その日は青天白日、実に晴れ晴れとした空だった。
朝の日差しに照らされ、金色の羽毛がキラキラと輝く。
誰もいない病院の屋上、そこに実体を伴う金色の鳥と共にそれは佇み己の手を見ていた。
ーーーふむ、相手も霊体ならば如何様にも戦えるが、流石に生身を持つ者が相手ならばあの人間の紋章がなければ、か。
そう独りごちるのは、白鳥の外套に軽鎧を纏い、背中にクロスボウを背負う中性的な雰囲気を漂わせた戦士であった。
かざした手の向こう側が透けて、その先の風景が見える。
斯様に、この戦士は永らく闇の世界に幽閉され、彷徨し続けた果てに肉体を失っていた。
戦士を導いたのは、一人の女の"光"である。
"光"を浴びた時、戦士は確かに受肉を体感した。
だが、女を暗黒の海から現世へと送り届けたと同時に、再び幽体へ戻ってしまったのである。
ーーーやはり、あの人間は守るに値する相手だ。あの紋章の輝きは、共に有った光の紋章とも、他の紋章とも異なる力を持つもの。…確かめねば。
その時、屋上の物干し竿に止まっていた金色の鳥が戦士の腕へ戻った。
気づき、眼下を見下ろせば。
あの女が、病院前で白い獣の元へ歩み寄り、またがるところだった。
白い獣が走り去るのを、戦士は見送りながら愛おしげな手つきで鳥を撫でる。
ーーーでは行こうか、フレイア。
こちら、五十嵐電脳探偵所 第11話 祝いの席に忍び寄る影
「美玖ー!!」
「退院おめでとう!!」
「せんせい、たいいんおめでとー!!」
探偵所へ戻った美玖をクラッカーで出迎えたのは、美玖と同年代の女友達三人とラブラモンだった。
突然のことに呆然とした美玖に、女友達の一人、宮子が屈託なく笑う。
「どうしたのよ、ボーゼンとしちゃって!」
「え……あ、う、ううん!?その、びっくりしちゃって。三人とも、今日はこっちに来たの?」
あたふたしながら問う美玖にくすりと笑ったのは、女友達の一人の朝奈。
「全くもう!美玖が退院するっていうから、こっちの可愛いワンちゃんに話して一緒に待たせてもらったの。ねー!」
「ねー!」
朝奈とラブラモンが互いに顔を見合わし、にっこりする。
最後に、女友達の一人である夏実が言う。
「その…本当でしたら、シルフィーモンさんっていう美玖の助手さんも一緒に祝う予定だったですけど……緊急招集が入ったと言って消えてしまいました」
「緊急、招集……」
先日、聞かされた近況。
美玖が入院して目が覚めなかった間に起こった、全世界に向けて発信されたイグドラシルからのメッセージ。
美玖の入院費と探偵所の維持費、両方を賄うためにシルフィーモンがとった選択。
なお、ラブラモンによる行動に関して本所警察署から届けられた報告書を読んだ瞬間、美玖は卒倒する羽目になった。
「そうだ……ラブラモン、今度からその、ね?もうちょっと気をつけましょうね?」
「えっ?」
警察としても、ラブラモンの扱いには困っている。
いかんせん、アヌビモンなる、デジタルワールドからしても重要な存在と思しきデジモンなのである。
その管理と監視を任されている自分に非があると美玖は頭を抱えた。
特に想定していなかったのは、発電機用のガソリンを使って例の中国人達が拠点としていたらしき元ソープランドの運営会社のビルを発火させたことである。
自分は火を近づけてはいけない危険な物だと、そう教えたはずだ。
(なのに、どこでそんな知識の使い方を……)
その意識が、宮子の言葉に引き戻された。
「そんな辛気臭い顔しないの!シルフィーモンさんがいないのは残念だけど、私達だけでもお祝いしたいから今から一緒に海行こう!海!!」
「う、海?」
ぱちくりと瞬きする美玖に三人は一様にうんうんうなずいた。
「でも私……仕事を……」
「それはね、せんせいのししょうがやっておくって!」
だから、今日一日くらいはゆっくりこっちで骨休めをしてこい。
それが、探偵アグモンからの伝言。
「師匠……」
「美玖が一生目を覚まさなかったらどうしようって、皆、心配だったんですもの。退院も体調が悪化して遅れたって聞きました」
「あ、あれは……そう、ね」
美玖は思わず苦笑いした。
実は退院までの間にとあるトラブルが美玖の身に起こったのだ。
それが原因で、美玖は命を狙われ、あわやというところでまたあのシルフィーモンによく似た面影の謎多き人型デジモンに助けられたのである。
「ひとまず海へ出よう!ラブラモンちゃんも一緒だよ」
「うん!せんせいといっしょにそとにいけるの、うれしい!」
ーーーー
車で片道三時間。
間近で海を見たのはいつぶりだろうかと、車を出ながら目を細める。
波が砂浜や防波堤に打ち寄せ、音が絶え間なく響く。
「………で」
手に持つは、釣具セットと竿。
宮子に至ってはクーラーボックスを担いでいる。
「………釣りなんだよね」
「ごめん、でも美玖は手術あったから心配だったし、のんびり釣りしながら話したかったからさあ!」
宮子が言いながら手を合わせた。
言われてみれば、抜糸は済んだとはいえ手術痕は残っているのだ。
気にしなくて良いのに、とため息をつくも
「ダメーっ。美玖も女の子ならそういうのちょっとは気にしなきゃ!デジモンに囲まれててそういうの麻痺してるとかじゃないでしょ?」
「それは違うような…」
実のところ、美玖からすれば宮子の言葉の半分は理解できなかった。
元から、仕事柄のため傷を負うことには抵抗はない。
危険な仕事だからと覚悟していた事でもあった。
傷痕が残ろうと、なぜそれがいけないのか美玖は今ひとつ理解できていないのだ。
母親の葉子が聞いたら頭を抱えるだろう。
「泳ぐのは今度にして、いいスポットあるからそこで釣ろう、ね?」
「……わかった、行きましょう」
「ここ、さかながつれるの?」
「うん!仕事先に同じ釣りが趣味の人がいてね、その人に教わったのよ」
話しながら、防波堤へ向かう。
風は少し強めだが、だからこそ釣りに良いと宮子は笑った。
「あまり海が凪いでると釣れないのよねえ。のんびりが目的ならそれでも良いんだけど」
防波堤まで来て、釣具セットの箱を下ろす。
中には釣り糸、ルアーや練り餌といったものがある。
「きれいなさかな!」
「ルアーね、魚に見せかけるように動かすんだよ」
各々が竿をセッティングする。
そうして餌を付けた糸が一斉に投げ込まれた。
ぽちゃり、と波紋が立って静かに消えていく。
そこで、釣りをしながら話が始まった。
「うちの会社、デカいプロジェクトがあったんだけどようやくひと段落ついてホッとしてるの」
「じゃ、結構残業詰めだったんじゃない?」
先手は朝奈のOLトーク。
「それだけじゃないのよー!新人さんの世話と両立してやらなきゃいけなかったし、その新人ときたらいくら噛み砕いて説明してから、あれやってこれやってって言っても聞かないし!」
「それは……大変ね」
釣竿を垂らしながら愚痴を吐く朝奈を三人一同汗を垂らしてなだめる。
「休日出勤まで入って、気づけば七連勤!」
「そ、そんなに…」
「で、美玖が入院したって頃にやっと片付いたんだ。ホッとしたけど、もう二度とやるもんかってなったわ!」
最後は茶化すようにケラケラと笑った。
相当ストレスが溜まってたんだろうなと美玖は思いながらラブラモンの方を向く。
「ラブラモン、退屈だったら近くに浜辺あるから遊んでっていいからね」
「だいじょうぶ!」
そう尻尾を振るラブラモンの背中を宮子が優しく撫でた。
「ラブラモンちゃん良い子だなー。デジモンだから普通の動物と比べちゃいけないのわかってるけど、最近入ってきた子達の面倒が大変でさ」
ペットショップの従業員を務める宮子は、毎日動物に囲まれながら仕事をしている。
「ラブラモンちゃんは自分でおトイレもお散歩も行けるし、ケンカもあんまりしないでしょ?……ダメだ、普通の動物と比べちゃうの、ダメだよね…」
「だーめだね」
「ダメですね」
「ダメよ」
「ダメかあ…」
どんなデジモンとて一定の知能は備わっている。
普通の動物とはどうあっても比べようがない。
「あ、でもデジモンっていえばさ…」
言いながら朝奈が意味深な視線を美玖に投げかけた。
「な、なに?」
「シルフィーモンさんとかそうだけどさあ、人間の見た目したデジモンってイケメン多いよね」
「あっ、思う!」
「確かに、女性型も美人さんが多いですよね」
二人が一斉に食いついた。
「美玖が羨ましいよー。毎回あんなイケメンと一緒に住み込んでてしかも守ってもらったりしてるんでしょ」
「え…それは、その」
「しかもデジモンと結婚できないから、あんまり一緒にいたらそこらへんの男じゃ満足できなくなっちゃうじゃん。……ならない?」
「そんなの考えたことなかったなあ」
苦笑いしながら美玖は困った顔をした。
未だに結婚願望もなければ、デジモン相手に恋愛感情を抱いたことすらない。
そもそも、憧れの存在にそんな感情を抱くのはおかしいのではないかと、そう思ってすらいる。
「そういえば、病院にいた時に知らないデジモンに助けられたんでしょ?どんなデジモンだった!?」
「ええっと、ね……」
美玖が見たままの印象そのままに話すと、朝奈はさらに盛り上がった。
「それ、絶対超絶イケメンなやつじゃん!ヤバいよ美玖ー!危機的状況で助けに来てくれるイケメンとか絶対恋に落ちちゃうやつ!」
「ひとまず朝奈、落ち着こう?」
夏実も苦笑いと共に止めた。
そこで、美玖は話し始める。
「そういえば、さっき、夏実が言ってたことがあったから話そうと思うんだけど…退院が遅れたことに関わりのあること」
「おっ?」
「怖かったの、まさか、あんなことになるとは思わなくて」
…………
それは、美玖が目を覚ましてから二日ほど経った時のことだった。
「五十嵐さーん」
がらり、と病室のドアが空いて女性の看護師が顔を出す。
この時美玖はシルフィーモンが持ってきた報告書に目を通している最中だった。
「五十嵐さん、今日新しい患者さんが入ってくる関係で病室を変えてほしいのですが構いませんか?」
「あ、はい」
急な病室移動である。
美玖も今いる病室に固執する理由もないので、荷物を手に看護師と移動した。
移動先の病室も個室だったが、先程までいた病室と比べてあまりにも異様な空気だった。
壁はじっとりとして、カビ臭さが漂う。
あまりにも清潔感とはかけ離れた病室である。
看護師も申し訳なさげに小声で言った。
「ごめんなさいね、五十嵐さん。私達も担当医と何度も相談はしているのだけど、空いた病室がここくらいしかなくて…もし何かあればすぐにナースコールで連絡をお願いします」
「それは、どういうこと…」
何度も頭を下げながら看護師が退室していくのを、美玖は唖然と見送った。
改めて見回したが…ひどいものだ。
「仕方ないか…」
ため息をつき、ベッドのそばへ来てサイドテーブルに荷物を置く。
ベッドのシーツは綺麗に整えられているが、それでもこの病室の雰囲気はどこか気味が悪い。
サイドテーブルに置いたハンドバッグから携帯電話を出し、ベッドに横になろうとした時だった。
びゅうっ
何かが落ちた。
視界の端で大きなものが落ちていった。
窓の外で、人間のようなものが。
「……!?」
ぞくり、と背筋が粟立った。
今のは、まさか。
慌てて窓を開けて下を覗き込もうとした時だった。
ピィーッ!
「い、痛っ!」
後ろからバサバサという鳥の羽音と共に髪を引っ張られる。
髪を押さえながら頭を戻した時。
今度は先程よりも重量のある物が落ちたのを視界の端に捉えた。
ガシャーン!!
下で何かが落ちる音と、人の騒ぐ声が聞こえる。
ホバリングする金色の鳥を振り返りつつも、もう一度窓から下を覗いてみる。
病院の窓の下は庭になっているが、植木鉢が落ちて砕け散っていた。
だが。
(さっきのは…)
窓を覗く前に落ちてきた影。
あれは、人間そのもののように見えた。
だが、どこを見回しても人間が落ちて横たわった姿はない。
「………、あなたが、私を助けてくれたの?」
なぜ植木鉢が落ちたかわからないが、もし金色の鳥が止めてくれなければ。
そう思い振り返ったが、鳥の姿はどこにもなかった。
ーー
その午後、美玖がトイレのため病室を出るとすぐ隣の病室から出た年配女性の二人組がぎょっとした表情で美玖を見た。
そして、彼女を横目で見ながら、ひそひそと何かを交わしだす。
(何かしら…?)
初対面に対してのあからさまな態度であるため腹立たしくはあったが、病室について何か知っているに違いない。
「すみません」
話しかけると、二人は大仰なリアクションで美玖を見た。
なんというか、挙動不審である。
「な、なにかしら?」
「本日、病室をここへ移動した五十嵐と言います。……この病室、雰囲気といいおかしいものを感じるのですが、何かご存知ですか?」
美玖の言葉に二人組は神妙な顔。
少し若い方が顔をひきつらせながら尋ね返した。
「あなた、病室を移動してきたの?」
「はい。本日新しい患者さんが入るということで、部屋を移動したのですが…この部屋、壁がジトジトしてるし先程上から植木鉢が落ちたし…」
ほら、さっき騒ぎあったじゃない、朝の。
そんな小声でのやりとりを二人は目の前の美玖に構わず交わす。
「この病室について、何かご存知でしょうか?」
「ええと……そうね。五十嵐さん、といったわね?そこはね、…ここじゃ一番曰くのある病室なの」
女性二人が話してくれた内容によると。
これまで入院して滞在した何人かが、謎の不審死を遂げている場所なのだという。
看護師達の間でも知らぬ者はない程で、行くのを嫌がる者も多いそうだ。
ある患者の時は看護師が来た時すでに息絶えていて、その患者の指はずっとナースコールを押していたという。
不可解なことに、発見されるまでその病室からのナースコールは一度も看護室に届いたことはない。
しかし、メンテナンスに呼ばれた技師がナースコールを押した時にはきっちりと作動していたため、皆気味悪がった。
(それで、さっき看護師さんが…)
「それでね、早くあの部屋出た方がいいわよ。でないと、死んじゃうわ」
ーー
(はああ…、退院しなきゃって時に、とんでもない事聞いちゃったな…)
トイレを済ませ個室を出ながら、大きなため息が出た。
女性達の話を聞く限り、本当なのだろう。
でなければ、どうしてあんな事が起きた?
どうして植木鉢が上から落ちた?
偶然か?
手を洗いながらそんな事を考える。
蛇口を捻り、ひと息ついた時耳が小さな声を拾った。
女の、恨めしいような声。
「どうして、あなた、死んでないの?」
「えっ…?」
顔を上げた瞬間、真後ろにこちらを睨む女の顔が肩越しに映った。
「!?」
バッと振り向くが、そこには誰もいなかった。
しかし。
……死んじゃえば、いいのに
さっきと同じ声が聞こえて、汗が伝い落ちた。
初めて見た顔だった。
長い黒髪を垂らし、胸から下が血で染まった女の姿を見るようになったのはそれからだった。
それから度々、美玖は何度も危険な目に遭いそうになった。
ある時には病院食に針が入っていた。
ある時にはベッドの下にマムシや毒グモがいた。
そのたびに美玖を助けてくれたのが、あの金色の鳥だった。
どういう意図でそうしてくれるのかはわからなかったが、一方で美玖の体力は何故か衰えていった。
「脈も血圧も低下している…他は何の異常もないのに…」
担当医はそう言うが、病室の異常性を知っていて押し隠しているようでもあった。
そして、美玖の身体がついに、歩くことすらできなくなったある夜。
(……身体が、重い…怠い…)
胸が息苦しい。
息をするたび、激しく痛む。
金色の鳥がサイドテーブルの上から見下ろしていた。
(……私、やらなきゃいけない事、あるのに…こんな…)
その時、鳥が飛び立った。
(な、に…?)
視界の端にぼんやりと映る影。
病室は電気が着いておらず真っ暗闇だ。
その影はゆっくりと美玖に近づき、衣擦れと何かが這いずるような音が聞こえた。
そこで美玖の目に映ったは、あの女の顔だ。
スルスルと美玖の身体に細長いものが這いずり、強く締め上げてきた。
「あ、あな、っが…ぁ…!?」
「ゆるさない…」
相変わらずも恨めしそうな女の声と共に、細長い何かが首を、手足首を、強く巻きつき締めあげる。
「か、ひゅう、あっ、ぐっ」
暴れようにも身体に力が入らない。
何かはわからないが、相手はおそらくデジモンではなく、怨霊の類なのだろう。
抵抗のろくに利かない身体で、唯一できる事があるならば。
(お願い…誰か、来て。私は…私は、まだ、生きていたい…!)
祈ることだった。
その時、美玖の胸元が熱く感じたかと思うと。
かすかな、風を切る音が聞こえた。
ヒュウッ
「ぐうっ!?」
女の身体に光る矢のようなものが突き刺さる。
ーーーそこまでだ。己の死を認めきれず、幽世を揺蕩いながら生者に手をかける者よ。
白く輝く姿があった。
それは、間違いなく、暗黒の海から自身を助け出してくれたデジモンだった。
その手には、背中に負ったクロスボウが握られている。
「ゆるさ、ない…私は…死んでなんか…」
ーーー諦めよ。既に定めを貴方は振り捨てた。これ以上の業を犯すというのであれば、力づくで送り返すしかない。
「邪魔を……するなぁ!」
女の声がドス低くなった。
まるで蔦地獄のように病室全体を覆うもの。
それは、長い長い黒い髪の毛だった。
触手のようにスルスルと動き、それは白い人型デジモンをも覆い尽くそうと襲いかかってきた。
これに対し、デジモンは平常を保ちクロスボウを背中へ戻すと左腰に付けた剣の柄を握った。
ーー抜剣。
ーーーやむを得まい。…『フェンリルソード』!!
それは、一振りで敵の生命活動を止める氷の魔剣。
たちまち黒髪は切り刻まれ、その中心にいた女を刃が切り裂く。
「いやぁぁぁぁああああああああ!!」
女の口から悲鳴が迸る。
斬られた傷から光が溢れ、霊体はたちどころに霧散した。
美玖を緊縛していた髪の毛から力が失われた。
「こほっ、こほ…!」
前にも、こんな事あったな。
そう思いながら咳をし、肺に酸素を送って意識が暗くなる。
「ありが……と……」
視界のなかの輝かしい姿が朧げになり、そこで意識が途絶えた。
…………
「目を覚ました時には、他の人と一緒の病室に寝かされていて、看護師さんが心配そうに見ていたの。聞いたら、部屋一面凍りついた霜と切られた髪の毛だらけで、私はベッドの上で気を失ってたって…」
「ちょっと、…それめちゃくちゃホラーじゃん…!」
「美玖、それ普通に怖い話特集に応募できるレベルだわ。よく無事だったよね!?」
「…応募できる話かはどうかわかりませんが、本当に無事で良かった」
その日から偶然空きができた複数人対応の病室に美玖は移され、事情を知った周りの患者達からは慰めと安堵の声をかけられた。
それ以降、あの病室で二度と異常のある出来事も不審死も起こらなくなったそうだ。
それだけでなく、美玖自身の体調も、驚くほどの回復を見せたという。
「退院できて安心よ」
二度とあんな目に遭うのもごめんだとつぶやいた時。
宮子の釣竿に反応が出た。
「あっ!宮子、なんかかかったよ!」
「ほんとだ。しかも良い引きだ、これえ!」
糸を切られないよう、動きを気をつけながらリールを巻いていく。
流石は実家が漁師で、釣りが趣味とだけあり手慣れている。
他の三人と一体が見守るなか、宮子はついに獲物を釣り上げた。
「こ、これって……」
釣り上げられて悶えるそれを、急いで手持ちの綱で掬いあげた。
八本の足を窮屈げに動かすそれは、紛れもないタコだった。
「せ、せんせい、これなに?」
「タコだ!私、生きてるの初めて見た」
「ラブラモンちゃん、タコは初めてかあ、かわいい!でもタコって釣り糸で釣れるのね。蛸壺で捕まえるのかと思ってた」
朝奈の言葉に宮子はどこか複雑げな顔で返す。
「釣れなくはない、よ?確かに普通はタコ漁をするなら専用の道具が必要よ。釣り糸でもいけなくもないんだけど…」
「だけど?」
その手が悔しげに握られているのに美玖は気づく。
「運で釣れるってのは……その……釣り人としてのプライドが……」
「……あ、あはは」
「宮子らしー!」
そこで、タコを見ていた朝奈が思いついたように提案した。
「そうだ!このタコ使って今夜は美玖の探偵所でタコパしない?」
「お、いいね!」
「うちにたこ焼き用のやつが付いたホットプレートあるんだ。持ってくるよ」
ーー
釣果は決して多くはなかったが順調だった。
取り止めのない話をしながら少しずつ雑魚が釣り上がる。
「そこそこに釣れたんじゃない?」
「そうね!じゃあ、夕方になってきたし、美玖のが釣れたら一度朝奈んとこ行こ」
まもなく、美玖の釣竿に何かがかかった。
「おっ、早速」
「待って、これ結構重い!」
「てことは大物かな?」
それにしては、全く抵抗がない。
不審に思いながら、美玖は針にかかったものを釣り上げた。
「………え?」
「なに、これ?」
それは、見るからに古そうな小ぶりの壺だった。
長い間海の中にあったのか、フジツボがこびりついている。
だが、その壺を異様なモノにさせたのは、幾重にも封をするように貼られた札のようなものだった。
「な、何コレ?」
「ねぇ、さっき怖い話した後でこれヤバいって!なんか変な札みたいなの貼ってあるし」
「そ、そうだね…一旦海に…」
その時だ、重さに耐えかねてか、糸がぶつりと切れたのは。
ガシャン!!
割れる音に全員が青ざめた。
慌てて下を見るがかろうじて見つかった壺の破片と思しきもの以外は何も見つからない。
「んもー、やだ!怖い!!」
「さっきの、マズかったりする?」
「わ、わからない…」
数分間、沈黙。
やがて、ラブラモン以外の全員が、ひきつった笑いをあげた。
「あ、あはははは!」
「よし!見なかったことにしよう!!」
「うん、うん、撤収だ!!」
急ぎ片付けを始めた四人を見ながら、ラブラモンは壺が落ちた方へ横目を向ける。
(………嫌なモノが、入っていた。今の私じゃ…あれは追い払えない……)
ーーー
途中、朝奈の家へ寄り、ホットプレートを携えて探偵所に戻った頃にはすでに18時を過ぎていた。
「グルルモンは……まだ、戻ってないか」
探偵アグモンと引き受けた依頼へ赴いているためガレージはもぬけのからだ。
シルフィーモンもまだ戻ってきていない。
「私達で先に準備しましょ!」
「そうね」
中に入り、台所へ行くと和気藹々と話しながら準備をする。
クーラーボックスからタコを取り出し、宮子が解体する脇で夏実が具材を切っている。
「ソースと青のりとおかかあるー?」
「あったはず。ラブラモン、そこの棚ちょっと見てもらって良い?」
「うん。……あったよー!」
「でかした!!」
ホットプレートにたこ焼き器をセッティング、いつでも焼けるように油と回すための串をスタンバイ。
「ついでだからなんか飲み物も用意する?せっかくのパーティーだし」
「ラブラモン用のジュースがあるけど、もう量はないかも!」
「じゃあ、私が買いに行くよ。近くにコンビニあったよね?」
朝奈が探偵所から近場にあるコンビニに向かったところで、たこ焼きの具材とタネを混ぜながら宮子が言った。
「美玖、せっかくだからお風呂入ってきたら?今日退院帰りだったし、釣りに連れ回しちゃったから疲れちゃったと思うし」
「だ、大丈夫よ」
なんだか、世話をかけさせちゃうなと苦笑いした。
じゃあ…と夏実。
「恋バナでもしませんか?」
「恋バナ?」
「美玖の」
「わ、私!?」
突然予想外の話題に振られて美玖は驚く。
「お、珍しく夏実がそういう話題を、それも美玖に振るなんてね」
「ま、待って、私そういうのは本当に縁がないって!」
「でも、一人くらいは良いっていう人いるかも」
「少なくとも、人間ではいないから!」
「「人間"では"」」
宮子と夏実の声がハモった。
「つまり、デジモン"なら"いい人いるってことね!言質取ったわ!!」
「となると、やっぱりお相手はシルフィーモンさん……」
「ち、違うって」
美玖は困った顔になりつつ、ホットプレートにひくための油を開けた。
「言うのも……なんだけど、シルフィーモンって会ったばかりの頃は結構冷たかったのよ。最近は丸くなったなって思ってるけど、それでもたまに距離感わからなくなるし…」
「知ってるのよ?」
「え?」
なにやらニヤニヤ顔で宮子が見つめる。
困惑する美玖に顔を近づけて言った。
「聞いちゃったのよ」
「何を?」
「デートしてたって話!」
「……はっ!?」
囮捜査の件だとわかるや美玖の顔が真っ赤になり、蒸気が噴出さんばかりに熱くなる。
「おっと、図星かあ!?」
「デート行ってたんですか?初耳です」
「ち、違っ…あ、あれは囮捜査でって何で知ってるの宮子!?」
「え、だって…」
がちゃり、とドアが開く音。
朝奈が戻ってきたのだ。
「いっぱい買ってきたよー!て、なんか盛り上がってるね!」
「ねえ、朝奈!結構前に、美玖がシルフィーモンさんらしき人とデートしてたって言ってたよね。あれいつだっけ?」
「朝奈!?」
美玖が眼球をひっくり返さん勢いで振り向く。
「あ、うん、だいぶ前の縁日あった日ねー。確か公園で変な爆発事件があったって噂になってた頃」
「そんな事あったんですね」
「で、遊びに行ったのよ。休みだったしさ。そしたらー」
宮子と同じくニヤニヤしながら、携帯電話を操作する朝奈。
イヤーな予感を覚える。
「まさか…」
「はい、これ」
朝奈が見せた画面。
そこには、確かにあの日の髪型と服装の美玖と、偽装(クローク)コマンドで人間の姿になったシルフィーモンが写っていた。
「なーっ!?」
「シルフィーモンさん、人間っぽく変装もできるんだね!びっくりしたよ」
「てか、美玖の格好可愛いじゃん!しっかりおめかししてデートかー!!くーっ、羨ましいぜ!」
恥ずかしさやら何やらでわなわなと震えだす美玖。
ラブラモンが顔を覗き込んだ。
「……せんせい、ゆでだこになっちゃってる、だいじょうぶ?」
「大丈夫じゃなーい!!だからそれ、デートじゃなくて爆発事件での囮捜査のためで……」
ドンドンドン
美玖のテンパりが頂点に達しかけた時、ドアをノックする音が聞こえた。
四人が顔を見合わせ、ラブラモンは何を察したか唸り出す。
「誰かしら?」
「シルフィーモン……でも、師匠でもないわね。ちょっと行ってくる」
美玖が玄関へと向かう。
ドンドンドン
ドンドンドンドン!
叩く音は美玖が近づくとより激しく聞こえた。
「すみません、本日は業務終了時間でして、またのお越しをお願いします」
ドンドンドン!
音はより激しくなる。
訝しく思った美玖がモニターをチェックすると、そこには赤い体色をした人影のようなものが立っていた。
全長2mほど、ぬめりを帯びた体表にはぶつぶつとしたモノが浮かび上がっている。
(デジモン……?いや、これって…)
嫌な予感がする。
目の前にいるモノに感じる違和感。
それは、暗黒の海にいたあの半魚人のようなモノに近い。
でも、まさか?
そこで、美玖は夕方の、あの妙な札で封がされた壺を思い出した。
(……まさか!?)
ドンドンドンドン!!
ドアを叩く音はより一層強くなった。
軋み、悲鳴をあげるドア。
そこへ、宮子達が来た。
「美玖ー、大丈夫?」
「困ったお客さんでも来たの?」
美玖がどうしたものかと振り向きかけたところで、夏実が悲鳴をあげた。
「どうしたの?」
「み、美玖……上!」
「え?…きゃあっ!?」
見てみれば。
鴨居に当たる部分よりもさらに上。
ガラス張りになった所から、のっぺりとしたひょっとこのような顔がギョロリとした目でこちらを見ていた。
「うううううぅぅぅうううぅぅう……」
腹に響くような低く重い唸り声が不気味に響く。
よくモニターを見れば、ドアの前に立っているものから長く伸びている部位がある。
……首だ。
それを見た宮子達が悲鳴をあげた。
「きゃあああああっ!!」
ドンドンドンドンドンドン!!
より一層激しくドアが叩かれる。
ラブラモンが鋭い目になって言った。
「せんせい、どあはぜったいにあけちゃだめ!みんな、だいどころまでいこう!」
「わ、わかった!」
いつにない剣呑な表情。
ドンドンドンドンドンドン!
ドアが激しく軋んで歪み、今にも吹き飛びそうになった。
ミシミシと金具で接合された部分が嫌な音をたてる。
「夏実、早く!」
「ま、待ってください…!」
台所へ駆け込み、電気を消して息を潜める。
((どうしよう))
激しい物音に血の気の失せた顔を見合わせた。
美玖が携帯電話を出す。
シルフィーモンの端末へ真っ先にメールを送信した。
(お願い、早く戻ってきて…!)
同じ内容のメールを探偵アグモンの端末にも転送。
暗いなか、ラブラモンの目が獰猛な光を帯びるのが見えた。
(シルフィーモンと師匠にメールを送った。戻ってきてくれるといいんだけど…)
(でもあの化け物ドア破ったりしてこないよね?さっきからひっきりなしに叩いてるけど…!)
(見た目はグロいけど実はいい人だったりとかしてーー)
(だめ、あれはいやなやつ!きけんじゃないけど、あれはにんげんにとってとってもいやなやつだよ)
朝奈の言葉にラブラモンが強く否定した。
(ラブラモン、あれが何かわかるの?)
(たぶん、あれはでじたるわーるどのねっとのうみからきたのが、かなりむかしのじだいのにんげんにふういんされたもの。ねっとごーすと、っていうやつ。ほんとうのわたしならあれはかんたんにどうにかできるけど、いまはむり)
(じゃ、じゃあどうするの!?)
顔を真っ青に聞く宮子。
(あれはたんさいぼうみたいなものだから、"いーたー"とくらべたらすごくたんじゅん。いないとおもったらどっかへいくから、このまままってるのがいちばん。あいつ…せんせいをねらってるし)
(私を……私が、あの壺を落としたから?)
ーーー
ドアが叩かれてから30分以上経過。
辺りは静かになった。
「……もうだいじょうぶ、けはいをけしてるけど、あいつははんぶんゆうれいみたいなものだからせんせいのすがたがわからないうちはどうすることもできない」
「よ、良かったあ…」
どんどんどんどん!!
「ひゃあっ!?!?」
間近で聞こえた音に全員が跳び上がった。
「誰かいるか?開けてくれ!」
声のする方を向くと、すぐそばの窓の向こうで拳を軽く窓ガラスに当てるように叩く姿がある。
シルフィーモンだ。
「し、シルフィーモン!」
美玖が窓を開けるとシルフィーモンは中へ入ってきた。
「よ、良かったあああー!!」
「美玖からメールを受け取ったが一体何があった?ドアが酷く損傷している。あれは、修理屋を呼ぶしかない」
シルフィーモンがメールの内容に嫌な予感を覚えて急ぎ戻ってきた時。
玄関周りに潮の臭いの混じった悪臭が漂い、ドアには無数の引っ掻き傷と強い力で叩きつけた痕跡があった。
ドアは歪んでしまい、とても開けられたものではない。
ドアやその手前の地面は、べっとりと粘液のようなもので濡れていた。
美玖達が事情を説明すると、シルフィーモンは嫌そうな顔をした。
「ネットゴースト、デジタルワールドのネットの海でできたバグの漂流物か。よりによって面倒なものが来たな」
「ごめん!私達じゃどうしようもなくて、シルフィーモンさん、あいつがもしまた来たらなんとかしてー!!」
「それは別に構わないが…いくらなんでも狙われすぎだろう」
ため息をつきながら、シルフィーモンは部屋の電気をつけた。
「それより、今夜はどうする?君達は探偵所で泊まるかい?夕食なら作ってやるが…」
「あ」
シルフィーモンの言葉を受けて思い出した一同。
「そうだよ、タコパ!!タコパの準備してるとこだった!」
「た、タコパ?」
ーーーー
「な、なるほど、たこ焼き…」
目の前で焼かれてひっくり返されるたこ焼きを前に、シルフィーモンはつぶやいた。
「あれ、シルフィーモンさんってたこ焼き食べたことは?」
「ある。以前に美玖から貰ったことがあってな」
「ああー、デートの時ですよね?もっと教えて貰っていいですか!?」
「ああ。………て、ちょっと待った。デートって何の話だ?」
言いながら宮子の方を向きかけたシルフィーモンは、視界の端に丸いものを見た。
ホカホカとした、ソースと青のりにおかかが踊るそれを反射的に開けた口で受け止める。
「…むぐ、もぐ、もぐ…」
「おっ、美玖手ずからとか!」
「それはいいから…美味しい?」
「……んぐ、……美味しいが、熱いよ」
それを皮切りに、四人と二体は、焼き上がったたこ焼きを美味しく食べていく。
宮子が釣り上げたタコは中々に立派なものだったが、肉質も厚く弾力があり、噛めば噛むほどに味わいがあった。
「宮子が釣ったこのタコ、肉厚で美味しい!」
「あふあふ、あふ」
「ラブラモン、一気に頬張ると熱いわよ」
タコパを楽しんでいると、窓の方から今度は小さく音がした。
コンコン、コン
コンコンコン
「…?今度はなんだろう」
「待て、私が見に行く」
立ち上がりかけた美玖を制し、シルフィーモンが窓へと近づく。
そこでシルフィーモンが見たのは、金色の鳥だった。
「…何かいたの?」
「美玖、来てくれ」
美玖が歩き寄ると、シルフィーモンはガラス越しで羽繕いをする金色の鳥に目配せした。
「美玖、君が言っていた鳥ってこれのことか?」
「え……あっ」
ピピピッ
鳥は美玖に気づくと、ガラスを嘴で二、三度、コンコンとつついた。
「待って、開けるから…」
ピピッ
窓が開けられると、鳥は美玖に向かって飛んできた。
「う、わっ?!」
肩の上に停まられて美玖が驚いた。
その声に宮子達は振り向く。
「どうしたのー…って、鳥!?」
「わー、何その鳥!ペット?」
「綺麗な鳥ですけど…見たことない」
美玖が慎重に鳥を肩に乗せたままテーブルにつくと、皆物珍しげに鳥を見た。
「宮子、この鳥何かわかる?」
「わかんない…店長に聞いてもわかるかなぁ…」
「美玖に懐いてるみたいですね、その鳥さん」
キャアキャアわいわいと言いながら鳥を眺め、撫でようとしてみるが鳥は素早く美玖の肩の上を跳ねて位置を移動する。
「それは…おそらくデジタルワールドに住む鳥だろうな」
「へえー!デジモンの世界にも普通の鳥いるんだ!」
「鳥だけじゃない、魚なんかもいるぞ。大抵は食料になるんだが…こいつは、私も見たことがないな…」
「ふれいあ」
「ん?」
四人とシルフィーモンがラブラモンを見る。
ラブラモンは、鳥を見据えながらもう一度答えた。
「そのとり、なまえはふれいあっていうの」
「ふれ…フレイア?」
「へー、ラブラモンちゃん、物知りい!」
夏実が思い出したように言った。
「フレイアといえば、北欧神話に出てくる愛と美の女神の名前でしたね」
「え、ヴィーナス的な感じの女神さま?いい名前だねえー!」
「じゃあ、女の子かフレイアちゃん!見た目は綺麗で、結構お利口そうなの良いなぁ」
「おりこう……そうかも、しれない」
そうつぶやくラブラモンの表情には、何か思わしげなものが浮かんでいた。
(ラブラモン…、アヌビモンは、この鳥とあのデジモンのことを知ってる?)
そう美玖は思いつつも、ある事を思いついた。
立ち上がると、棚へと向かう。
鳥、フレイアも肩に乗ったままだ。
「美玖ー、どうしたの?」
取り出したのは透明なプラスチックの包装パックにメモ帳とボールペン。
戻ってくると、シルフィーモンが聞いた。
「美玖、それをどうするんだ?」
「お礼したいからたこ焼き少し包むね」
焼き上がったたこ焼きを六個、パックに入れる。
それから、メモ帳から一枚ページを取って書き始めた。
内容は、暗黒の海と病院、そのどちらでも助けて貰ったお礼の気持ち。
たこ焼きを送る旨。
そして、最後に自身の名前。
それを日本語とデジモン文字両方で書きつけた。
「あなたの飼い主のデジモンに、これを届けてくれないかな…?」
美玖が手拭いに包んだそれをフレイアに見せる。
ピィーッ!
フレイアはひと鳴きすると、包みを両脚で掴み上げた。
「ほんとに持ってってくれるんだ!?」
がらり、と窓を開けると、たちまち金色のシルエットが暗闇に消えた。
…………
美玖達がタコパに夢中になっていた最中。
再び、不気味な赤い化け物は探偵所へと近づいていた。
べしゃり、べしゃり。
焦点の定まらない目をギョロつかせ、再びドアへその両腕が伸ばされた。
ーーー随分とあの娘には客人が多いな。
一閃。
ドアへ伸ばされた両腕が切断し、宙を舞った。
「ぬぅぅうううぼぼぼぼっぼっぼ…」
ーーーここはお前のいるべき場所ではない。
そう告げたそれは死の宣告そのものであり。
剣を手にツカツカと歩み寄るその姿を、ネットの海を揺蕩って現実世界の海に彷徨い出た異形はどのように捉えたのか。
再び、一閃。
凍気を纏うものではない斬撃を受けて、それは断末魔をあげることなく足から煙をあげて萎びていった。
ピィーッ!
脂を拭い鞘に剣を収めたところへ愛鳥が戻った。
愛鳥が止まれるようにと腕を差し伸ばしかけて、デジモンは愛鳥の脚に掴まれた包みに気がつく。
ーーーフレイア、それは?
包みを片手に受け取り、愛鳥を肩に止まらせる。
一体何かと包みを見ると、食欲をそそる香りが漂った。
ーーーこれは…人間の、食べ物か。
挟んであるメモに目がいった。
メモを取り出すと、そこに書かれた文面を読み始めた。
唇に笑みが浮かぶ。
ーーーふ、礼に及ばない。近いうちに話ができたらそうしよう。……美玖、よ。
さて、問題は包みの中の本命だ。
受肉は早くも解けてしまったため、直接口にすることは叶わない。
が。
ーーーどうにか、できなくはないな。
人間の作った気持ちを食事の形で摂取することで、どうにか料理の味を把握することができる。
ーーーほう、これは中々。
ピイッ
冷え冷えとした夜中、一見手付かずのたこ焼きが入ったパックは探偵所の窓の前に置かれるのだった。
ーーー
翌朝。
三人が帰った後の静けさを味わいながら美玖は起きた。
昨夜はあれこれ聞かれて大変だったものの、化け物が来たのはあの時だけ。
きっと。
(あのデジモンが…)
ふと、窓を見ると昨晩あの鳥、フレイアに届けて貰ったはずの包みが置いてあった。
慌てて窓を開け、包みを回収する。
「たこ焼き、好きじゃなかったのかしら…」
だがメモは抜かれていた。
それに安堵しつつ、ひとまずパックを開ける。
もったいないので、朝ごはんがわりに。
そう思いながらたこ焼きを一つ口にして、美玖は固まった。
「おはよう、美玖」
「し、シルフィーモン!」
「…どうした?」
美玖が冷めたたこ焼きを一つ、シルフィーモンに食べるよう勧めた。
「それは…」
「昨日、私が言ったデジモンの所へ届けて貰ったはずのたこ焼きが戻ってきたんですが…味が、味がなくなってるんです!」
中の具材だけでない、ソースも青のりもおかかも。
風味を失い、ただの味のない粉物と化している。
「ああ、なら心配いらない。食べて貰って良かったな、美玖」
「えっ?」
美玖は目を瞬かせた。
シルフィーモンは続ける。
「グルルモンの事で話したことは覚えているか?」
「ええと…食べ物を食べることで作った人間の気持ちを養分にするっていう話でしたよね?」
「食べ物を直接摂取しなくても、その食べ物を作った人間の気持ちを摂食するすべはあるんだ」
ただし。
「それは、なんらかの事情で肉体を失ったデジモンに限られる」
「肉体を…?」
「たまにある事だが、生命を失うのとは違う。魂だけがそこにある感じだな」
「……?」
「ともあれ、たこ焼きを受け取ってもらえて良かったな。しかし…そのデジモン、一体何者なのか」
朝食にと台所へ向かおうとして。
美玖はラブラモンの姿がないことに気づいた。
ーーーー
さて、と。
浅い眠りから覚めたデジモンは、肩の愛鳥を撫でつつ立ち上がる。
まずは今の人間世界とデジタルワールド双方の現状の把握と、あの娘についての視察だ。
視察そのものはフレイアがいるので不可能ではない。
彼女はどうやらフレイアにも自身にも好意的だ。
問題は、緊急時でもない時にどう彼女と接触の機会を得るか。
そう考えていた時である。
カチャカチャという音と共に、自分に近づいてきたそれは話しかけてきた。
「数千年。途中から人間世界と同じ時間軸の速度になったとはいえ、またしてもお前の姿を見ることになるとは」
その言葉に振り向く。
そこにいたのはラブラモン。
その口調は、いつもの幼い声とは違い非常に大人びた…否、厳格で冷静な口調だった。
対するデジモンの唇に笑みが浮かぶ。
最後に会って数十年経つ顔馴染みに再会した時のような。
ーーー久方ぶりだな。姿が変わったが…先代、というわけではなさそうだ。
「事情があって、デジタマに還元する能力を私自身に使っただけだ。まだ次代を生む時ではない」
それより、とラブラモンの前足が片方前へ踏み入った。
「聞かせてもらおうか。どうやって永久の暗黒から出たのか。先生…五十嵐美玖に接触した意図を。ヴァルキリモンよ」