◇
階段を五分ほど降りた先にある薄暗い部屋。
「はぁ……本当、埃っぽくて嫌になっちゃうわね。珠のお肌が荒れちゃうわ」
そんなことを言う龍崎時雨(りゅうざき しぐれ)の姿がそこにはある。
今年で26歳になる彼女は、ちょうど女として最も脂が乗った時期。特徴的な長い髪を揺らしながらその部屋を目指して歩いている。学生時代に二年間、その流れで母校に就職してから四年間、地下でグォングォンと不気味な唸り声を上げている多くの機械は未だに用途や正体が良くわからない。そんな機械達の影響か、まだ春になったばかりだというのに地下は恐ろしいぐらいに暑苦しく、額に浮かぶ汗を拭いながら先を急ぐ時雨だった。
ここは偏差値だけを見ればそれなりに高い都内の某有名大学、その旧校舎の地下である。数年前に卒業した時雨はそのままこの大学で職員として働いているのだが、かつてはゼミ生として週に何度か通っていたことが信じられないぐらいに、この場所には相変わらず慣れない。少なくともゼミの教授、つまり時雨にとって過去の恩師に呼び出さなければもう二度と来たくないと思えるような、そんな場所であることは間違いない。
キャンパスの中では心霊スポットとして知られた場所だから無理も無かろう。日の光が一切届かないこの部屋は、校舎が木造ということもあり年がら年中ジメジメしている印象がある。
「教授~! 来たわよ~!」
「龍崎か。……入れ」
ノックもせずに呼び掛けると相変わらず無愛想な恩師、玉川白夜の声が聞こえる。だから時雨は何ら躊躇わずに扉を開いて部屋の中へ体を滑り込ませた。
「よう時雨。随分と遅かったじゃねェの」
「……何よ香、アンタもいたわけ?」
時雨が部屋に入ると同時に、一人の男が声を掛けてくる。
顔立ちは整っているが、年甲斐も無く逆立てた前髪や着崩したスーツなど時雨と同じ年代だということを考えると幾分かガキっぽい印象が拭えないこの男の名前は車田香(くるまだ かおる)。大学を卒業した今ではゲーム会社で働いているのだが、如何に電子情報系のゼミに所属していたとはいえ、外見に違わず中身もガキ大将の如く喧しく単純で、何よりも学力の面においても稀代の馬鹿として有名だった彼にゲームのプログラマーなど務まるのかというのが同期メンバーの専らの見識である。
だが同期の中で最初に結婚したのもまた彼だ。しかも相手は時雨の妹分というのだから恐れ入る。
「ま、久し振り。……最近会ってないけど、将美は元気?」
「元気も元気さ、毎日『カヲル君~♪』って甘えてきて参るぜ。はっは!」
「……あっそ」
聞いた自分が馬鹿だった。26歳独身女に惚気話をするとは、こいつは相変わらずいい度胸だ。田舎の両親からは一週間に一度は早く結婚しろだの見合いを手配してやろうかだの余計な世話を焼かれる時雨だったが、別に自分とて当てが無いわけでは無いのだ。自分が束縛を嫌う天下の自由人である龍崎時雨だからこそ、大学に入ってからだから八年近くの付き合いがある彼とも未だにゴールインできていない、それだけのことでしかない。
尤も、それは彼の方が煮え切らないからという理由もあるのかもしれない、時雨がそんなことを考えていると。
「小金井は良くやっている。九条代表も褒めていた」
いつの間に部屋に入ってきたのか、懐かしく無愛想な顔がそこにある。
「げっ! 武藤竜馬!?」
思わず奇声を上げたのは香だった。時雨や香と同じく彼もまた同じ玉川ゼミの卒業、しかし年齢の割に随分と落ち着いたところのある竜馬を性格的に真逆な香は敬遠していた。とはいえ、竜馬の方もまた精神的に幼稚な香のことを露骨に子供扱いしていたような節があるから、結局のところどっちもどっちである。最近では大物政治家の秘書だかガードマンだか、そんな良くわからない仕事をしているようだが、詳しいことを時雨は知らない。というより、同期の集まりで顔を合わせても本人がそれ以上を語らないのだから仕方ない。
「久し振りだな、龍崎。それと……それと」
「車田だっての! 三年も同じゼミにいた奴を忘れんなよ!」
「……すまん。一瞬小学生がいるのかと思ってな、頭が混乱したのだ」
「テメエーっ!?」
竜馬が挑発し、香が突っ掛かる。こんな光景は日常茶飯事だった。
だからこそ、久し振りに同期で集まると大学時代に戻った気分になる。それが微笑ましい。別に今の仕事や生活に文句があるというわけではないし、あの頃に戻りたいなどと少女染みた思いを抱いているわけでもないのだけれど、龍崎時雨はやはり大学生だった頃が一番楽しかったのだろうなと思う。
そんなことを考えている時雨のことをチラリと横目で見つつ。
「それにしても時雨よォ……俺の記憶が確かならテメエ、今年で26歳になるんだよな」
「言わないで。……女は実年齢を聞かれなければ永遠に17歳なのよ」
「男漁りに夢中な女子大生じゃねェんだからさ、もうちっと羞恥心ってのを持てよ、羞恥心ってのをよ」
時雨の言葉を無視しつつ香はそう呟いた。思わず目を丸くする時雨。
「……どういうことよ?」
「その……アレだよ、胸元放り出してるじゃねェか」
目を逸らした香の頬は少し赤く見えた。それで時雨は合点が行くと共に思わずニヤリとしてしまった。
どうやら彼は露出が多すぎると言いたいらしい。今の時雨の服装は何を隠そう、胸元の大きく開いたチューブトップと太腿を極限まで見せることに拘ったミニスカートだけなのだから無理も無い。少しでも屈んだら下着が見えてしまいそうな状態だ。仕事中のスーツ姿でも十二分にスタイルの良さが窺い知れる時雨であるから、今のような薄着が見る者に如何なる印象を与えるかは確定的に明らかである。
とはいえ、当の時雨は大して気にした様子も見せず。
「あらあら、唯一の既婚者だっていうのに随分と初心なこと言うのね、車田君は♪」
「や、やめろォ! くっつくな! 当たる、当たってるゥ!」
「あててんのよ」
ギャーギャー騒ぎ立てる香に構わずヘッドロックを掛ける時雨。そんな二人の様子を横目で見つつ竜馬が一つ咳払いをするのが時雨には聞こえた。
「何よ、竜馬」
「俺が言うことでは無いかもしれないが」
そこでもう一度咳払い。柄にも無く次の言葉を言うことを躊躇うような、そんな仕草。
「……とりあえず龍崎、お前は自分の体が男の下半身に対してどれほどの攻撃力を持っているかを知るべきだろう」
それだけを告げ、顔を逸らした。今度ばかりは本当に目を丸くする時雨だったが、香と違って顔色をまるで変えない辺り武藤竜馬という男は大した鉄面皮だと思うのであった。この男にここまで言わせた自分はどうやら少しやりすぎたのかもしれない。
反省はしないが反芻はしよう。実際、彼氏がこの場にいたらこんなことはできないわけだし。
「……三人とも揃ったようだな」
それまで騒ぎ立てる香と時雨を無視して我関せずとばかりにパソコンに向かっていた教授、玉川白夜はその顔を上げた。ちょうど時雨達が卒業する頃に壮年期に入った彼だが、その頃はまだ黒い部分が残っていた髪も今では殆ど真っ白になってしまっている。その割にギラギラした眼光やそこから来る威圧感などはそのままで、時雨は少しだけ顔を引き締めた。後方で未だに睨み合っていた香と竜馬も思わず姿勢を正し、直立不動の態勢を取ったらしい。
「お前達を呼び出したのは他でも無い。……今回、お前達に頼みたいことがあるのだ」
「は? 俺達に?」
香は目を丸くして時雨を見た。当然だが時雨も心当たりなど無いので首を横に振るしか無い。だが隣の武藤竜馬は別だった。
「……全力を尽くします」
「そうか、武藤……君は既に九条先生から聞いているのだったな」
「九条!? 九条って、あの将美が雇ってもらってる偉い政治家さんかよ!?」
「え、マジ!? 竜馬アンタ、そんな凄い人と関係があるっていうの!?」
今度騒ぎ立てるのは香と時雨の番だった。だが白夜はそんな二人を手で制して言う。
「順を追って話す。……時にお前達、自分が書いた卒業論文のテーマは覚えているか?」
「忘れた」
「あっちゃー……ごめん教授、アタシも覚えてない……」
即答だった。一秒と間を置かずに答えた香に、白夜の眉が少しだけ吊り上がったように見えたが気の所為だろう。
「だろうな。何しろ龍崎に車田。お前達は我がゼミでも随一の問題児だったからな」
「たはは、それほどでも無いぞ。……褒めるなよ教授、照れるぜ」
「一応言っとくけどね香、今のアタシ達って別に褒められてないわよ。むしろ馬鹿にされてるの」
「なにィ、そうなのか!? 教授テメエーっ!」
感情に任せて白夜に飛び掛からんとした香の首根っこを掴んで時雨は引き戻す。
「やめなさい」
「ぐっ……は、離せ時雨! 俺は教授を許せねェーっ! ……って、また胸が当たってるんですけど……!?」
「あててんのよ」
「やめろォ!」
暴れている香を気にも留めず、白夜は語り始めた。
「まあ忘れたと言うなら仕方ない。実は九条先生……そうだな、お前達が言うところの政治家の九条兵衛だ。かつて次期総理大臣とも呼ばれた男で私にとっては叔父でもあるのだが、そんな彼が今現在極秘裏に進めている一つの計画がある」
デジタルワールド、それは電脳空間に存在すると言われながらも、この情報化社会が急速な発展を始めて十余年、名だたる研究者がその世界の存在を知るも辿り着くことは叶わず、実在すら疑われてきた小世界。その起源は一人の天才ハッカーが現実世界を裏から牛耳るべくネットワークに構築した疑似空間とも、多くのSF作品で語られているような所謂異次元世界とも言われている。そこには同様のプログラムで形成された未知なる生物が存在するという。故に研究者は便宜的にこれらの生物にデジタルモンスターという名称を与えた。
デジタルモンスター、縮めてデジモン。電脳世界に生きる彼らは電子機器から古代生物まで地球上に存在するありとあらゆる物質を模しているとされ、環境や己の特性に適応して強く逞しくなっていく。一体の生物が周囲の条件やそれ自身の内部の発達に従って次第に姿を変えていく様は、宛ら地球の歴史のようだった。
長らく詳細が掴めなかったその世界とそこに生きる生物達。だが1998年、つまり昨年に偶然にも玉川白夜は彼らの世界との繋がりを持つことになる。そして一つの事実を発見した。
「どういう原理かはわからぬ。……だがデジタルモンスターは人間と関わることで強く、また特徴的な形へと変質を遂げるのだ。それも人間の性格や精神といった酷く曖昧な概念に影響されてな。ダーウィンの唱えた本来の意味では無いが、我々は彼らのそれを便宜的に進化と名付けた」
そして一年ほど前、白夜は数体のデジモンのデータを入手することに成功した。
デジモンは人間と共に在ることで成長する。現時点では仮説でしかないそれを実証するため、白夜はその数体のデジモンを実験台とすることを決意した。言うまでも無い、そのサンプリングとして選ばれたのが武藤竜馬に車田香、そして龍崎時雨の三人ということらしい。
「……夢みたいな話だけど」
話を最後まで聞き終えた後の数十秒の沈黙。それを破ったのは時雨だった。
「何故アタシ達なの?」
それは聞く必要も無いことだった。無言で自分を見返す恩師の目がそう語っていた。二年強の付き合いしか無いが彼が何を言いたいのかは自然とわかってしまう。それが少しだけ悔しくもあるが、同時に少しだけ心地良くもある。そして恩師の方もまた、この話を自分達が受けるか否かはわかっているのだろう。
竜馬や香も同様らしい。だから三人は顔を見合わせ、白夜が差し出した小型のデバイスを一枚ずつ手に取る。それぞれの中にデジモンのデータが一体ずつ、それとその実体化プログラムが入っているということだ。
香の握るデバイスにはNatureの文字。
竜馬のものにはUltimateと記されている。
そして時雨が手にしたのはEvilの文字が刻まれたデバイスだった。
「……よくわからないことになったわね」
「ああ、だが興味深い」
「面白そうじゃねェか! 俺ってばワクワクしてきたぜ!」
なるほど、発見された異世界に暮らす生物の成長のサンプリング。仕事柄、基本的に暇な時雨に断る理由は無い。その大物政治家とやらが絡んでいるとなれば竜馬も同様だろうし、そしてゲームのプログラマーである香に至っては是が非でも知りたい世界である。恐らくそれを見越して白夜は自分達をその実験台として選出したのだろう。
けれど何か引っ掛かるものを感じないでも無い。だから部屋を出る直前、扉の前で振り返りつつ時雨は笑顔で問い掛ける。
「そういえば教授、最後に聞きたいんだけど」
「……む?」
「アタシ達っていつも四人グループだったじゃない。……どうしてアイツは呼ばなかったわけ?」
もう一人の同期生にして最近は会ってないとはいえ自分の恋人。その存在を匂わせて時雨は恩師の顔色を窺う。
「言い忘れていたな。……奴には一年ほど前に実験体を託してある」
それに対して白夜は顔色も変えずにそれだけを告げる。
「あれま、流石は教授といったところかしら。その辺は抜かり無いのね。……で?」
思わず聞き返した時雨を真っ直ぐに見返しつつ、玉川白夜は何ら表情を変えることは無かった。こういう時に時雨は思うのだ。まだ20代そこそこの若造でしかない自分や香には、間も無く還暦に達する時を生きてきた恩師を出し抜くことなど不可能だと。しかし同時にそんな彼をいつか必ず超えたいとも思う。そうした意味で、玉川白夜は間違い無く自分達の恩師なのだと。
そんな教え子の心中を知ってか知らずか、白夜は僅かに瞑目して静かに告げる。
「奴に託した実験体……それは」
重々しい口調で告げられるのは時雨の恋人に与えられたモンスターの名。
「ジャスティス。……サーベルレオモンだ」
『本日ハ晴天ナリ。』
――――FASE.2 「under the sun」
静岡県青葉町。県庁所在地の静岡市から電車で一時間の場所に位置する小さな海辺の町である。
町の中心部を走る私鉄により東西に分けられたこの町は、それなりに発展した東の神原側と田園風景が広がる長閑な西の青葉側で全くと言っていいほど雰囲気が違う。町内には高校も東西に一つずつ存在しているが、東側にある神原高校が県内でもかなりの進学実績を誇るとされている一方で、西側の青葉高校は取り立てて活気があるわけでも進学実績が良いわけでもスポーツが盛んなわけでもなく、本当に普通の若者が通う平凡な高校でしかない。青葉高校が神原高校に勝っている点と言えば、それこそ青葉側に住む人間は大抵がここの卒業生であるため地域との密着性が非常に高く、近隣住民に愛されているということぐらいだろう。
「う~む……今日は月曜、とりあえずジャンプでも立ち読みして帰っかなぁ」
さて、ここで商店街の通りを青葉高校指定のワイシャツ姿で歩く少年に話を移そう。
姓を前田、名を快斗。青葉駅を囲う形で賑わう商店街の片隅に老朽化した木造家屋を構える前田家は代々町内会の会長を排出する一族として名高いが、彼は現在の町内会会長であり幼少の頃から稀代の傾奇者として知られた前田範斗の長男にして、自ら青葉の暴風を自称する更なる馬鹿だった。
度を過ぎた悪戯で割った窓ガラスの数は天井知らず。しかし子供の頃から町のあらゆる抜け道に精通した彼を捕まえることのできた者は今まで一人としていない。何かと厄介な問題事を引き起こす天性の才能を持ち、とにかく周囲を振り回すことに関しては右に出る者のいない、そんな男。
だが不思議と彼を嫌う者はいない。町に出ると気付かぬ内に人が集まってくる、魅力とは呼べないまでもそんな不思議な雰囲気を持つ少年が彼だった。
「おっ、前田家の坊ちゃんじゃないか。今日はどうしたい?」
「わりーが少し立ち読みさせてくれ、君島のおっちゃん」
「オイオイ、いきなりだな。……相変わらず坊ちゃんは本屋を何だと思ってんだよ」
文句を言いつつも君島書店の親父に快斗を咎める様子は無い。
本屋に限らず、この商店街では誰もがこんな感じだ。同じ町の人間なら知らぬ顔は無いなどということは幻想だと都会の人間は良く言うが、その過去に消え去った幻想が未だに残っているのがこの青葉商店街だった。
元号が平成となって早十年近く、この町にはまだ昭和の空気が色濃く残っている。
「ところで坊ちゃん、最近学校はどうだい」
「ん~、ボチボチだな。特別面白くはねーけど、つまらなくもねーよ」
「そいつぁ良かった。ウチの娘にも見習って欲しいぐらいだ」
いつの間にか君島の親父も、店口に置かれたベンチに座って煙草を蒸かし始めている。仕事はどうしたとツッコむ気は快斗に無い。別に互いに興味が無いというわけではなく、ここで暮らす人々は良くも悪くも大らかということだ。
君島の親父は学生時代の父の後輩ということもあってか、快斗とは物心付いた時からの気心の知れた仲である。あまり青葉町から外に出たことが無く、親戚もそう多くない快斗にとっては叔父に近い存在だ。互いに馬鹿なので顔を合わせても話が一向に進まない父親よりも話し相手としては重宝しているかもしれない。
大きく欠伸をする君島の親父。そういう仕草は娘、つまり自分のクラスメイトに良く似ていると思う快斗である。
「……君島は高校がつまらねーって言ってんのか?」
「実はそうなんだよ。最近は娘ともまともに話せてないけどな、どうもそんな感じだ」
「思春期の女って難しいからな……」
半年ほど前の出来事を思い出して快斗はため息を吐く。この本屋の娘である君島麻美(きみしま あさみ)は色々と気難しい性格なので快斗が自分から話し掛けることの無い珍しい女の一人だった。正確には一度口説いてみたら問答無用でビンタされたのがトラウマになっていると言った方が正しいのだが、そんなことは口が裂けても言えない。
ユーモアの通じない女だ。自分のことを棚に上げて、君島の娘にはそんな勝手な印象を持っている快斗だった。
「そういや坊ちゃんには彼女とかいないよな」
「それは世の中の不条理を端的に示す事例の一つだ」
頬に手を添えてどうしたものかと首を傾げる快斗。
別に同級生に彼女ができたからと言って焦るような彼ではない。とはいえ、世界中の女を誰よりも深く愛している自分が女の方から愛されないという現実が、今の快斗にはまだ理解できないでいる。どうやら世界の女は自分の魅力を理解できないでいるらしいなどと考えるのが前田快斗の前田快斗たる所以だった。
そんな時である。雑誌を捲る快斗の指がピタリと止まる。
「快斗さん! 快斗さん! どこですか~!?」
大通りの向こう側から甲高い少女の声が響いたからだ。当然だが自分のことを探しているのだろう。
「……やべーな。どーやら厄介な奴が来ちまったようだ」
「ははは、流石の坊ちゃんも相変わらず娘さんには尻に敷かれてるようだな」
「らしいな。……邪魔したな親父、スピードカイトはクールに去るぜ」
そんな言葉と共に片手を上げて快斗は君島書店を去ることにする。それを受けて君島の親父もまた軽く手を上げて返したものの、相変わらず店に戻る気は微塵も無いらしく煙草を蒸かし続けている。それで良くもまあ生活が成り立っているものだと感心するが、同時にこの能天気さがいいんだよなとも思う快斗だ。
逃げるつもりは無い。君島の親父の前で彼女と会いたくなかっただけのことである。
「やっと見つけましたよ快斗さん!」
「……あのなぁ煌羅、町中で大声は出すなって何度言ったら」
「約束を破る快斗さんが悪いんですよ!」
そうして商店街の中心で快斗はその少女と向き合うことになる。
「あん? 約束?」
「ちょ……忘れたんですか? 今日は買い物に付き合ってくれる約束です!」
季節外れの暑そうな上着を羽織った両手をバタバタさせながらそんなことを喚き散らす煌羅。失礼だとはわかっているが、その仕草はどう見ても幼稚園児が駄々を捏ねているようにしか見えず、快斗も思わず苦笑してしまう。もしやこの娘、自分を子供扱いするなと言いつつ誰よりも子供なのかもしれぬ。
本人は自分を12歳と語っていたが信じられない。多く見積もっても8歳程度だろう。
「わりーな煌羅、俺は今から緊急の用事だ」
「なっ……!?」
口を開けた間抜け面で愕然とする煌羅。感情に合わせてピョコンと跳ねるツインテールがあざとい、実にあざとい。
「ど、どこですか……っ! 私との約束より大事な用事ですかっ!?」
「男には誰に止められようと行かなきゃならねー時があるのだ」
「誤魔化す気満々ですね!? 真面目に答えてください、快斗さん!」
あー、うぜー。やれやれと耳を穿りたくなる快斗だったが、往来する人々がニヤニヤと見守っている中では彼女を無下に扱うこともできまい。
ギャーギャー騒ぐ煌羅を前に大きく嘆息しながら、この喧しさは誰に似たのだろうかと思う快斗である。自分達と出会うまで人間と話したことは一度も無いと言ってはいたが、そう言う割には無駄に常識的なのが困り者だ。年長者に対してだろうと悪いことは悪いとハッキリ言うこの胆力。生真面目な学級委員長を思い出させる彼女の気質が好ましく思えることは否定できないが、快斗にとっては同時に極めて厄介な天敵でもあった。
彼女の名前は高嶺煌羅(たかみね きらら)。前田家の居候であり、また快斗の“娘”である。
『信じてもらえないかもしれませんが……実は私、別の世界から来たんです』
『ハァ――――――!!』
今から約半年前のクリスマス、そんな妄言を吐く彼女と快斗は出会った。
当然、初対面の相手のそんな妄言を信じられるはずも無い。故に快斗としても目を丸くして聞き返すしか無かったわけだが、それでも彼女は自分が異世界人だと称して譲らない。偶然同伴していたもう一人の連れの進言もあり、とりあえず快斗は彼女の話したいように話させてみたのだが。
『つまり……どういうこと?』
何が何だかわからないとはまさにこのことか。
彼女が言うには、どうも彼女は別の世界で開発された人工の兵器だったのだが、どういうわけか今こうしてこの世界に来てしまったらしい。自分を作った存在とは何者なのかと問い質してみたが、自分は一度も人間界を訪れたことは無いと言い張って詳細は全くわからない。そもそも目の前にいる童女は快斗にとって普通の人間にしか見えず、あの時に現れた獅子を退けた戦闘力以外はどこにでもいる女の子としか思えなかった。
故にわかったのは彼女が普通の人間ではないということ、そして彼女がデジモンと何らかの関係があること、その二つだけだ。
デジタルモンスター、縮めてデジモン。今から二年ほど前にたまごっちの後を追う形で発売された携帯型育成ゲームのことだ。あの時の連れは知らなかったようだが、発売後すぐに飛び付いた快斗は知っている。確か最近アニメが始まったような気もするというか、同級生には内緒だが日曜の朝九時から快斗は欠かさず見ている。
彼女がジンライと呼んでいた緑の竜に関しては詳しく聞けなかった。というより、煌羅の方が頑なに話そうとしなかったのだ。今になって考えればあの時にもっと追及しておくべきだったかとも思うわけだが、その時の自分達はどうやら気が動転していてそれどころではなかったらしい。
それから半年が経った今、煌羅は前田家の娘として静岡県青葉町にいる。
「だから、どこに行くかぐらいは教えてくださいよ! 減るものじゃないでしょう!」
「だー! うっせーな、俺に構うな!」
「なっ……快斗さん、いつからそんな我が侭になったんですか!?」
だが文句を言いつつも、自分を素直に父として慕ってくれている彼女の姿が微笑ましいことは否定できない快斗だった。
それが照れ臭いからこそ、こちらとしても半ば突き放すような口調になってしまうことを快斗は自覚している。そんな自分はまだまだガキなのだろう。地球上のあらゆる女性に真正面から感情をぶつけられる自信がある快斗だが、自分の娘である彼女だけはどうにも苦手だ。意識しないようにしているのに、照れやら気恥ずかしさやらで自然と頬が熱くなってしまう。他の女を相手にしている時には無かった感触だ。
そう、悔しいことに世界中のどんな女よりも自分の娘は可愛く見えるらしい。
「そもそもだな煌羅、俺を父親と思うなら快斗さん呼びはやめろ」
「……快斗さんは快斗さんですよ?」
キョトンとした顔で首を傾げる煌羅。あー! 可愛いなー、もう!
「違う、俺はファザーだ。ダディだ、親父なのだ」
「おやじ……?」
何故かその単語を噛み締める煌羅。そして一瞬だけ躊躇いながらも口を開いた。
「親父ィ……どこへ行くんだ?」
「お、お前と一緒に避難する準備だぁ」
「一人用のポッドでか……?」
「ヒィーッ!? 南の銀河を破壊し尽くした伝説の超サイヤ人みたいな顔ォーッ!」
「……うん、やっぱり快斗さんは快斗さんです」
良くわからないが勝手に納得する煌羅。幼い割にこういうところは一回り近く年齢が上の快斗でも推し量れないところがある。かつては自分以上の女好きだったという父が以前言っていたことだが、女という奴は男からしてみると本当にわからない生き物だと思う。中学や高校では数学だの英語だのよりも女の心の機微とか口説き方を教えてくれよと切に願う快斗であった。
尤も、そんなことを教えられたところで自分が今と変わらないこともまた快斗は知っている。
「時に煌羅女史よ。ほれほれ、近う寄れ近う寄れ」
「……何ですか、その胡散臭い喋り方は」
「細かいことは気にするな。今日は親父もお袋も町内会の旅行でいないわけだ」
「そうですよ、だから買い物に行こうと私はさっきから――」
「……だから夕飯はピザでも取るかな……」
「な!?」
まるで雷にでも打たれたかのように愕然と立ち尽くす煌羅。
「ケチな快斗さんがピザを取ってくれるだなんて……今日は槍でも降るかもしれません」
「愚か者、俺はいつだって優しいのだ。だからモテモテなのだ。今日もまたラブレターを何通も――」
「……あの女狐には捨てられた癖に」
「うっ」
ボソッと呟いた煌羅の言葉に息を詰まらせる快斗。
「こ、こら煌羅! 仮にも自分の母親を女狐呼ばわりとは何事だ!」
「母親だなんて認めてませんっ! ちなみに今から言うのは飽く迄も私の推測ですが、恐らく快斗さんも旦那さんだって認められてませんけどね。……飽く迄も私の推測ですけど」
「何故二回言った」
「大事なことなので二回言いました。正確に言えば、あの女狐は多分もう快斗さんのことなんて忘却の彼方です」
「そんなわけが無かろう。俺の娘だけあって博識なお前も、流石に男女の機微に関してはまだまだ知識が足りねーようだな」
「むしろ快斗さんの方がお詳しいとは思えませんが……」
容赦の無い物言いをする煌羅は、恐らく彼女を母親として捉えることに強い抵抗があるようだ。
やれやれと頭を掻く快斗だったが、言われてみればあの鮎川飛鳥という少女とは本当にあれっきりなのは事実だ。携帯電話の番号の交換だけはした(というよりも快斗が強引に聞き出した)のだが、頻繁に連絡を取り合っていたのは最初の一ヶ月ぐらいで、それ以降はあちらから電話が来ることは当然のように無いし、快斗としても彼女にわざわざ連絡を取る必要性は感じていない。
さて、どうしたものか。今度のゴールデンウィークに煌羅を連れて東京へ行こうかなどと密かに計画している快斗だった。
「そもそも俺は別に捨てられてねーぞ。お前の母さんは単純に恥ずかしがり屋なだけだ。今頃はケータイの画面に出した俺の番号を見つめながら、電話を掛けようかどうか悶々としてるに違いねーのだ」
「フッ」
「ちょ……笑ったな! 煌羅お前、今父親のことを鼻で笑ったな!」
「ご、ごめんなさい。……その光景を想像したらつい笑いが」
誰に似たのか、そうした悪戯っぽい笑みを前にするとやはり煌羅は可愛いなどと思ってしまう自分は、どうやら相当の親馬鹿らしいと思う快斗なのだった。
車田香は北区の赤羽付近に建つ高層マンションの一室に住んでいる。
時刻は正午過ぎ。学生時代の恩師や同期と顔を合わせてから二日後、この間は会社の仕事が忙しかったので全く家に戻れなかった。元々が隙を見て平然とサボりに走るような不真面目な男である。なればこそ、一日半も会社に缶詰めにされていた今となってはその精神の疲労度は生半可ではない。
「ふわ~、疲れたぜェ……!」
こんな状況では渡されたデバイスを確認する気にもならない。
ベッドにドサリと倒れ込むと、数秒と経たずにその精神は夢の世界へと旅立っていく。スーツで寝るなとかシャワーは最低でも浴びろとか、結婚したばかりの嫁に口を酸っぱくして言われたようなことさえ今は思い出せない。
そのはずだった。そのはずだったのだが。
「カヲル君、カヲル君ってばぁ!」
「うおぅ!?」
唐突に耳元に響く叫び声に心と体が同時に跳ねた。
「……おう、マサミか」
瞬きを三度ほどして見てみれば、そこにはベッドの横で正座をしながら頬を膨らませて自分を見つめる女性の姿だけがある。昔は漆黒だった髪は最近になって若干赤みが入っており、中途半端な長さながら十分に美しい。黒々とした瞳は大きく、10代の少女が持つようなあどけなさすら見る者に感じさせる。香に言わせれば、全世界を見ても彼女以上に可愛らしい女性はいないだろうと断言できる、そんな存在。
それが車田将美、昨年の夏に結婚した香の妻である。
「もう……昨日スーツで寝ないでねって言ったばっかりだよ?」
「悪い悪い、ちっとばかし疲れてたんだよ。……今戻ったのか?」
「10分ぐらい前かな。今日は仕事もお休みだから」
舌足らずな喋り方の彼女が政治家の秘書をやっているという事実には香も驚かされる。しかもその政治家は何年か前に次期総理大臣とまで謳われ、如何に新聞を読まない香でも名前ぐらいは聞いたことのある男だというのだから恐ろしい。
何というか、しがないサラリーマンをやっている自分が情けなくなる。
「疲れてるのはわかるけど、スーツの皺を取るのも大変なんだからね?」
「わぁーってるって」
「でも最近のカヲル君、ちょっと忙しそうだね」
「まァな。ちょっと厄介な仕事ができたもんで……悪いな、最近あんまり帰れなくて」
大欠伸と共にベッドから立ち上がる香を、正座したまま見上げる将美。
「それはいいよ……でも体だけは気を付けてね?」
「マサミ!」
「な、何……かな?」
「惚れ直した! 結婚してくれ!」
「もうしてるよ……?」
照れたように頬を掻く将美はあまりにも可愛すぎて思わず抱き締めたくなる。だが今の自分は少々汗臭い。そんなことを考えると彼女に悪いかもしれないという思いが先行して思い留まる。自分は誰よりも本能に忠実な人間だと思うが、その辺りは流石に礼節や常識を弁えているのが車田香という男だった。
そんな時だった。体を起こした香のポケットから小さなデバイスが地面に落ちる。そういえば教授から受け取って以降、ポケットに入れたままだったのを忘れていた。
「あれ? これって……」
「……折角だ。コイツもちょっと試してみっか」
「もしかして厄介な仕事って」
「ああ、コイツのことだ。ちょっと玉川の教授からな……」
二日前の出来事を思い返しながら、香は将美に語り始める。
できるだけ口外しないようにと白夜から言われているが、別に自分の妻にまで隠すことはあるまい。何より将美は時雨と竜馬の高校時代の後輩なのだ。なればこそ、十分に身内と呼べる彼女に話さないでおく方が余計な心配を掛けてしまう。香はそう考えた。
そうして五分ほどで全てを話し終えた後、将美は少しだけ思案するようにして。
「……危なくない?」
「さて、どうなんだろうな。ぶっちゃけ俺も良くわかっちゃいねェんだけど……面白そうだってことは否定できねェぜ」
こういう時に歯を見せてニカッと笑う香を止められないことを将美は良く知っている。だから額に手を添えながら呆れたように嘆息して苦笑を返すしかないのだが、それでも不思議と悪い気はしない。
車田香の見せる様々な表情の中で、それこそが小金井将美の最も好きな顔だから。
「カヲル君、楽しそう。……でもカヲル君の持ってるそれ、私もどっかで見たような……?」
ただ一つ、それだけが気に掛かっていた。
そろそろ空が夕闇に包まれようとする時間。木が鬱蒼と生い茂る青葉高校の裏山には梟の鳴き声が響き始める。
「おいおいポンデ、大分いい感じになってきたんじゃねーの!?」
「おうよ! 最初からわかっちゃいたことだけど、やっぱ俺達って無敵だな!」
「ハハハ、間違いねーな!」
そう言って笑い合う一人と一匹の姿がそこにはある。前田快斗とレオルモンのポンデであった。街中での問答から数時間、煌羅を上手く撒いた快斗は裏山で待たせていたポンデと合流した。煌羅を含め家族には内緒にしていることだったが、去年のクリスマスに彼女と出会ってからの半年というもの、快斗は折を見てはこうして裏庭に住まわせている相棒のポンデと定期的に顔を合わせていた。
その理由は言うまでも無いことである。
「それにしても快斗よぉ、俺様が強くなれたことには感謝してるけど、お前も本当に面倒な性格してると思うぜ」
「……そうか?」
「おう。実戦は何よりの訓練って言うしな、煌羅の連れてる何たらモン……アレと戦わせてもらった方が成果は早く上がると思うんだけどな、俺は」
「それは……」
口から出かかった快斗の言葉を遮るようにしてポンデが続ける。
「でも快斗、お前は煌羅に見られたくないんだろ? 男のプライドがどーとか言ってさ」
「……流石は相棒、わかってんじゃねーか」
痛いところをポンデに指摘されて苦笑を返す。全く以って彼の言う通りだ。
「男は努力だの修行だの苦労だの、そんな格好悪い姿を他の誰かに見られちゃなんねー生き物なんだよ」
両親はともかく、煌羅にだけは知られるわけにはいかない。
必ず強くならなくてはならない、快斗にそう思わせたのは半年前のクリスマス・イヴの出来事が未だに胸に焼き付いているからに他ならない。あの時以来デジモンが自分達の目の前に現れたことは無いが、ポンデがこの場にいる以上いずれ必ず何らかのモンスターが現れる日が来る。そしてその時が来れば煌羅はあの時と同じように戦うのだろう。その時に少しでも彼女の手助けになれれば――いや、勝手だとわかっているが、煌羅が危険を冒さずとも良いように自分が代わりに戦えればどれだけ良いか。
少なくともあの時のようにただ後ろで見ているだけの立場は御免だ。
「男だ女だはわかんねーけど、快斗の言いたいことは俺もわかるぜ」
「お、わかるか?」
「自分だけ戦えずに後ろで見てるだけってのは辛いもんな。特にあのライオン野郎相手には逃げたくないぜ俺は」
お前も十分ライオン野郎だろうが――というツッコミはさておき。
どうやらポンデはあのサーベルレオモンに対してライバル心を抱いているらしい。だが考えてみれば奴は究極体、今のままではとても勝てる相手ではないだろう。快斗としてもそこまで楽観的ではない。確かに半年前よりも強くなったとは言っても、もし今この場で奴が現れた場合は煌羅を自分達で守り切ることなど到底できないだろう。
ポンデが先程言ったことも尤もだ。独力での修行には限界があるし、実戦は何よりの訓練になるというのは確かに真実だ。
「どうしたもんかね……ま、とりあえず今日のところは帰るか」
「おう! 今日はピザだったな! ……む? 誰か来るみたいだぜ快斗」
考えていても仕方が無い。ひとまず今日は帰路に着こうとした時、不意に前方の林から足音が聞こえてくる。
「おや? 誰かと思えば、懐かしい顔が見えるね」
「げ! 月影の先公!」
「そこは先生と言って欲しいな」
そうして木々の影から姿を現したのは整った顔立ちを持つ20代後半の男性だった。
月影銀河(つきかげ ぎんが)、青葉中学の日本史教師にして剣道部の顧問を務める男だ。快斗にとっては卒業前に担任だった恩師にあたる男でもあるのだが、強引に入部させられた剣道部で大層しごかれたこともあり、快斗は少々この男を敬遠していた。
別に厳しい性格というわけでもないし、熱血教師というわけでもない。しかし彼の言葉の節々には何故か逆らう気力を萎えさせる力があった。
「君が卒業してから早くも一年が経つわけだね……どうだい、最近の調子は。相変わらず町を騒がせているらしいけど、風の噂じゃ東京で女の子を拾ってきたそうじゃないか」
「……さーな」
快斗にしては珍しくつっけんどんな口調になる。何と言うか、この男に対しては自然と敵対心を覚えてしまうのが快斗だ。別に以前から目を付けていた女の子が彼にラブレターを送ろうとしている様を目撃してしまったとか、教師も含めた競技大会で運動にだけは絶大な自信のあった自分がボロボロに打ち負かされて女子の人気を独り占めにされたとか、そんな理由は断じて無い。あるわけが決して無いのだ。
それなのに月影銀河の方は何かと世話を焼いてくるのだから堪らない。
「そもそもアンタこそ何してんだよ。今日は平日だぜ?」
「……君も知ってると思ったけど」
露骨にため息を吐いてみせる銀河。馬鹿にしている顔ではない。
だが剣道部の顧問と部員として初めて出会った時から変わらないのだが、こちらの全てを見透かされているかのような顔はどうも苦手だ。態度や口調こそ柔和だが、彼の飄々とした物腰にイライラさせられることが多々あるのは疑い様の無い事実だった。単純明快に言って、合わない人間とは彼のような男を言うのだろうと思う。
「今日は月曜、剣道部は休みの日だよ。……僕にとっては鍛錬の日でもあるけれど」
どうやら剣道部が休みの日にはこの裏山で修行していると言いたいらしい。
言われてみれば月影銀河はジャージ姿に竹刀と奇妙この上ない格好だ。しかし他の曜日には欠かさず剣道部の練習があるにも関わらず、たまの休みにも自らの修練を積んでいるとは剣道部顧問の鏡だ。
「ご苦労なこって。んじゃ、俺は行くぜ」
「そうかい。……って、ちょっと待った前田君」
「あん?」
この男と同じ空間にいると落ち着かない。そんな理由から立ち去ろうとした快斗だったが背後から唐突に呼び止められる。
「何か用かよ?」
「さっきから気になってたんだけど」
そこで銀河は少しだけ迷ったようだ。こちらを見る目が僅かに揺れているのがわかる。
「なんだよ、言いたいことがあるんだったら」
「その小猫……君の飼い猫かい?」
痛いところを突かれた。シレッと快斗に付き従おうとしたポンデの体が僅かにビクッと揺れたのが見えた気がする。
さて、何と答えたものか。確かに飼い猫と言うのが一番現状に見合っているし、今この場で誤魔化すには最適な答えだと思うが、何故だかポンデを飼い猫と表するのには抵抗があった。誠に勝手な理由だが、事情を知らない男とはいえポンデを他人に飼い猫呼ばわりされたことにムカついたと言い換えてもいい。
だから自分でも驚くぐらい、自然と次の言葉が出た。
「飼い猫じゃねーよ」
「ほう?」
「コイツの名前はポンデ、俺の……相棒だ」
そうして快斗は誰よりも苦手な男の目をハッキリと見返して、言える範囲内で真実だけを告げるのだった。
前田快斗が去っていった後、月影銀河は腕組みをしてその場に立っていた。
剣道の修練に来たと言いつつ、今の彼は竹刀には見向きもしない。端整な顔を崩さず、ただ思案するかのように瞑目する銀河。吹き抜ける風が熱気を運び、程無くして夏が到来するだろうことを予感させる。
形の良い顎を伝って汗が滴り落ちる。
──面白くなってきたじゃないか、ギンガ。
背後の林から自らを呼ぶ声がする。正確に言えばそれは声ではなく、ただ銀河の脳内に直接響く囀りのようなもの。
彼は柄にもなく歓喜しているようだった。まさか半年も前に取り逃がした二匹の成長期の片割れと、こんなところで再会する羽目になるとは。人間界のことは良く知らない彼だったが、これが人間達の言うところの運命って奴なんだと改めて実感しているらしい。
「……なるほど、やっぱりそうなのかい」
声が響いてくる方向へは目もくれず聞き返す。銀河もまた、少しだけ楽しげに自分の口の端が上がるのがわかる。
大学時代の恩師に“彼”を与えられたのは、今から一年近く前のことだっただろうか。異世界に生きる未知なる生物と恩師は言っていたが、付き合ってみると“彼”は意外にも人間味のある性格で似た者同士の銀河とも馬が合った。ただ、僅かながらも暴力的な気質を持つことだけが珠に瑕であり、昨年のクリスマス・イヴには光ヶ丘の街中で大立ち回りを演じてしまったと本人(?)は笑っていた。
その時に“彼”と出会ったのが、あの小猫ということだろう。
「楽しそうだね。……いいことだ」
だから“彼”の楽しそうな声を聞くと銀河も自然とニヤリとしてしまう。
そのクリスマス・イヴ以来顔を合わせていない自分の恋人から、つい数日前に“彼”と同じような存在を恩師から託されたと連絡があった。どうやら恩師は銀河の同期生全員に同様の生物を託したということらしい。その意図は正直わからないが、一年前の自分がそうであったように、他の仲間達にも“彼ら”と関わることは何か有益なものを齎してくれるだろうことは想像に難くない。
そこに投げ込まれた先程の前田快斗と小猫の存在は、水面に落ちた小石のようだ。そこから広がる波紋は何を意味するのか。
「面白いことが起きそうだ。……久々に時雨に会っておくべきかな」
何かが始まろうとしている。それに対して不安よりもワクワク感が勝るのが、月影銀河という男だった。
「自覚はありますか? そんなんだからモテないんですよ快斗さんは!」
「悪気は無かったんだ! 許してくれ!」
「そんなこと言ったって許しません! ポンデも同罪です!」
「ギャー! ごめん煌羅、許してくれ!」
既に日が落ちた商店街の中で、腕を組んで仁王立ちする少女に対して派手な土下座をする情けない者が一人と一匹。
言うまでも無くそれは前田快斗とポンデであった。性格上の一致と言うべきか、本質的に似た者同士の一人と一匹は二足歩行と四足歩行という生物学上の差異も無視して土下座をする様すら瓜二つである。その光景がツボに入ったのか、憤怒の形相だった煌羅が一瞬だけ苦虫を噛み潰した表情になったのがわかる。どうやら笑いを堪えたようだ。
とはいえ、買い物に行く約束とピザを取る約束のどちらも破ったのだからこうなるのも必定か。
「悪気が無いのは当然です。もし悪気があるとか寝言を言い出したら、今すぐにでもレオモンとオーガモンの間に投げ込んでやるところです」
「おっ、先週のアニメだな? 流石は我が娘、欠かさずテレビはチェックして――」
「黙りなさい」
「ひいっ」
ギロリと睨まれて言葉を失う快斗。社会問題となったドメスティックバイオレンスとは恐らくこういうことを言うのだろう。
「あ~、ところで煌羅君」
「……そろそろ死ぬ決心ができましたか」
「いやいや死なねーよ! そこまで悪いことをしたんですか俺!?」
「しました。今日の快斗さんは軽く人を死に追い遣るレベルです」
取り付く島も無いとはこのことか。これはお菓子やアイスクリームで釣っても無駄だなと快斗は考え直す。
「え、偉そうなことを言いやがって……貴様らサ○ヤ人は罪も無い者を殺さなかったとでも言うのか?」
「だから滅びた……誤魔化さないでください」
どうやら話を逸らすことさえさせてもらえないらしい。
しかしプンプンと頬を膨らませる煌羅もそれはそれで可愛いなと思ってしまう自分は、恐らく大した親馬鹿なのかもしれない。それでも可愛いものは可愛いとしか言い様が無いのだから仕方なかろう。自分は少なくともそうした事柄に関してだけは嘘を吐きたくないという信念がある。
そんな表情が顔に出たのか、煌羅が少しだけ不思議そうな表情を見せる。
「……快斗さん?」
「いや」
少しだけ照れ臭くなった。珍しく赤面しているのが自分でもわかった。
「あー、改めて言うのもアレだけどさ、煌羅」
「何ですか」
「お前は俺の娘だ。……ずっと娘だ」
「頭でも打ちましたか」
「打ってねーよ! だぁー! たまには俺にも格好を付けさせろ!」
色々と台無しである。隣のポンデが爆笑していたが、煌羅に睨まれて「ひいっ」と情けない声を上げていた。まるで鏡を見ているかのようだ。
流石に夜ともなれば商店街の人通りも随分と少なくなる。静岡の市街まで出ないと一般的に言うオフィスも無い青葉町では所謂サラリーマンも殆どおらず大半が自営業を営んでいることもあり、街頭の少なさも相俟って人気の少ない夜の町は一種の不気味さを漂わせている。
そんな中にあって前田家は商店街の外れにある築五十年を超えるボロ家。普通に肝試しに使えそうな幽霊屋敷だった。
「さて快斗さん、今日の晩御飯は何ですか?」
「ピザ屋じゃ駄目なのか」
「私はお腹が空きました。ピザが来るまで待てるはずもありません」
厄介なことを言う辺り流石は我が娘、なかなかに強かだと言えよう。
時刻は午後7時50分。今から駅前のスーパーまで出るのも面倒だし、この調子では他の定食屋でも煌羅を満足させる速さでメニューが出てくる店は無い。そうなると、とまで考えて快斗の額に少しだけ脂汗が浮かんだ。
あそこに行くしかないか。顔を合わせたくない男がいるが、まあ仕方ない。
「行くぞ煌羅、ポンデ。……そーいや、お前らはまだ連れてったことが無かったからな」
「どこですか?」
「たんぽぽ食堂。飯はまあ悪くはねーんだが、気に食わねー奴がバイトしてっから、正直あんま行きたくはねーんだけど」
あの店の店主を代々務める山神家は前田家と昔から付き合いがあるということで、快斗が行けば通常時でも目玉が飛び出そうな安さの価格を更に安くしてくれる。そういう意味で以前は君島の本屋と同じくらい世話になっていたのだが、ここ二年はご無沙汰だった。それは前田快斗にとって宿命のライバルが唐突にあの食堂でアルバイトを始めたからに他ならない。
とはいえ、背に腹は代えられまい。今の自分は煌羅を満足させるためには如何なる屈辱にも耐える決意がある。
「住宅街を抜けたらすぐだからな。ほら、さっさと歩く!」
「わかりました、楽しみです」
「快斗よぉ、俺も腹が減ってきたぞ~!」
ポンデが勝手なことを言っているが敢えて無視した。
住宅街と言っても今は人が住んでいる家は疎らで、空き家になったまま放置されている家屋が多い。小学校時代の快斗はその気に食わない男と共に良くこの周辺を探検したものである。割れたままになっているガラス窓はその七割が快斗の手による犯行だということは内緒だ。
それにしても、一方通行でもないのに通りは異様なほどに狭い。車が来ると抜かせるにも一苦労だ。
「時に快斗さん、結局さっきは何をしてたんですか?」
「それは言えん。秘密は男の財産だからな……by青山剛晶」
「……まあいいですけど。むっ」
二人と一匹が住宅街を歩いている途中、唐突に煌羅が視線を上げた。
「煌羅?」
「快斗さん、それにポンデ。……下がってください」
その顔は今から半年前、奇しくも今と同じ台詞を呟いた時の顔。
情けないことに快斗はそれが何を意味するかに気付けなかった。だから能天気なことに同じようにして視線を上げた。そうして快斗は自分達の正面、ちょうど乗用車がギリギリ一台通れそうな幅の道路が異物で塞がれていることに気付いた。
黒く大きな金属の塊。それが何であるかを理解するのに数秒の時を要する。
「まさか……こんな奴が人間界に来るなんて」
呻くような煌羅の声。闇夜の中で一瞬だけ射し込んだ月光が、ただの大きな金属の塊だと思っていた存在の全貌を照らし出す。
フルメタルサイボーグ。そう表現するのが最も相応しいだろうその威容は、紛れも無く数ヶ月前に前田快斗がプレイしたゲームに登場する怪物だった。数多のサイボーグ型から得られたデータを基に開発された究極の怪物。それが目の前に立つ怪物の正体だ。
「ムゲンドラモン……!」
機械竜が月夜に吼える。耳を劈くような咆哮が響き、それが鳴り止むと共に。
「見つけたよ。……アンタだね」
「誰!?」
涼やかな声と共にムゲンドラモンの前に一体の影が降り立つ。煌羅の叫んだ疑問の声を聞くまでも無く、快斗にはその影が女だと気付いていた。どんな状況であろうと目の前に現れた存在が女であることを前田快斗が見間違うはずも無い。
ニヤリと笑う女。年齢は恐らく30代半ばから後半といったところか。
「まさか……まさか……!」
煌羅はその顔に見覚えがあるのか、僅かに全身を震わせている。
「色欲の魔王……何故……? どうしてっ……!?」
「おや、アタシのことを知っている顔だね。でも色欲の魔王? なんだい、そりゃ」
だが齟齬がある。女は目を丸くして煌羅のことを見返した。
「綺麗なお姉さんにこんなことを聞きたくねーが……アンタ、誰だ?」
だから快斗が問う。こちらは娘を晩飯に連れて行く途中なんだ、邪魔をするなと言外に匂わせながら。
「……へえ?」
もう一度目を丸くする女。その仕草は微妙に月影銀河に似ていて、快斗は何故だか腹が立った。
「面白そうな坊やだね」
「なに?」
「姓は桂木、名は霧江。……そしてこっちはムゲンドラモン。アンタ達に恨みは無いけれど、その存在はあの人の計画にとって邪魔になるみたいだからねぇ? だから選びな。アタシらに従うか、それとも今ここで倒されるか」
悪の女幹部のようなことを言う女だと思う。尤も、そんな女も快斗は嫌いではない。
煌羅やポンデと出会った時からわかっていて目を逸らしていた。しかし自分はどうやら本当に知らぬ間に物の見事なまでのファンタジー世界に紛れ込んでいたらしい。あの人、計画の邪魔になる、自分達に従うか今ここで死ぬか。まさかそんなフィクションのような語群に自分が関わることになるとは。
とはいえ、わかっていて目を逸らしていただけのことだから快斗の答えも当然最初から決まっている。未だにワナワナと震えている煌羅を庇うように前に出る。恐らく今鏡を見れば自分は笑っているだろう。同じように前に出た隣のポンデを見てみれば同じような笑顔だった。
「任せな」
ポンデはそれだけを言う。相手は究極体のムゲンドラモン、如何に半年間の修行があるとはいえ無謀というか身の程知らずというか。――とはいえ、それは自分も同じか。
「どうしたい? まさか今この場で楯突こうなんて思うぐらい馬鹿じゃないだろ?」
挑発的な女の言葉。それをハッキリと見返して言う。
「どっちも……お断りだ」
桂木霧江とムゲンドラモン。正直、彼女らに勝てる気など微塵も無かったのだけど。
・玉川ゼミの皆さん
都内の某大学、玉川ゼミの卒業生。全員26歳~27歳程度。
歴代のゼミ生の中でも問題児軍団とも呼ばれるが、故に教授の玉川白夜(たまがわ びゃくや)から見出されてデジタルモンスターを託されることになる。
名前の由来は玉川白夜、桂木霧江含めて全員将棋の駒+天候もしくは天体。
1.月影 銀河(つきかげ ぎんが)
涼やかな男。快斗の中学時代の恩師。正義<サーベルレオモン>。
2.龍崎 時雨(りゅうざき しぐれ)
えっちなお姉さん。↑の恋人。暗黒<???>。
3.車田 香(くるまだ かおる)
熱血馬鹿野郎。唯一の既婚者で嫁からカヲル君と呼ばれるがnot石田彰。自然<???>。
4.車田 将美(くるまだ まさみ)
↑の嫁。ゼミ生ではないが時雨の後輩でのんびりした天然気味の女性。九条兵衛の秘書も務める。
5.武藤 竜馬(むとう りょうま)
クールな一匹狼。九条兵衛の部下。究極<???>。
◇
【後書き】
本作は2008年頃考案なので、実は執筆当時ケータイ機としてはデジモンツインの次にデジモンアクセルが最新作だったりしたのです。そのため、当時のデジウェブHPでペンデュラムXと並んで情報が充実していたアクセルのページと結構睨めっこしたものですが、そのページがなんと消えてることに数日前に気付きました。ぐおー! どうすりゃいいんだ!
そんなわけで10話ほどで終わる本作、いきなり究極体の嵐となります。先に行くぜ次のフロンティア! ジャスティスゲノムにサーベルレオモンいないのは内緒だ!
それではまた五日後に宜しくお願い致します。
◇