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第9話:出会う宿敵
とにかく、グラウモンは消えた。これで話は振り出しに戻ったことになる。
「何か無性に苛々させる奴だったな……」
あの手の奴はどうにも苦手だ。他人を明らかに見下したような瞳が、この上なく苛立たせてくれると思う。
奴に聞かされた内容を簡単に整理してみる。ここは人間界、それだけは間違い無いようだ。しかし今この場所には、人間は一人として存在しないという。奴が言うところの【反転】とやらの効力によって。
当然、全くわからない。第一、その効果が果たしてどんなものか、如何なる意図を伴って行われるというのか。それらが不明である現時点では、これ以上のことを推測するのは無駄だと思われる。だが奴は言った。この世界の全てが入れ替えられた以上は、世界の崩壊は免れるのだと。
ならば、崩壊の危機に見舞われているという奴らが住む異世界とは果たして何なのか、また新たな疑問が生まれる。
「……とりあえず確かめてみるか」
そう、まずは自分の目で確認すること。そうでなければ、何もかも信じられない。
迷うこと無く八雲は走り出す。自宅までは1キロも無い。走れば五分と掛からないだろう。だが駅前の商店街にも閑静な住宅街にも人っ子一人見当たらない。一軒家を見る限りでは殆どの家に明かりが灯っているというのに、道端に人間の姿は見えない。いや、そもそも午後九時を過ぎた頃から鳴き始める梟の声さえ響いてこない。路地裏に立つ木々が風に揺れる音だけが無機質な音を奏でていた。
程無くして自宅に到着する。彼の自宅は住宅街の端っこにある小さなマンション。他の家と同じように殆どの部屋に電気が点いているが、果たして――。
「義雄さん、浩子さん!」
三階に辿り着くが、鍵を開ける時間すらもどかしい。一気に駆け込み、開口一番そう叫ぶ。
だが如何に義父母の名前を叫ぼうとも返事が返ってくることは無かった。今日は野菜炒めだったのか、キッチンではフライパンの上に散乱した野菜が小気味良い音を立てている。妙に食欲が湧いてくる光景だが、今は呑気に飯を食っている場合ではないだろう。火を消し、ガスの元栓を締めておく。
居間のソファの上には広げられたままの朝刊が見える。それが何よりも今の状況を説明してくれた。
「マジかよ……!」
消えている。全てが全て、元のままで消えている。
殆どへたり込みたい気分で周囲を見回す。ベランダから覗くことができる隣の部屋にも、テレビが点いていながらも人間の姿がまるで無い。この様子では、他の部屋も同じだろう。人間が生活している住居をそのままに、グラウモンが言っていた【反転】は彼らの存在を消滅させてしまった。窓の外には相変わらず巨大な鳥が飛行しているし、また竜のような獣のような咆哮が夜空に響いている。外は文字通り異形の者達の縄張りだ。冷静に考えてみれば、昨日の夜にダスクモンが現れたのは、この兆候だったのではないだろうか。
何も考えられず、ただ夜風に当たりたくてマンションを後にして、近くの川縁へと出た。
見下ろす川は殆ど下水道だ。この近辺から出る汚水や下水の全てが流し込まれるこの川は、夜の闇の中でも蛍光色に輝いている。小学生の頃は朱実を含めた友人達と共に毎日のようにザリガニ釣りに来たものだが、現在の状況ではザリガニも入れ替えられてしまったのだろうなとぼんやりと思う。良く見れば川にも奇妙な魚の影が見える。
考えてみれば、人間が全て消えた町というのは、この上なく不気味で危険な場所だ。
八雲は自宅のガスの元栓を直しておいたが、もしグラウモンの言う通り人間界に残ったのが自分一人だとしたら、他の家は放置されているということだ。流石の彼とて、ガスの元栓を締めるためだけに他人の家に潜入する気は無い。しかし、問題はガスだけではない。水道を出しっ放しの家があれば洪水になることも有り得るし、ストーブやヒーターを点けっ放しというのもよろしくない。
こうして考えると、人間の世界とは危険なものだらけだ。少しの放置で大事故が起きる可能性だってあるのだから。
しかしグラウモンは言っていた。この【反転】は世界を正すために行われるのだと。そもそも、何故世界を正す必要があるのかは知らないが、奴が嘘を吐いていないということだけは感じ取れた。ならば従うしかないだろう。奴が何を考え、奴の言うクラウドという存在が何者なのか、そんなことは知らない。多少の危険を孕むだけで世界を正せるのならば、自分には何も言うべきことは無いはずだ。
だが八雲はどこか納得できなかった。自分に言うべきことは何も無いなんてこと、やはり嘘なのだ。
何がおかしいとか、何が違うとか、そんなことわからない。ただ、八雲は嫌だった。誰もいない世界、何も無い町、そしてそんな場所に一人だけ残された自分。辛いし悲しいし、何よりも寂しい。だから【反転】なんて止めたい。けれど、それで世界が正されるのならば自分の欲望など捨て去らねばなるまい。自分一人の欲求のために世界を危機に追い遣るなど、あってはならぬこと。ならば自分のことは捨てるべきかもしれない。だが、それでも――。
「……どうすりゃいいんだか」
堂々巡りになる論理展開。この思考の果ては、今はまだ見えなかった。
空を見上げれば結構な数の星々が煌めいている。
とりあえず車道に沿って森を出た結果、意外と労せずして市街地へ辿り着くことができたことは僥倖であろう。木々に囲まれた空間というのはとにかく視界が悪いし、結局のところ都会っ子である自分にとっては少々落ち着かない場所でもある。確かクラスメイトに森林浴が趣味の女子がいた気がするが、そんな彼女に言わせれば空気がおいしいとか心が休まるとか、そんな言葉が返ってくるのだろう。
何はともあれ、今はどうでもいいことである。人っ子一人いない街中を歩いていくだけだ。
「……十闘士?」
そんな傍から見れば異様とも言えなくもない状況の中、皆本環菜は隣の獣人から発せられた言葉に目を丸くしていた。
「そうだよ、十闘士……あのベルグモンって奴は、その中の一体なんだ」
「それって……どんな奴らなの?」
聞き返しつつも周囲の警戒は怠らない。物音一つ聞き漏らすまいとして、東西南北陸海空三界四方に自意識を拡散させていくイメージ。
環菜は今、ブラックガルゴモンと共に夜の街を進んでいる。何やら【反転】とか呼ばれる事態の影響を受けて、現在この世界に人間はまず存在しないのだという。代わりに溢れ出したのが、この黒い獣人に代表される異形の生物達。正直に言えば、彼らのような生物が犇めき合っているという今の世界で生き残る自信は環菜には無かった。
だからこそ、このブラックガルゴモンが先程自分に力を貸すのだとと申し出てくれたことは意外だった。そもそも今の状況下において人間界に残されている人間は異物であり、存在すること自体が奇妙なのだと彼は語った。故に消去することが必然なのだとも語ってくれた。だがブラックガルゴモンを含め彼らにとって人間は同時に憧れの存在でもあるとのことだった。
「凄く昔に……僕達の世界を救ってくれたっていう連中さ、伝説のヒーローだよ」
「……そう。人間と同じくらい?」
そう、人間は幾度と無く彼らの世界を救ってくれたのだという。
長きに渡る彼らの世界の歴史の中で多くの魔王と呼ばれる悪しき存在が姿を現し、世界を闇で包み込まんとした際、その英雄となるべき人間は必ずどこからか降臨し、自らのパートナーと共に闇を打ち滅ぼして彼らに光を取り戻してくれた。どんな状況でも諦めず、折れること無く彼らでは誰も起こすことのできぬ奇跡を、人間は必ず起こしてみせたのだ。
だから人間という存在自体が彼らにとっては憧れだった。危機に際して現れ、ただ見返りも求めずに世界を救って去っていくだけの存在。
「そうだねぇ、僕としては今こうして環菜といるだけで嬉しいんだけど」
「……!」
思わず綻びそうになってしまった顔を引き締める。ゆっくりと深呼吸。
そう、ブラックガルゴモンはいい奴だ。まだ数時間の付き合いだがそれは確信を持って言える。自分のことを憧れていた人間という生物学上の分類では無く、ただ皆本環菜という個体として見てくれる。その事実は半年前まで三上亮と付き合っていた頃のことを思い出させて、環菜としても少なからず嬉しくなってくる。けれど、だからこそ彼の言葉に糠喜びしている場合ではない。
この世界では油断など許されない。そんなことをすれば、死ぬだけだ。
「……後ろ」
「了解!」
環菜にとってもブラックガルゴモンにとっても、それだけの指示で十分だった。漆黒の獣人は素早く反転すると、掲げた右腕の銃口から一条の火花を散らす。それだけで背後から迫ろうとしていた大きな芋虫のような生物は小さな悲鳴を上げるだけで無様に倒れ伏す。毒でも吐こうとしていたのか、僅かに悪臭が漂っている気がする。早く離れた方が得策だろうか。
この世界ではこれが全てだ。殺さなければ死ぬ、先に倒さなければ倒される。この数時間だけで自分はブラックガルゴモンと共に、こうして屍の山を積み上げてきたのだから。
「ふぅ……でも環菜は凄いねぇ、さっきから僕より先に敵に気付いてる」
「何故かしらね。良くわからないけど……わかるのよ」
自分でも妙な物言いだと思うが、実際その通りだった。
アニメや漫画のように敵の気配やら殺気やらを読むなんてことが、平凡な女子高生である自分にできるはずも無い。故に今の自分が感じているのは単純な違和感でしかないのだと思う。それにブラックガルゴモンはどうやら気付いていないようだから、これは人間ならではの能力ということになるのだろうか。
とはいえ、大したことではない。敵が近付いてくると、ただ先程も感じた胸が締め付けられるような不快感が沸き起こる。それだけのことだった。
「あはは、環菜と契約できて良かったよ、本当にね。……ほら、こんな状況になったじゃん? だから環菜と会うまでは心の休まる暇も無かったんだから」
「それは……お役に立てて光栄だわ」
できるだけ回りくどい言葉を選ぶ。いや、自分は元よりその手の言い回しを好む人間だっただろうか。
そもそも契約とやらに関しても、ブラックガルゴモンが詳しくなかったこともあってか、環菜もまだ良く知らないでいる。とにかく彼が自分に協力を申し出てくれた途端、環菜の左腕にブラウスの上から強固なガントレットが装着され、その後は何故か先程よりも体の調子が楽になったような気もするが、それ以上のことは何もわからない。
「うん、頼むよぉ? 君がいると僕は安心できるから」
「……!」
その無垢な瞳を見ていられず、咄嗟に目を逸らす。結局のところ、ブラックガルゴモンとて自分とは相容れない生物でしかないのだ。知らず知らずの内に彼に心を許してしまいそうになる自分の心に、必死にそう言い聞かせながら。
自分達は協力者、また彼の言葉を借りるとしたなら契約者。それ以上の関係には決してなり得ないのだから。
「……それより、十闘士って奴に関して詳しく聞かせて?」
「ああ、そうだったね」
「十闘士ってことは十人いるのよね? ……どれもあの、ベルグモンみたいな奴らなの?」
咄嗟に話題を変えようとしてしまう自分が情けない、彼と真っ直ぐ向き合おうとしない自分のことが情けない。そんな風に考えてしまう自分の心に蓋をする。そう、皆本環菜はロボットになると決めた。下手な感情を抱けば死ぬ、余分な感傷はいざという時の妨げになる。感情を封じれば怖くない、感傷が無ければ恐怖も狼狽も覚えない。そして何よりも、今更カマトトぶって怖がったり慌てたりできるはずもない。
だって、そうだろう? 既に自分はブラックガルゴモンと共に数多のモンスターを倒してきている。そうして何体もの敵を退けられたことに一度でも達成感にも似た喜びを感じてしまった以上、もう今更元に戻ることなどできない。
自分の前に立ち塞がる敵はブラックガルゴモンと共に、一切の躊躇などせずに払い除ける。今の自分にできるのはそれだけだ。
「そうだね、人と獣の二つの姿を持つって聞くよ。あのベルグモンは獣型ってことになるね」
「人型(ヒューマン)と獣型(ビースト)……」
「うん。どいつも結構な強さを持ってるらしいね、中でも炎と光の闘士は――」
ブラックガルゴモンの言葉に相槌こそ打っているが、実際のところ彼の話す内容は殆ど耳に入ってこない。
環菜はただ全身に意識を集中させて周囲から敵が迫ってきていないか、何か敵の隠れるような場所は付近に存在しないか、そのことだけを考えている。言うなれば常に臨戦態勢、いつ敵が襲い掛かってきても対処できるように呼吸も乱さないように心掛け、更には背後にも対処すべく歩を進めながらも踵に力を込めておく。
「だから遭遇したら速攻で逃げた方が頭いいかもね。普通にやり合って勝てる相手じゃないだろうねぇ」
「……そう」
「でも……それも難しいかもしれない。人間相手でも容赦しないって聞くしね、あいつは」
「あいつ……?」
「そう。十闘士の中でも一番強いって言われてる奴……炎の闘士、アグニモンは」
それが本人でも気付いていない、皆本環菜の孕む矛盾。
この世界に対する漠然とした死の恐怖。それを意識しないように努めれば努めるほど、その恐怖は己を蝕んでいくということに、環菜はまだ気付いていない。彼女自身はもしかしたら自分は恐れてはいない、恐れてはいけないと思っているのかもしれないが、今の彼女の異様なまでの周囲への警戒こそが、今の状況に恐怖していることの証左に他ならない。
ブラックガルゴモンにしても同様だ。この獣人に心を許してはならない、頼ってはいけないと思っているにも関わらず、実際は彼の力が無ければ環菜は数刻とて生きてはいられまい。
それらの矛盾に環菜は気付かない。今はまだ、気付いていない。
どれくらいそうしていただろう。不意に冷たい声が響いた。
「……意外だな。まだ人間が残っているとは」
「誰だ!?」
妙に耳に引っ掛かる冷たい男性の声。思わず八雲が振り返った先には、視界の端に気配も無く立つ青年の姿がある。
身に纏うのは珍妙なローブ。まるでマントのように夜風に翻る様が印象的だ。頭髪は流麗でありながら不愉快にも感じられる白銀。その腰に差している巨大な杖状の物体は、ひょっとしたら大太刀と呼ばれるものだろうか。しかし外見の雰囲気からして、そいつを侍とは思えない。そもそも、21世紀のこのご時世に侍がいてたまるかというのだ。
それに、その青年の声には聞き覚えがあった。あれは確か、ギガスモンにアグニモンとか呼ばれていた――?
「お前、人間じゃ……ないな」
「……ほう? それがわかるということは――」
そこで言葉を切ると、静かに口の端を上げる謎の男。
「――お前がグラウモンと会ったという小僧か。……なるほど、それなら確かに頷けないことも無いというものだな?」
「グラウモン? てことは、お前はクラウドとかいう……?」
八雲の疑問に男は癪に障る微笑で返した。無論、それは肯定の意に他ならない。
皮肉そうな笑みを浮かべた男は、音も無く歩み寄ってくる。奴の両腕に、極めて奇妙な形を持つガントレットが装着されているのが見えた。鈍く輝くその手甲は、恐らく強固な金属で形成されているのだろうと容易に予測できる。側面に刻まれた〝火〟の文字が妙に気になるが、それには果たして如何なる意味があるのだろうか?
その男はにこやかな――八雲には胡散臭いものにしか見えない――笑みを形作り、こちらへ歩み寄ってくる。
「いや、こいつは失礼をした。名前を聞かせてもらえるか?」
「……わ、渡会八雲……」
「八雲……ああ、渡会八雲か。……ふふ、どうやら本当に俺の望みは叶ったらしい――」
渡会八雲。噛み締めるようにその名を反芻する男の姿は、まるで八雲という名前に何らかの聞き覚えがあるかのような雰囲気がある。そうして静かに顔を上げた瞬間、男は楽しそうに、本当に楽しそうに唇を歪めた。
何故か八雲には、奴の目に揺るぎ無い殺気が灯ったように見えた。
「――――――!?」
ゾクッと来た。直感に任せて咄嗟に飛び退く。
刹那、一瞬前まで八雲が立っていた場所を剣風が薙いだ。所謂居合い斬りという奴だろうか。半端ながらも心得のある八雲だからこそわかるのだが、今奴が振るった剣のスピードは最早達人の域だと直感できる。まさに音速のスピードで迫った鉄の刃は、確実にこちらの首を飛ばすべくして一閃されたのだから。
そもそも、奴の腰に差された太刀は通常の日本刀より遥かに大きく、そして重さも半端でないと判断できる。騎兵を馬ごと叩き斬ることを目的とするような、つまり斬馬刀という奴だ。そんなものを軽々と振るえる奴の筋力もまた、並大抵のものではない。少なくとも、今の八雲には同様にあれを扱える自信はない。
そして何よりも鼻先を掠めた剣筋に八雲は驚愕する。だが同時に「やっぱりな」と冷めたように納得している自分もいる。こんな状況に追い込まれることは当然だと理解している自分もいる。
そう、最初からわかっていたのだ。目の前の男はこちらを殺しに来ているのだと。
「いきなりかよ……!」
「……なかなかの読みだ。尤も、そうでなければ面白くないが」
静かに紡がれる男の声には一切の迷いが無い。さも避けることが当然と言った表情。
そう、男は自分を殺すことに対して何の感情も抱いていない。悲しみも怒りも楽しみも、少なくとも八雲が知り得る限りの感情表現では、今の男の心情を表すことなどできまい。だが奴が身に纏っている空気は暗殺者そのものだ。僅かでも隙を晒せば、油断無く躊躇い無く八雲の首を落としに来るだろう。外見は確かに人間だというのに、今の奴から向けられる殺気は、明らかにアルボルモンやグロットモンの比ではない。
戦わなければ死ぬ、奴を倒さなければ死ぬ。奴との戦いに勝利しなければ、渡会八雲にこの先は無い。そのことを直感で理解する。ギガスモンと相対した時などとは比べ物にならない、本物の死の予感に心が打ち震える。
だから思わず舌打ちしていた。つくづく今日は災難な日であるとばかりに。
「やっぱり敵かよ……くそ」
「渡会八雲。お前は先程、俺が人間ではないのかと聞いたな? ……結論から言えば、それは間違いだ。俺は飽く迄も人間で在り続けるし、元より奴らの仲間入りをすることなど考えたことすら無い。尤も、正確に言うなれば、俺はかつて人間だった者にすぎんのだが……そんなことは死に行くお前には関係の無いことだ」
奴の言葉など殆ど耳に入らない。聞く価値もない。
眼前に斬馬刀を構えた殺し屋がいる。それだけで十分だ。その事実を受け入れられずとも、胸にしこりが溜まり、理由のわからない衝動が八雲の体を切り苛む。奴と対峙した瞬間から、自分の体がどこかおかしくなっている。自分の心の中に棲む、鳥のような獣のような生き物が叫んでいる。奴を殺せと、殺される前に殺さねば後悔するのはお前なのだと告げている。
それなのに、体の芯が痺れていて思考が上手く纏まらない。余計なことは考えるな、目の前の敵にだけ集中しろ。でなければ死ぬ、でなければ壊される。
「だが奴と契約した以上、その務めは全うせねばなるまい。……悪く思うなよ、渡会八雲」
静かに斬馬刀が振り上げられる。それは確かな、死の宣告。
「ふざけんなっ!」
「むっ!?」
それを前にして、精神と肉体が同時にスパークした。振り下ろされる大剣を軽々と回避し、男の脇腹に一撃を見舞う。
その動きだけで理解する。奴は確かに腕が立つようだが、それは飽く迄も剣道の、つまるところ竹刀の領域の上だ。如何に実戦で鍛え上げられていようとも、その流麗な剣舞は明らかに汚れを知らぬ。血に濡れたことの無い、誰かの命を奪ったことの無い者の振るう児戯にも等しい剣技だ。ならば条件は同じ。攻撃を避けることに関してだけは、八雲は誰より上を行く自信がある。故に剣の一閃など容易に回避して反撃をお見舞いするだけだ。幼い頃から長内朱実という名の死地を散々潜り抜けてきた自分が、その程度の剣に膝を屈するはずが無い――!
だが奴は僅かなりとも怯む様子すら見せず、平然とした表情を浮かべている。
「……流石と言うべきか。その技の切れ、躊躇い無く剣の間合いに踏み込んでくる蛮勇……平時であれば、全てが賞賛に値するだろうな」
「き、効いて……ない?」
「驚くのも無理はあるまい。だが断言してやろう。……今のお前では、単なる人間以上にはなり得ない今のお前では、残念だが俺に勝つことなど夢のまた夢だ」
笑う。勝利を確信した目、先程のグラウモンと同じ目で奴は笑う。
「……気付いていないだろうがな、所詮この世界においてお前は異物にすぎん。筋力も視力も聴力も、全て今のお前は本来の力の半分も出すことはできまい。それが分不相応に世界と関わった愚か者の……そう、それがお前の限界だ」
そう言い捨て、奴は納めた斬馬刀を鞘ごと放り投げる。
小次郎敗れたり。思わずそう叫びたくなるところだが、状況はむしろ逆だった。奴の両腕の手甲が静かに赤い輝きを放ち始めていたのだ。それは文字通り、烈火と呼ぶに相応しい閃光。そう、奴の手甲に刻まれた〝炎〟の刻印は、奴が司る属性を示していたのだと、今更ながらに八雲は理解する。
「あの世で後悔するがいい。不用意に世界の理に首を突っ込んでしまった己が愚かさを」
「なっ、何を――?」
「……スピリットエボリューション」
輝きが増し、奴の体そのものを飲み込んでいく。
溢れ出した烈火の輝きの中で混濁する0と1の配列。急速に書き換えられていくそれらは、まるでプログラムのようにも見えた。故に奴が身に纏うのは烈火のデータ。異世界に存在する全ての炎の事象を司り、己が身に転移する。それこそが奴の両腕に装着されたクロンデジゾイド製の手甲、D-CASが持つ力だった。
つまり奴の属性は炎。全てを焼き、新しきものを生み出す創造の力。
「炎の闘士、アグニモン!」
瞬間、八雲の眼前に現れたのは業火の化身。
その頭部に見えるのは、肩まで流れるように伸ばされた黄金の頭髪と揺るぎ無い意志の灯る双眸。全身を覆う鉄壁の鎧は所々に真紅と黄金のラインを走らせ、ある種の神々しさすらも漂わせている。だが奴の全身から放たれるオーラに圧倒されながらも、八雲の目に余分な感情が宿ることは無い。その顔付きは嵐の前の静けさを漂わせている。憎しみは全く覚えない。
八雲はただ、奴を倒すべき敵として認識しただけだ。
「悔いろ。俺とて鬼ではないからな、それぐらいの時間はやろう」
「……悪いが、後悔する気なんてないけどな」
人間と十闘士。本来なら戦闘にすらならぬ組み合わせ。
それこそが最初の戦い。この世界の最期の煌めきを彩る、最初の戦いだ。
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第12話;知識の魔導士
夢を見ていた。
そこは老朽化した建物。正直に言えば、孤児院と呼ぶのも憚られるぐらいに小汚い建物だったと思う。
尤も、閉鎖された児童館の跡地を貰い受けたものらしいのだから、そう言っては贅沢か。だが部屋の柱はその殆どが白蟻に食い潰されており、縁側の床板は大人が思い切り踏み締めたなら即座に大穴が開いてしまうほどに脆い。そんな場所で十数人の子供達を養っていた彼は凄いと思うし、また養われていた自分達も凄いと思う。
自分が赤ん坊の頃に両親は自動車事故で死んだ。それ以来、自分は孤児院暮らしだった。
孤児院の院長は、自分には特に優しかったように思う。それは恐らく付き合いが一番長かったからだろうか。誰よりも強くなりたいという自分の突拍子の無い願いを迷い無く聞き入れ、翌日から早速武術の心得を伝授してくれた。そう、彼が自分に教えてくれたものは型やら形式やらに則った武道ではなく、実戦の使用にも耐え得る武術だった。最も効果的に相手の意識を刈り取る方法、また相手を〝殺す〟ためではなく〝断つ〟ための剣の振り方など、今考えれば何を教えてるんだアンタと突っ込みたくなるような代物ばかりだったが。
そんな鍛錬の甲斐もあり、自分は小学校に上がる頃には既に誰にも負けないほどの強さを得ていた。
院長には安藤浩志という名前がありながらも、自分達には自らを安さんと呼ばせた。恐らく義父さんとか呼ばれるのが恥ずかしかったのだろう。だから、彼のことを義父さんと呼んでいたのは自分だけだったはずだ。
義父は豪放かつ豪胆な性格の持ち主ながら、誰もが羨むような強さと優しさを兼ね備えた人間だったから、そんな人が義父であることに異は無かった。自分達は全員が全員、いつか義父のように困っている人を助けられるような、そんな人間になろうと夢見たものだ。
そんなある日、当時6歳だった自分は義父に呼び出され、二階の和室へと向かっていた。
聞くところによれば、今日から自分と同い年の女の子が来るという。しかも武術の心得があるそうだから、相手をしてやって欲しいとのことだ。当然、何を馬鹿なと笑ってやった。同い年の子供に、それも女の子を相手にしたところで勝負になるはずがないと、そう高を括っていた。そんなわけで、普段から稽古場として使われている十畳の和室に向かったわけだが――。
言うまでも無いことだが、結果だけを見れば惨敗だったわけだ。
形式は三本勝負だった。一戦目は剣術、二戦目は柔術、そして三戦目はルール無用の単純な力比べ。一戦目は辛くも勝利を収めたものの、二戦目は開始数秒で気付いたら畳に叩き付けられていた。信じられない思いのまま三戦目に望んだが、容赦無く襲い掛かってきた拳の前に堪らず吹っ飛んだ。正直、ショックが大きかった。それなのに、相手の少女は息を乱した様子も無く、ただ落胆の目で言う。
『……弱いね、アンタ』
その瞳が物凄く冷たかったことを記憶している。無論、その少女とは長内朱実である。後に一緒に暮らすことになるその女は、義父のことを親父殿という堅苦しいのかふざけているのか理解しかねる呼び名で呼んでいたが、義父は別にそれを別の呼び名に変えさせようとはしなかった。
何はともあれ、その言葉で地味に落ち込んだ自分を、朱実が立ち去った後で義父は慰めてくれたらしい。今となっては殆ど思い出すこともできないが、あの人が自分のことを心配してくれたあの真摯さは、紛れも無く本物だった。だから誰よりも渡会八雲は義父のことが好きだった。この人が今から五年後に命を落とすなんて、誰が予想できただろう――?
その時の義父との会話の中で、唯一覚えている部分がある。
『八雲もそろそろ、進む道を考えた方がいいのかもしれないね。剣か柔か、それとも喧嘩か』
『……嫌だ、俺は世界一強くなるんだから』
返す言葉に迷いは無かった。
そう。どれかに道を決めてしまったら、その時点で世界一への道は絶たれてしまう。それが堪らなく嫌だった。同じ強くなるのなら、どんな得物を手にしても負けない強さを得たかったのだ。世界一の剣道家が相手なら剣で、世界一の柔道家が相手なら柔で制する。身の程知らずだった当時の渡会八雲は、自分の剣術や柔術が本気で世界に通用し得るものだと信じて疑わなかったのだ。
今になって思えば、何てガキ染みた願いだったろう。
『……惜しいね。剣だけだったら八雲は世界一どころか宇宙一にだってなれるのにな』
そう言って笑う義父の横顔は、何故だか少し寂しそうに見えた。
その日以来、渡会八雲は剣の鍛錬に最も時間を割くようになった。だが別に義父の言葉を気にしていたわけではない。自分を負かしたあの女を、長内朱実を倒すには剣しかないと、そう思っただけのことだ。
「はっ……」
「……気が付かれましたか?」
響いてきたのはソプラノを思わせる甲高い男性の声。
ハッと身を起こすと、そこは朝焼けに包まれる林の中だった。目の前では焚き火がパチパチと軽やかな音と共に燃え盛っており、薄暗い周囲の空間を明々と照らし出している。そして、今の八雲にとっては最も重要な、先程の声の主は漆黒の闇に包まれる木陰の中に佇んでいた。
紫紺のローブを纏った、魔術師のような風貌の小柄な男だ。
「持ち直して良かった。川を流れていた時には、もう駄目かと――」
「……お前が助けてくれたのか」
聞くまでも無いことだったが、敢えて聞き返していた。
すると、その男性はシルクハットの下に覗く大きな瞳を僅かに細め、小さく笑った。その姿は明らかに人間ではないものだけれども、敵意は感じさせない。あのゴブリンや木偶の坊、そして気に食わない男とは違う存在なのだと感じることができた。
油断無く周囲を見回し、そこに見えたものに絶句する。
「うおっ、あれってまさか」
「……あの塔が何か?」
「いや、東京タワーが見えるってことは……ここ、芝公園か」
京葉地帯の沿岸部、俗に言う0m地帯に立つ電波塔を見やり、八雲は呟く。
飽く迄も予想にすぎないが、恐らく自分はクラウドと名乗る不可解な男の攻撃で吹っ飛ばされて川に落ち、そのまま合流して隅田川の下流まで流されてきたということだろう。ここから墨田川なら然程離れた場所というわけでもない。――そもそも、奴は明らかに自分を殺す気だったのだから、そうでもなければ自分が生きていることなど有り得ない。微妙に寒いのはその所為か。
尤も、そのまま隅田川を流れ続けたら同じように土左衛門だったろうから、助けてくれたことには感謝すべきだ。
「悪いな、助かったよ。俺は渡会八雲。お前は?」
「……私はウィザーモンと申します」
「ウィザーモンか。人間じゃ……ないよな」
黒衣の魔術師は小さく頷く。それでも両手を焚き火に翳して暖を取っている様は、どうしようもなく人間味に溢れて見えた。女子高生型デストロイヤーの異名を持っていそうな幼馴染よりも、目の前にいる魔術師の方が余程人間っぽく見えてしまうのだから世も末だ。いや、そもそも長内朱実に人間味を感じたことなど、殆ど無いような気がするのだが――。
そこで自分の左腕の違和感に気付いた。何気なく見やると、そこには鈍く輝くガントレットが装着されている。
「あれ、これは……?」
「……D-CAS、世界の理を司ると言われる聖なる手甲ですね。風の噂には聞いていましたが、まさか実在しようとは」
「世界の理を司る……?」
そういえば、確かアグニモンも「世界の理に首を突っ込んだことを後悔しろ」とか言っていたような気がするのだが――。
そんなことを考えていたら思い出した。進化する前のアグニモン、つまりクラウドという男もまた、今の八雲と同じような手甲を装着していたことに。だが奴の手甲は両腕に装着されていたし、八雲の物は奴とは違って側面に〝火〟という文字が刻まれていたりもしない。
よく見ると、D-CASにはゲーム○ーイのような液晶画面がある。
「なあウィザーモン。この画面、何かお前が表示されてるんだが……」
「むっ、それは――」
何気なく聞いてみると、ウィザーモンは露骨に嫌そうな顔をする。……禁句だったのか?
よくわからない。けれど、黒装束の魔術師は不機嫌そうに俯いてブツブツと何事かを呟いている。その様は高校でクラスの委員長を務めている陰湿な男子生徒の顔を思い出させるので、不思議と八雲も苛立ってくる。文句があるなら面と向かって言えというのだ。
そんなことを考えていると、いきなりウィザーモンは居直って言う。
「八雲君……でしたか。君は今、この世界がどんな状況だかおわかりですか?」
「元は人間界だけど、異世界との間で中身の【反転】が行われた中途半端な融合世界……って聞いたが」
「ほう、それはご存知でしたか。ではあなたが今置かれた状況を説明して頂けますか?」
その少なからず尊大な物言いに少し腹が立つが、仮にも命の恩人だ。
仕方ないので、できるだけ要点だけを掻い摘んで話した。ダスクモンと名乗る戦士と出会ったこと。グロットモンやアルボルモンとの戦い。突如として変異した人間界。グラウモンとの邂逅。そしてアグニモンと呼ばれる存在へと進化した謎の青年、クラウドとの戦い。どの出来事も印象が強すぎて、記憶が曖昧な箇所など全く無かった。
思い出すと不思議と腹が立ってくる。自分は奴に間違い無く負けたのだと、ハッキリ自覚したのだから。
「……なるほど。ダスクモンやグロットモン、アルボルモン。更にはアグニモン……ですか。飽く迄も予想の域を出ませんが、恐らく彼らは十闘士と呼ばれる者ではないでしょうか?」
「十闘士?」
そういえば、連中は自らのことを「~の闘士」と名乗っていた気がするが。
十闘士。伝説に語り継がれるその戦士達のことは、ウィザーモンとて全てを知っているわけではない。彼の師であるワイズモンが話してくれた範囲のことでしか、彼は知らないのだ。十闘士という存在は、それぐらい伝説と化していたわけだし、そんな眉唾な話ばかりが残る存在のことを調べようとも思わなかった。
だが少なくとも、自分達のような従来のデジモンとは一線を画す存在であることだけは容易に理解できた。風の噂で人間が「スピリット」と呼ばれる未知の〝器〟を身に纏うことで誕生すると聞いてはいたが、渡会八雲が話してくれたアグニモンに進化した男のことを鑑みれば、それも決して的外れな意見ではあるまい。……まあ、そのクラウドとか名乗る青年が本当に人間か否かは、この際無視することにしよう。
黒衣の魔術師は、どこか呆れた風に呟いた。
「しかし、誰とも契約を交わさぬ身で十闘士に挑むなど、無謀にも程があります……」
「……契約って何のことだ?」
「ああ、言い忘れていました。……今の私と君のような関係のことですよ」
「なっ?」
その言葉を受け、ウィザーモンの顔を思わず見やる。
彼の世界においても、契約というシステムを知る者は少ない。ある意味では重要だが、また他の意味では重要でないそのシステムは知性に優れた一部の種族しか知らない事柄だからだ。実際、ウィザーモンとて師匠であるワイズモンに聞かされていなければ、そのことなど知り得なかっただろう。それ故に、冷静に考えるならば八雲がウィザーモン、朱実がケンタルモンといった知性の高い種族と真っ先に出会えたことは僥倖と言えた。
契約。それは来るべき混乱の極みに対して、世界の管理者が構築した救済システムの名称である。
人間界に異世界の住人が溢れ出た今の状況において、世界の【反転】が行われた瞬間から渡会八雲や長内朱実は本来〝異物〟として処理されるべき存在に成り下がった。世界は彼らをあってはならぬものとして消去しようとする。故に朱実が感じたように、世界との軋轢から身体全ての力が大きく低下した。彼女は平然としていたが、実際に数日間放っておかれれば、ゆっくりと衰弱死するところだったのだ。
生物が常に大気中から酸素を取り込んで生命活動を維持しているように、世界もまたその中で生きる生物から俗に言うところの生命力を受け取ることで秩序を維持し、逆に生物はその秩序と平和を享受することで自らの生命を維持する。だが【反転】が行われた後の世界は異世界の住人からの生命力の供給によって成り立っている状態である。それ故に通常とは世界のシステム自体が異なり、本来その世界に在るべき生物が生命活動を維持できなくなってしまう。故に放っておけば待っているのは衰弱死だ。
そんな世界との軋轢から人間を守るのが、異なる世界の住人達の間で交わされる〝契約〟なのだ。
人間が異世界の生物と取り交わす契約。それは入れ替えられた人間界で存在するための、言わば絶対条件である。言ってみれば、これは自身の存在を世界に認証してもらうための行為とも言える。
つまるところ、現在の人間界を覆う空気はウィザーモン達が暮らす世界のそれであり、八雲達人間とは本質的に相容れぬ世界。故に満足に生きるすることすらできない。世界から切り離された存在は、生命を数日とて維持することはできまい。だからこそ今の世界で何の問題も無く存在し続けられる者、つまり異世界の住人との間に明確な繋がりを作る必要がある。
それが契約だ。世界と繋がっている生物とのラインを築くことで、自らの存在を世界に認証させるためのシステム。
このシステムの特殊な点は二つ。まず一つ目は、本来なら契約してもらう立場の人間の方が主として扱われること。それは契約の後にD-CASのような物的な証拠が現れるのが人間側のみということに起因している。そして二つ目は、契約主と契約者の間にはそのライン以外には一切他の関係が生まれないこと。その二つだ。
契約者。その存在は、数百年前に幾度と無く彼らの世界を救ってきたとされる人間(テイマー)とタッグを組んだ相棒(パートナー)とは全く趣を異にするもの。
このパートナーと呼ばれる存在が仲間や友達、相棒というような言葉で代弁できたのに対して契約者は飽く迄も契約を交わした者でしかない。極端な話、仕事上の協力者とか利害が偶然一致した面識の無い人とか、そんな認識だ。故に契約を結んだからといって共に行動する必要も無いし、命を賭して守る義理も無い。
ただ、少なくとも人間は彼らの体を触媒にすることによって異世界で己の存在を維持することができるのだ。
そう考えれば、アグニモンに進化したという人間がデジモンを従えていたらしきことにも説明が付く。つまり、そのグラウモンが人間界において異物であるのと同様、そのクラウドと名乗る人間も異世界では異物にすぎない。だが彼は自分の身へと降り掛かる世界との摩擦を、グラウモンと契約することで補完しているのだ。そのグラウモンを拠り所とすることで、今までは異世界で、【反転】の後は人間界で何のリスクも無く存在している。そのことを鑑みれば、人間の姿を持つ十闘士には須らく契約者がいるということだが――。
そんな説明を、ウィザーモンから簡単に受けた。
「はぁ……なるほど。つまり、俺が今の人間界で生き続けるためにはお前らと契約する必要があると」
「ほう、案外と物分かりがいいのですね」
ムカッ。そんな擬態音が自分の頭から聞こえた気がする。
理由はわからないが、このウィザーモンといいグラウモンといい、異世界の生物とやらには気に食わない連中が多い気がする。連中の故郷は元来、自分とは相容れない世界なのかもしれない。まあ、恐竜が普通に人語を解したり人間が突然変身したりする世界なんて、こっちから願い下げだが。
「それでお前は不本意にも俺と契約してしまったってわけなのか。……意外と見た目より抜けてるんだな、お前」
「……怒りますよ?」
「悪い、気にすんなよ。……でも契約したからって、一緒に行動しなきゃならない謂れは無いんだろ? だったら別にお前の方にリスクは何も無いっぽいんだが」
「あのですね、私は君を生かしている状態なのですよ? ならば、そんな相手を放っておけるはずがないでしょう」
「いや、別に俺は構わないぞ。一人でもやっていける」
そう返してもウィザーモンは不貞腐れたような表情を崩さない。
ひょっとして、付いて来たいということだろうか。どうやら、こいつは尊大な割にはお人好しだが、その上に素直でないという無用な属性まで所持しているらしい。八雲にとって最も苦手なタイプだ。まるで下手に扱うと粉々になってしまうガラス細工のような奴だ。この手の輩との接し方は、未だにわからない。
「……ふん、私と契約したおかげで命を永らえられたというのに、何の恩も感じていないようですね、君は」
「わかったよ、それなら一緒に行こうぜ。……確認しとくが、一応俺がお前の契約主ってことでいいんだな?」
「その前に一つ。あなたは曲がりなりにも人間界に残された。ならば、この場所で何をする気ですか?」
それは真摯な問いだった。
本来ウィザーモンは真面目な性格なのだと、そんな当たり前のことを感じ取れた。先程の微妙な尊大さも間違い無くウィザーモンのものだが、このお人好しな性分もまたウィザーモンのものなのだ。前者は腹が立つものでしかないが、後者を鑑みると意外にも愛嬌のある性格だと呼べるのではないだろうか。そう考えると、初っ端で彼と出会えたことは良かったのかもしれない。
だから八雲も、馬鹿な答えだと理解しながらも真面目な顔で答えを返す。
「……大層な目的なんて無いさ。とりあえず、アグニモンって野郎をぶっ飛ばすこと……って答えじゃ駄目か?」
「アグニモンを倒す……正気ですか?」
答えがわかっていながら聞くウィザーモンもまた、生粋の馬鹿なのかもしれない。
八雲が静かに「ああ」と頷く様を前に、ウィザーモンは表情こそ冷めたものを崩さずにいるが、内心は全くの正反対。そんな突拍子も無いことを考える八雲と付き合う以上は、どうやら退屈はしなさそうだと思って安心する。不本意にも契約してしまって、その上つまらなく何の取り得も持たない人間が契約主だったらどうしようかと、割と本気で悩んでいたのだ。
けれど、目の前の少年は面白そうな人間だ。不思議と興味が湧いた。
「質問を変えましょう。何故アグニモンを倒す必要があるのです? 十闘士は世界を救済するために存在する者です。彼らと戦い、万が一にも勝利を収めたところで何も得るものは無いはずですが」
「……単に借りを返したいだけさ。子供の頃からだが、俺は負けっ放しっていうのは性に合わないからな。ああ、別にお前が嫌だって言うんなら、無理して一緒に来なくていいんだぞ? 俺に俺の目的があるのと同じで、お前にもお前の目的があるんだろうからさ」
「ええ。確かに私にも目的がある。ですが――」
そこでウィザーモンは再びため息を吐く。
「――君の語る目的も一興。……いいでしょう、君を我が契約の主と認め、行動を共にすることを誓います」
「お前、案外あっさりとプライド売るのな」
先程の尊大さはどこに行ったのか、その変わり身の早さに思わず突っ込んでしまう。
「フッ、誇りを売ってなどいませんよ。私はただ、君といると面白そうな気がしただけです」
それはウィザーモンの本心。
世界の理を知り尽くそうとしている彼にとって、十闘士の一人と因縁を持っている少年と出会えた事実は、何よりも勝る幸運だったと言えよう。まあ、自分が彼の契約者になってしまったことだけは不本意だったが、それはそれ。今の状況では受け入れるしかあるまい。それに少しだけ、ほんの少しだけだが、渡会八雲という少年に危うさを感じている自分がいることにも気付いた。
我ながら相変わらずのお節介焼きだが、何故か彼には自分のようなストッパーが必要だと感じたのだ。
「……それでは八雲君、最後に一つだけ聞いてもいいですか?」
「いいけど」
「私の目的……というより夢は、世界の理を知ること。では君には夢がありますか?」
ウィザーモンにとって、それは再び真摯な問いだった。
流石の八雲もその空気を感じ取ったのか、思案するように僅かに顔を俯かせる。けれど、渡会八雲にとって彼の質問は迷うほどのものでもない。ならば何故そんな風に俯いたのか。その理由は簡単なことだ。まさかこんな状況で自分の夢を語ることになるとは思ってもいなかったからだ。
やがて八雲は顔を小さく上げ、しっかりと言葉を紡ぐ。
「……確かにあるな。世界中の皆を悲しませないようにすること、そんな世界になればいいなって……俺はそう思ってる」
微塵の臆面も見せず、渡会八雲は答えを返した。
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第11話:誠実なる騎士
新幹線。
20世紀後期、つまり1960年代に開通したそれは、未だに夢の超特急として名を馳せている乗り物である。近頃では俗に言うところのリニアモーターカーの開発・実用化が進められているようだが、そんな未来の産物よりも現実問題として現役で利用される新幹線の方が憧れの頻度は高い。
当然、今の時代になっても時速250キロを軽く超える新幹線は、最も便利な交通手段として認知されている。
「しっかし、いくらなんでも味気無さすぎじゃないのかねぇ……」
その線路の上を黙々と進みながら、朱実はうんざりした声を出す。
前方には一直線に線路しか見えず、また夜であるために高架下の街頭の明かりも殆ど届いてこない。新幹線の運転手というものは、こんな暗い場所でよくも事故を起こさずに運転できるものだと思う。それとも、時速数百キロの速さで走っている時には、そんなものなど気にならないのだろうか。
そんなことを考えながらも、確実に足は進んでいる。とはいえ、まだ距離に換算したところで5キロほどしか進んでいないのだが。
「……あ~、もう十時を過ぎているのかぁ。今日はここいらで寝るとしよっかねぇ」
大きく欠伸をして、朱実は線路脇のコンクリートに腰を下ろす。
電柱に寄り掛かって眠れば、なんとか夜を越せないことも無いだろう。元々サバイバルの能力には自信がある。未だに晩飯を取っていないこともあり、体が何度も空腹を訴えてくるが、それに眠気だけで蓋をする。ここから高架下へと飛び降りれば、コンビニぐらい無数にある。けれど、それは飽く迄も最終手段だ。今は動ける内に動いていた方がいいだろうし、また無人のコンビニから食べ物を拝借するのは気が引ける、そう判断しただけのことである。
「うぅむ、明日中に東京に戻るのは少し厳しいかもしれないねぇ……」
その言葉を最後に、朱実は新幹線の線路の上で眠りに落ちた。
夢を見ていた。
『人殺し!』
遠くで泣き喚く遺族の女。遺影を抱えて騒ぐ彼女の姿を前にして、自分は無性に腹が立つ。
元々そっちが悪い癖に責任を転嫁して、自分にとって大切な人のことを散々人殺し呼ばわりして。大体、どうして母さんも不当なことを言われ続けて黙っていられるのか理解できない。あいつらの言っていることは全て偽りだ。本当だったら、あの遺影には母さんが映っていて、遺影の男が今の母さんの立場にいるはずだったのに。
そう、母さんは誰よりも強かったのだ。殺されそうになったから仕方なかった。それだけなのに。
『………………』
『その年でそんな大きな娘さんがいるなんて余程のことよね、この人殺し!』
やめろ、その先を言うな。母さんが黙っているのに。
『 !』
女が放ったのは封印したはずの禁句。その瞬間、意識が断線した。
同時に素早く繋げられていく感情は怒りという名の形を成す。隣には何も言い返せず、悲しそうに俯く母さんの姿。それなのに、あの勘違い女はそれすらわからずに「娘さんが可哀想」だの「殺すことはなかった」だの見当違いな叫びを繰り返している。
全身の血液が沸騰しそう。まずい、自分ってこんなに短気だったっけ?
『……ふざけんな! あんたに母さんの、何がわかるっていうのよ!?』
怒声一喝。自分の声だけで周囲の空気を凍り付くのがわかる。齢5歳の小娘が突如としてそんな台詞を吐いたとなれば、そうもなるだろう。
当時の年齢を考えれば神速とも呼ぶべきスピードで、自分はあの女に向けて突進する。女が思わず息を呑んだのは、多分その時の自分が幼稚園児とは思えぬほどに、鬼気迫る表情を浮かべていた所為だ。実際、次の瞬間に母さんが泣いて止めなかったら、5歳の自分は本気であの女を殺していた。
それぐらい憎らしかった。苛立たしかった。彼女の存在そのものを疎ましく思い、あんな奴なんか消えちゃえばいいのにと心の底から思った。殺しても飽き足らないだろう。自分の存在の全てを引き換えにしようとも、あの女の身も心も全て破壊し尽くしてやらなければ気が済まなかった。
そう思考したことには、今でも後悔は無い。当時の自分にはあれが最も自然だったし、正しいと思っている。
誰にだって一度は誰かを本気で殺したいと思ったことはあると思う。だけど、実行に移そうとした者は数少ないだろう。それを自分はした。母さんに止められていなければ、あの女を絶対に生かしてはおかなかった。己の血の海に沈めてやりたかった。
だから長内朱実は人殺しらしい。人殺しの娘である以前に、人殺しであるらしい。
誰かにジーンズの裾が引っ張られている。
「ん……?」
既に日は昇っている。嫌な夢を見たというのに、太陽の光は相変わらず眩しい。
足元を何気なく見やると、丸っこい生き物が自分のジーンズの裾を口に咥えて引っ張っていた。銀色の仮面のような帽子のようなものを被った生物だ。明らかに人間界にいるべき生物ではないから、恐らく昨日のゴブリモンとかいった化け物と同じ存在なのだろうが、不思議と嫌な感じは覚えない。それは多分、目の前にいる生物が赤ん坊めいた雰囲気を醸し出しているからだろう。
「起こしてくれたの?」
軽く抱き上げて聞いてやると、その生物は小さく頷く仕草を見せた。
「そっか。悪かったね、ありがと。……ん?」
瞬間、朱実の視界が暗転する。それはまるで、何か影が差したような――。
「ぬあっ!?」
何気なく見上げた視線の先に朱実が見たのは、今にも振り下ろされようとしている巨大な馬の前足。
それに気付いてからの朱実の行動は、まさに神速と呼ぶに相応しいもの。咄嗟に抱き上げた小さな生物を胸元に抱え込み、自分の身共々に庇うように全身を丸めて大きく横っ飛びする。ジーンズジャンパーを着ているとはいえ、流石に砂利の上での横転はかなり痛い。
振り下ろされた蹄が、朱実が一瞬前までいた場所を踏み潰す。
「くっ、何奴!?」
「カプリモンを解放しろ。……でなければ、次は外さない」
振り返った先にいるのは、一体の獣人。
胴体と四肢が馬、上半身が人という異形の生物はギリシア神話に登場する半獣半人の怪物、ケンタウロスに酷似していた。仮面のような頭部に覗く一つ目は無機質なものだったけれど、その雄々しい体躯は逞しさを内包し、何にも代え難い勇猛なる雰囲気を漂わせていた。
彼の者こそケンタルモン。誇り高い騎士の一族である。
「……八雲の奴め、何が疫病神だ。アタシだってアンタと再会するまで、こんな化け物とは会ったこと無いよ……」
「聞こえなかったのか? カプリモンを解放しろと言っているのだ」
カプリモン。ひょっとして、今抱えている奇妙な生物のことだろうか。
思考する間にもケンタルモンが一直線に突進してくる。咄嗟にカプリモンを庇いながら横に動くが、奴のスピードも侮り難いものがある。当然だが、単純な力相撲では自分に勝ち目は無いだろう。ならば勝つためには全力で相手をする他に無いと思われる。しかし、それにはカプリモンとやらを抱えていては都合が悪い。ここは――。
ケンタルモンの突撃を避けながら、朱実は叫ぶ。
「あのさ! 言っとくけど、アタシはこの子に手出しなんてしてないんだけど!」
「はっ、今更何を――!」
「……いやいや、本当だって!」
そこでケンタルモンも気付いたようだ。目の前の少女により抱き抱えられているカプリモンの顔が、この上ない恐怖の色に滲んでいることを。彼から向けられる恐怖の対象は人間の少女ではなく、突撃中の自分自身だ。幾度と無く突撃を繰り返す自分に対して、カプリモンは恐怖を覚えている――?
考えることすらしなかった仮定に、ケンタルモンは動きを止める。
「ま、まさか本当に――?」
「だから、さっきから言ってんじゃない」
そう言って笑うと、朱実もまた動きを止めた。
彼女の手で地面に下ろされたカプリモンは弾けるような笑顔を見せている。その仕草は他の如何なる言葉よりも明確な状況証拠だった。それ故に、ケンタルモンはそこで初めて己の不明を恥じた。勘違いから人間を襲ってしまうなど、騎士として愚の骨頂だ。
だが不幸なことに、彼は理解できていなかった。朱実が何を考えてカプリモンのことを彼に明かしたのかという、その理由を。
「ていっ!」
「なっ!?」
突然繰り出されたパンチがケンタルモンの顔面に掠る。
本来なら有り得ないはずの攻撃に驚愕を覚えながらも、ケンタルモンは一旦距離を取って振り返る。そこには不敵に拳を構えた少女、長内朱実の姿があった。構えは典型的な空手家とほぼ同様だが、彼女が身に纏う雰囲気は圧倒的だ。迫力だけなら負けているかもしれない。だがそれを補って余りある闘気が今の彼女の全身からは発散されていた。そう、彼女がカプリモンのことを明かしたのは、決して彼を思い憚ってのことではない。ただ、戦う上で彼を抱いたままでは不利だったからということにすぎないのだ。無論、カプリモンを思い遣る気持ちが無かったわけではないが、大部分の理由はそれだ。
僅かに顔を顰めると、朱実は再度突撃を掛ける。足場の悪い砂利ではなく、新幹線の線路の上を走って安定性を確保している辺り、やり手である。
「まっ、待て! あなたが手を出していないとわかった以上、私とやり合う意味は――」
「問答無用! 勝負を仕掛けてきたのはあんただろう!」
そんな叫びと共に大きく跳躍、朱実の飛び蹴りが獣人の脇腹に炸裂する。その身を襲う侮れない痛みを受けて僅かに顔を顰め、後退するケンタルモン。
なまじ朱実の不用意な蹴りがなかなかの威力を持っていたこともあり、ケンタルモンの方にも頭に血が上ってしまったのだろう。大きく距離を取りながら線路の上に雄々しく立ち、一気に必殺技の体勢に入る。実際、朱実の力は決して手を抜けるものではない。一撃を以って勝負を決めなければ、こちらが危うい。
「くっ、願わくば退いて頂くことを……ハンティングキャノン!」
放たれるのは、全てを弾き消す必殺の光の弾。
だがケンタルモンは朱実を殺すつもりで放ったわけではない。元々、ケンタルモンは意味の無い殺戮を好まぬ気高き種族である。それ故に、彼もまた同様の誇りを持っていた。自分より弱い者を傷付けることなど、騎士道を信条とする彼らにはあってはならぬこと。だから、その必殺技も少女に掠るだけ、少女の足元に炸裂して驚かすだけに留めた威嚇射撃にすぎなかったのだが――。
それを、目の前の少女は敢えて受け止めた。動かなければ当たらなかったそれを、生身で受けたのだ。
「なっ、何を!?」
「……これがアンタの必殺技? 全然効かないよ!」
否、生身というのは語弊がある。必殺の光弾を受け止めたのは、彼女が咄嗟に拾い上げた鉄板なのだから。
全然効かないという彼女の言葉は偽りだ。それはケンタルモンにも理解できた。如何に鉄の板を盾にしたとはいえ、ハンティングキャノンの余波を受けた彼女の上着の右腕はチリチリと焼け焦げたように黒く染まっている。当然のことだった。成熟期の攻撃は直撃すれば、人間の命を奪って余りあるほどの威力を持つというのに。
それなのに、鉄板を粉々に四散させながらも少女は一歩も退かない。
「な、何があなたをそこまで……?」
「答えるまでも無いっしょ。……アンタが己の全てを懸けてくるというのなら、それを受けずして何が武人かってのよ。アタシはただ、そんな自分の在り方を否定したくないだけよ。それに――」
初めて柔らかい笑みを見せ、彼女は背後を見やった。
「――無関係な奴は巻き込みたくないからね。まあ、勝手に戦いを始めたアタシの不徳の致すところでもあるし」
「カプリモン……そうか、あなたはこの子を守るために……」
少女の足下で震えていたのは、銀色の仮面を被った幼年期のモンスター、カプリモン。
ハンティングキャノンが朱実によって受け止められていなかったら、恐らくあのカプリモンは必殺技の余波を受けていた。そうすれば、恐らくは助かるまい。故に朱実は自分とカプリモンの命を天秤に掛け、迷い無く我が身を必殺技の前に投げ出したのだ。自分が怪我をすることなど考えもせず、また今の世界の状態を鑑みれば身体能力が激変しているはずなのに。
カプリモンを抱き上げると、朱実は「危ないところだったねぇ」と笑いかけ、逃がしてやっている。その姿はケンタルモンの目には何よりも眩しいものに映った。
「失礼致しました。私はケンタルモン。……高名な戦士殿とお見受けします。お名前をお教え頂けますか?」
「堅苦しいね、アンタ。……まあ、そういうのも嫌いじゃないけど」
そう呟くと朱実は楽しそうに、本当に楽しそうに笑った。
「……長内朱実。アタシの国の字で『赤い果実』って書いて、そう読むんよ」
「朱実殿、ですか。良い名前をお持ちで」
ケンタルモンの言葉に思わず苦笑を返す。
実際、朱実という名前を彼女は気に入っていた。それは己の名が自身の在り方を表していると思えるからだ。戦闘というものが大好きな自分は、如何なる時にも笑みを浮かべていると、かつて八雲が言っていた。故に返り血を浴びても自分の顔から笑みが消えることは無い。朱に染まる果実とは、まさに自分のことではないか。
「そういえば朱実殿は、既に契約をお済ませで?」
「……契約って何?」
「知らないのですか? これはまた……」
返ってきた能天気な答えに、ケンタルモンは一つ目を驚愕で染めた。
「我々とあなた達人間は、本来なら共生することを許されない存在。片方が多数を占める世界の中での少数は、放っておけば生気の全てを吸い取られ、肉体は力を失う。それ故に我々のように多数の中の者と繋がりを持つことで、少数は己が肉体を保つことができる。……この世界に残された御身なら、当然知り得ることだと思っていましたが?」
「あ~、なるほどね。道理で体に力が入らないと思ったわけだ」
何気なく右腕をぶらぶらさせながら、朱実は大きくため息を吐く。
この奇妙な世界に来て以来、何故だか妙に自分の身体能力が衰えているような感じがしていたのだ。それは筋力から視力、聴覚まで全てに渡る。当然、身体能力が大きく下がったわけなので、現在の朱実の戦闘力は普段の半分ほどしかないわけである。大抵の者ならばそれを自覚することも無く衰弱していくことになるのだが、普段から戦いに身を投じている朱実のような人間は話が別だった。
考え様によっては、そんな状態で数多の野良モンスター達を次々と退けてきたのだから、末恐ろしい女である。
「……これも何かの縁でしょう。この際ですし、先程の非礼のお詫びも兼ねて私と契約を交わしませんか?」
「まあ、契約とかいうのが必要なら、別にあんたでもいいや。……どうすればいいの」
「それでは利き腕とは逆の腕を私に翳し、契約の意をお唱え下さい」
契約の意。つまり何らかの呪文を唱えろということか。当然、そんなものは知らない。
それ故に殆ど思い付きで左手を突き出して「アタシはケンタルモンと契約する」とだけ呟いてみた。すると、朱実の左腕が突然輝きだす。視界を覆い尽くす眩い閃光に、流石の朱実も目を覆う羽目になる。よく見てみれば、目の前に立つケンタルモンも同じような輝きを放っているようだった。
次の瞬間、突如として朱実の左手首に巨大なガントレットが出現した。
「これは?」
「それがD-CAS。朱実殿が我が契約主たる証です」
「……へえ。よくわからんけど、凄いもんじゃない」
呟きながらも、左腕に装着されたガントレットを軽く叩く。
材質が余程強固な金属なのか、D-CASは朱実の拳を重たげに弾き返してくる。そのことが不思議と心地良い。ギガスモンとの戦いで失ったヌンチャクや先程咄嗟に拾い上げた鉄板も十分硬かったが、このD-CASは明らかにあれ以上の硬さを誇っていると思う。これならば防御用の盾として使うことも可能だろう。ケンタルモンの必殺技さえ容易く受け止められる自信がある。
「とにかく、これで契約は完了です。先程よりは力が上がっているはずですが?」
「う~む、確かにこれは……」
何気なく拳を握ってみると、確かに外部からの力の供給を感じる。
これが目の前のケンタルモンとかいうモンスターから供給される力なのだとしたら大したものだ。グッと拳を握ってみただけでも、普段より力が増しているような錯覚さえ抱く。今の自分の握力を以ってすれば、週刊○ャンプ程度なら容易く破り捨てられそうだ。ただ、コ○コロコミックを破るのが朱実の夢なのだが、それは流石に難しいかもしれない。
そんなことを考えていると、ケンタルモンが顔を覗き込んできた。
「朱実殿、一つだけお聞きしたいのですが」
「……なに?」
聞き返しつつも、朱実はケンタルモンに顔を向けようとしない。
「あなたは先程私のハンティングキャノンから、全く躊躇うことも無くカプリモンを庇った。それも何ら迷うこと無く。……死ぬことは怖くなかったのですか?」
「……あのね、そんなわけ無いっしょ。アタシだって普通の人間だから、死ぬのが怖くないなんてことは無いよ」
返ってきた答えにケンタルモンは苦笑する。あれだけの破天荒さを見せておきながら、自分のことを普通の人間だと称する彼女は、確かに自分が仕えるべき主として相応しい人間であるように思えた。
ただ、同時にこの長内朱実という少女は随分と頭の固い少女でもあるらしい。人間界のことはよく知らないが、この有り様では恐らく人間の子供が通う〝ガッコー〟とかいう場所では肌に合わない生活を送っているのだろうと思う。直情径行な少女の気質は誰よりも強く逞しいと思う反面、抜き身の真剣のように一度傷付いたら立ち直れない危うさも孕んでいるように感じられた。
だが少女が再び呟いた言葉は、そんな危うさをも掻き消す破壊力を秘めていた。
「……そもそも、アンタは大前提を間違ってんのよ。確かに死ぬのは怖いよ? だけどアタシは絶対に死なない、アタシは誰にも殺されない、アタシは誰にも殺させない。長内朱実がそう在る以上、そんなこと考えられるわけが無いっしょ」
その言葉に含まれるのは自信でも慢心でもなく、また尊大さなど微塵も無かった。少女は心の底からそのことを事実として信じているのだ。自分は絶対に死なず、誰にも殺されず、また他の誰かを殺させることも無いのだと。如何なる根拠を持っているのかは不明だが、それは長内朱実にとっては絶対の真実なのである。
そして、それこそが彼女が最強であることの証だった。
黒装束を纏った彼は、川辺に立ち尽くしていた。
彼は人間界と呼ばれる世界に、以前から並々ならぬ興味を示していた。彼の師匠が知識の探求者である故だろうか、本来なら戦闘種族であるべきはずの彼もまた、戦いで手を汚すことを望まずに、ただひたすらに己が欲求を満たすためだけに生きてきた。
この世の全ての理を知り尽くすこと。それが彼の夢だ。
「……しかし、肝心の人がいないのではどうしようもないですね」
問題はそれだ。
世界の神が行う【反転】と呼ばれる儀式。この儀式の間、人間界にいる全ての生物は強制的にダークエリアへと転送される。そのため、人間と関わることで新たな知識を得たいという彼の望みは叶わぬのが当たり前だった。彼の世界のことを彼しか知らないのと同様、人間の世界のことを知っているのは人間だけなのだから。故に彼の師は【反転】の際に、偶然残された人間と関係を作り、人間界のことを知り得たのだという。
そのため彼もまた、残された人間とやらを探しているのだが、そう簡単に見つかるものではない。
「むっ……?」
そんなことを考えていた所為か、上流から人間が流れてくるのが見えた。
恐らく気絶しているのか、その体はピクリとも動かない。だが遠目からでも酷く傷付いているのが理解できた。全身に火傷を負ったその少年は、パッと見たところでは殆ど土左衛門と化していた。放っておけば、この先の東京湾に出て太平洋に漕ぎ出す羽目になるだろう。
瞬間、彼は思わず手にした杖を振っていた。興奮していたのは、人間を見つけたからではない。彼の者が今にも死にそうに見えたからだ。
「クリスタルクラウド!」
放たれた氷の粒が川を凍らせる。少年自体を凍らせないように加減はした。
この技は本来、彼とは趣を異にする種族の得意技だ。そうであるにも関わらず、彼は何故か氷の属性を司る術を習得していた。それだけならまだいい。だが自身とは逆側に位置する種族のみが持ち得るはずの治癒能力を持つ呪文さえ、彼はいつの間にか詠唱可能になっていた。それでいて、得意技であるはずのサンダークラウドの切れはイマイチと来ているのだから、これは少々問題だろう。
一瞬で半ばスケート場と化した川の上を、彼――ウィザーモンは歩いていく。少年の体は突如として出現した氷塊に引っ掛かって止まっていた。ホッと一息吐きながらも、まだ油断はならないと周囲を見回す。こんなところを他の連中に見つかったら厄介だ。正直に言えば戦闘力に自信は無い。自分には少年を守りながら戦うなんて器用な真似はできないのだから。
とりあえず少年を抱き上げてみる。体格はウィザーモンと大して変わらないようだが、意外と重い。
「……酷い火傷だ。早く手当てをしなければ、命に関わりますね」
既に人間から知識を得るとか、そんなことは頭から吹っ飛んでしまっている。今のウィザーモンは言わば普通の病院にいる新米医師と変わらない。ただ目の前に怪我を負っている人間がいるから、それを助けたいと願う、そんな一種の馬鹿とでも呼ぶべき奴だ。
そんな彼は、どこまでもお人好しな奴なのだ。
少年、渡会八雲の左手に謎のガントレットが装着されたのは、それと殆ど同時だった。
・
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第10話:埋められない差
「……眠れ、永久に」
響くアグニモンの冷たい声。それと共に迫るパンチはまさに音速の閃きを宿す。
間一髪のところでかわした拳が空を切る。ギリギリの攻防に心の底から恐怖を抱いている自分に驚愕もするのだが、同時にその恐ろしき愉悦が紛れも無い快感となって自分の体を駆け抜けていく。そうだ、確かに今の渡会八雲は戦いを楽しんでいるのかもしれない。だけど、それが何だと言う――?
屈んだ勢いを殺さず、逆立ち蹴りの要領で槍のように足を突き出すが、手甲で軽々とブロックされ投げ飛ばされる。
「フッ、そんなものか。その程度では俺に傷一つ付けることはできん」
「うわっと! くそ、やっぱり……」
「尤も、それも無理も無いことではあるが。……やはり所詮はこの程度、素手の貴様では勝負にもならんようだな」
何故知っているのかはわからないが、確かに奴の言う通りだった。元来、渡会八雲は長内朱実と異なり、無手の芸の使い手ではない。
無論、無手の戦いでも大抵の相手なら圧倒できる。だが本当の意味で実力が伯仲した相手、今の時点では朱実ぐらいしかいないわけだが、その手の相手には遠く及ばない。故に彼が真価を発揮するのは武具を用いた戦闘だ。赤ん坊の頃から学んできた甲斐もあって、剣術や棒術に関しては達人の域に達していると言われたほどだ。つまり、どこかに手頃な武器さえあれば、少しはまともな戦いになるかもしれない――。
ハッと気付かされる。右方数メートルの場所に転がっているのは、奴が放り投げた斬馬刀。
「選ぶがいい。首を圧し折られるか、それとも炎で丸焼けになるか――!」
「ぐっ! どっちも……お断りだ!」
「ならば無残にその身を散らせ! それがお前にはお似合いだ!」
こちらは人間だというのに、先程の言葉通り奴には容赦など全く無かった。左足を軸足として、右足による目にも止まらぬ後ろ廻し蹴りが繰り出された。まともに喰らえば渡会八雲の体は脇腹から真っ二つになり、蹴りを受けたのに両断されるという奇妙な光景を見ることになるだろう。
とても受け止め切れる威力ではない。そして当然のことながら人間にそれを回避する術は無い。故に繰り出された時点で勝負は確定するはずだった。
「くっ――!?」
「むっ――!?」
だが直撃の寸前、唐突にアグニモンの動きが止まった。まるで何かに気付いたように、奴は右足を振り上げた状態で硬直している。理由など知らないし、知る必要も無い。その僅かな隙こそ八雲にとっては最大の好機である。故に逡巡も躊躇も殴り捨て、素早く右方の斬馬刀に飛び付いた。
その有事に際しての咄嗟の判断力こそが、今の渡会八雲が炎の闘士に勝っている僅かな部分だった。
「なにっ!?」
「武器さえあれば――!」
「させるかっ! ファイヤーダーツ!」
そうはさせないとばかりに、アグニモンが小さな火の玉を無数に放ってくる。如何に小さいとはいえ、それは一発でも喰らえば火傷では済まないほどの熱量だ。
それを横転して避けつつ、起き上がる流れのまま斬馬刀を両手で掴み上げる。
改めて手にしてみると、それは外見以上の重さを有していた。そこまで非力ではないと自負している八雲でさえ、両手で保持しないとまともに振ることはできないだろう。まさに敵将を馬ごと斬ることを目的とした斬馬刀の名に相応しい。そういえば、自分の好きな漫画では過去に扱いこなせた者は誰もいないとか言っていたような。
何はともあれ、今はこの剣を以って戦いに挑むのみ――!
「なるほど、考えたものだな。……だが剣さえあれば俺と互角に戦えるとでも?」
「なに……?」
「だが一つ聞こう。……お前、その右腕のバンダナをどこで手に入れた?」
こちらの右腕を示しつつも、アグニモンは無表情だった。奴が指差した場所は、あのギガスモンとの戦いで上着が裂けた部分であり、現在そこには先程商店街で拾ったハンカチが巻かれている。奴の言う分にはバンダナなのだが、どちらでも良いだろう。
だからどこでと聞かれたら、普通に答えるしかない。
「拾ったんだよ。……あっちの商店街でな」
「そうか。……ふっ、時系列が狂ったわけではなかったか」
「は? 何て言った?」
奴の答えは意味を成さない言葉だったが、それ以上の問答を続けるつもりは無いらしい。一瞬の穏やかさを消し去り、アグニモンは飽く迄も不敵に嘲笑うだけ。
そして奴の体から発散される炎のエネルギーが増大する。それは最早ただの人間でしかない八雲にも知覚できるほどに激しい。次第に奴の体を覆い尽くしていく炎は、巨大な竜巻を形成してアグニモンをその中へと包み込ませる。
「さて再開と行こう。……お前が真の強者を名乗るならば、これを受け止めてみせろ!」
「なに……!」
炎の竜巻が迫る。八雲にはその中で高速回転するアグニモンの姿がハッキリと見えていた。そう、奴の放とうとしている技はこの回転力と炎エネルギーを利用した一撃だと理解できる。
だから問題は単純だ。奴の攻撃に合わせて剣を出す、ただそれだけ。
「サラマンダーブレイク!」
「この――!」
攻撃は見えた。炎を纏った蹴りが自分の体を襲うのが見えたのだ。
けれど、奴の技の威力の程までは知らなかった。防御するべく八雲が構えた斬馬刀は、アグニモンのサラマンダーブレイクの威力に耐え切れず軽々と弾き飛ばされ、後方数十メートルの場所にカランという音を立てて転がった。
だから当然、八雲も態勢を大きく崩す羽目になる。そして、その隙をアグニモンは決して見逃さない。
「これで終わりだ……さあ、この一撃を以って消えるのだな!」
強い意志を籠めた叫びが、必中の拳と共に八雲の顔面に迫る。
回避し切れない。喰らえば当然のように死ぬ。頭蓋は破砕され、下手すれば首ごと持って行かれる。そしてアスファルトに脳漿を散らすことになるだろう。如何に人間離れした運動能力を持つ渡会八雲であろうと、それは人間離れであるが故に人間の域を逸脱していない。そんな八雲が目の前の怪物に勝てる道理は最初から無かった。それが世界の摂理であるし、何よりも目の前の魔人は〝人間離れ〟程度では済まされない存在なのだから。
圧倒的な、如何なる執念を以ってしても埋めようの無い、決定的な格差。少なくとも渡会八雲では奴に太刀打ちすることはできない。それでも奴には負けられない。また負けたくない。だが負けないためには、どうすればいい? ……そう、武器だ。あいつに対抗できるぐらいの強い武器が必要になる。
咄嗟に脳裏に思い浮かべたのはグロットモンが持つ武器。奴のハンマーがあれば奴にも対抗できる――!
「そうだ……!」
今ここに無いのなら呼べばいい。瞬時に武器を創造するなんてこと、脆弱な人間の自分にできるわけがない。そんなことができる奴がいるとしたら、そいつは魔法使いだ。だから自分がすべきことは望むことだけ。それでも、望みさえすれば、いつだって世界は自分に微笑みかけてくれるはずだ――!
瞬間、八雲の両腕が眩い輝きを放った。それが有り得ないことだとわかっていても、目の前の魔人に対抗するために彼はその武器を望んだ。その思いに彼の腕が答えたような、そんな感じだった。
刹那、周囲に響くのは金属と金属が奏でる協奏。
先に口を開いたのは、八雲自身の思いを代弁するアグニモン。
「なに……!?」
痺れるような感覚を四肢に走らせながらも、八雲は自分の右腕に保持した〝ソレ〟を必死に支える。自分にはあまりにも不相応な武器だった。奴は軽々と担いでいたが、実際に手にした〝ソレ〟はあまりにも重い。流石に化け物が使っていた武器だけのことはある。人間が望むには、些か傲慢すぎたようだ。
拳を弾かれたアグニモンの顔には、僅かながらも焦燥の念が見える。
「その武器はグロットモンの……。なるほど、奴と戦ったのだったな、お前は」
「ほ、本当に来た……来てくれた……!」
当然、八雲はハンマーの使い方など知らない。
だから棒術の応用で遮二無二ハンマーを振るうだけだ。だが重さに逆に振られている感覚はどうしようもなかった。眼前のアグニモンが放ってくるパンチにハンマーを合わせて、奴の拳を弾き返すことしかできない。当然、一度ハンマーを振るうだけでも腕の神経は千切れるような痛みを訴え、腕が引き抜けてしまいそうな錯覚すら感じてしまう。元々人間が扱うことなど想定されてはいないのだから、それは当たり前のことだ。
それでも確かに、グロットハンマーは八雲にとって救いとなっていた。
「やはりお前は召還師ということか。……まあ、最初からわかっていたことだが」
「しょ、召還師?」
「……俺の最も嫌いな人種のことだ。だが、それもここで潰える!」
大きく後退したアグニモンが、20メートルほどの距離を取った。
明確な殺意を己が肌で感じ、八雲の全身の毛が逆立つ。奴が如何なる技を繰り出すのか、何故か自分にはわかっていた。その名もバーニングサラマンダー、爆熱の火蜥蜴。アグニモンの持つ最大の必殺技にして、その勢いは全てを焼き尽くす烈火の如く。喰らえば即死、しかし生身の人間では逃げる術も無い。そもそも、この戦いに生身の人間が介入すること自体間違っている。
八雲にとって、それは撃たせてはならぬ技だった。だが既に遅い。
「後悔するのだな。俺と出会ったことを」
「何度も言わせるな! 誰が後悔なんか――」
「バーニングサラマンダー!」
放たれる烈火の魔弾。それを前にして、八雲は思い切りハンマーを振り被り――。
「――するかぁぁぁぁーーーーっ!」
己の全精力を以って勢い良くコンクリートに叩き付けた。
その瞬間、八雲の体は確かにグロットモンそのものであった。無論、それは決して外見上のことではない。そのハンマーの振り方、筋力や聴力など身体能力の全て、そして何よりも叩き付けられたハンマー自身が、彼がグロットモンであることを体現している。グロットモンの〝魂〟を八雲が一瞬だけ借り受けたような、そんな感じだった。
叩き付けられたハンマーが大地を打ち砕き、破砕されて巻き上げられたコンクリートが八雲を守る防壁となる。
放たれた火球を無数の砂塵が受け止めた。だが完全に相殺するには至らず、その余波が熱波となって八雲の体を襲う。それでも、八雲は全身を黒く爛れさせながらも退くことはしない。熱さなど感じない。そんなものはグロットハンマーを手元に呼び出した時から感じていたのだから。
炎が晴れた途端、グロットハンマーは自らの役目を終えたとばかりに霧散した。
「ぐうっ……!?」
瞬間、八雲の頭に激痛が走る。まるで背後から鈍器で殴打されたような、そんな感じだ。一瞬にして全身の血液が逆流しかけ、心臓が喉下から競り上がりそうな感触に打ち震える。恐らく麻酔無しで内臓の手術を受ければ、きっと今のような痛みを受けることになるだろう。どこか他人事のように、八雲はそう思った。
その痛みに耐え切れず、思わずその場に膝を着いて蹲る。
「……まさか、俺のバーニングサラマンダーに耐え切るとはな。全く以って見事だ、と言いたいところだが――」
その声はアグニモンから放たれた言葉ではない。
無理も無いことではあったが、八雲は魔人の必殺技を受け止めることだけに意識を奪われており、彼の者が既に先程とは全く趣を異にした生物へと変貌を遂げていることに気付きもしなかった。そう、力を失って膝から崩れ落ちた八雲を見下ろしている炎の闘士は、最早人の形を成してはいないのだ。
そこに立つのは龍。天を突くほどの威容と双翼、そして悪魔の如き醜悪な牙を覗かせた、巨大な龍だった。
「――お前の敗北は揺るがない」
紅蓮の龍が静かに紡ぐのは、問答無用の死刑宣告。
その言葉を最後に、渡会八雲は意識を失った。
何故か嫌な予感がした。
「ありゃ……八雲?」
不意に幼馴染の顔を思い出し、朱実は振り返る。
彼女が進まんとしている方向に見えるのは、紛れも無く日本アルプスの山々だ。そう、八雲の前から姿を消した朱実が気付いた時、何故か朱実は東海地方、正確に言えば名古屋まで飛ばされていたのである。当然、この場所にも人間は一人として存在していない。金こそ持っているが、人がいない所為で新幹線が動かないため東京に戻ることもできないでいた。
そんなわけで、無謀にも朱実は徒歩で東京へ向かおうとしているのだが――。
「これは少しばかし前途多難かもしれんねぇ。……少なく見積もっても200キロ近くはあるだろうからねえ」
別段歩くこと自体は苦ではない。ただ、話し相手もいないというのは退屈なのだ。
彼女の背後には山のように積み上げられた怪物達が倒れている。棍棒のようなものを装備した緑色の奇妙な怪物達は自らをゴブリモンと名乗り、文字通り身包みを剥がさんとばかりに朱実を襲撃してきたのだが、当然の如く三割程度の力しか出さない彼女によって一蹴された。
「ふむ……邪魔っ!」
「ごへっ!?」
また一匹、棍棒を振り翳して襲い掛かってきたゴブリモンの顔面に冷静にカウンターを決めながら、朱実は思案する。
今までに倒してきた怪物の数は、優に二十匹を超えている。その中で彼女は傷一つ負っておらず、また息を乱してもいない。それなのに違和感は隠せないでいた。どうも調子が悪い。あの程度の敵、普段の自分なら裏拳の一撃で倒せるはずなのに、今は相手の力を利用したカウンター以外一撃では倒し得ない。
握力が普段の半分ほどしか入らない。握力計が無いから正確な数値はわからないが、今は多分30キロ無いだろう。
「奇妙だね。まるでアタシがアタシじゃないみたい……」
恐怖からではなく、文字通り肌が粟立っている。何らかの要因によって体がバラバラにされようとしているような、それでいて己の体はその圧力に耐えようとしており、その軋轢から身体能力が全体的に弱体化している、そんな感覚だった。これは突然名古屋に飛ばされた時からずっとだ。
力が出せないというのはもどかしい。けれど、ひとまず身を守ることに不安は無いようだ。
「……まあ、そこらは追々考えていけばいいのかな。せっかく人もいないのだから、新幹線の線路を行くことにしよっか。夢の超特急の線路を歩いていくというのもまた、面白いことかもしれないしね」
そんな風に勝手な結論を下し、無人の名古屋駅を我が物顔で歩いていく朱実。しかし、律儀に自販機で切符を買って改札を通っている辺り、真面目と言えるのか言えないのか。
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