いつからか、テレビで見るような怪物なんて、現実にも珍しいものではなくなった。
基本的にほぼ毎日、世界上に怪物と呼べる存在は観測され、それは基本的に現れたその日の内に街の中を好き放題暴れまわり、そうして最後には霧のようにその姿を消すばかりだ。
結果として、幾度となく現れる怪物に対抗するため、自衛隊や警察といった民衆を守るための組織、それの扱う『手段』もまた強く頼れるものになっていった。
そして、ある頃から――怪物の存在は、一部の民衆の間である種の娯楽となっていた。
少なくとも、対岸の火事としてテレビやパソコンの画面越しに見る分には、怪物が街中を暴れまわる様は、特撮のそれとは比較にもならない迫力を有した退屈とは無縁の世界を見ることが出来る機会に他ならない。
なまじ、自衛隊などの組織の努力によって人死にが滅多に起こっていない事実もまた、そうした風潮を加速させてしまっているのかもしれなかった。
しかし、そうした『慣れ』が根付いている一方で、誰も知らない事が一つある。
そもそも怪物は何処からやって来ているのか。
何処で、どのようにして生まれ、何のために街で暴れまわっているのか。
怪物達は多種多用な姿でもって現れているが、基本的にそれ等が街中以外で確認された事は無い。
街の中で現れるという事は、街の中に原因があるはずだ。
しかしそれはいったい何なのか。
真相は、誰もが考えているより近くに存在しているのかもしれなかった。
例えばそれは、街中にひっそり建てられた小道具屋やトレーニングジム、あるいはスイーツ店だったり。
そして、とある会社のいち会社員の手の中にあるものだったり。
「……はぁ……」
時は深夜帯。
この日、その会社員――|藍川徳《あいかわのぼる》は疲れきった目で夜空を眺めていた。
彼の勤めている会社は、世間で言うところのブラック企業だった。
|無給《サービス》残業は当たり前、給料は法で定められた最低ラインの限界ギリギリ、何より業務を遂行した社員を労おうともせず疲れを吐露する言葉に対しては「根性が足りん」の一言。
率直に言って、最初からこんな会社だと知っていたら、彼は入社しようなんて考えなかった。
だが、現実に彼はこの会社の会社員として勤める事を選んでしまい、だからこうして疲れた顔をする羽目になっている。
退職する、という選択肢が頭の中にありこそすれど、なかなか決断に踏み切ることも出来ないまま時間と疲ればかりが蓄積して。
今日もまた、上司の指示によって一人残業する羽目になってしまっていた。
もう外には暗闇しか見えず、間違い無く終電だって過ぎている。
今日はもう、会社内にあるソファでも借りて寝付く以外に無いだろう。
だが、まだ上司に押し付けられた作業は残っている。
本音を言えば放り投げてしまいたいが、そうしたら上司からどんな嫌味を叩きつけられるか解ったものではない。
そう思うと、眠ってしまうのも怖くなった。
叩きつけられる言葉が耳を貸す意味も気にする必要の無いものだと解っていても、怖くなった。
あるいは、そんな臆病を見透かされたからこそ、彼は社内でスケープゴート扱いされていたのかもしれない。
でもって。
現在、彼は会社の屋上で夜空を眺めていた。
まだ押し付けられた業務は完遂出来ていないが、デスクワークを続けている内に眠気が強くなってきて、夜風に当たらないとすぐにでも眠ってしまいそうだったため、此処に来たのだ。
その右手は会社のすぐ近くにあった自販機で事前に購入しておいた、エナジードリンクの缶を掴んでいる。
ラベルは澄み切った青色で、大きな文字で『D』と書かれたものだった。
(…………)
彼の耳を、羽音が叩く。
闇に紛れてろくに見えないが、こんな深夜でも空を舞う鳥はいるらしい。
(……いいなぁ……)
咄嗟に、そう思った。
地べたで社会に縛られた自分と比べ、鳥たちは籠の中に入れられない限りどこまでも自由だ。
あんな風に飛んでいけたら、誰の手にも捕らえられることの無い場所で自由に生きることが出来たのなら――と、そう思わずにはいられなかった。
だが、現実が変わることは無い。
自分は人間として生まれたのだから、人間の社会の中で限られた自由を謳歌するしか無い、と。
そう思うしかなかった。
嫌に憂鬱な気分になった気分を吹き飛ばそうとするように、彼はおもむろに右手に持ったエナジードリンク缶の蓋を開ける。
炭酸飲料特有のシュワシュワ音が鳴り止まぬ内に、いやむしろその音ごと飲み込もうとするように、彼はエナジードリンクを自らの喉に注ぎ込む。
口の中をバチバチと静電気に当たったような刺激が伝わっていき、体を蝕む疲れを忘れさせようとする。
それだけのはずだった。
それが普通のエナジードリンクであれば、それだけで済む話だった。
だが、現実にそうはならなかった。
「――――」
缶の中身を空にした途端、意識が急激にまどろむ。
眠気を吹き飛ばすために飲み込んだ物のはずが、逆に眠気を呼び覚ましている――最初は飲んだ当人たる藍川自身、最初はそう思った。
だが、そんな思考も何処かふわふわとした感覚と共に曖昧になり、彼はふらふらと後方によろめきながら――ビルの屋上で仰向けに倒れた。
その体からバチバチと電気のような何かが漏れ出たかと思えば、彼の輪郭がノイズのような何かに覆われると共に歪み出していく。
彼は自分自身の変化に気付かない。
その頭の中を埋め尽くすのはただただ爽快感、気持ち良さだけだ。
全身が無数の泡にでもなったように軽く感じられる。
実際に彼の体は人の形を取っただけの無数のノイズと化し、他の誰の目も無い屋上で、どんどんその規模を増していく。
そうしてやがて、人間だった無数のノイズは肥大化しながら、やがて一つの形へと整えられていく。
まず最初に形を成したのは胴体だった。
見えるのは発達した胸筋と、それを覆う漆黒の炎帯びし羽毛。
二つ目に形を成したのは、両腕とも呼ぶべき部位。
身の丈ほどはあろう規模の、胴体と同じく漆黒の炎翼。
三つ目に形を成したのは、下半身だった。
鱗に覆われた強靭な鉤爪に、尻尾のような一本の尾羽。
最後に形を成したのは、頭部だった。
先端に牙を有した歪な嘴、角のように長く伸びた飾り羽。
漆黒に燃える、牙持つ巨鳥――そうとしか呼べない姿に、人間一人が成り果てた。
そんな現象の引き金を、誰もが困った時には手を伸ばすものが引いた事実を、いったい誰が信じられるだろうか。
あるいは、信じられないからこそ、こんな現象がいつまでもいつまでも起き続けているのかもしれなかった。
巨鳥の目が開く。
その色は黄色く、瞳孔は縦に細い獣のそれになっていた。
仰向けに倒れた姿勢からどうにか起き上がり、巨鳥は引き寄せられるように夜空に煌めく月を見る。
――綺麗だ。
一歩一歩進み、あっという間に屋上の端の柵を右の鍵爪が掴む。
もう片方の鍵爪もまた柵を鷲掴みにし、殆ど直立の姿勢になった巨鳥は両翼を広げ、
――風が気持ちいい。
一息に飛翔した。
その体が夜の闇へと溶け込むと、やがて見えなくなる。
彼の姿を見る事が出来たのは、月と彼の同類のみ。
後日、行方不明者として一人の人間の名前が加えられることになったが、その事件と屋上に捨て置かれたエナジードリンクの缶が紐付けられることは無かった。