◇
絶対者。そんな単語が浮かぶ。
無傷だった。クロスで注意を引き付け、そこに生じた隙をニトロで突く。ニトロのエクストリーム・ジハードは間違い無く真正面から直撃したはずなのに、爆煙から現れた敵──奴もまた、クロスと同じ金色の鳥である──は全くの無傷だった。
この女には勝てないのか? かつてロイヤルナイツのアルファモンも倒した自分達が?
「畜生……!」
歯噛みする。自分の母親と名乗るこの女が、前田拓斗の煌羅(はは)を泣かせたこの女がここまでの力を持っていることが許せない。そんなことは絶対に認めたくない。
クロスもニトロもダメージは全く受けていない。だから行ける、まだ自分達は戦える。
「相棒」
自分の足元から聞こえる“相棒”の声すらどこか遠い。
三年ぶりに再会を果たした彼に相棒と呼ばれるのはこそばゆい。そのはずなのに、今の拓斗にはそれを感慨深く思う余裕すらない。
2019年8月10日。前田拓斗(まえだ たくと)はデジタルワールドを旅した。
人間界での一日が一年となる世界での旅路を経て。
沢山の出会いがあった。
沢山の別れがあった。
それに苦しみ、嘆き、立ち向かったと思う。
選ばれし子供と嘯くいけ好かない男と何度も衝突した。
世界から見捨てられた突然変異型(ミュータント)と向き合った。
歴史を巻き戻さんとする“破滅(ルイン)”の名を持つ聖騎士に打ち勝った。
その果てに自分は何を得たのだろう。
始まりの町を守ると言った、初恋の女性の面影を残す少女との出会いと別れか。
世界の至宝と呼ばれた十一のデジメンタルか。
言うまでも無い。
答えは、否だ。
かつてと変わらず相棒達の力は頼もしい。三年前の旅で自分が得た最大の幸福はと言えば、彼らとの出会いに他ならない。
そう、自分達ならどこまでも行けると確信してきた。自分達に不可能は無い、乗り越えられない壁は無いと。
「……強いぞ」
だが届かない。クロスの呻きはその実、拓斗の言葉でもあった。
見たこともない黄金の巨鳥にはこちらの攻撃の一切が届かない。あらゆる技が封じられ、その細い体に一切の手傷を負わせることすら叶わない。クロスもニトロもかつてと同じ、はたまたそれ以上の力を出してくれているというのに──!
「拓斗……っ!」
縋るような声が胸を突く。巨鳥の背で跪く女の声だ。
自分は世界から見放されたのだとでも言いたげな絶望感に満ちたその表情。あまりにも瓜二つすぎて寒気がした。それは三年前にクロスやニトロと初めて出会った時のことだ。憎しみに囚われたクロスが黒き炎鳥へ変貌したことで彼に裏切られたと感じた際、恐らく自分は今の彼女と同じ顔をしていた。誰かに自分を認めて欲しくて、ただ自分が存在する意味が欲しくて、頑なにその誰かを求め続けた、そんな顔。
だから実感する。母親なのだろう。この女は間違い無く自分の母親なのだろう。
「何で……だったら、何でなんだよ……!」
それでも、だからこそ許せないと思う。
どうして煌羅(かのじょ)を自分の母親などと偽らせたのか。どうして素直に母親として自分の傍にいてくれなかったのか。どうして自分から、そして家族から逃げ出した女が今のうのうと自分の前に現れたのか。
拓斗にとっての煌羅(はは)は、今まで母だと思っていた女性はごめんなさいと泣いていた。ちゃんと母親をやれなくてごめんなさい、嘘を吐き通せなくてごめんなさい、今まで騙してきてごめんなさい。そんな姿は見たくなかったのに、どんな理由だろうと家族が泣く姿なんて見たくなかったのに。
金色の波動を纏う巨鳥。なるほど、対峙すれば自分達は面白いぐらいに似ていた。
「クロス」
促す。迷いを振り切るように、断ち切るように。
「……いいのか?」
らしくないクロスの躊躇い。
けれど余計な言葉は不要だ。程無くしてクロスは、三年来の相棒はこちらの意図を十分に汲み取ってくれた。流石に笑顔を零す余裕などないが、今この場で彼は変わらず“相棒”だった。出会った時は聞かん坊だったもので、むしろ昔だったらお前の方がこちらの静止も聞かず突っ込んでいただろうにと思うと場違いにもおかしな気分になる。
いいのだ。覚悟は決まっている。
「お前の……母ちゃんなんだろ?」
これはニトロの言葉。多分誰よりも優しいもう一人の相棒なら言うだろうその言葉を、拓斗は聞きたくはなかった。
許せないと思うからだ。
自分はどんなことがあったとしても彼女を。
煌羅(はは)を泣かせる者を許すことはできない。
それに。
「俺の……母さんは」
クロスが身構える。放たれるのはクロスモン最大の必殺技。
「俺の母さんは、一人だけだ――!!」
カイザーフェニックス。
躊躇も逡巡も全てを振り切るように、黄金の鳥が空を翔けた。
『本日ハ晴天ナリ。』
―――――EPIROGUE.1 「For the Future」(前)
2022年7月20日。人間界のとある場所で二体の巨鳥が激突する。
これは前世紀末から始まる、或る家族の盛大でくだらない親子喧嘩のお話。
・前田 拓斗(まえだ たくと)
作者処女作の主人公。静岡県某町の名士、前田家の坊(ボン)。
2005年7月20日生まれ。つまり今日で17歳。
三年前にDWを旅したが選ばれし子供ではなく「使命も無い奴」「空っぽ」とコケにされ続けた可哀想な男の子。特に選ばれし子供の一人、アグモンとそのパートナーとは犬猿の仲で宿敵。
また出会う女性が悉く彼氏持ち、ショタコン、人妻、生後数ヶ月、電脳生命体と地獄の遍歴を持つ。
何百回でも言うし言われるが、母親似である。
名前の由来は超星艦隊セイザーXの主人公、安藤拓人から。つまりたっくん。
イメージソングはD-51/BRAND NEW WORLD。
・エレキモン“クロス”
たっくんの相棒その1。究極体はクロスモン。
片目を十字傷(クロス)で覆う隻眼のデジモン。フロンティア前期EDのオマージュ。
たっくんを人間と呼んでいたが、最後の戦いで一度だけ拓斗と呼んだ。しかし恥ずかしくなって以降は相棒と呼ぶ。相棒の方が恥ずかしくねーか? 要するにアバレンジャーのトップゲイラーである。
・ブイモン“ニトロ”
たっくんの相棒その2。最強形態はマグナモン。
明るくノリ良く馴れ馴れしい。名前がFIRE!!オマージュのため「発火点はもうすぐだぜ!」が口癖だが実は一回しか言ってない。
デジメンタルを集めていたたっくんに同行し、そのまま借りパクした。そのため当該世界のDWにはデジメンタルが存在せず、ロイヤルナイツもマグナモンだけ永劫空席である。ならテメーが聖騎士として働け!
◇
【後書き】
皆様、お久しぶりでございます。初めての方は初めまして。夏P(ナッピー)と申します。
なんか途中の他の作品があった気がしますが、時系列と年表を設定している関係上、2022年7月20日(つまり今日)から始まるこの作品を避けて通ることはできなかったので改めて開始となります。作者の処女作の主人公が冒頭で語り部を務めていますが、実はそんな関係無いのは内緒。
いきなりエピローグですが次回からが本題、10話前後なのでなんとか8月中には終わらせたい所存であります。
何卒、宜しくお願い致します。
◇
◇
時は1998年7月某日。
窓の外は雲一つ無い快晴の空。昨夜のニュースによれば今日の天気予報は雨ということだったようだが、この様子ではその予報も見事に外れることになりそうだ。あの天気予報はどうにも外れることが多い気がする。尤も、それはそれで面白いとも言える。予報やら予言といった類は口にしただけで因果を決定するだけの力を持つ代物であると考えれば、それらは外れてこそ意味のあるものだとは言えまいか。
「予言……か」
そこで大きく嘆息した。
ノストラダムスによる人類滅亡の大予言。今から一年後にアンゴル・モアとかいう恐怖の大王が復活し、この地球の全てを滅ぼしてしまうという、間も無く21世紀を迎えようとしている今となっては妄言甚だしいと言わざるを得ない予言である。けれど数日前の新聞はそんな予言が紙面を賑わせていたし、街頭インタビューで「なんとなく不安」と答えた者も少なくない様子だった。それが当たることなど確実に有り得ないことだというのに、民衆はどこかでそれを信じている。
そう、それは確かに滑稽な予言ではあるが、信じるに足る何かは存在したのだ。
「………………」
東京都新宿区、所謂新宿副都心に立ち並ぶビルの一角、その最上階に九条兵衛(くじょう ひょうえ)の事務所は存在する。
ちょうどバブル全盛だった頃の80年代後半、政界でもトップクラスのやり手として名を馳せていた彼は、衆議院の最大議席数を誇る与党の総裁、即ち次期総理大臣の最有力候補とまで言われていた。
元々は一介の都議会議員でしかなかった彼がそこまで成り上がれたのは、偏に金を集めることが得意だからだということに他ならない。人心を掴むとか類稀なるカリスマ性とか以前に、現代の政治とは結局は金である。如何に綺麗事を並べようとも、現代における民主主義とは数を集めることに帰結する。そして数を集めるためには金が必要なのだというのが、長らく立憲政治に携わってきた九条兵衛の信念であった。
しかし結局のところ、彼が総理大臣となることは無かった。それは彼が総裁選に出馬しなかったからこそであり、理由を聞かれれば兵衛は一つの答えを返すだろう。自分は率先して表舞台に立つよりも、裏から何かを思うままに操る方が好きなのだと。
年齢は間も無く80歳に達する彼。だが未だにその勢力は衰えること無く、むしろ脂が乗る一方である。
脂が乗る一方なのは外見にしてもそうだ。彼を一目見て78歳だと判別できる人間はまずいないと言ってもいい。青年期より多くの武術に精通し、長らく体を鍛えてきた兵衛の肉体は頭髪を除けば一見して40代後半から50代前半と言われても十分に通用するだろう若々しさを保っている。
「……武藤様がお見えになりました」
「ああ、わかった」
すぐ後ろに控えていた秘書が相変わらずこの場所には不似合いな可愛らしい声で告げた。
その言葉を受けて兵衛は窓の外へと向けていた視線をゆっくりと部屋の中へ戻す。そこには小金井将美(こがねい まさみ)の見慣れた顔があるだけだ。秘書と一口に言っても、まだ年若い彼女は飽く迄も兵衛と客人の取り次ぎをしているだけであり、実際の秘書業務はもう一人の秘書官である桂木霧江(かつらぎ きりえ)が全て取り仕切っている。秘書のトラブルという奴は政治生命を左右しかねない。そのため、それは最も信用できる人間を置くことが重要となる。その意味で桂木霧江という女は兵衛が幼い頃から世話をしてきた女であり、抱いたことも一度や二度ではない。言ってみれば全てを知り尽くした女である故に、如何なる場合でも信頼できる人間として彼女以上の存在はいまいとさえ思っている。
その点で目の前の小金井将美という女はまだその域には達していない。それは単に抱く抱かないの問題ではなく、まだ社会に揉まれた経験の殆ど無い小娘ならではの甘さが多分に感じ取れるのだ。決して無能者だとは言わないが、それでも桂木霧江との差は歴然としている。
「失礼致します」
どこか荘厳さすら感じさせる足取りで武藤竜馬(むとう りょうま)が入ってきた。年齢は20代後半、鍛え上げられた肉体が印象的な澄んだ瞳を持つ男である。
「手配は無事に完了致しました。……特に問題はありません」
「ふむ……ご苦労」
会話はそれだけだ。武藤竜馬という男は、こちらから話し掛けなければ殆ど口を開くことは無い。政界にて人生の大半を過ごしてきた兵衛といえども、この男と顔を合わせている時間は息が詰まらないでもない。
「……佐玲奈は今年で幾つになる?」
「はっ」
出し抜けに聞いてみると、竜馬はコートの懐からメモ帳を広げる。
「今年で45歳になられるかと」
「そうか。彼女も年を取ったな……時間とは怖いものだ」
「初めて会われた時は27歳、今の私と同じほどであったと聞きましたが」
「ほう……よく調べているな」
「仕事ですので」
今から二十年ほど前、兵衛は風俗店で働く鮎川佐玲奈(あゆかわ されな)という女性を気に入り、所謂愛人のような関係にした。だが偏に愛人といっても、そもそも妻を早くに亡くして家族の無い兵衛に愛人も無いものだ。下手な手を打てばスキャンダルの火種にもなりかねないため、戸籍の上で彼女は兵衛の妻ということになっているし、二人の間には娘も一人いる。今でこそ大分丸くなったとはいえ、佐玲奈という女はかなりのじゃじゃ馬であったため、黙らせるためには結構な金が必要になった。今でも娘の養育費は全て兵衛が払う取り決めになっている。
尤も、それも悪い気分ではない。前述のように後継者となるべき子供がいない兵衛にとって、佐玲奈の産んだ一人娘の飛鳥は目に入れても痛くないほどの存在であることは事実なのだ。自分の立場上、滅多なことでは会うことはできないのだが、それでも自分に可能な限りの支援はしてやりたいと思っている。
今もまた高校生となったばかりの彼女に、昔のコネを使って将来の進路、即ち志望するだろう大学への推薦を取り決めてやるべく彼女の希望を調べていたというだけのことである。
「手間を掛けたな、武藤君。……ありがたく思う」
「仕事ですので」
この台詞を何度聞いたことだろう。武藤竜馬の口癖だ。
にべも無い。だがそんな竜馬に兵衛は少なくない好感を抱いている。他人を騙すことに全てを費やす狸同士の腹の探り合いを常とする政界にいると、武藤竜馬の持つ誠実さや正義感を体現する瞳は幼子のような眩しさを感じさせてくれると思う。こうして彼の瞳を前にしていると、兵衛は彼の実の父親にしてこの戦後の日本を共に生きてきた男の顔を思い出す。兵衛が生涯を通して唯一の友として認めた男が死んだのはもう十年も前になり、そして武藤竜馬はその愛息なのだ。今ここで竜馬と相対することで、兵衛は改めて己の友が息子である彼の中で生きていることを実感できるのである。
だが兵衛は五年前まで竜馬と顔を合わせたことも無かった。故に自分達の関係は大学を卒業後、バブル経済の崩壊に期して職を見つけられずに放浪していた彼を、たまたま出会った兵衛がふとした気紛れから拾っただけの関係だ。しかし竜馬は父のことなど関係無くそんな兵衛に恩義を感じているのか、兵衛のためならあらゆる行為を厭わない面があり、兵衛もまたそんな彼に秘書の桂木霧江以上に心を許している。年齢的な意味では既に50歳以上離れているわけだが、それは兵衛が62歳の時に生まれた娘の飛鳥とて同じことだ。
そうした意味で、兵衛は武藤竜馬を実の息子のように可愛がっていた。
「武藤君」
「……は?」
「君は我が国の国防について、どう思うかね?」
窓の外へ視線を向けて問う。一方の竜馬はその意味を見出せぬようであったが、数秒後に一言だけ。
「いえ、特には……」
返ってきた言葉は如何ともし難い若者と老人との間の認識の違い。
そのことを少し残念に思わないでもないが、恐らく実際の戦争を知らない彼のような若者に対して、如何にそれの脅威と恐怖を説いても実感として認識されることはまず有り得ない。窓の向こう側、薄い靄が掛かっている先に視認できる国会議事堂を見据えながら、九条兵衛はそう考える。毎朝決まった時間に国会議事堂をこの窓から見つめるのは欠かすことのできない自分の日課だ。そうすることがあの場所を思うように動かせている気分を実感でき、意外にも脆い精神の持ち主である兵衛にとっては何よりの薬である。
兵衛は別段タカ派というわけではない。確かに軍事力を持たないと明記しているこの国の憲法は世界に誇るべきであるとの考えは持っているし、だからこそ平和のための努力は惜しまない所存で今まで邁進してきた。けれど他国と関われば関わるほど、我が国の孕む矛盾の実像が強く感じ取れてしまうことは否定できない。そう、自衛隊と言えば聞こえはいいが、実際問題あれに自衛のための十分な戦力が存在するかといえば、それは必ずしも是ではない。自国すら防衛できぬ国が半世紀以上、大規模な戦争に巻き込まれること無く平和を保ってきていられたのは、それだけで十分に奇妙なことであった。広大な国土を持つわけでも無く、また資源にも乏しい我が国が享受している平和は明らかに異質なのである。
そういった認識が、今の若い世代には殆ど無い。自分達の足元を築く平和が当然のものだと信じて疑わない。
「それはそれで、幸せなことなのかもしれぬがな……」
「……は?」
後ろから響いてきた竜馬の疑問の声には答えなかった。
恐らく遠くない将来、我が国は大規模な戦争に巻き込まれることになるだろうことは間違い無い。その時になってからでは遅いのだ。それまでに如何なる手を用いてでも民衆の戦争に対する意識、平和に対する意識を強くしておく必要がある。しかし、どうやって? まさか生粋の愛国者でもある自分がテロを起こすわけにも行くまい。また下手に国民感情を煽るようなこともできまい。危険度が少ない方法ながらも、国民が平和を惜しむぐらい深刻な問題でなければならない。
不謹慎なことではあるが思うのだ。本当にアンゴル・モアが降臨してくれれば皆の意識も変わるのではないかと。
「むっ?」
そんな時、不意に携帯電話が鳴り響いた。数年前から次第に浸透し始めたこの持ち運び式の電話だが、程無くして国民の二人に一人以上が持つ時代が来るだろうと兵衛は予測している。それぐらい便利な代物である。
出てみると、それは兵衛の甥であり某有名大学の教授も務めている玉川白夜(たまがわ びゃくや)からであった。
「……わかった」
数秒間の連絡の後、兵衛は電話を切る。
電話の向こう側から聞こえてきたノイズ混じりの玉川白夜の声は相変わらず事務的で、余分なところが一切無い。そういった意味では今この場にいる武藤竜馬とも瓜二つにも感じられる。確か竜馬は大学時代に白夜のゼミに世話になっていたと聞いたことがあるが、もしかしたらその影響だろうか。そんな関係の無いことを考える。
何はともあれ、少なくとも白夜からの連絡が兵衛の求めていたものであることは間違い無い。
「……どうされました?」
「ふむ。……どう説明したものか」
武藤竜馬の言葉に一瞬だけ迷ってしまう。何故か自分の頬が緩んでいる気さえした。
「君には話しておこう。協力してもらうことになるかもしれんしな……端的に言えばだ」
一言だけ告げる。
――アンゴル・モアが、降臨するかもしれん。
『本日ハ晴天ナリ。』
――――――FASE.1 「under the moon」
1998年12月24日。クリスマス・イヴだというのに雪など降る気配すら無い夜のこと。
一口に東京と言っても隅々まで高層ビルが建ち並び、色鮮やかなネオンが輝く煌びやかな光景が広がっているわけではない。少なくともその都心部から遠く離れた練馬区と保谷市の境界線上には正直なところ電灯も殆ど無く、どこまでも真っ暗な空間が広がっていた。恐らく昼間には長閑な田園風景が見られるのだろうが、足元さえも覚束無い夜の闇の中では下手に歩けば用水路に落ちてしまいそうだ。
そんな場所にひっそりと建つ木造建築の玄関に、二人の男女の姿がある。
「とりあえず入れよ、ハニー。流石に疲れただろ?」
「ハニー言うな。……そもそも、何で私がアンタなんかと……」
「安心しろよ、俺は紳士だからな。イヴだからって行きずりの相手となんてことは……」
「誰がそんなこと言った!? ていうか、マジで何を考えてんのよ!?」
パッと外見を見ただけでも女好きだろうと予想できる軽薄そうな少年と、微妙にカールの掛かった髪を栗色に染め上げた少女の二人組である。両者は年齢的には恐らく16歳か17歳、一見して高校生に思える。だが少年の方が何かとアプローチを掛けようとしている様子こそ見られるが、それに対する少女の反応がにべも無いことからして彼氏と彼女の関係であるようには見えなかった。
玄関の電気を点けると、その内装がぼんやりと浮かび上がる。
「……うわ」
生まれた時から練馬区北部の光ヶ丘団地に建つ高層マンションで生活してきた少女にとって、そこに浮かび上がる光景は思わずそんな呻き声を上げてしまうレベルだった。
恐らく手入れは行き届いているのだろう、一見して目立った汚れや埃は殆ど無いように思える。だが数十年も前に建てられたこの木造住宅は少女に言わせれば冗談抜きでボロ家だった。失礼ながら同じ区に存在するとは思えない。そもそも彼女にとっては木造の建物自体、もっと田舎にしか存在しない代物だと思っていたのだ。
「今はバアちゃんもいないしな、ハニーも遠慮しないでいいぞ」
「ハニー言うな。遠慮は要らないってアンタね……」
呆れを隠さない声で呟く少女。
少年は遠慮しなくていいと言うが、この家を見ればどう考えても遠慮してしまうだろう。天井を支えているのだろう大黒柱は軽く蹴り飛ばしただけでポキッと折れてしまいそうだし、床板も成人男性が思い切り踏み締めれば一発で抜けてしまいそうに老朽化している。遠慮どころか普通に歩くのにも気を遣わなければないようなボロ家がそこにはある。
「とりあえず……ここに寝かせておけばいいか」
「……そうね。良くわからないけど寝ちゃったみたいだし」
そこで少年は今まで背負っていた幼女を居間のソファに横たえる。改めて見てみれば、その幼女は見た目から判断しても6歳前後といったところだろう。ツインテールに纏められながらも薄く赤色に染め上げられた長髪はどこか非人間的な美しさを感じる。実際、この幼女が非人間的な存在なのではないかという疑念が、少年と少女にはある。
この幼女との出会い、それが全ての始まりだ。
「はぁ……何でこんなことになっちゃったんだろ……」
「そりゃ俺とハニーの運命だろ」
「ハニー言うな。……そんな運命は認めないから」
大きく嘆息しつつ、少女は数時間前の出来事に思いを馳せた。
五時間ほど前のことである。
鮎川飛鳥(あゆかわ あすか)。彼女は今年で16歳になる高校一年生。
『あ、霧江さん!』
今にも雪が降りそうなクリスマス。店員に『待ち合わせで』とだけ返して踏み入れたファミレスにて一番奥に座る女性を見留め、少女はパッと顔を輝かせた。
『飛鳥ちゃん、おひさし』
顔を上げた霧江が軽く微笑んで少女を手招きする。
パンツスーツをカチッと着こなした、いやアフターファイブの今となってはそれなりに着崩しているが、そんな彼女は飛鳥にとって憧れの女性であった。
『何頼む?』
『ん~、ミラノ風ドリアで!』
『いつもそれだね』
着席がてら定型文を返す飛鳥に霧江は苦笑する。
勿論顔立ちが似ているわけでもないのだが、こうしていると周囲からは姉妹だと思われているのだろうなと思う。実際、ちょうど20歳離れながらも数日に一度はこうして一緒に食事を取る霧江は、十分な衣食住と学費を提供してくれているとはいえ滅多に顔を合わせず何の仕事をしているのかも知らない実の母親以上に飛鳥にとって母であり、姉であり、また家族であった。
『学校はどう?』
『んー、年明けたら進路指導だってさ』
届いたドリアを掻き込みながら答える。百年の恋も冷めそうな行儀の悪さである。
『……ふ~ん』
『何?』
『そりゃクリスマス、こんなおばさんしか相手がいないわけだ』
ニヤニヤと笑いながら霧江は窓の外を見た。いつの間にかしんしんと雪が舞っている。
『こ、こう見えて学校じゃモテモテなんだよ』
『その言い草はモテない女の台詞だよ、飛鳥ちゃん……』
馬鹿にした様子はない。ただ楽しそうに微笑む霧江は、実際に楽しんでいるのだろう。
桂木霧江、先述の通りタイトなスーツに身を包んだ霧江は、それこそ37歳という年齢を考えずとも十分に成熟した女の色香という奴を持っていると思う。自分もそれなりに女の子の中で自惚れることを許される容姿を持っていると自負する飛鳥だが、こうした本物の“女”を見せられると敵わないなと思ってしまう。思い出すだけでも色々なことで相談に乗ってもらってきたことも理由だが、そうした人生の先輩として桂木霧江は飛鳥にとって最も尊敬している人間だった。少なくとも何の仕事をしているのかもわからない母親よりも尊敬できるのは事実だ。
『悪かったね、こんな日に。……彼氏さん、プンプンだったろ?』
『いないっての。……霧江さんだって知ってるでしょ』
『あっはっは! そうだった! いや、そうだったねぇ! ごめんごめん!』
知っている癖にわざとらしく馬鹿笑いする霧江。外見とは異なり気品や礼儀の欠片も無い口調だが、そうした霧江の言葉は不思議と心地良く聞こえるのは、恐らく四十年近い人生の中で裏付けされたものがあるからだろうと飛鳥は予測している。
そんな彼女だが、普段は自分の父親の有能な秘書としてバリバリ働いているというのだから、大人という奴は本当にわからない。世間一般には知られていないことだが、飛鳥の父親は十数年前には次期総理大臣とまで言われた大物政治家の九条兵衛である。とはいえ、実際に顔を合わせるのは年に一度か二度だから父親という実感は無い。むしろ会う度に女子高生には使い切れないような小遣いをくれる、優しいおじさんといった印象が強い。
霧江と知り合ったのは、たまたま彼女が飛鳥のところへ父親からの伝言を持って家まで来た時だったか。母は彼女に良い印象を抱かなかったようだが、飛鳥は一発で気に入った。基本的に怖いもの知らずの飛鳥だから、外見だけを見れば少々近寄り難い霧江ともあっという間に仲良くなれた。
対外的には常に丁寧な口調を心掛けている霧江も飛鳥に対しては素の自分を出してくれる。だから彼女達は年齢こそ二回りも違うわけだが、間違い無く友人だった。
『……相変わらず意地悪よね、霧江さんは』
『そんなこと無いさ。これでも普段はクールビューティ霧江ちゃんとして大人気なんだよ?』
コーヒーに口を付けつつ呟く霧江に苦笑しつつ、飛鳥は『あ、私もコーヒー取ってくる』と返して席を立った。
こんな風にして年代がまるで違う自分達が自然と話せていること自体、不思議と言えば不思議なのかもしれないが霧江とのこんな関係を飛鳥は気に入っている。クリスマス・イヴに色気の無いことだが、特定の相手がいない飛鳥にはこうして彼女と取り留めの無い話をする方が余程有意義に思えるのだ。
席に戻ってきて十分ほど経過した頃、そういえばと天井を仰いで霧江が言う。
『飛鳥ちゃんは母さんの実家がどこだか知ってるかい?』
『え? ……確か静岡の方だってことは聞いてるけど』
最近は顔さえ殆ど合わせない母親だけれど、昔一度だけ聞いた覚えがある。尤も、昔の話だから静岡のどこだったかまでは覚えていない。
『そう、静岡の青葉町さ』
『青葉町?』
聞いたことの無い地名だ。子供の頃から旅行が好きで、地理に関してはそれなりに豊富な知識を持っていると自負している飛鳥に聞き覚えの無い地名だから、少なくとも日本地図でパッと目に付く地名ではないのだろう。
『最近は人口も増えたから町から市に変えようって動きもあるみたいだけど、ともかく静岡市から私鉄に乗って一時間も掛からない場所さ。まあ東京からでも三時間あれば十分に行ける距離ではあるね。そんなに栄えた場所じゃないけど綺麗な海に面した港もある、いい町だとは思うよ』
『ふ~ん。……で、そこがどうかしたわけ?』
『いや、別に大したことじゃないんだけどね。九条先生も気にされてたようだから』
『……え?』
自分はもしかしたら総理大臣の娘だったかもしれない。そんな実感は当然のように無く、ニュースに連日顔を出す大物政治家が自分の父親だと脳が認識できない。無論、顔を合わせて話したことが無いわけでは無いし自分と母親が世話になっているという自覚はある。それでもいざ顔を合わせた時にお父さんと呼ぶのは今でも抵抗があるのが今の飛鳥の現状である。
別に母の生まれ故郷に興味など無いが、そんな父の話を出されると妙に気になってしまうのは確かだ。
『ま、綺麗なところだからいつか静岡の方に行った時にでも寄り道してみるといいさね』
『うん……考えとくわ』
だから無意識の内に、自分でも信じられないぐらいに曖昧な返事を返していた。
それから遅い夕食を霧江に御馳走になった飛鳥は、ファミレスを出ると今にも雪が降り出しそうな空の下を歩いて自宅へ向かう。光ヶ丘とはいえクリスマスともなればカップルで賑わうのか、公園で乳繰り合っている恋人達に殺意も込めた視線を向けつつも、飛鳥とて今早急に新しい彼氏が欲しいというわけでもない。
高校生の彼女としては進学や就職の方が余程重要であろう。
『はぁ……ねむ……』
思わず出た欠伸を噛み殺しつつ、ドサッと色気も何も無い動作でベンチに座り込む飛鳥。ジーンズ越しでも冷たいベンチで一瞬にして眠気が覚めた。今日はもう何も予定は無いし母親も朝まで帰らない。さてどうしたものかと寒空を見上げて嘆息する。
もう1998年も終わる。来年のことを言うと鬼が嗤うと言うけれど、今年で自分も高校生になったのである。この歳になると漠然と気付くもので、たとえこの体を形作る遺伝子の半分が大物政治家だったとしても、自分はきっと大した人間にはなれないんだろうなと冷めた思いがある。普通に進学して普通に大人になって普通に恋をして、きっと普通の妻で母になるんだろう。でもその普通って何だろう。自分がそもそもその普通になれるって保証はあるのか。そんなことを考えてしまう。
悪い癖だ。きっと趣味も無いし将来の夢も特に無い自分だから、こんなマイナス思考なのだ。
『おおっ!』
そんな時だった。背後から如何にも軽薄そうな声が聞こえてきたのは。
『て、天使だ……俺の天使!』
『……は?』
振り返ってみれば、そんな意味のわからない台詞を吐きつつ両手を広げて歩み寄ってくる馬鹿が一人。寝癖なのかファッションなのか理解に苦しむ逆立った短髪と重度の寒がりなのかマフラーと手袋で完全防寒した姿が妙に違和感を覚える。年齢的に飛鳥と同年代なのだろうが、どこかガキっぽさを演出する雰囲気を持つ男だ。何よりも少年漫画の主人公の如き額のゴーグルは何かの冗談だろうか。
というより、ベンチの後ろは木々が生い茂る森なのだが、そんな場所でこの男は何をやっていたのか。
『何? ナンパ? ……悪いけど間に合ってるから消えてくれる?』
『この聖夜に一人でベンチに座ってるのに間に合ってるだと? ……ハハハ、大したもんだ』
『ぐっ……!』
痛いところを突かれて返答に窮する飛鳥を見てニヤニヤと笑いつつ、男は何ら構わずにベンチの後方から身を乗り出してくる。
遠慮も躊躇も何も無い。如何にも軽薄という言葉が形を成したかのような面相で馴れ馴れしく顔を近付けてくる男には辟易する。これでサングラスでも掛けていれば単なる不審者または変質者と言えようが、この歳でゴーグル装備の男というのも十分変態の域に入らないだろうか。それを口実に警察でも呼んでやろうか。冗談抜きでそんな考えが浮かんだ飛鳥である。
『とにかく、私は一人が大好きなの。孤独を愛する女なの。だから一人でも問題無いの、OK?』
『……飛鳥ちゃん』
『な、何よ?』
『嘘は良くねーなぁ……顔に書いてあるぜ。誰も失いたくない、一人はもう嫌――ってな』
『書いてねえわよ! 初対面の相手に変なキャラ付けすんな!』
思わず突っ込んでしまったがそれこそ思う壺だったらしく、男の薄ら寒い笑みはより強くなる。
『何よ……その気味悪い顔は』
『いや、改めて可愛いなと思ってな』
『本来は喜ぶべきだろうけど、アンタに言われると寒気しかしないわね、その台詞。……あれ?』
『どうかしたか?』
『いや、ちょっと待って。……そういや何でアンタ、私の名前知ってんのよ?』
少なくともこの数秒間のやり取りで名乗った覚えは無いはずだが。というより名乗る価値も無いはずだが。
『何で名前を知ってるかって? そりゃ当然だろ。お前のことは前々から狙ってたのさ……何せ初めて会ったその時からお前を狙うと決めていたんだからな。今ではスリーサイズから交友関係、趣味で買った同人誌のタイトルや足の爪の長さまでバッチリ把握している』
『お巡りさ~ん! ここに変質者がいますよぉ! ストーカー! 完全なるストーカーです!』
『冗談だ』
いや、言われるまでも無くそれは当然冗談なのだろうけれど。それに足の爪の長さを把握しているストーカーってどういうことだってばよ。何よりも自分は同人誌など買った覚えは無い。
『別に大したことじゃない。お前のことぐらい、顔を見て声を聞けば全部わかるさ……』
『あ、ありがと……なんて冗談でも言うと思ったか馬鹿野郎! 何その無駄に格好付けた台詞! おぞましさに私の珠の肌に鳥肌が立ったわ! 下手なウインクもやめんか! 結局のところ、のらりくらりと誤魔化して私の質問には答えてないじゃねえかってのよ!』
『落ち着けハニーD。一緒に宇宙へ行く約束だろう?』
『おっ、おぉおぉ応答してくれオペレータルーム! オペレータルーム! ――って、違う!』
そもそも今度はハニー呼ばわりかよ。それにハマーDさんはデータがある時は優秀な奴なのだぞ。
『いいわ、もう無視よ無視。アンタと話してると読者の中の私のクールで可憐なイメージが崩れてく気がする』
『ハハハ、一応言っておくが千文字程度でそんなイメージが築けると思ってんのなら結構おめでたいぞ、ハニー』
『ハニー言うな。あとメタい台詞もやめて』
そういえば、こちらは目の前のコイツの名前を聞いていない。いや、興味など微塵も無いのだけれど。
『俺の名前か?』
『いや全く聞いてない』
『俺は前田快斗(まえだ かいと)。青葉の暴風と呼ばれた伊達男さ』
『聞けよ』
それにその二つ名は褒め言葉ではないと思う。……青葉?
快斗とか名乗った馬鹿に気付かれぬよう、少しだけチラリと天を仰いで先程の霧江との会話を思い出す。この男が言う青葉とは、彼女が言っていた地名のことだろうか。一瞬だけ逡巡する飛鳥だったが、下手にそのことを口に出すと目の前の軽薄男はまた運命だとか調子に乗りそうなので自分から聞かない方がいいとは思うが。
『ん? 青葉ってのが何かって?』
『いや全く聞いてない』
『静岡県青葉町、俺の故郷だな。人口は大して多くねーし町自体もそんなに大きいわけじゃねーけど、晴れの日には富士山も見えるいい町だぜ。何せ俺を生んだ町だからな。まあ可愛い女の子がいねーって欠点はあるけどよ。そんなわけで俺はクリスマスの今日、可愛い女の子を求めて東京まで来たわけだ』
『だから聞けってんのよ』
しかし想像以上の馬鹿だったらしい。ナンパのために東京まで来るなんて正気の沙汰とは思えない。そもそもナンパするにしてもあまりに軽薄すぎるのは気の所為か。
『そう言うな。まあ収穫はあったぜ。何せハニーに出会えたわけだしな』
『それは良かったかもしれないわね。自分で言うのも変な話だけど私は文句無しに可愛いし。――って、違う!』
『というわけで結婚してくれハニー。あと二年、俺が18歳になったら速攻で花束を持って駆け付けるぜ』
『ギャー! 人生初のプロポーズがこんなところで! こんな時に! こんな男に!』
『いや、人生で何度も何度もプロポーズされるつもりだったのかよ』
『そりゃ当たり前だのクラッカーでしょ。色々な男に貢がせてお引き取り願いますと言えるかぐや姫は、生きとし生ける女性達の頂点とさえ私は思うわね。――ハッ』
思わず口元を押さえる飛鳥を前に、快斗と名乗る馬鹿野郎はニヤリと笑って。
『清々しいぐらいの悪女だな! 惚れ直した! もう一度結婚してくれ!』
『まだ一度もしてねえわよ馬鹿』
『ほう』
『……な、何よ?』
『まだ一度もしてない。なるほど、まだ……ね』
『やめろぉ!』
先程から妙に乗せられている気がする。自分のペースが保てないとはこのことか。
それにしてもあと二年で18歳になるということは現在16歳、つまり自分と同い年ということではないか。
クリスマス・イヴに母の故郷のことを聞いたかと思えば、数十分後にその町に住む男が自分の前に現れ、更にその男は自分と同い年だった。偶然にしては出来すぎていると言わざるを得まい。これが俗に言う神の悪戯、もしくは運命という奴なのだろうか。とはいえ、そんな運命(笑)の男に対して気持ち悪さしか感じられないのが難点だが。
それにしても、いつの間にか自分の隣に腰掛けている男。こいつの馴れ馴れしさは国宝レベルかもしれない。
『というわけでハニー、早速だが行こうぜ』
『……結局アンタは私で何がしたいわけ』
『そりゃ男なら勿論』
『ちょっと待った! わかった! わかったから言わなくていいわ!』
危ないところだった。自分のイメージどころかこの作品全体の雰囲気を著しく損ねてしまう。
『ちなみに訂正しとくと、俺はハニーで何かをしてーわけじゃなくて、ハニーと一緒に何かをしてーわけだが』
『……何気にいい台詞ね、それ。ちょっとだけ見直したかも』
『惚れ直した……だと……!?』
『自分に都合のいい聞き間違いをするんじゃねえ!』
事ある毎にツッコミを入れておかないと、気付いた時には話があらぬ方向へ持って行かれそうだ。
イメージの話をしたばかりだが、この男が青葉町から来たということで、飛鳥の中では青葉町の人間は即ち軽薄でお喋りというイメージで固まりつつある。そういえば自分の母親も同様に青葉町の出身との話を聞いたばかりだが、母親も可憐でクール(笑)な自分と比べれば随分と多弁な気がする。ひょっとして、青葉町とは元々そういう土地柄なのだろうか。
『何ぃ……まさかとは思うが、ハニーは俺に惚れてねーとでもいうのか』
『いや、今までの会話で気付きなさいよ。……ていうか、顔を近付けるな。気持ち悪い』
『まあ嫌がる女を無理矢理ってのも俺は好きだが』
『それは惚れる惚れない以前の問題でしょ。普通に最低じゃないのよ』
『しかしハニーはSと見せてMだろう』
『ハニー言うな。あと何故バレたし。……じゃなくて、とりあえず黙ってよ』
そんな飛鳥はいつの間にか自分もまた随分と多弁になっていることには気付いていない。基本的に飛鳥は誰に対しても澄ました態度で我関せずと言わんがばかりに表面上の付き合いに徹することが多かった。友情や愛情という奴はあまりに濃すぎる関係は長続きしない。ある程度はドライさを保っていた方が自分も相手も気が楽だし、万が一それが無くなるような時も傷付かずに済む。
それが水商売で生計を立てている母親から習った唯一のことであり、同時に鮎川飛鳥の処世術であった。
他人に踏み込まず、逆に他人にも踏み込まない。そんな生き方を徹底してきたはずだが、目の前のあまりに不躾に人の心にズカズカと入ってくる男を前に、気付かぬ内に普段から押し殺しているはずの自分を出してしまっている。そこにいるのは少なくとも可憐でクール(笑)な鮎川飛鳥ではない。
『まあハニーの楽しそうな姿が見られて俺は嬉しいぜ』
『ハニー言うな。あと今の私のどこを見たら楽しそうに見えるか詳しく教えて欲しいものだけれど』
『なるほど。……白か……』
『……アンタ今どこ見て言った?』
何より今日の自分はジーンズだ。実際に白かどうかの明言は避ける。
何気なく時計を見やれば、ギャーギャー言い合っている内に三十分近くが経過していることに飛鳥は驚かされる。別にやることも無いがこんな男と会話すること以上の時間の無駄も無いだろう。イヴの夜を共に過ごしたのがこんな男だという事実はある意味で自分の汚点になりそうなので、とりあえず話に区切りを付ける意味で飛鳥はベンチから立ち上がった。
『お? いよいよ両親に紹介か? まずいな……今スーツは持ってねーぞ』
『……アンタって国宝級どころか世界遺産レベルのアホね。アンタの脳味噌は解剖して保存しておくべきかも』
『よせやい、照れるぜ』
『褒めてねーよ』
『だが保存する必要はねーぞ』
『何故?』
『俺の遺伝子は俺とハニーの間の子供に受け継がれるわけだしな』
『………………』
二の句が告げない。恐らく今の自分は最高級に冷めた瞳でベンチに座る男を振り返ったと思う。俗に言うドン引きという奴か。この男は本当に何なのだろう。今まで彼氏やら男友達やらクラスメイトやら数多の男子を見てきたが、この男は実は人間ではない別の生き物なのではないだろうか。こちらの常識が通用しない相手には半ば恐怖に近い感情すら覚える飛鳥である。
一刻も早く逃げた方がいい。そんな感情が浮かんで立ち去ろうとする飛鳥。――だが。
『危ない!』
唐突に聞こえた少女の声。真っ暗な公園の中、その声だけが凛と響きを持って飛鳥の耳へ届く。
『えっ……』
反応する暇も無かった。果たしてどこから現れたのか、既に“ソレ”は飛鳥の目の前に君臨していたのだ。
直前の耳を劈く轟音からして、それは着地というより墜落に近い。それだけの質量、それだけの巨体を“ソレ”は持っている。しかし飛鳥の頭脳は瞬時に目が見た光景を全て否定した。そんな生物がいるはずが無い、この場所に現れるはずが無いと。
巨大な牙と鬣、そして獲物を捉える鋭い瞳。黄金の体表が見る者に気高さと勇猛さを同時に感じさせる百獣の王。
『ライオン……!?』
そう、ライオンだ。後ろの馬鹿男が呟いたおかげで、ようやく“ソレ”がライオンなのだと脳が肯定した。
しかしどう考えてもおかしい。何しろここは曲がりなりにも東京都なのだ。この近所には動物園も無いしライオンを飼うような物好きな大金持ちの話も聞いたことが無い。そして何よりも目の前に立つ生物は飛鳥の知っている動物園のそれとは明らかに大きさが違う。そんな生物が自分のことを見下ろしている、その事実だけで飛鳥の体は情けなくも微動だにできない。
『馬鹿! 下がれ!』
刹那、首根っこを掴まれて一気にベンチの後ろまで引き戻された。衝撃で襟首が絞め上げられた所為か、一瞬だけ『ぐえっ』などと究極的に色気の無い声が自分の口から出た気がする。
誰が馬鹿だこの野郎、アンタにだけは言われたくない。そんな喉元まで出かかった文句は、次の瞬間にライオンの前足が自分のいた場所に叩き付けられたのを見て瞬時に消え失せた。どうも今自分は後ろにいた軽薄男に助けられてしまったということらしいが、精神が状況の推移に全く追い着かない。その癖、この男に助けられたことを人生最大の不覚と思うぐらいに冷静な自分がいるという矛盾に失笑しそうだ。
当然と言えば当然だが、引き戻された程度でライオンが諦めるはずも無く、件の獣は今度こそ獲物を捕らえるべく一歩ずつ前進してくる。絶体絶命という単語が脳裏を過ぎる。
『……どうすんの、これ』
だから如何に馬鹿男だろうと、隣に誰かいるということは愚痴も零せるし文句も言えるし素晴らしいと思った。
『ここは俺に任せな、五秒ぐれーなら食い止めてやる。その間にハニーは逃げろ!』
『ハニー言うな。でもなかなか素敵なこと言うじゃない』
『――と言いてーところだが無理だろーな。悪いが一秒と持たねー自信がある』
『……でしょうね。いや私もアンタが変態ナンパ男だろうとライオン相手に突き出して逃げたら目覚めが悪いわ』
『変態ナンパ男がどこにいるんだ?』
『知ってる? 世界で一番遠い存在って実は自分なのよ』
『さては倫理の授業辺りで習っただろ』
『何故バレたし』
よく考えたらこんな言い合いをしている場合ではないような。
『というわけで仲良く一緒に死ぬか、ハニー。新聞の三面記事に『脱走したライオン、イヴにカップルを惨殺』とか書かれるんだぜ。つまり現世で結ばれなかった俺達は死を以ってあの世で結ばれるわけだ……これ、ロミジュリにも負けねー悲恋だな』
『ハニー言うな。それとそれだけは嫌!』
何が嫌かといえば、マスコミの手でこの軽薄男と勝手にカップルにされることだ。そんなことになったら死んでも死に切れない。末代まで祟るどころの話ではなく、ラディッツをも片手で取り押さえる閻魔大王を抹殺してでも意地と気合で生き返るレベルだ。
あとロミオとジュリエットをロミジュリと略す人間を初めて見た気がする。
『そもそもね、アンタが馴れ馴れしく話しかけてこなきゃこんなことには――って、志村うしろーっ!』
『誰がドリフ……って、ぬおおおおっ!?』
ふと真上を見上げれば振り下ろされてくる獅子の前足。咄嗟に立ち上がった飛鳥は偶然目の前にあった馬鹿男の手を取って走り出していた。これで貸し借りは無しだなどと打算的な考えが浮かんだのは一秒後、自分達が隠れていたベンチが獅子の前足で叩き割られたのを目の当たりにした時のことである。当然だがこの時の選択が後の自分の人生を決定付けたことを飛鳥は知らない。
ベンチという隠れ蓑を失い、広場でライオンと正面から対峙する飛鳥と馬鹿男。林に逃げ込むまでは10メートルほどか。逃げ込めれば撒けるだろうが、正直に言って瞬発力でも勝てるとは思えない。
『ねえバカイト、少しだけ相談があるんだけど』
『こんな状況で愛の告白か。吊り橋効果で自分の気持ちにやっと気付いたわけだな、流石は俺の見込んだハニーだけのことはある』
『ハニー言うな。あとバカイトにツッコんでよ』
この馬鹿はもしかしたら結構な大物になるかもしれない。無論、今のこの状況を生き延びられたらの話だが。
『確認しておきたいんだけど。……アレ、結局何だと思う?』
ゆっくりと近付いてくるライオンを指差して言う。ライオンなのは事実だろうが、現存種とは何か違う気がする。外見は確かにライオンなのだが、所々に別の生物が混じっているような印象。うろ覚えながらも似た生物を動物図鑑か何かで見た気がする。確か名前をサーベルなんたら、それが思い出せないからこそ出た疑問だった。
そんな飛鳥の疑問に。
『ああ、サーベルレオモンのことか』
涼しい顔で馬鹿男改めバカイトは答えた。
『………………』
息が止まる。瞬きだけで三秒間を浪費する。
『……は?』
『だからサーベルレオモンだっての。ペンデュラム1の究極体だろ。でも俺は進化させたことねーんだよなぁ』
『ちょ、ちょっと待って……アンタの言ってることがさっぱり意味不明、ワケワカメ、理解不能』
『落ち着けハニーD』
『HAHAHA、パーフェクトSA☆ ……って、馬鹿! ハマー言うな!』
『ハニーだろ』
『そう、それよそれ』
上手く呂律が回っていない。この男が言っていることが全くわからない。ペンデュラム? 究極体? 飛鳥には何のことやらさっぱりである。
『でもやっぱカッケーよなぁ……あ、ちなみにさっきハニーが最初に狙われた技は多分ネイルクラッシャーだよな』
ゆっくりと迫るライオンを前に陶酔したような表情を浮かべる馬鹿男の口からは、次々と飛鳥からしてみれば全く理解できない単語が飛び出してくる。そもそも何故コイツは楽しそうなのか。
そんな時だった。あの少女の声が再び聞こえてきたのは。
『詳しいんですね。……デジモンのこと』
『おうよ、俺は最初のバージョン1から全て買ってる……ん? 誰だ?』
ノリで答えた馬鹿男だったが、良く考えれば今の質問は隣の飛鳥からではない。凛としながらも涼やかに響くその声は、すっかり忘れていたが先程響いた謎の少女の声ではなかったか。
『……下がってくださいと言ったじゃないですか』
『なっ……!?』
馬鹿男も飛鳥も同時に言葉を失う。自分達と巨大な獅子との間に、いつの間にか一人の少女が立っていたのだ。
飛鳥より頭二つ近く小さいことからして身長は120センチから130センチといったところ。年齢は恐らく6歳前後だろうか。程良く赤みがかった茶髪をツインテールに纏めつつ、着用しているのは任天堂の人気ヒゲオヤジを思わせるオーバーオール。しかし何よりも異様なのは、右手で保持する身の丈以上の巨大な戦斧の存在だろう。山中で暮らす者が作業で使うような物ではなく明らかに戦闘用だとわかるそれは、月明かりに照らされて鈍い輝きを放っていた。
それでも一瞬だけこちらを振り返った少女の横顔は、飛鳥が思わず嫉妬してしまうぐらい可愛かった。
『お、お前は……』
『もう一度言いますが。……下がっていてください』
でなければ死にますよと存外に匂わせ、少女は一歩だけライオンへと踏み出す。
良く見れば少女の傍らには二体の奇妙な生物の姿がある。片方は小さな猫、もう片方は飛ぶには不向きだろう羽が印象的な鷹のような人のような生物。隣で馬鹿男が『……コイツらは知らねーな』と呟いている辺り、彼らも目の前のライオンと同じような存在なのだろうと理解する。
『……あなた達も下がっていてね』
少女がそう呟いた瞬間だった。眼前に現れた少女に目標を変えたのか、ライオンが飛び掛かってくる。
『させません!』
そうして振り下ろされる爪を少女は手にした戦斧で弾き返した。一閃された戦斧が巻き起こす突風がブォンと明確な音を以って飛鳥と馬鹿男の耳に届く。
僅かに体勢を崩した獅子に対して少女は何ら揺るがない。大きく飛び込んだ少女の斧が獅子の脇腹を掠め、獅子は唸り声を上げて後退する。逃がさないとばかりに少女は更に踏み込んでいく。躊躇も逡巡も容赦も無い。人間離れした剛力と蛮勇、その少女は間違いなく自分の何倍もあろう獅子を倒すために戦っている。
飛鳥には信じられなかった。だから何の反応もできなかった。
『すご……』
いや、正確には見惚れていたのだ。
鉄骨を容易く体当たりで圧し折り、鋭利な爪を振り下ろしてコンクリートをも粉砕する獅子。そこにいるのは明らかにそんな常識外れの化け物だというのに、その少女は自分の身の丈ほどもある巨大な戦斧を振り回して果敢に怪物に挑んでいく。敵が人知を超えた存在だというのなら少女もまた常識を超えた存在だとでもいうのか、小学校低学年にしか見えない彼女がその身を宙へ躍らせる度に戦いとは無縁な可愛らしいツインテールが流れるように舞い上がり、それが少女の超人的な動きに更なる躍動感を与えている。
その様を前にして飛鳥は怖いとか恐ろしいとか、そんな感情は抱かなかった。
『綺麗……』
ただ綺麗で、そしてただ美しかった。髪を靡かせて戦う様は修羅の如し、しかし同時に舞うような煌びやかな様は天使の如し。
そこで初めて気付いたのだが、隣の軽薄男も先程から口を開くこと無く黙り込んでしまっている。恐らくは自分と同じように、少女の苛烈とも言わんばかりの戦いぶりに目を奪われている――どうでもいいが、どさくさに紛れて自分の肩を抱いている右手がムカつく――のだろうと思ってチラリと横目で彼の横顔を盗み見た。
だが違う。飛鳥の想像していた表情とは全く異なる顔が、そこにはある。
『っ……!』
軽薄男の横顔は、ただ辛そうだった。ただ悔しそうだった。何故そんな顔を彼がするのか飛鳥には理解できない。表面が削れてしまうのではないかと思うほどギリッと食い縛られた歯と、目の前で怪物と戦い続ける少女の姿を瞬きすらせずに見据える鋭い瞳。それは少なくとも先程飛鳥に声を掛けてきた時の軽薄さとは全く違う表情だった。元々顔立ちは整っていると思っていたが、その横顔は多かれ少なかれ飛鳥の胸に強く印象付けられる。
振り下ろされる野獣の爪が少女の顔を掠め、それだけで頬がパックリと割れて鮮血が噴き出す。
『ジンライ!』
少女のその叫びに呼応して彼女の後方の空間が歪んだかと思えば、そこから巨大な緑色のドラゴンが姿を現した。背中に巨大な双翼を備えたその竜もまた目の前の野獣と同様の怪物なのか、低い唸り声を上げて野獣の腹に体当たりを浴びせる。
だが野獣は僅かに怯んだだけで殆ど動じた様子も無く、体当たりしてきた竜の脇腹を難無く掴み上げる。
『このっ……離しなさい!』
少女が激昂と共に逆手に持ち替えた斧の柄で獅子の頭部を打ち据えた。
そこが急所だったのか、獅子は奇怪な悲鳴と共に踵を返し、森の中へと走り去っていく。どうやら終わったということらしい。小さな体を揺らして少女がフゥと嘆息すると共に、立ち上がった緑の竜の体とそれまで少女が保持していた巨大な戦斧はまるで存在自体が幻か何かであったかのように霧散した。そんな中で溢れ出る額の汗を拭った少女の姿は、それだけを見れば年相応の普通の少女にしか見えなかった。
それを見て馬鹿男が少しだけ舌打ちするのが飛鳥には聞こえた気がした。
『何だよ、それ……』
『……アンタ?』
難を逃れて安心したという風には見えない馬鹿男に声を掛けるも答えは返ってこない。相変わらず良くわからない理由で馬鹿男は怒っているらしいが、こういう時ぐらい素直に喜んでもいいのではないかと自分のことを棚上げして飛鳥は思う。
そんなことを考えていると少女が振り返った。顔に浮かぶのは先程までとは打って変わった柔和な笑顔。
『大丈夫でした……か……?』
だが言い終える前に少女の体はドサリと地面に崩れ落ちる。
『あっ、おい!』
『ちょっと!』
慌てて駆け寄る二人が抱き起こすと少女の体はまるで熱病に侵されたかのように熱い。
不自然なまでに噴き出ていた汗はこのためか。馬鹿男が少女の体を抱き上げ、飛鳥が懐から取り出したハンカチで額を拭いてやる。そうしたことで少しだけ気が楽になったのか、少女は瘧のように小さな体を震わせながら薄っすらと瞳を開けると、自分の顔を覗き込んでいる快斗と飛鳥、特に後者に向けて一言だけ。
『お母さん……?』
それだけを呟いて気を失った。
残された快斗と飛鳥は、黙って顔を見合わせるしか無かった。
(続く)
◇