話、誰? ひょっとして彼氏? ううん、そんなんじゃないよ。  そして僕の方はまた、自分が一人で狂気の渦の中にいることを思い出すのだ。なぜなら、僕は、探偵だから。  僕はため息をついた。高望みはしないさ。真実を知ることができれば。  でも、君のことは絶対に守らなくちゃいけない。 「富田、頼みがあるんだ」電話が再び昴の手に戻ると、僕は早口で言った。既に足は玄関に向かっている。 「どうした、写真なら送ってやらないぞ」  軽口を叩いてる場合じゃないんだよ。 「今から、そうだな」僕は自宅から大通りのライブハウスまでの所要時間を算出する。全速力で駆けて二十分、道中で三回の息切れ、いや、五回かもな。 「今から三十分くらいの間、奈由さんについていてあげてくれないか?」 「どうしてそんな…」 「いいから!」 「落ち着けよ…三十分か? あまり長居はできないんだよ。セナをあまり遅くまで連れ回したせいで、親父がヘソを曲げてるんだ。もう少しで迎えに来る。心配性なんだよ。こないだセナが友達と旅行に行った時も大変だったんだぜ」  セナ? 昴の妹のことか。今はそんなガキの帰宅時間のことを気にしてる場合じゃない。噂の富田市議会議員のヘソの具合も知ったことではない。 「いいから頼む。緊急事態なんだ」 「どうしたんだよ?」僕の真剣な調子に昴も興味を持ったようだった。彼が眉をひそめるのが眼に浮かぶ。 「とにかく、頼んだからな」  そう言って電話を切るのと同時に僕は靴に足を差し込んだ。ドアノブに手をかけ、一度自分の部屋を見回す。 そして気づいた。玄関先に立てられたコート掛け、その頂上に掛けられた、ハンフリー・ボガート風の帽子。  僕は息を吐き、そっと笑みを浮かべた。この狂気の渦の中にいるのは、僕一人ではなかった。それが、たまらなく嬉しかった。 *****  初瀬奈由のいるライブハウスのある大通りから少し外れた路地裏、冷たい秋の月明かりの中で、マミーモンはマシンガンを構えた。それを頭上に向け、ろくに狙いもすまさないままに引き金をひく。  乾いた銃声、確かな手応え。彼は地面を蹴って飛び上がり、先ほど自分が弾丸を撃ち込んだビルの屋上に着地した。ふと横を見ると、明るい照明が地下のライブハウスに続く階段を照らしている。救急車も血痕もない。初瀬奈由の身にはまだ何も起きていないようだ。 「おい」マミーモンはそちらに目を向けたまま口を開く。 「おい、そこのお前に言ってるんだよ。三、四発ぶち込まれといてまだ隠れられるとでも思ってるのか?」  沈黙。しかし、目の前五メートル先で先程から夜の空気が慌ただしく動いていることは疑いようもなかった。 「早苗の家に脅しのメッセージがあったから様子を見に来てみたら、馬鹿みたいに気配を振り回してる奴がいた。待ち伏せのつもりか? やめとけ、多分むいてねえよ」 「好き勝手言ってくれるじゃないか」  その言葉とともに光った瞳が、闇に赤い点を二つ打った。その黒い金属質の体躯は闇に紛れてはっきりとは見えなかったが、マミーモンは声を上げて笑いながら相手の名前を当てることができた。 「ブラックラピッドモン、黒い身体は隠密部隊の証ってか。俺にあっさり気配を感づかれてる時点で、お前がこの世界に来るまでに落ちこぼれた理由は察しがつくな」  電子音が混じった高い声で、黒い猟犬は笑う。 「目も耳も干からびてるミイラにこうもあっさりバレるなんて、流石に傷つくなあ。あまり人の短所を笑ってると、自分の弱点を見抜かれた時に辛くないかい?」 「どうだろうな。俺が興味あるのは今のところ、お前が一体誰の差し金でここで人殺しの準備をしていたかってことだけだ」 「差し金?」猟犬がけらけらと笑う。 「ぼくが? 人間の命令でここにいるって? それはきみのことじゃないのか?」 「どうかな、俺は自分で選んでここに来たぜ」探偵仕事の思わぬ進展に増長している春川にはまだ怒りがあったが、それとこれとは別の話だ。 「それじゃああれ? きみは自分がやりたくて同族の人殺しを止めてるってことかい? 笑っちゃうね。正義の味方でも気取ってるのか、それとも人間に良いように使われてることに気づかないほどの馬鹿なのか。そのふざけた人間の服を見るに、ただの馬鹿みたいだな」 「俺の身の上には面白い話なんてないよ。俺はお前の方に興味があるんだ。弱っちい落ちこぼれが、やり返す力のない人間を殺してるのか? もしそうなら…」  マミーモンは銃を構える。 「お前を殺すよ。もうそういう手合いは散々見て、飽きちまったからな」  そう口にして再び引き金を引こうとした刹那、彼の体が後ろに大きく吹き飛んだ。ビルから投げ出され、酷い体勢で地面に叩きつけられる。呻き声を上げながら横に転がった瞬間、先ほどまで自分がいた場所が光に包まれる。コンクリートが白い煙を上げる音、頬に感じる熱。〈ラピッドファイア〉か。そう呟く彼の上に、黒い金属製の体が落ちてきた。 「訂正しろ」  彼の上に馬乗りになり、右手の銃口を突きつけたブラックラピッドモンは、不意にそう言った。荒く息を吐きながら、マミーモンは言い返す。 「訂正? なんの話だ?」 「弱っちい落ちこぼれって言ったな。これで分かったろ。ぼくは弱くない!」  弱くないと言え、彼は高い声でそう訴える。 「不意打ちしといて、強いって言えってか?」 「黙れ! もっとよく分からせてやろうか?」 「おい、ちょっと待て! 分かったよ。あんたは強いらしい」  鼻先の銃口が熱を帯びるような気がして。マミーモンは慌てて叫んだ。その場しのぎの単なる嘘ではない。彼の最初の体当たりを、マミーモンは見切ることができなかった。すぐ隣のコンクリートの有り様を見れば技の威力も測れるだろうが、一歩間違えればそれが自分の今の姿だったかと思うとそんな気にもならなかった。 「分かったならいいよ。寝っ転がりながらぼくの光弾を避けるなんて、きみも中々やり手みたいだしね」 「そりゃどうも」  満足気なブラックラピッドモンがその言葉に自分へのシンパシーを滲ませているのに気づき、マミーモンは吐き気を抑えた。  きみもぼくと同じだね。強いのに、事情があってこんなところに来てしまった。  黙れ。一緒にするんじゃねえ。 「きみの言う通り、ぼくは強い。速さも、光弾の威力も。前線に立てば緑色の連中の誰よりも強い自信があった」  それなのに! 彼はマミーモンのことなど忘れたかのように独白を続ける。 「ぼくの体が黒いから、それだけで奴等はぼくに下らない偵察任務を押し付けた。隠れるのは苦手でね。ぼくに気づいたやつは全員殺してたら、いつのまにか敵は壊滅してた。一騎で敵の基地を一つ潰したんだ。それなのにぼくは何を言われたと思う? 一人で突っ走るな、軍の規律を乱すな、ときた! いつだって、どんなときだって、ぼくがほかの誰よりもたくさん殺していたのに!」  その“たくさん”の中にはいったいどれだけの抵抗する力や意思のないものが混じっていただろうか。マミーモンはそう聞く気にはなれなかった。おそらくブラックラピッドモンは殺した相手の顔すら見ていないだろう。  そうに決まっている。俺だって、それを見ようともしなかった。 「…だから、この世界に来て、人間と組んだってわけだ」 「組んだ覚えはないね。あんな脆い生き物と仲良くして、何をしようっていうんだ?」 ブラックラピッドモンはふふんと鼻で笑う。 「でもまあ、あいつらにも良いところはある。銃で脅せば簡単に言うことを聞くところとかね」 「何をさせた」 「そういきり立つなよ。本気で疑問なんだけど、きみは何をそんなに怒ってるの? ぼくが人間をたったの一人殺そうとしてたこと? そうなの? なあ、マジで?」  その通りだ。俺は何に苛立っているんだ? 今更、命をどうこう語れる立場かよ。 「…こっちの質問に答えろ。憑いた人間に何をさせた?」 「ぼくだって悪じゃない。普段はよそ者らしく、大人しくこの世界で暮らしてるよ。でもね、時々どうしても抑えられなくなる」 「殺しの衝動?」 「話が分かるね。きみも同じなのかな?」 「一緒にするなよ」  一緒にするな? あのサイバードラモンをどう殺したか、忘れたのか? 俺は彼に突きつけた銃の引き金を“カッとなって”引いたんだ。痛いところを突かれて、ムカついて殺したんだろうが。 「憑いた人間に、殺していい相手を調達させてたってとこか?」 「まあそんなとこだね。今日もそんな人間の話を聞いて、殺しに来たんだよ。僕の久々の楽しみを邪魔するきみのことは許せないけど…」  赤く輝き熱を帯びた銃口を向けるブラックラピッドモンの金属製の顔が、歓喜に歪んだ気がした。 「いつもより殺す相手が増えたと思えば、そう悪くないかな」 「なんだよ、もっといろいろ探れるかと思ったのに、結局はただの三下か」  背後で聞こえた声に、ブラックラピッドモンは驚いて飛びのいた。振り返ると、マシンガンを肩に担いだ木乃伊がコートについた汚れを払っている。その唇は、僅かに震えていた。 「マミーモン、おまえ、どうやって…」 「素早いのはお前さんだけじゃないってことさ。それに、強いのもな」  唸りを上げる猟犬に、彼は笑いかける。 「お前、自分じゃ人間を顎で使っていい気でいるんだろうが、とんだお笑い草だよ」 「どういうことだ!」 「お前、自分の憑いてる人間に興味持ったことないだろ」  我ながら上手い手だ。偉そうに説教をして、自分を優位に立たせる。そういや俺は、早苗相手にもいつもこの手を使っていたな。  彼が心の内で自嘲気味にそう呟いたことなど知らず、猟犬は再び鼻で笑い声をあげた。 「人間への興味? ああ、無いよ。そんなもの必要ないからね」 「そこがお笑い草だって言ってるんだよ。少しでも相手を知ろうとしていたら、そいつが犯罪組織の末端にいて、組織のお偉いさんに言われるがままにお前を都合のいい殺人マシーンとして使っていたことに気づいていたはずだ」  都合のいい殺人マシーン、それはマミーモン自身が最も嫌う言葉だった。春川であれ誰からであれ、そんな風に扱われるのは我慢ならない。とはいえ、春川がそんな事情を知るはずもない。  そうだ。俺が本当に都合のいい殺人マシーンだったなんてこと、早苗は知るはずがない。知られてはいけない。  彼がそう小さく呟く間にも、目の前の出来損ないの猟犬は怒りに鼻息を荒くしていた。 「あいつ、帰ったら殺してやる」 「なにか勘違いしてないか? お前は帰れねえよ」  彼はそう言ってマシンガンを持ち上げる。  ああ、この瞬間がやっぱり楽だ。もう何も考えなくていい。ただ相手を殺せばいいだけの、この瞬間が。 「少し泳がしときゃ何か喋るかとも思ったが、その様子じゃ望み薄だな。さっきも言った通り、お前にはもう飽きたんだ。結構我慢したほうだと思うぜ」  だから。考えるのはもう面倒だから。 「さっさと死ねよ」  猟犬がその目を光らせて叫ぶ。 「勘違いしてるのはきみの方だよ。ぼくは強い。それは嘘じゃない!」 「だったら礼を言わなきゃな。もう少しだけ長く、お前で楽しめそうだ」  満月が路地裏の暗闇を微かに照らし、二つの影が地面を蹴った。 ***** 「なあ、一つわからないことがあるんだけど」  先ほど二体のデジモンがいた路地裏の上空。両手から放った無数の光弾とともにマミーモンに迫りながら、ブラックラピッドモンが言った。 「なんだ?」  マミーモンもそう尋ね返しながら左手の包帯を伸ばす。彼の〈スネーク・バンテージ〉は文字通り腹をすかせた蛇のように俊敏に光弾と光弾の間をくぐりぬけ、彼に迫る猟犬の黒い体に迫る。間違いなく包帯は敵の体に巻きつくはずだった。 「きみのことさ、きみがここに来た理由の話」  ところが、予想とは裏腹に敵のその言葉は頭上から聞こえ、マミーモンはとっさに後ろ手に飛んだ。そのままその鉤爪に紫電を走らせ、目の前に現れた黒い体に向けて突き出す。手応えからして金属製の鎧に傷くらいはつけられたかもしれないが、それを突き通すとまではいかないようだった。気の急いた攻撃はうまく力がこもらなくていけない。 「話すことなんかねえよ」  彼はその場で一回転し、至近距離で光弾を放とうとする猟犬の頭を強く蹴りつけ、下方に跳ぶ。包帯を避けられることは予想もしていなかったが、とにかくこれでこっちが一本先取といったところだろう。 「きみは強い、ぼくと張り合えるくらいにね。そんなきみがこの世界に来た理由は、やはりぼくと同じタイプのものだろうな。…強いのに、何かが足りないんだ。その種族が当然のように持っているものが」  そう言って猟犬はまた弾幕と共に彼に迫る。なんだってこいつはこんなにも接近戦に持ち込みたがるんだ? マミーモンは眉を顰める。彼の戦闘スタイルは格闘技主体のものだ。御大層なマシンガンなど持ってはいるが、相手が格上だったりブラックラピッドモンのように硬い装甲を持っている場合には有効な決定打となることはない。頼みの綱、いや頼みの包帯とでもいうべき〈スネーク・バンテージ〉があっさりとかわされた今、高威力の銃火器を備えた敵にとっては遠距離戦のほうが都合がいいはずだ。 「ヒントはナシだ。そうやって自分で推理してみるんだな。俺の相棒はいつもそうやってるぜ」  弾幕をかわし切れず、熱球がいくつかマミーモンの体を掠める。肌が焼けつく痛みに思わずうめき声を漏らしたが、すぐに気を持ち直し再び目の前に飛び込んできた敵を肩に担いでいたマシンガンで殴りつける。 「相棒? 憑いた人間のことをそんな風に呼ぶなんて、愚かとしか思えないね。でもまあいいや、きみたちの真似をしてみるとするかな」  まずいな、マミーモンは呟く。「人間の真似をしろ」と言えば人間嫌いのこの猟犬は彼の欠点探しをやめるかと思ったのだが、当てが外れたようだ。敵の考えを逸らそうと銃を乱射するが、散弾が鎧にはじかれるむなしい金属音しかかえってはこなかった。 「きみと他のマミーモンとの違いはなんだ? デジタルワールドでアンデッドの一団と戦った時、他の連中はきみほど強くはなかった。でもそういうのじゃないな。ぼくが知りたいのは、連中にできて君にできないことだ」  他のマミーモンとの交戦歴があるのか、最悪だ。  飛び交う弾丸の合間を縫って言葉を投げ合っていた木乃伊と猟犬は、やがて始めと同じビルの屋上に降り立った。マミーモンは荒く息をつく。余裕のあるふりをして言葉を発していたが、飛行ユニットを持つ相手と跳躍力だけを武器に空中戦をするのはやはり厳しいものがある。見れば相手もかなり消耗しているようだったが、なおもべらべらと一人で話を続けていた。 「きみは強いよ。このぼくが言うんだから間違いない。術師でありかつ銃を武器に持つマミーモンは、大抵の場合肉弾戦に弱い。だからぼくも距離をなるべく縮めようとしたんだけど、近づく度にことごとくやられてしまったよ」  そう語る猟犬の言葉が突然上ずった。マミーモンはその語調の変化が何を意味するか知っている。相棒が話の最中に何かを思いついたときも、いつもそんな感じだ。 「ぼくは隠密に適した個体のはずなのに隠れるのが下手糞で、だからそのほかの戦闘技術を磨いた。きみも同じか? 肉弾戦に優れているのは、マミーモンが本来得意とする遠距離戦がまるでダメだから?」  ああ、その通りさ。クソッタレの名探偵。 「マミーモンは〈死霊使い〉だ。前にアンデッド供と戦った時は、沢山の仲間が不気味な力で発狂させられたもんさ。でも、きみはそうしない」  そして最後に、彼は謎を解いた探偵よろしく宣言した。 「きみは〈死霊使い〉のくせにまともな術一つ使えないんだ。そしてそれはつまり…」  彼はそこで言葉を切り、再び宙に飛び上がり、マミーモンと距離を置いた。そして両手を横に真っ直ぐ伸ばし、足をそろえる。二本の手と揃えられた足の先の三つの点が輝き、夜の闇を切り裂く黄金色の三角形をかたちづくった。 「ぼくの敵じゃないってことだ」  推理を大人しく拝聴しなければいけない名探偵は、マミーモンには既に一人いた。  敵が彼の弱みを言い当てるのを待つことなく彼の足はすでにアスファルトを蹴り、ブラックラピッドモンの〈ゴールデン・トライアングル〉に迫っていた。手には紫の電撃を纏わせている。死霊の力を紫電に変えその四肢に宿す〈ネクロフォビア〉は死霊使いとして彼が使える唯一の術式であり、敵に決定的な一打を与えるために残された最後の手段だった。  話はいたってシンプルだ。彼がその鉤爪で敵を貫くのが先か、敵がその三角形から放つ光線が彼を消し炭に変えるのが先か。しかし、五分と五分の勝負だと割り切るには彼はあまりにも疲弊し、動揺していた。情けない話だ、彼は思う。自分の弱みを敵に指摘されたことでこんなに心が揺らぐなんて。  敵まであと五歩の距離、彼は敵と同じ高さまで飛び上がる。三歩の距離、右手を振り上げるが敵の放つ輝きも一層増す。あと一歩、放たれる光線の熱に目を瞑る。ここまでか──。
木乃伊は甘い珈琲がお好き 第四話 content media
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マダラマゼラン一号
2019年10月31日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy          <<前の話 次の話>> 3-1 学内カースト/未完成の宿題/カツアゲのこと 「おっ、春川、今日は起きてるんだな」  生物の前野が僕の席を通り過ぎながら言った。高山における植物の分布についてノートを取りながら、僕は軽く肩をすくめる。日頃は寝ていると言って笑い者にされ、起きていたら起きていたで笑い者にされる。これではやりきれない。 ──起きてるだけで、授業は受けてないけどな。  背後から声を飛ばしてくるマミーモンに、僕は軽く頷いた。前野が教壇に戻るのを確認してから、ノートを一枚めくる。そこには、先日マミーモンが戦ったサイバードラモンを連れていた“狐憑き”に関する情報が詳細に書き連ねられていた。写真も一つ、写真投稿型のSNSから入手したものを貼り付けている。金髪の女子生徒に挟まれたその表情は、髪にワックスを塗りつけすぎてそれが頭の中にも染み込んだと思えるような風情だ。彼の名前は鹿島忠敏(カシマ・タダトシ)、サッカー部の二年生ということだった。  高校が高校ならサッカー部は学校のヒエラルキーのトップだ。部員は誰からも一目置かれ、顔の作りを詳らかに認識されるよりも前に女の子からの好感を勝ち取ることができるという特権を得て、僕のようなアウト・カーストの民にゴミを見るような目を向けるものだ。  しかしまったく、まったく残念なことに我が校のサッカー部はそのガラの悪さで名を馳せており、彼等に近寄らない生徒も多い。しかし部員達は持ち前の声の大きさ(頭が空っぽだから声がよく響くんだろう、と僕は推理している)と、口数の多さ(マジでこいつら全員耳が遠いんじゃないかな、と僕は推理している)を遺憾なく発揮し、多くの白い目を浴びながらも校内で高い知名度を獲得するに至っている。そして結局は僕のようなアウト・カーストの民にゴミを見るような目を向けるのだ。  さて、極めて客観的な観察に基づく描写の上でもこのようにロクなものではないサッカー部の面々の中で、カシマタダトシはとりわけ目立っているというわけでもなかった。ただそれは比較的まともと言うわけでは決してない。髪の先を赤く染めた女子を侍らせたサッカー部の会話を盗み聞きした限りでは、カシマは「オレらもついていけねぇくらいチョーヤベェ」ということらしかった。カシマがどのようにチョーヤベェのかまでは分からなかったが、デジタル・モンスターをけしかけて現在警察が調査中の事件の容疑者を始末しようとしたのなら、確かにチョーヤベェのかもしれない。  もっとも、今回の一連の行為が彼の独断によるものだとは思えない。誰かもっとチョーヤベェ人が上にいたに決まっている。僕はそれが何者かを突き止めなければいけないわけだ。 ──なあ、早苗、いま何時間目だ?  不意にマミーモンが投げかけた問いに僕は肩をすくめて答えをノートに書きつける。背後のに立つ木乃伊の霊体は、トレンチコートとハットを纏うことで存在感を増していてどうにも落ち着かない。 『七時間目、当たり前だろ。お前までワックスに大脳新皮質を侵されたか?」 ──ワックス、何の話だ? まあいい。俺たちは今日の朝、カシマ・タダトシの背後にいる人物を突き止めようと決心して登校してきたんだったな。 『何を今更』 ──その今更になっても、お前何もしてねえじゃねえか! 今日を逃したら、次は休み明けだぞ。朝から今まで、いくらでも時間はあったろ!  マミーモンの叱責に僕は唇を尖らせた。彼の言う通り、今は金曜の七時間目だ。苦痛と規律とサインコサインに縛られた一週間の日々から間も無く解放されるという喜びが、教室中に満ち満ちている。 『だって仕方ないだろ! あいつトイレに行く時まで誰かと一緒にいるんだ。バカなのか? バカなんだろ!』 ──落ち着けよ。普通に話しかければいいものを、お前がビビってただけだろうが。 『ビビってない。断じてビビってないぞ。受けることが容易に予想される屈辱を事前に察知して回避しただけだ。サム・スペード曰く……』 ──マミーモン曰く『お前の引用にはだんだんムカついてきた』覚えとけ。兎に角、これからどうするか考えようぜ。この一日、アイツを見つめ続けて気づいたこととか、流石にあるだろ。  僕は大きく一つため息をつくと、顎に手を当てる。 『カシマのやつ、なんだか妙に怯えてるみたいだった。辺りを見回したり、不安げに時計に目をやったり』  それは脳みそが空っぽで、いつも威張り散らしている男にしては珍しい話だった。 『課題を未完成のまま提出してバックレる時とか、僕はあんな感じになるね』 ──お前、マジで救いようねえな。  マミーモンの言葉に肩をすくめ、僕はさらに考えを進める。 『じゃあ、カシマが何かの課題を未完成のまま今日を迎えてしまったと仮定しようか」 ──課題? マジで課題? 国語とか数学とか、あの?  僕は助手の無理解を正すネロ・ウルフよろしく、億劫そうに首を振った。アーチー、君の心理分析は一分だって我慢ならないね。 『そんなわけないだろ。アイツが抱えていたと考えられる課題と言えば?』 ──坂本の殺害?  僕は頷く。 『カシマはサイバードラモンを坂本の家に送り込み、彼を殺そうとした。でもそこにはもう坂本は居らず、マミーモンの手によってサイバードラモンは殺された』  カシマの“課題”が失敗に終わったことは火を見るよりも明らかだ。そして恐らく彼は、その課題を自分に課したチョーヤベェ人にそのことをまだ報告していないのだ。 『アイツ自身、何が起こったか分かってないんだ。頼みの綱のサイバードラモンがいつになっても帰ってこないんだから』 ──なるほど、課題が未完成なことがバレないか不安で不安で仕方ない。早苗の例えはあながち間違ってないわけだ。  上出来だ。アーチー! この分ならネロ・ウルフも毎朝遅く起きて昼時まで蘭を育てるという日課を邪魔されないですむだろう。満足して頷く僕に、マミーモンが疑問を飛ばした。 ──でも、その課題が未完成なことは、いつかはバレるよな。なあ、早苗、お前はどうする? 仮にうまく未完成のまま課題を提出できたとして、その後はどんな行動をとる? 『いや、バックれられたんだからそれでいいだろ。放っといて、珈琲でも飲みに行くよ』 ──質問がおかしかったな。早苗と違ってマトモな良識を持つ人間なら、いつかはやってないことがバレる課題を教師に提出して、そのままにしとくと思うか? 『……バレた時にせめてもの言い訳ができるように、遅れてでも課題を完成させるかな』 ──そうだ。カシマはどっちの行動を取るタイプだ? マトモな行動か? それともアイツも、サボリ魔のハルカワ・サナエ型か?  僕は渋い顔で唸り、教壇の上の前野に目を向けた。 『アイツの神経がマトモだとは思えないけど、アイツに課題を押し付けた“先生”は前野とは比べものにならないくらい怖いだろうね』 ──そうだ。アイツはきっと、なにか上の人間に差し出すものはないか血眼で探してる。手ぶらで帰ったら、何されるか分かったもんじゃないからな。 『なるほど』  僕は首を振る。立場が逆転してしまった。僕はウルフの推理に舌を巻くアーチー・グッドウィンよろしく、ただただ頷くしかない。 『教えてくれよ、包帯の名探偵。もしカシマが怯えてる理由が僕らの推理通りだとしたら、次は何をすればいい?』  僕が降参のそぶりを見せたことに、マミーモンは満足げに帽子に手をやってポーズを決めた。くそう、ムカつく。 ──決まってんだろ。度胸を決めて突撃だ。  僕は思わず頭を抱えた。       *****  その日の放課後、僕はわざわざ一人教室に残り、その日の授業の復習をしていた。廊下を通りがかった前野が目を丸くしてこちらを見たような気がした。 ──〈ダネイ・アンド・リー〉でも依頼を待つとか言いながら復習してたし、早苗、勉強は割としてるよな。  僕は肩をすくめる。〈ダネイ・アンド・リー〉で放課後を過ごし始めたのは高校一年の夏、気まぐれで入った生徒会活動も辞めて本格的に帰宅部を始めてからであった。皮肉な事に、それを機に僕の成績はめきめきと向上している。妙にやりきれない思いもあるが仕方がない、探偵というのは待つのも仕事なのだ。そのおかげで授業中寝ていても見逃されることも多くなったし。 ──カシマのやつ、サッカー部でも指折りの不良らしいが、ちゃんと部活は出てるのか? サボってもう帰ったなんてこと、ないよな。 「ちゃんと確認したよ。それに、アイツも今日に限っては学校を出たくないってのが本音だろ」チョーヤベェ人から仕事の不備を指摘されるのをなるべく先送りにしたい筈だ。 ──そうか。下駄箱に入れた手紙は? 「サッカー部室に行くには、一度外に行かなきゃいけないから、もう受け取ってる筈だ。男の下駄箱に手紙を入れるのはぞっとしないね」  カシマの下駄箱に投函した手紙の便箋には、落し物コーナーにあった女子向けの可愛げなメモ帳を一枚拝借した。不良の女友達の多いカシマがラブレターにそこまでどぎまぎするとは考え難かったが、そういう健気な振る舞いが案外ああいう男の胸をうつかもしれない。少なくとも、読まずに捨てるような真似はしないだろう。 ──文面はどうしたんだ? 「『鹿島くんへ、サイバードラモンは帰ってこないよ。十八時半に体育倉庫に来て。必ず一人でくること。ずっと見ているよ。S.H.』これだけ」 ──なんとも気味が悪いな。 「カシマもそう思ってくれるといいけど」  僕はそう言うと時計を見上げた。いつのまにか夕方の6時近い。外はすっかり薄闇に包まれている。サッカー部もグラウンドの片付けを始めているだろう。 「それじゃあ、行こうか」 ──手紙に従って一人で来るとは考えにくいだろ。返り討ちにあったら? 「知ってるか? 小説の探偵たちはみんな喧嘩は強い設定だけれど、作中の喧嘩では負けることが多いんだ。もしも僕が殴られたら、目にV.I.ウォーショースキーみたいないい感じの青痣ができるまで待って、そのあとで助けてくれ」  首を振ったミイラを従えて、僕は意気揚々と廊下に飛び出した。  昇降口は案の定、部活や委員会帰りの生徒で賑わっていた。下校時刻を告げる放送委員の声とともに、少年少女の間で人気のバンドの曲が流れる。ありきたりで平和な青い八ミリフィルムの一場面にしか見えない、僕以外には。久しぶりにこれだけの大人数に混じって僕はそれを改めて実感した。あいも変わらず結構な数の生徒が頭の上にデジタル・モンスターを浮かべており、その中には殺人に手を貸している者が混じっているかもしれないのだ。  その中の一人が不意に僕に顔を向け、笑顔で駆け寄って来た。 「春川じゃないか。珍しいな、こんな時間まで」  僕は僅かに眉を潜め、僅かに後ろに引いて富田昴(トミタ・スバル)から距離を置いた。整った顔立ちに、家柄の良さを示す上品さ。あまり近づきすぎると、彼の体から溢れる眩しい輝きに焼き殺されるかもしれない。 「富田こそ、生徒会?」  彼とは一年生の頃、生徒会執行部の活動で知り合った。校舎の最上階である五階に、僕が半年足らずで見限り見限られた生徒会室がある。様子を見る限り、富田は相変わらずその場所で輝きを振りまいているようだった。次の生徒会長に立候補するという噂もある。 「文化祭も終わって、正直今は生徒会も暇なんだ。生徒会室にこもって、ただただ無駄話をしてるだけだよ」 「その話、あまり言いふらすんじゃないぞ」 「なんで? 生徒会のイメージダウンを気にしてくれてるのか」  こいつはなんにも分かっちゃいない。生徒会室は基本的に執行部だけがいる、人気がなく狭い教室だ。そんなところに昴がいると知ったら、五階に大勢の女子が詰めかけて、校舎は重みでぽっきり折れてしまうに違いない。 「それより、春川」昴が完璧な笑みを浮かべながら学生服のポケットから長方形の紙を取り出す。 「初瀬のライブ、行くんだろ? 俺は妹と行くんだ」 「富田、妹いたっけ」 「ああ、小学二年生だよ。最近なんだか元気なくてな、音楽でも聞けばいいかと思ったんだ」  そう笑いながら彼がひらひらと動かすチケットを、僕は渋い顔で見つめた。初瀬奈由は僕の他に昴にもチケットを売りつけたと言っていた。僕より先に昴にチケットを売り込んだと言っていた。 「……僕は行けるかどうか、まだわかんないよ」まさか最初から行けないと分かっていて奈由からチケットを買ったとは言えない。 「そうなのか、行かないと初瀬が寂しがるぞ」 ──おお、ムカつくな。殴れ、殴っちまえよ。  奈由の話になった途端に、マミーモンが茶々を入れてくる。このミイラ、聖水とかかければ黙るんだろうか。 「春川は最近どうしてるんだ? 放課後に見かけること、少ないけど」 「富田は知らないかもしれないけど、校内以外にも放課後を過ごす場所は沢山あるんだ」例えば老人の集まる喫茶店とか、殺人事件の容疑者の家とか。  昴は肩をすくめる。「なんにせよ、楽しそうで何よりだよ」 「楽しそう?」 「授業も真面目に受けて、なんか生き生きしてるって、初瀬も言ってた」  どんな顔をすればいいのか分からず、僕は口をひん曲げてみせた。奈由が昴と話すために僕を話のタネにしたのだとしたら屈辱だったし、自分の目の前以外の場所で彼女の口から自分の名前が出ていることを知るのは照れくさくもあり、不安でもあった。 ──もしお前がこれで少しも屈辱を感じずにはしゃいでるとしたら、コンビは解消だぞ。殴れ。今すぐ殴るんだ。……早苗。  聖水ってネット通販で買えるんだろうか、買えないだろうなというようなことを考えていると、マミーモンの声の調子が急に変わった。 ──外を見ろ。いや、見なくていい。カシマが出てきた。ガラの悪いガキを二人連れてる。  昴との会話を続けながら、僕はマミーモンの言葉を頭に叩き込んだ。やはり一人では来なかったということだ。僕一人で向かうのは厳しい。マミーモンに実体化して貰えば不良高校生など物の数にもならないだろうが、騒ぎになることは避けられない上、カシマの取り巻きもデジモンを連れている可能性もある。  不意にひらめいた。昴に向けて声を潜めてみせる。 「富田、外に鹿島がいるだろ」 「え? ああ。いるけど」面食らったような顔をする昴に向けて、僕は怯えたように言う。 「あいつら、最近下校時刻の過ぎた後に体育倉庫に忍び込んで悪さしてるらしいんだ」  昴が眉をあげた。「煙草とか、酒とか?」 「それだけならいいさ」  育ちのよろしい君には分からない世界があるんだと言わんばかりに僕は首を振ってみせる。 「名前は伏せさせてほしいんだけど、二組の女子が今朝方泣いてたのは……」  もういいと昴は手を振った。「分かった、様子見てくる」 「富田!」  外に向けて駆け出す昴に僕は声をかけた。振り返る彼に、にっこりと微笑んでみせる。 「合気道の全国大会出場、おめでとうな」  昴がカシマ達を叩きのめすところをこの目で見ることができなかったのは残念だったが、デジモンが出てきた時に備えて体育倉庫のすぐ外にいたために、連中の惨めな悲鳴は聞くことができた。昴と彼らの間で誤解が解けたらどうしようかと思っていたが、カシマ達は彼が扉を開けた瞬間に三人がかりで彼に飛びかかった。そのおかげで彼らは対話の機会を碌に得ることができずに退散したというわけだ。もしこの後昴が僕の嘘の告発を元に警察や教師に通報をしても問題はない。体育倉庫こそ使っていないものの、カシマはそういう悪い噂には事欠かないのだ。 ──三人はバラバラに出ていった。これで分断に成功したってことだ。やったな。 「そういうこと。それじゃあ我々は哀れなカシマくんに単独インタビューだ」  僕はウィンド・ブレーカーのフードを被った。薄闇の中では、これで十分に顔を隠せるはずだ。      ***** 「カシマくん、かな?」  人通りの少ない路地裏。カシマの背後に忍び寄り僕が出したくぐもった声に、彼は飛び上がるほどに驚いた。その大きな図体が振り向こうと動く。 「おっと、振り返っちゃダメだ」 「てめえ、誰だ」 「富田昴くんは無関係だ、恨んじゃいけないよ。ダメじゃないか。一人で来いって言ったのにさ」  カシマが息を吸い込むひゅっという音がする。 「じゃ、じゃあ、お前が」 「サイバードラモンの事は残念だったね」 ──奴はもう死んだと言え。 「彼はもう…………そうだな、コンビーフみたいになってる」 ──そんなとこまで言い回しに気を使うな。  僕とマミーモンの交わすやりとりなど知るよしもなく、カシマは震え上がっていた。 「な、何が目的だ」 「君の後ろ盾が誰か知りたい。一体誰が坂本殺しを命じたんだ?」 「知らねえ」 「知らないわけがない」 「本当だ! 知らないんだ! 仕事は全部メールで……」 「本当に?」僕は彼の背中に授業で使う厚いファイルの角を当てる。それだけでカシマは面白いほど震え上がった。僕も相手も、こういう雰囲気で背中に当てられるのは拳銃だと信じている。拳銃を背中に当てられた感触など知らないのに。 「な、なあ待ってくれ。金はいらないか?」 「金? ふうん」 「儲かる仕事があるんだ。なんなら紹介してもいい」 「儲かるって、いくら?」 「一回で三万貰える」  こういう状況で持ちかけるには余りにも金額が少なすぎる気もしたが、僕は興味のある振りをしてみせた。 「明日からでもできるか?」 「そ、それが今は無理なんだ。一昨日から仕事場がトラブっててよ」 「遠野古書店?」 「なんでも知ってるんじゃねえか」  一昨日。遠野老人が殺され、坂本が消えた日だ。 「お前、坂本を殺し損ねたのに、今後も金なんか貰えるのか?」 「お、お前が邪魔したんじゃねえか」 「ごもっとも。悪いことをしたね」 「ふざけんな! そのせいで俺は死ぬんだ」 「死なないようにすることができる」 「は?」カシマが呆けた声を出した。 「カシマくん。君の怖い上司が怖くなくなるまでの間、君は警察の留置所にいればいいんだ。そうすれば、連中は手出しできない」 「そんなことできるわけ……」  そう言いかけたカシマの声を、遠くから聞こえる大声が遮った。 「悪いけど、選択肢はない。警察を呼ばせて貰ったよ」 「何を……」 「おい、賢くなれよ。ここで逃げ出しても、怖い上司か僕に殺されるだけだ。死にたくないんなら、君が僕をカツアゲしてるってことにしろ。それで良いな?」  最初の罪科はカツアゲだけで良い。彼の事を少し調べれば、警察も留置の期間を容易く延ばせるだろう。  カシマは力なく頷いた。       *****  駆けつけてきたのは伊藤巡査だった。なんてことはない。僕が前もって彼を指名して連絡していたのだ。一番知りたいのは、伊藤の顔を見たときのカシマの反応だった。二人が裏で繋がっていれば、その顔は恐怖に歪むか、或いは安堵を浮かべるに違いない。しかし残念ながら、僕はカシマの顔に警察に捕まる不良少年に予想されるもの以上のいかなる感情も見いだすことができなかった。伊藤の連れたもう一人の巡査がカシマを連れて行った。 「助かりました」僕は伊藤に笑顔を向けた。 「いやいや、俺を頼ってくれて嬉しいよ」  伊藤はその生真面目な顔に微笑を浮かべる。これを見ただけでは、この男が殺人事件の裏にいるかもしれないとはとても思えないだろう。 「遠野さんの方はどうなってますか?」  彼は首を振った。 「詳しいことはあまり話してはいけないんだけど、確実に前進している。無関係の押し込み強盗という線もあるが、警部はそうは考えてないみたいだ」  僕もそうは考えていない。「何か根拠が?」 「君は詮索好きだなあ。実は、事件の関係者が一人行方知れずになってる。これは君が遠野の爺さんと親しくて、君の証言のおかげで捜査が進んでるから特別に言うんだ」そう言って彼は、人差し指を唇の前に立てた。 「遠野さんと親しかったのは、伊藤さんもでしょう」  僕はそう言って、伊藤に鋭く視線を向けた。彼の目には驚きが浮かんだが、それだけだ。 「どこでそれを?」 「遠野さんから聞きました。子どもの頃良く店に遊びに来ていた三人の子どものこと」 「爺さんが?」伊藤が再び笑みを浮かべる。 「嘘はいけない。ヤヨイに話を聞いたんだな? それとも、トキオか?」 「どうでしょう?」  嘘をあっさりと見抜かれた。彼の観察眼が優れているせいか、それとも、何か別の力か。 「はっきり言ってくれ。トキオだとしたら、僕は君も連行しなきゃいけない」  とすると、警察はまだ坂本の足取りを掴めていないのだ。 「トキオさんじゃないです。ヤヨイさんの方」 「そうか」伊藤は品定めするように僕を眺め回した。 「嘘は良くない。警察のしていることをこそこそ嗅ぎまわるのも、あまり良くない」 「僕もそう思いますよ、伊藤さん。嘘は良くない」  不意に伊藤が声を上げて笑った。財布から名刺を出すとそれになにか書きつけ、面食らっている僕の胸に押し付けてくる。 「俺の名刺だ。またカツアゲの被害に遭いたくなった時、こっちに連絡してくれ」  それから、と彼はなおも笑いながら言う。 「遠野古書店の捜査は終了した。東京の方に住んでる爺さんの家族は、あの大量の古本の扱いに困ってるみたいだ。連絡して許可を取れば、興味があるものは譲り受けられるんじゃないかな。連絡先、そこに書いといたよ」  名刺を裏返すと、雑な字で電話番号が記されていた。 「随分妙なことをしますね。金沢警部にこのこと話して、いいのかな」 「そうしたら俺はクビだ。でも俺は、君の好奇心を信じているよ」 「好奇心を、タダで貰った古本で満たせと?」 「そうじゃない、あそこにはまだ何かある気がするんだ。警察が見つけられないだけでさ」  そう言って彼は踵を返し、路地から立ち去った。警察の捜査がまるで他人事であるかのような口ぶりだった。 ──あの野郎、カツアゲに遭いたくなったとき、ときたもんだ。お前に疑われてることにちゃんと気づいてるぜ。 「ああ、そうだな」 ──遠野古書店、行くのか? 「どうだろう? 罠かもしれないし、僕たちを利用して目当ての物を見つける気かもしれない」 ──でも? 「行かない手はないだろ」  木乃伊が僕の隣でけらけらと笑った。
木乃伊は甘い珈琲がお好き 第三話 content media
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マダラマゼラン一号
2019年10月30日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy <<前の話 次の話>> 2-1 小さな背の少女/初めての依頼/革の肩掛け鞄のこと  一九三〇年、ダシール・ハメットが『マルタの鷹』を著し、ハードボイルド・ミステリという推理小説の新たな道を切り開いた。私立探偵サム・スペードが相棒の死をきっかけに中世の宝をめぐる悪党どもの抗争に巻き込まれていく物語。それはシャーロック・ホームズ、エルキュール・ポワロと言った伝統的な名探偵の形にともすれば唾を吐きかけるようなものだった。トリックとも言えないようなトリック、そして謎の多くが拳と睡眠薬の飛び交う中で雑に処理されるそのストーリーには、かの江戸川乱歩翁も難色を示したという。  ハードボイルド・ミステリが既存の探偵小説よりも前進した点の一つに、警察の無能さというものがある。コナン・ドイル以来、探偵小説の警察には碌なのがいないが、ハードボイルド・ミステリにおける彼らは、それよりももっとひどい。横暴で、深夜三時に無断の家捜しをして探偵の見つけた証拠をかっさらい、無実の容疑者を撃ち殺すものと決まっている。  遠野古書店での事件の夜、行き慣れない警察署に向かいながら、僕は恐怖に慄いていた。警官達はパトカーが駆けつける前に事件の現場にいたというだけで僕のことを三日は拘留するだろう。負けてなるものか。不当な扱いをしてくる警官どもに、僕はフィリップ・マーロウを引用してやるつもりだった。「法律書を読んでる奴は、本の中に書いてある事が法律だと思ってるんだ」と。  そんなわけで、警察署での金沢警部と伊藤巡査の対応がとても丁寧だったことは、僕をかえって拍子抜けさせた。金沢警部は高校生の僕に対しても礼儀正しかったし、若い伊藤巡査は寡黙で実直な人物だった。もちろんお役所的な手続きは面倒の一言に尽きたが、現代日本の警察はそれなりにまともな所らしい。  しかしそれでも、うっかりしてデスメラモンの事を話してしまわないように気をぬくことはできなかった。犯人らしき人物を目撃していないという嘘は吐き通さなければいけない。ありがたい事に、金沢警部ももうその事に拘ってはいないようだった。  はっきりとはしないものの、現在判明している中では僕が事件の前に遠野老人と言葉を交わした最後の人物であるという事になり、金沢警部は正確にその時の会話を繰り返すよう僕に三度求めた。これには流石に辟易したものの、僕は聞かれるたびに大人しくそれに答えた。ついでにその時の僕の所感、老人にいつもの元気さがなく顔色も悪いようだったこと、それは事件が起こった今だからそう思うのではなく、事件の前から喫茶店のマスターにその話をしていたことなどを話した。  警部がもっとも興味を示したのは坂本についての話だった。当然と言えば当然だろう。ガラの悪い店員を首にした翌日に、その店主が頭をかち割られたのだ。関連を疑わない方がおかしいというものだ。  坂本についての僕の証言が終わると、金沢警部は満足そうに唸った。このままでは警察は坂本を逮捕してしまうだろう。もっとも、彼等の無能を責めることはできない。デスメラモンの事を知っているのは、僕とマミーモンだけなのだから。      *****  結局、僕はその夜を、マミーモンと二人で住んでいる学生向けアパートのベッドで過ごす事ができた。 ──それで? これからどうするんだ?  ベッドに仰向けに寝転がりながら「愛書家の死」を読み始めた僕に、マミーモンが話しかけた。彼とデスメラモンの戦いの話の大まかなところは聞いている。マミーモンのやつ、妙に気が立っていたようだったが、何かあったのだろうか。 「どうするって?」 ──あの爺さんがぶん殴られたことさ。警察に説明して、それで終わりか? 「まさか」僕は気のない調子で呟いた。 ──おい、しっかりしてくれ。探偵さんの出番じゃねえか。お前が動かないと…… 「分かってるよ」僕は少し強い口調でマミーモンを遮った。 「今回の事件で、ちゃんと何があったのかを把握できる立場にいるのは僕達だけだ。警察がどれだけ優秀だったとしても、デジタル・モンスターのことは分からない。僕たちがなんとかしなきゃ、遠野さんを殺そうとしたやつは永遠に野放しで、多分坂本のやつが捕まる」 ──それだけじゃねえ。俺はお前に着いていけば“欲しいもの”が手に入ると思って、こうしてここにいるんだ。やっと面白そうな事件が起こったっていうのに、お前に尻込みされちゃたまったもんじゃねえ。 「ああ。でも……」  それはあまりに唐突だった。夢見ていた状況が、目の前にある。自分が探偵で、事件を解決するという使命を背負った状況。突如与えられた目の前の使命に、僕は困惑を隠せなかった。 「とりあえず、今日は眠ろう。頭を落ち着けたい」僕は本を放り出し、電気を消した。暗闇の中で、マミーモンに話しかける。 「なあ、マミーモン」 ──どうした?  僕の不安げな声に、マミーモンは怪訝な様子だ。 「捜査しなくちゃいけないし、明日は学校休んでいいかな……?」 ──行けよ。  はぁい、と声をあげ、僕は目を閉じた。      *****  学校では、昨日の事件のことは殆ど話題になっていなかった。聞いた話では夕方の地域のニュースでは取り上げられたらしいが、あのボロボロの古書店に通っている高校生が何人もいるわけでなし、仕方のないことなのかもしれない。  滅多にないことに(自分でも驚いたのだけれど)、その日の僕は全七コマの一日の授業の中で一睡もしなかった。もっとも、真面目に授業を受けていたわけではなく、マミーモンと筆談で事件の捜査方法について話し合っていたのだ。 ──それで? 手始めに何から始めるんだ?  背後から問いかけてくる声への返答を、僕はノートの端に書き付ける。 『我々には、特別な力がある』 ──特別な力? ああ、“死霊使い”の事か。  僕はかすかに首を縦に振る。マミーモンからもらったこの力があれば、本来取り憑かれた“狐憑き”本人にしか視認できない霊体の時のデジタル・モンスターを見る事ができる。  これは大きなアドバンテージになり得る。僕達以外誰も、この力の存在を知らないのだから。“狐憑き”の誰もが──おそらくデスメラモンの依代である人間も──霊体にさえなっていればパートナーのモンスターを隠す事が出来ると思い込んで、いつも自分の側に置いている。 ──なるほどな、意外と頭いいじゃねえか。  マミーモンの賞賛に、今度は周りの目も気にせず大きく頷き、再びシャープ・ペンシルを走らせる。 『犯人はそう遠い所に住む人物とは思えない。おそらく市内の、もっと言えば鰆町商店街の近隣の人間だ。我々はあの近辺をひたすら歩き回って、デスメラモンを頭の上に浮かべた人間を探せばいいのだよ。 簡単なことだよ、ワトソン君』 ──おお! さすがは探偵というだけあるぜ。 『でも、それじゃあんまりハードボイルドじゃない』 ──は、はぁ? 『やっぱり、聞き込みとかそういう事をしなければいけない気がする』 ──いや、何言ってんだ。 『とりあえず放課後になったら、〈ダネイ・アンド・リー〉で聞き込み計画を立てよう』 ──いや、待てって。さっきのやり方で良いじゃねえか。おい、早苗! 聞いてんのか!  会話を一方的に打ち切ると、僕は黒板に目を向けた。勢いで引用してしまったが、結局のところ僕はシャーロック・ホームズ型の探偵ではないのだ。       *****  放課後、その日の僕は珍しく図書室には立ち寄らなかった。すぐに〈ダネイ・アンド・リー〉に向かわなくてはいけない。 「あ、早苗くん」  下駄箱に立った僕に、珍しく話しかける影があった。ギターケースを背負ったその少女に、僕は目を向けた。 「……奈由さん」 「ちょっといい?」  快活な笑顔を向けてくる初瀬奈由(ハツセ・ナユ)の言葉に、僕は下を向きながら頷いた。夏の間は見慣れたポニー・テールだった筈だが、いつの間に切ったのだろう、ショート・ヘアが廊下に差し込む西日の光に揺れていた。 「どうしたの?」  僕はうつむきがちに口を開く。顔を上げれば他人の目をまっすぐ見つめる彼女の瞳に捉えられてしまうからだ。 高校一年生で同じクラスだった時から、僕は彼女の真っ黒な目が苦手だった。しかもその目を携えて、教室の端っこの僕の小さなテリトリーに気軽に入ってくるのだからたまらない。 ──なんというか、俺は、この女と話してる時の早苗が一番好きだよ。素直で。  何処からか茶々が入った気がしたが、僕は無視を決め込む。奈由は、珍しくおずおずとした動作でポケットから封筒を出した。 「今週末、軽音部で組んでるバンドで、ライブをやるんだ。来ない? 大通りのライブハウス」  僕は思わず彼女の背中のギターケースに目を向けた。ああ、なるほど、そういうことね。 「チケット代とか、いくら?」 「高校生向けだから、五百円」  それくらいなら払ってもいいかなと思った矢先、彼女が俯いて、小さく素早く言った。 「……プラス、入場の時のドリンク代が五百円で、千円」 「ドリンクって、それ、強制?」 「……うん」  おお、キビシイ。俯く彼女の手の封筒に目を向ける。ライブハウスの人の筆跡だろうか、結構な金額の数字がそこに走り書きされていた。ライブハウスのノルマは厳しいと聞く。 「他に誰か誘う人とかいなかったの? 一年で同じクラスだった人とか」 ──お前、惚れた女と話してる時にちょっとでも他人の話出すかよ。そういうとこだぞ、そういうとこ。  マミーモンが背後で喚く。失敬な。彼女に惚れてるなんて、一度も口に出しては言ってない。  奈由は僕の問いにますます項垂れた。封筒の中身には、まだずっしりと重みと厚みがあるようだ。今日は木曜日、ライブのある土曜は明後日。同性、異性問わず友人のほとんどに断られ、僕のところにやってくるほどに困窮しているらしい。 「女の子にはだいたい当たってみたんだけど、ダメ。男子は……」彼女は思案するように目を上に向ける。 「昴くんが、買ってくれたっけ」  僕は心の中で舌打ちをした。富田昴(トミタ・スバル)、彼も高校一年生の頃同じクラスだった。誰からも好かれる爽やかな男前に、市議会議員の息子だという噂もある上品な所作の為に、彼は学年中の女子の憧れの的だ。先月、部活にも所属せず昔からやっていたという合気道で全国大会に出場したことで、後輩にもファンが増えたということだった。彼の事を話す時の奈由がどんな顔をしているか、みるのも嫌だ。 ──だから他所の男の話なんかするんじゃねえって行ったじゃねえか。いいから買えよ、ここで良い印象を売るんだ。どうせ珈琲に消える金だろ。  初心な相棒を使って遊ぶ気満々のミイラは気に入らなかったが、僕は彼の言葉に従うことにした。羽織ったウインド・ブレーカーのポケットから五百円玉を取り出し、指で弾いて奈由に渡してやると彼女は目を輝かせてこちらを見上げてきた。慌てて目をそらし、チケットを受け取る。自分のバンド名だと言って彼女が指し示した記号とアルファベットの羅列に、思わずこれはなんと読むのだと言いかけ、慌ててその問いを飲み込む。 「本当にありがとう!」 「行けるかどうかは分かんないよ。それじゃ、頑張って」  ぱたぱたと部室に向けて駆け出す奈由を見送る。その小柄な体は、ギターケースに隠れてほとんど見えなかった。 ──いいのか? ライブなんて、今週は捜査で忙しいんだろ。  彼女が去ると、背後のミイラが再び話しかけてきた。 「チケットだけ買って、行かなきゃいいのさ。酒を飲むわけじゃなし、流石にドリンクに五百円はね」 ──なるほど、じゃあお前は、あの女の笑顔が見たいが為だけに五百円を払ったというわけだ。 「しつこいぞ」僕はそう吐き捨てて、昇降口に乱暴に転がした靴に足を差し入れる。 ──念のため言っとくが、もしお前が将来あの女なり、他の女なりに呼び出されて、泣きながら壺とか英会話教材とか買わされそうになっても……。  僕はマミーモンによく聞こえるように舌打ちをすると、秋風の吹く昇降口に飛び出した。このミイラの一番気に入らないのは、妙にこの世界の事情に詳しいことだ。       ***** 「おお、来たか。探偵クン」  〈ダネイ・アンド・リー〉に入った僕を、髪の毛をオールバックにした髭面のマスターが出迎えた。 「こんにちは、今日はご老人方はいないんですか?」店内を見回し、僕は首をかしげる。 「今日は君と話したいことが沢山あるからね。店は臨時休業だ。closedって札を出しといたはずだけど」 「ほんとですか、全然気づかなかった」 「……全然気づかないで、ずかずか入ってきたのかい」  いつもの席に座る僕にマスターは呆れたような目を向けたが、その目はすぐに深刻になった。 「先程市警の金沢警部から電話があってね、遠野さん、搬送先の病院で亡くなったそうだ」  僕は言葉を失った。 「だって、救急車で運ばれる時もあんなに元気そうに……」 「ああ、私も驚いた」 「やっぱり頭を殴られたのが原因なんですか?」 「検死結果で別の結果が出ない限りはその仮定のもとに捜査すると警部は言っていたよ」 「そうですか」  僕はそれだけ言って、椅子に深くかけ直す。頭を殴られて倒れているのに居合わせたとはいえ、あの赤ら顔の遠野古書店の主が死んだという事実は容易には受け入れ難かった。マスターはそんな僕をしばらく見つめ、そして口火を切った。 「探偵クンは、今回のことを捜査するのかい?」 「え?」 「殺人事件だ。探偵の出番のように思えるけどね」  なんと答えればいいのか、分からなかった。捜査をすると決めてはいたものの、不謹慎だ、ごっこ遊びではないんだと叱りつけられる気もした。 「……やります」  マスターはううむと唸った。 「本気で言っているのか? これは現実だ。推理小説とは違う。推理小説はあくまで知的な遊びだというのは、誰の言葉だったかな」 「……綾辻行人の『十角館の殺人』の一節です。多分彼の言うことは正しいんだと思います」  それでも。 「やります。警察じゃダメだ。多分、僕にしか出来ません」 「……あの怪物のことを言っているのか」 「はい、彼は今もここにいます」 ──そうとも、俺はいつでもいるぜ。  店内に一陣の風が吹き、気がつくと隣の席に背の高いミイラが座っていた。彼を実体化させるコツはよく分からないが、今の所はうまくいっているようだ。  マスターは彼のことをしばし眺め、それから大きく息を吐いた。 「最初から、説明してくれ」      ***** 「成る程ね……」  僕がデジタル・モンスターについて、遠野老人がデスメラモンに殴られたこと、その背後には人間がいることなどを語り終えると、マスターは一つため息をついた。僕は彼の目を見据え、決意を込めて語る。 「ご存知の通り、僕は探偵に憧れています。でも、今回の件はそれとは関係ない。僕達にしか、犯人を捕まえることはできないんです」  マミーモンも頷く。 「そういうことだ。俺たちのことは、黙っててくれるよな?」 「……少し待っていてくれ」  マスターはしばらく唇を噛みながら黙っていたが、やがてそれだけ言って店の奥に消えた。それからどれだけ経っても出てこないので、隣でマミーモンが不安げな顔を向けてくる。 「おい、大丈夫だよな、あのおっさん、警察に通報したりしてないよな」 「た、多分大丈夫だよ。もし万が一警察が来ても、お前は霊体に戻ればいい」 「そ、そうだな」 「おい、二人とも」  そんな話をしていた矢先、再びマスターが出て来たので僕たち二人は椅子の上で飛び上がった。 「何驚いてるんだ。ほら、これ」  彼は、僕に小さな茶色の革の肩掛け鞄を手渡して来た。かなりの年代物だが、長いこと使われていないらしい。 「何ですか? これ」 「中を見てみろ」  僕は金具を外し、鞄の中を覗いてみた。一番大きなポケットは空だったが、小物入れには様々なものが入っている。 「これは……」  一つ一つ取り出して見てみる。レンズの周りが銀色に縁取られた小さな虫眼鏡、柄に貝殻があしらわれたよく手入れされた折りたたみナイフにペンライト。小さな革の手帳をめくると、最初の数ページに細かい字でオーソドックスな暗号の解読法がいくつか書きつけられていた。その他にも雑多な、古いがよく手入れされた品物が詰め込まれている。 「その鞄の中には、探偵稼業に必要なものが一式詰まっている」  マスターはそう言って、真剣な顔で僕達二人を交互に見た。 「遠野古書店は私にとっても思い出深い店だ。店主の遠野老人もね。それに、私の店に来るご老人達は、皆あの人の古い友人だ。彼が殺されたことに、みんな悲しみを感じている。私もみんなも、この事件の解決を望んでいるんだ。だから、仮に君達の捜査とやらが遊び半分でも、私は君達に協力をするよ。でも……」  彼は、僕の持つ鞄を指さす。 「君達に覚悟があろうと無かろうと、君は沢山の人の思いを背負って走ることになる。それは時々、とても辛いことだ。小説の探偵がそうするように、自分とは無関係な深い悲しみの中に飛び込んで足掻かなくてはいけないんだ。もし君にそれを背負って真摯に事件に向き合う覚悟があるなら、春川早苗くん、その鞄を背負いたまえ」  僕はしばらく、自分の持つ革の鞄を見つめていた。そして黙って頷くと、それを肩にかける。大して重いものは入っていないはずなのに、その鞄はずっしりと重かった。不意にマミーモンが、僕の肩を叩く。 「おっさん、こいつは昨日にも一度、腹括ってるんだ。今更迷うこたねえよ。それに、もしこいつが逃げ出しそうになったら、俺が縛り付けてでも引き摺っていく。こいつには、俺の為にたっぷり働いてもらわないといけないんでね」  マスターは強く頷いた。 「うん、いい友人を持ったみたいだ。そんな君にもプレゼントがある」  マスターはそう言うと、また店の奥に引っ込み、今度は大きな服を取り出して来た。フィリップ・マーロウものの映画の中でハンフリー・ボガートが着ていたようなトレンチコートと帽子だ。 「マミーモン、と言ったかな? 霊体になれるとは言ったけど、やはりその体の方が色々と便利なこともあるだろう。君はちょうど私と同じくらいの背格好だ。これがよく似合うんじゃないかな」 「いや、俺は別に、ちょっと、おい、早苗、助けろ!」  僕が呆気にとられている間に、マスターはマミーモンにあっという間にコートを着せてしまった。 「うん、思った通りだ。包帯を巻いた顔だと、ウェルズの透明人間を思い出すけどね」上機嫌でマスターが言う。 「……早苗、なんとか言ってやれ」 「マミーモンの方が探偵っぽくてずるい」 「そういう問題じゃねえよ!」 「だって」  トレンチコートに帽子で渋く決めたマミーモンと比べて、学生服にウインド・ブレーカーを羽織り、その上で肩掛け鞄を下げた僕はどう見ても探偵には見えない。良くて ベイカー街不正規連隊 ベイカーストリート・ボーイズ、場合によっては何処からか「ぼっぼっぼくらは少年探偵団!」という歌が聞こえて来そうだ。 「ところで」顔を上げてマスターを見る。 「これ、マスターの名前ですか?」  僕は鞄を持ち上げ、その下に筆記体で書かれた名前を指し示す。 「そうだとも。それはどれも私の少年時代の品さ。……探偵クン、君にそんな目を向けられる筋合いはないぞ」  照れたようにしどろもどろで言った彼を見て、僕とマミーモンは顔を見合わせる。 「やっぱり厨二病同士気が合ったんじゃないか?」 「……否定できないのが悔しいね」 「そ、そんなことはどうでもいいだろう」  心なしか顔を赤くしながら、マスターが取り繕うように言う。 「よし、二人とも」 「何もよしじゃないです」 「私としても君達に探偵なんて危険な真似はさせたくない」 「全く説得力がねえな」  半ばやけになったのか、マスターは声を張り上げた。 「だがしかし、君達に事件に挑む覚悟と身を守る力があるとわかった今、こちらからお願いしよう。遠野さんを殺害した犯人を見つけ出してくれ」  マスターの言葉に、僕はマミーモンの方を向く。 「マミーモン、初依頼だ。頼んだよ」 「おう」  付き合わせた拳は、ミイラの割には重くて暖かかった。
木乃伊は甘い珈琲がお好き 第二話 content media
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マダラマゼラン一号
2019年10月28日
In デジモン創作サロン
#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy  序 ロードスター/拳銃/芋虫の血のこと     (BGM:えーと、なんか適当に。ほら、あれ、ムーディな? ジャズとかそういうの)  サンセット・ブルーバードの道路はいつになく静かだった。あるいは僕がいつもの喧騒に気づかないだけだったかもしれない。なにしろ、黒のコンバーティブルのハンドルを握りながらも、頭の半分は眠っているのだ。二日前の夜はホテルの一室でコカインの売人の股座を蹴り上げていたし、昨日の夜はマキャルヴィ警部補のクソッタレに取調室で証人の身柄確保に関する法律を教えてやっていたのだ。前に髭を剃ったのが何年も昔のことに思える。熱いシャワーと暖かなベッド。僕はそれを神に祈った。聖書の文句のことを考えるのは睡魔と取っ組み合いをしてる時だけだ。  こちらのそんな願いを踏みにじるように、緑のロードスターは私の家から逆方向の郊外に向けて、癇癪を起こしたハチドリみたいなスピードで走っていた。対向車線のトラックがクラクションを鳴らすのが少なくとも三度、僕の頭を現実に引き戻した。  いい加減に車通りも減り、夜の薄闇の中にロードスターを見失なったかと思った時、通り過ぎたログハウスの脇に緑色の車が止まっているのに気づいた。そのまま100メートルばかり車を走らせ、道の脇に停めた。車を降り、ダッシュボードから拳銃を取り出す。意味もなく拳銃を持ち歩くのは嫌いだったが、この疲れ切った体では殺人犯人相手にボクシングは到底できない。  ログハウスの前までくると、今まで追っていた緑のロードスターを眺めた。これと同じものを僕は前にも見たことがある。あのコカインの売人を蹴りつけたホテルでだ。  建物の脇に回り込み、体を屈めて窓の下に頭を当てた。室内には明かりが灯っており。低いバリトンの男の声とヒステリックな女の声が交互に聞こえてくる。 「やめてよ、本当に知らないんだったら。わたしはあの男がそんなことしてたってことすら…」 「嘘をつくな。おめえはこの三年間、シェリダンの女だった。あの野郎が俺たちのコカインを黙って持ち逃げしようとしてたことに、気づかないはずがねえ」  女のヒステリーに拍車がかかる。 「“シェリダンの女”ですって! 言っておくけど、最初の半年を除いたらあの男とは家の中で顔を合わせたこともないわ。あいつがまだあんた達みたいなゴロツキとつるんでると知ってたらなおさら…」  女の言葉はどんどん甲高くなり、何を言っているのかもわからなくなった。そろそろ潮時だと僕は思い、玄関に回り込んだが、遅過ぎた。銃声が夜の闇に響いた。私はドアを開け、部屋の奥に進んだ。もうノックは必要ないだろう。  部屋の奥には、血だまりが広がっていた。頭に穴を開けた男が倒れている。彼はもう、ギャングの威光を借りて自由に駐車違反をすることもできないのだ。  リボルバーを持った女は、部屋に入って来た僕に気づくと明るい声をあげた。たった今男を一人撃ち殺した女にしては、彼女はあまりに美しかった。 「サナエじゃない! あんたが来てくれて助かったわ。この男、私がギャングのコカインを隠し持ってるなんて言うのよ」 「それはスレイターのところから盗まれた、三万ドル分のコカインのことか?」  自分の境遇に、或いは美貌に見合うだけの優しさを僕が見せなかったのが気に入らなかったのだろう。女は不機嫌そうに口を尖らせた。 「そんなの、私が知るわけじゃないじゃないのさ」 「いいや、僕は知ってると思うね」そして、男の死体に目を向けた。なんのためらいもなく、五発撃ち込まれている。女のリボルバーの弾倉には、入っていて一発ということだ。 「随分殺し方が手慣れているな。無理もないか、この一週間で他に二人も殺してるんだから」  女が銃を僕に向けるより早く、僕は女の手めがけて一発撃った。血飛沫が飛び散り、悲鳴が上がる。手を撃ち抜かれた状態で見てみると、そこまで美しい女だとは思えなかった。 「もう諦めた方がいいぜ。コカインと一緒に自首すれば、警察もいくらか優しくなるさ」大量のコカインという証拠があれば、グレアム警部はスレイター・ギャングを永遠に葬ることができる。もっとも、それだけで三人殺した女が電気椅子を逃れられるとは思わなかったが。 「どうしてこんなことするのよ!」止血のためにハンカチを持って近寄る僕に、女は叫んだ。 「私だって、好きでやったんじゃないわ! 仕方なく…」 「仕方なく? 君の足元に転がっている男は君をまだ痛めつけようとはしていなかった。他の二人もそうだったんだろう。そのうちの一人は、僕の友達だった。虫も殺せないような男だ」  女が僕を睨みつける。 「ハルカワ・サナエ、とんでもない冷血男ね。あんたの手に噛み付いたら、何色の血が流れるかしら」 「きっと赤いさ。あんたの血だって、ちゃんと赤いぜ」  外からサイレンの音が聞こえて来た。僕はため息をつく。依頼人に、この女の母親に事の一部始終を語るという大仕事が、まだ残っているのだ。
木乃伊は甘い珈琲がお好き プロローグ content media
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